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群馬県の地方紙『上毛新聞』さんが、一面コラム「三山春秋」で光太郎に触れて下さいました。 

2019/07/28【三山春秋】

 ▼歌人の若山牧水が草津温泉を初めて訪れたのは1920(大正9)年5月。このとき見た草津独自の入浴法「時間湯」によほど強い衝撃を受けたのだろう
 ▼紀行文では、板で浴槽内をかき回す人々の姿、湯もみ唄や隊長(湯長)の号令などを臨場感あふれる表現で丁寧に紹介している。2年後にも訪れ、『みなかみ紀行』でこの入浴法を詳しくつづり、3首の歌を残した 
 ▼草津町出身の文芸評論家、市川為雄さん(故人)は「草津温泉と近代文学・芸術」(『草津温泉誌』第2巻所収)で、牧水は時間湯を通して〈浴客や温泉への愛着〉を抱いたととらえる
 ▼幕末、湯治客によって試みられたのが始まりとされる時間湯は、高温で強酸性の温泉に安全に効果的に入るため、これまで多くの改良、変遷を経て続けられてきた
 ▼牧水のほか平井晩村、高村光太郎らも注目し、作品にしている。文人たちが心引かれたのは、そこに、長い歴史のなかで受け継がれ、形成されたかけがえのない伝統文化を見いだしたためだろう 
 ▼同町は時間湯の指導を行う「湯長」制度を今月末で廃止する。医師法に触れる恐れがあることなどが理由という。安心安全のためにやむを得ないとの声の一方で異論もある。受け継ぐべき伝統とは何なのか、改めて考える良い機会かもしれない。そのためにも、もう少し議論が必要ではないか。

018光太郎が草津を訪れたのは、記録に残る限り3回。まず昭和2年(1927)の7月に、白根温泉から廻ってきています。その時の見聞を元に、詩「草津」を書きました。箱根の「大涌谷」と2篇で「名所」の総題がつけられて発表されています。  

  草津

 時間湯のラツパが午前六時を吹くよ。
 
 朝霧ははれても湯けむりははれない。
 
 湯ばたけの硫気がさつとなびけば

 草津の町はただ一心に脱衣する。


光太郎が遺した手控えの詩稿が現存し、激しい推敲の後が窺えます。たった四行の短詩でも、いいかげんに作らなかったということがよく示されています。

平成2年(1990)には、この手控え詩稿からコピーを取り、光太郎の実弟で人間国宝だった鋳金家・髙村豊周の弟子筋に当たる故・西大由氏によってパネルが制作され、囲山公園に詩碑が建立されました。

下記は15年ほど前に撮影した、雪の季節の画像。

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さらに20年ほど前に撮影した、こちらは夏の画像。右は碑陰記です。曰く「彫刻家・詩人高村光太郎は昭和二年七月、草津の地を訪れ、湯畑源泉の荘厳に打たれてこの詩を残した。  平成二年四月 建立 草津町  制作 東京芸術大学教授 西大由」。

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さらに平成12年(2000)には、湯畑の周囲を囲む石柵に「草津に歩みし百人」ということで、記録に残る来訪者100人の名と来訪年等が刻まれ、光太郎も入れて下さいました。

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光太郎のプレートは、初来草の昭和2年(1927)で登録されていますが、その後も昭和4年(1929)にはおそらく交流の深かった詩人の尾崎喜八と共に、それから昭和8年(1933)にも心を病んだ智恵子の保養のために訪れています。残念ながら尾崎や智恵子の名は「百人」に入っていませんが。

もう15年ほども行っておりませんで、機会が在ればまた拝見したいと思っております。皆様も草津にお越しの際はぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

美しきもの満つ  短句揮毫 昭和10年代後半

頼まれて色紙等に揮毫した言葉としては、最多のものではないかと思われます。すべてひらがなだったり、変体仮名的に「み」のみ「ミ」とカタカナにしてみたり(それを「三つ」と誤読されることがあって閉口していますが)、「美」や「満」が漢字だったりと、さまざまなバージョンが存在します。ここでは『高村光太郎全集』収録の形で、漢字仮名交じりの形を取りました。

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この世には「美」があまねく存在しているのだ、という、光太郎の持っていた根本原理的なものが端的に示されていると言えましょう。

群馬から展覧会情報です。

太田市美術館・図書館開館記念 「未来への狼火」

期 日 : 2017年4月26日(水)~7月17日(月・祝)
会 場 : 太田市美術館・図書館 群馬県太田市東本町16番地30
時 間 : 午前10時~午後6時 ※展示室への入場は午後5時30分まで
休館日 : 月曜日 (ただし祝日の7月17日は開館)
料 金 : 一般800円、学生・団体640円、中学生以下無料

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地元の詩人・清⽔房之丞の言葉を手がかりに、 太⽥の風土に育まれてきた創造の遺伝子を発見する
2017(平成29)年4月、太田市美術館・図書館は、「まちに創造性をもたらす、知と感性のプラットフォーム」として、「創造的太田人」を基本理念に、太田で育まれてきたものづくりの英知を継承しながら、市⺠によるこれからのまちづくりの拠点となることを目指してグランドオープンします。
現在、北関東随⼀の工業都市として知られる太田市の土台を築いたのは、1917(大正6)年5月、元海軍機関大尉の中島 知久平を中心に設立された飛行機研究所でした。第二次世界大戦後、GHQによって解体された中島飛行機株式会社を源流に、日本屈指の航空機生産技術を基礎に創立した富士重工業株式会社(2017年4⽉より、株式会社SUBARU)は、「ものづくり のまち」太田を象徴する存在です。
それでは、工業都市としての顔以外に、太田にはどのような風景が広がっているでしょうか? さらにさかのぼる1903(明治36)年、太田に生まれ、田園詩人と称されたのが清水房之丞です。彼は最初の詩集『霜害警報』(1930年)で、「桑が自分の⼦の樣に可愛いいんだ/桑が黑くなれば俺逹まで口がひ上がることになるんだ/村の俺逹の狼火をあげよ う」とつづりました。そこで描かれたのは、冬の霜害に苦しみながらも、大切に桑を育てていたひとたち。高村光太郎や 萩原朔太郎といった稀代の詩人とまじわりながら、郷土で詩を書くことに心を傾けた清水房之丞の仕事は、この風土で生きることへの強い誇りを感じさせます。
開館記念展では、「風土の発見」「創造の遺伝⼦」「未来への狼火」をキーワードに、こうした歴史的風土のなかで生まれた絵画、工芸、写真、映像、詩、歌など、多ジャンルのアーティストの作品を新作もまじえてご紹介します。さらには、 市民と共同のプロジェクトも実施、それらを通してわたしたちが未来を展望するための狼火をたちあげます。
「創造的太田人」とともに歩む、太田市美術館・図書館の挑戦が本展からはじまります。

出品作家

淺井裕介、飯塚小玕齋、石内都、片山真理、清水房之丞、正田壤、林勇気、藤原泰佑、前野健太(9名/五十音順)

清水房之丞(しみず・ふさのじょう)
詩人。1903年生まれ、1964年死去。群馬県太田市(旧・新田郡沢野村)出身。群馬師範⼆部卒。群馬県内で小学校教師をつとめ、佐藤惣之助の「詩之家」に参加。「田園詩人」と称され、詩集に『霜害警報』(1930 年)をはじめ『青い花』、『炎天下』などがある。萩原朔太郎や高村光太郎ら稀代の詩人とも交わりながら 活動、詩誌『上州詩人』や『青馬』の刊行も行い、群馬県内の詩の発展に尽力。本展では詩集、詩誌を展示。


太田の郷土の偉人ということで、詩人の清水房之丞に関する展示がなされます。上記紹介にあるとおり、光太郎と交流のあった詩人でした。

『高村光太郎全集』には、光太郎から清水宛の書簡が3通、そして清水の詩集『炎天下』(昭和17年=1942)の序文が掲載されています。

また、その後、光太郎から清水宛の書簡3通が新たに見つかり、当会顧問・北川太一先生と当方の共編『光太郎遺珠①』(平成18年=2006)に収めました。

それから、清水が編集・発行にあたった詩誌『上州詩人』の第17号(昭和10年=1935)。こちらにはアンケート「上州とし聞けば思ひ出すもの、事、人物」があって、光太郎の回答も掲載されています。これも『高村光太郎全集』には漏れていたので、やはり『光太郎遺珠①』に収めました。

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光太郎の回答は「上州と聞けば赤城山 高橋成重、萩原恭次郎」。「高橋成重」は「高橋成直」の誤植と思われます。「高橋成直」は、前橋出身の詩人・高橋元吉のペンネームでした。萩原恭次郎も現在の前橋出身の詩人です。

さらに『上州詩人』のこの号には、清水、或いはやはり『上州詩人』に関わっていた松井好夫に宛てた書簡の抜粋も掲載されていました。松井の翻訳になる『ボオドレエル詩抄』の受贈礼状です。

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このように、光太郎と関わりのあった清水に関する展示がなされます。『上州詩人』も並ぶようですし、光太郎が序文を書いた『炎天下』も出品されるのではないでしょうか。

他は現代アート系の作家さんの作品ですが、ぜひ、足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

神さまから言ひつかつた事をするのは当りまへだ ほんとにさうだ、田舎の処女(ピユセル)よ
詩「聖ジヤンヌ」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

ジャンヌ・ダルクをモチーフとした詩です。そこで、「神さまから言ひつかつた事をする」となっています。光太郎はクリスチャンではありませんでしたが、天から与えられた使命を果たす、的な部分ではジャンヌ・ダルクに共感を覚えていたようです。

この詩が作られた同じ時期に、築地小劇場でジャンヌを主人公としたバーナード・ショー原作の「聖ジヨオン」が上演され、それを見た光太郎は「ジヨオンに自分は惚れてゐるやうだ。今日はその声をききにゆかう。」と記しました。

その悲惨とも言える末路に、自分や智恵子の未来の姿も重ね合わせていたふしも見られます。この詩の末尾は「火あぶりか うゑ死にか ああ、だが何とうつとりさせる声だらう」となっています。

群馬からの企画展情報です。 

第87回企画展「近代を駆け抜けた作家たち~文豪たちの文字は語る~」

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会       場 群馬県立土屋文明記念文学館 群馬県高崎市保渡田町2000番地
会       期 平成27年1月17日(土)~3月22日(日)
開館時間  9:30~17:00(観覧受付は16:30まで)
休  館  日 毎週火曜日
観  覧  料 一般410円(320円) 大学・高校生200円(160円) 中学生以下無料
        ※( )内は、20名以上の団体割引料金
        ※障害者手帳等をお持ちの方とその介護者1名は無料
主  催 群馬県立土屋文明記念文学館
後       援 朝日新聞前橋総局 毎日新聞前橋支局 読売新聞前橋支局 上毛新聞社 桐生タイムス社
        NHK前橋放送局 群馬テレビ エフエム群馬 ラジオ高崎
 
文字は「書く」から「打つ」へ。私たちは自分の思いをペンや筆で綴ることが少なくなりました。
しかし、手書きの文字には活字にはない大きな魅力―力強さや温かさ―があります。
本展では、当館で所蔵している資料の中から、近代の文豪たちの直筆資料を多数ご紹介します。
夏目漱石、与謝野晶子、北原白秋、芥川龍之介、太宰治・・・・・・。
近代を駆け抜けた文豪たちの文字に、ぜひ会いに来てください。
原稿や色紙から感じられる、彼らの息づかい。編集者と交わされた葉書や封書からうかがえる、作品への思い。
きっと文豪たちの文字があなたに語ってくれることでしょう。
 
関連行事
※申込方法  記念講演会は事前に電話もしくは受付カウンターにてお申し込みください。 TEL.027-373-7721
記念講演会「編集者の仕事とは」(要申込・無料)
 2月15日(日)14:00~15:30 講師:石原正康氏(幻冬舎取締役兼専務執行委員 編集本部本部長)
 定員:150名
 講師プロフィール:法政大学卒。株式会社幻冬舎の編集者として『大河の一滴』(五木寛之)や『永遠の仔』(天童荒太)『13歳のハローワーク』(村上龍)など、ミリオンセラーや多くのベストセラーを生み出した。現在も編集最高責任者として活躍中である。
 
ギャラリートーク(申込不要・要観覧料) 本企画展担当職員による展示解説
1月17日(土)、2月21日(土)、3月7日(土) 各回13:30~14:00
 
 
同館は、平成8年(1996)の開館で、初代館長が、光太郎と交流のあった故・伊藤信吉氏でした。そこで、収蔵品には伊藤氏の手許にあった資料などが含まれ、かなり充実しています。友人がここで勤務していた頃、書庫に入れていただいたことがありますが、その充実ぶりに驚きました。光太郎関連の資料も多く、つい先日ご紹介した葉書などもここに収められています。
 
さて、チラシによれば、光太郎以外に、夏目漱石、若山牧水、北原白秋、斎藤茂吉、芥川龍之介、与謝野晶子、江戸川乱歩、太宰治、高浜虚子の直筆が並ぶとのこと。一見の価値はありますね。
 
暇を見て行ってこようと思っております。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月19日

昭和29年(1954)の今日、終の棲家となった中野のアトリエに、画家・白瀧幾之助が訪ねてきました。

白瀧は光太郎より10歳年長。東京美術学校に学び、明治末に欧米留学、光太郎と同じ時期にニューヨーク、ロンドンに滞在、ロンドンでは光太郎と共同生活をしたこともありました。その頃の仇名は「入道」。大柄で禿頭だったためです。
 
書簡のやりとりなどはありましたが、昭和29年の今日の再会は、かなり久しぶりのようでした。時に光太郎数え72歳、白瀧は同じく82歳。異国の地で青春時代の一時期を共に過ごしたおよそ50年前の思い出が、二人の胸を去来したことでしょう。

1/25のこのブログでご紹介した写真展「昭和初期の赤城山を見る」。先週開幕し、『東京新聞』さんなどで報道されています。

昭和初期の赤城山たどる 前橋で写真展 猪谷六合雄の孫 保管の95枚

 昭和初頭の赤城山の情景をモノ001クロ写真でたどる「昭和初期の赤城山を見る」が赤城公園ビジターセンター(前橋市富士見町)で開かれている。赤城山にゆかりが深く、日本スキー界の草分けとして知られた猪谷六合雄(いがやくにお)の孫が保管していた写真で、まとまった形で公開するのは初めて。 
 
 企画したNPO法人赤城自然塾の小林善紀事務局長は「撮影の時期や場所もはっきりした貴重な資料で、環境学習に生かしたい」と話す。
 
 写真は昭和五(一九三〇)年から同八年の撮影で、一冊の写真帳に九十五枚が収められていた。「早春残雪ノ小沼平 昭和六・五月初」などと、それぞれ台紙に場所、年月を記している。写真の一部に「IGAYA MT.AKAGI JAPAN」の刻印があるが、このころ六合雄は群馬を離れており、親族の撮影との見方もある。
 
 展示には、赤城大沼付近にあった軍馬を育成する牧場や、あちこちで起きていた「ゾロ」と呼ばれる山肌崩壊をとらえた写真がある。戦後、牧場が閉じられると樹木が覆い、砂防ダムの建設でゾロが抑えられた。写真展を監修した東京福祉大大学院の栗原久教授は「数十年で植生や環境が変わったことが分かる」と話す。
 
 旧赤城神社の立派な社殿の写真もあり、住民が赤城山を敬っていたことも読み取れる。
 
 写真帳は猪谷の孫でセンター職員だった小竹恵美子さん(66)=前橋市=が十五年ほど前、父猪谷孟夫さんの遺品から見つけた。小竹さんが自然塾での依頼講演で紹介すると、「多くの人に見てもらうべきだ」と勧められた。運用を任された塾が中部県民局中部行政事務所の協力で写真展にこぎ着けた。
 
 栗原さん、小林さんは「撮影場所をたどる環境ツアーの開催など展示以外でも生かしたい」と話す。
 
 写真展はセンターが七日まで、十二日~三月七日が県前橋合同庁舎(同市上細井町、土日は閉庁)、三月十~十七日が前橋プラザ元気21(同市本町)。二月十三日午後一時半から、同合同庁舎で栗原さんの講演会(先着百人、無料)がある。申し込みは中部行政事務所=ファクス027(234)9333、問い合わせは、同=電027(231)2765=へ。
 
 <猪谷六合雄> 1890~1986年。旧富士見村出身。赤城山で旅館経営に携わり、スキーを愛し指導に取り組んだ。国際オリンピック委員会委員も務めた息子の千春氏は、1956年のコルチナ・ダンペッツォ五輪(イタリア)のアルペン競技(回転)で日本人初の冬季五輪メダリストとなった。小説家の志賀直哉、詩人・彫刻家の高村光太郎らとも交流した
 
ちょうどソチ五輪が開幕しましたが、猪谷六合雄の子息・千春氏は日本人初の冬季五輪メダリストなのですね。ちなみに氏がメダルを獲得したコルチナ・ダンペッツォ五輪は昭和31年(1956)1月26日から2月5日までということで、光太郎は余命あと2ヶ月、ほぼ寝たきりの時期でした。光太郎、千春氏の活躍を知っていたのでしょうか。
 
この記事を書いている今、午前0時をまわって、日付が変わったばかりです。今日から1泊2日で十和田に行って参ります。雪の青森はどんなものなのだろう、と思っていましたら、今日明日と、関東でも大雪という予報。在来線の特急はもう運休が決まっているとのこと。十和田まで予定通りたどりつけるか心配です。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月8日

明治44年(1911)の今日、実質的に光太郎が経営していた日本初といわれる画廊・琅玕洞(ろうかんどう)で、与謝野晶子の短冊が売れました。
 
値段は10銭。この日に限らず、晶子の短冊は琅玕洞の人気商品の一つでした。今も時折古書市場で晶子の短冊を見かけますが、中には琅玕洞経由で売られたものも含まれていると考えられます。

群馬発のイベント情報です。 

写真展「昭和初期の赤城山を見る」

(1)主催:中部行政事務所、NPO法人赤城自然塾
(2)写真提供:小竹 恵美子 氏
(3)写真監修:栗原 久 氏(東京福祉大学・大学院教授)
(4)協力:前橋市
(5)内容:
志賀直哉、高村光太郎らと交流があり、日本スキー界の草分けとして知られる猪谷六合雄(息子は日本人初の冬季オリンピックメダリストとなった猪谷千春氏)の孫である小竹恵美子氏のもとから、昭和5年(1930年)から昭和8年(1933年)の赤城山の写真が発見されました。これらの写真95枚を拡大して展示します。
(6)観覧料:無料
(7)会場、開催日など
  ●赤城公園ビジターセンター(前橋市富士見町赤城山1)
   開催日:2月1日(土)~2月7日(金) ※2月3日(月)休館
    時間:9:00~15:00
     ※2月1日(土)12:45~13:00は「ぐんまちゃん」がやってきます。
   ●群馬県前橋合同庁舎1Fロビー(前橋市上細井町2142-1)
    開催日:2月12日(水)~3月7日(金) ※土、日曜日閉庁
     時間:8:30~17:15
               ※2月12日(水)は13:00から。3月7日(金)は13:00まで
   ●前橋プラザ元気21 3F 中央公民館ホワイエ(前橋市本町二丁目12-1)
     開催日:3月10日(月)~3月17日(月) ※休館日なし
   時 間:9:00~22:00
               ※3月10日(月)は13:00から。3月17日(金)は13:00まで
(8)写真説明会
  日時:2月1日(土)13:00~  (「赤城山雪まつり」の開催日)
  会場:赤城公園ビジターセンター(前橋市富士見町赤城山1)
  内容:写真監修者で上毛新聞社刊「なるほど赤城学」の著者・栗原久氏による写真説明会
  料金:無料  ※事前の申し込みは不要です。直接会場にお越しください。
 
2 写真展を記念した講演会「赤城山の魅力を探る」
(1)日時:2月13日(木)13:30~15:00 (※前橋合同庁舎で写真展も開催)
(2)会場:前橋合同庁舎6F大会議室(前橋市上細井町2142-1)
(3)講師:栗原 久 氏(東京福祉大学・大学院教授)
(4)内容:
    赤城山の歴史、文化など意外と知られていない赤城山のいろいろについて、「なるほ
    ど赤城学」の著者が語ります。(※中部県民局県政懇談会の中で実施)
(5)参加料:無料
(6)定員:100名(先着順)
(7)参加方法:事前の申込みが必要です。
   開催日前日までにFAXで代表者氏名、電話番号、参
加人数をお伝えください。
   (様式はありません。)
 
3 問合せ、申し込み先  中部県民局中部行政事務所 
             電話:027-231-2765  FAX:027-234-9333
 
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光太郎の父・光雲は赤城神社を産土神として信仰しており、その影響で、光雲ともども光太郎自身も赤城山に何度も足を運んでいます。また、光太郎は赤城を舞台にした連作短歌「毒うつぎ」(明治38年=1905)なども書いています。
 
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こちらは昭和6年(1931)、赤城神社で撮られた光雲と光太郎です。
 
さらにその影響もあって、光太郎の朋友・水野葉舟や、与謝野鉄幹をはじめとする新詩社の同人も光太郎を案内役に、赤城に逗留しました。そうした際にこ光太郎らが定宿としたのが、猪谷(いがや)旅館、猪谷六合雄の実家です。光太郎や葉舟と、六合雄の姉・ちよとの間には、そこはかとないロマンスがあったとかなかったとか。
 
六合雄と光太郎も親しく交わり(光太郎の方が7歳年上)、明治37年(1904)に光太郎が猪谷旅館に逗留した折に描かれたスケッチ『赤城画帖』(昭和31年=1956、龍星閣より上梓)の解説を、六合雄が執筆したりしています。
 
その六合雄旧蔵と思われる95枚の写真が展示されるとのことで、ちょうど光太郎が足しげく通っていた当時の赤城山のものですね。当時とは赤城神社の位置が変わっていたりするので、貴重なものだと思われます。
 
ぜひ足をお運びください。
 
ちなみに当方も、同じ頃、猪谷旅館が発行した絵葉書セットなどを持っています。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月25日

昭和57年(1982)の今日、日本経済新聞社からバーナード・リーチ著『東と西を超えて 自伝的回想』(福田陸太郎訳)が刊行されました。
 
リーチはイギリス留学中の光太郎とロンドンで知り合い、元々持っていた日本熱が更に昂じて来日し、陶芸家となります。本書には、光太郎に関する回想も書かれています。

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