タグ:神奈川県

昨日は鎌倉および都内に行っておりました。

光太郎の妹の令孫に当たる山端夫妻が営むギャラリー兼カフェ「笛ギャラリー」さんでの展示「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八」のためです。

普段こちらにお邪魔する時は、自家用車で北から山を下りてお伺いしていましたが、昨日は公共交通機関を利用、JR北鎌倉駅から歩き、普段とは逆に南から山を登る形でした。

あじさい寺で有名な明月院さんを横目に坂を登っていきます。

イメージ 1

昨日は気持ちよい秋晴れ、しかし紅葉には早く、楓もまだ青々としています。

イメージ 2

明月院さんのすぐ近くに看板が出ています。ここから365歩、だそうで。

イメージ 3  イメージ 4

道の傍らに苔むした石仏・石塔。古都情緒がにじみ出ています。こういう風情は歩いてこそのものですね。

イメージ 5

笛さんもその情調の中にぴったり収まるたたずまいです。

イメージ 6

店主の山端氏、今年の連翹忌にはご欠席なさいましたので、ほぼ一年ぶりにお会いしまして、久闊を叙し、早速展示を拝見。

イメージ 7

光太郎智恵子、そして近所に住んでいた光太郎と縁の深かった詩人の尾崎喜八に関するさまざまが並んでいます。古写真、書簡、草稿、著書、関係書籍などなど。

イメージ 8

光太郎書簡。ここに住まれていた妹に宛てたものです。

その妹・しづは、俳句に親炙していたそうで、句稿や句帖も展示されていました。

イメージ 10  イメージ 11

イメージ 9

尾崎喜八草稿(コピー)。草野心平編、筑摩書房『高村光太郎と智恵子』(昭和34年=1959)に掲載された光太郎智恵子回想です。

喜八の妻・實子は、光001太郎の親友・水野葉舟の娘。二人の結婚を祝し、光太郎はミケランジェロの作品を模刻したブロンズの「聖母子像」を贈っています。右は「聖母子像」を手にした實子の写真。かつて雑誌『FOCUS』に掲載されたものです。

そうこうしているうちに、喜八・實子夫妻の令孫で、武蔵野美術大講師の石黒敦彦氏がご来店。特に当方と約束していたわけではないのですが、ご常連ということでよくいらっしゃるそうです。展示されている資料の中には、氏の所蔵されているものも含まれています。

氏とは一昨年もこちらでお会いしました。その際にはご一緒に来店されていたご母堂・榮子様(喜八・實子の息女)が、今年の3月に亡くなられましたので、まずはお悔やみを述べ、一緒に山端氏の淹れて下さった珈琲に舌鼓を打ちつつ(恐縮ながら無料で戴いてしまいました)、カウンターの中の山端氏も交え、いろいろお話をさせていただきました。

石黒氏は、武蔵美さんの芸術文化学科、空間演出デザイン学科で講義をされているとのことで、いわば展示の関連がご専門。また、「湘南福祉アート・デザイン協議会運営委員」という肩書きもお持ちで、メンタルヘルスとアートを関連させるご活動もなさっている由。そういうわけで智恵子にも深く関心を持たれており、ゆくゆくは智恵子に関する企画展示をなさりたいとのことでした。

その後、再会を約し、笛さんを後に、そして石黒氏に連れられて、すぐ近くにある「ギャラリー青騎士」さんへ。この秋オープンしたばかりのギャラリーで、蔵書票を専門に扱うという、いっぷう変わったところです。

こちらの代表の金森大輔氏は、現在新築工事のため休館中のブリヂストン美術館さんにお勤めだった方です。ブリヂストン美術館さんといえば、昭和28年(1953)、美術映画「高村光太郎」を制作しました。この年に除幕された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作風景、その除幕後、花巻郊外太田村に一時帰村した光太郎の様子などが記録されています。下はその撮影クルーと光太郎。場所は中野のアトリエです。

イメージ 13

光太郎以外に「梅原龍三郎」、「坂本繁次郎」など20本ほど作成された「美術映画シリーズ」のフィルム、館の美術講座的な催しで上映されていたとのことですが、昭和40年代以降それもなくなり、しばらくフィルムの存在自体忘れ去られていたところ、ブリヂストン本社から「こんなものが見つかった」と金森氏に連絡があって、再び日の目を見ることになりました。

「高村光太郎」は現在、花巻高村光太郎記念館や十和田湖畔の観光交流センターぷらっとに行けば常時上映されています。また、この夏の碌山美術館さんでの「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」など、光太郎がらみの企画展で上映されることもよくあります。

イメージ 14

それも金森氏らのお骨折りでデジタルデータになっているおかけです。当方の手元にもあり、改めて御礼を申し上げておきました。それにしても、はからずもそういう方にお会いするという不思議な偶然に驚きました。

石黒氏、金森氏とはここで別れ、駒場の日本近代文学館さんに寄って、調べ物をして帰りました。

さて、笛ギャラリーさんでの「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八」、来月1日(火)まで。ただし毎週月・水・木と10/30(日)はお休みだそうですので、お気を付け下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

行くにわれ見るにわれなる一人子や大和山城青空つづく
明治34年(1901) 光太郎19歳

古都つながりで奈良、京都に遊んだ際の歌を一首。この年9月末から、東京美術学校の修学旅行で奈良、京都を訪れています。その期間、なんと2週間。物見遊山ではなく、いにしえの仏像などをしっかり研究するための、まさしく修学旅行でした。

そいうえば修学旅行シーズンですので、鎌倉もそれらしい中高生で賑わっていました。

昨日は神奈川県の鎌倉から茅ヶ崎、いわゆる湘南に行っておりました。

まずは北鎌倉のカフェ兼ギャラリーの笛ギャラリーさん。こちらは店主の奥様が、光太郎の妹のお孫さんにあたります。過日のこのブログにてご紹介しましたが、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その四」という展示が始まっています。

イメージ 1

イメージ 2

昨年もお邪魔しましたが、不思議なお店です。不思議なお店ですが、鎌倉の雰囲気には非常にマッチしています。「笛」というだけあって、店内には様々な笛が。

イメージ 3

イメージ 4

昨年は、お近くにお住まいの尾崎喜八のご息女・榮子様、伊藤海彦令夫人がたまたまいらしていたのですが、今年はいらっしゃいませんでした。

美味しい濃厚な珈琲をいただきながら、展示を拝見。

イメージ 5  イメージ 6

左は尾崎夫妻と榮子様、そして光太郎。右は尾崎喜八です。喜八夫人の実子は、光太郎の親友・水野葉舟の長女でした。

イメージ 7

喜八や光太郎の書。光太郎の書はほとんど複製でしたが、1点、直筆のものがありました。

イメージ 8

寒山詩からの引用で「此珠無価数」と読みます。

他にも「書」とは言えませんが、光太郎と喜八の直筆がいろいろ。

イメージ 9  イメージ 10

左は光太郎から甥に宛てた書簡。昭和20年(1945)4月の空襲で駒込林町のアトリエが全焼、焼け跡に残った香木の白檀がいい具合に炭になっていて、それを贈る際に添えたものです。

右は喜八が書いた町内の回覧文書。「明月会」というのは町内会で、喜八が役員をしていた際のもの。切れた街灯の修繕に関わるものです。当方も昨年度から町内会の役員をやっており、微笑ましく拝読しました。

その他、二人の著書や研究書の類も並んでいました。

イメージ 11

昨年並んでいた光太郎から尾崎夫妻の結婚祝いに贈られたミケランジェロ模刻のブロンズ「母子像」は、今年は並んでいませんでした。

来月10日まで(ただし月・水・木はお休み)展示が続きます。ぜひ足をお運びください。

その後、車で数分の東慶寺さんに行きました。駆け込み寺、縁切り寺として有名なところですね。といっても、別に誰かと縁を切りたいと考えて参拝したわけではありません(笑)。

こちらは智恵子の親友だった作家・田村俊子の関係です。

001

石段を登って山門をくぐり、拝観料を納めるとすぐ左手に、俊子の文学碑が建っています。

イメージ 14  イメージ 15

大正2年(1913)に書かれた俊子の短編小説、「女作者」の一節が刻まれています。

この女作者はいつも000
おしろいをつけてゐる
この女の書くものは
大がいおしろいの中から
うまれてくるのである
          
この「女作者」、智恵子も登場します。ただし「女友達」としか書かれていませんが、近々結婚すると言っていることなどから、智恵子がモデルと思われます(光太郎智恵子の結婚披露は翌年)。

ちなみに智恵子と思われる友達のセリフをいくつか引用しましょう。

「結婚したつて私は自分なんですもの。私は私なんですもの。恋と云つたつてそれは人の為にする恋ぢやないんですもの。自分の恋なんですもの。自分の恋なんですもの。」

「私は自分に生きるんだから。自分はやつぱり自分の芸術と云へるわ。自分の芸術に生きると云ふ事は、やつぱり自分に生きるつて事だわ。」

「私だつて随分考へたけれども、私はもう自分に生きるより他はないと思つてしまつたの。私は自分に生きるの。」

いかにも、ですね。

今回はさらに、俊子の墓参もしてきました。碑は10数年前に一度、見に行った事がありましたが、その時は寡聞にして俊子の墓がこちらにあるということを存じませんでした。

イメージ 17   イメージ 18

智恵子と、2歳年長だった俊子とは『青鞜』つながりで知り合い、意気投合しました。俊子も智恵子と同じく日本女子大学校に通っていましたが、心臓病のため中退しており、在学中には接点はありませんでした。

『青鞜』といえば、平塚らいてう。

そして、鎌倉からほど近い茅ヶ崎に、らいてうの文学碑が建っています。茅ヶ崎はらいてうにとって、夫となった奥村博との出会いの地です。後に博が結核に罹患した際にも、茅ヶ崎で療養しています。そういった経緯で、茅ヶ崎にらいてうの碑が建てられました。当方、この碑は未見でした。

というわけで、鎌倉をあとに、国道134号線を西へと走りました。まだ先の話ですが、智恵子の故郷・二本松での「智恵子講座’15」で、「成瀬仁蔵と日本女子大学校」という講義をすることを仰せつかっておりまして、俊子についてもそうですが、そのためのネタ集めという背景があります。

目指す碑は、茅ヶ崎駅に近い高砂緑地というところにありました。

イメージ 19

イメージ 20   イメージ 21

イメージ 22   イメージ 23

智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)に収められた、有名な一文「原始、女性は太陽であつた 真正の人であつた」が刻まれています。ちなみに同じ号には俊子の小説「生血」も掲載されました。

碑を前に、100年以上も前、女性の自立を求めて立ち上がった彼女らに思いを馳せました。

この碑のある高砂緑地は、元はセレブの別荘地だったところで、今も当時の建物の跡が残っています。

イメージ 24

イメージ 27

また、光太郎がその詩的世界を激賞した夭折の詩人・八木重吉もこのあたりで結核の療養をしていたということで、八木の詩碑も立っていました。これは当方、存じませんでした。

イメージ 25

イメージ 26

尾崎喜八、実子、水野葉舟、田村俊子、平塚らいてう、奥村博、八木重吉、そしてもちろん光太郎、智恵子……。いろいろな人々に思いを馳せる一日でした。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月17日

昭和51年(1976)の今日、花巻市太田の旧山口小学校向かいに「太田開拓三十周年記念」碑が除幕されました。

イメージ 28

イメージ 29

光太郎詩「開拓に寄す」(昭和25年=1950)の一節が刻まれています。

10月17日は、昭和20年(1945)に、光太郎がこの地での生活を始めた日なので、この日を選んで除幕したものと思われます。

神奈川県鎌倉市からの情報です。 

10/4追記 日程が変更になりました。下記の通り訂正です。 

回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その四

会 期 : 2015年10月9日(金)~11月10日(火)
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215 0467-22-4484
時 間 : 10:00~16:00
休業日 : 毎週月・水・木

イメージ 6

イメージ 1

「あじさい寺」として有名な明月院さんの近く000にあるカフェ兼ギャラリーの笛ギャラリーさんでの展示です。店主の奥様が、光太郎のすぐ下の妹・しづのお孫さんに当たられ、光太郎ゆかりの品々が伝わっているというお店です。毎年この時期にこの展示を開催されています。

尾崎喜八は明治25年(1892)生まれの詩人。光太郎より9歳年少です。大正13年(1924)、光太郎の親友・水野葉舟の娘・実子と結婚し、光太郎が介添えを務めました。さらに結婚祝いとしてミケランジェロの「母子像」約7分の1模刻のブロンズ像を贈っています。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

下記は昭和61年(1986)の写真週刊誌『FOCUS』のコピーで、当時、健在だった実子に関する記事です。

イメージ 2

イメージ 3

現在も喜八・実子夫妻のお嬢さんである榮子さんが笛ギャラリーさんのお近くにお住まいで、光太郎つながりでよくいらっしゃるとのこと。そこで、尾崎家に伝わる品々も展示されるというわけです。

当方、昨年、お邪魔いたしました。その際のレポートがこちら。たまたま榮子さんと、さらにやはり光太郎と交流のあった詩人の伊藤海彦氏の奥様がいらしていて、いろいろとお話を伺うことができました。榮子さんは当方の知る限り、唯一、生前の智恵子をご存じの方です。

伊藤家のお宝、そして「母子像」も展示されており、興味深く拝見しました。

他にも『高村光太郎全集』に未収録の、しづ宛の書簡が3通も見つかり、のちに当方編集の「光太郎遺珠」に掲載させていただきました。

今年も同様の展示になるのでは、と思います。ぜひ足をお運び下さい。


10/16追記 今年は「母子像」は展示されていませんでした。

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月28日

昭和15年(1940)の今日、光太郎が装幀、題字、装画を手がけた水野葉舟の歌集『滴瀝』が刊行されました。

イメージ 5

このコーナー、事前に書く内容をピックアップしてリストにしてあります。

上記笛ギャラリーさんの記事を書き終わってから、さて、「今日は何の日だっけ」と思ってリストを見てみると、たまたま葉舟関連だったので驚きました。

昨日は鎌倉に行って参りました。
 
あじさい寺として有名な明月院さんの近くに、「ギャラリー笛」という不思議なお店があります。カフェ兼ギャラリー、店内でコンサートも行うというところです。
 
002
 
こちらは光太郎の縁戚(妹・静子(しず)のお孫さん)にあたる山端様のお店です。
 
「笛」という店名の通り、店内にはオカリナや各種の笛をはじめ、さまざまな民族楽器なども並んでいます。
 
こちらで現在、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」という展示がなされています。
 
 
イメージ 3
 
お近くに光太郎と親交の深かった詩人の故・尾崎喜八氏、故・伊藤海彦氏が住まわれていて、山端家、尾崎家、伊藤家に伝わる光太郎関連のお宝が展示されています。
 
イメージ 4
 
イメージ 5
 
イメージ 6
 
彫刻、古写真、光太郎書簡、色紙、関連書籍などなどです。
 003
彫刻は尾崎喜八の結婚祝いに送られたミケランジェロ模刻の「聖母子像」(大正13年=1924頃)。原型は既に失われ、鋳造もこれ1点しか為されていない、非常に貴重なものです。
 
昨年、千葉市美術館他3館で巡回された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にもお貸しいただきましたが、その時以来、約1年ぶりに拝見しました。
 
古写真は、すでにいろいろな書籍に掲載されているものの他に、少年時代の光太郎や、戦時中の山端家の結婚式での集合写真など、当方も初めて見るものがあり、驚きました。
 
書簡も、『高村光太郎全集』、さらにその補遺として当方が継続中の「光太郎遺珠」未収録のものが3通もあり、早速コピーを戴いて参りました。来年4月、高村光太郎研究会刊行の雑誌『高村光太郎研究』中の当方の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。
 
さらに驚いたことがもう一つ。
 
昨日、当方はお伺いするとも何とも言わず、突然お邪魔したのですが、たまたま、本当に偶然にも、故・尾崎喜八氏のお嬢さん・榮子様と、故・伊藤海彦氏の奥様もいらしていて、いろいろ貴重なお話が聴けました。
 
榮子様は上記チラシの画像、一番左に写っている女の子です。その隣が光太郎、そして喜八と故・實子夫人。實子夫人は光太郎の親友・水野葉舟の娘で、光太郎が取り持つ縁で結ばれました。したがって、榮子様は水野葉舟のお孫さんにもあたられるわけです。
 
そのあたり、以下の書籍に詳述されています。amazon等で購入可能です。
 
『夏の最後の薔薇 詩人尾崎喜八の妻 實子の生涯』004
2004/2/4 有限会社レイライン刊
重本恵津子著
 
女性の年齢を話題にするのも失礼ですが、榮子様は大正14年(1925)のお生まれ。故・伊藤海彦氏、北川太一先生も同じ年のお生まれです。昨日は、駒込林町のアトリエでの光太郎智恵子に関する思い出をお話ししていただきました。アトリエの2階が智恵子の画室で、智恵子にだっこしてもらい、その窓から駒込林町の風景を見たことなどなど。
 
生前の光太郎をご存知の方は、まだまだ方々にいらっしゃいますが(それでもだいぶ少なくなりましたが)、智恵子の生前を語れる方は、当方、他に存じません。本当に貴重な体験をさせていただきました。
 
さて、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」。11月4日(火)までの会期です。月水木はお休み、さらに10月26日(日)と11月1日(土)は臨時休業だそうです。時間は10:00~16:00だそうですが、昨日、当方は16:00過ぎても居座ってしまいました(笑)。
 
その他にも、音楽関連のイベント、講座等も行われています。
 
イメージ 8
 
イメージ 9
 
ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月12日005
 
昭和27年(1952)の今日、「十和田湖畔の裸婦群像」(通称「乙女の像」)制作のため、7年半ぶりに帰京しました。
 
右は上野駅での一コマ。ホームスパンの猟人服に巨大な長靴(ちなみに光太郎の足のサイズは30㌢ほどあったといわれています)。
 
戦後のまだ傷跡の残る時代でしたが、朝鮮戦争による特需景気で、東京はかなり復興が進んでいました。その東京で、この光太郎の姿は実に異様だったそうです。
 
光太郎、このあとすぐに草野心平らを引き連れて生ビールを堪能、この日は駒込林町の実家に泊まりました。
 
戦前からいたばあやさんがまだ健在で感激したり、翌朝、空襲で焼失したかつてのアトリエ跡を見に行ったりしたと、この夏亡くなった甥の規氏の回想にあります。
 
アトリエ跡を見に行った13日には、中野に今も残る水彩画家、故・中西利雄のアトリエに入り、裸婦像の制作にかかりました。

今週初めに行って参りました。 

ヨコハマトリエンナーレ2014

展覧会タイトル 「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」
期 日 : 2014.8.1[金]-11.3[月・祝] 開場日数:89日間
会 場 : 横浜美術館新港ピア(新港ふ頭展示施設)
時 間 : 10:00-18:00 ※入場は閉場の30分前まで
料 金 : 一般・高校生500円、中学生300円、小学生以下無料。
休 日 : 月曜、火曜

主催
 横浜市 (公財)横浜市芸術文化振興財団  NHK 朝日新聞社 横浜トリエンナーレ組織委員会
支援
 文化庁(国際芸術フェスティバル支援事業) 文化庁(国際芸術フェスティバル支援事業)
 特別協力独立行政法人国際交流基金
後援
 外務省、神奈川県、神奈川新聞社、tvk(テレビ神奈川)、スペイン大使館、
 駐日韓国大使館韓国文化院、中華人民共和国駐日本国大使館、Goethe-Institut Tokyo、
 東京ドイツ文化センター、ベルギー王国大使館
認定 公益社団法人企業メセナ協議会
 

 
イメージ 1
 
イメージ 2
 
横浜市で、3年に1度開かれる、基本、現代アートの展覧会です。今年の開場は、みなとみらい地区の横浜美術館と、埠頭展示施設の新港ピアです。

004
 
イメージ 10
 
005

基本、現代アートですのでこういう感じです。
 
メイン開場二つのうち、横浜美術館の一角に、「大谷芳久コレクション」という展示がなされています。
 
以下、公式サイトから。
 
現代美術画廊「かんらん舎」のオーナー・大谷芳久が、1995年にドイツで見たジョージ・グロスの個展を機に、太平洋戦争期の日本の芸術家の表現活動を調べるべく収集した書籍コレクションの一部を展示。戦中に出版された詩文の多くは戦争や軍への讃歌であり、ベストセラーとなったが、戦後はその多くが消えることとなった。
 
イメージ 9
 
イメージ 11
 
イメージ 12
 
光太郎の詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『記録』(同19年=1944)を含む、戦時下の文芸書、17点が展示されています。
 
『大いなる日に』『記録』以外は以下の通り。
 
三好達治 『捷報いたる』(同17年=1942) 『寒析』(同18年=1943)
草野心平 『大白道』 (同19年=1944)
伊東静雄  『春のいそぎ』(同18年=1943)
北原白秋  『大東亜戦争小国民詩集』(同18年=1943)
佐藤春夫 『東天紅』(同13年=1938) 『日本頌歌』(同17年=1942)  『大東亜戦争』(同18年=1943)
野口米次郎  『伝統について』(同18年=1943) 『宣戦布告』(同18年=1943)
中勘助  『詩集百城を落す』(同14年=1939)
西条八十 『銃後』(同18年=1943)
日本文学報国会編 『辻詩集』(同18年=1943) 『辻小説集』(同)
大政翼賛会文化部編 『軍神につづけ』(同18年=1943)
 
最後の『軍神につづけ』は、多数の詩人によるアンソロジーで、光太郎の詩「みなもとに帰るもの」も載っています。

さらに、光太郎とも交流のあった画家・松本竣介が、疎開先の妻と四歳の息子にあてた、終戦前後の書簡三通も展示されています。
 
で、この展示がいったい何を目指しているのか、ということになりますと、トリエンナーレ全体のタイトル、「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」につながるわけです。
 
以下、やはり公式サイトから。
 
ヨコハマトリエンナーレ2014がめざすのは
芸術的冒険の可能性を信じるすべての人々
そして、大胆な世界認識を持ちたいと望む
 すべての人々と共に
「芸術」という名の舟に乗り込み
「忘却」という名の大海へと
冒険の旅に出ることである

「華氏451の芸術」というタイトルは、言うまでもなく、レイ・ブラッドベリ作のSF小説『華氏451度』に由来している。いわゆる焚書がテーマの小説で、本を読むことも持つことも禁じられた近未来社会が舞台となっている。
1953年作とは思えないくらい、現代社会を予見していて見事だが、それ以上に興味深いのは、これが「忘却」の重みについてあらためて考えさせられる小説だという点である。
 物語の後半、「本になる人々」の集団というものが登場する。一人ひとりが一冊ずつ本を選び、それをまるごと記憶しようとする。つまり焚書へのレジスタンス(抵抗)として、本という物質を記憶という非物質に置き換え、本の精神のみを隠し持とうと試みる。
 「本になる人々」は本を禁止する社会からの亡命者達であり、また上述のように本を非物質な記憶に置き換えようとしているため、その存在と行為の両側面において、現実社会の表舞台には決して現れることのない、不在の人々となる(=生きている痕跡をこの世から消滅させた「忘却の人々」たらざるをえなくなる)。ところがこの「忘却の人々」にこそ、膨大な本の記憶がたまり込んでいるというのが、ブラッドベリの小説がもたらす、「忘却」に関する重い教訓なのである。

「忘却」とは、記憶されざる記憶がたまりこんだ、ブラックホールとしての記憶のことである。
 
ここに展示された書籍は、それぞれの作家の「汚点」「黒歴史」ともいえるものです。光太郎自身も戦後になってこれらの戦争協力の作品を「変な方角の詩」と言っています。作家によっては、戦後に刊行された全集には収録せず、無かったことにしてしまっている場合もあります。
 
いわば、戦後の「焚書」によって忘れ去られつつあるものです。
 
しかし、その「忘却」には危険が伴います。光太郎のしたような真摯な反省までも忘却の彼方へ押しやられると、「歴史は繰り返す」に成りかねません。
 
これはそういう点への警鐘の意味での展示です。キャプションにも、その辺りがよく表現されていました。書籍のキャプションには「美しい言葉の羅列がもつ魔力」、松本の書簡には「無差別に人を殺傷する近代戦争の無慈悲さへの衝撃」「息子が生きる未来を案じる」などなど(うろおぼえですが)。
 
現実に、ことさらに光太郎の戦時の作品を賛美し、戦前戦時を髣髴とさせるおぞましいヘイトスピーチ的な言説がまかり通っています。そういう幼稚なネトウヨは、この展示を見て、「素晴らしい! これぞ大和魂だ!」とかいうトンチンカンな感想を持つのかも知れませんね(笑)。
 
今年の連翹忌のご案内に載せさせていただいた、北川太一先生のご挨拶の中の「歴史がもういちど反転しそうな今こそ、その命の軌跡をかえりみ、繰り返し語り合い、語りつぐひと時を、思いを同じくするみなさんと一緒に過ごしたいと存じます。」という一節が、ほんとうに心に染みる今日この頃です。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月30日
 
昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、村の青年が蓄音機とレコードを持ってきてくれました。
 
当日の日記の一節です。
 
夜になつてから佐藤弘さん、大三さんが蓄音機の箱とレコードとを持参。五六枚きかしてくれる。バツハのコンチエルトあり。すばらしさに魂を奪はれる思す。
 
当方、今日は四ツ谷の紀尾井ホールにて、The Premiere Vol.3 〜夏のオール新作初演コンサート〜を聞いて参ります。「すばらしさに魂を奪はれる思」をしたいものです。

神奈川発の情報を2つご紹介します。
 
まずは昨年の今頃も同じネタを書いたのですが…… 。

お三の宮日枝神社で「例大祭」-市内最大の神輿の巡行も

 「お三の宮」(おさんさま)として市民に親しまれている「日枝神社」(横浜市南区山王町5)の「例大祭」が9月13日~15日の3日間にわたり開催される。(ヨコハマ経済新聞)

 日枝神社は「横浜関外総鎮守」といわれ、寛文年間(1661年~1673年)に、当地では「吉田新田」開墾者として知られる吉田勘兵衛が江戸の山王社(現在の赤坂日枝神社)から分霊してまつったのが創建とされている。

 勘兵衛は摂州能勢郡(現在の大阪府能勢町付近)出身で、江戸へ出て一代で財を成した材木商。「釣鐘型」をした横浜の入海が埋立てに適している点に注目し、幕府の許可を得た後、新田開発事業に着手。地元の村民達の協力のもと、11年余りの歳月と多くの資金を投じて完成させた。この新田開発が後の横浜発展の礎になったとも言われている。

 日枝神社の例大祭は「かながわのまつり五十選」に選ばれている祭事。13日は、13時30分頃から伊勢佐木町1・2丁目で、彫刻家・高村光雲作の火伏神輿(ひぶせみこし)行列。14日には、市内随一の大きさの「千貫神輿(せんがんみこし)」(高さ約3メートル70センチ)が丸一日かけて氏子町内を巡る。最終日の15日には、大小約40基の氏子神輿による神輿パレードを実施。14日と15日には、有隣堂前で和太鼓演奏を行う。

 イセザキ・モール1・2 St.の石田隆さんは「火伏神輿行列は、2005年から行列を再現して今回で9回目。通常、神奈川県立歴史博物館に展示されている高村光雲作の火伏神輿を特別に展示・行列するのでぜひご覧いただければ」と話している。
 
017


続いて合唱のコンサートです。  

洋光台男声合唱団 第11回演奏会

9月28日(土) 14:30開演
会場 神奈川県立音楽堂
入場料 1,500円
 
昨日のブログにも書いた作曲家・清水脩の合唱曲「智恵子抄巻末のうた六首」が演奏されます。ただし演奏は客演の常磐ひたちメンネルコールさんのようです。
 
イメージ 2
 

「芸術の秋」と申しますが、その名の通り、各地でいろいろと光太郎智恵子がらみのイベントがあるようです。
 
 
今日はその1つ(2つ)で、二本松に行って参ります。どちらもモンデンモモさんがらみで、午前中は油井小学校での子供たちとのイベント、夜は二本松交流館でのコンサートです。
 
その他にもネット検索でいろいろひっかかっていま011すので、おいおいご紹介します。
 
主催者の方や情報をお持ちの方、「こういうイベントがあるよ」との情報提供もお待ちしています。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月13日

明治43年(1910)の今日、親友の水野葉舟とともに、浅草雷門近くのレストラン「よか楼」で夕食を摂りました。
 
まだ智恵子と出会う前で、この頃は吉原河内楼の娼妓・若太夫に惚れ込んでいました。若太夫との破局の後、明治44年(1911)には、この「よか楼」の女給・お梅に入れあげることになります。

↑このページのトップヘ