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昨日は、都内に出ておりました。当会顧問・北川太一先生を囲む新年会でした。

会場は、東大前のフォーレスト本郷さん。当方、昨年は同じ日に埼玉県東松山市で講演を仰せつかっており、2年ぶりに参加させていただきました。

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右上は北川先生のご自筆です。

主催は、「北斗会」さん。北川先生が高校の教員をなさっていた頃の教え子の皆さんです。教え子といっても、戦後すぐの話ですので、皆さんだいぶご高齢。最高齢の方は92歳だそうです。何人かの方は、連翹忌や女川光太郎祭にもいらして下さっています。

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北川先生ご自身は、この3月で94歳となられます。

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昨年は白内障やヘルニアの手術をなさったそうですが、奥様ともども、お元気でご参会。数年前は車イスが欠かせなかったのに、現在はご自分のおみ足で歩かれています。例年、子息の光彦氏もいらっしゃるのですが、昨日はご都合によりご欠席。代わりにお孫さんの浩平君がお付きの人としてご参加なさいました。

今年、文治堂書店さんから、新刊を刊行されるとのことで(さまざまな雑誌等にご発表なさった旧稿の再編だそうですが)、まだまだお元気でご活躍。

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上記は文治堂さんからの年賀状の一節です。

旧稿といえば、昨年末にコールサック社さんから刊行された野澤一詩集『木葉童子詩經』復刻版。別冊で「解説」が付いており、北川先生を含む9名の方々の玉稿が掲載されています。北川先生のものは、平成元年(1889)の雑誌『峨眉』に載った「大竜のおとずれ――野沢一と高村光太郎」。光太郎と野沢との交流の様相がまとめられています。

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光太郎を敬愛し、山梨県の四尾連湖畔に独居生活を送り、膨大な量の書簡をほぼ一方的に送り続けた詩人・野沢一の生前唯一の詩集で、元版は昭和9年(1934)。その後、文治堂書店さんから2回覆刻されており、今度が3回目です。今回のものは、限りなく元版に近い形での復刻だそうです。野沢の子息である、俊之氏から献呈ということでいただいてしまいました。恐縮です。

北川先生の新刊に関しては、また詳細が判りましたらご紹介いたします。併せてご購入下さい。


【折々のことば・光太郎】

今でもはつきり思ひ出すが、その時細かな霰が急に白く降つて来て人力車の泥よけにぱちぱちあたつた。「おしるしがやつて来た。」と私の降り性を諷した父のさそくの言葉が一同を少し笑はせた。

散文「遙にも遠い冬」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

明治39年(1906)の2月、3年半にわたる欧米留学のため、駒込林町の実家を出た時の回想です。

降り性」とありますが、今で言う雨男。光太郎は本当に何か節目の時には必ずといっていいほど、雨や雪、霰を呼ぶ男でした。有名なところでは、大正3年(1914)の智恵子との結婚披露宴、昭和28年(1953)の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の除幕式、そして亡くなった昭和31年(1956)4月2日は、季節外れの大雪でした。

不思議と光太郎没後もそれが続き、当方、光太郎関連のイベント等でどこかに出かけるたび、ほとんど雨や雪です(笑)。昨日も都内で初雪が降りました。

昨日は、例年通りに、昭和9年(1934)、智恵子が療養していた九十九里浜片貝海岸に初日の出を見に行きました。

「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)を刻んだ光太郎詩碑の前に車を駐め、有料道路をくぐって海岸へ。

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お供はこれも例年通りに愛犬。正確な誕生日が不明なため、1月1日を誕生日としており、昨日で15歳になりました。先月、少し体調を崩したのですが、恢復しましたので連れていきました。あと何回、こいつと初日の出が見られるか、と思っています。

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昨年一昨年と、比較的きれいに見えたのですが、今年はちょうど太陽の出るあたりに雲。西高東低の冬型の気圧配置なもので、このあたりの水平線上は雲がかかりやすいのです。

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残念ながら、片貝海岸では見えませんでした。しばらく待っていれば、雲の上、けっこう高い所に出るかと思いましたが、周辺の道路が混むもので、あきらめて撤収。途中、海岸沿いに10キロメートルほど北上したあたりで、雲の上に日が昇りました。再び車を駐めて、撮影。

愛犬の散歩で、毎日のように日の出は見ているのですが、やはり初日の出は格別ですね。今年一年も、光太郎顕彰の世界が盛り上がりますようにと、願をかけました。


ところで、初日の出といえば、昨年12月29日(土)の『日本経済新聞』さんに、「富士山2018 季節の移りかわりを写真で紹介」という記事が出ました。当方、電子版で読んだのですが、電子版だけでなく紙面にも載ったのか、山梨県の記事なので山梨版だったのか、そのあたりが不明ですが、ご紹介します。

昭和17年(1942)、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のため訪れた山梨県南巨摩郡富士川町上高下(かみたかおり)地区が取り上げられています。 

富士山2018 季節の移りかわりを写真で紹介

平成が終わるのを前に甲府支局長がこの1年間、仕事の合間などに山梨県から撮影した富士山を紹介します。あなたの見る初夢は何月の富士山でしょうか。(三浦秀行)

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1月、富士山から昇る初日の出。撮影した富士川町高下(たかおり)地区は、ダイヤモンド富士を観察するには絶好の地点。元旦は山頂から少しずれた地点からの日の出となる。冬至の前後は山頂から昇る太陽を撮影しようと多くのカメラマンで混み合う。高村光太郎の文学碑があり、町によると、この地を訪れた光太郎は「こんな立派な富士は初めて仰いだ」と感嘆したという。


このあと、12月まであるのですが、割愛します。


初日の出を穏やかな気持ちで見られる、そんな平和な日々が続くこの国であってほしいとも思いました。


【折々のことば・光太郎】

如何なる時代が来ようとも悪趣味のものは許され難い。必ず洗練せれなければ滅びるであらう。これは美の世界の自浄作用である。

散文「二科院展見物」より 大正13年(1924)、光太郎42歳

造形芸術の世界での話ですが、およそ芸術一般にあてはまることでしょう。政治経済の分野には当てはまっていない気がしますが。

あけましておめでとうございます。

また新しい年がやってきました。

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上記は今年の年賀状。

今年は亥年ということで、画像は明治28年(1895)、数え13歳の光太郎、東京美術学校入学前、高等小学校在学中の習作です。年端も行かぬ子供の作とは思えない出来ですが、どうも光雲か、あるいは弟子の誰かによるお手本があったようで、美校の後身・東京藝術大学さんには、同じ図柄の作者不明の作品が残っています。そちらはおそらく彫刻科の授業実習での作品なのでしょう。

ところで、今年は亥年ですが、先月初め、夕方に愛犬の散歩をしていた時の話です。当方自宅兼事務所、裏山がちょっとした山になっておりまして、戦国時代の山城があったような山です。ところどころに土塁や、明らかにそれとわかる堀切の痕なども残っています。

その林道(といっても、民家やアパート、お寺などが見える場所です)を歩いていましたら、何と、正面から1頭の動物が猪突猛進してくるではありませんか! そうです。イノシシです。当方が連れている柴犬系雑種の愛犬よりも一回り大きいくらい、体高50センチ、体長1メートルほどだったでしょうか。それが真っ正面から猛スピードでこちらに向かって来たのです!

愛犬との散歩中にイノシシに遭遇したのは2度目でした。1度目は数年前、その時は、かなり巨大な個体でしたが、こちらはコンクリートの法面(のりめん)の上の道路、敵(笑)は5メートルほど低い冬枯れた田んぼ、しかも直線距離で30メートルほど離れており、何ら危険は感じませんでした。

しかし、今回は、あまり大きくない個体とはいえ、真っ正面から猪突猛進して来やがるのです。「ヤバい!」と思いました。当方、柔道初段です。柔道経験者はおわかりだと思いますが、人間がそのように突っ込んでくるのなら、カモです。襟か袖をつかんで相手の力を利用し、比較的簡単にぶん投げられます。しかし、体高50センチの相手に投技はかけられません。

よくある、「イノシシにはねられてケガ」というニュースや、古い話ですが、北京五輪で柔道100kg級の鈴木桂治選手がモンゴル選手の奇襲とも言える双手刈り(現在の国際ルールでは反則)で一本負けしたのはこういうことだったか、などと、コンマ何秒かの間に考えました(笑)。

あと数メートル、絶体絶命、「こんなことで新聞に載りたくねぇ」、というところで、幸いに、向かってきたイノシシの方で、林道脇の竹林に入っていってくれました。

「助かったぁ」と思って、竹林を見て、二度びっくりしました。何と、向かってきた奴以外に、あと2頭のイノシシがいたのです。親子かきょうだいか、どうも、遅れていた1頭を待っていたらしく、合流したあとは、竹林の中を走り去って行きました。その間、愛犬は「何? 何なの?」という顔でポカンと口を開けていました。役に立ちません(笑)。

自宅兼事務所のある千葉県北東部、まだまだ自然が豊かで、愛犬との散歩中、様々な野生動物と出会います。タヌキ、イタチ、野ウサギなど(近所の方の話では、シカもいるというのですが、当方は見たことがありません)。しかし、さすがにイノシシは勘弁してほしいところです(笑)。

戦後の7年間、光太郎が暮らした花巻郊外の旧太田村山口地区。光太郎は詩「案内」(昭和24年=1949)で、「智恵さん気に入りましたか、好きですか。 うしろの山つづきが毒が森。 そこにはカモシカも来るし熊も出ます。 智恵さん斯ういふところ好きでせう。」と謳いました。また、やはり詩の「山のともだち」(昭和27年=1952)では、「兎と狐の常連」なども登場します。現在でも、光太郎の山小屋(高村山荘)周辺は、熊のテリトリー。あちこちに爪を研いだ痕が残っています。

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左は山小屋裏の智恵子展望台のデッキ、右は高村光太郎記念館さんの看板です。下は光太郎の遺品の一つ、熊よけの鈴。

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イノシシは居なかったようです。調べてみましたところ、岩手県のイノシシは明治期に一度絶滅したそうで。しかし、近年、また目撃情報が相次いでいるとのこと。

光太郎は、自然との共存を常に考えていた人でした。21世紀の今日、なかなかに難しい問題ですね。


閑話休題、本年もよろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

だがロダンの彫刻から直接に喜を感じた者が果してどの位ゐたことであらう。ロダンの彫刻の美を彫刻的に微妙に享け入れた者が果してどの位あつた事であらう。

散文「ロダンとマイヨルの好悪に就て」より
 大正13年(1924) 光太郎42歳

光太郎らの努力によって、ロダンの名が日本でも知られるようになった大正時代。しかし、わかったつもりでいてわかっていない人の何と多いことか、という嘆きです。

光太郎という人物も、わかったつもりでいると、こんな面もあったのか、という連続で、計り知れない巨大なブラックホールのような人物です。今年もまた、その巨大なブラックホールに向き合う1年の始まりです(笑)。

暮れも押し詰まって参りまして、いよいよ来週火曜が2019年、平成最後の元日です。

元日といえば、初日の出。そこで、光太郎智恵子ゆかりの地での初日の出情報をまとめてみました。

まずは、大正元年(1912)、光太郎智恵子がお互いにこの人しかいないと確かめ合った、千葉銚子の犬吠埼。 

【2019年】日本一早い初日の出インフォメーション

関東最東端の犬吠埼は、山頂・離島を除き日本で一番早く初日の出を見ることができます。
元旦は、犬吠埼周辺の海岸で雄大な大海原と荒磯に砕ける波や白亜の灯台がおりなす美しい風景とともに、新年の誓いを立ててみてはいかがでしょうか。

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JRさん、それから銚子電鉄さんが臨時列車を出すほか、現地ではさまざまなイベントも企画されています。

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続いて、犬吠埼の少し南、昭和9年(1934)に、智恵子が療養生活を送った九十九里浜。当方、このところこちらで愛犬と共に初日の出を見ており、来年もその予定でいます。 

あなたなら誰とくる?「九十九里町元旦祭」

① 会  場 : 片貝中央海岸
② 住  所 : 千葉県山武郡九十九里町片貝6928
③ 開  催  日   : 平成31年1月1日(火)
④ 開催時間 : 午前5時30分~午前7時00分
   午前5時30分:おもてなしブース開始
                         ・いわしの団子汁(1000人分)  ・いわしの丸干し(700人分)
   午前6時10分~6時45分:郷土芸能披露 愛宕神社獅子舞保存会・九十九里黒潮太鼓
⑤ 駐車場 : 片貝海岸海浜公園町営駐車場(年末年始無料)
⑥ お問い合わせ : 九十九里町産業振興課商工観光係 0475-70-3177
               九十九里町観光協会 0475-76-9449

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次に、山梨県南巨摩郡富士川町上高下(かみたかおり)地区。昭和17年(1942)、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のため、この地に住んでいた井上くまを訪問しました。それを記念して昭和62年(1987)に光太郎文学碑が建てられています。

元旦も含めた冬至の前後、 ここで富士山頂から日が昇る「ダイヤモンド富士」が見られます。日の出の時刻は7時20分くらいだそうです。

高下ダイヤモンドポイント

新富岳百景「日出づる里」
増穂町穂積(高下・たかおり地区)は、「新富岳百景」に選ばれ、毎年冬至頃から元旦にかけて、富士山頂からの日の出「ダイヤモンド富士」が見え、多くの写真家が訪れます。
ダイヤモンドとは、日の出がダイヤモンドのような輝きになることから名付けられたものです。

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ちょうど1年前に、芳文社さんから刊行されたコミック『ゆるキャン△』第5巻。山梨県を舞台にしたキャンプ愛好女子たちを主人公とする漫画ですが、こちらが紹介されています。

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だいぶ経ってから気づいたので、このブログではご紹介しませんでした。今年、テレビアニメ化もされましたが、このエピソードの前くらいで終わっており、続編が期待されます。


最後に、智恵子の故郷・福島二本松に聳える安達太良山。こちらも近年、初日の出スポットとして売り出し中。 

安達太良山 初日の出

<日の出目安 6:30>
 日本百名山に数えられている標高1,700mの名峰。
 詩人・彫刻家の高村光太郎が、「あれが阿多多羅山・・・」(樹下の二人)と詠んだことでも有名で、智恵子のふるさととしても知られている。

開催日時 2019年01月01日(火)  会場 あだたら高原リゾート 二本松市奥岳温泉   駐車場あり
お問い合わせ先 二本松市観光連盟 TEL 0243-55-5122


なるほど、奥岳登山口のあたりは南東方向に盆地が広がっている地形ですので、初日の出を見るには良い条件ですね。智恵子の愛した「ほんとの空」に上る初日の出もおつなものでしょう。

また、二本松市街の霞ヶ城も同様に初日の出スポットとなっているようです。

ところで上記、<日の出目安 6:30>となっていますが、高山ということで、銚子犬吠埼(6:46)より早いのでしょうか。それとも間違いなのでしょうか。


気になるのは当日の天気。がっつり晴れることを祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる。

散文「近状」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

復刊なった与謝野夫妻の第二期『明星』に短歌五十首を寄せた、その序文的な文章の一節です。

この時期、彫刻では西洋風の塑像彫をメインにしていたのを、ふと思い立って子供の頃から慣れ親しんだ木彫も手がけるようになり、それが世間で評判となりました。同様に、文学では自由詩を主戦場としていたこの時期、少年時代に与謝野夫妻に見出された短歌をまた詠むようになりました。それぞれが自身の心の平安にもつながったというあたり、興味深く感じられます。

昨日は、東京本郷にて、当会顧問にして光太郎研究の第一人者・北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきました。

主催は北川先生が高校の先生をなさっていた頃の教え子の皆さんである北斗会さん、会場は東大正門前のフォーレスト本郷さん。北斗会さんが北川先生がらみの会をもたれる時は、いつもこちらです。

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おいしい料理を戴きながら、歓談のひととき。

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皆さん、戦後すぐの頃の教え子の方々ですので、70代、80代という方々が中心です。ご卒業後、数十年経ってもこうして先生のために集まられるというのが素晴らしいところです。北川先生ご自身は、今年91歳になられます。

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この会に参加すると、先生からは年賀状が届かず、この会で渡されます。

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視よ聴け喋れ さるのとし 反三猿老人

最初のご挨拶の中で、ご解説がありました。「戦前のような時代に戻りつつある今、さらに国際的にも激動の時代、「見ざる聞かざる言わざる」では駄目で、こういう時代こそ、しっかりと視て聴いて喋ることが大事なのだ」というメッセージだそうです。その通りですね。終戦時には予科練生を率いる四国の部隊の下士官で、明日をも知れぬ毎日を送られたというご経験から絞り出されるお言葉は、重みが違います。

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さらに、昨年、先生のご著書『ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―』『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』を刊行された文治堂書店さんのPR誌、『トンボ』をいただきました。

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巻頭言が北川先生の手になります。

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こちらは版元の文治堂さんから戴いた年賀状。近刊予告が出ています。

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夏にはまた北川先生のご著書を刊行予定だそうで、今から楽しみです。

いつまでもこの会が続くことを願ってやみません。


【折々の歌と句・光太郎】

門人ら我ら相寄り先生の齢(よはひ)と言へる不可思議を見る
大正12年(1923) 光太郎41歳

〔与謝野寛五十歳の賀に〕の詞書きがあります。4月1日発行の第二次『明星』第3巻第4号に掲載されました。

この年の鉄幹の誕生日である2月26日、帝国ホテルの大広間で百余名が集っての祝賀晩餐会が開催され、発起人一同を代表して光太郎が祝辞を述べました。

光太郎が鉄幹の新詩社に出入りし始めたのは明治33年(1900)。何十年経っても、ともに青年だったその頃の印象が強く、「先生の齢(よはひ)と言へる不可思議」なのでしょう。

70代、80代の北斗会の皆さんも、90歳の北川先生を前に、こういう感覚なのではないでしょうか。

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改めまして、新年明けましておめでとうございます。今年も高村光太郎・智恵子、光雲の世界を広めるため、さまざまな情報をご提供して参りますので、よろしくお願いいたします。


それ以外の部分では、昨年までの3年間、毎日、【今日は何の日・光太郎】シリーズで、その日にあった光太郎智恵子、光雲関連の出来事をご紹介していました。さすがに3年間でネタが苦しくなりましたので、今年は方向性を変えます。

というわけで、早速。

【折々の歌と句・光太郎】

年ごとに年はむかへつたぐひなき今年の年のいよよまさきく
昭和22年(1947) 光太郎65歳

彫刻家、そして詩人として名高い光太郎ですが、その生涯に数多くの短歌や俳句なども残しています。そこで、かつて『朝日新聞』さんに詩人の大岡信氏が約30年連載した「折々のうた」(第1回が光太郎の短歌でした)に倣い、一日一首・句ずつ、折々の光太郎作品を取り上げていく予定です。

さて、昭和22年(1947)、光太郎は花巻郊外太田村の山小屋で、2度目の新年を迎えました。移住当初は本阿弥光悦へのリスペクトから「昭和の鷹ケ峯」を作る、といった無邪気な夢想とも云える考えでしたが、山林孤棲、独居自炊の生活の中で、自らの戦争責任を省察する毎日を送るうちに、ある意味ストイックな修行僧のような暮らしへと、その意義が変容していきました。

そうした中で生まれたこの一首。「まさきく」は「真幸く」。「幸せに」の意の副詞です。



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画像は当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市、利根川河畔での初日の出です。

ほんとうに今年一年が「まさきく」あってほしいものです。


作品の表記は筑摩書房『高村光太郎全集』、そこに未収のものは当方編集の「光太郎遺珠」に従い、光太郎の年令は数え年で表記いたします。

特にいつもそれを眺めているわけではありませんが、当方、部屋ごとにカレンダーがないと落ち着きません。2ヶ所あるトイレにも吊していますし、洗面所兼脱衣場に貼った年もありました。
 
しばらく前は、アート系のカレンダーを愛用していました。その月が終わって破り取ったあと、絵の部分を切り取って額に入れ、手軽な複製画として飾るというふうに。竹久夢二、アルフォンス・ミュシャ、鶴田一郎、葉祥明、藤城清治、川瀬巴水、安野光雅、棟方志功などなど。
 
少し前から、もうそうしたものを飾るスペースもなくなってきたので、販促用にその辺の店でくれるものだけを使うようになりました。後で飾らないのにアート系を買うともったいない、破り取った分を捨てるに忍びない、そういう感覚で、アート系は避けていました。
 
ときどき手に入った光太郎智恵子がらみのカレンダーは、使わずに取ってあります。
 
さて、昨年末。「来年のカレンダーはどうしようか」と考えました。やはり販促用にその辺の店でくれるものではものたりません。まず「乙女の像」など光太郎、智恵子作品が使われているカレンダーはないかと、ネットで探してみました。しかし、残念ながらヒットせず。そこで、ふと、「光太郎智恵子ゆかりの地の風景が載ったものはどうだろう」と思いつき、検索したところ、見つかったので、2点購入しました。
 
まず、小暮真望さんという方のシルクスクリーン版画をあしらったもの。「日本百名山」がモチーフです。
 
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5・6月が安達太良山です。「ほんとの空」を映して広がる水田、その彼方に雪を残す安達太良山。いいですね。
 
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もう一点、こちらは写真ですが、「輝く太陽」というカレンダー。日本各地の日の出を撮った写真が使われています。
 
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2月は銚子犬吠埼。大正元年(1912)に、光太郎智恵子が愛を確かめた故地です。
 
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6月は十和田湖。新緑が鮮やかです。
 
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「日本百名山」は書斎に、「輝く太陽」は寝室に掛けました。
 
もう一点、近所の書店で見つけ、買って来たのがこちら。「季節のパノラマ」という題の、山岳写真を使ったものです。
 
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表紙のページが上高地。大正2年(1913)、ここで光太郎智恵子は婚約を果たしました。さらに6月が奥入瀬渓流です。
 
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こちらはトイレに飾ってあります。
 
ところで、3点とも、現在のページ―つまり1月―は、富士山です。
 
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初夢の「一富士二鷹三茄子」ではありませんが、やはり日本人には、「正月は富士山」というイメージなのでしょうか。ちなみに、お互いに知り合う前に別々にですが、光太郎も智恵子も富士登山の経験があり、その意味では故地ですね。
 
その他、それぞれに日本の美しい自然が取り上げられています。こういうものを見ると、この国に生まれて本当に良かったと思います。無論、諸外国にもそれぞれ美しい風景はあるのでしょうが。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月7日
 
昭和26年(1951)の今日、『花巻新報』に詩「初夢まりつきうた」が掲載されました。
 
 
   初夢まりつきうた000
 
 花巻商人なに商人
 花巻商人いい商人
 ねだんがやすくて
 品物たしかで
 なんでもそろえて
 お店はあかるく
 きれいで清潔
 お客の相談こまかに考え
 いつでもにこにこ
 エチケツト身につけ
 しんからしんせつ
 お届けシステム
 きびきびはきはき
 近郷近在遠くは列車で
 なんでも花巻かんでも花巻
 花巻商人なに商人
 花巻商人いい商人
 夢は正夢初笑い
 まずまず一貫かし申した
 
光太郎にしては珍しい作風です。現代仮名遣いによる最初の詩で、はじめ、歴史的仮名遣いで書かれましたが、草稿に新仮名遣いに訂正した跡が残っています。
 
平成21年(2009)、この詩に曲が付けられたSPレコードの発見が報じられました。その発見者の方とコンタクトが取れましたので、いろいろ判りそうだと期待しています。

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というわけで、平成27年(2015)となりました。今年もよろしくお願い致します。
 
 
今朝は、九十九里浜に行ってきました。もちろん初日の出を見に、です。
 
南北に長い九十九里浜のほぼ中央、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた九十九里町真亀納屋付近の海岸で、その時を待ちました。81年前に、二人が歩いた浜辺です。
 
波はそこそこ荒く、しかし、その潮騒がかえっていい感じでした。あまり寒くもなく、結構な人出でした。
 
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わんこも(笑)。あとで右のミニチュアダックス君は、当方にじゃれついてきました。
 
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6時30分頃には、見事な茜色の雲。6時48分頃が日の出です。期待が高まります。
 
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ところが、全体的には青空なのですが、ちょうど太陽が出るあたりの海上に、厚い雲。下の画面中央の、雲の切れ間から太陽が見えるかと思い、7時15分位までねばりました。
 
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しかし、結局、浜では日の出を見ることができませんでした。残念。
 
こちらは当方が行った浜辺にほど近いところにある「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑。さらに東金 九十九里有料道路今泉PAにある光太郎智恵子の銅像です。
 
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当初予定では、これらの背後に燦然と輝く太陽が写るはずでしたが、仕方がありません。
 
帰り道、横芝光町あたりまで来たところで、ようやく太陽が拝めました。
 
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車を駐め、「今年も光太郎智恵子の世界が盛り上がりますように」と願いを込め、シャッターを切りました。
 
というわけで、今年1年、またよろしくお願い申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月1日000
 
明治40年(1907)の今日、雑誌『明星』未歳第1号に、光太郎の「新詩社詠草」短歌44首が掲載されました。
 
そのうちの1首です。
 
海を観て 太古の民の おどろきを われふたたびす 大空のもと
 
前年2月、欧米留学に出るため、横浜からカナダ太平洋汽船のアゼニアン号に乗り、船出した時の歌です。
 
のちに「海を観て」は「海にして」と変更されています。
 
九十九里浜の砂丘に腰を下ろし、潮騒に耳を傾けながら、この歌を想い出しました。
 
右の画像は当方の手許にある、光太郎直筆の短冊です。
 
 
ところで、一昨年のこのブログでは【今日は何の日・光太郎】ということで、365日、その日その日の光太郎智恵子、光雲などのエピソードをご紹介しました。すると、たまたま年が違う同じ日に重要な事象が重なっている日もあり、その一方は泣く泣く割愛せざるを得ず、悔しかったので、昨年のこのブログでやはり365日、【今日は何の日・光太郎 補遺】ということで補いました。
 
そして今年。どうももう1年できそうだな、と思い、さらに2年でやめるのも半端かな、という気がしました。そこで【今日は何の日・光太郎 拾遺】ということで、また365のエピソードを紹介して行こうと思います。このコーナーがあると、特にネタがない時には書く方も楽でして……(笑)。
 
ただし、最初に宣言しておきますが、この「拾遺」で限界。もうそれ以上は続けません。
 
来年以降はまた新たな企画を考えたいと思います。

昨日の『毎日新聞』さんの、おそらく福島版だと思うのですが、以下の記事が載りました。 

<師走の風景>「ほんとの空」求め宿泊予約殺到――安達太良山

「元旦に福島の空を見よう」――。詩人、高村光太郎の妻智恵子が「ほんとの空」があると言った安達太良山(標高1718メートル)の中腹にある山小屋「くろがね小屋」には、今年の大みそかも宿泊予約が殺到し、小屋番たちは準備に大わらわ。まさしく師走だ。
 
 宿泊客の目当ては、31日恒例の年越しそばと、餅つき。みんなでお餅を食べた後は、初日の出を見るために「天気と元気次第」で頂上を目指す。
 
 「今年こそは大みそかに泊まろうと思ったけど、両親のいる故郷に帰ることになって」。26日に埼玉県から妻と訪れた50代男性はそう語り、「今年最後の泊まり納めを楽しもうとやってきました」。
 
 厳冬の雪山だから、冬登山の装備と心得がなければ小屋にすら、たどりつけない。小屋に着いても、強風とガスで山頂は視界の悪い日が多く、冬季に「ほんとの空」を拝める日は少ないという。
 
 それでも、関東方面からの登山客は多く、「風評被害」は感じられない。客層は中高年が中心だが、最近は20代の若者も増えた。
 
 26日、記者も一足早く山頂に登ったが、強風と地吹雪で登山客の姿はなかった。元日こそは好天を!【栗田慎一】
 
なるほど、安達太良山頂から、「ほんとの空」に昇る初日の出を見るというのも素晴らしいでしょうね。
 
 
他にも初日の出名所として、光太郎智恵子がらみの地がいくつか有名です。
 
当方生活圏では、千葉県の犬吠埼。大正元年(1912)夏、結婚前の二人が愛を確かめた場所です。
 
緯度、経度等の関係で、離島や高山の山頂を除き、日本一早い初日の出が見られます。明後日は午前6寺46分です。
 
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それを目当てに訪れる方が多く、JR東日本さん、銚子電鉄さんでは終夜運転、様々なイベントが予定されています。
 
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少し南下すると、九十九里浜。その中央の片貝海岸付近には、昭和9年(1934)、統合失調症だった智恵子が療養していました。
 
こちらでも元旦祭が行われます。
 
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さらに、山梨県南巨摩郡富士川町高下地区。こちらは昭和17年(1942)、「日本の母」顕彰のため、光太郎が訪れ、それを記念して光太郎文学碑も建てられています。
 
ここでは、富士山頂から昇る初日の出、いわゆる「ダイヤモンド富士」が見られるそうです。
 
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こうしたポイントは、かなりの人出(特に犬吠埼では交通規制もしかれます)ですが、特別な場所で見る初日の出もいいものでしょう。当方、余力があれば九十九里に行ってみようと思っています。今年の元旦もそう思っていましたが、結局起きられませんでした(笑)。
 
さて、元日の夜は、再放送ですが、以下のテレビ放映があります。 

いにしへ日和 #122 岩手県・花巻市・高村光太郎と大沢温泉

BS朝日 2015年1月1日(木) 22時54分~23時00分
 
日本の東国各地をめぐり、歴史上の人々が残した足跡をたどります。美しい景色の中に息づく「時の記憶」。旅をしながら、現在と過去を自由に行き来する。そんな気分を味わう番組です。時をこえ、小さな旅に出かけよう。今日は、いにしへ日和…日本の各地をめぐり、歴史上の人々が残した足跡をたどります。
 
高村光太郎は、1945年花巻に疎開し、7年の間、この地で過ごしました。 光太郎62歳。最愛の妻・智恵子も既に他界し、東京大空襲で自宅とアトリエを失ってやってきた花巻。 そんな光太郎が「本当の温泉の味がする」と、何度も訪れた大沢温泉を訪ねます。
 
出演 ナレーター キムラ緑子
 
 
本放送は先週木曜日でした。
 
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5分間番組ですが、ぜひご覧下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月30日
 
昭和43年(1973)の今日、角川書店から伊藤信吉著『鑑賞智恵子抄』が刊行されました。

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 伊藤信吉は光太郎と交流のあった詩人です。400ページ近い大著で、的確な視点で『智恵子抄』およびその後の諸作品が解説されています。
 
当方、有名な古書店、扶桑書房さんが鎌倉に店を構えていた頃、ここで購入しました。帰宅してから気づいたのですが、見返しに著者の伊藤信吉から、やはり詩人の鳥見迅彦に宛てた献呈署名が入っていました。鳥見も光太郎と交流があり、自身の詩集『けものみち』(昭和30年=1950)の題字を、光太郎に揮毫してもらっています。
 
不思議な縁を感じました。
 
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というわけで、平成26年(2014)となりました。
 
上記画像にもあるとおり、今年は大正3年(1914)の詩集『道程』刊行、そして光太郎智恵子の結婚披露から数えて100周年です。それらを軸に顕彰活動を展開して参りますので、よろしくお願いいたします。
 

【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月1日

昭和25年(1950)の今日、『読売新聞』に詩「この年」が掲載されました。
 
  この年005
 
日の丸の旗を立てようと思ふ。
わたくしの日の丸は原稿紙。
原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
あかいまんまるを描くだけだ。
それをのりで棒のさきにはり、
入口のつもつた雪にさすだけだ。
だがたつた一枚の日の丸で、
パリにもロンドンにもワシントンにも
モスクワにも北京にも来る新年と
はつきり同じ新年がここに来る。
人類がかかげる一つの意慾。
何と烈しい人類の已みがたい意慾が
ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。
 
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雪に覆われた光太郎居住の山小屋(高村山荘)
 
その若き日には、西洋諸国とのあまりの落差に絶望し、「根付の国」などの詩でさんざんにこきおろした日本。
 
老境に入ってからは15年戦争の嵐の中で、「神の国」とたたえねばならなかった日本。
 
そうした一切のくびきから解放され、真に自由な心境に至った光太郎にとって、この国はむやみに否定すべきものでもなく、過剰に肯定すべきものでもなく、もはや世界の中の日本なのです。
 
素直な心持ちで「原稿紙」の「日の丸」を雪の中に掲げる光太郎。激動の生涯、その終わり近くになって到達した境地です。
 
さて、昨年のこのブログで、365日、【今日は何の日・光太郎】を書き続けました。年月日の特定できる主な事象はあらかた書き尽くしました。
 
とはいうものの、時には大きな出来事が見あたらず、日常の些細な出来事を記したり、光太郎生誕以前や歿後のことを書いたりした日も多くありました。しかし、逆にたまたま年が違う同じ日に重要な事象が重なっている日もあり、その一方は泣く泣く割愛しました。
 
そこで、【今日は何の日・光太郎 補遺】。もう一年、続けてみようと思っています。お楽しみに。

昨日、お年玉付き年賀はがきの当選番号が発表されました。まだ家族に来た分は調べておりませんが、当方宛で4枚、4等(下2けた-お年玉切手シート)が当たりました。うち1枚は、花巻の財団法人高村記念会からいただいたもの、2枚は高村光太郎研究会でご一緒させていただいている方々からのものでした。ありがとうございます。
 
お年玉付き年賀はがきといえば、当方、光太郎が出したお年玉付き年賀はがきを1枚所有しています。
 
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 昭和26年(1951)のもので、花巻郊外太田村の山小屋から岩手県立美術工芸学校長だった美術史家の森口多里にあてたものです。ただし、3月10日の日付となっており、年賀状ではなく、あまった年賀はがきを使ったものでしょう。
 
文面は以下の通りです。
 
おてがみにより別封でお祝のことばをお送りいたしました。
今冬は小生肋間神経痛のため外出不能で引籠つてゐますが、昨年は今頃黒沢尻の貴邸で誕生祝のたのしい御馳走をいただいた事を思ひ出します。ああいふことは思ひ出してもたのしいです。
今年はここの炉辺でじつとしてゐる外ありませんが、ビタミンやホルモンのせいだらうと思ふので春になればなほるに違ひないと考へてゐます。
 
お祝のことば」は、『高村光太郎全集』第11巻所収の「岩手県立美術工芸学校第一回卒業式祝辞」。このころの日記に関連する記述があります。光太郎は既にこの時点では結核に冒されています(本人は対外的には頑強に否定していましたが)。そのための「肋間神経痛」や「引籠」です。「誕生祝のたのしい御馳走」についても、近年の調査で詳細がわかりました。長くなりますので、いずれ光太郎の誕生日の頃のブログで御紹介します。しかし、3月10日でも「春になれば」と書いているあたり、厳しい北国の環境がうかがえます。
 
調べてみましたところ、初のお年玉付き年賀はがきは、この前年の昭和25年(1950)用として発売されたそうです。当時の1等商品は足踏みミシン。時代を感じますね。
 
ところで、今年の当たり番号を確認していて思ったのですが、年々、賞品は豪華になっているものの、当たる本数が減っているようです。以前は下2けたも3本あったはずですが、今は2本。いつから2本になったのでしょうか?下3けたの当たりがなくなって久しいし、下4けたも以前は2本だったと思いますが、今は1本だけ。豪華賞品でなくてよいので、もっと本数が多く当たってほしいと思うのは当方だけでしょうか?
 
【今日は何の日・光太郎】1月21日

明治45年(1912)の今日、大森の料亭富士川で開かれた青鞜社新年会に智恵子も参加しました。
 
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中央・智恵子 右から二人目・平塚らいてう

平成25年、2013年となりました。新年明けましておめでとうございます。
 
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今年も当ブログをよろしくお願いいたします。
 
今年から、試みとして、「今日は何の日・光太郎」という項を設けることにしました。NHKラジオ第一で、朝、現在も放送されているのでしょうか。歴史上の「その日」にあった出来事をいくつか紹介するコーナーがあって、何度かカーラジオで聞きました。それをパクらせていただき、光太郎・智恵子・光雲に関し、「その日」にあった出来事を紹介していきたいと思います。
 
では早速。
 
【今日は何の日・光太郎】1月1日

昭和31年(1956)の今日、光太郎最後の詩三編が発表されました。『中部日本新聞』等に「開びゃく以来の新年」、NHKの放送で「お正月の不思議」、そして『読売新聞』に「生命の大河」
の三編です。
 
こんな調子でとりあえず、365日、続けてみたいと思います。ブログの内容はこれまで通り、新着情報の紹介など、行き当たりばったりに考え、必ずしも【今日は何の日・光太郎】と関係なく進めていきます。
 
ただ、折角ですので今日は最後の詩・三編の中から一つ紹介しましょう。
 
  開びゃく以来の新年010
 
一年の目方がひどく重く身にこたえ、
一年の味がひどく辛く舌にしみる。
原子力解放の魔術が
重いつづらをあけたように
人類を戸惑いさせてゆるさない。
世界平和の鳩がぽつぽつとなき、
人類破滅の鎌がざくざくひびく。
横目縦鼻の同じ人間さまが
まさかと思うが分らない。
度胸を定めてとそを祝おう。
重いか軽いか、ともかくも、
開びゃく以来の新年なんだ。
 
というわけで、今年もよろしくお願いいたします!

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