昨日は都内に出ておりました。メインの目的は永田町の国立国会図書館さんで調べ物でしたが、その終了後、三鷹市に廻りました。同市の三鷹図書館さんで開催中の「吉村昭と津村節子・井の頭に暮らして」展拝見のためです。
ともに小説家の故・吉村昭氏と、奥様の津村節子氏。夫婦同業、もっとも身近にライバルがいるというある意味過酷な状況で、互いに切磋琢磨してそれぞれベストセラーをものにしました。津村氏は、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)に、その自らの体験を仮託されています。
昨年から今年の初めにかけ、吉村氏の故郷・荒川区の吉村昭記念文学館さんで「おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展 津村節子展 生きること、書くこと」、及び、「第2回 トピック展示「津村節子『智恵子飛ぶ』の世界~高村智恵子と夫・光太郎の愛と懊悩~」が、同館と「おしどり文学館協定」を結ぶ、津村さんの故郷の福井県ふるさと文学館さんで「おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展「津村節子~これまでの歩み、そして明日への思い~」が開催されましたが、今回は、ご夫妻で長く住まわれ、津村氏が現在もお住まいの三鷹市での開催です。
会場の三鷹図書館さんは、JR三鷹駅から路線バスに乗り、約10分。
こちらの2階の一角が会場でした。
先週まで、同市の井の頭コミュニティセンターさんで前期展示が行われ、そちらは参りませんでしたが、「巡回」と謳われているのでほぼ同一の内容だと思われます。
こういった展示向けに作成されたのでしょう、『智恵子飛ぶ』の原稿レプリカが展示されていました。講談社さんの雑誌『本』に初出時の第一回「輝く車輪」、第二回「みちのくの新風」、そして最終回「荒涼たる帰宅」の、それぞれ冒頭の部分。このうち第一回「輝く車輪」は、明治末、日本女子大学校の校庭で、智恵子が同校名物の自転車を颯爽と操っているシーンです。
陽が長くなってきていた。
運動場を囲む樹々は、夕陽を透して葉先から緑の色素がしたたり落ちるばかりに鮮やかであった。
午後の授業が終り、学生たちはそれぞれ家や寮舎に帰ってしまったらしく、人影はない。
智恵子は、磨き上げた婦人乗りの自転車に乗り、勢いよくペダルを踏んでいた。前髪をふくらませた庇髪(ひさしがみ)の鬢(びん)がほつれて、上気した頬に幾筋かかかっている。智恵子はそれを小指でかき上げながら、少し首をかしげたポーズで風を切って走る。練習し始めて数日しか経っていないのに、もう片手が離せるのが得意な気分であった。
智恵子の乗った自転車は、銀色の車輪を輝かせて幾廻りも運動場を廻る。何という気持ちのよさだろう。どうして誰も乗ろうとしないのか、智恵子は不思議だ。
昭和3年(1928)生まれの津村氏の女学校時代は、太平洋戦争真っ最中。青春を謳歌するという時代ではありませんでした。そうした体験から来る一種の羨望も感じられる書き出しです。
他に、故吉村氏、津村氏それぞれ、それからご夫妻で共通の、様々な資料が展示されています。会期は今月24日(日)まで。ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
スケツチしながら思ふのは、自然の持つ調和力だ。人工と人工とは衝突する。自然と人工とは衝突といへない程一方が大きい。僅少の叡智(アンテリジヤンス)を以てすれば人工はさう容易に自然を犯すものでない。
散文「三陸廻り 九 釜石港」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳
自然破壊とか環境問題などといった意識が世の中にほとんど無かったこの時代にこういう発言をしている光太郎の先見性には舌を巻かされます。
また、「自然と人工とは衝突といへない程一方が大きい。」には、80年後に彼の地を巨大津波が呑み込んだことが予言されているようにも思われます。
そういえば、吉村昭氏には、釜石からそう遠くない田野畑村を舞台とした『三陸海岸大津波』(昭和45年=1970)という小説があり、津村氏は東日本大震災後も田野畑村によく行かれていたそうでした。