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昨日に引き続き、新刊情報です。今回はアンソロジー的な……。 

名作で楽しむ上高地

2019年6月7日  大森久雄編  山と渓谷社(ヤマケイ文庫)  定価1,000円+税

上高地再発見!
登山家、文学者の紀行・エッセーと歴史エピソードの名作集。
文政9(1826)年の播隆、明治24(1891)年のウェストンに始まり、上高地は常に日本の登山の中心にあり、幾多の登山者、文学者たちが訪れてきた。
彼らの残した名作で、上高地の魅力を再発見し、さらに興味深い上高地の歴史やそこに生きた山人たちの姿をしのぶアンソロジー。
登山家は小島烏水、辻村伊助、田部重治ほか、文学者は窪田空穂、高村光太郎、若山牧水、芥川龍之介ほか、読んでおきたい本当の名作が一冊に。
上高地の魅力、歴史、上高地に生きた人々など、上高地を深く知るためにも役立ちます。

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 第一部 エッセーで味わう上高地
       穂高・徳沢・梓川  浦松佐美太郎
  神河内  松方三郎
  小梨の花咲く上高地  尾崎喜八
  初夏の上河内  串田孫一
  花の百名山より  田中澄江
 第二部 早期登山者たちの見た上高地
  日本アルプスの登山と探検(抄) W・ウェストン 青木枝朗訳
  梓川の上流  小島烏水
  上高地渓谷  田部重治
 第三部 青春の上高地、槍・穂高
  夏休みの日記/山と雪の日記(抄)  板倉勝宣
  穂高星夜  書上喜太郎
  涸沢の岩小舎を中心としての穂高連峰(抄) 三田幸夫
  穂高の雪  今井喜美子
  アルプス讃歌  北杜夫
 第四部 上高地を訪れた文人たち
  明神の池  窪田空穂
  山路  若山牧水
  槍ヶ岳紀行  芥川龍之介
  芥川龍之介の槍ヶ岳登山  山崎安治
  智恵子の半生(抄)/狂奔する牛 高村光太郎
  日本高嶺の高嶺(抄) 大町桂月
 第五部 上高地と槍・穂高連峰の歴史
  槍・穂高連峰登山略史(抄)  山崎安治
  かみこうち宛字の詮索  岡茂雄
  播隆の槍ヶ岳登山(抄)  穂苅三寿雄・穂苅貞雄
  槍ガ岳と共に四十年(抄) 穂苅三寿雄
  焼岳の噴煙  三井嘉雄 

同じ山と渓谷社さんのヤマケイ文庫で、一昨年には『紀行とエッセーで読む 作家の山旅』が刊行されており、こちらは全国の名山に関し、やはり光太郎を含む多くの文人たちのアンソロジーでした。今回は上高地に特化したものです。

光太郎の掲載作品のうち、「智恵子の半生」は、智恵子歿後の昭和15年(1940)、雑誌『婦人公論』に「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」の題で発表され、翌年、詩集『智恵子抄』に収められた長い文章です。恋愛時代、結婚生活、そして心を病んで結局結核で亡くなるまでの智恵子の姿が描かれています。

光太郎と智恵子が婚約したというのが大正2年(1913)の上高地に於いてで、滞在中のできごとやその前後の経緯なども記されています。『名作で楽しむ上高地』では、そのあたりを抜き出して「(抄)」としているのでしょう。

詩「狂奔する牛」は大正14年(1925)の作。やはり『智恵子抄』収録作で、上高地での見聞をモチーフとしています。上高地ではかつて徳沢周辺を中心に牧場があり、牛も上高地を代表する風景の一つでした。

ちなみに当方、平成27年(2015)、『山と渓谷』さんのライバル誌『岳人』さんに、「高村光太郎と智恵子の上高地」という文章を書かせていただきました。そちらでも「智恵子の半生」、「狂奔する牛」ともに引用、紹介しています。2015年3月号で、「特集 言葉の山旅 山と詩人上高地編」。まだバックナンバーの在庫があるようです。

併せてお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

おまけに担任の先生というのが、どこかの国の訛の強い先生で、東京以外を知らない江戸つ子のわたしには、その先生の言葉が分からなかつた。「アルタの数が……」 もう分からなかつた。アルタの数、とはなんだろうか。分らない。後になつてわかつたことだが、これは「或る他の数が……」ということであつた。

談話筆記「わたしの青銅時代」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

高等小学校を卒業し、本郷森川町にあった共立美術学館予備科に編入し、旧制中学の課程を学ぶこととなった明治29年(1896)、数え14歳当時の回想です。この学校はもともと東京美術学校の予備校として同窓生たちが作ったもので、横山大観が館長でした。光太郎、編入ということで、特に数学ではかなり苦労したようです。

いわゆる右脳型だったらしい光太郎、数学でも幾何の分野はましでしたが、代数の領域はお手上げだったとのこと(ちなみに当方もそのようで、その気持ちはよく分かります(笑))。他の機会には「高村の家には理系の地は一滴も流れていない」と負け惜しみ的な発言もしています(笑)。実弟の藤岡孟彦は植物学者になったのですが(笑)。

新刊、といっても気づくのが遅れ、5ヶ月ほど経ってしまっていますが……。 

紀行とエッセーで読む 作家の山旅

2017年2月17日 山と渓谷社編刊 ヤマケイ文庫 定価930円+税

明治、大正、昭和の著名な文学者が山に登り、あるいは山を望み著したエッセー、紀行、詩歌を紹介するアンソロジー。だれもが知っている著名な文学者も山に憧れ、山に登り、作品を残していた。意外な作家の登山紀行やエッセーを集め、文学者の目に映った山と自然から、新たな山の魅力を探り、いままで紹介されることの少なかった山を愛した文学者の姿を紹介する。

目次
 小泉八雲 富士山(抄) 落合貞三郎訳000
 幸田露伴 穂高岳
 田山花袋 山水小記(抄
 河東碧梧桐 登山は冒険なり
 伊藤左千夫 信州数日(抄
 高浜虚子 富士登山
 河井酔茗 武甲山に登る
 島木赤彦 女子霧ヶ峰登山記
 窪田空穂 烏帽子岳の頂上
 与謝野晶子 高きヘ憧れる心
 正宗白鳥 登山趣味
 永井荷風 夕陽 附 富士眺望
 (『日和下駄』第十一)
 斎藤茂吉 蔵王山/故郷。瀬上。吾妻山
 志賀直哉 赤城にて或日
 高村光太郎 山/狂奔する牛/岩手山の肩
 竹久夢二 山の話
 飯田蛇笏 山岳と俳句
 若山牧水 或る旅と絵葉書001
 石川啄木 一握の砂より
 谷崎潤一郎 旅のいろいろ
 萩原朔太郎 山に登る/山頂
 折口信夫 古事記の空 古事記
 室生犀星 冠松次郎氏におくる詩
 宇野浩二 それからそれ 書斎山岳文断片
 芥川龍之介 槍ヶ岳紀行
 佐藤春夫 戸隠
 堀口大學 山腹の暁/富士山 この山
 水原秋桜子 残雪(抄
 結城哀草果 蔵王山ほか
 大佛次郎 山と私
 井伏鱒二 新宿(抄
 川端康成 神津牧場行(抄)
 尾崎一雄 岩壁
 三好達治 新雪遠望
 小林秀雄 エヴェレスト
 中島健蔵 美ヶ原 ・深田久彌に・
 草野心平 鬼色の夜のなかで
 林芙美子 戸隠山
 堀辰雄 雪斑(抄)
 加藤楸邨 秋の上高地
 臼井吉見 上高地の大将
 坂口安吾 日本の山と文学
 亀井勝一郎 八ガ岳登山記
 太宰治 富士に就いて
 津村信夫 戸隠姫/戸隠びと
 梅崎春生 八ガ岳に追いかえされる
 辻邦生 雲にうそぶく槍穂高
 北杜夫 山登りのこと
 解説 大森久雄


というわけで、光太郎作品は詩が三篇。

「山」(大正2年=1913)は、この年、智恵子との婚前旅行で1ヶ月滞在した上高地での感興、激情を謳ったもの。その12年後に書かれた「狂奔する牛」(同14年=1925)も、上高地旅行に題材を採っています。「岩手山の肩」は、戦後の花巻郊外太田村での作。昭和23年(1948)元日の『新岩手日報』紙面を飾りました。さらに約1ページを費やす光太郎のプロフィール欄には、随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から、上高地に関わる部分の一部が抜粋されています。

他に与謝野晶子、佐藤春夫、草野心平ら、光太郎と親しく交わった面々の作も収められています。

編集にも関わった大森久雄氏が、解説の中で曰く、「いきなり手前味噌の言い方で恐縮だが、この種の内容の本は、山の世界では初めてかもしれない。山の文章のアンソロジーはいろいろ刊行されているが、いずれも山の文人、というか、実際に活発に山登りをしているひとの書いた文章が主体で、いわゆる作家(小説家・評論家・劇作家・詩人・歌人・俳人など)の山のエッセーだけを集めるという試みのものは、地域を限ってのものを除けば見当たらない。

なるほど、そういうコンセプトか、と思いました。

ただ、「この種の内容の本は、山の世界では初めてかもしれない。」というところに違和感を覚え、書架から一冊の書籍を取り出しました。

同じ山と渓谷社さんから、昭和18年(1943)に刊行されたアンソロジー『岳(たけ)』。やはり光太郎作品(短歌12首)が掲載されているので、20年ほど前に購入したものです。

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これも同じようなコンセプトだったよな、と思いながら、久しぶりに開いてみました。すると、確かに光太郎ら文人の作品が多く採録されていますが、それと同程度に各方面の学者が書いたものが多く、また、バリバリの登山家の作品も含まれていました。また、美術家や造園家のものも。下記画像、クリックで拡大します。

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そういう意味では、「いわゆる作家(小説家・評論家・劇作家・詩人・歌人・俳人など)の山のエッセーだけを集めるという試みのもの」ではなかったかと、納得しました。それにしても、こちらの執筆陣も錚々たるメンバーです。

時折古書市場に出ています。併せてお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

為して争はぬ事の出来る世は来ないか ああそれは遠い未来の文化の世だらう 人の世の波瀾は乗り切るのみだ 黄河の水もまだ幾度か干戈の影を映すがいい
詩「老耼、道を行く」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

「老耼」は春秋戦国時代の思想家・老子です。この詩は老子の独白スタイルで書かれています。「人の世の波瀾」、「干戈の影」、いずれも日中戦争を意識していることは言わずもがなです。

登山家の田部井淳子さんが、亡くなりました。  

田部井淳子さん死去=77歳―エベレスト女性初登頂

010 1975年に女性で初めて世界最高峰エベレスト(8848メートル)に登頂した登山家の田部井淳子(たべい・じゅんこ)さんが20日午前10時、腹膜がんのため埼玉県川越市の病院で死去した。77歳だった。福島県出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は夫、政伸(まさのぶ)さん。

 昭和女子大を卒業後、社会人の山岳会で本格的に登山を始め、69年に女子登攀(とうはん)クラブを設立。70年にアンナプルナIII峰(7555メートル)に日本女性として初めて登頂。75年、日本女子登山隊の副隊長としてエベレストに挑み、女性で世界初の登頂者となった。

 81年にも女性として初めてシシャパンマ(8027メートル)の登頂に成功。また、85年キリマンジャロ(タンザニア)、87年アコンカグア(アルゼンチン)、88年マッキンリー(米国)、91年ビンソンマシフ(南極)と各大陸の最高峰の頂上を次々と踏み、92年のカルステンツ・ピラミッド(インドネシア)、エルブルース(ロシア)登頂によって女性で世界初の7大陸最高峰登頂者となった。

 エベレストのごみ問題をテーマに研究を進め、2000年に九州大大学院の修士課程を修了。山岳環境保護の活動に取り組み、07年には環境保全功労者として環境大臣賞を受賞した。

(時事通信 2016/10/22)


田部井さんは、智恵子の故郷・二本松に近い三春町のご出身。智恵子が愛した「ほんとの空」のある安達太良山とも縁の深い方でした。

平成27年(2015)2月、NHK BSプレミアムさんで放映された「にっぽん百名山 安達太良山」にご出演。登山家・田部井さんの原点の一つが安達太良山にあったことを語られました。

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三春小学校6年生の時に安達太良山に初めて登り、沼の平などの不思議な景観に心打たれ、「もっといろいろな景色を見てみたい」と思ったそうです。

同番組では、光太郎智恵子についても取り上げて下さいました。

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何度か再放送されましたが、田部井さんの追悼的にまた放映されることを希望します。

さらに、今後放映されるであろう田部井さんの追悼特集的な番組でも、ぜひ安達太良山にからめた内容にしていただきたいものです。

時代や分野は違えど、同じ福島中通り出身の先駆的な女性として、田部井さんと智恵子には共通項が有るように思われます。

また、東日本大震災後、田部井さんは「厳しい状況にいる高校生たちに、一歩一歩進めば、いつかは頂点に着くと実感してもらいたい」と、被災した東北の高校生と一緒に富士山に登る活動に取り組んできたそうです。今年も93名の高校生と共に富士山へ行かれたとのこと。病をおされての行動力、頭が下がります。

その田部井さん、そして智恵子が愛した安達太良山、紅葉のピークのようです。 

安達太良山、まるで『紅葉のじゅうたん』 色鮮やか山並み絶景

009 二本松市の安達太良山(1700メートル)の紅葉が見頃を迎え、秋晴れの14日は大勢の登山客や観光客が「紅葉のじゅうたん」を楽しんでいた。
 登山道からは赤や黄など色づいた木々などを間近に見ることができ、青空と鮮やかな彩りの山並みは絶景。同市の奥岳登山口から乗るロープウェイの山頂駅近くで、標高1350メートルの薬師岳展望台は大いににぎわっていた。
 ロープウェイを運行する富士急安達太良観光は23日までの土、日曜日に、運行を通常より1時間早めて午前7時30分から始める。
(『福島民友』 2016/10/15)


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々の歌と句・光太郎】

山にゆきて何をしてくる山にゆきてみしみしあるき水のんでくる
 制作年不詳

昭和4年(1929)、改造社刊行の『現代日本文学全集第三十八編 現代短歌集 現代俳句集』に載った作品ですが、いつの作品か不詳です。

光太郎もまた、山を愛した詩人でした。ただし、本格的な登山ではなく、奥地の低山を闊歩する、今でいうトレッキングを好んでいました。

一昨日のことです。

昨日ご紹介した篠田桃紅さんの書籍を買いに、新刊書店に行きました。すると、毎年この時期に行われている、夏の文庫本フェア的な特設コーナーが目に付きました。「新潮文庫の100冊」、集英社文庫「ナツイチ」、「発見!角川文庫」など。

「そういえば、新潮文庫版の『智恵子抄』は、最初の頃は「新潮文庫の100冊」に入ってたんだよな……。」と思い浮かびました。この手のキャンペーンの嚆矢である「新潮文庫の100冊」は昭和51年(1976)に始まり、永らく『智恵子抄』がラインナップに入っていました。しかし、いつの間にか選から外れてしまっており、非常に残念です。復活を期待します。

また、集英社文庫さんには林静一氏の装幀による『レモン哀歌 高村光太郎詩集』、角川文庫さんには『校本 智恵子抄』があり、この辺も入れてほしいものです。

そんなことを考えながら、並んだ文庫本を見ていて、ふと、目にとまったのがこちら。

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深田久弥の名著『日本百名山』です。「あ、これも「新潮文庫の100冊」に入ったんだ。」と思いながら手に取りました。

調べてみると、一昨年くらいからラインナップに組み込まれていました(ついでに調べてみると、『智恵子抄』が入っていたのは平成21年(2009)まででした)。中高年の登山ブームを意識しての選定でしょうか。

初刊は昭和39年(1964)。以来、「なぜこの山が選ばれていないんだ」とかいった批判や、他の個人や団体の選定した「百名山」なども乱立する中、深田久弥選定の「百名山」が、確固たる地位を得ているように思われます。

やはり中高年の登山ブームを背景にしていると思われますが、「百名山」を冠したテレビ番組もいろいろと制作されており、このブログでもご紹介してきました。

TV放映情報。  絶景百名山 「秋から冬へ 上高地・徳本峠」。  にっぽん百名山「安達太良山」。  にっぽん百名山「安達太良山」/歴史秘話ヒストリア。


光太郎智恵子が大正2年(1913)に婚前旅行に行った上高地に近い穂高岳、智恵子の故郷・二本松にそびえる安達太良山が「百名山」に選定されている関係です。


さて、新潮文庫の『日本百名山』。安達太良山の項で、光太郎智恵子に触れています。一部分を抜粋します。

二本松から眺めた安達太良山、それを歌った高村光太郎の詩が、この山の名を不朽にした。この詩人と絶対愛に結ばれた妻の智恵子は、二本松の作り酒屋に生れた。彼女は東京にいると病気になり、故郷の実家に帰ると健康を回復するのが常であった。その妻のあどけない言葉を、詩人はうたった。

  智恵子は東京に空が無いといふ、
  ほんとの空が見たいといふ。

(略)

 そしてこの詩人夫妻が二本松の裏山の崖に腰をおろして、パノラマのような見晴らしを眺めた時の絶唱「樹下の二人」の一部に、

  あれが阿多多羅山、
  あの光るのが阿武隈(あぶくま)川。

 この詩と同様「ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡」っている秋の末、私もその丘へ上ってみた。

その後、実際に深田は安達太良山に登っていきます。

この他にも、『日本百名山』には、光太郎が詩に詠んだり、実際に登ったりした山がいくつか含まれています。岩手山、早池峰、磐梯山、赤城山、富士山、そして北アルプスの山々。そういうことを考えて手にとっていたら、結局、この本もレジに持って行ってしまいました(笑)。

ところで、『高村光太郎全集』には、深田の名が1回だけですが、出てきます。昭和21年(1946)3月、養徳社という出版社で編集にあたっていた喜田聿衛に宛てた書簡の一節です。

おてがミ及小包忝く拝受、深田さんの「津軽の野づら」にはリーチなど出て来るらしいのでよむのがたのしみに思へます。

『津軽の野づら』は昭和4年(1929)に深田の名で発表された小説です。初刊は同10年(1935)で、のちに養徳社から再刊されています。喜田はこの他にも亀井勝一郎の『大和古寺巡礼』などの自社刊行物を光太郎に贈呈しています。

さて、「津軽の野づら」、実際にはのちに深田と結婚する北畠八穂の作。八穂は青森出身。標準語で文章を書くことに難があったそうで、いわば深田との合作です。他にもそうした作品があり、深田と八穂が離婚したことにより、問題がややこしくなって、深田はいったん文壇から消えざるを得なくなります。その深田が復権したのは、『日本百名山』の執筆においてでした。

そのあたり、平成19年(2007)に朝日新聞社から刊行された『愛の旅人Ⅱ』という書籍に記述があります。

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この書籍には当会顧問・北川太一先生もご登場の「『智恵子抄』 高村光太郎と智恵子」も載っており、非常にいい本ですが、残念ながら絶版です。ただしamazonさんなどでは入手可能です。また、元は『朝日新聞』さんの土曜版の連載なので、記事としてはネット上に残っています。深田に関してはこちら。光太郎智恵子はこちら

というわけで、『日本百名山』、『愛の旅人Ⅱ』、ぜひお買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月17日

平成13年(2001)の今日、東京オペラシティリサイタルホールで国際芸術連盟主催のコンサート「語りと音楽の世界」が開催されました。

岡野富士夫作曲、竹内知子語り、磯野鉄雄のギターで「組詩 智恵子抄 ~ギターと朗読のための~」がプログラムに入っていました。

ライヴ録音のCDがリリースされています。

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過日ご紹介しました登山系雑誌の『岳人(がくじん)』さんの最新号、2015年3月号が、昨日、発売になりました。

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表紙は畦地梅太郎の版画。いいですね。

特集記事として、「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」が、30ページほどで組まれています。

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そのうち、8ページが「高村光太郎と智恵子の上高地」。光太郎詩文と拙稿です。

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上高地は、大正2年(1913)の夏、光太郎智恵子が一ヶ月ほどを共に過ごし、ここで結婚の約束を結んだ場所です。その辺りの経緯と、のちに智恵子が心を病んでしまってから、光太郎がその当時を回想して書いた詩文などに触れてみました。

編集部からは、引用部分を除き2,000字程度という指定で、先日の「歴史秘話ヒストリア」ではありませんが、短い尺の中に収めるのに苦労しました(笑)。もっと書きたいことがたくさんあったのですが、その中の一部は他の方の記事に書かれていましたので、安心しました。

他に尾崎喜八や竹内てるよ、草野心平に北原白秋といった、光太郎と縁の深かった詩人も取り上げられ、また、現代の山岳詩人・正津勉氏の玉稿もあり、非常に読みごたえのある特集です。

大規模書店なら店頭に並んでいますし、アウトドア用品メーカーのモンベルさんのショップにも並びます。また、版元やAmazonなどのネット通販でも入手可能です。定価は680円+税。ぜひお買い求め下さい!


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月15日

昭和54年(1979)の今日、書道雑誌『墨美』288号で、光太郎の特集「高村光太郎遺愛 黄山谷 子瞻帖(しせんじょう)」が組まれました。

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黄山谷は、中国北宋の進士、黄庭堅(こうていけん)の号。草書をよくし、宋の四大家の一人に数えられています。
 
光太郎は山谷の書を好み、最晩年には中野のアトリエの壁に黄山谷の書、「伏波神祠詩巻」の複製を貼り付け、毎日眺めていました。

「子瞻帖」は、黄山谷が師である蘇東坡の略歴を詩文にしたものです。光雲がその拓本を入手、光太郎がそれに惚れ込み、大切にしていたという品です。光太郎から書家の西山秋崖の手に渡りました。そうした経緯にも触れられています。

まずは新刊紹介です。

YAMAKEI CREATIVE SELECTION Frontier Books 山小町 -恋-

やぎた 晴著   山と渓谷社刊   発売日:2014年12月19日   定価 1,900円+税

版元サイトより

雄大な山に抱かれて成長するひとりの女性の姿を描く山岳小説。

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京都在住の保母にして山ガール・佳子と、安曇野出身で現在は東京でサラリーマン生活を始めた春生。ともに思い立って単独行に入った北アルプスで出会い、恋に落ちるというストーリーです。

台風の接近に伴う暴風雨に見舞われ、ハラハラドキドキの展開になります。このあたり、「タイタニック」を髣髴とさせますが、貴族の娘とプータロー、大惨事といったケレン味はなく、あくまで現実にありそうな話です。

また、明記されてはいませんが、昭和40年代が舞台のようで、レトロ感もあふれています。「歌声喫茶」「ラッパズボン」「おさげ髪」etc。

上高地も舞台の一つとなります。そこで、大正2年(1913)、光太郎智恵子が婚前旅行で上高地に1ヶ月程をともにしたことに、少しだけ触れられています。

ところで驚いたのは、オンデマンド出版であること。デジタル版と紙媒体があり、紙媒体の方は注文を受けてから製本、発送するというシステムになっています。楽譜などは以前からそういう形態で販売されていますが、通常の書籍もこうなってきたか、という感じです。

ところで「上高地」ということでもう1件。005

『山小町―恋―』版元の山と渓谷社刊行の雑誌『山と渓谷』と並ぶ有名な山岳雑誌に『岳人』があります。来月発行の3月号で、「言葉の山旅 山を詠う―上高地・北アルプス編―」という特集が組まれます。

今月号に載った次号予告には、「山を想えば人恋し、人を想えば山を恋し」。山々は時代を問わず人の心をひきつけてやまない。山を詠い、人を詠い、自らの心を詠う。詩人たちが綴る言葉の世界に導かれ、山へ思いを馳せてみませんか。」とあります。

この中で、光太郎智恵子も扱われます。実は、岩手花巻の㈶ 高村光太郎記念会さんを通じ、当方に執筆依頼がありました。光太郎詩文と拙稿とで8ページ程になります。

光太郎智恵子以外には、若山牧水を取り上げるそうです。

発売は2月14日。大きな書店なら店頭に並びますし、アウトドア用品メーカーのモンベルのショップにも並びます。また、ネット通販でも入手可能。ぜひお買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月29日

大正5年(1916)の今日、美術評論家の坂井犀水の慰労会に出席、彫刻「ラスキン胸像」を贈りました。

下記は当時の『読売新聞』です。

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「ラスキン胸像」は、ニューヨークで光太郎が師事したガットソン・ボーグラムの模刻です。

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芸術の秋、文化の秋、ということで、このところ光太郎に関連するイベントが盛りだくさんです。このブログ、それらの紹介と、足を運んでのレポートで、かなりネタを稼がせていただきました。今月に限っても、まだ三つ四つ、把握しているイベントがあるのですが、一旦そちらから離れます。
 
予定では今日から4回、新刊書籍をご紹介します。イベントの記事と比べると、速報性の意味であまり重要でないかなと思い、後回しにしていましたが、いつまでも紹介しないと「新刊」と言えなくなりますし、「こういう本が出ているのに気づいていないのか」と思われるのも癪ですので。

山に遊ぶ 山を思う

正津勉著  2014/9/30 茗渓堂  定価 1,800円+税
 
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著者の正津氏は詩人。山岳愛好家でもあります。その正津氏がこの十年ほどの間に歩いた全国の山々の紀行です。基本、白山書房刊行の雑誌『山の本』に「山の声」の題で連載されていたものに加筆訂正を加えたものだそうです。
 
単なる山岳紀行ではなく、それぞれの山と縁の深い文学者のエピソード、作品を紹介しながらというスタイルです。
 
さて、光太郎。
 
第12章の「詩人逍遥 赤城山――萩原朔太郎・高村光太郎」で扱われています。
 
光太郎は赤城山を非常に愛し、生涯に何度も訪れています。明治37年(1904)には、5月から6月にかけてと、7月から8月にかけての2回、計40日ほどを赤城に過ごしており、あとから合流した与謝野鉄幹ら新詩社同人のガイド役も買って出ています。また、昭和4年(1929)にも、草野心平らを引き連れて登っています。この時同行した詩人の岡本潤の回想に拠れば、光太郎は下駄履きで登っていったとのこと。ちなみに前橋駅で落ち合った朔太郎は登らなかったそうです。
 
こうしたエピソードや、赤城山に関わる光太郎の短歌などが紹介されています。
 
他にも宮澤賢治、更科源蔵、川路柳虹、竹内てるよ、大町桂月、尾崎喜八、風間光作、真壁仁といった、光太郎と縁の深い文学者のエピソードが盛りだくさんです。
 
先頃、『日刊ゲンダイ』さんに書評が載りました。
 
 北は北海道の離島に位置する利尻山から、南は薩摩半島の南端の開聞岳まで、日本全国30カ所の山々を歩いた詩人による山岳紀行。スポーツとしての登山ではなく、都会の喧騒から離れることで俗世間の煩わしさを忘れ、自然の中で心を豊かに遊ばせる山行きの楽しさを感じさせてくれる。
  特筆すべきなのは、それぞれの山にちなんだ詩歌や言葉など、先人の文学をあらかじめ下調べした上で山に向かっている点。たとえば、津軽富士と呼ばれる岩木山の章では、太宰治の「津軽」や河東碧梧桐の「三千里」、今官一の「岩木山」などの一節が紹介されているほか、地元詩人の方言詩などにも触れていく。
  群馬県の赤城山の章では、萩原朔太郎の「月に吠える」「蝶を夢む」「青猫」や、高村光太郎の「明星」、さらに草野心平や金子光晴の名も登場。自らの山行きを悠久の時を超えた先人の言葉と重ね合わせながら、より深く楽しんでいる姿が何とも味わい深い。

 
「高村光太郎の「明星」」には「おいおい!」と思いましたが、よく書けています。
 
ちなみに著者の正津氏には、他にも光太郎にふれたご著書がありますので、紹介しておきます。

人はなぜ山を詠うのか001

平成16年 アーツアンドクラフツ 定価2,000円+税  版元サイトはこちら
 
こちらも山と文学者の関わりについて述べたもの。第一章が「私は山だ……高村光太郎」。こちらでは上高地、安達太良山、磐梯山、そして花巻郊外太田村の山口山といった、光太郎が足を運んだり、作品でふれたりした山を追っています。

小説尾形亀之助 窮死詩人伝

平成19年(2007) 河出書房新社 定価2,200円+税   000版元サイトはこちら
 
光太郎と交流のあったマイナー詩人・尾形亀之助の評伝です。光太郎も登場します。帯には光太郎の亀之助評も。

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合わせてお読み下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月16日
 
昭和20年(1945)の今日、光太郎の住む花巻郊外太田村の山小屋を、編集者の鎌田敬止が訪れました。
 
鎌田は岩波書店を振り出しに、北原白秋の弟・鉄雄が経営していたアルス、平凡社など、光太郎とも縁のある出版社を渡り歩き、昭和14年(1939)には八雲書林を創立しました。八雲書林は、戦時中に他の出版社と統合して青磁社となり、この時は青磁社の所属でした。さらに同24年(1949)頃に白玉書房を設立。休業中の龍星閣に代わって、『智恵子抄』を復刊しました。

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