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紙面にも載ったのかどうか存じませんが、『産経新聞』さんのサイトに、長野県上田市で開催中の「没後100年 村山槐多展」に関する記事が出ました。光太郎に触れて下さっています。 

没後100年 村山槐多展 新発見作含む創作の軌跡 「火だるま」が表現したかったものとは

 100年前、22歳の若さで世を去った詩人画家、村山槐多(かいた)(1896~1919年)。夭折(ようせつ)ゆえに現存作品は多くなく、画業の全貌は謎に包まれていたが、このほど油彩11点を含む140点以上が新たに確認された。長野県の上田市立美術館で開催中の「没後100年 村山槐多展」で公開されており、知られざる創作の軌跡が見えてくる。(黒沢綾子)
 槐多の未公開作品を多数確認したと、おかざき世界こども美術博物館(愛知県岡崎市)が発表したのは今年4月。槐多研究で知られる同館副館長代行の村松和明(やすはる)さんが、長年調査する中で存在が判明したものという。
 村松さんによれば、これまで槐
多の現存する油彩は30点弱とされてきたが、新たに11点が加わった。パステル画に水彩画、そしてデッサンなど小品や習作も含めると、未公開作品は140点を優に超える。
 その大半は少年期に描かれたもので、槐多の母校、旧制京都府立一中の同級生らの家で所蔵されてきたという。岡崎と上田で没後100年の記念展を開くにあたり、ようやく公開に至り、代表作の「尿(いばり)する裸僧」「バラと少女」などとともに並べられている。
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 詩人の高村光太郎(1883~1956年)が「火だるま槐多」と表したように、烈火のごとく絵を描き詩をよみ、短い命を燃やし尽くした激しいイメージが槐多にはつきまとう。血のようなガランス(あかね色)の絵の具を塗り込めた「尿する裸僧」の、野性味あふれる僧の姿に、ありし日の画家を重ねる人も多いだろう。しかし初公開の作品群を見ると、それは画家の一側面に過ぎないのでは、と思えてくる。
 槐多は岡崎生まれ。
教師だった父の転勤で高知や京都に移り住み、やがて画家を志し18歳で上京した。
 槐多の画才にいち早く気付き、14歳の彼に油絵具一式を与えたのは、いとこの洋画家、山本鼎(かなえ)(1882~1946年)だ。その頃描いた「雲湧(わ)く山」(明治44年、初公開)は、大胆な構図といい、魅力的な絵肌といい、油彩に取り組み始めた少年の絵とは思えない早熟ぶりを示している。
 地元・京都の神社仏閣や近郊の山、水
辺を写実的に描いたパステル画も数多く展示。龍安寺の石庭をいろんな角度から、細部を含めて描写したスケッチも見応えがある。「槐多は授業中も絶えず手を動かし、絵の虫だったと級友らは生前語っていたそうです」と村松さん。繊細さと天真爛漫(らんまん)さを感じさせる初公開の作品群は、槐多が本格的に画家として突っ走る前の“助走”の部分を伝える。
 上京後、画業の挫折や失恋などを経て二十歳前後になった槐多は「アニマリズム」を標榜(ひょうぼう)。フォービスム(野獣派)など欧州の美術動向を意識しつつ、荒々しい筆致で内なる野生を表現し、充実期を迎えた。が、運命は過酷だ。結核性肺炎を宣告され、絶望のため酒浸りに。しかし最期まで、表現することをやめなかった。最後の詩「いのり」に痛切な願いを綴(つづ)っている。
 〈生きて居れば空が見られ木がみられ/画が描ける/あすもあの写生をつづけられる〉
 「彼が生涯を通じて描きたかったのは、自然への畏敬と、そこに生きる生命の賛歌でした」と村松さんは力説する。絶頂期に描かれた油彩の風景画「房州風景」(大正6年、初公開)は、画家の精神的な到達点を見せてくれる。
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 9月1日まで。第1期(~8月12日)
と第2期(8月14日~9月1日)で作品を一部入れ替える。火曜休。一般500円。問い合わせは0268・27・2300。


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当方、盆休み中に行ってこようと思っております。夜中に移動すればそれほど道路も混んでいないと思いますのでそうします。


【折々のことば・光太郎】

悠々たる無一物に、荒涼の美を満喫せん    短句揮毫 戦後

昭和22年(1947)に発表された、自己の生涯をふりかえっての連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」に、「いま悠々たる無一物に/私は荒涼の美を満喫する。」という一節があり、そのアレンジです。後にご紹介しますが、別のバージョンで、漢文風に漢字のみとした揮毫も存在します。

智恵子も、アトリエ兼住居も、過去の彫刻作品も、彫刻の出来る環境も、そして名声も、その全てを失い、文字通り裸一貫での蟄居生活。しかし、そこにも「荒涼の美」も見いだし、さらにそれを満喫しようというわけです。

昨日、NHK BSプレミアムさんで放映された「偉人たちの健康診断 東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」を拝見しました。

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全体的にはなかなかのクオリティでした。

健康系の番組ですので、心を病んだ智恵子がメイン。そこから様々な知恵を学び取ろうというコンセプトです。

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再現ビデオの部分は、予想通り平成27年(2015)にNHKさんの地上波総合テレビで放映された、「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」からの使い回しでした。しかし、久しぶりに見て、やはり感動してしまいました(笑)。そういえば、MCの渡邉あゆみさん、当時「ヒストリア」でも司会でした。

龍星閣版『智恵子抄』初版の映像も「ヒストリア」からの転用。したがって、「ヒストリア」の際にお貸しした当方手持ちの『智恵子抄』です(笑)。

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コメンテーターとしてご出演なさった、『詩人の妻 高村智恵子ノート』(昭和58年=1983 未来社)の著者・郷原宏氏をはじめ、医学系の専門家の方々による分析や説明など、「なるほど」という点が多く、その点がすばらしいと思いました。

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智恵子の故郷・福島二本松、戦後に光太郎が逼塞した花巻郊外旧太田村、そして光太郎最後の大作にして智恵子の顔を持つ「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖などの映像もふんだんに使われていました。

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また、光太郎彫刻や智恵子の紙絵、古写真、ブリヂストン美術館さん制作の美術映画「高村光太郎」から光太郎の動画なども使われ、手間がかかっている丁寧な作りだと感心しました。

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当会顧問・北川太一先生ご所蔵の、智恵子から母・センに宛てた書簡(昭和6年=1931)も。

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同じく北川先生ご所蔵の、結婚前の光太郎から智恵子へのラブレター(大正2年=1913)は紹介されませんでした。

しかし、一点、苦言を呈させていただくと、「智恵子が色覚異常であった」と、ほぼ断言していた点。

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確かにそういう説はあります。その根拠は、智恵子が福島高等女学校時代の親友だった上野ヤスにそう語ったことがある、という証言です。あとは状況証拠的に、結局、油絵で大成できなかったことや、画学生時代に人と違う色遣いを好んでいたという証言、それから光太郎の残した「彼女は色彩について実に苦しみ悩んだ。」(「智恵子の半生」昭和15年=1940)、「その油絵にはまだ色彩に不十分なもののある事は争はれなかつた。その素描にはすばらしい力と優雅とを持つてゐたが、油絵具を十分に克服する事がどうしてもまだ出来なかつた。」(同)という回想がある程度です。

智恵子が色覚について医師の診断を受けたという記録は見あたりません。また、番組でも解説されていましたが、女性の場合は発症率が非常に低い(番組では500人に1人としていました)のです。色覚異常はほぼ100%遺伝によるもので、女性の場合、両親双方から遺伝因子を受け継がないと発症しません。となると、智恵子の父母弟妹などにもその症状が現れているはずなのですが、そうした記録も見あたりません(もっとも、智恵子以外は自覚することができなかったのかもしれませんが)。

そう考えると、智恵子が色覚異常だったと断定するのは早計だと思われます。

ただ、その後の専門家の方の解説が非常に興味深いものでした。人類に一定の割合で色覚異常が発現するのは、狩りをしていた太古の時代の名残だろうというのです。

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保護色で目くらましをはかる獲物や、人類の天敵たる肉食獣を発見しやすいそうで。これは存じませんでした。

後半は、やはりパラアート的な部分、アートセラピーなどの関連で智恵子の紙絵が紹介されました。

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智恵子同様、切り絵に取り組んでいる患者さんもご出演。興味深く拝見しました。

ラストは「乙女の像」。

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8月1日(木)、午前8:00から9:00、同じNHK BSプレミアムさんで再放送があります。ご覧になっていない方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

私はふざけた事は大厭ひなんですけれど、上品なユーモアは好きです。変なあくどい漫画は、手許にあれば裂き捨てる位なんですが、気品高きものは、飽かず眺めます。

談話筆記「悪趣味を排す」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

漫画とは同列に扱えないとは思いますが、後の智恵子の紙絵も、「上品なユーモア」「気品高きもの」として、「飽かず眺め」たことでしょう。

以前もちらっとご紹介しましたテレビ放映情報です。

偉人たちの健康診断「東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」

NHK BSプレミアム 2019年7月25日(木) 20時00分~21時00分  再放送 8月1日(木) 8時00分~9時00分

健康のヒントは歴史にあり!歴史上の人物の日常生活や病歴、さらには健康へのこだわりから、現代の私たちが元気で長生きするためのヒントを探ります。

太平洋戦争前夜の1941年、一冊の詩集「智恵子抄」がベストセラーとなった。彫刻家・高村光太郎が、画家を目指す妻・智恵子との出会いから死別までの27年間の愛の軌跡をつづった純愛詩集だ。そこには、夫・光太郎をこよなく愛しながらも数奇な運命に見舞われた智恵子の、心と体が発するSOSが記されていた!そして、ついに心を病んでしまった智恵子の心を、夫のもとにつなぎとめた奇跡の○○○とは?時代を超えた純愛物語!

【出演】 関根勤 カンニング竹山 榊原郁恵
【解説】 郷原宏 河村正二 宮崎良文 池淵恵美
【司会】 渡邊あゆみ

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当会顧問・北川太一先生がお持ちの、智恵子から母・センに宛てた書簡が紹介されるそうで、その他、NHKさんですのでCMが入りませんから、正味1時間、けっこうみっしり詰まった内容になるかと存じます。

スタジオゲストの郷原宏氏は、昭和58年(1983)に、未来社から『詩人の妻 高村智恵子ノート』という書籍を刊行された方で、平成27年(2015)にBSフジさんで放映された「発掘!歴史に秘めた恋物語~高村光太郎と智恵子~決して女神でない」にもご出演なさいました。

NHKさんというと、やはり平成27年(2015)に、「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」を放映して下さいましたが、その際の映像がいろいろと使い回しされるようです。

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今回の予告編に出たこちら。左は「ヒストリア」の再現Vに出演された鈴木一真さんと前田亜希さん。右の『智恵子抄』は、「ヒストリア」の際にお貸しした当方手持ちの『智恵子抄』です(笑)。昨年放映された「民謡魂 ふるさとの唄 福島県二本松市」でも使われました。どうもNHKさん内部でアーカイブ的な映像として登録されているようです。

こちらも前田亜希さんですね。

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番組内容紹介にある「心を病んでしまった智恵子の心を、夫のもとにつなぎとめた奇跡の○○○とは?」の「○○○」、最初は「レモン」かな、と思っていました。昭和13年10月5日(水)、南品川ゼームス坂病院で、光太郎が持参したレモンをがりりと噛んで、一瞬、意識が正常に戻って逝ってしまった智恵子。そこで、レモンには精神を落ち着かせる効用が……的な話になるのかなと思っていましたが、どうもそうではないようです。

予告編に拠れば「○○○」は「アート」。なるほど、最近はやりのパラアート的な部分、アートセラピーなどの分野で智恵子の紙絵が取り上げられることも多いので、そっちか、という感じでした。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

自分の彫刻がもう一ぺん生きかえつて来たのを、大変ありがたいと思つて感謝しております。

談話筆記「裸婦像完成記念会挨拶」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

智恵子の顔を持つ、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の完成記念会での挨拶から。

よくあるたとえの、ローソクの火が燃え尽きる前に一瞬輝きを増す、まさしくそれが起こったわけで、同じ挨拶で光太郎が述べたとおり、像の制作中はそれまで悩まされていた結核性の喀血も不思議と止んだそうです。

まじめな論文などでは許されないのでしょうが、あの世から智恵子が力を貸してくれた、的な、そんな解釈をしたくなります。

過日ご紹介した、智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰を続けられている智恵子のまち夢くらぶさんの山梨、静岡方面への研修旅行がつつがなく終わったそうで、同行された太平洋美術会の坂本富江さんから、静岡の地元紙『沼津朝日』さんのコピーが届きました。

高村夫妻顕彰団体が一小を訪問 智恵子の絵画作品に登場の木を見学

 詩人で彫刻家の高村光太郎の妻として知られる高村智恵子の足跡をたどって、智恵子の出身地、福島県二本松市の市民団体が17日、一小を訪れた。
 画家として活動していた智恵子は、光太郎と婚約した年の1913年、沼津にあった親友宅に滞在し「樟(くす)」と題する油絵を描いた。これは3点しか現存しない智恵子の作品の一つで、現在は山梨県北杜市の清春白樺美術館に収蔵されている。
 二本松市で智恵子・光太郎夫妻の顕彰活動を行っている団体「智恵子のまち夢くらぶ」は、毎年開催している夫妻の足跡をたどる旅の一環として、今年は智恵子ゆかりの沼津を選んだ。
 会員13人が山梨県で「樟」の実物を鑑賞した後、絵のモデルとなった木を見るため、一小を訪れた。同校校庭には江戸時代初期の沼津藩主大久保忠佐の墓である道喜塚(どうきづか)があり、その隣の大木が絵のモデルとなった。
 夢くらぶの熊谷健一代表はモデルの木を見学した感想として「美術館で見た原画は、図録で見るよりもはるかに良かった。モデルの木は大火でも生き残っただけあって、たくましい生命力を感じる。この木を智恵子が描いた意味合いを感じ取れた」と話す。
 今年の訪問先として「樟」ゆかりの地を提案した菅野ミチ子さんは、夢くらぶの会員になった理由として、「以前、観光客に智恵子のことを訪ねられたことがあったが、答えられませんでした。地元のことなのに勉強不足だと思い、学ぶために参加しました。」と話す。
 智恵子の生涯を研究している画家でエッセイストの坂本富江さん(東京都板橋区在住)の著書が今回の旅のきっかけとなった。『スケッチで訪ねる「智恵子抄」の旅 高村智恵子52年間の足跡』という題で、2015年に発売された増補改訂版では「樟」のモデル探しの旅が新たに付け加えられた。今回の来訪に案内人として付き添った坂本さんは「本がつないだ縁だと思っています。この機会を通して沼津も知ってもらえて嬉しい」と話している。

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「一小」というのは、沼津市立第一小学校さんです。

以前にも書きましたが、坂本さん、記事にあるとおり、現存が確認できている3点しかない智恵子の油絵のうちの1点「樟」に描かれている木が沼津一小さんに現存することをつきとめられました。

智恵子の福島高等女学校時代の親友・上野(旧姓・大熊)ヤスが沼津に転居しており、大正2年(1913)、そちらを訪れて描きました。ヤス自身は沼津で結婚後、夫の転勤で外地に渡ったそうですが、その頃、智恵子のすぐ下の妹で、智恵子と同じ日本女子大学校、さらに東京女子高等師範学校を卒業したセキが、漱石門下の小宮豊隆と不倫の関係となり、小宮の子を沼津のヤスの家で出産。ヤスの母親が親身になって世話をしてくれました。智恵子の沼津訪問もその関係です。その後、セキは渡米、生まれた子は里子に出されました。

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前列右端が智恵子、後列右から2人目がヤスです。

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「樟」の絵。以前は欅(けやき)と思われていました。

上記『沼津朝日』さんに載った写真を拡大すると……。

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たしかにこの木なのでしょう。

今後も枯れることなく、健在でいてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

健康の大切な事を真実に知る事。女学生時代に過度の運動をせぬ事。如何なる境遇にあつても自己の健康を護る事に本気になる事。旧時代の女性が健康を気にする程度の消極的な事でなく、もつと積極的、内面的、叡智的に。

アンケート「新時代の女性に望む資格のいろいろ」より
 大正15年(1926) 光太郎44歳

大正8年(1919)には、智恵子が順天堂病院に入院。これは子宮後屈症の手術のためでした。どうもこの際に、女学生時代の乗馬が原因と診断されたらしく、そのことが念頭に置かれた発言に思われます。

その他にも結婚後、常に健康を害していた智恵子。後屈症の手術直後には湿性肋膜炎(おそらく結核性)で入院していますし、大正11年(1922)には盲腸炎にも罹患しています。

ちなみにまた稿を改めてご紹介しますが、同じ「新時代の女性に望む資格のいろいろ」というアンケートには、智恵子も回答を寄せています。

またテレビ放映情報です。

光太郎と交流のあった夭折の天才画家・村山槐多(明治29年=1896~大正8年=1919)。先般、その未公開作品100余点が発見され、また脚光を浴び始めています。それらを展示している愛知県岡崎市のおかざき世界子ども美術博物館さんの「没後100年 岡崎が生んだ天才 村山槐多展」でのロケを中心にしています。

日曜美術館 「火だるま槐多~村山槐多の絵と詩~」

NHK Eテレ 2019年6月23日(日) 9:00~9:45  再放送 2019年6月30日 20:00~20:45

自由奔放な絵を描き、22歳の若さで夭折した村山槐多。没後100年にあたる今年、展覧会開催を機に新発見の作品も相次いでいる。村山槐多の絵を詩の朗読とともに見ていく
火だるまのような色、ガランス(暗赤色)こそ槐多の絵の最大の特徴である。『自画像』や『カンナと少女』。そして赤いオーラを放ちながら裸の僧侶が小便する『尿する裸僧』。今年は槐多が亡くなって丁度(ちょうど)100年。展覧会の開催を機に新発見の作品も相次いでいる。番組では、新たな作品の紹介をまじえながら、村山槐多の絵を詩の朗読とともに見ていく

【ゲスト】美術史家…村松和明
【出演】世田谷美術館館長…酒井忠康 詩人…高橋睦郎
【司会】小野正嗣 柴田祐規子

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サブタイトルの「火だるま槐多」は、光太郎詩「村山槐多」(昭和10年=1935)から採って下さいました。

    村山槐多

 槐多(くわいた)は下駄でがたがた上つて来た。
 又がたがた下駄をぬぐと、
 今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
 風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
 黒チョオクの「令嬢と乞食」。

 いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
 五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
 強くて悲しい火だるま槐多
 無限に渇したインポテンツ。

 「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
 「居るよ。」
 「僕は眼がつぶれたら自殺します。」

 眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
 自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。


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以前にも書きましたが、槐多は詩も書き、光太郎に見て貰ったりもしていました。歿した翌年、大正9年(1920)には、『槐多の歌へる』の題で詩集が出版され、光太郎も推薦文を寄せています。番組紹介で「詩の朗読とともに」とあるのは、おそらく槐多の詩でしょうが、光太郎の「村山槐多」もぜひ取り上げていただきたいものです。

詩「村山槐多」は、槐多の死後17年も経ってからの作です。同様に、翌年には歿後26年経った親友の碌山荻原守衛を偲ぶ「荻原守衛」という詩も書いています。双方、根柢には先に逝ってしまった敬愛すべき親しい芸術家への哀悼の意がこめられ、似たような読後感を受けます。なぜこの時期に、という疑問が残りますが。

ちなみに、来月末から、長野県上田市でも槐多の作品展が開催されます。残念ながら休館となってしまった信濃デッサン館さん、それからこちらは現在も健在の戦没画学生慰霊美術館・無言館さん館長の窪島誠一郎氏が槐多に惚れ込み、かつては信濃デッサン館さんで描いた作品を多数展示されるなどしていた縁ですね。関連行事として窪島氏とおかざき世界子ども美術博物館副館長代行・村松和明氏の対談も予定されています。


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さらにちなみに、美術図書出版の老舗・求龍堂さんから、『真実の眼ーガランスの夢 村山塊多全作品集』というカタログレゾンネ的な書籍も出版されました。編著は村松氏です。

他紙は存じませんが、『朝日新聞』さんでは広告も出ました。ただ、求龍堂さん自体のサイトにはまだ情報が出ていないようです。

当方、上田の展覧会には参ずるつもりです。関連する情報等出ましたら、またご紹介します。

さて、「日曜美術館」さん、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

ロダンの彫刻や素画は近代が有し得た天才性の一分水嶺である。一均衡である。此巨大な芸術家の暗示する未だ目覚めざる美が東洋に在る事を信ずる私達は、先づ此古代的近代人の閲歴から生れた言葉を深く味ひたいと思ふ。

雑纂「訳書広告「続ロダンの言葉」」全文 大正9年(1920) 光太郎38歳

この年刊行された光太郎訳『続ロダンの言葉』の広告から。

いったいに光太郎は、自己の芸術を推し進めるだけでなく、先人(ロダンやミケランジェロその他)や同時代の芸術家(槐多や守衛など)にも学び、いいものはいいと評価する姿勢を崩しませんでした。

論語に曰くの「学而不思則罔 思而不学則殆」ですね。先人などに学ぶだけで自分なりの考えを持たなければ真の理解にはたどり着かず、自分だけの考えに頼って広く他から学ぶことをおろそかにすれば、独断に陥って危険だ、といったところでしょうか。光太郎はこのあたりのバランスが絶妙だったように思われます。

明治末に智恵子が西洋画を学んでいた太平洋画会の後身・太平洋美術会研究所さんに所属されている坂本富江さんから情報をいただきました。坂本さんの故郷・山梨県韮崎市にある韮崎大村美術館さんがらみです。

まず企画展。3月から既に始まっているそうで。

企画展 「花と実り」

期  日 : 2019年3月9日(土)~5月26日(日)
会  場 : 韮崎大村美術館 山梨県韮崎市神山町鍋山1830-1
時  間 : 10:00-18:00
料  金 : 一般・大学生 500(420)円  小中高生 200(160)円 
                      ( )内は20名以上の団体料金
休  館  日 : 水曜日

冬の厳しい寒さがやわらいでくると、草木が開花し、目に見える風景が色鮮やかに変化していきます。そして穏やかな陽気の中、色とりどりに咲いた花たちは、やがて実りの時を迎え、再び花を咲かせるための種子を育てていきます。
このように春夏秋冬を通して変化していく自然の様を、古くから画家たちはそれぞれの視点で感じ取り、多くの芸術作品に残してきました。
本展では「花」と「実」という2つのモチーフに焦点をあて、四季折々に見られる自然の姿をご紹介します。はじまりの春ともいえるこの季節に、一つ一つの作品に潜む季節感を味わうと共に、めぐる生命の姿を感じていただければ幸いです。

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太平洋画会で智恵子と共に学んでいた亀高文子の作品(上記チラシ1枚目画像の左上)が展示されているそうです。

日本画家の渡辺豊洲の娘である亀高文子は、智恵子と同年の明治19年(1886)、横浜の生まれ。女子美術学校を経て太平洋画会に入り、智恵子と出会います。明治42年(1909)に、やはりここで学んでいた宮崎与平と結婚しましたが、与平は同45年(1912)に早世、のち大正7年(1918)に東洋汽船の船長・亀高五市と再婚し、亀高姓となりました。

ちなみに智恵子は与平に淡い恋心を抱いていたという証言もあり、逆に文子は光太郎を慕っていたという説もあります。また、歌人の会津八一が文子にプロポーズしたものの、断られたというエピソードも。

文子は女性洋画家の草分け的存在の一人ですが、現在ではその名が忘れかけられています。その作品が展示されている美術館さんもあまりないようで、貴重な機会かと存じます。

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韮崎大村美術館さんは、平成27年(2015)にノーベル生理学・医学賞を受賞された大村智博士のコレクションを中心にしていますが、大村博士の審美眼にかなったということなのでしょう。

同展では、他に光太郎と交流が深かった梅原龍三郎、安井曾太郎、さらに坂本さんの作品も展示されているそうです。大村博士、坂本さんと同郷、さらに年度は違いますが、同じ韮崎高校さんのご出身で、以前からお知り合いだとのことで。その関係で当方も博士に一度お目にかかりました

また、企画展示「花と実り」以外の常設展示では、光太郎のブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)が展示されているそうです。新しく鋳造された同型のものは全国各地の美術館さん、文学館さん等で展示されていますが、こちらのものは岸田劉生旧蔵のものらしく、そうなると数少ない大正期の鋳造ということになります。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

近ごろの道徳はだまし合いで、だました方が勝で、だまされた方が負け、これでは正しいことが否定されるようで淋しい。官吏なぞは善悪の判断さえ忘れたようですね。露見すれば悪くて露見しなければ悪くないと思っているらしい。
談話筆記「新春雑談」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

さらに最近は、官吏のみならず、議員や官邸まで、露見しても居直れば済むという風潮が蔓延していますね。道義的に明らかにおかしい場合でも、「法的に問題はない」などと。さすがに「復興以上に大事なのは高橋さんだ」「首相や副総理が言えないので私が忖度(そんたく)しました」はアウトでしたが(笑)。

智恵子関連新聞記事等、4件ご紹介します。

まず先週の『神戸新聞』さんの一面コラム。 

正平調 2018/10/08

湊川神社西側の坂を上ると神戸文化ホールの大壁画が目に入る。印象的な青いアジサイ。このモザイク画は高村智恵子の紙絵から制作された。ホールの完成は1973年だから、半世紀近く市民に親しまれている◆智恵子の名は、彫刻家・詩人である夫高村光太郎の愛に満ちた詩集「智恵子抄(ちえこしょう)」で知られるが、明治時代に洋画を学んだ先進的な女性だった◆精神を病んで、病床で紙絵を作り続けた智恵子は38年10月に52歳で没した。それから80年を迎える今年、郷里の福島県二本松市では智恵子抄の朗読大会などが開かれるという◆ホールのモザイク画の下には小さな石碑がある。光太郎の詩「晩餐(ばんさん)」の一節を刻む。〈われらのすべてに溢(あふ)れこぼるるものあれ われらつねにみちよ〉。光太郎と親交のあった詩人草野心平が書いた◆アジサイの元絵を収める画集「智恵子紙絵」を開けば、花や果物、動物などを題材にした繊細な作品が次々と現れる。これをホールの壁に選んだセンスに、今更ながら敬服する◆紙絵は智恵子の詩であり叙情であったと、光太郎は記す。「私に見せる時の智恵子の恥かしさうなうれしさうな顔が忘れられない」。ホールは三宮への移転が計画されている。その後も、この壁画が残ってくれればいいのだが。

神戸文化ホールさん、20年ほど前に、現地に行って観て参りました。

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原画はこちら。

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どういう経緯で智恵子の紙絵が神戸の地に採用されたのか寡聞にして存じませんが、こんな感じで智恵子作品が使われているのは全国でここだけです。

壁画の下には、記事にもある、当会の祖・草野心平揮毫の碑。

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壁画ともども、残していただきたいものです。


続いて、やはり先週、10日付の『朝日新聞』さん。投書欄の一角にある、風刺の効いた一言で笑いを誘う短文投稿欄的なコーナーです。 

かたえくぼ 羽田新ルート001


東京には日本の空がない  ――高村智恵子  (亘理・光太郎)




背景の解説的な、『東京新聞』さんの記事がこちら。 

<すぐそこに米軍 首都圏基地問題>横田空域の返還求めず 羽田新ルートで政府

 東京都心上空を初めて通る羽田空港(東京都大田区)の新飛行ルートが在日米軍が管制権をもつ横田空域を一時的に通過する問題で、日本政府が通過空域の返還を求めない方針であることが、国土交通、外務両省や米軍への取材で分かった。日米は管制業務の分担について協議を続けている。(皆川剛)
 新飛行ルートは二〇二〇年の東京五輪・パラリンピックに向け、羽田空港の国際線の発着枠を増やすために導入される。東京湾の上を通って離着陸するこれまでの原則を変え、都心上空を通過することになる。その際、横田空域の東端をかすめることになり、国交省と米軍の実務者間で対応を協議してきた。
 現在、羽田を利用する民間機は横田空域を避けて航行しており、新ルートに合わせて〇八年以来となる空域返還の可能性も取り沙汰された。しかし、国交省管制課と外務省日米地位協定室は本紙取材に、「横田空域の削減(返還)は求めない」との見解を示した。
 国交省の担当者は「〇八年の削減で当面の航空需要には対応できており、これ以上の削減を求めるのは米軍の運用上も難しい」と説明した。
 在日米軍司令部も「横田空域のいかなる部分に関しても、永久的な返還の実質的な交渉は行っていない」と文書で回答した。
 横田空域を維持したまま新飛行ルートを運用すれば、着陸間際の航空機の通る空域が羽田、横田、羽田と変わる。短時間の間にパイロットが交信先を二度変えねばならず、安全性の面からも懸念が大きい。国交省は、横田空域を通過する際も日本側が管制を一元的に担当する案も含めて米軍と協議するとしている。
 <横田空域> 東京から静岡や新潟まで1都8県にまたがり、高度約2400~7000メートルの階段状に広がる。域内にある厚木や入間などの基地を離着陸する米軍機や自衛隊機の管制を、横田基地の米軍人が行っている。民間機も飛行計画を提出すれば通れるが、現在、羽田空港の定期便の航空路は通っていない。

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こちらも寡聞にして存じませんでしたが、東京はじめ1都8県の空域は、ほぼ米軍の管理下にある実情だそうで。結局、アメリカのポチなんですね(笑)。


お次は『福島民友』さん。今週月曜の記事です。 

「智恵子の居室」特別公開 二本松の生家、初日から大勢の観光客

002 二本松市智恵子の生家・記念館自主事業として二本松市にある智恵子の生家2階の特別公開が13日、始まった。11月25日までの土、日曜日と祝日に公開される。
 生家の2階は通常公開されず、市内で繰り広げられている重陽の芸術祭の一環で「智恵子の居室」として披露された。
 初日から観光客らが大勢訪れ、興味深げに部屋の中を見て回っていた。時間は午前9時~正午と午後1時~同4時。
 切り絵アーティストの福井利佐さんの作品展も13日、智恵子の生家で始まった。同展は重陽の芸術祭プログラムの一つで、11月25日まで開かれている。智恵子の生家内の至る所に作品が飾られ、来場者を楽しませている。

福島ビエンナーレ」の一環としての取り組みです。昨年の様子はこちら。今年は切り絵作家の福井利佐さんによるインスタレーションが行われており、当方、来週末に行って参ります。福井さんのブログに展示風景がアップされています。


最後に一昨日の『福島民報』さん。 

飲食業者が全国大会 35都道府県1000人、復興応援

 全国社交飲食業代表者福島大会は十五日、福島市のとうほう・みんなの文化センター(福島県文化センター)で開かれた。席上、厚生労働省医薬・生活衛生局長表彰の太田和彦氏(郡山市、味の串天)、全国生活衛生同業組合中央会理事長感謝状の高野豊氏(会津若松市、ゑびす亭)、全国社交飲食業生活衛生同業組合連合会会長表彰の鴫原岩男氏(二本松市、クラブキーボード)らをたたえた。
  全国社交飲食業生活衛生同業組合連合会の主催、県社交飲食業生活衛生同業組合の主管。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故からの復興を応援しようと「ほんとの空・みんなの笑顔・よみがえる福島」を大会テーマに三十五都道府県から約千人が参加した。
  実行委員長の鈴木悦朗県社交飲食業生活衛生同業組合専務理事(福島市、轟座)ら都道府県ごとに組合旗を掲げて入場した。大会委員長の佐藤吉昭県社交飲食業生活衛生同業組合理事長(福島市、談妃留)が震災と原発事故後の全国からの支援に感謝を伝え「福島の魅力を味わってほしい」と歓迎した。畠利行副知事、木幡浩福島市長が祝辞を述べた。
  組合活性化のための人材育成に努め、組織の強化拡大などを盛り込んだ大会宣言を採択した。
  太田氏、高野氏、鴫原氏以外の県内受賞者は次の通り。
  ▽全国生活衛生同業組合中央会理事長感謝状=高橋光子(福島市、フラワーロード)伊藤小百合(須賀川市、スナック鶴つう)
  ▽全国社交飲食業生活衛生同業組合連合会会長表彰=中島隆(伊達市、FineBar Sora)

光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)中の「ほんとの空」の語、福島の復興の合い言葉として、広く一人歩きしている感があります。もっともっと広まってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

芸術品としての価値について今更贅語を費すのは、雪を冷たいと説明するやうな愚に近いのを感ずる。

散文「北原白秋の「思ひ出」」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

この年刊行された白秋の詩集『思ひ出』を評する文章の一節です。現代に於いても、「雪は冷たい」式のエラいセンセイ方の「評論」がまかり通っていますね(笑)。

註文しておいた雑誌が届きました。  

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いわゆるタウン誌とも少し違い、「大切に守り伝えたい「いいもの・いい心」を 広島から発信する“生活文化情報誌”」と謳っています。季刊でA4判112ページとなかなかのボリュームです。主に広島県内の観光地、イベント、店舗、扱われている特色ある商品などの紹介ですが、隣接県の情報も。今号は島根県の江の川が大きく取り上げられています。

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で、広島方面とは直接の関係は無いのですが、カラーアナリスト・児玉紀子さんの連載(と思われます)「色を読む」という稿で、智恵子と光太郎をメインに扱って下さっています。題して「智恵子抄 高村光太郎」。

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主に終焉の地となったゼームス坂病院で智恵子が制作した「紙絵」についての内容で、色彩の専門家らしく、こう評されています。

闘病の苦しみの中でも、魂の中に満ち満ちていた万物の美しい色彩を、智恵子は童女のような澄んだ心になってはじめて作品の中に解き放った。その造形、色の組み合わせや重ね方、切ないくらい穏やかで優しいたくさんの紙絵を残し、智恵子はあまりにも激しく純粋に生きた人生を閉じる。

すばらしい讃辞をありがとうございます。光太郎智恵子に成り代わりまして、御礼申し上げます。

実際、智恵子の紙絵に表された造形感覚、色彩のセンスなどは、まさしく超凡。一度、千駄木の髙村家で、何枚かの現物を手に取って拝見させていただきましたが、超凡かつ「あえかな」作品の数々に、涙が出そうでした。

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さて、「智恵子の紙絵」というと、花々をモチーフにしたものが多く含まれます。そして「智恵子」→「花」とくれば、「グロキシニア」。明治45年(1912)6月、駒込林町25番地に、後に二人の愛の巣となる光太郎のアトリエが竣工した際、智恵子がお祝いに鉢植えで持参した花です。

そのうち私は現在のアトリエを父に建ててもらふ事になり、明治四十五年には出来上つて、一人で移り住んだ。彼女はお祝にグロキシニヤの大鉢を持つて此処へ訪ねて来た。(散文「智恵子の半生」 昭和15年=1940)

寄席で、大川端で/そして/ミステリアスな南米の花/グロキシニアの花弁の奥で/薄紫の踊り子が、楽屋(フオワイエエ)の入口で/さう、さう/流行(はやり)の小唄をうたひながら/夕方、雷門のレストオランで/怖い女将(おかみ)の眼をぬすんで/待つてゐる、マドモワゼルが/待つてゐる、私を―― (詩「あをい雨」 明治45年=1912)

私は淋しい かなしい/何といふ気はないけれど/ちやうどあなたの下すつた/あのグロキシニアの/大きな花の腐つてゆくのを見る様な/私を棄てて腐つてゆくのを見る様な/空を旅してゆく鳥の/ゆくへをぢつとみてゐる様な/浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ (詩「人に」 大正元年=1912)

雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く/枕頭(ちんとう)のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く (詩「亡き人に」 昭和14年=1939)

先週、わが家のグロキシニアが花を咲かせました。

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一昨年の秋、智恵子を偲ぶ第22回レモン忌の際に、お土産として会場に飾られていて、いただいて帰ったものです。あまり花屋さんなどで見かけない花なので、栽培が難しいのかと思いきや、ほっぽらかしていても元気です。

ただ、一度、悪い奴の手にかかり、葉や茎がむしられて、枯れかけました。犯人(人ではありませんが)はこいつです。

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ちょっと目を離すと、猫草がわりに鉢やプランターの植物を、囓る囓る(笑)。グロキシニアもあやうく丸坊主にされかかりました。

そこで、どんどん囓っていいよ、ということで与えたのがこちら。

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ラディッシュの鉢植えです。こちらは囓られても囓られても新しい葉を出しますので。

閑話休題。『Grande ひろしま Vol.21(2018年夏号)』、版元サイトから購入ページにリンクされています。是非お買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

パリにはロダンが現に居て、会場などでは時々見かけたが、そのアトリエを訪問する勇気はなかつた。むやみと人を訪問して、仕事の邪魔をする無作法と厚かましさとは私が父や祖父から固く戒められてゐた事である。あつかましいといふ言葉ほど江戸伝来の家系にとつて卑しまれたものはないのである。
散文「ロダンの手記談話録」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

光太郎がロダンを訪問しなかったのは、厚かましさを嫌ったのみではなく、まだ何者でもない画学生に過ぎなかった気後れもあったのではと思われます。それにしても、「むやみと人を訪問して、仕事の邪魔をする無作法と厚かましさ」を厭う美徳、「電話」と言い換えてもいいような気もします。自宅兼事務所の固定電話にかかってくる電話の半分以上はわけのわからないセールスです。あるいはあわよくば金をせしめようとする特殊詐欺も含まれているのかも知れません。

紙面にも載ったのかどうか不明なのですが、長野の地方紙『信濃毎日新聞』さんのサイトに、昨日アップされた記事から。長野県上田市でのイベント情報です。

芸術の自由さ触れて 上田で二つの催し企画

 上田市を中心に詩の創作活動な003どに取り組み、同人詩誌「樹氷」を発行する「『樹氷』の会」が、市民が広く芸術に触れる機会にしてもらおうと二つの催しを企画している。20日は同市天神のサントミューゼで、戦没画学生慰霊美術館「無言館」(上田市古安曽)館主の窪島誠一郎さんの講演会を開催。8月5日には集まった参加者と共にマイクロバスで同館を訪れ、絵画を鑑賞する。同会はそれぞれ参加者を募っている。

 同会代表の小林光子さん(75)=緑が丘=が、夭折(ようせつ)の画家・村山槐多(かいた)(1896〜1919年)についてのエッセーを、別の同人詩誌に寄稿。執筆の際に目にした槐多の短歌に感銘を受け、槐多の作品を多く所蔵、展示してきた同市の「信濃デッサン館」(3月閉館)の館主でもある窪島さんに依頼し、催しを企画した。

 20日の講演会は2部構成で、前段は槐多の絵画、短歌などの芸術作品や、詩人・彫刻家の高村光太郎や洋画家・版画家山本鼎(かなえ)との関係について説明する。後段は座談会形式で、槐多や信濃デッサン館の今後について参加者と語り合う場にする。

 8月5日の絵画鑑賞は、無言館に展示されている戦没画学生の作品を見学し、学生たちの生涯について触れながら、平和と芸術について考える機会にしたいという。

 催しはともに市のわがまち魅力アップ応援事業を活用している。小林さんは「信濃デッサン館は上田市だけでなく、長野県の大事な財産」と存続を願う一人。また、槐多を「自分自身の思いや情緒をストレートに表現している」と評し、企画を通じて参加者には「芸術は心の中を自由に表現していいものだと伝えたい」と話している。

 20日は午後1時半〜4時。入場無料。8月5日は午前9時〜午後1時。先着50人まで。参加費は無料だが、無言館への入館料は自己負担。ともに中学生以上が対象。申し込みなどの問い合わせは小林さん(電話0268・24・3176)へ。


今のところ、ネット上にイベント自体の情報が見あたりませんで、上記記事から読み解くしかありませんが、同市の交流文化芸術センター・サントミューゼにおいて、やはり同市塩田地区にある戦没画学生慰霊美術館・無言館さん館長の窪島誠一郎氏によるご講演があるとのこと。無言館さんの姉妹館で、やはり窪島氏が館長の信濃デッサン館さんに作品が多数収蔵されている夭折の天才画家・村山槐多についてがメインで、槐多と交流のあった光太郎にも触れられるようです。

ところで、信濃デッサン館さん、今年3月をもって無期限休館――事実上、閉館――となったそうです。この件は存じませんでしたので、驚いております。今後は無言館さんの運営に集中されるとのことですが、やはり残念です。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

女性はますます美しかれ。ますますやさしかれ。ますますうるほひあれ。ますます此世の母性たれ。戦う男子の支柱たれ。男子の心は剛直にして折れ易い。すさび易い。その時、女性の美はこれを救ふ。

散文「扉のことば」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

少女雑誌『新女苑』に発表された文章の一節です。銃後の少女たちに呼び掛けるこの文言、女性を讃美しつつも、一種のモラハラ的な要素を含むでしょう。裏を返せば戦場へ赴く兵士達をしっかり送り出せ、ということにもなりましょうし。

こうして送り出された中には、無言館さんに作品が収められている、戦場で露と消えた画学生達も含まれていたわけです。東京美術学校の学生の中には、大先輩・光太郎のアトリエを訪れ、激励してもらったという、今年亡くなられた深沢竜一氏(光太郎詩「四人の学生」のモデル)のような方もいらっしゃいました。深沢氏は無事復員されましたが、帰って来られなかった学生も多くいたのではないでしょうか。もしかすると、無言館さんに作品が展示されている戦没画学生の中にも、光太郎の元を訪れたという学生もいたかもしれません。

昨日は都内2箇所(というか3箇所というか)を廻っておりました。3回に分けてレポートします。

まずは新宿。都庁近くのヒルトン東京さんにあるヒルトピアアートスクエアで開催中の「『智恵子抄』に魅せられて そして~今~ 坂本富江個展」を拝見して参りました。

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会場前の看板的な。智恵子の故郷、福島二本松特産の上川崎和紙だそうです。

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早速、拝見。

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坂本さん、明治末に智恵子が学んだ太平洋画会の後身である太平洋美術会の会員であらせられますが、美大等で専門の美術教育を受けられたわけではありません。いい意味で、そういう部分でのアクの強くない素人っぽさが魅力の一つです。描く対象に真摯に向き合い、自己表現というよりは、対象の美しさを画面に込めようとしているのがよく分かります。

先日、山梨で開催されたご講演の際にも駆けつけられた、ノーベル生理学・医学賞ご受賞の大村智博士も初日にお見えだったそうで、さっそく売約の札が。

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油絵以外にも、ご著書『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』の原画も。その一角は、智恵子と二本松のコーナーのような感じにもなっていました。

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福島ご出身の方などが御覧になったら、喜ばれるのではないかと思いました。

「画廊での個展」というと、気取った堅苦しい感じに受け止められがちですが、坂本さんのお人柄がよく表れたアットホームな感じ、こういうと何ですが、ある意味、高校の文化祭のような、そんな肩の凝らない感じでした。

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これらは、山梨でのご講演の際、当方がパワーポイントのスライドショーを作成しまして、そのために送信されてきたデータです。これらの作品も展示されています。

会期は24日(火)まで。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

画家が或る対象に憑かれるといふ事は、その対象の等価体としての画面に憑かれることを意味する。しかし画面に憑かれたもの、必ずしも逆に或る対象に憑かれたものとは言ひ難い。自然の対象はいつも画面の等価を無視してゐるからである。画面にのみ憑かれた画家は程なく枯れる。

散文「庫田叕君の画を見て」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

画家はある対象を見て、それに感動してそれを描くものでしょう。しかし、いつの間にか主客が逆転し、描いている対象よりも、描かれた自己の作品に酔い、対象へのリスペクトが薄れ、アクの強い自己主張ばかりの作品となることが往々にしてあるよ、ということでしょうか。坂本さんの作品には、そういう過剰な自己愛的なものが感じられませんでした。

洋画家・庫田叕は、光太郎とも交流のあった『歴程』同人の詩人・馬渕美意子の夫でした。

昨日は山梨県に行っておりました。『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』著者で、太平洋美術会、高村光太郎研究会に所属なさっている坂本富江さんが講演をなさるというので、そのお手伝いでした。

講演は、曹洞宗の山梨県寺族会(寺院ご住職奥様の会)平成30年度総会の一環で、会場は、甲府市に隣接する笛吹市石和温泉のホテル古柏園さん。

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玄関前には観賞用の花桃の大きな鉢。いかにも山梨です。

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参加者は90名ほど。坂本さんが山梨韮崎のご出身なので、その関係で白羽の矢が立ったようです。

何かお手伝いすることはないかと申し出たところ、パワーポイントのスライドショーを作ってくれ、というので作成し、ついでに会場でのパソコンの操作も致しました。

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休憩をはさみ、90分ほど。智恵子の生涯、光太郎とのからみ、そしてそれらから坂本さんがご自身の人生にどういう影響を受けたか、というようなお話でした。

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山梨県ということで、現存が確認されている智恵子油絵3点のうちの一つ、「樟」が所蔵されている北杜市の清春白樺美術館さん、そこからほど近い、戦時中の昭和17年(1942)に「日本の母」顕彰運動のため光太郎が訪れた富士川町上高下(かみたかおり)地区のお話も。

サプライズのゲストもいらっしゃいました。平成27年(2015)、ノーベル生理学・医学賞を受賞された、大村智博士。大村博士、坂本さんと同郷、さらに年度は違いますが、同じ韮崎高校さんのご出身で、以前からお知り合いだそうです。一昨日から新宿のヒルトピアアートスクエアさんで開催されている坂本さんの個展にもいらっしゃり、古柏園さんでのご講演の件を知って、ご実家に帰られる途中に立ち寄られたとのこと。

せっかくですのでご挨拶を賜りました。

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さらに記念撮影。

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分野は違えど、世界的な研究者の方のお隣で写真に
収めていただき、光栄の至りでした。
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ちなみに大村博士、美術にもご造詣が深く、長年に渡って収集してきたコレクションを郷里の韮崎市に寄贈され、韮崎大村美術館として一般公開されています。また、光太郎の盟友・岸田劉生のご子孫の方から、光太郎彫刻「裸婦坐像」(大正6年=1917)を譲っていただいたそうです。

可能であれば連翹忌にもご参加いただきたいものです。

思わぬところでいろいろな方のご縁がつながるものだな、と思いました。仏教用語で言うところの「結縁(けちえん)」ということなのでしょう。


明日はその坂本さんの個展、さらに文京区千駄木の旧安田楠雄邸庭園で開催中の「となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」を拝見して参ります。


【折々のことば・光太郎】

まるで税関の倉庫のやうに思もよらない貴重な雑多なものが、見かけはとんとがらくたじみて積込んである田夫の頭の中を本当に理解してくれる人は日本に少いやうであつた。
   につぽんは まことに まことに 狭くるし
   田夫支那にゆけ かの南支那に
と曾て私も歌つて彼の支那行を送つた事がある。

散文「宅野田夫を珍重す」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

宅野田夫(たくのでんぷ)は、初め洋画家としてスタートし、のちに南画に転じた画家です。光太郎も言うように日本という枠に収まりきらないスケールの大きな人物でした。

大村博士にしてもそうですが、いったいにノーベル賞を受賞された日本人研究者の多くも、そういう感じですね。スケールの小さい日本では正当に評価されて来ず、ノーベル賞を受賞されてから、慌てて日本の文化勲章などが授与されるような。

過日の第62回連翹忌で、ご案内を頂きました。

『智恵子抄』に魅せられて そして~今~ 坂本富江個展

期   日 : 2018年4月18日(水)~24日(火)
会   場 : ヒルトピアアートスクエア 新宿区西新宿6-6-2 ヒルトン東京B1F
時   間 : 10:00~19:00  初日 13:00~  最終日 ~15時
料   金 : 無料

自著本『スケッチで訪ねる『智恵子抄の旅』(牧歌舎刊行)の原画や手作り紙芝居なども展示いたします。ご高覧いただければ幸いです。

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明治末、油絵画家を目指した智恵子が学んだ太平洋画会の後身である太平洋美術会に所属されている、坂本富江さんの個展です。

坂本さん、同会の展覧会に智恵子の故郷・福島二本松の風景を描いた作品を出品なさったり、高村光太郎研究会にも加入なさっていたり、書籍『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』を刊行なさったり、光太郎智恵子それぞれの母校、荒川区立第一日暮里小学校さん、二本松市立油井小学校さんに招かれたりと、多方面でご活躍中です。

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また、4月19日(木)には、曹洞宗山梨県寺族会さん主催の講演会でご講演をなさるそうです。演題は「「人生はいつも始発駅 ――高村智恵子と私 三足のワラジが教えてくれたこと――」、会場は石和温泉のホテル古柏園さん。一般公開ではなく、寺族会の方々対象だそうで、坂本さん、韮崎のご出身ですので、そうした関係もあるのでしょう。当方、お手伝いを頼まれておりまして、行って参ります。


個展、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

私自身は芸術上の流風から言へば、かなり頑固な狩猟時代以来の、然し近代理智解剖の洗礼を受けた現実派(リアリズム)の道を行きつつあるものであり、其中に包蔵する種々の矛盾した因子の追究を極める事によつて其れを乗り超える――或は見方によつては此道を所謂揚棄するに至る事の予感と或る純粋形律への郷愁とを持つ者であり、又製作上の態度から言へば、飽くまで技術尊重、プラスチツク本位であり、又作家としての風懐から言へば悪趣味の美を(――此れも亦立派な美の領域なのだが――)断じて許すまいとするものであり、生活意識其他は今言ふ必要もない。

散文「上野の彫刻鑑賞」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

造型作家としての自らの客観的観察、もしくは定義です。

いただきもの等、ご紹介します。

まず、智恵子の故郷、福島県二本松で智恵子の顕彰活動をなさっている智恵子のまち夢くらぶさんの会報的な『智恵子講座2017文集』。

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基本、10月から今月にかけて行われていた「智恵子講座2017」に参加した方々の感想集的なものですが、それ以外の会の活動報告的な内容、それらが取り上げられた地方紙のコピーなども載っています。

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存じませんでしたが、『福島中央新報』さんには、今年の連翹忌を報じた記事も掲載されていました。

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東京でのイベントですが、東京で報じられず、福島の地方紙に載るというのも面白いものです。

夢くらぶさん、いろいろと地道な活動を続けられており、頭が下がります。


続いて、過日ご紹介したバリトン歌手・新井俊稀氏の、野村朗氏作曲「連作歌曲 智恵子抄」を含むCD。ネットで「買います」と注文したのですが、進呈されてしまいました。ありがたや。

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2枚組で、CD1が「新井俊稀 日本の抒情歌」、CD2が「連作歌曲 智恵子抄〜その愛と死と〜」。

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歌詞、ライナーノーツが載ったB5判20ページほどの冊子がついていました。

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これまでに、森山孝光氏・康子さんご夫妻の演奏で何度か拝聴しましたが、新井氏の歌唱、それからピアノは木下敦子さんという方で、また少し違った魅力が感じられました。


最後に、いただきものではありませんが、今月14日、『毎日新聞』さんの夕刊に、智恵子がその創刊号の表紙画を描いた『青鞜』がらみで大きく記事が載りましたので、ご紹介します。

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「明治150年 近代から現在を読む」という連載の一環のようで、今年文庫化された『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくるということ』の著者、森まゆみさんのご執筆です。

長いので全文は引用しませんが、さわりだけ。

 明治末、女性による文芸雑誌として創刊された『青鞜(せいとう)』はユニークな足跡を残した。背景には女性をめぐるどのような状況があり、この雑誌はいかなるインパクトを世にもたらしたのか。近代日本の文化に詳しい森まゆみさんの論考を通し考える。
 
 「元始女性は太陽であった」という高らかな宣言で知られる雑誌『青鞜』は、1911(明治44)年の9月に創刊号を出した。それまでの女性雑誌は男性編集者による上からの啓蒙(けいもう)がほとんどだった。『女学雑誌』(1885年創刊)、『女学世界』(1901年)、『婦人画報』(05年)など、いずれも面白く意義もあったが、女性による、女性のための、女性の雑誌は『青鞜』が初めてだ。
 『青鞜』は創刊時の目標を「女性の潜める天才を発現するための文芸雑誌」と定めた。

 女性でも自由に好きなことをして良いのだ、内面の完成こそ大事なのだ、という訴えは、多くの女性の共感を呼び、最大時3000もの読者を得る。その中心に「元祖スピリチュアル」ともいうべき美しいらいてうがいた。

 そして、今も「元始女性は太陽であった」「山の動く日来る」は日本の女性運動の掲げた旗として、記憶されている。


さて、暮れも押し詰まって参りました。明日からは、このブログの年末恒例、今年一年をふり返る記事を掲載します。


【折々のことば・光太郎】

「彫刻的なるもの」は此の世のあらゆる要素に潜在する。又其はおのづから人の生活に基準を与へる。

散文「彫刻的なるもの」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

こうした考えがさらに発展し、後の「美ならざるなし」という方向に行くのでしょう。

昨日始まった企画展です。いろいろありまして、事前にはご紹介しませんでしたが(理由は後述します)、 早速、昨日、見に行って参りました。

所蔵作品による"なんだろう"展+新収蔵品

期 日 : 2017年12月9日(土) ~2018年2月25日(日)
会 場 : 平塚市美術館 神奈川県平塚市西八幡1-3-3
時 間 : 9:30 ~ 17:00(入場は16:30 まで)
休館日 : 月曜日(1/8、2/12 は開館)、1/9 日(火)、年末年始(12/29~1/3)
料 金 : 一般200(140) 円、高大生100(70) 円  ( ) 内は20 名以上の団体料金

"なんだろう"展は、鑑賞する皆さんが主役です。何が描かれているか想像し、感じたことや作家への質問を書いてみましょう。また、昨年度新たに収蔵された作品も展示します。併せてお楽しみください。

 今回の“なんだろう” 展には、ふだん作品に付されている題名や作者名、解説文もありません。およそ30 点の作品は、幻想的だったり、どこか思わせぶりだったり、楽しくなったり、不思議な気持ちになるものばかりです。作品を見ることに正解はありません。それぞれの作家がつくった作品を見て、感じ、なにが描かれているのか想像してみましょう。そして感じたことを実際にかたわらに書いてみましょう。ほかの来館者が書いてくれた言葉も読んでみるとイメージがふくらむかもしれません。また、加藤芳信、山本直彰、岡村桂三郎、中ザワヒデキの作品についての質問を来館者から募集します。そして会期後半にみなさんの“なんだろう”に対する作家の「答え」を掲出します。さあ、深呼吸してリラックスして、立ち止まったり座ったり、“なんだろう” と考えてみましょう。どうしても気になった作品は、チラシの裏側にリストがあるので見てください。
 なお、同時開催として、福田美蘭《見返り美人鏡面群像図》をはじめ、昨年度、新たに収蔵された作品約40 点を展示しますので、併せてお楽しみください。

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「新収所蔵品展」の方で、光太郎の油絵が1点、出ています。大正3年に描かれた静物画です。「瓶とコップ」という題で展示されています。

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この年、光太郎は油絵の頒布会である「高村光太郎画会」を行いました。「画会」といっても展覧会ではなく、注文を取って油絵を描くためのシステムです。雑誌『現代の洋画』に広告が掲載されています。

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これにより、数点の油絵が制作された、そのうちの1点と思われます。

昭和48年(1973)に春秋社さんから刊行された『高村光太郎選集』別巻の、『高村光太郎 造型』には、その時点で確認されていた光太郎の彫刻、絵画、装幀作品がすべてリストアップされており、当時入手可能だった写真も掲載されています。この絵はそちらには掲載されておらず、その後に「発見」されたものでした。

リストといえば、筑摩書房『高村光太郎全集』別巻(平成10年=1998)にも造形作品の目録が掲載されており、そちらが現在最新かつ最も信頼のできるものです。そのリストでは「洋酒瓶二本」となっているものだと思われます。(こちらは画像が掲載されていません)。

昭和62年(1987)に小田急グランドギャラリーさんで開催された「光太郎智恵子の世界展」に出品されており、その頃見つかったものと思われます。平成2年(1990)、呉市立美術館さん、三重県立美術館さん、茨城県近代美術館さんを巡回した「高村光太郎・智恵子 その造型世界」展にも出品されています。それぞれ「静物(洋酒瓶)」という題名で出品されました。ただ、双方の図録とも「大正2年」となっていました。よく見ると絵の中に「1914 光」とサインがあるので、大正3年です。

で、今回、平塚市美術館さんで、「大正3年の静物画「瓶とコップ」が出る」というので、もしかして新発見かと思い、見に行った次第です。事前にご紹介しませんでしたが、それはガセだったら困ると思ったからでした。意外とガセがあります。「これが光太郎作品と言い切れるのか」というものが、光太郎の名で出品される展覧会等。この夏にも関東のある県で開催された企画展で、ありました。そちらは彫刻でした。小さな私設美術館などで、とても光太郎のものと思えない作風の絵が、光太郎のクレジットで常設されているところもあります。

今回のものはまちがいなく真作です。題名が以前に出品された時と異なるのは、ある意味仕方がないでしょう。個人からの寄託品だそうで、同じ方から寄託された木村荘八や萬鉄五郎の絵も、今回並んでいました。

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ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

今日、多くの人は油絵といふものは迚も所謂日本趣味と調和しない様に考へてゐる様ですが、此は習慣性と無識とかから、至極漠然とさう感じてゐるに過ぎないので、実際試みた上の話は少ない様です。私の考へでは、茶室の懸床(かけどこ)などにでも油絵をかけて、立派に調和させることが出来ると思つてゐます。
散文「油絵の懸け方」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

上記でご紹介した静物画などもですが、ここに述べられているような「茶室の懸床(かけどこ)などにでも」「立派に調和させることが出来る」油絵を、光太郎は目指していたようです。

たまたまネット上で見つけました。

篠原貴之水墨絵画展-水墨の新境地-

008期 日 : 2017年11月15日(水)~11月21日(火)
会 場 : 松屋銀座 7階遊びのギャラリー
      
東京都中央区銀座3-6-1
時  間 : 10:00-20:00 最終日17:00閉場
料  金 : 無料

京都府在住の水墨作家、篠原貴之。水墨画という東洋独自の伝統技法を使いながらも、西洋と東洋の垣根を取払った自由な視点で、現代の感性にフィットした水墨画の世界を創りだしています。全国各地で展覧会活動を展開する他、依頼を受けての襖絵や肖像画、小説や雑誌の装画やカレンダーの原画、テレビ番組とのコラボ等々、水墨画を活かす様々な分野を舞台とし積極的に活動しています。今回はどのような新作を発表してくれるのか、どうぞご期待ください。

【篠原貴之 プロフィール】
1961年 京都生まれ
1980年 京都市立日吉ヶ丘高等学校美術工芸コース西洋画科卒業
1986年 京都市立芸術大学美術学部彫刻科卒業、同大学院彫刻科入学
1987-1990年 イタリア国立ミラノ美術学院彫刻科に、イタリア政府給費留学生として留学
1990年 京都芸術短期大学(現京都造形大学)にて講師を務める傍ら、李庚先生、藤原六間堂先生の指導を受け水墨画を始める
1992-1994年 中国中央美術学院国画科に文部省派遣中国政府国費留学生として留学
1994年- 水墨画の創作、発表に専念
1997年 篠原貴之水墨画集『空と人と大地と』を出版
2001年 篠原貴之水墨画集『墨いろの旅—イタリア・日本—』を出版
2002年 直木賞受賞作『生きる』(乙川優三郎著、文芸春秋刊)の扉絵を担当
2003年 篠原貴之水墨画集『墨いろの情景』を出版
2005年 梅林寺(豊中市)に襖絵「降魔成道—菩提樹の下で—」を奉納
2007-2014年 国立新美術館にて現代水墨作家展招待出品
2009-2014年 京都を拠点とする日本画家グループ NIHONGA・京(日本橋三越本店 企画)結成、参加
2010年 ポルトガル国立ポルト大学美術学部にてアーチストレジデンス(制作、展覧会、授業)フランス ニース リオン近郊にて水墨ワークショップ
2011年 繁久寺(富山県)に襖絵「万葉故地」を奉納
2012年 パラッツォ デッレ プリジオーニにて個展(イタリア ヴェネチア)ブーアルジェンタにて個展(フランス ローヌ)
2013年 NHK音楽ドキュメンタリー番組「涙の書」のための水墨画作品 20点制作
2014年 フランス人水墨画愛好グループART ZENの依頼で、京都美山 奈良にて水墨画研修会を企 画、講師を務める。

ご本人のブログに、出品作品のご紹介が出ていました。その中で、「レモン哀歌」という作品も紹介されていました。

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いい感じですね。

いつも書いていますが、さまざまな分野の表現者の皆さんに、どんどん光太郎作品へのオマージュをお願いしたいところです。


【折々のことば・光太郎】

かんかんたる君子はコメデイヤン。 目から鼻にぬける時代は過ぎて 音よりもはやいジエツトが飛ぶ。 山の中にとり残された詩経の民が 旧暦の雪の中で炭を焼く。

詩「かんかんたる君子」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

「かんかん」は、あえて仮名表記にされていますが、いくつかの意味を込めるためにそうしているものと思われます。

当方手持ちの『広辞苑』には、16種の「かんかん」が登録されていますが、そのうち、当てはまりそうなものは以下の通り。

【閑閑】 心しずかに落ち着いているさま。心ののどかなさま。
【寛緩】 ゆるやかなさま。おおようなさま。
【緩緩】 ゆるやかなさま。いそがぬさま。
【侃侃】 剛直なさま。

「コメデイヤン」との自虐を含みながらも、万事にスピードが求められる時代の流れに逆らい、ゆっくり歩もうとする決意の表明です。さりとて、頑固にライフスタイルを変えることを拒否する保守的な老人のたわごとというわけでもありません。

手控えの詩稿に書き込まれた制作の日付は12月9日。10月下旬に最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の除幕式に参加し、いったん帰京。11月25日から12月5日まで、いまだ住民票を残したままの花巻郊外太田村に帰り、その直後の作です。

東京と太田村を行ったり来たりしながらの生活を考えていた光太郎ですが、結局は健康状態がそれを許さず、この後、東京を出ることなく歿します。

智恵子の故郷・二本松市の広報誌『広報にほんまつ』、今月号から。

第22回 智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール

 県内の小学校199校の児童から、2,830点の応募作品があり、最優秀賞「智恵子大賞」6点、特別賞6点、優秀賞60点、佳作60点の作品が入賞しました。最優秀賞を受賞した6作品を紹介します。
 なお最優秀賞と特別賞の計12点の作品を、次の日程で展示しています。
 展示期間 11月26日(日)まで 展示場所 智恵子記念館 ※智恵子記念館への入館料が必要

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こうした活動を通し、智恵子顕彰に役立てていって欲しいものです。

もう1件、先月、智恵子生家で開催された女優の一色采子さんらによる「智恵子抄」朗読とダンスのパフォーマンス「智恵子・レモン忌 あいのうた」も記事になっていました。 

智恵子・レモン忌あいのうた 高村智恵子の世界観を堪能

 9月9日より市内各地で開催されている「重陽の芸術祭」の一環として、高村光太郎の詩集「智恵子抄」とモダンダンスを楽しむ『智恵子・レモン忌あいのうた』が、智恵子の命日である10月5日に智恵子の生家で開催されました。
 序盤は、市観光大使で女優の大山采子さんによる智恵子抄の朗読がピアノ演奏に合わせて披露され、感情のこもったその語りに、訪れた大勢の観客が聞き入っていました。朗読が終わると、舞踊家で振付師の二瓶野枝さん(福島市出身)が、智恵子自身を表現した可憐なダンスパフォーマンスを披露し、智恵子の「もがき」「苦しみ」「喜び」などを、全身で表現しました。

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こちらは二本松市各所で展開中の「重陽の芸術祭2017」の一環として行われたものですが、芸術祭自体は今月23日(木・祝)までとなっています。智恵子生家も会場となっていて、現代アート作家の・清川あさみさんによるインスタレーションが展示中。こちらは26日(日)までです。併せて通常非公開の生家二階の公開も同日まで。さらに裏手の智恵子記念館では、智恵子紙絵の実物展示が28日(火)まで実施されています。


広報誌つながりで、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻の広報誌『広報はなまき』。やはり今月号に花巻高村光太郎記念館さんで開催中の「秋期企画展 智恵子の紙絵 智恵子抄の世界」の案内が掲載されています。

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当方、初日に拝見して参りました。レポートがこちら。27日(月)までの開催です。


それぞれ、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

あいつをばらばらにして るつぼにいれて煮つめよう。 泡の中から生れてくるのが 天然四元のいどみに堪へる さういふ人間の機構を持つか、 もつかもたぬかおれはしらん。

詩「餓鬼」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

戦時中の戦争協力を悔い、自らに課した「彫刻封印」の厳罰。それを解き、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外太田村から7年ぶりに再上京する直前の作です。

「あいつ」は、頭に渦巻く「乙女の像」の構想。作りたいものを作れる喜びは大きいものの、おそらく生涯最後の大作になるであろうことは自身でもよく分かっており、また、きちんと粘土を手にするのはほぼ10年ぶり、彫刻で最も難しいともいわれる裸婦像制作は35年ぶり。それでも粛々とやらねばならないという決意が伝わってきます。

題名の「餓鬼」は、「乙女の像」制作のエネルギー充填のためにしっかり飲食をするぞという、これまた悲壮ともいえる決意から来ています。

以前にも少し書きましたが、明治44年(1900311)に、智恵子が描いた雑誌『青鞜』の、有名な表紙絵についてです。

アール・ヌーボー風だとか、ギリシャの女神とか、エジプトのそれだとか、クリムトや青木繁の影響だとか、実にさまざまな説が唱えられてきましたが、とうとう解決しました。

連翹忌ご常連の、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏によるご調査で、智恵子のオリジナルの絵ではなく、元になった作品があったことが確認されたのです。

水沢氏がご自身のフェイスブックに発表され、その記事を紹介する他の方のブログを拝見、氏に資料を送って下さるようお願いしたところ、届きました。

それによれば、元になった作品は、ヨーゼフ・エンゲルハルトというオーストリアの画家が、明治37年(1904)のセントルイス万博のために制作した寄木細工「Merlinsage」でした。まったく同一と言っていい意匠ですので、まず間違いありません。下の画像の中央です。


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この件に付き、先月開催された智恵子忌日の集い・第23回レモン忌で、福島県立美術館さんの学芸員をなさっている堀宜雄氏が早速ご紹介。堀氏も水沢氏のフェイスブックをご覧になったそうでした。堀氏にもご教示いただき、いろいろとわかってきました。


「Merlinsage」は全9枚組の寄木細工で、モチーフはアーサー王伝説。5世紀から6世紀のブリトン人の王、アーサーの事績を元にしたもので、絵画や小説、映画などの題材としても幅広く知られています。「円卓の騎士ナントカ」というのはすべてアーサー王伝説から来ています。「Merlin(マーリン)」はその登場人物のひとりで、アーサー王を補佐し、導く魔術師です。「sage」は「伝説」の意。

「Merlinsage」の問題の女性は、アーサー王に伝説の剣・エクスカリバーを授けたとされる「湖の乙女」。ヴィヴィアン(Viviane)、ニムエ(Nimueh)など、さまざまな名前があてられていますが、湖の精を人格化したもののようです。

こちらはビアズリーの描いた湖の乙女、アーサー王、そしてマーリンです。

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背景に描かれている巴型のような図柄は、湖の000水泡、体の両脇に描かれている連続三角紋は、どうも乙女がまとっているヴェールらしいとのこと。智恵子の描いた『青鞜』表紙絵では、ヴェールの部分の描写は細部が省略されていて、わかりにくくなっています。

作者のヨーゼフ・エンゲルハルト(1864~1941)は、クリムトを中心としたウィーン分離派の画家。日本ではほとんど知られていない存在のようですが、海外のサイトではかなり言及されているものがあります。同派は絵画のみならず、総合芸術の構築を目指していた部分もあったということで、工芸的な作品も少なからずあり、そういうわけで寄木細工です。

先述の通り、明治37年(1904)のセントルイス万博のために制作されたものですが、明治42年(1909)になってカタログが刊行され、原色の図版が載りました(110ページ目)。それが日本に輸入されて販売されたか、帰国した留学生が持って帰ったか、そんなところで回り回って智恵子の目に触れたというわけでしょう。何とかして入手したいものです。

ところで、当時はこのように西洋の絵を模写して使うことは広く行われており、現代の感覚での「盗作」とは異なります。『青鞜』表紙絵が智恵子オリジナルではなかったというのは、少し残念な気もしますが……。

この件につきましては、今後も調査を継続し、またレポートすることもあるかと存じます。

それにしても「湖の乙女」とは、いやがうえにも光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を連想させ、不思議な縁を感じます。

追記 日本でも既に昭和7年(1932)、平凡社刊行の『世界美術全集 別卷第十一卷』にモノクロの画像で紹介されていました。だた、『青鞜』については言及されていません。
世界美術全集 別卷第十一卷
世界美術全集 別卷第十一卷解説
【折々のことば・光太郎】

山に友だちがいつぱいいる。 友だちは季節の流れに身をまかせて やつて来たり別れたり。
詩「山のともだち」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

長い詩ではないのですが、登場する「山に」「いつぱいいる」「友だち」は、「カツコー」「ホトトギス」「ツツドリ」「セミ」「トンボ」「ウグイス」「キツツキ」「トンビ」「ハヤブサ」「ハシブトガラス」「兎と狐の常連」「マムシ」「ドングリひろいの熊さん」「カモシカ」。ほんとに「いつぱい」です(笑)。

戦時中の戦争協力を悔い、自らに課した「彫刻封印」の厳罰。それを解き、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外太田村から7年ぶりに再上京する直前の作です。宿痾の肺結核のため、二度と太田村には戻って来られないかもしれないという覚悟があったようで(実際には翌年、「乙女の像」序幕後に10日間だけ戻りましたが)、「友だち」への惜辞のようにも読める詩です。

新刊、というか、ハードカバーの文庫化です。

『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくるということ

2017年3月17日 集英社(集英社文庫) 森まゆみ著 定価740円プラス税

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版元サイトより
女性解放運動の象徴と言われた雑誌『青鞜』の創刊から終刊までを追った評論。
雑誌編集という観点からの分析により、平塚らいてうら“新しい女性”たちの等身大の姿を浮き彫りにする。

ハードカバーは同社から平成25年(2013)に刊行されました。のちに第24回紫式部文学賞を受賞した労作です。

智恵子に関しても随所で触れられ、非常に示唆に富むものでした。

是非、お買い求めを。

現在発売中の雑誌『東京人』(都市出版)で、智恵子がその表紙絵を描いた雑誌『青鞜』および主幹の平塚らいてうが取り上げられています。

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昨年、日比谷の国立公文書館さんで開催された展覧会「平成28年秋の特別展 時代を超えて輝く女性たち」の関連行事として行われた、元タウン誌『谷中根津千駄木』編集長で作家の森まゆみさんの講演「女性解放のあけぼの―「青鞜」と平塚らいてう―」をまとめたものです。

全7ページ。本文に智恵子は出て来ませんでしたが、『青鞜』創刊号の表紙画像に添えられたキャプションでは触れて下さっています。

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さらに明治45年(1912)、大森で開かれた青鞜社の新年会の写真。智恵子が中央で写っています。右から二人目がらいてうです。

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締めの部分が以下の通り。

 明治、大正、昭和という激動の時代を、「青鞜」を囲むようにして生きた女性たちは、自らを偽ることなく、個としての確立をめざした。たくさんの女性たちの苦闘によって、今の私たちの権利、女性の自由があるのだということをきちんと心に刻みたい。

その通りですね。

また、こんな一節も。

 八十代まで長生きしたらいてうの陰に、たくさんの病気や生活苦で亡くなった関係者、自殺をした人もいたことを忘れたくない。

その中の一人が、智恵子だったというわけですね。


大きな書店さんなら店頭に並んでいます。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

死に背け 死の面上に拳(こぶし)を与へよ 死に降服する事なく ひたすらに生きよ 死はただ空洞(うつろ)である 死はただ敗残である

詩「瀕死の人に与ふ」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

謳われているのは、光太郎と共に『明星』に依った歌人・平出修。弁護士でもあり、大逆事件の際には幸徳秋水らの弁護に立ちました。

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前列左から二人目が平出、後列左から二人目が光太郎、前列右端が与謝野鉄幹。明治37年(1904)の撮影です。

この10年後、平出は数え37歳の若さで病没。そのいまわの際に光太郎が詩「瀕死の人に与ふ」を作りました。しかし、その願いも虚しく、この詩が書かれた3日後に平出は帰らぬ人となりました。

東京ステーションギャラリーさん、和歌山県立近代美術館さんと巡回した展覧会が、最終会場、山口県で開かれます。

動き出す!絵画 ペール北山の夢  モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち

期 日 : 2017年1月28日(土)~3月12日(日)
会 場 : 下関市立美術館 山口県下関市長府黒門東町1-1
時 間 : 午前9時30分~午後5時 (入館は午後4時30分まで)
料 金 : 一般1,200円(960円)/大学生900円(720円)
      ※( )内は、20名以上の団体料金。
休館日 : 月曜日

大正期の美術界に功績を残した北山清太郎(1888-1945)の仕事を追いながら、彼が紹介した印象派からポスト印象派、キュビスムまでのヨーロッパ絵画、それらに感化されて新しい表現を展開した近代日本の芸術家たちによる作品を同時に展示する。 絵画、彫刻、資料およそ200点で、今から約100年前の美術「熱」をお伝えする。 (会期中に一部展示替あり)

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関連催事

記念講演会「身振りとマティエール――日本における表現的絵画の台頭」
 講師:北澤 憲昭(美術史家・美術評論家・女子美術大学教授)
 日時:2 月18 日(土)午後2時~午後3時30分  会場:下関市立美術館 講堂

美術講座「魅力発見!近代洋画っておもしろい」
 学芸員が日本近代洋画についてわかりやすく語ります。
 日時:3月5日(日)午後2時~午後3時30分  会場:下関市立美術館 講堂

ギャラリートーク(学芸員による展示解説)
 日時:1月28日(土)、3月4日(土)それぞれ午後2時~午後3時
 ※ ご参加には当日の観覧受付が必要です。
 会場:下関市立美術館 展示室

ワークショップ「みんなでアニメ・リレー」
 絵を描き継いで、紙アニメーション(パラパラまんが)をつくりましょう!
 ※ 開館時間中、ご自由にご参加いただけます。
 会場:下関市立美術館 エントランスホール、展示ホール、講堂いずれか


明治末から大正にかけ、青年画家達の活動を裏方から支えて洋画界の発展に寄与し、ゴッホらを支援したペール・タンギーになぞらえ、ペール北山と呼ばれてた北山清太郎に着目した企画展です。光太郎の油絵2点、「上高地風景」「佐藤春夫像」が出ます。

その他、光太郎と交流のあったさまざまな邦人芸術家の作品(絵画を中心に、彫刻、工芸も)、光太郎を含め彼等に影響を与えたモネ、ゴッホ等の作品がずらりとならび、さながら明治大正の反アカデミズム洋画壇史といった趣です。

絵画以外に、北山が編集に当たり、光太郎も寄稿していたさまざまな美術雑誌が展示されます。『現代の洋画』、『ヒユウザン』(のち『フユウザン』)、『生活』、『多津美』など。ヒユウザン会展のポスターなども。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

わがこころはいま大風(おほかぜ)の如く君に向へり

詩「郊外の人に」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

この詩句が、詩の中で二回リフレインされています。

思いがけず智恵子と過ごすことになった、この年晩夏の千葉犬吠埼での体験を経て、秋には上記のヒユウザン会展。そしてこの詩は晩秋になって書かれました。

ヒユウザン会展では、光太郎の油絵が寺田寅彦に買い上げられ、展覧会で絵が売れるということの少なかったこの時代、光太郎は仲間に胴上げされて祝福を受けたといいます。

そうした高揚感が、智恵子への思いをさらに加速させていったのではないのでしょうか。

大晦日にNHK総合さんで放映された連続テレビ小説「とと姉ちゃん」総集編を拝見しました。

雑誌『暮しの手帖』を創刊した大橋鎭子をモデルとしたドラマで、昨年4月から10月にかけての本放送では、明治44年(1911)、智恵子がその表紙絵を描いた雑誌『青鞜』が重要なモチーフの一つとしてくりかえし使われ、『青鞜』主宰の平塚らいてうも登場していましたが、総集編でもそれらのシーンがふんだんに使われていました。

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さて、NHK BSプレミアムさんでも放映があります。

前編 NHK BSプレミアム  2017年1月8日(日)  12時45分~14時15分
連続テレビ小説「とと姉ちゃん」総集編の前編。1週目、ととから託された約束を胸に、家族を守る決意をした常子は、断絶した祖母と母の絆を奔走して取り戻し、さらに新たな人生の決断をする。女性のための雑誌をつくろうとする前の、常子の少女時代・青春時代を描きます。

後編 NHK BSプレミアム  2017年1月8日(日)  14時00分~15時28分
連続テレビ小説「とと姉ちゃん」総集編の後編。11週から26週間までを網羅。常子が戦中の経験を経て出版社を起こし、戦後の日本で奮闘する一家の姿を描く。魂のパートナー花山伊佐次との出会いと別れを主軸に描く。

出演 高畑充希 西島秀俊 木村多江 相楽樹 向井理 片岡鶴太郎 大地真央 坂口健太郎 秋野暢子 ピエール瀧 平岩紙 杉咲花 川栄李奈 浜野謙太 佐藤仁美 上杉柊平 阿部純子 石丸幹二 野間口徹 矢野聖人 伊藤淳史 奥貫薫 古田新太 唐沢寿明 ほか

語り 壇ふみ

ぜひご覧下さい。


ところで、『青鞜』。

昨年末に、明治45年(1912)6月発行の、第2巻第6号を入手しました。

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前年9月の創刊号と同じ、智恵子の作品を表紙に使っています。

さらに、この号は智恵子が書いた「マグダに就て」という文章が載っています。

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『青鞜』には智恵子の表紙絵は2種類(少しだけデザインの異なるものを含めれば3種類)、のべ8回使われましたが、文章の寄稿はこれが唯一のものです。
「マグダ」は、島村抱月の文芸協会が上演した演劇で、松井須磨子が主人公・マグダを演じ、自立しようとする女性像を描いたものでした。ただし、智恵子にしても、平塚らいてうにしても、やや批判的な評を載せています。

文章自体は『高村光太郎全集』別巻などに再録されていますし、基本、この手のものは蒐集の対象にはしていないのですが、安く売りに出ていたので購入しました。やはり、再録された資料で読むよりも、当時の刊行物ですので、何やら智恵子の息吹のようなものが感じられます。

展示等でお貸しすることも可能ですので、必要とあらば、このブログコメント欄(非公開設定可)にて連絡ください。


【折々のことば・光太郎】

自然に向へ 人間を思ふよりも生きた者を先に思へ 自己の王国に主たれ 悪に背(そむ)け
詩「声」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

詩「声」は、二人の人物の論争という形式で書かれています。一人は自然志向、アウトドア派で、都会の生活に否定的。「みじんこ生活の都会が何だ」「すべてを棄てて兎に角石狩の平原に来い」と誘います。

もう一人は都会派。「そんな隠退主義に耳をかすな」「絵に画いた牛や馬は綺麗だが/生きた牛や馬は人間よりも不潔だぞ」と、警告を発します。

上記のことばは、自然志向の人物が発した言葉です。このことばの通り、この年、光太郎は酪農を営みつつ芸術を生み出す生活を夢見て、実際に北海道に渡りました。

和歌山県立近代美術館さんで、特別展「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」が開幕しました。

大正期、美術雑誌『現代の洋画』などを発行し、光太郎も加わったフユウザン会のパトロンでもあった、北山清太郎にスポットを当てた展覧会で、光太郎の油絵「上高地風景」「佐藤春夫像」も展示されています。

北山が和歌山出身ということもあり、地元紙や全国紙の和歌山版で、大きく取り上げられています。光太郎の名が記事にあるもののみ紹介します。


まず『わかやま新報』さん。

洋画支えたペール北山を軸に 近代美術館

009大正時代に西洋の美術を積極的に紹介し、日本の若手画家たちを支援した和歌山市出身の北山清太郎(1888~1945)に焦点を当てた展覧会『動き出す!絵画ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―』が、同市吹上の県立近代美術館で始まった。来年1月15日まで。北山が創刊した美術雑誌で紹介した海外の巨匠たちと、その影響を受けた日本画家の作品、全国約70カ所から集まった約170点を一挙に展示している。
3年に1度開く大規模展覧会の第1弾。北山は明治45年(1912)に美術雑誌『現代の洋画』を創刊し、西洋美術を盛んに取り上げた。高村光太郎や岸田劉生ら、若い洋画家たちが興した美術団体「ヒユウザン会」(のちフュウザン会)の展覧会運営に携わり、目録や機関紙の発行を手掛け、活動を支えた。ゴッホを支援したペール・タンギーになぞらえ、「ペール北山」と呼ばれていたという。
大正5年には美術の世界を離れ、国産アニメーションの制作に没頭。ちょうど100年前の大正6年(1917)、〝動く絵〟である日本の最初のアニメーションを手掛けた開拓者の一人としても知られている。
会場には、ゴッホの「雪原で薪を集める人びと」や、水浴の裸婦を温かい色調で表現したルノワールの「泉による女」など、名だたる画家の名画の他、少女の視線や表情が印象的な岸田劉生の「童女図(麗子立像)」などが並ぶ。
また、北山が手掛け、大正初期に発表されたアニメーション作品「浦島太郎」も紹介されている。
同館の宮本久宣主査学芸員(43)は「日本の画家がどのように西洋美術に影響を受け、受容していったのか、日本と西洋の表現を見比べながら鑑賞してもらえれば。日本の美術を動かすきっかけとなった北山清太郎という人物が、この和歌山にいたことを知ってもらいたい」と話している。
関連事業として、26日午後2時から同館2階で、現代美術作家の森村泰昌さん
 と同館の熊田司館長による対談講演会「動く私、動く自画像」が開かれる(先着120人、午前9時半から整理券配布)。
展覧会は午前9時半から午後5時(入館は4時半)まで。問い合わせは同館(℡073・436・8690)。


それから、『ツー・ワン紀州』さん。

動き出す!絵画、ペール北山の夢 19日~来年1月15日 和歌山県立近代美術館

010「動き出す!絵画、ペール北山の夢、モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち」(和歌山県立近代美術館ら主催)が19日(土)~来年1月15日(日)まで和歌山市の県立近代美術館で開かれる。
大正時代、西洋美術に学び、新たな表現によって時代を動かそうとした若き洋画家たちを支えた和歌山出身の北山清太郎(1888~1945)の視点を手がかりに、彼らが憧れた西洋美術と彼らの表現を紹介する。

1章=動き出す夢‐ペール北山と欧州洋画熱はカミーユ・ピサロ(ポントワーズのレザールの丘)、パブロ・ピカソ(帽子の男)など実際の作品を紹介。2章=動き出す時代‐新婦朝者たちの活躍と大正の萌芽は斉藤与里、山脇信徳、斎藤豊作。第3章=動き出す絵画‐ペール北山とフュウザン会、生活社は木村荘八、高村光太郎など。4章=動きした先に‐巽画会から草土社へは椿貞雄などに続く。

観覧料は一般1000円、大学生800円、高校生以下、65歳以上、障害者、県内在学中の外国人留学生は無料。

問い合わせは同美術館TEL073・436・8690。


続いて、主催に名を連ねている『読売新聞』さんの和歌山版。

新時代へ 描いた夢 ◇「動き出す!絵画」展内覧会へ 北山清太郎紹介

 大正時代の画家たちの創作活動を支援した和歌山市出身の北山清太郎(1888~1945)の活動を通して名画の数々を紹介する「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち」展(読売新聞社など主催)が19日、和歌山市吹上の県立近代美術館で開幕する。北山が創刊した雑誌で紹介した海外の巨匠たちと、その影響を受けた岸田劉生ら日本の画家の作品計約170点が一堂に会する。18日には、関係者向けの内覧会があった。(石黒彩子)
 北山は和歌山市生まれ。1912年、美術雑誌「現代の洋画」を創刊し、積極的に西洋美術を紹介。カラーで掲載される名画の数々に、多くの日本の画家たちが感化された。
 同年、西欧留学から帰国した高村光太郎は、岸田らを加えて、美術家集団「ヒユウザン会」(のちのフュウザン会)を結成。北山は同会の活動を支援し、展覧会目録や機関誌の発行を手がけた。パリでゴッホら若い画家を支えた画材商のペール・タンギーになぞらえ、「ペール北山」と呼ばれたという。
 北山はその後、アニメーションの世界に転身し、1917年には日本で最初のアニメーション作品を発表した1人になった。展覧会の名称は“動く絵”の制作を手がけ、大正時代の日本美術を動かした北山にちなんでいる。
 画集で紹介され、当時の日本の画家たちに影響を与えたゴッホの大作「雪原で 薪まき を集める人びと」や、岸田の代表作である「童女図(麗子立像)」など国内約70か所から集めた逸品ぞろい。宮本久宣・主査学芸員は「日本の画家が西洋絵画からどのように影響を受け、自分の表現に生かしていったかを対比しながら鑑賞できる貴重な機会。和歌山にそのきっかけを作った人がいたと知ってほしい」と話す。
 19日は午前9時30分から、開会式があり、同10時に開場。20日以降は午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)。来年1月15日まで。一般1000円、大学生800円、高校生以下や65歳以上などは無料。原則月曜日休館。
 問い合わせは同美術館(073・436・8690)へ。
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さらに『毎日新聞』さんの和歌山版。

西洋×日本、大正の若き洋画家たち 近代美術、目玉作品が集結 北山清太郎ゆかりの作品170点展示 和歌山 /和歌山

 西洋と近代日本の美術作品を集めた展覧会「動き出す!絵画 モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち」が19日から、県立近代美術館(和歌山市吹上1)で開かれる。大正時代、美術雑誌の発行などを通して日本の洋画家たちを支えた和歌山市出身の北山清太郎(せいたろう)(1888~1945年)にスポットを当て、ゆかりの作品約170点を展示する。来年1月15日まで。
 
 北山は和歌山市で生まれ育ち、19歳の頃、横浜に移り住んだ。1912年、美術雑誌「現代の洋画」を創刊。積極的に西洋の美術を紹介した。
 この年、西欧留学から帰国した斎藤与里(より)と高村光太郎に岸田劉生(りゅうせい)らが加わり、美術団体「ヒユウザン会」(後のフュウザン会)を結成。展覧会を開いて注目を集めた。北山は会の運営や目録・機関誌の発行を担った。
 14年に別の美術団体の運営を任され、更に15年には岸田らと展覧会を開催。北山は当時の美術に新たな動きを起こした。画家たちは、パリでゴッホらを支援した画材商のペール・タンギー(タンギー親爺)になぞらえて「ペール北山」と呼んだ。16年以降、北山はアニメーション制作に取り組むようになった。
 同展では、北山が雑誌などで紹介したセザンヌ、モネ、ルノワール、ゴッホら印象派や後期印象派の作品を展示。北山と交流のあった岸田劉生、萬(よろず)鉄五郎、木村荘八(しょうはち)ら日本の洋画家の作品も一堂に集めた。
 展覧会のタイトルは、北山が美術の新しい動きを起こし、アニメを制作したことを示すという。企画した学芸員の宮本久宣さんと青木加苗さんは「当時のエネルギーが充満した展示空間になる。全国の美術館で目玉となる作品が集結するまたとない機会なので、ぜひ見に来てほしい」と話している。
 観覧料1000円、大学生800円。高校生以下無料。1月9日を除く月曜と12月29日~1月3日、10日は休館。11月26日に森村泰昌さんによる対談講演会▽12月23日に手回しアニメフィルム上映・解説会▽1月8日にレクチャーコンサートがある。いずれも午後2時から。問い合わせは同館(073・436・8690)。【坂口佳代】


当方、東京ステーションギャラリーさんでの東京展を拝見しましたが、さながら反アカデミズム日本近代洋画史、といった感の、非常にボリュームのある展覧会でした。また、豪華な図録が発行されており、貴重な資料です。

関西方面の皆さん、ぜひお出かけを。


【折々の歌と句・光太郎】

初雪や川越殿をふところに        
        明治39年(1906) 光太郎24歳

関東で初雪が降りました。11月としては54年ぶりだそうですし、「降雪」だけでなく「積雪」となると、東京都心では史上初の11月の積雪だとのことです。当方自宅兼事務所のある千葉県は関東でも温暖な地域ですが、それでも現在、みぞれです。

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「川越殿」はサツマイモ。埼玉川越がサツマイモの名産地だったことからそう呼ばれていました。おそらく、ほかほかの焼き芋でしょう。

明治44年(1911)、智恵子がその創刊号の表紙絵を描き、平塚らいてうが「原始、女性は実に太陽であつた」、与謝野晶子が「山の動く日来る」と高らかにうたった雑誌『青鞜』。

主宰のらいてうも、智恵子と同じ明治19年(1886)生まれで(早生まれのため学年は一つ上)、今年が生誕130年に当たり、いろいろと顕彰行事が行われています。

そんな中から二つ

平塚らいてう生誕130周年記念シンポジウム ~それぞれの言葉で語る「平和」から″わたしたちの現在(いま)″を考える~

期  日 : 2016年11月19日(土)
会  場 : 主婦会館プラザエフ 東京都千代田区六番町15
時  間 : 13:30開会
料  金 : 一般2,000円 学生1,000円
主  催 : NPO平塚らいてうの会 03-3818-8626

パネリスト : 
 ノーマ・フィールド(シカゴ大学名誉教授)
 青井未帆(学習院大学教授)
 米田佐代子(NPO平塚らいてうの会会長)
 
らいてう生誕130年、らいてうの家オープン10年の現在、「戦争法」を廃止させ、平和憲法を守り、戦争や暴力で傷つけられた女性の尊厳を回復することができるのか-それが問われています。らいてうのめざした「女性がつくる平和社会」を実現するために、わたしたち一人ひとりは何をすべきでしょうか。
アメリカと日本の2つの国をみつめてきた日本文化研究者のノーマ・フィールドさんをシカゴからお迎えし、憲法学者と女性史研究者とともに語り合うつどいを企画しました。
ごいっしょに、それぞれの言葉で“わたしたちの現在(いま)”を考えましょう。
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大統領選挙でトランプ氏が勝利し、今後の日米安全保障の在り方も不透明な中、タイムリーな企画ですね。

当方、残念ながら「第61回高村光太郎研究会」と日程が被っており、参加できませんが。


もう1件、一転してほのぼの系(脱力系?)の企画です

文京・谷中・三崎坂 江戸ろまん坂物語 江戸ろまんウォーク~霜月の章~ 朝活コース 元始 女性は実に太陽であった ~青鞜社街道~

文京・谷中・三崎坂 江戸ろまん坂物語 江戸ろまんウォーク~霜月の章~ 朝活コース 元始 女性は実に太陽であった ~青鞜社街道~
人気スマートフォンアプリねこあつめとコラボレーション! この秋、街は猫づくしに!

地図を片手に、新たな街の魅力を探しに行きます。朝、昼、夜…いつもとは違う時間に街を歩けば、違った景色を発見できるかもしれません。

定員400 名(事前申込制)・参加無料・雨天決行・自由歩行

期 日 : 2016年11月26日(土)
時 間 : 8:45から出発式 ゴール受付11:00~12:30
コース : 文京グリーンコート→団子坂→播磨坂さくら並木→傳通院→源覚寺→東京ドーム
      →江戸川橋地蔵通り商店街 (約10.5㎞)

お申し込みは、お電話またはインターネットから
■江戸ろまんウオーク〜霜月の章〜 
■坂物語イベント事務局 03-6672-6392(平日11:00〜16:00)
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文京区商店街振興組合連合会さん、谷中銀座商店街振興組合さん、谷中三崎坂商店組合さんがタッグを組み、文京・谷中・三崎坂商店街エリアに江戸時代から100 以上残る「坂」をテーマにしたイベント『文京・谷中・三崎坂 江戸ろまん坂物語』が11/5(土)から開催されています。

このエリアには“街ねこ”で有名なスポットが多いことから、累計1900 万DLのスマートフォンアプリ「ねこあつめ」とコラボレーションし、地域の魅力をPRするそうです。

ちなみに6月に娘が拾ってきた猫。大きくなりました。寒くなってきたので、ニャンモナイトになっています(笑)。
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シャッター音で起こされて不機嫌す(笑)。

【折々の歌と句・光太郎】021

坐りだこ囲炉裏に痛し稗の飯
昭和22年(1947) 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での作。

硬い床であぐらをかき続けると、くるぶしなどに出来るのが「すわりだこ」です。みちのくの長く厳しい冬の象徴ですね.。


「稗の飯」は光太郎、実際に結構好んで食べていたようです。旧太田村、花巻市に編入されるまでは「稗貫郡」の一部で、その名の通り、周辺で稗の栽培が盛んに為されていました。

会 場 : 和歌山県立近代美術館 和歌山市吹上1-4-14
時 間 : 9:30~17:00(入場は16:30まで)
料 金 : 一般1000(800)円、大学生800(600)円 *( )内は20名以上の団体料金
      高校生以下、65歳以上、障害者の方、県内に在学中の外国人留学生は無料
      11/26、12/24は「紀陽文化財団の日」として大学生無料
休館日 : 月曜日(月曜日が祝日又は祝日の振替休日となる場合は開館 次の平日休館)
      年末年始(12月29日から1月3日まで)

大正初期、大きな転換期を迎えた日本の美術を、影ながら動かした知られざる人物がいます。和歌山市に生まれた北山清太郎(きたやませいたろう)(1888–1945)がその人です。
北山は、美術雑誌『現代の洋画』や『現代の美術』等を出版して西洋の美術を盛んに紹介するとともに、岸田劉生や木村荘八ら、若い洋画家たちの活動を、展覧会の開催やカタログの出版などを通して献身的に支えました。その篤い支援に感謝した画家たちは、北山をパリでファン・ゴッホら多くの若い画家たちを支援した、画材商のペール・タンギー(タンギー親爺)になぞらえて、「ペール北山」と呼びました。
今回の展覧会では、この北山の活動を手がかりに、大正期の日本を熱狂させた西洋美術と、それに影響を受けながら展開した近代日本の美術を同時に紹介することを試みます。当時の画家たちが、次々と流入する情報から西洋美術の何を学び取り、影響を受けながらもそれをどのように乗りこえ、自らの表現を作り上げるにいたったのか。大正という熱い時代の美術を、改めて検証します。
なお北山は、その後美術の世界からアニメーションの分野へ転身し、ちょうど100年前の1917(大正6)年に、初めてアニメーション作品を発表した日本人3人のひとりとなります。北山は、まさに「絵を動かす」人となったのです。

 プロローグ 動き出す「洋画」 ——北山清太郎と『みづゑ』の時代
 第1章 動き出す夢 ―ペール北山と欧州洋画熱
 第2章 動き出す時代 ―新帰朝者たちの活躍と大正の萌芽
 第3章 動き出す絵画 ―ペール北山とフュウザン会、生活社
 第4章 動き出した先に ―巽画会から草土社へ
 エピローグ 動き出す絵 ―北山清太郎と日本アニメーションの誕生

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関連行事 

■対談講演会「動く私、動く自画像」
講師:森村泰昌(現代美術作家)×聞き手:熊田司(当館館長)
11月26日(土) 14:00から2階ホールにて(13:30開場、先着120名9:30より受付にて整理券配布)
巨匠と呼ばれる画家の絵に自らなりきる作品を制作してきた森村泰昌さんに、その制作を通して見えてきた作品の魅力や秘密を、当館館長が聞き手となってうかがいます。
巨匠と呼ばれる画家の絵に自らなりきる写真作品を制作してきた森村泰昌さんに、その制作を通して見えてきた作品の魅力や秘密、また本展を観て感じられたことなどを、当館館長が聞き手となってうかがいます。

■手回しアニメフィルム上映・解説会
講師:松本夏樹(映像文化史研究家)
12月23日(金・祝)14:00から2階ホールにて(13:30開場 先着120名 9:30より受付にて整理券配布)
北山清太郎が日本最初のアニメーション作家であることに関連して、当時のアニメーションの上映と解説を行います。

■レクチャーコンサート「出会う!音楽」
講師・ピアノ:松井淑恵(和歌山大学)×ヴァイオリン:日俣綾子
2017年1月8日(日)14:00から2階ホールにて(13:30開場 先着120名 9:30より受付にて整理券配布)
美術と同じように西洋からの影響を受けて展開した近代日本の音楽とアジアからの影響を受けた西洋音楽を、解説つきの演奏で紹介します。

■フロアレクチャー(学芸員による展示解説)
11月20日(日) 12月11日(日) 2017年1月9日(月・祝)14:00から会場にて(要観覧券)

■こども美術館部(小学生対象の鑑賞会)
12月3日(土) 14:00から会場にて(当日開始時間までに要受付)

同時開催:大正の異色画家たち
本展に関連し、大正時代の美術の諸相を、当館コレクションを中心に個人コレクションも交え、紹介します。


光太郎油絵作品、「上高地風景」(大正2年=1913)、「佐藤春夫像」(大正3年=1914)の2点が展示されます。

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特に「佐藤春夫像」は、こうした企画展等で出品されることがあまりなく、貴重な機会です。

009また、北山が編集し、光太郎もたびたび寄稿した雑誌『現代の洋画』、『ヒユウザン』(のち『フユウザン』)、『生活』なども。ただし、手にとって読むことは出来ないかとは思われますが。

図録が非常に豪華です。350ページ近くある分厚いもので、載せられている論考も充実しています。

ぜひ足をお運びください。

ちなみに同展は、来年1月28日(土)~3月12日(日)には、山口県の下関市立美術館さんに巡回される予定です。


【折々の歌と句・光太郎】

あたゝかき日かげみちたるおほ空を大き小きあきつむれとぶ

明治33年(1900) 光太郎18歳

「日かげ」は「日陰」ではなく「日の光」の意、「小き」は「ちいさき」と読むべきでしょう。

「あきつ」はトンボです。このところ、めっきり寒くなりつつあり、南関東でこの時期にもよく見られる赤トンボも、今年はあまり目立ちません。

005先週、岩手花巻での賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》からの帰り、東京駅丸の内口の東京ステーションギャラリーさんに寄り、企画展「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」を拝見して参りました。

同館には、一昨年、「東京駅開業百年記念 東京駅100年の記憶」を拝見しに行って以来でした。

明治末から大正にかけ、青年画家達の活動を裏方から支えて洋画界の発展に寄与し、ゴッホらを支援したペール・タンギーになぞらえ、ペール北山と呼ばれてた北山清太郎に着目した企画展です。光太郎の油絵2点、「上高地風景」「佐藤春夫像」が出ているというので拝見に行きました。

光太郎と交流のあったさまざまな邦人芸術家の作品(絵画を中心に、彫刻、工芸も)、光太郎を含め彼等に影響を与えたモネ、ゴッホ等の作品がずらりとならび、さながら明治大正の反アカデミズム洋画壇史といった趣でした。

作品の借用元として当会でお世話になっている全国の美術館さんが多く、拝見しながらそれぞれの館の館長さんや学芸員さんの顔が浮かび、あらためて感謝いたしました。


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「上高地風景」は、今年のはじめ、神奈川県立近代美術館・鎌倉館の閉館記念企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」や、それ以前にも何度か光太郎展的な企画展で拝見していますが、何度観てもいいものです。

「佐藤春夫像」は、あまり光太郎展的な企画展でも展示されず、ことによると20年ぶりくらいに観たかも知れません。図版等はよく観ているのですが、やはり実物は違いますね。

絵画以外に、北山が編集に当たり、光太郎も寄稿していたさまざまな美術雑誌が展示されており、興味深く拝見しました。『現代の洋画』、『ヒユウザン』(のち『フユウザン』)、『生活』、『多津美』など。ただし、ガラスケース越しですので手に取って見るわけにはいかないのが残念でしたが、しかたありません。

また、光太郎も出品した「ヒユウザン会展」や「生活社展」などのポスターや目録もありました。入手したいと思いつつ、高価なため入手できていないものです。

その他、先述の通り、光太郎と交流のあったさまざまな邦人芸術家の作品、光太郎を含め彼等に影響を与えたモネ、ゴッホ等の作品。同館のサイトでは、出品目録が出ていないため、「おお、この絵も出ていたか」という作品も多く、図版でしか知らなかった関連作家の作品など、実に興味深く拝見しました。

頂いてきた出品目録をスキャンしました。下に載せておきます。

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また、こちらが公式図録。同館企画展の図録はいつもそうのようですが、分厚く豪華です。今回のものは約350ページ。収められている論考、各ページの解説文等も充実、さらに、先述の北山が編集に当たった美術雑誌類の総目次が掲載されており、貴重な資料です。

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値段ははりますが、それに見合う内容です。


同展は11月6日(日)まで。その後、11月19日(土)~2017(平成29)年1月15日(日)には和歌山県立近代美術館さん、2017年1月28日(土)~3月12日(日)で下関市立美術館さんに巡回するそうです。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

なにとなく涙こぼれてある夕かの青き空高しと思ひぬ
明治33年(1900) 光太郎18歳

昨日は関東地方、久しぶりに晴れました。夕焼けがきれいでした。

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東京駅構内にある東京ステーションギャラリーさんで、今日から始まった企画展です。光太郎の油絵2点が展示されています。
会 場 : 東京ステーションギャラリー 東京都千代田区丸の内1-9-1
時 間 : 10:00 - 18:00 (金曜日 10:00 - 20:00)
料 金 : 一般1000(800)円 高校・大学生800(600)円 中学生以下無料
       ( )内は20名以上の団体料金
        障がい者手帳等持参の方は100円引き(介添者1名は無料)
休館日 : 月曜日(9月19日、10月10日は開館)、9月20日、10月11日

青年画家達の活動を裏方から支え、明治から大正にかけて洋画界の発展に寄与した、北山清太郎(和歌山県出身/1888-1945)。彼は、ゴッホらを支援したペール・タンギーになぞらえ、ペール北山と呼ばれていました。本展は、彼の活動を手掛かりとして、大正期の西洋美術に対する熱狂、そしてその影響を受けて展開した、前衛的な近代日本美術の動向を同時に紹介します。大正の洋画青年たちの心意気によって誕生した絵画と、あこがれの西洋の絵画等を中心に、約130点の作品と、貴重な資料をご紹介します。

プロローグ 動き出す「洋画」 ——北山清太郎と『みづゑ』の時代
第1章 動き出す夢 ―ペール北山と欧州洋画熱
 ロダン、ドガ、セザンヌ、ピサロ、モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーギャン、ピカソほか
第2章 動き出す時代 ―新帰朝者たちの活躍と大正の萌芽
 藤島武二、南薫造、湯浅一郎、津田青楓、山脇信徳、中村彝、坂本繁二郎、浜田葆光ほか
第3章 動き出す絵画 ―ペール北山とフュウザン会、生活社
 岸田劉生、木村荘八、斎藤与里、高村光太郎、萬鉄五郎、川上凉花、北山清太郎ほか
第4章 動き出した先に ―巽画会から草土社へ
 岸田劉生、木村荘八、高須光治、横堀角次郎、椿貞雄、中川一政、河野通勢ほか
エピローグ 動き出す絵 ―北山清太郎と日本アニメーションの誕生

関連行事 すべて無料(要別途入館料)

オープニング ギャラリートーク 
 講師 宮本久宣・青木加苗(和歌山県立近代美術館)、岡本正康(下関市立美術館)、
     田中晴子(当館)
 9月17日(土) 10:00~(約60分)/3階展示室集合 込不要

東京駅周辺美術館との連携 特別ギャラリートーク「印象派と大正期の日本」 
 10月22日(土) 9:30~(約60分) 込 事前申込制。9月17日以降 03-3212-2485
  員25名(先着順)

ギャラリートーク(学芸員による展覧会解説)
 10月7日(金)、10月27日(木) 13:00~(約30分) 込不要

レンガ・タッチ&トーク(煉瓦が特徴的な当館のたてもの解説)
 10月14日(金)、28日(金)   各日15:00~(約30分) 込不要

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光太郎油絵作品は、「上高地風景」(大正2年=1913)、「佐藤春夫像」(大正3年=1914)の2点。期間中、一部作品の展示替えがあるそうですが、この2点はその対象外だそうです。

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北山清太郎は、光太郎が関わった絵画団体・ヒユウザン会(のちフユウザン会)、生活社も支援し、同人たちから尊崇されていました。

光太郎曰く、

特筆すべきは「現代の美術」と言ふ美術雑誌を主宰してゐた北山清太郎氏で、われわれの仲間ではペエル タンギイで通つてゐた。あらゆる意味から、この人ぐらゐ熱心に当時の美術界に尽力した人はないであらう。
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)

フユウザン会は二年でつぶれ、更に私達は生活社を結んで進んだ。当時日本のタンギイ北山清太郎君が居ていろいろ世話してくれたので一九一三年には神田のヴヰナス倶楽部で岸田、木村、私などの展覧会を開いた。(「岸田劉生の死」 昭和4年=1929)

ということでした。

神田のヴヰナス倶楽部で開いた展覧会というのが、生活社展。上記の「上高地風景」はこの際に出品されたもので、この年の夏、智恵子との婚前旅行で一ヶ月を過ごした信州上高地での作です。

「佐藤春夫像」は、直接、北山とは関わらないようですが、北山と佐藤が同郷という縁はあります。佐藤はこの絵を描いてもらったことから光太郎と親しくなり、光太郎最晩年の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」建立に尽力します。


光太郎の油絵は、常時見られるものではありません(真っ赤な偽物を「光太郎筆」として展示しているらしい私設美術館があるようですが)。また、光太郎と縁の深かった人々の作品が目白押し。ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

新米のかをり鉋のよく研げて       昭和20年(1945) 光太郎63歳

当方自宅兼事務所のある千葉県北東部は早場米の産地です。既に8月末には刈り入れをするところが多く、妻の血縁の方から宅配便で30㌔の新米が届きました。ありがたや。

「鉋」(かんな)は、この年の秋、花巻郊外太田村の山小屋に移り住み、内部の造作などの大工仕事も自ら行ったことに関わります。「今朝村人につきたての新米を恵まる」の詞書きが添えられています。

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雑誌の新刊です。 

手づくり手帖 Vol.10 特集「秋色の手づくり」

2016年8月17日 日本ヴォーグ社 定価2,250円+税

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色彩アートセラピスト・江崎泰子氏による「巻頭特別エッセイ 色はこころの表現」で、智恵子の紙絵について触れられています。

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「アートセラピー」は「芸術療法」と訳され、精神医療の現場で行われていますが、現在はそれに限らず、一般の人々のストレスケアとしても注目されているとのこと。氏は特に「色」に着目したそれを展開されているそうです。

氏がこの道に入るきっかけの一つとなったのが智恵子の紙絵だそうで、初めて展覧会で智恵子の紙絵を見た際の衝撃などが綴られています。

後の方のページには、他の記事を含め、本文と関連する書籍等の紹介欄があり、筑摩書房から平成5年(1993)に刊行された文庫版の『智恵子紙絵』が取り上げられています。

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現物はこちら。

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「版元品切れ」となっていますが、古書市場ではまだ出回っています。美しい本なので、再版を期待したいところですが。


智恵子の紙絵、といえば、智恵子生誕130年ということで、現在、信州安曇野の碌山美術館さん、奥州花巻の高村光太郎記念館さんで、それぞれ現物が展示されています。また、秋には智恵子の故郷・福島二本松でも。

こうした書籍、展覧会などなど、もっともっと取り上げていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

さいかちのかぶとの角を手に持ちて友も見つつしおどろきてあらん

大正13年(1924) 光太郎42歳

「さいかち」は樹木の種類。その樹液はカブトムシの好物だそうです。

JR京都駅内のジェイアール京都伊勢丹さん7階にある美術館「えき」KYOTOさんで開催中の展覧会です。気付くのが遅れ、始まっています。 

世界の巨匠たちが子どもだったころ

期  日 : 2016年8月11日(木)~9月11日(日)
会  場 : 美術館「えき」KYOTO 京都駅ビル内ジェイアール京都伊勢丹7階
                           京都市下京区烏丸通塩小路
ル東塩小路町
時  間 : 午前10時~午後8時(入館締切:閉館30分前)
料  金 : 一般 800円  高・大学生 600円  小・中学生400円
主  催 : 美術館「えき」KYOTO、京都新聞
後  援 : 京都府教育委員会、京都市教育委員会
協  力 : おかざき世界子ども美術博物館

展覧会概要
モネ、ムンク、ロートレック、ピカソ、岸田劉生、伊東深水、山口華楊、山下清、平山郁夫など、誰もが一度は耳にしたことがある美術界の巨匠たち。優れた技術と多彩な感性で多くの名品を残した彼らは、いったい子どもの頃はどのような絵を描いていたのでしょうか?
 本展覧会では、1985年に子どものための本格的な美術博物館として開館した、おかざき世界子ども美術博物館(愛知県・岡崎市)が所蔵するコレクションより、世界の有名美術家73人が描いた貴重な作品118点を紹介します。
10代という時代は、豊かな感受性を持つ多感な時期であり、純粋であるがゆえに感情が大きく揺れ動く時期でもあります。
この時期に制作された作品は、画家の努力や情熱、絵に対する真っ直ぐな思いが画面にあふれ出ています。
 描くことに夢中だった小さな巨匠たちが残した、成長の足跡をお楽しみください。

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名だたる巨匠たちに交じって、光太郎の姉・004咲(さく)の作品が展示されているということだそうです。

右の画像で、右側に立っているのが咲。左は光太郎の母・わかと、光太郎の弟・豊周です。

咲は光太郎より6つ年上の明治10年(1877)生まれ。五男四女の長子です(光太郎は長男にして三番目)。

素川狩野寿信に師事して狩野派の日本画を学び、明治22年(1889)、数え13歳で「寿司」の名と「素月」の号を許され、翌年には上野公園桜ヶ丘の日本美術協会列品館で開催された絵画展覧会に絹本堅淡彩の「鍾馗図」を出品、天覧も受けたと言います。

非常に親孝行な娘だったそうで、父・光雲がその代表作である「老猿」の制作がなかなか思うように行かなかった時など、ひそかに水垢離(みずごり)を行っていたとのこと。

その他、高村家には淡彩素描の作品がいくつか遺されており、中には幼い光太郎を描いたものもあります。見事なできばえです。

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光太郎は絵の才能に秀でたこの姉を尊敬し、愛していましたが、佳人薄命、咲は明治25年(1892)、数え16歳の若さで肺炎を患って歿してしまいました。優しく気丈なこの姉の生涯から、光太郎は強い感化を受けました。のちに画家の智恵子と結ばれた光太郎、もしかすると智恵子の背後にやはり画家だった姉の姿を見ていたのかもしれません。

当方、先月、盛岡に齢100歳でご存命の、光太郎の従妹・加藤照さんのお宅で、咲が描いたという扇を拝見しました。照さんのお母様のふゆさんが、咲に直接貰ったそうです。

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小さめの扇面に、人物像が実に細密に描かれています。


さて、美術館「えき」KYOTOさんの 「世界の巨匠たちが子どもだったころ」。咲の絵が三点展示されています。「仙人」「栗」「鶴」。

どのような経緯か存じませんが、咲の作品が、愛知県岡崎市のおかざき世界子ども美術博物館さんに所蔵されています。今回の美術館「えき」KYOTOさんの 「世界の巨匠たちが子どもだったころ」は、おかざき世界子ども美術博物館さんの所蔵品が中心ということで、咲の作品も並んでいるといううことだそうです。

影響ということを考えれば、光雲から受け継いだ彫刻道とはまた異なる、光太郎芸術の一つの源流ともいえる咲の絵画。もっと注目されていいものですね。


【折々の歌と句・光太郎】

太田村山口山の山かげに稗をくらひて蝉彫るわれは
昭和21年(1946) 光太郎64歳

いったん中断していましたが、蝉を詠んだ短歌がまだありますので、ご紹介します。

岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんからの企画展情報です。 

高村光太郎没後六〇年・高村智恵子生誕一三〇年 企画展 智恵子の紙絵

期 日 : 平成28年7月15日(金)~11月23日(水祝)
時 間 : 8:30~16:30
場 所 : 高村光太郎記念館(花巻市太田3-85-1)
概 要 : 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎の妻、智恵子。
      その智恵子が晩年制作していた紙絵を展示する企画展。
入館料 : 高村光太郎記念館・高村山荘 一般550円、高校生・学生400円、小中学生300円
連絡先 : 高村光太郎記念館 0198-28-3012

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。その妻、智恵子は雑誌『青鞜』創刊号の表紙絵を描き、新鋭の画家として注目されるなか光太郎と出会い、結ばれました。結婚後、智恵子は自身の油絵に対する芸術的苦悩や実家の一家離散が重なり、心の病に侵され睡眠薬で自殺を図ります。一命は取りとめたものの長い療養生活に入り、その後回復することはなく、昭和13年に入院先のゼームス坂病院でこの世を去ります。享年数え53歳の生涯でした。
 晩年の智恵子は作業療法として身の回りにあった色紙や包装紙など、様々な紙をマニキュア鋏で切りぬき、台紙に貼りつける「切り抜き絵」を多く制作します。それらは光太郎ただ一人に見せるために作られました。後に光太郎は智恵子の遺作となった切り抜き絵を「紙絵」と名づけました。太平洋戦争の空襲で光太郎はアトリを全焼し自身の作品の多くが焼失しましたが、智恵子の紙絵は花巻など地方に疎開させていて難を逃れました。
 智恵子が生み出し、光太郎が守り抜いた紙絵、紙絵の疎開先であり、詩集「智恵子抄その後」が送り出された当地で開催する企画展で、繊細な表現と独自の色彩感覚を持つ智恵子の紙絵をご覧いただき、光太郎と智恵子の思いを感じていただければ幸いです。

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というわけで、智恵子生誕130年を記念し、紙絵の現物が展示されます(複製も)。

過日、その打ち合わせのため、記念館のスタッフお二方と共に、千駄木の高村家に行って参りました。紙絵の大半は今も高村家に保管されています。
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一昨年、光太郎の令甥にあたり、永らく高村光太郎記念会理事長を務められていた写真家の村規氏が亡くなり、今は令息でやはり写真家の達氏が高村家を守られています。

搬入、搬出の日程やら、展示方法等の確認などをして参りました。額装はせず、そのまま斜めに置いて展示すること、作品保存のため、2週間くらいのスパンで作品を入れ替えること等々。紙絵は昭和11年(1936)~同13年(1938)の間に制作されたと推定され、80年が経過しようとしています。もともと高級な紙を使用しているわけでもなく、一日出せばその分褪色するという、非常にあえかな作品です。そのため、展覧会等で現物を出す場合には、照明を落としたり、その照明も熱を発しないものにしたりと、細やかな配慮が必要です。

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現物の何枚かを、手に取らせていただきました。見たことは何度もありますが、触れるのは初めてで、感動しました。約80年を経た智恵子の息遣いが聞こえてきそうでした。

また近くなりましたら改めてご紹介しますが、信州安曇野の碌山美術館さんでも、この夏、智恵子の紙絵現物が展示されます。こちらは「夏季特別企画展 光太郎没後60周年記念 高村光太郎-彫刻と詩-展」(7/23~8/28)においてです。

さらに智恵子の故郷・福島二本松でもこの秋に歴史資料館さんで、企画展「智恵子と光太郎の世界展」があり、そちらでも(或いはそれに合わせて智恵子記念館さんで)紙絵の現物が展示されます。

以前にも書きましたが、色彩の美は複製で感じられるものであっても、紙絵の現物は、厚さ1ミリに満たない中にも紙の重なりによる立体感が感じられ、これは複製にはないものです。

いずれかの機会に、実際にご覧になることをお勧めします(欲をいえば、3つの機会とも)。


【折々の歌と句・光太郎】001

よび鈴をそつと鳴らして逃げし子はいま横丁をまがらんとする
大正15年(1926) 光太郎44歳

昭和20年(1945)の空襲で全焼した駒込林町のアトリエ。上記の実家とはほとんど背中合わせのような位置関係でしたが、実家は焼け残り、アトリエは灰燼に帰しました。

玄関入り口には紐を引くと中でカランと鳴る呼び鈴があったそうで、それを鳴らすと光太郎か智恵子が玄関脇の小窓を開けて顔を出したそうです。

大正末にはすでにピンポンダッシュの悪戯があったのですね。90年前にそんな子供が近所にいたんだと思いつつ、千駄木の街を歩きました。

昨年、神奈川平塚市美術館さんを皮切りに、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さん、姫路市立美術館さんと巡回し、明日まで足利市立美術館さんで開催されている企画展です。最後の巡回が、北海道函館で行われます。 

開館30周年特別展 画家の詩、詩人の絵―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく Poetry of the painter,Paintings of the poet

会 期 : 2016 年6月18日(土) ~8月7 日(日)
時 間 : 9:30 ~ 17:00
会 場 : 北海道立函館美術館 函館市五稜郭町37-6
休館日
 :  月曜日(祝日と重なる場合は開館  祝日開館に伴う振替日)
料 金 : 一般 920(720)円 高大生 610(410)円 小中生 300(200)円
                          ( )内は前売・団体・リピータ料金
障害者手帳をお持ちの方及び付添の方(1名)、児童/老人福祉施設入所の方及び付添の方(1名)は無料

※前売券は6月12日まで、当館受付カウンターにて販売しております。(開館日のみ)
なお、6/14~6/17までの展示替え期間中は、美術館裏口・職員通用口で販売いたします。
 
ときに絵は詩のように語りかけ、詩は絵のような豊かな色彩とかたちを提示します。事実、多くの画家が詩を書き、詩人が絵を描いてきました。明治から現代までの画家と詩人の詩と絵を一堂にあつめ、ひとつの観点から捉えます。

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ネット上で出品作家の一覧等が見つかりませんが、これまでの巡回先とほぼ同様となるはずです。主催に名を連ねる『読売新聞』さんの報道では、「明治から現代まで、60人を超える画家や詩人の作品から、詩と絵画の密接な関係を探ります。」とのことです。

光太郎作品について、館に問い合わせました。大正3年(1914)に描かれた「日光晩秋」、同年に描かれた洋酒の瓶と果実を描いた「静物」、新潟・佐渡島の歌人・渡邊湖畔の息女を描いた「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)の3点が、会期中通しで展示されるそうです。

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図録を兼ねた書籍『画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく』は、青幻社さんから広く販売中です。

関連行事として、以下の通り。 

美術講演会 【祖父 清六から聞いた 兄 宮沢賢治 -絵画について-】

日 時 : 6月18日(土)午後2時~005
会 場 : 当館講堂(聴講無料)

講 師 : 宮澤和樹(みやざわ・かずき)氏 
       (林風舎代表取締役)  

展示の目玉の一つが、賢治の絵画「日輪と山」ということで、賢治の実弟にして、戦時中に光太郎の花巻疎開を実現させた故・宮沢清六の令孫・和樹氏による講演です。

和樹氏、様々な機会でご講演をなさっていますが、必ずと言っていいくらい、賢治と光太郎との魂の結びつき、宮沢家と光太郎の深い縁について、お話下さっています。今回もそういったお話が出るのではないでしょうか。

◆ギャラリー・ツアー

日 時 : 7月2日(土)、23日(土)各日午後2時~(約30分)
会 場 : 特別展示室内(展覧会観覧券が必要です)
※学芸員の解説とともに、展示室をめぐります。


ぜひ足をお運び下さい。

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【折々の歌と句・光太郎】

金ぶちの鼻眼鏡をばさはやかにかけていろいろ凉かぜの吹く
制作年不詳

おそらく明治末と推定は出来ます。その頃よく手がけた、白黒反転の「籠書き」で書かれた短冊から採りました。

九段下の書道用品店・玉川堂さんの所有で、昨年、千葉流山で開催された「後閑寅雄喜寿チャリティ書画展」に「参考借用陳列敬仰作品」として出品され、その後、玉川堂さんに見せていただきに参りました。今年4月2日の第60回連翹忌でも展示させていただきました。

今日の関東は、梅雨の晴れ間の快晴です。本来、これを「五月晴れ」と称します。この場合の「五月」は旧暦五月。「五月雨」も同様です。

朝のうちは涼しい風が吹いていました。ただ、日が高くなると、蒸し暑くなりそうです。

皆様もこれからの季節、熱中症等お気を付け下さい。

智恵子関連で2件、ご紹介します。

まずは福島から。今週はじめの『福島民報』さんの記事。 

福島の県立図書館 企画展示多彩に 来月1日まで

 福島県福島市の県立図書館は7日、各種企画展示を始めた。いずれも6月1日まで。 
【受賞児童図書展】各賞に輝いた絵本や児童書、紙芝居など76点を展示している。昨年の日本絵本賞を受けた、あきびんごさん著「30000このすいか」(くもん出版)などを紹介している。一部は貸し出し可能。 
【高村智恵子生誕130年 「ほんとの空」の下で】二本松市出身の洋画家・高村智恵子が今月、生誕130年を迎えるのに合わせ催した。智恵子が表紙を描いた「青鞜 第一巻一号」(復刻版、明治44年)をはじめ、夫光太郎が著した詩集「智恵子抄」(白玉書房、昭和22年)など5点を展示している。他に、智恵子に関係する書籍約100冊を貸し出している。 
【時事展示・今改めて考えよう防災と復興支援】熊本地震を受けて展示した。防災の知恵をまとめたハンドブック、東日本大震災でボランティア活動をした人が体験をまとめた本、九州の文化や歴史についての書籍など約150点を特集し、貸し出している。 
 この他、暮しの手帖社関連の書籍などを集めた「本のひろば」、「特殊文庫・貴重資料コーナー」など、多彩な展示をしている。

というわけで、福島県立図書館さんの「ミニ展示」で智恵子関連が取り上げられています。報道が先行し、同館のサイトでは昨日になってアップされました。

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「智恵子に関係する書籍約100冊を貸し出している。」は、今に限ったことではないと思うのですが……。



もう1件。福岡小倉から。映画館・小倉昭和館さんで、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」がかかります。 

名画をフィルムで  ~原節子特集~

期  日 : 2016年5月14日(土)~27日(金)
会  場 : 小倉昭和館 福岡県北九州市小倉北区魚町4-2-9
 第1週  「お嬢さん乾杯」  10:00/13:30/16:55 
       「小早川家の秋」 11:40/15:05/18:30
 第2週  「智恵子抄」 10:00/14:05/18:05
       「娘・妻・母」 11:50/15:55

「智恵子抄」
監督:熊谷久虎  脚本:八住利雄
出演:原節子、山村聰、青山京子、太刀川洋一、三津田健、三好栄子、柳永二郎
◆昭和31年に他界した詩人で彫刻家の高村光太郎が亡くなった妻・智恵子を悼んで発表した同名詩集の映画化。高村の一周忌に映画化され話題となった。高村は智恵子と出会い生きる喜びを見出していくが、二人の幸せな愛の暮らしは長くは続かず…。美しくも儚い智恵子を演じる原節子に心打たれる。(1957年/98分)

関連行事
 5月22日(日)シネマトーク
 「殉愛 原節子と小津安二郎」著者の映画評論家 西村雄一郎さんを お迎えしたシネマトークを行います。
  「智恵子抄」  10:00~11:40
  「娘・妻・母」  11:50~14:40
  シネマトーク  14:10~14:40
  「智恵子抄」  15:00~16:40 
  「娘・妻・母」  16:50~18:55
  「智恵子抄」  19:00~20:40
 ※当日鑑賞券でお聞きいただけます。


昨年の原節子さんご逝去を受け、もう半年以上経ちますが、やはり大女優、いまだに追悼イベントが行われています。

東宝映画「智恵子抄」にもふたたびスポットが当たるようになり、ある意味ありがたいところです。7月には鎌倉市川喜多映画記念館さんで、現在開催中の展示「鎌倉の映画人 映画女優 原節子」の一環として、秋には智恵子の故郷・二本松の歴史資料館さんで開催される企画展「智恵子と光太郎の世界展」に伴って、それぞれ上映されます。また近くなりましたら、ご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

わが心ゆたかにさめて朝の陽のかがよふ時し牡丹花咲く
昭和20年(1945) 光太郎63歳

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画像は光太郎筆の水彩画。短歌ともども、空襲で駒込林町のアトリエを焼け出され、疎開した岩手花巻での作です。

花巻に向けて東京を発ったのが、5月15日。この日を記念して、花巻では「高村祭」が毎年行われています。明日、14日はそれに合わせ、郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に移る直前に暮らしていた、花巻病院長・佐藤隆房邸の公開があります。当方、それに間に合うよう、今夜、池袋発の夜行高速バスで花巻入りします。

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