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土日で宮城女川を中心に動き回って参り003ました。昨日はメインの女川についてレポートしましたが、今日はその前後について書きます。
 
6/14(土)、東北へ向かう道すがら、まずは千葉県柏に立ち寄り、NPO法人エアロームかしわさん主催の公開講座 「光太郎と智恵子の愛」に参加して参りました。
 
会員の方々の勉強会的なおもむきで、一般の方も参加自由、というスタンスでしたが、会員外は当方のみ、全員で0057名でした。そのくらいの人数だろうと
ある程度は予想していましたし、そういう中に当方のような者が混ざるのも迷惑かな、とは思っておりましたが、やはり「光太郎智恵子」と冠したイベントがあると引き寄せられてしまいます(笑)。
 
いつも同じようなことをあちこちで言ったり書いたりしていますが、どんなに優れた芸術家、芸術作品でも、後世の人間がその業績なり作品なりをしっかりと正しく受け止め、さらに次の世代へと受け継ぐ努力をしなければ、やがて歴史の波に埋もれ、忘れ去られてしまうものです。そういう意味では、こうして市民の方々がこうした講座で光太郎智恵子について勉強されるというのは、ありがたいかぎりです。
 
その後、一路、福島は二本松へ。
 
翌朝7時に旧安達町の智恵子の生家・記念館の駐車場からバスで女川に出発ということで、前泊しました。普段、二本松宿泊の際には安達太良山麓の岳温泉に泊まることが多いのですが、旧安達町までは少し遠く、7時出発ということで、智恵子の生家・記念館にほど近い「かねすい 智恵子の湯」さんに泊まりました。
 
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以前に昼食に立ち寄ったことはありましたが、宿泊は初めてでした。なかなかこぎれいな部屋で、鉄分多めの茶色い鉱泉もいい感じでした。窓を開けると智恵子の母校・油井小学校が見えました。
 
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翌朝、7時に「智恵子のまち夢くらぶ」の皆さんと共にバスに乗り込み、女川へ。女川のレポートは夢くらぶさんのサイト、それから昨日の当ブログをご覧下さい。
 
女川を出たのが正午近く。塩竃の大入寿司さんに寄って昼食。美味でした。
 
その後、仙台へ向かい、まず仙台文学館さんに。現在、企画展「仙台文学館・開館15周年記念特別展 石川啄木の世界~うたの原郷をたずねて」が開催中です。企画展といえば、こちらでは平成18年に「高村光太郎・智恵子展―その芸術と愛の道程―」を開催して下さいました。その時と、その後も調べ物で何度かお邪魔しましたが、久々の訪問でした。
 
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啄木と光太郎は与謝野夫妻の新詩社や『スバル』で顔見知り。ただ、それほど深い交友はなかったようで、直接、光太郎に関わる展示はありませんでしたが、それでも「新詩社同人名簿」「新詩社規則」、それから与謝野夫妻や北原白秋、吉井勇など、光太郎と縁の深い人物の資料も多く、興味深く拝見しました。
 
また、「銭形平次」シリーズの作者・野村胡堂に宛てた書簡類が数多く並んでいました。今年3月に岩手紫波町の「野村胡堂・あらえびす記念館」さんに行つたばかりなので、「ほう」と思いました。そのときのレポートにも書きましたが、胡堂の妻・ハナが、日本女子大学校で智恵子の二学年下にいて、テニス仲間。福島油井村の智恵子の実家に泊まったこともあるそうです。そんな縁で、明治43年(1910)に行われた、胡堂とハナの結婚披露では、智恵子が介添えを務めています。
 
続いて宮城県美術館さんへ。昨年1月、大雪の中、企画展「生誕100年 追悼 彫刻家 佐藤忠良展「人間」を探求しつづけた表現者の歩み」を観に行って以来でした。
 
現在は企画展「手塚治虫 × 石ノ森章太郎 マンガのちから」を開催中でしたが、時間の関係でそちらは割愛、常設展と別館の佐藤忠良記念館のみ観て参りました。
 
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新緑の中で観る忠良彫刻もいいものでした。
 
その後、二本松に戻り、解散。更に当方は愛車を駆って千葉の自宅に戻りました。強行軍でしたが、有意義な旅でした。
 
昨日も書きましたが、まだまだ東北は被災中。足を運ぶことも復興支援になります。よろしくお願い申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月17日
 
昭和22年(1947)の今日、連作詩「暗愚小伝」の原稿28枚を小包にし、発送しました。
 
自らの戦争責任に思いを馳せ、生涯を振り返った20篇の連作詩です。花巻郊外太田村の独居生活も、この「暗愚小伝」執筆以前は無邪気に文化村の建設みたいなことを考えていましたが、この頃から「自己流謫(るたく)」―自分で自分を流刑に処する―という方向に転換していきます。

一昨日から昨日にかけ、二本松の「智恵子のまち夢くらぶ」さんの研修旅行に混ぜていただいたりで、出かけておりました。そのレポートを今日明日で。
 
まず、メインだった女川訪問についてです。
 
昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、光太郎は女川を含む三陸海岸一帯を約1ヶ月旅して歩きました。それを記念して、平成3年(1991)、当時の女川港の海岸公園に光太郎の文学碑が建てられ、翌年からその碑の前で、女川光太郎の会の皆様により、「女川光太郎祭」が開催されています。
 
会の中心だった貝(佐々木)廣さんが津波に呑まれて亡くなり、繁華街は壊滅状態になるなど、東日本大震災による甚大な被害を乗り越え、今も「女川光太郎祭」は続いています。一昨年昨年は当方も参加して参りました。昨年からは講演もさせていただいております。
 
かつて「女川光太郎の会」の故・貝さんは二本松の智恵子追悼行事「レモン忌」にご参加なさり、「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷代表は逆に女川光太郎祭に行かれたこともあるとのことで、以前から交流がありました。「智恵子のまち夢くらぶ」さんでは、毎年この時期に光太郎智恵子ゆかりの地を訪ねる研修旅行を実施されていて、今年はそういうわけで女川に行かれたのです。双方と関わっている当方も混ぜていただきました。
 
さらに今年3月、東京は表参道で開催された「女川だより――あの日からの「家族の肖像」展」と、その関連行事としてのトークイベントがあり、そこでご縁を結ばせていただいた『朝日新聞』石巻支局の小野智美さんに、「「光太郎が取り持つ被災地同誌の縁」的な記事になりませんか」と、連絡を入れておいたところ、取材にいらしてくださり、早速、今朝の宮城版に記事が載ったようです。

女川の光太郎の碑に花束と涙 福島から21人

 女川港のそばに横たわる高村光太郎の文学碑2基に15日、花が手向けられた。光太郎の妻、智恵子の出身地、福島県二本松市で顕彰活動をしている「智恵子のまち夢くらぶ」の21人が持参した。福島第一原発事故に日々、向き合うメンバーは、津波被害の現実を目の当たりにして「私たちも頑張ろう」と涙をぬぐった。
 夢くらぶ代表の熊谷健一さん(63)は3基の文学碑ができた1991年以来、町で光太郎の顕彰活動を続けていた「女川・光太郎の会」事務局長の貝廣(ひろし)さんらと交流してきた。15日は、津波で命を落とした貝さんを思い、変わり果てた町で暮らす人々も思って「悲しみの中で一生懸命生きる方々に私たちが励まされます」と声を詰まらせた。
 1基の詩碑は津波で流されて行方がわからない。残った2基の復興後の置き場所はまだ決まっていない。(小野智美)
 
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「智恵子のまち夢くらぶ」の皆さんは、ほとんどが初の女川訪問ということでしたし、熊谷代表他、何度目かの訪問だという方も震災後は初めてということで、かつての繁華街が消滅してしまった女川に息を呑まれていました。
出迎えて下さった「女川光太郎の会」の佐々木英子さん、笠松弘二さん、そして小野記者を前に、熊谷代表は感極まって嗚咽しながらのご挨拶でした。
 
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現在残った2基の光太郎碑がこちら。
 
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上記記事の写真を撮る小野さん。
 
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その後、かつて地元住民の100円募金で建てられた光太郎文学碑の精神を受け継ぐ、女川中学生徒の尽力で建てられた「いのちの石碑」(4月に建てられた4号碑)、仮設商店街「きぼうのかね商店街」を廻り、女川をあとにしました。
 
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女川は訪れるたびに少しずつ復興が進んでいますが、ほんとうに「少しずつ」であるのがもどかしいところです。福島は福島で、昨日もバスの中での皆さんの会話に耳を傾けていると、「おらほの庭は今度ぁ、5センチの除染だない」といった発言が聞こえる状況です。
 
まだまだ「被災」は続いています。「復興」へのご協力を。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月16日
 
明治34年(1901)の今日、新詩社茶話会に出席しました。
 
弱冠19歳(数え)の光太郎、既に与謝野夫妻にその才を認められ、雑誌『明星』の「文芸雑俎」欄責任執筆者の一人に推されました。

昨日から一泊で出かけておりました。
 
千葉・柏、福島・二本松、宮城・女川と仙台を廻り、先程帰宅致しました。
 
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詳細は明日以降、レポート致します。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月15日
 
昭和26年(1951)の今日、龍星閣から『随筆 独居自炊』を刊行しました。
 
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このブログでたびたびご紹介してきた、宮城県女川町の「いのちの石碑」――同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクトに関するドキュメントです。
 
 
当方、文字情報をいろいろと見てきましたし、過日は東京表参道山陽堂ギャラリーさんで行われた「女川だより――あの日からの「家族の肖像」展」のトークイベントを拝聴して参りましたが、映像で観るのはまた違うものでした。
 
「千年後のいのちのために」と、頑張る中学生達の姿には、素直に感動させられました。プロジェクトが始まった頃にはまだまだ子供っぽい顔つきだった彼らが、一基めの石碑を完成させる頃にはたくましい顔立ちになっていきます。若い世代のこうした姿を見ると、この国もまだまだ捨てたものではないな、と感じます。
 
BS放送、CS放送でも再放映されます。ご覧になっていない方、ぜひ。
BS日テレ        2014年4月13日(日) 11:00~11:30
CS日テレNEWS24  2014年4月13日(日) 18:30~19:00
 
映像もいいのですが、やはり実際に見てみたいものです。今年も8月9日には女川光太郎祭があるはずですが、その前に、智恵子のふるさと、福島は二本松で活動されている「智恵子のまち夢くらぶ」さんが、6月に研修旅行で女川に行かれるそうで、同道させてもらおうかと思つています。皆様もぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月8日

明治34年(1901)の今日、東京美術学校校友会倶楽部で、「彫塑会第二回展覧会」が開幕しました。 
 
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光太郎は石膏レリーフ「003仙」と「まぼろし」を出品しています。どちらも残念ながら現存が確認できておりません。

「まぼろし」については、光太郎自身、のちにこう語っています。
 
その頃初めて泥をいぢくり出し、例へば坊さんが月を見上げて感慨に耽つてゐるところや女の浴衣が釘にぶら下つてをるといふ妖気の漂ふ鏡花式みたやうなものを無闇に作つたが、それが当時の彫塑会では新しかつた。後にかういふことが間違つた新しい彫刻運動のもとになつたりした。
(「美術学校時代」昭和17年=1942 『知性』)
 
光太郎自身が後に否定する「文学的な彫刻」というわけです。

上の画像、『彫塑生面』は、この展覧会の図録的な冊子です。「仙」「まぼろし」の画像はここから取りました。
 

ひさびさにテレビ放映情報です。

NNNドキュメント'14 3・11大震災 シリーズ 千年後のあなたへ 15歳…いのちの石碑

地上波日本テレビ系  2014年4月6日(日)25:20~25:50=4/7(月)午前1:20~1:50
BS日テレ      2014年4月13日(日) 11:00~11:30
CS日テレNEWS24 2014年4月13日(日) 18:30~19:00
 
 千年後の命を守りたい…「地震がきたらこの石碑よりも上に逃げてください」と刻まれた“命の石碑”が津波の最大到達地点に建った。建てたのは宮城県女川町の中学生だ。今後、女川の21の浜のそれぞれの最大到達地点に21基建てる計画だ。必要な資金も自分たちで集めよう。修学旅行先や、企業へ出向いて募金を呼びかけた。1千万円を超える資金を彼らは集めきった。一基目の石碑にこう刻んだ。「夢だけは 壊せなかった 大震災」。
 
ナレーター 沢城みゆき
制作  宮城テレビ
 
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このブログでたびたびご紹介してきた宮城県女川町の「いのちの石碑」に関するドキュメントです。
 
 
同じ女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクトです。
 
明日は第58回連翹忌。高村光太郎、58回目の命日です。その直前にこの番組放送の情報を得、かつて毎年のようにご参加下さっていた女川光太郎の会事務局長だった故・貝(佐々木)廣氏――高村光太郎文学碑の建立に奔走され、2011年3.11の津波にてご逝去――のお導きかと思っております。
 
ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月1日

明治45年(1912)の今日、早稲田文学社主催装飾美術展覧会に、塑像「紫朝の首」を出品しました。
 
「紫朝」は盲目の新内語り、柳家紫朝。残念ながらこの彫刻はおそらく現存が確認できていません。
 
ちなみにこの展覧会には、智恵子も油絵を出品しています。

昨日は都内2ヶ所を廻ってきました。
 
1ヶ所め、三鷹。
 
福岡を拠点に「智恵子抄」などのひとり芝居をなさっている玄海椿さんの東京公演「ロックンロール黒田官兵衛」、それからアクタースクール講師もされている玄海さんの教え子さん達のミュージカル「キッド」を観て参りました。
 
戦国や幕末の歴史物は大好きですし、ミュージカルの方も、頑張っても頑張っても光が見えず、夢と現実のはざまで苦悩する劇団員たちを描いた内容が、金にならない文化活動を続ける我が身とダブり、自虐的に面白く感じました。
 
終演後、玄海さんには「ぜひとも東京で「智恵子抄」を」とお願いしておきました。期待したいものです。
 
2ヶ所め、表参道。
 
 
講師は宮城県女川町立女川中学校教諭 佐藤敏郎先生と、朝日新聞石巻支局記者 小野智美さん。
 
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佐藤先生は、旧女川第一中学校(現・女川中学校)で、震災直後の2011年5月から、俳句の創作の授業をなさり、小野さんがそれを編集し、一冊の本になっています。題して「女川一中生の句 あの日から」。

 
さらに佐藤先生は「「いのちの石碑」建立プロジェクト」にも関わられ、小野さんはそれも記事に書かれています。



 
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さらに言うなら、佐藤先生の末のお子さんは、3.11当時、津波で全校児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明となった石巻市立大川小学校6年生。そして74人のうちの1人だそうです……。その後、「小さな命の意味を考える会」を設立、代表を務められているとのこと。
 
そのお二人によるトークということで、その当時の女川の様子、授業風景、「いのちの石碑」建立の舞台裏など、興味深い、そして感動的なお話がたくさん聴けました。001
 
トークイベント終了後、お二人と少しお話をさせていただきました。お二人とも、当方も関わっている女川光太郎祭に何度か足を運ばれたそうですし、特に小野さんは、現在、女川光太郎祭を取り仕切られている佐々木英子さん(女川の光太郎文学碑建立に尽力された故・貝(佐々木)廣さん夫人)とツーカーだそうで、世間は狭いな、と感じました。
 
先の話になりますが、今年も8月9日(土)に女川光太郎祭が開かれるはずですので、みなさんにもよろしくお願い申し上げます。
 
また明日から東北レポートに戻ります。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月15日

明治45年(1912)の今日、美術新報社主催の「第三回美術展覧会」が開かれ、日本画「無題」を出品しました。
 
美術学校での授業には日本画の臨画がありましたし、卒業後も与謝野晶子が短歌を揮毫し、光太郎が絵を描いて屏風に仕立て、新詩社の支援者に買って貰う、などといったこともやっており、実は光太郎の日本画、少なからず残っています。
 
ただ、右の画像(「無題」)のように、臨画ではない作品はかなり斬新なものです。

3/8(土)、山形の最上義光歴史観を後にし、仙台へ向かいました。
 
仙台での目的地は、伊達政宗公の青葉城の一角にある仙台市博物館です。こちらでは以下の企画展が開催中です。 
 
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東日本大震災復興祈念・新潟県中越地震復興10年 法隆寺 祈りとかたち

会期:平成26年3月1日(土)~4月13日(日) 月曜休館 9:00~16:45(入館は16:15まで)
 
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公式サイトより。
 
 飛鳥時代に聖徳太子によって建立された法隆寺は、日本を代表する寺院として多くの人々に親しまれています。天智天皇9年(670)の落雷による火災で大きな被害を受けたとされ、和銅4年(711)頃に現在の中心伽藍が整ったと考えられています。復興された法隆寺は、聖徳太子と関わりの深い仏像が安置されるなど太子信仰の寺院として多くの信仰を集めます。約1300年にわたり保護されてきた世界最古の木造伽藍は、1993年に日本で初めて世界文化遺産に登録されました。
 本展は、東日本大震災の発災から3年を迎えるにあたり、震災からの復興を祈念して開催するものです。法隆寺がたどった復興から現在へと至る歴史を踏まえながら、同寺の宝物をはじめとする様々な美術品を一堂に展示します。
 また、岡倉天心(1863-1913)以来、法隆寺宝物の保存と継承に携わってきた東京美術学校(現 東京藝術大学)の関係者が同寺へ奉納した絵画や什物などを展示し、法隆寺が日本の文化興隆に果たした役割と、そこに携わった人々についても紹介します。
 
展示は三部構成となっており、第一部が「法隆寺-その美と信仰 法隆寺の仏教美術」、第二部が「法隆寺と東京美術学校」、第三部が「法隆寺と近代日本美術」です。
 
光雲が教授を務め、光太郎も在籍した東京美術学校と法隆寺は、密接な関係があります。古くは美校設立に尽力した岡倉天心とアーネスト・フェノロサによる救世観音像等の調査などが有名ですし、その後も寺宝の保存、継承のために美校の果たした役割には大きなものがありました。
 
そこで、第二部では美校関係者の法隆寺に関わる作品、ということで、光雲の「聖徳太子像(摂政像)」(昭和2年=1927)が並んでいます。また、第三部には、法隆寺の103世管主であった佐伯定胤の像も。こちらも光雲作です(昭和5年=1930)。
 
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聖徳太子像の方は高さ約16㌢の小さなものですが(それでも、というかそれだけに非常に精緻です)、佐伯定胤像の方は同じく約90㌢。光雲作の木彫の中では大作の部類に入り、非常に迫力があります。約90㌢という数字は図録で調べましたが、実際に見た感じはもっと大きな感じです。この像は、頭部の原型を光太郎が作っており、その意味では光雲・光太郎親子の合作といってもよいと思います。
 
その他、飛鳥時代から近現代に至る寺宝の数々が展示されており、見応えのある企画展でした。
 
さて、この企画展、以下の日程で巡回となっています。
 
仙台展 仙台市博物館      2014年3月1日(土)~4月13日(日)
東京展 東京藝術大学大学美術館 2014年4月26日(土)~6月22日(日)
新潟展 新潟県立美術館     2014年7月5日(土)~8月17日(日)
 
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図録にはもう一点、光雲作の聖徳太子像が掲載されています。こちらは新潟展のみの出展です。
 
ぜひお近くの会場へ足をお運び下さい。
 
さて、企画展を見終わり、せっかくなので周辺を少し歩きました。山形は雪でしたが、仙台は晴れていました。
 
博物館の裏手には、かつて東北大学医学部の前身・仙台医学専門学校に留学していた魯迅の顕彰碑と胸像。
 
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さらに伊達政宗公の胸像もありました。
 
政宗公には有名な騎馬像がありますが、光太郎や光雲作の銅像と同じく、ご多分にもれず戦時に金属供出の憂き目にあいました。この胸像は供出されたあと、上半身部分のみ鋳つぶされずにうち捨てられていたものだそうです。
 
その後、たまたま残っていた原型を元に、2代目の騎馬像が鋳造されたそうです。それがこちら。博物館の裏手を登っていったところにあります。
 

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ここからの仙台市街のながめはgoodでした。
 

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その後、この日は仙台駅前に宿を取りました。続きはまた明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月13日

昭和25年(1950)の今日、岩手黒沢尻の森口多里(美術評論家)の疎開先で、誕生日祝いの会食をしました。
 
昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎】に書きましたが、3月13日は光太郎の誕生日です。生誕131年ということになりますね。
 
で、昭和25年(1950)の今日、講演旅行の帰りに寄った森口の疎開先で饗宴にあずかりましたが、参会者の誰もその日が光太郎誕生日とは言われるまで知らず、全員サプライズの誕生祝いになったとのこと。こちらも昨年のこのブログに書きましたのでご覧下さい。

013昨日、1泊2日の東北出張から帰りましたので、そのご報告を、と思っておりましたが、別件での情報ご提供があり、そちらを優先します。
 
何といっても明日は3.11ですので。
 
宮城県女川町。津波で甚大な被害を受けた、光太郎ゆかりの地です。当方、8月に女川で開催されている女川光太郎祭での講演をやらせていただいており、このブログで何度も女川について書きました。つい先日も、女川の話題をいろいろ書きました。
 
すると、今朝、このブログを開きましたところ、一昨年の記事に関し、コメントが入っていました。文京区の書肆・羽鳥書店さんからでした。同社では「女川一中生の句 あの日から」という文庫本が上梓されています。
 
3.11ということで、今日から関連イベントがあるそうです

●女川だより――あの日からの「家族の肖像」展

会 期 : 2014年3月10日(月)~19日(水)
会 場 : ギャラリー山陽堂(山陽堂書店2・3F)
      東京都港区北青山3-5-22  最寄駅:東京メトロ 表参道駅(A3 出口)
【営業時間】
 平日11:00~19:00  土 11:00~17:00  日祝休
  ※会期中13(木)・14(金)は18:30 まで
【問合せ】 03-3401-1309(山陽堂書店)

東日本大震災の震源地にもっとも近い場所、
宮城県の牡鹿(おしか)半島の付け根に位置する女川町(おながわちょう)は、
震災で甚大な被害に遭いました。

津波が町を襲ったあの日から、人々は何を思い、どう暮らしてきたのでしょうか。

半年後の2011年9月、一人の新聞記者が自ら願いでて、この地へ赴任してきました。それからのさまざまな出会いのなかに、女川第一中学校の生徒と教師のみなさんとの日々があります。女川一中では、2011 年の5月と11月に俳句の授業が行われました。家族、自宅、地域の仲間、故郷の景色を失った生徒たちが、自分を見つめ、指折り詠んだ五七五。そこにこめた思いを記者は丹念にたどり、『女川一中生の句 あの日から』として本にまとめました。
 
あの日から3 年。いまも女川町を中心に半島一帯を取材してまわる記者、小野智美さんは、“いま”の女川に暮らす人々の思いに耳を傾けつづけています。記者として記事を書くだけなく、限られた紙面では伝えきれない家族の肖像を「女川だより」(羽鳥書店HP にて連載中)で紹介しています。
 
『女川一中生の句 あの日から』と「女川だより」を中心に、あの日からの女川町を伝える文章や写真を展示します

●女川だより トークイベント

『女川一中生の句 あの日から』の編者である小野智美さんと、俳句の授業を担当された旧女川第一中学校(現・女川中学校)の教諭 佐藤敏郎さんのトークイベントを開催します。

女川第一中学校では、震災後の5 月に全校生徒約200 人で俳句づくりを始め、国語教師の佐藤敏郎さんが指導の中心を担いました。俳句づくりは女川中学校になった今も続いています。
佐藤さんは昨年11 月、震災で教職員と児童84 人が犠牲になった石巻市立大川小学校の遺族らによる「小さな命の意味を考える会」をつくりました。保護者として、そして、生徒たちの命を守る教師として、日々考え、取り組んでいる佐藤さんをお招きして、お話をうかがいます。
 
【講師】 宮城県女川町立女川中学校教諭 佐藤敏郎氏
     朝日新聞記者 小野智美氏
【日時】  2014 年3 月14 日(金)  19:00 開始(終了後30 分ほど懇親会あり)
【会場】 ギャラリー山陽堂  定員: 25 名(要予約)
【参加費】  2000 円(含本代945 円。事前のお支払い。返金はできませんのでご了承ください。)
※必要経費を除いた金額は、KIKKAKE BUS 47(http://kikkakebus.tasukeaijapan.jp/)に寄付させていただきます。
【申込方法】 山陽堂書店 店頭・メール・電話・ファックス
         e-mail info@sanyodo-shoten.co.jp  Tel 03-3401-1309 Fax 03-3401-1358

 山陽堂書店HPでの案内は
こちら 
 
【プロフィール】
小野智美(おの さとみ)
朝日新聞記者。1965 年名古屋市生まれ。88 年、早稲田大学第一文学部を卒業後、朝日新聞社に入社。静岡支局、長野支局、政治部、アエラ編集部などを経て、2005 年に新潟総局、07 年に佐渡支局。08 年から東京本社。2011 年9 月から仙台総局。宮城県女川町などを担当。東松島市在住。著書に『50 とよばれたトキ─飼育員たちとの日々』(羽鳥書店、2012年)、編著に『女川一中生の句 あの日から』(羽鳥書店、2012 年)。

佐藤敏郎(さとう としろう)
宮城県女川町立女川中学校教諭。1963 年、宮城県石巻市(旧河北町)生まれ。宮城教育大学を卒業後、87 年度から国語教員に。2002 年度から、宮城県の派遣により、女川町教育委員会の社会教育主事を務め、05 年度に女川第一中に着任した。教務主任を経て、12 年度、県教育委員会が震災時の教訓を踏まえて新設した防災担当主幹教諭に就任。13 年度、女川第一中と女川第二中が統合して女川中に。

●女川の会 佐藤敏郎先生ご講演

【日時】 2014 年3 月15 日(土)14:00~16:00(開場13:30)
【会場】 文京区汐見地域活動センター2F 会議室(洋室A・B)
     東京都文京区千駄木3-2-6
     最寄駅:東京メトロ千代田線千駄木駅(出口1:団子坂方面)
【定員】 90 名(要予約/自由席)  【参加費】 1000 円(当日受付にて) 
【申込方法】 羽鳥書店(担当:矢吹) メール・電話
   e-mail info@hatorishoten.co.jp  Tel 03-3823-9319(平日10:00 ~ 18:00)
 
 女川第一中学校では、震災後の5月に全校生徒約200 人で俳句づくりを始め、国語教師の佐藤敏郎さんが指導の中心を担いました。俳句づくりは女川中学校になった今も続いています。
 佐藤さんは昨年11月、震災で教職員と児童84人が犠牲になった石巻市立大川小学校の遺族らによる「小さな命の意味を考える会」をつくりました。保護者として、そして、生徒たちの命を守る教師として、日々考え、取り組んでいる佐藤さんをお招きして、お話をうかがいます。
 
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当方、早速、14日のトークショーの申し込みを致しました。
 
明日はやはり3.11関連で、銀座・永井画廊さんで開催中の「被災地への祈りのメッセージ展 高村智恵子紙絵展」に行く予定です。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月10日

明治7年(1874)の今日、光雲が年季奉公と1年の御礼奉公を終え、独立しました。

今日も宮城・女川の話題をお送りします。
 
昨日、高村光太郎文学碑近くの津波で倒れたビル解体に関するニュースについて書く都合上、女川町のホームページを調べたところ、町の広報誌がPDFで出てきました。
 
その中で、このブログでご紹介した、女川中学校さんでの「いのちの石碑」建立に関しても記述がありました。
 
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いのちの石碑除幕式 千年後の君へ、想い届け

 「千年後の命を守るために」そう刻まれた石碑が姿を現した時、それは生徒たちの〝想い〞がようやく形になった瞬間でした。
 
 震災直後に入学した女川中学校の3年生が、社会科の授業を通じて作り上げた防災プラン。「絆を深める」「高台への避難ルートの確保」「記録を残す」、この3つを机上のアイデアにとどまらせないよう踏みだしたのが、いのちの石碑プロジェクト。
 
 中学生たちは町にある21の浜に石碑を建てるため、多方面で津波対策案を発表しながら募金活動を実施し、約半年で1000万円超に。さらに、その想いを知った山田石販の山田政博氏が石材を寄贈し、11月23日、約300人の関係者が見守る中、1碑目の除幕式が女川中学校で行われました。
 
 当日は、津波対策実行委員会の中心メンバーがこれまでの経緯や石碑に込めた想いを報告。また、流木から作られたTSUNAMIヴァイオリンを使って渋谷由美子さんが「花は咲く」を演奏し、参加者それぞれが千年後の女川の姿に思いを巡らせました。
 
 「子どもたちが〝行動〞することでプロジェクトが動きだし、応援が起き、今日につながりました。
それが大事。この子どもたちの行動に拍手を送りたい。アクションを起こし、動きださなければ変わりません。子どもたちが自らまちの再生へ、そしてこれからの日本を大きく支えてくれると思います」とは須田町長。
 
 高橋校長も「今の3年生は震災の年に入学しました。彼らの素晴らしいところは発信しただけでなく〝行動〞したということ。 10年後、20年後の未来を担うのは彼ら中学生です」とエールを送った後、全国から支援いただいたみなさんに感謝の意を述べました。 
石碑は幅1メートル、高さ2メートルで、その右肩上がりのデザインは復興を目指す女川の姿そのもの。そこに刻まれた生徒たちの真摯な想いが、後世まで末永く届きますように。
 

ぼうさい甲子園でグランプリを獲得

 それぞれの石碑には、生徒たちが震災を詠んだ俳句が各地域で内容を変えて刻まれ、女川中学校の石碑には「夢だけは壊せなかった大震災」が選ばれました。石碑裏面には防災プランが英語、フランス語、中国語にも訳されています。
 
 また、兵庫県・毎日新聞社・(公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構が行う「ぼうさい甲子園(1.17防災未来賞)」において、同プロジェクトを進めた女川中学校がグランプリを獲得。表彰式は1月12日に兵庫県公館で行われます。
 
以前にも書きましたが、かつて平成3年(1991)、女川港に高村光太郎文学碑が「100円募金」で建立されたのにあやかって、生徒たちが募金活動を行ったそうです。高村光太郎文学碑建立に尽力した故・貝(佐々木)廣さんの魂が息づいています。
 
さて、「東日本大震災 写真保存プロジェクト」サイトというがあります。
 
以下、利用ガイドから。
 
2011年3月11日に発生した東日本大震災。
この出来事を記録した、より多くの写真や動画、ウェブページなどを後世に伝えるため、インターネット上の記録を紹介する機能を追加しました。
●目的「東日本大震災 写真保存プロジェクト」(以下「本プロジェクト」)は ・震災前の、美しい日本の記録を保存すること
・未曾有(みぞう)の震災を風化させず、後世に伝えること
・将来の防災研究などに役立てること
を目的とした、非営利目的のプロジェクトです。
●募集内容
次の内容が記録された「写真」をはじめ、「動画」、「ウェブページ」、「ブログ記事」、などを広く募集いたします。
・東日本大震災のありのままの状況
・震災前の、かつての日本のすがた
・復興のようす

正確な資料として後世に役立てるため、「撮影日」「撮影場所」の正しい記載にご協力ください。
 
というわけで、震災前後の被災地の様子を永久に残していこうというプロジェクトです。
 
この趣旨に賛同し、当方も自分で撮影し、このブ001ログでご紹介してきた女川や石巻の様子を投稿しました。
 
その他にも今日現在で6万件超の投稿があります。震災の記憶を風化させないためにも、ご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月6日

昭和22年(1947)の今日、花巻光が太田村山口の光太郎の山小屋を、筑摩書房の編集者・竹之内静雄が訪れました。
 
竹之内と光太郎は戦前からの旧知の仲で、旧交を温めました。この時の様子は光太郎日記に記されている他、昭和61年(1986)の花巻光太郎祭で竹之内が行った記念講演で語られ、竹之内の著書、講談社文芸文庫『先知先哲』に「戦中戦後の高村光太郎」として収められています。

昨日のこのブログでも少し書きましたが、もうすぐ3・11ということで、新聞紙上などでも特集が組まれたりしています。
 
特集というわけではありませんが、光太郎ゆかりの地、女川からのニュースが、昨日の『朝日新聞』さんに載りました。

津波で倒れたビル、解体 宮城・女川

 宮城県女川町で3日、東日本大震災の津波で横倒しになったビルの解体が始まった。ビルが津波で倒れた例は世界でも珍しく、震災遺構として保存をめざす動きもあったが、周辺の復興工事の支障になるため、町は取り壊すことにした。1967年ごろに建てられた4階建ての「女川サプリメント」。ここに住み、健康食品の店を営んでいた千葉進さん(52)の一家6人は、高台に逃れて無事だった。震災の後、妻の郷里の青森県へ引っ越し。撤去については「私は離れていますから」と言葉少なだった。
 女川町には津波で倒壊したビルがほかに2棟残る。町は4階建ての「江島共済会館」は今秋までに撤去し、2階建ての「女川交番」は保存する方向だ。

 
昭和6年(1931)、光太郎が『時事新報』の依頼で紀行文を書くため女川を訪れたことを記念し、平成3年(1991)に女川港に、4基の光太郎文学碑が建てられました。
 
3・11には巨大津波が町を襲い、甚大な被害。街は消滅、女川光太郎の会事務局長として、碑の建立に奔走された貝(佐々木)廣さんも津波に呑まれ、亡くなりました。光太郎碑もあるいは横倒しとなり、あるいは海に流失……。
 
津波で倒れたビルは光太郎碑のすぐ近くです。当方、一昨年昨年と、現地を訪れた際に見てまいりました。三棟あったのですが、そのうちの二棟は撤去されるそうで、一棟めの解体が始まったとのこと。
 
気になったので、女川町の公式サイトから調べてみました。
 
すると、今年1月発行の『広報おながわ』がPDFで見られ、その中に以下の記述がありました。

震災遺構の保存方針 女川サプリメント・江島共済会館は解体 女川交番を保存の方針、活用方法を検討

11月27日、須田善明町長が記者会見を開き、震災遺構の解体・保存に関する本町の方針を表明しました。

震災遺構については、今後の津波被害軽減のための学術的価値や損傷の激しさ、「震災を思いだしたくない」という町民の心情、造成工事スケジュールや財政面など、保存と解体をめぐって総合的に検討してきました。
 
町長は会見で、倒壊した3つの建物について①女川サプリメントは早ければ1月ごろから解体・撤去に着手、②江島共済会館は損傷の度合いが一番高く最終的には撤去するが、大勢の方が関心を持つ施設だけに造成工事の着手時期まで現状を維持、③女川交番は保存の方針で検討中だと述べました。

なお、震災遺構は今後の研究材料となることから、東北大学における3Dモデル化や町におけるレーザー測量等の記録にも努めていく点、また、これらの方針を踏まえて次回定例議会で予算化していく考えなどを示しました。
 
震災遺構の保存方針
女川サプリメント
港湾の復旧工事範囲であり、建物は1月ごろから解体・撤去に着手。
江島共済会館
鷲神浜エリアに位置し、今後盛土の造成工事、道路敷設が必要。最終的には撤去の方向だが、    当該地の造成工事の着手時期まで現状を維持。
女川交番
保存の方針で検討中。当該地の造成工事の着手時期は一番遅いため、何を後世に伝えるか議論   したうえで、保存・活用の方法について検討。
 
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保存されるという女川交番のすぐ隣が貝(佐々木)廣さんのご自宅でした。
 
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一帯は光太郎碑、保存の方向の女川交番も含め、震災メモリアル公園的な形に整備していく計画とのこと。
 
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こうした建物の保存。いろいろ難しい問題も含んでいることと思われます。地元被災者の皆さんには、つらい記憶を呼びさまされる、ある意味負の遺産であるという面があります。しかし、後の世代の人々が防災意識を高く保つために、震災の記憶を風化させないことも大切です。
 
そういう意味では、原爆ドームのある広島の平和記念公園のようなイメージと言っていいかも知れません。
 
明日も女川の話題を。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月5日

大正3年(1914)の今日、雑誌『美の廃墟』に詩「道程」が掲載されました。
 
というわけで、今日が「道程」表表100周年です。
 
2/9のこのコーナーにも書きましたが、発表時は102行もある大作でした。それが10月に刊行された詩集『道程』に収録の際に、現在流布している9行の短い形に削られました。
 
  道程
 
どこかに通じてゐる大道を僕は歩いているのぢやない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
道は僕のふみしだいて来た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる
何といふ曲りくねり
迷ひまよつた道だらう
自堕落に消え滅びかけたあの道
絶望に閉ぢ込められたあの道
幼い苦悩にもみつぶされたあの道
ふり返つてみると
自分の道は戦慄に値ひする
支離滅裂な
又むざんな此の光景を見て
誰がこれを
生命(いのち)の道と信ずるだらう
それだのに
やつぱり此が生命(いのち)に導く道だつた
そして僕は此処まで来てしまつた
このさんたんたる自分の道を見て
僕は自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ
あのやくざに見えた道の中から
生命(いのち)の意味をはつきり見せてくれたのは自然だ
僕をひき廻しては眼をはぢき
もう此処と思ふところで
さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
これこそ厳格な父の愛だ
子供になり切つたありがたさを僕はしみじみと思つた
どんな時にも自然の手を離さなかつた僕は
とうとう自分をつかまへたのだ
恰度その時事態は一変した
俄かに眼前にあるものは光りを放射し
空も地面も沸く様に動き出した
そのまに
自然は微笑をのこして僕の手から
永遠の地平線へ姿をかくした
そして其の気魄が宇宙に充ちみちた
驚いてゐる僕の魂は
いきなり「歩け」といふ声につらぬかれた
僕は武者ぶるひをした
僕は子供の使命を全身に感じた
子供の使命!
僕の肩は重くなつた
そして僕はもうたよる手が無くなつた
無意識にたよつてゐた手が無くなつた
ただ此の宇宙に充ちみちてゐる父を信じて
自分の全身をなげうつのだ
僕ははじめ一歩も歩けない事を経験した
かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た
僕は心を集めて父の胸にふれた
すると
僕の足はひとりでに動き出した
不思議に僕は或る自憑の境を得た
僕はどう行かうとも思はない
どの道をとらうとも思はない
僕の前には広漠とした岩畳な一面の風景がひろがつてゐる
その間に花が咲き水が流れてゐる
石があり絶壁がある
それがみないきいきとしてゐる
僕はただあの不思議な自憑の督促のままに歩いてゆく
しかし四方は気味の悪い程静かだ
恐ろしい世界の果へ行つてしまふのかと思ふ時もある
寂しさはつんぼのやうに苦しいものだ
僕はその時又父にいのる
父はその風景の間に僅ながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を僕に見せてくれる
同属を喜ぶ人間の性に僕はふるへ立つ
声をあげて祝福を伝へる
そしてあの永遠の地平線を前にして胸のすく程深い呼吸をするのだ
僕の眼が開けるに従つて
四方の風景は其の部分を明らかに僕に示す
生育のいい草の陰に小さい人間のうぢやうぢや匍ひまはつて居るのも見える
彼等も僕も
大きな人類といふものの一部分だ
しかし人類は無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
人間は鮭の卵だ
千万人の中で百人も残れば
人類は永久に絶えやしない
棄て腐らすのを見越して
自然は人類の為め人間を沢山つくるのだ
腐るものは腐れ
自然に背いたものはみな腐る
僕は今のところ彼等にかまつてゐられない
もつとこの風景に養はれ育(はぐく)まれて
自分を自分らしく伸ばさねばならぬ
子供は父のいつくしみに報いたい気を燃やしてゐるのだ
ああ
人類の道程は遠い
そして其の大道はない
自然の子供等が全身の力で拓いて行かねばならないのだ
歩け、歩け
どんなものが出て来ても乗り越して歩け
この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、父よ
僕を一人立ちにさせた父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程の為め
 

宮城県気仙沼市のローカルFMで、「けせんぬまさいがいエフエム」という局があります。
 
そちらで「水上洋甫のポエムディスカバリー」という番組がオンエアされているそうです。
 
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その中で、今年10月に光太郎が扱われました。さすがに当方の住む千葉県では宮城のFMは受信できませんが、動画サイト「youtube」にアップされましたのでご紹介します。全3回のうち、2回分ですね。

2021/05/09 追記 その後、削除され、現在は見られません。

第1回は10/16オンエアで「道程」、第2回は10/30オンエアの「レモン哀歌」。それぞれ詩の朗読だけでなく、その頃の光太郎について解説がなされています。
 
気仙沼といえば、このブログでたびたび紹介している女川や石巻同様、昭和6年(1931)に光太郎が『時事新報』の依頼で紀行文を書くために訪れています。平成5年(1993)には、旧唐桑町に、短歌「黒潮は 親潮をうつ 親潮は さ霧をたてゝ 船にせまれり」を刻んだ歌碑が作られました。当方、10年以上前になりますが、ここを訪れたことがあります。
 
 
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当時はのどかな漁村の風景を楽しんだのですが、やはり東日本大震災による大津波……。
 
その気仙沼で、光太郎を扱ったラジオ番組ということで紹介させていただきました。
 
この碑は健在だそうですので、また折を見て、行ってみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月16日

昭和27年(1952)の今日、丸ビル内の中央公論社画廊でこの年11月に開催された「高村光太郎小品展」御礼として一万円を受け取りました。
 
光太郎生前に開かれた唯一の個展です。
 
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 そういえば、「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。昨日をもって全国3館巡回、全て終了しました。またそちらについては書きますが、ご来場下さった皆様、本当にありがとうございました。

一昨年の東日本大震災から、今日で1,000日だそうです。
 
そういうわけで、今朝の『朝日新聞』さん紙上では関連記事がたくさん載っていました。
 
そんな中で、教育面でも震災がらみの連載がスタートしました。題して「千年後の命のため」。昭和6年(1931)に光太郎が訪れた宮城県女川町からのレポートです。
 
実は、先月末にも以下の記事が載り、今日明日じゅうには紹介しようと思っていましたので、タイムリーでした。

津波の記録、石碑に刻む 「100円募金」で建立 宮城・女川中3年生

 「千年後の命を守るために」と刻まれた石碑が、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町の女川中学校に建てられ、23日に除幕式があった。震災を記録に残そうと、同中の3年生66人全員で建てた。町内にある全21カ所の浜の津波到達点の上に建てる計画で、同校の碑は1基目になる。
 
 津波が流し去った町中心部を一望できる同校での除幕式。「今、女川町は、どうなっていますか? 悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています」。3年生の鈴木智博君が、自分たちで考えた碑文を朗読した。
 
 3年生は入学後最初の社会科の授業で、「ふるさとのために出来ること」を考え始めた。11年冬には(1)高台へ避難できる町づくり(2)助け合える絆づくり(3)震災を記録に残す――の三つの津波対策を練り上げた。
 
 石碑は記録に残す具体策の一つ。約1千万円の費用は、今春から3年生が町内外で「100円募金」を呼びかけて集めた。3年生の木村圭さんは「活動は始まったばかり。千年先まで石碑を残すよう伝えなければ」と話した。(小野智美)
 
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8月にこのブログでご紹介した、女川中学校さんでの「いのちの石碑」建立プロジェクトに関する記事です。
 
子供たちの書いた「企画書」がこちら。

 
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 平成3年(1991)に女川に立てられた光太郎文学碑が「100円募金」によって作られたことにつながっています。その碑を建てるために奔走し、あの日、津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣さんの魂が根づいています。
 
当会としてもささやかながら出資しました。とはいいながら、1,000万円を募金で集めるのは無理なんじゃないか、と思っていました。しかし、あにはからんや、集まったそうです。この国の人々の優しさ、潜在的に持っている力というものを実感させられました。
 
そして今日から教育欄で始まった連載。このプロジェクトの軌跡が描かれるそうです。
 
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記事は『朝日新聞』さんのデジタル版でも読むことができます。ただ、長いので全文を読むには会員登録が必要です。
 
一部を抜粋させていただきます。
 
 国語の授業で1年生の時から作ってきた俳句から碑に刻む21句の候補を求め、短文や長文のメッセージの案も募集した。
 それから5日後の放課後。記録班の4人が教室に残った。班長の阿部由季さん(15)、須田美紀さん(15)、勝又愛梨さん(14)と鈴木君。メッセージを練り上げるためだ。
 阿部さんが、文言の案を見ながら「『あの苦しみ悲しみをもう二度と繰り返さないために』を入れたら」と切り出した。
 須田さんは「冒頭に由季ちゃんの『これから生まれてくる人たちに』をつけよう」と即座に返した。
 別の生徒の文も読み上げた。「大地震が来たら上に逃げてください。家にとどまる人がいたら……」。その先を阿部さんが引き取って「なんとしても引っぱり出しましょう」。
 鈴木君も大きな声で加わった。「なんとしても連れ出してください。ぜったいに引きずりだしてください」
 3人の活発なやりとりを聞いていた勝又さんが、小さな声で言った。「家に戻ろうとする人は、絶対に引き留めてください」。メッセージには、この言葉も使うことになった。
 この放課後の時間を勝又さんは忘れられない。
 「千年後まで残すための大事な話し合いだったから」
 鈴木君は、実行委員長として各地で募金を呼びかけてきた。今も見たくはないあの日の写真をスクリーンに映し、説明に立っている。あの日を突きつけられる質問にも嫌な顔を見せたことはない。「千年後の命を守りたい」。その一念だ。
 
 【碑文要約】 これから生まれてくる人たちに、あの悲しみ、あの苦しみをあわせたくない! その願いでこの碑を建てました。絶対に移動させないでください。大地震が来たらこの碑より上へ逃げてください。逃げない人は無理やりでも連れ出し、家に戻ろうとする人は絶対に引き留めてください。今、女川町はどうなっていますか? 悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています。
 
恥ずかしながら涙がこぼれてしまいました……。
 
当方、8月9日に行われている女川光太郎祭に参加しております。来年の光太郎祭の折には(機会があればもっと早く)この碑を見てこようと思っています。
 
ぜひ皆さんも足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月4日

明治27年(1894)の今日、光太郎の妹・よし(喜子)が誕生しました。
 
昭和20年(1945)4月、空襲で駒込林町のアトリエを焼け出された光太郎は、翌月に花巻の宮澤賢治実家に移るまで、近所にあったよしの婚家である木彫家・藤岡幾の家に身を寄せていました。 

宮城・女川から2件ニュースが入っています。
 
まず『日本経済新聞』さんから。 

津波の記憶を石碑に 宮城・女川町の中学生、福岡で募金

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町の中学生たちが「1000年後の命を守ろう」と、町内の津波到達点21カ所に津波の恐ろしさを伝える石碑を建てる計画を進めている。必要な資金約1000万円は、一口100円の募金で広く集める。地元だけでなく、作文コンクールへの応募が縁でつながりができた福岡市など各地を訪れ、協力を呼びかけている。
 
 「女川町では津波でたくさんの命が失われました」。7月下旬の日曜日。買い物客が行き交う福岡市天神で、女川町立女川中学3年の阿部由季さんがマイクを握った。「1人でも多くの命を守るため、石碑を建てようと考えています」。同級生の神田七海さんも「ご協力をお願いします」と声を張り上げた。
 
 女川町はリアス式海岸の入り江に面し、津波が陸地を駆け上がった高さ(遡上高)は最高43メートルに達したとされる。家屋の約8割が流失し、人口約1万人のうち約8%が死亡・行方不明になった。
 
 震災の翌月に再開した女川第1中学校(現在は女川中学校に統合)に入学した阿部さんらは、社会科の授業で防災について話し合った。自分たちで考えた対策の1つが「いのちの石碑」で震災の記録を残し、次の世代に伝えることだった。
 
 計画では、町内に21カ所ある浜の津波到達地点に、高さ2メートル、横幅1.3メートルの石碑を1基ずつ建てる。碑には生徒の「夢だけは 壊せなかった 大震災」との句を刻む。高台への避難路も整備。水や食料も備蓄して避難訓練を毎年行うという。
 
 賛同した県内の業者が石材を寄贈したが、加工・設置には1基当たり約45万円、計約1000万円が必要。そこで、かつて女川町の住民が100円ずつ集めて海岸に高村光太郎の歌碑を建てたことに倣い、「100円募金」の開始を決めた。
 
 福岡での募金活動の契機になったのが、阪神大震災を機に設立された「夢みるこども基金」(福岡市中央区)の作文コンクール。「私のかなえたい夢」をテーマに「保育士になって震災をこどもたちに伝えたい。震災に遭って夢が増えました」とつづった阿部さんが最優秀賞に輝いた。神田さんも優秀賞だった。
 
 これが縁で同基金が今夏、2人を福岡市に招き、入賞した他の小中学生と一緒に募金活動をした。基金の古市悟事務局長は「子供たちが復興の中心になることに共感した。支援の輪が広がってほしい」とエールを送る。
 
 石碑は成人式を迎えるまでに完成させる計画。神田さんは「福岡でもみんなが協力してくれた。この気持ちを大切に活動を続けたい」と話す。すでに地元や、修学旅行先の東京でも街頭に立った。募金は銀行振り込みでも受け付ける。詳細は「いのちの石碑プロジェクト」のホームページ。
 
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平成3年(1991)に女川に立てられた光太郎文学碑が「100円募金」によって作られたことにつながっています。故・貝(佐々木)廣さんの魂が根づいていることを感じました。
 
もう一件、8月9日に行われた「女川光太郎祭」の報道です。『石巻かほく』さんから。 

仮設商店街で「光太郎祭」 詩を朗読 作品に、古里思う 女川

 女川町を訪れた詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第22回光太郎祭(女川・光太郎の会主催)が9日、女川町の仮設商店街「きぼうのかね商店街」であり、約70人の住民らが参加した。

 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営員会の小山弘明代表(千葉県香取市)が「高村光太郎、その生の軌跡」と題して講演。「どんなに偉大な人でも伝えなければ、忘れ去られてしまう。光太郎の思いを女川の地で後々まで語り継ぐ活動をしてほしい」と呼び掛けた。

 献花した後、小学生ら7人が光太郎の詩を朗読した。文芸評論家で高村光太郎記念会の北川太一事務局長が「観自在こそ-光太郎の底を貫く東方の信仰」をテーマに講話した。

 東日本大震災で女川町は壊滅的な被害を受けた。参加者は光太郎の作品に震災前の豊かな自然と風景を思い浮かべながら復興に向けて進むことを誓った。

 女川のことを記した紀行文や詩を題材にした光太郎の文学碑は1991年、女川港に建てられた。光太郎祭はその翌年から、三陸の旅に出発した8月9日に合わせて開催している。震災で三つあった文学碑のうち二つは倒壊し、一つは行方不明になっている。

 
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地方紙ですと、緊急性のないイベント報告等はかなりあとになって報道されるケースがあり、この記事も最近出ました。
 
当方についても記述がありますが、一番言いたかったことをズバリ書いて下さっており、感謝いたします。
 
とにかく女川をはじめ、被災地の元気を1日も早く取り戻してほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月22日

昭和21年(1946)の今日、総合花巻病院長・佐藤隆房の夫人・雪江にあてた書簡に俳句「秋晴れて林檎一萬枝にあり」をしたためました。
 
気がつけば8月も下旬、東北ではそろそろ林檎も色づいていることでしょう。

8月9日、女川光太郎祭が始まる前に、女川と隣接する石巻の街を歩いてみました。
 
昭和6年(1931)、光太郎が『時事新報』に寄せた紀行文「三陸廻り」は石巻から始まっています。下記はその際の光太郎自筆の挿画です。
 
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市街地の南、北上川河口の脇に立つ日和山から見た風景です。
 
さらにこちらは戦前の絵葉書。
 
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そして8/9に撮影した画像です。
 
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光太郎が82年前にここから同じように風景を見たんだなと思うと感慨深いものがありました。
 
「三陸廻り」の中では、日和山から見た石巻の街をこう記します。
 
 日和山から見下した石巻と湊町と仲の瀬とはぎつしりつまつてまるで空地のない建てこみ方だ。家と倉庫と鰹節工場と造船所と魚市場と檣柱と旗と煙突と、魚類の吐く息と鋼鉄の鳴る音と。坂路に立つて俯瞰図をスケツチしてゐると洋服姿のインテリ百姓らしい若者が通る。
 
上の三枚の画像ともに右手にある島が「仲の瀬」通常は「中瀬」と表記。現在は石ノ森萬画館が建っています。
 
さらに光太郎、日和山にある鹿島御児(かしまみこ)神社に詣でたことを記しています。そこにも行ってみました。
 
 
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震災で被害を受け、本殿を解体するそうです。義援金として賽銭を入れてきました。
 
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その後、山を下りて石ノ森萬画館へ。昨年はまだ閉鎖中でしたが、今年は再開し、家族連れなどでにぎわっていました。「サイボーグ009」の企画展をやっており、懐かしく拝見しました。
 
 
上が昨年、下が今年の写真です。
 
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中瀬に架かる橋も、昨年はまだひどい状態でしたが、今年はきれいになっていました。
 
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着実に復興は進んでいます。
 
しかし、街を歩くと、まだまだこんな建物も残っています。
 
 
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日和山から見た中瀬とは逆側の光景。
 
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元は民家や事業所が立ち並んでいたはずですが、ほとんど更地と化しています。
 
女川同様、石巻もまだまだ復興途上です。具体的な支援もなかなか難しいと思いますが、せめてそういう現状であるということは、頭に留めておいてほしいものです。
 
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千葉蒼玄氏書・復興支援絵葉書
 
【今日は何の日・光太郎】 8月12日

昭和26年(1951)の今日、光雲の師匠・高村東雲の孫に当たる高村晴雲が花巻郊外太田村山口の山小屋を訪れ、旧交を温めました。
 
おそらくこの時に贈られたとみられる晴雲作(?)の観音像が花巻の記念館に保管されています。

去る8/9(金)は、第22回女川光太郎祭でした。
 
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一昨年の大震災で亡くなった方々への黙祷に始まり、前座で当方の記念講演。なぜ女川で光太郎祭が開かれているのか、その経緯をあらためてご紹介し、かように人々を魅了する光太郎の人間像を簡単にお話しさせていただきました。来年以降、連作詩「暗愚小伝」を元に、さらに深く光太郎の人間像について述べようと思っています。
 
その後、女川光太郎の会会長の須田様のごあいさつ。須田様は昨年の『朝日新聞』さんの全国版で大きく取り上げられました。
 
さらに光太郎遺影への献花、地元の方々による紀行文や詩の朗読と続きました。
 
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朗読の際には、女川を愛するギタリスト・宮川菊佳氏が伴奏をして下さいました。皆さん、すばらしい朗読でした。
 
その後、高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生による特別講演「(観自在こそ)-光太郎の底を貫く当方の信仰-」。当方もお手伝いをさせていただきました。長らくこの会の運営に携わってこられ、一昨年の津波で亡くなった貝(佐々木)廣さんの無私の精神に絡め、光太郎や高村家のバックボーンだった観音信仰についてのお話しでした。
 
さらにアトラクションで、やはり女川をこよなく愛するオペラ歌手・本宮寛子さんの歌。場所が場所なのでア・カペラですが、「この道」、そして「ある晴れた日に」。こういう手作り感が女川光太郎祭のいいところでもあります。
 
それにて閉会し、その後、きぼうの鐘商店街内の佐々木釣具店にて「貝さんを偲ぶ会」が行われました。東京から駆けつけた北川先生、先生の教え子の北斗会の皆さんもご満悦のご様子でした。
 
来年以降も女川光太郎祭は続きます。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月11日

昭和28年(1953)の今日、『東京新聞』に水谷八重子主演の演劇「智恵子抄」の予告記事が載りました。

先ほど、2泊3日の行程を終え、女川から帰って参りました。
 
詳細は明日からレポートいたします。今日は女川の現状のみ。
 
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もとの繁華街があった海岸一帯は、横倒しになったビルなどまだそのままですが、地盤のかさ上げ工事が始まっていました。
 
半ば海中に水没していた光太郎文学碑二基も陸上に引き上げられ、移動されていました。
 
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やはり碑面は損傷が激しい状態です。特に両端に配してある光太郎筆のイラストは金属板でしたので、傷が目立ちます。
 
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下図は女川町の復興推進課が出した将来構想イメージ図です。

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このような美しい町の姿を取り戻すため、今日も工事関係者の皆さんが忙しく立ち働いていました。当方が訪れた午前8:00には、引き上げられた碑の傍らにて皆さんで準備運動。炎天下、頭の下がる思いです。「よろしくお願いします」と心の中でエールを送りました。
 
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昨年よりも復興の進んだ様子があちこちで見受けられましたが、元の町の姿には遠く及びません。そういう意味では「被災」はまだまだ続いています。
 
微力ながら支援を続けていきたいと考えています。皆さんも、それぞれに出来る形でのご支援をよろしくお願いします。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月10日

昭和20年(1945)の今日、疎開していた花巻の宮澤賢治生家が空襲で炎上、命からがら助かりました。
 
花巻ではこの終戦5日前の空襲で、47名の尊い命が絶たれました。光太郎と親交の厚かった佐藤隆房医師の総合花巻病院では、病院をあげて怪我人の救護に奮闘、後に光太郎はその敢闘をたたえる「非常の時」という詩を作って、病院に贈りました。

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女川光太郎祭、並びにその後の懇親会・「貝さんを偲ぶ会」、無事終わりました。

女川の皆さんの心の中に、光太郎の、そして光太郎祭を長らく続けて来られ、一昨年の震災の津波で亡くなった貝(佐々木)廣さんの魂が受け継がれていることを実感しました。
詳しくは帰ってからレポート致します。

【今日は何の日・光太郎】 8月9日

昭和6年(1931)の今日、紀行文「三陸廻り」執筆のため、およそ1ヶ月の旅に出ました。


このことを記念して、平成4年から女川光太郎祭が開かれています。

今日から2泊3日で、宮城県の女川に行って参ります。このブログでたびたび紹介しています「女川光太郎祭」が、今年で22回目。明後日開催されます。
 
もともと昭和6年(1931)に『時事新報』の依頼で紀行文を書くため、光太郎が女川を含む三陸海岸一帯を1ヶ月ほど旅したことにちなむイベントでした。しかし、一昨年の東日本大震災による津波で大きな被害を受けた女川。光太郎祭の中心となって活動されていた貝(佐々木)廣氏が亡くなり、その追悼や町の復興のため、という側面も出てきたイベントです。
 
こちらのリンクをご覧下さい。NHKさんの「東日本大震災アーカイブス」の中のページです。

昨年3月に放送された、貝(佐々木)氏が光太郎顕彰に力を注いだことなどを語る、奥様・英子さんの証言、現在の光太郎文学碑の様子などが動画で見られます。平成3年(1991)の、女川港に建てられた光太郎文学碑除幕の時の貴重な動画も含まれています。

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現在の光太郎祭は、廣氏の意志を継いだ英子様主導となり、今年は英子様のお店・佐々木釣具店の入っている仮設商店街・きぼうの鐘商店街の集会所で開催されます。日時は8/9(金)、午後2時より。当方、単独で1本、北川太一先生とのコラボで1本、計2本の講演をこなします。
 
お時間のある方、ぜひお越し下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月8日

昭和63年(1988)の今日、池袋西武アート・フォーラムで、「生誕100年記念 智恵子紙絵展」が開幕しました。
 
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宮城県牡鹿郡女川町。一昨年の東日本大震災000で、甚大な被害を受けた町です。今でも時折、復興関連の報道などで取り上げられています。
 
ここ女川町で、震災前から毎年8月9日に、「女川光太郎祭」というイベントが開かれ続けています。昭和6年(1931)8月、『時事新報』の依頼で紀行文を書くことになった光太郎は、この地を含む三陸一帯を一ヶ月ほど旅して歩きました。それを記念して、光太郎の精神を受け継ぐといった意味合いです。
 
一昨年の震災の日、、中心になって活動されていた貝(佐々木)廣氏は、津波に呑まれて亡くなりました。町自体も、港に近い繁華街は壊滅、今もみなさん仮設住宅にお住まいです。しかし、途絶えることなく光太郎祭が続けられています。当方、昨年の第21回光太郎祭に参加いたしましたが、本当に頭の下がる思いです。
 
今年も8月9日、第22回女川光太郎祭が開催されます。
 
震災前は一貫して、光太郎文学碑の建つ海岸公園で行われていましたが、震災のあった一昨年は女川第一小学校、昨年は仮設住宅内の坂本龍一マルシェと、会場が移りました。今年は元の繁華街から西へ少し行った高台にあるきぼうの鐘商店街内に新しくできた集会所が会場になるそうです。
 
今年から、当方、講演の講師を頼まれました。おそらく永続的にやっていくことになると思います。
 
それ以外にも、恒例になっている、高村光太郎記念海会務局長・北川太一先生のご講演も予定されています。北川先生、ご高齢のため、いったんは退かれたのですが、やはり亡くなった貝氏の御魂に応えるためにも、とお考えなのでしょう。お体の許す限りは、女川に行かれるおつもりのようです。
 
詳細な日程はまだですが、午後2時から当方の講演「高村光太郎、その生の軌跡 -連作詩「暗愚小伝」をめぐって ①」、午後3時から北川先生によるご講演「(観自在こそ)―光太郎の底を貫く東方の信仰―」です。今月初めに千葉市美術館で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」関連行事での記念講演会同様、当方が助手(聞き手)を務めます。手前味噌ですが、意外と千葉での講演が好評だったので、同じ形でやります。
 
その他に(というと失礼ですが)、地元の皆様による光太郎詩の朗読、ご常連のギタリスト・宮川菊佳氏、オペラ歌手・本宮寛子さんによるアトラクションなども計画されています。
 
一年ぶりの女川。昨年は更地と化した元の繁華街に横たわるビルに驚きましたが、一年間でどれだけ復興が進んでいるのか、この目で見てきます。都合のつく方は、ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月27日

昭和30年(1955)の今日、夕食に銀座竹葉亭のウナギの蒲焼きを4串食べました。
 
この日の午後、北川太一先生が持参されたものです。この店も、先日ご紹介した中華料理「好々」同様、現存します。

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感謝と祈り込め企画展 仙台・福島美術館1年9ヵ月ぶり再開

河北新報 12月20日(木)9時15分配信
 東日本大震災で被害を受け、休館していた福島美術館(仙台市若林区土樋)が19日、約1年9カ月ぶりに展示を再開した。企画第1弾として、縁起物にちなんだ掛け軸などを集めた「震災復興『めでた掛け~再会』-感謝と祈りをこめて」を開催している。来年3月3日まで。

 「めでた掛け」は同美術館の新春恒例の企画展で、今回は掛け軸や工芸品など約60点を展示。募金をした人に贈った「七福絵はがき」に使われた掛け軸が中心で、折り鶴を折る子どもを描いた絵などが来場者を和ませている。常設展では伊達政宗の書状や高村光雲の仏像などが飾られている。

 再開に合わせ、収蔵品の中から「福」の意味を持つ昆虫や鳥の図柄を選んで作ったしおり、シールなどの「七福グッズ」も販売している。期間中は座談会や茶会、紙切り遊びなどの催しも行う。

 美術館は当初、修繕費の約1300万円を調達するめどが立たなかったが、全国から約765万円の募金が寄せられ再開にこぎつけた。12月19日は1年前に初めて募金が寄せられた日という。
 学芸員の尾暮まゆみさんは「募金を頂いた全国の方には感謝の言葉しかない。今後、大地震が起きて私たちのような小さい美術館が被害を受けたら、支援していきたい」と話した。
 
 入館料は一般300円、学生200円。高校生以下、70歳以上、障害者は無料。連絡先は同美術館022(266)1535。


 
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「福島美術館」と言っても、福島県の「福島」ではなく、仙台で社会福祉法人を運営されていた故・福島禎蔵氏のコレクションが中心ということで「福島」だそうです。
 
追記 同館、平成30年(2018)をもって無期限休館となってしまいました。
 
昨年の大震災から1年9ヶ月。復興もある程度進んできているのでしょうが、まだまだこれからですね。
 
ところで「昨年の」と書きましたが、もう年の瀬ですので、あと2週間足らずで「一昨年の大震災」と書かねばならなくなります。やがては「平成23年の」と書くようになり、そして人々の記憶が風化していくのでしょうか……。

今朝の朝日新聞で、女川・光太郎の会に関する記事が大きく載りました。
 
同紙では毎週月曜日に「防災・復興」というコーナーが連載されていますが、その中で今日は「光太郎の詩は女川の宝」という見出しで、女川・光太郎の会会長、須田勘太郎さんが紹介されています。
 
震災で大きな被害を受けた光太郎詩碑建立の経緯や、建立に貢献した故・貝(佐々木)廣さん、そして女川の現状、今年の女川光太郎祭に関しても触れられています。須田さんの写真には、背景に貝さんの遺影も。
 
こうした地方の地道な活動にスポットを当てていただけるのは嬉しい限りです。
 
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昨日に続き、女川の話を。
 
光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基の石碑が建てられました。たしか平成6年頃、8月の暑い盛りだったと思いますが、この碑を見に行きました。2泊3日の行程で、光太郎・智恵子の故地を巡る気ままな一人旅。1日目は二本松周辺を中心に廻り、夜になって女川に着きました。そして2日目、朝の清澄な空気の中、海岸公園で碑を見ました。
 
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中央には高さ2㍍、幅10㍍のおそらく日本最大といわれた巨大な碑。5面のプレートを配し、真ん中は明治39年、渡米に際して創られた光太郎の短歌「海にして 太古の民の おどろきを われふたたびす 大空のもと」の光太郎自筆筆跡を拡大したもの。その両脇に紀行文「三陸廻り」の女川の項が北川太一先生の筆で。さらにその外側2面は紀行文「三陸廻り」に付された光太郎自筆の挿画が、それぞれ拡大されて刻まれています。石の形は港町・女川を象徴するように、舟のようなシルエットのものを選んだとのこと。

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その真下に小さな碑が一つ。巨大な碑の中央に刻まれた光太郎短歌が独特の筆跡で読みにくいということへの配慮でしょうか、同じ短歌が活字で刻まれていました。

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公園内の少し離れた場所に、女川での体験をもとにして書かれた二つの詩を刻んだ詩碑が二つ。片方は詩「よしきり鮫」、もう一方は詩「霧の中の決意」。それぞれ光太郎が手許に残した控えの原稿から複写されたものです。

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同じ場所に4基も光太郎関連の碑が建てられたのは、ここ女川と、花巻の山小屋周辺だけです。花巻の方は、色々な碑が後から後から追加されたのに対し、女川の碑は4基同時に建立。しかも特筆すべきは1,000万円近くの建立費用の全てが、地元の個人、企業、学校等からの寄附で賄われたことです。この中には町内十数カ所に置かれた募金箱に入れられたいわば「浄財」も含みます。このような形で作られた石碑というのも非常に珍しいと思います。
 
平成18年(2006)10月14日と15日の2日間にわたり、光太郎没後50年記念・智恵子生誕120年記念ということで、東京荒川区の日暮里サニーホールにおいて「光太郎・智恵子フォーラム」が開催されました。北川太一先生の基調講演、荒川区長・西川太一郎氏、彫刻家・峯田敏郎氏、画家・長縄えい子氏、高村光太郎研究会・織田孝正氏によるパネルディスカッション、仙道作三氏作曲のオペラ「智恵子抄」公演など、盛りだくさんの内容でした。さらに「プレゼンテーション」と銘打ったタイムテーブルもあり(当方が司会でした)、7人の方がご発表なさいました。その中のお一人が女川・光太郎の会事務局長だった故・貝廣氏。「光太郎祭15回を開催して」という題でのご発表でした。「こんなに大きな石碑を作ったんですよ」ということで、マイクを握られたまま、ステージ上を走り回られていた姿が今も目に浮かびます。

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ネット上で検索してみますと、震災後の女川の惨状を撮影した画像等も見られます。廃墟と化したビル、土台だけ残った住宅、草すら生えていない荒れ地、それらにまじって無惨にも横倒しになった10㍍の光太郎碑の画像も眼にしました。その後、どこまで復興が進んでいるのか、いないのか、来月9日の女川・光太郎祭に参加し、見てきたいと思います。

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