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俳優・高島忠夫さんの訃報が出ました。今朝の『朝日新聞』さんから。

高島忠夫さん死去 俳優・司会、幅広く 88歳 

 映画にミュージカル、テレビ番組の司会と幅広く活躍した俳優の高島忠夫(たかしま・ただお、本名高嶋忠夫〈たかしま・ただお〉)さんが26日、老衰で死去した。88歳だった。明るいキャラクターでお茶の間に親しまれ、その一家は円満な家族の代名詞だった。
 神戸市生まれ。大学時代に新東宝映画第1期ニューフェースとして映画界に入り、1952年「恋の応援団長」でデビュー。映画「坊ちゃん」シリーズなどの青春コメディー路線で人気を博した。63年には、日本初のブロードウェー・ミュージカル「マイ・フェア・レディ」(東宝、菊田一夫演出)の主役を演じた。
 70年代以降は、テレビを中心に活動。「クイズ・ドレミファドン」の司会や、夫婦で25年以上出演した料理番組「ごちそうさま」、「ゴールデン洋画劇場」の映画解説などに出演。「イェーイ」の決めぜりふと明るい人柄で親しまれた。
 60年に映画で初共演した俳優の宝田明さん(85)は「テレビの人気者になっても、年下の人に優しく、天性の包容力があった。戦友だと思っていた」と語った。
 私生活では、63年に宝塚の男役スターだった寿美花代さんと結婚。64年には、長男道夫ちゃんがお手伝いの少女に殺害された事件に見舞われた。98年には、うつ病と診断され、闘病生活を経験した。
 俳優高嶋政宏、高嶋政伸兄弟の父でも知られ、寿美さんとは「芸能界一のおしどり夫婦」と呼ばれるほどの仲。「高島ファミリー」としてその私生活は逐一話題になった。
 政宏さんは「母曰(いわ)く最後は眠るように旅立っていった、のがせめてもの救いです」。政伸さんは「最後まで明るく良く通る声で笑ったり、話したりしながら、本当に穏やかに旅立ちました」とのコメントを出した。
 所属事務所によると、27日に家族のみで密葬を行った。お別れの会などの予定はない。

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高島さん、昭和43年(1968)には、梅田コマ・スタジアムで上演された北條秀治脚本の舞台「名作劇場第二作 智恵子抄」で、光太郎役を演じられました。智恵子役は藤純子(現・富司純子)さんでした。

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010この戯曲、元々は光太郎存命中に書かれ(北條は戦時中から光太郎と面識がありました)、光太郎が没した昭和31年(1956)、雑誌『婦人公論』の光太郎追悼特集に掲載されました。

そして光太郎存命中から内諾を得ていた故・初代水谷八重子さんが智恵子役、故・大矢市次郎さんが光太郎役で、その年の11月に東京明治座で初演。この時は同じ北條作の「太夫(こったい)さん」という芝居との二本立てで、それぞれ2時間足らずという制限がありました。

それが高島さんの出演なさった昭和43年(1968)の公演は、「智恵子抄」単独の上演ということで、約2倍に膨らませたそうです。元々は無かった上高地のシーンなどが追加されています。

その後、昭和46年(1971)には初代水谷さんによる再演(光太郎役は故・森雅之さん=光太郎と交流のあった有島武郎の長男)、昭和51年(1976)には有馬稲子さん故・高橋昌也さんがそれぞれ演じられました。その都度、上演時間等の制約のため、長かったり短かったりの改訂が為されていたようです。当方、すべて同じシナリオだと思いこんでいましたが、改めて調べてみてそうではなかったと分かりました。

高島さんの光太郎役、ぜひ見てみたかったと思いました。謹んでご冥福をお祈りいたします。


【折々のことば・光太郎】

斯ういふ問題で仮定を前提とした質問に逢ふといつも困ります。一般論としては職業を持つ事に男子女子の別を考へません。家庭生活を中心として考へると、其時其場其人の三個の必然に出会はなければ賛否を考慮する根拠が私には持てないのです。理論は考へられますが。

アンケート 「あなたの夫人、令嬢、令妹などが職業を持つことを
お望みになりましたら」全文 大正14年(1925) 光太郎42歳

いわゆる「職業婦人」という言葉が使われるようになった頃のアンケート回答です。人によって事情が違うのだからと、安易に賛成とも反対とも断言しない光太郎の姿勢には好感が持てます。

俳優の加藤剛さんの訃報が出ました。 

加藤剛さん死去 「砂の器」「大岡越前」 80歳

 映画「砂の器」やテレビ時代劇「大岡越前」で知られた俳優の加藤剛(かとう・ごう、本名・剛=たけし)さんが6月18日、胆嚢(たんのう)がんで死去したことが9日わかった。80歳だった。所属する俳優座が発表した。葬儀は家族で営んだ。お別れの会を9月22日、東京都港区六本木4の9の2の俳優座劇場で予定している。
 1961年、早稲田大学文学部(演劇)卒業。俳優座の養成所を経て64年、入団。デビューは62年のテレビドラマ「人間の条件」だった。代表作は70年から99年まで続いた「大岡越前」(TBS)。犯罪に厳しく、人間に温かい名奉行ぶりで人気を博した。NHK大河ドラマでは「風と雲と虹と」(76年)、「獅子の時代」(80年)で2度主演した。
 松本清張原作の映画「砂の器」(74年)では、冷徹さの裏に苦悩を隠し持つ天才音楽家を演じ、映画をヒットに導いた。平和問題への関心が高く、木下恵介監督の「この子を残して」(83年)では、放射線医学の研究者で自らも長崎で原爆に被爆した永井隆博士を誠実に力演した。
 俳優座を代表する俳優の一人として舞台に立ち続けた。80年代から上演された「わが愛」3部作に主演。95年には強制収容所のガス室に消えたポーランド人医師を描いた「コルチャック先生」に、99年には「伊能忠敬物語」に主演した。
 紀伊国屋演劇賞(79、92年)、芸術選奨文部大臣賞(92年)など受賞多数。08年に旭日小綬章を受けた。
 映画「忍ぶ川」などで共演した栗原小巻さんは「悲報に接し、めまいがいたしました。彼はとても知性的で、懸命で、高潔な人でした。人柄も画面や舞台の中の彼そのままでした」と話した。
 俳優座養成所でともに学んだ長山藍子さんは「温かいユーモアもありました。論理だけではなく情の厚さも加わる、あの『大岡裁き』。剛ちゃんだからこそ演じることができたのだと思います」と話した。

『朝日新聞』2018/07/10


加藤さんによる「智恵子抄」の朗読が、2種類、ソフト化されています。

まずは昭和42年(1967)、日本ビクターさんのフィリップスレーベルからリリースされたLPレコード。

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28編の詩が収められています。まだ20代の加藤さんの若々しい声が、印象的です。

ジャケットの内側に、加藤さんの言葉、「僕もまた大風のごとく」。

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 「智恵子抄」の朗読者として僕を、というお話のあったとき、正直のところひどく迷いを感じた。そして考える日数をいただいた。清冽な愛のかたちを思うとき、恐らく日本人の誰もが脳裏に浮かべるだろう、それは美しい詩集である。編まれて以来どれほどの数の人の胸の中に暖かくしみとおり唇の上で愛されてきた作品かを考えると、若い僕などの力の及ぶ範囲は自ずと知れていよう。
 ましてやこの作品の高さに相応しい、磨かれた朗読術――方法論を身につけられた諸先輩が数多くいられるではないか、と僕は心を決しかねた。
 そんな夜半、濃い珈琲を道づれに作品集のページを繰りながら、僕は高村光太郎先生のこんな言葉にふと捉えられた。
 「ともかく私は今いわゆる刀刃上をゆく者の境地にいて、自分だけの詩を体当り的に書いていますが、その方式については全く暗中模索という外ありません。いつになったらはっきりした所謂詩学が持てるか、そしてそれを原則的な意味で人に語り得るか、正直のところ分りません」
 この「自分だけのための体当り的詩」が僕にもうたえぬものか。「智恵子抄」の世界が、生活者としての詩人の心の内を小止みもなく衝きあげるみずみずしい言葉にこんなにもあふれている以上、「所謂詩学」などは無縁なのかも知れない。「方式」などは二の次かもしれない。生命によせる素直な讃美や感動、人を愛する激しく豊かな心のうねり、それらに唯ぴったりと己を重ね合せようとするところに、意外にも僕の出発点はありはすまいか。それが「朗読」と呼べるかどうかはわからない。事実今の僕にとって「方式」は明確ではないのだ。
 僕は多分「詩人高村光太郎」の役を与えられた俳優の発想で「智恵子抄」に立ち向かおうとしているのだと思う。なんとも盲蛇式の図々しい発想ではあるけれども。
 その夜半、僕は冷えた珈琲を啜って再度、智恵子のイメージを追慕した。
 「わがこころはいま大風の如く君にむかへり」。学生時代から何となく暗誦んじていた「郊外の人に」の最初の一節が、不思議に新しい響きを持って心を占めた。僕もまた、今はただひたすら大風のごとく、この仕事に挑むほかはない。

何とも誠実なお人柄が偲ばれる文章です。

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画像はレコーディング風景。左はレコードの監修者で、映画監督の故・若杉光夫氏です。

ちなみにこのレコードは、昭和51年(1976)、フォンタナ・レコードさんから覆刻されました。

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2回目は、昭和62年(1987)。新潮社さんでシリーズ化していた「新潮カセットブック」の一つとしてでした。タイトルは「『智恵子抄』より」。

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詩が29篇、それから「智恵子抄」に収められた「巻末の短歌」6首。

こちらはジャケットに加藤さんの言葉はありませんが、翌年発行の雑誌『彷書月刊』(ちなみに題字揮毫は当会顧問・北川太一先生です)第4巻第10号、「特集 高村智恵子」に掲載された、加藤さんの「無辺際を飛ぶ天の金属」という文章で、前述のレコード、そしてこのカセットブックに触れられています。

 「高村智恵子様。不躾ないい方を許002して下さい。もし、詩
人・彫刻家高村光太郎の役が僕に与えられたのだったら――、そんな発想がある日きらりと全身をつらぬきました。ここからすべての風が起こり、すべてが燃えひろがりました。僕の『智恵子抄』はこのときにはじまったのです。」(エッセイ集『海と薔薇と猫と』)
 と、私はそのとき、正直に記している。私の朗読で「智恵子抄」がレコード化された二十年前であった。この類まれな詩篇の美しさ、高さに、はたして己れが相応しいか、と迷い続けた録音前数ヵ月。けれど、「もう人間であることをやめ」て、「見えないものを見、聞えないものを聞」く、「元素智恵子」は、いつのまにか、あたかも明晰な自然のように無理なく「光太郎」としての私のかたわらにいたのだった。
 「智恵子様。何十年かのち、僕が老優になったときもう一度、この作品を朗読する光栄をお与え下さいますよう」、と私が心の中で結んだ手紙に、「智恵子」からの「返事」が届いたのは二十年後で、この光栄な機会は、あやうく老優になる前に再び訪れた。今回はカセットブックである。「智恵子」が私の「光太郎」を許容してくれたのか、と私は嬉しい。「智恵子」は私にとっても永遠に「無辺際を飛ぶ天の金属」である。


こちらのカセットブックは、同じ新潮社さんからCD化され、現在も販売中です。


そして、平成23年(2011)には、『朝日新聞』さんの福島版で連載された「「ほんとの空」を探して」の第二回にご登場。やはり「智恵子抄」朗読について語られています。

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末尾近くの「国家ではなく、一人ひとりの人間が権威を持つ。光太郎先生と智恵子さんの自由への思いは、我々に力を与えてくれる」というお言葉、その通りですね。


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

土門拳は不気味である。土門拳のレンズは人や物を底まであばく。レンズの非情性と、土門拳そのもののの激情性とが、実によく同盟して被写体を襲撃する。この無機性の眼と有機性の眼との結合の強さに何だか異常なものを感ずる。

散文「土門拳写真集「風貌」推薦文」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

光太郎もそのレンズの餌食となった、写真家・土門拳の写真集に寄せた一文から。

朗読レコードにしてもそうですが、まだデジタル技術が開発されていなかったとはいえ、「真」を「写」す技術、それが芸術へと昇華していくことに、光太郎も新時代の到来を感じていたようです。

俳優の平幹二朗さんが亡くなりました。昨日、登山家の田部井淳子さんの訃報をお伝えし、2日続けての訃報、非常に心が痛みます。 

平幹二朗さん死去、82歳=シェークスピア劇で活躍

009 シェークスピア劇やNHK大河ドラマ「樅ノ木は残った」「国盗り物語」の主演で知られ、舞台からドラマまで幅広く活躍した俳優の平幹二朗(ひら・みきじろう)さんが23日死去した。

 82歳だった。広島市出身。俳優の平岳大(ひら・たけひろ)さんは長男。

 平さんは、東京都世田谷区の自宅の風呂場で倒れているところを発見され、その後死亡が確認された。

 俳優座を経てテレビドラマ「三匹の侍」で注目を集めた後、浅利慶太さん演出の劇団四季「ハムレット」の主役で舞台俳優としての地歩を確立。「NINAGAWAマクベス」や「王女メディア」など、長年にわたって故蜷川幸雄さんの作品に出演した。悲劇の主人公を格調高く演じ、シェークスピア作品を得意とし、自ら演出も手掛けた。

 ドラマはNHK大河など時代劇に多数出演した他、現代劇でも存在感を見せた。近年もほぼ毎年出演作があり、放送中のフジテレビ系のドラマ「カインとアベル」にも出演していた。

 舞台でも衰えを見せず、昨年の「王女メディア」に続き、今年は9月から10月上旬まで「クレシダ」に出演、年明けの舞台も予定していた。

 「天城越え」「GOEMON」など映画にも多数出演した。1998年紫綬褒章、2005年旭日小綬章。

(時事通信 10月23日(日)23時54分)


平さんは、昭和42年(1967)、松竹映画「智恵子抄」(中村登監督、主演・岩下志麻さん、丹波哲郎さん)にご出演。光太郎の親友、石井柏亭の役でした。

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映画冒頭近く、隅田川沿いの西洋料理屋で開催された「パンの会」の狂騒のシーン、後半の、智恵子の心の病が顕在化した後、光太郎と二人、酒場で語り合うシーンに登場されました。

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平成12年(2000)には、津村節子さんの小説を原作とした舞台「智恵子飛ぶ」で、ズバリ光太郎役を演じられました。

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それにしても、訃報を読んで、82歳というのには驚きました。非常に若々しいイメージでしたので……。

ちなみに、ご子息でやはり俳優の平岳大さんは、フラメンコにも取り組まれており、「智恵子抄」も取り上げて下さっています。あまり大々的に宣伝していないようなので、このブログではご紹介していませんが。

何はともあれ、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々の歌と句・光太郎】

ニホンゴ ハヨサノアキコノネツプ ウニイキテウゴ キテトビ テチリニキ 〔晶子会のため〕                       
昭和26年(1951) 光太郎69歳

訃報の紹介が続きましたので、挽歌的な作を一つ。ただし、亡くなってすぐではなく、10周忌の会に際して電報で寄せた作です。

のち、雑誌『スバル』に漢字仮名交じりで掲載されました。

日本語は与謝野晶子の熱風に生きて動きて飛びて散りにき

俳優のすまけいさんの訃報が出ました。 

「アングラの帝王」俳優すまけいさん死去 78歳

1960年代にベケット劇などを斬新な翻案・演出で演じて「アングラの帝王」と呼ばれ、映画「男はつらいよ」シリーズやドラマなどでも名脇役として活躍した俳優のすまけい(本名・須磨啓〈すま・けい〉)さんが7日、肝臓がんのため死去した。78歳だった。通夜は12日午後6時、葬儀は13日午前11時から東京都新宿区上落合3の4の12の最勝寺で。喪主は妻洋子さん。
 
 国後島生まれ。芸術劇場を経て66年、新宿のジャズ喫茶などを拠点に俳優の故・太田豊治さんと「すまけいとその仲間」を結成。東京の小劇場でベケット「ゴドーを待ちながら」、オールビー「動物園物語」などを翻案した舞台を上演し、話題を集めた。72年に解散後は一時舞台から遠ざかったが、85年にこまつ座「日本人のへそ」で復帰。映画やドラマにも多数出演した。
 
 99年に膀胱(ぼうこう)がん、01年脳梗塞(こうそく)を発症。闘病しつつ俳優活動を続け、今年3月に千葉市で演じた朗読「天切り松 闇がたり」が最後になった。紀伊国屋演劇賞個人賞、ブルーリボン賞助演男優賞などを受賞した。
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すまさんといえば、平成6年(1994)に、テレビ東京系で放映された単発ドラマ「日本名作ドラマ 智恵子抄」で、光雲役でご出演されました。
 
こうしたドラマ・映画などでの光雲の描き方は、木彫界の巨匠として、また、光太郎にとっては非常に厳格な父親として描かれるのがほとんどで、重厚な雰囲気の俳優さんが多くキャスティングされていました。
 
ところがすまさん演じる光雲は、少し違っていました。いい意味で「軽い」のです。酒に酔って、智恵子役の南果歩さんの唄う「会津磐梯山」に合わせて踊り、泥酔して眠ってしまうシーンが印象的でした。といって、しょうもない人物というわけではなく、世間的には巨匠であっても、息子夫婦を思う気持ちは人一倍という感じで描かれていました。
 
ご冥福をお祈りいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月10日

昭和9年(1934)の今日、光太郎が題字を揮毫した中原中也の第一詩集『山羊の歌』が刊行されました。
 
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小沢昭一さんの訃報が報じられました。また一人、昭和の名優が逝ってしまいました……。
 
小沢さんといえば、俳優としての活動以外にも、歌の方面でも活躍なさいました。
 
当方、小沢さんのCDを1枚持っています。
 
「昭一爺さんの唄う 童謡・唱歌」 平成20年 日本コロムビア 定価2,000円
 
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昔なつかしの童謡、唱歌23曲が収録されており、その中に、光太郎作詞、飯田信夫作曲の「歩くうた」が収められています(もちろん小沢さんの歌で)。この歌が作られたのは昭和15年(1940)、オリジナルのレコードとしては「侍ニツポン」「隣組」なども歌った徳山璉(たまき)によるものなどがビクターから発売され、ヒットしました。
 
また、曲と曲の合間には、小沢さんの語りによるそれぞれの曲の解説など。「歩くうた」に関しては「しつこい歌」とおっしゃっています。たしかに、全部で4番まであり、その中で「あるけ」という単語がなんと48回も出てきます。
 
しつこさに辟易したわけでもないのでしょうが、このCDでは1,2番のみが歌われています。
 
光太郎自身、しつこさに辟易したわけでもないのでしょうが、後に詩集『をぢさんの詩』に収録した際、歌としての3番をカットしています。
 
何はともあれ、小沢さんのご冥福をお祈り申し上げます。

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