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雑誌の新刊です。 

月刊ノジュール 2019年8月号

2019年7月31日 JTBパブリッシング発行 定価 815円+税

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目次

 大特集 今年も“楽して”愉しみたい ゆとり登山で百名山
  グラビア 富士十五景
  絶景に会える 富士十五景の 撮影スポット
  “楽ちん百名山”モデルプラン 雲の上の爽快2時間さんぽ
  西穂高岳[岐阜県・長野県] 雲上の北アルプスを満喫
  安達太良山[福島県] 『智恵子抄』の“ほんとの空”へ
  大台ヶ原[三重県・奈良県] 霧に包まれる幻想的な風景が魅力
  もっと楽しみたい百名山5 白馬・八方池/上高地/石鎚山/茶臼岳/筑波山
  山の恵みをこころゆくまで 天上温泉の隠れ宿 裏磐梯高原ホテル/和風旅館華もみじ/
   十勝岳温泉 湯
凌雲閣/穂高荘 山のホテル/上高地ルミエスタホテル/蔦温泉旅館/
   九重星生ホテル
  百名山・月山と羽黒山五重塔へ 出羽三山の信仰と開山伝説 鈴木正崇
 特集 祝「百舌鳥・古市古墳群」登録! 世界遺産の古墳を歩く
  グラビア 小型機に乗って上空から! 美しい古墳10景 仁徳天皇陵古墳/古市古墳群/
  箸墓古墳/
五色塚古墳/造山古墳/柳本古墳群/鶯塚古墳/西都原古墳群/今城塚古墳/
  石舞台古墳
  世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」へ
   百舌鳥編 日本最大・仁徳天皇陵と百舌鳥古墳群を歩く
    コラム ホントはどっち? 仁徳天皇陵古墳か大仙古墳か
   古市編 駅前から続く“古墳銀座”と古市古墳群を巡る
  対談 スソアキコ(ひとり古墳部)誉田亜紀子(土偶女子)女性が古墳にハマるワケ
   We Love古墳
 知れば知るほど深みにハマる 古墳のヒ・ミ・ツ
 他


というわけで、智恵子の故郷・二本松の安達太良山が、「智恵子抄」にからめて紹介されています(8ページ)。

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他にも、光太郎智恵子にはふれられていないものの、上高地、裏磐梯、蔦温泉など、二人のゆかりの地二関する記事も。

昨日の『朝日新聞』さんに、大きく広告が出ています。

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しかし、この雑誌、正規ルートで入手しようとすると定期購読せねばならず(年8,460円だそうで)、公式サイトで調べたところ、バックナンバー購入も定期購読者に限るとのこと。そこで、闇ルートで入手しました(笑)。といっても怪しげなブローカーなどではなく、ネットオークション。便利な世の中になったものです。

今朝の時点でもまだ出品がありますし、公共図書館等で所蔵があるかも知れません。


【折々のことば・光太郎】

美は力なり   短句揮毫  時期不明

今月1日にご紹介した「美しきもの満つ」、昨日ご紹介した「美ならざるなし」同様、これも光太郎が好んでよく揮毫した言葉の一つです。

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光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)に使われ、福島復興の合い言葉として使われる「ほんとの空」の語。

それにまつわるイベントを二つご紹介します。

交流センター開館10周年記念「ふくしま星・月の風景in二本松」

期 日 : 2019年7月30日(火)~8月25日(日)
時 間 : 午前10時~午後4時
場 所 : 二本松市市民交流センター3階 市民ギャラリー  福島県二本松市本町2丁目3-1
料 金 : 無料

福島県内にて撮影された星・月の風景を眺め、星空に想いを馳せてみませんか?
「ほんとの空」がある二本松市では、初の写真展です。

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智恵子の故郷・二本松に隣接する郡山市のふれあい科学館さん主催で行われた「第5回 ふくしま 星・月の風景 フォトコンテスト」――キャッチコピーが「〝ほんとの空〞のあるふくしまの星・月の風景をあなたの感性で捉えてください」――の入賞作品展を、二本松で行うそうで。

当方、第4回の作品展を平成28年(2016)に拝見して参りました。どれもこれもハイレベルで驚きましたし、福島の「ほんとの空」の魅力を再確認いたしました。

さらに関連行事として、以下があるそうです。 

全国同時七夕講演会2019「星・月の風景写真を通して観る七夕の星・夏の星」

期 日 : 2019年8月4日(日)
時 間 : 午前6時~午後8時
場 所 : 二本松市市民交流センター1階 多目的室  福島県二本松市本町2丁目3-1
料 金 : 無料
講 師 : 安藤享平氏(郡山市ふれあい科学館 天文担当 学芸員)
内 容 : 夏空の主役・七夕伝説を紹介しつつ、星空撮影の方法などを詳しくお話ししま
      す。


もう1件、まったく別件ですが、やはり「ほんとの空」ということで。 

子どもじんけん教室 なつやすみミニ映画会「ほんとの空」

期 日 : 2019年8月14日(水)
時 間 : 1回目 午前10時30分~  2回目 午後2時30分~
           名古屋市中区栄一丁目23番13号伏見ライフプラザ12階
料 金 : 無料

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平成24年(2012)、兵庫県人権啓発協会さん制作のビデオドラマ「ほんとの空」(白石美帆さん主演)が上映されます。
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制作当初から数年間は、「新作」扱いで全国の自治体さんなどの主催行事で上映されたり、ローカルテレビ局さんで放映があったりしましたが、7年経ってそういう機会も減ったようです。しかし、内容的には東日本大震災による福島第一原発事故からの避難者が、避難先でいわれのない差別を受けるというもので、7年前と現在とで、社会の現状は残念ながらあまり変わっていないのではないかと思われます。

そういった意味では、今後も各地での上映や放映を望みます。特に放映の方は、ローカルテレビ局さんでは時々あったのですが、全国放映は為されていないように思われます。

それぞれお近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】003

きれいだなあといふと景色がなほきれいになる

短句揮毫より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

この項、しばらくの間、色紙や献呈した書籍等に揮毫された短句をご紹介します。

第1弾は、昭和18年(1943)刊行の年少者向け詩集『をぢさんの詩』に書かれたもの。光太郎と交流の深かった美術史家・奥平英雄が、子息のためにと買い求め、光太郎に何か書いてくれるよう頼んで書かれた短句です。

実際、独り言でも声に出してみることで、その内容がより実感されるということはよくある話ですね。

『をぢさんの詩』は、翼賛詩もたくさん含む実に残念な詩集ですが(「これこそ光太郎詩の真骨頂」とありがたがる愚か者も居て困ります)、時局とまったく関係のない短句を揮毫してあげたところに、救いを感じます。

7月13日(土)、村民体育センターで行われた、当会の祖・草野心平を顕彰する第54回天山祭り会場を後に、千葉の自宅兼事務所に向かいましたが、帰りがけ、少し寄り道をしました。

洞秀山泰亨院長福寺さん。村はずれの山の麓にありました。

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昭和28年(1953)、「モリアオガエルを見てみたい」という心平が新聞に書いた文章を読んだこちらの矢内俊晃住職が、川内村の平伏(へぶす)沼がモリアオガエルの繁殖地だと心平に教え、招きました。これが以後、昭和63年(1988)に心平が亡くなるまで続いた心平と川内村との縁の始まりでした。

昭和53年(1978)撮影の矢内住職と心平。

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そうした関係で、同寺には心平揮毫の石碑などが建っているというので、拝見しておこうと思った次第です。

山門脇の駐車場に愛車を駐め、降り立つと、心平碑ではありませんが、目の前に「東日本大震災被災物故者供養塔」。調べてみましたところ89名という決して少なくない数が川内村の震災による死者数として記録されていました。山間部なので津波の被害はなかった川内村ですが、いわゆる関連死などなのでしょうか。線香を手向けさせていただきました。

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山門には、レトロな自転車が。昭和55年(980)に亡くなった矢内住職の愛車だそうですが、あえてそのままここに置いてあるとのこと。

山門をくぐり、山の斜面を本堂目指して登って行くと、ほどなく碑が。

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「長福寺雨蕭々 心平」。光太郎のそれもそうですが、心平の筆跡、かなり遠くからでもそれとわかります。昭和34年(1959)の建立だそうです。

近づいてみて、驚きました。『歴程』同人の山本太郎の添え書きもある、という情報は事前に得ていたのですが、山本以外にも錚々たるメンバー。心平を中心とした寄せ書き的な書をそのまま碑に写したもののようです。

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鳥見迅彦。詩集『けものみち』(昭和30年=1955)の題字を光太郎が揮毫しています。

會田綱雄。昭和32年(1957)、詩集『鹹湖』で、第一回高村光太郎賞を受賞しました。心平との縁は中国南京で知り合ったことがきっかけでした。

島崎蓊助(おうすけ)。藤村の三男で、光太郎と書簡のやりとりをしていました。新潮社で『島崎藤村全集』編集に当たり、同書付録の『藤村研究』に光太郎が「夜明け前」雑感(昭和25年=1950)を寄稿した際に橋渡しをしたと推定されます。光太郎再帰京後の昭和28年(1953)には、新宿のバーで光太郎、心平、蓊助の三人で呑んだことも。

山本太郎。昭和54年(1979)、筑摩書房から刊行された『智恵子紙絵』の編集に当たり、光太郎智恵子への頌詩を寄せました。父は版画家の山本鼎。東京美術学校、新詩社、パンの会などで光太郎と縁が深い人物でした。村山槐多のいとこにあたります。母は光太郎の盟友・北原白秋の妹でした。

以上、『歴程』同人です。それ以外にも、心平の長女・碧、そして矢内住職などの名も刻まれていました。

なぜかは知らねど、涙が出そうになりました(笑)。

碑の前を過ぎ、さらに斜面を上がると本堂や鐘楼。

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その裏手が墓地になっており、そちらにも心平の筆跡が残されているというので、行ってみました。

やはり『歴程』同人で、昭和50年(1975)に亡くなった画家の辻まことの墓です。妻の良子も合葬されているようです。

辻の父はアナーキスト・辻潤。やはり光太郎とも交流がありました。大正13年(1924)刊行の陶山篤太郎詩集『銅牌』の序文を光太郎が書き、英訳を潤が手がけています。また、昭和14年(1939)に刊行された西山勇太郎詩集『低人雜記』では、光太郎が題字を、潤が序文を担当しました。後の西山宛の光太郎書簡には潤の名が頻出します。また、昭和29年(1954)に刊行された『辻潤集』全二巻の編集委員には、光太郎も名を連ねました。

ちなみにまことの母は関東大震災のどさくさで憲兵大尉・甘粕正彦に殺された伊藤野枝です。野枝は智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』の発行を平塚らいてうから受け継いだ人物でした。

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辻の墓と対を為すように、先述の會田綱雄の墓もありました。こちらは事前に存じておらず驚きました。會田の死は心平より遅く平成2年(1990)。したがって、こちらは心平の筆跡ではありませんが、ここに墓があるというのは心平と無関係ではあり得ないでしょう。

この2基にも線香を手向けさせていただきました。


長福寺さんを後に、帰路に就きました。

川内村、東日本大震災に伴う福島第一原発の事故による全村避難から8年。8割方の世帯が帰還したそうです。実際、久しぶりに訪れてみて、以前にゴーストタウン的だった一角に、住民の方々の姿が見え、復興が進んでいる様子が垣間見えました。こんなの以前はなかったんじゃないかな、という施設も散見されました。

しかしまだまだ復興途上。ぜひ皆様、足をお運びいただき(訪れるだけでも復興支援となります)、心平や光太郎、そして2人を取り巻く人々に思いを馳せていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

実をいふと、自分の旧作をよんでゐて感ずるものは、あれもこれも消してしまひたいやうな衝動である。

雑纂「岩波文庫版「高村光太郎詩集」はしがき」より
 
昭和29年(1954) 光太郎72歳

交流の深かった美術史家・奥平英雄が編集にあたり、現在も版を重ねる岩波文庫版『高村光太郎詩集』が刊行されまして、それに寄せた文章の一節です。

もはや自らの生命の火が消えかかっていることを認識していた光太郎、やはり自らの来し方には手厳しかったといえるでしょう。

昨日は福島県双葉郡川内村に行っておりました。同村の名誉村民で当会の祖・草野心平が生前に愛し、歿後はその顕彰を兼ねて行われ続けている、天山祭り。今年で54回目だそうで。しばらく欠礼しておりましたが、久しぶりにお邪魔いたしました。

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本来の会場は、心平の川内村での別荘的な天山文庫でしたが、一昨日の時点で天気が怪しいというので村民体育センターに変更。

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当方到着時にちょうど始まったところで、主催者挨拶の最中でした。

実行委員長・井出茂氏。かつてご自宅の小松屋旅館さんで、心平を偲ぶ「かえる忌」も主催されていました。今年、復活させるそうで。

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遠藤雄幸川内村長。ご挨拶の中で光太郎にも触れて下さいました。

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来賓挨拶。心平が主宰していた同人誌『歴程』の新藤凉子代表。

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心平遺影に献花。

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その後、さまざまな皆さんによる心平詩等の朗読。

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まずは川内小学校の6年生児童が自作の詩を。

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詩人のいとうのぼる氏、声優の本間ゆかりさん、同じく栗原康子さん。ライヤーという楽器を伴奏に、心平詩を中心に。

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いとう氏と本間さんは、昨年山梨県立文学館さんで開催された「歿後30年 草野心平展 ケルルン クックの詩人、富士をうたう。」の開会式にもご出演されました。

いとう氏、自作の詩の朗読も。「私の獏は」と題する詩で、光太郎智恵子にも触れて下さっています。

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『歴程』同人の皆さんも、心平詩を。画像は連翹忌にもおいでいただいた事のある伊武トーマ氏。

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この後、樽酒の鏡開きが行われ、お弁当が配布、それをいただきながら懇親会的な。当方、遠藤村長、井出氏、伊武氏など、旧知の方々と久闊を除させていただきました。

アトラクション的に、郷土芸能「西山獅子舞」。詩の朗読をした川内小児童も再度獅子頭をかぶって登場。頼もしい限りです。

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東京芸術大学邦楽部ご出身で、福島大学などで講師をなさっているという、尺八奏者のブルース・ヒューバナー氏。すばらしい演奏でした。

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というわけで、大盛り上がりの天山祭。泉下の心平も喜んだことでしょう。というか、どさくさに紛れてゴザの上にあぐらをかき、ドブロクの茶碗を傾けていたのでは、と思いました(笑)。

末永く続けて行っていただきたいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

「智恵子抄」は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた。

雑纂「詩集「智恵子抄その後」あとがき」より
 昭和25年(1950) 光太郎68歳

『智恵子抄その後』は、この年、戦時の休業から復興した龍星閣によって刊行されました。一昨年、龍星閣主人・澤田伊四郎にあてた、同書に関わる光太郎書簡等が澤田の故郷である秋田県小坂町に寄贈されています。

「詩集「智恵子抄その後」」とありますが、実際には散文の方がページ数が多く、「詩文集」というべき書物です。

そのあとがきに、昭和16年(1941)刊行の『智恵子抄』が、「徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた」と書いた光太郎。智恵子に対する贖罪の書、それまでの自分の生き様(世間と没交渉)に対する訣別の書、そしてもちろん最愛の妻・智恵子への挽歌、いろいろな意味合いを含めての万感の思いがこもった一言と思われます。

智恵子の故郷、福島県二本松市さんの広報誌『広報にほんまつ』。5月19日に開催された「第65回安達太良山山開き ほんとの空の下 心の晴れ渡る、感動深呼吸」について大きく取り上げています(6月号には間に合わなかったようで)。

まちの話題 山開き 安達太良山 標高1,700m

 5月19日、約9,000人の登山者が山頂を目指しました。頂上付近では 風が吹き、雲がかかるなど絶好の登山日和とはなりませんでしたが、日本100名山の安達太良山登山を楽しみました。
 山開きに合わせて、安達太良連盟は「ビューティ安達太良」を歌う郡山市出身の俳優斉藤暁さんとタレントのなすびさんに安達太良山観光大使を委嘱し、山のPRを託しました。
  山頂では、ミズあだたらコンテストが行われ、ミズに桑折町の菅野恵梨華さん、準ミズに鏡石町の鈴木紗英ちゃんが選ばれました。


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今年初めて当方も山開きに行って参りまして、これまで以上に安達太良山に親近感といいますか、リスペクトといいますか、そういったものを感じて居る次第です。

三保二本松市長やタレントのなすびさん、それから俳優の斎藤暁さんも登られていたそうですが、当方、登頂記念のペナント配布後に行われたさまざまなイベントはパスして下山しましたので、気づきませんでした。

それから、先月21日、テレビ東京系で放映された「たけしのニッポンのミカタ! 老若男女がなぜ登る?山に魅せられたニッポン人」も拝見。MCの国分太一さんなど、「9,000人も登るんですか !?」と驚かれていましたが、9,000分の1が私です(笑)。

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こちらは残念ながら安達太良山と光太郎智恵子との絡み、「ほんとの空」的な紹介は為されませんでした。代わって「古くは『万葉集』にも詠まれた山」という説明。新元号「令和」の出典が『万葉集』ということで、『万葉集』がちょっとしたブームとなっています。強力なライバル出現、と焦っております(笑)。これからは「高村光太郎の『智恵子抄』に謳われた山」でなく、「古くは『万葉集』にも詠まれた山」の方がメインになってしまうのでは、と。


ちなみに『万葉集』では、安達太良山は次の通り。

安達太良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)のあり つつも吾は至らむ寝処な去りそね

「安達太良山の峰に伏す鹿猪よ(=わが愛する娘よ)、そのままいつもの寝場所に居て下さい、私はいつものようにお前のところへ行こうと思っているのだから」といった訳になりましょうか。けっこう生々しい相聞歌です。


陸奥(みちのく)の安達太良真弓(まゆみ)はじき置きて反(せ)らしめきなば弦はかめかも

「陸奥の安達太良山の真弓(まゆみ)で作った弓を放っておいたら、すぐには弦をかけて引くことができないように、急に私の気を引こうとしても無理なのですよ」。これも相聞歌です。

よく似た歌がもう一首。

陸奥の安達太良真弓弦(つら)着(は)けて引かばか人の我(わ)を言(こと)なさむ

「陸奥の安達太良山産の真弓に弦(つる)を張り引くように、私があなたの気を引けば、人の噂になるかしら」的な。


そこで張り合っても仕方がないので、TV関係などの皆さん、今後は「『万葉集』や『智恵子抄』に詠まれた山」でお願いします(笑)。


【折々のことば・光太郎】

ゴヤのマハ。この顔は若太夫にも似て居り、又この眼をすこしまろくすれば、智恵子にも似て居る。

アンケート「私の好きな顔 古今東西の美術品の中より」全文
 昭和25年(1950) 光太郎68歳

ゴヤのマハ、いくつかのヴァリエーションがありますが、最も有名なのは「着衣のマハ」でしょうか。たしかにどことなく智恵子にも似ていますね。

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「若太夫」は、明治末、光太郎が入れあげた吉原河内楼の娼妓。モナ・リザにも似ていたといいます。

ちなみに『リーチ先生』の原田マハさん、ゴヤのマハからペンネームを採られたそうです。

当会の祖・草野心平がその生前に愛し、歿後は心平を顕彰する意味合いも含められている、福島県川内村での「天山祭り」が開催されます。

第54回天山祭り

期   日 : 2019年7月13日(土)
場   所 : 天山文庫前庭  福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513
         雨天時は村民体育センター 川内村大字上川内字小山平15
時   間 : 11:30~14:00
参  加  費  : 500円

天山文庫は、川内村民の結いによって、草野心平先生へ感謝を込めて建てられた建物です。今なお茅葺屋根の建物は、その場所にいるだけで清らかな気持ちになれます。
草野心平先生が詠んだ詩の朗読や川内村の伝統芸能等を見ながら、食べて、飲んで、話して交流を深めてみませんか。初めて参加の方も是非お越しください。

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細かな内容項目など出ていませんが、以前の例ですと、地元の方や心平の興した『歴程』同人の方々による心平詩の朗読、地域の伝統芸能の披露などが中心だったと記憶しております。

しばらく欠礼しているのですが、今年は都合が付きましたのでお邪魔する予定です。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

美術界だけで言へば現代美術館。

アンケート「いまの日本に欲しいもの」全文 昭和9年(1934) 光太郎52歳

日本にきちんとした美術館というものが定着したのはそう古い話ではありません。大正15年(1926)に東京府美術館が開館しましたが、自前の収蔵品(コレクション)は持たず展示会場を貸すのみのものでした。コレクションを持つ初めての美術館は、昭和5年(1930)開館の大原美術館さん(倉敷市)。のちに光太郎の作品も収蔵されますが、はじめは西洋絵画が中心でした。公立のきちんとした美術館というと、何と戦後の昭和26年(1951)、神奈川県立近代美術館の開館まで待たないとなりませんでした。

テレビ放映情報です。

たけしのニッポンのミカタ! 老若男女がなぜ登る?山に魅せられたニッポン人

テレビ東京 2019年6月21日(金) 21時54分~22時54分

▽山頂に渋滞!9000人が集まる安達太良山の山開きに密着 ▽個人で山を購入!? 一万坪をひとり占め…山の(秘)楽しみ方 ▽人生が変わる!? 三浦豪太&市毛良枝が山で出会った奇跡の風景 ▽登山者数世界一! あなたの知らない高尾山

司会   ビートたけし、国分太一 
ゲスト  三浦豪太(プロスキーヤー・登山家)、市毛良枝(女優)

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智恵子の故郷・福島二本松に聳え、先月19日、第65回山開きが開催された「ほんとの空」のある安達太良山。その山開きの様子が紹介されます。

当方、今年、山開きに合わせ、初めて山頂まで登りました。そこでもしかすると当方も映るかもしれません(笑)。ロープウェイの奥岳登山口駅で、テレビ局スタッフらしき皆さんに「切符を買っているところを、手だけ撮らせて下さい」と言われ、承諾いたしました。地元のローカルニュース系だろうと思っていたのですが、ことによるとこの番組ということも考えられます。山頂付近ではテレビ局さんらしきクルーには気づかなかったのですが(番組紹介にあるとおり、多くの人で人山の黒だかりでした(笑))、途中の登山道でそれっぽい人達を追い越したような気もします。

安達太良山と光太郎智恵子との関わり、そして「ほんとの空」的な紹介が少しでも為されれば、と思っております。キー局がテレ東さんで、全国的には試聴可能地域が限られますが、番販の形で他局系でも遅れて放映されるようですので、各地域でご注意していて下さい。

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【折々のことば・光太郎】

大酒はもとより大毒。のまずにすむなら酒はのまぬが一番。もしのむなら安くてわるい酒は禁物。高くてもよい酒が結構なれど安くてよい酒なら尚ほ結構な道理でございます。

雑纂「古雅清醇 ゐなか酒「花霞」引札」より
 大正12年(1923) 光太郎41歳

「花霞」は、智恵子の実家、福島県油井村(現・二本松市)の長沼酒造で作っていた日本酒のブランドです。この年9月1日の関東大震災後、とにかく物が不足していたことから、光太郎が東京に取り寄せ、自ら荷車を引いて売り歩いたとのこと。ラベルや引札も木版で作りました。引札は二本松の智恵子記念館さんに展示されています。

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ちゃんとやればそれなりに商売になったのでしょうが、結局は友人知己にただで呑まれてしまい、ほとんど儲けにならなかったとのこと。当会の祖・草野心平は無実です(笑)。この頃はまだ光太郎と知り合っていませんし、第一、中国に居ました。

智恵子の故郷・福島二本松からのイベント情報です。

第1回二本松市田舎暮らし体験ツアー

期 日  : 2019年6月22日(土)・23日(日)
場 所  : 福島県二本松市 
料 金  : 4,000円(宿泊費、初日昼食・夕食、2日目朝食・昼食代)
定 員  :  6名
問 い 合 わ せ   : 二本松市役所総務部秘書政策課 TEL 0243-24-7120/FAX 0243-22-7023
           Email energy@city.nihonmatsu.lg.jp
詳 細  : 
 <6月22日(土)>
  12:00 昼食(日程説明) ※ふくしま農家の夢ワイン㈱
  14:30 農業体験(有機農家の圃場で収穫体験)
  18:00 先輩移住者・地元の方との夕食交流会
  20:00 宿泊
 <6月23日(日)>
  9:00  農業体験(有機農家の圃場で収穫体験)
  11:30 昼食(ツアーの振り返り)
  13:00 二本松市内観光
  14:25 二本松駅着 
         

二本松市は、高村光太郎が「智恵子抄」の中で、妻・智恵子のあどけない話として「あだたら山の上に出ている青い空がほんとの空」だと伝えている『ほんとうの空』がある市として知られています。
二本松藩・丹羽家10万石の城下町として歴史を刻んできたエリア、安達太良山の麓にある岳温泉・安達太良高原エリア、東の阿武隈山系に連なる里山の恵み豊かな中山間地域エリアに分かれており、豊かな自然が住む人、訪れる人々をやさしく包んでくれます。
今回のツアーは、阿武隈山系に連なる地域で有機農業を営んでいる方々が、農業後継者と一緒に有機農業を営んでみたい方を募集するために企画したものです。農業を新たに始める方のサポート体制も整っておりますので、是非足を運んでみてください。お待ちしております!

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内容的には直接光太郎智恵子に関わるわけではないのでしょうが、「ほんとの空」の語を持ち出されると、紹介せざるを得ません(笑)。

有機農業に関心がおありの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

従つてわたくしには世上に於ける名誉がありません。しかし実力はあります。わたくしの彫刻は尠くとも根帯の無い砂上の家ではありません。外面的に見ても、わたくしは自分の彫刻が世界の芸術的市場に持ち出されて差支無いのみならず、必ず確固たる市価を得べきものだといふ事を疑ひません。

雑纂「高村光太郎彫刻会」より 大正6年(1917) 光太郎35歳

同じ文章に拠れば、ニューヨークで個展を開きたい、しかし金がない、ひいては彫刻を買ってほしい、だそうで。どの程度本気だったのか、何とも難しいところですが、賛助員には、金子堅太郎子爵をはじめ、水野勝興(親友・水野葉舟の父で日本勧業銀行監査役)、正木直彦(東京美術学校校長)、与謝野寛、武者小路実篤、岸田劉生、バーナード・リーチ、そして明治39年(1906)にニューヨークで世話になったガットソン・ボーグラムなど、錚々たるメンバーが名を連ねています。

結局、入会者が少なく、ニューヨークでの個展は実現しませんでしたが、ブロンズの「手」(大正7年=1918)、「裸婦坐像」(同6年=1917)などの代表作が作られました。

6月9日(日)、地方紙『福島民報』さんの一面コラム「あぶくま抄」。

女子体育の母

 二階堂トクヨは「女子体育の母」と呼ばれる。一九二二(大正十一)年、日本女子体育大の前身となる二階堂体操塾を開き、女性の体力と健康を高めようと努める。NHK大河ドラマ「いだてん」には、厳しく情熱に満ちた人物として登場する。
 宮城県に生まれ、福島大の前身校の一つである福島県師範学校を卒業した。一年間、油井尋常高等小学校(現二本松市油井小)の教壇に立つ。高等科の三年生だった長沼智恵子との交流が生まれる。のちにトクヨが英国へ留学に旅立つ時、智恵子は夫となる高村光太郎と横浜港で見送った。
 「二階堂トクヨ先生を顕彰する会」が三年前、宮城県で結成された。今年三月には生誕の地を示す看板を大崎市の公園に立てて、たたえる取り組みを進めている。智恵子をしのぶ二本松市の「智恵子の里レモン会」の会員は、本県で結ばれた師弟の強い絆を確かめる。
 両会によるとトクヨは師範学校に進む際、福島民報社の初代社長で衆院議員を務めた小笠原貞信の養女となり本県と関わりを深めたという。向学心、人を育てる思いに県境はない。一世紀余り前に出会った二人の女性の生き方は、古里の歴史に優しい彩りを添える。


二階堂トクヨ、「いだてん」では寺島しのぶさんが熱演(怪演?)なさっています。

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6月9日(日)放映の回では、終了後にトクヨの紹介も。

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以前も書きましたが、智恵子との交流のはじまりは、明治32年(1899)、トクヨが福島高等師範を卒業後、安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校に赴任してのこと。智恵子は高等科に在学中で、トクヨは智恵子の6歳下の妹・ミツ(尋常科2年)の担任でした。

当時の油井小学校。

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当時の智恵子。実家は県下有数の造り酒屋でしたので、いかにもです。そもそもこういう写真が残っている時点でお嬢様ですね。

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智恵子卒業時の集合写真。

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智恵子は最前列右から二人目。拡大すると上の画像。数え16歳で、4月から福島高等女学校に進む、その直前です。

トクヨも写っているのでは、と気がつき、探してみました。元の資料(『アルバム 高村智恵子―その愛と美の軌跡―』 平成2年=1990 二本松市教育委員会)では、キャプションに智恵子と、担任だった別の先生しか書かれていませんで……。

すると、最後列右から二人目が、どうもトクヨのようです。のちの写真と比べての判断ですが。

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『福島民報』さんの「あぶくま抄」にあるとおり、大正元年(1912)にトクヨが英国留学に発つ際に、智恵子は光太郎を伴って横浜港まで見送りに行ったということは伝わっています。ただ、その後、光太郎智恵子とどう関わったのか、疎遠になってしまったのかなど、今ひとつ分かりません。今後の課題とします。

『高村光太郎全集』では、トクヨの名は一回だけ出て来ます。大正2年(1913)に、光太郎が智恵子のすぐ下の妹・セキに送った書簡中の「二階堂さんからお便りがありますか」という一節です。失念していましたが、セキは、智恵子と同じく日本女子大学校を卒業後(智恵子は家政学部でしたが、セキは教育学部でした)、トクヨと同じ東京女子高等師範学校に入学し直したことが分かっています。セキの卒業は明治45年(1912)。トクヨは同37年(1904)に卒業しているはずですので、直接の関わりがあったかどうかは不明ですが、匂いますね。ちなみにトクヨの女高師進学に際しては、智恵子の実家からの援助があったそうで。

トクヨの評伝的な書物がかつて複数出版されていますので、少し調べてみようと思います。

「いだてん」に戻りますが、ドラマでのトクヨ、主人公金栗四三(中村勘九郎さん)の後輩で、アントワープ五輪の陸上十種競技に出場した野口源三郎(永山絢斗さん)に失恋する、という設定になっていました。これが史実かどうか存じませんが。

で、その野口が中心になって創刊された雑誌『アスレチツクス』が、前回放映で取り上げられました。

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この『アスレチツクス』へ、後に光太郎も寄稿しています。昭和5年(1930)7月の第8巻第7号に、詩「籠球スナツプ シヨツト」。バスケットボールをモチーフにした躍動感溢れる詩です。それから翌月号ではアンケート「山と海」に回答を寄せています。若い頃よく登った赤城山の思い出や、上高地で智恵子と結婚の約束を交わしたこと、欧米留学のため小さな貨客船で太平洋を渡ったことなどが語られています。

やはりこの時代が描かれている「いだてん」、今後も目が離せません。皆様もぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

カプリの島のグロツタ アズラは赤金にやけた浜の童の肌をも白金にするといふ。美しい物の好きな人は此の琅玕洞に立ち寄りたまへ。

雑纂「琅玕洞広告」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

「琅玕洞」は、神田淡路町に光太郎が開いた、ほぼ日本初の画廊です。その店名は、森鷗外の訳になるアンデルセンの『即興詩人』から採られました。「琅玕洞」=「グロツタ アズラ」=「GROTTE AZZURÉE」、イタリア・カプリ島の有名な「青の洞窟」のことです。

親友・荻原守衛などの作品を並べ、美術愛好家に好評を博しましたが、事業としてはまるで成り立たず、あえなくまる1年で手放すことになりました。

当会の祖に・草野心平を顕彰するいわき市立草野心平記念文学館さん主催のイベントです。

文学散歩「草野心平ゆかりの川内村をめぐる」

期     日 : 2019年6月16日(日) 雨天開催
時     間 : 9時から16時
集     合 : いわき市立草野心平記念文学館 福島県いわき市小川町高萩字下タ道1-39
料     金 : 2,000円
申 し 込 み   : 同館

詩人 草野心平と交流が深く、名誉村民でもあった福島県双葉郡川内村で、心平ゆかり の天山文庫、長福寺、平伏沼(モリアオガエル生息地)などをめぐります。

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上記説明にあるとおり、モリアオガエルが縁で心平を名誉村民にして下さった川内村で心平ゆかりの地を巡るツアーです。村人が一木一草を持ち寄って建てられた心平別荘・天山文庫(設立準備委員には光太郎実弟・豊周も名を連ねました)や、心平句碑の建つモリアオガエル繁殖地・平伏沼(へぶすぬま)、心平にその存在を教示した矢内俊晃氏が住職を務めていた長福寺(やはり心平歌碑や心平揮毫による辻まことの墓碑などもあります)などを巡るようです。

東日本大震災とそれに伴う福島第一原発の事故から8年。復興の様子も気になるところです。

既に定員に達しているそうですが、キャンセル等あるかも知れません。お問い合わせ下さい。


【折々のことば・光太郎】

世の中にはかういふ風にして、人知れず滅んでしまふ作品も多いことだらうが、作者にとつてはその故に妙に忘れ難いものである。

散文「焼失作品おぼえ書 2 ――アトリエにて10――」より
 昭和31年(1956) 光太郎74歳

日記を除き、光太郎最後の散文です。昭和20年(1945)の空襲などで焼失した彫刻作品を解説しています。空襲時にはそれらが焼けてしまったことを、むしろさばさばした思いで捉えていた光太郎ですが、死の床に伏し、もはやその手から産み出されることは無くなった彫刻作品に思いを馳せるその筆は、淡々とした書きぶりでありながら心に染みます。

智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰を続けられている智恵子のまち夢くらぶさん。会員以外の方にも門戸を開いての研修旅行だそうです。

高村智恵子油絵「樟の樹」を訪ねる 山梨静岡の旅

期     日  : 2019年6月16日(日)・17日(月) 午前5時出発
集     合  : 智恵子の生家駐車場 福島県二本松市油井
料     金  : ¥40,000
コ   ー   ス   : 韮崎大村美術館―清春白樺美術館―富士川町高村光太郎文学碑
         河口湖畔(宿泊)
―忍野八海―沼津第一小学校―小田原城址公園
申 し 込 み  : 智恵子のまち夢くらぶ 熊谷 0243-23-6743

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韮崎市の韮崎大村美術館さんでは、明治末に智恵子と同じく太平洋画会で智恵子と共に学んでいた亀高文子の絵画、光太郎のブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)が展示されているそうです。

清春白樺美術館さんは、山梨県北杜市。光太郎もサテライトメンバーだった白樺派の面々の作品に混じり、3枚しか現存が確認されていない智恵子の油絵のうちの1枚、「樟」が所蔵されており、現在、展示中だそうです。

そちらからほど近い、山梨県南巨摩郡富士川町。昭和17年(1942)、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のために光太郎が訪れたことを記念して建てられた文学碑があります。光太郎の自筆筆跡を拡大して刻んだ「うつくしきものみつ」の碑です。

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冬至の頃にはここから見える富士山頂と昇る朝日が重なる「ダイヤモンド富士」が観測できるスポットとしても人気です。一昨年、当方が訪れた際には、昭和17年(1942)に光太郎が訪ねていった井上家の建物も健在でした。

沼津第一小学校さんには、先述の智恵子の油絵「樟」に描かれた木が健在とのこと。当方、こちらには行ったことがありません。

時間と興味のある方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

私は彫刻をあらゆる光線の下でつくるやうにしてゐる。最も不利な光線といはれるところでも作る。人工的に甘やかされたアトリエの室内光線でのみ製作するのはあぶない。いちばんいいのは外光の下で仕事することだ。このことはエジプト、ギリシヤの昔から抽象派の今日に至るまで変らない。

散文「焼失作品おぼえ書 1 ――アトリエにて9――」より
 昭和31年(1956) 光太郎74歳

明治末、留学からの帰朝後に作った父・光雲の肖像は、まだこういう点に思いいたらず、失敗したと自分では言っています。

智恵子の故郷二本松に聳え、智恵子が「ほんとの空」があるといった安達太良山。5月19日(日)に行われた山開きの件が報道されていますのでご紹介します。

まず『福島民報』さん。 「ほんとの空」の語を使って下さいました。

”ほんとの空”体感 安達太良山で山開き

006 日本百名山の一つ、安達太良山(一、七〇〇メートル)が十九日、山開きした。県内外からの登山者約九千人が新緑を楽しみながら山頂を目指した。
 二本松市などでつくる安達太良連盟の主催。山頂付近で神事を執り行い、同連盟会長の三保恵一二本松市長らが登山客の安全を祈願した。先着三千人に記念のペナントが配られた。
 山頂付近を覆っていた霧は午前中に消え、時折青空ものぞいた。登山者は稜線を進み、沼ノ平などの雄大な景観を満喫した。

続いて『福島民友』さん。

「安達太良山」待望の山開き! 登山者ら風にも負けずに山頂へ

 二本松市などにまたがる安達太良山(1700メートル)の山開きは19日、行われた。頂上付近では風が吹き、雲がかかるなど絶好の登山日和とはならなかったが、約9000人の登山者が山頂を目指した。
 山頂付近では、安達太良連盟が記念イベントを行った。安全祈願祭では観光関係者と登山者らが一緒に、本格的な登山シーズンのスタートを祝い、無事故を願った。記念のペナントも配られた。友人と一緒に登った福島市の女性(65)は「とても登りやすく大好きな山。女性に優しいといえるかも」と笑顔で話した。
 ミズあだたらコンテストには39人が参加。ミズに桑折町の看護師菅野恵梨華さん(26)、準ミズには家族と登った鏡石町の幼稚園児鈴木妙英ちゃん(4)が選ばれた。菅野さんは「選ばれてびっくりした。安達太良山は景色がきれい。ますます好きになった」と喜び、妙英ちゃんは「うれしい」とはにかみながら笑った。

それから、山開きの報道ではありませんが、『朝日新聞』さんの福島版、今月3日の記事。

福島) 新天皇陛下、県内訪問は11回 再訪願う声も

 1日に即位した天皇陛下はこれまでに福島県内を11回訪れている(県調べ)。皇太子時代には新皇后の雅子さまと9回来県。うち3回は震災と原発事故後で、被災者を激励したり、復興状況を視察したりした。ゆかりの地の人たちは当時を振り返り、再訪を願う声も聞かれた。
 2015年10月、お二人はこの年の春に開校したばかりのふたば未来学園高校(広野町)を訪れ、地域の将来を考えるグループ学習の様子を見学した。
 丹野純一校長は当時も校長として応対し、「子どもたちが地域の課題と向き合う中で前を向いて頑張っていることを伝えると、『よかったですね』と応えて頂き、心強さを感じた」と振り返る。

  ふるさとの復興願ひて語りあふ若人たちのまなざしは澄む

 雅子さまは翌年1月の「歌会始の儀」で、生徒たちのすがすがしいまなざしの印象を詠んだ。
 高校は今年4月、中学を併設した新校舎に移り、訪問時に植えたミカンの木も移し替えた。丹野校長は「復興の願いのもと、前を向いて頑張ることが学校の伝統。子どもたちがミカンの木を見て思い出すようにしたい。福島の子が、困難を乗り越えながら、ともに生きる姿を、再びご覧頂ける機会ができれば」と話す。
 1996年4月に私的旅行で来県した際には、安達太良山を登った。案内をした「あだたら山の会」の渡辺一郎さん(74)によると、お二人は登山靴を履いて雪が残るコースを30分ほど周遊したという。
 「(山頂の別名)乳首(ちちくび)山の名も知っておられ、登山客とすれ違うと、優しく声を掛けられたのが印象的だった」と渡辺さん。「山好きということなので、思い出の登山道を再び歩いて頂ければうれしいですね」と話す。
 登山後には休憩所で地元・二本松市の玉嶋屋の羊羹(ようかん)を口にしたという。同社の和田雅孝社長(64)は「疲れた時に一息つくには甘い物が一番。召し上がって頂いて光栄」と話す。
 2000年9月に全国育樹祭で来県した際には、柳津町の斎藤清美術館を訪れた。同館は即位を記念して、「ご夫妻がご覧になった斎藤清、そして会津」をテーマにした企画展を開催中だ。
 文化功労者の斎藤清(1907~97)は、故郷の会津に「日本の原風景」を求めた版画作品で知られる。3年前から勤務する伊藤たまき学芸員によると、お二人は訪問時に「会津の冬」と題したシリーズ作品を鑑賞しながら、「こんなに雪が降るんですか」と驚かれた様子で語り、作品の技法なども尋ねたという。
 記録をもとに展示を再現し、訪問時の写真も掲示した「もうひとつの会津の四季」展を6月23日まで開催中で、伊藤学芸員は「ご覧頂いた斎藤作品の魅力を、新しい時代に再発見しながら、多角的に紹介していきたい」と話す。
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ロープウェイ山頂駅にあるパネルと記念碑は平成8年(1996)のものだったのですね。知らずに行き会った一般登山客はさぞ驚いたことでしょう(笑)。
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さすがに天皇陛下となられてからは、なかなか登山というわけにもいかなくなるのでしょうが、古くから「智恵子抄」に関心を寄せられている陛下、海外のご友人にもその魅力を伝えて下さったりもなさっています。今後とも智恵子の故郷・福島をよろしくお願いしたいところです。

【折々のことば・光太郎】

ぬれ紙につつんで灰の中で焼く焼栗を電燈の下でぼつぼつ食べていると。むかし巴里の街角で、「マロンシヨウ、マロンシヨウ」と呼売していた焼き栗の味をおもい出す。あの三角の紙包をポケツトに入れて、あついのを歩きながら食べたことを夢のように思い出す。あれはフランス、ここは岩手、なんだか愉快になつたものだ。

散文「山の秋」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した後、中野のアトリエで書かれた文章。前年まで7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での蟄居生活の回想です。

そういえば今上陛下、学習院中等科時代の昭和49年(1974)には高村山荘も訪れられています。今度は雅子さまともども、ご来訪いただきたいものです。

智恵子の故郷、福島二本松のレポートに戻ります。

5月18日(土)、智恵子生家/智恵子記念館さんから徒歩数分の鉄扇屋さん蔵で、シャンソン系歌手・モンデンモモさんと舞踊家増田真也さんのコンサート「モモの智恵子抄」を拝見拝聴したのち、安達太良山中腹の岳温泉さんに宿泊しました。

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宿はマウント・インさん。昨年度までせせらぎ荘という名前でしたが、リニューアル。リーズナブルな料金でしたが、実に快適な宿でした。

翌5月19日(日)が第65回安達太良山山開きということで、行って参りました。毎年このブログで紹介するだけ紹介しておきながら、実際に参加したのは初めてでした。なかなかこれだけの目的では足が向きませんでしたが、前日のモモさんのコンサートがあったので、いっそのこと登ってみようと思った次第です。

岳温泉さんから、8:05発のシャトルバスで奥岳登山口へ。天気が心配でしたが、とりあえず雲間から「ほんとの空」。愛車で登山口まで行くことも出来たのですが、相当の混雑が見込まれ、すると登山口からかなり下の駐車場に駐めねばならないと予想し、シャトルバスにしました。実際、その通りだったので正解でした。

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8:40、ロープウェイで山頂駅めざして出発。当方、登山マニアではありませんので、楽に行けるところまで楽に行きました。ただ、山頂駅といっても、安達太良山頂までは約1時間30分歩くと案内に出ています。

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かつて皇太子時代の今上天皇陛下と雅子さまも登られたそうで、山頂駅にはパネルや記念碑が。

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山頂までの登山道は、けっこう難行苦行でした。時間的には1時間ちょっとで行けましたが、雪がかなり残っており、その雪解け水で泥の河と化している箇所や、がっつり雪原となっている箇所などもあり……。

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そして山頂。着いた時には濃霧でした。霧というより雲の中に居たようなものかもしれません。

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一瞬、霧が晴れたときに撮ったのが下の画像。

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この溶岩ドームが安達太良山最高地点。別名「乳首山」のまさに乳首です。

こちらは中腹からの画像。赤丸の部分が上記なわけで。

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先着3,000名に、記念のペナントがもらえました。

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令和元年ということで、「令和」の出典となった『万葉集』中の安達太良山を詠んだ歌が取り上げられていました。

帰りのシャトルバスの都合などもあり、もらうものをもらい、それから急いでこのブログ5/19の記事をスマホから投稿し、下山。

山頂以外にもう一つの目的地だった薬師岳パノラマパークへ。ロープウェイ山頂駅の近くです。

駅からすぐの分岐点を左に行けば山頂、右に行けば薬師岳パノラマパーク。

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ここには観光案内等でよく使われる「この上の空がほんとの空です」の一文を刻んだ木標があり、これも今まで見たことがなかったもので。

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「ほんとの空」、言わずもがなですが、この語は、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)から採られています。東日本大震災とそれに伴う福島第一原発の事故以来、福島の復興の合い言葉にもなっていますね。 

あそこまでよく登ったなぁ、と思いながら、木標越しに山頂を眺めました。

まぁ、楽な道のりではありませんでしたが、さりとてアイゼンやらザイルやらの本格的な装備は必要ありませんし、わんこ(ビーグル犬)まで登っていたルートですので、それほどでもありません。ただ、雪が残っているうちはストックなり杖なりがあった方が安心だったなと思いました。それから、靴とズボンが雪解けの泥でどろどろになってしまったのには閉口しました。

再びロープウェイで奥岳登山口に。その時点で11時30分ぐらいでしたので、3時間弱で往復できました。帰りのシャトルバスは12:20発。それをのがすと14:00までありません。

比較的余裕を持ってレストハウスで昼食。すると、以前にここまで来た時には気づかなかったのですが、壁に光太郎智恵子の写真などが展示されていました。



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それから、この石碑も観て参りました。

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「あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川」。光太郎詩「樹下の二人」(大正12年=1923)で使われているリフレインです。

この石碑、ネット上などでもあまり紹介されておらず、正確な場所がわからなかったのですが、探し当てました。最初、レストハウスの従業員の方にスマホで画像を見せて訊いたところ不明、次にパトロール事務所の方に同じように訊いても分かりませんでした。半分諦めかけながら周辺をぶらぶら歩いていたところ、なんのことはない、パトロール事務所の隣にあるスキースクールの建物のすぐ脇にありました。ここらで働いている人達にも知られていないのかと少し残念でした。

その後、再びシャトルバスで岳温泉さんに戻りました。さすがに足が疲れていましたので、有名な桜坂の途中にある足湯へGO。

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気持ちよかったです(笑)。

足だけでなく、日帰り温泉にがっつり入浴しようかとも考えましたが、さすがにそこまでやるとバタンキュー(死語ですね(笑))となりそうでやめました。

この後、岳温泉さんに駐めておいた愛車を駆って千葉の自宅兼事務所に。

というわけで、前日の「モモの智恵子抄」と合わせ、有意義な二本松行きでした。みなさまもぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

明治以来イギリスの影響をもつとも多く受けていながら、いまの日本で一番欠けているのはジヨンブルのイギリス的性格だ。人間同士が信じ合うこと、不信に対するきびしい批判――他の国では持ち得ないものである。

談話筆記「皇太子さまを送る」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

「皇太子さま」は、さきに退位された現上皇陛下です。この年3月、イギリス女王エリザベス2世の戴冠式出席のため、横浜から船で向かわれたそうです。

「ジヨンブル」は「典型的英国人」の意。光太郎自身、明治40年(1907)から翌年にかけ、ロンドンに滞在しており、芸術の部分ではあまり学ぶところはなかったというものの、重厚で歴史ある英国人のライフスタイルには非常に感銘を受けたそうです。

そういえば、日本に近代的登山を紹介し、大正2年(1913)の上高地で光太郎とも交流があったウォルター・ウェストンも英国人ですね。

今日、5月20日は智恵子の誕生日です。明治19年(1886)生まれですから、満で133年ということになります。

そんなこんなで、一昨日、昨日と1泊で智恵子の故郷、福島二本松に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

5月18日(土)、まずは智恵子生家/智恵子記念館さんに。生誕祭ということで、のぼりや立て看。

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智恵子の居室を含む2階部分の公開期間は終わっていましたが、地元の上川崎和紙を使った紙絵制作体験が行われていました。

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物販コーナーも。

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こちらは智恵子クイズだそうで(笑)。

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生家裏手の記念館さんでは、智恵子紙絵の実物公開期間。10点の実物が出ていました。実物を見るたびいつも思うのですが、複製ではなかなか感じられない、ほんの僅かながら紙が重なっていることによって生じる立体感が見て取れ、感心しました。

その後、徒歩数分の鉄扇屋さんへ。築140年という蔵があり、生誕133年の智恵子も、この前を通って小学校に通っていたと思われます。

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こちらがサウンドシステムのスタジオ的になっており、こちらでシャンソン系歌手・モンデンモモさんと舞踊家の増田真也さんのコラボによるコンサート「モモの智恵子抄」が開催されました。光太郎詩にオリジナルの曲を付けて歌われているモモさん、この蔵でのコンサートは3回目くらいでしょうか。昨年も行われましたが急な話だったので当方は欠礼、平成27年(2015)以来でした。

モモさんと増田さん、東北各地を廻られてコンサートや病院の慰問講演等を開催されたとうです。5月15日(水)には花巻郊外旧太田村スポーツキャンプむらでの第62回高村祭でも。ただ、その際は増田さんは出演されず、モモさんのみでした。

増田さんは今年の連翹忌にもいらして下さり、そして花巻高村祭でもお会いしたのですが、そのダンスを拝見したことがなかったので、それが楽しみでした。モモさんとはもう20年来のおつきあいになりますが(笑)。

午後4時開演。光太郎智恵子の軌跡をほぼ年代順に追う構成で、トータル1時間半近いステージでした。伴奏は鉄扇屋さんで販売しているスピーカーを通し、打ち込み系DTM。

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会場が狭いということもあったからでしょうか、増田さん、ダンスといいつつ激しい動きはほとんど無く、モモさんともども、折り紙をいろいろなモチーフとしての幻想的な世界を演出。折り紙が時に花となり、雪となり、千鳥が智恵子にねだる貝殻となり、智恵子の紙絵となり、トパアズ色のレモンの香気となり……。

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光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」的な。

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なかなかに面白いステージでした。

今後、やはり光太郎智恵子ゆかりの場所でやりたいということですので、期待したいと思います。

この後、当方は智恵子の愛した「ほんとの空」の広がるる安達太良山中腹の岳温泉さんに宿泊。昨日は山開きで登って参りました。以下、明日。


【折々のことば・光太郎】

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一体では出せない或る雰囲気がこの二体の四肢胴体の交錯で出るわけなのだ。彫刻全体の面(めん)から起る明暗の処理、彫刻体量の比例の按排、構造上の煩簡の分布、離れた二体の造形的連絡、雰囲気醸成の基となる対向と親和とのかね合ひ、一切がこの組合せから来る。

散文「工房にて」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

「乙女の像」の小型試作2体を石膏取りしてもらい、その2体の組み合わせ方をいろいろ試行錯誤している際のことです。ちなみに石膏に取ってくれた職人は、光太郎と交流のあった道具鍛冶・千代鶴是秀の娘婿・牛越誠夫でした。

右はこの頃書かれた、「乙女の像」構想スケッチ。反故になった原稿用紙の裏に書かれたものです。わずかな前のめりのポーズで二体を向き合わせ、全体で三角形の円錐空間を作る意図が見て取れます。

下の画像はもう少し後、中型試作(左)も石膏取りし、本体(右)の制作も進んでいる頃のものです。

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昨日から智恵子の故郷、福島二本松に来ております。昨日は智恵子生家・智恵子記念館にほどちかい鉄扇屋さんの蔵で、シャンソン系歌手モンデンモモさんのコンサートを拝聴。岳温泉さんに宿泊しました。

今日は安達太良山の山開きということで、登って参りました。

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けっこうガスっていて分かりにくいと思いますが、山頂です。

このブログ最高地点、標高1,700メートル付近での投稿です(笑)。

このあと下山して千葉の自宅兼事務所に帰ります。

詳しくは帰りましてから。

昨日、山開きの情報と合わせて紹介すべきでしたが、智恵子の故郷・福島二本松の「ほんとの空」の下に聳える安達太良山に関して、追補です。

まず、二本松市さんの『広報にほんまつ』今月号。三保恵一市長のメッセージ。光太郎智恵子に触れて下さっています。  

市民が主役。~市長からの手紙~ 第65回安達太良山山開き

 待望のシーズン到来!「安達太良山山開き」が行われます。
 安達太良山は「日本百名山」「花の百名山」の一つであり、その山容から「乳首山」と慕われ、これまで神聖で清浄な信仰の山として、また、万葉集や高村光太郎の詩集「智恵子抄」で「ほんとの空」がある恋の山として、多くの人々に愛されてきました。
 山頂から見渡す三百六十度の大パノラマ。磐梯山、吾妻連峰、遠くは蔵王・那須・飯豊連峰を望むことができます。
 初夏には、新緑の中に清楚で純白のこぶしの花や、つつじ、シャクナゲなど、花が咲き薫り、五葉松や貴重な高山植物を眺め、野鳥がさえずり、雪どけ水を集めて流れる清冽な流れ、数々の滝を見ながら、悠久より続く美しい空間。
 喧騒とは無縁の神秘的な静かな空間の中で、しばし時の流れが止まってしまう。
 雪渓の残雪を一歩一歩踏みしめ山頂に立った時の感激。安達太良山の自然のぬくもり優しさに包まれ、新たな明日への活力につながり、素晴らしい至福のとき。
 変化に富んだ山でもあり、登山やトレッキングのメッカとして、女性、中高年者をはじめ、誰もが気軽に登れる山であります。
 山々の頂に憩いあり!
 安達太良山のきれいな稜線、端正なたたずまい。時に荒々しく、時に幻想的。安達太良山の多彩な美しさに、古来、私たちは、感動し、元気づけられてきました。
 安達太良山は、私たちの誇りであり、私たちが守り、次世代に引き継いでいかなければならないと思っております。
 美しい安達太良山を愛する皆さんの交流がさらに深まることを希望しており、多くの人々が頂上を目指し、雄大な自然を満喫されることを願っております。

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地元愛がひしひし伝わってくる文章ですね。


山開きが近いせいでしょうか、NHK BSプレミアムさんで、過去の放映の再放送も。 

にっぽん百名山・選「安達太良山」

NHK BSプレミアム 2019年5月13日(月) 19:30~20:00

3月、雪の残る福島・安達太良山(1700m)で、ウサギやリスなど春を待つ生き物の息吹に触れ、山のいで湯を堪能。さらに「霧氷」など雪山ならではの風景に出会う。

雪山の初級コースとして人気の福島・安達太良山(1700m)。早春3月、出発はあだたら高原スキー場の登山口から。雪の残る森を進み、鳥の巣作り、ウサギの足跡、リスの食べかすなどを次々と発見。山小屋で一泊し、源泉かけ流しの温泉と満天の星空を楽しむ。山頂までの斜面では雪山ならではの風景である霧氷を堪能。山頂からは磐梯山、吾妻連峰など東北の名峰を望む。また雪山で温泉の通り道を守る人々の営みを紹介する。

出演 五十嵐潤    語り 鈴木麻里子 高塚正也

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初回放映は昨年4月。ロケは3月で、まだ山頂付近は雪に覆われていた時期でした。番組冒頭近くで、光太郎智恵子について触れて下さいました。

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基本、登山系の番組ですので、山岳ガイド・五十嵐潤さんのナビゲートによる1泊2日の行程が紹介されます。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

だが、パリでそういう詩を読みはじめたら、実に身近な感じにうたれた。なにか苦しくなるようだ。決して日本の変な調子をつける詩のような変てこなものではない。もっと直接なもので、これならいいと思い、こういうものなら書くべきだと思つた。

談話筆記「遍歴の日」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

そういう詩」とは、明治末のパリで、フランス語の習得のために与えられたボードレールやヴェルレーヌなどの詩です。与えた先生はマリー・ノードリンガーという、プルースト研究家の女性でした。

日本の変な調子をつける詩」は、文語定型のいわゆる「象徴詩」です。そして明治42年(1909)に帰国すると、三木露風や北原白秋らが「てこなもの」ではない詩を書き始めており、それらにも影響されたと語っています。

毎年お伝えしていますが、今年もやって参りました。今年のキャッチコピーは「ほんとの空の下 心の晴れ渡る、感動深呼吸」だそうで。言わずもがなではありますが、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)中の「ほんとの空」の語が使用されています。 

第65回安達太良山山開き 

2019年5月19日(日曜日)

山頂イベント
 ○10時~   山開き参加ペナント配布(先着3,000名)
 ○11時~   安全祈願祭
 ○11時20分~ Ms.あだたらコンテスト(ミズ1名、準ミズ1名、入賞6名)
            (未婚、既婚は問いません。入賞者には記念品を贈呈します。)
 ※山頂の天候次第で、途中で中止や、予定していた時間も変更になる場合があります。
 ※雨天の場合は、山頂イベントは中止
   奥岳登山口入口にて8時からペナント配布、奥岳登山口 
  (レストラ
「ランデブー」)で10時から安全祈願祭を行います。

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シャトルバスが運行されます。

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ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

アメリカでは部屋に鍵を使うのが習慣であつて、また使わなければ危なくて仕様がない。その習慣をパトニーの下宿でやつたら、おかみさんが掃除ができないので弱つて、不思議がつた。ロンドンでは鍵をかけない習慣だという。
談話筆記「青春の日」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

明治末の留学生活の回顧ですが、現在でもそうなのでしょうか?

智恵子の故郷・福島二本松、智恵子生家のある旧安達町の道の駅「安達」智恵子の里さんでのイベントです。

みんなで愛のメッセージを書こう! 5月20日は、高村智恵子の誕生日です。

期   日 : 2019年5月18日(土)~5月31日(金)
会   場 : 道の駅「安達」智恵子の里下り線 銘産コーナー
             福島県二本松市米沢字下川原田105-2

レモンの木を、みんなのメッセージでいっぱいにしてたくさん実らせましょう!
参加のお客様にレモン飴をプレゼント☆ メッセージは、6月まで展示致します。みなさん、ぜひ参加して下さいねヽ(^。^)ノ

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道の駅「安達」智恵子の里さんは、全国的にも珍しい上下線に分かれている道の駅です。国道4号線の広い道路をはさんで、東京方面が上り線、仙台方面が下り線となっています。国道の下を通る立体交差があり、それぞれがつながってはいます。

で、上記は下り線側の「銘産コーナー」さんの新着情報としてサイトにアップされていました。同じ下り線側ですと、フードコート的なコーナーの一角には、光太郎智恵子の顔ハメがあったりもします。

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さらに、智恵子生家/智恵子記念館さんの割引チケットも販売中。通常大人410円のところが300円、小人200円は150円と、かなりの値引率です。こちらは上り線側の地域物産コーナーさん、和紙伝承館さんでの販売だそうです(5月末まで)。

また、智恵子がらみの新商品の開発や販売にも力を入れている様子。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

或日、実家の裏山の松林を散歩してそこの崖に腰をおろし、パノラマのやうな見晴らしをながめた。水田をへだてて酒造りである実家の酒倉の白い壁が見え、右に「嶽(だけ)」と通称せられる阿多多羅山(安達太良山)が見え、前方はるかに安達ヶ原を越えて阿武隈川がきらりと見えた。

散文「「樹下の二人」」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

雑誌『婦人公論』の第37巻第10号に載ったものの一節です。この号には「自選自解現代詩人代表作品集」と題し、光太郎以下佐藤春夫、室生犀星、草野心平らの作品17篇と、それぞれの詩を作者自身が解説した短い文章が載っています。

で、「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な、大正12年(1923)作の「樹下の二人」に添えられた文章から引用しました。詩の制作は大正12年(1923)ですが、モチーフとなった光太郎の二本松(旧油井村)訪問は、大正9年(1920)のことでした。

智恵子の故郷・福島二本松からの情報です。

日本酒オリジナルカクテル「ほんとうの空」をご提供!

期   日 : 2019年5月11日(土) 12日(日) 13日(月) 14日(火) 15日(水)
        16日(木) 17日(金)
会   場 : ダイニングバー メモリー 福島県二本松市本町2-33
時   間 : 19:00-翌3:00011
料   金 : 1杯700円

地元二本松の地酒を使用したここでしか飲めない二本松のカクテルをお楽しみ下さい!
地元二本松の日本酒を使用した、二本松の酒、二本松の空、二本松の菊人形、智恵子抄などをイメージした当店オリジナルカクテルを1杯700円でご提供致します!また、他店ではなかなかご覧になれないフレアバーテンディング(カクテルパフォーマンス)なども是非この機会にご覧下さい!
(フレアは要リクエスト)

なるほど、シャレオツですね。

やはり5月11日(土)、茨城県の旅行会社・石塚サン・トラベルさんでは、こんなバスツアーも組んで下さっています。
会   場 : 二本松市智恵子の生家/智恵子記念館 羽山の里クマガイソウ群生地 他
時   間 : 那珂IC 7:00出発 17:45帰着
料   金 : 10,800円

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ともに茨城県ご在住の画家・村田伊佐夫氏、絵手紙作家・友部久美子氏が同行され、智恵子生家/智恵子記念館裏の智恵子の杜公園から安達太良山スケッチ(雨天時は生家にて)、智恵子生家で紙絵作り体験が組み込まれています。紙絵作り体験は、「高村智恵子生誕祭」の一環として行われているものですね。

今月号の『広報にほんまつ』さんにも紹介されています。

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今月、二本松ではこの他にも様々なイベントが企画されています。少しずつご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

すべての精神活動は生理に基づく。

散文「夏の食事」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居も5年経ち、すっかり独居自炊生活に慣れた頃の文章です。「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」というわけで、健全な肉体を維持するための食事の大切さを説いています。

昨日に引き続き、智恵子の故郷・福島二本松から。参加申し込み受付は既に終わっているのですが、こういうイベントもあるんだ、ということで。 

2019全国さくらシンポジウムin二本松~ ほんとの空に さくら舞う ~

期   日 : 2019年4月11日(木) ・12日(金)
会   場 : 二本松市民会館 福島県二本松市榎戸1丁目92番地 他

時   間 : 4/11(シンポジウム)13:30~17:00  4/12(現地見学会)8:30~12:30
料   金 : 無料
主   催 : 日本花の会

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プログラム

4月11日(木) シンポジウム
 会場 : 二本松市民会館(福島県二本松市榎戸1-92)
  ◆オープニングアトラクション 13:30~14:00
   樋口 達哉 (オペラ歌手・二本松市観光大使)
  ◆開会セレモニー 14:00~14:30
  ◆記念講演 14:30~15:30
     演題 : 桜 ~「無常」と「あはれ」の花  講師:玄侑 宗久 (作家)
  ◆パネルディスカッション 15:40~16:40
     テーマ : 「ほんとの空に さくら舞う」桜の郷二本松を目指して
     コーディネーター : 公益財団法人日本花の会 主幹研究員 和田 博幸
     パネリスト : にほんまつ観光協会、合戦桜のしだれ桜 保存会、福島県樹木医会
  ◆次回開催地紹介・代表者あいさつ 16:40~17:00   岐阜県恵那市
  ◆閉会

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4月12日(金) 現地見学会
 さくら色に染まる街へ。2つのコースをご用意しました。
 ●コース① 霞ヶ城公園→智恵子の生家→万燈桜→道の駅「安達」
 ●コース② 安達ヶ原ふるさと村→中島の地蔵桜→合戦場のしだれ桜
       →道の駅「さくらの郷」
 ※参加費無料。
 ※各コースとも募集定員40名様(最少催行人員20名様)。
 ※両コースとも8:30に霞ヶ城公園集合。
 ※解散時間は、コース①は12:00、コース②は12:30の予定です。
 ※天候や道路状況により行程に変更が生じる場合があります。予めご了承ください。


おそらく全国から参加される方がお集まりになると思われます。智恵子の故郷、「ほんとの空」のある街の魅力をぜひ堪能し、それぞれの地元でその情報を広めていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

日本でも人は猛暑のさなかにモオニングを着たり背広を着たり、つめ襟を着たりする。又それに順応するやうに人は錬成せられる。わたくしのやうな者はその錬成に於ける落伍者である。

散文「一夏安居の弁」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

「一夏安居」は仏教用語で「いちげあんご」と読みます。「夏安居」で、「僧が、夏(げ)の期間、外出せずに一所にこもって修行をすること」という意味で、「一」がつくと「90日間」というスパンが付加されます。

まあ、光太郎は敬虔な仏教徒だったわけではありませんので、それになぞらえ、不要不急の外出を避け、夏の暑さに弱い身を養う習慣だというわけです。

クールビズという習慣が広まる前は、まさに「猛暑のさなかにモオニングを着たり背広を着たり、つめ襟を着たり」という不合理があたりまえでしたね。ところが、クールビズはクールビズで、運用が難しいようです。4月からクールビズ期間という事業所もあるのですが、今日あたりは寒いのでネクタイを締めていた方が合理的です。しかし、「ネクタイを締めている職員とそうでない職員が混在していてはおかしい」のだそうで、ネクタイ禁止とのこと。結局、横並びでなければ気が済まない民族なのでしょうか。

智恵子の故郷・福島二本松。市内各所に桜の名所が点在しています。

同市の『広報にほんまつ』今月号から。

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「ほんとの空に さくら舞う」。このコピーをテーマに冠した「2019全国さくらシンポジウムin二本松」が、4月11日(木)に開催されますが、そちらの情報は明日ご紹介します。

今日は智恵子の生家・智恵子記念館さんでの「高村智恵子生誕祭」。智恵子の誕生日は5月20日ですが、4月、5月と2ヶ月かけて、さまざまな企画が予定され、一部既に始まっています。

高村智恵子生誕祭

智恵子の生家 2階特別公開
 期  日 : 2019年4月6日(土)~5月6日(月)の土日・祝日
 場  所 : 二本松市智恵子の生家
           福島県二本松市油井字漆原町36
 時  間 : 午前の部 9時00分から12時00分
            午後の部 13時00分から16時00分
 料  金 : 大人(高校生以上) 個人:410円 団体:360円  
        子供(小・中学生) 個人:200円 団体:150円
         ※団体料金は20名以上の利用 智恵子記念館観覧料も含みます

智恵子の「紙絵」の実物展示
 期  日 : 2019年4月27日(土)~5月28日(火)
 場  所 : 二本松市智恵子記念館 福島県二本松市油井字漆原町36
 時  間 : 午前9時~午後4時30分
 料  金 : 大人(高校生以上) 個人:410円 団体:360円
        子供(小・中学生) 個人:200円 団体:150円
         ※団体料金は20名以上の利用  智恵子生家観覧料も含みます
 休 館 日  : 水曜日
 奇跡といわれる実物の紙絵をぜひご覧ください。


上川崎和紙で作ろう切り絵体験
 期  日 : 2019年5月11日(土) 12日(日) 18日(土) 19日(日)
         25日(土) 26日(日)
 場  所 : 二本松市智恵子の生家「奥座敷」 福島県二本松市油井字漆原町36
 時  間 : 9:00~16:00 ※所要時間は10~20分程度 お一人様1回限り、
                 材料がなくなり次第終了
 料  金 : 無料 (入館料に込み)
 内  容 : 智恵子の紙絵をモチーフとした切り絵、上川崎和紙を使用したハガキ・
          しおりの制作
 問  合  : 智恵子記念館☎0243(22)6151  文化課文化振興係0243(55)5154
 

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公共交通機関を利用される場合、臨時バスが出ています。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

わたくしの体細胞の無限の先祖は、おそらく少くとも海抜一万尺以上の高原地帯の乾いた空気の中の生活に順応するやうに長い間馴らされてゐたものと見える。
散文「七月の言葉」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

夏の高温と湿度を極端に苦手としていた光太郎。中央アジアの乾燥帯あたりを夢見ていたのでしょうか。

智恵子の故郷、福島県二本松市さんの広報誌『広報にほんまつ』、今月号は道の駅の特集が組まれています。

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市長・三保恵一氏の玉稿。智恵子に触れて下さっています。

こちらにもあるとおり、同市には3ヶ所の道の駅が存在し、そのうち一つが「道の駅 安達 智恵子の里」。智恵子生家/智恵子記念館に近い、旧安達町にあります。全国的にも珍しいという、国道を挟んで上り線側と下り線側別々に展開している施設です。

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新商品も開発されているようで、「智恵子の思い出 甘酸っぱいレモンゼリー」というのは存じませんでした。次に行く時は買ってこようと思っています。

「通常のレモンゼリーより、酸味が濃いゼリー。一粒が大きいゼリーなので、食べ応え抜群!」だそうで、想像するだけで唾液が分泌されます。「パブロフの犬」状態です(笑)。

もう一点紹介されている「智恵子の里だよりレモンサブレ」は、昨秋、現代アートの祭典「福島ビエンナーレ 重陽の芸術祭2018」の一環として智恵子の生家/智恵子記念館を会場に行われた「重陽の芸術祭in智恵子」の際にゲットしましたが。

上記2点は上り線側での販売のようです。

下り線側にも「道の駅 安達 智恵子の里レモンケーキ」。素朴な感じのものですが、バラ売りで一つから買えるそうで、ありがたいですね。

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いっそのこと、二本松市として「レモンの里」というキャッチコピーにして、道の駅で「全国レモンサミット」でも開催し、ゲストは米津玄師さん……などと勝手なことを考えています(笑)。

まじめな話としては、来月、二本松市でレモンならぬ「2019全国さくらシンポジウム㏌二本松」が企画されています。また近くなりましたら詳しくご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

智恵子のいのちは此家に充満する。智恵子の個体が灰になつてしまふと同時に、智恵子の存在はアトムとなつて至る処に遍在し、到る処を充填する。百千倍となつた復活である。

散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

昭和13年(1938)、レモンをがりりと噛んで天に昇っていった智恵子。光太郎はその後、智恵子がアトム(原子)となって自分の周囲に充満していると信じるようになりました。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

新刊情報です。智恵子の故郷、福島二本松に聳える安達太良山関連で、光太郎智恵子に触れられています。 

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山を愛するすべての人へ 臨場感あふれる映像で名峰に迫る 自然派ドキュメンタリー

遠くに望めば穏やかな表情を見せる安達太良山。しかし、その稜線に立った者は大きな口を空に向かって広げた爆裂火口の荒々しい姿を見せつけられる。そんな安達太良山は、厳冬期を迎えると登山者の覚悟を試すかのような凍てつく寒さと深い雪に覆われる。それでも人は冬の安達太良山に心惹かれ足を運ぶ。その理由とは?


さまざまな「週刊百科」ものを手がけられているDeAGOSTINIさんから、一昨年刊行されたシリーズの44号。「日本百名山」に選定された山を中心に、各地の名峰を紹介するものです。平成25年(2013)から同27年(2015)にかけ、BS TBSさんで放映されていた「日本の名峰・絶景探訪」という登山番組とタイアップ。同番組を収めたDVDが付録として毎号ついています。本誌の構成も、そのDVDに準じているようです。

同番組では、安達太良山は2回取り上げられました。いずれも平成26年(2014)で、#32 「雪煙舞う厳冬の安達太良山」、#58 「紅葉色めく湯の山 安達太良山」。そのうち、タイトルでわかるとおり、厳冬の安達太良山の方が取り上げられています。

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安達太良山が「智恵子抄」に謳われた山であること、周辺情報として智恵子生家・智恵子記念館などの紹介にもページを割いて下さっています。

付録DVDでも。

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ナビゲーター役は女優の春馬ゆかりさん。奥岳登山口からくろがね小屋を経て、安達太良山頂、そして同じ連峰の鉄山へ。

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ちょうど今の季節がこんな感じなのだろうと思いますが、まさに「雪山」です。

大きめの新刊書店さんでしたら、普通に並んでいます。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

まつたく北極熊のやうだ。華氏八十度となると私は、そろそろ生理機能が狂つて来る。九十度以上の東京の夏は私の生活能力を大半奪ふ。筋肉労働に近い仕事の方はまだ出来るが文筆による仕事は殆ど不可能の状態である。

散文「百三十五番」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

光太郎は夏の暑さに弱く、逆に冬の厳しい寒さを好んだことは有名です。

華氏80度は、現在、通常使われている摂氏に直すと26.7度。同90度は32.2度。やはり温暖化が進んでいなかった昔の方が、夏の暑さもそれほどでなかったように思われます。35度以上の猛暑日が当たり前という現代の東京に光太郎がいたら、どうなることでしょうか。逆に樹氷モンスターが出現する厳冬期の安達太良山などは、光太郎にとってパラダイスかもしれません(笑)。

智恵子の故郷、福島でのイベントです。状況をわかりやすくするため、『毎日新聞』さんの福島版の記事から。 

<絵本原画展>幻灯上映、生きざま描き 浪江の男性主人公、愛犬と自給自足 イラストレーターが伊達で /福島

 郡山市のイラストレーター、ノグチクミコさん(55)が昨年10月に自費出版した絵本「ほんとうの空の下で」の原画展が、伊達市霊山町で開かれている。絵本の主人公は、浪江町で愛犬とともに自給自足の生活をし、2016年に86歳で亡くなった川本年邦さん。東京電力福島第1原発事故後も「電気紙芝居」と呼ばれる幻灯を避難先で上映し、子どもたちを喜ばせた。「人のために尽くし続けた川本さんの生きざまを感じてほしい」とノグチさんは話す。【寺町六花】
 東京から浪江町南津島の山里に移り住んだ川本さんは、まき割りや畑仕事をしながら、愛犬「シマ」と暮らしていた。生きがいは子どもたちのために幻灯を上映すること。だが原発事故後、川本さんの地区は帰還困難区域になり、避難生活を余儀なくされた。絵本に言葉は登場しない。2色の鉛筆による柔らかなタッチで、幻灯を1コマずつ映し出すように、川本さんとシマの生活を静かに描いていく。
 ノグチさんが川本さんを知ったのは、12年2月にテレビで放送されたドキュメンタリー番組だった。戦後まもなく、東京で子どもたちのために幻灯会を始め、原発事故後も上映を続ける姿に心を打たれた。「川本さんのことを絵本に描きたい」。芸術大学でデザインを学んだノグチさんは、録画した番組を100回以上見直しながら、毎日4〜5時間、スケッチを描き始めた。
 だが川本さんが住んでいると聞いた二本松市の仮設住宅に手紙を送っても、返事はなかった。浪江町の知り合いを通じて会おうとしたが、川本さんは仮設住宅の生活のストレスや、進行する難聴によって心を閉ざし、会うことはできなかった。「完成できない作品なのか」。絵本への気持ちはしぼみかけた。
 それでも、2年あまりが過ぎたとき、描きたい思いがふつふつと湧いた。浪江町の役場に問い合わせると、川本さんが郡山市の介護付き老人ホームに住んでいることがわかった。「どうしても描きたいんです」。手紙と一緒に描きためたスケッチを送ると、返事が来た。避難先を転々としたつらい記憶が、便箋8枚につづられていた。
 16年2月、ようやく対面した川本さんは肺気腫を患い、番組の放送時よりもやせ衰えていた。「番組で放送された後のことも描いてほしい」。川本さんは老人ホームに入居するためにシマと離れ離れになり、シマは里親のもとで15年10月に死んでいた。川本さんの暮らした仮設住宅や、シマの墓の写真などを集め、想像しながら筆を走らせた。「何かに描かされているようだった」。だが絵本が完成する前の16年4月、川本さんは旅立った。
 最後まで悩んだ絵本の題名は、高村光太郎の詩集「智恵子抄」から考えた。「東京には空が無い」と古里・福島の空を恋しがる妻智恵子のことをうたった一編の詩「川本さんにとっての本当の空は、『桃源郷』と言っていた、浪江の空なのかな」。老人ホームの部屋の窓からは、ほんの少ししか見えなかった空。「最後はシマと一緒に、浪江の広い空に戻ってほしかった」。物語の最後、川本さんがシマとともに、綿毛のように空に上っていく姿を描いた。
 原画展は「霊山こどもの村・遊びと学びのミュージアム」で15日まで。川本さんの幻灯会の様子をノグチさんが撮影した映像も上映されている。午前9時〜午後4時。水曜休館。高校生以上400円、3歳〜中学生は200円。絵本は1800円。同ミュージアムと郡山市のブックカフェ「Go Go Round This World!」の他、ノグチさん(電子メールusagiya@h7.dion.ne.jp)からも直接購入できる。


というわけで、絵本『ほんとうの空の下で』原画展です。10月から始まっていました。 

ノグチクミコ絵本原画展「ほんとうの空の下で」

期    日 : 2018年10月6日(土)〜12月15日(土)
会    場 : 遊びと学びのミュージアム 福島県伊達市霊山町石田字宝司沢9-1
時    間 : 9:00 ~ 16:00
料    金 : 無料

「ほんとうの空の下で」は、震災後に絵本作家のノグチクミコさんが、あるドキュメント番組を見て、おじいさんの生きざまに胸を打たれ、「一人でも多くの人に、おじいさんのその姿を伝えたい」と描いてうまれた絵本です。幻灯のように、1コマ1コマおじいさんと愛犬シマの日々が丁寧に描かれています。絵本と合わせて原画作品との時間をごうぞゆっくりお楽しみください。

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3月には埼玉浦和でも開催されていたとのこと。絵本についてはこちら


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ほっこりする絵柄ですね。しかし、涙無しでは読めなさそうです……。


ところで『智恵子抄』所収の光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)では、「う」が入らない「ほんとの空」で、こちらは「う」が入って「ほんとうの空」。「ほんとの空」の語では毎日キーワード検索をかけているのですが、「う」入りの方は調べておりませんで、気づくのが遅れました。意外と「ほんとうの空」として使われているケースも確かに多いので、今後、気をつけます。

お近くの方、ぜひどうぞ。


ところで、「ほんとの空」の広がる安達太良山関連、今日の『朝日新聞』さんの土曜版に、登山家の故・田部井淳子さんがらみで大きく取り上げられています。光太郎智恵子には触れられていませんが。

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購読されていない方、コンビニ等で購入可能ですし、公共図書館等で閲覧という手もありますのでよろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

亜米利加美術も今日は稍動揺の形ありて、新しき画家、彫刻家の懸命の努力は、中々めざましき事に御座候。しかし今日の小生の頭脳に烈しき影響を与へたるは、埃及彫刻に越すもの無之候。芸術の命は誠実にありと、当然の事を今更に教へられ候。

散文「紐育より 三」より 明治39年(1906) 光太郎24歳

20世紀初頭といえば、ポップなアメリカンアートのはしりがもう出ていた時代ですが、光太郎、そういったものよりも、ボストン美術館等で見たエジプト彫刻に心牽かれています。プリミティブなものに対する憧憬はこの頃からあったわけで、この後、ニューヨークで知り合う荻原守衛と、その点では意見が一致します。

ネット上に、謎のゆるキャラが……。

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「ちえこちゃん」だそうです。

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Twitterの「ちえこちゃん@福島県二本松市」というアカウントです。

福島県二本松市のご当地キャラ【ちえこちゃん】公式アカウントです。二本松市、智恵子の里・安達の各種イベントに参加したいと思いますので、末永く応援よろしくお願いします。」だそうです。

二本松市さんのサイトを調べても、記述がありません。今後紹介されるのか、それとも千葉県船橋市の「ふなっしー」のような「非公認ご当地キャラ」なのか、何とも不明です。

11月3日(土)、二本松市の智恵子の生家/智恵子記念館でデビューしたそうですが、今後も彼の地の各種イベントに参加したいとのことで、いずれお会いする機会もあるかと存じます。

泉下の光太郎や智恵子が苦笑しているような気もします(笑)。


【折々のことば・光太郎】

おのれに無いものは断乎としてそこに無い。此は強い魂の特長である。世に多い詩工の事は知らず、およそ此を土台にしないで、どんな詩人の業が確かであらう。
散文「廣田末松遺稿詩集「午前の歌」跋」より
 昭和5年(1930) 光太郎48歳

この年1月、25歳の若さで早世した詩人・廣田末松――己の「弱さ」を自覚していたその木訥篤実な性格、そして性格そのままの素直な作風の詩作品を、光太郎は愛しました――の、おそらく唯一の詩集に寄せた跋文から。

「おのれに無いもの」を、さも有るが如く書き記す似非詩人=「世に多い詩工」への批判も兼ねています。

10月27日(土)、朝早くに千葉001の自宅兼事務所を出、北紀行開始。

東北新幹線を福島駅で下車、安達駅まで戻る形で東北本線に乗り、安達駅から徒歩で、智恵子の生家/智恵子記念館を目指しました。

智恵子生家では、現代アートの祭典「福島ビエンナーレ 重陽の芸術祭2018」の一環として、13日(土)から切り絵作家の福井利佐さんの作品が展示されています。10月7日(日)、智恵子を偲ぶ第24回レモン忌の際には、太平洋美術会の坂本富江さんの絵画展が行われており、福井さんの展示も改めて観に行かねば、というわけで参上しました。

また、毎年この時期に開催されている智恵子居室を含む二階部分の特別公開も行われています。

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さて、一昨年は版画家の小松美羽さん、昨年は刺繍作家の清川あさみさんによる展示が行われました。今年の福井さんの作品は……。まず、1階部分。

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続いて、箱階段で2階へ。番頭さんのような人は、市教育委員会の服部氏。ご実家は生家隣の戸田屋商店さんです。

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福井さんの作品ではないものも。智恵子実家からそう遠くない、養泉院さんという修験系の寺院で配布されている縁起物だそうです。

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幼い頃の、あるいは長じてからもたびたび実家に帰っていた智恵子がこれを眼にしていたとしたら、のちの紙絵制作に何らかの影響を及ぼしたのではないかと思い、興味深く拝見しました。

1階には、智恵子母校・油井小学校さんの児童諸君の作品も。

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1階といえば、初めての試みだと思いますが、何と物販コーナーが設けられていました。

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地元のお菓子などが売られており、こんなものも。思わず買ってしまいました(笑)。

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長登屋さんというお菓子メーカーの製品です。なるほど、ほんのりレモンの香。

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さて、生家裏手の智恵子記念館さんへ。

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明治末、生家で撮られたと推定される智恵子肖像写真をモチーフにした作品もあり、感心しました。使っている紙は新聞紙です。他の作品ものびのびと作られ、いい感じです。

館内では、普段は写真複製が展示されている智恵子の紙絵の実物が10点、展示されています。実物を見るたびに思うのですが、1ミリに満たない紙の重なりが微妙な立体感を出しており、この味は複製ではなかなか再現できないものです。見ていてせつなさがこみ上げてくる作品ですが、ぜひ実物をご覧になることをおすすめします。

生家での福井さんのインスタレーションは11月25日(日)まで、記念館での紙絵実物展示は11月27日(火)までだそうです。

この後、さらに北、青森十和田を目指して旅を続けました。続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

神田神保町に行くと大抵の本はある様であるが、又懐中との相談を考へると、大抵の本は無い様でもあるのである。

散文「「日本古典全集」礼賛」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

光太郎の時代からそうだったのですね。現代は図書館やインターネットなどで情報が入手しやすくはなりましたが、やはり現物を手に入れようとすると、「懐中との相談」の結果、「無理」と言われます(笑)。

一泊二日の行程を終え、昨日の夕方、千葉の自宅兼事務所に戻りました。

一昨日は智恵子を偲ぶ「第24回レモン忌」に参加、さらに智恵子生家で開催中の「坂本富江展 「智恵子抄」に魅せられて そして~今~ パートⅡ」を拝見。岳温泉さんに宿泊いたしました。

昨日は午前10時から、二本松駅前の市民交流センターで「智恵子検定 チャレンジ! 智恵子についての50問」が行われました。その前に、早く目が覚めてしまいましたので、智恵子の愛した「ほんとの空」を堪能しようと、安達太良山奥岳登山口まで愛車で行くことにしました。

8時前には宿を出たのですが、登山口の手前、2㎞ほどのところから渋滞。驚きました。

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結局、登山口より数百メートル手前の無料駐車場に車を駐め、歩きました。

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下界はまだまだ点々とでしたが、下から見る限り、山頂付近はもうかなり紅葉に色づいていました。そして台風一過の「ほんとの空」。

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さて、とって返して二本松市街へ愛車を向けました。その頃になると登りの渋滞は倍以上に伸びていました。多くの方に訪れていただき、ありがたい限りです。

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市民交流センターに到着。午前10時、智恵子検定開会。

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結局、受検人数はあまり多くなかったので、少し残念でした。開会式的な時間の中で、監修の当方も一言ご挨拶だけさせていただき、皆さんの健闘を祈りつつ、二本松を後にしました。

その前後、一昨日から昨日にかけ、二本松で新聞各紙を購入しました。

一昨日の『福島民友』さん。坂本富江さんの個展の記事が掲載されました。

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昨日の『朝日新聞』さん福島版。一昨日の「レモン忌」を大きく取り上げて下さいました。

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ネット上にも。 

福島)没後80年、智恵子しのぶ 二本松で「レモン忌」

 詩人で彫刻家の高村光太郎の妻智恵子をしのぶ24回目の「レモン忌」が7日、生家がある二本松市であった。主催した「智恵子の里レモン会」の会員ら約40人が集い、智恵子の好きだったレモンと花を肖像画に捧げ、光太郎が妻への愛を記した「亡き人に」を朗読した。
 智恵子が所属して洋画を学んだ美術団体の後継団体である「太平洋美術会」会員の坂本富江さんが記念講演し、智恵子の画学生時代の足跡などを紹介した。
 レモン会会長の渡辺秀雄さん(86)は「光太郎の妻」「優しく病気がちな女性」というイメージとは異なる面に智恵子の魅力を感じるという。渡辺さんによると、智恵子が残した文章の中に、関東大震災後の復興策や憲兵隊の横暴を批判したものがある。「しっかりした意見を持って社会に目を向けていた。新しい時代の女性だったと思う」と渡辺さんは評価する。
 今年は智恵子の没後80年にあたり、様々なイベントが開かれる。
 坂本さんは「智恵子抄」をテーマにした絵画作品展を智恵子の生家で9日まで開催。8日には「智恵子のまち夢くらぶ」の主催で「智恵子検定」が市民交流センターで開催される。また11月18日には、智恵子や光太郎への思いを詩の朗読やスピーチなどで表現してもらう「全国『智恵子抄』朗読大会」が市コンサートホールで開かれる。(杉村和将、奥村輝)

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それから、昨日の『福島民報』さん。『福島民友』さんで先週取り上げた「好きです智恵子純愛通り」CDについてです。

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CDそのものも、いただいて参りました。

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手作りといいますか、草の根といいますか、地方でのこうした地道な取り組みが大事なんだよな、と感じました。


この後、山形県天童市へ。明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

佐藤氏は詩魔に憑かれた魔性の人のやうに見えた。端倪を知らずとは正に此の詩人の詩業の事である。

散文「詩魔佐藤惣之助氏」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

佐藤惣之助は光太郎より7歳年少の詩人。前年に急逝した佐藤の追悼文集に寄せた文章の一節です。

端倪を知らず」は、その全体像を安易に推し量るべきでない、といった意味。「詩魔に憑かれた魔性の人」といい、光太郎自身の評としてもよいような気がします。

昨日から、智恵子の故郷・福島県二本松に来ております。「ほんとの空」の広がる安達太良山の中腹にある岳温泉♨さんに泊まり、宿屋でこれを書いています。
昨日は、智恵子生家に近いラポートあだちさんで、智恵子追悼忌「第24 回レモン忌」が開催されました。同地の「智恵子の里レモン会」さんの主催です。

第一部が10時開会。

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智恵子肖像画に献花・献果。

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参加者全員で光太郎詩「亡き人に」の朗読。

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レモン会渡辺会長のご挨拶。このあと来賓祝辞やら集合写真撮影やらで第一部終了。

第二部は、智恵子が学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会の坂本富江さんによる記念講演。

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パワーポイントの操作は当方でした。

主に智恵子が太平洋画会で学んでいたころの話で、松井昇や中村不折などとの関わりにも触れられました。

第三部は昼食を兼ねての懇親会。

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連翹忌スタイルで、色々な方のスピーチが入りました。

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左から、岩手花巻の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)のある太田地区振興会・佐藤定会長。平成の初めに智恵子生家の修復工事を担当された八代勝也氏。テルミン奏者の大西ようこさん。

来年の再会を約して散会となりました。

このあと、当方は大西さんと一緒に智恵子生家に。

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こちらでは、坂本さんの個展が開催されています。
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智恵子にまつわる油絵、ご著書『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅』原画、智恵子の生涯を紹介する紙芝居などなど。

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多くの方々で賑わっていました。

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説明なさる坂本さん(帽子の方)。

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大西さんも感心しきり。

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このあと、神奈川のご自宅へ帰られる大西さんを郡山までお送りし、当方は岳温泉へ。
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今日は二本松の市民交流センターで開催される「智恵子検定」会場に顔を出したら、山形まで足を伸ばします。

長くなりました(スマホでの入力は疲れます(笑))、この辺で。

本日、10月5日は、智恵子の命日「レモンの日」です。昭和13年(1938)に亡くなった智恵子、今年で没後80年となりました。

それにちなみ、昨日の『福島民友』さんの一面コラム。  

【10月4日付編集日記】高村智恵子没後80年

 1990年代の半ば、ロックバンド・ミスターチルドレンの桜井和寿さんが文芸雑誌「ダ・ヴィンチ」の表紙を飾った。写真の中の桜井さんは愛読書だという文庫本を手にしている
 ▼その文庫本は、高村光太郎の「智恵子抄」だ。ダ・ヴィンチのインタビューで桜井さんは智恵子抄について、一人の人を愛し抜くパワーに感動したと述べていた。愛する喜びと苦悩に満ちた光太郎の詩は、桜井さんの曲づくりにも影響を与えたに違いない
 ▼智恵子が52歳で亡くなってから、明日で80年を迎える。節目の年に合わせ、地元・二本松市では智恵子を顕彰している団体がさまざまな記念事業を予定している
 ▼11月には智恵子抄の朗読大会を初めて開く。このほかにも智恵子に関する知識を問う検定や、二人にちなんだお菓子を食べながら語り合うカフェなども企画する。同団体は、時代を超えて読み継がれてきた智恵子抄の魅力を広く発信していきたい考えだ
 ▼同市には、智恵子の生家がいまも残る。二人が手を取り合って歩き、安達太良山や阿武隈川を眺めた鞍石山などゆかりの場所もある。節目の年に智恵子の古里を訪れてみれば、心を通わせ合った二人の存在をより身近に感じられるはずだ。

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当方、寡聞にしてミスチルの桜井さんが光太郎智恵子ファンとは存じませんでした。言われてみれば「愛する喜びと苦悩に満ちた光太郎の詩は、桜井さんの曲づくりにも影響を与えたに違いない」、納得できますね。

けっこう芸能界には隠れ光太郎智恵子ファンの方々がいらっしゃるようです。引退なさった山口百恵さん、現在もご活躍中の声優・能登麻美子さん、連翹忌や、二本松で開催されている「レモン忌」にもご出席いただいている一色采子さん(昨年は智恵子生家で朗読イベント「智恵子・レモン忌 あいのうた」にご出演なさいました)などなど。

隠れ、ではないのが当会001会友・渡辺えりさんお父様の渡辺正治氏が光太郎本人と交流があったご関係で、ご自身、幼い頃から(あまり想像できませんが(笑))、光太郎詩を聞かされて育たれたそうです。そんな関係で光太郎を主人公とした「月にぬれた手」という舞台をなさったり、各地の講演やさまざまなテレビ番組などでお父様と光太郎のエピソードをご紹介なさったりして下さっています。

そういえば、10月7日(日)14時〜15時、二本松で第24回レモン忌が行われる日ですが(したがって当方は欠礼します)、同じ福島の、いわき市立草野心平記念文学館さんで、渡辺さんのご講演があります。

当会の祖・草野心平を祀る(笑)文学館でのご講演ですので、やはり光太郎智恵子に関わるお話があるかと存じます。

事前予約制で、おそらく既に定員に達していると思いますが、もしかするとキャンセル等が有るかも知れません。同館にお問い合わせ下さい。


最後に、本日放送の福島でのテレビ放映情報を。 

はまなかあいづToday▽高村智恵子没後80年 ▽カフェ?子育て女性注目の働く場

NHK総合1・福島 2018年10月5日(金)  18時10分~18時52分 

▽きょう高村智恵子没後80年 ▽まるでカフェ…子育て女性注目の働く場 ▽気象情報 ▽県内の放射線測定値 

キャスター 吾妻謙 岩間瞳 平川沙英  リポーター 後藤万里子  気象予報士 齋藤郁子

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福島県の方、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

中原君の詩は所謂抒情詩の域を超えた抒情詩といふべきで、それは愬へたり、うたつたりする段階から遙に超脱して、心や物がそのまま声を発するものであつた。インキ壺を書くのでなくて、インキ壺が書くのであつた。むしろインキ壺がただ在るのであつた。

散文「夭折を惜しむ――中原中也のこと――」より 
昭和14年(1939) 光太郎57歳 

愬へたり」は「うったえたり」と読みます。

智恵子の翌年に亡くなった中原中也の追悼文から。中也独特の詩の世界を端的に言い得ていますね。

平成16年(2004)から、福島県内で開催されてきた、現代アートの祭典「福島ビエンナーレ」。一昨年から二本松市も会場となり、同市出身のアーティストということで、智恵子にからめてのインスタレーションが為されています。ビエンナーレ(隔年開催)ではありますが、その隙間を埋めるということで、昨年はビエンナーレとは冠せず「重陽の芸術祭」としての開催でした。

同市油井の智恵子の生家では、一昨年は版画家の小松美羽さん、昨年は刺繍作家の清川あさみさんによる展示が行われました。また、昨年は道の駅安達「智恵子の里」さんで展示された、ワタリドリ計画さんによるインスタレーション「絵葉書フラッグ」でも、智恵子にからめてくださいました。

今年の「福島ビエンナーレ」、すでに9月9日(日)から始まっていますが、直接、智恵子に関わりそうな展示はこれからのようです。

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まず、智恵子の生家では、切り絵作家の福井利佐さんの作品が展示されます。10月13日(土)~11月25日(日)、9:00~16:30で、智恵子の生家/智恵子記念館入館料として大人410円 高校生以下200円です。

福井さん、昨年は安達ヶ原ふるさと村さんでの展示をなさっていましたし、今年は既に智恵子の母校・市立油井小学校さんでワークショップをやられたとのこと。

それに合わせ、生家では、通常は非公開である二階部分(智恵子の居室を含みます)の特別公開(10/13~11/25の土日祝日)、記念館では、通常は複製が展示されている智恵子紙絵の実物展示(10/11~11/27)が予定されています。

また、安達ヶ原ふるさと村さん内の武家屋敷では、古川弓子さんという方の絵画の展示。どうやら智恵子がモチーフにされるようです。こちらも10月13日(土)~11月25日(日)です。

それ以外にも光太郎智恵子にからむ展示等があるかもしれません。

さらに、今回の福島ビエンナーレは、二本松での「重陽の芸術祭」、さらに南相馬での「海神の芸術祭」と、リンクして行われています。

そして、期間中には毎年恒例の「二本松の菊人形」。今年のテーマは「戊辰150年~信義×二本松少年隊~」だそうです。このところ、智恵子人形は出ていませんが、今年はどうなりますことやら。

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最後にもう一つ、ビエンナーレとは関係ありませんが、10月14日(日) 10:00~16:00、安達太良山中腹の岳温泉で、「第2回ほんとの空 マルシェ in あだたら」が開催されます。第1回が8月に行われていますが、同様の内容でしょう。


それぞれぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

頃日、一人の気位の高い友人が来ていつた。今の世上の詩と称するものは皆うす汚いといつた。この友人は真に心の高い立派な人であるが、若し八木重吉のやうな詩人をもうす汚いといふならば、それは気位の高い人の病であるところの、自己以外を決して了解し得ぬ程高い成層圏にもう突入してしまつたことを意味するであらう。

散文「八木重吉について」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

昭和2年(1927)に数え30歳で夭折した詩人・八木重吉に関する文章の一節です。

自己以外を決して了解し得ぬ程高い成層圏にもう突入してしまつた」「気位の高い人」、あるある、ですね。そうはなりたくないものです。

昭和13年(1938)に亡くなった智恵子、今年で歿後80周年となる10月5日(金)「レモンの日」に合わせ、故郷の二本松市では、その前後にさまざまなイベントが企画されています。

昨日は二本松で智恵子顕彰に取り組む「智恵子の里レモン会」さん主催の「坂本富江展 「智恵子抄」に魅せられて そそして~今~ パートⅡ」、「第24回レモン忌」をご紹介しましたが、本日は、同じく智恵子顕彰に取り組む「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催のイベントを。  

智恵子検定 チャレンジ! 智恵子についての50問

期  日 : 2018年10月8日(月・祝)
会  場 : 二本松市市民交流センター 福島県二本松市本町二丁目3番地1
時  間 : 受付 午前9:30   開始 午前10:00
料  金 : 一般 1,000円  中高生600円
申し込み   : 智恵子のまち夢くらぶ 熊谷 0243-23-6743

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文字通り、智恵子についての00150問の問題に答える検定試験です。

50問すべて四択で、原案は智恵子のまち夢くらぶさんの熊谷代表が考え、当方が監修ということで、一部手直しをしたり、パソコンで打ち込んだりしました。

超難問カルト問題の連続というレベルでもなく、さりとて全国民の一般常識というわけでもなく、この種のものとしては妥当な問題かな、と自負しております。

基本、智恵子その人に関する問題ですが、一部、光太郎についての問題も。ただし、智恵子と無関係ではありません。

正答数に応じ、「称号」がもらえます。

 全問正解   「智恵子プラチナマイスター」
 45問以上正解 「智恵子ゴールドマイスター」
 35問以上正解 「智恵子シルバーマイスター」
 25問以上正解 「智恵子ブロンズマイスター」
 24問以下正解 「智恵子フレンド」

ことによるとプラチナマイスターが複数出るかも、と思っております。

称号の授与式は、11月18日(日)、同じく智恵子のまち夢くらぶさん主催の「全国『智恵子抄』朗読大会」(また後ほど詳しくご紹介します)会場で行うとのこと。

ぜひチャレンジしてみて下さい!


【折々のことば・光太郎】

先生が日本詩歌界に曾てまき起した変革の性質は、ロダンがフランス彫刻界に曾てまき起した変革の真意義と相通ずるものがある。其は死せるものに生命の鼓動を呼びさましめ、遠いものを近くし、間接のものを直接にし、人間性の横溢をその芸術に齎しめて全く面目一新の実を挙げた事である。

散文「与謝野先生を憶ふ」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

与謝野先生は、鉄幹与謝野寛。光太郎の才を見ぬき、そして愛し、本格的な文学へ誘った師匠です。彼なくして後の詩人光太郎は生まれなかったといえます。

この年、気管支カタルで亡くなった鉄幹への追悼文の一節です。

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