昨日は、都内に出ておりました。当会顧問・北川太一先生を囲む新年会でした。
会場は、東大前のフォーレスト本郷さん。当方、昨年は同じ日に埼玉県東松山市で講演を仰せつかっており、2年ぶりに参加させていただきました。
右上は北川先生のご自筆です。
主催は、「北斗会」さん。北川先生が高校の教員をなさっていた頃の教え子の皆さんです。教え子といっても、戦後すぐの話ですので、皆さんだいぶご高齢。最高齢の方は92歳だそうです。何人かの方は、連翹忌や女川光太郎祭にもいらして下さっています。
北川先生ご自身は、この3月で94歳となられます。
昨年は白内障やヘルニアの手術をなさったそうですが、奥様ともども、お元気でご参会。数年前は車イスが欠かせなかったのに、現在はご自分のおみ足で歩かれています。例年、子息の光彦氏もいらっしゃるのですが、昨日はご都合によりご欠席。代わりにお孫さんの浩平君がお付きの人としてご参加なさいました。
今年、文治堂書店さんから、新刊を刊行されるとのことで(さまざまな雑誌等にご発表なさった旧稿の再編だそうですが)、まだまだお元気でご活躍。
上記は文治堂さんからの年賀状の一節です。
旧稿といえば、昨年末にコールサック社さんから刊行された野澤一詩集『木葉童子詩經』復刻版。別冊で「解説」が付いており、北川先生を含む9名の方々の玉稿が掲載されています。北川先生のものは、平成元年(1889)の雑誌『峨眉』に載った「大竜のおとずれ――野沢一と高村光太郎」。光太郎と野沢との交流の様相がまとめられています。
光太郎を敬愛し、山梨県の四尾連湖畔に独居生活を送り、膨大な量の書簡をほぼ一方的に送り続けた詩人・野沢一の生前唯一の詩集で、元版は昭和9年(1934)。その後、文治堂書店さんから2回覆刻されており、今度が3回目です。今回のものは、限りなく元版に近い形での復刻だそうです。野沢の子息である、俊之氏から献呈ということでいただいてしまいました。恐縮です。
北川先生の新刊に関しては、また詳細が判りましたらご紹介いたします。併せてご購入下さい。
【折々のことば・光太郎】
今でもはつきり思ひ出すが、その時細かな霰が急に白く降つて来て人力車の泥よけにぱちぱちあたつた。「おしるしがやつて来た。」と私の降り性を諷した父のさそくの言葉が一同を少し笑はせた。
散文「遙にも遠い冬」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳
明治39年(1906)の2月、3年半にわたる欧米留学のため、駒込林町の実家を出た時の回想です。
「降り性」とありますが、今で言う雨男。光太郎は本当に何か節目の時には必ずといっていいほど、雨や雪、霰を呼ぶ男でした。有名なところでは、大正3年(1914)の智恵子との結婚披露宴、昭和28年(1953)の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の除幕式、そして亡くなった昭和31年(1956)4月2日は、季節外れの大雪でした。
不思議と光太郎没後もそれが続き、当方、光太郎関連のイベント等でどこかに出かけるたび、ほとんど雨や雪です(笑)。昨日も都内で初雪が降りました。