昨日は日帰りで岐阜に行っておりました。
当方、東北には年10回ぐらいは足を運んでおりますが、長野県以西に行くことはあまりなく、新鮮でした。
途中の車窓からの富士山。
東海道新幹線を名古屋で降り、東海道本線で西岐阜駅へ。駅前から路線バスに乗り、目的地の岐阜県図書館さんに着きました。
こちらでは、先月から企画展「花子 ロダンのモデルになった明治の女性」が開催中です。
明治元年(1868)、愛知に生まれ、明治35年(1902)に、コペンハーゲン動物園の見世物興行の踊り子募集に応じ渡欧、そのまま欧州に残り、実に20年近く経った大正10年(1921)まで、欧州各地やアメリカで日本人芝居一座の花形として絶賛され、ロダン彫刻のモデルとなった花子――本名・太田ひさ――を紹介する展覧会です。
このブログでも繰り返しご紹介していますが、昭和2年(1927)、書き下ろし評伝『ロダン』刊行に際し、光太郎が岐阜の妹の家に暮らしていた花子を訪ねています。その後に光太郎から送られた書簡のコピーや、評伝『ロダン』、光太郎訳の『ロダンの言葉』(花子に関する記述有り)も展示されていました。
その他、花子に関する貴重な資料がずらっと並び、実に興味深く拝見しました。
花子の令孫がご存命です。花子自身は子を為さなかったのですが、帰国後に、実弟・角次郎の子の英雄を養子とし、その娘である澤田正子様がまだお元気です。ちなみにご主人の澤田助太郎氏も、花子の実妹・はまの令孫に当たります。
澤田氏は岐阜女子大学名誉教授であらせられ、血縁の花子に関し、実に詳細な研究をされました。その澤田夫妻から、岐阜県図書館さんに花子関連資料の数々が寄贈されており、今年は明治維新150年、花子生誕150年ということもあって、それらの資料の展示が為されているわけです。
企画展示を拝見した後、館内のレストランで昼食。そして午後1時30分から、関連行事として「「花子」紙芝居と映画」が、やはり館内の小ホールで開催されました。
それぞれ約1時間ずつの2本立て。まずは伊藤今日子さんという方による、「三味線紙芝居「花子」」。
近いものを挙げろ、と言われれば、講談でしょうか。伊藤さんが花子の生涯を語るのですが、太棹の三味線を弾きつつ、さらにスクリーンに「紙芝居」ということで静止画像を投影しながらでした。なかなか工夫された構成で、面白いと思いました。
つづいて、「なつかシネマ上映会 プチト・アナコ~ロダンが愛した旅芸人花子~」。映画だと思っていましたが、制作がテレ朝さんということで、どうもテレビで放映されたもののようでした。平成7年(1995)の作品だそうです。
舞踏家の古川あんずさん演じる晩年の花子が、麿赤兒さん扮する光太郎に、ロダンとの思い出を語る形で進行。完全なドラマ仕立てではなく、途中途中に矢島正明さんのナレーションで、花子の生涯が解説されました。ドラマ部分では、パリ郊外のロダン美術館でのロケもあり、「ほう」と思いました。ただ、麿赤兒さんの光太郎は、ちょっと濃かったな、という印象でした(笑)。
ラスト近くには、前述の光太郎から花子宛の書簡も紹介されていました。
三味線紙芝居、それから「プチト・アナコ」、ともに澤田助太郎氏原作のクレジット。
その澤田夫妻がお見えでした。終演後に少しお話をさせていただきました。
以前にご夫妻で当会主催の連翹忌にご参加いただいたことがあったと記憶しております。また、助太郎氏のご講演を、文京区立森鷗外記念図書館(当時)で聴いた記憶も。
記憶が正しければ、助太郎氏、当会顧問の北川太一先生と同じ、大正14年(1925)のお生まれ。お元気そうで何よりでした。
というわけで、なかなかに充実の岐阜紀行でした。
企画展示の方は、来月24日まで。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
彫刻的分子と同時に私の中にある文学的分子は相当活発であつてこれをおし殺すわけにゆかない。それで勢のおもむくままに歌も書き詩も書いた。以前、人はよく私に向つて詩歌は私の余技かとたずねたものだが、私はこれを余技とはさらさら思わない。同じ重量で私の中に生きている二つの機能であつて、どちらも正面きつての仕事なのだ。
散文「自伝」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳
彫刻を純粋造型たらしめるため、余計な心の叫び等は排除し、それは詩歌で吐き出すという、他の文章でも繰り返し語られている彫刻と詩のいわば分業。最晩年になっても、その考えに変わりはなかったようです。