タグ:岩手県

一昨日の高村光太郎記念館リニューアルオープンのため、岩手花巻に行きましたが、オープン前日に花巻入りし、鉛温泉藤三旅館さんに宿泊いたしました。豊沢川の渓流沿い、花巻南温泉峡の奥の方です。
昨年1月に泊めていただいた時以来、2度目の逗留でした。
イメージ 1

イメージ 2  イメージ 3

少し前にも書きましたが、光太郎もこの鉛温泉藤三旅館さんに泊まっています。確認できている限りでは、昭和23年(1948)に3回、それぞれ一泊しています。同24年(1949)と25年(1950)の日記が失われている他、それ以外の時期にも日記執筆をサボっていることがあるので確認できませんが、もしかするとその間にも泊まっているかもしれません(旅館ではその頃の宿帳は保存していないとのこと)。

その当時の建物もまだ健在。前回は、宿泊前に下調べを十分にして行かず、光太郎がどの部屋に泊まったのかわかりませんでしたが、今回はちゃんと調べてから行きました。

二度目に訪れた昭和23年(1948)5月11日の日記に、以下の記述があります。

午后五時五分の電車にて二ツ堰発、鉛温泉まで。 宿にては村長さんより電話ありたりとて待つてゐたり。此前と同じ室三階三十一号室。畳あたらし。

また、三度目の宿泊となった同月18日の日記では、

二ツ堰より電車にて鉛温泉。 乗車中豪雨降る。後止み、晴れる。温泉にては前と同じ31号室(三階)。

とあり、確認できている3回とも、3階の31号室に泊まったことが分かりました。ちなみに「電車」は花巻電鉄です。

当方の部屋は、同じ3階の85号室。だいぶ番号が離れているので、昔と部屋番号が変わってしまっているのかも、と思いましたが、部屋に備え付けの館内案内を見てみると、ちゃんと「31号室」があり、早速行ってみました。

イメージ 4   イメージ 5

当方の部屋は後から建て増しされた棟のようで、光003太郎の泊まった31号室は古い棟の角部屋でした。渡り廊下的な場所からこういう風に見えます。

さらに、帰ってからネットの公式サイトで調べてみると、「寛ぎのゆったり部屋」ということで紹介されていました。

ちなみに20号室という部屋は、田宮虎彦が泊まって小説「銀心中」を執筆したということで、「文人ゆかりの部屋」と紹介されています。

それよりは光太郎が泊まった部屋を前面に押し出すべきだと思うのですが、どうも藤三旅館さんではそのことをご存じないようです。

機会があったら、ぜひこの31号室を予約しようと思います。ただ、このタイプの部屋は、通常、1名での宿泊は受け付けていないようです。どなたかご一緒しませんか(笑)。

前回泊まった時も書きましたが、料理は美味しく、それでいて料金はリーズナブルでした。

それから、深さ約130㌢の「白猿の湯」をはじめ、光太郎も誉めた温泉もやはりグッドでした。1泊で3回入ってきました。当方の好きながっつり熱い湯もあったのが嬉しいところでした。

ちなみに「白猿の湯」については、光太郎日記では以下の通り。昭和23年(1948)4月26日のものです。

昨夕温泉に久しぶりにて入る。深い共同風呂にも入る。泉質よきやうなり。温度余に適す。
(略)
朝五時頃入浴。二三人老人が入り居るのみ。きれい也。

館内あちこちのレトロな雰囲気もいい感じです。

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

翌朝、高村光太郎記念館リニューアルオープンに向かう前に、宿の周辺を散歩しました。市街地ではないため、昭和20年代の光太郎がいた頃の雰囲気がまだよく残っているように感じました。

イメージ 10


イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

このあたりも春を迎え、いろいろな花が咲き誇っていました。関東では盛りを過ぎた桜、連翹、さらにカタクリやふきのとう。

イメージ 21


イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

特にカタクリ(すぐ上の画像)が普通に道端に咲いているのは、初めて見たように思いました。

さらに迎えに来ていただいた㈶花巻高村光太郎記念会事務局長さんの車の中からは、やはり道端にミズバショウが咲いているのも見えました。

ちなみに高村光太郎記念館、そして光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)周辺も、花々が咲き乱れていました。

イメージ 19


山荘は、隣接する便所「月光殿」の鞘堂を改築中です。004
右の画像は、記念館前のコブシの花です。

この地域、これから1年中でもっともいい季節となります。ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月30日

昭和22年(1947)の今日、雑誌『農民芸術』に、宮澤賢治がらみの散文「玄米四合の問題」を発表しました。

賢治の「雨ニモマケズ」中の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」に触れ、次のように述べています。

 私の見るところでは宮澤賢治の食生活は確に彼の身を破り彼の命数を縮めた。宮澤賢治に限らず、かういふ最低食生活をつづけながら激しい仕事をやつてゐたら、誰でも肋膜にかかり、結局肺結核に犯されて倒れるであらう。
(略)
 私は玄米四合の最低から、日本人一般の食水準を高めたい。牛乳飲用と肉食とを大いにすすめたい。日本人の体格を数代に亘って改善したい。消極的健康から積極的健康に日本人を転換させたい。食生活の合理化を実行して此の結核国から結核を駆逐したい。精神力涵養に不可欠な身体力の培養に十全の力をそそぎたい。

賢治を殺し、智恵子を奪い、そして今また、自らの身を冒す結核への憎しみが見て取れます。

昨日リニューアルオープンなった花巻高村光太郎記念館に関する報道です。  

花巻・高村光太郎記念館がリニューアルオープン

『朝日新聞』 岩手版 004

 彫刻家で詩人の高村光太郎の記念館(花巻市太田)のリニューアル工事が終わり、28日、再オープンした。展示面積がこれまでの3倍に広がり、市は「初心者から深く知るファンまで満足できる展示となるよう工夫した」とPRしている。
 記念館は光太郎が1945年から52年まで暮らした「高村山荘」の近くにある。以前は財団法人高村記念会が「高村記念館」を運営していたが、2013年5月に市が花巻歴史民俗資料館を改修し、「高村光太郎記念館」と改称して暫定オープンしていた。昨年12月から資料庫だったスペースも展示スペースに改修し、今回、本格オープンした。広さは約640平方メートルで、改修費は約1億6300万円。
 展示室は1と2に分かれ、1では青森県の十和田湖畔にある「裸婦像」の中型試作などの彫像を展示。映像コーナーもあり、光太郎の詩と岩手の風景を流して、「光太郎の世界に導く」という。2では、書や詩などテーマ別に作品を展示しているほか、花巻での暮らしぶりなども詳しくパネルで紹介している。展示品は全体で約110点。
 2では妻の智恵子についても紹介しており、今回、智恵子の「紙絵」の「いちご」と「あじ」の実物2点を展示している。「いちご」には光太郎直筆の短歌も添えられており、館は「唯一の合作」と説明している。紙絵の色あせを防ぐため、「当分の間」という限定展示だ。
 この日の記念式典には高村家から光太郎の弟の孫にあたる写真家高村達(とおる)さん(47)=東京都文京区=も参加し、「全国でもただ一つの光太郎記念館。7年間暮らした花巻に造っていただき、ものすごくうれしい。期待以上の展示になっています」と話していた。
 入場料は高村山荘がある敷地内が一般200円で、記念館がほかに同350円。問い合わせは記念館(0198・28・3012)へ。(石井力)

光太郎の作品世界を体感 花巻・記念館リニューアル

『岩手日報』

 花巻市太田の高村光太郎記念館は28日、リニューアルオープン記念式典を現地で行い、関係者ら約100人がテープカットなどで再出発を祝った。2013年に移設し暫定的に開館していたが、今回は旧収蔵庫を展示スペースに改修し全面開館。記念館は光太郎が暮らした高村山荘にも隣接し、花巻での生活とともに作品世界を体感できる。新緑のさわやかな光と風に包まれ、自然環境と調和した文化拠点に生まれ変わった。
 終戦70年の節目に重なる意義深い記念式典となった。光太郎が花巻に疎開したのは1945年。今回の全面改修で記念館の総面積は約636平方メートルとなり、展示スペースは約2倍に拡充された。
 二つの展示室は渡り廊下でつながり、入り口側の「展示室1」は白を基調とした内装。「乙女の像(中型試作)」などの彫刻作品を紹介する。
 朗読体験コーナーでは「道程」「レモン哀歌」などの音声が流れ、風景映像とともに作品世界を感じ取れる。レプリカの彫刻「手」は実際に触ることができるなど体感型コーナーが充実した。
 開館記念で29日は入館無料。  

詩の朗読、映像と共に 光太郎記念館リニューアル 愛用品、多数展示

『岩手日日』無題

 花巻市太田の高村光太郎記念館で28日、リニューアルオープン記念式典が行われ、関係者によるテープカットで新たな門出を祝った。光太郎の詩の世界を映像や音声で堪能できる機器を設置したほか、光太郎と妻・智恵子の唯一の合作とされる切り絵も実物を初めて展示。29日まで入場無料とし、来場者を歓迎する。
 約80人が出席した。上田東一市長は「記念館が全国のファンの聖地となることを祈念する」とあいさつ。光太郎の弟の孫にあたる高村達氏と上田市長、市議会の川村伸浩議長、花巻高村光太郎記念会の佐藤進会長、太田地区振興会の佐藤定会長の5人でテープカットを行い、来場者を迎えた。
 記念館は旧館の老朽化に伴い、旧花巻歴史民俗資料館を活用して2013年5月に暫定オープン。その後、資料の保存や展示の環境整備、内容充実などに向けて、14年12月から全面的に改修した。
 改修後は、ゆったりした空間が特徴の展示室1でブロンズ像の「手」や「裸婦坐像」など彫刻を中心に紹介。「手」は新たに複製を設け、実際に触れて造形の奥深さを感じられるようにした。
 映像や音声で光太郎の世界を紹介する仕組みも導入。大型スクリーンに映し出される岩手の風景と共に朗読される詩を楽しむことができ、早速、来場者が光と音による演出を体感していた。
 収蔵庫を改修した展示室2では、書や詩などの作品と愛用のパイプなどを紹介。宮沢賢治らとの親交や地域住民との交流などを示す展示も含め、同記念館ならではの構成となっている。
 特に注目されるのは、初めての実物展示となる智恵子が作った切り絵。このうち「いちご」と題された切り絵には光太郎の短歌が添えられており、唯一の二人の合作とされている。
 光太郎は太平洋戦争末期から終戦後にかけて花巻に居住。同記念会事務局の高橋卓也さんは「花巻は光太郎の暮らしにゆかりのあるものがそろっている。愛用品を展示できるのはここだけ。今後もファンの声を聞きながら、展示を充実させていきたい」と話していた。
 

高村光太郎記念館がリニューアル

IBC岩手放送ニュース

改修工事が行われていた花巻市の高村光太郎記念館が28日リニューアルオープンし、記念の式典に多くの人がかけつけました。詩人で彫刻家の高村光太郎は太平洋戦争末期に花巻に疎開し、終戦後、花巻市太田に移り住みました。28日は花巻市の上田市長や光太郎の弟の孫である高村達さんがテープカットをして記念館のリニューアルを祝いました。記念館は去年末からおよそ1億6300万円をかけて改修工事が行われました。館内は展示室の広さが2倍になり、光太郎の詩を映像で表現するコーナーが設けられました。また彫刻作品や直筆の詩などおよそ110点が展示されています。高村光太郎記念館では来月15日に、詩の朗読や講演会などが行われる「高村祭」が開かれます。


イメージ 3

イメージ 4

 

高村光太郎記念館リニューアル

NHK盛岡放送局

 花巻市にある、詩人で彫刻家の高村光太郎の記念館が彫刻の展示室や大型スクリーンなどを新たに設けて、28日、リニューアルオープンしました。
 詩人で彫刻家の高村光太郎は、昭和20年の空襲で東京のアトリエを失ったあと、知人を頼って花巻市に疎開し、その後、7年間を過ごしました。
 昭和42年に開館した高村光太郎記念館はおととしから現在の場所に移って展示を行っていますが、展示内容を大幅に見直して、28日、リニューアルオープンしました。
リニューアルした記念館には、光太郎の彫刻を展示する展示室や光太郎が作った詩などを紹介する大型スクリーンなどが新たに設けられました。
 記念館には、光太郎が大正7年に制作した「手」というブロンズ像や、光太郎と妻の智恵子が合作したとされる「いちご」という切り絵などが展示されています。
 光太郎の弟の孫にあたる高村達さんは「山の中をイメージした記念館のデザインは光太郎が花巻市で滞在していた山小屋のイメージとぴったりとあっています。展示も工夫されていてとてもよかったです」と話していました。
 訪れた69歳の女性は「千葉県や埼玉県に知り合いがいるので、ぜひ案内してみたいです。すばらしい記念館になったのでみんなで大切にしていきたいです」と話していました。



【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月29日

平成21年(2009)の今日、「妄想姉妹〜文學という名のもとに〜」DVDコンプリートBOXが発売されました。

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7  イメージ 8

妄想姉妹〜文學という名のもとに〜」は、地上波日本テレビ系でこの年に深夜ドラマとして放映されていたものです。吉瀬美智子さん、紺野まひるさん、高橋真唯さん、田中哲司さんらが出演していました。

2月14日オンエアの第5話が「智恵子抄」。紺野さんが智恵子役、光太郎役は高橋洋さんでした。

DVDコンプリートBOXは3枚組。第11話までの全編と、メイキングの特別編が収録されています。

先ほど、昨日から行っておりました岩手花巻より帰って参りました。

今日、午前11時から、花巻高村光太郎記念館のリニューアルオープン記念式典があり、その関係でした。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

昭和20年(1945)から、同27年(1952)までの7年間、光太郎が独居自炊の生活を送ったこの地に、最初の記念館が建設されたのは昭和41年(1966)。約半世紀が経って建物の老朽化が進み、2年前には、近くにあった、もともと花巻市の歴史民俗資料館だった建物を高村光太郎記念館として移転、暫定オープンいたしました。その時点では、2棟ある建物のうち、手前の1棟のみの使用でしたが、このたび、2棟めも使用してのグランドオープンとなった次第です。

テープカットは今月2日の第59回連翹忌にもご参加下さった上田東一花巻市長、昨年亡くなった、光太郎の令甥・高村規氏令息の高村達氏、㈶花巻高村光太郎記念会会長・佐藤進氏(宮澤賢治の主治医で、昭和20年=1945には光太郎が一時その邸宅に寄寓していた佐藤隆房令息)、花巻市議会議長・川村伸浩氏、そして生前の光太郎を知る、花巻市太田地区振興会長・佐藤定氏。

003

以前から使っていた手前の棟も、内容を一新。「展示室1」と名付けられ、彫刻作品の展示と、映像・音声を駆使したハイテク展示コーナーなどが設けられています。

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

ハイテクコーナーでは、声優の堀内賢雄さんによる朗読と、岩手の四季のイメージ映像が組み合わさり、玄妙なバーチャル空間が創出されています。

さらには壁に埋め込まれたディスプレイでは、光太郎の紹介ビデオも。よくまとまっています。

イメージ 11

こちらは光太郎代表作、「手」のレプリカ。本物はガラスケースに入っていますが、こちらはレプリカですので、自由に触れます。

イメージ 12  イメージ 13

イメージ 14


「十和田湖畔の裸婦群像」(通称・乙女の像)のための中型試作。実物およそ2分の1です。当方監修の書籍『十和田湖乙女の像のものがたり』が刊行されたばかりですので、感慨深く拝見しました。


渡り廊下を通って、2棟目が「展示室2」。こちらには光太郎の遺品、書、草稿、著書、彫刻、智恵子の紙絵(本物)、その他100点ほどが並んでいます。それも雑多に並べるのではなく、小テーマごとに展示しています。光太郎と花巻との関わり、岩手ということで、石川啄木や宮澤賢治とのつながり、書、智恵子、山小屋生活、といった具合に。


イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

すぐ上の画像に写っているえんじ色の説明パネル、当方が執筆させていただきました。また、展示品の一部も当方がお貸ししています。2枚上の画像に写っている日本読書組合版の『宮澤賢治全集』です。こちらは賢治の弟・清六と、光太郎の編集。装幀・題字は光太郎。全10冊の予定が6冊刊行されて中断してしまったものですが、既刊6冊が揃っているのはなかなか珍しいものです。

さらに、こちらでも光太郎紹介のビデオが流れています。展示室1とは異なる内容で、一昨年、千葉市美術館他を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展に際して作られたものを転用させていただきました。故・高村規氏もご出演なさっています。

イメージ 22


さらに、今日の段階ではまだ閉鎖していますが、来月中頃からは「企画展示室」も使用を開始します。今のところの予定では、1年間のスパンで、さらに細かくテーマを決めて、展示の入れ替えをするコーナーです。最初はこの地での光太郎の7年間の生活にスポットを当てる予定です。追ってご紹介します。

ここに来るまでの、関係者の皆様のご労苦には、頭の下がる思いです。㈶花巻高村光太郎記念会スタッフの方は、最後の頃は不眠不休に近かったとか……。

それを狙って、今日のオープンに設定したのですが、ゴールデンウィークです。さらに、こちらも追ってご紹介しますが、来月15日にはこの地で「第58回高村祭」が開催されます。5月の花巻は、一年中でもっともいい季節。ぜひぜひ、足をお運び下さい。
無題

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月28日

昭和46年(1971)の今日、日比谷芸術座でフラメンコダンサー、アキコ・カンダの第5回リサイタル「能の音によるモダンダンス―智恵子抄 Poems to Chieko」が上演されました。

演出/天野二郎、振付/アキコ・カンダ、音楽/観世寿夫でした。

一昨日からの続きで、都内レポートです。

芝増上寺新宿中村屋サロン美術館と制覇し、最終目的地が錦糸町のすみだトリフォニーホール。ここで午後7:00から「第25回 21世紀日本歌曲の潮流」というコンサートですが、ここまでの行程で、ほぼ予測どおりに時間が余っていますので、時間調整をかねて次なる目的地、永田町の国立国会図書館に向かいました。


今月末にリニューアルオープンする花巻高村光太003郎記念館のために、現在、光太郎が花巻及び花巻郊外太田村で暮らしていた昭和20年(1945)から同27年(1952)までの詳細な年譜を作成中です。その中で、昭和23年(1948)に創刊された『花巻新報』について調べるためです。

『花巻新報』の題字を光太郎が書いていることは判っていましたが、その最初の号の正確な発行日が不明でしたし、実際に書かれたその題字の画像も手許の資料に見あたっていませんでした。国会図書館で『花巻新報』が見られることがわかり、見に行った次第です。

といっても、現物はありません。現物はアメリカです。「プランゲ文庫」といって、検閲のためGHQに提出されたものが、参謀第二部のゴードン・ウィリアム・プランゲによってメリーランド大学に収められており、その中に含まれているのです。国会図書館には、そのマイクロフィルムが収蔵されています。

本館の4階に「憲政資料室」という部屋があり、そこでの閲覧になります。初めて使いましたが、パソコンと連動したデジタルリーダーという機械があり、驚きました。トリミングも自由自在で、複写ができるのです。ただし、パソコンから信号を送り、コピーは新館1階のプリントアウトカウンターで印刷してもらうのですが。

さて、目当ての『花巻新報』は昭和23年11月7日に創刊されていました。一面にははなばなしく「創刊の言葉」。しかし号数は「第76号」となっています。調べてみるとやはりこの地域で発行されていた地方紙3紙が統合されて『花巻新報』となり、統合前の1紙の号数を引き継いでいました。

光太郎が書いた題字はこちら。味のある字ですね。しかし、アメリカにある現物もおそらく状態が良くなく、それをマイクロフィルム化した上、拡大してコピーを取っていますので、あまり鮮明ではありません。004

それから、驚いたことに、この号に『高村光太郎全集』等に収録されていない、未知の光太郎の文章が掲載されていました。

さらに驚いたことに、後の号で、『高村光太郎全集』に掲載されている文章の続きの部分を見つけました。第20巻所収の「岩手は日本の背骨」という文章ですが、2回に分けて掲載されているうちの、1回分のみが『高村光太郎全集』に掲載されていて、後の部分は未収録なのです。ちなみにこちらは昭和24年(1949)の9月21日、花巻文化劇場で行われた「賢治祭」での講演筆録です。

他にも細かな点ですが、光太郎生前に活字になった記録がなかった「お祝いのことば」という詩が掲載されていたりという発見もありました。こちらは太田村の山小屋近くにあった山口小学校に贈った詩です。

来年4月刊行予定の『高村光太郎研究』で詳細を報告します。


さて、国会図書館を後にし、最終目的地の錦糸町すみだトリフォニーホールへ。

今月2日の第59回連翹忌にご参加下さいました作曲家・野村朗氏の「連作歌曲 「智恵子抄」~その愛と死と~」がプログラムに入っている「第25回 21世紀日本歌曲の潮流」というコンサートを聴いて参りました。

演奏は森山孝光様、康子様ご夫妻。お二人による生演奏は今までにも3回聴いていますし、CDやDVDも戴いているのですが、やはり素晴らしい演奏は何度聴いてもいいと思いましたし、中村屋さん同様、招待券を戴いてしまいましたし(笑)、更に云うなら、野村氏から宮澤賢治の詩に曲をつけた演奏会のお誘いを受けた際に「残念ながら光太郎がからまない演奏会に行く余裕がございません」的な返答をしてしまったので、「今度は光太郎なのになぜ来ないんだ」とお叱りを受るのが恐ろしかったというのもあります(笑)。

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

今月2日の第59回連翹忌にご参加下さいました、詩人・野澤一のご子息・俊之氏、太平洋画会の坂本富江さん、文芸誌『青い花』同人の宮尾壽里子様もいらしていました。

さて、森山夫妻の演奏。やはり素晴らしいものでした。通常、こうした演奏会の場合、曲間に拍手等はNGですが、第2曲「あどけない話」が終わったところで、会場から「ブラボー」の声と拍手。やってしまったお客さん、よほど感極まったものと思われます。実際、バリトンの孝光氏はしっかり暗譜もなされていて、伴奏の康子様ともども情感たっぷりの演奏を披露して下さいました。

最終曲「案内」は花巻郊外太田村の山小屋に亡き智恵子を案内する内容ですが、「智恵さん気に入りましたか、好きですか。」「智恵さん斯ういふところ好きでせう。」といった呼びかけの部分は、本当に光太郎が歌っているかのような錯覚に陥りました。

前述の通り、花巻、太田村時代の詳細な年譜を作成中で、改めて光太郎の日記や書簡などを読み返している最中ですので、なおさらそう感じたのかも知れません。

終演後は電車で帰りました。その日の内には帰り着きましたが、さすがに疲れました。疲れましたが、有意義な1日でした。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月19日

昭和20年(1945)の今日、『読売報知新聞』に「罹災の記」、『東京新聞』に「仕事はこれから」の、ともに散文が掲載されました。

どちらも花巻移住の直接の契機となった、同月13日の空襲によるアトリエ焼失に関する内容です。

自己生活の過去にれんれんたるなかれ。むしろ御破算をこそ喜び、未来に耿々たる新生の火を焚き、敵の腰砕け、敵の気力折れ尽きるまで、戦に冷徹して、神明からうけた大和民族の真意義を完たらしめねばならない。私も老骨に鞭うつて大いにやらうと思ふ。(「罹災の記」から)

私は大切な道具箱を助けたので千万力の気がする。(略)此等さへあれば私の過去の彫刻作品など悉く不用である。これから私の本当の彫刻がいくらでも生れる。過去よ去れ、過去よ消えよ。今こそ破算と創建との切換の自然到来。私の仕事はこれからであり日本の美しい美が私を待つて其処にゐる。(「仕事はこれから」より)

潔いというか、その意気やよし、というか、そういう感じもしますが、空元気、空威張りの感も否めません……。

昨日に続き、岩手花巻ネタで。

先週末の地方紙『岩手日日』さんの記事です。 

花巻電鉄で地域おこし 志戸平温泉「しどの日」

 志戸平温泉の恒例企画「しどの日」は10日、花巻市湯口の同温泉で開かれた。ステージイベントに加え、1970年代まで市中心部から同温泉などを結んでいた花巻電鉄を紹介する展示会を初開催。出展趣旨に賛同する市民から多くの協力が寄せられており、同社のイベントを中心に、新たな地域おこしが芽生えている。
 同社は毎年4月10日を「しどの日」と名付け、さまざまな会員参加型サービスを展開。5回目となる今年は、同社顧客通信紙の編集スタッフに同電鉄に乗車経験がある委員がいたことから、展示会の企画が持ち上がった。
 これに協力したのが、地元の記録や資料を掘り起こして研究、紹介している「Act21」主宰の菅原唯夫さん(65)=同市南万丁目=。懐かしい「馬面(うまづら)電車」の勇姿を収めた写真のほか、かつて同温泉に設置されていた遊園地の様子を収めた映像、同電車を利用する高村光太郎の姿、同温泉の絵はがきなど多彩な内容が市民の関心を集めている。
 会場には、菅原さん所蔵の物だけでなく、Act21の活動に賛同する市民が菅原さんに託した写真なども並ぶ。「こういった展示会がなかったら捨てていたアルバム。使っていただければうれしい」などと、菅原さんと同社に感謝の手紙が添えられた物もあるという。
 イベントに携わる同社宿泊部の田中弘子次長は「当初は10日だけの展示予定だったが、反響が大きく、19日まで延期することにした。多くの方に見ていただき、思い出を蘇らせてもらえたらうれしい」と、多数の来場に喜びの表情。菅原さんは「イベントをきっかけに一層の協力が得られ、回顧展の開催などにつながれば」と、地域の盛り上がりに期待する。
 来場者は「これに乗って何度も志戸平に来たよ」「高村光太郎も乗ったことがあるんだね」などと懐かしそう。藤原茂男さん(57)は「小さな電車だったけど、憧れていた。街並みに昔の面影が残っている写真が多く、何だかホッとしますね」などと語り、興味深げだった。
 展示会は観覧無料。問い合わせは同社=0198(25)2011=まで。


昭和20年(1945)に空襲で駒込林町のアトリエを失った光太郎は、宮澤家などの誘いで花巻に疎開、終戦後も帰郷せず、7年間、花巻からさらに山奥の太田村に独居自炊の生活を送りました。

光太郎の暮らした山小屋(高村山荘)に近い花巻南温泉峡の一つ、志戸平(しどだいら)温泉でのイベントです。

光太郎は山小屋で暮らしながらも、時折花巻町まで出ることが有りました。年に数回は賢治の主治医だった佐藤隆房邸(太田村に移る前にここにも暮らしていました)に宿泊したり、納税やら金融機関での雑務やらのため日帰りで行ったりしていたのです。その際には山小屋から4㎞ほどの二ツ堰駅まで歩き、そこから花巻電鉄を利用しました。また、二ツ堰から花巻町と逆の花巻南温泉峡方面に行くために、花巻電鉄に乗ることも。

この路線は昭和44年(1969)に廃線となっています。車両は花巻駅近くの材木町公園に静態保存されています。

イメージ 1

イメージ 2

下の画像、中央に立っているのが光太郎です。

この花巻電鉄に関する写真展が、志戸平温泉さんで開催中です。光太郎が写っている写真も展示されています。下の画像で、右の方の大きなパネルに光太郎の顔が見えます。

イメージ 3


同様の写真展は、以前に花巻に行った際、市内のショッピングモールで開催されていました。また、昨日お知らせした花巻高村光太郎記念館の企画展的な展示をするスペース――奥の副室――で、来年の展示にこういった内容をやりたいと、㈶花巻高村光太郎記念会さんの事務局の方がおっしゃっていました。

次の日曜日、19日まで志戸平温泉さんで開催中です。

009
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月14日

昭和17年(1942)の今日、光太郎が題字を揮毫した竹内てるよ詩集『灯をかかぐ』が刊行されました。

題字のみ光太郎。装幀、表紙画は画家の古沢岩美です。竹内は戦前から、多くの詩集の題字を光太郎に依頼しています。

少し前からぽつぽつ書いていましたが、岩手花巻の高村光太郎記念館のリニューアルオープンについてです。

以下、花巻市のサイトから。

高村光太郎記念館のリニューアルオープンについて

改修工事を行っている高村光太郎記念館の開館日程が決まりましたのでお知らせします。
開館に先立ち記念式典を行う予定です。
なお、高村光太郎記念館は、旧花巻歴史民俗資料館を活用して平成25 年5 月15 日から市営の記念館として暫定的にオープンしていたもので、平成26 年度において全面的に改修を行っていたものです。
記念館の展示は、彫刻をメインに映像や音響などを工夫して光太郎の世界に誘導する「展示室1」と、書や詩などを時代背景とともに解説してテーマ別に理解を深める「展示室2」の2つのゾーン構成となっております。
改修にあたっては、顕彰活動を行っている財団法人花巻高村光太郎記念会や地域の皆さんのご意見を聞きながら進めてきており、今回の記念館整備により、以前より多くの来館者においでいただけることを期待しております。

                記

1  開館日時  平成27年4月28日(火)正午から
2  式典概要  開館日の午前中に式典を実施
    市長あいさつ、来賓祝辞、テープカット等  テープカット後に式典参加者に対し展示説明
3  その他 工事に伴いまなび学園で開催中の「高村光太郎展」は4月15日まで会期を延期します。

なお、式典の内容については、詳しく決まり次第ご案内します。
開館を記念して、28日(火)29日(水・昭和の日)は入場無料。
5月15日(金)、高村山荘 詩碑前で開催される「高村祭」は開館を記念した行事として、記念講演や地域の小中学生による朗読や合唱などを行う予定です。

こちらは今月2日の第59回連翹忌にて配布されたチラシです。

イメージ 1

イメージ 2

一昨年の5月に仮オープンとなった高村光太郎記念館。その時点では上記画像の展示室1のスペースのみの使用となっていました。

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

それがこれまで使用していなかった奥のスペースも使用、約2倍の面積となり、さらに展示内容も一新されます。

手前の展示室1は「彫刻をメインに、映像や朗読で光太郎の世界に誘導する」というコンセプトです。朗読は声優の堀内賢雄さん。先月、東京水道橋のスタジオにての収録に立ち会って参りました。イメージ映像も流れ、ハイテクな展示となるようです。

展示室2は、書、草稿、著書、遺品などのテーマ別展示がメインです。特に書に関しては、充実しています。また、宮澤賢治や石川啄木など、岩手の人々との関わりについての展示も為されます。この部屋の説明パネルの一部を執筆させていただきました。

さらに上記図面で云うと展示室2の右側が副室となっていて、そちらは1年間のスパンで企画展的に展示を入れ替えます。最初の展示のテーマは「光太郎山居七年」ということで、昭和20年(1945)から同27年(1952)の、この地での光太郎にスポットを当てます。ただし、副室のオープンは来月となります。


おりしもGW。ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月13日

明治45年(1912)の今日、歌人・石川啄木が歿しました。

宮澤賢治と並び、岩手を代表する文学者である石川啄木。光太郎より0103歳年少でしたが、明治45年(1912)の今日、数え27歳で歿しました。その短い生涯の中に、光太郎との接点がありました。

明治35年(1902)、旧制盛岡中学を退学し、上京した啄木は、その2年前には東京美術学校在学中の光太郎も加わっていた、与謝野鉄幹の主宰する新詩社同人となりました。この年11月に東京牛込で開催された新詩社小集(同人の会合)で、二人は初めて出会ったと思われます。当時の啄木の作は、短歌より詩や小説が中心でした。

同38年(1905)4月には、新詩社演劇会が開催され、ドイツの劇作家コッツェブー作の喜劇「放心家(うつかりもの)」、光太郎作の戯曲「青年画家」が上演されました。「放心家」では、主役の軍人を光太郎が演じ、啄木も出演しています。

イメージ 6

啄木は光太郎のアトリエをしばしば訪れていましたが、光太郎は当時の啄木を高く評価していませんでした。「彼の詩は美辞麗句ばかりで青年客気の野心勃々というあくどさがあってどうも私は感心しなかった。」と、昭和23年(1948)の対談で語った他、同様の発言は多くあります。詩でも「いつのことだか忘れたが、/私と話すつもりで来た啄木も、/彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに/すつかりあきらめて帰つていつた。」(「彫刻一途」昭和22年=1947)と記しています。

その後、啄木は盛岡に移り、光太郎は足かけ4年にわたる欧米留学に出、一旦、二人の交流は途絶えます。両者が再会したのは、光太郎帰国後の明治42年(1909)。その前年には、啄木も再上京しています。新詩社の機関誌『明星』は廃刊となり、後継誌『スバル』が啄木を編集人として創刊されていました。留学先のパリからも寄稿をしていた光太郎は、帰国後、詩や評論をどしどし発表します。その関係で、二人はたびたび顔を合わせていたと推定されます。

この頃の啄木は、明治43年(1910)刊行の『一握の砂』に収められた短歌を量産していた時期で、のちに光太郎は「前は才気走つたオツチヨコチヨイみたいな人だった」としながらも、この時期の啄木は「病気になつてから、あの人はうんとあの人の本領になつた」(対談「わが生涯」昭和30年=1955)と語っています。

しかし、病魔に蝕まれた啄木は、明治45年(1912)に還らぬ人となってしまいました。その生がまだ続いていたとしたら、光太郎との間係がどう発展していったのか、興味深いところです。

毎年ご紹介していますが、光太郎の忌日の集い「連翹忌」は、東京以外にも、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも行われています。午前中は光太郎が7年間住んだ、旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地で碑前祭、午後から光太郎が毎年のように智恵子や光雲の法要を行ってもらっていた、花巻市街の松庵寺さんで花巻としての連翹忌です。それぞれ報道されていますのでご紹介します。

岩手)高村光太郎60回忌 花巻で詩碑前祭

朝日新聞 岩手版 4月3日
 詩人で彫刻家の高村光太郎の命日にあたる2日、花巻市太田の高村山荘で詩碑前祭があった。山荘での生活をうたった「雪白く積めり」など光太郎の詩を、参加者が朗読するなどして故人をしのんだ。
 光太郎は1945年から7年間、高村山荘で暮らした。56年4月2日に亡くなり、今年が60回忌にあたるという。
 詩碑前祭は地元住民でつくる「高村記念会山口支部」が主催。照井康徳支部長は「先生の偉業を後世に伝え、先生が愛した山荘を守ることを肝に銘じていく」と話した。

イメージ 1

光太郎の遺徳しのぶ 60回忌詩碑前祭 児童が「山の広場」朗読

岩手日日 4月3日 002
 花巻ゆかりの詩人で彫刻家・高村光太郎(1883~1956年)の命日に合わせた「詩碑前祭」と「連翹(れんぎょう)忌法要」が2日、花巻市内で行われた。第60回忌に当たり、参加者が詩の朗読などを通じて、遺徳をしのんだ。
 「詩碑前祭」は、同市太田の高村山荘敷地内広場で行われた。光太郎の顕彰活動を続けている高村記念会山口支部が主催。光太郎が暮らした太田山口地区の住民有志を中心に約50人が参加した。
 照井康徳支部長は「今年は60回忌で、高村先生が太田山口地区に来てから70年目の節目でもある。高村先生と面識のあった人は少なくなっている。われわれが高村先生を後世に伝えていくことが大事になる」とあいさつ。
 光太郎の遺影を飾った詩碑前で、太田小学校の高橋百花さん(2年)と中島流星君(3年)が花を手向けた後、同支部の平賀仁理事が祭文を奏上。上太田子供会、太田区長会、いずれも地元住民の戸来洋子さん、浅沼功さん、高橋新吉さんが光太郎の詩を朗読した。
 このうち、上太田子供会は太田小児童5人が声をそろえて「山の広場」「山口部落」「山からの贈り物」を読み上げた。高橋梨々菜さんと髙橋誉桂さん(ともに6年)は「『山の広場』が好き。この辺の景色を思い出す感じがする」「どうやって詩を作ったのか詳しく知りたい」などと話し、地元に足跡を残した偉人に思いをはせていた。
 光太郎は戦時中の1945(昭和20)年、東京のアトリエを焼失し、宮沢賢治の生家の招きで花巻に疎開した。旧太田村山口の山小屋で7年間、地元住民と交流しながら農耕自炊の生活を営み、多くの詩を生み出した。


また、同じ『岩手日日』さんには、前日に花巻連翹忌会場の松庵寺さんがらみの記事も載りました。 

慰霊と更生祈る 松庵寺 小川住職が盛岡へ行脚

岩手日日 4月2日001
 花巻市双葉町の松庵寺住職、小川隆英さん(74)は1日、東日本大震災の犠牲者の霊を慰めようと、盛岡市に向け追悼行脚に出発した。教誨(きょうかい)師を務めている縁で、盛岡少年院や盛岡少年刑務所を目指す。約80キロを2日間で踏破する強行軍だが「慰霊と被収容者の更生を祈りながら歩く。こんな私だが、何か一つでも皆さんの心のよりどころになれれば」と願う。
 小川住職は1961年(昭和36年)夏、東京都から本県まで、600キロを超える道のりを托鉢(たくはつ)行脚した経験を持つ。「戦後復興途上の道路は舗装されておらず、ハエや蚊が多く安眠などできなかった。震災で被害を受けた方々の苦しみはよく分かる」と避難生活を深く思いやり、今回の行脚を決めたという。
 同日はあいにくの雨模様だったが、この熱意に感銘を受けた市民約20人が同寺を訪れた。「気を付けて」「無理だけはしないで」などと言葉を掛け、早朝の出発を見送った。
 到着予定の2日は、花巻に大きな足跡を残した詩人・彫刻家の高村光太郎をしのぶ連翹(れんぎょう)忌が行われる日。同寺は市内外から多くの参列者を迎える。小川住職は「法要の時間に合わせ、光太郎の書碑がある同少年刑務所でお勤めしたい。一歩ずつ進めば必ず目的地に着く。前を向いて頑張ってほしい、という気持ちを被収容者、被災者へ伝えるためにも歩き通す」と固く誓う。
 小川住職は追悼行脚のほか、震災犠牲者の供養に役立ててほしいと託された市民からの寄付金を生かすため、慰霊碑の建立も計画している。


光太郎が智恵子や光雲の法要をしてもらっていた頃のご住職が、小川金英師。おそらく記事にある小川住職のお父様でしょう。金英師の光太郎に関する回想など、とても面白いのですが、いずれまた改めてご紹介します。


岩手ではありませんが、同じ東北青森の地方紙『東奥日報』さんは、一面コラムで連翹忌にふれて下さいました。東京日比谷での連翹忌当日、十和田奥入瀬観光ボランティアの会の山本氏がわざわざ持ってきて下さいました。

天地人 2015.4.2

<連翹(れんぎょう)のまぶしき春のうれひかな 久保田万太郎>。連翹は黄色の花をいっぱいに咲かせる。色彩は遠目にも実に鮮やかで、花のあと小さな葉が萌(も)え出る。詩人、彫刻家でもあった高村光太郎は連翹の鮮黄色(せんおうしょく)を愛した。1956(昭和31)年4月2日の没。きょうが忌日「連翹忌」である。
  光太郎といえば、詩集「智恵子抄」が真っ先に浮かぶ。最愛の妻、智恵子の最期を綴(つづ)った「レモン哀歌」などを収める。智恵子の死後、世俗を離れ東北の山村にこもるが、彫刻家として最後の一作に渾身(こんしん)の思いを刻む。
  静謐(せいひつ)な湖を背景に、左手を合わせて向かい合う2体の裸像。十和田湖休屋の湖畔に立つ「乙女の像」がその作品だ。光太郎が亡くなる3年前に完成した。
  病弱で華奢(きゃしゃ)だった智恵子とは対照的に、2体の像は豊満で生命力に満ちあふれる。「立つなら幾千年でも立ってろ」。光太郎の言葉通り、建立から60年余を経て十和田湖のシンボルであり続ける。
  十和田湖は「ドル箱観光地」ともてはやされた。新緑から紅葉にかけ湖畔は人であふれた。乙女の像には記念撮影を待つ大きな人垣があった。往時のにぎわいよ、どこへである。八甲田・十和田ゴールドラインがきのう開通したが、今年は定番のJR一番バスの姿はなし。乗客の落ち込みを理由に運行は18日からである。栄枯盛衰、乙女の像は何を思う。

イメージ 4


松庵寺さんの記事でもそうですが、やはり東北、東日本大震災がからみます。津波や原発の直接の被害がなかった地域でも、観光客の落ち込みは深刻なようです。

十和田では乙女の像、花巻では高村山荘・高村光太郎記念館(今月28日にグランドオープンです)。言葉は悪いのですが、少しでも光太郎が「客寄せ」になれば、と念じています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月4日000

昭和3年(1928)の今日、書肆ARSから『ロダン』普及版が刊行されました。

光太郎による気鋭のロダン評伝。前年にはハードカバーで刊行されており、こちらはペーパーバックです。

終末部分には、ロダンのモデルを務めた日本人女優・花子を岐阜に訪問した際の体験が付されています。

地方紙『岩手日日』さんに、以下の記事が載りました。 

教え子と音楽CD制作 元英語教諭平賀さん 「深い愛情」印象的に(3/17)

 花巻市上町の元英語教諭平賀六郎さん(83)は、教え子と音楽CD「DEEP LOVE」を共同制作した。歌曲集「英語で歌う日本の歌」と、心に残る詩を読み上げた「日本語・英語朗読」の2枚組み。101歳を迎えた義母幸子さんの長寿祝い、亡き妻郁子さんの十三回忌追善供養とも銘打ち、師弟愛や家族愛、夫婦愛などさまざまな「深い愛情」が印象的な作品になっている。
 平賀さんは、花巻北や盛岡一など県内高校の英語教師として、1992年まで勤務。学校を訪れる外国人客に日本文化を伝えようと、在職中から歌詞の英訳に取り組んできた。難しいとされる宮沢賢治の「精神歌」など多くの作品の翻訳に取り組み、原詩とは一味違った魅力を引き出してきた。私家版訳詩集「日本の名曲 英訳」シリーズも作っている。
 今作は英詩に加え、花巻北高時代の平賀さんに指導を受けた花巻出身で元高校長熊谷司郎さん(69)=神奈川県海老名市=が編曲協力し、メロディーにバーチャル(仮想)歌手の声を重ねている。平賀さんが翻訳時に単語選択を工夫したこともあり、機械音声とは思えないほど滑らかな節回しが実現している。
 朗読編には、平賀さんが思い入れを持つサミュエル・ウルマンの「青春とは」、高村光太郎の「松庵寺」など4詩を収録。英詩は日本語に、日本語詩は英語に訳され、熊谷さんによる音楽を背景に、雰囲気よく仕上がっている。
 「熊谷さんも私も楽しんで作っているから、健康にもいい。打ち込めるものがあるのは幸せ。命ある限り続けたい」と笑顔を見せる平賀さん。今回の歌曲集は英訳CD4作目になるが「第4集にして、やっとこつが分かってきた。好きなことを続けるのは、人生のエネルギーになる。これからもどんどん制作したい」と創作意欲を語っている。

イメージ 6


「松庵寺」は昭和20年(1945)の作。おそらく戦後になって初めて智恵子が謳われた詩です。昭和22年(1947)に刊行された白玉書房版の『智恵子抄』に収められました。

  松庵寺
008
奥州花巻といふひなびた町の
浄土宗の古刹松庵寺で
秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
まことにささやかな法事をしました
花巻の町も戦火をうけて
すつかり焼けた松庵寺は
物置小屋に須弥壇をつくつた
二畳敷のお堂でした
雨がうしろの障子から吹きこみ
和尚さまの衣のすそさへ濡れました
和尚さまは静かな声でしみじみと
型どほりに一枚起請文をよみました
仏を信じて身をなげ出した昔の人の
おそろしい告白の真実が
今の世でも生きてわたくしをうちました
限りなき信によつてわたくしのために
燃えてしまつたあなたの一生の序列を
この松庵寺の物置御堂の仏の前で
又も食ひ入るやうに思ひしらべました


松庵寺さんは花巻の中心街、双葉町にある寺院です。

イメージ 2

イメージ 3

岩手在住時代の光太郎が、ほぼ毎年、10月の光雲・智恵子の命日の法要を、ここで行ってもらっていました。

そこで、松庵寺さんには、昭和62年(1987)に、詩「松庵寺」を、光太郎と親交の深かった佐藤隆房の揮毫によって碑にしたものが建てられました。

イメージ 4


また、今回の記事で紹介されている平賀氏の英訳「松庵寺」を刻んだ詩碑も建っています。

イメージ 5


朗読はこちらのサイトで聴けます。009


ところで松庵寺さんでは、毎年4月2日の午後、花巻としての連翹忌が行われています。今年も市の『広報はなまき』に案内が出ました。

これも毎年ですが、午前中には光太郎が7年間暮らしていた旧太田村の山小屋(高村山荘)で「詩碑前祭」があります。

ともに花巻の㈶高村光太郎記念会さんの主催です。

当方、東京日比谷松本楼での連翹忌を取り仕切っている立場上、こちらには参加できませんが、お近くの方、ぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月19日

昭和25年(1950)の今日、花巻農学校跡地に建てられた宮澤賢治の「早春」詩碑除幕式に参加しました。

以前にも書きましたが、同じ年に花巻温泉に建てられた光太郎の「金田一国士頌」詩碑と同じ石材から切り出されたものらしいとのことです。

昨日は都内に出かけておりました。

メインの目的は、4月末にリニューアル完了・グランドオープン予定の、花巻高村光太郎記念館関連でした。

新しい記念館内に、イメージ映像と朗読の音声で光太郎の詩を紹介するコーナーが設置されます。そのための朗読の収録が、昨日、水道橋の高速録音スタジオさんで行われました。

イメージ 2

朗読を担当されたのは、ベテラン声優の堀内賢雄さん。洋画の吹き替えで、ブラッド・ピッドの声などを担当されています。アニメでもご活躍で、一昨日は「クレヨンしんちゃん」の収録だったそうです。記念館の朗読コーナーでは、光太郎詩4篇を流すとのことで、その朗読をしていただきました。4篇は、「道程」、「レモン哀歌」、「雪白く積めり」、「メトロポオル」です。

収録にかかる前に打ち合わせをしました。その中で堀内さんがおっしゃっていたのですが、記念館で流れる光太郎の詩の朗読をなさるということを、「声優冥利に尽きる」ということで、声優仲間から非常にうらやましがられたそうです。しかし、ある意味、ものすごいプレッシャーでもあるとのことでした。なるほど、そういうものかと思いました。

さて、収録。まずは「道程」。ただし、詩集『道程』に収録され、よく知られている短い形ではなく、雑誌『美の廃墟』での発表形、すなわち102行ある大作です。これ1篇で8分を超えました。渋い落ち着きのある、しかし張りのあるバリトンの声で、素晴らしい朗読でした。よくある「さあ、感動しなさい」と言わんばかりに感情移入丸出しの妙な抑揚をつけた朗読ではなく、あくまで淡々と、しかし内に込めたエネルギーを感じさせるものでした。

比較的短い残り3篇の収録も続けて行われましたが、こちらも1篇ごとに詩の内容をよく勘案されて調子を変え、テンポも変え、しかし感動の押し売りではない、これまた素晴らしい朗読でした。サブ(副調整室)で聴いているスタッフさんたちや、当方など、1篇終わるごとに、感嘆のため息でした。

レモン哀歌」、「雪白く積めり」は以前のこのブログでご紹介しています。左記リンクでご覧下さい。「メトロポオル」のみ、このブログ内にありませんでしたので、下記に全文を載せます。画像は詩の舞台、花巻郊外旧太田村にある光太郎が暮らした山小屋です。

   メトロポオル
004

智恵子が憧れてゐた深い自然の真只中に
運命の曲折はわたくしを叩きこんだ。
運命は生きた智恵子を都会に殺し、
都会の子であるわたくしをここに置く。

岩手の山は荒々しく美しくまじりけなく、
わたくしを囲んで仮借しない。
虚偽と遊惰とはここの土壌に生存できず、
わたくしは自然のやうに一刻を争ひ、
ただ全裸を投げて前進する。
智恵子は死んでよみがへり、
わたくしの肉に宿つてここに生き、
かくの如き山川草木にまみれてよろこぶ。
変幻きはまりない宇宙の現象、003
転変かぎりない世代の起伏。
それをみんな智恵子がうけとめ、
それをわたくしが触知する。
わたくしの心は賑ひ、
山林孤棲と人のいふ
小さな山小屋の囲炉裏に居て
ここを地上のメトロポオルとひとり思ふ。


どうもボキャブラリーが貧困で、うまく堀内さんの至芸を言葉で表せません。ぜひ、4月末リニューアル完了・グランドオープン予定の、花巻高村光太郎記念館で、実際にお聴き下さい。

堀内さんの朗読もそうでしたが、スタッフの皆さんの仕事ぶりにも感心しきりでした。「最高のものを作ろう」という気概といいますか、とにかく妥協を許しません。ベテラン堀内さんの朗読にも、ばしばしダメ出しが出ましたし、収録後に行った映像部分の打ち合わせでも、よりよくするためにはどうしたらいいかと、侃々諤々の議論でした。たとえばイメージ映像に載せて、詩が画面に映し出されるのだそうですが、そのフォント(字体)をどうするか一つとっても、「ビジュアル的に考えてこれがいい」「いや、これは無難すぎて面白くない」「これは癖がありすぎだろう」「詩の内容を考えるとこれでしょう」といった具合に。プロというものはこういうものだな、と感じました。

繰り返しますが、4月末リニューアル完了・グランドオープン予定の、花巻高村光太郎記念館で、実際に視聴なさってみて下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月10日

昭和26年(1951)の今日、岩手県立盛岡美術工芸学校の第一回卒業式のために祝辞を書きました。

昭和23年(1948)、盛岡に県立美術工芸学校が開校しました。初代校長は、美術史家・美術評論家の森口多里が務め、教員には画家の深沢省三・紅子夫妻、彫刻家の舟越保武、堀江赳らがいました。その後、ことあるごとに光太郎は同校を訪れ、生徒に講話をしたり、祝辞や祝電を寄せたりしました。

県立美術工芸学校は、その後、盛岡短期大学美術工芸科を経て、岩手大学特設美術科に移行、現在に至ります。

先月末に、花巻市さんのサイトで、市議会に於ける市長演述がアップされました。

長いので全文は引用しませんが、郊外太田地区の高村光太郎記念館に関する発言もありましたので、そこのみ引用させていただきます。

宮沢賢治記念館と高村光太郎記念館の展示リニューアルについては、平成26年度当初予算に予算計上しておりましたが、市民の意見を十分に反映するために、説明会を開催するとともに、市民の皆様から意見をお聞きするよう指示いたしました。
宮沢賢治記念館と高村光太郎記念館の展示リニューアルは、事業の進捗に若干の遅れが生じておりますが、宮沢賢治記念館は本年4月に、高村光太郎記念館はゴールデンウィーク前後にそれぞれリニューアルオープンする予定となっております。


昭和41年(1969)、光太郎が暮らしていた山小屋(高村山荘)敷地内に建てられた最初の記念館は、施設の老朽化が進み、閉鎖。一昨年の5月、それまで花巻市の歴史民俗資料館だった建物を新たに高村光太郎記念館とし、花巻市営として再スタートしました。ただし、あくまで仮オープンということで、とりあえずのものでした。それが今年の「ゴールデンウィーク前後」にグランドオープンする予定だそうです。

イメージ 1
初代記念館


イメージ 2
現在の記念館


というわけで、現在はリニューアル工事中ですが、上記画像でいうと、手前の建物のみでの展示だったものを、奥のもう一棟も使用することとなり、展示面積は2倍程になります。常設展示以外にも、企画展示を行うスペースも設定されています。展示内容もほぼ固まっています。

そこで、㈶花巻高村光太郎記念会事務局の方が、昨日、当方自宅兼事務所にお見えになり、いろいろと打ち合わせをしました。当方、館内に掲示される説明パネル、展示品のキャプション等の一部を執筆することとなり、早速作成にかかっています。

また、来週には館内の映像や音声で光太郎詩を紹介する「朗読コーナー」の録音のため、東京水道橋に出向いてきます。朗読を担当なさるのは、ベテランの男性声優さんだそうです。楽しみです。


グランドオープンとなりましたら、ぜひぜひ、008ぜひぜひ、足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月6日

平成元年(1989)の今日、PHP研究所から、日野多香子著『冬よ ぼくに来い いちずに美をもとめつづけた高村光太郎』が刊行されました。

「PHP愛と希望のノンフィクション」というジュブナイル(年少者向けの刊行物)シリーズの一冊です。

幼少期からその死までの、光太郎の生涯をわかりやすくまとめたものです。

今週火曜日の『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」が、光太郎に触れて下さいました。 

風時計 2015.1.13

戦後、岩手には1万戸もの開拓農家が入植した。開拓5周年の労苦をたたえ、1950年に高村光太郎が寄せた詩がある
▼<宮沢賢治のタンカルや源始そのものの石灰を唯ひとつの力として、何にもない終戦以来を戦つた人がここに居る>(開拓に寄す)。タンカルとは宮沢賢治が名付けた肥料用の炭酸石灰。晩年の賢治は土壌を改良するため、この普及に命を懸けた
▼志半ばで逝ったが、その尽力は戦後の開拓で花開いたと言える。光太郎が記すように、酸性の火山灰土壌と闘う人々はタンカルを力とした。岩手の開拓者たちは、まず土を変え、不毛の荒れ地を豊かな耕地に一変させた
▼国連の「国際土壌年」の今年、土が大きな国際テーマになる。世界にある農地の半分で土が劣化し、1年に砂漠化する面積は日本の国土の3割に及ぶ。食料供給の危機でありながら忘れられた資源にようやく光が当たる年だ
▼賢治は酸性土を「病土」とみて健康にしようとした。国際年の標語「健全な暮らしは健全な土地から」に通じる。厳しい現状でも、救いは日本の技術が途上国の土壌改良に役立っていることだろう
▼開拓10年に光太郎は再び寄せた。<見わたすかぎりはこの手がひらいた十年辛苦の耕地の海だ>。知と技で、病土を耕地の海にする。それに勝る国際貢献はなかろう。
 
 
引用されている詩は二つ。まず、昭和25年(1950)に盛岡市で行われた岩手県開拓五周年記念開拓祭に寄せた「開拓に寄す」。

   開拓に寄す000
 
岩手開拓五周年、
二万戸、二万町歩、
人間ひとりひとりが成しとげた
いにしへの国造りをここに見る。
 
エジプト時代と笑ふものよ、
火田の民とおとしめるものよ、
その笑ひの終らぬうち、
そのおとしめの果てぬうちに、
人は黙つてこの広大な土地をひらいた。
見渡す限りのツツジの株を掘り起こし、
掘つても掘つてもガチリと出る石ころに悩まされ、
藤や蕨のどこまでも這ふ細根(ほそね)に挑(いど)まれ、
スズラン地帯やイタドリ地帯の
酸性土壌に手をやいて
宮澤賢治のタンカルや
源始そのものの石灰を唯ひとつの力として、001
何にもない終戦以来を戦つた人がここに居る。
 
トラクターもブルドウザも、
そんな気のきいたものは他国の話、
神代にかへつた神々が鍬をふるつて
無から有(う)を生む奇蹟を行じ、
二万町歩の曠土(あかつち)が人の命の糧(かて)となる
麦や大豆や大根やキヤベツの畑となつた。
さういふ歴史がここにある。
 
五年の試煉に辛くも堪へて、
落ちる者は落ち、去る者は去り、
あとに残つて静かにつよい、
くろがね色の逞ましい魂の抱くものこそ
人のいふフランテイアの精神、
切りひらきの決意、
ぎりぎりの一念、
白刃上(はくじんじやう)を走るものだ。
開拓の精神を失ふ時、002
人類は腐り、
開拓の精神を持つ時、
人類は生きる。
精神の熱土に活を与へるもの、
開拓の外にない。
 

開拓の人は進取の人。
新知識に飢ゑて
実行に早い。
開拓の人は機会をのがさず、
運命をとらへ、
万般を探つて一事を決し、
今日(けふ)は昨日(きのふ)にあらずして
しかも十年を一日とする。
心ゆたかに、
平気の平左(へいざ)で
よもやと思ふ極限さへも突破する。
開拓は後(あと)の雁(がん)だが
いつのまにか先の雁になりさうだ。
 
開拓五周年、
二万戸、二万町歩、
岩手の原野山林が
今、第一義の境(さかひ)に変貌して
人を養ふもろもろの命の糧を生んでゐる。
 
 
この詩の一節を刻んだ碑が、花巻郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)近くに建っています。昭和51年(1976)建立の「太田開拓三十周年記念碑」です。
 
イメージ 4  イメージ 5
 
もう一篇の「開拓十周年」は、昭和30年(1955)にやはり盛岡市の県教育会館で行われた岩手県開拓十周年記念大会に寄せたものです。
 
  開拓十周年
 
赤松のごぼう根がぐらぐらと003
まだ動きながらあちこち残つていても、
見わたすかぎりはこの手がひらいた
十年辛苦の耕地の海だ。
 
今はもう天地根元造りの小屋はない。
あそこにあるのはブロツク建築。
サイロは高く絵のようだし、
乳も出る、卵もとれる。
ひようきんものの山羊も鳴き、
馬こはもとよりわれらの仲間。
 
こまかい事を思いだすと
気の遠くなるような長い十年。
だがまた、こんなに早く十年が
とぶようにたつとも思わなかつた。
はじめてここの立木へ斧を入れた時の
あの悲壮な気持を昨日のように思いだす。
歓迎されたり、疎外されたり、
矛盾した取扱いになやみながら004
死ぬかと思い、自滅かと思い、
また立ちあがり、かじりついて、
借金を返したり、ふやしたり、
ともかくも、かくの通り今日も元気だ。
 
開拓の精神にとりつかれると
ただのもうけ仕事は出来なくなる。
何があつても前進。
一歩でも未墾の領地につきすすむ
精神と物質との冒険。
一生をかけ、二代、三代に望みをかけて
開拓の鬼となるのがわれらの運命。
食うものだけは自給したい。
個人でも、国家でも、
これなくして真の独立はない。
そういう天地の理に立つのがわれらだ。
開拓の危機はいくどでもくぐろう。
開拓は決して死なん。
 
開拓に花のさく時、
開拓に富の蓄積される時、
国の経済は奥ぶかくなる。
国の最低線にあえて立つわれら、
十周年という区切り目を痛感して
ただ思うのは前方だ。
足のふみしめるのは現在の地盤だ。
静かに、つよく、おめずおくせず、
この運命をおおらかに記念しよう。
 
 
どちらも晩年の作。智恵子の死や戦争や、さまざまなことを経てたどりついた境地が表されています。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月16日

昭和3年(1928)の今日、『東京日日新聞』に、散文「日本家庭大百科事彙」が掲載されました。
 
書肆・冨山房により前年から刊行が開始された「日本家庭大百科事彙」の書評です。同書は日本女子大学校での智恵子の先輩で、光太郎と智恵子の間を取り持った柳八重が家事家政方面の編集に当たり、自らも執筆しています。他に、光雲(木彫)、豊周(工芸美術、室内装飾)も執筆者に名を連ねました。
 
ところで日本女子大学校といえば、NHKさんの今年後期の連続テレビ小説(朝ドラ)が、同校の設立に奔走した女性実業家・広岡浅子が主人公の「あさが来た」となることが発表されました。
 
広岡は、光太郎がその胸像を作った同校初代校長成瀬仁蔵や、柳八重、さらに同じく智恵子の先輩・小橋三四子などとも深いつながりがありました。もしかすると智恵子や光太郎も登場するかも、と期待しています。

テレビ放映情報です。 

いにしへ日和 #122 岩手県・花巻市・高村光太郎と大沢温泉

BS朝日 2014年12月25日(木)  21時54分~22時00分  再放送2015年1月1日(木) 22時54分~23時00分
 
日本の東国各地をめぐり、歴史上の人々が残した足跡をたどります。美しい景色の中に息づく「時の記憶」。旅をしながら、現在と過去を自由に行き来する。そんな気分を味わう番組です。時をこえ、小さな旅に出かけよう。今日は、いにしへ日和…日本の各地をめぐり、歴史上の人々が残した足跡をたどります。
 
高村光太郎は、1945年花巻に疎開し、7年の間、この地で過ごしました。 光太郎62歳。最愛の妻・智恵子も既に他界し、東京大空襲で自宅とアトリエを失ってやってきた花巻。 そんな光太郎が「本当の温泉の味がする」と、何度も訪れた大沢温泉を訪ねます。
 
出演 ナレーター キムラ緑子
 
イメージ 1
JR東日本さん提供の5分間番組です。
 
今年5月には、「#107 福島県・二本松市・智恵子の空」ということで、二本松の智恵子生家周辺を取り上げて下さいました。
 
イメージ 2
イメージ 3
 
イメージ 4
 
イメージ 5
 
今回は、光太郎が何度も訪れた、花巻郊外の大沢温泉さんからです。宮澤賢治や相田みつをゆかりの宿としても有名です。
 
当方も定宿としています。一昨年はつごう7泊ほど泊めていただきました。しかし、今年は花巻には2回行きつつも、1回も泊まりませんでした。1度目は1月下旬。大沢さんがいっぱいで、やはり光太郎が何度か訪れた鉛温泉さんに泊めていただきました。2度目は5月15日の光太郎祭でしたが、この時は夜行高速バスを使い、車中泊でした。だからしばらく行っていません。テレビを見て、懐かしみたいと思います。
 
ただ、来年は既に泊めていただくことが決まっています。今から楽しみです。とにかく温泉が素晴らしいし、料理や部屋、そして宿全体の雰囲気が非常にいい感じです。
 
一年中、いつ行っても、それぞれの季節ごとの良さがありますが、一番お薦めなのは、冬です。
 
こちらは4年前の今頃撮った画像です。今の季節はこんな感じです。
 
イメージ 6
 
イメージ 7
 
イメージ 8
 
寒さは半端ではありませんが、雪見の露天風呂、そして温泉で火照った身体に染み渡る清冽な冷気、そして寒くなったらまたザブン。たまりません。
 
ただし、この冬は近くの高村山荘・高村光太郎記念館は、グランドオープンに向けてのリニューアルで閉鎖中ですので、お気をつけ下さい。
 
さて、「いにしへ日和」。ぜひご覧下さい。本放送は明後日、再放送が来年1月1日。再放送とはいえ、元日から光太郎がらみの放映があるというのは、幸先がいいですね。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月23日
 
昭和20年(1945)の今日、詩「雪白く積めり」を執筆しました。
 

   雪白く積めり
 000
雪白く積めり。
雪林間の路をうづめて平らかなり。
ふめば膝を没して更にふかく
その雪うすら日をあびて燐光を発す。
燐光あをくひかりて不知火に似たり。
路を横ぎりて兎の足あと点々とつづき
松林の奥ほのかにけぶる。
十歩にして息をやすめ
二十歩にして雪中に坐す。
風なきに雪蕭々と鳴つて梢を渡り
万境人をして詩を吐かしむ。
早池峯(はやちね)はすでに雲際に結晶すれども
わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。004
わづかに杉の枯葉をひろひて
今夕の炉辺に一椀の雑炊を煖めんとす。
敗れたるもの卻て心平らかにして
燐光の如きもの霊魂にきらめきて美しきなり。
美しくしてつひにとらへ難きなり。
 
この年、秋、花巻町から郊外の太田村山口に移り住んだ光太郎。鉱山の飯場小屋だった建物を村人の協力で移築してもらい、7年間の孤独な山小屋(高村山荘)暮らしを始めました。北川太一先生曰く「生涯で最も鮮烈な冬」。その山小屋での冬を謳った、記念すべき第一作です。右上の画像は、昭和23年(1948)冬に撮影された光太郎の山小屋です。
 
この詩を刻んだ碑が、のちに山小屋近くに建てられ、毎年5月15日には、この碑の前の広場で光太郎を偲ぶ高村祭が行われています。
 
イメージ 10
 
イメージ 11
 
こちらは30年程前、初めてここを訪れた時に撮影したものです。3月下旬でしたが、日陰にはまだ膝まで雪が残っていました。

新刊です。
2014/11/01 株式会社花美術館発行 定価1200円+税
 
イメージ 4
 
目次(抄)000
 祈り―東日本大震災
 啄木、賢治の共通性 望月善次
   長男としての誕生―戸籍と誕生日の揺れ
   誕生時の恵まれた環境
   宗教の家
   盛岡中学校入学と挫折
   先進的教育教授と中途退職
   夭死
   国民的人気と国際的展開
   献身的支援者~肉親の証言から
 明治の青春 金田一秀穂
 生涯にわたる兄への敬愛と献身-宮澤清六 宮澤明裕
 啄木、賢治の異質性 望月善次
   文学的ジャンルの相違―「童話」VS「評論・日記」
   宗教への態度―遠ざかる(拡散)VS格闘(集中)
   結婚の有無―積極的VS消極的
   美術的側面―デザインVS絵画
   全集発行時期―死後8年VS死後1年
   学問と知識―文系人間VS理系人間
   運の在り方―文学的幸運VS経済的幸運
 『一握の砂』と『注文の多い料理店』その装丁 原田光
 郷愁のモニュメント 藤田観龍
 美術館紹介 石川啄木記念館/岩手県立美術館/宮澤賢治イーハトーブ館/宮澤賢治記念館
 
というわけで、岩手の生んだ二人の天才、石川啄木と宮澤賢治について、故郷岩手を軸にした53ページの特集です。特に賢治に関し、その世界を世に広める功績のあった光太郎の名が随所に現れます。
 
後半は「現代の短詩型文学-故郷と幻想の間」「現代作家-原風景への憧憬」「現代工芸-美の精粋」ということで、各分野の現代作家の皆さんの作品がたくさん。
 
その中で白井敬子さんという歌人の方の作品です。
 
光太郎・北斎・虚子・百閒忌花の四月に皆連れ立ちて
 
4月2日、光太郎忌日連翹忌を題材になさって下さいました。ちなみに葛飾北斎の北斎忌は18日、高浜虚子の虚子忌(椿寿忌)は8日、内田百閒の百閒忌は20日。短歌ではなく、俳句としては季語にもなり、歳時記に載っているようです。
 
さて、『花美術館』、ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月7日
 
平成20年(2008)の今日、愛知県一宮市尾西歴史民俗資料館で開催されていた、「特別展 花子とロダン―知られざる日本人女優と彫刻の巨匠との出会い―」が閉幕しました。
 
花子といっても、今年度上半期のNHKさんの001朝ドラ「花子とアン」の村岡花子ではなく、明治期の日本人女優、花子です。
 
明治元年(1868)、岐阜県の生まれ。本名・太田ひさ。旅芸人一座の子役、芸妓、二度の結婚失敗を経て、明治34年(1901)、流れ着いた横浜で見たコペンハーゲン博覧会での日本人踊り子募集の広告を見て、渡欧。以後、寄せ集めの一座を組み、欧州各地を公演。非常な人気を博しました。明治39年(1906)、その舞台を見たロダンの強い要望で、彫刻作品のモデルを務めました。
 
大正10年(1921)には帰国、その際、自身をモデルにしたロダン彫刻2点を持って帰りました。それらは一時、東京美術学校に寄託され、光太郎の目にとまりました。昭和2年(1927)にアルスから評伝『ロダン』を出版する取材の一環として、光太郎は花子を岐阜の実家に訪ねています。
 
同展ではその後送られた光太郎からの書簡も展示されました。
 
 
イメージ 2
 
イメージ 3

岩手の地方紙、『岩手日日』さんの報道です。 

展示計画概要を説明 花巻市 光太郎記念館改修で (08/27)

 花巻市太田の高村光太郎記念館の展示改修に向けた市による2回目の説明会は25日夜、太田振興センターで開かれた。4月の説明会以降、市に寄せられた意見の検討結果を報告し、主に2014年度事業で進める展示改修の概要を説明した。

 地元の住民ら19人が参加。市生涯学習交流課が展示と施設改修の基本設計や周辺環境整備、運営方法に関わる40件余りの意見・要望への検討案を説明した。

 この中、研究者や学生が調べものをできるスペースを確保してほしいという要望に「事務室や休憩コーナーで対応する」として事務室を当初計画の約1・5倍に広げ、トイレの位置を移す設計変更を説明。高村山荘を望む窓の設置に関する要望には「建物の構造上、実現は困難」と理解を求めた。

 施設は、彫刻作品や映像中心の展示室1を「動」、作品解説と生涯を紹介する展示室2を「静」の空間とし、図書が閲覧できる休憩室、企画展示室も配置。展示室2は、山荘暮らしや県内著名人との関わりなど六つのゾーンで紹介する。

 山荘そばにある智恵子展望台への遊歩道の改修や駐車場舗装工事、屋外公衆トイレ改修、敷地内案内看板の設置のほか、15年度に予定する杉木立の伐採や詩碑前広場の改修案も説明した。

 参加者からは「開館日ごとの日付に合わせて光太郎の日記を紹介しては」「立木はどれを切るかでなく、どれを残すかの発想で取り組むべき」「山荘裏山の地滑り対策を」など貴重な意見や提案が相次いだ。

 細川祥市生涯学習部長は「地元の人たちの思いを大事に相談しながら進めたい」と語った。

 同記念館は、光太郎が晩年の7年間を過ごした高村山荘そばの旧記念館に代わり、近くの旧花巻歴史民俗資料館を活用して13年5月に暫定オープン。市は9月にも展示関係を発注し、10月から施設改修に入り、冬季は閉館して本格工事を進め、年度内の完了を目指す。
 
 
昨日発行の『広報はなまき』に関連情報が出るかと思って、ブログでの紹介を待っていましたが、ざっと見たところ、ありませんでした。
 
 
また、4月のこのブログで、その時点で公開されていた図面を載せましたが、より詳細な図面もPDFでアップされています。
 
イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3
イメージ 4
イメージ 5
 
昨秋、施工業者のプロポーザルに委員として参加しましたが、その時点では、さっさと改修を済ませようという、いわば拙速に進める感がありました。しかし、その後、市長さんが替わり、このように住民のみなさんの意見も取り入れてじっくりやっていく方向に転換したとのことで、非常に素晴らしいと思います。これぞ民主主義ですね。
 
現在の記念館昨年5月仮オープンの段階でもかなり充実していますが、いまある展示室のさらに奥、かつて歴史民俗資料館だった頃に収蔵庫として使っていたスペースも第2展示室となるなど、さらに進化してゆきます。
 
ご期待下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月2日
 
昭和51年(1976)の今日、新橋演舞場にて「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」の夜の部で、北條秀司脚本「智恵子抄」が上演されました。
 
智恵子役は有馬稲子さん、光太郎役は今年の初めに亡くなった高橋昌也さんでした。
 
二本松出身の日本画家、故・大山忠作氏が、「智恵子に扮する有馬稲子像」としてこの際の有馬さんを描き、二本松駅前にある大山忠作美術館さんの目玉の一つとなっています。
 
イメージ 6
 
それが縁で、昨年は同館で有馬さんと、大山画伯のご長女、女優の一色采子さんとのトークショーが実現しましたし、さらにそれが縁で、一色さんは今年の連翹忌にご参加下さいました。
 
このようにして人と人との縁というものが広がって行くのですね。

過日のブログでご紹介した光太郎書簡に関する続報が、『朝日新聞』さんの岩手版に出ました。

光太郎の手紙寄贈 神奈川の縁者

 詩人で彫刻家の故高村光太郎の手紙を所有する神奈川県在住の進(しん)慶子さん(66)が4日、花巻市太田の高村光太郎記念館を訪れ、手紙を寄贈した。館を運営する光太郎記念会の高橋邦広理事は「貴重な資料をありがとうございました」と喜んでいた。
 進さんは、光太郎の実弟で鋳金家の故高村豊周(とよちか)の離婚した妻の故和田美和さんの縁者。その美和さんに光太郎が出した手紙1通で、書かれた日が1933年8月24日と確認した高橋さんは「よく81年も保管しておいてくれました」と感謝の言葉を述べた。
 手紙には「あなたがどうかして此(こ)の悲(かなし)みから早く脱却される事をのみひたすら祈ります」などと、弟と離婚した美和さんをいたわる記載があり、進さんは「光太郎の優しい面がわかる内容でもあり、捨てないでいた」と話した。
 光太郎は、智恵子と1914年に実質的な結婚生活に入り、手紙が書かれた前日の8月23日に婚姻届を出した。これは精神的に不安定な智恵子を法的に守るための対応とされ、翌日には2人で旅行に出かける慌ただしい中で、弟の離婚した妻へ手紙を書いたのは、2人の女性の境遇に「いろいろ重なるものを見たのではないか」と記念会は推測していた。
 進さんは、豊周さんからの手紙も1通寄贈。「ともかくこれで手紙が落ち着くところに落ち着いた」とほっとしていた。
 両方の手紙は高村家のプライベートな部分も多く含まれており、展示について記念会は「関係者とよく協議して決めたい」と話している。
 
イメージ 1
 
ついでに第一報での誤りについての訂正記事も出ました。
 
イメージ 2
 
光太郎書簡は、現在までに3,400通ほど見つかっていますが、まだまだ埋もれているものがたくさんあるはずです。
 
筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』第21巻には、書簡宛先の人名索引が載っていますが、あるべきはずの名前が抜けていたりします。たくさん手紙を送っていたはずの人の名がないということで、その人あての書簡が見つかっていないのです。例えば有島兄弟、石井柏亭、志賀直哉、梅原龍三郎、岸田劉生、黒田清輝、高田博厚、深沢省三・紅子夫妻、吉井勇などなど。また、与謝野晶子や荻原守衛、武者小路実篤、川路柳虹、佐藤春夫などにあてたものは、それぞれ1~2通ずつしか見つかっていません(晶子、武者、佐藤あてはここ数年で見つけましたがそれでも1通ずつです)が、もっともっとあったはずです。
 
受けとった人自身が処分してしまったか、関東大震災や太平洋戦争などで焼失してしまったか、それとも人知れず眠っているかと言ったところですね。
 
新たな書簡により、少しずつ空白が埋まり、光太郎の新たな一面が見えてくるものです。今回報道されたものもそうですが、 こんな人にも手紙を送っていたのか、というケースもあります。ここ数年で見つかって、『高村光太郎全集』に掲載されていないものとしては、伊藤静雄、谷川俊太郎、佐々木喜善(柳田国男に『遠野物語』の内容を語った人物)、稲垣足穂、マチスなど。また、あるべくしてあったという宛先のものもここ数年でけっこう見つかっています。永瀬清子、中山義秀、平櫛田中、石井鶴三、高祖保など。
 
それから、一通の手紙で、それまで特定できていなかった年譜上の出来事の日付が確定することもあります。
これも最近見つけた例でいうと、大正元年(1912)、智恵子と過ごした銚子犬吠埼から帰京したのが9月4日だったこと、昭和30年(1955)、花巻から東京中野に住民票を異動したのが6月1日であったことなどが、それぞれ1通の書簡の発見により判明しました。
 
幸い、最近、光太郎の新たな書簡が見つからない、という事態にはなっていませんが、本当にまだまだ眠っている書簡がたくさんあるはずです。ご協力をお願いします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月6日

大正8年(1919)の今日、腸チフスで入院していた駒込病院から退院しました。
 
約1ヶ月の入院で、この退院の日付も最近見つかった6月14日付の田村松魚あての書簡により特定できました。
 
御手紙ありがたく拝見しました。六日にやつと退院しましたが筆をとるのがひどくおつくうだつたので まだまるで友達にもその事をしらせず失礼してゐました。

『朝日新聞』さんの岩手版に以下の記事が出ました。

光太郎の手紙見つかる

 詩人で彫刻家の故高村光太郎の手紙が、縁者の家から見つかった。実弟で鋳金家の故高村豊周(とよちか)の元妻に宛てた手紙で、悲しみを慰めるプライベートな内容となっている。近く花巻市の高村記念会に寄贈される予定で、同会は「第一級の資料」と喜んでいる。
 
 手紙は、豊周と離婚した故和田美和さんに宛てたもので、親類の神奈川県大磯町の進(しん)慶子さん(66)が、和田さんから預かっていた荷物の中から見つけた。高村記念会に連絡をとり、光太郎全集や豊周全集などにも載っていない新資料で、直筆だと確認された。
 
 内容は「ただあなたの未来の御幸福御健康を祈ります。あなたがどうかして此(こ)の悲(かなし)みから早く脱却される事をのみひたすら祈ります」などと記され、離婚に関連していると推測される。
 
 手紙の冒頭に「おてがみ再読しました」とあり、和田さんの手紙を受けての返信とみられる。
 
 手紙の末尾に「八月二十四日」と書かれ、封筒の消印は翌日の昭和8(1933)年8月25日。光太郎は23日に、精神が不安定になった妻智恵子との離婚届を出し、24日夜には2人で旅行に出かけており、手紙はその直前に書かれ、投函(とうかん)されたことになる。
 
 忙しい中で書簡をしたためたとみられ、記念会では、光太郎の誠実さが読み取れるとしている。
 
 進さんは、子どもがなかった和田さんの世話をしており、没後約20年たった数年前、預かった荷物を捨てようと整理をしていて、手紙の差出人に「高村光太郎」という文字を見つけた。和田さんから生前、高村家との関係を聞いており、「自分で持っていてももったいないので活用できるならしてもらいたい」と寄贈を決めたという。
 
 光太郎は、「道程」「智恵子抄」などの詩集や、十和田湖畔のブロンズ像「乙女の像」などの作品で知られているが、見つかった手紙には、これらの制作過程にかかわる記載はなく、プライベートなものだけ。
 
 だが、新たな人となりが見えてくる可能性もあり、同会は「研究者の手で解明してもらいたい」とし、公開については「遺族などと協議をして決めたい」としている。
 
イメージ 1
 
この書簡の存在については、昨秋、花巻の高村光太郎記念会さんから情報を得ていましたが、予定では明日、記念会さんに寄贈されるとのことで、記事になったようです。
 
傷心の元義妹に宛てたもので、慈愛に溢れたいい文章です。ただ、公序良俗に反することが書いてあるわけでもないのですが、やはり家庭内のゴタゴタにからむ内容なので、記念会さんとしてもあまり大っぴらに公開はしない方向とのこと。それでいいと思います。
 
離婚の経緯などについては、豊周自身が自著『自画像』(昭和43年=1968 中央公論美術出版)の中で、かなり具体的に語っており、特に極秘事項というわけでもないのですが、ことさらに取り上げるべき事柄ではないと思います。
 
イメージ 2
 
売れば売ったでかなりの金額になるものです。ところが、現所有者の方は、全くの善意で寄贈してくださるとのこと。すばらしいと思います。
 
ところで記事の中で「光太郎は23日に、精神が不安定になった妻智恵子との離婚届を出し、」とあるのは大間違いで、正しくは婚姻届です。何をどう間違えたのか、全く逆になってしまっています。
 
昭和8年(1933)というと、智恵子の統合失調症がかなり進んでいた時期です。光太郎は智恵子の故郷近辺の温泉巡りでもすれば少しは病状が好転するかと考え、智恵子を連れて旅に出ました。昨年焼失してしまった福島の不動湯や栃木の塩原温泉などを巡っています。8月24日のことです。その前日に、本郷区役所に婚姻届を提出しています。永らく事実婚だったのを、光太郎は自分に万一のことがあった時の智恵子の身分保障のため、そうしたのです。
 
その同じ日にこの書簡が書かれているということで、忙しい中に手間を厭わなかった光太郎の慈愛の念が感じられます。
 
ちなみに盛岡てがみ館さんでは、来週月曜まで、企画展「高村光太郎と岩手の人」を開催しています。まだまだ各地に眠っている光太郎書簡はかなりあると思われます(もしかすると智恵子書簡も)。こうした書簡類、死蔵されたままにならないことを祈ります。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月3日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外旧太田村の山小屋に、二間×三間の別棟が増築されました。
 
イメージ 3
 
右が昭和20年(1945)からの元々の小屋、左が増築された別棟です。ちなみによく見ると二つの小屋の間で光太郎が手を振っています。

現在、増築部分は少し離れた場所に移築、倉庫的に活用されています。
 
費用は詩集『智恵子抄』版元の龍星閣が持ちました。同社は明瞭な印税制をとらず、こういう形で光太郎に還元したそうです。

過日、花巻の第57回高村祭に行った折、入手してきたチラシです。
 
イメージ 1
 
花巻で運行されている観光タクシー「あったかいなはん花巻号2014」の案内です。昨年から始まった企画ですが、レトロジャンボタクシーで花巻市内の観光施設等を廻って、半日1,000円、1日で2,000円という値段です。
 
半日コースは午前コースと午後コースに分かれており、両方通しで1日コースとなります。午後コースの方に、高村光太郎記念館・高村山荘が含まれています。その午後コースは、他に宮澤賢治記念館マルカン百貨店大展望大食堂を巡回します。なぜにデパートの食堂?と思われるかも知れませんが、ここの巨大ソフトクリームが花巻名物の一つで、最近、旅番組などでもよく取り上げられているからです。しかも「ツアーの参加特典」となっていますので、タクシー料金に含まれているようです。ただ、巨大ソフトクリーム、もともと150円ですが……。こちらは割り箸で食べるのが正式な作法です。当方も話の種にと思い、一度食べたことがありますが、半端なものではありません。
 
イメージ 2
 
「あったかいなはん花巻号」、要予約ですが、ネットのいわて花巻旅行社さんのページから可能です。
 
以前は在来の花巻駅から高村光太郎記念館・高村山荘行きの路線バスがあったのですが、数年前に廃線となり、公共交通機関で行こうと思ったら、通常のタクシーか、この「あったかいなはん花巻号」しかありません。通常のタクシーは花巻駅から片道3,000円ちょっとですので、往復となると7,000円ほどになってしまいます。まして東北新幹線の新花巻駅からですと、さらに距離があります。
 
ぜひご利用下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月23日

昭和12年(1937)の今日、新潟長岡で「光雲遺作木彫展観」が開催されました。
 
新潟に光雲支援者が多くいたことから開催の運びとなりました。光太郎も観に行っています。
 
この時に、光太郎の文章「〔高村光雲作木彫展観〕」が載っているパンフレット的なものが発行されました。文章は『高村光太郎全集』に掲載されているのですが、パンフレットそのものを探しています。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

5/15(木)、岩手花巻で行われた第57回高村祭。地元紙に報道されましたのでご紹介します。 

光太郎しのび朗読や合唱 花巻で高村祭

『岩手日報』
 花巻市で晩年を過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する第57回高村祭は15日、同市太田の高村山荘詩碑前で開かれ、郷土ゆかりの先人をしのんだ。
 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)などが主催。太田小児童の楽器演奏、西南中の合唱に続き、花巻北高の遠藤鮎喜(あゆき)君(3年)と佐々木愛美さん(2年)が「晴天に酔う」「レモン哀歌」を朗読した。
 花巻高等看護専門学校1年の佐藤百(もも)さん(18)は1945年8月の花巻空襲時に、危険を顧みず負傷者救護に尽力した看護師らをたたえた詩「非常の時」を情感を込めて読み上げた。佐藤さんは「戦争作品はあっても、看護師などに目を向けた詩は少ない。意味を調べながら練習した」と話した。
 同看護専門学校のコーラス披露もあり、訪れた市民ら約300人とともに光太郎に思いをはせた。
イメージ 1
 

光太郎精神 現代に 地元学生ら詩朗読、合唱 名前の由来は光太郎の妻 名付け親に持つ末盛千枝子さん

『岩手日日』
 花巻市ゆかりの詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する高村祭が15日、同市太田山口地区の高村山荘詩碑前で開かれた。地元の学生たちによる光太郎作品の朗読や、編集者の末盛千枝子さん(八幡平市)の特別講演などを通じ、参加者が偉人の足跡に思いをはせた。

 光太郎が東京から花巻に疎開してきた日を記念し、花巻高村光太郎記念会と高村記念会山口支部が毎年主催。57回目の今年は、詩集「道程」刊行100周年が重なった。

 各地から450人以上が参加。開会に先立ち光太郎の遺影が飾られた詩碑に太田小2年生の中島流星君と石川澄花さんが献花し、三彩流新茗会新田社中が献茶して開会。参加者全員が詩碑に刻まれた「雪白く積めり」を朗読した。

 続いて地元の学生たちが出演し、新緑に包まれた会場で光太郎の残した言葉を響かせた。太田小2年生21人は光太郎と交流のあった旧山口小の校歌を元気いっぱい歌ったほか、「かっこう」をピアニカで演奏、光太郎の詩「案内」を暗唱した。

 西南中学校1年生49人は「心はいつでも新しく、毎日何かしらを発見する」という光太郎の言葉を取り入れた精神歌を合唱。県立花巻北高校の遠藤鮎喜君(3年)と佐々木愛美さん(2年)、花巻高等看護専門学校の佐藤百さん(1年)による光太郎の詩の朗読後、同校1年生40人が「最低にして最高の道」「リンゴの詩」「花巻の四季」のコーラスを披露した。

 特別講演では、本県出身の彫刻家・故舟越保武氏の長女で、光太郎を名付け親に持つ編集者の末盛千枝子さんが、「私にとっての高村光太郎」と題して光太郎との縁を振り返った。

 末盛さんの父は光太郎が訳した本「ロダンの言葉」を読んで彫刻家になろうと決心した経緯があり、29歳の時に初めての娘である末盛さんが東京で生まれた時、全く面識のない光太郎を突然訪ねて名前を頼んだという。

 光太郎は妻智恵子を亡くしてから3年しか経っていない頃で、「女の名前は智恵子しか浮かばないけれど、智恵子のような悲しい人生になってはいけないので字だけは替えましょうね」と言って名付けてくれた-と末盛さんは聞かされてきた。

 末盛さんは「自分はそんな大切な名前に値しない。父が無理難題を言って申し訳ない」と感じてきたが、「最近になって父は彫刻家としてやっていく励ましをもらいたくて高村さんを訪ねたのだろう、高村さんは大変さを身に染みて分かっていたから、若い彫刻家の頼みを断れなかったのではと思えるようになった」と心境の変化を語った。

 盛岡にいた当時、光太郎から「おじさんのことを覚えていてください」と言われたことにも触れ、「父が彫刻家になることが高村さんの励ましに応えることだった。弟2人(舟越桂氏、舟越直木氏)も彫刻家になり、曲りなりにも応えられたのでは」と思いをはせた。
 
イメージ 2
イメージ 3
 
それから、撮ってきた写真を整理していたら、過日のブログに載せ忘れていたものがありましたので、ついでに。
 
イメージ 4  イメージ 5
  
左はポスター、右は会場正面に掲げられた光太郎肖像写真です。
 
イメージ 6
 
会場のゴザの上を飛び跳ねていた蛙。思わず「心平先生、いらしてたんですか?」と呼びかけてしまいました(笑)。
 
今日は福島二本松の智恵子生誕祭に行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月18日
 
昭和29年(1954)の今日、中野のアトリエに入れるベッドの購入契約をしました。
 
メーカーはエムプレス。光太郎、約2年後に、このベッドの上で終焉の時を迎えました。
 
イメージ 7
 

昨日、岩手花巻で行われた第57回高村祭をレポートします。
 
夜行高速バスで花巻駅前に着いたのが朝6時30分過ぎ。駅の売店で買ったパンとコーヒーで朝食。タクシーで会場の高村山荘―昭和20年(1945)から同27年(1952)まで光太郎が暮らした山小屋―に向かいました。会は10時からなのですが、早めに行って周辺散策、それから敷地内の高村光太郎記念館を観ようと思った次第です。
 
東北北部もようやく新緑の季節となり、昨日は光太郎関連のイベントにしては珍しく雨も降っておらず、いい感じでした。記念館のかたわらの山桜はまだ花を付けていました。
 
イメージ 1  イメージ 2
  
イメージ 3
 
会場の設営を終えて、いったんお帰りになるという花巻高村光太郎記念会事務局長の高橋氏、山口支部の浅沼さんなどにご挨拶、その後、周辺を歩きました。
 
山荘の向かって右手は光太郎が使用していた便所ですが、「月光殿」という洒落た名前が付けられていたものです。明かり取りのために「光」一字が壁に彫りつけられています。
 
イメージ 4  イメージ 5
 
裏手に回ると、中からの様子が見えるようにしてありました。以前はこうなっていなかったので、興味深く拝見しました。
 
記念館は8時30分開館ですが、少し前に入れていただき、お茶まで戴いてしまいました。ショップでは、復刊された花巻版『高村光太郎詩集』も並んでいました。
 
そうこうしているうちに参会の皆様が集まり始め、当方も会場に移動。会場はやはり敷地内の「雪白く積めり」詩碑前の広場です。もともと第1回の光太郎祭(昭和33年=1958)は、この詩碑と山小屋の套屋(とうおく=建物全体のカバー)落成記念を兼ねて開かれたという経緯があり、ここが伝統的に会場になっています。
 
イメージ 6
 
イメージ 7
 
さて、開会。献花、献茶、参会者全員による「雪白く積めり」朗読、主催者挨拶と続き、これも伝統的に、地元の小中高生、花巻高等看護専門学校生徒の皆さんによる朗読や器楽合奏、合唱などが行われました。
 
小学生の器楽合奏は、もともと光太郎が旧山口小学校に楽器を寄附したことに由来します。おそらく初期の高村祭ではその光太郎寄附の楽器が使われていたと推定されます。

000
 
その後、特別講演。講師は光太郎と交流のあった彫刻家、故・舟越保武氏のご令嬢、末盛千枝子さん。講師紹介で「ご令嬢」と紹介されると、ご来場の末盛さんのお友達の皆さんが非常にウケていました。
 
当方、昨秋、東京代官山でのイベントで末盛さんのお話を伺いましたが、その折りのお話プラスアルファで、興味深い内容でした。やはり直接光太郎をご存知で、家族ぐるみ光太郎と縁のあった方のお話ですので、そうでない方のお話とは違います。
 
001 

右上は終了後のサイン会の様子です。
 
その後、お昼の弁当を戴いて、さらに当方は記念会スタッフの方と記念館改修についての打ち合わせ。現在は手前の展示スペースのみを使っていますが、その奥のスペースを使い、倍近い広さになるとのことで、図面を見ながら現場を拝見しました。1年後には新規オープンの予定ですが、今年就任された新市長の方針で、地元の皆さんの声も反映させていくとのことです。当方もまた関わらせていただきます。
 
002
 
その後、末盛さんともども山荘内部に特別に入れていただきました。2年ぶりに中に入りましたが、やはり感慨深いものがありました。
 
そして花巻駅まで送っていただき、千葉へと帰りました。
 
高村山荘、記念館、新緑の美しい季節です。ぜひ足をお運び下さい。来年には記念館改修完了の予定ですし、また第58回高村祭もあります。そちらもよろしくお願い申し上げます。
 
昨年運行され、好評だったレトロジャンボタクシー「あったかいなはん花巻号」、今年も運行されています。そちらについてはまた日を改めて書きましょう。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月16日

昭和25年(1950)の今日、花巻の寿デパートで開催されていた「智恵子遺作切抜絵展」が閉幕しました。
 
戦時中、焼失を懼れ、光太郎は智恵子の紙絵を山形、茨城取手、そして花巻の三ヶ所に分けて疎開させていました。そのうち花巻にあったものの中から作品を選択、この展覧会が開催されました。
 
チラシ、パンフレット等お持ちの方、あるいはここに保管されている等の情報をお持ちの方は、お知らせ願えれば幸いです。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

東北新幹線はやぶさ車中にて書いております。

昨夜は池袋から夜行バスに乗り、今朝、花巻に着きました。今日は花巻郊外、旧太田村の光太郎が暮らしていた山小屋・高村山荘敷地内にて、第五十七回高村祭でした。

詳しくは明日、また投稿いたします。

【今日は何の日・光太郎 補遺】5月15日

昭和33年(1958)の今日、花巻で第1回高村祭が行われました。


当時の呼称は「高村記念祭」。記念講演の講師は草野心平、伊藤信吉でした。

岩手の地方紙『岩手日日』さんの報道です。 

国語教育の向上へ〜高村光太郎詩集 県内学校施設に贈る (05/13)

 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)は、高村光太郎(1883~1956年)の生誕130年を記念して刊行した「高村光太郎詩集」を花巻市内をはじめ、県内の学校施設に贈った。晩年を過ごした花巻市で12日に贈呈式が行われ、光太郎研究の第一人者北川太一氏(東京都)による解説付きの資料として国語教育の向上に役立つことを願った。
 
  同詩集は、「道程」「智恵子抄」「典型」など代表作91編を収めたB6判、320ページ(定価1400円)。一編ごとに北川氏が詩の制作背景や用語などの解説を添え、光太郎の詩を読み解く資料として好評を得ている。
 
  もともとは1969年に旺文社文庫として発刊され、92年に旧高村記念会(現記念会の前身)として再発行。今回、昨年の節目の年を記念して光太郎の誕生日(3月13日)に改定新版として3000部を作った。

同市役所に佐藤会長ら記念会関係者4人が訪れ、贈呈の趣旨説明後、佐藤会長が上田東一市長に詩集を手渡した。

 上田市長は「花巻の子供たちがこれを読んで心を豊かに、光太郎さんと花巻のつながりも学んでもらえればうれしい」と感謝し、佐藤会長が「よろしくお願いします」と思いを託した。

 詩集は「各学校の書架に納めてほしい」と市内の小中学校30校を含め県内の全小中学校、高校、大学の計625校に3月中に寄贈された。

 寄贈に当たっては、光太郎が花巻在住当時に取材を通じて交流のあった写真新聞記者阿部徹雄さんの子息の力(つとむ)さん(静岡県在住)から東日本大震災の復興支援への意味を込めて寄せられた寄付金も役立てられており今後、図書館施設などにも贈る予定。
 
イメージ 1
 
明日行われる「第57回高村祭」を主催されている一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんが、同会刊行の『高村光太郎詩集』を岩手県内の学校に寄贈したという内容です。
 
この『高村光太郎詩集』、記事にあるとおり、元は昭和44年(1969)に旺文社文庫の一冊として刊行されたものの復刻です。100篇ほどの詩を収め、そのすべてに、北川太一先生による詳細な脚注がついています。
 
イメージ 2    イメージ 3
 
さらに同じく北川先生による巻末の解説も非000常に充実しており、この手のものの中では白眉です。昔の文庫本はものすごく手間がかかっていたというのがよくわかります。
 
ちなみに表紙は、旺文社文庫では洋画家の故・深尾庄介氏のイラスト(これも豪華な起用です)。
 
一方の花巻版は、光太郎自身が大正9年(1920)に、与謝野晶子著『晶子短歌全集』第三巻の挿画として描いたペン画の「手と星空」を使っています。
 
自作のブロンズ彫刻で、光太郎の代表作の一つ「手」をモチーフにしています。
 
この他にも花巻の高村光太郎記念会さんでは、昭和37年(1962)に筑摩書房から無題1刊行された『高村光太郎山居七年』という書籍の復刻版も刊行しています。
 
こちらは故・佐藤隆房氏編。佐藤氏は初代の花巻高村光太郎記念会会長で、宮澤賢治の主治医でもありました。先の記事にもお名前が上がっている現会長・佐藤進氏はそのご子息です。この書籍は題名の通り、光太郎が花巻に住んでいた7年間の様々なエピソードを、地元の皆さんの証言等で構成したもので、非常に貴重な記録です。
 
こちらも何度か再版がかけられていますが、そろそろ在庫が払底してしまっているそうなので、近々再刊する予定とお聞きしています。あるいはもうされているでしょうか。
 
この手のご当地限定光太郎書籍、なかなか花巻でしか手に入りません。明日の高村祭を含め、ぜひとも花巻光太郎山荘付近へお越し下さいませ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月14日
 
昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村山口の山小屋戸外で誤って転倒、肋骨を傷めました。
 
転倒した際に石油ランプを破壊し、痛みが引くまで1週間かかるほど激しく転んだようです。太田村は無医村でしたので、病院にも行かずに耐えていましたが、日記には毎日のように肋骨の痛みを綴っています。見かねた村人が温泉での湯治を勧めました。高齢者の転倒事故、昔からあったのですね。

先日のブログでご紹介した、岩手花巻で開催される「第57回高村祭」。いよいよ今週となりました。
 
昭和20年(1945)から同27年(1952)にかけ、光太郎が独居自炊の生活を送った花巻郊外・旧太田村山口の山小屋が「高村山荘」として今も保存されています。昨年、山荘近くの花巻市立民俗資料館だった建物を「高村光太郎記念館」にリニューアル、仮オープンしました。
 
「高村山荘」「高村光太郎記念館」とも、花巻の一般財団法人・花巻高村光太郎記念会さんで管理をなさっていて、「高村光太郎記念館・高村山荘」のタイトルでHPも開設されています。「高村祭」もこちらの主催です。
 
「高村光太郎記念館・高村山荘」のHPで、「高村祭」のチラシがPDFでアップされています。
 
イメージ 1

イメージ 2
 
今回の「高村祭」で特別講演をなさる編集者・絵本作家の末盛千枝子さんの詳細なご紹介、交通案内も。
 
午前9時40分発で、JR東北本線花巻駅西口から無料のシャトルバスが出ます。それ以外に路線バスはありませんので御注意下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月11日

昭和21年(1946)の今日、連作詩「暗愚小伝」の制作を始めました。
 
この日の日記に以下の記述があります。
 
夜は読書せず。詩の事。「余の詩を読みて人死に赴けり」を書かんと思ふ。
 
のちに少し題名を変え、次の詩の断片が書かれました。
 
   わが詩をよみて人死に就けり
 
 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の大腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞が読んだ。
 人はそれをよんで死に立ち向かつた。
 その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
 
しかし、結局この詩は未完のままお蔵入りに。代わって、20篇から成る連作詩「暗愚小伝」へと発展していきます。
 
「暗愚小伝」は翌年7月、臼井吉見が編集していた雑誌『展望』に発表されました。戦時中、国策協力の詩を乱発していた光太郎が、敗戦後、自分の詩が多くの前途有望な若者を死地に追いやった反省から、「自己流謫(るたく)」……自分で自分を流刑に処するという境地に至って書かれました。20篇の連作詩で、幼少期からその当時に至る自己の精神史を語っています。
 
光太郎の太田村での7年間の「自己流謫」に思いを馳せながら、今年も花巻光太郎祭に行って参ります。

岩手花巻の㈶高村記念会さんからご案内をいただきました。 

滴一滴第57回高村祭

日 時 : 平成26年5月15日(木) 午前10時から午後14時30分頃まで
場 所 : 岩手県花巻市太田3-91 高村山荘詩碑前
      (雨天時はスポーツキャンプ村屋内運動場)
主 催 : 一般財団法人花巻高村光太郎記念会 同山口支部
共 催 : 花巻市 花巻市教育委員会 一般社団法人花巻観光協会
内 容 : 式典 地元学生による詩の朗読 器楽演奏 コーラス等
 
特別講演 末盛千枝子先生(編集者) 演題『私にとっての高村光太郎』
 
5月15日は、昭和20年(1945)、駒込林町のアトリエを空襲で焼け出された光太郎が、宮澤家の招きで花巻に疎開するために東京を発った日です。それを記念して、毎年この日に光太郎がかつて暮らしていた旧太田村山口の山小屋(高村山荘)で、高村祭が行われています。
 
昨年は山荘近くにリニューアルオープンした高村光太郎記念館の仮オープンも兼ね、お父さまが光太郎と交流があった女優の渡辺えりさんによる特別講演があり、多くの方でにぎわいました。
 
今年の特別講演は末盛千枝子さん。やはりお父さまの彫刻家、故・舟越保武氏が光太郎と交流があり、ご自身も光太郎と面識がおありです。昨秋、東京代官山でのイベント、読書会「少女は本を読んで大人になる」にご出演、当方も拝聴して参りました。「千枝子」というお名前は「智恵子」にちなんで光太郎が名づけてくれたというお話、その後、成長なさってから光太郎と実際にお会いになった時のお話など、興味深い内容でした。今回もそのあたりが聴けると思います。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月3日

大正15年(1926)の今日、詩人の尾崎喜八に宛てて、自作木彫「鯰」をプリントした絵葉書を送りました。
 
大正末から昭和初めにかけ、光太郎はこのように自作の彫刻や自分と智恵子の写真を使った絵葉書をよく使用していました。「鯰」はこの時開催されていた「聖徳太子奉賛美術展覧会」に出品したものでした。
 
おまけ
 
このブログ、本日をもって、3年目に突入しました。昨日までまる2年、主に新しい情報を中心に、1日も休まず更新して参りました。時折、ネタに苦しむこともありましたが、探せばネタは結構転がっているものですね。
 
地味なブログですのでなかなか閲覧数が伸びませんが、これからもよろしくお願い申し上げます。

4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催し、多くの方にスピーチを頂き、花巻の財団法人高村記念会・高橋卓也さんにもお願いしました。
 
昨年の高村光太郎記念館のプレオープンについて、さらに今年度のさらなる改修計画等についてのお話を頂きました。
 
地元岩手の地方紙、『岩手日日』さんにも記念館改修についての記事が出ています。 

本格オープンに向け改修 高村光太郎記念館(4/05)

 花巻市は、同市太田に2013年5月にプレオープンした高村光太郎記念館の改修を14年度、計画している。晩年を花巻で過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する唯一の施設として展示内容の充実を図る狙い。15日夜に地元で市民説明会を開き、意見を設計に反映させる。
 同記念館は、光太郎が7年間過ごした小屋「高村山荘」を挟んだ東方の旧花巻歴史民俗資料館を活用した。財団法人高村記念会が運営していた高村記念館の老朽化などに伴い、生誕130年に合わせて昨春、暫定オープン。疎開70年に当たる15年度の本格オープンに向けて、併設する収蔵庫や周辺環境を含めた全体整備を今年度に進める計画。
 改修案では、入館してすぐのスペースを第1展示室としてブロンズ像などを自然との関わりの中で展示。奥の収蔵庫は、作品の劣化を防ぐため左側を第2展示室にして文芸や書画を中心に光太郎の人生と関連付けて紹介。右側は企画展室と、常設展の入れ替え資料などを保管する収蔵室とする計画。
 今年度当初予算に同記念館改修と周辺施設改修として駐車場の舗装やトイレ、遊歩道の改修を合わせ約1億7500万円を計上。市民の意見を取りまとめて設計後、夏ごろをめどに工事着手し、12月から来年3月までは休館にして本格的な改修工事を進めたい考え。
 旧記念館は冬季休館したが、新記念館は通年開館し、初年度入館者数は1万2688人。うち昨年12~3月の冬季4カ月間は1245人だった。温泉客や市内の観光施設を巡る「あったかいなはん花巻号」での立ち寄りが多いという。
 市では、15日午後6時30分から太田振興センターで市民説明会を開いて住民の意見を聞くほか、17~23日(土日除く)には市役所本庁舎市生涯学習交流課でも随時受け付ける。
 
また、市の広報紙『広報はなまき』でも。 

宮沢賢治記念館と高村光太郎記念館 より充実した施設を目指して

  昨年5月、高村山荘近くに新たに市の施設としてプレオープンした高村光太郎記念館。晩年を花巻で過ごした高村光太郎を顕彰し、彫刻家や詩人などとして活躍した功績を広く紹介するため、日本に唯一の高村光太郎の記念館として市内外から多くの方が訪れる施設を目指しています。改修の設計に当たっては、関係者の意見を伺いながら進めてきましたが、さらに市民の皆さんの意見を伺い、設計に反映させたいと考えています。
 今回の改修では、来館者の利便向上のため新たに休憩室を設けるほか、トイレの改修やバリアフリーにも配慮します。また作品保護の観点から収蔵室を備え、展示室は次のように考えています。
▽光太郎の根底にある自然賛歌、自然との共生の姿勢を、光太郎のブロンズ像作品を自然と融和させる演出により表現する『展示室1』
▽光太郎の歩み、苦悩、思想などを背景に生み出された作品の紹介を通して人間・高村光太郎と作品を紹介する『展示室2』
 展示室2は、次の六つのゾーンに分けて展示します。
①東京からみちのく花巻へ②地上のメトロポール(「文化の中心地」の意)を求めて③書の深淵④岩手の人⑤賢治を生みき 我を招きき⑥光太郎六つの面
▽常設展だけでは伝えきれない光太郎を伝える『企画展示室』
ご意見をお聞かせ下さい
■市民説明会
 市民の皆さんの意見を伺い設計に反映させるため、市民説明会を開催します。お気軽に参加下さい・
●高村光太郎記念館改修説明会
【日時】4月15日(火)、午後6時30分
【会場】太田振興センター大広間
■市民の意見をお聞きする期間
 市民説明会に参加できなかった方のために、次のとおり意見を伺います。お気軽にお越しください。
【日時】4月17日(木)~23日(水)、午前9時~正午、午後1時~5時(土日を除く)
【会場】高村光太郎記念館改修について 市役所本庁舎2階生涯学習交流課
 
イメージ 1
 
花巻市では、今年1月の選挙で新市長が誕生し、それに伴って市の組織等が改編されたりしました。市の事業についてもずいぶん風通しがよくなったようです。詳しい情報が入りましたらまたご紹介します。
 
なお、高村記念会高橋様からは、5月15日(木)の高村祭についても情報のご提供がありました。今年は記念講演で、光太郎と交流のあった彫刻家、故・舟越保武氏のご息女、末盛千枝子さんにいらしていただくとのこと。

末盛さんは昨冬、東京代官山のクラブヒルサイドさん主催の読書会「少女は本を読んで大人になる」で講師を務められ、当方も拝聴して参りました。「千枝子」というお名前は光太郎が名付け親とのこと。また興味深いお話が聴けるものと思います。こちらも詳しい情報が入りましたらまたご紹介します。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月7日000

平成4年(1992)の今日、大阪市立美術館で「天理秘蔵名品展」が開幕しました。
 
天理大学附属天理図書館、同天理参考館の収蔵品が300点余り展示され、「近代作家の原稿」のコーナーに光太郎の詩「カフエ、ライオンにて」の草稿が並びました。
 
この詩は大正2年(1913)3月、雑誌『趣味』に掲載され、翌年刊行の詩集『道程』にも収録されました。
 
カフェ・ライオンは現在も続く銀座のビヤホール・ライオンの前身です。 
 
 
 

一昨日、4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催しましたが、戦中から戦後にかけ、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも詩碑前祭、そして連翹忌の集いがもたれました。

岩手)高村光太郎の命日 花巻で住民らがしのぶ

 彫刻家で詩人の高村光太郎の命日にあたる2日、花巻市太田の高村山荘で「詩碑前祭」があり、地元の児童らが光太郎の詩を朗読した。
 光太郎は1945年から7年間、高村山荘で暮らした。その後東京に戻り、56年に死去。翌年から地元の住民らが毎年、山荘で集まりを持っている。
 この日は山荘近くにある詩碑の前に住民ら約70人が集まった。詩碑には、山荘での生活をうたった「雪白く積めり」が刻まれており、住民はこの詩など8編を朗読し、故人をしのんだ。
(朝日新聞)
イメージ 1
 
イメージ 4
  

“先生”の教え心に 高村光太郎命日に詩碑前祭

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の命日に合わせた詩碑前祭と連翹忌(れんぎょうき)法要が2日、59回忌に当たる今年も花巻市内で行われ、参加者が花巻ゆかりの偉人をしのんだ。

 詩碑前祭は、同市太田山口地区の住民らで組織する高村記念会山口支部が毎年主催。同地区の高村山荘敷地内広場で催され、約50人が参加した。

 照井康徳支部長は「来年は高村先生が花巻に来てから70周年で、60回忌の節目を迎える。この機会に先生をしのんでもらいたい」とあいさつ。高橋百花さん(太田小学校1年)と小原律君(同2年)が詩碑に献花し、新渕澄副支部長が祭文奏上した。

 詩の朗読も行われ、上太田子供会が「山の広場」を読み上げたのを皮切りに、花巻高村光太郎記念会の駿河いく子さん、山口支部理事の本館文男さんと高橋新吉さん、太田の区長会が発表。詩碑には光太郎の遺影が掲げられ、参加者が線香を上げて静かに手を合わせた。

 光太郎は1945年4月に空襲で東京のアトリエを焼失。翌月に宮沢賢治との縁で花巻に疎開し、稗貫郡太田村山口の山荘で7年間暮らした。

 上太田子供会の安倍依織莉さん(同6年)は「山の良いところがたくさん書かれている詩『山からの贈り物』が好き。高村先生は誰にでも優しい人だったと思う。地元にいたことに誇りを持ちたい」と話していた。
(岩手日日新聞)
イメージ 2

連翹忌法要にファンら集う

 連翹忌法要は、光太郎の顕彰活動を続けている花巻高村光太郎記念会(旧高村記念会)が毎年開催。光太郎が花巻で暮らしていた際に妻・智恵子や父母の法要を行った同市双葉町の松庵寺で営まれ、約40人が参列し焼香した。

 小川隆英住職は法話で、子供の頃に見た光太郎の姿を「いつもリュックサックを背負い、どた靴を履いて寺に来た。背が高く手足も大きく、風格があった」と振り返った。ほかに光太郎の随筆「顔」を取り上げて「高村先生は『思無邪』の顔、邪のない心を持った人の顔が一番美しいと言っておられる」と、人のあるべき生き方を説いた。

 献茶をした倉金和子さん(78)=同市下似内=は「高村先生は素晴らしい人。世知辛い世の中になってしまったが、豊かな心や思いやりを大事にしたい」と話していた。

 法要に続いて追悼座談会が開かれ、参加者が光太郎の思い出や作品の感想などを語り合った。
(岩手日日新聞)
 
イメージ 3

 
ありがたいことです。こちらも続けられる限り続けていっていただきたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月4日

明治45年(1912)の今日、「光雲還暦記念胸像」の贈呈式が行われました。
 
「光雲還暦記念胸像」。光雲の弟子たち000が発願し、海外留学から帰ってきた光太郎に依頼しました。多分に光太郎の腕試し的な意味合いが強かったようです。
 
それに対し光太郎は見事に応えました。
 
おそらく同じ時期におそらく習作として造った「光雲の首」は現存しており、昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にも出品されましたが、「還暦記念胸像」自体は残念ながら現存が確認できておりません。
 
時折、この二つの彫刻を混同している記述があり、困っています。
 
写真は贈呈式の模様。右が光雲、左は光雲の妻にして光太郎の母・わかです。
 

先日のこのブログで、作家・津村節子さんについて書きました。ご主人の故・吉村昭氏ともども、岩手の田野畑村とのご縁が深く、東日本大震災後には、村の復興のために骨を折られているとのこと。
 
当方も微力ながら、同じ三陸の女川の復興支援に少しだけ関わっておりますので、興味をひかれ、津村さんの近著を2冊購入しました。
 
まず1冊、昨年6月、集英社より刊行された『愛する伴侶(ひと)を失って 加賀乙彦と津村節子の対話』を読了しました。
 
イメージ 1

 
やはり作家の加賀乙彦氏との対談です。加賀氏は奥様に、津村さんはご主人にそれぞれ先立たれていて、それを軸にしたトークです。
 
泣けます。
 
加賀氏――
日曜日には女房と二人で聖イグナチオ教会に行っていました。(中略)春は堤に連翹と桜が満開でね。連翹の花というのは十字架の形ですから、十字架がたくさんあるような感じがして。二人でよく教会の帰りに四谷から市谷のあたりまで歩きました。
 
津村さん――
私は今でも、公園の中を歩いて「ああ、ここ、一緒に歩いたなあ」って、そういうことが始終あるんです。退院して再入院するまでの間、二人でよく、歩きました。公園のあたりで「このベンチに一緒に腰かけたな」とか……。
 
お二人のお話から、智恵子を失った後の光太郎を彷彿とさせられます。
 
ちなみに光太郎曰く、
 
智恵子が死んでしまつた当座の空虚感はそれ故殆ど無の世界に等しかつた。作りたいものは山ほどあつても作る気になれなかつた。見てくれる熱愛の眼が此世にもう絶えて無い事を知つてゐるからである。さういふ幾箇月の苦闘の後、或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失ふ事によつて却て私にとつては普遍的存在となつたのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言はば彼女は私と偕にある者となり、私にとつての永遠なるものであるといふ実感の方が強くなつた。私はさうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。一日の仕事を終つて製作を眺める時「どうだらう」といつて後ろをふりむけば智恵子はきつと其処に居る。彼女は何処にでも居るのである。
「智恵子の半生」(昭和15年=1940)
 
幸い当方の伴侶は元気です。しかし、いずれこういう立場になるのだろうか、などと考えさせられました。または逆に当方が先に逝き、伴侶が残されることもあり得るな、とも。そうなった場合、「せいせいした」と言われるのではないかと、それが心配です(笑)。
 
もう一冊、やはり昨年の11月に講談社から刊行された『三陸の海』。こちらはまだ読んでいる最中です。
 
イメージ 2
 
夫妻共に縁の深い田野畑村が描かれています。田野畑は光太郎と縁の深かった宮澤賢治ゆかりの地でもあり、熟読前にざっと斜め読みしたところ、賢治についての記述もありました。
 
以下、講談社さんのサイトから。
 
震災を経て、再びかの地へ――
2011年3月11日。「私」が新婚時代に夫・吉村昭と行商の旅をした三陸海岸を、大津波が襲った。
三陸の中でも岩手県の田野畑村は夫婦にとって特別な場所。夫婦で同人雑誌に小説を書きながらの生活は厳しかったが、執筆に専念するため勤めを辞めた夫は、2泊3日かけて「陸の孤島」と呼ばれていた田野畑へ向かう。鵜の巣断崖の絶景に出会った夫は小説の着想を得て、昭和41年に太宰治賞を受賞、作家の道が開けた。取材以外の旅はしなかった夫は、家族を連れて唯一、田野畑だけには旅行するようになる。
もし夫が生きていたら、津波に襲われた愛する三陸の姿を見て、どんなに悲しんだだろう。三陸は故郷ではない。住んだこともない。でもあの日、津波が襲ったのは、「私」にとってかけがえのない場所だ――。
震災の翌年、夫の分まで津波の爪痕を目に焼き付け、大切な人々に会うため、息子と孫と共に田野畑を巡った妻の愛の軌跡。
 
ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月28日

平成3年(1991)の今日、文治堂書店から北川太一著『高村光太郎ノート』が刊行されました。
 
イメージ 3
 
高村光太郎記念会事務局長にして、当会顧問もお願いしています北川太一先生の著作集です。書き下ろしではなく、あちこちに発表された文章の集成で、編集は北川先生が高校教諭だった頃の教え子の会「北斗会」の皆さんです。どこをとっても示唆に富む内容です。

4月2日(水)、光太郎命日の集い・第58回連翹忌を開催いたします。
 
そろそろお申し込み〆切といたしますが、今のところ、昨年とほぼ同じ約70名ほどの方からお申し込みがありました。ありがたいことです。
 
ご案内を差し上げた方の中には、いろいろなご都合でご欠席という方もいらっしゃいますが、中にはご丁寧にお手紙やメールなどで、ご欠席のご連絡を下さる方もいらっしゃいます。
 
そんなお一人が、芥川賞作家の津村節子さん。000
 
平成9年(1997)に、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』を刊行なさり、翌年には芸術選奨文部大臣賞を受賞、片岡京子さん主演で舞台化もされました。そんなご縁で過去の連翹忌にもご参加いただいています。
 
今年も連翹忌のご案内をお送りしましたところ、過日、丁重なお葉書を頂きました。
 
曰く、
 
ご案内いただき有り難うございました。北川太一様によろしくお伝え下さいませ
「智恵子飛ぶ」は私の代表作の一つになり その節は大変お世話になり有り難うございました 花巻に講演に行ったことを思い出します
次々に仕事に追われ 現在三・一一の大津波の関係で三陸へ往復しております 吉村昭の文学碑のある田野畑村に津波資料館が出来るので田野畑通いです
 
解説いたしますと、津村さんのご主人は、やはり作家の故・吉村昭氏。平成18年(2006)にご逝去されています。氏には『三陸海岸大津波』というご著書があります。こちらは昭和45年(1970)に刊行されたもので、岩手県の田野畑村を襲った明治29年(1896)と昭和8年(1933)の大津波の証言・記録集です。
 
田野畑村では三年前の東日本大震災の折、やはり津波被害で約30名の尊い命が犠牲になっています。
 
『三陸海岸大津波』、氏の作品の中ではあまり有名なものではなかったそうですが、東日本大震災直後から注目が集まり、文春文庫に入っていたものが緊急増刷されました。
 
他にも氏には田野畑村を舞台とした作品がいくつかあり、そうした関係で同村には氏の文学碑、さらに津村さんの詩碑も建立され、村のHPにはご夫妻と村の関わりについての記述もあります。

さらには吉村さんの蔵書を元にした「吉村文庫」も同村に作られましたが、こちらは東日本大震災の津波で流されてしまいました。
 
さて、昨年発表された「東日本大震災田野畑村災害復興計画」によれば、来年開館予定で「津波資料館」を建設するそうです。
 
津村さんからのお手紙によれば、そちらへのご協力で、田野畑によく行かれていて、お忙しいとのこと。ちなみに津村さんは三鷹にお住まいです。
 
失礼とは存じますが、津村さん、昭和3年(1928)のお生まれで、おん年85歳。頭の下がる思いです。また、先述の吉村さんの『三陸海岸大津波』増刷分の印税、すっかり被災地に寄附されたそうです。かつて、光太郎が昭和26年(1951)に詩集『典型』で第2回読売文学賞を受賞した際、賞金を、当時住んでいた花巻郊外太田村にそっくり寄附したエピソードを彷彿とさせられました。
 
津村さんと田野畑村の活動、今後、001注意して行きたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月23日

昭和17年(1942)の今日、群馬前橋の岩佐直次の遺族を訪問しました。
 
岩佐直次は海軍中佐。この前年の真珠湾攻撃で特殊潜行艇による作戦を敢行して戦死、いわゆる「九軍神」の一人として称えられました。
 
光太郎は前日から日本少国民文化協会主催の講演会のために前橋に入っていました。翌月の『読売新聞』に「天川原の朝」と題して、岩佐家訪問の様子を発表しています。
 
「天川原の朝」、『高村光太郎全集』の第20巻に収録されており、解題では、雑誌『画報躍進之日本』第7巻第6号(昭和17年=1942 5月31日)を初出としていますが、そちらは転載で、同年4月6日の『読売新聞』が初出でした。

4月2日は光太郎の命日、連翹忌。1周忌の昭和32年(1957)に第1回の連翹忌が開催され、今年で58回目となります。
 
東京では日比谷松本楼さんを会場に行っており、現在、参加者募集中です。昨年と比べ、今のところの申し込みが若干少なく、残念に思っております。こちらをご参照の上、お申し込み下さい。
 
さて、毎年同じ4月2日に、光太郎が足かけ8年間過ごした岩手・花巻でも連翹忌が開催されています。
 
以下、花巻市の広報紙『広報はなまき』3月15日号から。 
イメージ 1

高村光太郎の連翹忌(れんぎょうき)

彫刻家で詩人の高村光太郎をしのび、連翹忌を開きます。
【日時】 4月2日(水曜日)、午後1時
【会場】 松庵寺
※当日午前9時から高村山荘敷地内で「詩碑前祭」が開催されます
【問い合わせ】 財団法人高村記念会(総合花巻病院内電話29-4681)
 
会場の松庵寺さんは、花巻滞在中の光太郎が毎年のように父・光雲や妻・智恵子の法要をやってもらっていたお寺です。花巻市街・マルカンデパートさんの裏手の方、双葉町にあります。
 
東北在住の方で、東京の連翹忌にご参加できない方、ぜひどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月19日

平成5年(1993)の今日、鋳金家の故・齋藤明氏を重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)に認定する旨、文化財保護審議会から文部大臣への答申がありました。
 
斎藤氏は光太郎の弟、豊周の工房で主任を務め、光太郎ブロンズ彫刻の鋳造を多数手がけられました。昨年11月にご逝去。東京の連翹忌には昨年までご参加下さっていました。
 

 イメージ 2005


東北レポートの最終回です。

3/9(日)、盛岡てがみ館さんでの企画展「高村光太郎と岩手の人」を見終わり、最後の目的地に向かいました。
 
てがみ館のほど近く、同じ中津川沿いにある「深沢紅子野の花美術館」です。

イメージ 3
 
深沢紅子(明治36=1903~平成5=1993)は、盛岡出身の画家。夫の省三ともども、盛岡での美術教育にも力を注ぎ、後進の育成に功績があり、やはり省三ともども、光太郎と交流がありました。
 
野の花美術館、こちらは直接光太郎と関わる展示はないのですが、数年前に立ち寄った際に、非常にいい感じだったので、リピーターとして行ってきました。
 
紅子は生涯野の花を描き続け、そちらの展示がメインです。下の画像は買ってきたポストカード。当方、柄にもなく花々が大好きです。
 
イメージ 4
 
さらに企画展として「深沢省三 童画原画展」が開催されていました。
 
本当に小さな美術館ですが、味わい深い作品の数々に出会えます。ぜひ足をお運びください。
 
その後、盛岡駅まで歩きました。歩いてみると、いろいろ思いがけない発見があるものです。
 
こちらは岩手県公会堂。昭和27年(1952)に光太郎がここで講演をしています。おそらく当時のままの建物でしょう。
 
イメージ 5 イメージ 6
 
 盛岡市街、この手の古い建物が結構残っています。左下は「もりおか啄木・賢治青春館」。もと第九十銀行だった建物を転用しています。こちらは今回、前を通っただけで中はパスしたのですが、いずれよく観てみようと思っています。
 
街角には啄木もいました(笑)。
 
イメージ 7 イメージ 8
 
 その後、盛岡駅から東北新幹線で帰りました。今回も充実した東北紀行でした。
 
これを読んで行ってみようという気になられる方がいらっしゃったり、あちらの方面に行かれる方のご参考になったりすれば幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月17日

大正4年(1915)の今日、上野精養軒で開かれた作家・歌人の平出修の追悼会に出席しました。
 
平出は与謝野鉄幹の新詩社同人。弁護士資格も持ち、幸徳秋水や管野スガなどのいわゆる「大逆事件」の弁護も務めました。前年のこの日に若くして亡くなっています。
 
イメージ 9
 
前列左から二人目が平出、後列左から二人目が光太郎、前列右端が鉄幹。明治37年(1904)の撮影です。

3/9(日)、紫波町の野村胡堂・あらえびす記念館を後に、一路、盛岡に向かいました。目指すは今回の東北紀行最大の目的地、盛岡てがみ館さんです。
 
同館では、先月末から第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」が開催中です。
 
イメージ 1
 
イメージ 2
 
さらに3/9は、関連イベントとして、IBC岩手放送アナウンサー大塚富夫氏による「てがみシアター~手紙の朗読を聴くvol6」があり、この日にお伺いしました。
 
イメージ 3
 
同館は石川啄木が「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」と詠んだ盛岡城にほど近い、中ノ橋というところにある観光文化交流センター「プラザおでって」の6階です。エレベータで上がっていくと、眼下に中津川。いい感じのロケーションです。
 
006  005
 
イメージ 5
 
館長さんや学芸員さんにご挨拶、早速、展示を拝見しました。
 
展示スペースはあまり広くありませんが、写真パネル等効果的に使い、見やすい展示になっています。
 
展示されている書簡は20通あまり。同館所蔵のもの、それから同じく盛岡にある盛岡先人記念館さんや盛岡市で所蔵しているのものなどでした。書簡以外にも肉筆の詩稿も展示されています。
 
イメージ 6
 
イメージ 9
イメージ 10
 
「そうだったらいいな」と思っていたのがまさにビンゴでした。『高村光太郎全集』等に未収録の書簡もあったのです。聞けば、盛岡先人記念館さんにて最近入手されたものだそうです。いずれ当方編集の「光太郎遺珠」にてご紹介したいと思っております。 
 
光太郎関連以外にも常設展示ということで、宮澤賢治や石川啄木の書簡なども並んでいます。この二人はともに夭折していますので、残っている書簡の数も少なく、非常に貴重なものです。
 
そうこうしているうちに、花巻の財団法人高村記念会の高橋邦広事務局長がいらっしゃいまして、お土産をいただきました。つい先日、花巻のお寺で見つかったという、仏像の縁起書のコピーです。光太郎とも関わっており、のちほどこのブログにてもご紹介します。
 
さて、午後2時となり、IBC岩手放送アナウンサー大塚富夫氏による「てがみシアター~手紙の朗読を聴くvol6」が始まりました。驚いたことに、展示スペースに椅子を並べてイベント会場としていました。ギャラリーなどではそういうこともしばしばあるのですが、文学館の類では別室で行うことが普通です。まぁ、展示資料を視界に入れながら聞く、というのもよいものでした。
 
イメージ 8
 
朗読されたのは、光太郎の詩、水沢町出身の美術評論家・森口多里宛の書簡や、昭和51年(1976)読売新聞社盛岡支局刊行の『啄木・賢治・光太郎 201人の証言』の一節など。先日このブログでご紹介した、昭和25年(1950)の光太郎誕生日に関するものでした。
 
同館ではこうした朗読イベントも不定期に行っているそうです。
 
第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」、会期は6月までと、かなり長めです。また、4月、5月にも関連行事が予定されています。
 
ふみの日ギャラリートーク 「高村光太郎と岩手の人」   [開催日]4月23日(水)

館長によるギャラリートーク 「高村光太郎と岩手の人」  [開催日]5月31日(土)

 
ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月16日

平成14年(2002)の今日、NHKラジオ第2放送「NHKカルチャーアワー文学と風土」で「北国名作探訪 第24章 雪中独居……高村光太郎『典型』ほか」がオンエアされました。
 
イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13
 
ナビゲーターは作家の高田宏氏。花巻郊外旧太田村の山小屋での光太郎が取り上げられました。上記画像のテキストも販売されています。2枚目のゴム長靴の写真は、十和田湖畔の裸婦群像制作のため上京した昭和27年(1952)10月、上野駅での一コマです。

3/8、9東北紀行レポートの3回目です。
 
3/9(日)、仙台から東北新幹線に乗り、北上で在来の東北本線に乗り換えました。この日最初の目的地は、岩手県紫波郡紫波町にある「野村胡堂・あらえびす記念館」さんです。
 
最寄り駅は「日詰」。花巻と盛岡の中間ぐらいでしょうか。
 
ホームに降り立ち、乗っていた列車が発車して行ってしまうと、実に意外な音、というか声が聞こえてきました。何と、白鳥の声です。
 
ホームから見える田んぼに、ざっと百羽以上の白鳥の群れ。
 
イメージ 1

イメージ 2
 
湖などでなく、こういう形で白鳥を見たのは初めてで、感動しました。
 
駅前には宮澤賢治の短歌が記された碑がありました。
 

イメージ 3

イメージ 4
 
曰く、
 
 さくらばな 日詰の駅のさくらばな かぜに高鳴り こゝろみだれぬ
 
大正6年(1917)、盛岡高等農林学校在学中の作品だそうです。
 
ところで野村胡堂・あらえびす記念館さんケータイの地図アプリで見てみると、日詰駅から約3.5㎞。路線バスは見あたらず、タクシーもいません。仕方なく、歩くことにしました。まぁ、毎日犬の散歩で5~6㎞歩くことはざらですので、さほど苦にはなりません。ただ、一泊分の大荷物を担いでなのが大変でした。

野村胡堂は光太郎より一つ年長。ここ、紫波町の出身で、「銭形平次」シリーズの著者として有名です。また「あらえびす」の筆名で音楽評論家としても活躍しました。
 
そして胡堂の妻・ハナが、日本女子大学校で智恵子の二学年下にいて、テニス仲間。福島油井村の智恵子の実家に泊まったこともあるそうです。そんな縁で、明治43年(1910)に行われた、胡堂とハナの結婚披露では、智恵子が介添えを務めています。
 
イメージ 5
野村胡堂・ハナ夫妻
 
というわけで、光太郎智恵子関連の収蔵品があるかも知れないと思い、行ってみることにしました。
 
イメージ 6
 
途中の北上川に掛かる橋の欄干です。さすが「銭形平次」の里。ところで平次の恋女房・お静には、愛妻・ハナのイメージが投影されているそうです。当方、テレビ時代劇の「銭形平次」-最初の大川橋蔵さん主演の-での香山美子さんのイメージが鮮烈に残っています。「お前さん、いっといで」と切り火を切って送り出すような。
 
記念館の少し手前に、野村胡堂の生家も残っていました。

001
 
立派な日本家屋ですが、驚いたことに、まだ「野村さん」がお住まいです。帰ってから調べてみたところ、住まわれているのは胡堂の弟のご子孫だそうです。
 
さて、記念館につきました。

003

 
入口では胡堂の胸像が出迎えてくれます。
 
 
さらに館内に入ると、北大路欣也さん主演のシリーズで実際に使われた平次の衣装が出迎えてくれます。が、ここからは撮影禁止。そこでパンフレットの画像を載せさせていただきます。
 
イメージ 13
 
展示スペース、それほど広いわけではありませんが、導線がしっかりしているうえに壁の使い方が特徴的で、面白いと思いました。当方、花巻の光太郎記念館改修などに関わっているので、そういうところに目が行ってしまいます。
 
胡堂本人の資料ももちろん、島崎藤村の書や手紙などが多く展示されていました。他に江戸川乱歩やサトウハチローなどからの書簡も。
 
残念ながら光太郎智恵子に直接関わる展示物はなかったのですが、胡堂の生涯を紹介するビデオでは、先述の結婚披露宴介添えの話で、智恵子に触れていました。
 
それから音楽評論家「あらえびす」としてのレコードコレクションもものすごいのですが、こちらはリスト作成中とのこと。もしかすると光太郎作詞の戦時歌謡などの類も含まれているかも知れません。今後に期待します。
 
さて、意外とじっくり観たので、時間がおしてしまいました。次なる目的地、盛岡てがみ館に午後2時には入らないといけませんし、その前に昼食も取りたいところです。また日詰駅まで大荷物を抱えて3.5㎞、さらに在来の各停で盛岡、そして盛岡駅からてがみ館までも約2㎞……というのも大変だと思い、奮発してタクシーを使うことにしました。
 
盛岡編はまた後日。
 
今日はまた都内に出かけて参ります。用件は二つ。まずは福岡を拠点に活動されている女優の玄海椿さんの舞台を三鷹まで見に行きます。玄海さんの舞台は一昨年、「智恵子抄」が演目だった時に福岡まで観に行きました。今回は東京公演で、「黒田官兵衛」だそうです。
 
それから表参道のギャラリー山陽堂さんにて、「女川だより――あの日からの「家族の肖像」展」とトークイベント
 
明日のこのブログは東北レポートを一旦休止してそちらをレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月14日

平成5年(1993)の今日、宮城県唐桑町(現・気仙沼市)御崎の海岸公園に、光太郎歌碑が除幕されました。
 
イメージ 14
 
女川同様、昭和6年(1931)の「三陸廻り」で光太郎が訪れた記念です。
 
刻まれているのは短歌。
 
黒潮は 親潮をうつ 親潮は さ霧をたてゝ 船にせまれり

↑このページのトップヘ