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秋田県から企画展情報です。  

特別展示「明治150年秋田を訪れた文人たち」

期 日  : 平成30年10月2日(火)~12月27日(木)
場 所  : 
あきた文学資料館 秋田市中通6丁目6-10
時 間  : 午前10時~午後4時
料 金  : 無料
休館日  : 毎週月曜日

秋田には多くの文人が訪れました。たとえば明治27年、小説『蒲団』の田山花袋は、仙岩峠で足をくじき、地元民に助けられました。大正5年、旅と酒を愛する歌人若山牧水が千秋公園で歌を詠み、料亭で秋田の酒を堪能しました。昭和2年、泉鏡花が日本新八景に選ばれた十和田湖へ旅行し、湖を胡桃の実の割目に青い露を湛えたようだと書きました。昭和20年、武者小路実篤が戦火を避けて家族とともに稲住温泉に疎開し、ここで8月15日を迎えました。昭和26年には坂口安吾が、昔好きだった婦人が生まれた秋田を訪れ、「秋田犬訪問記」を書きました。
なぜ彼らは秋田を訪れたのでしょうか。展示では、秋田ゆかりの人物との交流の様子や秋田を描いた作品を紹介します。

共催展示
本展示を共催する小坂町、五城目町、横手市が所蔵する貴重な資料を、月替わりで展示します。

10月2日(火)~11月4日(日)小坂町立総合博物館郷土館収蔵
稀覯本を出版したことで知られる小坂町出身の澤田伊四郎に届いた高村光太郎からの書簡をすべて展示します。

11月6日(火)~12月2日(日)五城目町教育委員会所蔵
才を惜しまれながら若くして亡くなった矢田津世子に宛てた坂口安吾の書簡をすべて展示します。

12月4日(火)~12月27日(木)
横手市雄物川郷土資料館収蔵
昭和20年、横手市出身の画商旭谷正治郎を頼り稲住温泉に疎開した武者小路実篤。旭谷に宛てた実篤の書簡を展示します。

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関連文学講座

11月4日(日)午後1時30分~
文学講座 龍星閣に集う文化人と秋田 小坂町立総合博物館郷土館学芸員安田隼人氏

12月2日(日)午後1時30分~
文学講座 坂口安吾─矢田津世子との出会いから「秋田犬訪問記」まで
     秋田大学准教授山﨑義光氏


というわけで、詩集『智恵子抄』版元の龍星閣主人・澤田伊四郎にあてた大量の書簡類が展示されます。昨年、澤田の故郷である小坂町の総合博物館郷土館さんに寄贈されたもので、今年3月から5月にかけ『高村光太郎全集』未収録の分34通が「平成29年度新収蔵資料展」ということで同館に展示されまして、当方、2月GWに現地に伺い拝見して参りました。「高村光太郎からの書簡をすべて展示します。」とあるので、残り30数通も併せて展示されるのではないでしょうか。

11月4日(日)には、同館学芸員の安田氏による講座も予定されています。ちなみに同館では常設展示で光太郎の署名本を並べ始めています。

また、12月に展示予定の横手市雄物川郷土資料館収蔵の武者小路実篤書簡。横手市出身の画商旭谷正治郎に宛てたものだそうですが、同館にはやはり旭谷に宛てた光太郎書簡も寄贈されており、平成27年(2015)には企画展「横手ゆかりの文人展〜あの人はこんな字を書いていました」で展示され、拝見して参りました


ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

なほ賢治さんの作品の真価は今後ますますひろく人々の間に知られてゆき、後々には、あまねく世界中の人達にまで愛読せられるやうになることを信じて居るといふことを申添へて置きたいと存じます。
ラジオ放送「宮沢賢治十六回忌に因みて」より
 昭和23年(1948) 光太郎66歳

NHK盛岡放送局から、アナウンサーが代読しました。

賢治歿後にその作品群のすばらしさに気づき、『宮沢賢治全集』出版に骨を折った光太郎。その際に数ある出版社がなかなか承諾してくれなかったことなども語られています。

実際、今日では「雨ニモマケズ」などが国際的にも高く評価されるようになっており、そうなることを予言していた光太郎の炯眼には驚くばかりです。

4月29日(日)、千葉銚子で「仏と鬼と銚子の風景 土屋金司 版画と明かり展」及び、「銚子浪漫ぷろじぇくとpresents語り 犬吠の太郎」拝見した後、一旦自宅兼事務所に戻り、今度は北を目指しました。JRさんの在来線、東北新幹線を乗り継いで、午後8時30分過ぎ、岩手の盛岡に到着。この日は駅前のビジネスホテルで1泊し、翌朝、レンタカーを秋田は小坂町に向けました。

目指すは小坂町立総合博物館郷土館さん。3月から、「平成29年度新収蔵資料展」が始まっており、光太郎詩集の代表作の一つ、『智恵子抄』を昭和16年(1941)に刊行し、その後も光太郎の詩集や散文集などを手がけた出版社龍星閣創業者・故澤田伊四郎氏(小坂町出身)の遺品のうち、光太郎や棟方志功関連の資料およそ5,000点が、澤田の故郷である小坂町に、昨秋、寄贈され、その一部が展示されています。

展示が始まる前の2月にも現地に赴き、寄贈されたもののうち、約70通の光太郎から澤田宛の書簡類を拝見して参りました。既に筑摩書房さんの『高村光太郎全集』に収録されているものと、そうでないものが半々。そうでない方はすべて筆写させて頂きました。そして展示が始まり、もう少し早く行くつもりでしたが、この時期となった次第です。

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入館は無料。ありがたいというか、欲がないというか(笑)。

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会場全景はこんな感じで。

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会場入り口の掲示。当方の名も記していただいており、恐縮しました。

問題の書簡類。『高村光太郎全集』未収録のもののみ34通がずらっと並べられていました。壮観でした。学芸員氏が頑張って、一通一通、活字に翻刻、キャプション的に並べてあり、光太郎筆跡に慣れていない方でもどんな内容か解るようになっています。

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報道された際に目玉的に取り上げられた、昭和25年(1950)、龍星閣から出版された詩文集『智恵子抄その後』に関する葉書。

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それから、2月にお邪魔した際には時間もなく拝見できなかった、光太郎の署名本の数々。

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ほれぼれするような筆跡で、丁寧に書かれています。ネットオークション等で、時折、光太郎署名本なる偽物が出品されていますが、こういう本物を見続けていれば、偽物はいかにもみすぼらしく、下劣な品性の愚物が人をだまくらかそうと書いているのがありありと解ります。

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こちらは地元の子供さん達の作品。光太郎のブロンズ代表作「手」(大正7年=1918)にちなむものです。光太郎の母校、荒川区立第一日暮里小学校さんでも同じような取り組みをなさっていました

その他、龍星閣関連で、棟方志功、川上澄生、恩地孝四郎、富本憲吉関連の資料、別ルートの寄贈資料で、画家の福田豊四郎の作品などの小坂町関連資料なども展示されています。

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会期は今月20日まで。ぜひ足003をお運びください。

その後、レンタカーを更に北に向け、十和田湖を目指しました。途中の「道の駅 こさか七滝」には、その名の通り、七滝という大きな滝が。光太郎から澤田に送られた書簡類のうち、澤田が小坂の実家に引きこんでいた時期のものも何通かあり、その住所が「秋田県毛馬内局区内七瀧村大地」となっています。この滝にちなむ地名なのでしょう。

もう少し行くと、道ばたには残雪。運転にはまったく影響ありませんでしたが、さすがに北東北、と思いました。

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ところで、全くの別件ですが、『朝日新聞』さんに、美術評論家の三木多聞氏の訃報が出ていましたのでご紹介しておきます。 

三木多聞さん死去

 三木多聞さん(みき・たもん=美術評論家)23日、急性心不全で死去、89歳。葬儀は家族で行った。喪主は妻玲子さん。
 大阪の国立国際美術館長や東京都写真美術館長を務めた。著書に「近代絵画のみかた 美と表現」などがある。

昭和46年(1971)、至文堂さん刊行の『近代の美術 第7号 高村光太郎』の編者を務められたほか、翌年7月発行の雑誌『ユリイカ 詩と評論』の「復刊3周年記念大特集 高村光太郎」号で、「高村光太郎の彫刻」という評論を発表なさったりされた方です。連翹忌にも2回ほどご参加いただきました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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【折々のことば・光太郎】

若いのはいい、若いのはいい。何かが知りたくて、知りたくて、又遊びたくて、遊びたくて、疲れるといふ事が疲労でなくて休息であるほど、若いのはいい。若い人を見てゐると、自然と心が腕をのばして来て、仕舞に思はず微笑(ほほゑ)まされる。若い人の水々しさはいろんな意味で此世を救ふ。

散文「若い人へ」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

題名の通り、若い人々へのエール的文章です。このあと、「立身出世教」の毒牙にかかるな、的な内容になったりします。

元々、雑誌『婦人の友』に発表されたものですが、のち、昭和に入ってすぐ、かなり改訂されて、女学校用の教科書にも採録されています。

秋田から企画展情報です。 

平成29年度新収蔵資料展

期 日 : 2018年3月11日(日)~5月20日(日)
会 場 : 小坂町立総合博物館郷土館  秋田県鹿角郡小坂町小坂字中前田48-1
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 無料

 今年度も町内外を問わず、多くの資料を寄贈いただきました。誠にありがとうございました。
新収蔵資料展と題して企画展を開催し、寄贈資料を町民の皆様にご覧いただきたいと思います。
 特に今回、小坂大地出身の編集者 澤田伊四郎さんが創業した株式会社龍星閣からの寄贈資料が最も多く、注目の寄贈資料となっています。
 寄贈資料には、高村光太郎(彫刻家・詩人)、棟方志功(版画家)、武塙祐吉(元秋田市長・随筆家)をはじめ、小坂町出身の福田豊四郎(日本画家)・小泉隆二(版画家)からの書簡や書籍やメモ類があります。書簡だけでも約3,000点近くあり、書籍・メモ類を合わせると5,000点を超えます。
 現在整理が進んだ中でも高村光太郎の書簡に多くの未刊行書簡があることがわかりました。整理と分析が進めば、日本文学界にとって大発見があるかもしれません。今後の進展を楽しみにしてください。
 また、今年度、教育委員会が購入した福田豊四郎の資料を展示します。こちらも連載小説等の挿絵の原画や実際に使用ていた画材を含めると約2,000点を超えます。こちらも福田豊四郎研究に大きく貢献できそうな資料群となっています。
 見応えのある展示になると思います。ぜひご来館ください。

関連行事 担当学芸員による展示解説
 第1回目 3月17日(土) 13:00~ 第2回目 4月21日(土) 13:00~ 
 第3回目 5月19日(土) 13:00~


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一昨日、『朝日新聞』さんの夕刊で報道されました。 

智恵子抄の続編「ものにならない」 高村光太郎の未公表書簡公開へ

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)の全集に収録されていない未公表書簡34通が、11日から秋田県小坂町の博物館で無料公開される。代表作の詩集「智恵子抄」を出版した龍星閣(東京都千代田区)の編集者に宛てたもので、智恵子抄の続編について「ものにならないと思います」と記したはがきが含まれている。
 34通は1942年から55年に書かれたもので、はがき32通、封書2通。いずれも小坂町出身で龍星閣の元社長の澤田伊四郎氏宛て。昨年5月、澤田氏が残した書簡や書籍が遺族から町に寄贈され、その中に高村からの書簡が全集収録分も含め約70通あった。
 高村は41年に、愛妻を題材にした「智恵子抄」を出版。戦後、続編の「智恵子抄その後」も出版された。書簡を読んだ高村の研究者小山弘明さん(53)=千葉県香取市=は「(高村の書簡が)一挙に70通も出てくるのは珍しく、『智恵子抄その後』の出版に乗り気でなかったことが裏付けられた。澤田氏の物資援助へのお礼など、高村の律義な性格や、作家と編集者との濃密な人間関係も伝わってくる」と話す。
 これらを一般公開する「新収蔵資料展」は、小坂町立総合博物館郷土館で3月11日から5月20日まで。問い合わせは郷土館(0186・29・4726)。(加賀谷直人)

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先月には共同通信さんの配信による記事が『日本経済新聞』さんや、全国の地方紙に出ました。

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朝日さんは独自に取材、当方にも電話取材がありました。その結果、より詳しく報じられています。

当方、やはり先月、現地に参りまして現物を手にとって、『高村光太郎全集』未収録分については筆写して参りましたが、光太郎の息づかいが聞こえてくるようなものでした。

それから、そちらは拝見してこなかったのですが、チラシ裏面には『智恵子抄』をはじめとする龍星閣の刊行物もいろいろ。どうもその中に、光太郎の識語署名入りがあるようです。チラシの表面に2箇所、光太郎の筆跡があしらわれています。

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左の方は、『智恵子抄』所収の詩「晩餐」(大正3年=1914)の一節「われらのすべてにあふれこぼるるものあれ われらつねにみちよ」。光太郎、この一節を好んでけっこう揮毫に使っています。

当方、来月にはまた現地に参り、拝見して参ります。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

私は今、東北辺陬の地の山林にあり、文字通りの茅屋に住んでゐて、文献の渉猟すべきもの一冊も座右になく、ついて校覧すべき一葉の写真すらない。それゆゑ、今ここで古彫刻について語らうとしても、年代の考證、造像の由来等に関しては危くて一語も述べがたい。ただ語り得るところは、脳裏にあるその映像への所感のみであり、それに連関する雑然たる想念ぐらゐのものである。
散文「新薬師寺迷企羅像」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

と言いつつ、光太郎、この後「脳裏にある映像」だけで、新薬師寺さんに今も遺る国宝の塑像「迷企羅大将像」(薬師如来の眷属・十二神将の一人)について、原稿用紙5枚ほどの稿を書いています。

瞬間記憶能力(カメラアイ)という、見たものを画像として記憶し、瞬時に引き出せる能力を持つ人間がいるそうです。光太郎、そこまでは行かなくとも、それに近い能力を持っていたのではないかと思われます。

一昨日(12/12・土)、午前4時30分に自宅兼事務所を出、一路、秋田県横手市を目指しました。

横手駅に到着したのは午前11時28分。JR北上線で奥羽国境山脈を越えるあたりは一面の銀世界でしたが、山を下ると雪は消え、少し拍子抜けでした。

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上は駅前のショーウィンドウで見つけたLEDを使ったミニかまくら。実際の雪は日陰に残っている程度でした。

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朝が早かったので早めに昼食を摂り、横手バスターミナルから路線バスの本荘線に乗り込みました。のどかな田園風景を揺られること30分あまり。

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途中、車窓から見た「なまはげ」。

降り立ったのは「新道角」というバス停。「新道」と言いながら、旧道の情緒が残っており、当方の大好きな雰囲気の道を歩くこと10数分、目指す雄物川郷土資料館さんに着きました。

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こちらでは第3回特別展「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編 ~あの人はこんな字を書いていました~」が開催中で、『高村光太郎全集』等に未収録の光太郎の書簡も展示されているとのこと。期待が高まります。

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入場料100円也を払って、さっそく展示室に入いると、正面に光太郎書簡がありました。いずれも横手出身の画商・旭谷正治郎に送った封書が1通、葉書が2通の計3点でした。

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昭和21年(1946)、光太郎が隠遁生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋に、旭谷から麹が届けられたことに対する礼状(葉書)、後日、麹の返礼に書を贈った際の添え状(封書)、そして時期は不明ですが、山小屋生活の報告的な葉書。どれも興味深く拝見しました。

さらにパネル展示で、横手での光太郎の写真も。おそらく旭谷の麹の入手元、近野麹屋でのカットでした。光太郎は昭和25年(1950)の3月10日から12日にかけ、講演のため横手を訪れています。その際に泊まったのが近野麹屋でした。店主・近野廣は趣味人としても名が通り、さらに高校のPTA役員をしていた関係で、講演の企画やら光太郎の接待やらに奔走したそうです。『高村光太郎全集』には、講演が終わって太田村に帰ってからの近野宛の光太郎書簡が掲載されています。さらに翌年、近野から麹と秋田銘菓の「もろこし」を小包で受け取った礼状も。

さて、「横手ゆかりの文人展」、光太郎以外にも様々な人物から旭谷宛の書簡などがずらりと並んでいて、壮観でした。光太郎と縁のあったところでは、白樺派での盟友・武者小路実篤。武者は書簡だけでなく絵も展示されていました。さらに石井柏亭、梅原龍三郎、安井曾太郎といった、光太郎と旧知の画家達。

そして東京美術学校西洋画科での光太郎の同級生、藤田嗣治。藤田には「秋田の行事」(昭和12年=1937)という大作があります。光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」も取り上げられる映画「FOUJITA」(小栗康平監督・オダギリジョー主演)が公開中ですが、この映画のロケが、横手でも行われたとのことで、映画のチラシも置いてあり、いただいてまいりました。

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先月、封切りの日に千葉市の京成ローザさんで拝見した際に、館ではもうチラシが残っていなかったので残念に思っていましたが、意外な所でゲットできました。

ちなみにチラシ裏面がこちら。一番上の、オダギリさんと妻・君代役の中谷美紀さんが能面を観ているシーンなどは、当方の住む千葉県香取市でロケが行われました。不思議な縁を感じました。

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ゆっくり拝観したかったのですが、バスの都合があり、急いで館を後にし、バス停まで走りました。あやうく横手駅前で食べた昼食のカツカレーをリバースしそうになりました(笑)。どうにかバスには間に合ったものの、真冬の東北にもかかわらず、汗だくになりました(笑)。

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横手駅から北上線が出るまでの待ち時間、駅からほど近い横手図書館で調べ物。上記の近野廣と光太郎の関わりなどを記した文献を見つけ、コピーして参りました。それによると近野家には光太郎の書がたくさん残されたとのことで、こちらも現存するものであれば見てみたいものです。大半は他の人にも同じ文句を書いて贈ったものですが、一点、他に類例の確認できていない言葉を書いた色紙があるようです。

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その後、北上線に乗り込み、北上駅から東北本線に乗り換えて花巻へ。以下は明日、レポートいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月14日

平成4年(1992)の今日、東北の地方紙『河北新報』に「光太郎日記のこと」というエッセイが掲載されました。

筆者は宮城県母子愛護病院長(当時)・熊谷一郎氏。『高村光太郎全集』に収められた昭和27年(1952)の日記に、ご自分が花巻郊外太田村の山小屋を訪れた際の記述を見つけた、という内容でした。

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実際にその日の日記を読むと、「学生」とは記されていますが、熊谷氏のお名前はありません。しかし、後になって当事者の証言でその正体(笑)が判明した稀有な例です。

秋田県から企画展情報です。

まずは概要を分かりやすくするため、地元紙『秋田魁新報』さんの記事から。 

文人の書簡ずらり、横手の逸話も

 大正から昭和にかけ活躍した文人の書簡を集めた「横手ゆかりの文人展」が、秋田県横手市の雄物川郷土資料館で開かれている。展示しているのは、昭和中期の東京で芸術家や作家との交遊があった同市出身の画商旭谷正治郎(1899〜1975年)宛ての手紙、はがきなど約80点。横手に関わる逸話や思い出の記述が多数見られる。市教育委員会の主催で23日まで。

 市教委は今年7月、旭谷の七男文和さん(70)=茨城県土浦市=から依頼されて手紙、はがきなど約3千点を保管。今回展示しているのはその一部で、彫刻家高村光太郎や作家武者小路実篤ら22人が旭谷に宛てたもの。

 旭谷の案内で横手を訪れた一人、版画家棟方志功のはがきは、勢いのある大きな字で「横手町は未知の所でミリョク大有りです」と記す。別のはがきでは「かやき、キリタンポの力でわめき抜くつもりです」と創作意欲を伝えている。

 高村は戦後間もなく横手を訪れ、地元の麹(こうじ)屋に立ち寄った。その後、横手から小包で麹が届けられたことを喜び、「早速甘酒を仕込みました」と、旭谷にはがきで報告している。

 武者小路は、戦時中に探していた疎開先について「秋田がいいと思う。意見を聞かせてほしい」との手紙を寄せた後、現在の湯沢市秋ノ宮の温泉に疎開した。


というわけで、秋田県横手市の雄物川郷土資料館さんでの企画展です。 

第3回特別展「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編」 ~あの人はこんな字を書いていました~    

会  期 : 平成27年10月24日(土)~12月23日(水・祝) 
         前期10/24~ 後期11/28~ 展示替えあり        
会  場 : 雄物川郷土資料館 秋田県横手市雄物川町沼館字高畑366
開館時間 : 午前9:00~午後5:00(入館 4:30まで)
入  館  料  : 一般100円(80円) 高校大学生50円(40円) 中学生以下無料 
       ※()内は団体料金(15名以上)
休  館  日  : 月曜日(祝日と重なる場合はその翌日)及び祝日の翌日

 雄物川郷土資料館では、「横手ゆかりの文人展」と題し、大正から昭和初期にかけて活躍した作家、画家、文化人たちの直筆原稿、手紙や葉書などを展示いたします。

 東京で文化人と交流のあった横手市出身の画商 旭谷正治郎氏のコレクション約600件が市に寄託されたことで実現したもので、ほとんどが初公開の貴重なものばかりです。横手とゆかりのある文人たち約30名には、日本の近代を担った著名人が多くみられます。歴史の1ページを飾った先人の文字には、その人柄や息づかいまで感じることができます。

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公式サイトにあるように、旭谷正治郎は、横手出身の画商です。調べてみると、『高村光太郎全集』では、第十二巻、戦後の日記に名前が出ていました。

旭谷氏より麹たくさん送り来、 (昭和21年=1946 1月21日)

『秋田魁新報』さんの記事と一致します。

午前揮毫送附の為テガミ書き、 水原宏氏(雪白くつめり)、旭谷正治郎氏(うつくしきもの、最後にのこるもの美なり)、 (同2月7日)

ひる頃石井鶴三、笹村草人、有賀剛、千葉金右衛門、旭谷正治郎の五氏来訪。炉辺に招ず。昨夜花巻クルミ旅館泊の由。鶴三氏とは四五年ぶりの面会。他の人は皆初対面。助教授笹村氏専らしやべる。 横手町の画商旭谷正治郎氏が鶴三氏を案内して十和田湖に赴き、写生に数日間滞在。(略)談話、学校の話、彫刻の話、余が東京に帰らぬ旨の話、其他いろいろ。五時過辞去。部落のはづれの馬頭観音のところまで送りて別れる。 (昭和23年=1948 6月20日)

石井鶴三、笹村草家人は彫刻家、有賀剛は笹村の友人で神田小川町の汁粉屋主人、千葉金右衛門は秋田扇田町(現・比内町扇田)の酒造家です。

旭谷にあてた光太郎の書簡は確認できておらず、真筆であれば(まず間違いないと思いますが)、新発見です。
館の方に問い合わせ中ですが、場合によっては現物を見せてもらいに行ってこようと思っています。

こんな感じで、現在も後から後から光太郎の書簡が出て来ています。毎年4月2日の連翹忌の日に、高村光太郎研究会から発行される『高村光太郎研究』という雑誌で、当方、「光太郎遺珠」という連載を持っており、1年間で見つけた『高村光太郎全集』未収録の作品を紹介しています。毎年のように10通を超える書簡が見つかっていて、来春の「光太郎遺珠」にも、花巻の写真家・内村皓一氏にあてたものや、九段下の書道用品店・玉川堂さんから出て来た書簡など、既に15通を掲載予定です。

まだまだ光太郎書簡はいろいろなところに眠っているはずです。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月7日

昭和26年(1951)の今日、草野心平と共に花巻郊外台温泉松田屋旅館に宿泊しました。

松田屋さんは今も健在です。HPで見ると、建物はきれいになってしまっているようですが。いずれ泊まってみたいと思っています。

追記 松田屋さん、当時のままの建物でした。

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