元日の『読売新聞』さんの滋賀県版に、以下の記事が載りました。
近江クール考<壱 ミカク>湖国の食 世界へ
初雪が舞ったような、きめ細かいサシが入った近江牛が鉄鍋に触れた瞬間、甘い香りが漂った。東京・浅草の老舗「今半別館」。地元の「あさくさ」などの名が付くすき焼きのコースで最高級に「ながはま」の名を冠し、300近くあるブランド牛で近江牛にこだわり続ける。粋を凝らした閑静な和室で、店主の長美勝久さん(56)が理由を教えてくれた。「繊細な旨(うま)みと口溶けの良さ、豊かな香り。この最高の肉を使って『おいしくない』と言われたら、それはもう、どうしようもないですよ」 1687年、彦根藩で味噌(みそ)漬けにされ、幕府に献上された養生薬「反本丸(へんぽんがん)」に歴史を遡るという近江牛。浅草との縁は明治初期の1880年頃、近江出身の家畜商・竹中久次が牛鍋屋を開業して始まった。これを機に、この地はすき焼き店が立ち並ぶ“聖地”に。詩人・彫刻家の高村光太郎をはじめ文人墨客、角界、銀幕のスターをも魅了してきた。文明開化の扉を開けたのは、近江の人でもあったのだ。
湖国の味覚は皇室でも愛(め)でられてきた。その証しが東近江市の資料館に残る。
「然(しか)るに右『モロコ』は聖上竝(なら)びに皇太后陛下にも御好様故お(このみようゆえ)を以(もっ)て……大正天皇の……御神前に御供の上御召し上り……」
1931年(昭和6年)に書かれたこの手紙の差出人は久邇宮家に仕えていた人物。宛先は県ゆかりの繊維商社「ツカモトコーポレーション」の創業家関係者。手紙には、久邇宮邦彦王妃に届けられた琵琶湖固有種のホンモロコが、昭和天皇と皇后の元に渡り、さらに天皇の母・貞明皇后(皇太后)にも届いていたことが記されている。そして、貞明皇后は大正天皇の神前に供えた後、召し上がった――と。
「皇族方の間で回っていることから、日持ちがする佃(つくだ)煮だと思う」と、手紙を発見した同社資料館「聚心庵(じゅしんあん)」の藤堂泰脩館長(80)。「都が京都にあった頃、御膳に湖魚が上ったこともあるでしょう。ホンモロコは歴代皇族方が親しまれてきた『都の味』。そんな思いで、子孫の方々も食されたのではないでしょうか」
ブランド力アップが課題の県にとって、知名度がある近江牛や湖魚は発信に欠かせない「クールコンテンツ」だ。東京五輪の2020年を見据え、県はブランド戦略の中心に位置付ける。
近江牛で言えば、すでに富裕層が多いシンガポールやタイなど6か国・地域に向け、年間6000頭のうち450頭以上が海を渡っている。今年は07年の「近江牛」商標登録から10年の節目。健康志向が高まる中、悪玉コレステロールを抑制するというオレイン酸の含有量が豊富な点も前面に打ち出し、更なる飛躍を目指す。
「国内だけでなく、外国産の『WAGYU』も台頭し、ライバルは多い」と担当者。「だが」、と力を込める。「近江牛は『サムライ、ショーグンも食べた牛肉』という国内随一の歴史、ストーリー性がある」
県がターゲットにする国には、南米で初めて日本からの牛肉輸出先となるブラジルの名も見える。地球の裏側でも、特別な日は、近江牛のすき焼きに舌鼓を打つ――。そんな日も遠くないかもしれない。
高級和牛として名高い近江牛の歴史、そしてこれからを紹介しています。
光太郎の名が出ましたが、その前に名がある近江出身の家畜商・竹中久次が浅草に開き、現在も続く米久(よねきゅう)さんをこよなく愛し、「米久の晩餐」という長大な詩を書いているからです。
ちなみにその前に紹介されている今半さんの人形町店には、光太郎の詩「ビフテキの皿」(明治44年=1911)の一節が書かれた額が飾られているそうです。光太郎自身の揮毫ではなく現代の書のようですし、この詩の舞台はどこなのかは明確にはなっていませんが。
ビフテキの皿
さても美しいビフテキの皿よ
厚いアントルコオトの肉は舌に重い漿汁(グレエヸイ)につつまれ
ポンム・ド・テルの匂ひは野人の如く率直に
軽くはさまれた赤大根(レデイシユ)の小さな珠は意気なポルカの心もち
冴えたナイフですいと切り、銀のフオオクでぐとさせば
薄桃いろに散る生血
こころの奥の奥の誰かがはしやぎ出す
マドモワゼルの指輪に瓦斯は光り
白いナプキンにボルドオはしみ
夜の圧迫、食堂の空気に満つれば、そことなき玉葱(オニオン)のせせらわらひ
首祭りに受けて飲む血のあたたかさ
皿をたたいて
にくらしい人肉をぢつと嚙みしめるこころよさ
白と赤との諧調に
シユトラウスの毒毒しいクライマツクス
見よ、見よ、皿に盛りたるヨハネの黒血を
銀のフオオクがきらきらと
君の睫毛がきらきらと
どうせ二人は敵同志、泣くが落ちぢやえ
ナイフ、フオオクの並んで載つた
さても美しいビフテキの皿よ
厚いアントルコオトの肉は舌に重い漿汁(グレエヸイ)につつまれ
ポンム・ド・テルの匂ひは野人の如く率直に
軽くはさまれた赤大根(レデイシユ)の小さな珠は意気なポルカの心もち
冴えたナイフですいと切り、銀のフオオクでぐとさせば
薄桃いろに散る生血
こころの奥の奥の誰かがはしやぎ出す
マドモワゼルの指輪に瓦斯は光り
白いナプキンにボルドオはしみ
夜の圧迫、食堂の空気に満つれば、そことなき玉葱(オニオン)のせせらわらひ
首祭りに受けて飲む血のあたたかさ
皿をたたいて
にくらしい人肉をぢつと嚙みしめるこころよさ
白と赤との諧調に
シユトラウスの毒毒しいクライマツクス
見よ、見よ、皿に盛りたるヨハネの黒血を
銀のフオオクがきらきらと
君の睫毛がきらきらと
どうせ二人は敵同志、泣くが落ちぢやえ
ナイフ、フオオクの並んで載つた
さても美しいビフテキの皿よ
その晩年まで肉類を好んだ(岩手太田村から再上京した後も、米久さんに食べに行っています)光太郎の本領発揮というような詩ですね。
ただし、翌年に書かれた「夏の世の食慾」という詩には、「浅草の洋食屋は暴利をむさぼつて/ビフテキの皿に馬肉(ばにく)を盛る」という一節があったりもします。
さて、滋賀の方にも機会があったら調査しに行かなければ、という案件があります。その際には近江牛を堪能しようと思っております。
【折々のことば・光太郎】
汝を生んだのは都会だ 都会が離れられると思ふか 人間は人間の為した事を尊重しろ 自然よりも人工に意味ある事を知れ
詩「声」より 明治44年(1911) 光太郎29歳
昨日も同じ詩「声」から引用いたしました。この詩は自然派と都会派の二人が言い争うという形で書かれたもので、上記は都会派の言い分です。
自然派、都会派、どちらも光太郎の内面に巣くう別個の人格で、この時期の光太郎は二人のせめぎ合いに悩んでいました。
自然派の声に従い、この年、北海道に渡って酪農にいそしむ計画を立て、実際に札幌郊外の月寒まで行ったものの、少しの資本ではどうにもならないことを知り、1ヶ月ほどですごすご帰京。結局は都会派の声に従い、昭和20年(1945)の空襲で焼け出されるまで、東京暮らしを続けます。
その後、宮沢賢治の実家から誘われて花巻に疎開、終戦後も花巻郊外太田村で隠遁生活を送り、最晩年になって帰京しますが、そのあたりはその頃の作品を紹介する中で論じます。