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過日、原画展の開催をご紹介した、郡山ご在住のノグチクミコさん著『ほんとうの空の下で』。刊行は昨年でしたが、寡聞にして存じませんで、早速取り寄せさせていただきました。

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副題的に英語が添えられています「The tale of the old man & his dog」、「あるおじいさんと彼の犬の物語」といったところでしょうか。

帯的な紙片がついており、曰く

「人に尽くさなきゃ、なんとなく 生きてる価値ないみたいだもんね。」
戦後まもなく自宅で幻灯会を開き子供たちを楽しませてきた川本さん 移住先の浪江町で被災、避難所生活の中でも最後まで幻灯会を開いていました 人に尽くし、生きるその人生とは――。

福島県浪江町の山里で暮らしていた、おじいさんと年老いた犬のお話

ということです。

巻末には、ノグチさんによる解説文が付いており、それによれば、震災前、愛犬「シマ」と共に福島浪江町にお住まいだった、故・川本年邦さんという方の実話を元にしたものです。

本編約50ページには「言葉」は無く(絵の中に文字が描かれているカットはありますが)、静かに静かに物語が進んでいきます。

川本さんが浪江に移り住んだのは1990年代くらい。東京で暮らしていた若い頃、『路傍の石』の山本有三が近所に住んでいて、山本から古い幻灯機をもらったそうです。ちなみに山本の名は、『高村光太郎全集』には出てきませんが、山本が編集したアンソロジーに光太郎の詩が載っていたり、戦時中には同じ日本文学報国会で、山本は理事、光太郎は詩部会会長だったりで、交流があったと思われます。

川本さんは幻灯機のフィルムを自分でコツコツ集め、戦後の娯楽に飢えた子供達対象に無料幻灯会を開いていました。そして浪江に移ってからも、地元の幼稚園や小学校などでその活動を継続されていたそうです。生計はシマと共に林業や農業で立てていました。伐採した木を運ぶのを手伝うシマの姿が印象的でした。

再び「ちなみに」ですが、幻灯機といえば、光太郎は戦後の花巻郊外太田村での蟄居生活の中で、山小屋(ノグチさんも行かれたことがあるそうです)近くの山口分教場(後に小学校に昇格)に多大な援助をしていましたが、幻灯機も寄贈しています。そして村人対象に、法隆寺などのフィルムを見せ、自ら解説する講座を開いたりもしました。

そして、2011.3.11……。メルトダウンを起こした福島第一原発に近い浪江町は全町民に避難指示。川本さんはシマを置いて、智恵子の故郷・二本松に避難します。

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川本さんは、避難所などでも幻灯会を開催。その背景には、信条としていた宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の精神があったということです。

やがて、シマを引き取ることができたのも束の間、川本さんが体調を崩し、郡山のシニアホームに入居することに。ここには犬は連れて行けません。新しい飼い主の元に貰われていったシマは、すでに15歳、ほどなく亡くなりました。

三たび「ちなみに」ですが、わが家の愛犬も、来月15歳になります。

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閑話休題。

その川本さんも、一昨年、シマの後を追うように他界。震災の翌年から、川本さんを描こうと考えていらしたノグチさん、川本さんの死に心が折れそうになりつつも、絵本を完成させました。

最後のシーンでは、川本さんとシマの魂が、共に過ごした浪江の山里に還って行きます。

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たんぽぽの綿毛が飛ぶ空は、川本さんとシマにとっての「ほんとうの空」……。

涙腺崩壊必至ですが、是非お買い求め下さい。また、伊達市での原画展、15日(土)までです。こちらもお近くの方、ぜひどうぞ。


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【折々のことば・光太郎】

○なほノエルと言ふ年の市見たいなものもあります。○私は大変、さうした騒ぎの場所がすきでしてね。暇さへあれば行つて見ました。そしてパリジアンが底抜け騒ぎする所に真の「生(ラ・ヴイ)」が動いて居ることを感じました。
談話筆記「パリの祭」より 明治42年(1909) 光太郎27歳

3年半にわたる欧米留学からの帰朝後間もなくのインタビュー記事から。後に文展(文部省美術展覧会)の評などで多用する「生(ラ・ヴイ)」の語の、最も早い使用例の一つでしょう。

光太郎は、時につまづき、大コケしながらもそのたび立ち上がり、鮮烈な「生(ラ・ヴイ)」を全うしましたが、川本さんのような「生(ラ・ヴイ)」もあるのだな、と、『ほんとうの空の下で』を読みつつ、思いました。

2週間程前に、お茶の水の石川武美記念図書館さんに行って、明治・大正期の少女雑誌を調べて参りました。その際、智恵子の妹、長沼セキ(世喜子)の書いた物語、「忘れずの記」を見つけ、コピーして来ました。こちらは博文館発行の『少女世界』大正元年(1912)9月の第7巻第12号に掲載されていました。
 
事前に、もう一件、目星を付けていたものがありました。金港堂書籍刊行の『少女界』明治43年(1910)9月の第9巻第11号です。幸いこちらも、石川武美記念図書館さんに収蔵されており、コピーをとってきました。
 
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こちらには、「智恵子」署名の物語、「百合の精」が掲載されています。こういうものがある、という情報だけは得ていましたが、現物を見るのは初めてでした。
 
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内容的には、両親を亡くした少女が、それを不憫に思った百合の妖精になぐさめられる、というもので、6ページ程の短編です。ちなみに物語の舞台は飛騨です。
 
作者の姓が書かれておらず、「智恵子」のみのクレジットです。そこで、我らが長沼智恵子の可能性もある、と思って、いろいろ調べているのですが、どうにもよくわりません。
 
明治43年(1910)は、長沼智恵子はまだ光太郎と出会う前。明治40年(1907)に、日本女子大学校を卒業し、郷里に帰らず、太平洋画会研究所に通って、絵の修行をしていた時期です。有名な『青鞜』の表紙絵を描き、光太郎に出会うのは明治44年(1911)です。
 
長沼智恵子の年譜では、この時期に少女雑誌に寄稿していたという記録はありません。しかし、寄稿ではないものの、博文館の『少女世界』には、明治44年(1911)とその翌年の2回にわたり、智恵子の描いた絵が口絵に使われています。
 
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絵ではなく、文筆作品が活字になったのは、確認できているものとしては、明治45年(1912)の『青鞜』に載った「マグダに就て」が最も古いものです(町立福島高等女学校の卒業式答辞が、明治36年(1903)の『福島民友新聞』に載りましたが、「文筆作品」とは言えますまい)。 
 
この頃、他に有名な「智恵子」としては、閑院宮載仁親王妃が智恵子という名前です。明治の元勲・三条実美の娘です。ただ、宮妃が少女雑誌に寄稿するのも考えにくいところです。ざっと調べた中では、智恵子妃がそうした活動をしていたという記録は見あたりませんでした。
 
また、のちの『青鞜』社員の中に、「伊藤智恵」という名前があるのですが、この人についてもよくわかりません。比較的有名な歌人の山中智恵子、ピアニストの原智恵子は、まだ生まれていません。
 
さらに、本名が「とら」とか「かめ」とか言う女性、または女性に限らず「権左右衛門」さんや「捨三」氏が、ペンネームとして「智恵子」と名乗ることも、全くないとはいいきれません。
 
結局、「百合の精」の作者、「智恵子」は謎のままです。
 
情報をお持ちの方は、ご教示いただけると、幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月17日
 
昭和30年(1955)の今日、日記に「連日の猛暑に閉口」と書きました。
 
このブログでも何度かふれましたが、光太郎は体質的に夏の暑さに弱く、冬大好きの人でした。

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