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昨日は、福島県いわき市に行っておりました。その前に花巻・盛岡と廻っていたのですが、いわきには立ち寄る形でなく、いったん千葉の自宅兼事務所に戻り、また改めて東北にとんぼ返り。公共交通機関だと、いわきから自宅兼事務所までが面倒ですし、目的地のいわき市立草野心平記念文学館さんがJRの駅から遠い、ということもありまして。

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で、いわき市立草野心平記念文学館さん。

先月もお邪魔しましたが、冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」を開催中で、昨日は、関連行事としての市民講座的な「居酒屋「火の車」一日開店」が行われました。

「火の車」というのは、昭和27年(1952)、当会の祖・草野心平が文京区田町に開いた居酒屋です。その後、新宿に移転、区画整理により取り壊される同31年(1956)まで存続しました。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した光太郎もよく足を運んでいましたし、他にもそうそうたる顔ぶれが常連で、一種の芸術サロン的な役割を果たしたわけです。

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まずは文学館ボランティアの会の皆さんによる寸劇「火の車の思い出」。

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心平と、心平により「火の車」のにわか板前に仕立てられた同郷の橋本千代吉の二人が「火の車」の思い出を語るという設定でした。橋本には、『火の車板前帖』(昭和51年=1976)という回想録――ここに集った酔漢たちのとんでもない行状録があり、珍しく下ネタを披露した光太郎も描かれています。

最後に観客全員で、心平作詞の「火の車の歌」を斉唱。かつて店でよく歌われていたとのことで、遠く明治末、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」で、酔った参加者たちが、やはり中心メンバー北原白秋の「空に真っ赤な雲の色」を歌っていたというエピソードを思い出しました。

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続いて、館内の講堂に移動、「「火の車」ランチタイム」。

料理研究家の中野由貴さんのご指導のもと、文学館ボランティアの会の皆さん、中野さんのお仲間の方々が腕をふるった料理をいただきました。心平が考案し、「火の車」で出されていたメニューの一部、さらに心平と交流のあった光太郎と宮沢賢治ゆかりの料理が、ビュッフェ形式で並べられました。

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中野さんの解説を拝聴しつつ、美味しくいただきました。


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当方、昨年、花巻高村光太郎記念館さんの市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓part .2」の講師を務めさせていただきましたが、その際に作成したレジュメが回り回って中野さんのお手元に行き、参考にして下さったそうです。光太郎がほめたフランスパンが出たり、「火の車」メニューの「白夜」(スープ)には、光太郎の好物の一つ、大根の千六本(せろっぽう……マッチ棒ほどの大きさに刻んだもの)を入れていただいたりしました。

また、おむすびは賢治が羅須地人協会で推奨していたという「陸羽132号」。おみやげにも同じお米をいただきました。右下は生産者の方のご挨拶。下に写っているのがおみやげの「3合入り陸羽132号」です。

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お腹も満たされたところで、最後に食卓トーク「心平・賢治・光太郎 ある日の食卓」。

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002講師は中野さん……のはずだったのですが、賢治研究家でもあらせられるお医者様の浜垣誠司氏、さらに当方も講師席に座らされ(笑)……。

それもこれも同館学芸員の小野浩氏の差し金です。バイタリティーに溢れ、さまざまな部分で強引に事を進めた心平よろしく、小野氏の力わざも半端ではありません(笑)。最近は顔つきまで心平に似てきました(笑)。

その前に、展示ケースをわざわざ開けていただき、昭和28年(1953)の3月15日、「火の車」の大福帳に書かれた光太郎の筆跡――開店一周年を祝うメッセージ――を見せていただいたので、文句は言えませんが(笑)。

終了後、中野さんやそのお仲間の方々、小野氏、さらにいわきご在住の彫刻家・安斉重夫氏(賢治作品へのオマージュとしての彫刻も作られています)などの皆さんと、いわき駅前で軽く打ち上げ(当方、中座させていただきましたが)。

というわけで、有意義ないわき紀行でした。

ところで今日は3.11。昨日も、行き帰りの愛車内で見たテレビで、東日本大震災がらみの番組がいろいろありました。明日はそのあたりで書かせていただきます。


【折々のことば・光太郎】

母は全くの無筆で、お家流まがひの金釘流でただたどしく書きつらねた文字であつたが、私の帰国の決心を最初に書き送つた手紙を見ての歓喜の情をそのまま夢心地に書きつけたものと思はれる。こんなよろこびの歌をどうして無視出来ようかと思つて私は読みながら泣いた。

散文「よろこびの歌」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

明治42年(1909)、パリで受け取った母・わe5be2049かからの手紙に関してです。
10年のつもりで出かけた留学を3年あまりで切り上げ、光太郎は帰国の途につきましたが、その主な要因は、結局、西洋人は理解不能という感覚でした。そして日本に帰って、自分の学んだ新しい芸術を日本に根付かせようという使命感。しかし、最終的に決断をさせたのは、帰国しようかどうしようか迷っていると書いた手紙に対する、「早く帰ってこい」という母からの返答でした。

大根の千六本など、「食」の部分でも母から受けた影響が大きかった光太郎。終生、母への敬慕を胸に抱き続けていました。

新刊の雑誌系に載った記事を2件ご紹介します。たまたまどちらも「食」がらみです。

まず、『週刊読書人』さん。いまわの際の智恵子が「がりり」と噛んだレモンにからみます。3月1日号中の「【書評キャンパス】大学生がススメる本」というコーナーで、光太郎の『智恵子抄』が取り上げられました。

高村 光太郎著『智恵子抄』 評者:黒川 あさひ(明治大学文学部3年)

二〇一八年末のNHK紅白歌合戦に今を時000めく米津玄師が出場し、連続ドラマ『アンナチュラル』の主題歌である『Lemon』を歌いあげた。この曲は非常に人気があり、カラオケのランキングでも一を総ナメしているらしい。この『Lemon』という曲は、「レモン哀歌」を元として作ったと米津さんがどこかのインタビューで答えていたことを記憶している。「レモン哀歌」というのは、彫刻家や画家、そして詩人として活躍した、高村光太郎によって紡がれた詩集『智恵子抄』に収録されている詩の一つである。米津の歌詞の節々に『智恵子抄』に収録されている、「レモン哀歌」以外の詩を思わせるような単語もあるため、「レモン哀歌」というよりは『智恵子抄』全体を元にしたのではないだろうかと思う。
『智恵子抄』は愛の詩集だ。高村光太郎が、妻・智恵子と出会い、「清浄」されて、精神分裂症を患った妻をひたすらに支えて、妻が亡くなった後も愛し続けた、その証だ。夫妻が結婚する前から智恵子が亡くなった後までの、30年にもわたる年月の中で光太郎が妻へ宛てて書いた詩を収録している。愛の詩といっても、あまったるいというわけではない。「人に(いやなんです)」「あなたはだんだんきれいになる」といった粉砂糖のようにきらきらと輝いている甘い詩もあれば、「レモン哀歌」や「梅酒」のような、それこそお酒のようにほろ苦いけれど止められない、そんな詩もある。
『智恵子抄』はいくつかの出版社から出ているが、私は中でも新潮文庫版の『智恵子抄』が好きだ。理由としてはいくつかあり、まず他版元では初版に準じて、「『智恵子抄』」「『智恵子抄』補遺」の順に掲載されているが、新潮文庫版では、両方を合わせて作品が全て年代順に並べられているということ。年代順に読むことで、光太郎の幸せ、喜び、そして嘆き、悲しみがより伝わってくるように感じる。次に、表紙、及び冒頭のカラーページを飾るのは、智恵子によって作られた切抜絵の作品ということ。これが非常に素晴らしいもので、またそれらは智恵子が光太郎にだけ見せるために作り続けたものであることが巻末の文章で分かる。最後に、巻末の文章に詩人の草野心平による高村夫妻のエピソードが書かれている文章があること。それがまたどうしようもなく悲しくて切ない、けれどとてつもなく素敵なエピソードなのだ。
この草野心平の文章の中に先ほど挙げた切抜絵のエピソードもあるのだが、私が思わず涙してしまったのは、光太郎が、草野を「喫茶店ともバアともつかないとこ」に呼び出した時に投げかけた言葉だ。思わず息を飲み、何も言えなくなってしまう。静かに涙を流しながら残りの数ページを震える手で捲ったことを覚えている。是非読んでみて欲しい。
『智恵子抄』はぜひとも、夜中に大切な人のことを考えながら読んでみて頂きたい。できればお供として「梅酒」を片手に。

このコーナー、「現役大学生が自ら選書し書評を書く人気コーナー。紙面「週刊読書人」で毎週一人ずつ掲載する他、ウェブ限定の書評もあります。いまの大学生が友だちに薦めたい!と思う本とは?どんなところに魅力を感じているのか?どれも読みごたえのある書評ばかりです。」だそうで、新刊書籍に限らず、古今東西の名著的なものも取り上げられています。そこで、新潮文庫版の『智恵子抄』。

当方、常に光太郎智恵子が忘れ去られる危機感を抱いて活動しているのですが、まだ21世紀を生きる若者の心の琴線に触れる部分がやはりあるのですね。そういった意味で、昨今の「文豪」ブーム、そして書評でも触れられている米津玄師さんの「lemon」、ありがたいところです。


もう1件、定期購読しています『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん。第12号が届きました。

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花巻高村光太郎記念館さんのご協力で為されている連載「光太郎レシピ」、今号は「光太郎の正月」だそうです。元ネタは昭和23年(1948)1月6日付けの書簡。

姻戚となった茨城取手在住の宮崎仁十郎から届いた餅を使い、雑煮とお汁粉を作ったそうで、小豆は自分で栽培したものを使用したとのこと。さらにイカの中華炒め。美味しそうです。

この連載が実を結んだ部分もあるのでしょう。多方面で「光太郎の食」についてスポットが当てられています。昨年から今年初めにかけ、花巻高村光太郎記念館さんでは企画展「光太郎の食卓」が開催されましたし、現在、いわき市立草野心平記念文学館さんで開催中の冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」でも光太郎が取り上げられています。今週末には関連行事で料理研究家の中野由貴さんを講師に、「居酒屋「火の車」一日開店」があり、その中で「心平・賢治・光太郎 ある日の食事」というトークも為されます。

ちなみに偶然ですが、今月東京武蔵野市で開催される「第13回 与謝野寛・晶子を偲ぶ会」のテーマが「「明星」文学者、四季の食卓――杢太郎、勇、晶子、光太郎」ということで、発表を仰せつかっています。またのちほど詳しくお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

此所で喰べた野草の味が忘れられない。蕨のやうだが蕨よりも歯ぎれぎよく、ぜんまいのやうだがぜんまいよりもしやつきりしてゐる。ただの煮つけではあるが其色青磁の雨過天青といふ鮮やかさにまがひ、山野の香り箸にただよひ、舌ざはり強く、しかも滑かで、噛めばしやりりといさぎがよい。

散文「こごみの味」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

「此所」というのは、群馬県の利根川上流域の藤原村、現在のみなかみ町藤原です。昭和4年(1929)の5月にこの近辺を旅した際の思い出で、題名にもある「こごみ(クサソテツ)」に関わります。村に1軒だけあった食堂でこごみの煮つけを饗され、その味わいに感動したとのこと。

光太郎、この後、戦時中には食糧不足のためやむなく、戦後は岩手花巻郊外太田村の山小屋での蟄居生活で、こちらは自ら好んで、さまざまな野草を口にしています。

まずは状況説明を兼ねて、『岩手日報』さんの記事。9月2日(日)、花巻からの帰りがけにゲットして参りました。

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もう一紙、『岩手日日』さんにも載りましたが、一日遅れだったため、現物はゲットできず。さらにネットでも有料会員限定の記事なので読めません。どうやら当方の顔がどアップで出ているようなのですが(笑)。

用意したレジュメを掲載します。画像をクリックしていただくと拡大します。幼少期から最晩年まで、光太郎や周辺人物の遺した詩文から、「食」に関する内容の部分などを抜き出しました。ただ、光太郎に関しては、全てを網羅するには準備期間が短く、書簡類、短歌、俳句などはほぼ割愛。随筆的なもの、対談・座談、日記、そして詩に限定しました。
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まずは幼少年期。明治中期から後期です。

廃仏毀釈の影響で、彫刻の注文仕事が激減していた父・光雲。光太郎が生まれた明治16年(1883)頃が、窮乏のどん底だったそうで、光太郎幼少期の一家の食事は、漬物系に豆などがメインディッシュ、魚が出れば御馳走という状況でした。

その後、光雲が東京美術学校に奉職してから徐々に生活は好転し、海外留学直前の日記を見ると、牛肉なども食卓に並ぶようにはなりました。しかし、まだまだつつましいものでした。

光太郎実弟の豊周は、光太郎が留学に出た明治末になって初めてカレーを口にし、「こんなうまいものが世の中にあったのか」という感想を記しています。光太郎自身も留学に出て、初めて洋食らしい洋食に出会ったようです。明治39年(1906)~同42年(1909)の留学時代。

以前にも書きましたが、戦後の花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で、自分で作っていたことが日記に残されているボストンビーンズなどが現れます。イタリアでは、パスタの食べ方が分からなくてうろたえた、というのが笑えます。
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帰国後、智恵子との生活。欧米で親しんだ洋食も取り入れ、和洋折衷の食生活となったようです。朝食はパンにオートミールなど、のちの高度経済成長期の共働き家庭を先取りしている感がありました。夕食は和食系が多かったようです。
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決して豊かでなかった生活の中で、野草を食べるなどの工夫していたこともうかがえます。しかし、金が入ると贅沢もしていたようで、朝からサラダにマヨネーズ(当時は高級品)をかけて食べたり、玉露のお茶を常用したりしていた光太郎を、豊周は「世間一般とは物差がちがう」とし、容赦ありません。

昭和初期、智恵子が心を病み、転地療養、入院ということで、光太郎のひとり暮らしが始まります。もっとも、それ以前から智恵子は福島の実家に帰っていた時期が長かったのですが。そして智恵子が亡くなった前後から、泥沼の戦争……。日本全体が食糧不足に陥りますが、この時期も、それなりに工夫していたようです。
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そして、智恵子と暮らした思い出深い駒込林町のアトリエ兼住居が空襲で全焼。宮沢賢治の実家の誘いで花巻に疎開し、終戦を迎えます。その後も東京に帰らず、戦時中に詩文で若者を鼓舞して死に追いやった反省から、郊外旧太田村での蟄居生活。
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穀類は配給に頼らざるを得ませんでしたが、野菜類はほぼ自給。あとは、旧知の人々が、光太郎を気遣って、いろいろなものを送ってくれ、それで凌ぎました。戦後の日記はかなり残っており、どのような食事をしていたかがほぼわかります。それらをもとに、花巻高村光太郎記念館さんの協力で、『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんに、「光太郎レシピ」という連載が為されています。

やはりいろいろ工夫をし、厳しい環境の中でも豊かな食生活を心がけていたようです。山奥の陋屋にいながら、仏蘭西料理的なものも自作したりしています。逆に、真実かどうか、リップサービスで「盛ってる」のではないかとさえ思われますが、座談会では蛙まで捕まえて食べたと発言したりもしています。そこで、見かねた周囲の人々が、光太郎を招いて豪勢な会食会を開いたことも。

亡き宮沢賢治を敬愛していた光太郎ですが、有名な「雨ニモマケズ」の「玄米四合ト味噌ト少シノ野菜」では駄目だ、という発言は繰り返ししていました。これからの日本人は、肉や牛乳などをもっと積極的に摂取し、体格から変えなければ欧米に伍していけない、と。戦後、各界からそういう提言がありましたが、光太郎の発言は、それらを先取りしていたように思われます。

最後に、青森十和田湖畔に立つ「乙女の像」制作のため、再び上京した昭和27年(1952)以降。
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日記によれば、上京してからしばらくは、かなり外食もしていました。何だかんだ言って、やはりプロの料理には舌鼓を打っていたようです。アトリエを借りた中野にほど近い新宿がホームグラウンド。当会の祖・草野心平が経営していた「火の車」という怪しい居酒屋(笑)がありました。あとは生まれ故郷に近い浅草・上野方面、それから日本橋周辺にもよく出没しました。時には渋谷、目黒、神田、赤坂などにも。こってり系の店がけっこう多いのも特徴です。中華、うなぎ、牛鍋、天ぷら、はたまたロシア料理や柳川鍋など。最頻値は寿司屋でしたが。今も残る店がかなりあり、今後、小分けにして訪れてみようと思っています。
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最晩年、体調の悪化に伴い、外出を控えるようになると、アトリエの家主・中西夫人に頼んで食材などを買ってきて貰い、自炊。やはり肉類が目立ちます。

今回、あらためて光太郎の食生活を辿ってみると、やはりその時期その時期の生活全体が端的に象徴されているように感じました。また、光太郎という巨人を作り上げる上で、「食」の果たした大きな役割も実感できたように思います。結局、座談会で光太郎が述べていますが「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです。」の一言に尽きるように思われます。


【折々のことば・光太郎】

古来多くのよい詩はやはり必ず人間性の基底に強く根を張つてゐる。作者個人のものであつてしかし同時に万人のものである。それは個人を超え、時代を超え、思想を超える。どういふ時にも人の心にいきいきと触れる。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

光太郎にとっての目指すべき「詩」の在り方であると同時に、74年の生涯で、光太郎にはそれが体現できたと言えましょう。

新刊です。

作家のまんぷく帖

2018年4月13日  大本泉著  平凡社(平凡社新書)  定価 840円+税

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食を語ることが、人生を語ることにつながっていく! 
極度の潔癖症で食べるのがこわかった泉鏡花、マクロビの先駆者だった平塚らいてう。赤貝がのどに貼りついて絶命した久保田万太郎、揚げ物の火加減に厳格なこだわりを見せた獅子文六、胃痛を抱えながら、酒と薬が手放せなかった坂口安吾など、食べることから垣間見える、作家という生き物の素顔に迫る。
樋口一葉、内田百閒、武田百合子、藤沢周平など総勢22人を紹介!

目次
 はじめに
 ◎樋口一葉 ── お汁粉の記憶 
   樋口家の事情/半井桃水との邂逅/ごちそうするのが好きだった一葉/お汁粉の記憶
 ◎泉鏡花 ── 食べるのがこわい
   生い立ち/潔癖症だった鏡花/酒も煮沸消毒/ハイカラだった鏡花
 ◎斎藤茂吉 ── 「俺はえやすでなっす」
   二足の草鞋/病気と食事/鰻と茂吉
 ◎高村光太郎 ── 食から生まれる芸術 
   「食」の「青銅期」/智恵子との「愛」そして「食」/
   「第一等と最下等」の料理を知る/「食」から芸術へ

 ◎北大路魯山人 ── 美食の先駆者 
   美の原初体験/「欧米に美味いものなし」/当時の星岡茶寮/山椒魚の食べ方/
   魯山人の死の謎
 ◎平塚らいてう ── 玄米食の実践者
   女性解放運動の先導者/平塚明の生涯/奥村博史との食生活/玄米食の実践/
   ゴマじるこの作り方/おふくろの味
 ◎石川啄木 ── いちごのジャムへの思い
   夭折の詩人・歌人/社会生活無能者?/啄木の好物/いちごのジャムへの思い
 ◎内田百閒 ── 片道切符の「阿房列車」
   スキダカラスキダ、イヤダカライヤダ/酒肴のこだわり/苦くすっぱいスイーツ?/
   三鞭酒で乾杯
 ◎久保田万太郎 ── 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 
   下町に生きる/苦手なものと好きなもの/下町にある通った店/
   絶命のきっかけとなった赤貝
 ☆コラム◉作家の通った店 江戸料理の「はち巻岡田」
 ◎佐藤春夫 ── 佐藤家の御馳走
   早熟な文壇デビュー/学生時代/奥さんあげます、もらいます/「秋刀魚の歌」/
   アンチ美食家きどり/  
   佐藤家の御馳走
 ☆コラム◉作家の通った店 銀座のカフェ「カフェーパウリスタ」
 ◎獅子文六 ── 「わが酒史」の人生 
   大食漢の作家「獅子文六」の誕生/家での獅子文六/グルメのいろいろ/
   「わが酒史」こそ人生
 ◎江戸川乱歩 ── うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと 
   作家江戸川乱歩の誕生/転居、転職の達人/描かれた〈食〉/ソトとウチとの〈食〉
 ☆コラム◉作家の通った店 「てんぷら はちまき」
 ◎宇野千代 ── 手作りがごちそう 
   恋に「生きて行く私」/凝った食生活/手作りに凝る/長生きの秘訣
 ◎稲垣足穂 ── 「残り物」が一番 
   足穂ワールド/明石の食べもの/「残り物」が一番/「おかず」より酒・煙草/
   観音菩薩
 ◎小林秀雄 ── 最高最上のものを探し求めて
   評論家小林秀雄の誕生/「思想」と「実生活」/
   妹から見た小林秀雄/酒と煙草のエピソード/
   江戸っ子の舌/最高最上のものを探し求めて
 ◎森茉莉 ── おひとりさまの贅沢貧乏暮らし
   聖俗兼ね備えた少女のようなおばあさん/古い記憶にある味/
   おひとりさまの贅沢貧乏暮らし
 ☆コラム◉作家の通った店 「邪宗門」
 ◎幸田文 ── 台所の音をつくる 
   「もの書きの誕生」/幸田文の好物/食べるタイミングの大切さ/
   台所道具へのこだわり/心をつぐ酒/
台所の音をつくる
 ◎坂口安吾 ── 酒と薬の日々
   作家坂口安吾の誕生/好物と苦手なもの/酒と薬の日々/安吾と浅草/桐生時代
 ◎中原中也 ── 「聖なる無頼」派詩人
   詩人中原中也の誕生/子供そのものだった中也/葱とみつば/銀杏の味/最期の煙草
 ◎武田百合子 ── 「食」の記憶 
   作家武田百合子の「生」/『富士日記』より/〈食〉の記憶
 ◎山口瞳 ── 〈食〉へのこだわり
   サラリーマンから専門作家へ/アンチグルメの〈食〉へのこだわり/
   山口瞳が通った店/家庭での食生活
 ◎藤沢周平 ── 〈カタムチョ〉の舌
   作家藤沢周平の誕生/〈海坂藩〉そして庄内地方の〈食〉/父としての藤沢周平
 おわりに
 主な参考文献


著者の大本泉氏は、仙台白百合女子大の教授だそうです。

光太郎に関しては、散文、詩、日記を引き、その幼少期から最晩年までの食生活等を追っています。引用されている詩文は以下の通り。

 散文「わたしの青銅時代」  『改造』 第35巻第5号 昭29(1954)/5/1
 対談「芸術よもやま話」    昭30(1955)/9/25談 10/25放送
 散文「ビールの味」     『ホーム・ライフ』 第2巻第8号 昭11(1936)/7/1
 詩「夏の夜の食慾」       『抒情詩』 第1巻第1号 大元(1912)/10/1
 散文「三陸廻り」      『時事新報』 昭6(1931)/10/13
 詩「晩餐」         『我等』 第1年第5号 大3(1914)/5/1
 詩「へんな貧」         『文芸』 第8巻第1号 昭15(1940)/1/1
 日記              昭31(1956)/3
 詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」『婦人公論』 第38巻第1号 昭29(1954)/1/1

一読して、多くの資料を読み込んでいらっしゃるな、と感じました。ひところ、その時々にもてはやされていた「文芸評論家」のエラいセンセイ方が、その人の著作なら売れるとふんだ出版社からの要請で書いたであろうもので、たしかにもてはやされるだけあって鋭い見方が随所に表れているものの、明らかに読んだ資料の数が少ないな、と思えるものが目立ちましたが(現在も散見されます)、大本氏、かなりマイナーな散文にまで目を通されているようで、感心しました。

光太郎以外にも、光太郎智恵子と交流のあった平塚らいてう、佐藤春夫、中原中也などが取り上げられており、興味深く拝読。しかし、定番の夏目漱石や与謝野晶子、宮沢賢治などがいないと思ったら、平成26年(2014)、同じ平凡社新書で出ていた『作家のごちそう帖』ですでに取り上げられていました。

賢治といえば、光太郎、その精神や芸術的軌跡には共鳴しつつも、「雨ニモマケズ」中の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」の部分は承伏できない、としています。特に戦後は、酪農や肉食を勧め、体格から欧米人に負けないように、的な発言も見られました。

光太郎と「食」に関しては、花巻高村光太郎記念館さんで、そのテーマによる企画展等も計画中だそうで、楽しみにしております。

さて、『作家のまんぷく帖』、ぜひお買い求め下さい。


花巻といえば、別件ですが、昨日ご紹介した4月2日の花巻での光太郎を偲ぶ詩碑前祭、昨日発行の『広報はなまき』にも記事が出ましたので、ご紹介します。

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【折々のことば・光太郎】

恐らく日本画は、いはゆる西洋画家によつて救はれるであらう。恐らく木彫は、いはゆる木彫家なる専門家によつてではなく、却つてその専門家の軽蔑する、思ひもかけぬ真の彫刻家の手によつて救はれるであらう。文章を救ふものは文章家ではなく、詩を救ふものはいはゆる詩人ではないであらう。これは逆説ともなりかねる程明白な目前の事実である。

散文「遠藤順治氏のつづれ織」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

その道の専門家は、専門性ゆえに固定観念に囚われ、新機軸を打ち出せないことが多いということに対しての警句でしょう。逆にしがらみを感じることのない門外漢が、新風を吹き込むことも確かにありますね。

遠藤順治は虚籟と号した綴織作家ですが、元々は智恵子と同じ太平洋画会に学んだ画家でした。光太郎はその織物作品に対し、まだ不十分なところがあるとしながらも高い期待を寄せ、遠藤のパトロンであった小沢佐助に木彫「鯰」を贈るなどして援助しています。

新刊です。
2014/8/1 新潮社(新潮文庫) 嵐山光三郎編 定価693円
 
『文人』シリーズの著者が、食に拘る作家18人の小説と随筆34編を厳選したアンソロジー。

これは旨い! 森鷗外、幸田露伴、正岡子規、泉鏡花、永井荷風、斎藤茂吉、種田山頭火、高村光太郎、萩原朔太郎、内田百閒、芥川龍之介、宮沢賢治、川端康成、稲垣足穂、林芙美子、堀辰雄、坂口安吾、檀一雄。食にまつわる短編と随筆。『文人』シリーズの嵐山光三郎が34編を厳選。
 
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昨年、同じく新潮文庫・嵐山氏の『文士の料理店』をご紹介しました。そちらと、それから旧著の『文人悪食』(ともに光太郎が扱われています)などは、嵐山氏の文章によるものでしたが、こちらは鷗外、子規らの「食」に関する作品を集めたアンソロジーです。
 
光太郎の作品は、詩「米久の晩餐」、同じく「梅酒」、随筆「こごみの味」が採られています。
 
少し安易かな、という気がしなくもありませんが、やはり原典を読むというのは大事なこと。ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月13日
 
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、実弟の藤岡孟彦に葉書を書きました。
 
孟彦は高村家四男として産まれましたが、藤岡家の養子になりました。植物学を専攻し、現在も続く茨城県の鯉淵学園で教鞭を執っていました。ご子息・光彦氏は健在で、毎年、連翹忌にご参加下さっています。
 
文面は以下の通り。
 
 此間は折角来られたのに大したお構ひも出来ず失礼しました、それでも此処の様子を見てもらつて本望でした、
 まだ今後何処へゆくか分りませんが当分はここにゐるつもり、後には北海道屈斜路湖の方へ移住するかも知れません。
 東京へは十月にゆき、半年ほど滞在の筈です。
 
「東京」云々は、十和田湖畔の裸婦群像制作を指します。像の完成後はまた岩手に帰るつもりでいたことがうかがえます。それどころか、さらに北海道への移住も考えていたようです。
 
しかし、健康状態がそれを許さず、裸婦像除幕後、短期間、岩手に帰ったものの、東京で療養せざるを得ない病状で、結局、東京で亡くなることになります。

一昨日、たまたま立ち寄ったコンビニで、コミックの単行本を買いました。

思い出食堂 特別編集 旅の味 なつかしい人々

2014年5月5日  少年画報社   定価 476円+税

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廉価ないわゆるコンビニコミックです。初版は今年5月でしたが、重版が並んでいました。
 
北は北海道から、南は沖縄まで、「旅の味」をテーマに、「佐世保バーガー」や「ほうとう」、「ゴーヤーチャンプル」など、各地の名物料理等をあつかった、29本の読み切りマンガから成っています。おおむね、各10ページです。
 
で、「浪江焼きそば」の中で、光太郎詩「樹下の二人」がモチーフに使われています。
 
これを購入したコンビニでは、立ち読み防止のために、ビニールのパッケージに入れられていました。
 
しかし、表紙に「浪江焼きそば」の文字を見つけ、「もしかすると、二本松や『智恵子抄』がらみの話になっているかも」と思い、購入しました。
 
帰ってから読んでみると、まさしくビンゴ。こういうときは痛快です。
 
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物語は、「浪江焼きそば」を看板メニューにしていた食堂の夫婦が、東日本大震災の犠牲になり、パン屋を開くのが夢だった息子が、自分の夢と、両親から受け継いだ「浪江焼きそば」の味を合体させ、「浪江焼きそばパン」を作る、というものです。
 
と、書いているだけで、食べたくなってしまいますが、どうやら架空のメニューのようです。
 
そもそも、「浪江焼きそば」とは、福島県双葉郡浪江町のご当地グルメ。極太の麺を使うのが特徴です。昭和30年(1955)頃には、すでにあったとのこと。
 
浪江町は、福島第一原発のある双葉町に隣接しており、東日本大震災後、町全域が「帰還困難区域」となりました。
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そして、多くの町民は二本松市に避難し、町役場も二本松市に仮庁舎を設置、今もその状態が続いています。上記画像は今年の4月現在のもの。震災から3年経っても、まだこの状態です。こういう状態でいながら、なぜ再稼働にこだわるのか、理解に苦しみます。そんなに原発が好きなら、永田町に作って下さい。
 
約20軒あった、「浪江焼きそば」を饗する店も、再開できたのは、二本松駅前の市民交流センター1階の「杉乃家」さんだけだそうです。
 
ちなみに当方、今日は、浪江町にほど近い、川内村の天山祭りに行って参ります。昨秋の草野心平を偲ぶ集い、かえる忌以来ですが、どれだけ復興が進んでいるのか、いないのか、この目で見てきます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月12日
 
明治40年(1907)の今日、農商務省の海外実業訓練生に任ぜられました。
 
光太郎は前年から欧米留学中で、この時、ロンドンにいました。もともと私費留学、現地で生活費を工面という苦学生でしたが、光雲の奔走により、海外実業訓練生任命となりました。レポートの提出が義務づけられましたが、代わりに毎月60円ずつ支給されるようになり、ぜいたくはできないものの、とりあえずの心配はなくなりました。

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