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いよいよ今日で「平成」の幕が閉じます。そこで、それっぽい内容の新刊書籍をご紹介します。

宮中歌会始全歌集 歌がつむぐ平成の時代

2019年4月19日  宮内庁編  東京書籍  定価1,700円+税

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新年を祝う宮中の伝統行事「歌会始」。去る1月16日、平成最後の歌会始が開かれた。
つねに平和を願い、国民の心に寄り添ってこられた天皇・皇后両陛下。平成時代の歌会始のすべての和歌をとおして、両陛下のお気持ち、国民の思いをたどります。


毎年、1月10日前後に皇居宮殿松の間で行われる宮中歌会始の儀。天皇皇后両陛下をはじめとする皇族方、毎年選ばれる召人(広く各分野で活躍しつつ短歌に親炙している人々から選出)、一般からの詠進歌を選ぶ選者の皆さん、詠進歌で入選された一般の方々などが集い、それぞれの作歌が披講されます。

平成の間の宮中歌会始の儀で披講された全ての短歌を集めた一冊です。といっても、平成元年(1989)は昭和天皇の服喪のため中止、同2年(1990)は、宮中歌会始としてではなく、「昭和天皇を偲ぶ歌会」として2月の開催だったため、それも除かれ、同3年(1991)から今年までのものとなっています。

平成25年(2013)の宮中歌会始の儀、一般からの詠進歌入選作で、福島県郡山市の金澤憲仁さんの作歌が、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)をモチーフにしたものでした。

安達太良の馬の背に立ちはつ秋の空の青さをふかく吸ひ込む

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当時報じられた金澤さんのコメント。

「(高村光太郎の)『智恵子抄』にうたわれたように、安達太良山の上には福島の本当の空がある。津波の影響や原発の問題がある中、福島のよさを知ってもらおうと歌を作りました」。
 
両陛下からは「ご苦労が多かったですね」とねぎらわれたそうです。

これ以外には光太郎智恵子を直接のモチーフとした作歌は含まれていないようですが、通読してみて改めて平成という一つの時代がうかがい知れるな、と思いました。

昨今はやりの平成回顧ものの中でよく指摘されていますが、やはり大きな自然災害の多かった30余年で、そうした内容の作歌が目立ちます。

火をふきて五年(いつとせ)すぎし普賢岳人ら植ゑたる苗みどりなす
常陸宮正仁親王 平成8年(1996)

大地震(おほなゐ)のかなしみ耐へて立ちなほりはげむ人らの姿あかるし
東宮妃雅子殿下 平成9年(1997)

「げんきです やまこし」といふ人文字を作りし人ら健やかであれ
憲仁親王妃久子さま 平成28年(2016)

津波来(こ)し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる
 御製 平成24年(2012)

難(かた)き日々の思ひわかちて沿岸と内陸の人らたづさへ生くる
秋篠宮文仁親王妃紀子さま 平成24年(2012)

巻き戻すことのできない現実がずつしり重き海岸通り
選歌 福島県 沢辺裕栄子さん 平成24年(2012)

「あつたよねこの本うちに」流された家の子が言ふ移動図書館
選歌 千葉県 平井敬子さん 平成27年(2015)

らふそくの光が頼りと友の言ふ北の大地を思ひ夜更けぬ
寛仁親王長女彬子さま 平成31年(2019)


それから、やはり平成史が凝縮された歌の数々。冷戦終結、少子高齢化、戦後五十年、ミレニアム、IT時代の到来、イチロー、そして御退位……。歌会始は新年を言祝(ことほ)ぐものですので、基本的に政治の混迷や重大犯罪などは題材にはなりませんが。

人々をへだてし壁はくづれたりベルリンに響く歓びの歌
皇太子殿下 平成7年(1995)

卒業のうたはひとりのために流れ今日限り閉づ島の学校
選歌 長崎県 溝口みどりさん 平成7年(1995)

被爆せる樟青々と天に伸び半世紀経し夏を輝く
選歌 千葉県 山之内俊一さん 平成11年(1999)

あたらしき時世(ときよ)のごとくひとむらのあしたの雲をながくみまもる
選者 島田修二氏 平成12年(2000) 

山川も草木も人も共生のいのち輝け新しき世に
召人 上田正昭氏 平成13年(2001)

いとけなき日のマドンナの幸(さつ)ちやんも孫三(み)たりとぞe(イー)メイル来る
召人 大岡信氏 平成16年(2004)

大記録なししイチローのその知らせ希望の光を子らにあたへむ
正仁親王妃華子さま 平成22年(2010)

今しばし生きなむと思ふ寂光に園(その)の薔薇(さうび)のみな美しく
皇后宮御歌 平成31年(2019)


さらには召人や選者の皆さんの変遷にも、感懐を覚えました。召人では、故・大岡信氏(平成16年=2004)、選者では岡井隆氏(平成5年=1993~平成26年=2014)、三枝昂之氏(平成20年=2008~)など、光太郎に関する御著書等おありの方がいらっしゃるもので。山梨県立文学館館長であらせられる三枝氏は、連翹忌にもご参加下さっています。

また、平成9年(1997)の召人だった女流歌人の故・斎藤史氏は、昭和4年(1929)、光太郎が審査員の一人として参加、朝日新聞社において開催されたミスコンテスト「現代女性美」審査会で「女性美代表」に選ばれた8名のうちの一人でした。


そんなこんなで「平成」も今日で終わり。明日からの「令和」、どんな時代となっていくのでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

夜の星空の盛観はまつたく目ざましいもので、一等星の巨大さはむしろ恐ろしいほどです。星座にしても、冬のオライアン、夏のスコオピオンなど、それはまつたく宇宙の空間にぶら下つて、えんえんと燃えさかる物体を間近に見るやうです。

散文「みちのく便り 一」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

7年間の蟄居生活を送っていた、岩手花巻郊外旧太田村の山小屋で見る星空。「オライアン」はオリオン座、「ソコオピオン」は蠍座です。いわゆる光害とは無縁のそれは、まさにこのようなものだったのでしょう。

11月24日(土)、皇居東御苑内の三の丸尚蔵館さんを後に、光太郎の父・高村光雲が主任として制作に当たった楠木正成像を経由、日比谷公園へ。

連翹忌会場の松本楼さん脇の、首かけイチョウ。すっかり色づいていました。公園の設計者・本多静六が自らの首を賭けて移植させたことから付いた名です。

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そして、日比谷図書館さんへ。こちらで 「第12回明星研究会 シンポジウム与謝野晶子の天皇観~明治・大正・昭和を貫いたもの」が開催されました。

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2部構成で、前半は慶應義塾大学教授・片山杜秀氏のご講演。題して「天皇・戦争・文学 ――与謝野晶子と天皇や戦争のことについて考えるための幾つかの前提――」。

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日露戦争期から第二次世界大戦時の文学者等を取り巻く世の中の趨勢について、熱く語られました。


第2部は、吉野作造記念館研究員の小嶋翔氏、明星研究会の中心人物にして歌人の松平盟子氏による対談「明治の子・晶子~明治憲法が公布されたとき、彼女は満10歳だった」。

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叙情的な部分のみが注目されがちな与謝野晶子の、天皇や戦争への視点を問題としたもので、短歌以外にも評論や自由詩などにも着目。智恵子の心の病が昂進し、さらに亡くなった昭和10年代はじめころから、大政翼賛の方向へとはまっていった光太郎と重ね、興味深く拝聴しました。

有名な「君死にたまふことなかれ」にしても、単なる反戦詩と片付けられない部分があること、その他の著作を通じても、晶子は天皇制批判などには向いていないこと、デモクラシーの思想と大日本帝国憲法の理念は決して矛盾しないと考えられていたことなどなど。

ただ、残念なことに、会場の使用時間の都合で対談は途中で打ち切りとなってしまいました。


終了後、近くのドイツ居酒屋で懇親会。こちらでお二人から「この後こんな話をする予定だった」というお話を伺えたので、それはよかったと思いました。

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懇親会には斯界の泰斗・逸見久美先生もご参加下さいました。それから、たまたま偶然でしたが、当方の目の前に座られた方が、文化学院の創立者にして、光太郎とも交流のあった西村伊作のお孫さんで、驚きました。


配布されたレジュメ等、希望者には代価1,000円で頒布するそうです。主催の明星研究会あてにお申し込み下さい。


【折々のことば・光太郎】

永遠性の無い芸術は真に世界の塵埃である。騒音である。邪魔である。紛擾である。永遠性は何処から来るか。永遠性は人間の実感から来る。

散文「水野葉舟小品選集「草と人」序」より 大正4年(1915) 光太郎33歳

水野葉舟は、光太郎と同年の明治16年(1883)生まれ。光太郎はその突然の死に際し「水野葉舟君は私のたつた一人の生涯かけての友達だつた」(「水野葉舟君のこと」より 昭和22年=1947)としています。「蝶郎」と号し、やはり歌人として初期『明星』に依った時期があり、そこで光太郎と知り合っています。その頃、晶子との間にロマンス的なことがあったとかなかったとか……。

そしてその葉舟の作品には、「永遠性」がある、というわけですね。

明治33年(1900)、光太郎の本格的な文学活動の出発点となった、与謝野寛・晶子夫妻の『明星』の研究会です。
会    場  : 日比谷コンベンションホール 千代田区日比谷公園1番4号
            千代田区立日比谷図書館B1
時    間  : 13時40分~16時40分
参 加 費  : 2,000円(資料代含む) 学生1,000円(学生証提示)
主    催  : 明星研究会

Ⅰ 13:40  開会挨拶
Ⅱ 13:45 ~14:45 
第1部 講演「天皇・戦争・文学」 片山杜秀(慶應義塾大学教授)
Ⅲ 14:45 ~15:00 ―休憩―
Ⅳ 15:00 ~16:40 
第2部 対談
「明治の子・晶子~明治憲法が公布されたとき、彼女は満10歳だった」
      小嶋 翔 (吉野作造記念館研究員)  松平盟子(歌人):高村光太郎
Ⅴ 16:40 閉会挨拶 前田宏(歌人)

申し込み●「明星研究会」事務局あて。
ネット上での受付は11月23日(金)まで(先着順)。 宛先メールアドレスはapply(at)myojo-k.net です。
申し込みの送信をされる際には、
 (イ)上記アドレスの(at)を半角の @ に変えてください。
 (ロ)メールの件名は、「明星研究会申し込み」とご記入いただき、
 (ハ)メールの本文に、お名前と連絡先住所、電話番号をご記入ください。
 (二)ご家族ご友人同伴の場合はご本人を含めた全体の人数も添えてください。
 なお、当日は空席次第で会場でも直接受け付けます。
終了後懇親会 4,000円程度(場所は当日お知らせいたします)

 今年は、与謝野晶子の生誕140年目に当たります。明治11年12月7日、大阪・堺に生まれた晶子は、維新後という新時代に少女期を過ごしました。長じて「明星」主宰者・与謝野鉄幹と出逢い、恋愛・結婚を経て、歌人・詩人・評論家・古典評釈者として大成したのは周知の通りです。
 日露戦争中に出征した弟を思って詠んだ詩「君死にたまふこと勿れ」は、太平洋戦争後、晶子像を「反戦詩人」として印象付けました。戦争の惨禍に疲弊した多くの日本人は、戦後の平和思想の理想をこの詩に託したのです。しかし晶子は、生涯をとおして明治天皇を深く崇敬し、「五箇条の御誓文」「大日本帝国憲法」「教育勅語」を精神の根本に置いた女性でした。一方で、社会における男女の対等、教育の機会均等、女性の普通選挙権の確立など先進的な発言を続けたのです。今あらためて晶子の天皇観を検証したいと思います。

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当方、昨年の第11回研究会に、初めて出席させていただき、今年は8月に、今回のシンポジウムの「事前勉強会」なるものにも参加、光太郎の天皇観について簡単に発表させていただきました。

第二部の対談の中で、非常にお世話になっております歌人の松平盟子氏が、光太郎にからめたお話をして下さるそうで、多少は当方の発表もご参考にされるのかな、と思われます。


『明星』、与謝野晶子、松平盟子氏、といいますと、短歌研究社さんから発行されている月刊誌『短歌研究』の11月号が、「生誕百四十年「与謝野晶子」大研究」という特集を組まれています。

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そちらの「座談会 「全身・与謝野晶子」という生き方」が、松平氏、やはり歌人の松村由利子氏、早稲田大学社会科学部・社会科学総合学術院教授であらせられる内藤明氏のお三方によるものです。

明星研究会さんにはぜひ足をお運びいただき、『短歌研究』さんはぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

その一生に物された短歌の数は恐らく数万首の多きに上るであらうが、その表現の本質は、よく芸術精神本来の深い、幅びろな地下泉から出てゐて、決してただ地上水の濾過滲透による一区域的湧水のやうなものではない。

散文「与謝野晶子歌集「白櫻集」序」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

『白櫻集』は、この年亡くなった晶子の遺詠集。光太郎は同じ文章で、「女史の歌といへば初期青春時代のものばかりを思出す如きは鑑賞者の怠慢である。未結集の晩年の短歌をのみ収めたといふ此の「白櫻集」こそ心をひそめて読み味ふ者にその稀有の美をおもむろに示すであらう。」と記しています。

確かに最晩年、その人生の到達点において書かれたものこそ、その人物の歩んできた道のりを色濃く反映しているといえるでしょう。

初期青春時代のものばかり」というのは、光太郎詩にしても同様で、『道程』所収のものなどがよく取り上げられ、戦後の詩は殆ど顧みられません。出発点、そして軌道に乗るまでのものとして論じるのなら良いのですが、どうもエラいセンセイ方、それが光太郎のすべて的な論調にもなり、首をかしげざるを得ません。もっとも、光太郎自身が後に「変な方角の詩」と表現した、戦時中の翼賛詩を「これぞ大東亜の魂!」と涙を流してありがたがる愚か者も居るくらいですが……。

現在発売中の『サンデー毎日』さん。歌人の田中章義氏による連載「歌鏡(うたかがみ)」で、光太郎の短歌を取り上げて下さいました。

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詩集『智恵子抄』に収められた「この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾(あ)をいねしめず」です。いわずもがなですが「この家」は、かつて光太郎智恵子が暮らした本郷区駒込林町25番地のアトリエ兼住居です。


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光太郎の生涯の概略、智恵子が心を病み、九十九里浜での療養を経て、昭和13年(1938)に亡くなったことなどがわかりやすくまとめられています。そして合間に同じく詩集『智恵子抄』に収められた「気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむとすなり」、九十九里での智恵子を謳った「いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる」も紹介されています。

そして、「眼を閉じても浮かんでくる亡き妻を思う作者」として、「この家に……」の解説。

確かにそのように読めてしまう短歌です。龍星閣版のオリジナル『智恵子抄』(昭和16年=1941)では、智恵子の臨終を謳った絶唱「レモン哀歌」、その葬儀をモチーフとした「荒涼たる帰宅」、さらに智恵子歿後の内容である「亡き人に」と「梅酒」のあとに短歌6首が置かれているため、自然に読めば「この家に智恵子の息吹みちてのこり」と言われると、「亡き妻」と思ってしまいます。

ところがこの短歌、初出は歌人の中原綾子が主宰していた雑誌『いづかし通信』の昭和13年(1938)9月16日号。つまり、10月5日に亡くなった智恵子はまだ南品川ゼームス坂病院で存命中です。したがって、この短歌において「眼を閉じても浮かんでくる亡き妻を思う作者」というのは当てはまりません。もっとも、智恵子が歿した後、改めてそういう思いに駆られたことはもちろんあったでしょうが。

また、この歌が詠まれた時点で、生きた智恵子がこの家に帰ってくる事はあるまい、という推測があったのか、さらにはうがった見方かも知れませんが、もはや光太郎の中では智恵子は「亡き妻」と化してしまっているという解釈も成り立つかもしれません。それを裏付けるかのように、光太郎は智恵子が亡くなった10月5日まで、5ヶ月間、病院に見舞いに行きませんでした。そのあたりはだいぶ以前にこのブログで書いております(五ヶ月の空白①。  五ヶ月の空白②。

さて、「歌鏡(うたかがみ)」の田中氏、「『智恵子抄』は日本文学史上に煌(きら)めく挽歌(ばんか)の詩集として、今後も長く読み継がれていくことだろう。」と結んでいます。そうであってほしいものですし、そうなるよう、努力して行きたいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

随分つまらない詩から立派な音楽も出来るし、随分立派な詩からつまらない音楽も出来る。それは詩人の知つた事ではない。

散文「詩人の知つた事ではない」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

朋友の北原白秋や三木露風などと異なり、歌曲の作詞にあまり興味を抱かなかった光太郎ならではの言です。

最初から歌詞として作られた光太郎詩は十指に満たず、光太郎生前に既に書かれていた詩に曲が付けられたケースも多くありません。それらに対し賛辞を送っている場合がありますが、どうも社交辞令的なもののようで、本心からすばらしい歌曲が出来たと思ったことは一度もないようです。具体的な作品名は伏せているものの、自分の作詞で「つまらない音楽」を作られてしまった、的な発言もあります。

そう考えると、のちのシンガーソングライターのように、自分で詩を書き、自分で曲を付けるというのが、ある意味、本道なのかもしれません。

昨日のこのブログで、光太001郎作の「今井邦子像」(大正5年=1916)に、ちらっと触れました。

最終的には大理石像にするつもりで、粘土原型を作っていたものですが、結局、未完のまま終わり、現在、現存が確認できていない彫刻です。

光太郎曰く、

私は智恵子の首を除いては女声の肖像をあまり作つてゐない。はるか以前に歌人の今井邦子女史の胸像をつくりかけたのに、途中で粘土の故障でこはれてしまつたのは惜しかつた。幸ひ写真だけは残つてゐて女史の随筆集の挿画になつてゐる。女史の持つ精神の美と強さとが幾分うかがはれるかも知れない。あの首は大理石で完成するつもりで石まで用意してあつたのである。
(「自作肖像漫談」 昭和15年=1940)

モデルとなったのは、今井邦子(明23=1890~昭23=1948)。島木赤彦の『アララギ』や、長谷川時雨の『女人芸術』に依った歌人で、のち、自ら歌誌『明日香』を主宰しました。

夫の健彦は、衆議院千葉四区選出の代議士。当時の千葉四区は、銚子や、当方自宅兼事務所のある香取市を含む区域でした。そこで今井夫妻、居住はしていなかったようなのですが、たびたびこの地を訪れています。また健彦は、銚子漁港の整備や、現在のJR成田線の敷設に力を注ぎ、そのため、銚子の名誉市民に認定されています。

ちなみに健彦は静岡出身。父親は、何と、坂本龍馬暗殺に関わったとされる幕臣・今井信郎です。邦子は四国の生まれで、幼少期に信州諏訪にうつり、北海道に住んでいたこともありました。それがなぜ千葉四区なのか、当方、寡聞にして不分明です。

その健彦の顕彰碑、そして邦子の歌碑が、香取市の名前の由来となった香取神宮に建っています。昨日、久しぶりに邦子の名を思い出し、さらに、香取神宮は桜の名所としても有名なので、思い立って行って参りました。

香取神宮は、自宅兼事務所から車で10分ほどの所です。しょっちゅう脇を通るのですが、めったに立ち寄りません。境内が非常に広大なので、気軽に立ち寄れる場所ではないもので。昔は子供達のお宮参りや七五三、初詣によく行っていました(子供達が屋台のジャンクフードを目当てにしていました(笑))し、かつては薪能も開催されていて、拝見に伺ったりしました。

門前の駐車場から。

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茶店、土産物屋、蕎麦屋などの並ぶ参道を抜けると、大鳥居。

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大鳥居をくぐってふり返ると、こんな感じです。

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大鳥居から50㍍ほどで、左手に奥宮方面へと分かれる分岐点があり、そこに今井夫妻の碑が経っています。いつも横目に通り過ぎていて、ちゃんと見るのは実は初めてでした。

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健彦の頌徳碑。事績の紹介の中に、邦子の名も。

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邦子の歌碑。

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達筆すぎて判読に苦労するのですが、

いつきても 胸すかすかし 神宮の しつけき森に いろつく楓     邦子女史作紫草の中より


とあります。濁点が使われていませんので、「すかすかし」は「すがすがし(清々し)」、「しつけき」は「静けき」、「いろつく」は「色づく」でしょう。「紫草」は、昭和6年(1931)、岩波書店刊行の第三歌集です。

そういえば、香取神宮、桜と共に紅葉の名所でもあります。

碑陰記。それに依れば、碑の建立は昭和39年(1964)でした。

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せっかくですので、久しぶりに本殿に参拝すべく、歩きました。ソメイヨシノ以外にも、しだれ桜や山桜系もみごとです。また、邦子が歌に詠んだ楓は、この時期、爽やかな新緑です。

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楼門。元禄年間の建立で、国指定重要文化財です。

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こちらも重要文化財の本殿。楼門と同時期の建立です。

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この黒い社殿が珍しい、クール、ということと、広大な境内全域が原生林に囲まれ、マイナスイオンが溢れていることなどから、最近はパワースポットとしても人気です。昨日も、平日にもかかわらず多くの参拝客の皆さんがいらしていました。また、昨今は、少し離れた旧市街とセットのバスツアーなども組まれているようです。そちらは江戸~昭和戦前の街並みが残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

本殿の右側を通って、禁足地を横目に、裏手へ。穴場のスポット、鹿苑があります。一時、鹿さんたちにとってあまりいい環境ではなかったのですが、最近はボランティアの方々のご努力で、改善されています。

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鹿苑わきの茶店の展望台から。

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昔は遠く利根川が見えたのですが、樹木が伸び、展望はきかなくなってしまっていました。しかし、桜はやはり見事でした。

来た道を引き返し、大鳥居をくぐって参道へ。このあたり、昔は旅館が何軒かあったそうで、その名残も。

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これなどは、おそらく各地から仲間同士で参拝に来ていた講の札ではないかと思われます。

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大正10年(1921)、歌人の柳原白蓮が、夫である福岡の炭坑王・伊藤伝右衛門の元から出奔し、宮崎滔天の息子・龍介と駆け落ちしました。その逃避行の際、ほんの一時期ですが、このあたりの旅館に潜伏していたそうです。手引きをしたのが、今井健彦だとのこと。残念ながら、その旅館は残っていないらしいのですが。

また、光太郎の師であり、同じ歌人同士、今井邦子とも多少の関わりがあった与謝野鉄幹・晶子夫妻も、明治44年(1911)初夏、銚子から船で利根川を遡上、香取神宮に参拝しています。その船着場があった津宮(つのみや)地区にあった旅館に夫妻は宿泊。そこには晶子歌碑も建立されています。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

私は私の製作する他の芸術が若し彫刻的に傾いて来る様な事があつても驚きはしないだらうと思ふ。又悲しまないだらうと思ふ。私の思想、私の性格、私の想像、私の欲望にかなり粘土のにほひのする事は、うすうす私自身でも感づいて居る。
散文「大正博覧会の彫刻を見て所感を記す」より
 大正3年(1914) 光太郎32歳

夙に光太郎の詩は「彫刻的」と評されてきました。語を立体的に構成し、一つの作品として仕上げていく手法などに対してです。

この短い一文にも、同様の手法が使われているように思えます。まるで塑像に粘土を貼り付けていくように、正面から「私の思想」、サイドには「私の性格」、後ろに回って「私の想像」、下の方に「私の欲望」……というふうに。

昨日は横浜で2箇所を廻りました。

横浜ですと、公共交通機関で行くより自家用車の方が手っ取り早いので、昨日もそうしましたが、首都高湾岸線その他がかなりの渋滞で、しかたなく途中から京葉道に入って南下、遠回りになりますがアクアライン経由で行きました。

途中の海ほたるPA。数年ぶりにアクアラインを通りました。ちなみに帰りは普通に湾岸線を使いましたが、やはり大渋滞。それもそのはず、東京港トンネルのど真ん中で、大型トレーラーが故障で停車していました。

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横浜に入り、まずは港の見える丘公園内の神奈川近代文学館さんへ。自宅兼事務所のある千葉の桜は9分咲きといったところでしたが、こちらは満開でした。




晶子の一生を時系列で追う展示が基本で、非常にわかりやすくまとまっていました。「プロローグ 乙女となりし父母の家――故郷の町・堺」、「第一部 『みだれ髪』の歌人――新しい時代を拓く」、「第二部 晶子の「源氏物語」――古典と現代をつなぐ」、「エピローグ 冬の夜の星君なりき――激動の時代の中で」。合間に「スポット 晶子のまなざし(①女性たちへ/②子どもたちへ/③若者たちへ)」、「スポット 旅を詠む/晶子と神奈川」。

個人的には、明治44年(1911)、光太郎が絵を描き、晶子が短歌を添えた屏風紙二点を、特に興味深く拝見しました。その存在自体は、平成23年(2011)に、大阪の逸翁美術館さんで開催された企画展「与謝野晶子と小林一三」の図録を入手して存じておりましたが、実物を見たのは初めてで、大興奮でした。

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途中で展示替えがあるということで、前期展示期間が4月15日(日)まで、後期展示期間は4月17日(火)~5月13日(日) だそうです。後期になったらまた行くつもりでおります。

図録も充実しています。歌人の尾崎左永子氏、今野寿美氏、さらに連翹忌にもご参加下さったことのある、山梨県立文学館館長・三枝昻之氏(ちなみに山梨県立文学館さんといえば、平成25年(2013)に、「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」が開催され、行って参りました。)などの玉稿が掲載され、図版も豊富です。

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これで600円は、超お買い得(笑)。

皆様もぜひ、足をお運び下さい。

その後、みなとみらいの横浜美術館さんに移動、「ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより」展を拝見して参りました。そちらのレポートは明日。


【折々のことば・光太郎】

私は生(ラ ヸイ)を欲する。ただ生(ラ ヸイ)を欲する。其の餘の贅疣(ぜいいう)は全く棄てて顧みない。生(ラ ヸイ)はただ一つである。「無くて叶はぬものはただ一つなり」と言つたクリストの心は私の心である。
散文「文展の彫刻」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

造型でも詩でも、光太郎芸術の根幹をなす「生(ラ ヸイ)」が語られています。「生(ラ ヸイ)」は、仏語の「La Vie」。一般に「生命」、「命」と訳されます。

昨日に引き続き、最近の頂き物から。昨日ご紹介した『夢二と久允 二人の渡米とその明暗』を書かれた逸見久美先生の弟子筋に当たられる、小清水裕子氏(今年の連翹忌にご参加下さいました)の御著書です。 

歌人 古宇田清平の研究――与謝野寛・晶子との関わり――

2014年6月30日 小清水裕子著 鼎書房 定価6,500円+税

新資料となる、清平宛与謝野寛・晶子の書簡を翻刻。書簡から第二次「明星」「冬柏」の発刊意義を考察する。

目次
 序 古宇田清平の研究にあたって
 第一章 古宇田清平その人物像と与謝野寛・ 晶子との関係
  作歌活動一覧 清平略年譜 清平宛 寛・晶子書簡一覧
  清平農業関係論文・著書一覧
 第二章 清平の投稿時代(大正三年~大正十年十月)
  第一節 投稿時代とその作品
  第二節 第二次『明 星』復活に向けて
 第三章 清平の第二次『明星』時代(大正十年十一月~昭和
四年)
  第一節 第二次『明星』発刊意義
  第二節 第二次『明星』での清平
  第三節 第二次『明星』時代とその作品
   一、清平歌集出版に向けて
   二、盛岡時代
   三、野の人の生活・山形県戸沢村時代
    ①寛・晶子の十和田吟行
    ②第二次『明星』終刊から『冬柏』へ
 第四章 清平の『冬柏』時代(昭和五年~昭和十年)
  第一節 『冬柏』発刊意義
  第二節 『冬柏』時代とその作品
   一、山形県豊里村時代
   二、青森へ
 結 本研究の意義と今後の課題
 参考文献 
 資 料
  清平詠歌集
   一、『摘英三千首 與謝野晶子撰』(大正六年十月二十日)
   二、第二次『明星』(大正十年十一月~昭和二年四月)
   三、『冬柏』(昭和五年四月~昭和十年一月)
  清平宛 寛・晶子書簡集
 引用・参考文献
 あとがき
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古宇田清平(明治26年=1893 ~ 平成2年=1990)は、第二次『明星』、『冬柏』に依った歌人ですが、いわゆる専門の歌人ではなく、九州や東北で農業技師として働きながら作歌に励みました。ある意味、宮沢賢治を彷彿とさせられましたが、古宇田は盛岡高等農林学校の出身で、賢治の先輩に当たります。その実生活に根ざした歌の数々が鉄幹・晶子の目に止まり、新詩社の主要な同人として迎えられています。ただ、地方歌人という先入観もあったのでしょう、かつては注目されることのほとんどなかった人物です。当方も存じませんでした。

その古宇田の評伝をメインとしつつ、こうした地方歌人が重用された第二次『明星』、『冬柏』の位置づけに言及する労作です。

第二次『明星』の創刊(復刊)は、大正10年(1921)。光太郎外遊中の明治41年(1908)に第一次『明星』が廃刊してから13年の時を経てのことでした。古宇田に宛てた復刊当時の鉄幹・晶子の書簡などによれば、同人に自由に作品を発表してもらう、総合文芸誌的な方向性でした。第一次の頃から新詩社の秘蔵っ子だった光太郎も、その復刊第一号に寄せた有名な詩「雨にうたるるカテドラル」をはじめ、実にさまざまなジャンルの作品を発表しています。短歌、詩、エッセイ、評論、翻訳(戯曲、詩、散文)、果ては絵画まで。

ただ、同誌は店頭販売ではなく申し込みによる直接購読を主としたことや、鉄幹・晶子が『日本古典全集』など他の仕事にも多忙を極めたことなどから、昭和2年(1927)に休刊(事実上の廃刊)となりました。しかし、『明星』復活への希望は抑えがたく、それまでのつなぎとして、総合文化誌の体裁ではなく詩歌方面に内容を限定した『冬柏』が創刊されたとのこと。当方、その辺りの事情には暗かったので、なるほど『明星』時代にはさまざまなジャンルの作品を寄せていた光太郎も、『冬柏』になるとそれがぐっと減ったのはそういうわけか、と膝を打ちました。

そしてメインの古宇田の歌。第二次『明星』、『冬柏』時代のものはほぼすべて網羅され、しかも一首ごとに細かく評釈がなされていて、理解の手助けとなりました。中には戦後の花巻時代の光太郎がたびたび逗留し、当方も定宿としている大沢温泉さんでの作などもありました。他にも技師として赴任した盛岡や山形での作には、やはり彼の地の厳しい冬を読んだものが多く、光太郎の詩との類似点を感じました。

もっと注目されていい歌人だというのはその通りだと思いました。


もう1点、同じ小清水氏から、日本文学風土学会さんの紀要『日本文学風土学会紀事』第41号の抜き刷りもいただきました。題して「与謝野寛・晶子の渡欧」。

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奥付等が無いのですが、今年3月発行の『碌山美術館館報』第37号を参照されたとのことですので、つい最近のものでしょう。

参照された点は、外交資料館さんに残されている「外国旅券下附表」の記載。パスポートの申請に際し、「旅行目的」という項目も報告することになっており、荻原守衛は「修学」、光太郎は「美術研究」、では、明治44年(1911)に渡欧した鉄幹、翌年にそれを追った晶子は、ということで、調べられたとのこと。それによれば鉄幹は「芸術研究ノ為」、晶子は「漫遊ノ為」だそうです。

第一次『明星』廃刊後、スランプに陥っていた鉄幹に、見聞を広め、新たな創作の動機づけとしてほしいとの思いから、晶子が「百首屏風」などを作って金策にかけずり回り、鉄幹を欧州へと送り出しました。渡航後の鉄幹は、ぜひ晶子にも彼の地の風物を見て欲しいと、晶子を呼び寄せます。鉄幹は船旅でしたが、晶子はシベリア鉄道を使っての欧州行となり、鉄幹は晶子宛の書簡で、できれば欧州の事情に通じている光太郎を連れてくるよう指示しました。結局、光太郎の同行はかないませんでしたが、それなら経由地から送る電報の文面は光太郎に書いてもらっておけという指示も、鉄幹が出しています。いかに夫妻が「秘蔵っ子」光太郎を頼りにしていたかがわかるエピソードです。

このあたり、当方、逸見先生編の『与謝野寛・晶子書簡集成』(八木書店)で読んでいるはずなのですが、もう一度当たってみようと思いました。

与謝野夫妻、パリでは光太郎からアトリエを引き継いだ梅原龍三郎の世話になったり、ロダンを訪ねていたりもしています。この辺も興味深いところです。


こうした、寄稿した雑誌や周辺人物との絡みなどから見えてくる光太郎の姿、また違った一面が見えてくるものだな、と実感させられました。

また近々、他の方から頂き物が届く手はずになっており、ご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

活人剣即殺人剣だ。
散文「味ふ人」より 大正10年(1921) 光太郎39歳

雑誌『現代之美術』第4巻第3号「女性と芸術」号に寄せた文章です。まだ送りがなのルールが確定していない時代ですので「味ふ」で「あじわう」と読みます。

埃及以来数千年間に女流の美術家が出なかつたからといつて、今後数千年間にやはりでないだらうとは云へない。しかし今日迄然うであつた「事実」の底には何か執拗な自然の理法があるやうに思ふ。」と始まるこの文章、決して女性は駄目だ、と言っているわけではなく、女性が芸術家として大成するためには、男性以上にさまざまなことを犠牲にせねばならないという点に主眼があります。そこで、「活人剣即殺人剣だ」というわけです。

光太郎が想起していたのは、男女の分担が可能な家事労働という部分ではなく(光太郎はかなり家事も行っていました)、決して男性には担えない出産、育児という部分でしょう。育児は違うだろう、と突っ込まれるかもしれませんが、「イクメン」であっても、母乳は出せません。

そこで、同じ文章には「其を思ふと、女性で美術家にならうとする人を痛ましくさへ感ずる。悲壮な感じを受ける。むろん普通の女性としての一生を犠牲にしてかからねばならない事で中々なまやさしい甘つたるい事ではあるまいと思ふ。」とも書かれています。「出産を放棄する」=「普通の女性としての一生を犠牲にする」、つまり、「産まない」という選択は普通ではない、という考え方ですね。たしかにすべての女性が「産まない」という選択をしてしまったら、人類は滅びてしまうわけですが……。

このあたりで止めておけばよいものを、こんなことも書いています。

女性は偉大な男性の文芸家を生み、育て、教訓し、又激励した事の方で、今日まで人類に貢献してゐた。」「私が一番女性に望むのは、美術をほんとに深く「味ふ」人になつてもらいたい事だ。受け入れて「味ふ」能力は或は一般の男性よりも多いかと思ふ。元来「受け入れる本能」と「創造する本能」とは根本から違つてゐて、女性は前者の本能に富んでゐるやうに作られたかと思はれる位だ。

画家としてその力を発揮できぬまま心を病んだ智恵子も、この文章を読んだ可能性が高いと思います。結局、光太郎は自分の画を認めてくれないと悟った智恵子の衝撃はいかほどのものだったのでしょうか。

余談になりますが、「智恵子は光太郎に潰された」的な要旨のいわゆるジェンダー論者の論考を時折眼にします。そうした論者がこの文章を読んだら、「それ見たことか」と、鬼の首でも取ったように扱いそうな内容なのですが、従来、ほとんどといっていいほどこの文章は注目されていません。不思議なものです。

冬柏【復刻版】全26巻・別冊1

『明星』終刊後、晩年の与謝野寛・晶子が最も力を注いだのが雑誌『冬柏(とうはく)』であった。寛が昭和一〇(一九三五)年、晶子が昭和一七(一九四二)年に没して後、平野万里、田中悌六、近江満子らが二人の遺志を引き継ぎ、昭和二七(一九五二)年まで刊行された。
収録内容は、短歌を中心に現代詩・随筆・小論・漢詩・絵画・写真等幅広い。また「消息」欄は寛・晶子をはじめ新詩社の同人の活動や動向が詳細に記されていて、一〇頁以上にわたる号もあり、貴重である。
『明星』同様、寛・晶子研究に必須の、そして短歌史また広く文学や芸術研究に欠かせない重要資料である。

◇推薦=馬場あき子・太田 登・澤 正宏・今川英子
 
◆体裁=A5判・上製・総約15,300頁 ◆別冊=総目次・索引(分売価格2,000円+税)
◆揃定価=470,000円+税
 
◎配本概要
・第1回配本(第1〜3巻・別冊1)   2017年10月      揃定価56,000円+税
・第2回配本(第4〜6巻)     2018年1月刊行予定    揃定価54,000円+税
・第3回配本(第7〜10巻)      2018年6月刊行予定   揃定価72,000円+税
・第4回配本(第11〜14巻)    2018年11月刊行予定    揃定価72,000円+税
・第5回配本(第15〜18巻)    2019年4月刊行予定   揃定価72,000円+税
・第6回配本(第19〜22巻)    2019年8月刊行予定   揃定価72,000円+税
・第7回配本(第23〜26巻)    2020年1月刊行予定   揃定価72,000円+税

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上記説明にあるとおり、『冬柏』は、第二次『明星』(大正10年=1921~昭和2年=1927)の後継誌として、光太郎を文学の道にいざなった与謝野夫妻が心血を注いだ雑誌です。

内容見本には「主要執筆者一覧」という項目もあり、光太郎の名も。

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光太郎の同誌への寄稿は、確認できている限り、以下の通りです。

第3巻第3号 昭7(1929)2月  「旧友石井柏亭氏」『高村光太郎全集』 第7巻
第6巻第4号 昭10(1935)4 月  「与謝野先生を憶ふ」  〃   第8巻
第10巻第10号 昭14(1939)10月 「所感-与謝野晶子『新新訳源氏物語』-」〃 第19巻
第13巻第7号   昭17(1942)/6月    「与謝野夫人晶子先生を弔ふ」  〃     第3巻
第13巻第9号   昭17(1942)/8月  「与謝野晶子歌集「白桜集」序」  〃    第8巻

このうち、 「与謝野夫人晶子先生を弔ふ」のみ詩で、他は散文。「与謝野先生を憶ふ」は『東京朝日新聞』からの転載です。

これ以外にも、もしかすると『高村光太郎全集』に漏れている光太郎作品が無いとは言い切れません。また、光太郎以外の書いたもので、光太郎に言及されているものもあるかと思われます。その点、第1回配本に「別冊(総目次・索引)」があるので、調べやすいように思われます。

なかなか個人で購入するようなものではありませんが、公立図書館さん等できっちり揃えていただきたいものです。

また、内容見本には、「『冬柏』時代の与謝野寛・晶子と旅・短歌」という年表が載っています。これだけでもかなりの労作だな、と思いました。

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それによれば、与謝野夫妻、ほぼ毎月のように旅に出て、その旅先で詠んだ歌を『冬柏』に載せています。当方の生活圏も含まれ、それは存じませんでした。明治末に当地を訪れたことは存じていましたが。

「ご当地ソング」ならぬ「ご当地短歌」ということで、観光宣伝にいかがでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

自己の内に此の人類の絶えない泉の意味を明らかに強く感得した芸術家の芸術だからこそよいのである。そして此(ここ)が芸術の価値の根本義である。
散文「言ひたい事を言ふ」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

こと芸術に関しては、ポジティブシンキングの光太郎の立ち位置がよく表されています。

一昨日、杉並区立郷土博物館さん、台東区立中央図書館さんでの調査を終え、神保町の学士会館さんに向かいました。過日ご紹介した、現代歌人協会さんの公開講座「高村光太郎の短歌」拝聴のためです。こちらに足を踏み入れたのは15年ぶり、平成14年(2002)に開催された当会顧問・北川太一先生の喜寿の祝賀会以来でした。

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開会は18:00。この時点ではほぼ上がっていましたが、日中は豪雨でした。発表者の皆さん、だいぶ詳しく光太郎についてお調べ下さったようで、光太郎の究極の雨男ぶりから話が始まり、「今日、雨が降らなければ光太郎に認められていなかったことになったので、かえってよかった」と、会場の笑いを誘っていました。

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メインの発表者は、歌人の松平盟子氏。「明星研究会」に加入されているそうで、連翹忌ご常連の与謝野夫妻研究家にして、お父様が光太郎と交流のあった逸見久美先生とも親しくされているそうでした。生涯を通じて断続的に詠まれていた光太郎の短歌を、たくさん作られた時期に着目して3期に分け、それぞれ考察をご披露なさいました。

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第一期は、与謝野夫妻の『明星』に依っていた明治33年(1900)~同40年(1907)。東京美術学校在学中から欧米留学の途中までにあたります。『明星』の星菫調エッセンスが色濃く、鉄幹晶子の代表作と目される短歌との類似点が目立つというお話。逆に、晶子の短歌に光太郎のそれを参照したのではないかと思われる作品もあるというお話も。なるほど、と思いました。

003ちなみに触れられませんでしたが、詩集『道程』版元の抒情詩社社主・内藤鋠策が、光太郎の窮乏を助ける意味合いもあって、『傑作歌選別輯 高村光太郎 与謝野晶子』(大正4年=1915)を編刊しています。絶大な人気だった晶子とのセットにすることで、売れ行きを期待したのでしょう。

第二期は、明治42年(1909)から翌年にかけて。欧米留学からの帰国後、「パンの会」の狂騒に巻き込まれ、たちまち自らも巻き起こす方に廻って、昨日もご紹介した吉原の娼妓・若太夫との恋愛などもあった時期です。松平氏は「疾風怒濤の時期」とおっしゃっていました。

松平氏が特に注目されていたのは、日本女性を徹底的にこき下ろした連作。

少女等よ眉に黛(すみ)ひけあめつちに爾の如く醜きはなし
女等(をみなら)は埃(あくた)にひとし手をひけばひかるるままにころぶおろかさ
海の上ふた月かけてふるさとに醜(しこ)のをとめらみると来にけり
太(ふと)ももの肉(しし)のあぶらのぷりぷりをもつをみなすら見ざるふるさと

などなど。

これらは、自立にはほど遠く、主体性も自我もまるでない当時の日本女性に対するあらわな失望、ひいては日本人全体、日本社会全般の前近代性に対する嘆きです。それを象徴的に、外見的にも内面的にも「美」を持つべき女性が、欧米(特にフランス)のそれと異なり、何らの「美」を持たざる現状への絶望として表現したともいえましょう。

そして第三期。復刊された『明星』に、木彫「蝉」を題材にした短歌などをごっそり発表した時期です。

松平氏もご指摘なさっていましたが、この時期の光太郎短歌は実に自由闊達。まあ、それ以前からそういう傾向はありましたが、特にそれが顕著なのがこの時期です。

鳴きをはるとすぐに飛び立ちみんみんは夕日のたまにぶつかりにけり
はだか身のやもりのからだ透きとほり窓のがらすに月かたぶきぬ

ただ、智恵子の心の病が顕在化し、その中で詠まれた悲痛な作もこの時期に入ります。

そして、統括。光太郎の短歌は、日常語をうまく駆使し、折々の感情、感覚、喜怒哀楽を自由気ままに表現している、との説には、同感します。

そのあたりを聞きながら、詩よりもその傾向が強いな、と思いました。松平氏も引用されていましたが、光太郎、「詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる」(「近状」大正13年=1924)と述べています。

昭和15年(1940)に書かれた散文「自分と詩との関係」によれば、光太郎にとっての詩は「彫刻の範囲を逸した表現上の欲望」によって彫刻が「文学的になり、何かを物語」るのを避けるため、また「彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため」に書かれた「安全弁」だというのです。謎めいた題名やいわくありげなポーズに頼る文学的な彫刻(青年期には光太郎もそういう彫刻を作っていましたが)ではなく、純粋に造型美を表現する彫刻を作るため、自分の内面の鬱屈などは詩として吐き出すというわけです。

しかし、詩は雑誌などの寄稿依頼によって書かれることが多く、そうなると、そこに「責任」が生じます。注文主の意向を忖度して、思ってもいないことを書く光太郎ではありませんが、さりとて、「自由気ままに」とは行かない部分も多かったのではないでしょうか。光太郎が自作の詩に「責任」を感じていたことは、ほとんどの詩の草稿を手控え原稿として手元に残していたことからも読み取れます。

ところが、短歌や俳句に関しては、手控えの原稿は残しませんでした。

昨年、切手の博物館さんで開催された、開館20周年記念特別展<秋>「著名人の切手と手紙」で展示された光太郎書簡(昭和21年=1946)に、以下の記述がありました。

おてがミ拝見しましたが小生歌集を出す気にはなりません。歌は随時よみすてゝゆきます。書きとめてもありません。うたは呼吸のやうなものですから、その方が頭がらくです。

同様の記述は他にも見られます。しかし、昭和22年(1947)には、歌集『白斧』が上梓されました。ただし、これは光太郎の姻戚・宮崎稔が光太郎の承諾なしに出版してしまったものです。

うたは呼吸のやうなもの」、まさに光太郎のスタンスが見て取れます。ちなみに「詩はボクの日記のみたいなもの」(「“詩だけはやめぬ”」 昭和27年=1952)だそうで、「日記」と「呼吸」、やはり「呼吸」の方がより根源的ですね。


その後、やはり歌人の染野太朗氏、渡英子氏が、それぞれお気に入りの光太郎短歌を紹介しつつ、考察を披瀝、最後はお三方による討論形式で終わりました。

それぞれに歌人としての捉え方にはやはり鋭いものがあるな、と感心しきりでした。

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これまで、光太郎の短歌はあまり注目されてきませんでした。以前にも書きましたが、この手の伝統文化系は、光太郎に限らずそれ専門の人物でないとなかなか取り上げられない傾向を感じています。それなりに数も遺され、優れた作品も多いと思うのですが、短歌雑誌、俳句雑誌での「光太郎特集号」というのは見たことがありません。せいぜい短い論評がなされる程度です。いったいに短歌雑誌、俳句雑誌の類は派閥・流派の匂いがぷんぷん漂っており、そこに属さない者、ましてや本職の歌人・俳人でない者は無視、という傾向が感じられます。

そうした意味で、今回、現代歌人協会さんとして、光太郎以外にもいわゆる専門歌人以外の著名人の短歌について話し合ってみたいとのことで、この講座が持たれているのは、これまでの状態に風穴が開いたわけで、画期的だな、と思いました。こうした傾向が一過性でなく、定着して欲しいものです。

ちなみにもっと光太郎の短歌、俳句に注目して欲しいと思い、このブログでは昨年1年間・366日(閏年でしたので)、一日一首(一句)ずつ、【折々の歌と句・光太郎】というコーナーを作って光太郎の短歌・俳句など(川柳や仏足石歌なども)紹介しました。366日分、お読みいただければ幸いです(笑)。


【折々のことば・光太郎】

売る事の理不尽、購ひ得るものは所有し得る者、 所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。
詩「美の監禁に手渡す者」より 昭和6年(1931)

プロレタリア文学者やアナーキスト達と近い位置にいた光太郎ですが、その生活は、彫刻を買ってくれたり、肖像制作を注文したりしてくれる者――多くは光太郎の嫌いな、俗世間での成功者――に支えられていました。その家柄ゆえ、生涯に一枚も絵を売らずに生活できたという画家・有島生馬などとは、根本的なところで違うのです。

この矛盾は結局解消されないまま、重く光太郎にのしかかりました。悲劇ですね。いや、お釈迦様の手のひらで暴れている孫悟空のような喜劇かも知れません。そこで一首。

あながちに悲劇喜劇のふたくさの此世とおもはず吾もなまづも

やはり昭和6年(1931)の作で、木彫「鯰」を収める袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌です。

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昨日の『朝日新聞』さんで、先月亡くなった詩人の大岡信氏について、まるまる1ページ、大きく取り上げられました。「大岡信さん、織りあげた宇宙 心に残る、折々のうた」の総題で、氏が昭和54年(1979)から平成19年(2007)にかけ、同紙に連載されていたコラム「折々のうた」がメインでした。

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国立文学研究資料館館長のロバート・キャンベルさんの談話が掲載されていますが、そちらは割愛します。下記は「折々のうた」の紹介的な内容。

29年、6762回 「世界文学としての詩歌選集」

 「折々のうた」は、朝日新聞創刊100周年記念日の1979年1月25日に始まった。引用作品は2行程度で、大岡さんが約200字の鑑賞文を添えた。掲載は休載期間を含めて2007年3月31日まで29年間、万葉集の収録和歌数約4500を超える6762回に上った。
 初回は高村光太郎、最終回は江戸期の俳人田上菊舎(たがみきくしゃ)。大岡さんは「精力の9割」を作品の選定と配列に割いていると述べ、「2年くらいたつとストックは全くなくなって、勉強しなくてはいけなくなった」とも語っていたが、紹介した詩歌は実に多彩だ。
 阿倍仲麻呂、紀貫之から、アングラ演劇で活躍した寺山修司、詩人・谷川俊太郎まで時代は様々。内容的にも、正岡子規の絶筆「糸瓜(へちま)咲(さい)て痰(たん)のつまりし仏かな」から、金子光晴の孫娘への愛情を歌った「来年になったら海へゆこう。そしてじいちゃんもいっしょに貝になろう。」まで重いものも明るいものもある。
 俳人の長谷川櫂(かい)さんは「この詩歌の国で世界文学として初めて誕生した詩歌選集」。歌人の俵万智さんは自作が紹介された時、駅で新聞を何部も買い、「会う人ごとに話しかけたいような気分」で「心から励まされた」。いずれも童話屋が刊行した「折々のうた」のあとがきで書いている。


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というわけで、記念すべき第一回が、光太郎の短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」(明治39年=1906)。そちらが当時の紙面から引用されています。

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本職の歌人ではない光太郎の作を、記念すべき連載第一回に、よくぞ取り上げて下さったという感がします。


その他、「折々のうた」の書籍、三島市の大岡信ことば館さんも紹介されています。

本になった「折々のうた」手元に

 岩波新書の「折々のうた」(002全10冊)と「新折々のうた」(全9冊)は、1980年から続々と刊行されてきたシリーズだ。ただほとんどが品切れ重版未定で、古書でなければ入手は難しい。1冊目の1980年刊の「折々のうた」は42万部のロングセラーで入手可能。岩波書店刊「折々のうた 三六五日」は大岡さんが365日それぞれにふさわしい詩歌を選んで編んだ愛蔵版だ。
 季節ごとの詩歌をまとめた4分冊「折々のうた 春夏秋冬」(童話屋)は昨年、刊行された。谷川俊太郎さんが代表を務める「折々のうたを読み伝える会」が編集。引用された作品の作者の略歴や用語説明も付け加えている。


最後に書かれている童話屋さん版の、「冬」編に、上記「海にして……」の短歌、大正3年(1914)の詩「僕等」の一節が掲載されています。

作品や横顔、深く知るには…

 大岡さんが生まれた静岡県三島市には、作品や横顔を紹介する「大岡信ことば館」(JR三島駅徒歩1分)がある。造形家の岩本圭司さんが館長を務め、常設展のほか、追悼特別展を9月から開く予定。
 「大岡信研究会」(西川敏晴会長)では評論家三浦雅士さんら有識者が大岡作品を読み解き、論じてきた。今月28日午後2時、明治大学リバティタワー研究棟で、大岡さんの教え子の松下浩幸・明治大教授が「大岡信と夏目漱石」と題して講演(参加費は会員外1千円)。研究会は一般の人も入会可。問い合わせは事務局(花神社内、03・3291・6569)へ。


そして、来月行われる「送る会」についても。

送る会 来月28日、明治大学で

 大岡さんを送る会が6月28日午後6時から、東京都千代田区の明治大学アカデミーホールで開かれる。開場は午後5時。詩人谷川俊太郎さんが詩を朗読。作曲家一柳慧さんがピアノ演奏、俳優白石加代子さんが大岡さんの詩を朗読する予定。一般の人も参加可で「平服でお越し下さい」と主催の大岡信研究会(事務局は花神社、03・3291・6569)。


あらためて、ご冥福を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

その詩は高度の原(げん)の無限の変化だ。 その詩は雑然と並んでもゐる。 その詩は矛盾撞着支離滅裂でもある。

詩「その詩」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

昨日もご紹介した詩「その詩」から。

やはり光太郎詩の「原理」が、色濃く、端的に表されています。

勝手な想像ですが、大岡さんなども、詩のあり方として「そうそう」とうなずいて下さるような気がします。

5月も下旬となって参りましたので、そろそろ来月のイベントのご紹介を。

現代歌人協会公開講座「高村光太郎の短歌」

期 日 : 平成29年6月21日(水)
時 間 : 午後6時から午後8時まで
会 場 : 学士会館 東京都千代田区神田錦町3-28
参加料 : 1,500円 (当日受付)
司 会 : 渡 英子

メインパネリスト : 松平盟子(歌人)・染野太朗(歌人)
問い合わせ : 現代歌人協会 TEL 03-3942-1287(平日10~16時) FAX 03-3942-1289
           gendaikajinkyokai@nifty.com
       
今年度は、小説家、詩人、画家など、いわゆる専門歌人以外の著名人の短歌について話し合ってみたいと思います。メインパネリストによるミニ講演の後、ディスカッションを行います。お誘い合わせの上、ふるってのご参加をお待ちしています。


というわけで、現代歌人協会さん主催の公開講座です。全6回で、「著名人の短歌について」という総題のもと、先月から始まっており、光太郎は第3回ということになっています。ちなみに光太郎以外は、北杜夫、芥川龍之介、中島敦、夢野久作。10月の最終回は総集編ということで、それ以外に樋口一葉なども取り上げられるようです。

光太郎、本格的な文学活動の出発点は、与謝野夫妻の新詩社で取り組んだ短歌でした。ただ、師の鉄幹にしてみればあまり真面目な弟子ではなかったようですが、かえってそういう部分も含めてかわいがられていたように思われます。

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後列左から二人目の長身の青年が光太郎、前列右端が与謝野鉄幹。明治37年(1904)、光太郎数え22歳での撮影です。

年2回、当会で刊行している冊子『光太郎資料』の中に、筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成10年=1998)後に見つかった光太郎の文筆作品を、ジャンルや内容ごとにまとめて紹介する「光太郎遺珠から」という項を設けています。今秋発行予定の『光太郎資料』第48集、来春発行予定の同第50集では、短歌についてご紹介するつもりで、執筆を始めています。『高村光太郎全集』完結後も、続々と短歌の実作が見つかっていますし、短歌について述べたアンケートや書簡、散文などもいろいろと見つけました。そのあたりをご紹介します(ご入用の方はご用命下さい)。

また、昨年は1年間かけて、このブログで【折々の歌と句・光太郎】というわけで、「これは」と思う光太郎の短歌や俳句などを1首(句)ずつご紹介いたしました。

そんなわけで、最近、光太郎短歌にはまっておりますので、この講座も都合をつけて拝聴に伺おうと考えております。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

見果てぬ時のかなたよりわしを呼ぶは何者ぞや。 旅にやんで夢は枯野をかけ廻る。 わしはもう一歩出よう。

詩「旅にやんで」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

短歌ならぬ俳句の祖・松尾芭蕉をモチーフとした――というか、芭蕉の視点で謳った――詩です。

旅にやんで夢は枯野をかけ廻る」は、芭蕉の「辞世の句」として有名ですね。ただ、芭蕉自身が辞世の句として詠んだかどうかは不明です。

大方の解釈では、「旅の途中で病にかかり、身体はもう動かないが、自分の夢(精神)だけは冬枯れた野原をかけめぐっている」といったところでしょう。しかし、素人考えですが、「旅にやんで」は「「旅」というやっかいきわまりない「病」にとりつかれ、家族も持たず定住もせず、あちこちをさすらい歩く生涯だったが……」という解釈も成り立つのではないでしょうか。

ちなみにこの句、「病中吟」という前書がついています。光太郎も、のちに昭和20年(1945)、空襲で東京を焼け出されて花巻の宮沢賢治の実家に疎開した折、結核性の肺炎で高熱を発し、1ヶ月ほど病臥した際に詠んだ連句に「病中吟」と前書きをつけています。偶然ではありますまい。

岩手の地方紙『岩手日日』さんに、昨日載った記事です。

全国高校文芸コン 長畑さん(花巻北3年)短歌最優秀

 第31回全国高校文芸コンクール(全国高文連など主催)の入賞者が決まり、本県からは最優秀賞の文部科学大臣賞に小説部門で佐藤薫乃さん(盛岡三3年)、文芸部誌部門で盛岡四、短歌部門の最優秀賞に長畑七海さん(花巻北3年)がそれぞれ選ばれた。
 今回は小説、文芸評論、随筆など7部門に全国2593人から6732点の応募があった。表彰式は10日に東京都で行われる。本県の入賞者は次の通り。(敬称略)
◇小説部門▽最優秀賞=佐藤薫乃(盛岡三3年)「うるわしの里」▽優秀賞=佐々木桂子(水沢3年)及川慈子(一関一2年)▽優良賞=熊谷奈南、水野綾香(以上盛岡三3年)佐々木ほのか(盛岡四2年)▽入選=岩﨑麻里奈(盛岡三3年)鈴木由希(水沢3年)
◇随筆部門▽入選=田鎖寛都、太田彩季(以上盛岡三1年)
◇詩部門▽優秀賞=髙橋香奈(盛岡四3年)及川真智子(水沢3年)▽優良賞=佐々木ほのか(盛岡四2年)髙橋鈴花(水沢2年)▽入選=及川慈子(一関一2年)土谷映里(盛岡四3年)佐藤薫乃(盛岡三3年)古川智梨(盛岡四3年)相田美咲(同2年)菱川里奈(花巻北3年)
◇短歌部門▽最優秀賞=「一輪を」長畑七海(花巻北3年)▽入選=舘下智子(宮古3年)髙橋鈴花(水沢2年)
◇俳句部門▽入選=佐藤楓(盛岡二3年)
◇文芸部誌部門▽最優秀賞=「志髙文芸五十号」盛岡四▽優秀賞=盛岡三▽優良賞=水沢▽奨励賞=花巻北、盛岡二

007光太郎の詩、糸口に表現
 全国高校文芸コンの短歌部門で最優秀賞を獲得した花巻北高文芸部長の長畑七海さん(3年)。受賞の喜びを「最優秀賞なんて縁がないと思っていた。母から褒められ、じわじわうれしさが込み上げた」と振り返った。
 受賞したのは、晩年の一時期を花巻で過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎の忌日「連翹忌(れんぎょうき)」を題とした「一輪を墓石に飾る連翹忌あなたの気魄(はく)私に満たせ」。6月に開いた文芸部恒例の歌合(うたあわせ)でものしたという。
 瞬間を切り取る俳句は得意だが、感情を盛り込む短歌は苦手。「上の句は早かったが、下の句はなかなかだった」。糸口を求め、手にした光太郎の詩「道程」の一節「常に父の気魄を僕に満たせよ」が光明となった。
 締め切りに追われる緊張感は、受賞歴の多い同学年のライバルに感じていた焦りとも重なった。「結果を出そうと内心かなり焦っていた。光太郎さんの力を借りたいと思い、それに懸けた」。
 結局、歌合では敗れたものの、部誌掲載を通じ出品した文芸コンでは高評価に。ただ、あまりの出来事でにわかには受け入れ難く、喜びを実感したのは受賞を知った日の帰宅時、迎えに来た母親に褒められた時だった。
 長畑さんは、これまでの活動で、自由な想像の余地がある表現方法の魅力を認識した様子。「活字は美術以上の可能性を秘めている。将来はまだ見えないけれど、これからも短歌や俳句に挑戦したい」と話していた。


短歌部門最優秀の長畑さん、連翹忌を取り上げて下さり、ありがたいかぎりです。

4月2日、当会主催が主催する日比谷松本楼での連翹忌以外に、花巻でも毎年、光太郎ゆかりの松庵寺さんで連翹忌の法要がもたれています。それが午後からの開催で、午前中には光太郎が7年間を過ごした郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地で、光太郎詩碑に献花する詩碑前祭が行われています。おそらく長畑さん、そのいずれかにご出席下さったことがあるのでしょう。

また、長畑さんが通われている花巻北高さんには、高田博厚作の光太郎胸像が鎮座ましまし、日々、生徒さんたちを見守り続けています。

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そういうところからの連想もあるのではないでしょうか。泉下の光太郎、そして高田博厚も喜んでいるような気がします。

なかなか決まらなかったという下の句は、光太郎の代表作「道程」からのインスパイア。この詩が書かれたのは大正3年(1914)ですから、もう100年以上前です。それでも現代の若者の心の琴線に触れているわけで、あらためて光太郎の偉大さを感じさせます。

受賞した皆様の今後のさらなる活躍を祈念いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

わがわかき高田博厚剛腹のてのひらをもて風をとらへぬ
大正13年(1924) 光太郎42歳

碌山荻原守衛の死後、高田は光太郎が最も親しく交わった彫刻家です。高田は光太郎より17歳年下ですが、師弟関係とも違う、友人としてのつきあいでした。

いったいに光太郎は、詩にしても彫刻にしても、「弟子」を持たない主義でした。周囲に集まってきた若い芸術家たちは、全て年少の友人という感覚で、アドバイス程度はあったかもしれませんが、添削をしたり、手取り足取り教えたりと言ったことはやりませんでした。

したがって、彼らのプロフィールに「高村光太郎に師事」とあるものは、厳密にいえば全て誤りです。芸術家としての生き様、人生観といったものを教わったと考えれば「師事」かもしれませんが……。

一昨日、文京シビックセンターさんでの「平成28年度文京区企画展「賢治と光太郎――文の京で交錯する二人」を拝見した後、次なる目的地、豊島区目白に向かいました。

目指すは切手の博物館さん。11/3~6の4日間、開館20周年記念特別展<秋>「著名人の切手と手紙」が開催され、光太郎の葉書も展示されているという情報を得たためでした。

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観覧料200円(安!)を払い、3階の会場へ。

室内に入ると、周囲の壁には、<著名人の切手原画>というわけで、切手のデザインに使われた著名人の肖像画、それから<風景印の中の有名人>という題で、いわゆる「初日カバー」という、その切手の発行日当日の消印が押された封筒が並んでいます。著名人をあしらった切手、そして押されている消印が風景印――地方局などのオリジナル――というわけです。

展示室中央に平台型のガラスケースが配され、そこに<著名人の手紙>というわけで、10通あまりの書簡が展示されていました。敬称略で高峰秀子、森繁久彌、三船敏郎、大河内傳次郎、円谷英二、淀川長治、棟方志功、岸田劉生、川端康成、室生犀星、司馬遼太郎、そして光太郎。

拝見に伺う前、、『高村光太郎全集』等に収録されていない新発見のものの可能性があると思っていましたが、今回もまさにその通りでした。

比較的長命だった上、筆まめだった光太郎ゆえ、こういうことがよくあります。以前にも展示会場に行ってみて、これは新発見だ、ということが何度もありました。


今回展示されていたのは、高崎正男という人物に宛てた、昭和21年(1946)3月のハガキでした。高崎正男という人物については明らかに出来ませんでした。『高村光太郎全集』には名前が見えません。画家の長谷川利行のパトロンだった同名の人物が居ましたが、同一人物とは考えにくいところです。というのは、展示されていた葉書が光太郎の短歌をまとめた歌集出版の提案を却下する内容だったためです。

光太郎、郵便物の授受をかなり克明に記録した「通信事項」というノートが現存しており、昭和21年(1946)の項を見ると、3月20日に「高崎正男氏へ返ハカキ」の記述があります。まさに展示されていたハガキです。ところが遡って見ても、高崎からの受信記録がありません。受信の記録がないのに返信の記録だけ、というのも奇妙な話です。

さらに調べてみると、3月18日に「六都書房からテカミ」という記録がありました。「六都書房」という出版社は存在せず、「六都書店」の誤りのようで、ここはこの年に、光太郎とも交流のあった竹内てるよの歌集『永遠の花』を刊行している版元です。短歌をキーワードとして捉えると、高崎はこの六都書店の編集者なのでは、と推定できます。確定ではありませんが。

こういうところで色々と推理を働かせるのも、光太郎研究の醍醐味の一つです。

ちなみにハガキの文面に「先日も、養徳社といふところから同様の事を申してまゐりましたが、やはりお断りしました。」という一節がありました。「養徳社」は奈良に本社を置く出版社で、前年に吉井勇編『現代名歌選』を上梓、光太郎短歌「海にして……」も収録されています。この年2月には、養徳社の喜田聿衛にあて、同書受贈の 礼と、やはり歌集出版申し出に対する断りがしたためられています。こちらは『高村光太郎全集』収録済みです。

おてがミ拝見しましたが小生歌集を出す気にはなりません。歌は随時よみすてゝゆきます。書きとめてもありません。うたは呼吸のやうなものですから、その方が頭がらくです。吉井勇さんの「現代名歌選」は忝く拝受しました。

短歌に対する光太郎のスタンスはこういうことでした。

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ところが、翌年には詩人の宮崎稔(智恵子の最期を看取った姪・春子の夫)が、光太郎の承諾を得ず、半ば強引に光太郎の歌集『白斧』を刊行してしまっています。これにはさすがに光太郎も怒ったようですね。


さて、切手の博物館さんでは、今回の展示とリンクした書籍を刊行されました。

著名人の切手と手紙

2016年11月20日 平林健史他編 一般財団法人切手の博物館発行 ㈱郵趣サービス社発売 定価926円+税

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第一章 著名人の手紙
高峰秀子、三船敏郎、大河内傳次郎、森雅之、芥川比呂志、円谷英二、棟方志功、岸田劉生、上村松園、前田青邨、竹内栖鳳、高村光太郎、川端康成、高浜虚子、司馬遼太郎、著名人似顔絵館

第二章 日本うたよみ紀行
宮沢賢治、竹久夢二、夏目漱石、芥川龍之介、岡本かの子、正岡子規、川上音二郎、南方熊楠、白瀬矗、日本切手のなかの著名外国人

第三章 文化人切手ゆかりの地を往く
樋口一葉・森鷗外、九代目団十郎・野口英世、坪内逍遙・木村栄、寺田寅彦・内村鑑三

第四章 切手人名録 著名人226名の横顔
芸能人、文学者、芸術家、学者・思想家ほか、切手に最も多く登場する著名人・前島密、政治家・軍人ほか、アスリート、歴史上の人物(江戸時代以前)

第五章 切手の博物館ガイド

展示されていた光太郎のハガキについても紹介されています。また、光太郎肖像が使われた平成12年(2000)発行の「20世紀デザイン切手」についても。

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同館で販売していますし、Amazonにもアップされていました。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

今にして弱くねぢけしわかき日のおぞのすがたを見ておどろかず

昭和18年(1943) 光太郎61歳

009光太郎の歌集は、上記『白斧』以外にも、遠く大正4年(1915)に与謝野晶子とのセットで刊行されています。

前年に刊行された第一詩集『道程』と同じ版元、抒情詩社からで、『傑作歌選別輯 高村光太郎 与謝野晶子』。

社主で詩人でもあった内藤鋠策が、やはり半ば強引に出版したものですが、光太郎の窮乏を救う意味合いで、売れっ子の晶子とセットにしたそうです。

時を経て昭和18年(1943)、詩人の風間光作から、この旧著にサインを求められ、扉に上記短歌を揮毫しました。

「おぞ」は「おぞましい」の「おぞ」。ただし、「おどろおどろしい」という意味よりは、古語「おぞし」としての「強情だ・気が強い」「ずるがしこい」的なニュアンスではなかろうかと思われます。

光太郎と深い関わりのあった与謝野晶子の忌日・白桜忌が開催されます。

第32回 白桜忌

晶子の命日(5月29日)をしのび、晶子ゆかりの寺・覚応寺において白桜忌が開催されます。
逸見久美氏による講演、堺市更生保護女性会コーラス部による合唱を予定しています。

【日 時】5月29日(木曜)午後1時30分から
【場 所】覚応寺(阪堺線「神明町」下車 東へ約100メートル 堺市堺区九間町東3-1-49)
【参加費】1,000円
【主 催】白桜忌実行委員会
【プログラム】
◇講演会「想い出すままに -与謝野晶子・寛の研究より-」
〈講師〉逸見 久美
◇合唱「君死にたまふことなかれ」他
〈出演〉堺市更生保護女性会コーラス部
【問合せ】白桜忌実行委員会 電話:072-258-0948
 
白桜忌には昨年、はじめて参加させていただきました。今年はどうしようかと思っていたところ、記念講演の講師が、今年の連翹忌にご参加下さった逸見久美先生とのことで、これは行くしかない、と思っております。
 
昨年は京都嵯峨野大覚寺新たに見つかった光雲の木彫を観るのを兼ねての強行日程でしたが、今年は他用がないので、堺で晶子生家跡などを見て回ろうと思います。
 
白桜忌、特に事前申し込み等は不要です。ぜひ足をお運びください。000
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月13日
 
平成18年(2006)の今日、仙台文学館で開催されていた「高村光太郎智恵子展―その芸術と愛の道程―」の関連イベントとして、北川太一先生の記念講演「高村光太郎のみちのく」が行われました。
 
おまけ
当ブログ、閲覧数40,000件を超えました。ありがとうございます。

京都・大阪レポートの2回目です。
 
午前中、京都大覚寺の「大覚寺の栄華 幕末・近代の門跡文化」展を観て、一路、大阪は堺に向かいました。京都から新大阪まで新幹線、その後、地下鉄と路面電車を乗り継ぎ、堺市の覚応寺さんというお寺に向かいました。こちらで昨日、与謝野晶子の命日・白桜忌が行われました。
 
 
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左の画像はパンダ顔の路面電車、阪堺電気軌道阪堺線。歴史は古く、明治末には走っていたとのことで、晶子も使ったのではないでしょうか。当方、天王寺から乗りましたが、どこまで乗っても200円。これにはちょっと驚きました。
 
会場の覚応寺さんに行くには神明町という駅で降りましたが、あと3駅行くと、晶子生家跡のある大小路駅でした。昨日は強行日程だったので行きませんでしたが、また日を改めて周辺を散策してみようと思っています。
 
右上の画像は白桜忌会場となった覚応寺さんと道をはさんだ向かいにある西本願寺堺別院さん。味のある建物だな、と思っていたら、案の定、明治の昔に堺県庁として使われていたとのこと。
 
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さて、覚応寺さん。明治期のここの住職が晶子と鉄幹を引き合わせたということで、ここで白桜忌が開かれているそうです。境内には有名な晶子短歌「その子はたち櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」を刻んだ碑がありました。
 
会場は本堂。大阪在住の高村光太郎研究会会員・西浦氏も到着。受付を済ませて入ると、正面に晶子遺影、サイドには与謝野夫妻直筆の短冊や晶子肖像画などが飾られていました。
 
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午後1時半の開会。お寺での開催ということで、覚応寺院主さんの読経や晶子実家鳳家の方による代表焼香があったりと、宗教色の強いものでした。ただ、それだけでなく、地元の方々による献茶、献歌、献句、そしてコーラスもありました。曲は晶子に関わるもの3曲。「茅渟の海」「ミュンヘンの宿」そして「君死にたまふことなかれ」。堺の人々が晶子顕彰に力を入れている様子に感心させられました。
 
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その後、国立台湾大学日本語文学系教授にして与謝野晶子倶楽部副会長の太田登氏による講演「晶子における現在的意味を考える-堺の晶子から世界の晶子へ-」と続きました。
 
現在の近隣諸国とのぎくしゃくした国際情勢をふまえ、主に大正期の著述から世界平和を訴えていた晶子の姿、その思想的水脈としてのトルストイとの関連などのお話でした。
 
下の画像は太田氏の新刊「与謝野晶子論考-寛の才気・晶子の天分-」。白桜忌に合わせて昨日の刊行で、版元の八木書店出版部さんが会場内で販売していましたので購入しました。与謝野夫妻と光太郎との関わりについてはまだまだ調べなければならないことがあるので、その手引きとしたいと思います。
 
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その後、西浦氏に車で南海電鉄の堺東駅まで送っていただき、帰途につきました。強行日程でしたが実りの多い京阪訪問でした。
 
しかし、来月にはもう一度京都に行く用事が出来てしまいました。詳細はまた後ほど。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月30日

昭和21年の今日、農民芸術社から雑誌『農民芸術』が刊行されました。

光太郎は宮沢賢治に関する散文「第四次元の願望」を寄せています。

昨日、神田の古書店八木書店様からメールマガジンが届きました。
 
その中に光太郎とも縁の深かった与謝野晶子の忌日、白桜忌(はくおうき)の案内が書かれていました。八木書店様には出版部もあり、逸見久美氏、太田登氏などの鉄幹・晶子論を刊行されている関係だと思いますが、後援として名前を連ねています。 

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晶子の命日(5月29日)をしのび、晶子ゆかりの寺・覚応寺において白桜忌が開催されます。
【日時】5月29日(水曜)午後1時30分
【場所】覚応寺(阪堺線「神明町」下車 東へ徒歩約1分)
【参加費】1,000円
【主催】白桜忌実行委員会
【プログラム】
〈講演〉「晶子における現代的意味を考える -堺の晶子から世界の晶子へ-」
(講師)太田 登(天理大学名誉教授・国立台湾大学日本語文学系教授)
〈合唱〉「君死にたまふことなかれ」他
(出演)堺市更生保護女性会コーラス部
【問合せ】白桜忌実行委員会  電話 072-258-0948
 
「白桜忌」という名は、昭和17年(1942)に刊行された晶子の遺稿歌集『白桜集』に由来するのだと思います。この『白桜集』、光太郎が序文を書いています。

追記・逆でした。晶子の戒名が「白桜院鳳翔晶燿大姉」が先にありきで、それにちなんで『白桜集』だそうで。
 
さて、5月29日。たまたまですが、少し前からこの日は大覚寺さんで新たに見つかった光雲の木彫三点を観ようと、京都に行く計画を立てていました。
 
もう一件、こちらは先方の都合でどうなるかわかりませんが(返答待ち)、京都で別件の調査が入るかもしれません。ただ、京都と堺ならそれほど離れていないと思うので、余裕があれば白桜忌にも行ってみようかと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月23日

昭和36年(1961)の今日、山形県酒田市の本間美術館で「高村光太郎の芸術」展が開幕しました。

海にして太古(たいこ)の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
 
明治39年(1906)、海外留学のため横浜から出航したカナダ太平洋汽船の貨客船、アセニアン船上で詠んだ短歌のうち、最も有名な作であり、光太郎自身も気に入っていたものです。
 
昨年のブログにも書きましたが、宮城県の女川では、昭和6年(1931)光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基8面の石碑が建てられました。
 
8面のうち2面は、この短歌を刻んだものでした。この短歌と女川には直接の関わりはありませんが、やはり雄大な海を目にしての感懐ということで、採用されたのだと思います。
 
しかし、これも以前のブログに書きましたが、東日本大震災のため、光太郎筆跡を利用したメインの碑は倒壊、活字体でこの短歌のみ刻んだ碑は津波に流され行方不明です。
 
さて、かつて連翹忌に001ご参加いただいていたあるご婦人からいただいた今年の年賀状に、その方がお持ちの光太郎直筆の短冊を当方に下さる旨、書かれていました。ご自分がお持ちになっているより、当方のような顕彰活動を行っている者が持っていた方がよかろう、とのことでした。
 
その方のお父様が、光雲の弟子だった彫刻家で、そうした関係からお父様が光太郎からもらったとのこと。
 
失礼ながら、本当にそんな貴重なものをいただけるのかと半信半疑でいたところ、程なく届きました。右の画像のものです。
 
書かれているのは問題の短歌です。光太郎、この短歌が気に入っていたため、のちのちまで繰り返し短冊や色紙などに揮毫していまして、そうしたもののうちの一点です。
 
「海にして」ではなく「うみをみて」となっています。実はこの短歌、雑誌『明星』に発表された明治40年(1907)の段階では「海を観て」となっており、それが後に明治43年(1910)に雑誌『創作』に転載された際に「海にして」と改められました。ということは、それまでの間に書かれたかなり古いものかも知れません。
 
ただ、光雲の弟子だった元の持ち主は、明治44年(1911)の生まれ。昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』には、まだ入門したばかりと紹介されています。
 
したがって、以下のケースが考えられます。
 ・昭和に入ってから明治に書かれた短冊を贈られた
 ・昭和に入ってから書かれたものだが、なぜか古い形で書かれた
 
いずれにしても貴重なものであることに変わりなく、まったくありがたい限りです。
 
下さった方は状態があまり良くないことを恐縮していらっしゃいましたが、ことによると100年前のものですから、経年劣化はある意味当然です。
 
さて、こういう貴重なものを死蔵するにはしのびないので、今年の連翹忌では会場に展示し、ご来場の皆様のお目にかけます。また、美術館、文学館等での関連する企画展で、もし希望があれば貸し出したいと思っております。お声がけください。
 
 
【今日は何の日・光太郎】2月5日

昭和28年(1953)の今日、光太郎書簡集『みちのくの手紙』が中央公論社から刊行されました。

昨日のブログ、【今日は何の日・光太郎】で、明治39年(1906)、カナダ太平洋汽船の貨客船、アセニアンで海外留学に旅立ったこと、そして節分にちなむアセニアン船上で詠んだ短歌を紹介しました。
 
他にもアセニアン船上での短歌がいくつかありますので御紹介します。すべて『高村光太郎全集』第11巻所収です。
 
 いと安く生ひ立ち稚児(ちご)のこころもて今日あり国を出づと言ひける
 
 母見れば笑みてぞおはす旅ゆくを祝(ほ)ぐと衆(ひと)あり吉(よ)きにかあるべき
 
 おほきなる力とあつきなぐさめと我に来(く)たかき空を見る時
 
 地を去りて七日(なぬか)十二支六宮(ろくきう)のあひだにものの威を思ひ居り
 
 大海(おほうみ)の圓(まろ)きがなかに船ありて夜を見昼を見こころ怖れぬ
 
 西を見てひがしに及ぶ水の団(わ)とほかに真青(まさを)の大空と有り
 
 悪風は人あるゆゑに大法(たいはふ)をいしくも枉げずわが船に吹く
 
 大海(おほうみ)のふかきに墜ちしからす貝真珠となりぬ祝(ほ)ぎぬべきかな
 
 山国に生ひて山見ず波まくら二旬かつ経ぬ山見てけるよ
 
これらは翌明治40年(1907)の雑誌『明星』に掲載された他、大正4年(1915)の2月5日(明日ですね)に刊行された『傑作歌選別輯高村光太郎与謝野晶子』にも採られています。この書籍は詩集『道程』版元の抒情詩社から出たもので、刊行には光太郎の意志はあまり介在しておらず、版元が光太郎のために刊行してあげたという面が強いそうです。また、光太郎単独の歌集ではあまり売れそうにないので、晶子をセットにしたとのこと。何だか抱き合わせ販売のようですね。
 
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光太郎自身はアセニアン船上の歌以前の短歌には、与謝野鉄幹の添削が激しく入っており、純粋に自分の作ではない、という意識があったようです。
 
アセニアン船上の歌のうち、もっとも有名、かつ光太郎自身も自信作だった歌は、以下のものです。
 
海にして太古(たいこ)の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
 
明日はこの歌に関していろいろと。
 
【今日は何の日・光太郎】2月4日

昭和61年(1986)の今日、銀座鳩居堂画廊において、光太郎の書作品を集めた展覧会「高村光太郎「墨の世界」展-没後三十年を記念して-」が開幕しました。

一昨日、新春恒例の「歌会始の儀」が皇居・宮殿「松の間」で開かれました。今年のお題は「立」。天皇、皇后両陛下や皇族方に加え、国内外から寄せられた1万8399首から選ばれた入選者10人、選者らの歌が披露されました。
 
入選者の中で、福島県郡山市の郵便事業社員・金沢憲仁さんの作品は、光太郎の『智恵子抄』に関係するものでした。
 
 安達太良の馬の背に立ちはつ秋の空の青さをふかく吸ひ込む
 
金沢さんのコメントです。
 
「(高村光太郎の)『智恵子抄』にうたわれたように、安達太良山の上には福島の本当の空がある。津波の影響や原発の問題がある中、福島のよさを知ってもらおうと歌を作りました」。
 
両陛下からは「ご苦労が多かったですね」とねぎらわれたそうです。
 
こういうところでも光太郎作品のオマージュがなされるのは嬉しいことですが、原発事故による「ほんとの空」の消失が題材であるわけで、手放しでは喜べません。複雑な気持です。
 
歌会始といえば、昭和39年(1964)、光太郎の実弟、豊周が「召人」として参加しています。「召人」は広く各分野で活躍し貢献している人々から選ばれ、今年は歌人の岡野弘彦氏でした。豊周は鋳金の分野で人間国宝でしたが、『露光集』(昭35=1960)、『歌ぶくろ』(同41=1966)、『おきなぐさ』(同44=1969)、『清虚集』(同48=1973)の四冊の歌集を上梓するなど、短歌の分野でも大きな足跡を残しています。血は争えませんね。
 
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 『露光集』 扉(左)      口絵(右)
 
 
短歌といえば、光太郎も明治末の『明星』時代から、晩年まで断続的に多くの短歌を作りました。いずれ、光太郎と短歌に関しても折を見てこのブログで書こうと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】1月18日

明治44年(1911)の今日、上野精養軒で開かれた雑誌『スバル』と『白樺』の関係者会合に出席しています。

昨日のブログで引用した光太郎の書いた散文「与謝野寛氏と江渡狄嶺氏の家庭」。続きを載せます。
 
 中には、夫婦の間で、いつもそんなに争ひや波瀾が起つてゐるやうでは何にも仕事ができなくて困るだらう、とお考へになる方があるかも知れません。しかし、与謝野先生御夫婦は、あの多勢のお子さんの上に、人一倍沢山の仕事を世に出してゐらつしやる。それでお子さんに対しての心遣ひなども実によく行き届いてゐて、あれでいけなければ子供の方がよくないのだと思ふくらゐです。或人はいひます。与謝野さんたちくらゐの体格と健康とを持つてゐれば、あの盛んな生活力も精神力も不思議ではないと。けれども私はそれを逆にほんたうに強い精神力が、あの若々しい健康を保つてゐるのだといひます。その證拠には、以前の晶子さんは随分弱々しい病身な人でしたから。大概の夫婦は五十の声を聞くとすつかり、もう年寄りぶつて、ほんとの茶のみ友達になつて納つてしまふのが普通です。さういふ東洋風な淡白さ、例へば大雅堂の夫婦のやうに、主人が旅から帰つて自分の奥さんをすつかり忘れてしまつて、改まつて挨拶したといふやうなのも勿論面白いと思ひますが、生涯を通じて夫婦の愛に対する情熱、その魂の情熱を失はないといふことは、何かといへば早くから老い込み勝ちな日本の人々に、殊に望みたいと思ひます。
 
逸見久美先生のご講演にもありましたが、とかく与謝野夫婦にはいろいろとゴシップ的な文章が残されています。しかし、近い立ち位置から見た光太郎のこの文章、夫妻の姿をよく捉えていると思います。

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さて、このところ与謝野夫妻がらみの光太郎新資料をいくつか見つけています(逸見先生の御著書に助けられました)。それらは「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』補遺作品集)で紹介し続けています。どんなものがあるかというと……
 
・光太郎画、晶子短歌揮毫の屏風絵2点(明治44年=1911)
・寛書簡に記された光太郎短歌3首(大正8年=1919)
・光太郎も連名の第二期『明星』発刊案内(大正10年=1921) 
・光太郎から晶子への書簡(大正13年=1924)
・光太郎、与謝野夫妻他連名の木版師伊上凡骨遺作展案内(昭和9年=1934)
 
などです。
 
また、つい最近になって、国立情報学研究所さんのデータベースで、明治39年(1906)に刊行された晶子作品を含む歌集の装幀が光太郎であると登録されていることを知りました。こちらで把握していないもので、鋭意調査中です。もし本当なら、光太郎が装幀を手がけたもののうち、最も古いものということになります。ただ、出版の経緯等、いろいろ問題のある書籍でして、調査が難航しそうです。
 
いずれまとまりましたらご報告いたします。

昨日のブログで御紹介した逸見久美氏の『新版評伝与謝野寛晶子』。本日の朝日新聞読書欄に紹介されました。
 
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ただ、昨日のお話の中でも、今日紹介されるということをおっしゃっていましたが、何やらあまり歓迎されていなかった御様子でした。読んでみて納得しました。もう少し違う切り口があるのでは、という評ですね。
 
多産だったというのは、知らなかった人にとっては驚きなのでしょうし、「評伝はこんな読み方もできる」というのは個人の勝手かも知れませんが。
 
この評を読んで思い出したのが光太郎の書いた散文「与謝野寛氏と江渡狄嶺氏の家庭」。大正15年(1926)の『婦人の国』という雑誌に載った文章で、『高村光太郎全集』の第20巻に載っています。
 
 結婚が恋愛の墓場であるとは一般によくいはれる言葉ですが、私は決してさうではないと思ひます。またさうであつてはならないと思ひます。少なくとも常に心に火を持つて生活してゐる人にとつて、結婚前の恋愛はお互に未知なものを探し求め相引く気持ちですし、結婚によつて一緒の生活をするやうになれば、更にまたその恋愛は充実し、ますます豊富になり完全になるべきです。
 芸術に対する考へ方などについてはいろいろ意見の相違もありますけれども、その意味に於てすぐ私の胸に浮んでくるのは、与謝野寛先生御夫婦です。先生たちの生活が恵まれたものであることは可なり有名な事実ですが、全く、もう結婚後三十年近くにもならうといふお二人の間(なか)が、未だ新婚当時と同じやうな恋人同士の生活なのです。
 喜びと悲しみ、意欲と望とが常に相剋(あひこく)してゐるこの世の生活では、永久に若々しい魂の情熱を失はない人々の道は、決して静かな滑らかな、平坦なものではありません。そこには常に波瀾があり、また凹凸があります。従つてお互の不断の精進と努力とが必要になつてきます。そしてそこには新鮮な生々した気分が醸し出され漲ります。与謝野夫妻がそれなのです。
  よい夫婦といつても、決して事なき平和といふのではなく、今でも時々争ひなどもされるらしい……といつてそんなお話をなさつたり、私たちの前で争つたりされるといふのではありませんが、折々争ひした後で口惜し紛れに詠んだやうな歌など見かけますから、歌に偽りがなければ事実でせう。その癖お二人ともお互いに相手を心から充分尊敬してゐられます。そしてその長い結婚生活の間中を、お二人はどんなにいゝ伴侶者として過ごされたことでせう。時々先生が対外的に何か失意なさつたやうな場合、晶子さんは一緒に沈んでしまはないで、その限りない熱情を籠めて慰め且つ励ますかと思ふと、また晶子さんがさういふ場合には先生が力づけるといふ具合にほんとによく助け合つてゐらした。
 
もうすこし続くのですが、長くなりますので、以下は明日。

今日は神田神保町・東京堂書店さん6階の東京堂ホールで開催された講演会「与謝野夫妻の評伝を書き終えて」を聴きに行ってきました。
 
講師は与謝野夫妻研究の第一人者、逸見久美氏。北川太一先生とも旧知の間柄で、講演会終了後ご挨拶に行ったら「北川先生にくれぐれもよろしく」とおっしゃっていました。
 
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今回の講演は、逸見氏のご著書『新版評伝与謝野寛晶子』完結記念ということで、版元の八木書店さんの主催でした。
 
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労作です。それから同じ八木書店さんからは『与謝野寛晶子書簡集成』というご著書も出されています。
 
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どちらのご著書にも大変お世話になりました。というか、最近また光太郎と与謝野夫妻がらみの新資料が続々見つかってきましたので、現在進行形でお世話になっています。
 
光太郎の本格的な文学活動の出発点は与謝野夫妻の新詩社から。寛のプロデューサー的な才能はかなり高かったようで、今日のご講演でも、「現在、晶子の名が高く、寛がかすみがちだが、寛あっての晶子である」という趣旨のご発言がくり返されました。そういう意味では光太郎も寛のプロデュースにうまく乗った一人なのではなかろうかと思います。
 
というふうに、光太郎と縁の深い与謝野夫妻ですが、当方、与謝野夫妻についてどれだけ知っているかというと、その知識は貧弱です。そういうことではいかんな、と思い、今日のご講演を拝聴しに行きました。光太郎だけに詳しい専門馬鹿では駄目ですね(といって、光太郎についてすべてを知っているかと問われれば答は「否」ですが)。せめて光太郎と近しい間柄だった人々に関しては、ある程度押さえておく必要があります。だから昨日はリーチ展にも行きました。「木を見て森を見ず」にならぬよう、光太郎を取り巻いていた環境をしっかり把握したいと思っております。
 
さて、今日のご講演で特に面白く感じたのは、逸見氏が与謝野夫妻の書簡を求め、日本各地を歩かれたくだり。1回の調査で百通を超える書簡が見つかり、現地に数週間滞在して調査なさったとか、コピー機のない時代で、すべて筆写したとか、筆写にあたって寛の字は読みやすいが晶子の字は実に読みにくいとか、御労苦がしのばれました。当方も似たような経験をしておりますので、尚更です。しかし、光太郎に関しては既に北川太一先生がほとんどやりつくされていますので、当方はその落ち穂拾い。あらためて北川先生も昔はそういう御苦労をされたんだろうな、と感じました。
 
落ち穂もまだまだたくさん残っています。今日も午前中、駒場東大前の日本近代文学館さんに寄ってから講演に行きましたが、やはり落ち穂がありました。いずれ「光太郎遺珠」にて紹介します。
 
ついでに言うなら来週は横浜の神奈川近代文学館さんに落ち穂拾いに行って参ります。

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