一昨日と昨日、ATV青森テレビさんの年末特別番組「乙女の像への追憶――十和田湖国立公園80周年記念」の撮影で、都内の光太郎ゆかりの地を歩き、光太郎本人を知る方々へのインタビューに同行しました。
そのさらに前日は、茨城取手に行っておりました。
先月開催された第61回高村光太郎研究会において、主宰の野末明氏が、光太郎の姻戚の詩人にして、取手出身の宮崎稔について発表をされました。それを聴いて、宮崎に関する情報を提供する約束をしたのですが、あやふやな点があって、確かめに行った次第です。
まずは宮崎家の墓地。十数年前に行ったことがあり、だいたいの位置は記憶していたのですが、正確に地図で表せ、と言われると自信がありませんでした。
取手駅の西南方向、利根川の河岸段丘の上です。画像で言うと左手が国道6号、手前は6号線に上っていく立体交差の側道です。
もともと光太郎と宮崎の縁は、宮崎の父・仁十郎が、戦前に日本画家の小川芋銭の顕彰に光太郎を引き込んだあたりから始まっています。
その仁十郎の墓もこちらにあり、それとは別に宮崎の墓。墓石側面の墓誌には、宮崎と、夭折した男児の名が刻まれていました(その辺りの記憶もはっきりしていませんでした)。当然刻まれているはずの宮崎の妻・春子(智恵子の最期を看取った姪)の名がなぜか有りませんでした。
ちなみに宮崎には、夭折した男児を謳った「ゆうぐれ」という詩があります。
二つの墓に線香を手向け、ここはこれで終了。
来たついでと思い、取手駅の反対側にある長禅寺を参拝、というか、境内にある光太郎ゆかりの二つの碑を見てきました。
門前には、取手ゆかりの文人的な説明板も立っていて、光太郎も紹介されています。
意外にも、智恵子を『青鞜』メンバーに引き込んだ平塚らいてうの名が。昭和17年(1942)から同22年(1947)まで取手に住んでいたとのこと。時期的に疎開と思われますが、これは存じませんでした。
さて、山門はやはり河岸段丘の上にあり、長い石段。
その石段の右側に、昭和23年(1948)、光太郎が題字を揮毫した「開闡(かいせん)郷土」碑が有るはずでしたが、見つかりません。いくつか碑がありましたが、ずべて他の碑でした。この碑は何度か見に来ているので、場所の記憶違いということはありえません。そういう例が他にあったので、撤去されてしまったのかも、と思っていたところ、見つかりました。何と、繁茂した篠竹の藪に埋まっている状態でした。
画像中央、やや黒みがかって見える部分に碑があります。不本意ながら石段の手すりを乗り越えて、篠竹をかき分けてみると……
光太郎の手になる「開闡郷土」の文字。「光太郎」の署名もくっきりと。
以前から、何の説明板もなく、これが光太郎の筆跡を刻んだものだと知られていないのでは、という感じでしたが、もはや碑そのものが見えない状態になっているとは……。
もっとも、先述しましたが、無理解のため撤去されてしまった碑も、他県にはありましたが……。
長禅寺には、もう一つ、光太郎の筆跡が刻まれた碑があります。こちらは山門をくぐって、境内の左手。光太郎と宮崎家の結びつきの機縁となった、「小川芋銭先生景慕之碑」で、昭和14年(1939)の建立です。
そちらは無事だろうかと、少し急いで行ってみましたが、こちらは無事でした。
こちらも題字のみ、光太郎の筆跡です。
題字の下に小さく「高村光太郎書」の文字も。ただし、柔らかい大理石なので、風化が進んでいます。
以上を見て回りましたが、取手にはもう一つ、光太郎の筆跡が刻まれたものがあるはずです。
それは、宮崎仁十郎の仲介で、元取手町長だった中村金左衛門から頼まれた墓標。中村の縁者(息子?)と思われる「故陸軍中尉中村義一之墓 故海軍大尉中村恒二之墓」という文字を、昭和23年(1948)に光太郎が揮毫しています。おそらく取手のどこかに立てられたと思われますが、それがどこなのかわかりません。
長禅寺にも見あたりませんでしたし、当会顧問・北川太一先生にもお伺いしましたが、不明でした。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。
【折々の歌と句・光太郎】
人間のハムと友らのよびならす女のあしはつるされにけり
大正15年(1926) 光太郎44歳
昨日に引き続き、駒込林町アトリエでの塑像彫刻制作に関する短歌です。
アトリエには、この短歌のとおり、女性の脚の習作がぶら下がっていたというエピソードが、複数の光太郎友人の回想に出て来ます。「人間のハム」とはよくいったものですね(笑)。