昨日は、福島県いわき市に行っておりました。その前に花巻・盛岡と廻っていたのですが、いわきには立ち寄る形でなく、いったん千葉の自宅兼事務所に戻り、また改めて東北にとんぼ返り。公共交通機関だと、いわきから自宅兼事務所までが面倒ですし、目的地のいわき市立草野心平記念文学館さんがJRの駅から遠い、ということもありまして。
で、いわき市立草野心平記念文学館さん。
先月もお邪魔しましたが、冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」を開催中で、昨日は、関連行事としての市民講座的な「居酒屋「火の車」一日開店」が行われました。
「火の車」というのは、昭和27年(1952)、当会の祖・草野心平が文京区田町に開いた居酒屋です。その後、新宿に移転、区画整理により取り壊される同31年(1956)まで存続しました。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した光太郎もよく足を運んでいましたし、他にもそうそうたる顔ぶれが常連で、一種の芸術サロン的な役割を果たしたわけです。
まずは文学館ボランティアの会の皆さんによる寸劇「火の車の思い出」。
心平と、心平により「火の車」のにわか板前に仕立てられた同郷の橋本千代吉の二人が「火の車」の思い出を語るという設定でした。橋本には、『火の車板前帖』(昭和51年=1976)という回想録――ここに集った酔漢たちのとんでもない行状録があり、珍しく下ネタを披露した光太郎も描かれています。
最後に観客全員で、心平作詞の「火の車の歌」を斉唱。かつて店でよく歌われていたとのことで、遠く明治末、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」で、酔った参加者たちが、やはり中心メンバー北原白秋の「空に真っ赤な雲の色」を歌っていたというエピソードを思い出しました。
続いて、館内の講堂に移動、「「火の車」ランチタイム」。
料理研究家の中野由貴さんのご指導のもと、文学館ボランティアの会の皆さん、中野さんのお仲間の方々が腕をふるった料理をいただきました。心平が考案し、「火の車」で出されていたメニューの一部、さらに心平と交流のあった光太郎と宮沢賢治ゆかりの料理が、ビュッフェ形式で並べられました。
中野さんの解説を拝聴しつつ、美味しくいただきました。
当方、昨年、花巻高村光太郎記念館さんの市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓part .2」の講師を務めさせていただきましたが、その際に作成したレジュメが回り回って中野さんのお手元に行き、参考にして下さったそうです。光太郎がほめたフランスパンが出たり、「火の車」メニューの「白夜」(スープ)には、光太郎の好物の一つ、大根の千六本(せろっぽう……マッチ棒ほどの大きさに刻んだもの)を入れていただいたりしました。
また、おむすびは賢治が羅須地人協会で推奨していたという「陸羽132号」。おみやげにも同じお米をいただきました。右下は生産者の方のご挨拶。下に写っているのがおみやげの「3合入り陸羽132号」です。
お腹も満たされたところで、最後に食卓トーク「心平・賢治・光太郎 ある日の食卓」。
それもこれも同館学芸員の小野浩氏の差し金です。バイタリティーに溢れ、さまざまな部分で強引に事を進めた心平よろしく、小野氏の力わざも半端ではありません(笑)。最近は顔つきまで心平に似てきました(笑)。
その前に、展示ケースをわざわざ開けていただき、昭和28年(1953)の3月15日、「火の車」の大福帳に書かれた光太郎の筆跡――開店一周年を祝うメッセージ――を見せていただいたので、文句は言えませんが(笑)。
終了後、中野さんやそのお仲間の方々、小野氏、さらにいわきご在住の彫刻家・安斉重夫氏(賢治作品へのオマージュとしての彫刻も作られています)などの皆さんと、いわき駅前で軽く打ち上げ(当方、中座させていただきましたが)。
というわけで、有意義ないわき紀行でした。
ところで今日は3.11。昨日も、行き帰りの愛車内で見たテレビで、東日本大震災がらみの番組がいろいろありました。明日はそのあたりで書かせていただきます。
【折々のことば・光太郎】
母は全くの無筆で、お家流まがひの金釘流でただたどしく書きつらねた文字であつたが、私の帰国の決心を最初に書き送つた手紙を見ての歓喜の情をそのまま夢心地に書きつけたものと思はれる。こんなよろこびの歌をどうして無視出来ようかと思つて私は読みながら泣いた。
散文「よろこびの歌」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳
10年のつもりで出かけた留学を3年あまりで切り上げ、光太郎は帰国の途につきましたが、その主な要因は、結局、西洋人は理解不能という感覚でした。そして日本に帰って、自分の学んだ新しい芸術を日本に根付かせようという使命感。しかし、最終的に決断をさせたのは、帰国しようかどうしようか迷っていると書いた手紙に対する、「早く帰ってこい」という母からの返答でした。
大根の千六本など、「食」の部分でも母から受けた影響が大きかった光太郎。終生、母への敬慕を胸に抱き続けていました。