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現在発売中の『週刊朝日』さん。

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2ページの短いものですが「文豪たちが聞いた「玉音放送」」という記事が載っています。

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写真は載っていませんが、小見出し的に「五体をうたれるショックを受けた高村光太郎」。

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8月17日、『朝日新聞』や『岩手日報』に掲載された、詩「一億の号泣」に関し、光太郎の動向。その後の7年間の蟄居生活にも触れられています。

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「市内の鳥谷崎神社」とありますが、昭和20年(1945)当時はまだ花巻に市制が施行されていませんので、正しくは「町内」ですが。鳥谷崎(とやがさき)神社、「一億の号泣」についてはこちら

光太郎以外に取り上げられているのは、永井荷風、谷崎潤一郎、江戸川乱歩、高見順、武者小路実篤、井伏鱒二、三島由紀夫、川端康成、太宰治、佐藤春夫、吉村昭。
いかにもその人らしい、と思われるエピソードもあれば、意外な感のするそれもあり、興味深く拝読しました。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩とは不可避なり  短句揮毫  戦後

画像は昭和23年(1948)、詩人の真壁仁に贈った書。

昭和3年(1928)、当会の祖にして光太郎と最も交流の深かった詩人・草野心平の第一詩集『第百階級』の序文に、「詩人とは特権ではない。不可避である。」と書いた光太郎。「不可避」の語は他にも好んで使用していました。会話の中では口ぐせ的に「やみがたい」という語をよく使っていたそうですが、「不可避」と通じる部分が在るように思われます。

「不可避」一語の揮毫も存在しますが、『高村光太郎全集』の「短句」の項では、基本的に一語のみのものは登録されていません。

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光太郎が絡んでいるとは気づかず、紹介が遅れました。 

コレクション展「文学とビール―鷗外と味わう麦酒(ビール)の話」

期 日 : 2019年7月5日(金)~10月6日(日)
時 間 : 午前10時~午後6時
場 所 : 文京区立森鷗外記念館  東京都文京区千駄木1-23-4
料 金 : 一般 300円  20名以上の団体は240円  中学生以下無料
休 館 : 7月23日(火)、8月27日(火)、9月24日(火)

「とりあえずビール」と、現在では手軽に飲むことができるビール。江戸時代末に日本にもたらされたビールは、明治に入って本格的に醸造され始め、広く飲まれるようになったのは40年代以降のことでした。
鷗外は、日本ではまだビールが貴重だった明治17年から21年まで、陸軍軍医としてドイツに留学し、本場のビールを楽しみました。留学中の日記『独逸日記』では、鷗外が醸造所やオクトーバーフェスト(ビール祭り)を訪れたり、自ら被験者となって「ビールの利尿作用」について研究していたことが分かります。
こうした鷗外のビール体験は『うたかたの記』(明治23年)などの作品に生かされました。また、同時代の文学者たちもビールを作中に描きました。夏目漱石『吾輩は猫である』(明治38~39年)、太宰治『酒の追憶』(昭和23年)に見られるおもてなしや晩酌としてのビール、高村光太郎『カフエ、ライオンにて』(大正2年)に見られる酒場の様子など、文学作品には明治・大正から現代に通じる様々なビールのある風景が登場します。
本展では、鷗外のビール体験に触れると共に、文学作品に登場するビールのある風景を、所蔵資料から紹介します。この夏、ビールを切り口に文学作品を味わってみませんか。

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光太郎に関しては、小曲詩「カフエライオンにて」6篇の載った雑誌『趣味』第7年第2号(大正2年=1913)が展示されます。復刻版だそうですが。「カフエライオンにて」は、6篇中の4篇が「カフエにて」と改題され、第一詩集『道程』に収められました。

カフェ・ライオンは、明治44年(1911)、銀座に創業したカフェで、光太郎も足繁く通ったようです。美人女給が和服にエプロンという揃いの衣裳で給仕するのが売りでした。また、ビールが一定量売れると、店内のライオン像が吠える仕組みになっていたそうです。経営は変わりましたが現在もビアホール銀座ライオンとして健在です。

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左は雑誌『趣味』第7年第2号に送られたものと見られる詩稿(天理大学さん所蔵)、右は同誌に掲載された、光太郎によるカット。カフェライオンの絵です。

ところで「カフエライオンにて」といえば、過日ご紹介した『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」でも引用して下さいました。その際には、当方、引用部分が「カフエライオンにて」の一節と気づきませんでしたが、あとで気づきました。全文は以下の通り。天理大学さん所蔵の詩稿にも入っています。

 何もかもうつくしい
 このビイルの泡の奮激も
 又其を飲むおれのこころの悲しさも
 かうやつて
 じつと力をひそめてゐると
 何処からかうれしい声が湧いて来る
 酔つぱらひの喧嘩さへ
 リズムをうつてひびくんだ


また、やはり『岩手日報』さんの「風土計」で引用された随筆「ビールの味」(昭和11年=1936)の載った雑誌『ホーム・ライフ』第2巻第8号も「参考図版」扱いで展示品目録に載っています。パネル展示でしょうか。

それから、展示品目録に光太郎の作品が載った雑誌がまだありました。『ARS』第1巻第3号(大正4年=1915)、それから『スバル』9号(明治42年=1909)。『ARS』には光太郎による翻訳「ドユ モーパスサンの描いたロダン」、『スバル』にはやはり翻訳で「HENRI MATISSEの画論(一)」、それから裏表紙に戯画「屋根の草」が収められています。ただ、ビールとは無関係なので、他の誰かの作品でビールがらみの何かが載っているのでしょう。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

美ならざるなし   短句揮毫  戦前?

右の画像は戦後のものですが、おそらく戦前からこの句を好んだ光太郎、頼まれて色紙などに書く揮毫にしばしばこの句を選びました。
 
現在も複数の揮毫が遺されています。
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毎年、8月9日に女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町の広報誌『広報おながわ』さん。

今年は町立のつながる図書館さんで特別展「詩人・彫刻家高村光太郎と女川 ~えにしをつなごう~」も開催されるということで、女川光太郎祭と併せてご紹介下さいました。

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ありがとうございます。


もう1件。

茨城県筑西市の明野図書館さんの館報『花さき山』から。

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「音読会」というイベントで、光太郎を取り上げて下さるとのことで。

楽しみながら音読しよう☆ 音読会

期 日 : 2019年8月6日(金)/9月3日(火)
時 間 : 11:00~12:00
場 所 : 筑西市立明野図書館  茨城県筑西市海老ヶ島2120-7
料 金 : 無料

☆図書館スタッフと一緒に、気軽に発声練習や音読を楽しみませんか?
  8月は、「高村光太郎」がテーマです。
 声に出して読むことで、脳と心に刺激を与えましょう!
※申し込みは不要です。当日直接明野図書館 視聴覚室にお越しください。
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筑西市といえば、東京美術学校彫刻科で、光太郎の父・光雲に木彫を学び、後に陶芸に転じて大成した板谷波山の故郷です。今回のイベントとの関連はないのでしょうが。

それぞれお近くの方(遠くの方も(笑))、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

美にして義ならざるなし     短句揮毫 時期不明

手持ちの書籍類から、この揮毫の画像をざっと探したのですが、見つかりませんでした。

ところが、花巻高村光太郎記念館さんの所蔵品の中に、「美」と「義」が逆になった「義にして美ならざるなし」という書があるのに気がつきました。

短句の類は『高村光太郎全集』第11巻、第20巻にまとめられており、こちらは第11巻に載っています。第11巻は初版が昭和33年(1958)。その時点で編集に当たられた当会顧問・北川太一先生、「美」と「義」を取り違えたかな、という気もします。「義にして美ならざるなし」とした方が、意味的にはすっきりします。

「いや、間違いなく「美にして美ならざるなし」という揮毫もあるぞ」という情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご教示いただけると幸いです。

昨日に引き続き、新刊情報です。

詩と出会う 詩と生きる

2019年7月25日 若松英輔著 NHK出版 定価1,700円+税

言葉とこころを結びなおす
言葉と人は、どのような関係にあるのか。詩に込められた想いを知ることで、何を得ることができるのか。困ったとき、苦しいとき、悲しいとき──私たちを守ってくれる言葉を携えておくために。文学・哲学・宗教・芸術──あらゆる分野の言葉を「詩」と捉え、身近に感じ、それと共に生きる意味を探す。

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目次
 はじめに 言葉は心の糧
 第1章 「詩」とは何か 岡倉天心と内なる詩人
 第2章 かなしみの詩 中原中也が詠う「おもい」
 第3章 和歌という「詩」 亡き人へ送る手紙
 第4章 俳句という「詩」 正岡子規が求めた言葉
 第5章 つながりの詩 吉野秀雄を支えた存在
 第6章 さびしみの詩 宮澤賢治が信じた世界
 第7章 心を見つめる詩 八木重吉が刻んだ無音の響き
 第8章 いのちの詩 岩崎航がつかんだ人生の光
 第9章 生きがいの詩 神谷美恵子が問うた生きる意味
 第10章 語りえない詩 須賀敦子が描いた言葉の厚み
 第11章 今を生きる詩 高村光太郎が捉えた「気」
 第12章 言葉を贈る詩 リルケが見た「見えない世界」
 第13章 自分だけの詩 大手拓次が開いた詩の扉
 第14章 「詩」という民藝 柳宗悦がふれたコトバの深み
 第15章 全力でつむぐ詩 永瀬清子が伝える言葉への態度
 おわりに 「異邦人」たちの詩歌
 詩と出会うためのブックガイド

010昨年、NHKラジオ第2放送さんで放送のあった「NHKカルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる」のために書き下ろされたテキストを大幅に加筆、さらに新章を加えての出版です。

テキストでは柳宗悦と光太郎で一つの章でしたが、光太郎と柳、それぞれで独立した章に分割、分量はそれぞれ2倍ほどに膨らんでいます。内容構成の骨組み的にはほぼ同じようですが。

新章としては、光太郎と深かった永瀬清子などが新たに加わりました。その他、テキストの頃から取り上げられていた、岡倉天心中原中也吉野秀雄宮沢賢治八木重吉などが光太郎と関わった人物です。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

最近村の人達が木を切つて電柱をつくり、会社にたのんで、小生の小屋に電燈をひいてくれました。谷川を越えてはるばる電線をひいて来ました。反つてゐる電柱が立つてゐます。おかげで夜が明るくなり、仕事に甚だ好都合です。
雑纂「消息」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

昭和20年(1945)の秋に、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に入った光太郎でしたが、昭和24年(1949)まで3年以上、電気のないランプ生活を送っていたわけです。

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昨年の花巻高村祭で、電線を引く工事を手伝ったという、藤原秀盛さんのお話を聞くことができました。

 新刊です。

まなの本棚

2019年7月23日 芦田愛菜著 小学館 定価1,400円+税

運命の1冊に出逢うためのヒントに! 「本の出逢いは人との出逢いと同じ」 年間100冊以上も読み、本について語り出したら止まらない芦田愛菜が本当は教えたくない“秘密の約100冊"をご紹介。世代を超えて全ての人が手に取ってみたくなる考える力をつけたい親御さんと子供たちにも必読の書です。

 Q 本の魅力にとりつかれた初めての1冊は?
 Q 一体、いつ読んでいるの?
 Q どんなジャンルの本を読むの?
 Q 本を好きになるにはどうしたらいい?
 Q 好きな登場人物は?

スペシャル対談 ・山中伸弥さん(京都大学iPS細胞研究所所長 教授) ・辻村深月さん(作家)も収録!

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目次
 プロローグ 宝探しみたいに本の世界へ入っていきます
 第1章 語り出したら止まらない! 芦田愛菜の読書愛
  いちばん最初の読書の記憶
  村上春樹さんに私、ハマってしまったみたい!
  読書はお風呂や歯磨きと同じ生活の一部
  3~4冊を同時並行で読むことも
  背表紙がキラリと光って見えるんです
  本の感想に“正解”はなくていいのかも
  紙の本の手触りが好き
  4コマまんが ちょっとの間にも読んでいます・読むのをがまんしてる時は
 第2章 本好きへの扉を開いた6冊
  『おしいれのぼうけん』
  『不思議の国のアリス』
  『都会のトム&ソーヤ』
  『ツナグ』
  『言えないコトバ』
  『高瀬舟』
 第3章
  まなの本棚から84冊リスト
  ここからスタート!の絵本 『もこ もこもこ』 『ぐりとぐら』
  小学生で夢中になった児童書 『天と地の方程式』 『若おかみは小学生!』
   『魔女の宅急便』『怪盗クイー
ン』 『怪人二十面相』
  次々と読破したシリーズもの 『落語絵本』シリーズ
   『ストーリーで楽しむ日本の古典』シリーズ 『小学館版
学習まんが人物館』シリーズ
  世界を広げた海外児童文学 『赤毛のアン』 『あしながおじさん』
   『ハリー・ポッター』シリーズ
  興味がつきない体の不思議 『学習まんが ドラえもん からだシリーズ』
  気になったらすぐに開く図鑑 『花火の図鑑』 小学館の図鑑NEO『星と星座』
   『宇宙』『岩石・鉱物・化石』
  ゾワッとするSF小説 『ボッコちゃん』 『声の網』
   対談 山中伸弥先生×芦田愛菜 科学はどこまで進歩していいのでしょうか
  歴史がもっと知りたくなる 『平安女子の楽しい!生活』 『空色勾玉』 『白狐魔記』
  熱い友情や“スポ根”大好き 『夜のピクニック』 『バッテリー』 『よろこびの歌』
  『風が強く吹いている』 『リズ
ム』
  限界へ!自分との闘い 『DIVE!!』
  嫉妬やコンプレックス 『反撃』 『ふたり』
  きょうだいや家族への思い 『一人っ子同盟』 『西の魔女が死んだ』 『本を読む女』
  日本語って奥深い! 『舟を編む』 『ふしぎ日本語ゼミナール』
  言葉や伝えるということ 『きよしこ』 『ぼくのメジャースプーン』
  辻村ワールドにハマるきっかけに 『かがみの孤独』
   対談 辻村美月さん×芦田愛菜
      「小説は一人では成り立たない」ってそういうことなんですね!
  止まらなくなる!海外ミステリー 『シャーロック・ホームス』シリーズ
   『モルグ街の殺人』 『Xの悲劇』 『そし
誰もいなくなった』
  日本文学〈~平安時代〉神話や貴族の生活 『古事記』 『日本書紀』 『風土記』
   『源氏物語』
  日本文学〈江戸時代〉エンタメ充実!  『曽根崎心中』 『雨月物語』
   『南総里見八犬伝』『東海道中膝栗毛』
  日本文学〈明治時代~〉人生や恋に悩んだり  『福翁自伝』 『舞姫』
   『吾輩は猫である』『坊っちゃん』 『ここ
ろ』 『小僧の神様』 『たけくらべ』
   『友情』 『伊豆の踊子』『雪国』 『細雪』『智恵子抄』 『一握の砂』
   『雨ニ
マケズ』 『高野聖』 『破戒』 『夜明け前』
  太宰治より私は芥川龍之介派! 『蜘蛛の糸』
  戦争について考えるきっかけに 『ガラスのうさぎ』 『永遠の0』
  海外文学 答えは一つじゃないはず 『賢者の贈り物』 『変身』 『レ・ミゼラブル』
  そしてこれからも 『海辺
カフカ』
 コラム 好きな登場人物
  男性編 湯川学『探偵ガリレオ』 内藤内人『都会のトム&ソーヤ』
   片山義太郎『三毛猫ホームズの推理』 
玄之介『あかんべえ』 堂上篤『図書館戦争』
   松本朔太郎『世界の中心で、愛をさけぶ』
  女性編 有科香屋子『ハケンアニメ!』 スカーレット・オハラ『風と共に去りぬ』
   ジョー・マーチ『若草物語』 
赤羽環『スロウハイツの神様』 林香具矢『舟を編む』
 エピローグ 本がつないでくれるコミュニケーションや出逢い

現在、中学3年生、15歳の芦田愛菜さん。読書好きというのは以前から公言なさっていたようで、今回の出版につながったようです。これまでに読んだ本の中から約100冊を紹介するというコンセプトで、この年で約100冊が紹介できるというのも驚きです。しかもラインナップを見ると、古今東西、かなり幅広く網羅されており、感心します。

013光太郎の『智恵子抄』を取り上げて下さいました。ただ、紹介はほんのちょっとですが(笑)。それから、シリーズとして、『小学館版学習まんが人物館』シリーズ。村野守美さんという方の作画、当会顧問・北川太一先生の監修で、「高村光太郎・智恵子 変わらぬ愛をつらぬいた二つの魂」がラインナップに入っています。

芦田さん、光太郎が尋常小学校の課程を卒業した、荒川区立第一日暮里小学校さんのご出身です。

同校では、「先輩光太郎に学ぶ」ということで、様々な取り組みをして下さっています。特に6年生は、総合的な学習の時間等で、光太郎に関する調べ学習などを1年間にわたり行っています。当方、芦田さんの次の学年の児童さん達が6年生だった年度に、授業を拝見したり、ゲストティーチャーに招かれたりしました。

そこで芦田さん、6年生の時に(或いはもっと以前に?)これらを読まれたのでしょう。

また、同校では図書館教育にも力を入れ、それが評価されて、平成27年(2015)には、当時のケネディ駐日大使が学校訪問に来られたことも。学校としての図書館教育の充実も、芦田さんの本好き、そして、本書に書かれた芦田さんの「読書観」(なかなか核心を突いた鋭いものの見方です)にも関わっているのかも知れません。

さて、夏休みとなり、定番の読書感想文の宿題に悩まれている小中高生の皆さん、親御さんも多いかと存じます。『まなの本棚』、そういう方々向けのブックガイドとしても好著です。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

翻訳は共同の性質を持つ。気のついた人が訂正するやうな慣はしにしたい。

雑纂「誤訳です」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

大正5年(1916)に刊行した訳書『ロダンの言葉』につき、中野重治が訳文に疑念を呈し、それを読んだ光太郎が調べ直してみるとその通りだったとのこと。すぐさまその誤りを雑誌『新潮』に発表したわけです。

後の翼賛詩→連作詩「暗愚小伝」の問題についてもそうですが、光太郎の偉いところの一つは、自らの誤りを謙虚に認め、訂正できることだと思います。

テレビ放映情報です。

にほんごであそぼ

NHK Eテレ 2019年7月30日(火) 6時35分~6時45分  再放送 17時00分~17:10

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。今回は、玉屋鍵屋、文楽/智恵子は東京に空が無いといふ「あどけない話」高村光太郎、ヨシタケ×山陽のおよおよ/「蟹工船」小林多喜二、歌/浜辺の歌、五十三次ロケンロー。

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公式サイトに拠れば、「今週は、リクエストを頂いた回の再放送です!」だそうで、調べてみましたところ、平成29年(2017)6月29日に初回放映のあった回のようです。

文楽の三代桐竹勘十郎さんによる人形浄瑠璃仕立てで、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の冒頭2行「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」が、50秒間で演じられます。

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この番組、時折、光太郎詩を取り上げて下さるので、ありがたい限りです。再放送や過去の映像の使い回しも多いのですが、それでもありがたく存じます。

ちなみにここ数年ですと、「人に」(大正元年=1912)、「道程」(大正3年=1914)、「」(大正2年=1913)、「冬が来た」(大正2年=1913)など。それらの回も再放送を望みますし、新作もどんどん作っていただきたく存じます。そして、主な視聴対象である小さいお子さん達に、光太郎の名と作品を刻みつけていただきたいものです。


ちなみに明晩はNHK BSプレミアムさんで、やはり「あどけない話」に関わる「偉人たちの健康診断東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」が放映されます。併せてご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

ロダンに対する敬愛の情が此の訳をさせたのは素よりの事である。面白づくと一緒に考へられては堪らない。

雑纂「「ランスの本寺」の正誤と訂正、其他」より
 大正4年(1915) 光太郎33歳

翌年、単行書として刊行される光太郎訳の『ロダンの言葉』に関して。「面白づく」は「おもしろいというだけで、無責任にすること。興味本位」。そんなものではないのだよ、という宣言です。

新刊……といっても2ヶ月近く経ってしまっていますが……昨日、たまたま行った新刊書店で見つけました。

泥酔文学読本

2019年5月30日 七北数人著 春陽堂 定価2,400円+税

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酒と文学はよく似ているーー 陶酔を誘う文学と酒は、ともに摂取した者を別世界へ連れて行ってくれる。 酒も文学も、その世界の心地よさにハマってしまうと、抜け出せなくなる。 だから、読み続けるしかない、飲みつづけるしかない…… 古今東西の文学作品に描かれてきた、様々なる酒と多様なる酔い方を紹介。 すべての文学と酒愛好家に送る珠玉のエッセイ!!

【登場する作家たち】※五十音順
赤江瀑、赤塚不二夫、亜樹直、芥川龍之介、阿刀田高、アポリネール、アンダソン(シャーウッド)、アンデルセン、アンブローズ・ビアス、飯田蛇笏句、池澤夏樹、石川桂郎、石田波郷、色川武大、ヴァーリイ(ジョン)、ヴァレリー、宇能鴻一郎、大藪春彦、岡本かの子、小川未明、開高健、甲斐一敏、梶井基次郎、片岡義男、香山滋、北方謙三、北原白秋、グリーン(グレアム)、ゲーテ、源氏鶏太、古今亭志ん生、小酒井不木、コッパード、小松左京、コルタサル(フリオ)、坂口安吾、坂口綱男、佐藤垢石、沢木耕太郎、サン=テグジュペリ、司馬遼太郎、澁澤龍彥、杉浦日向子、スティーブンソン(R・L)、ダール(ロアルド) 、高村光太郎、太宰治、田中康夫、谷崎潤一郎、種田山頭火、チュツオーラ(エイモス)、筒井康隆、デフォー(ダニエル)、中井英夫、中里介山、中島らも、中原中也、中村彰彦、ニエミ(ミカエル)、萩原朔太郎、原田禹雄、火野葦平、フィニイ(ジャック)、藤枝静男、藤本義一、ブラウン(フレドリック)、ブラッドベリ(レイ)、プルースト、古谷三敏、ヘンリー(O)、星新一、牧野信一、三浦哲郎、水谷準、宮沢賢治、宮本百合子、村上春樹、莫言、森鴎外、山川健一、山川方夫、山本昌代、夢枕獏、吉田秋生 吉田健一、吉行淳之介、四方屋本太郎、ロート(ヨーゼフ)、若山牧水

目次
はじめに 陶酔の月ジュース
I 泥酔する作家たち
 坂口安吾の酒 べらんめえ文学論 青春のように悲しいビール 電気ブラン今昔
 酒中花と水中花 ダダイスト辻潤の放蕩 スペインの酒袋 宿酔日和 酒の音色
 末期の水 風狂の吹き溜まり 生きいそぎの記 妄想の酒場 バーボンにはピスタチオを
II 物語のなかのアルコール
 村上春樹の酒 サバイバルはラム酒で ヤシ酒が飲みたい! 夕焼け色のワイン
 シャンパン・バブル オハイオ州ワイン町 マッコリこわい 不老不死の酒
 シャンパンと三鞭酒 雪見酒 鶴血酒 珠玉探求 ウイスキーボンボン XYZは最期の酒
III 泥酔の文学誌
 聖なる酔っぱらいの伝説 楽園へのいざない バーは異界への入口 魔人のいる店
 カフェ・カクテール 悪魔の酒 少年と酒とロック おそるべき中国文学
 壺の中のユートピア 猩々ども! 酔わせて倒せ! 酔って候 骨酒ヒレ酒スルメ酒
 シネフィルの呪文 別れに乾杯! テイスティングは超能力か 白酒と青酎
 ウイスキー坊主 硬派なナンパ本
IV 酩酊のその先へ……
 付喪神の戯れ 酒器愛玩 酒虫の秘技 菊の精の契り 鏡のある酒場 人魚は酒が好き
 髑髏盃 海も川も酔っぱらう 人を呑んだ話 恐怖の宴会芸 河童の酒宴 赤い酒の霊力
 終わりの日々を…… α次元にいる智恵子
あとがき
作家・作品名一覧

010酒文化研究所さんという団体が発行の『月刊酒文化』という会員誌に連載中のものの既発表分だそうです。古今東西の文学作品等から、「酒」にまつわる一節を書き出し、そこから広がる酒談義・作家論・人生論といった趣です。

光太郎が名誉ある大トリです(笑)。「α次元にいる智恵子」という項で、メインは詩「梅酒」(昭和15年=1940)の一節。それプラス『智恵子抄』や『智恵子抄その後』から、「亡き人に」(昭和14年=1939)、「元素智恵子」(昭和25年=1950)、「案内」(同)、「智恵子と遊ぶ」(昭和27年=1952)から詩句が引用され、戦後の花巻郊外旧太田村での山小屋生活、それを切り上げて取り組んだ生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作などに触れられています。

また、この項以外でも「サバイバルはラム酒で」という項で、やはり旧太田村での蟄居生活に筆が及んでいます。この項、メインはR・L・スティーブンソンの『宝島』なのですが。

その他、光太郎智恵子と交流のあった面々――岡本かの子、北原白秋、中原中也、萩原朔太郎、宮沢賢治、森鷗外など――も登場します。

「パンの会」の盟友だった白秋はともかく、ストイシズムのかたまりのような(笑)賢治は、酒と関係ないのでは……と思ったら、童話「やまなし」の最後で、川に落ちた梨が発酵して酒が出来るという話(「海も川も酔っぱらう」)や、同じく童話「雪渡り」の、狐の幻灯会で「お酒をのむべからず」という話が出て来た件(「雪見酒」)でした。

ぜひお買い求めください。


【折々のことば・光太郎】

明治十六年三月生 東京美術学校出身 彫刻自営

雑纂「略歴」全文 昭和16年(1941) 光太郎60歳

詩集『智恵子抄』に載せた略歴です。

昨日ご紹介した「高村光太郎自伝」も短いものでしたが、こちらはさらに上を行く短さ(笑)。いったいに光太郎、ある時期まで自らの来し方には興味があまりない、というスタンスだったように思われます。

昨日は都内に出、神保町で開催の「明治古典会七夕古書大入札会2019」、一般下見展観を拝見して参りました。年に一度の古書業界最大の市(いち)で、出品物を手に取って見ることができます。

会場は東京古書会館さん。開場の午前10時少し前に到着しましたところ、入場待ちの方々で、既に長蛇の列。関心の高さが伺えます。

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入り口で手荷物を預け、まずは4F、文学関連のコーナーへ。出品目録に出ていた光太郎関連の2点を手に取って拝見しました。

まず出版社文一路社の社主、森下文一郎に宛てた昭和12年(1937)の書簡1通。『高村光太郎全集』には漏れていたものです。

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画像は昨年の『日本古書通信』さんにも掲載され、内容も把握していましたが、やはり光太郎が手づから書いた封筒と便箋を手にし、その息吹が感じられました。想像していたより便箋が薄く小さいのが意外でした。


もう1点、詩稿。こちらはガラスケースに収められていましたが、係員の方に開けていただき、チェック。

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昭和19年(1944)に刊行された『歴程詩集2604』のための浄書稿で、「突端に立つ」(昭和17年=1942)、「或る講演会で読んだ言葉」(同)、「朋あり遠方に之く」(昭和16年=1941)、「三十年」(昭和17年=1942)の四篇でした。他に「戦歿報道戦士にささぐ」(昭和17年=1942)、「われらの死生」(昭和18年=1943)もあったはずですが、無くなっています。

こちらも光太郎一流の味のある文字でした。


続いて2Fへ。文学関係でなく、「近代文献資料」というコーナーに、光太郎の筆跡を含む出品物。こちら、目録に載っていましたが、文学、美術関連の項でなかったので見落としていました。

戦時中の日章旗です。

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光太郎の筆跡は左上、短歌一首が揮毫されています。

高きものいやしきをうつあめつちの神いくさなり勝たざらめやも」と読みます。昭和19年(1944)の雑誌『富士』に他の揮毫の画像が載ったのが、確認できている初出です。もしかすると作歌時期、そしてこの日章旗自体、時期的にもう少し遡るかもしれません。

この手の日章旗のお約束で、寄せ書きとなっています。光太郎以外には、横山大観、若槻礼次郎、そして野口英世と交流の深かった政治家・石塚三郎の筆跡。

石塚は新潟県北蒲原郡安田村(現阿賀野市)の出身で、同村の素封家・旗野家(政治学者・吉田東伍の生家)とも縁が深い人物でした。旗野家といえば、光太郎智恵子ともいろいろ関連がありました。

まず、吉田東伍の姪に当たる旗野八重が、日本女子大学校で同じ年に入学した智恵子と親しかったそうですが、卒業直後の明治40年(1907)に病没しています。その妹・スミも日本女子大学校に進み、智恵子から絵の手ほどきを受けました。智恵子は卒業後、画家・松井昇の助手として母校に勤務していた時期があります。大正2年(1913)には、智恵子が新潟の旗野家に滞在、共にスキーに興じたりもしたそうです。

その旗野家に逗留していた智恵子に宛てて送った結婚前の光太郎からの封書が奇跡的に現存しており(当会顧問・北川太一先生がお持ちです)、時折取り上げられます。

ちなみに今月25日、NHK BSプレミアムさんで放映予定の「偉人たちの健康診断」が「東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」ということで、この手紙も取り上げられるかも知れません。5月に番組制作会社の方から連絡があり、その際は北川先生ご所蔵の智恵子から母・セン宛の書簡を取り上げたいというお話でした。のちほどまたご紹介いたします。

スミはのちに立川の農事試験場長を務めた佐藤信哉と結婚、光太郎夫妻に農作物などを贈ります。大正14年(1925)の光太郎詩「葱」は、佐藤夫妻から贈られたネギを題材にした詩です。

その旗野家と縁が深かった光太郎と石塚が同じ日章旗に揮毫しているわけで、何か匂います。日章旗を贈られた人物が誰なのか不明でして、何とも言えませんが……。

で、日章旗、額に入れられて展示されていました。タテヨコ1メートル前後、保存状態も良好でした。こちらは平成22年(2010)の七夕古書大入札会にも出品されましたが、現物を見るのは初めてでした。その前年だったかの連翹忌で、光太郎令甥の故・髙村規氏に、「こんなものが出て来て鑑定を頼まれたんだけど……」と、写真を見せられまして、在りし日の規氏を思い起こしました。


さらに今年は、2Fの一角に、出品目録には掲載されなかった追加出品の品々。そちらにも光太郎書簡が出ていました。智恵子の最期を看取った元看護師で姪の宮崎春子と、その夫で光太郎と交流の深かった宮崎稔にあてたもので、三十五通。おそらく全て『高村光太郎全集』に収録されているものだと思われます。

それぞれの出品物、光太郎以外のものも含め、収まるべきところに収まってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

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十三文半甲高。馬の糞をふんづけたのでのつぽとなる。神経過敏のやうな遅鈍のやうな、年寄のやうな、若いやうな、在るやうな無いやうな顔。

アンケート「自画像」全文 昭和5年(1930) 光太郎48歳

雑誌『美術新論』に、画像がそのまま載りました。

「十三文半」は足のサイズ。一文が約2.5㌢ですので、33.75㌢となります。ちなみに故・ジャイアント馬場さんの「十六文キック」は40㌢というわけですね。

当方よく存じませんが、馬糞を踏むとのっぽになるという迷信というか俗信というか、そういうものがあったのでしょうか。実際、光太郎の身長は180㌢以上だったようです。当時としては大男です。

新刊です。

今宵は誰と -小説の中の女たち-

2019年6月23日 喜国雅彦著 双葉社 定価1,600円+税

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安部公房の『砂の女』、太宰治の『女生徒』、ツルゲーネフの『はつ恋』、S・キングの『ミザリー』など──名作に登場する個性的で魅力的な女性たちが、もし自分の夢に登場したら……独自の視点でブンガクのおもしろさを描く、全く新しい文芸漫画。

目次

 第一話   砂にまみれた女  『砂の女』  安部公房
 第二話   目覚めない女   『眠れる美女』   川端康成
 第三話   無垢ゆえに大胆な女  『潮騒』   三島由紀夫
 第四話   初めてには手強すぎる女  『はつ恋』  ツルゲーネフ
 第五話   男の憎しみを吸う女  『痴人の愛』  谷崎潤一郎
 第六話   レモンを噛む女  『智恵子抄』  高村光太郎
 第七話   空を舞う女  『夢鬼』  蘭郁二郎
 第八話   裏表がある女  『女生徒』  太宰治
 第九話   聖書に背く女  『瓶詰地獄』  夢野久作
 第十話   二人の女  『青い麦』  コレット
 第十一話  胸に字を書く女  『芋虫』  江戸川乱歩
 第十二話  すれ違った女  『外科医』  泉鏡花
 第十三話  無言の女  『幻の女』  W・アイリッシュ
 第十四話  弁当箱がほしい女  『二十四の瞳』  壺井栄
 第十五話  目玉を愛する女  『眼球譚』  C・バタイユ
 第十六話  肌を競う女  『銀の匙』  中勘助
 第十七話  匂い立つ女  『郵便配達は二度ベルを鳴らす』  J・M・ケイン
 第十八話  書き直させる女  『ミザリー』  S・キング
 第十九話  オリーブオイルを使う女  『夕暮れまで』  吉行淳之介
 第二十話  残り香の女  『蒲団』  田山花袋
 第二十一話 詩を要求する女  『ゲーテ詩集』  ゲーテ
 第二十二話 洞窟の女  『トム・ソーヤーの冒険』  M・トウェイン
 第二十三話 喜びをみつける女  『少女パレアナ』  E・ポーター
 第二十四話 母という女  『泥の河』  宮本輝
 第二十五話 強くて弱い女  『サマータイム・ブルース』  S・パレツキー
 あとがき

版元の双葉社さんから発行されている月刊誌『小説推理』に、平成28年(2016)から連載されている同名の漫画の単行本化です。

およそ文学とは無縁だった何の変哲もないサラリーマンである主人公の青年が、福島に転勤となり、引っ越し先のアパートで、前の住人が忘れていった安部公房作『砂の女』を何の気なしに読んだところ、すっかり文学にはまってしまい、文学好きな上司や居酒屋で知り合った女性に勧められ、さまざまな文学作品を読み進めるようになる、という設定です。

そして感受性豊かな主人公、毎回、読んだ作品の登場人物などがその夜の夢に現れ、自分も物語の世界に入り込んだり、時にオリジナルのストーリーと異なるハチャメチャな展開に巻き込まれたり……そこでうなされて目が覚めるのがお約束、というストーリー展開がなされます。

一話が8頁前後と短く、その限られたスペースでそれぞれの作品の魅力を伝えるのはさぞ大変だろうと思いつつ読みました。物書きの立場で言わせていただくと、原稿の依頼に対しては「あれも書きたい、これも入れたい」と、結局規定の字数ギリギリになることが多いもので、そう感じます。それでも作者の喜国氏、いつもうまくまとめています。

さて、第六話が「レモンを噛む女 『智恵子抄』 高村光太郎」。先述の『小説推理』の平成29年(2017)2月号に掲載されました。

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主人公、詩集を読んだことがないそうで……取っつきにくいという先入観を抱きつつ、手に取ったのは新潮文庫版『智恵子抄』。

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しかし……

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ハナ水まで垂らし号泣してくれてありがとう、という感じです(笑)。

このあと、お約束の夢に智恵子が現れ、という展開になりますが、気になる方はぜひお買い求め下さい(笑)。

当方、全二十五話で取り上げられている作品のうち、半分ほどは若い頃に読んだ作品で、「そうそう」と思いながら読みました。3分の1ほどはあらすじは知っていたよ、という作品でしたが、細かな部分はよく知らず、「ああ、そうだったのか」という感じ。題名すら知らなかった作品もあり、こんな小説があったんだ、と思いました。ブックガイドとしても好著です。

それにしても、紹介文にあるとおり、「個性的で魅力的な女性たち」だから成り立つような気がします。男性だって、「個性的で魅力的」な人物はたくさんいるのですが……。やはり我々男性にとって、女性は「永遠の謎」なのです(笑)。ジェンダー論者のコワいおばさまたちは、こういう風潮がけしからん、と息巻きそうですが(笑)。



【折々のことば・光太郎】


詩を書かないでゐると死にたくなる人だけ詩を書くといいと思ひます。


アンケート「詩界に就て」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

そっくりそのまま現代の詩壇に贈りたい言葉です(笑)。

昨日は神奈川県内に出ておりました。

午前中、横浜の神奈川近代文学館さんで調べ物。主に同時代の人々が残した光太郎回想の類を調査して参りました。当会刊行の『光太郎研究』にて少しずつご紹介いたします。

その後、相模原(最寄り駅は町田でしたが)のホテルラポール千寿閣さんへ。

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こちらの敷地内にあるチャペルで行われた「兼古隆雄が奏でる ギター名曲の楽しみⅥ ギター独奏と詩の朗読」を拝聴して参りました。

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兼古氏は町田でクラシックギターの教室をなさっている方です。そしてゲストに俳優の山本學さん。

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第1部は兼古氏によるソロ演奏。バッハを除いて現代の曲でしたが、哀愁や情熱がこもり、時に軽妙洒脱、時に意外な曲の展開、また、教会というあまり広くない、しかし落ち着いた雰囲気のスペースにそれがマッチし、実にいい感じでした。

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第二部で山本學さんがご登場。

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はじめに山本さんが自選の詩を朗読、その後、兼古氏がそれぞれの詩に合うと感じられた曲を演奏というくり返しでした。特にF・ターレガの「アデリータ」など、たしかにぴったりでした。

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藤村の「初恋」(明治29年=1896)に続いて、光太郎の「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。前年の愛妻・智恵子の臨終を謳った絶唱です。

山本さん、前半は意識して早口でたたみかけるような朗読をなさったのだと思いました。そうすることで、消えゆく智恵子の生命の炎を目のあたりにし、冷静でいられない光太郎の激情が表されていたように感じました。終末部分の「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」は、智恵子歿後の現在、というわけで、一転してゆったり落ち着いた、しかし、痛切な独白といった感で読まれ、まとめをつけられました。さすがベテラン、と、当方、感心しきりでした。

サプライズが一つ。最後の栗原貞子「生ましめんかな」(昭和21年=1946)が終わったあと、会場の万雷の拍手に応えてのアンコールとなりまして、さて、山本さん、何を朗読されるのだろう、と思っておりましたところ、お口を開かれ、出て来た題名が「荒涼たる帰宅」。思わず当方、「おお」と反応してしまいました。昭和16年(1941)、光太郎がおそらく詩集『智恵子抄』出版に際して書き下ろした、智恵子葬儀の当日を謳った詩です。

どうも山本さん、正規のプログラムに入っていた詩篇も含め、「生と死」的なモチーフのそれを集められたようで、そうするとたしかに「荒涼たる帰宅」ですね。ここで「道程」(大正3年=1914)やら「樹下の二人」(同12年=1923やらは入ってきません。

終演後、山本さんとお話しさせていただきました。さらにあつかましくも、1990年代に山本さんの朗読でリリースされた光太郎詩集のCDを持参しており、ジャケットにサインしていただきました。家宝にします(笑)。

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しかし山本さん、「こんなCDが出ていたんだね。記憶にないや」とのことで、意外と物事にこだわらない豪快な一面もおありなのかな、という気がしました。さらには「’90年頃? まだ「詩」の何たるかが分かっていなかった頃だなぁ」。「いやいや、そんな事は……」と申し上げておきましたが(笑)。

連翹忌の営業もさせていただきました。来年の連翹忌のご案内を差し上げようと存じます。ぜひいらしていただきたいものです。ちなみにマネージャーの方は、連翹忌ご常連の女優・一色采子さんと親しくされているということでした。

それはともあれ、兼古氏ともども、今後も変わらぬご活躍を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

一、躊躇なしにロマン ロラン  二、彼が世界で最も高い精神であるが故に、彼よりも博学な、賢明な又新らしい主義をもつ人は尠くないが、彼ほど清冽の心を持ちながらその英雄主義に他を凌駕する意識のほとんど感じられない点は全く人類の宿弊を破つてゐる。

アンケート「私の好きな世界の人物」全文 大正15年(1926) 光太郎44歳

「一」の細かな質問内容は、「世界各方面の現代名士中貴下の好まれる人物氏名」、「二」は同じく「何う言ふ点を好まれるか」でした。

この手の人物評には、光太郎自身が目指した、あるべき人物像が投影されているような気がします。

毎年この時期に行われる、古書業界最大の市(いち)、七夕古書大入札会。出品物全点を手に取って見ることができる下見展観が、7月5日(金)午前10時〜午後6時、7月6日(土)午前10時〜午後5時に行われます。会場は神田神保町の東京古書会館さんです。

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ネット上に出品目録がアップされています。今年は光太郎の作が少なく、2点のみでした。

追記 当方が気づかなかったものがあと1点、さらに目録未掲載の追加出品で1点出ました。

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詩稿9枚。昭和18年(1943)に書かれた詩「突端に立つ」他4篇だそうです。平成28年(2016)にも出品されましたし、さらに遡れば昭和63年(1988)にも出品されました。ただし、昭和63年(1988)の時点では全12枚、詩は6篇。昭和19年(1944)に刊行された『歴程詩集2604』のための浄書稿のようで、詩6篇であればそれでコンプリートでした。その後、1篇3枚が欠けてまた市場に出て来ているわけです。

『歴程詩集2604』の目次に拠れば、掲載されたのは「或る講演会で読んだ言葉」(昭和17年=1942)、「われらの死生」(昭和18年=1943)、「突端に立つ」、「戦歿報道戦士にささぐ」(昭和17年=1942)、「三十年」(同)、「朋あり遠方に之く」(昭和16年=1941)です。時期が時期だけに、すべて翼賛詩といっていいものです。ちなみに上記画像右半分の「突端に立つ 他五篇 高村光太郎」の部分は、『歴程詩集』編集にあたった平田内蔵吉の筆跡です。

追記 実際手に取って確認したところ、「突端に立つ」「或る講演会で読んだ言葉」「朋あり遠方に之く」「三十年」の四篇でした。

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この手の大量に書き殴られた翼賛詩こそが光太郎詩の本質・心髄であると、涙を流してありがたがる愚か者も少なくないのですが、なぜかこの詩稿、回転寿司のように市場を回り続けています。

「或る講演会で読んだ言葉」(昭和17年=1942)は、少国民文化協会主催講演会で光太郎自身が朗読したもの。確認できている活字になった初出は昭和19年(1944)の光太郎詩集『記録』です。

「三十年」(昭和17年=1942)も、朗読が最初で、こちらは岩波書店の回顧三十年感謝晩餐会で朗読されました。右はその際の写真です。「三十年」というのは岩波書店の創立三十周年ということで、これのみ、翼賛色のあまり濃くない作品ですが、それでも「敵を知るもの敵を破る。/われら民族の理念、/炳として今世界の文化に紀元を画する。」「断じて折伏すべきもの、斯くの如きものことごとく撃つべし。」といった勇ましい(?)文言が散見されます。


続いて書簡が一通。

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出版社文一路社の社主、森下文一郎に宛てたもので、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には収録されていないものです。昨年、『日本古書通信』さんに掲載された八木書店さんの在庫目録に載りました。智恵子が亡くなる前年、昭和12年(1937)のもので、「智恵子がまだ悪かつたりしますので尚更小生は腐つて居ます」といった一節もあります。

入札最低価格が「ナリユキ」となっていますが、5万円からスタートのオークション形式で競りにかかるそうです。今年の目録ではこの「ナリユキ」が非常に目立ちます。このところ、高い価格で最低価格を設定しても売れないようで、どうもアホノミクスの破綻による不景気やデフレスパイラルの影響から来ているのかな、という気がします。

他に、商品名に「光太郎」の文字は入っていませんが……。

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光太郎が序文を書いた黄瀛の詩集『瑞枝』(昭和9年=1934)。入札最低価格5万円というのは安すぎるような気がします。


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光太郎が題字を揮毫した中原中也詩集『山羊の歌』(昭和9年=1934)。永井龍男宛の献呈署名入りで、さすがにこちらは根強い人気を保つ書籍でもあり、入札最低価格100万と強気です。


先ほども書きましたが、出品物全点を手に取って見ることができる下見展観が、7月5日(金)午前10時〜午後6時、7月6日(土)午前10時〜午後5時に、神保町の東京古書会館さんで行われます。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

温泉は世の中で一番好きなものですが、どこの温泉といふ定めはありません。地面の中からどんどん湧き出してゐるところが一番ありがたいだけです。
アンケート「地面の中から」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

雑誌『旅行と文芸』に載ったアンケート回答から。アンケートのコーナー自体に題名がなかったようで、「地面の中から」というのは『高村光太郎全集』収録の際に仮に付した題名と思われます。質問は「どこの温泉が好きですか」でした。

昨日の『スポーツ報知』さんから。

八村塁、バキバキに割れた携帯の画面でNBAを夢見た高校時代…担任の手記

 NBAドラフトで日本人初の1巡目指名を受けた八村塁(21)が在籍した宮城・明成高で2、3年時に担任を務めた佐藤祐子教諭(47)が、スポーツ報知に手記を寄せ、スター候補の素顔を明かした。八村は、ジャケット裏地の左側に父の故郷である西アフリカ・ベナンをモチーフにした柄、右側には母の故郷・日本の富士山が描かれたものを着用。家族への感謝を胸に夢舞台を迎えた。
 * * * *
 初めて塁と会ったのは入試の時でした。私は試験監督で面接を担当。中学3年生の彼に、「将来の夢は何ですか?」と聞きました。真っすぐな目で、「アメリカに行くことです。アメリカでプロのバスケットボール選手になりたいと考えています」と答えたことを、今でも鮮明に覚えています。2、3年生と担任をしましたが、常に「NBAに行きたい」と。夢がブレることはありませんでした。
 彼の休憩時間は全てNBAの動画。昼食を食べて少し余った時間など、ちょっとの空き時間はバキバキに割れた携帯電話の画面を食い入るように見て、「バスケは最高! 本当に楽しい」と言っていました。ゴンザガ大で最後の試合を終えた時は、「昨日負けて全部終わりました。終わって気づいたのは、僕はこのチームが大好きだったんだなって。今まで人生の中でこれ以上ないくらい泣きました」と連絡が来ました。ある賞を受賞した時に、「おめでとう。忙しいから返信はいらないよ」と送っても、「ありがとうございます! 本当にうれしいです」と。忙しいのにきちんと返信をくれる律義な子です。
 英語の勉強はよく頑張っていました。成績は良かったのですが、話すことはなかなかできなくて。昼食を早く食べて米国人の先生と毎日勉強していました。米国へ行って少したった頃、彼から「先生、初めて英語で夢を見ました!」とメールが。最初は「なかなか話せない」と聞いて心配でしたが、やっと英語が身についてきたと実感したようで、うれしかったんだと思います。
 4人きょうだいの長男で家族思いの一面もあります。家庭科の裁縫の授業では、作ったきんちゃく袋を、「一番下の妹にプレゼントとする!」と張り切って。器用な方ではないから、刺しゅうはクラスの女子生徒に手伝ってもらいながら、大きな手で一生懸命作っていました。妹さんの誕生日が近かったので、手紙を添えて送りました。後日「手紙の字が汚すぎてビックリした!って妹に笑われました」と、うれしそうに報告してくれました。
 県の高校総体翌日の遠足は朝から土砂降りでしたが、フリーサイズなのに上半身までしかないカッパを着て、誰よりも楽しそうにジェットコースターに乗っていました。素直で正直で愛嬌(あいきょう)があって。彼がバスケの活動で休みの日には、クラスメートが「今日は塁がいないんだ。寂しい~」って。みんなの人気者です。
 「常に自分のためとは思わず誰かのため、人のためにプレーをして、子供たちの英雄になってほしい」と話したことがあります。「僕も、そう思い続けたい」と言っていました。米国へ出発する時には、高村光太郎の「道程」という詩と、「一意専心」という四字熟語を贈りました。「僕の後ろに道は出来る」ことを実現できる人であってほしい。あなたがパイオニアになってほしいという思いを込めて。今でも覚えてくれているようです。新しい世界を切り開いていく塁であってほしいと願っています。

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日本人初となる、米プロバスケットリーグNBAドラフト会議での1巡目指名を勝ち取った、八村塁選手。ぜひ大暴れをしてほしいものですし、彼の切りひらいた「道」、彼一人で終わることなく、後に続く人がでてきてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

西洋楽  概してフランス音楽。

アンケート「わが好む演劇と音楽」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

光太郎がその3年半にわたる留学中、パリに滞在していたのは明治41年(1908)から翌年にかけて。

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その頃、フランスで活躍していた作曲家というと、クラシック系では以下のあたりでしょうか。サン・サーンス、フォーレ、ドビュッシー、サティ、ラヴェル……。プーランクらフランス6人組はまだ少年時代でした。

ベルリオーズは既に没していましたが、光太郎、後にその楽曲を題材とした「ラコツチイ・マアチ」(大正10年=1921、原題「ベルリオの一片」)という詩も書いていますし、他の作品でもいろいろ言及しています。フォーレ、ドビュッシー、ラヴェルも光太郎文筆作品にその名が現れますし、サン・サーンスはそれプラス、光太郎は彼の肖像写真の絵葉書を使ったりもしました。パリ滞在中はオペラなども時折観たというので、彼等の作品などに接していたのでしょう。

クラシックではなくシャンソンですと、ロートレックの絵のモデルにもなったブリューアン。光太郎は明治44年(1911)の「雪の午後」という詩に、彼の名を挙げ、その歌の歌詞を引用しています。俗語をそのまま取り入れ、簡単には訳せないような……。おそらく、どこかのカフェかキャバレーでその歌に接し、パリからレコードを持ち帰ったのではないかと推定されます。

まずは神奈川県から朗読系のイベント情報です。

 

兼古隆雄ギター名曲の楽しみ

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期 日   : 2019年6月30日(日)
会 場 : ホテルラポール千寿閣 
            相模原市南区上鶴間本町3-11-8
時 間 : 15時開場 / 15時30分開演
料 金 : 前売券4,000円
      当日券4,500円

 第一部 ギターソロ
  A.ヨーク    子守歌
  J.S.バッハ
       前奏曲、サラバンド、メヌエット
  A.バリオス   郷愁のショーロ
  L.ブローエル  11月のある日
   穴戸睦夫   前奏曲とトッカータ

 第二部 語りとギターの饗宴
  共演 俳優 山本學
   島崎藤村   初恋
   高村光太郎  レモン哀歌
   中原中也   骨
   長田 弘   イツカ向コウデ
   栗原貞子   生ましめんかな 

神奈川と東京多摩地区の情報誌『タウンニュース』さんに案内記事が出ていました。

ギターと朗読を楽しむ 兼古隆雄さんが弾く

 ホテルラポール千寿閣で30日(日)、ギター教室も営む兼古隆雄さんと「下町ロケット」にも出演した俳優・山本學さんの演奏会が催される。午後3時30分開演(3時開場)。
 第一部はギターソロ。A・ヨーク「子守歌」やJ・S・バッハ「前奏曲」「サラバンド」などの名曲が演奏される。第二部は朗読とギターのコラボ。島崎藤村「初恋」や高村光太郎「レモン哀歌」など、ベテランの語りの芸を披露する。2人のコラボは好評で、10月には西日本のツアー企画が進行しているという。チケット前売4000円。(問)兼古隆雄ギター教室【電話】042・722・6740


山本學さん、1990年代に学研さんからリリースされた朗読CD全集「サウンド文学館パルナス」で、光太郎詩の朗読をなさっています。

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久しぶりに拝聴しましたが、渋い、しかし明るいお声、ゆったりした間の取り方、さすがです。

ぜひ足をお運びください。


もう1点。同様の朗読系イベントで、過日ご紹介した石川県金沢市での「『智恵子抄』詩人高村光太郎と智恵子~本田和の語り」につき、『中日新聞』さんが報じましたのでご紹介します。

詩の朗読×チェロ演奏 市民芸術村 智恵子抄の世界表現

010 音楽に合わせて物語や詩の朗読をする金沢市の本田和(かず)さんの公演「『智恵子抄』詩人高村光太郎と智恵子」(北陸中日新聞後援)が十七日、金沢市民芸術村であり、七十人の来場者が光太郎の詩の世界とチェロの演奏を楽しんだ。
 智恵子抄は、光太郎が妻への思いをつづった詩集。愛にあふれる詩を、本田さんが情感を込めて読み上げた。大阪フィルハーモニー交響楽団のチェリスト林口真也さんが重厚な音色を奏で、詩に込められた感情を引き立たせた。
 公演は、本田さんの活動を支援する団体「きくはなすの会」が主催した。(小坂亮太)


時折書いていますが、光太郎の詩、意外と朗読向きです。全国の朗読愛好者の皆さん、ぜひぜひ取り上げて下さい。


【折々のことば・光太郎】

御質問の件簡単なる敬語を以て御答へ仕るは仕極難事と存じ候。甚だ失礼ながら右御断り申上候。

アンケート「現代名流の日本画観」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

「敬語」は、言葉の種類としての謙譲語とか尊敬語とかの敬語ではなく、尊敬の念をもっての讃辞、といった意味でしょう。「褒めることが出来ないからお答えできません」ということだと思われます。

光太郎、どうも同時代の日本画に関しては目の敵にしていたようで、あちこちで「古くさい」「生命感に欠ける」的な批判を繰り返していました。

「仕極」は「至極」の誤りでしょう。

いわゆるライトノベル系です。

本屋のワラシさま

2019年5月25日 霜月りつ著 早川書房(ハヤカワ文庫JA) 定価760円+税

元書店員の啓(ひらく)は、ある事件がきっかけで“本が読めなくなってしまう”。が、入院した伯父の代わりに、彼が営む書店の店長をすることに。その初日、店内の座敷童子(ワラシ)人形がいきなり動き、あれこれ書店繁盛の教育的指導をしてきた!啓はワラシとぶつかりつつ、子どもへの贈物ですれちがう夫婦の悩みや、何年も取り置きされたままの“赤毛のアン”の謎など、お客様の問題を解決し……出逢いとドラマが山積みのマチナカ書店物語。

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人間関係のトラブルからのトラウマで本が読めなくなり、それまで務めていた大手書店を退職した主人公。伯父の入院に伴い、代理で伯父の小さな書店を任されます。すると、店内に飾られていた市松人形が座敷ワラシと化して上から目線で(笑)しゃべりはじめます。江戸時代の貸本屋の頃から「いい本がある書店」に代々受け継がれてきた「本屋の守り神」だそうで。ワラシのアドバイスに従い、書店を訪れる客たちの心の傷に寄り添う中で、主人公の心の痛みもやがて癒され……。

実在の様々な書籍が効果的に使われています。帯で紹介されているのは以下の通りです。

 『書店猫ハムレットの休日』、〈氷と炎の歌〉シリーズ、『大聖堂』、『だるまちゃんとてんぐちゃん』、『超辛口先生の俳句教室』、『認知症は治せる』、『アンの想い出の日々』、〈ペリー・ローダン〉シリーズ、『三幕の殺人』、『東京バンドワゴン』、『高村光太郎詩集』(「智恵子抄」)、『おさるのジョージ』、『星の陣』、『書店主フィクリーものがたり』

『高村光太郎詩集』は、岩波文庫版です。物語の終盤、主人公の「本が読めない」という症状が治るきっかけの一つとなり、恢復したあと初めて読んだ本、という設定。(「智恵子抄」)となっているのは、主人公が小学生時代、父親の本棚にあった『智恵子抄』(新潮文庫版?)を手に取り、全ては理解できなかったものの「レモン哀歌」に感動し、それが本好きになった一つの源流、的なエピソードもあるからです。

詩集でモチーフになっているのは光太郎詩集だけで、朔太郎でもなく賢治でもなく中也でもなく、よくぞ光太郎にしてくれた、と感謝しました。

それにしても、作者・霜月さんの「本」や、街の小さな個人経営の「本屋さん」に対する深い愛情的なものが溢れている一篇です。こんな本屋さんが実際にあればいいな、と思わせられます。座敷ワラシには遭遇したくありませんが(笑)。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

或る芸術上の用途の為め、近々に少し纏まつた金圓が入要になりましたので、あまり好みませんが画会と言ふものをつくりました

雑纂「高村光太郎画会」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

油絵頒布会の広告的な。50号の100円が最高額、以下30号で50円、25号は35円、12号に20円、8号を10円、そしてサイズは明記されていない「スケツチ板」が4円とのこと。前金で3分の1ほど、完成後に残金を支払うというシステムです。父・光雲の勧める東京美術学校教授のポストや銅像会社設立などをすべて断り、智恵子との結婚生活に入ることとなって、自分で稼がなければならず、こういったこともやりました。

実際、ぽつぽつ注文があり、作品も残っています。下は福島の素封家で、中村彝と深い交流のあった伊藤隆三郎が購入したもの。

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下記は、新潟の素封家で、『明星』同人でもあった渡辺湖畔の注文で描いた「日光晩秋」に関して。

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しかし、光太郎自身「あまり好みませんが」と書いたとおり、積極的に芸術を換金することに対しては常に抵抗があったようで、画廊の琅玕洞同様、事業としてはものになりませんでした。

朗読系のイベント情報です。

『智恵子抄』詩人高村光太郎と智恵子~本田和の語り

期    日  : 2019年6月17日(月)
会    場 : 金沢市民芸術村 PIT2 ドラマ工房 石川県金沢市大和町1-1
時    間 : 19:00開演~20:00終演(開場18:30)
料    金 : 前売券2000円 当日券2500円
問い合わせ  : きくはなすの会(090-2373-5458)

明治・大正・昭和を生きた詩人の高村光太郎とその妻智恵子の愛の軌跡を描いた『智恵子抄』を語る。チェロの音色がその世界を広げる。
語り:本田和 チェロ:林口眞也

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本田さんという方、当方、直接は存じ上げませんが、CDを一枚持っております。

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平成21年(2009)リリースの「本田和語りの世界 セロ弾きのゴーシュ」。表題作はご存じ宮沢賢治の童話ですが、他に「智恵子抄―語りとギターのための―」「蜘蛛の糸―独奏チェロと語りのための―」が収録されています。ひさびさに聴いてみましたが、艶のある美声で、情感あふれる朗読。いい感じでした。恋愛時代の「僕等」(大正3年=1914)に始まり、結婚後の「あどけない話」(昭和3年=1928)、智恵子が心を病んでからの「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)、「山麓の二人」(昭和13年=1938)、その葬儀を謳った「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)、最後が絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)でした。アコースティックギターのオリジナル音楽と共に語られ、音楽はそれぞれの詩に合わせ、はじめおだやかで叙情的に奏でられていたものが、徐々に緊迫感を増す奏法となり、やがて静謐に幕を閉じるという感じでした。

今回はチェロとのコラボだということですが、やはりこうしたドラマチックな構成が為されるのではないでしょうか。

また近くなりましたらご紹介しますが、来月には神戸での公演もあるとのことです。お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

ここは温泉もいいが、宿の建築が甚だ面白く、私は毎日荒れ果てた無人の部屋部屋を見てたのしんだ。昔の宿の主人が建築道楽であつたさうで、木口の太さといひ、組方といひ、いかにも岩手独特の手丈夫な趣が大まかに出てゐてよい。
散文断片「(私は温泉が)」より
 
昭和20年代前半(1940年代後半) 光太郎66歳頃

010光太郎歿後に見つかった原稿用紙5枚(以降欠)の文章から。題名はなく、今のところ雑誌等に発表されたことも確認できていません。

「ここ」は、花巻南温泉郷の一番奥、西鉛温泉です。昭和20年(1945)、花巻の宮沢賢治の実家に疎開した翌日から結核性の肺炎で高熱を出し、一カ月の臥床。床上げの後、予後を養うために一週間滞在しました。当時は明治館改め秀清館という一軒宿で、明治22年(1889)の創業。この頃は、賢治の母の実家が経営していました。当時としては珍しい、四階建ての日本家屋で、建築設計にも手を染めていた光太郎、その造作に感心しきりでした。

戦後には県の職員保養所を兼ね、昭和47年(1972)には閉鎖。残念ながら建物は現存しません。その後、愛隣館という観光ホテルが建ち、現在は「西鉛温泉」という呼称は廃され、「新鉛温泉」と称されています。

先週土曜日の『朝日新聞』さんの書評面で、新潮文庫版『高村光太郎詩集』が取り上げられました。「ひもとく」という、基本、新刊ではなく過去の書籍を紹介するコーナーです。過日のパリ・ノートルダム大聖堂での火災にからめてでした。

(ひもとく)ノートルダム大聖堂 永遠への足場、固める再建へ

 四月一五日のパリのノートルダム大聖堂火災のあと、フランス・メディアがこぞって話題にしたのは、ユゴーの歴史小説『ノートル=ダム・ド・パリ』だった。確かにそこには、この火事を予見していたような場面が出てくる。
 「人びとはみな目をあげて、教会の頂上を見あげた。目にはいったのは不思議な光景だった。中央の円花窓(えんかそう)よりも高く、いちばん高いところにある回廊の頂上には、大きな炎があかあかとして、二つの鐘楼のあいだを、渦巻く火花をとび散らせながら立ちのぼっていた」
 これはしかし、実際の火事の描写ではない。小説の登場人物で、異形の鐘番カジモドが、寺院に逃げ込んできた流浪の美少女エスメラルダを追っ手の暴徒から守ろうと、その場にあった木材を塔の上から眼下の広場に投げ落とし、溶かした鉛で火をつけている光景が火災のように見えたというのだ。
 この小説が一八三一年の発表当時の人びとを何よりも驚かせたのは、フランス・カトリックの総本山であるノートルダム大聖堂を、堂々と反カトリック的な舞台にしてみせたことだった。エスメラルダに邪恋し、思いをとげるために手段を選ばない司教補佐クロード・フロロの、破廉恥なふるまいが物語の軸だったものだから、ローマ教皇庁からたちまち禁書にされた。

 ■空白埋める文学
 今度の火災後、フランスのテレビ局の特番を動画で見ていたら、旧知の歴史家ピエール・ノラが大聖堂の建物自体がこの小説の影の主人公だと指摘していた。確かにユゴーは敬意をこめ、無数の石工が数世紀にわたって営々として築き上げたこの建物の歴史、外観、内部、塔からの眺望、全体の魔力を見事に語っている。ノラはまた、後陣の尖塔(せんとう)が火だるまになって崩壊したとき、マンハッタンのツインタワー・ビル炎上のときに似た衝撃を受けたと語っていた。
 テロと失火、災厄の原因の違いにもかかわらず、同じことを感じたのは彼だけではない。あのとき、誰しも無意識のうちにもっている永続性への漠然とした信頼が瞬時に揺らぎ、言葉を失った。その空白を埋める手がかりを求める人びとが、宗教や国籍とは無関係に、過去の文学に目を向けたのだった。
 こうした心の動きのことを、森有正はすでに半世紀前の『遙(はる)かなノートル・ダム』で、「体験」から「経験」への促しとして捉えていた。彼は十数年間ノートルダムのそばに暮らしながら、大体は浅薄なものにとどまりかねない「体験」を「定義」できるような言葉をみつけ、確固とした「経験」に変えることに腐心していた。そんな彼の目に、この大聖堂は個々人の生を本当にかけがえのないものとする「経験」という概念の美しい化身と映っていた。

 ■19世紀にも修繕
 森有正よりさらに半世紀前、高村光太郎が「雨にうたるるカテドラル」で崇敬の対象としたのもノートルダム大聖堂だった。「ノオトルダム ド パリのカテドラル、/あなたを見上げたいばかりにぬれて来ました、/あなたにさはりたいばかりに、」。そして詩人はこの寺院に「真理と誠実との永遠への大足場」を見るとともに、当然のようにカジモドとエスメラルダのことを思い浮かべている。
 実は反教権的だった大革命のあと、ノートルダムは荒れはて、十九世紀の四〇年代になってこの度崩壊した尖塔をふくむ修繕が始まったのだが、これには文学作品の力に加え、国の歴史記念物保存委員としてのユゴーの貢献があった。新たな修繕は、今言われている一過性の次期パリ五輪のためではなく、是非「永遠への大足場」を固めるものになってほしい。

 ◇にしなが・よしなり 東京外国語大学名誉教授(仏文学) 44年生まれ。著書に『「レ・ミゼラブル」の世界』『カミュの言葉』など。

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詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)が掲載されているということで、新潮文庫版の『高村光太郎詩集』が取り上げられています。

初版は昭和25年(1950)、光太郎存命中でした。編集は光太郎と交流のあった伊藤信吉が務めています。昭和43年(1968)の第33刷で改版となりました。同41年(1966)、同じ新潮社さんから刊行された『高村光太郎全詩集』との整合を図ったためと思われます。こちらの編集にも伊藤が携わっていました。他には当会の祖・草野心平、当会顧問・北川太一先生、そしてやはり光太郎と交流の深かった尾崎喜八でした。

現在流通している版も、昭和43年(1968)改版を踏襲しているのだと思われますが、平成14年(2002)からは新潮文庫として活字のサイズを9.25ポイント(創刊時は7.5ポイント)と大きくしていますので、そのあたりの改訂があったかも知れません。おそらくそれに伴い、カバーも智恵子紙絵を使用したデザインに変更されたのではないでしょうか。

ちなみに当方、新潮文庫版『高村光太郎詩集』は2冊持っています。

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左は昭和51年(1976)の第46刷。現在、数千冊ある光太郎関連蔵書のうちの記念すべき入手第2号です。第1号は同じ新潮文庫版『智恵子抄』。当時は小学生でしたが、まさかその後、自分が光太郎顕彰方面に進むとは夢想だにしていませんでした(笑)。ちなみに消費税などという無粋なものがなかった当時の定価は200円ぽっきりでした。

右は平成12年(2000)の第87刷。ミレニアムということで、「新潮文庫20世紀の100冊」というキャンペーンがあり、その1冊に選ばれ、スペシャルカバーが付けられて販売されました。しかし、中身は従前通り。ただ、カバー裏表紙面に関川夏央氏による書き下ろし特別解説が付いています。この時点では定価400円+税でした。現在は税込み529円ということになっています。

新潮文庫版以外で、「雨にうたるるカテドラル」が収録されている文庫版の光太郎詩集、さらに絶版になっていないもの、となると、他に3種類あります。

岩波文庫版『高村光太郎詩集』。初版はやはり光太郎生前の昭和30年(1955)で、光太郎自身の校訂が入っています。編集は光太郎と交流の深かった美術史家・奥平英雄でした。現在の定価は600円+税です。

集英社文庫で『レモン哀歌 高村光太郎詩集』。平成3年(1991)初版。林静一氏が表紙絵を描いています。同じく476円+税。

それから角川春樹事務所さん発行のハルキ文庫『高村光太郎詩集』も絶版にはなっていないようです。平成16年(2004)初版で、税込み734円。

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あとは文庫版としては絶版になってしまっているようです。角川文庫、社会思想社現代教養文庫、旺文社文庫、中公文庫にそれぞれラインナップがあったのですが。ただ、古書市場には出ているでしょう。

現在も出ているもの、細々とでも、版を重ねていってもらいたいものです。


【折々のことば・光太郎】

人間の手による生命の創造が可能になつても、生きて動き、生れて死ぬいのちがこの世にある限り、人間は芸術によるいのちの創造を決してやめないだらう。
散文「生命の創造 ――アトリエにて8――」より
 昭和30年(1955) 光太郎73歳

主に造形芸術を指しての言ですが、言葉による詩のような芸術でも、同じことが言えるような気がします。

光太郎終焉の地・東京中野から朗読系イベント情報です。
会 場 : 古民家asagoro 東京都中野区若宮3丁目52-5
時 間 : 昼の部 13:30~15:30    宵の部 16:00~18:00
料 金 : ¥3,000

月を撮り続けているカメラマン、河戸浩一郎による映像作品の上映会です。月の映像詩の作品数本の上映と朗読を交えた映像作品の上演を行います。(朗読:蓑毛かおり)

今回はVol.8、全15回開催予定の折り返し地点でもあるので、いつもの作品上映に加え、新しい試みとして、高村光太郎の「智恵子抄」を取り上げ、月と絡めてご紹介します

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なかなかシャレオツなイベントのようですね。

確かに『智恵子抄』収録の詩篇の中には、月を詠み込んだものがいくつかあります。

まず結婚前、恋愛時代の作から。

 七月の夜の月は/見よ、ポプラアの林に熱を病めり  (「或る夜のこころ」 大正元年=1912)

 あなたは女だ/男のやうだと言はれても矢張女だ/あの蒼黒い空に汗ばんでゐる円い月だ/世界を夢に導き、刹那を永遠に置きかへようとする月だ  (「おそれ」 同)

 御覧なさい/煤烟(ばいえん)と油じみの停車場も/今は此の月と少し暑くるしい靄(もや)との中に/何か偉大な美を包んでゐる宝蔵のやうに見えるではないか/あの青と赤とのシグナルの明りは/無言と送目との間に絶大な役目を果たし/はるかに月夜の情調に歌をあはせてゐる  (同)

 瓦斯(ガス)の暖炉に火が燃える/ウウロン茶、風、細い夕月  (「或る宵」 同)

何となく、月の持つ一種の神秘性を智恵子に仮託しているようにも思えます。

その後は『智恵子抄』中に月はしばらく登場しません。次に月が現れるのは、智恵子の葬儀を謳った「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)。

    荒涼たる帰宅007 (2)

 あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
 智恵子は死んでかへつて来た。
 十月の深夜のがらんどうなアトリエの
 小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
 私は智恵子をそつと置く。
 この一個の動かない人体の前に
 私はいつまでも立ちつくす。
 人は屏風をさかさにする。
 人は燭をともし香をたく。
 人は智恵子に化粧する。
 さうして事がひとりでに運ぶ。
 夜が明けたり日がくれたりして
 そこら中がにぎやかになり、
 家の中は花にうづまり、
 何処かの葬式のやうになり、
 いつのまにか智恵子が居なくなる。
 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
 外は名月といふ月夜らしい。

ほぼ一切の感情を表す単語を排し、客観描写に徹しながら、しかしそれがかえって深い喪失感を表しているように思えます。葬儀は10月8日。たしかにちょうど中秋の名月の頃ですね。

ちなみにこの詩は『智恵子抄』刊行(昭和16年=1941)に際して書き下ろされたと推測されています。したがって、実際の智恵子の葬儀より3年近く経ってから書かれたものですが、まるでその場で書いているような臨場感が感じられます。

おそらく、このあたりを朗読で取り上げて下さるのでしょう。ありがたいかぎりです。


【折々のことば・光太郎】

ロンドンからパリへ来ると、西洋にはちがひないが、全く異質のものではない、自分の要素もいくらかはまじつてゐるやうな西洋、つまりインターナシヨナル的西洋を感じて、ひどく心がくつろいだ。魚が適温の海域に入つたやうな感じであつた。

散文「父との関係2 ――アトリエにて3――」より
昭和29年(1954) 光太郎72歳

そして、そのパリで、光太郎は芸術家として、また、人間として、開眼したということになるわけです。

昨日は、都内に出ておりました。駒場の日本近代文学館さんで調べ物の後、赤坂のサントリーホールさんへ。過日ご紹介した、第35回アイメイトチャリティーコンサートを拝聴。

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こちらは東京パイロットクラブさんというボランティア団体の主催行事でした。「パイロット」は一般的な「航空機等の操縦者」の意ではなく、「水先案内人」という本来の意味から転じ、社会全体の水先案内的にさまざまなボランティア活動に取り組むということだそうです。ちなみに同会の初代会長は神近市子。その後の歴代会長には村岡花子や平林たい子といった錚々たる名が並んでいます。一昨年、105歳で亡くなった日野原重明医師も名誉会員だったそうで。

「アイメイトチャリティーコンサート」は、同会の主要な活動の一つ。アイメイト(盲導犬)育成活動への助成を行うためのものとのこと。

昨日は、以前からこのコンサートに出演されてきた女優の一色采子さんが「智恵子抄」の朗読をなさるというので、はせ参じた次第です。

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開場前から長い行列。大ホールではなくブルーローズ(小ホール)での開催でしたが、キャパ400席弱の7割ほどが埋まったでしょうか。

開演前の一コマ。

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かつては美智子さまが皇后陛下時代にいらしたことも何度かおありだそうで、昨日ももしかしたら、と思っていましたが、それはありませんでした。ただ、お嬢様の黒田清子さんがお見えでした。黒田さんはほぼ毎年いらしているようです。

一色さん、まずは第1部の最後でご登場。「詩と音楽のマリアージュ 高村光太郎作「智恵子抄」より」ということで、ピアニスト田中健さんの奏でるショパンの楽曲に乗せ、「人に」(大正元年=1912)、「あどけない話」(昭和3年=1928)、「樹下の二人」(大正12年=1923)、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)の4篇を朗読なさいました。

一色さんの朗読を拝聴するのは、一昨年、二本松の智恵子の生家での催し以来2度目でしたが、凛とした中にも情感溢れる朗読で、いい感じでした。何度も書いていますが、一色さんのお父様の故・大山忠作画伯が智恵子と同郷で、智恵子をモチーフにした作品も複数遺され、そうしたご縁で智恵子顕彰にも一役かわれている次第です。

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第2部では、オペラの名曲の数々。その進行役を一色さんが務められました。

出演された音楽家の皆さん、非常にハイレベルでした。

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第2部のピアノ伴奏でご出演の渕上千里氏、前述の二本松での一色さんの朗読に際し、電子ピアノで伴奏をなさっていましたし、かつて故・平吉毅州氏作曲の混声合唱組曲「レモン哀歌」CD(平成11年=1999 フォンテック)に、ピアノで参加されていました。

実際にアイメイト(盲導犬)と共に生活されている音楽家の方の演奏もありました。その方々の演奏中、ステージでおとなしく座っている姿はほほえましいものでした。

インタビューもあり、ピアニストの高橋雅枝さんという方、右手の点字の楽譜を左手で読みながら右手の練習を、右手で左手の点字の楽譜を読みながら左手の練習をなさり、それぞれを覚えてから両手で演奏されるということで、なるほど、そういうふうにするのかと、初めて知りました。視覚障害のあるピアニストの方、皆さんがそうなさっているのでもないのでしょうが。

終演後のカーテンコール。アイメイト君も真ん中に写っています。

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さらに一色さんとお話しさせていただき、こちらも。

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なかなか見聞の広まる経験となりました。


【折々のことば・光太郎】

街を歩いて、あちこちで見かけた詩のかけらをこの冬中に詩集にまとめたい。すさまじいもの、浅間しいもの、いくつにも分れているような美をひつくるめた面白さだな。都会人の心なら、だれでも知つている東京の魅力だ。ほんとうは東京を礼賛したかつたんだが、街をうたえばどうしてもエレジーになる。結局、東京はそういうところなんだ。

談話筆記「新春放談」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

それを詩集にまとめるという構想は実現しませんでしたが、前年には「東京悲歌」という詩も書いた光太郎。岩手花巻郊外旧太田村で過ごした7年間の間に浄化されたその眼には、「東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ」(「あどけない話」(昭和3年=1928)という智恵子の気持ちが実感できたのではないかと思われます。

光太郎詩の朗読を含む演奏会情報です。

第35回アイメイトチャリティーコンサート

期    日 : 2019年5月25日(土)
会    場 : サントリーホールブルーローズ(小ホール)  東京都港区赤坂1-13-1
時    間 : 開場12:30 開演13:00
料    金  : 5,000円 全席自由 収益は公益財団法人アイメイト協会へ寄付

プログラム
 第1部
        会長挨拶
       ピアノ独奏 高橋雅枝(アイメイト)
       ソプラノ独唱 大石亜矢子(アイメイト)
       お話「アイメイトと共に」 アイメイト使用者
       詩と音楽のマリアージュ 高村光太郎作「智恵子抄」より
                    朗読 : 一色采子 ピアノ : 田中健

 第2部 オペラコンサート~オペラの名曲を集めて~
       構成・演出 : 原純  ピアノ : 水谷真理子/田中健/渕上千里
       語り : 一色采子   バイオリン独奏 : 松井利世子
       モーツァルト「ドン・ジョバンニ」より    ドニゼッティ「ルチア」より
       サン・サーンス「サムソンとデリラ」より  ヴェルディ「オテロ」より 他
       ソプラノ:鎌田滋子、大石亜矢子、加賀山弥生  メゾソプラノ:仲野玲子
       テノール:工藤和真    バリトン:大貫史朗、ヴィタリ・ユシュマノフ

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「アイメイト」は、いわゆる盲導犬ですが、公益財団法人アイメイト協会さんは、「盲導犬という呼び方では、「利口な犬が盲人を連れて歩いている」と受け取られがち」とのことで、「アイメイト」という呼称を使用しているそうです。

女優の一色采子さんによる「智恵子抄」抜粋の朗読がプログラムに入っています。「智恵子抄」系は、一昨年、二本松の智恵子の生家で朗読されています。何度かご紹介していますが、一色さんのお父様の故・大山忠作画伯は智恵子と同郷の二本松ご出身。智恵子をモチーフにした作品も複数遺されています。その遺作の数々が寄贈されて設立されたのが、二本松駅前の大山忠作美術館さん。一色さんが名誉館長です。

一色さん、アイメイト活動へのご協力も以前からされていたとのことで、このコンサートへのご出演も毎回のようになさっているようです。以前には現在の上皇后さま(当時は皇后陛下)もご臨席下さったということです。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

そんなに食事にやかましい僕が、お酒を飲むのは感心できないが、まあ、一つぐらい悪いことをしなくちゃ……なんでも完全というのは危険である。

談話筆記「たべものの話」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した直後のインタビューから。栄養を考え、基本的に自炊生活を続けた光太郎ですが、夜は当会の祖・草野心平の経営する居酒屋「火の車」などで杯をあけることもたびたびでした。

「令和」初日の昨日、「令和」最初の遠出ということで、当会の祖・草野心平を顕彰するいわき市立草野心平記念文学館さんにお邪魔して参りました。同館では先月から企画展「草野心平 蛙の詩」が開催されています。

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心平の詩というと、蛙をモチーフにしたものが多く、今回の企画展、いわば一周回って原点回帰のような感じがしました(同じことは、平成最後の遠出となった信州安曇野碌山美術館さんでの企画展示「荻原守衛生誕140周年記念特別企画展 傑作《女》を見る」にも言えるような)。ある意味、大事なことです。

心平の蛙の詩は、200篇以上だそうで、ほぼ制作順に、それらの掲載雑誌、詩集、詩稿などがずらり。パネルでは代表的な詩の全文が幾つか紹介されていました。

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蛙の詩を中心とした心平詩集は6冊刊行されており、うち3冊は光太郎が深く関わっています。

まず心平初の活版印刷による詩集『第百階級』(昭和3年=1928)。序文は光太郎が執筆しました。昭和13年(1938)の『詩集 蛙』は、光太郎が題字揮毫と装幀を手がけ、戦後昭和23年(1948)の『定本蛙』でも、扉の題字が光太郎の揮毫です。

それだけでなく、心平と光太郎、お互いに影響を与え合っていたというのが実感されました。

『第百階級』に収められた心平の詩。大きくパネルに印刷されていました。

    ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉 

 痛いのは当り前ぢやないか。002
 声をたてるのも当りまへだらうぢやないか。
 ギリギリ喰はれてゐるんだから。
 おれはちつとも泣かないんだが。
 遠くでするコーラスに合はして歌ひたいんだが。
 泣き出すことも当り前ぢやないか。
 みんな生理のお話ぢやないか。
 どてつぱらから両脚はグチヤグチヤ喰ひちぎられてしまつて。
 いま逆歯が胸んところに突きささつたが。
 どうせもうすぐ死ぬだらうが。
 みんなの言ふのを笑ひながして。
 こいつの尻つぽに喰らひついたおれが。
 解りすぎる程当然こいつに喰らひつかれて。
 解りすぎる程はつきり死んでゆくのに。
 後悔なんてものは微塵もなからうぢやないか。
 泣き声なんてものは。
 仲間よ安心しろ。
 みんな生理のお話ぢやないか。
 おれはこいつの食道をギリリギリリさがつてゆく。
 ガルルがやられたときのやうに。
 こいつは木にまきついておれを圧しつぶすのだ。
 そしたらおれはぐちやぐちやになるのだ。
 フンそいつがなんだ。
 死んだら死んだで生きてゆくのだ。
 おれの死際に君たちの万歳コーラスがきこえるやうに。
 ドシドシガンガン歌つてくれ。
 しみつたれいはなかつたおれぢやないか。
 ゲリゲぢやないか。
 満月ぢやないか。
 十五夜はおれたちのお祭ぢやあないか。

同じ昭和3年(1928)に発表された、光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」。

  ぼろぼろな駝鳥
 
 何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
 動物園の四坪半のぬかるみの中では、
 脚が大股過ぎるぢやないか。
 頸があんまり長過ぎるぢやないか。
 雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
 腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
 駝鳥の眼は遠くばかりみてゐるぢやないか。
 身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
 瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
 あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。
 これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
 人間よ、
 もう止せ、こんな事は。

ともに「ぢやないか」のリフレイン。

「ぼろぼろな駝鳥」の発表は3月(ちなみに心平主宰の雑誌『銅鑼』第14号でした)。『第百階級』の刊行は、11月。「ヤマカガシの……」がいつ執筆されたのか、当方は不分明ですが、どちらが先にせよ、先行する方に影響されているのは明らかなような気がします。

「ぼろぼろな駝鳥」は、連作詩「猛獣篇」の一篇。この「猛獣篇」自体も、心平の蛙の詩からのインスパイアがあるのでは、とも思いました。心平が蛙という特定の種をモチーフにしたのに対し、光太郎は駝鳥やら象やら白熊やら、さまざまな生物(中には妖怪かまいたち、龍なども)を主題としていますが、それぞれ、反体制、虐げられる人々やその一部としての自己といったものが仮託されています。ただし、のちに泥沼の戦争の激化に伴い、かつて矛盾する社会を両断する快刀乱麻だった「猛獣」は、大政翼賛のご用聞きに成り下がりますが……。


企画展示以外に、常設展示コーナーの片隅に、いわきゆかりの作家で、心平、光太郎と交友があった猪狩満直の生涯と作品の魅力を紹介する「スポット展示 猪狩満直」が設けられています(6月30日(日)まで)。

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光太郎が激賞した詩集『移住民』(昭和5年=1930)なども並び、こちらも興味深く拝見しました。

常設展示コーナーといえば、以前から光太郎より心平宛の葉書も展示されています。そうしたコーナーのトップに展示していただいており、ありがたいかぎりです。昭和23年(1948)8月12日付のもので、最後に次のような一節があります。

多くのものが滅び去る時貴下のものは消えないでせう。人為の如何ともし難いものがあるでせう。

いかに光太郎が心平を買っていたか、象徴的な一節です。この言葉通り、心平の、そして光太郎本人の詩、令和の時代となっても語り継がれていくことを願ってやみません。


【折々のことば・光太郎】

人類はいつか必ず合成食料で十分の栄養をとり得るやうになると思ふが、さういふ時のくるまで、人は鳥獣魚介を殺して自己の身を養はねばならないであらう。むざんな事だが止むを得ない。

散文「みちのく便り 二」より 昭和25年(1950)より 光太郎68歳

遠く明治末のパリ留学時にはフランス料理のオードブルとして、そして戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中には貴重なタンパク源として、光太郎は蛙を食べていたそうです。

今月15日の『毎日新聞』さん夕刊に、以下の記事が載りました。同紙特別編集委員・梅津時比古氏の、音楽に関する連載エッセイです。

音のかなたへ 自筆原稿からの音

 久しぶりに会った彼は、少し日に焼けたせいか、引き締まってたくましく見えた。
 ぼろぼろに古びて茶色になった箱入りの本をこちらへ差し出した。『ベートーヴェン研究 小原國芳編』(東京イデア書院)。
 「開けてください」と短く言った。
 箱から出してまず奥付を見ると、昭和二年十月二十日の発行である。
 何かが挟まれていてすぐにあいてしまった頁(ページ)には、「二つに裂かれたベエトオフエン(幻想スケッチ)」と題された高村光太郎の詩が載っていた。
 <(略)春がヴィインの空へやつて来て、/さつき窓から彼をのぞき込んだ。(略)>
 彫刻家、詩人の高村の作品の中でもよく知られた詩である。最後を結ぶのは<彼は二つに引き裂かれて存在を失ひ、/今こそあの超自然な静けさが忍んで来た。/オオケストラをぱたりと沈黙させる神の智慧が、/またあの窓から来たのである。>。ここに主眼があるのだろう。高村は、二つに引き裂くものを、人から裏切られる絶望と、 一人立つ歓喜として、その上で、自然を神の書物とするヨーロッパ根源の思想をベートーベンに見ている。
 頁に挟まっているのは何か。茶色に変色した松屋製の400字詰め原稿用紙2枚が紙のこよりでとじてあった。青いインクで「二つに裂かれたベエトオフエン(幻想スケッチ)」が書いてある。本では「ぢつとして」とあるのが原稿には「じつとして」となっているなど違いがある。
  彼の話では東京・神田の古本屋で本を買った後、その場で頁をめくっていると原稿が出てきたとのこと。店主が慌ててすぐ鑑定士を呼んで見せると、高村の自筆原稿に間違いないとの結果が出た。買い戻したいと言う店主を、支払いは済んだ、と振り切ってきたという。
 自筆と思われる字は、若々しい高ぶりが匂い立つ。高村のベートーベンに対する真摯( しんし)な思いが震えている。丁寧だが勢いのある青い字体のひとつひとつが、罫線(けいせん)からあふれ出ている。原稿用紙に音がはねる。こよりは最愛の智恵子がよったのでは、と想像も湧く。
 彼はそれを私にくれると言う。そんな貴重なものを、と固辞したが、譲らない。
 かつてレコード会社に勤めていた彼は、その後、仕事の変遷を経て、今は学生のときにアルバイトをしていた仕事に何十年ぶりかに復帰した。都内の公園にある池のボート番である。「ボートを洗うときの寒さが応えるが、毎日、沈んでゆく夕日を見ているのは至福」と言う。 自然はすなわち哲学なのだろう。高村の詩に書かれている、野にいるベートーベン像が重なった。 何かに打たれ、原稿付きの本を受け取った。

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光太郎の自筆詩稿がはさまった書籍を譲られた、というのです。

譲ってくれたという友人は、それを古書店で購入、古書店主はそれが挟まっていたことに気づいていなかったそうで、すると、たいした値をつけていなかったのでしょう。

鑑定士を呼んで見てもらったら、確かに光太郎の自筆原稿だったそうで(この場合の「鑑定士」というのがどういう人なのか興味深いところですが)、確かに画像で見ても光太郎の筆跡です。使われている原稿用紙もよく光太郎が使っていたもの。

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詩は、「二つに裂かれたベエトオフエン」。梅津氏曰くの「高村の作品の中でもよく知られた詩である」というのには疑問符が付きますが、昭和2年(1927)4月9日(火)の執筆で、初出は雑誌『全人』第10号(ベートーヴェン百年祭記念号)。『全人』は、玉川大学さんの広報誌として、現在も月刊で刊行が続いています。梅津氏が譲られたという『ベートーヴェン研究』は、同じ昭和2年の10月に出た、玉川大学さんの創立者・小原國芳の編刊です。おそらく光太郎の許諾を得て、『全人』から『ベートーヴェン研究』へ転載されたのでしょう。挟まっていたという詩稿は、その転載の際に改めて書き送ったか、『全人』掲載時に送られたか、いずれにしても玉川さんの関係者の旧蔵だったという可能性が高いと思われます。

全く別の可能性として、「二つに裂かれたベエトオフエン」は、昭和4年(1929)に新潮社さんから刊行された『現代詩人全集第9巻』にも転載されており、同書は光太郎自身が掲載詩を選択していますので、そちらからの流出ということも考えられなくはありません。ただし、『現代詩人全集第9巻』掲載時には、サブタイトル的な「(幻想スケツチ)」の語が除かれているので、やはりこの詩稿は昭和2年(1927)のものである可能性が高いと考えられます。

こういうこともあるのですね。


ちなみに、「二つに裂かれたベエトオフエン」、全文は以下の通りです。


      二つに裂かれたベエトオフエン
005
 「病める小鳥」のやうにふくらがつて
 まろくじつとしてゐた彼は急に立つた。
 甥に苦しめられる憂鬱から、
 一週間も森へゆかなかつたのに驚いた。
 春がもうヴイインの空へやつて来て、
 さつき窓から彼をのぞき込んだ。
 水のせせらぎが何を彼に話しかけ、
 草の新芽がどんな新曲を持つて来たか、
 もう約束が分つたやうでもあり、
 また思ひも寄らないやうでもあり、
 いきなり家を飛び出さうとした彼は、
 ドアを明けると立ち止つた。
 今日はお祭、
 着かざつた町の人達でそこらが一ぱい。
 ベエトオフエンは靴をみた。
 靴の割れ目を見た。

 一時間も部屋を歩いたが怒は止まない。
 怒の当体の無い怒、
 仕方が無いので昔は人と喧嘩した。
 「私は世界に唯一人だ」と006
 いつかも手帳に書いてみた。
 彼は憤然として紙をとる。
 怒の底から出て来たのは、
 震へる手で書いてゐるのは、
 おゝ、何のテエマ。
 怒れる彼に落ちて来たのは、
 歓喜のテエマ。
 彼は二つに引き裂かれて存在を失ひ、
 今こそあの超自然な静けさが忍んで来た。
 オオケストラをぱたりと沈黙させる神の智慧が、
 またあの窓から来たのである。


別件ですが、光太郎自筆原稿というと、先月、こういうこともありました。

ネットオークションで光太郎の自筆原稿一枚が売りに出たのです。こちらは詩稿ではなく評論で、題は「神護寺金堂の薬師如来」。驚愕しました。それがいわば「ミッシングリンク」だったためです。

これは、昭和17年(1942)の7月から12月にかけ、雑誌『婦人公論』に連載された「日本美の源泉」の第4回の冒頭に当たります。連載終了後、同誌の編集者だった栗本和夫が、光太郎から送られてきた原稿34枚を和綴じに仕立て、保存していました。昭和47年(1972)には、中央公論美術出版さんが、それをそのまま復刻し、限定300部・定価15,000円で刊行しました。

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当会顧問・北川太一先生による同書の別冊解説から。

 結局三月(注・昭和19年=1944)から『婦人公論』は休刊、七月には「営業方針において戦時下国民の思想善導上許しがたい事実がある」として、中央公論社は改造社とともに情報局から自発的廃業を申し渡される。
 残務整理を担当するために残った栗本の仕事の一つに原稿処分のことがあった。永年の雑誌原稿は1ヶ月ごとに袋に収めて丁寧に保存されていたが、ひろげるとうず高く、八畳間いっぱいをこえる夥しい量であったという。原稿の散佚することをふせぐために、しかも、旧稿が目に触れてすら、危機が著者にも編集者にも及びかねないそんな情況の中で、栗本は朝から夕まで一週間にわたってそれらを破棄し続けた。
 しかし、どうしても破り捨てることの出来ない幾つかの草稿が栗本にはあった。その一つが光太郎の「日本美の源泉」である。くり返し探したけれど、どこで失われたのか、第四回の最初の一枚だけは、見つけることができなかった。

そこで、同書ではその1枚文だけ、掲載誌から起こした活字で埋めています。

その「ミッシングリンク」的な1枚が出て来たので、驚愕したのです。この1枚があれば、まさにコンプリートなわけで。旧蔵者は同じ中央公論社の湯川龍造という編集者だったそうで、他にも湯川旧蔵だった文豪の草稿類がごっそり売りに出され、その点でも驚愕しました。

こういうこともあるのですね。

それにしても、戦時中、中央公論社でこのような事態だったというのは、意外と言えば意外でした。もうすぐ平成も終わり、令和となりますが、こうした昭和の暗黒時代に戻るようなことがあってはいけないとつくづく思いました。しかし、「昭和」、「令和」の「和」つながりには、昭和の暗黒時代をこそ範としようとする現政権のどす黒い野望の如きものがほの見えるようで、素直に改元を喜べません。考えすぎでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

もうネコヤナギの花が出るだらう。林の中のあの立派なコブシにも白い花が一めんにさくだらう。今、山の中の早春は清冽なにほひに満ちてゐる。

散文「早春の山の花」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

書かれた日付は3月25日。岩手の山間部では、3月末で早春という感覚なのですね。

まずは横浜から。

ロコさんの朗読会 春風にさそわれてよむ詩~「智恵子抄」~「ポケット詩集」

期 日 : 2019年4月19日(金)
会 場 : Kikcafe  神奈川県横浜市保土ケ谷区岩井町29-4
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 1,000円 ワンオーダー制
出 演 : ロコさん(石川弘子)
      まりこミュージアム読み会を経て2003年横浜を中心に小学校での読み聞かせ開始
      紙芝居劇場、大人のための絵本、朗読会活動を継続中

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ロコさんこと石川弘子さん、一昨年には世田谷の上用賀アートホールさんで開催された「真理パフェFourth」という公演の中でも「智恵子抄」を取り上げて下さり、当方、拝聴して参りました



続いて、北海道から。うっかりしていて当日になってしまいました。こういうイベントもあったんだということで

朝日カルチャーセンター 朝日JTB・交流文化塾講座 佐藤春夫『小説智恵子抄』を読む

期   日 : 2019年4月16日(火)
           札幌市中央区北2条西1丁目 札幌ANビル4階
時   間 : 10:30~12:00
料   金 : 1,944円
講   師 : 佐藤 雅子(朗読コーチ・フリーアナウンサー) 

これから朗読を始めてみようという方、少し経験のある方に。まず自分の自然な声を見つけましょう。腹式呼吸と息の使い方をしっかり覚えていただきます。高村光太郎の詩集『智恵子抄』をもとに佐藤春夫が紡いだ二人の物語『小説智恵子抄』。「あれが阿多多羅山…」で始まる有名な詩「樹下の二人」をモチーフにした場面を選び、朗読を楽しみます。


『小説智恵子抄』は、光太郎が亡くなった昭和31年(1956)から翌年にかけ、雑誌『新女苑』に「愛の頌歌(ほめうた) 小説智恵子抄」の題で連載されたものです。昭和32年(1957)、実業之日本社から刊行され、角川文庫のラインナップにも入りました。KADOKAWAさんのサイトで検索するとヒットしますので、絶版となっているわけではないようです。

著者は、「連翹忌」の名付け親にして、明治末から光太郎に親炙した佐藤春夫。光太郎を直接知る人物のそれだけに、光太郎智恵子の姿が実に生き生きと描かれています。昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん主演)は、「原作」としてこの「小説智恵子抄」をクレジットしています。


来月には、サントリーホールで、当会会友・一色采子さんによる「智恵子抄」朗読も行われます(また近くなりましたらご紹介します)。朗読系の皆さん、どんどん取り上げていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

私は歳といふものを殆と気にとめてゐない。実は結婚する時自分の妻の年も知らなかつた。妻も私が何歳であるか訊きもしなかつた。亡くなる五六年前に一緒に区役所に行つて、初めてその時妻の年を知つたが、三つ位しか違はぬことが分つた。私は現在目の前にあるものを尊しと思ふ。

談話筆記「回想録 一」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

光太郎智恵子、やはりある意味豪快な夫婦でした。

結婚する時」は、上野精養軒で結婚披露宴を行った大正3年(1914)、「一緒に区役所に行つて」は、智恵子の統合失調症がのっぴきならない状態になって、ようやく入籍をした昭和8年(1933)のことです。

当会の祖・草野心平を顕彰するいわき市立草野心平記念文学館さんの企画展です。 

企画展「草野心平 蛙の詩」

期    日 : 2019年4月13日(土)~6月30日(日)
会    場 : いわき市立草野心平記念文学館 福島県いわき市小川町高萩字下タ道1-39
時    間 : 9時から17時まで
料    金 : 一般 430円(340円)/高・高専・大生 320円(250円)
        小・中生 160円(120円) ( )内は20名以上団体割引料金
休 館 日 : 月曜日(4/29・5/6は開館)

 草野心平の創作における代表的な主題の一つが「蛙」です。1928年に刊行した初の活版による詩集『第百階級』収録作品をはじめ、彼は蛙を主題にした詩を200篇以上つくりました。
 本展では、心平が蛙の詩を創作した背景、そして様々な解釈によって読者の感性に問いかける表現手法などを、関連資料や彼自身による作品への言及から解説し、その魅力をあらためて紹介します。

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関連イベント等

ギャラリートーク   5月11日(土) 6月1日(土)  13 時30 分 要観覧料

スポット展示「猪狩満直」  4月6日(土)〜6月30日(日)
いわきゆかりの作家で、草野心平とも交友があった猪狩満直の生涯と作品の魅力を紹介。

記念講演会  「草野心平と蛙の詩をめぐって」  5月12日(日)  14:00~15:00
講師 齋藤貢氏(詩人・歴程同人)

文学散歩  「草野心平ゆかりの川内村をめぐる」  6月16日(日) 9:00~16:00
天山文庫をはじめ、モリアオガエルの生息地・平伏沼などをめぐります。
マイクロバスで移動(徒歩移動も含む) 定員20名 有料 要予約


というわけで、改めて心平詩の真骨頂である蛙の詩が取り上げられます。すると、光太郎とも密接な縁。

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まず、昭和3年(1928)の『第百階級』(銅鑼社)。活版印刷による心平第一詩集にして、全編蛙の詩です。こちらに光太郎が序文を寄せています。

 詩人とは特権ではない。不可避である。
 詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。云々なるが故に、詩人の特権を持つ者ではない。云々ならざるところに、既に、気笛は鳴つてゐるのである。(略)
 詩人は断じて手品師でない。詩は断じてトウル デスプリでない。根源、それだけの事だ。

トウル デスプリ」は仏語で「tour d'esprit」。「性格」「傾向」と言った意味です。

次に、昭和13年(1938)の『蛙』(三和書房)。装幀と題字揮毫が光太郎です。題字揮毫は昭和26年(1951)の『定本蛙』でも(表紙でなく扉)。

おそらく、展示ではそういった点にも触れて下さっているのではないでしょうか。

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また、スポット展示で取り上げられる猪狩満直も、光太郎が高く評価した詩人です。光太郎は雑誌『南方詩人』第6輯(昭和5年=1930)に寄せた散文「猪狩満直詩集「移住民」に就て」で、こう述べています。

此の北地に闘つてゐる人のまぎれのない声は、どんなジヤスチフイケイシヨンがあらうとも結局まだ中途に立つてゐる私などの腹わたに強くこたへる。私は其をまともに受ける。かういふ強さは、ひねくれた強さでないから、痛打を受ける事が既に身になる。

『移住民』は、前年に北海道阿寒に移っての開墾生活を題材とした猪狩の詩集です。


さらに、6月には川内村への文学散歩も企画されています。


ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

これから私の本当の彫刻がいくらでも生まれる。過去よ去れ、過去よ消えよ。今こそ破算と創建との切換の自然到来。私の仕事はこれからであり日本の美しい美が私を待つて其処にゐる。

散文「仕事はこれから」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

4月13日の空襲で、亡き智恵子と過ごしたアトリエ兼住居が全焼。近くにあった妹の婚家に避難していた時の文章です。5月には、宮沢賢治の実家からの誘いで花巻に疎開。妹の婚家は光太郎が去ってからの空襲でやはり全焼しました。

「仕事はこれから」と言っても、空元気の感が拭えませんね。実際、この後、結核による臥床や敗戦、花巻郊外太田村への移住、そして戦時の翼賛活動を恥じての蟄居など、さまざまな流転を重ねることになり、「本当の彫刻がいくらでも生まれる」という事態にはなりませんでした。

2件ほどご紹介します。

まず、おそらく朗読系の公演だと思われます。詳細がよくわからないのですが……。

話楽庵  弥生の会

期  日 : 2019年3月31日(日)
会  場 : 話楽庵 栃木県小山市萱橋730-9

時  間 : 14:00〜
料  金 : 1,000円
出  演 : わたなべ紀子
演  目 : 下野古麻呂物語
        高村光太郎 智恵子抄より「あなたはだんだんきれいになる」「レモン哀歌」 
                     他

弥生の月は、私の誕生月です。20日に還暦を迎えます。還暦は、生まれ変わって新しい人生を歩み始めるという意味もあるとか…新たな話楽の世界を作り上げていきたいと、思います。

話楽…話は、楽しい。音楽と話の融合。そして…音霊と言霊の世界。流体話法・流体演技・共鳴体の世界。


続いて、テレビ放映情報。

おかしな刑事~居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査(8) 東京タワーは見ていた! 消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!

BS朝日 2019年4月1日(月)  21時00分~22時54分

伊東四朗が叩き上げの刑事、羽田美智子がエリート警視という凸凹父娘コンビを演じる大人気シリーズの第8弾 ‼ 篤志家の社長が刺された! その背後には、30年前、東京タワーの下で起きた誘拐事件の影が…!?

出演
 伊東四朗 羽田美智子 石井正則 小倉久寛 辺見えみり 山口美也子 木場勝己 小澤象 丸山厚人
 菅原大吉 (他)

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地上波テレビ朝日さんで、平成23年(2011)年に初回放映があったものです。その後、テレ朝さんや系列のBS朝日さんで何度か再放送されています。

上記の番組説明では書かれていませんが、初回放映時のサブタイトルが「地上333メートルの殺意!! ホームレスが隠した事件の謎!? 安達太良山で待ち受ける真実!! 『智恵子抄』に秘められた想いとは…」。その後、そのサブタイトルが使われなくなり、「智恵子抄」がらみの内容だとわからなくなってしまいました。

昨年の暮れにも再放送があり、この手のサスペンスものがとにかく大好きな愚妻が拝見、「こんなドラマやってたよ」と教えてくれ、ようやくその存在に気づいた次第です。

調べてみましたところ、智恵子の故郷・二本松でもロケが行われ、櫟平ホテルさん、二本松市さん、岳温泉観光協会さんなどが協力に名を連ねています。岳温泉さん、智恵子生家、その裏山の光太郎詩碑がある鞍石山などでもロケがありました。

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羽田美智子さんといえば、平成27年(2015)にNHK Eテレさんで放映された「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」にもご出演。最近では今年封切りの北原白秋を主人公とし、光太郎も出演した映画「この道」では与謝野晶子役をなさっていました。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

私はその頃の数年間家事の雑務と看病とに追はれて彫刻も作らず、詩もまとまらず、全くの空白時代を過ごした。私自身がよく狂気しなかつたと思ふ。其時世人は私が彫刻や詩作に怠けてゐると評した。

散文「自作肖像漫談」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「その頃」は、智恵子の心の病が顕在化した昭和6年(1931)から、南品川ゼームス坂病院に入院させた同10年(1935)の頃です。同9年(1934)には光太郎の父・光雲が胃ガンで没してもいます。

そうした事情に通じていない無責任な世間は、光太郎が怠けていると評したとのこと。残酷といえば残酷ですね。

3月23日(土)、前日に引き続き、都内に出まして、吉祥寺の武蔵野商工会議所さんにて開催の「第13回与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「明星」文学者、四季の食卓― 杢太郎・勇・晶子・光太郎」で、公開講座の講師を務めさせていただきました。
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講座は前後半にわかれ、前半が「杢太郎と勇 美食家(グールメ)と健啖家(グールマン)―美食への憧れ」。木下杢太郎に関し、「グルメといわれるが―杢太郎は何を食べたか」と題し、歌人で伊東市立木下杢太郎記念館の丸井重孝氏、吉井勇について静岡県立大学の細川光洋氏が「極道に生れて河豚のうまさかな―健啖家(グールマン)・吉井勇」と題されたご発表および対談。

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後半は「晶子と光太郎 日仏の出会う食卓風景」ということで、当方が「苦しい中でも工夫して/高村光太郎の食」、歌人の松平盟子氏が 「家族と囲む食の喜び ~駿河屋の娘のそののち」という題で、与謝野晶子についてご発表。当方、ついついしゃべりすぎて、持ち時間をオーバーしてしまい、ご迷惑をおかけしました。反省しきりです。

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杢太郎や吉井が「食」へのこだわりを強く持っていたというのはほとんど存じませんでしたし、晶子は子だくさんの大変な状況でも、栄養価を考えたり、フランス仕込みの知識などを活用したりで、それなりに豊かな食生活を送ろうと努めていたことがわかりました。

光太郎も、少年時代には廃仏毀釈の影響で父・光雲の仏師としての苦闘期を送り、留学からの帰国後も決して裕福ではなかった智恵子との生活を経、戦中戦後の混乱期と、さまざまに工夫しながらの食生活でした。昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」では「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言し、さまざまな工夫を披瀝したりもしています。

今回、目からウロコだったのは、同じ「簡素生活と健康」の中での次の発言。花巻郊外太田村での山居生活に関してです。「川島」は川島四郎。元軍人(最終階級は陸軍主計少将)、栄養学者、農学博士でした。

高村 主食はもともと少かつたんですが、食糧には困らなかつた。みんな持つて来てくれるんです。お
   米でも
でも、漬物や南瓜なども……。蛋白質だけはなかつたな。
川島 田舎ではね……。
高村 それで蛙をとつて食べたんです。赤蛙をね。まだ動いているのを  皮をはいで……。近所には
   いゝやつ
がどつさりいたんです。

本当にカエルを食べていたのか? と、以前から疑問でした。座談会ということで、リップサービス的に話を盛っているのでは、と。ところが、松平氏曰く、カエルはフランスではごく普通の食材なので、十分あり得る、とのこと。
確かに、明治45年(1912)に書かれた「画室にて」という散文では、パリ留学中の思い出を語る中で、次の発言もあります。

就中(なかんずく)珍なのは、オルドーブルと云つて外にはないスープの前に出る一皿。それには、雁の胆、蝸牛なぞがつきます。然かも本当の料理を食べる仏蘭西人は、外の物には手もつけない。そのオルドーブルだけ食べるのです。オルドーブルだけで売出した家(うち)さへある。(略)大体の料理は五フランぐらゐで一寸食へるが、その家は五フランでオルドーブルが食べ度いだけ食べられる。

「オルドーブル」は「オードブル」。カエルもちゃんと入っていますね。日本での感覚で考えるとゲテモノですが、そうではなかったわけです。


終了後、近くの居酒屋で懇親会。

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晶子研究の泰斗で、旧知の逸見久美先生のお隣に座らせていただきました。逆サイドのお隣には、光雲の師・高村東雲の末裔に当たられる高村晴雲氏の講座で仏像彫刻を学ばれたというお坊様。驚いたことに、岡本かの子の血縁の方だそうでした。かの子は智恵子同様『青鞜』メンバーでしたし、かの子の夫・一平は東京美術学校西洋画科で光太郎と同級生でした。いわずもがなですが、一平・かの子の子息はかの岡本太郎です。不思議な縁を感じました。


というわけで、4回にわたっての都内レポート、終わります。


【折々のことば・光太郎】

春が来ると何よりも新鮮な食べものの多くなるのがうれしい。私は野のもの山のものが好きなので、摘草にわざわざ行くといふ程の閑暇はないが、そこらに生えてゐる草の芽の食べられるものは何でも食べる。

散文「春さきの好物」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

同じ文章で光太郎が食べるとしている野草、山菜類 は以下のとおり。ハコベ、ヨメナ、ノビル、スベリヒユ、タンポポ、ツクシ、カンゾウ、カタバミ、イタドリ、ユキノシタ、フキノトウ、センブリ、オニフスベ、ワラビ、ゼンマイ、コゴミ、タラの芽、杉の芽、マタタビ。

親友で、やはり『明星』に拠っていた水野葉舟が『食べられる草木』という書物を著しており、参考にしたかもしれません。

まずは仙台に本社を置く『河北新報』さん。先週15日(金)の「阿武隈川物語」という連載で、光太郎智恵子に触れて下さいました。

<阿武隈川物語>(36)新しい女育んだ山河

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 みちのくの入り口の阿武隈川沿いは古来、歌や俳句、詩の題材として親しまれた。時に人生にもたとえられる川の流れは、詩情をかき立てる。豊かな文学を育んできた流域を散策した。(角田支局・会田正宣)
 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。
 あまりに有名な「智恵子抄」の「樹下の二人」。「ほんとの空」の下、二本松市を歩くと、高村智恵子が夫の光太郎を、喜々として故郷を案内した姿が目に浮かぶようだ。
 酒造業の実家が破産し、統合失調症を発症した智恵子。美しい詩はかえって、智恵子の悲劇を浮き彫りにする。光太郎は後に、「智恵子抄は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であった」と述懐している。
<朗読大会を開催>
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 精神を病んだ智恵子は、地元ではタブーだった。智恵子没後50年の1988年、同市の理容業熊谷健一さん(68)が旧安達町商工会青年部で記念事業を企画。「智恵子のふるさと」のまちづくりの一歩になった。
 熊谷さんは「智恵子のまち夢くらぶ」を結成し、講座や行事を開催。没後80年の2018年は智恵子抄朗読大会を開いた。
 熊谷さんは「完璧な人間はいない。葛藤を乗り越え、美と愛に生きた智恵子と光太郎の生き方が人々の胸に迫る」と魅力を語る。
 芸術と恋愛に生きた智恵子は「新しい女」の一人だった。高校時代から智恵子抄を熟読する同市の詩人木戸多美子さん(60)は「画家を目指す女性はいなかった。おとなしく見えて、内に激しい情熱を秘めた人だった」と敬意を込める。
<愛テーマに詩作>
 智恵子が光太郎を追って訪れた上高地(長野県)で2人は婚約した。光太郎が結婚後初めて、愛をテーマに妻に贈った詩が、詩集「道程」に所収の「山」だ。
 「無窮」の力をたたへろ
 「無窮」の生命をたたへろ
 私は山だ
 私は空だ
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 木戸さんは「光太郎には自然と一体化する表現が多いが、それは智恵子との出会いがもたらした。東京育ちの光太郎が、深く広い福島の自然を喜んだ」と解釈する。「樹下の二人」に、生命の循環や、山から流れた水が大河を形成するイメージを読み取るという。
 山を愛する人は、克己、自立といった近代的価値観と人生観を投影する人が少なくない。詩に彫刻に、芸術家として山のような存在である光太郎。では、智恵子は奔流と言うべきか。
 智恵子に、雑誌のアンケートに答えたこんな遺文がある。「生命と生命に湧き溢(あふ)れる浄清な力と心酔の経験、盛夏のようなこの幸福、凡(すべ)ては天然の恩寵(おんちょう)です」
 智恵子は、安達太良山と阿武隈川に育まれた。
[高村智恵子]1886~1938年。旧姓長沼。日本女子大に進学、洋画家を志す。平塚らいてうの雑誌「青鞜」創刊号の表紙絵を描く。光太郎との夫婦生活は自由恋愛を貫き、入籍は智恵子の死の5年前。統合失調症を発症後、紙絵を制作した。

昨秋、二本松市で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」に触れています。記事にある木戸多美子さんは、その審査員を務められた方です。


続いて、『茨城新聞』さん。3月17日(日)の一面コラムです。

いばらき春秋 2019.3.17

その自転車道は「五輪への道」と呼ばれる。筑西市を縦断する五行川の左岸5.7㌔に及ぶ堤上。喜多(旧姓川﨑)真裕美さん(38)はここから、オリンピックへ羽ばたいた▼下館二高で競歩を始め20004年アテネ、08年北京、12年ロンドンと3大会に出場した。北京まで海老沢製作所(筑西市)に所属、高校時代から親しんだ自転車道が練習場所だった▼歩き続ける彼女を見守ったのは、はるか南東の名峰筑波のみではない。地元経済人団体の同友クラブは「夜も安全なように」と照明灯を設置してくれた。喜多さんは「この道がなければ今の私はない」と振り返る▼「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」。人生はしばしば道に例えられる。詩人・彫刻家の高村光太郎は詩「道程」で、自ら人生を切り開いていく決意を高らかにうたった▼卒業シーズン、進学や就職へと巣立ち行く若者たちはどんな道を歩むのだろう。試練もあろう。大切なのは、自転車道を黙々と歩いた少女のように夢を諦めないことだ▼五輪のへの道に沿う桜並木のつぼみが膨らんできた。間もなく花開き、旅立つ者たちを祝福してくれるだろう。喜多さんは今、石川県小松市の粟津温泉「喜多八」で若女将(おかみ)を務める。道は続いている。

成人式の頃と、卒業・入学シーズンには定番のように「道程」が取り上げられます。ありがたいことです。


さらに『週刊新潮』さん。「文庫双六」という連載で、先週、今週と2週にわたって光太郎の名が。

【文庫双六】『智恵子抄』の舞台となった房総半島の“淋しい漁村”

 獅子文六はフランス人の女性と結婚し、大正十四年に娘が生まれた。奥さんは病気になり、フランスに帰国後、亡くなった。
  そのあと獅子文六は男手ひとつで娘を育てたが、男やもめの暮しに疲れて再婚する。『娘と私』はその事情を描いた家庭小説。昭和三十六年にはNHKでテレビドラマ化され大人気になった(北沢彪(ひょう)主演)。
  娘は身体が弱かった。そのため、獅子文六は小学生の娘を連れ、ひと夏を九十九里浜の片貝(かたかい)で過ごした。
  昭和十年頃。当時、東京の人間は避暑に湘南や房総に行くことが多かった。湘南の場合は別荘が普通だったが、房総では漁師や農家の家を借りた。
  獅子文六も鰯漁が盛んな片貝漁港に近い漁師の家を借りた。
  空気はいい。魚はうまい。牛乳や卵も新鮮。娘はたちまち元気になった。「私」も海辺の暮しが気に入る。
  とくに漁師料理「なめろう」が好きで毎晩、これで晩酌したほど。
  房総半島の海辺の町にはいまでもひなびた昭和の漁村の面影が残っている。その風景に惹かれ、私は五十代の頃、中年房総族と称し、よく房総を旅した。
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  片貝にも行った。ここは高村光太郎と妻の智恵子ゆかりの地と知った。昭和九年、光太郎は精神を病んだ智恵子を片貝漁港に近い真亀納屋(まがめなや)の親類の寓宅に預けた。週に一度、薬や食料を持って東京から見舞いに行く。当時はこのあたり、淋しい漁村だった。
  詩集『智恵子抄』に収められた「千鳥と遊ぶ智恵子」はここを舞台にしている。
 「人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の 砂にすわつて智恵子は遊ぶ 無数の友だちが智恵子の名をよぶ。 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――」
  現在、真亀の浜辺にこの詩碑が建てられている。
  かつてこの片貝まで東金からの九十九里鉄道という軽便(けいべん)鉄道があった。昭和三十六年に廃線になったが可愛い、いい鉄道だった。いま遊歩道が作られている。

[レビュアー]川本三郎(評論家)
1944年、東京生まれ。文学、映画、東京、旅を中心とした評論やエッセイなど幅広い執筆活動で知られる。著書に『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞・桑原武夫学芸賞)、『白秋望景』(伊藤整文学賞)、『小説を、映画を、鉄道が走る』(交通図書賞)、『マイ・バック・ページ』『いまも、君を想う』『今ひとたびの戦後日本映画』など多数。訳書にカポーティ『夜の樹』『叶えられた祈り』などがある。最新作は『物語の向こうに時代が見える』。
 新潮社 週刊新潮 2019年3月7日号 掲載 

【文庫双六】光太郎と賢治の“意外な接点”――梯久美子

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 高村光太郎が詩集『智恵子抄』を出版した1941年は、太平洋戦争が始まった年である。真珠湾攻撃のニュースに高揚し、〈この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる〉(「十二月八日」)と詠ったことはよく知られている。
  45年4月の空襲で東京のアトリエが焼失、光太郎は岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六の家に身を寄せた。清六は宮沢賢治の弟である。
  光太郎は生前の賢治に一度だけ会っている。26年12月、上京した賢治は光太郎のアトリエを訪ねた。夕刻になってからの突然の訪問で、手の離せない仕事があった光太郎は翌日来てくれるように言って玄関先で別れた。だが、賢治はそれっきり訪ねてこなかったという。
  無名の賢治は当時30歳、すでに名の知れた詩人で彫刻家だった光太郎は43歳。おそらく賢治は遠慮したのだろう。
  37歳で賢治が死去した後、光太郎は賢治の詩を高く評価し、全集の編纂にもかかわった。
  そうした縁から賢治の弟・清六と親しくなり、空襲で焼け出されたとき、清六を頼って花巻に疎開したのである。
  清六の著書『兄のトランク』には、その当時を回想した文章が収録されている。疲れ果てた様子で宮沢家にやってきた光太郎は、ていねいなもてなしを受けて元気を取り戻すが、8月10日、花巻に大規模な空襲があり、宮沢宅も焼けてしまう。
  戦後の光太郎は、花巻の郊外に小屋を建て、7年間、独居する。
  戦時中に戦意高揚詩を多数書いたことへの自責の念からと言われているが、その場所が花巻だったのは、玄関先で顔を合わせただけに終わった賢治との縁からだった。
  終戦直後、光太郎は宮沢家の避難先を見舞い、その後も長い間、賢治と清六の父のために山羊の乳を届けたという。
[レビュアー]梯久美子(かけはし・くみこ ノンフィクション作家) 新潮社 週刊新潮 2019年3月14日号 掲載

最後の一文、若干、勘違いがあるようですが……。


他に『信濃毎日新聞』さんにも関連記事が出ているのですが、また日を改めてご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

秋の彼岸が来て、或る朝芙蓉の葉に風が鳴る音を聞くと、私は生きかへつたやうに木を彫る事をおもふ。秋から冬にかけて木彫の仕事をするたのしさは言ふべくもない。心が澄み、身に生気が満ち、手は能く物の円みを知り、鑿は殆ど一個の生きものとなる。

散文「制作」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

ちょうど半年ずれた時期の文章ですが、あしからず。

とにかく夏の暑さに弱かった光太郎でしたが、それだけでなく、夏場は湿度が高すぎて木彫用の鑿や彫刻刀が悲鳴をあげるというのです。

お世話になっております明星研究会さん主催の公開講座的イベントです。

第13回与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「明星」文学者、四季の食卓― 杢太郎・勇・晶子・光太郎

期    日 : 2019年3月23日(土)
会    場 : 武蔵野商工会議所 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7

時    間 : 13:30〜16:30
料    金 : 1,500円 (資料代を含みます/お支払いは当日にお願いいたします)

第1部:対談 杢太郎と勇「美食家(グールメ)と健啖家(グールマン)―美食への憧れ」
 「グルメと言われるが―杢太郎は何を食べたか」
   丸井重孝(歌人・伊東市立木下杢太郎記念館)
 「極道に生れて河豚のうまさかな―グールマン・吉井勇」
   細川光洋(静岡県立大学)
第2部:対談 晶子と光太郎「日仏の出会う食卓風景」
 「苦しい中でも工夫して/高村光太郎の食」
   小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
 「家族と囲む食の喜び ~駿河屋の娘のそののち」  
   松平盟子(歌人)
 日本の四季は食卓に旬の素材と料理を提供し、茶や酒を用意しました。感性豊かな「明星」の歌人・詩人たちにとっても同じ。西洋への憧れを秘めたサラダ、パン、コーヒーやリキュール酒などに揺れる心を託し、日常の彩りとすることも……。与謝野家では子供たちとどんな食卓を囲んでいたのでしょうか? 祇園に出入りした吉井勇は? 伊豆伊東の海を眺めて育った木下杢太郎は? パリ体験が人生の刻印となった高村光太郎は?
 今年は木下杢太郎の詩集『食後の唄』刊行から100年に当たります。これを記念して、詩歌や随筆などに描かれた食の現場・食をめぐる心情風景を追体験してみましょう。多くの皆さまのご来場を心よりお待ちしています。

申し込み 氏名・連絡先(電話)を添え、メールかFAXでお申し込み下さい。当日受付も可能です。
      メールアドレス : apply@myojo-k.net   FAX : 0463-84-5313(古谷方)
終了後、懇親会 会費4,000円 (当日受付でお申し込みください)

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『朝日新聞』さんと『毎日新聞』さんに案内が載ったようです。

光太郎の部分を担当することになりました。ぜひお越し下さいませ。


【折々のことば・光太郎】

一つの型(かた)にまで上昇しない芸術には永遠性が無い。ただ別個的の状態を描き、現場の状況を記録し、瞬間の感動を叙述したに止まる芸術には差別美だけあつて普遍美が無い。

散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

同じ文章で具体例は挙げられていませんが、他の文章を見ると、ピカソあたりを念頭に置いての発言のようです。「型」といっても、類型を繰り返すことではないとも書いています。

一昨年から、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載がなされているので定期購読させていただいている、日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』3月号が届きました。

それとは別に、「みんなの活動報告」というページがあります。

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協会員の皆さんからのお便りのコーナーです。

昨夏、成田市のなごみの米屋總本店さん2階の成田生涯学習市民ギャラリーで、「二人でひとつの展覧会」を開催された大泉さと子さんから、同展に関するお便りが掲載されています。

成田ということで、光太郎がたびたび訪れた宮内庁の御料牧場がかつてあった三里塚記念公園内に立つ、光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)を書いた作品などが展示されました。

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当方、隣町なもので、初日の一番にお邪魔しました。その際、作者の大泉さんとお話しさせていただきました。

先月末、大泉さん、それから同誌の編集部さんからお電話があり、「みんなの活動報告」に、成田での展覧会のレポ-トを載せること、そこに当方の名前を出していいかというお話でした。別にお忍びで行ったわけでもなく(笑)、承諾いたしました。

そして、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」は、その「春駒」。ここに「春駒」が載るというのは聞いておりませんで、「ほう」という感じでした。

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光太郎の草稿を大きく載せて下さっています。つくづく味のある字です。

同誌は一般書店での販売は行っておらず、同会サイトからの注文となります。1年間で8,700円(税・送料込)。お申し込みはこちらから。バックナンバーとして1冊単位の注文も可能なようです。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

八百屋に出てる三州ものでは話にならぬがもぎたての近在のものが笊に盛られた溌剌さは、まるで地引網で引き上げた雑魚のやうにはね返りさうだ。艶のある白綠のさやの肌はおそらく意気な季節の寵児だ。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

何が? というと、さやえんどうです。智恵子は既に南品川ゼームス坂病院に入院しているため、光太郎は自ら塩水で茹で、オリーヴオイル、モルトベニガー、胡椒で味をつけ、食べています。

何気なく書かれた「まるで地引網で引き上げた雑魚のやう」の直喩、「艶のある白綠のさやの肌はおそらく意気な季節の寵児」という暗喩、さすがですね。

しかし、地引網云々は、おそらく智恵子が療養していた九十九里浜で見た光景だろうと思うと、複雑な思いにかられます。

絵手紙を趣味にされている方などは、こういうものも題材にするのでしょうね。ちなみに『月刊絵手紙』、上記今月号の表紙には、ふきのとうの写真も載っています。たまたまですが、我が家の今夜の夕食はふきのうの天ぷらでした。春ももうすぐそこです。

第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

「大人のための」というと、何やらエッチなものを連想する方がいらっしゃるかもしれませんが(当方だけでしょうか(笑))、そういうネタではありませんので悪しからず(笑)。

まずは朗読イベント、鹿児島での開催です。  

「大人のための夜の朗読会」

期    日 : 2019年2月22日(金)
会    場 : 御菓子司 鳥越屋  鹿児島県指宿市湯の浜4-11-9 0993-22-3878
時    間 : 19:00~20:00
料    金 : 無料

ギターやピアノの生演奏が流れる中、「本と人とをつなぐ〝そらまめの会〟」の下吹越かおるさんなどが詩人・高村光太郎さんの詩や物語などを朗読。定員25人で参加は無料。申し込みは不要ですが、電話確認がお勧めです。

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光太郎を取り上げて下さり、ありがとうございます。タイトルに「大人のための」だけでなく「夜の」までついて、さらに妖しい雰囲気ですが(笑)、そういうわけではないのでしょう(笑)。


朗読、というか、音読ですが、こんな本も出ています。こちらも「おとなのための」(笑)。 

もっと心とカラダを整えるおとなのための1分音読

2019年2月15日 山口謠司(大東文化大学文学部准教授) 自由国民社 定価1,300円+税

道程、銀河鉄道の夜、二十四の瞳……毎朝1分、毎晩1分、おなじみの名文を読めば心とカラダがスッキリ!!
テレビ朝日系ドラマ「Doctor-X~外科医・大門未知子」医療監修医師・ジャーナリスト 森田 豊先生推薦!
「音読に没頭する時間を持つことは、心とカラダの健康につながるでしょう。」

目次
推薦の言葉
「毎日の健やかな心とカラダのために、音読をお薦めします。」 (医師・ジャーナリスト 森田 豊)
第1章 元気が出る音読
 道程(高村光太郎) 蜘蛛の糸(芥川龍之介) 竹馬余事(柳田国男) 論語(孔子)
 努力論(幸田露伴)たけくらべ(樋口一葉) 漱石先生とドイツ語(小宮豊隆)
 山月記(中島 敦) 
あの山越えて(種田山頭火) 偶成(朱熹) 
 将に東遊せんとして壁に題す(月性) 
不識庵機山を撃つの図に題す(頼山陽)
 白鳥(ステファンヌ・マラルメ、訳:上田 敏) 
魯山人の料理王国(北大路魯山人)
 三四郎(夏目漱石) 母性のふところ(高村光太郎) 
雨ニモマケズ(宮沢賢治)
 歌をよむには(秋艸道人) 富嶽百景(太宰 治)
 ●column1 「音読」と「朗読」は何が違う?
 第2章 気持ちが落ち着く音読
  夏夜(土井晩翠) ふらんす物語(永井荷風) 小倉百人一首
 夜ふる雪(北原白秋) 銀河鉄道の夜(宮沢賢治) 伊勢物語 胡蝶(八木重吉)
 三百年後(小倉金之助)
一房の葡萄(有島武郎) ふるさと(高野辰之)
 かもめ/夏の夜(島崎藤村) 赤い蝋燭と人魚(小川未明) 
こほろぎ(木下杢太郎)
 反古(小山内 薫) 武蔵野(国木田独歩) 山椒大夫(森 鷗外) 
 春望(杜甫)/静夜思(李白) 落葉松(北原白秋) こころ(夏目漱石)
 ●column2 歩きましょう!
 第3章 音やせりふを楽しむ音読
  人形の家(ヘンリック・イプセン、訳:矢崎源九郎) 金色夜叉(尾崎紅葉)
 赤い蝋燭(新美南吉)ドグラ・マグラ(夢野久作) 羅生門(芥川龍之介)
 燕の歌(ガブリエレ・ダンヌンチオ、訳:上田 敏) 風の又三郎(宮沢賢治)
 父帰る(菊池 寛) 
金ちゃん蛍(与謝野晶子) 弁天娘女男白浪(河竹黙阿弥)
 人間失格(太宰 治) 
耳無芳一の話(小泉八雲、訳:戸川明三) 蟹工船(小林多喜二)
 土(長塚 節) 機織虫(山村暮鳥) 
二十四の瞳(壺井 栄)
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類似の書籍は少なくないと思われますが、たまたま検索網に引っかかったので……。

ちなみに来(きた)る4月2日(火)の第63回連翹忌では、昨秋、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で、大賞を獲得された宮尾壽里子さんに朗読をご披露いただく予定です。


【折々のことば・光太郎】

詩を書くのに文語の中に逃げ込む事を決して為まいと思つた。どんなに傷だらけでも出来るだけ今日の言葉に近い表現で詩を書かうと思つた。文語そのものから醸成される情趣と幽玄性と美文性とは危険である。その誘惑は恐ろしい。
散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

詩集『道程』(大正3年=1914)所収の詩編などで、口語自由詩を確立した光太郎ですが、その初期には文語詩も書いていました。そこには戻らないつもりでいたものの、この数年後、特に太平洋戦争開戦後は、再び文語詩の「誘惑」に負けてしまうことになります。

第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

経済界では「ニッパチ」という語が使われており、古来、2月と8月は消費が落ち込むと言われています。文化芸術方面にもそれがあるようで、特に2月はその方面のイベントなどが多くありません。これが来月になると、またいろいろあるという情報を得ています。

2月も後半となりましたので、来月開催のイベントも少しずつご紹介します

大人のための朗読会

期    日 : 2019年3月2日(土)
会    場 : 大森南図書館  大田区大森南一丁目17番7号 03-3744-8411
時    間 : 午後2時から午後3時30分
料    金 : 無料
出    演 : 朗読ボランティア「響の会」
                                        土井千枝子さん、中田美津子さん、大橋優喜子さん、岩瀬悦子さん
演    目 : 『ひかるさくら』 『太宰治 舌切雀』 『蜘蛛の糸』 『智恵子抄』
対    象 : 中学生以上
定    員 : 先着40名 電話か来館で申し込み

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いつも書いていますが、光太郎詩は定型になっていない自由詩でも、意外に朗読向きです。また、散文も。やはり光太郎の鋭い言語感覚の表れでしょう。

全国の朗読愛好者の方々、どんどん取り上げていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

私はいつも最も突き進んだ芸術の究極境が此の冬の美にある事を心ひそかに感じてゐる。満目蕭条たる芸術を生み得るやうになるまで人間が進み得るかどうか、それはわからない。此は所詮人間自身の審美の鍛錬に待つ外はないにきまつてゐる。

散文「満目蕭條の美」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

春の花や秋の紅葉を愛でる日本古来の感覚とは異なり、冬の厳しい自然に究極の美を見た光太郎。これも近代人としての新しい感覚なのでしょう。

第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

朗読系のイベントを二つ、ご紹介します。 

大人がたのしむお話会

期    日 : 2019年2月9日(土)
会    場 : 杉並区立方南図書館 杉並区方南1-51-2
時    間 : 14:00~
料    金 : 無料
出    演 : おはなし会ボランティアのみなさん
演    目 : <絵本>おおはくちょうのそら(手島圭三郎)
           < 詩  >私たちの星(谷川俊太郎)
         <語り>幻のスパイス売り(アリソン・アトリー)
         < 詩  >祝婚歌・生命は(吉野弘)
         <絵本>つみきのいえ(加藤久仁生・平田研也)
        <朗読>智恵子抄(高村光太郎)

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三彩の会朗読ライブ 高村光太郎著 「智恵子抄」

期    日 : 2019年2月10日(日)
会    場 :  淡路町カフェ·カプチェットロッソ 
千代田区神田淡路町2-1クオリア御茶ノ水1F
時    間 : 13:00~ / 16:00~
料    金 : 2,000円 (ワンドリンク付き)
出    演 : 酒井敬幸(81プロデュース)・秋吉徹 (81プロデュース)
                              水野貴雄  (プロダクション・エース)

 ~詩人・彫刻家高村光太郎が愛妻智恵子夫人 を偲んでうたった詩集「智恵子抄」~ 激動の昭和を生きた亡き光太郎の想いを、平成最後の世に酒井 敬幸をゲストに迎え、三彩の会が皆様にお届けします 興味のある方もない方も是非見に来てください!

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以前にも書きましたが、光太郎の詩作品は、そうだと思われていない部分も多いのですが、意外と朗読に向いています。歯切れのよいフレーズ感、わざとらしくなく散りばめられた韻、そして内容。

ぜひぜひ多くの方々に取り上げていただきたいものですし、聴いていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

軍港の候補地だといふ女川湾の平和な、澄んだ海を飛びかふ海猫の軍団が、網をふせた漁場のまはりにたかり、あの甘つたれた猫そつくりの声で鳴きかはしてゐる風景は珍鳥に値する。

散文「三陸廻り 七 気仙沼」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

気仙沼の皆さんには申し訳ありませんが、光太郎、気仙沼の街の様子は東京の真似のようだとがっかりしていますので、気仙沼の部分ではなく女川港を出航し、気仙沼へ向かうという場面です。

確かに女川港ではウミネコをよく眼にします。東日本大震災で壊滅し、復興なったJR石巻線女川駅も、ウミネコが羽ばたく姿をモチーフとしています。

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