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先週号の『週刊ポスト』さんに光太郎の名が。

7代にわたって受け継がれる秘伝のタレ 駒形 前川 東京・台東区

 浅草・駒形橋のたもと、隅田川沿いに位置する「駒形前川」では、風情ある景色を眺めながら、ゆったりと鰻を堪能できる。創業は江戸末期の文化文政期。200年以上引き継がれるタレは、空襲や地震を逃れてきたという。「関東大震災のときは、タレの入った壺を大八車に乗せて逃げたと聞いています」(7代目・大橋一仁さん)
 鰻を幾度も返しつつ焼き上げる熟練の技によって、艶やかな飴色に仕上がる。重箱の蓋をあければ、香ばしさをまとった鰻が姿を現わす。タレは江戸前の辛口でさっぱり。身はふんわりと味わい深い。
 醤油とみりんしか使わずに継ぎ足された秘伝のタレ。詩人の高村光太郎や作家の池波正太郎も駒川前川の味を愛した。
 老舗の味を守りながら、新しい食の提案も行なう。スペインワインの輸入販売も手掛け、ここでしか味わえない鰻とワインのペアリングも楽しめる。
■駒形 前川 住所:東京都台東区駒形2-1-29 営業時間:11時半~21時(L.O.20時半) ※売り切れ次第終了
定休日:年中無休

巻頭グラビアの「鰻の季節がやってきた!」という記事の一部で、他に名古屋の「鰻(うな)う おか富士」さん、葛飾区の「うなぎ 魚政」さん、浜松の「うなぎ 大嶋」さん、久留米の「富松うなぎ屋」さんが紹介されています。

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他店はそれぞれ1ページですが、前川さんのみ見開き2ページ。いわば横綱扱いですね。

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現在は七代目の方が嗣がれているということですが、四代目の時代に光太郎がよく肝焼きを智恵子の土産にと買って帰ったという逸話が残っているそうです。


戦前の光太郎日記はほとんど残っていないため、光太郎の書き残したものの中にそのエピソードは見あたりませんが、たしかにそういうことがあったのでしょう。

光太郎の父・光雲の談話筆記『光雲懐古談』(昭和4年=1929)には、前川さんの名が出て来ます。幕末の徒弟時代の回想で「名高かった店などの印象」という項です。

鰌屋横丁を真直に行けば森下(もりした)へ出る。右へ移ると薪炭(しんたん)問屋の丁字屋(ちやうじや)、その背面(うしろ)が材木町の出はずれになつてゐて、この通りに前川(まへかは)といふ鰻屋がある。これも今日繁昌してゐる。

前川さんの名は出ていませんが、光太郎の詩「夏の夜の食慾」(大正元年=1912)には、鰻屋の店頭風景が。

「ぬき一枚――やきお三人前――御酒(ごしゆ)のお代り……」
突如として聞える蒲焼屋の渋団扇
土用の丑の日――
「ねえさん、早くしてくんな、子供の分だけ先きにしてくれりや、あとは明日(あした)の朝までかかつても可いや、べらぼうめ」
「どうもお気の毒さま、へえお誂へ――入らつしやい――御新規九十六番さん……」
真つ赤な火の上に鰻がこげる、鰻がこげる

この直後の部分で、天ぷら屋の「中清(なかせい)」さんが登場します。前川さんと中清さん、直線距離で300メートルほどですので、ことによると前川さんなのかもしれません。もっとも、浅草近辺には他にも鰻屋さんがありますので、何ともいえませんが……。ちなみに光太郎、戦後には日記によるとやはり浅草の小柳さんという鰻屋さんに行ったことを記録しています。


今年の土曜丑の日は月末、7月27日(土)だそうです。夏バテ予防にぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

十年前の今頃は、亡妻智恵子の病気とたたかつてゐました。そして一方、團十郎の首を作り上げようとしてゐました。

アンケート「十年前のあなたは」全文 昭和23年(1948) 光太郎66歳

出典は雑誌『日本未来派』です。ある意味、酷な質問をするものですね。

「團十郎」は九代目市川團十郎。光太郎はその芸を愛し、彼の肖像彫刻で世上にろくな物がないのが残念だと、その制作にかかりました。しかし、戦争の激化とともにそれも頓挫し、結局、昭和20年(1945)の空襲で灰燼に帰しました。

ちなみにこのアンケート、「十年後のあなたは」という設問もありましたが、光太郎、そちらには回答していません。もはや自分に十年後はない(8年後に光太郎は没)ことがわかっていたのでしょうか。何とも不思議です。

昨日は、福島県いわき市に行き、当会の祖・草野心平を祀る同市立草野心平記念文学館さんで開催中の、冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」およびスポット展示「天平と妻梅乃」を拝見して参りました。

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「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」の方は、奥の展示室1室を使い、心平が昭和27年(1952)3月に東京都文京区田町に開店した居酒屋「火の車」に関する展示。

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原稿、日記などの心平が書いたものが中心でしたが、「火の車」開店案内などを含め、光太郎に宛てて書かれた書簡類が多数展示されており、「光太郎がこれを手に取って読んだのか」と思いつつ感慨深く拝見しました。

逆に、光太郎が書いたものも。「火の車大福帳」(昭和28年=1953)の中に、開店一周年を祝う光太郎のメッセージが書かれているそうでした。当方、この存在は存じませんでした。ただ、その箇所ではないページが開かれており、見られませんでしたので、後ほど改めて拝見させていただきたいと思っております。

他に、光太郎と宮沢賢治についてのパネル展示、さらに花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されている隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの既刊すべて(こちらは手に取って見られるように置いてありました)など。

「火の車」は、一時期の心平が心血を注いだ活動で、単なる飲食店の枠を超え、光太郎を含む多くの芸術家のサロン的役割を果たしました。しかし、気取った社交場ではなく、集まったそれぞれが人間性を剥き出しにし、激論を闘わせたり、深いつながりを生じさせたりと、その果たした役割は非常に大きかったと思われます。

心平の出す怪しげな料理(笑)と酒が、その媒介となりました。やはり「食」は生きていく上での基本ですので、集った面々も自らの基本に立ち返り、飾らない自己をさらけ出したのでしょう。光太郎もここでは珍しく下ネタを披露したと、「火の車」板前だった故・橋本千代吉の回想にあります。

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スポット展示「天平と梅乃」は、企画展示室の前の一角に。心平とはまたひと味違った、しかし、やはり根っこのところでは相通じる魂を持つ、弟・天平とその妻・梅乃に関する展示でした。

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3月10日(日)には、企画展関連イベントとして、料理研究家の中野由貴さんを講師に、「居酒屋「火の車」一日開店」が催されます。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は此夜見かけたいろいろの群像を幻想の中で勝手に構成してみる。エネルギイそのもののやうな鮪と女との構図をいつか物にしたいと思ふ。

散文「三陸廻り 六 女川の一夜」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

女川の飲み屋街を歩き、宿に帰っての感懐です。当時の女川は、新興の港町として非常に活気に溢れる町でした。夜ともなれば漁師たちが紅灯街に繰り出し、矢場や飲み屋など、さまざまな店で女たちが嬌声を上げ、停電になると街のあちこちで、さながら篝火のような焚き火。

居酒屋「火の車」も似たような雰囲気だったのかもしれません。

女川では、昼間、漁港で見た鮪(マグロ)や鮫、そして夜の女たちが光太郎の印象に深く残りました。下記は掲載誌『時事新報』に載った光太郎自筆のカットです。

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グルメ情報です。 

脇農園レモンフェア

期 間 : 平成31年2月4日(月)~3月末
会 場 : 御茶ノ水イタリアン トラットリアレモン
 千代田区神田駿河台 1-5-5 レモンパートII ビル1F
時 間 : 17:30~22:00 ラストオーダー21:30

レモンフェアは今年で2年目になります。今年も青いレモン島、愛媛県岩城島にある脇農園さんのレモンでお料理、カクテル、デザートをご用意します!
脇さんは中学生の頃に高村光太郎が書いた「レモン哀歌」という詩を読んだことがきっかけになり、レモンを育てようと思ったそうです。それまでレモンを見たことがなかった脇さんは、レモンとはどんな香りでどんな味がするのだろうと憧れたそうです。大学で農業を学び、昭和46年に愛媛県果樹試験場にやって来たときには、岩城島にレモンの木が1本もなかったそうなのですが、それが今では岩城島が「青いレモンの島」と呼ばれるほどたくさん育てられています。
その脇農園さんのレモンでシェフがご用意するのは!
昨年好評をいただいた脇農園レモンクリームソースパスタ、今年も復活です!野菜は旬のものが4種類ほど入っています。ほんのりレモンの酸味がクリームソースを軽やかにします。
そして今年は脇農園レモンと魚介のリゾットも。ドライトマト、魚介(日替わりですが海老やイカ、貝など)&レモンのさっぱりリゾットです。
シェフ力作2品どうぞお楽しみください。
カクテルは昨年お出しした自家製レモンシロップのレモンスプマンテ、今年はレモンモヒートも登場です!
デザートもレモンづくしでいかがでしょうか?
レモンのティラミスと、レモンパイもご用意しました。

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トラットリアレモンさんは、御茶ノ水にある老舗の画材店・レモン画翠さん(同じビルです)が経営するイタリアンレストランです。レモン画翠さんの前身の今井鐵次郎商店は大正12年(1923)創業で、昭和初期には光太郎の母校である東京美術学校内の売店を引き継ぎ、現在も藝大さんの中に姉妹店・画翠さんが続いています。卒業後も黒田清輝や父・光雲の胸像制作、それから後輩に招かれての座談会などのため、なんやかやで母校に足を運んでいた光太郎、売店を訪れていても不思議ではありません。

昭和25年(1950)には、本店の御茶ノ水に喫茶部ができ、それが現在のイタリアンレストランとなったそうです。こちらでは、愛媛県の脇農園さんと提携し、国産レモンを使ったメニューを充実させているとのことで、そのフェアとなります。

脇農園さんのご主人が、光太郎の「レモン哀歌」(昭和14年=1939)に触発されてレモン栽培を思い立ったというのですから、不思議な縁を感じます。

レモンといえば、やはり「レモン哀歌」からのインスパイアの要素もあるという米津玄師さんの「Lemn」。遅ればせながら購入しました。心にしみる歌ですね。そういえば、米津さんの故郷は愛媛に隣接する徳島県です。気になって調べたところ、国産レモンの出荷額トップは広島県。第2位が脇農園さんのある愛媛県、徳島県は19位でした。
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昨日発効された日欧EPAや、数年前から話題のTPP環太平洋パートナーシップ協定などの影響で、日本の農業も転換点を迎えつつあり、レモンも今後どうなるか、というところですね。国産レモン農家さんにはがんばっていただきたいものです。

というわけで、トラットリアレモンさんの「脇農園レモンフェア」、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

雲と岩とのグロテスクさは想像の外にあるが、凡て宇宙的存在の理法に、万物を統一する必然の道が確にあると思はれる節がある。それは此等無生物の形態生成に人間や動物と甚だよく似たデツサンが用ゐられてゐる事だ。逆には、人間や動物の形態は此等物質の形態されると同じ機構上の約束によつて出来てゐるものと考へられる。

散文「三陸廻り 四 雲のグロテスク」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

雲や岩石、動物や人間(それからここに書かれていませんが、植物なども想定しているかもしれません)など、地球上の万物はその形態生成のあり方に共通する法則的なものがあるのではないか、という言です。だから雲を見て動物に似ていると感じるとか、人間の姿が見えるとかいうのは不思議でないというのです。


光太郎、この後の部分では、地球上に限らず、エイリアンがもしいたら、案外地球人と似た形態なのではないか、それが理にかなっているから、的な発言もしています。

卓越した造形作家の眼で見ると、そういうことなのでしょう。

当会の祖・草野心平を顕彰するいわき市立草野心平記念文学館さんでの企画展です。 

冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」

期 日 : 2019年1月12日(土)〜3月24日(日)
会 場 : いわき市立草野心平記念文学館 福島県いわき市小川町高萩字下タ道1-39
時 間 : 9時から17時まで
料 金 : 一般 430円(340円) 高・高専・大生 320円(250円) 小・中生 160円(120円)
       ( )内は20名以上団体割引料金
休 館 : 毎週月曜日、1月15日、2月12日(1月14日、2月11日は開館)

草野心平は、天性の詩人でしたが、自身と家族のために行った職業は13を数えます。それは何一つ詩人の副業でありませんでした。その一つ、居酒屋「火の車」は、昭和27年(1952)3月に東京都文京区田町に開店しました。同店は昭和30年4月に新宿区角筈に移転し翌31年12月に閉店しますが、この約5年間、ここには「文学仲間との怒号の議論、客との喧嘩、連日の宿酔、そして執筆」と独特のエネルギーが渦巻いていました。
 本展では、「火の車」時代の心平を、①火の車開店まで、②火の車開店以後、③火の車常連客、さらに④草野心平・宮沢賢治・高村光太郎の食のエピソードの4つにわけて紹介します。

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関連イベント

ギャラリートーク   1 月12 日㈯13 時30 分 要観覧料

居酒屋「火の車」一日開店  期日 3月10日(日)
 草野心平が開いていた居酒屋「火の車」で、心平が命名したお品書きにちなんだ料理を試食します。
 ■寸劇「火の車時代」 11 時30 分~11 時50 分 常設展示室
 ■「火の車」ランチタイム
   料理人 中野由貴氏、文学館ボランティアの会会員 12 時~12 時30 分 小講堂 要申込
 ■食卓トーク「心平・賢治・光太郎 ある日の食事」
   講師 中野由貴氏(宮沢賢治学会会員・料理研究家) 13 時~14 時 小講堂
 ●お申し込み方法 電話、往復はがき、FAX、E-mail のいずれか
 ●定 員 先着50 名(2 月10 日より受付開始)
 ●参加料 500 円(所定の観覧料も必要です)


居酒屋「火の車」は、昭和27年(1952)、心平が小石川に開いた怪しげな居酒屋です。のち、新宿に移転しました。最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、再上京した光太郎もたびたび足を運んでいます。

一昨年には同館で「春の企画展 草野心平の詩 料理編」が開かれ、「火の車」に関する展示も為されましたが、今回は「火の車」をメインとするようです。光太郎にも触れて下さるようで、ありがたいところです。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

嵐の通り過ぎた今となつては、首をきられた人も斬つた人も、みんな何だかなつかしい。君達は本気に苦しんだ。さうしてみんな死んだ、何しろみんな死んでしまつたのだ。どつちが強いも弱いもない。

散文「ルイ十六世所刑の図」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

この年、松屋で開催された中世期版画展の際に購入した、フランス革命を題材にした版画に寄せる文章の一節です。「本気に」人生を送ることの尊さを重んじた光太郎らしい発言です。

今日のいくつかの朝刊に、毎年4月2日の光太郎忌日・連翹忌を開催させていただいている、日比谷松本楼さんの小坂会長の訃報が出ました。

小坂哲瑯さん死去

小坂哲瑯さん(こさか・てつろう=日比谷松本楼会長、本名・明〈あきら〉)5月23日、悪性リンパ腫で死去、86歳。葬儀は近親者で営んだ。「お別れ会」は21日午後4時30分から東京都千代田区日比谷公園1の2の日比谷松本楼で。委員長は次女で社長の文乃(あやの)さん。連絡先はお別れ会事務局(0120・57・2222)。


そういえば、ここしばらく松本楼さんでお見かけしていなかったと思いました。

小坂会長、社長だった平成24年(2012)に、テレビ東京さん系列のBSジャパンさんで放映された「小林麻耶の本に会いたい #70本に会える散歩道~日比谷編~」で、松本楼さんが紹介された中にご出演なさいました。

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司会は小林麻耶さん、ナビゲーターは山田五郎さん。

当会の祖・草野心平が編んだ新潮文庫版の『智恵子抄』に収められた詩「涙」が、松本楼さんを舞台としていることからのご出演でした。

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光太郎智恵子が明治末に味わった氷菓を前に。

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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


ところで、テレビ東京さん系、山田五郎さん、とくれば、毎週さまざまな街にスポットを当てて紹介していく地域密着系都市型エンターテインメント「出没!アド街ック天国」。奇しくも今週末の放映が「日比谷」です。  

出没!アド街ック天国~日比谷~

テレビ東京 2018年6月9日(土)  21時00分~21時54分

街を徹底的に紹介する地域密着系都市型エンターテインメント!お馴染みの街から「えっ、こんな街あったの?」という意外な街まで、あらゆる街に出没する情報バラエティ番組

今回のアド街は「日比谷」に出没!そこは都心のオアシス・日比谷公園を有する街。今一番の話題はあらゆる旬が詰まった東京ミッドタウン日比谷の誕生!最新ショップや世界も注目のレストランが集結。屋上ガーデンテラスからはビルの狭間にある緑豊かな公園を望み、都会での休日を満喫できます。歴史ある劇場や巨大シネコンも完成し、まさに文化芸能の聖地。スターが愛した食堂も登場!大きな進化を遂げた日比谷を堪能しましょう。

司会者  井ノ原快彦、須黒清華(テレビ東京アナウンサー)  レギュラー出演者  峰竜太、薬丸裕英、山田五郎 ゲスト 茂木健一郎、紫吹淳、品川祐(品川庄司)

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意外にも、日比谷が取り上げられるのは初めてのようです。

ただ、予告を見ると、「エンタメ文化の発信地」というコピーになっており、野音や今春開業した東京ミッドタウン日比谷さんなどがメインのようです。

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ちらっとでも松本楼さんが紹介されてほしいものですが。


003【折々のことば・光太郎】

此のまるで野獣のやうな巨大な男の肉体は、およそ題名から聯想される瞑想などといふ既成観念からは飛び離れてゐて、むしろ凝然と黙座する人間の鬱積した精力そのものの表現と見るべきである。かういふ姿勢をとつた人間の錯綜した高低無数の凹凸から来る交響楽的造形美を見なくては此像のよさは分らない。

散文「考へる人」より
 昭和19年(1944) 光太郎62歳

明治41年(1908)、パリでその実物を初めて眼にし、その後の光太郎の歩みを決定づけたロダン代表作「考える人」の評です。

左は上野の国立西洋美術館前庭のものです。

新刊です。 

大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣

2015/5/25 奥田万里著 幻戯書房 定価2,000円+税

帯文から

荷風『断腸亭日乗』に記され、杢太郎の詩に詠まれ、晶子がその死を悼んだ男とは?

志賀直哉 吉井勇 北原白秋 小山内薫 高村光太郎 尾竹紅吉 平塚雷鳥 大杉栄 堺利彦 長谷川潔 関根正二 太田黒元雄 ポール・クローデルら文士ばかりでなく、芸術家や社会主義者も集った西洋料理店&カフェ「鴻乃巣」の店主・駒蔵のディレッタントとしての生涯を追った書下ろしノンフィクション。

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「メイゾン鴻乃巣」とは、明治43年(1910)、日本橋小網町に開店した西洋料理店です。のちに日本橋通一丁目、さらに京橋に移転、大正末まで「文化の発信基地」的な役割を担いました。光太郎、北原白秋、木下杢太郎らの芸術運動「パンの会」の会場として使われています。ただし、「パンの会」は案内状まで発送して大々的に行う「大会」と、通常の会の二通りがあり、「メイゾン鴻乃巣」では「大会」は開催されなかったようです(実はこのあたり、同書には勘違いがあって、少し残念です)。

本書はその店主・奥田駒蔵の生涯を追ったノンフィクションです。著者の奥田万里氏は、駒蔵の孫・恵二氏夫人。万里氏から見れば、駒蔵は義祖父ということになります。駒蔵は大正14年(1925)、満43歳で早逝しており、奥田家でも孫の代になるとその業績等、全くといっていいほど不明だったようです。本書は、その駒蔵の生涯を、ご親戚への聞き取りや当時の文献調査などにより、明らかにした労作です。

元は平成20年(2008)、かまくら春秋社からエッセイ集として刊行された『祖父駒蔵と「メイゾン鴻之巣」』。そちらをベースに加筆修正されています。

先月はじめごろ、当会顧問の北川太一先生から、その元版を入手してくれという指示があり、調べてみたところ、月末には新版が刊行されるという情報を得、さっそく北川先生の分と当方の分、2冊予約し、2週間ほど前に届きました。

帯文に光太郎の名がありますが、光太郎もメイゾン鴻之巣によく足を運んでおり、その作品中に登場します。

 飯田町の長田秀雄氏の家の近くの西洋料理店を思ひ出す。ヴエニス風な外梯子のかかつてゐた、船のやうにぐらぐら動く二階で北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇等の諸氏に初めて会つたのだと思ふ。何だか普通の人と違つてゐるので面白かつた。此人達の才気横溢にはびつくりした。負けない気になつて、自分も馬鹿にえらがつたり、大言壮語したり、牛飲馬食したり、通がつたり、青春の精神薄弱さを遺憾なくさらけ出したものだ。真剣と驕飾とが矛盾しつつ合体してゐた。自己解放の一つの形式だつたのだと思ふ。掘留の三州屋の二階。永代橋の橋際の二階。鳥料理都川の女将。浅草のヨカロー。小舟町の鴻乃巣。詩集「思ひ出」。雑誌「方寸」。十二階。
(「パンの会の頃」 昭和2年=1927)

パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあつた三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、鎧橋傍の「鴻の巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集つたものである。
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)

奥田さんといふ奇人の創めた小網町河岸のカフエ「鴻の巣」は梁山泊の観があつたし、下町の明治初年情調ある小さな西洋料理店(例へば掘留の三州屋)などを探し出して喜んだりした。
(「あの頃――白秋の印象と思ひ出――」 昭和18年=1943)

相変らず金に困り、困るからなほ飲んだ。鴻乃巣だの、三州屋だの、「空にまつかな雲のいろ」だのといつても、私のは文学的なデカダンではなくて、ほんとに生活そのものが一歩一歩ぐれてゆくやうで、足もとが危険であり、精神が血を吐く思ひであつた。
(「父との関係」 昭和29年=1954)

以上四篇はエッセイですが、詩では連作詩「暗愚小伝」中の「デカダン」(昭和22年=1947)に、当時を回想しての

鎧橋の「鴻の巣」でリキユウルをなめながら
私はどこ吹く風かと酔つてゐる。
酔つてゐるやうにのんでいる。


との一節があります。

すぐに思い出したのは以上ですが、精査すればもっとあるかもしれません。

また、『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで初めて知ったのですが、同店の名物の一つが、ロシアから輸入したというサモワールだったそうです。

その記述を読んで、当方のアンテナが発動しました。「『道程』時代の詩にサモワールが出てきたは004ず」と。調べてみると、明治44年(1911)に書かれた「或日の午後」という詩でした。

     或日の午後

 珈琲(カフエ)は苦く、
 其の味はひ人を笑ふに似たり。

 シヨコラアは甘(あま)く、
 其のかをり世を投げたるが如し。

 ふと眼にうかぶ、
 馬場孤蝶の凄惨なる皮肉の眼(まな)ざし。

 サモワアルの湯気は悲しく、さびしく、完(まつた)くして、
 小さんの白き歯の色を思はしむ。

 此の日つくづく、
 流浪猶太人(ル・ジユイフ・エラン)の痛苦をしのべば――
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 心しみじみ、
 春はいまだ都の屋根に光らず――

 珈琲(カフエ)は苦く、
 シヨコラアは甘し、
 
 倦怠は神経を愛撫す、
 或る日の午後。


雑誌『スバル』に発表された詩です。残念ながら詩集『道程』には採られませんでした。画像は『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』から採らせていただきました。絵画もたしなんだ奥田駒蔵自筆のメイゾン鴻乃巣店内です。サモワールも描かれています。

明治末にサモワールがどの程度普及していたのかよくわかりませんが、「メイゾン鴻乃巣」名物と云われるということは、かなり珍しかったのではないのでしょうか。そうすると、この詩の舞台も「メイゾン鴻乃巣」のように思われます。

これも『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで初めて知りましたが、鴻乃巣のサモワールにはこんなエピソードもあります。

やはり明治44年(1911)の雑誌『白樺』の編集後記に、こんな記述があるそうです。

同人の九里四郎は丁度仏蘭西に絵の研究に行つた。お名残の展覧会が琅玕洞で十日斗り開かれてゐた。十七日の日曜日には九里が御ひいきのメーゾン鴻の巣が九里の為めに「雷のやうにピカピカ光るサモワール」を持ち出して御客様に御茶をすゝめた。当日は主人自ら出張してめざましく働いてゐた。

「琅玕洞」は前年に光太郎が神田淡路町に開いた我が国初の画廊です。ただし、この時点では琅玕洞の経営は光太郎の手を離れています。ただ、譲渡後も琅玕洞で自分の個展を開こうとしたり(結局実現せず)しているため、時折足は運んでいたようです。


サモワールがらみでもう一件、『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで興味深く思ったことがありました。

佐渡島に住んでいた歌人の渡辺湖畔との関わりです。湖畔は共通の知人であった与謝野夫妻を通じ、大正9年(1920)、駒蔵にサモワール購入の斡旋を頼んだというのです。

「ここで湖畔が出てくるか!」と思いました。湖畔はのち、大正15年(1926)に、光太郎の木彫「蟬」を購入している人物です。その縁で、令甥に当たる和一郎氏ご夫妻は、時折連翹忌にご参加くださっています。


他にもいろいろと、光太郎と奥田駒蔵の関わりがあります。

光太郎が絵を描き、伊上凡骨が彫刻刀をふるった、「メイゾン鴻乃巣」のメニューの存在が、大正2年(1913)9月21日の『東京日日新聞』に紹介されています。これはぜひ見てみたいのですが、現存が確認できていません。当時の雑誌などに口絵の形で載ったものでも……と思って探し続けていますが、いまだに見つかりません。

また、これも、『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで初めて知ったのですが、大正10年(1921)の新詩社房州旅行に、光太郎智恵子ともども、駒蔵も参加していたそうです。この旅行に関しては、この頃から智恵子の言動が少し異様だったという深尾須磨子の回想が残っています。また、伊上凡骨も此の旅行に参加しています。


とりあえず、光太郎に関わる部分のみを紹介しましたが、全体に非常に面白い内容でした。奥田駒蔵という人物のある意味自由奔放な、しかし世のため人のためといった部分を忘れない生き方、その周辺に集まった人々の人間模様などなど。

さらに、著者の奥田万里氏の調査の過程。当方も光太郎智恵子について、聞き取りやら文献調査やらで同じような経験をしているので、「あるある」と、共感しながら読ませていただきました。ただし、光太郎智恵子については当会顧問の北川太一先生はじめ、先哲の方々の偉大な業績があって、当方はその落ち穂拾い程度ですが、奥田氏の場合、ほぼゼロからのスタート。頭が下がりました。

そして、全編に義祖父・駒蔵へのリスペクトの念が満ち溢れていることにも感心しました。


やはり人を論ずる場合、その人に対するリスペクトが感じられなければ、読んでいて鼻持ちなりません。逆に言えば、「リスペクトの念がないのなら、論じるな」と言いたくなります。

余談になりますが、ある大手老舗出版社が出しているPR誌の今月号に、「智恵子抄」に関するエッセイが載っています。筆者は辛口の批評で知られる文芸評論家のセンセイです。そこには全くといっていいほど、光太郎ら、そこで取り上げている人物に対するリスペクトの念が読み取れません。さらに云うなら、リスペクトの念がないから詳しく調べるということもしないのでしょう、出版事情等に関し、事実誤認だらけです。「○○は、現在××と△△からしか出版されていない」、いやいや「□□と◇◇からもちゃんと出版されているよ、マイナーな出版社のラインナップだけど」と云う感じです。

「解釈」の部分は主観なので、その人の勝手かも知れませんが、客観的な事実の部分までテキトーに書いて、そしてこの方のお家芸(少し前には、光太郎智恵子を取り上げたあるテレビ番組についても、見当外れの罵詈雑言を某新聞の地方版に発表しているようです)ですが、とにかく揚げ足取りや「批判」をしなければ気が済まない、みたいな。その辛口ぶりがかえって新鮮でもてはやされているようですけれど、「それではあなたの仕事が数十年後まで残りますか?」と問いたくなりますね。

むろん、論じる対象に対し、妄信的、狂信的にすべて賞賛すべきとはいいませんが、「リスペクトの念がないのなら、論じるな」です。反面教師とするために論じるというのであれば別かもしれませんが、この人の書き方は揶揄や軽侮が先に立っていて、批判するために批判しているようにしか読めません。

当方、その筆者のセンセイにリスペクトを感じませんので、これ以上は論じません。


閑話休題、リスペクトの念に溢れた『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』、ぜひお買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月10日

昭和22年(1947)の今日、日本読書組合から、『宮澤賢治文庫 第三冊』が刊行されました。

第二回配本で、「春と修羅 第二集」。宮澤清六と光太郎の共編、光太郎は装幀、題字と「おぼえ書き」の執筆もしています。

当方手持ちの全6巻は、現在、花巻の高村光太郎記念館にて展示中です。

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新刊です。正確に言うと、平成22年(2010)にハードカバーで刊行されたものの文庫化ですが。 

『文士の料理店(レストラン)』 

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2013年6月1日 嵐山光三郎著 新潮社(新潮文庫) 定価670円

「松栄亭」の洋風かきあげ(夏目漱石)、「銀座キャンドル」のチキンバスケット(川端康成)、「米久」の牛鍋(高村光太郎)、慶楽」のカキ油牛肉焼そば(吉行淳之介)、「武蔵」の武蔵二刀流(吉村昭)──和食・洋食・中華からお好み焼き・居酒屋まで。文と食の達人厳選、使える名店22。ミシュランの三つ星にも負けない、名物料理の数々をオールカラーで徹底ガイド。『文士の舌』改題。(裏表紙より)
 
長大な詩なので全文は引用しませんが、大正11年(1922)に発表された光太郎の詩で、「米久の晩餐」という作品があります。浅草で今も続く牛鍋屋・米久さんで、詩人・尾崎喜八と牛鍋を食べた時の光景を詩にしたものです。
 
この書籍によれば、米久さん、メニューは牛鍋のみ。畳敷きの大広間に一、二階合わせて三百席。食事時ともなればもうもうとわき上がる湯気の中、ものすごい喧噪だとのこと。

光太郎の「米久の晩餐」にも、自分たちだけでなく、周囲の客やアマゾン(女中さん)の様子、会話が生き生きと活写されています。光太郎曰く、「魂の銭湯」。
 
本書では、カラー画像もふんだんに使っており、非常に食欲をそそられます。

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レポする嵐山氏の筆も、光太郎に負けず劣らずあますところなくその魅力を紹介しており、思わず行きたくなってしまいます。
 
さらに森鷗外や夏目漱石など光太郎と縁のあった人物や、光太郎の項ではないものの、光太郎も足を運んだ銀座資生堂パーラーなども取り上げられています。
 
是非お買い求めを。
 
ちなみに嵐山氏には、同じく新潮文庫に『文人悪食』『文人暴食』というラインナップもあります。「文士の食卓それぞれに物語があり、それは作品そのものと深く結びついている」というコピーの『文人悪食』では、やはり光太郎が取り上げられています。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月16日

大正15年(1926)の今日、父・光雲が東京美術学校名誉教授となりました。

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