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千葉から企画展情報です。光太郎の実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって高村家を嗣ぎ、鋳金分野の人間国宝に指定された、高村豊周の作品が出ています。

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左から、光雲、豊周、光太郎。

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北詰コレクション メタルアートの世界Ⅱ-メタルアートの匠と技-

期 日 : 2018年1月20日(土) ~ 4月15日(日)
会 場 : 千葉県立美術館 千葉市中央区中央港1丁目10番1号
時 間 : 午前9時~午後4時30分
休館日 : 月曜日(ただし、月曜日が祝日・振り替え休日に当たるときは開館、翌日休館。
料 金 : 一般300円(240円)  高大生150円(120円)
      ( )内は20名以上の団体料金

千葉県印西市の「メタルアートミュージアム光の谷」閉館に伴い、館長の北詰栄男氏より寄贈された365点の近代金工史を代表するメタルアートのうち、昨年度の黎明期の作家を中心とする展覧会に続き、第二弾として大正から昭和にかけての作品を中心にご覧いただけます。

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豊周の作品は、3点出ていました。「青銅環文壺」(昭和35年=1960)、「青銅花盛」(制作年不詳)。こちらの2点は画像がゲットできました。

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それから「朱銅花入」(昭和41年=1966)。001これそのものの画像は見つかりませんでしたが、似たような作品として、こちら。

いずれも見事な作品です。「メタル」というと、冷たい響きに感じられますが、さにあらず。特に「朱銅花入」などは、それが金属であることを忘れさせるような、温かみさえ感じさせられます。それは光太郎のブロンズ彫刻にしてもそうですが。

他に、関係する作家の作品もいろいろ。

豊周の師にあたる、津田信夫、大島如雲。豊周の父・光雲は、明治13年(1880)から翌年にかけ、大島とその父・高次郎の工房で、鋳金の仕事を手伝っていました。ちょうど、廃仏毀釈のあおりで木彫の仕事が激減していた時期です。

それから、やはり豊周の師・香取秀真(ほつま)の長男、香取正彦。光雲が主任となって制作された皇居前広場の「楠木正成像」の鋳造を担当した岡崎雪声。さらに、豊周の弟子にあたる丸山不忘。丸山は、豊周の助手として、光太郎作の日本女子大学校創設者・成瀬仁蔵胸像の鋳造にあたっています。

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当方、昨日、拝見して参りました。昨年の「北詰コレクション メタルアートの世界―黎明期の作家を中心に―」以来でした。

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館の正面玄関。後ろ姿は画家の浅井忠の銅像です。

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「メタルアートの世界Ⅱ」以外にも、アート・コレクション「コレクション名品展」、「浅井 忠6-その師と弟子たち-」 という展示も為されており、光太郎と関わりの深かった梅原龍三郎、安井曾太郎らの絵画が出品されていました。

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ぜひ足をお運びください。002


【折々のことば・光太郎】

工芸家は、作曲家が五線紙に曲を書き込んでゆく時既に演奏の結果を耳で聴く思をすると同様な感覚を持つてゐて、原型を作る時既にその壺なり花瓶なりのブロンズ作品に出来上がつた時の特有の美を感ずるのである。

散文「彫刻家の場合」より
 昭和15年(1940) 光太郎58歳

右は、方眼紙に豊周の描いた、上記とはまた別の「朱銅花入」の下図です。

こうした感覚が無い彫刻家が作った銅像などが鋳造されると、まるでブロンズという素材を生かしていないものになり、太平洋戦争前夜、既に金属の不足が顕著になりつつあったこの時期、実に無駄、という論です。

光太郎の実弟にして、鋳金の道に進み、人間国宝に認定された高村豊周の作品が展示されています。 
期  日 : 2016年7月16日(土)~9月8日(木) 月曜休館 
会  場 : 東京国立近代美術館工芸館 千代田区北の丸公園1-1
時  間 : 10:00~17:00
料  金 : 一般210円(100円) 大学生70円(40円)
        ( )内は20名以上の団体料金。いずれも消費税込。
        高校生以下および18歳未満、65歳以上
は無料。
無料観覧日 : 8月7日(日)、9月4日(日)

こどもたちと一緒に工芸を見たことはありますか?
工芸鑑賞はちょっとむずかしそう…と心配されることがあるけれど、作品を見たこどもたちは、おとなの予想を軽く乗り越えて、生き生きと反応してくれます。きらきら輝く目のなかは「!」や「?」でいっぱい――好奇心が踊るようにあふれでて、そのわくわく感に周囲で見守るおとなたちも嬉しくなるほどです。
こどもの興味を惹きつけるのは、なんといっても、それが何でできているのか?ということ。
「工芸」とひとくくりに呼んでいますが、種類はさまざまで、それを分ける決め手となるのが素材です。でもちょっと見にはそれが判断つかないものが少なくないのも工芸の特徴。土、石、草や木、虫など、素材に選ばれたものの元の姿を知っていると、ますます「!」や「?」が飛びだします。
工芸がこれだけ多彩に発展してきたのは、私たち人間が「こうしたい」と思ったことがらを形にしたものだから。それもよりよく、より美しくと、尽きない願いに応えて、あらゆる素材を吟味しては多方面に可能性を試し、磨き上げてきた結果が作品の魅力を築き、見る人、そして作る人自身をも惹きつけてきたのです。
そんな風に考えてみると、「ナニデデキテルノ?」というシンプルな発言には、作品へのお近づきの挨拶とともに感動のほとばしりが潜んでいそうです。知識豊富な大人の皆さんも、あらためて、こどもと一緒にこのひと言をつぶやいてみませんか?まだ気づいていなかった、知恵と情熱満載の工芸の秘密を探る鍵がみつかるかもしれません。

人間国宝から人気の現代作家まで当館所蔵作品、約120点を展示
繊維、土、石、ガラス、金属、木、貝殻など、展示室ごとにさまざまな素材の魅力を紹介します。


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豊周の作品は、「朱銅まゆ花瓶」(昭和39年=1964)、「青銅花瓶」(大正15年=1926)の2点。

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その他、有名どころでは、染色の志村ふくみさん、芹沢銈介らの作品、さらに竹久夢二作のオブジェ、六代清水六兵衛、ルーシー・リーの磁器なども展示されています。出品目録はこちら

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

しきりに桜の幹をいそぎのぼる蝉は止まりてなきはじめたり
大正13年(1924) 光太郎42歳

一昨日、今年度の文化勲章・文化功労者の発表が行われ、染織家の志村ふくみさんが文化勲章を受けることになりました。 

文化勲章:紬織り、現代的に表現…志村ふくみさん

2015年10月30日 『毎日新聞』

◇志村ふくみさん(91)=染織家
 「たいへん重く受け止めております」。穏やかな語り口に責任感をにじませる。
 母の手ほどきを受けてこの道に進んだのは60年前。ゲーテの「色彩論」に出合ってから哲学的な思索も深め、紬(つむぎ)織りの奥深さを現代的に表現してきた。貫いてきたのは「植物から命をいただき、色をいただく」という謙虚な姿勢だ。
 東日本大震災を経た今、その思いを次世代に伝えることに注力する。2年前に始めた芸術学校「アルスシムラ」では、自然に対する感性を養い、平和の大切さを強調する。手応えが大きいことは、多忙を極めるのに生き生きとした表情からうかがえる。「若い人から元気をいただいています。私にとっては機を織ることが休みなんです」【岸桂子】


志村さんには『白夜に紡ぐ』(平成21年=2009 人文書院)というご著書があり、その中で光太郎についてふれて下さっています。10ページあまりの「五月のウナ電」というタイトルのエッセイです。

「五月のウナ電」という奇妙なタイトルは、そのまま昭和7年(1932)の雑誌『スバル』第4巻第2号夏季号に発表された光太郎の詩のタイトルです。


   五月のウナ電

アアスキヨク」 ウナ」 マツ」
アオバ ソロツタカ」コンヤノウチニケヤキハヲダ セ」カシノキシンメノヨウイセヨ」シヒノキクリノキハナノシタクヨイカ」トチノキラフソクヲタテヨ」ミヅ キカササセ」ゼ ンマイウヅ ヲマケ」ウソヒメコトヒケ」ホホジ ロキヤウヨメ」オタマジ ヤクシハアシヲダ セ」オケラナマケルナ」ミツバ チレンゲ サウニユケ」ホクトウノカゼ アメニユダ ンスルナ」イソガ シクテユケヌ」バ ンブ ツイツセイニタテ」アヲキ トウメイタイヲイチメンニクバ レ」イソゲ イソゲ 」ニンゲ ンカイニカマフナ」ヘラクレスキヨクニテ」

当時の電報のスタイルで書かれた詩で、題名の「ウナ電」、冒頭の「ウナ」は速達電報のこと。同様に「マツ」は「別使配達」の意味だそうです。当時の技術では電文はすべてカタカナ。濁音の後には必ずスペースが入るので「ニンゲ ン」というふうになるわけです。

無理を承知で書き下してみます。


地球(アアス)局」ウナ」マツ」
青葉、揃つたか。 今夜のうちに欅(けやき)、葉を出せ。 樫の木、新芽の用意せよ。椎の木、栗の木、花の支度よいか。 栃の木、蝋燭を立てよ。 ミズキ、傘させ。 ゼンマイ、渦を巻け。 うそ姫、琴弾け。 頬白、経読め。 おたまじくしは足を出せ。 おけら、怠けるな。 蜜蜂、レンゲ草に行け。 北東の風、雨に油断するな。 忙しくてゆけぬ。 万物、一斉に立て。 アヲキ、透明体を一面に配れ。 急げ、急げ。人間界に構ふな。 ヘラクレス局にて

「ヘラクレス」はギリシャ神話のヘラクレス神というより、星座としてのヘラクレス座でしょう。宇宙の彼方から、地球の木々や鳥、虫たちに届けられた電報、というわけです。


自然界のさまざまな素材から「色」を紡ぎ出す志村さん。光太郎詩「五月のウナ電」に謳われた草木や小動物への語りかけにいたく共鳴したのでしょう。染織した布を使って、ブックデザイン――というより、美術工芸品としての書籍製作――も手がける志村さん、この詩に啓発され、シンジュサン工房の山室眞二氏と組んで、平成16年(2004)には、『配達された五月のウナ電』という書籍も作られています。『白夜に紡ぐ』所収の「五月のウナ電」には、そのあたりの経緯も記されています。

また、この詩が書かれた昭和7年(1932)の時点での光太郎智恵子(前年から智恵子の心の病が顕在化)、さらに二人を取り巻く社会状況(軍部の台頭)などについても。

志村さん曰く「この詩の背景にはこれほどの時代と人間の相克があり、高村光太郎という詩人の魂にふれてしびれるように感動した。」。

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『配達された五月のウナ電』は65部限定。山室氏と交流のあった、当会顧問・北川太一先生がお二人に「五月のウナ電」のレクチャーをなさったことから解説を執筆されています。当方、北川先生から、カラーコピーで複製されたものを戴きました(右上画像)。表紙に使われているのは、志村さんの手になる裂(はぎれ)です。先の「しびれるように感動した」云々は、ここに収められた北川先生の解説を読まれてのことです。


さて、志村さん。おん年91歳です。この受賞を機に、これからもまだまだお元気でご活躍戴きたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月1日

大正元年(1912)の今日、智恵子が扉絵を描いた雑誌『劇と詩』第26号が発行されました。

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光太郎の絵画「食卓の一部」も掲載され、数少ない光太郎智恵子両名の作品が同時に載ったケースです。

昨年の東京三井記念美術館さんから始まり、これまで静岡佐野美術館さん、山口県立美術館さん、郡山市立美術館さん、富山県水墨美術館さんを巡回した展覧会が、岐阜で開催されます。
 
全国巡回6館目の開催となりますが、とりあえずこれで終了のようです。

超絶技巧! 明治工芸の粋

場  所 : 岐阜県現代陶芸美術館 岐阜県多治見市東町4-2-5
期  間 : 2015/09/12~2015/12/06休催日月曜日(休日の場合は翌平日)
時  間 : 10:00~18:00(入館は17:30まで)
料  金 : 一般800円、大学生600円、高校生以下無料
主  催 : 岐阜県現代陶芸美術館

近年、メディアでも取り上げられ注目を集める明治の工芸は、激動の時代に花開き、精緻きわまりない超絶技巧で私たちを魅了します。しかしその多くは当時輸出用として制作されていたため、海外で高い評価を得ながら、日本国内においては全貌を目にする機会がこれまでほとんどありませんでした。
忘れかけた明治工芸の魅力を伝えるべく、今や質・量ともに世界随一と評されるコレクションを築き上げたのが村田理如氏です。本展では村田氏の収集による京都・清水三年坂美術館の所蔵品から選りすぐりの逸品を一堂に公開します。
並河靖之らの七宝、正阿弥勝義らの金工、柴田是真・白山松哉らの漆工、旭玉山・安藤緑山らの牙彫、そして薩摩、印籠、刀装具、自在に刺繍絵画。多彩なジャンルにわたる約一六〇点の優品を通して、明治の匠たちが魂を込めた精密で華麗な明治工芸の粋をお楽しみください。

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【関連企画】
1、特別ギャラリートーク  2015年9月12日(土)10:30~11:30
本展作品所蔵者・村田理如氏(清水三年坂美術館館長)により、作品のみどころをお話しいただきます。

2、トークイベント「明治工芸の魅力を語る」 2015年10月31日(土)14:00~15:30 (セラミックパークMINO 国際会議場)
本展監修者・山下裕二氏(明治学院大学教授)と本展チラシでイラストを手掛ける気鋭の現代美術家・山口晃氏による記念対談。 
定員300名(先着順・要事前申込)、参加費無料。
※9月1日(火)10:00より、お電話(0572-28-3100)にてお申込みください。

3、ギャラリートーク
毎週日曜日13:30より当館学芸員によるギャラリートークを行います。会期中の催しにより、変更される場合があります。当館ホームページなどでご確認ください。

その他、会期中、美術館では様々な催しを予定しています。内容や日程、申込方法などの詳細は当館ホームページにてご案内します。


これまでの各会場とと同じく、光雲の木彫「西王母」「法師狸」が並ぶはずです。

他にも七宝、金工、自在置物、薩摩焼、象牙彫刻、漆工、刀装具などの逸品ぞろいです。お近くの方、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月20日000

昭和16年(1941)の今日、アトリヱ社から『ミケランヂエロ彫刻集』が刊行されました。

光太郎が序文「ミケランヂエロの彫刻写真に題す」を執筆しました。

ちなみに全く同じ昭和16年(1941)8月20日には、龍星閣から詩集『智恵子抄』、道統社から評論集『美について』が刊行されました。

『智恵子抄』と『美について』が同じ日の刊行ということには気づいていましたが、この『ミケランヂエロ彫刻集』も同じ日だったとは、改めて知りました。

9月も下旬となりました。10月に行われる光太郎智恵子、光雲関連のイベント等を順次紹介していきます。 
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平成26年10月4日(土)~平成26年12月23日(火)
 
佐野美術館 〒411-0838 静岡県三島市中田町1−43 TEL:055-975-7278 FAX:055-973-1790
 
入 館 料  一般・大学生1,000円 小・中・高校生500円 ※毎週土曜日は小中学生無料
開館時間 10:00~17:00(入館の受付は16:30まで)
休 館 日  木曜休館
主  催  佐野美術館、三島市、三島市教育委員会、静岡新聞社・静岡放送
後  援  静岡県教育委員会
助  成  医療法人社団清風会 芹沢病院
協  賛  伊豆箱根鉄道株式会社
協  力  清水三年坂美術館
監  修  山下裕二(明治学院大学教授)
企画協力 広瀬麻美(浅野研究所)
 
鋭い観察眼から生まれた本物と見紛うほどのリアリティ、文様をミリ単位で刻み、彩色し、装飾を施す繊細な手仕事――明治時代、表現力・技術ともに最高レベルに達した日本の工芸品は、万国博覧会に出品され海外の人々を驚嘆させました。多くは外国の収集家や美術館に買い上げられたため、日本で目にする機会はほとんどありませんでした。
その知られざる存在となりつつあった明治の工芸に魅了されたのが村田理如(むらた まさゆき)氏です。村田氏は1980年代後半、出張先のニューヨークの骨董商で日本の印籠に出会ったことをきっかけに収集を始め、2000年京都に清水三年坂美術館を設立。現在、1万点を超えるコレクションを築き上げています。
本展は、村田コレクションから並河靖之(なみかわ やすゆき)らの七宝、正阿弥勝義(しょうあみ かつよし)らの金工、柴田是真(しばた ぜしん)・白山松哉(しらやま しょうさい)らの漆工、旭玉山(あさひ ぎょくざん)・安藤緑山(あんどう ろくざん)の木彫・牙彫をはじめ、京薩摩の焼きものや印籠、刺繍絵画など厳選した約160点により、明治の工芸家たちの気概を表した「超絶技巧」の世界を展観します。
 
 
関連イベント
 
日 時 2014年10月25日(土) 14:00~15:30 
講 師 村田理如(清水三年坂美術館館長)、山下裕二(本展監修者・明治学院大学教授)
会 場 佐野美術館講堂
定 員 60名
参加費 500円
申 込 要申込・先着順
一万点を超えるコレクションを築いた清水三年坂美術館の館長・村田理如氏と、「超絶技巧! 明治工芸の粋」展の監修者・山下裕二氏が、明治工芸について熱く語ります。
コレクターと研究者と、立場の違うお二人から、どんな話題が繰り出されるのか、どうぞお楽しみに。
 
 
今年4月から7月にかけ、日本橋の三井記念美術館さんで開催されていた同じ企画展の巡回です(その後、山口県立美術館さんが2015年2月21日~4月12日、さらに富山県水墨美術館さんで2015年6月中旬~8月上旬だそうです)。
 
三井記念美術館さんに観に行ったレポートにも書きましたが、光雲作の木彫、「西王母」と「法師狸」が並びます。
 
その他、七宝、金工、漆工、薩摩焼、刀装具、自在置物、牙彫、印籠、刺繍絵画……まさしく「超絶技巧」が目白押しです。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
 
当方、本日は国分寺に、テルミン奏者・大西ようこさんとギタリスト三谷郁夫さんによるコンサート「もう一つの智恵子抄」を聴きに行って参ります。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月20日
 
昭和15年(1940)の今日、昭森社から森谷均編、『風経』が刊行されました。
 
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光太郎をはじめ、富本憲吉、北園克衛、土方定一、佐藤惣之助、倉田叕、蔵原伸二郎ら、美術家、文学者20余名の寄稿による書籍です。表紙は棟方志功。
 
光太郎の作品は、散文「鷗外先生の「花子」」。ロダンのモデルを務めた日本人女優、花子を描いた鷗外の短編小説「花子」について述べています。

愛知は碧南市から企画展情報です。
 
昨年、「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の巡回があった、碧南市藤井達吉現代美術館さんで、以下の企画展が始まります。 
 
光太郎の代表作の一つ、ブロンズの「手」も並びます。
 
9/13追記 残念ながら光太郎の代表作の一つ、ブロンズの「手」は、高岡展では展示されましたが、碧南には出ないそうです。すみません。

メタルズ!-変容する金属の美-

会  期 平成26(2014)年9月11日(木)から10月19日(日)まで
観覧時間  10:00-18:00
休 館 日 月曜日(ただし、9月15日(月・祝)及び10月13日(月・祝)は開館、翌日は休館)
観 覧 料 一般800(640)円 高校・大学生500(400)円 小学・中学生300(240)円
 
    ※()は20名以上の団体
 
関連イベント
■記念講演会 
日  時 2014年9月27日(土) 午後2時~3時30分 
講  師 村上隆氏(高岡市美術館館長/京都美術工芸大学教授)
内  容 「変容する金属の美」
場  所 大浜まちかどサロン2階(美術館向かい)
定  員 先着60名 (定員になり次第締切)
 
■ 美術講座
日  時 2014年10月4日(土) 午後2時~3時30分 
講  師 土生和彦(碧南市藤井達吉現代美術館学芸員)
内  容 「ブロンズによる人の姿」
場  所 大浜まちかどサロン2階(美術館向かい)
定  員 先着60名 (定員になり次第締切)
 
■ 工場見学と企画展観覧
ステンレスの製造工場を見学した後、担当学芸員とともに市内の野外彫刻、企画展を観覧します。
日  時 2014年9月28日(日) 午後2時~3時30分
対  象 中学生以上
昼 食 代 500円(企画展観覧には別途観覧料金が必要です。団体割引料金を適用します。)
定  員 先着20名 (定員になり次第締切)
 
■ ワークショップ 
銅板に好きな図案を鉄筆で描き、レリーフを作ります。
日  時 2014年10月5日(日) 
 1 小学生対象(12名まで):午前10時から正午まで
 2 一般(中学生以上12名まで):午後1時30分から4時30分まで
テ ー マ 銅のいぶしレリーフ
講  師 小島雅生氏(造形作家/東海学園大学准教授)
参 加 費 小学生:500円 一 般:2500円(展示用額付)
場  所 美術館地下1階創作室
 
■野外彫刻散歩
美術館周辺の野外彫刻を担当学芸員とともに歩いて巡ります。
日  時 2014年10月11日(土) 午前11時から12時30分まで
行  程 美術館出発→臨海公園野球場前→臨海体育館・水族館解散
参 加 費 不要
 
■ギャラリー・トーク
当館学芸員が展示作品の解説を行います。
日  時 9月:13日(土)、20日(土) 10月:11日(土)、18日(土)
 午後2時より(約30分)

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ぜひ足をお運びください。
 

【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月25日
 
昭和18年(1943)の今日、詩人、佐藤惣之助の追悼文集『佐藤惣之助おぼえ帖』が櫻井書店から刊行されました。001
 
佐藤惣之助(明23~昭17)は、句誌『とくさ』、文芸誌『テラコツタ』などに依った詩人です。
 
作詞家としても活躍、「赤城の子守歌」(作曲・竹岡信幸/歌・東海林太郎)、「大阪タイガースの歌」(現・「阪神タイガースの歌」、通称「六甲おろし」 作曲・古関裕而)などをてがけました。
 
光太郎の「詩魔佐藤惣之助氏」が掲載されています。抜粋します。
 
個人的に往来する間柄でなかつた私にも、佐藤氏の寛𤄃な気性と、清濁併せ呑む気宇と、内に包蔵する取つて動かぬ 耿介の精神とにはいつも心を惹かれてゐた。山ほどあつたであらう其の為残した仕事を抱いたまゝ急逝された事は惜しい上にも惜しい。

昨日、NHK Eテレさんで放映された「日曜美術館000」を拝見しました。
 
日本橋の三井記念美術館さんにて開催中の「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」展にリンクして制作されており、非常に見応えがありました。
 
同展出品作の中から、主に3つが大きく取り上げられました。
 
まず、安藤緑山作の牙彫「筍」。明珍一派の手になる自在置物、西村総右衛門による刺繍絵画「孔雀図屏風」。
 
それぞれ、現在も類似の作品を作っている工芸家の方にインタビューしたり、技法を再現してもらったりしながら紹介されており、興味深い内容でした。
 
それらの方々や、コメンテーターとしてご出演なさった同展監修者の山下祐二明治学院大学教授の語録です。
 
「人の手で出来る限界を追求している」
「人間3Dプリンター」
「誰が見たってびっくりする凄いもの」
「スポーツ選手が技の極限に挑戦するアスリート的な意識に似ている」
 
言い得て妙、です。
 
また、MCの井浦新さんが、自在置物の数々を実際に手にとられていました。画像の「蛇」など、すべての接合部が可動する仕組みになっており、どれだけ手間がかかっているんだと、舌を巻く思いでした。それは「筍」や「孔雀図屏風」にもいえることです。「孔雀図屏風」は、人間国宝の福田喜重氏によれば、「制作に3年かかるだろう」とのこと。
 
ちなみに自在置物の作者、「明珍」は、甲冑師の家系です。江戸時代になって、甲冑の需要が激減したことにより、その技術を応用してこうした自在置物に転じたとのことです。
 
ただ、明珍一派の全てが自在置物に転じたかというとそうではありません。東京美術学校で光太郎の一学年下だった明珍恒夫は、光雲の元で仏像彫刻の技術に磨きをかけ、卒業後は奈良美術院で古仏修復の仕事にあたりました。
 
こうした「工芸」の数々。評価が難しいところだと思います。技術的には本当に素晴らしいもので、まさに「超絶技巧」です。日本の職人の「ものづくり」に対する精神の極致といえるでしょう。
 
しかし、「芸術」という観点からみたらどうなのでしょうか。
 
光太郎晩年の談話筆記「炉辺雑感」(昭和28年=1953)の中に、おそらく自在置物を指すと思われる次のような一節があります。
 
 世間にはよく実物そつくり創ろうとする人がいる。ことに金でつくつたのなんかには、実に巧みに本物と似せてつくられているものがある。例えば、エビやカニの場合だつたらその足が動くようにできている。しかし、そういうものはいかに本物そつくりにできていても本物をへだゝること遙かに遠い。本物を創る為には本物にとらわれてはいけない。本物にとらわれて、本物に似せようとすると、本当の造型にはならないで、おもちやになつてしまう。
 
その前後にはこういう言も。
 
 蟬のあの脚を木でこしらえるのは、実に大変な仕事だ。芸術は一つの創造だから、事実ありのまゝの模写じやいけない。細いものを細く創つたんじや駄目。蟬の羽根は非常に薄いが、あれをそのまゝ薄く創つたんじや変なものになつてしまう。決して薄くなんて見えない。厚く見える。思いきつて厚く創ると却つて薄く見える。これが芸術というものである。
 
 彫刻は、蟬なら蟬を創るにしても一遍蟬から離れて、別の立場に立つて創らなければならない。そうすることによつて、はじめて蟬が模写にもおもちやにもならず、本当の蟬となることができる。人間の顔でも、その人を生写しにするというのでは彫刻にならない。たゞその人らしいものはできる。その人らしいもの、その人の影法師みたいなものはできるが、その人はできない。本物の影のようなもの、泡みたいなものを掴んでこれが彫刻だと喜んでいる人も少くないが、僕らはそんなものは彫刻と思えない。彫刻は、本当に出来れば、その人以上にその人となる。蟬以上に蟬、石以上に石となる。実物そつくりというわけじやないが、実物以上に実物となる。――これが造形芸術の奥の手である。
 
一言で言えば、方向性の違いだと思います。
 
光太郎は具象彫刻の作家だと言われますが、「人間3Dプリンター」のような方向性ではなく、具象の中にも抽象的な表現を取り入れています。それこそ蟬の羽根の厚さに対する処理などです。
 
それに対して安藤緑山の牙彫や明珍一派の自在置物などは、具象の極致。そこには「芸術」という意識はないのかも知れません。すると、どちらが上、どちらが優れている、そういう議論は不毛のような気がします。目指すものが違うのですから。
 
ともあれ、三井記念美術館さんで開催中、さらには来年まで全国巡回されるこの展覧会、ぜひご覧頂きたいと思います。
 
また、「日曜美術館」、今回の内容が来週日曜日、午後8時00分から再放送されます。ご覧になっていない方はこちらもお見逃しなく。同展に出品されている光雲作の木彫について言及されていなかったのが残念ですが……。
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月12日

平成10年(1998)の今日、広島県立美術館において「南薫造展―イギリス留学時代を中心に」が開幕しました。
 
南薫造は広島出身の画家。東京美術学校卒、光太郎と同年です。明治末にイギリス、フランスに留学。ロンドンでは光太郎と留学の時期が重なり、同じく画家の白瀧幾之助を交え、よく行き来していました。
 
同展では、明治40年(1907)と推定される光太郎から南に宛てた絵手紙も出展されました。
 
昨夕引越し申候。
ポリテクニツクの直ぐ側に候へば学校の御帰りがけにても御寄り披下度候。午後二時頃には小生大抵帰宅致し居候。夜は大方在宅の筈に候。
高村光太郎
 
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一昨日、東京国立博物館で光雲作「老猿」、光太郎作「老人の首」を観た後、日本橋の三井記念美術館さんに行きました。こちらでは「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」が開催中です。
 
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上記はチラシですが、ここにあるとおり、「七宝」「金工」「漆工」「薩摩」「刀装具」「自在」「牙彫・木彫」「印籠」「刺繍絵画」の各テーマ別に、百数十点の作品が並んでいます。
 
どれもこれも舌を巻くような技巧がこらされ、しかも趣味がいい作品ばかりです。副題にある「村田コレクション」とは、京都・清水三年坂美術館館長の村田理如氏の収集による同館収蔵品ということです。
 
明治期のこうした工芸については、近年まで正当な評価がされてきませんでした。一つには、主に輸出用に作られたため、国内に現物があまり残っていないという理由があります。村田氏は海外から買い戻したりして収集にあたられたとのこと。頭が下がります。
 
また、一部には度を超して技巧を凝らしすぎた作品があったのも事実です。そのため、永らくゲテモノ扱いされていたという部分があります。
 
そうした経緯は同展図録に掲載の村田氏「明治の工芸に魅せられて」、それから同展監修者の明治学院大学教授・山下裕二氏「超絶技巧の逆襲――明治工芸の再評価に向けて」に詳述されています。
 
1970年代刊行の日本美術史の書籍では、明治期の工芸はほとんど黙殺。「明治以降を専門領域とすることなど、アカデミックな研究者としてはいかがなものか、というような空気がたしかにあった」というのです。
 
上記画像のタケノコの作者、牙彫の安藤緑山などは、未だに生没年すら不詳ですし、弟子もとらなかったとのことで、その着色の方法もよくわかっていないそうです。昨年、テレビ東京系「美の巨人たち」で取り上げられ、興味深く拝見しました。
 
明治の工芸に光があたるようになって20年くらいでしょうか。当方、平成7年(1995)3月刊行の『芸術新潮』を持っていますが、「日本人が見捨てた明治の美「置物」彫刻の逆襲」という特集記事が載っています。
 
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第一部が「明治の木彫王高村光雲ものがたり」32ページ、第二部が「異人さんに買われていった明治輸出工芸の底力」27ページ。
 
この頃から、ようやく明治期の工芸が無視できない風潮になってきましたが、この時点では、まだゲテモノ扱いです(光雲作品は違いますが)。曰く、
 
悪趣味なまでに大胆、過剰なこのデザイン! これでもか、これでもかと持てる技巧を尽くしたこの出来ばえ……明治の職人たちが生き残りを賭けて生んだ異形の工芸品は、それが輸出用であったがために日本では忘れ去られて、欧米で静かに眠り続けてきた。
 
その後、平成5年(1993)に開館された宮内庁三の丸尚蔵館の収蔵品に注目が集まるようになり、昨年には京都国立近代美術館で「皇室の名品-近代日本美術の粋-」展が開催され、それをもとにNHKさんで「皇室の宝「第1夜 日本の危機を救った男た救った男たち」「第2夜 世界が認めたジャパン・パワー」」が放映され、ここにきてとみに明治工芸に注目が集まっています。
 
確かに悪趣味なまでに装飾過剰のものも存在したのですが、000そうではない佳品もたくさん存在するのです。今回の三井記念美術館さんの展覧会を観ればよくわかると思います。ぜひ足をお運び下さい。
 
さて、今回、光雲の木彫が2点並んでいます。「西王母」(昭和6年=1931)、 「法師狸」(制作年不詳)です。大作の「老猿」とはまた違った、小品ならではの魅力に富んでいます。
 
以前にも書きましたが、下記日程で巡回されます。

佐野美術館(静岡県三島市) 
 2014年10月4日(土)~12月23日(火・祝)
山口県立美術館(山口市)
 2015年2月末~4月下旬
 
さらに、NHKさんの「日曜美術館」、5月11日の放送が「知られざる明治工芸の超絶技巧」という副題ですので、この展覧会を扱うものと思われます。同番組MCの井浦新さんは、この展覧会の関連行事のトークイベント「日本美術応援団 明治工芸を応援する!」で、山下氏とともにご出演されるそうです。
 
「日曜美術館」については、新たな情報が入りましたらまたお伝えします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月2日

明治37年(1904)の今日、神田の高折周一音楽講習所でヴァイオリンのレッスンを受けました。
 
日記によれば、四月からレッスンに通い始めたとのこと。束脩(入門料)は1円、月謝は1円50銭。自転車の荷台にバイオリンをくくりつけて通ったそうです。
 
高折周一は東京音楽学校出身のヴァイオリニスト。のちに渡米し、明治45年(1912)、有名なポトマックの桜の植樹式で、高折の曲が演奏されたという記録があります。
 
ポトマックの桜をアメリカまで運んだのは、日本郵船の阿波丸(Ⅰ世)という船。この船は、かつて明治42年(1909)、欧米留学から帰る光太郎が乗った船です。不思議な縁を感じます。

東京日本橋の三井記念美術館さんで、光雲の木彫作品が展示される企画展が、今日から始まります。 

超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―

会期 : 2014年4月19日(土)~7月13日(日)
主催 : 三井記念美術館 朝日新聞社
協力 : 清水三年坂美術館
時間 : 10:00~17:00 金曜日は19:00まで
 : 一般1,300円 大学、高校生800円 中学生以下無料
 
近年、美術雑誌・テレビ番組などで頻繁に取り上げられるようになった明治の工芸。 中でも、超絶技巧による、精緻極まりない作品が注目を集めています。しかしながら、 それらの多くが海外輸出用の商品であったため、これまで日本国内でその全貌を目ににする機会は、ほとんどありませんでした。
本展では、村田理如(まさゆき)氏の収集による京都・清水三年坂美術館の所蔵品のうち、並河靖之(なみかわやすゆき)らの七宝、正阿弥勝義(しょうあみかつよし)らの金工、柴田是真(しばたぜしん)・白山松哉(しらやましょうさい)らの漆工、旭玉山(あさひぎょくざん)・安藤緑山(あんどうろくざん)らの牙彫をはじめ、驚くべき技巧がこらされた薩摩や印籠、近年海外から買い戻された刺繍絵画など、選りすぐりの約160点を初めて一堂に展観いたします。
 
質・量ともに世界一の呼び声が高い、村田コレクション秘蔵の名品が三井記念美術館に勢ぞろいします。
 
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出品目録によれば、光雲の木彫作品が2点並びます。「法師狸」(制作年不詳)と「西王母」(昭和6年=1931)。 
 
他にも七宝や金工、牙彫、自在置物などで、明治期を代表する名工の作品がずらっと並ぶようです。東京美術学校の関係で光雲や光太郎と縁のあった作家の作も含まれます。石川光明、海野勝珉など。
 
これはぜひ観なければ、と思います。
 
また、以下の通り関連イベントも開かれます。 
 
 
トークイベント「日本美術応援団 明治工芸を応援する!」
出演: 井浦 新氏(俳優、クリエーター)、山下裕二氏(本展監修者、明治学院大学教授)
日時: 5月10日(土) 14:30~16:00
 
対談 「村田コレクションの来し方、行く末」
出演: 村田理如氏(清水三年坂美術館館長)、山下裕二氏(本展監修者、明治学院大学教授)
日時: 6月7日(土) 14:00~15:30
 
NHKさんの「日曜美術館」でおなじみ、井浦新さんもご登場です。
 
さらにこの企画展、以下の日程で全国巡回です。
 
佐野美術館(静岡県三島市) 2014年10月4日(土)~12月23日(火・祝)
山口県立美術館(山口市)  2015年2月末~4月下旬
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月19日

昭和56年(1981)の今日、山梨県北巨摩郡長坂町(現・北杜市)に、清春芸術村が開村しました。
 
「清春白樺美術館」を中核とする施設で、武者小路実篤、志賀直哉など『白樺』の同人が大正年間に建設しようとして、その夢を果たせなかった幻の「白樺美術館」を実現させようと作られたものです。
 
基本設計は建築家の谷口吉郎。「十和田湖畔の裸婦群像」台座や周辺の設計にも関わった人物です。
 
清春白樺美術館では、現在3点しか現存が確認されていない智恵子の油絵のうちの1点「樟」を所蔵しています。

こんなものを手に入れました。
 
『日曜美術館新聞』新春特別号。A2判二つ折り、全4頁です。
 
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NHKEテレさんで、日曜日の朝(本放送)と夜(再放送)に放映されている「日曜美術館」のPR誌のようです。
 
同番組では昨秋、「智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」と題し、光太郎をメインで取り上げて下さいまして、当方もアドバイザーとして参加させていただきました。
 
最近も、1/19の放映で東京美術学校で光太郎と同級生だった藤田嗣治を取り上げて下さっています。
 
で、『日曜美術館新聞』。この中で、現在東京国立博物館で開催中の「人間国宝展-生み出された美、伝えゆくわざ-」が大きく取り上げられています。
 
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曰く、
 
工芸は時代に合わせて、伝統的な技の上に創作性や個性的なデザインが加わり、変化し広く受け入れられてきた。作家の創意工夫によって多様化した日本の工芸。“クラフト”でなく、世界に誇る日本の“コーゲイ”の奥行き有る美しさを再発見し、伝統の枠組みを超え未来へ託される可能性を展望する機会となるにちがいない。
 
まさしくその通りですね。
 
以前にも書きましたが、同展では光太郎の弟で鋳金家の高村豊周、その弟子で光太郎ブロンズ彫刻の鋳造を手がけた斎藤明の作品も展示されています。
 
会期は来月23日(日)まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月29日

明治44年(1911)の今日、智恵子の祖父・長沼次助が歿しました。
 
次助は新潟県南蒲原郡田上町の出身。郷里に妻子を残し、杜氏として二本松に来ていた際に、智恵子祖母の安斉ノシと所帯を持ち、長沼酒造を興しました。智恵子の母・センはノシの連れ子。したがって智恵子と次助に血のつながりはありません。それでも次助は智恵子をかわいがってくれたそうです。
 
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前列左端が次助、その後ろが智恵子。明治41年頃、長沼家の庭で撮られた一枚です。

昨日は都内に出かけました。
 
まずは、上野の東京国立博物館平成館で15日に始まった「日本美術の祭典 人間国宝展―生み出された美、伝えゆくわざ―」を観て参りました。
 
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同館の資料館には調べ物で時々行くのですが、展示を見に行ったのは久しぶりでした。
 
ちなみに平成館のある一角は、大正6年(1917)から同11年(1922)まで、帝室博物館総長だった森鷗外の執務室があった区画だと言うことで、説明板があります。
 
さて、展示ですが、いわゆる「人間国宝」、正しくは重要無形文化財保持者のうち、工芸技術分野の歴代150余人の作品がずらっと並びました。どの作品をとっても、舌を巻くような技術、そして技術のみならず、この日本という国にはぐくまれた芸術性を感じさせるものばかりで、非常に見応えがありました。
 
光太郎の弟で、鋳金家だった豊周も人間国宝の一人、「鼎」が展示されていました。そしてその豊周の工房で主任を務めていた斎藤明氏の「蠟型吹分広口花器「北辛」」も。斎藤氏は連翹忌ご常連でしたが、昨秋に亡くなられました

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昨年の連翹忌にて、氏より「こんなものがあるんですが……」と、渡されたのが、平成9年(1997)に花巻で行われた第40回高村祭の記念講演「高村光太郎先生のブロンズ鋳造作品づくり」の講演筆録。各地に残る光太郎ブロンズ作品を実際に鋳造された経験が記されていました。一読して、美術史上、大変に貴重なものであると確信し、昨年10月に刊行した『光太郎資料40』に掲載させていただきました。
 
その直後に氏の訃報に接し、残念な思いでいっぱいでした。今回の展示も、存命作家の作品を集めたコーナーに並び、氏が昨秋亡くなった由、キャプションが追加されていました。
 
ちなみに氏の作品は、銅と真鍮、異なる金属を使っての鋳金です。その境界(といっても、継いであるわけではないのですが)の部分の微妙な味わいは、不可言の美を生み出しています。
 
画像は図録から採らせていただきました。この図録、2,300円もしましたが、300頁余で、近現代の日本工芸の粋がぎっしり詰まっており、観ていて飽きません。
 
実際の展示を観ながらもそう思ったのですが、光太郎と関連のあった人物で言えば、陶芸の濱田庄司、富本憲吉など、「この人も人間国宝だったんだ」という発見(当方の寡聞ぶりの表出ですが)もいろいろありました。
 
ところで人間国宝の制度ができて60年だそうで、もっと早くこの制度があったら、光雲やその門下の何人かは間違いなく選ばれていたでしょう。
 
光雲といえば、東京国立博物館には光雲の代表作の一つ、「老猿」も収蔵されています。ただ、展示替えがあるので常設展示ではなく、昨日は並んでいるかなと思い、本館にも寄りましたが、残念ながら並んでいませんでした。
 
そういうわけで国立博物館を後にし、その後、池袋に向かいました。過日のブログでご紹介したイラストレーターの河合美穂さんの個展「線とわたし」を観るためです。

こちらの会場は要町のマルプギャラリー。普通の民家と見まごう建物で、すぐに見つかりませんでした。
 
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中に入ると、やはり普通の民家を改装007してギャラリーにしてある風で、玄関で靴を脱いであがる様式でした。展示スペースは5坪ほどでしょうか、ペンと水彩を中心にしたかわいらしい作品が20点ほど掛かっていました。
 
宮澤賢治や中原中也へのオマージュ的なイラストに混じって、光太郎の「梅酒」をモチーフにした作品が一点。琥珀色の梅酒で満たされたガラス瓶の周りに微妙な色のグラデーションで描かれた梅の実が三つ。詩の中の「早春の夜ふけの寒いとき」のイメージでしょうか、背景の一部に使われた群青色もいい感じでした。
 
受付に賢治の「銀河鉄道の夜」による作品のポストカード的なものがあり、一枚、頂戴して参りました。これもあたたかみのあるいい絵ですね。「梅酒」のイラストもポストカード的なものにしてくださってあればなおよかったのですが……。
 
さて、賢治、光太郎と来れば花巻。今日から1泊2日で花巻方面に行って参ります。途中で福島市に寄り、調べ物。午后には花巻に入り、花巻市立博物館の企画展「佐藤隆房展―醫は心に存する―」を観て参ります。
 
それからもちろん、この冬から通年開館となった郊外旧太田村の新装高村光太郎記念館にも行きます。この季節に訪れるのは初めてで、どれほど厳しい環境なのか、確かめて参ります。
 
定宿の大沢温泉さんがとれず、今回はさらに奥地で、やはり光太郎が何度か訪れた鉛温泉さんに宿を取りました。詳しくは帰ってからレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補008遺】 1月18日

平成16年(2004)の今日、角川春樹事務所刊行の「ハルキ文庫」の一冊として「高村光太郎詩集」が上梓されました。
 
解説は詩人の瀬尾育生さん。歌人の道浦母都子さんのエッセイ「七.五坪の光と影」も収録されています。「七.五坪」とは、旧太田村の光太郎が七年暮らした山小屋ですね。
 
最近は売れっ子作家の小説などが文庫書き下ろしで続々刊行されていますが、こうした古典的な作品も、文庫のラインナップとして残していって欲しいものです。
 
帯には「道程」の一節が印刷されていますね。しつこいようですが、今年は「道程」執筆100周年、詩集『道程』刊行100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年です。

光雲の作品も出品され、京都国立近代美術館で開催中の「皇室の名品-近代日本美術の粋」展が、テレビで大きく取り上げられます。

皇室の宝「第1夜 日本の危機を救った男たち」「第2夜 世界が認めたジャパン・パワー」

NHKBSプレミアム 2014年1月1日(水)  19時00分~20時00分
NHKBSプレミアム  2014年1月2日(木)  19時00分~20時00分
 
豪華けんらん、唯一無二。皇室が収集してきた究極の宝が京都に集結。美術品に課せられた使命とは?かつて日本を救った職人たちの物語に女優の栗山千明が迫る。
 
宝石のように輝く七宝、再現不可能とされる謎の金属置物。明治以降、皇室が収集してきた究極のコレクションが京都に集結している。そんな名品ぞろいの展覧会を取材することになったのは新人ディレクターの宮崎京子(栗山千明)。静まり返った会場で不思議な光景を目にする。なんと作品たちが動き出したのだ!美術品に託された国家の命運、かつて日本の危機を救った職人たち。作品たちが物語る秘話に次第にのめり込んでゆく。
 
出演 栗山千明 井上順 山崎樹範 飯尾和樹 語り 國村隼
 
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NHKさんサイトから
 
現代技術では再現不可能と言われる色を放つ「七宝」、世界に衝撃を与えた超細密「金属工芸」、世界初の技術を駆使して織り上げた豪華絢爛「西陣織」など、明治から昭和にかけて皇室が集めた秘蔵コレクション。
 
これらの美術品が生まれたのは開国間もない明治時代。諸外国の干渉を退け、急速に近代化を推し進めるには、日本は工業も未成熟で、まだ体力が足りなかった。
 
そこで美術品を輸出し、大量に外貨を獲得しようという国家プロジェクトがあった。いわば国策によって生まれた究極の美術品たち。
 
しかしその後日本が成長し、西洋文化が入り込むにつれ、美術品とそれを作り上げた匠たちの技や思いは薄れていった。
 
番組は、ドラマ仕立ての中で、実際に取材したVTRを紹介する形で進行。主人公は、栗山千明さん扮する「宮崎京子(みやざききょうこ)」。京都にある架空の番組制作会社「京都町家(きょうとまちや)テレビ」に勤務するアシスタントディレクター。
 
その京子が、「京都町家テレビ」の社長兼プロデューサー・藤田(井上順)の命令で、先輩ディレクター・池田浩一(山崎樹範)と共に、京都国立近代美術館で開かれる「皇室の名品」展の取材にいく所から番組は始まる。
 
美術館の広報担当・林(飯尾和樹)の案内をうけ取材を進めていくと、突然、美術品たちが動き、京子にしゃべり出す。そこで語られるのは、美術品に駆使された高度な職人技や、生み出した職人達の埋もれた秘話。2夜連続でお伝えする。
 
番組サイトでは、二代 川島甚兵衞の綴錦「百花百鳥之図壁掛」、川之邊一朝、海野勝珉、六角紫水ほかによる「菊蒔絵螺鈿棚」、海野勝珉「蘭陵王置物」、並河靖之「七宝四季花鳥図花瓶」などの画像が使われています。
 
番組では光雲作品も取り上げていただけると有り難いのですが……。ちなみに光雲がらみの出品物は以下の通りです。
 
「矮鶏置物」(明治22年=1889)、「鶴亀置物」(明治40年=1907、竹内久一と合作)、「萬歳楽置物」(大正5年=1916、山崎朝雲と合作)、「猿置物」(大正12年=1923)、「松樹鷹置物」(大正13年=1924)。
 
新春を彩る絢爛たる世界。ぜひご覧下さい。
 
「皇室の名品-近代日本美術の粋」展についてはこちら。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月29日

昭和27年(1952)の今日、浅草のストリップ劇場「フランス座」に行きました。
 
数え70歳の光太郎、性的な関心というより、美しいものを観たいという欲求なのでしょう。ある意味、尊敬します。

展覧会情報です。 
 
上野の東京国立博物館と東京都美術館のコラボレーションにより、両館で開催される三つの展覧会を結ぶプロジェクト「日本美術の祭典」が開催されますが、その中の一つがこれです。
 
人間国宝に認定された全物故作家の作品約100件、さらに存命中の作家の作品も並ぶとのことで、光太郎の弟で、鋳金家の高村豊周、そしてその弟子で光太郎ブロンズ作品の鋳造を多数手がけられた斎藤明氏(本年ご逝去)の作品も展示されます。

日本伝統工芸展60回記念 人間国宝展 ―生み出された美、伝えゆくわざ―

会期  2014年1月15日(水)~2月23日(日) 午前9時30分~午後5時 月曜休館
会場  東京国立博物館 平成館 
 
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(12/4 朝日新聞)
 
以下、公式サイトより。
 
日本では、伝統の「わざ」を受け継ぐ優れた工芸家を重要無形文化財の保持者(人間国宝)に認定しています。工芸大国日本ならではの制度といえるでしょう。陶芸、染織、漆芸、金工、木竹工、人形、諸工芸の各分野で多くの人間国宝を育ててきた「日本伝統工芸展」の6 0回記念として、「人間国宝展」を開催いたします。
全物故作家の作品約100件、さらに古代から、中世、近世へと連綿と伝えられてきた国宝や重要文化財を含む工芸品約30件を向き合わせて展示し、卓越したわざの美をご覧いただきます。伝統と現代とのつながりを見る、これまでにない画期的な展覧会です。

 
同じ東京国立博物館での「クリーブランド美術館―名画でたどる日本の美」、東京都美術館で開かれる「日本美術院再興100年 特別展『世紀の日本画』」を併せた「日本美術の祭典」としては以下のように紹介されています。
 
 2014年、上野の新春は「日本美術の祭典」で幕を開けます。
 東京国立博物館と東京都美術館のコラボレーションにより、両館で開催される3つの展覧会を結ぶ特別なプロジェクトが実現しました。
 時代を超えて輝きを放つ絵画や工芸の名品に触れることで、さまざまな日本の美を再発見していただこうという新しい試みです。
 東京国立博物館では2つの特別展を同時開催します。「クリーブランド美術館―名画でたどる日本の美」は、全米屈指といわれる同館の日本美術コレクションから、仏画や肖像画、花鳥画、山水画などを選りすぐって公開するものです。日本伝統工芸展60回記念「人間国宝展―生み出された美、伝えゆくわざ―」では、歴代の人間国宝や先人が残した古典の名作を展観し、日本が誇る工芸の精華を紹介します。
 一方、東京都美術館で開かれる「日本美術院再興100年 特別展『世紀の日本画』」には、近代日本画の巨匠たちの代表作が勢揃いします。
 日本美術の粋が集結するまたとないこの機会、素晴らしき三重奏をお楽しみください。


ぜひ足をお運び下さい。

 
【今日は何の日・光太郎】 12月19日

平成16年(2004)の今日、下北沢のザ・スズナリで上演されていた、光太郎智恵子演劇「れもん」が千秋楽を迎えました。
 
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光太郎役が柄本明さん、智恵子役が石田えりさん。キャストはそれだけの二人芝居でした。

昨日から愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館において、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展が開幕しました。
 
ところで館の名前に冠されている「藤井達吉」とは? 今日はそのあたりを書いてみます。
 
一言で言うなら、明治・大正・昭和三代に活躍した工芸家、ということになるでしょうか。
 
生まれは明治14年(1881)、現在の碧南市です。光太郎より2歳年上になります。
 
専門の美術教育は受けておらず、17歳で七宝工芸の店に入ります。折からの博覧会ブームで、明治36年(1903)には内国勧業博覧会、翌年にはセントルイス万国博覧会に出品。そうした中で新しい美術工芸への目を開かれ、店を辞め、作家として立つ道を選びました。
 
明治44年(1911)には、光太郎が経営していた日本初の画廊・琅玕洞に藤井の作品が並んでいます。琅玕洞の名目上の経営者は、光太郎の次弟・道利で、主にその道利の手になる琅玕洞の出納帳的なものが残っています(『高村光太郎全集』別巻に掲載)。そこには藤井作の「土瓶」「茶碗」「湯呑」「茶道具」などが記録されています。
 
さらに藤井は大正元年(1912)に結成されたヒユウザン会(のちフユウザン会)に加わっています。光太郎は同会の中心メンバーの一人でした。
 
実は、光太郎本人と藤井とのつながりはこの辺りまでしかたどれません。『高村光太郎全集』で藤井の名が出てくるのは先の琅玕洞文書だけなのです。光太郎から藤井宛の書簡なども確認できていません。ただ、今後、出てくる可能性がありますので、期待したいところです。
 
ただし、藤井はその後、光太郎の三弟で、鋳金家の豊周と密な関係になります。藤井も豊周も、工芸界の革新運動に取り組み、装飾美術家協会、无型(むけい)などの団体で歩を同じくしています。
 
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写真は昭和2年(1927)の无型第一回展同人。後列中央が藤井、前列左端が豊周です。
 
昭和43年(1968)に刊行された豊周の『自画像』、平成4年(1992)から刊行が始まった『高村豊周文集』(全五巻)には、藤井の名があちこちに出てきます。以下、『自画像』から。
 
富本憲吉のほかに、新興工芸の啓蒙期に忘れられない恩人は藤井達吉と津田青楓である。
(略)
藤井達吉も、伝統やしきたりに拘泥しないで、自由に材料を使って自分の作りたいものを作った。確か三笠という美術店で藤井達吉の個展を見たが、壁掛けに大変打たれた。それまで壁掛けというと、みんなエレガントな貴族趣味のものばかりだったが、藤井達吉の壁掛けは全く庶民的で、生地には普通の木綿やビロードやコールテンなどの端切れを、はぎ合わせたものが無造作に使われている。壁掛けのアップリケに竹の皮が使われているのを見て、私はあっと思った。模様も実に自由で、蝶々とか、とんぼとか、いろいろな野の草を表現し、今まで人が振り返りもしなかった題材や材料を使って、非常に新鮮な面白い効果をあげている。
(略)
藤井達吉のものは、ヨーロッパの影響はまず考えられない。彼は非常に多才な人で、染織も、刺繍も、木彫も、七宝もやった。木彫も全然今までの木彫のやり方に拘泥しないで、まったく自分の感じ方だけでやっている。新しい生命を吹き込むというか、作られたものは何も彼も生き生きとしていた。この人たちは、ようやく胎動期に入った新興工芸の先駆者とも恩人ともいうべきで、私たちばかりでなく、当時新しい工芸の行き方に煩悶していた若い工芸家に大きな影響を与えたといえよう。
 
今年の6月、京都国立近代美術館で開催された企画展「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」を観て参りました。光太郎の水彩画が並んでいるというので行ったのですが、思いがけず藤井の作品もずらっと出ていました。当方、藤井の作品をちゃんと見るのはこの時が初めてでしたが、そのバリエーションの豊かさに驚きました。同展図録から画像を拝借します。
 
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いかがでしょうか。
 
さて、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展、碧南市藤井達吉現代美術館で開催中ですが、四室中の一室のみ、常設展ということで藤井の作品も見られます(なんだか庇を借りて母屋を乗っ取っているようで心苦しいのですが)。併せてご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月2日

昭和45年(1970)の今日、TBS系テレビで「花王愛の劇場 智恵子抄」の放映が始まりました。
 
光太郎役は故・木村功さん、智恵子役は佐藤オリエさんでした。佐藤さんは光太郎を敬愛していた彫刻家・佐藤忠良のお嬢さんです。
 
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放映は月から金の13:00~13:30。この年大晦日が最終回だったそうです。
 
主題歌は西尾和子さんで「智恵子抄」。昭和39年(1964)の二代目コロムビア・ローズさんのカバーです。
 
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「流行歌」とか「テレビ映画」という語に昭和の薫りが色濃く漂っています(笑)。

当方の住まう千葉県香取市では夏と秋に「佐原の大祭」が行われております。夏祭りに関しては7/4、7/14のブログで御紹介しました
 
来週末、10/12(金)、13(土)、14(日)の3日間、今度は秋祭りが行われます。

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夏祭りについて書いた時に御紹介しましたが、巨大な人形をいただいた山車(だし)が引き回される祭礼で、江戸時代から続くものです。その山車を飾る彫刻に、光雲と交流のあった彫刻家、石川光明の家系が関わっています。また、人形の中には、光雲がその技を激賞したという三代目・安本亀八作の「活人形」も。
 
横浜では光雲の手がけた神輿(みこし)がねり歩くというニュースがありましたが、佐原の山車には残念ながら高村系の彫刻は入っていません。それでも石川系の彫刻も負けず劣らず巧妙精緻なもの。
 
ぜひお越しください。

8/25のブログで紹介した高島屋横浜店さんにおいて開催中の「東と西の出会い 生誕125年 バーナード・リーチ展」に行って参りました。
 
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図録(\2,000)
 
当方、リーチの作品をまとめて観たのは初めてで、感動しました。素朴な作品が多いのですが、それが稚拙とか凡庸というわけではなく、温かみやしっかりと個性を感じさせるものでした。
 
ゴテゴテした装飾過剰に陥らず、外連味(けれんみ)や奇をてらうといったこともなく、「用の美」の精神が具現されていると感じました。光太郎も「用の美」の重要性をよく説いていました。ただし、光太郎の場合、戦時中の戦闘機などの機能美にそれを見ていたこともあるのですが……。
 
逆に、奇抜といえば奇抜なアイディア-たとえばアルファベットや数字を絵付けする-も秀逸だと思いました。それが違和感なく調和しており、しかし日本の陶芸家がこれをやると外連味と感じられるのかも知れません。
 
平日にもかかわらず会場はにぎわっていました。NHKさんの「日曜美術館」で取り上げられた影響もあるかも知れません。「これ、テレビでやってた作品だね」などと話しながら見ている老夫婦もいらっしゃいました。当方もテレビで得た知識が理解や鑑賞の手助けになりました。
 
にぎわっていたのはテレビの影響だけではないでしょう。もちろん、横浜という大都市だということもあります。しかし、美しいものを見たい、という欲求があるからこそ人が集まるのでしょう。そういう欲求が持てるのも人間の特権の一つだと思います。
 
忙しさに追われて日々を送っている皆さん、たまには美術館に足を運びませんか? 
 
リーチ展、以下の日程になっています。
 横浜・高島屋横浜店:9月19日~10月1日
 大阪・高島屋大阪店:10月10日~10月22日
 京都・高島屋京都店:10月31日~11月11日

昨日のブログで、バーナード・リーチの写真を載せるため、彼の『東と西を超えて 自伝的回想』(福田陸太郎訳 日本経済新聞社 昭和57年)を引っ張り出しました。

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ついでに光太郎に関する記述がある部分を読み返してみましたところ、ちょっと面白いエピソードがあったので紹介します。

 私の最初の日本人の友、高村光太郎が今私の心に甦って来る。私はいまでも、初めの頃の彼の手紙をいくらか持っている。
 (中略)
 最近一九七三年にもなって、彼についてある事柄が起こった。それは私が、秩父宮妃殿下の催された小さな親しい茶席に招待された時のことである。妃殿下自身も陶器をお造りになり、芸術の後継者であられた。わずか八人が出席しており、ある一刻、私にだけお話しをされた。たまたま、私の古い友人の高村の詩がお好きであると言われた。私は驚いて、妃殿下の方を向いて言った。「高村はわれわれが二人とも学生であった頃のロンドンでの私の初めての友人です。私はご存知のように日本語は読めませんが、数行が心に浮かんで来ます。
 
  秩父おろしの寒い風
  こんころりんと吹いて来い
 
妃殿下は驚いて私の方を向かれた。こんなに驚いた人を私は知らない。一度だけ私の記憶が正確だったのだ。そして、何と奇妙なことに高村は、妃殿下の土地-秩父-の名を使ったのである。

 まず「秩父宮」は昭和天皇の弟君、秩父宮雍仁親王。社会活動としてスポーツの振興に尽くし「スポーツの宮様」として広く国民に親しまれ、秩父宮ラグビー場にその宮号を遺しています。国民の人気も高かったのですが、昭和28年、50歳の若さで急逝。その際、光太郎は「悲しみは光と化す」(『高村光太郎全集』第6巻)という散文を書いて哀悼の意を表しています。 
 
 勢津子妃殿下は平成7年、85歳までご存命でした(会津藩主松平容保の孫だったそうで、これは当方、存じませんでした)。
 
「秩父おろしの寒い風/こんころりんと吹いて来い」は、リーチ来日中の大正元年、『白樺』に発表された詩「狂者の詩」の一節。正確には「秩父おろしの寒い風/山からこんころりんと吹いて来い」で、この詩の中でリフレインされています。
 
 話の流れからすると、妃殿下はリーチと光太郎の関係をご存じなかったのではないかと思います。光太郎歿して17年。二人の間に秩父おろしの風のようにさっと吹いた光太郎の思い出。いい話だな、と思いました。
 
 これも妃殿下がご存知だったかどうか不明ですが、秩父宮家と光太郎の関連はもう一つ。昭和3年のご成婚を祝し、「或る日」という詩を発表しています(『全集』第2巻、初出不詳)。これに関しても面白いエピソードがあるので、明日、紹介します。 

昨日、高島屋でのバーナード・リーチ展についてお知らせしましたので、光太郎の書いた文章の中から、リーチに関する記述を紹介します。
 
まず、昭和8年に『工芸』という雑誌に発表された「二十六年前」という散文から。
 
ロンドンの名物のひどい濃霧になやませれてゐる時だつたから、むろん冬の事である。多分一九〇七年の十一月頃だつたらう。「ロンドン スクウル オブ アアト」のスワン教授の教室で素描に熱中してゐた私は、性来の無口と孤独癖とから、あまり他の生徒等との交渉を好まなかつたにも拘らず、その学校に於けるたつた一人の日本人の学生であつたところの私に何らかの興味を持つてゐるらしい幾人かの同級生のある事に気がついてゐた。休み時間に私がトルストイの「芸術とは何ぞや」を読んでゐると、後ろからそれをのぞきこんで、「君は彼をどう思ふ」など質問する者もゐた。(中略)或日その背の高い痩せた生徒がたうとう思ひ切つたやうに私に向つて口を切つた。「君はなぜ日本風な素描を描かないのか。」私は即座に返事した。「ヨオロツパの美術家が感ずるものを理解したいと思つて私はヨオロツパに来た。私は今此所で日本画を描かうと思つてゐない。それはずつとあとの事だ。」「なるほど、さうか。私は日本人が此所でどんな素描を描くかと思つて大きな興味を持つてゐたが、実は君の描くものが更に日本風でないので理解に苦しんだ。」私は此の背の高い、鼻の高い、眼のやさしい善良な生徒と、此日以来友達になつた。此がバアナアド リイチだつた。
 
いわゆるジャポニスムの流行はピークを過ぎた時期ですが、リーチは個人的に日本に惹かれていました。昭和26年に『中央公論』に発表された「青春の日」から。
 
リーチが僕のところにやつて来た時、たまたま僕がマンドリンをその頃習つていたので、それをいじつていた。何の気もなく、日本の民謡の「一つとや」をやつたら、リーチはそのメロデイをおれは知つていると言う。いや、これは日本の唄で、君が知るわけはないと言うと、リーチは香港で生れ、小さい時分に京都にも来たことがあるそうで、そのころに聞いたことが分つた。そんなことで、だんだん日本に熱を上げて、どうしても日本へ一度行くと言う。事実、リーチは間もなくそれを実行した
 
そしてリーチは日本で陶芸と出逢い、独自の境地を作り出します。やはり光太郎の「リーチ的詩魂」(昭和28年・『毎日新聞』)から。
 
リーチは焼物を日本で勉強したので、東洋の美はリーチの細胞にまでなつているが、その細胞にはまたリーチの血脈である西洋の美がみなぎつていて、東洋人ではちよつと出せない質がそこにある。器の把手などの面白い扱いはなどはリーチ自身も無意識だろうが、これは確に西洋の美だ。東洋と西洋とはリーチの中にひとりでにとけている。それがまことに愉快である。
 
これこそが国際交流、という気がします。

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バーナード・リーチ 『東と西を超えて 自伝的回想』
バーナード・リーチ著 福田陸太郎訳 日本経済新聞社 昭和57年 より
 
このところ、中韓との領土問題や、シリアでの日本人ジャーナリストの殉職など、国際的な事件が頻発しています。こういう時こそ、国境を超えて東と西の融合を図った先人の業績に思いを馳せるべきではないかと思います。そういうことが「歴史に学ぶ」ということなのではないのでしょうか。

今朝の『朝日新聞』さんを広げて知りました。 

東と西の出会い 生誕125年バーナード・リーチ展

会期情報000
東京・日本橋高島屋:2012年8月29日~9月10日
横浜・高島屋横浜店:9月19日~10月1日
大阪・高島屋大阪店:10月10日~10月22日
京都・高島屋京都店:10月31日~11月11日

バーナード・リーチは、イギリスの陶芸家です。元々、香港の生まれで、幼い頃には京都に暮らしていたこともありました。明治41年、ロンドン留学中の光太郎と知り合い、日本熱が高まって来日します。その後、たびたび来日、長期の滞在もあり、白樺派の面々、富本憲吉、浜田庄司らと親しく交わり、陶磁器の作成に独自の境地を展開しました。光太郎との交流も後々まで続いています。
 
さて、今回の展覧会では光太郎と直接関わる出品物があるかどうかわかりませんが、関東で開催中に1度行ってみようと思っています。

昨日から当方居住の千葉県香取市で「佐原の大祭・夏祭り」が行われています。
 
間接的にですが光雲とも関わる江戸彫刻や活人形などに飾られた山車を見に行ってきました。
 
まずこちらは「寺宿」という町内の山車に施された彫刻です。これが光雲と東京美術学校で同僚だった石川光明の家系の仕事です。

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こちらは「荒久(あらく)」という町内の山車で、山車の上部に据え付けられる巨大な人形。活人形(いきにんぎょう 「生人形」とも表記)という種類のもので、作者は三代目安本亀八。同じ亀八の作品、「下中宿」の菅原道真は、光雲に激賞されたという話も。その菅原道真をいただいた「下中宿」の山車、今日は行き会えませんでした。夜8:45~のNHK総合の関東甲信越ニュースではばっちり映っていました。

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他の山車にも幕末から明治、大正、昭和初めの職人達の精魂込めた仕事が為されています。
 
こうした木彫や人形をじっくり見たいという方のために、「水郷佐原山車会館」という博物館があります。山車の実物が展示されている他、祭りの歴史を紹介するコーナーや古い写真パネルなど、興味深い展示になっています。彫刻や工芸の歴史に興味のある方は、必見です。
 
また、周辺の古い街並みも非常に風情があります。是非一度お越しあれ。

本日も香取市(旧佐原市)ネタです。佐原と光雲の間接的なつながり、ということで、昨日は佐原の大祭についてご紹介しました。もう一つ、似たような例があるので今日はそちらを。
 
JR佐原駅の改札を出て、まっすぐ南に行きますと、500㍍ほどで小高い山にぶつかります。山の上には諏訪神社。山の手前、右側は公園になっており、こちらに建っているのが下の画像の銅像です。
 
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我が国で初めて実測による日本地図を作成した、伊能忠敬の銅像です。
 
忠敬は元々は九十九里の生まれでしたが、醸造業だった佐原の伊能家に養子として入り、傾いていた家業を盛り返し、また、佐原本宿の名主としても、天明の飢饉の際に私財をなげうって窮民救済にあたったなどといわれています。そしてその名を一躍有名にした実測地図作成。これが実は隠居後の仕事だったというのですから驚きです。佐原旧市街には、現在も残る忠敬の旧居、平成10年に開館した伊能忠敬記念館などがあり、佐原観光の拠点になっています。
 
というわけで、地元の誇りというわけで、古くから顕彰活動が行われていまして、この銅像は大正八年、忠敬没後百年を記念して当時の佐原町有志が中心となって建立されました。
 
この像の作者は、大熊氏廣。安政三年生まれの彫刻家で、日本近代彫刻の草創期を担った一人。靖国神社に建つ「大村益次郎像」(明治26年=1893)など、我が国最初期の銅像の作者です。
 
もっとも、光太郎はこの大村益次郎像に対しては非常に手厳しい文章を残しています。曰く「大熊氏廣氏作の大村益次郎像は九段靖国神社前に日本最初の銅像として今日でもその稚拙の技を公衆に示してゐる。(中略)本来塑像家としての素質無く、その作るところ殆ど児戯に等しい観があつて、何等の貢献をも日本彫刻界に齎(もたら)してゐない。」(「長沼守敬先生の語るを聴く」昭11=1936『全集』第7巻)。
 
草創期なんだからある意味仕方がないじゃないかと思いますが、どうでしょうか? ちなみに光太郎、勘違いしています。大村像完成より古い明治13年に、金沢兼六園に建てられた「日本武尊像」が日本初の銅像という説が有力です。参考までに光雲が関わった皇居前広場の「楠木正成像」は明治29年(1896)、上野の「西郷隆盛像」は同30年(1897)の竣工です。
 
さて、大熊は「東京彫工会」とう組織に所属していました。元々は例の石川光明ら、牙彫(げちょう=象牙彫刻 廃仏毀釈のあおりで木彫の注文が激減したため外国人向けに作られ、一世を風靡 光明は一時期牙彫に専心)の人々が中心になって作られた団体ですが、光雲も参加しています。
 
というわけで、大正8年(1919)頃、次のような会話が交わされていたかもしれません。
 
大熊 「今度、下総の佐原という町に伊能忠敬翁の銅像を造ることになりました。」
光雲 「ほう、佐原ですか。先頃亡くなった石川光明先生の先々代の頃、あそこの祭りの山車を何台か手がけたと聞きましたな。」
大熊 「なるほど。そうだ、山車といえば、活人形の安本亀八さんが、佐原の山車の人形を作るとも聞いていますぞ。」
光雲 「そいつは楽しみですなあ。」
 
こんな想像をすると、何とも楽しいではありませんか。
 
しかし、佐原の伊能忠敬像、説明板には忠敬の業績ばかりで、作者大熊の名が記されていません。一般に銅像というもの、「誰が作った」より「誰を作った」の方ばかり注目されている嫌いがあるように思われます。「渋谷のハチ公の作者は?」と訊かれて「安藤照」とパッと答えられる人はまずいないでしょう(現在は二代目ハチ公で照の子息、士(たけし)の作)。かくいう当方も、今、ネットで調べて書いています(笑)。
 
日本彫刻史をしっかり押さえるためにも、こうした風潮には釘を刺したいものです。

以前にも書きましたが、当方、千葉県香取市在住です。その中でも平成の大合併で香取市となるまでは佐原市といっていた区域で暮らしています。ここは千葉県の北東部に位置し、成田や銚子にも近い水郷地帯です。
 
もともとは古代に香取神宮の門前町としてその発展を始めましたが、江戸の昔には利根川の水運、水郷地帯特産の米を利用しての醸造業などを中心に商都として栄え、「小江戸」と称されました。日本で初めて実測による地図を作成したかの伊能忠敬も、佐原で醸造業を営んでいました。
 
しかし、明治に入り、鉄道網の整備と共に水運が廃れ、佐原の街の発展もかげりを見せます。そのおかげ、というと語弊がありますが、太平洋戦争時には空襲をまぬがれました。銚子には空襲がありましたし、成田では空襲はなかったものの、撃墜されたB29が炎上しての火災があったそうです。そのおかげ(こちらはほんとにそのおかげです)で、旧市街では江戸期から戦前の商家建築が多数残り、平成8年、関東で初めて重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。
 
それまではさびれた街でしたが、もともと営業していた店は息を吹き返し(幕末に建てられた店がそのまま営業しています)、廃屋になりかけていた古民家もおしゃれなカフェやレストランなどにリニューアル、現在では休日ともなれば都心方面からのバスツアーなど、観光客の皆さんでにぎわっています。昨年の震災で受けた被害からも徐々に復興してきました。ただ、まだ足場を組んで修理中の建物も多いのですが。
 
余談になりますが、佐原では古い街並みを利用しての映画、テレビなどのロケもよく行われています。後のブログでも書こうと思っていますが、昭和42年公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻主演)のロケも行われたのではないかと思っています(確証がないのですが)。
 
というわけで、古来から佐原には文人墨客の滞在、来訪が多くありました。近代でも有名どころでは、芥川龍之介にその名もずばり「佐原行」という小品がありますし、与謝野晶子、若山牧水、柳原白蓮、新村出(かの『広辞苑』編者)なども訪れています。あまり有名ではありませんが、光太郎の彫刻のモデルを務めたこともある歌人・今井邦子の夫も佐原にゆかりの人物です。実は佐原、古い街並み保存などの方面には力を入れていますが、文人との関わりなどの方面はまだまだ光を当てていません。
 
近隣の銚子や成田には光太郎、智恵子の足跡が残されています。しかし佐原と光太郎には、今のところ深い関わりは発見できていません。今後、佐原に住んでいた誰々に宛てた書簡などが出て来る可能性も皆無ではありませんが、おそらくないでしょう。大正元年に光太郎と智恵子は銚子の犬吠埼で「偶然に」出会っていますが、この頃の東京から銚子へのルートとしては佐原経由の成田線がまだ開通しておらず、もう少し南の八日市場・旭経由の総武線で往復し、佐原は通っていないと思われます。
 
ただ、間接的なつながり-光太郎というより光雲との-はいくつかあります。その一つが来週末に行われる「佐原の大祭・夏祭り」です。先日のブログに書いた佐原の骨董市が行われる八坂神社の祭りです。
 
佐原の大祭は夏と秋の二回、それぞれ3日間ずつ行われます。夏と秋では異なる地区が担当します。旧市街中心を流れる小野川を境に夏は東岸の「本宿」(旧市街の中でもより古くから発展していた地区)、秋は西岸の「新宿」(旧市街の中では比較的新しく発展した地区)が担当です。基本的には山車(だし)の引き回しをする祭りです。江戸期に繁栄していた頃、佐原の商人達がこぞって豪勢な山車を作らせ、その妍(けん)を競いました。

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山車の命は上部に据えられる巨大な人形と、山車全体を覆う木彫です。
 
まず、木彫の方では、先のブログで紹介した、東京美術学校で光雲の同僚だった石川光明の家系が関わっています。来週末に行われる夏祭りでは本宿地区10台の山車が出ますが、そのうちの4台に石川系の木彫が施されています。それぞれ江戸後期から幕末に作られたもので、「寺宿」「船戸」(本宿の中のさらに細かな町名です。以下同じ)の山車には、光明の先々代、豊光の門人であった石川常次郎の彫刻が、「下新町」の山車(こちらは秋ですが)にはやはり豊光の門人であった石川三之介の彫刻が施されています。また、詳細は不明とのことですが、「仁井宿(にいじゅく)」の山車にも石川系の彫刻が入っているらしいとのことです。佐原の商人達は、当時の江戸の有名な宮彫師(神社仏閣の外装などを手がける職人)であった石川一派に依頼したというわけです。どれも非常に精緻な木彫で、江戸の職人の水準の高さがよくわかります。
 
残念ながら高村一派の木彫が入った山車はありません。光雲は、自分の地元の駒込林町の祭礼で使う御輿(みこし)の木彫などは手がけていますが、あくまで地元だからであって、やはり御輿や山車の彫刻は仏師としての仕事の範疇から外れるのだと思います。
 
それから人形。佐原の山車には一部の例外を除き、歴史上の人物や神話の神々などの巨大な人形が据え付けられています。夏祭りで出る山車のうち、「下仲町」の人形・菅原道真(大正十年)、「荒久(あらく)」の人形・経津主神(ふつぬしのかみ=香取神宮の祭神 大正九年)の作者は、三代目安本亀八(かめはち)。これらの人形はとてつもなくリアルな「活人形(いきにんぎょう)」という種類のもので、これは幕末から明治、大正にかけて見世物小屋などで展示されることが多かったということです(一番下のリンクで画像が出ます)。光雲は活人形の祖、松本喜三郎を賞賛する文章を残しており、昭和四年に刊行された『光雲懐古談』に収められています。さて、「下中宿」の菅原道真。町内の人が書いた説明板には光雲がこの人形を見て絶賛した旨の記述があります。ただし、今のところ出典は確認できていません。
 
いずれ光雲の書き残したもの(多くは談話筆記)も体系的にまとめようと思っていますので、そうした中で調査してみたいと思います。
 
というような光雲との間接的なつながりのある祭りです。来週末の13日(金)から15日(日)の3日間。重要伝統的建造物群を背景に練り歩く山車を見るだけでもいいものです。タイムスリップしたような感覚も味わえます。十数年前までは、八坂神社に見世物小屋の興業が出ていました。さすがにそれは無くなりましたが、情緒溢れるレトロな雰囲気は昔のままです。といって、静かな祭りではなく、山車をその場でドリフトさせる「「の」の字回し」(平仮名の「の」のような動きということです)などの勇壮な曲引きもあったりしますし、山車に乗る「下座連(げざれん)」の人達の笛や太鼓の演奏も見事なものです。これも音楽史、民俗史的に貴重なもののようです。
 
是非、お越しください。
 
以下のサイトを参照させていただきました。
 
国指定重要無形民俗文化財 佐原の大祭
 
『生人形師 三代目 安本亀八展~日本人形の極致~』水郷佐原山車会館  

新刊ではなく、昨年発行されたものですが、つい先程届きましたので紹介します。 

高村光雲と石川光明

 平成23年(2011)9月 清水三年坂美術館編・発行 定価2,000円

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昨年8月から11月にかけ、京都清水寺近くの清水三年坂美術館さんで開催された企画展「帝室技芸員series3 彫刻 高村光雲と石川光明」の図録です。光太郎の父・光雲と、もう一人、同時代の、というか同じ嘉永五年生まれの彫刻家・石川光明(こうめい)、二人の作品を約三十点ずつ集めた企画展だったようです。
 
不覚にも、この企画展があったことを知りませんでした。京都は大好きな街の一つですし、知っていれば観に行ったのですが、残念なことをしました。ただ、図録だけは同館のオンライン販売で入手できました。
 
光雲と光明、同じ年に生まれた彫刻家同士というだけでなく、もっとたくさんの共通点があります。まず、同じ浅草の生まれであること。そして、光雲は仏像彫刻の「仏師」の家に弟子入りし、光明は神社仏閣の外装などを主に行う「宮彫師」の家に生まれたという違いはありますが、ともに廃仏毀釈による苦難の時代を経て、復権した木彫で名を為したこと。そして共に東京美術学校(現・東京芸術大学)教授となり、共に帝室技芸員に任じられたこと。共に各種の博覧会や皇居造営の際の彫刻に腕を振るったこと、など。したがって、二人は莫逆の友です。この図録に、先に逝った光明を惜しむ光雲の談話(初出『美術之日本』第5巻第9号 大正2年=1913 9月)も掲載されていますが、友を失った光雲の語り口には、哀惜の意が深く込められています。
 
さて、図録に収められた光雲作品、当方も初めて見るものがほとんどでした。平成11年に中教から刊行された『高村規全撮影 木彫高村光雲』、平成14年に千葉市美術館他四館で開催された企画展の図録『高村光雲とその時代展』、それぞれ100点近くの光雲作品写真が掲載されていますが、今回掲載されている物との重複はほんの数点です。
 
驚いたのは同じモチーフ(例えば鍾馗、西王母、獅子頭など)の彫刻だから同一のものだろうと思うと、よく見たら木目や彩色の工合などが微かに違い、別の作品だとわかることです。もう光雲の頭の中にはそれぞれのモチーフの設計図が叩き込まれており、寸分違わぬものが幾つも出来るのですね。
 
そういった点を抜きにしても、その超絶技巧には舌を巻きます。この点は光明の作品にも言えることですが、「ここまでやるか」という細部まで細密に彫っています。例えば上の画像の観音像が手にしている蓮。実際に見た訳ではないので断言はできませんが、他の作品の例を当てはめれば、別に作って手に差し込んであるのではなく、一本の木から掘り出してあり、手とつながっているはずです。後ろの髪飾りや首飾りも同様です。
 
こうした作り方を光太郎は芸術ではなく職人仕事だ、と蔑む部分があったようです。光雲自身も自分を芸術家とは捕らえていませんでした。
 
当方など、実作者ではない立場から、「凄いものは凄い」「美しいものは美しい」と思います。明治初期の工芸、特に欧米向けの輸出品の中には、有象無象の作家が超絶技巧を見せようとするあまり、ゴテゴテとした装飾過剰に走ったゲテモノのような作品もあります。しかし、光雲の木彫にはそういう嫌らしさは感じられません。
 
明治期の彫刻、ゲテモノは別として、もっともっと評価されていいと思います。

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