秋田県小坂町の町立総合博物館郷土館さんを経由して、詩集『智恵子抄』(昭和16年=1941)版元の龍星閣さんから書籍を頂きました。
昨年いただいた『澤田伊四郎 造本一路』(以下、「本篇」)という書籍の続編というか、補完するもので、『澤田伊四郎 造本一路 図録編』。「本篇」同様、重厚な造りの豪華本です。
澤田伊四郎は龍星閣創業者にして、『智恵子抄』刊行を光太郎に提案した人物です。
澤田伊四郎は龍星閣創業者にして、『智恵子抄』刊行を光太郎に提案した人物です。
目次は以下の通り。
はじめに
澤田伊四郎の略年譜(補遺)
父・龍星閣のこと 澤田城子
(『龍星閣 澤田城子の歩んだ道』(二〇一六年三月五日発行の「父・龍星閣のこと」を再録)
龍星閣刊行の装幀本(写真抄)
終わりに
付 龍星閣刊行書目録
「澤田伊四郎略年譜(補遺)」は、「本篇」印刷中に新たに見つかった澤田の日記をもとにしたもの。
「父・龍星閣のこと」は、目次の注解にあるとおり、『龍星閣 澤田城子の歩んだ道』からの抄出。この書籍も手に入れたいと思いつつ、なかなか見つかりませんで、その意味では実にラッキーでした。
そして「龍星閣刊行の装幀本(写真抄)」が、この書籍の肝です。戦前から平成にかけ、龍星閣から刊行されたほとんどの書籍のカラー写真が掲載されています。
「本篇」では、龍星閣の社史的なクロニクルが細かに記載されていたのですが、そこに図版があまりなく、その部分では残念に思っておりました。今回の「図録編」では、戦時中に刊行されて龍星閣自体にも保存されていない一部の書籍を除く、150点ほどの刊行書のほぼすべてがカラー写真で収められています。
記念すべき初版『智恵子抄』(昭和16年=1941)。見返しには昨日もご紹介しました「うた六首」のうちの「わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき」が揮毫されています。「25頁」とあるのは、「本篇」での記録箇所を表します。
随筆集『某月某日』(昭和18年=1943)/翼賛詩集『記録』(昭和19年=1944)。
詩文集『智恵子抄その後』(昭和25年=1950)/随筆集『独居自炊』(昭和26年=1951)。一昨年、これらの書籍の刊行に際してしたためられた『高村光太郎全集』未収録のものを含む、澤田に宛てた光太郎書簡がごっそり小坂町に寄贈されました(光太郎署名本の類も)。
『智恵子抄』特装版。昭和27年(1952)、光太郎が最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため8年ぶりに岩手から帰京した記念として刊行されました。表紙は羊皮装です。
光太郎が没した昭和31年(1956)の『赤城画帖』の普通版と特装版。明治期に描かれたスケッチブックの翻刻です。
戦後の龍星閣では、同一の書籍で豪華な特装版が作られることが多かったのですが、澤田のポリシーとしては、著者に敬意を表して皮装などで豪華に造った特装版の方がスタンダードで、それに手が出ない人のために布装や紙装の普通版も出す、ということだったそうです。
さらに『光太郎智恵子』普通版と特装版(昭和35年=1960)。光太郎智恵子の書簡などを中心にしたもので、『智恵子抄』の裏側を描き出す、というコンセプト。『智恵子抄』紅白版。当時の皇太子ご夫妻(現・上皇陛下ご夫妻)のご成婚記念に、紅白の布で表紙を貼ったものです。『智恵子抄』五十周年愛蔵版(平成3年=1991)。
他にも、光太郎が題字を揮毫した中村草田男の句集『火の島』(昭和14年=1939)、展覧会に寄せた光太郎の文章を序文として転用した土方久功『文化の果てにて』(昭和28年=1953)なども光太郎に関わります。
光太郎関連以外にも、いわば出版史上のエポックメーキング的な書籍の数々。岸田劉生の『劉生絵日記』(昭和27年=1952~同28年=1953)、棟方志功や竹久夢二の画集など。当方、存じませんでしたが、俳句の句集の出版に先鞭をつけたのが龍星閣だということですし、今では不動の人気を誇る竹久夢二も、その晩年から歿後しばらくは世間から忘れられていた存在で、龍星閣の画集によって復権した面があるとのこと。
改めて、気鋭の出版人・澤田伊四郎の業績につき、実感させられた次第です。
「本篇」ともども非売品と思われ、刊行部数もおそらく限られているのではないかと思われますが、お問い合わせは龍星閣さんまで。
【折々のことば・光太郎】
アメリカの大地から湧き出たやうな詩人、しかも時代と国土とに些かも極限されて居ない宇宙的詩人、此の不思議に大きいホヰツトマンの自然及び人類に対する全的信仰、絶対認容の精神が此等の日記の中に輝いてゐる。
雑纂「訳書広告 ホヰツトマン「自選日記」」より
大正10年(1921) 光太郎39歳
大正10年(1921) 光太郎39歳
アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマン(1819~1892)の日記を光太郎が翻訳し『自選日記』として刊行しました。その自然崇拝的態度などに、光太郎は共感を寄せていたようです。ただ、ホイットマン、南北戦争時には北軍を鼓舞する詩篇を書いてもいます(負傷兵の看護に当たるなどの慈善活動も行いましたが)。のちの15年戦争時の光太郎が大量の翼賛詩文を書き殴った一つの源流が、ここにも見えるような気がします。