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題名の気仙沼レポートに行く前に、地方紙『石巻かほく』さんが、9日の第28回女川光太郎祭を記事にして下さいましたので、ご紹介します。 

女川で高村光太郎しのぶ会 生演奏に合わせ朗読、小学生も

 女川町とゆかりが深い彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第28回女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、同町まちなか交流館ホールであった。
 町内外から光太郎ファンら約60人が出席。講演や紀行文、詩碑、詩の朗読などを通して光太郎の思いに触れた。
 朗読では、子どもから大人までの15人がステージに登場。詩の朗読ではギタリスト宮川菊佳さん(千葉県)の奏でるギターの生演奏に合わせ、女川小6年の内村有佑さん、4年の有生七さん兄妹や東松島市の加藤慶太副市長らが「道程」「あどけない話」「或(あ)る夜のこころ」を感情を込めて披露した。
 講演では、高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が「高村光太郎、その生の軌跡-連作詩『暗愚小伝』をめぐって(7)」の題で講演し、出席者は熱心に耳を傾けた。
 光太郎は1931年8月に三陸沿岸を巡る旅で女川を訪れ、海とそこに生きる人々のたくましい生活に心を打たれ、数々の詩歌や散文などの作品を残した。
 光太郎祭は、地元有志らで組織する女川・光太郎の会が92年から開催。91年には女川港を臨む海岸公園に文学碑を建立したが、東日本大震災の津波で流された。

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さて、その翌朝、宿泊先のトレーラーハウス・エルファロさんを後に、愛車を駆って北上しました。今年の2月に三陸自動車道が気仙沼市の小泉海岸ICまで延伸されたとのことで、女川同様やはり光太郎の足跡の残る気仙沼も訪れてみようと思った次第です。

光太郎の気仙沼訪問は、やはり新聞『時事新報』の依頼による紀行文「三陸廻り」の一環でした。紀行文に記された順番では女川のすぐ後、船で気仙沼入りしています。

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ただ、紀行文で起点となっている石巻までどうやっていったのかが不明です。で、以前にも書きましたが、光太郎が乗った三陸汽船、月に二便、東京芝浦港から出ている便があり、新幹線などなかった陸路より便利なのでこれを利用したのかも、と考えるようになりました。その場合、最初の寄港地は気仙沼。すると、光太郎、一度気仙沼に降り立ち、そこから石巻まで戻って改めて北上し、東京への帰りは宮古からの東京便に乗ったのかも知れません。あくまで推測ですが、可能性は高いと思われます。

さて、当方の気仙沼紀行に戻ります。

三陸自動車道を、現在の終点となっている気仙沼市の南端・小泉海岸ICで降り(復興支援のため、通行料金無料です。ありがたし)、まずは市街を迂回して唐桑半島へ。その突端に、平成5年(1993)に建てられた、光太郎の歌碑が建っています。約20年前、一度拝見に伺いまして、2度目です。最初の時は新幹線、在来線、そして路線バスを乗り継いでの訪問でした。

こちらが歌碑。

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紀行文「三陸廻り」の直後、雑誌『磁場』に発表された詩「霧の中の決意」(こちらも女川の光太郎文学碑に刻まれています)に添えられた短歌で、光太郎自筆を拡大したものです。曰く、

 黒潮は 親潮をうつ 親潮は さ霧をたてゝ 船にせまれり  光

光太郎、この唐桑半島には降り立っていないのですが、ここの沖合を船で通過したということで、この碑が建てられたわけです。

紀行文「三陸廻り」では、船中の様子としてこう書かれています。

夜の十時に気仙沼を出た小柄な東華丸は何処へも寄らずに釜石までゆく。夜の海は私を寝かさない。私は舷側に立つて珍しいものを見るやうにいつまでも海の闇黒を見てゐる。むしろ寒い。船員は交替時間にどしどし船底へ行つて眠るのが本務だ。客の好奇心などに構つてゐられない。五六人の船客も皆ねた。私は一人で露地裏のやうに狭い左舷右舷の無言のレエヴリイを楽しむ。十一時半。船が気仙沼湾の大嶋の瀬戸をぬけて御崎を出はづれ、漁火のきらめく広田湾を左に見て外洋の波に乗る頃、むつとする動物的空気の塊に肌が触れる。殆と無風。何かが来たと思ふまもなく船は二、三秒で、ガスに呑まれる。まだ頂天の星の光はおぼろに見えるが、四辺は唯この青くさい不透明な軟かい物質の充満だ。船は眼そのもの、耳そのものとなる。ちんちんちんと低い鐘が三つ鳴る。又一つ。機関の音がぱたりと止み、船はうねりの横波の中で停る。急に静になつた舷側をぱちやぱちやと水がうち、盥のやうに船はゆれる。針路の漂蹰をなほす爲か、舵の鎖が重く強く長くずるずると音を立てる。船首の燈火が闇黒の世界にぼやけた暈をつくる。十分、二十分。依然たる寂寞。やがて三点鐘。又一点。機関は再び呼吸を始める。微速前進。船は幾度か考へなづむやうに又停り又進む。

御崎(おさき)というのが、この唐桑半島の突端です。

その、光太郎が通過した海。


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この日はあいにくの雨で、雷も鳴っていました。気温も19℃しかありませんでした。

せっかくですので、傘をさしつつ周囲を散策。

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御崎(おさき)神社さん。平安時代から続く古社です。例によってこの地の平安、道中安全、そして東日本大震災による津波等で亡くなった方々の鎮魂を祈願して参りました。

その後、舗装されていない遊歩道を歩いていましたら、灯台の手前の道の真ん中に何やら黒っぽい塊。はじめは切り株が転がっているのかと思ったのですが、近づいてみると……。

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とっさのことでしたし、肉薄までは出来なかったため画像が不鮮明で申し訳ありませんが、何とまあ、ニホンカモシカの親子でした。久々に野生のそれと遭遇し、さすがに驚きました。こんな海辺にも生息しているのですね。熊でなくて良かったとも思いました(笑)。

その後、愛車を気仙沼市街に向けました。

紀行文「三陸廻り」、気仙沼の項で、光太郎が訪れた場所が何ヶ所か挙げられており、この際、そちらも見ておこうと思った次第です。20年前に唐桑の歌碑を見に来た際には、市街は廻りませんでしたので。

光太郎が降り立った気仙沼港。やはり津波の爪痕が少し残っています。

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近くに、光太郎が訪れた前年の昭和5年(1940)、大阪毎日新聞、東京日日新聞主催 、鉄道省後援で選定された全国百ヵ所の景勝地・日本百景の碑があるはずですが、雨でしたし、パス。光太郎は「海の見晴らしにゆけば日本百景当選の巨大な花崗石の記念碑があり」と書いています。

右上は市街三日町にある少林寺さん。やはり「三陸廻り」で「少林寺の焼あとにゆけば託児所で子供が鳩ぽつぽを踊つて居り」の記述があります。「焼けあと」とあるのは、昭和4年(1929)に、約1,000戸が焼失したという気仙沼大火によると思われます。

北野神社さん。気仙沼駅にほど近い、新町(あらまち)という地区です。

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ここの一角に、自在庵という庵があったそうで、光太郎はこう書き記しています。

此日小高い山腹の曹洞宗木食上人道場自在庵を訪ふ。洒脱な住職が慧海師将来の西蔵チベツト仏などを見せてくれた。「私は山形の画かきでありますがごらん下さい。お志があれば紙代でよろしい」と突然縁がはに軸をひろげた人がある。住職は、「此寺は貧乏寺でな、お盆前では御交際も出来ません、お盆にでもなれば何ぼか貰ひがありませうが」と断つてゐる。画家は又軸を包んで横に背負ひ「御縁があつたらまた」といつてとぼとぼ山を下りて行く。

「慧海師」は河口慧海、光太郎、そして光太郎の父・光雲とも交流のあった僧です。

その自在庵の跡地。北野神社さんの宮司さんとおぼしき方が、ご案内下さいました。その方によれば一昨年くらいまで建物が現存していたそうなのですが、惜しいことをしました。

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こうして気仙沼を後にし、千葉の自宅兼事務所へ。気仙沼から自宅近くまで高速道路で帰れてしまうようになり、便利な世の中になったものだと思いました。

紀行文「三陸廻り」は、気仙沼の後、釜石、宮古と続きます。釜石も20年ほど前にお邪魔しましたが、改めて、また、宮古には行ったことがないので、それぞれ機会を見て、光太郎の足跡をたどってみようと思っております。

以上、宮城レポートを終わります。


【折々のことば・光太郎】

人は野をおもひ山をおもふ    短句揮毫 戦後

花巻高村光太郎記念館さん所蔵の、佐藤隆房医師筆の画に対する画讃です。「海をおもひ」の一語も付け加えたいものです(笑)。

8月9日(金)に行われた、第28回女川光太郎祭の前に、会場のまちなか交流館さん付近あちこちを廻りました。女川町の現状ということで、ご紹介します。

朝6時、起床。宿泊先のトレーラーハウス・エルファロさんでの朝食前に、まず元の海岸公園にある光太郎文学碑を見に行きました。

1年ぶりでしたが、1年前と同じ状況。しかし、その後、昨日も書きましたが、女川光太郎祭の中で、須田善明町長が来年の今頃には再建されているかもしれないとおっしゃって下さいました。

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宿に戻って朝食。続いて宿に隣接するJR石巻線女川駅の駅舎に併設された入浴施設、女川温泉ゆぽっぽさんへ。エルファロさんの部屋にもユニットバスがあるのですが、やはりゆったり足をのばしたいもので。

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ここの2階がゆぽっぽさんです。

展望テラスから見た駅前の街並み。

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昨年は入る機会を逸していましたので、2年ぶりでした。

帰りがけ、1階の売店で、書籍を購入。仙台の株式会社プレスアートさんが今年3月に発行なさった『女川 復幸の教科書』(定価1,000円+税)。A4サイズより一回り大きい、100ページほどのムックです。

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東日本大震災から8年間の、女川町「復幸」(「復興」ではないそうで)の歩みをメインとしていまして、興味深く拝読しました。巻頭近くの「女川ヒストリー」という項では、光太郎の女川訪問に触れて下さっていました。また、光太郎文学碑の精神を受け継いで、100円募金で資金を集め、建立され続けている「いのちの石碑」についての記事、女川光太郎祭を主催されている女川光太郎の会の佐々木英子さんのお店、佐々木釣具店の紹介なども。あの津波で亡くなった、元女川光太郎の会事務局長・貝(佐々木)廣さんの名も。

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女川駅構内には、新たな碑も建っていました。今年三月の建立だそうで。

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碑陰記に拠れば、周辺の造成工事の完了を記念してのもののようです。

つづいて、新築の町役場へ。

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上の画像でいうと右上、テラス的な一角には、昨年の9月、東日本大震災で亡くなった方々への慰霊碑が建立されています。

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当時の町民の約1割にも達した犠牲者全員の名が刻まれています。貝(佐々木)廣さんの名も。右下は女川光太郎祭会場に飾られた遺影です。

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役場の建物の中に、女川つながる図書館さんがあり、そちらへ。

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こちらでは、ミニ展示「詩人・彫刻家高村光太郎と女川」が開催中です。光太郎の著書や、当会顧問・北川太一先生のご著書などが並んでいました。

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こちら自体に所蔵のないものは、県立図書館さんから借りてこられたようでした。

光太郎がこの地を訪れた昭和6年(1931)頃の古写真もあり、興味深く拝見しました。

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この魚市場の光景を見て、文学碑にも刻まれた詩「よしきり鮫」(昭和12年=1937)が執筆されたわけです。

    よしきり鮫

 眼をあけて死んでゐる君もうろくづ。
 女川(をながは)の水揚場に真珠いろの腹はぬらりと光る。
 どうしても君の口は女のももをくはへるやうに出来てゐる。
 難破船をかぎつけると君はひらりとからだをひるがへし、
 倒さになつてそれは愛撫に似たすれちがひに018
 やはらかな女のももをぐいともぎる。
 君の鋸歯は骨を切る。
 君は脂肪でぎらぎらする。
 君の鰭は広東港へ高價で売られ、
 君の駄肉はかまぼことなる。
 くひちぎる事の快さを知るものは、
 君の不思議な魅力ある隠れた口に
 総毛だつやうな慾情を感じて見つめる、
 このコンクリートの水揚場の朝河岸に
 からころとやつて来る浴衣がけのあの餌(えさ)どもを。


「うろくづ」は魚を表す古語です。故・貝(佐々木)廣さん、高校時代にこの詩に出会い、「うろくづ」の意味が分からず、先生に訊いたそうです。すると訊かれた先生もご存じなかったようで「うろつく、の間違いじゃないのか」とのたまったとのこと。貝(佐々木)さん、「そんなわきゃないだろう」とご自分で調べ、それが光太郎にのめり込む一つのきっかけだったと、生前におっしゃっていました。

画像は昭和6年(1931)、新聞『時事新報』に連載された光太郎の紀行文「三陸廻り」に添えられた光太郎自筆のカット。「女川のしミ」と題されています。「しミ」は「しび」で、「鮪」。マグロ類のやはり古称です。

地方紙『石巻かほく』さんに、「詩人・彫刻家高村光太郎と女川」展の記事が出ています。 

女川と光太郎の関わり紹介 13日まで特別展

 女川町とゆかりが深い高村光太郎(1883~1956)にちなんだ特別展「詩人・彫刻家高村光太郎と女川~えにしをつなごう」が7日、町生涯学習センター内にある「女川つながる図書館」で始まった。
 光太郎が1931年に女川を訪れてから今年で88年目を迎える。「光太郎と女川との関わりを多くの人に知ってもらおう」と、今回初めて企画した。
 国語の教科書に掲載されるなど有名な「道程」の復刻版や「智恵子抄」をはじめ、1920年発刊の光太郎訳「續 ロダンの言葉」、光太郎と女川の関わりを分かりやすく知ることができる「光太郎 智恵子 うつくしきもの」(光太郎・北川太一著)など関連著作約40点を展示した。
 来場者には1931年前後の女川の様子を頭に浮かべてもらうため、当時の女川港やカツオ船の水揚げ風景といった白黒写真も飾り、来場者の関心を集めている。希望者がいれば、折り紙でのしおり作りや、「道程」「レモン哀歌」の朗読なども行う。
 図書館で同級生2人と簿記の勉強をしていた石巻商高1年の男子生徒(16)は「高村光太郎という名は正直知らなかった。これから勉強したい」と話し、著作物などを見ていた。
 町教委生涯学習課の社会教育指導員加納純一郎さんは「大人でも光太郎と女川との関わりを知っている人は意外と少ない」と説明。町民のほか、光太郎、文学ファンの来場を呼び掛けている。
 特別展は13日まで。時間は月~金が午前10時から午後8時まで。土日祝日は午後5時まで。入場無料。
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その後、まちなか交流館さんへ移動、第28回女川光太郎祭に参加させていただきまして、昨日のレポートの内容につながります。

明日は、翌日、女川を後に訪れた同じ宮城県の気仙沼レポートをお届けいたします。


【折々のことば・光太郎】

死を超えて人大なり      短句揮毫 戦後

津波に呑み込まれて亡くなり、しかしそのご遺徳を慕って今も女川に人々を集め続ける貝(佐々木)廣さんを思わずにいられない一言です。

昭和6年(1931)8月9日、新聞『時事新報』の依頼で紀行文を執筆するため、光太郎は東京本郷区の自宅兼アトリエを出、約1ヶ月の三陸旅行に発ちました。10月に発表された紀行文には石巻、金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古といったあたりの様子が描かれています。

それを記念して、毎年8月9日には、女川光太郎祭が開催されており、今年で28回目となりました。このところ、毎年、記念講演の講師を仰せつかっており、今年も行って参りました。

会場は、JR石巻線女川駅前の商業施設シーパルピア内のまちなか交流館さん。

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県内外から多くの方々がお集まり下さいました。

最初に当方の講演。光太郎という人物の生涯を細かにたどるため、昭和22年(1947)に自らの生涯を振り返って書かれた連作詩「暗愚小伝」をもとに、連続講演の形で行わせていただいており、とりあえず今年がその最後、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活を中心に語らせていただきました。来年は「「暗愚小伝」その後」というわけで、最晩年、そして光太郎の死のあたりを扱う予定です。

その後、メインの行事。女川光太郎の会・須田勘太郎会長のご挨拶に続き、光太郎遺影、かつて海岸公園に立っていた光太郎文学碑の写真(今年・新しいパネルに代えられました)に献花。

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その後、県内外の皆さんによる、光太郎紀行文や詩の朗読。

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女川町長・須田善明氏の祝辞。須田町長、久々においで下さいました。

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まだ確定でない、と前置きされつつ、来年の今頃には、かつての海岸公園一帯をメモリアルゾーンとして整備する事業が終わる予定で、倒壊したままの光太郎文学碑も再建される見通し、とおっしゃっていました。

ちなみに現状、こんな感じです。

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すぐ近くの旧女川交番の方は、基礎部分の工事にかかっているようでした。

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その後、ギタリスト・宮川菊佳氏の演奏。宮川氏、詩の朗読の際にBGM演奏も為されていました。

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オペラ歌手・本宮寛子さんの歌。本宮さんは、光太郎文学碑が建てられた平成3年(1991)に女川で開催されたオペラ智恵子抄(仙道作三氏作曲)の公演で、智恵子役をなさった方です。

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最後に、東日本大震災の津波で亡くなった女川光太郎の会事務局長・貝(佐々木)廣氏の奥様、英子さんのご挨拶。

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終了後は、まちなか交流館さんにほど近い金華楼さんで懇親会。

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一年ぶりにお会いする方々と久闊を叙し、また、盛岡のご出身で、旧太田村の蟄居時代に光太郎がたびたび足を運んだ温泉などにもよく行かれたという方、当会顧問の北川太一先生をご存じの方など、初参加という皆さんともいろいろお話をさせていただきました。こうやって人の輪が広がっていくのだな、と実感させれられました。

毎年書いておりますが、永続的に続いて欲しいものです。

明日は女川町内各所のレポートを。


【折々のことば・光太郎】007

うつくし かぐはし ほほゑまし  

  短句揮毫 昭和25年(1950) 光太郎68歳

花巻郊外旧太田村で隠棲していた光太郎、時折、県都盛岡に出ることがあり、その際には「天よし」という飲み屋に立ち寄ることが多く、そこのマダム・たみ子さんに贈った書です。「天よし」の店名も光太郎の命名だったそうです。


マダムたみ子が長唄の免状を手にした祝いということで、「し」の字は三味線の糸を表し、長く書いたとのこと。粋な計らいですね。

女川光太郎祭で、小学生の詩の朗読もありまして「ほほゑまし」く拝聴しました。

今日、8月9日は、昭和6年(1931 )、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くため、光太郎が東京を発った日です。それを記念して、毎年8月9日には「女川光太郎祭」が開催されています。
毎年、記念講演を仰せつかっているもので、昨夜から女川に来ております。

宿泊は例年通り、女川駅裏のトレーラーハウス・エルファロさん。

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女川光太郎祭が午後2時からなので、午前中、町役場敷地内の女川つながる図書館さんでのミニ展示を拝見。

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その後、光太郎祭会場のまちなか交流館さんに入りまして、この記事を書いております。

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詳しくは明日、帰りましてからレポートいたします。

昨日に引き続き、宮城県女川町からイベント情報です。 

第28回女川光太郎祭

期 日 : 2019年8月9日(金)
時 間 : 午後2:00~
場 所 : 女川町まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川浜字大原1-36
料 金 : 無料
問い合わせ : 
   女川光太郎の会事務局 佐々木英子
   〒986-2243 宮城県牡鹿郡女川町鷲神浜字内山3-1NI・1街区2 桜ヶ丘東住宅404
   090-6686-7811 
内  容 : 
 献花
 光太郎紀行文、詩などの朗読
 アトラクション演奏 オペラ歌手 本宮寛子  ギター奏者 宮川菊佳 
 講演 「高村光太郎、その生の軌跡 ―連作詩「暗愚小伝」をめぐって⑦―」
     高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
 終了後 懇親会

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昭和6年(1931)、光太郎が三陸一体を旅した一環で立ち寄った宮城県牡鹿郡女川町。それを記念して、平成3年(1991)、当時の女川港に面した海浜公園に巨大な光太郎文学碑が建立され、さらに翌年から始まった女川光太郎祭。その後、東日本大震災による津波で甚大な被害を受けた平成23年(2011)も含め、毎年開催されています。今年は文治堂書店さんが自社のPR誌『トンボ』第8号に案内を掲載して下さいました(上記画像)。

昨年までの様子はこちら。


ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

生活も不便とはいへ、まづ正常の状態で進んでゐて、決して極端なまねはして居りません。蛇や蛙やバツタを食べて生きてゐるのではありません。

雑纂「太田村の便り」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

一方で、翌年行われた座談会では、蛙を食べたことや、蛇も食べようと思ったものの歯が悪いのでやめたという発言をしています。バッタについては他では言及されていません(長野県民ではありませんし(笑))。

蛙に関しては、明治末のパリ留学時代にフランス料理として食べていたので、あまり抵抗はなかったのでしょう。しかし、だからといって、それを常食にしていたわけではないということですね。

毎年、女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町で、新たな取り組みです。

詩人・彫刻家高村光太郎と女川

期    日 : 2019年8月7日(水)~13日(火)
時    間 : 平日 10:00~20:00  土日祝 10:00~17:00
会    場 : 女川つながる図書館 女川町生涯学習センター内 
          宮城県牡鹿郡女川町女川浜字女川178番地 KK-8街区1画地
料    金 : 無料

女川つながる図書館(女川町生涯学習センター内)にて特別展「詩人・彫刻家高村光太郎と女川」が開催されます。 図書館の館内を使った小さな展示会です。 昭和6年に高村光太郎が女川を訪れ、書いた作品や訪問当時の女川の様子の写真などを中心に、関連書籍の紹介や、しおりなどの手作り体験、朗読等を予定。 入館無料 お気軽にお立ち寄りください。

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8月9日(金)に女川光太郎祭が開催されるということで、それに合わせてのミニ展示的なもののようです。

女川光太郎祭では、当方、毎年、講演をおおせつかっておりまして、今年もやらせていただきます(詳細は明日のこのブログで)。そちらの会場は、女川駅前のショッピングモール・シーパルピア内のまちなか交流館さんですが、今回の展示は生涯学習センター内のつながる図書館さんだそうで、住所で調べましたところ、町役場の敷地内のようです。まちなか交流館さんとつながる図書館さん、徒歩数分といったところでしょう。

のちほどレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

今年の冬は旧臘以来肋間神経痛といふものに悩まされてゐて、一切が停頓状態です。中々厄介な病気で、痛みばかりでなく、呼吸にも影響します。ホルモン不足から来る老年病と考へられて、何んだかをかしいやうですが、今年の山の厳寒にも関係があるでせう。春暖の候になれば、自然治癒することと思つてゐます。

雑纂「生成言」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での生活も5年が過ぎ、光太郎の病状、「ホルモン不足から来る老人病」といったそんな軽いものでなく、結核性の重いもので、結局、それが原因で亡くなります。重篤なものであるという自覚はあったはずですが、このように対外的にはかたくなに肋間神経痛で押し通しました。離れて暮らす弟妹の家族、東京方面の旧友たちに心配をかけたくないという気持ちと、彼等により無理矢理にでも山小屋生活を中止させられてしまうのではないか、という危惧もあったかと思われます。

先週のテレビ朝日さん系列のニュースから。

災害の教訓活かせ! 13年ぶり「地図記号」で減災へ

 どこにどんな施設があるかなどを地図上に示す「地図記号」。現在、130種類以上もあるが、今回、13年ぶりに新たな地図記号が制定された。そのきっかけとなったのは1年前のあの災害だった。
 地図記号を定める国土地理院はなぜ新たな記号を誕生させたのか。自然災害伝承碑。過去に起きた地震や津波など自然災害の教訓を後世に伝えるためのものだ。
 1年前、300人近くが亡くなった西日本豪雨。被害の大きかった広島県坂町には約100年前の水害を伝える石碑があったのだが、存在を知らない住民も多かったという。ウェブ上にはすでに180基以上の情報が載っている。
 9月からは紙の地図にも順次、反映していくといい、その数も増えていく見込みだ。なかには、宮城県女川町のいのちの石碑。東日本大震災の教訓を伝えようと当時、小学生だった地元の有志が町内に設置した。この石碑も記号となり、今後、地図に掲載されていく予定だ。

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そして、昭和6年(1931)に紀行文執筆のため光太郎が訪れ、それを記念して光太郎文学碑を建立、さらに毎年女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町に建てられ続けている、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」。

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実際に国土地理院さんの当該ページを覗いてみました。

残念ながら、女川町に関してはまだ情報が登録されていませんでしたが、隣接する石巻市の部分では既にアップされています。

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昭和8年(1933)の昭和三陸大津波、そして平成23年(2011)の東日本大震災。

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まさしく「温故知新」。大切なことだと思います。


【折々のことば・光太郎】

芸術の郷土性と世界性との関係には実に汲めどもつきぬ妙味があります。

雑纂「岩手県立美術工芸学校第一回卒業式祝辞」より
 
昭和26年(1951) 光太郎69歳

生粋のパリジャンだったロダンに対し、フランス南部モントーバンの出身であるブールデルを引き合いに出し、ロダンの都会芸術とは別種の風を吹き込んだことを紹介してからの流れです。

昨日のこの項で紹介した、同じ岩手県立美術工芸学校の開校式祝辞(昭和23年=1948)では、岩手に新渡戸稲造や石川啄木、宮沢賢治などの稀有な才能が排出したことにもふれています。

たびたびこのブログにてご紹介させていただいております、宮城県女川町の「いのちの石碑」関連です。東日本大震災後、当時の女川第一中学校の生徒たちが、「1000年後の命を守るために」を合い言葉に、町内21ヶ所の津波到達地点より高い場所へランドマークとなる石碑の建立を計画。かつて光太郎碑が「100円募金」で建てられたことに倣い、建設資金1,000万円を本当に募金で集めました。それが「いのちの石碑」です。
会    場 : 仙台市シルバーセンター 交流ホール
                                 宮城県仙台市青葉区花京院1丁目3番2号
時    間 : 13:20~15:40
料    金 : 無料

内容 : シンポジウム「守りたい、子どもたちの未来」
それぞれの立場で命の大切さを語り継いでいる方々から、現在の活動内容や未来を生きる子どもたちへの
メッセージを伝えてもらいます。当日は関連書籍やグッズ販売も予定しています。
 パネリスト :   ① 佐藤敏郎さん(元中学校教諭)
           ② 丹野祐子さん(閖上中学校遺族会代表)
           ③ 「女川いのちの石碑」活動に従事した渡邊滉大さん
           ④ 谷口光さん(日本ユニセフ協会職員)
 コーディネーター : 渡辺祥子さん(アナウンサー、朗読家)

募集 : 300名 事前のお申し込みをお願いします
申し込み : 宮城県ユニセフ協会
     電話 022-218-5358 FAX 022-218-3663
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活動開始当時、中学生だった少年少女達は、今年、成人式を迎えました。そしてやはり今年、NHK BSプレミアムさんでは、平祐奈さん主演のスペシャルドラマ「女川 いのちの坂道」が放映され、「いのちの石碑」が取り上げられました。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

わたしは、山の生活で、彫刻はやらないことにきめました。やりたいと思つていてやらないのは神経にさわつていけないし、小屋の状態や時候から考えても彫刻をすることは無理だと思つて、はつきりとつてしまつたのです。

談話筆記「南沢座談」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

終戦直後から丸七年の、花巻郊外旧太田村での蟄居生活を回顧して語った一節です。

「時候」の一語には、戦時中、大量に書き殴った翼賛詩により、多くの前途有為な若者を死に追いやった反省からくる「自己流謫(るたく)」――「流謫」は「流罪」に同じ――中であったという意味合いが込められているように思われます。

明日はその旧太田村に移り住む前に疎開していた旧花巻町に向けて東京を発った日で、それを記念して花巻では毎年、高村祭が催されています。当方、今日から前乗りします。

4月2日、光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。東京日比谷公園松本楼さんでは、当会主催の連翹忌の集いを行いますが、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻でも、花巻としての連翹忌を開催して下さっています。また、当日、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内の「雪白く積めり」詩碑前では、地元の皆さんによる光太郎詩朗読などの「詩碑前祭」も。

今年も花巻市さんの広報紙『広報はなまき』3月15日号に案内が出ました。

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お近くの方はぜひそちらにご参加下さい。


【折々のことば・光太郎】

余事ながら、腰掛けの仕事卓に使ふ回転椅子は昔パリの百貨店ボンマルシエで買つて来た仕入物であるが、実に丈夫でまだ何ともなつていない。別に高価な品ではないのだが、金物などの作り方が丁寧親切に出来てゐるには感心する。螺旋で上下し、回転軸は別にあり、ばねで後ろへ傾くやうになつてゐる。
散文「三十年来の常用卓」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

欅の板で自作した仕事机に関する散文の末尾の部分です。自作の仕事机は天板が台形で、体の正面に当たる部分が斜めに切ってあって、左の方が手前に張り出し、肘を載せられるようになっている作りで、これが甚だ使いやすいとのこと。たまたまそういう形の板があったのでそのようにしてみたそうです。

それとセットの椅子は、明治末の留学時にパリで購入した物を持ち帰ったそうで、記述を読むと現代ではごくあたりまえの事務椅子のようですが、当時としては珍しいものだったようです。他の文章等でもこの椅子についての記述があり、やはり高級品でなくともしっかりした作りであることに感心したと述べています。

昨日は3.11。あれからもう8年経つかという感じです。

8年前のあの日、宮城県女川町では、当時、女川光太郎の会事務局長だった貝(佐々木)廣氏が、津波に呑み込まれて亡くなりました。昭和6年(1931)、光太郎が紀行文「三陸廻り」執筆のため、女川を訪れたことを記念し、画家でもあった貝氏が中心となり、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、光太郎文学碑が建てられました。以来、やはり貝氏が音頭を取って、毎年8月9日(光太郎が三陸に向けて東京を発った日)に、女川光太郎祭が開催されることとなり、貝氏歿後は奥様の英子さんが世話役を引き継いで、現在も続いています。

東日本大震災後、当時の女川第一中学校の生徒たちが、「1000年後の命を守るために」を合い言葉に、町内21ヶ所の津波到達地点より高い場所へランドマークとなる石碑の建立を計画。かつて光太郎碑が「100円募金」で建てられたことに倣い、建設資金1,000万円を本当に募金で集めました。それが「いのちの石碑」です。

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昨日は、テレビ朝日系のニュースで「いのちの石碑」プロジェクトを進めるかつての中学生たち――「女川1000年後のいのちを守る会」が取り上げられました。

石碑と教科書に思いを…林キャスターが見た被災地

 東日本大震災から8年の月日が経った。亡くなられた人は去年から2人増え、1万5897人に。行方不明者は6人減り、2533人に。そして、いまだに5万1778人もの人が全国で避難生活を続けている。宮城県女川町では被災当時小学生だった子どもたちが20歳となり、あの日、体験したことを「1000年先まで伝えよう」と活動を続けている。
  津波到達地点よりも高い場所に設置されている「女川いのちの石碑」。現在、17基が町内に設置されている。すべての石碑の裏面には外国語の記述も。これらの石碑を建てる活動は震災当時、小学6年生だった若い人たちによって進められている。そのメンバーの渡辺滉大さん(20)と鈴木智博さん(19)。2人とも今年、成人式を迎えた大学生だ。800人以上が犠牲となった宮城県女川町。震災直後の春に中学校に入学した彼らは、社会科の授業をきっかけに1000年後の命を守るため、津波の教訓を記した石碑を設置するプロジェクトを立ち上げた。1基目の石碑は中学3年生になった2013年秋に設置することができた。石碑は町内21カ所に設置する予定で、これまでに17基が完成。残りの4つは来年の秋ごろまでに設置する見込みだ。命を守るため、津波からの避難を呼び掛ける石碑づくりは、まさに子どもたちが主役となって進められてきた。
  そして、次に取り組んだのは「いのちの教科書」作りだ。中学卒業後、「女川1000年後のいのちを守る会」を発足した彼ら。進学や就職などそれぞれの道を歩みながらも定期的に集まって震災への備えを学習する教材作りも進めてきた。この教科書、いずれは英訳して津波の多い東南アジアなどにこの教訓を伝えたいと考えているそうだ。1000年後のいのちを守る会では全国の学校などでの講演も行っている。今月も渡辺さんは母校の後輩たちに向けて震災当時の体験談や継続している活動の意義などを語った。

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過去の映像も織り交ぜ、さらに石碑以外にも彼等が取り組んだ「いのちの教科書」にも触れられました。


昨日、女川で行われた追悼式では、テレ朝のニュースにも出演された鈴木智博さんが「遺族代表のことば」を述べられました。

 東日本大震災から今日で8年を迎えます。この8年を長いと感じる方も短いと感じる方もいるでしょう。私にとって8年はあっという間だったと思います。8年前、私は小学6年生で卒業式の練習を終え教室で反省会をしていました。その時震災にあいました。経験したことない地震の揺れ。そして津波によって壊滅した街を眺め、頭で理解できずただただぼう然としていたのを覚えています。母と祖父母の行方が分からないことを教えられたのはそれから約1週間後のことでした。涙もほとんど出ず、顔では笑っているのに心から笑うことができませんでした。
 私は中学時代の同級生とともに「1000年後のいのちを守るために」を合言葉に、震災を未来へ伝えていく活動を行っています。町民どうしで絆を持つ。避難がしやすい安全な街を創る。いのちの教科書や石碑をつくり後の時代に伝える。この3つで津波の被害を減らし、1000年後を生きる人たちが辛い想いをしないようにすることを目標にしています。ですが活動が始まった当初、震災を思い出すのが嫌で、進んで参加しようとは思いませんでした。ましてや自分の体験を人の前で話すことなど考えたくもありませんでした。ですが必死に活動に取り組む同級生たちや、他の地域で震災関連の活動をする同世代の人たちを見て少しずつ、自分も向き合わなければいけない。また何かできることがあるのではないかと思うようになりました。ですがまだ完全に震災を受け止められていません。いろんな 想 いを持って、葛藤もありますが現在も活動を続けています。
 避難先や仮設住宅で5年半を過ごし、今は県内の大学で教職について学んでいます。そして今年成人式を迎えることができました。式の前にお墓参りに行き成人式の事を伝えました。きっと喜んでいると思います。女川町の新成人として責任をもって震災を伝えていきたいと思います。
 平成という時代が幕を閉じ、新しい時代になろうとしている今、震災前に住んでいた尾浦、そして女川の町は復興が進み、あの時とは見違えるほどきれいになりました。サンマ祭りや復幸祭などの大きなイベントには全国から観光客が訪れ、大きなにぎわいをみせています。
 ただ、震災の風化も進んでいます。今年震災を経験していない子どもたちが小学2年生になります。このまま何もしなければ震災の記憶や教訓は忘れ去られ、あの時の繰り返しになってしまいます。だから直接関係のない人も映像で津波を見るだけではなく、実際にあった現実として、見て、聞いて、感じて自分でいのちを守る意識をもってもらいたいです。
 私たちが建てた女川いのちの石碑にはこう刻まれています。
 今、女川町はどうなっていますか?
 悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています。
 私は震災から立ち直るこの町の一員として震災を語り継ぎ、これからも自分の体験と向き合っていきたいと思います。
 平成31年 3月11日 遺族代表 鈴木智博


彼らへの支援は今でもあちこちで……。

3月7日(木)の『中日新聞』さん。

3・11の経験を基に絵画展 宮城から田原に移住の山本さん

015 東日本大震災で被災し田原市に移住した学校職員、山本美貴子さん(41)と、移住後に再婚した夫の画家、拓也さん(47)によるチャリティー展覧会「3.11 HOPE MARKET」が豊橋市曙町南松原の園芸店「garage(ガレージ)」で開かれている。三十一日まで。
 美貴子さんは震災の発生時、長男と宮城県女川町で二人暮らし。隣の石巻市の職場にいた美貴子さんは近くの高台の神社に避難し、水に囲まれて一晩を明かした。がれきや遺体をかきわけて女川に戻ったのは三日後。美貴子さんは女川へ向かいながら、家族の死を覚悟した。家族は幸いにも無事だったが、「三十人の友人を亡くした」。
 一年ほど避難所や仮設住宅を転々とした。しかし、大切な人を亡くした女川で暮らしつづける苦しみが募り、震災翌年の二〇一二年四月に転居。「どこでもよかったけれど、海で育ったから海のない場所での生活が考えられなかった」と田原を選んだ。
 田原市への移住後、女川でテント暮らしだった時にボランティアとして物資を手渡してくれた拓也さんと夏のアートイベントで再会。共通の趣味のサーフィンなどで愛を深め、一七年三月十一日に入籍した。
 美貴子さんは、被災経験を基に制作した作品を中心に新作の絵画六点を出展。家や車がキャラクターの上にのっている作品は、津波にさらわれた地を表現。月日がたって花が咲いた様子も同時に描き、「津波は憎たらしいけれど、私たちは自然の中で生きてるんだ」との思いを込めた。
 コーヒーを使ってセピア調に仕上げられているのも作品の特長。「故郷では津波とともに古くていいものがなくなってしまったように感じる。セピアに描くのは、古いものへのあこがれかも」と話す。
 会場には過去作のポストカードやポスターも。一方、「シルクスクリーン」と呼ばれる印刷技法を用いたオリジナルデザインのTシャツやトレーナー、かばんやタオルなど、拓也さんの作品も並ぶ。
 二人は「震災は風化しつつあるが、南海トラフ地震だっていつくるか分からない。展覧会をきっかけに、どう逃げるか、どこで落ち合うのかなど、自分たちの防災を家族で話してもらえたらうれしいです」と口をそろえる。
 展覧会は午前十時~午後七時、最終日は午後三時まで。木曜定休。作品を販売し、その売り上げから経費を差し引いた全額を、津波到達地点に石碑を置き後世に伝える女川町の「いのちの石碑プロジェクト」などに寄付する。

山本さんの件は、一昨年にも報道されていました。


同じ『中日新聞』さんで、今日の記事。

いのちの石碑 伝えたい 津波の教訓 女川中生刻む 白山・蕪城小教諭が授業企画

016 東日本大震災で被災した宮城県女川町の女川中学校で始まった「いのちの石碑プロジェクト」について考えてもらおうと、白山市蕪城小学校の内野貴司教諭(29)が、大震災が起きた十一日、五年生の社会科授業で取り上げた。児童約三十人が石碑を造った被災者の思いに寄り添い、次世代に残す大切さを学んだ。
 プロジェクトは、「千年後の命を守る」をテーマに当時の女川中学の一年生が震災の教訓を記した「いのちの石碑」を町内二十一の浜に建てる活動。「もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」など、それぞれの石碑には教訓や被災者の思いをつづった俳句が刻まれている。
 内野教諭は昨年八月、女川中や、津波で多くの児童が犠牲になり、閉校した同県石巻市の大川小学校の校舎跡を訪れた。女川中の元教諭で、小六の次女を大川小で亡くした佐藤敏郎さん=石巻市=らと交流した。内野教諭は同じ悲劇が繰り返さないよう石碑を建てる女川中の活動を児童に伝えようと授業を企画した。
 内野教諭が「女川中の生徒はどんな思いで石碑を造ったのか」と呼び掛けると、児童は次々に手を挙げて「将来、震災を知らない人にも思い出してもらえる」「生き残った人の気持ちは壊れていないと思う」と意見を述べた。
 大川小を訪れたことのある横山栞菜(かんな)さん(11)は「被災地にはまだがれきも多いけど、石碑が建つことで私たちにも教訓になる」と話した。内野教諭は「家に帰って震災のニュースを目にした時に心から復興を願ってほしい。今日の授業が、被災者の思いに心を寄せるきっかけになれば」と期待を込めた。


そして、3月10日(日)にNHK BSプレミアムさんで放映されたドラマ「女川 いのちの坂道」。

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上記画像には、最初にご紹介した光太郎文学碑が写っています。「津波」の「津」の字の上です。

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こちらだと、一番下の中央やや左。周辺は「メモリアルゾーン」として整備中ですが、建立当時、日本一巨大な文学碑と言われた横幅10メートルの石碑で、津波で倒れたままとなっています。いずれ再建するとのことですが。

平祐奈さん演じる主人公・咲(さく)は、「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーという設定です。実際に彼等の担任だった阿部一彦先生は、同じく被災地を舞台にした平成25年(2013)の朝ドラ「あまちゃん」でも先生役だった皆川猿時さんが演じました。

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女川中学校のシーンでは、「いのちの石碑」に関わる、おそらく実際の掲示物が使われていました。

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しかし、咲は、「女川1000年後のいのちを守る会」の活動にあまり熱心ではないという設定。未だに母親が行方不明のまま、それが元で父親ともうまく行っておらず、ダンサーを目指して上京したものの、そちらでもなかなか芽が出ない、ということで、ネガティブな感情を持ち続けています。うまい描き方だと思いました。被災地の皆さん、ポジティブな方々がよく報道等で取り上げられますが、失礼ながら、みんながみんな前向きなわけではないというのが現実です。

特に咲をネガティブにさせている要因が、老人たちを助けるため、何度も海岸と高台を往復して、結局、津波にさらわれた母親が英雄扱いされていること。そして、その母親を止めなかった老婆。

しかし、咲は、新たな「いのちの石碑」の除幕式を兼ねた避難訓練で、かつて母親がそうしたように、その老婆を背負って坂道を上ります。

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そうしたことで、もろもろの思いを吹っ切る咲。最後は仲間と共に力強く、序幕のロープを引きます。

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NHKオンデマンドさんで配信されていますが、ぜひ、再放送もしていただきたいものです。


今後も、「女川1000年後のいのちを守る会」の動きを、こちらのブログで追っていこうと思っております。


【折々のことば・光太郎】

地中の冬がほんとに来て此の水が冷え切るのは一月だ。胸をつくやうに冷たい水道の水の出る頃こそ私の製作慾の燃えさかる戦ひの季節だ。もうぢきだ。
散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

生涯、冬を愛した光太郎。この点は残念ながら、当方、同意できません(笑)。自宅兼事務所の庭の連翹や桜の蕾がふくらんできたのを見て、「もうぢきだ」と思っています。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

昨日に引き続き、3月9日(土)、NHK BSプレミアムさんで放映されるドラマ「女川いのちの坂道」関連で。

本日発売の、『NHKステラ』さんに、紹介記事が載りました。

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もう少し大きく取り上げられるかなと思っていましたが、そうでもなく……。

しかし、ラジオを含めて、他にも東日本大震災がらみの番組がたくさん放送されるとのことで、それらの紹介がたくさん載っていました。出来る限り視聴しようと思いました。

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『NHKステラ』さん、定価300円です。ぜひお買い求め下さい。


民放さんでもこの時期、通常の報道番組中で東日本大震災がらみのコーナーを付くって下さったりしているようで、「女川いのちの坂道」で重要なモチーフとなる「いのちの石碑」について、テレビ朝日さんが取り上げて下さいました。取り上げられるという情報を得られませんで、見逃しましたが、昨日の「ワイドスクランブル」、それから今朝の「グッド!モーニング」中の「池上彰のニュース大辞典」で紹介されたとのことでした。

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また、「ザ・テレビジョン」さんのサイトには、「女川いのちの坂道」主演の平祐奈さんのインタビュー。

■ 平祐奈が東日本大震災当時の心境を語る

――東日本大震災当時、平さんは小学6年生。このドラマの主人公・咲と同い年なんですね
当時のことは、今でも覚えています。あの日は東京にいたのですが学校がちょうどお休みで、のどの調子も悪くて母と病院に行っていました。待合室で待っていたら最初は観葉植物がゆらゆら揺れて、立ち上がろうと思った瞬間に大きく揺れました。その後はどうやって1階まで降りよう、どうやって避難しようかと不安でしたね。
 地面にひびが入るのも初めて見ましたし、帰ったら家の中は誰かが入ったんじゃないかってくらい散乱していて。私は大人になれないのかも、と思うくらい怖かったです。未来が見えない感じで…。でも母と一緒だったので、すごく安心できたのを覚えています。
――当時の東日本の映像はニュースなどでご覧になっていましたか?
 衝撃的でした。私は家でテレビを見ている一方で、何で東北はこんなことになっているんだろうと。同じ時間に同じ日本にいるとは思えなかったです。
――今回は被害が大きかった女川で撮影されたんですよね?
2018年の9月に、女川にお邪魔させていただき撮影しました。女川はキレイに整備された所もありますが、海側はまだあのころのままだったり、整地したけれどそのままで何もなかったりと、7年半経ってもこんな状況なんだと思う部分と、7年半経ってやっとこうなったんだと思う部分があって、複雑な気持ちになりました。
でも今、女川で暮らしている人はそういういろんな思いを乗り越えて笑顔でいる。私たちも撮影終わりに地元のお店に行ったのですが、みなさんすごく温かったんです。明るくて気さくで。そんな姿を見ていたら、この方たちだから乗り越えられたんだなと思いました。
――モデルとなった「女川1000年後の命を守る会」の存在は知っていましたか?
 恥ずかしながら今回のドラマを通して知ったのですが、私と同い年の方がやっていることにも驚きましたね。小学6年生の時に被災して、中学生でこのプロジェクトを考える…。私にはない発想で本当に素晴らしいと思います。
 私が何かできることがあるかな?と考えた時、この活動をもっと全国に広めたいと思いました。この作品に出られたことが、いいきかっけになればいいと思います。

――色々と考えることも多かった作品だと思いますが、視聴者の方にメッセージをお願いいたします。
このドラマは、本当に多くの方に見ていただきたい作品。「女川1000年後の命を守る会」のことを知ってもらいたいし、今の女川も見てもらいたい。そして(登場する)色んな方の言葉の重みを、感じとっていただきたいです。
 被災された方にも、もちろん見てもらいたいですが、特に私と同世代の方にこそ見てもらいたいです。咲のセリフでもありましたが、8年経って「関心がない人が多くなってきている」現状もあると思います。今まで考えてこなかったことを、考えるきっかけにしていただければいいなと思います。


何度も書いていますが、かつて女川町に建っていた、昭和6年(1931)の光太郎の女川来訪を記念する「高村光太郎文学碑」――東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられたもの――の精神を受け継ぎ、費用全額を寄付で集めた「いのちの石碑」をめぐる実話を元にしたドラマ。ぜひご覧下さい。


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【折々のことば・光太郎】

生来夏に弱い体質ではあるが昨年ばかりはまるで為事が出来なかつた。為事をしたいと思ふ程なほさら虚脱を感じて意気をするのも厭に思へた。それで思ひきつて昼間は遊ぶ事、夜は読書だけといふ事にした。何も為ないと決心するといくらか楽な気持ちになつて少しは動けた。

散文「蟻と遊ぶ」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

この文章が発表された3カ月後、心を病んで南品川ゼームス坂病院に入院していた智恵子が亡くなります。直接の死因は肺結核でしたが、入院生活は昭和10年(1935)からのことで、その間、快方に向かうことのなかった智恵子を目の当たりにし続け、光太郎も精神的に疲弊していったように思われます。実際、夏の暑さに弱かった光太郎ですが、どうもそれだけでなく、抑鬱状態にあったようにも思えます。

先だってもご紹介しましたが、かつて女川町に建っていた、昭和6年(1931)の光太郎の女川来訪を記念する「高村光太郎文学碑」――東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられたもの――の精神を受け継ぎ、費用全額を寄付で集めた「いのちの石碑」をめぐる実話を元にしたドラマです。

震災復興支援にも力を入れられているNHKさんらしく、BSプレミアムでは毎日のように5分間の番宣番組が流されていましたが、一昨日の3月3日(日)には、地上波の「どーも、NHK」でも番宣がありました。

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いよいよ本放送が今週土曜日となりました(BS4Kさんではすでに先行放映がありましたが)。

ドラマ"女川 いのちの坂道"

NHK BSプレミアム 2019年3月9日(土)  22時00分~23時00分


東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県女川町。卒業間際で被災した子どもたちは「千年後のいのちを守ろう」と、あの日津波が到達した場所に『いのちの石碑』を建てる活動を続けている。ドラマはその実話をもとに今年20歳になる若者たちの今を描く。12歳で被災した咲が恋人翔太とともにたどる青春ロードムービー。ドラマの見どころは全編ドローンによるダイナミックな映像。女川の風景と咲の心をドローンカメラがとらえる!
■あらすじ
 咲(サク)は、「いのちの石碑」活動の中心メンバーだったが、地元の高校を卒業と同時に、ダンサーになる夢をかなえるため、上京して1年半になる。映像作家を目指す彼(翔太)もできて、新しい一歩を踏み出したつもりだったが、偏見の目でみられることを恐れ、自分が被災者であること、母親が未だに行方不明であること…を翔太にも打ち明けられず、生きづらさを感じていた。
 咲は、もう一度故郷と向き合ってみようと、ドローンカメラを携えた翔太と共に女川への旅を決意する。「この道を登って避難した」「この体育館で、眠れない夜を過ごした」…ふたたび“あの日”をたどることで、咲は自分自身の原点と向き合うことになる。そして、町の人々と共に石碑まで登る避難訓練の中、「いのちのつながり」を確信していく。

出演  平祐奈 平埜生成 岡本夏美 皆川猿時 田根楽子 ほか

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ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

人はむかし海から出て来た。海にかへると本能は強く深い。浪に研がれた肌をひるがへして、海の獲物を手づかみにする時、自分のものを自分が取る我を忘れたよろこびに人は身ぶるひする。漁撈は最も根源的な生業だ。

散文「漁」全文 昭和13年(1938) 光太郎56歳

島国で、海と共に生きてきた我々日本人。時に牙を剥くこの海と、これからも共生していかねばなりません。

巨大防潮堤。力学上、垂直に近い壁を立てることは不可能で、高さの2倍から3倍の幅で、断面が三角形のスロープにする必要があるそうです。震災後、女川町ではそれを造るという選択をしませんでした。代わりに居住区域はすべて高台にし、海岸近くは事業所や商業施設としています。

昨日の第27回女川光太郎祭を終え、先ほど、千葉の自宅兼事務所に戻りました。

女川に到着した一昨日は夜10時過ぎ、昨日は台風の影響でほぼ終日雨で、あまり街中を歩けませんでしたので、今朝、出発前に散歩がてらそぞろ歩き。

宿泊させていただいたトレーラーハウス、エル・ファロさん。

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すぐ隣はJR石巻線女川駅。

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駅近くに建設中の女川町新庁舎。

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駅前の皇后陛下歌碑。「春風も沿ひて走らむこの朝(あした)女川駅を始発車出(い)でぬ」。一昨年、天皇皇后両陛下が女川を訪れられた際の御詠です。

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駅前から海へと伸びるプロムナード沿いの、商業施設シーパルピアさん。

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その一番海側の地点に、きぼうの鐘。

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かつての女川駅があったあたりで、駅前のシンボルだったカリヨンの四つの鐘のうち、津波の後に一つだけ見つかったもの。震災後しばらくは、高台の仮設商店街「きぼうの鐘商店街」(かつての女川光太郎祭会場)に置かれていましたが、そちらが閉鎖となり、元の位置に移転しました。


その「きぼうの鐘商店街」にあった佐々木釣具店さん(右)。女川光太郎の会の中心メンバー、佐々木英子さん(津波でなくなった故・貝廣氏夫人)のお店です。

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左はこの3年、女川光太郎祭終了後の懇親会で使われている金華楼さん。


そして、あの日、牙を剥いた海。

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台風の余波でまだ波が高かったのですが、多くの漁船が次々と出航していくところでした。


倒壊した旧女川交番。震災遺構として保存が決まっています。

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そして光太郎文学碑。

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1日も早く、またこの碑が再び建てられることを願ってやみません。


この碑の精神を受け継いで建てられた「いのちの石碑」。帰りがけに撮影しました。

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復興のトップランナーと称され、新しい街として生まれ変わりつつある女川。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩精神とは事物の中心に直入する精神である。事物の関係を極限の単位に追ひつめて、その実相を爬羅剔抉し、更に翻つて新を生む精神である。詩精神が言葉に純粋にあらはれれば詩となり、造型に形をとれば美術一般となり、音波に乗れば音楽となる。およそ詩精神を欠く時、これら諸芸術は碌々たる美の形骸に過ぎない。

散文「詩精神」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

都市計画にも言えることかもしれません。復興進む女川町を見て、そう思いました。ぜひとも女川には詩精神あふれる街となっていってほしいものです。

今日は第27 回女川光太郎祭でした。雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ台風13号ニモ負ケズ(笑)、昨夜遅くに宮城県女川町に着きました。
宿泊は例年どおり、女川駅裏のトレーラーハウス、エル・ファロさん。

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光太郎祭会場は駅前商業施設シーパルピアさんの一角にあるまちなか交流館さん。

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すぐ先は海で、平成3年(1995)に建立され、先の東日本大震災で倒壊した光太郎文学碑がある場所です。昭和6年(1931 )、紀行文執筆のため光太郎が女川を訪れたことを記念する碑でした。

周辺はメモリアルゾーンとして整備中。碑はまだ倒れたままです。

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さて、光太郎祭。午後2時スタート。はじめに東日本日本大震災犠牲者(当時女川光太郎の会事務局長だった貝廣氏を含め)への黙祷。その後、光太郎の生涯を追う形で毎年続けている当方の講演。

そして女川町内外の皆さんによる献花、光太郎詩文の朗読。

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朗読の際にはクラシックギタリスト宮川菊佳氏がBGMを演奏してくださいました。

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オペラ歌手・本宮寛子さんの歌に続き、最後に故・貝氏夫人の英子さんのご挨拶。

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これをもちまして閉会となり、すぐ近くの中華料理店に会場を移し、懇親会。

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来年の再会を約して散会となりました。

地道な顕彰活動ですが、今後も永続的に行われてほしい、否、途切れさせてはいけないものだと思います。来年以降、広くご参加をお待ちしております。

昭和6年(1931)、光太郎が三陸一体を旅したなかで立ち寄った宮城県牡鹿郡女川町。それを記念して毎年開催されている女川光太郎祭が、今年も例年通り、今月9日(光太郎が三陸に向けて旅立った日)に開催されます。  

第27回女川光太郎祭

期 日 : 2018年8月9日(木)
時 間 : 午後2:00~
場 所 : 女川町まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川浜字大原1-36
内 容 : 
 献花
 光太郎紀行文、詩などの朗読
 講演 「高村光太郎、その生の軌跡 ―連作詩「暗愚小伝」をめぐって⑥―」
     高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明 

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会場は昨年と同じく、JR女川駅前商業施設シーパルピア内のまちなか交流館さん。小ホール的な部屋があり、そちらです。

今年も記念講演を仰せつかっており、連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)に基づいて光太郎の生の軌跡をひもとく6回目となります。今年は主に太平洋戦争中の、道を踏み誤った光太郎についてです。

昨年までの様子はこちら。


こうしてみると、東日本大震災での甚大な津波被害からの復興の様子が見て取れます。今年の女川はどうなっているかと、ある意味、期待しています。

手作り感溢れるアットホームなイベントです。ぜひ足をお運びください。ただ、また台風が接近しており、嫌な予感がするのですが……。


【折々のことば・光太郎】

詩は一切を包摂する。理性も知性も感性も、観念も記録も、一切は詩の中に没入する。即ちその一切を被はないやうな詩は小さいのである。気が一切を呑むのである。
散文「気について」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

なるほど。

毎年8月9日、女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町から。

東日本大震災で甚大な被害があった女川町では、震災後、当時の女川第一中学校の生徒さんたちが発案した「いのちの石碑」が建てられ続けています。

これは、町内21ヶ所の浜の津波到達地点より高い場所に碑を建て、大地震の際にはそこより上に避難するためのランドマークとするというもので、既に半数以上が設置されています。合い言葉は「1000年後の命を守る」。平成3年(1991)、かつての海岸公園に建てられた光太郎文学碑に倣い、「100円募金」で設置費用をまかなうとして始められました。それぞれの碑には、当時の中学生たちが国語の授業で詠んだ句も刻まれています。

まずは地元紙『石巻かほく』さんの記事を2件。どちらも今月3日の掲載でした。 

新しい町の姿や魅力を発信 女川写真愛好会が発足 初の展示会・16日まで

 東日本大震災の復興の歩みなどを写真で伝002えようと、女川町のアマチュア写真家らが「女川写真愛好会」を結成した。第1弾の事業として写真展をJR女川駅に併設する町営「女川温泉ゆぽっぽ」で16日まで開催している。新しいまちづくりが進む同町で、愛好会は今後も写真展などを開くことで、女川の表情や魅力を広く発信したい考えだ。
 愛好会は今年4月に設立された。メンバーは趣味で写真を撮っている会社員や元教員、女川町に移住した復興支援員などの男性9人。写真を通して、町をよく知ってもらおうと活動を展開する。
 開催中の写真展は「わたしの あなたの わたしたちの 女川」をテーマに、約30点を展示している。
 高台に建設された新しい住宅が並ぶ様子や、津波の到達点に建設された「女川いのちの石碑」など、震災後の町の変化を知ることができる写真が並ぶ。
 一方で、カツオ船に餌となるイワシを積み込む作業や、「女川みなと祭り」で大漁旗をたなびかせた漁船の上で披露する海上獅子舞など、水産の町を象徴するような震災前の写真もある。
 ホタテの貝殻に写真を張って、卓上に飾れるユニークな作品もある。
 阿部貞会長(67)は「女川町の復興の過程を記録するだけでなく、美しい自然などを紹介することで、女川に興味を持ってもらいたい」と話す。町民文化祭への展示なども見込んでいる。
 写真展は午前9時~午後9時。入場無料。
 

被災地忘れない!!「支援」「学び」中高生が今も県外から 石巻地方 作新学院中等部2年 町民の力強さに感動 女川で元教諭の講話を聞く

 東日本大震災から間もなく7年4カ月。いま003だに県外から継続的に石巻地方の被災地支援に訪れている高校や、教訓を学びに来る中学校もあり、被災者との交流を通して互助精神の大切さなどを学んでいる。

 震災の教訓を学ぶため、宇都宮市の作新学院中等部の2年生131人が先日、女川町を訪れた。生徒たちは、まちなか交流館で、震災当時女川一中(現女川中)に勤務していた元教諭佐藤敏郎さんの講話を聞いた。
 佐藤さんは「女川は人口の約1割の人たちが亡くなり、8割の建物が住めなくなってしまった」と紹介。現在、若者を中心に運営する音楽イベント「我歴(がれき)stock」開催のほか、震災の風化防止などを目的に、当時の女川中3年生が「いのちの石碑」を町内21カ所に建立する計画を立て、実行してきたことを説明。
 倉松直大(なおひろ)さん(13)は「実際に女川を目にして、津波で全てを失っても復興に力を注ぐ、人間の力強さを感じました」と感想を話した。
 箭内(やない)みうさん(13)は「佐藤さんの『今の人のためではなく、未来へつなげていくために行動している』という話に感動しました」と語った。
 生徒たちは「いのちの石碑」を見学した後、旧大川小に向かい、献花した。


「いのちの石碑」プロジェクトに関わった女川中学校の卒業生が、テレビで取り上げられます。

あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~「宮城県女川町 山下脩さん」

NHK総合 2018年7月12日(木)  10時50分~10時55分

東日本大震災に遭遇した人々の証言。宮城県女川町の山下脩さんは、津波に流された行方不明者を懸命に捜索する海上保安官の姿に憧れ、この春、海上保安学校に入学した。

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海上保安官を目指す山下さん、昨年には『朝日新聞』さんに取り上げられ、このブログでご紹介させていただきました。また、平成27年(2015)、女川光太郎祭を主催している女川光太郎の会の須田勘太郎会長がお住まいの出島(いずしま)に「いのちの石碑」が建てられた際の報道にも、お名前が。

この番組では、やはり「いのちの石碑」に関わった当時の中学生・勝又愛梨さん、女川中学校教諭だった阿部一彦さん、女川光太郎祭の折に宿を提供して下さっているトレーラーハウス・エルファロの佐々木里子さんなどが取り上げられてきました。震災の記憶の風化が懸念される今日この頃ですが、今後とも継続してほしいものです。

女川光太郎祭、今年も8月9日に開催されます。詳細はまたのちほど。


【折々のことば・光太郎】

時間の威力は滅ぶべきものを用捨なく滅ぼし、のこすべきものをともかくものこした。
散文「奥平英雄編「絵の歴史 日本篇」序」より
 昭和28年(1953) 光太郎71歳

芸術作品に関しての言です。しかし、光太郎芸術にしてもそうですが、後の時代の人々がその価値を正しく把握し、次の世代へと引き継ぐ努力をしなければ、歴史の波に埋もれてしまいます。

震災の記憶などもそうではないでしょうか。

昨日は3.11でした。

午後、地上波フジテレビさんで放映された「FNN3・11報道特番 その避難は正解か!?」を拝見しました。その中で、光太郎ゆかりの宮城県女川町の、七十七銀行さん女川支店の件を取り上げていました。津波到達直前から、一気に18㍍の津波が押し寄せ、さらに引き波となって町を呑み込んでていく動画が流れ、涙を禁じ得ませんでした。

あの中に、貝さんが居たのか、と。

貝(佐々木)廣さん。当時、女川光太郎の会事務局長を務められていた方です。

昭和6年(1931)、新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を執筆するため、光太郎が女川を訪れたことを記念し、光太郎文学碑が女川の海岸公園に建てられたのが、平成3年(1991)。その中心となって活動され、その後は碑を建てて建てっぱなしでなく、毎年、光太郎が三陸に向けて東京を発った8月9日に、「女川光太郎祭」を開催し続けられたのも貝さんでした。

連翹忌にも20数回ご出席下さり、平成18年(2006)には、東京日暮里で開催された「高村光太郎歿後50年記念 高村智恵子生誕120年記念 光太郎・智恵子・フォーラム」で、女川での光太郎顕彰の取り組みをご紹介下さいました。記念講演は当会顧問・北川太一先生、司会は当方でした。

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「こーんなでっかい文学碑を建てたんですよ」と、ステージを走り回っていた貝さん。

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7年前の昨日、その貝さんは、津波に呑まれ、還らぬ人となってしまいました……。

その貝さんを含む、町内で亡くなられた方々854名(実に当時の人口の1割です)すべての名が刻まれる慰霊碑が建設されるそうで、テレビ朝日さん系のニュースで報道されていました。 

東日本大震災から7年 宮城・女川町 復興への思い

 東日本大震災から11日で7年です。宮城県女川町では、新たに建立が進む慰霊碑に地元の中学生が復興への思いを書いた石のプレートを積み上げました。
  女川町では、高台に建設中の新庁舎の敷地に町で犠牲になった854人の名前を刻んだ慰霊碑を建てる予定です。10日は、卒業式を終えた女川中学校の3年生46人が慰霊碑が建てられる場所を訪れ、復興への思いを書いた石のプレートを積み上げていきました。
 家族4人を亡くした鈴木翔さん:「身内が亡くなっているんです、震災で。1人見つかっていない。悲しいという思いもありながらも、自分はしっかり生きていかないといけない。それを置く瞬間に(感じて)慰霊碑を全国のみならず、世界の皆さんに見てもらって、我々の思いを見てほしい」
 東日本大震災による死者は1万5895人で、今も2539人が行方不明のままです。

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ローカル局、仙台放送さんでも、一昨日、報道されました。 

震災犠牲者思い 石板を慰霊碑に 宮城県女川町

東日本大震災から11日で7年です。
女川町では、地元の子供たちが復興や鎮魂の思いを書いた石版を慰霊碑の一部として積み上げました。
 女川町では高台に建設中の町役場の敷地内に震災により町内で亡くなった約850人の名前を刻む慰霊碑を建てる計画です。
10日は、午前中に卒業式を終えたばかりの女川中学校の卒業生46人が参加して、復興や鎮魂の思いを書いたブロック状の石版を慰霊碑の周りに積み上げていきました。
 石版には、
「安らかにお眠り下さい」、
「女川は今復興の道をたどり始めています」
といった町民や子供たちのメッセージが書かれています。
 男子 「見守ってほしいと、石に思いを込めました」
 男子 「亡くなった方々が天国で安らかに休めるようにと気持ちを込めて石を積みました」
 女川町では、11日に訪れた人たちにも石版へのメッセージの書き込みを受け付ける特設ブースを設ける予定です。

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女川中学校さんの卒業生諸君が、石版を積んだそうですが、来年度成人を迎える代の彼等の先輩たちは、このブログでたびたびご紹介して参りました、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」プロジェクトに携わってきました。

その当時(当時は統合前で女川一中)の先生が、木曜日にNHKさんの番組で紹介されます。 

あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~「宮城県女川町 阿部一彦さん」

NHK総合 2018年3月15日(木) 10時50分~10時55分  

宮城県女川町の中学校教師だった阿部一彦さんは、津波の悲劇を後世に伝え、100年後の命を守るために、生徒と協力しながら、津波が到達した地点に石碑を建て続けている。

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5分間番組ですが、これまでにも、「いのちの石碑」がらみで女川中の生徒だった勝又愛梨さん、毎年の女川光太郎祭の際に厄介になっている宿泊施設・EL FARO(エル ファロ)さんを経営されている佐々木里子さん が取り上げられました。

今回取り上げられる阿部一彦さんは、昨年『朝日新聞』さんでも大きく紹介されました。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

飛鳥朝の仏の魅力は多くの人のいふ如き調和温恭の境にあるのではなくて、実は不協和幽昏の美に根ざしてゐる。この釈迦像の仏らしからぬ眼を見、口を見、顎を見れば、しかもその胴体が平然と北魏の衣紋に包まれてゐる不思議を見れば、われわれ後代の造型家は、上代作家の大胆と自由とに驚く。

散文「法隆寺金堂釈迦三尊像」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

美術出版社刊行の『日本の彫刻Ⅱ飛鳥時代』のために書き下ろされた文章です。

そちらに載った法隆寺釈迦三尊像の写真がこちら。

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今気が付きましたが、この像は右手が「施無畏(せむい)」の印になっています。光太郎ブロンズの代表作、「手」(大正7年=1918)、そして最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の左手の形がそれです。

「施無畏」とは、仏・菩薩が衆生(しゆじよう)のおそれを除き、救うこと。当方、仏教徒というわけではありませんが、東日本大震災で亡くなられた皆さんのみ魂が、彼岸で釈尊や観世音菩薩から、「何も畏れることはない」と、救済されていると信じたいものです……。

次の日曜日が3.11ということで、各種メディアが東日本大震災特集を組んでいます。甚大な被害を受けた被災地の一つ、光太郎が昭和6年(1931)に『時事新報』の依頼で紀行文執筆のために訪れ、それを記念する高村光太郎文学碑が建てられ、そして「女川光太郎祭」を毎年開いて下さっている宮城県女川町関連のテレビ放映をご紹介します。 

3.11震災特番 2018(仮)

地上波フジテレビ 2018年3月11日(日)  13時00分~15時10分 

逃げた場所で命を落とした人々、指示やマニュアルに従ったのになぜ命を落としたのか?津波による「生死の分かれ目」を検証。坂上忍が生存者の証言で流した涙。

今なお各地で連続的に地震が発生している地震大国・日本において、もし今巨大地震が来たら、どこへ避難するのか。東日本大震災で東北を襲った津波で生死を分けたのは、まさに“避難"のあり方だった。避難とは何か?当時の映像と住民への取材から検証する。さらにいつ起きるかわからない関東大震災、南海トラフ地震、北海道沖巨大地震など、今後発生するといわれている大地震に備えて、東京、大阪、北海道など全国の住民の認識や現状を取材し、避難対応を考える。首都圏は雪だけで交通インフラがまひするなど、脆弱な状態にもかかわらず、もしここに津波が来たらどこへ避難するのか?「もしも」の時のあなたの避難場所について考えるきっかけを提供する。 さらに、福島県産の野菜を7年たった今も避ける人たちがいるなど、今なお続く“福島差別"ともいわれる現象の実態も追います。また、番組内では今年もドキュメンタリー「わ・す・れ・な・い」シリーズをお送りします。命を失う“避難"と助かる“避難"について石巻市と女川町、それぞれの避難を検証し、また高知県で現在行われている津波避難訓練のようすも取材しています。

出演者  坂上忍   伊藤利尋/椿原慶子(フジテレビアナウンサー)  山村武彦(危機管理アドバイザー)


もう一つ。 

サンマとカタール 女川つながる人々

BSジャパン 2018年3月11日003(日)  14時30分~15時54分

壊滅的な被害を受けた宮城県女川町の復興5年目を追う!前向きに生きる力を映像に込めた感動のドキュメンタリー。今だからこそ伝える5年間の想いに心が熱くなる ! (2016年)


東日本大震災から5年。住民の1割近くが犠牲となり、8割近くが住まいを失った宮城県女川町は今、目覚ましく復興し、新しい町に生まれ変わるために力強く歩んでいる。人々はどうやって立ち上がったのか?そして中東カタールの関わりとは? 復興5年目の女川町で生きる人々を約2年撮影したドキュメンタリー。女川町の復興の軌跡、切なくて強い人間の底力に迫ります。

ナレーション  中井貴一


サンマとカタール」は、一昨年公開されたドキュメンタリー映画です。テレビ放映はやはり一昨年に続き、おそらく2度目。DVD化も為されています。


他にも女川町がらみの内容となる番組があると思いますが、現在、ネットの番組検索でヒットするのはこの2件です。

それぞれぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

須菩提の美しさで殊に目立つのは右肩から下の垂直に近い体躯の線と、左側の少しばかりの変化ある衣紋との対照から起る微妙な傾きの姿勢である。それが際だたぬやうに出来てゐて、何となく重くない、凝滞しない、解空の感を与へる。観る者の心が軽くなる。

散文「十大弟子」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

「十大弟子」は、釈迦の高弟10人を指し、「須菩提」はその一人です。ここでは奈良興福寺に現存する6体の乾漆十大弟子像(国宝)を取り上げ、その良さを解説しています。同時に、光太郎の目指した彫刻の在り方がよく表れてもいます。

このブログでたびたび取り上げさせていただいております、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で、東日本大震災前にかつて建っていた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」。

先月11日には、町内小屋取浜と御前浜に新たに建立され、予定の全21基中、16基が竣工したそうです。


先月末、中心になって活動している、女川第一中学校(現・女川中学校)の卒業生の皆さんの活動を紹介する集会が、東京大田区で開かれ、『毎日新聞』さんの東京版と宮城版でそれぞれ紹介されました。 

「1000年後の命を守りたい」 津波到達点に石碑を 宮城・女川中卒業生、活動紹介の集会 大田 /東京

016 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町の女川中学校卒業生が、津波到達点に石碑を設置する活動を続けている。活動を紹介する集会が26日、大田区で開かれ、卒業生は「1000年後の命を守りたい」と、約80人を前に防災への意気込みを語った。
 女川町は震災で人口約1万人のうち873人が犠牲となった。震災直後に中学に入学した卒業生らは「悲しみを繰り返してほしくない」と町内全21地区の津波到達点に石碑を設置する活動を始め、現在までに16基を設置。全国の同世代に伝えるため、3月に教訓をまとめた「いのちの教科書」も作製した。
 卒業生らは活動にかけるそれぞれの思いを語った。震災で母と祖父母を失った鈴木智博さん(18)=女川町=は「一度避難したのに自宅に戻って亡くなった人がいた。石碑に『絶対に戻らないで』と強い口調の言葉を入れた」と紹介。大学1年の渡辺滉大(あきと)さん(19)=同県石巻市=は「防災が空気のように当たり前になってほしい」と訴えた。
 卒業生を囲んで車座になった参加者は「大人も震災を忘れてはいけない」などと語り合った。卒業生の一人、木村圭さん(18)=荒川区=は「いろんな方と話して、中学時代は会ったことのない多くの人に支えられ、見守られていたんだと実感した」と振り返った。【百武信幸、伊藤直孝】


女川町の広報誌、『広報おながわ』の先月号には、こんな記事も。

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2番目に碑が建てられた、同町竹浦地区に関するもので、同区長・鈴木成夫さんの談話に、「今、海を見下ろす境内には、いのちの石碑が立っています。ここに居住する誰もが安心して住めるまちになりました。」とあります。

そういえば、やはり先月末、NHK BSさんで、アニメドキュメント「女川中バスケ部 5人の夏」という番組が放映されました。実話を元に、昨年の夏、全国大会出場を目指してがんばった、「いのちの石碑」プロジェクトメンバーの後輩たち、女川中学校女子バスケットボール部を描いたアニメです。

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東北を舞台としたこの番組のために、東北ゆかりの人々が集まってくれました。チームを支える町の大人たちを演じたのは、ベテラン声優・山寺宏一さん(宮城県出身)と、人気お笑いコンビ・サンドウィッチマン(宮城県出身)のお二人。さらに、プロバスケットボールプレーヤーの大神雄子さん(山形県出身)が本人役として登場し、音楽を担当したのはシンガーソングライター・遊佐未森さん(宮城県出身)でした。そして、番組ナレーションは、やはりNHKさんの大河ドラマ「八重の桜」に主演され、東北とも縁の深い綾瀬はるかさんでした。

この中で、一瞬でしたが、「いのちの石碑」が背景に使われていました。

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女川を代表する風景の一つとなっているということかもしれません。

今後とも「1000年後の命を守る」ためにがんばっていただきたいものです。


「一瞬映った」といえば、先週、やはりNHKさんで放映された「ブラタモリ #81 十和田湖・奥入瀬 ~十和田湖は なぜ“神秘の湖”に?~」。こちらでは、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が、2秒間(笑)映りました。

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残念ながら詳しい紹介はなかったのですが、やはり十和田湖を代表する風景の一つということでしょう。

その他、二重カルデラ湖としての十和田湖、V字形の「渓谷」ではなくU字形の「渓流」である奥入瀬渓流の成り立ち、ヒメマスやらコケやらの話など、なかなか充実した内容でした。

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今夜、再放送があります。25時00分~25時45分ということで、日付が変わって明日未明、午前1時からですね。

見逃された方、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

私のあたまはその時、 誰かの手につよく押へつけられた。 雪にぬれた砂利のにほひがした。 ――眼がつぶれるぞ――

連作詩「暗愚小伝」中の「土下座(憲法発布)」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での蟄居生活の中、自らの戦争責任に向き合い、さらには遡っての自らの来し方を検証する連作詩「暗愚小伝」が生まれました。全20篇、7つの章立てで、第一章が忠君愛国の精神を叩き込まれた幼少年期を語る「家」。その冒頭を飾るのがこの詩です。

明治22年(1889)2月11日の憲法発布式に伴う明治天皇の上野行幸の列を見物する数え7歳の光太郎。「誰か」の背に負われて見物に来ています。やがてやってきた箱馬車。「誰か」は「頭が高い」とばかりに光太郎の頭を押さえつけました。詩の中では「誰か」が誰なのか、具体名は挙げられていません。実際にはこの年、東京美術学校に奉職する光太郎の父・光雲、または天狗の存在を確信していた祖父・兼松、あるいは光雲の弟子筋の若い衆かもしれません。しかし、具体名が挙げられていないことから、幼少期の光太郎を取り巻いていた、旧弊なこの国全体の象徴、と捉えることも可能かと思われます。

第一章「家」では、その他、日清日露の両戦争や、帝室技芸員に上り詰めた光雲と皇室のからみなどが謳われます。そこには、頭を押さえつけられたまま過ごした幼少年期の光太郎が居ました。

宮城県女川町で8/9に開催されました、第26回女川光太郎祭関連で、女川ネタを続けます。

若干古い話ですが、先月末、花巻、盛岡を訪れた際、借りていたレンタカーのラジオで聞いたNHK FM東北さんのローカルニュースです。 

中学生が被災地で震災の教訓学ぶ

東日本大震災の被害や教訓を学ぼうと、七ヶ浜町の中学生が、震災で大きな被害を受けた女川町を訪れ、発生した当時の状況などを聞きました。
女川町を訪れたのは、震災について学ぶ活動を続けている七ヶ浜町の向洋中学校の1年生から3年生までの生徒あわせて26人です。
生徒たちは、震災が発生した際、多くの住民が避難した女川中学校の校舎を訪れ、当時、教員として勤務していた佐藤敏郎さんから話を聞きました。
この中で、佐藤さんは、発生直後、割れた窓ガラスの破片が避難路に散乱し、生徒たちが思ったように避難できなかったことを説明し、日頃からさまざまな被害を想定しておくことが重要だと強調していました。
また、佐藤さんは、女川中学校の生徒や卒業生が、震災後、教訓を伝える石碑を町内各地に建てる活動を行っていることも紹介し、生徒たちは、時おりメモをとりながら真剣な表情で聞いていました。
自身も七ヶ浜町で被災し、家族を亡くしたという3年生の阿部杏珠さんは「自分は震災のことをあまり話したくなかったのに、女川の人たちはちゃんと伝えようとしていてすごいと思いました。自分もまずは身近な人から伝えていきたいと思います」と話していました。

同じ内容をテレビのニュースでも報じたようで、しばらくNHK東北さんのサイトで動画も見られました(現在は削除)。

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「教訓を伝える石碑」が「いのちの石碑」です。この上の画像2枚に写っています。

東日本大震災後、当時の女川第一中学校の生徒さんたちが発案、町内21ヶ所の浜の津波到達地点より高い場所に碑を建て、大地震の際にはそこより上に避難するためのランドマークとするというもので、既に半数以上が設置されています。合い言葉は「1000年後の命を守る」。平成3年(1991)、かつての海岸公園に建てられた光太郎文学碑に倣い、「100円募金」で設置費用をまかなうとして始められました。それぞれの碑には、当時の中学生たちが国語の授業で詠んだ句も刻まれています。

このブログでもたびたびその動向をご紹介しています。



8/10(木)の『朝日新聞』さん宮城版でも取り上げられています。

宮城)女川の子どもたちのそばに居続けた阿部一彦先生

■震災6年5カ月(11日に想う)
 私は社会科の教員です。でも今は、子どもたちが私の先生です。
 矢本二中の阿部一彦教頭(51)は震災の時、女川一中(現・女川中)の3年生を受け持っていた。
 午後2時15分、次の日に卒業式を控えていた92人の3年生を帰しました。帰さなきゃよかった。教え子を2人殺してしまいました。おばあさんの車いすを押していたのが、けんちゃんの最後の姿。今も見つかっていません。
 学校は避難所になり、コピー用紙も古い教科書も燃やしてたき火をしました。女の子が友だちと話していました。「逃げるとき何か踏んづけた。見たら近所のおばあさんだった。(頭を)ハンカチで包んでご家族に届けた……」
 なんにも言えなかった。怖くて。避難所に来た子にどうだったと聞いて、「お父さんがいなくなった」と言われたら何もできない。おなかすいたと言われても何もできない。ずっと子どものそばにいよう。横で同じ空気を吸おう。それしかできなかった。
     ◇
 被災した地域のどこよりも早く、4月8日に始業式をすることになりました。教育長が「子どもが手足を伸ばせる場をつくらないとだめだ」と。鉛筆も教科書も楽器もなかったけど、同僚だった佐藤敏郎先生と「子どもと先生がいれば、学校はできる」と確信していました。
 新1年生の学年主任になり、ふるさとや震災について考える授業に取り組んだ。子どもたちは「千年後の命を守る」を合言葉に、浜に「ここまで逃げて」と呼びかける石碑を建て、防災を学ぶ「いのちの教科書」を作り始めた。
 町の縄文遺跡を生徒と回ると、全部残っていました。悔いました。それまでの23年間、何を教えていたんだろうと。縄文時代の授業の時、「縄文遺跡まで逃げるんだよ」とたったひと言伝えていれば、2人は亡くならずにすんだのに。そして、子どもたちが言ったんです。「過去を知ることは未来を創造することだ」
 津波対策案を考えた時のことです。ななみさんが涙ながらに言いました。「逃げようと言っても逃げない人がいる。どうするの」。ななみさんのおじいさんはなかなか逃げない近所の人に避難を呼びかけていて津波にのまれたのです。私は答えられませんでした。
 こうせい君から出てきた答えは「絆」です。「はやりの言葉か」と思ったら、避難所で食べ物をくれた人がいるから助かったと。さらに、逃げなかった人も家族や親友が逃げろといえば逃げたし、そうすればおじいさんも助かったと言うんです。私はただただ、「すごいなあ」と言いました。
 教科書づくりのアイデアを出したのは、社会科が大っきらいな男の子です。授業中に突然手をあげて、「小学1年生から順番に学べるものを作ろう」。子どもたちはみんな、やりたいことを持っている。
 高校生になっても、15人ほどが活動を続けました。集まったのは3年間で108回。いつまでやるのと聞いたら、「死ぬまで」。
     ◇
 子どもたちはこの春、高校を卒業した。看護師、物書き、サッカー選手……。中2の時に「立志の会」で語った自分の夢に、多くの子が近づいている。
 あきと君が最近、「防災を空気にしたい」と話していました。ご飯を食べ、水を飲むように、防災を考えることを当たり前にしたい。そんな言葉、教科書だけで教えても出てきません。子どもの意欲がないと最近言われるけど、それは引き出していないから。女川の子たちも普通の子。場があれば、自律的な学びになっていきます。
 震災で得たものは一つ。すべての答えはそれぞれの子どもの中にあるということです。たくさんのことを教えてくれた先生たちに、11日、久しぶりに再会します。(中林加南子)

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愛知から訪ねてきた中学生に石碑の説明をする阿部一彦先生=5日、女川町竹浦


さらに石碑だけでなく、「いのちの教科書」というプロジェクトも進行中だそうです。今後とも「1000年後の命を守る」ためにがんばっていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

青年は親からはみ出す。 時々親をばかにする。 しかしいよいよといふ時には、 いつでも母をよび父をよぶ。 親は青年のいきほいひに驚く。 それを見て生きるかひがあると思ふ。

詩「青年」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

いつしか「復興のトップランナー」と言われるようになった女川町。行政も積極的に動いていますが、行政任せにせず、住民が自分たちで知恵を出し合い、動いています。特に若い世代が進んで先頭に立ち、高齢者世代は口を出さないという暗黙の了解が出来ている部分があるそうです。女川の復興を描いたドキュメンタリー映画「サンマとカタール 女川つながる人々」に、そういう話が紹介されていました。

「いのちの石碑」「いのちの教科書」などのプロジェクトにもそういう部分があるのでしょう。

なかなか勇気のいることだと思いますが、変なしがらみに縛られないためにはそれも大切なことでしょう。もちろん「いよいよといふ時には」世代を超えて協力することが必要だと思いますが。

8/9(水)、既にご紹介いたしましたが、第26回女川光太郎祭が行われました。それ以外の部分で女川、光太郎がらみのレポートを。

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前日に女川入りしまして、2泊いたしました。宿泊先は、これも既にご紹介したトレーラーハウス、エル・ファロさん。

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JR石巻線女川駅のすぐ裏手に移転され、ぐっと利便性が良くなりました。

それぞれの宿泊棟にユニットバスがついていますが、2晩とも女川駅の駅舎2階にある温泉入浴施設、ゆぽっぽさんを利用いたしました。やはり足をのびのびと投げ出して浴槽に浸かれるというのは大きな魅力です。

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こちらは女川駅の夜景。

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女川駅といえば、昨年、女川町に天皇皇后両陛下が足を運ばれ、その際に皇后陛下が詠まれた短歌を刻んだ碑が、今年3月、駅前に建てられました。

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曰く「春風も沿ひて走らむこの朝(あした)女川駅を始発車いでぬ」。


碑といえば、そもそも女川光太郎祭の機縁となった、平成3年に故・貝(佐々木)廣氏が中心となって建てられた光太郎文学碑。

周辺が、貝(佐々木)廣氏も呑み込んだ、震災・津波のメモリアルゾーンとして整備されている真っ最中でした。

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一日も早く、再び立つことを祈念しております。


そこからほど近い女川町まちなか交流館さんで、第26回女川光太郎祭が開催されましたが、そのロビーには、震災がらみの展示が充実していました。

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女川町の歴史、ということで、光太郎がここを訪れた昭和初期の様子なども。

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このブログで何度もご紹介しています、光太郎文学碑の精神を受け継いだ「いのちの石碑」についても。

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着々と復興は進んでいますが、まだまだ道半ば。ぜひとも多くの皆さんに訪れていただき、復興の歩みと、ここに暮らす人々の心意気を見ていただきたいものです。

ついでですので、明日は「いのちの石碑」がらみで。


【折々のことば・光太郎】

夜明けの前の波は静まり、 ただ天上の炎がもえる。 さういふ天の時をつんざいて 漁村に人間の息吹は生れる。

詩「漁村曙」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「天上の炎」は、星。「漁村曙」は、翌春の宮中歌会始の題でもあり、光太郎詩以外にも、横山大観の日本画、宮城道雄の箏曲など、さまざまな作品の題となりました。

「漁村に人間の息吹」。女川を思い起こさせます。そこで、第26回女川光太郎祭では、当会顧問北川太一先生が高等学校に勤務されていた頃の教え子の皆さん、北斗会さんの方が、この詩を朗読されました。

2泊3日の行程を終え、先ほど、宮城女川から帰って参りました。

昨日の第26回、女川光太郎祭をレポートいたします。

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会場は、JR女川駅前に新たに建設された商店街・シーパルピア女川のはずれに建つ、女川町まちなか交流館さん。台風余波の驟雨が時折強く降りしきる中での開催となりました。

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多目的ホールが備わっており、ゆったり広々した会場で開催できました。特に今年は、智恵子の故郷・福島二本松から、智恵子命日の集い・レモン忌を主催されているレモン会の皆さん20余名が、マイクロバス一台で駆けつけて下さり、多数の参会となりましたので、広い会場で幸いでした。

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はじめに黙祷。かつてこの会を取り仕切っていた、貝(佐々木)廣氏を偲んで、頭を垂れさせていただきました。

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その後で、当方の講演。昭和22年(1947)に発表された、光太郎のそれまでの65年間を振り返る連作詩「暗愚小伝」に基づき、光太郎の生の軌跡をご紹介する連続講演で、今年は5回目。主に智恵子との結婚生活、その始まりから終焉までを語らせていただきました。合間に光太郎の肉声の録音なども聞いていただき、おおむね好評でした。

主催の女川光太郎の会・須田会長のご挨拶。

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須田会長は女川沖に浮かぶ出島(いずしま)ご在住の漁師さんで、年に数回、当方の元に銀鮭やらホヤやらサンマやらを送って下さっています。

光太郎遺影、それからかつて会場すぐそばに建っていた光太郎文学碑の写真に献花。レモン会の方にもお願いしました。

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今年の会場からは、横倒しになった文学碑が見えました。ちょっとわかりにくいのですが、下の画像、真ん中の電柱の真下の黒いのがそうです。

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碑の関係については、いずれ日を改めてこのブログでご紹介します。

その後は、ギタリスト・宮川菊佳さんの演奏に乗せて、光太郎の詩文の朗読。

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小学生からご高齢の方、さらに地元の方から遠方の方まで、それぞれに個性あふれる朗読でした。

アトラクションとして、音楽演奏も行われ、花を添えて下さいました。

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故・貝(佐々木)廣氏夫人の英子さん。今回欠席された、当会顧問北川太一先生のメッセージを代読なさいました。

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高村家から、光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった豊周令孫・達氏のご挨拶。

こうしてつつがなく終了し、すぐ近くの中華料理店さんを借り切って、レセプション。

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レモン会の皆さんは、二本松からの列車の都合がおありの方がいらっしゃるとのことで帰られましたが、北川先生の教え子の皆さんである北斗会の方々、詩人の曽我貢誠氏ご夫妻、音楽演奏をなさって下さった方々、女川の風土に魅せられて、毎年この日に遠方からいらっしゃる方々、そして地元の皆さんなどで、おおいに盛り上がりました。泉下の光太郎、さらに貝(佐々木)廣氏も喜んだことでしょう。

その途中、喫煙のため外に出たところ、見えた夕焼け。

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一年後の再会を約し、散会しました。


今朝、地元紙『石巻かほく』さんで、早速報じて下さいました。

女川で「光太郎祭」、講演と朗読 紀行文や詩に思いはせる

 女川町を訪れた詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ、第26回「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、町まちなか交流館で開かれた。光太郎は31年の8月9日に三陸地方を巡る旅に出発した。

 町民ら約60人が参加。高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営員会代表の小山弘明さんが「高村光太郎、その生の軌跡~連作詩『暗愚小伝』をめぐって」と題して講演。光太郎と妻智恵子が共に歩んだ人生を、光太郎の詩を紹介しながら解説した。

 小山さんは、光太郎が智恵子と結婚披露宴を開いた1914年の作品「道程」について「光太郎が文学や彫刻で新しい道をつくっていく決意を表している」と説明。「道程」の一文にある「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来(でき)る」に触れ、「現代のわれわれにも通じる素晴らしい作品だと思う」と述べた。

 参加者はじっくりと聞き入り、光太郎と智恵子の生涯に理解を深めた。

 光太郎の紀行文や詩の朗読もあり、女川を題材にした「よしきり鮫(ざめ)」などが紹介された。

 91年に女川を題材にした紀行文や詩の文学碑が女川港近くに建立され、92年から光太郎祭が開かれている。
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来年以降も、続けられる限り、永続的に行われて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

見えもかけ値もない裸のこころで らくらくと、のびのびと、 あの空を仰いでわれらは生きよう。 泣くも笑ふもみんなと一緒に 最低にして最高の道をゆかう。

詩「最低にして最高の道」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

あの東日本大震災の大津波を経験され、愛する者を失い、故郷の街の壊滅、そして再生を見てこられた女川の皆さん。まさに「泣くも笑ふもみんなと一緒に」だったわけです。

ただし、光太郎は「泣くも笑ふもみんなと一緒に」、泥沼の戦争協力へと進んでしまったのが、本人にとっても大きく悔やまれることでした。

昭和6年(1931)、光太郎が三陸一体を旅したなかで立ち寄った宮城県牡鹿郡女川町。それを記念して毎年開催されている女川光太郎祭、今年もつつがなく終わりました。
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台風の余波で時折降りしきる雨の中、遠方からも含め、多くの皆様がお集まりくださいました。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

明日、8月9日は第26回女川光太郎祭です。003これから女川町に向けて出発いたします。迷走台風5号、いったんは日本海側に抜けたようですが、また福島あたりで列島を横断しそうな勢いで、どうも台風を追いかけてゆく行程になりそうです。

帰還は10日の予定で、2泊します。宿泊先は、よく泊めていただいているエル・ファロさん。

去る1日(火)、NHK総合さんで放映された「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災」で、エル・ファロさんの女将・佐々木里子さんが紹介されました。

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震災前、もともとご両親が経営されていた旅館を手伝われていた佐々木さん。しかし、ご両親と旅館は津波で流されてしまいました。

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失意の中、ご家族の支えもあり、旅館再開を決意した佐々木さん。

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そして、震災後、いちはやく女川に出来た宿泊施設、エル・ファロさん。

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可動式のトレーラーハウスです。

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震災で壊滅状態となった女川町中心部、茶色とねずみ色の街となりましたが、それなら明るい色にしよう、との佐々木さんの考えで、カラフルなパステルカラー。

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光太郎もこだわっていた、環境と美の関連性の重要さですね。

その後、工事関係者やボランティアの皆さんなどの宿として愛されてきたエル・ファロさん。今年、再開発が一段落した女川駅付近に移転しました。

6月の『日本経済新聞』さんから。

トレーラーハウス大移動 女川・元旅館女将たちの挑戦

 東日本大震災の津波で老舗旅館を流された女将たちが、トレーラーハウスを使った宿泊村を再建させたのが2012年の年末。それから4年半たった今年6月、宿泊村は、新しくできたJR女川駅近くに移設されることになった。日本で初めての規模というトレーラーハウスの「大移動」には、女将たちの第三の創業の願いがこもる。

■津波で旅館と両親を失う
 「ドスン」。長さ13メートル、重さ5トンもあるトレーラーハウスから「馬」が外され、タイヤが接地する。6月6日、トレーラーハウスは牽引(けんいん)車にひかれ、ゆっくりと女川の海岸に向かって動き始めた。行き先は、2015年3月に再建された新しいJR女川駅の近くだ。40台すべてのトレーラーハウスの移動は、9日に終わる予定だ。

 2011年3月11日の大津波で、女川は町の8割が流され、1万人の人口の1割の命が失われた。町の中心部で、両親とともに「奈々美や」という旅館を営んでいた佐々木里子さん(48)も、津波で旅館と両親を一度に失った。
 悲しみにうちひしがれている間にも、町の復興は進んでいく。佐々木さんの目の前では、県内外から作業員が引きも切らずに出入りしている。町内に宿泊施設がないため、仙台市から車で約2時間ほどかけて来ている。
 「もう一度旅館業を復活させなければ」。佐々木さんと同様に旅館を流された計4人の旅館主が集まり、町の商工会や旅館組合にも知恵を借りて、旅館の再建計画が動きだした。ただ、実現には2つのハードルがあった。1つは、建築規制だ。地盤沈下の修正と、土地のかさ上げのため津波跡地に新たな建物は建てられなかったのだ。「建築制限で建物が建てられないのであれば、建物でなければいい」。こうして出てきたのがトレーラーハウス宿泊村の建設計画だった。
 しかしこの妙案にも障害があった。復興補助金の支給の対象は不動産で、トレーラーハウスのように移動できるものは除外されていた。せっかく建てても県外に持ち出されては困るという意見が根強くあったのだ。
 「女川の復興のためなのに、そんなことするわけがないでしょう」。佐々木さんらは熱心に国や県を説得し、ついに2012年5月、補助金の支給がきまり、その年の12月、トレーラーハウス宿泊村「ホテル・エルファロ」がオープンした。

■若いホテルマンが救世主に
 オープン当初、エルファロは宿泊施設不足の解決に役立ち、工事関係者や里帰り客に親しまれた。だが、13年の暮れごろから売り上げの減少が目立ってきた。もともと、こぢんまりとした旅館の主たちだ。トレーラーハウス40棟、宿泊63室もの運営には慣れていない。
 さらに、エルファロは津波で壊滅した町域から離れた高台に造られたため、町の中心部である女川駅からは1.5キロほども離れている。「駅から遠い」「繁華街から歩いて帰れない」――。佐々木さんのもとにはこうした苦情も寄せられるようになった。
 「エルファロを助けてやってほしい」。石巻グランドホテルや琵琶湖のリゾートホテルでホテルマンの経験を積んだ田中雄一朗さん(当時28)に声がかかったのは15年の6月。石巻出身で、自身も被災した田中さんはフロントマンとしてエルファロに合流、これまでのホテル経験をいかして接客や集客のノウハウをつぎ込み、支配人としてエルファロを切り盛りするまでになった。
 その結果、16年には黒字化を達成。佐々木さんらは所有するトレーラーハウスの運営業務を田中さんに委託し、田中さんは新たに会社を設立して株式会社エルファロの代表に就任。今回、総費用1億4000万円のうち約5000万円の借り入れを自ら背負って、新女川駅前への移転を決めた。
 「震災後、この町の人たちが本気で町をつくっている姿を常に見てきた。私も覚悟を決めようと思った。もう後戻りはできない」。田中さんはこう決意を見せる。佐々木さんにとっても、流された旅館「奈々美や」から数えて第三の創業となる。「町を明るく照らす存在でありたい」
 エルファロは、スペイン語で「灯台」を意味する言葉だという。「ホテル・エルファロ」はトレーラーハウス40台、全63室。1人1泊素泊りで6018円(税込)から。朝食付きだと7020円(税込)から利用できる。

サイトには動画もアップされていました。

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先週の『石巻日日新聞』さん。

女川町駅前の「エルファロ」 5日から営業再開 地域を照らすホテルに

 東日本大震災後、女川町清水地区に誕生したトレーラーハウスの宿泊施設「ホテル エルファロ」の移設工事が完了し、3日に落成式がJR女川駅西側の現地で開かれた。本設の観光型ホテルとして5日からリニューアルオープン。初年度は1万7千人の利用を目標にしており、関係者らは神事やテープカットで町の滞在人口増加を祈願した。
 エルファロは、災害復旧工事に携わる関係者らの宿泊施設を確保しようと、町内の被災4宿泊事業者による「町宿泊村協同組合」(佐々木里子理事長)が、清水地区の町営住宅跡地に整備した。トレーラーハウスを活用した施設で、平成24年12月から今年5月初旬まで同地で営業を続けてきた。
 清水地区の土地契約が満了を迎えることから、利便性の良い駅前付近の町有地に移転本設することを決定。本格的な観光型ホテルに転換するため、ホテル エルファロ共同事業体(田中雄一朗代表)を立ち上げるなど組織体制も変えた。移転費用は約1億4千万円で、8千万円は県から補助金交付を受けた。
 新施設の客室数は63室。ソファベッドなどを新たに設けたことで収容人数は149人から195人に増えた。ロフト付きタイプもある。食堂機能のトレーラーハウスが集まるバルケをはじめ、敷地内にはたき火やBBQ広場も設けている。
 落成式では、田中代表が「場所の変更だけでなく、施設配置の工夫や観光型ホテルとして経営、運営の見直しも図って来た。エルファロはスペイン語で“灯台”の意味。駅前商業街区と密に連携し、町全体を回遊してもらうプランなどで波及効果を生み出し、町を照らすホテルとしたい」と語った。
 須田善明町長は「トレーラーハウスの宿泊施設は全国で初めての事例。災害発生時に短期間で対応する必要がある場合における選択肢の一つになる。オープン後は、経験を生かして町を盛り上げてほしい」と期待した。
 その後、関係者らがテープカットを行い、5日からの営業再開に向けて心を一つにした。

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こうした皆さんの思いを噛みしめつつ、泊めていただこうと思います。

ところで、女川といえば、もう1件、テレビ放映情報です。

孤独のグルメスペシャル!松重豊主演~真夏の東北・宮城出張編~

BSジャパン 2017年8月9日(水)  17時58分~19時00分  

雑貨輸入商の井之頭五郎が東北出張。仙台名物牛たん、女川町では海鮮料理に出合い、石巻ではシメの○○まで!?孤独のグルメスペシャル!

井之頭五郎(松重豊)は、古くからの友人・岸本(渡辺いっけい)に頼まれた仕事で、宮城に来た。前日入りした仙台で、まずは名物を堪能する。翌日、石巻で借りた軽トラで仕事の舞台の女川に移動、担当者の牧原(向井理)と打ち合わせするが…。一段落すると腹が減った。山道を通って五郎が辿り着いたのは、ひっそりと佇む海鮮の店だった。その店を後にした五郎がさらに辿り着いたお店は…!?

出演者 井之頭五郎…松重豊 牧原達也…向井理  岸本…渡辺いっけい  親方…でんでん  女将…余貴美子

昨年オンエアされたものの再放送です。

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女川編では、駅前の商業施設・シーパルピアに移転する前の「活魚 ニューこのり」さん仮設店舗が舞台でした。

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豊富なメニューの中から、腹具合と相談しながら海鮮丼を選び、堪能する松重さんのコミカルな演技が秀逸です。また、シーパルピアでホヤ入りの焼きそばを食べるシーンも必見です。


さて、そろそろ女川に向けて出発いたします。


【折々のことば・光太郎】

青葉若葉に野山のかげろふ時、 ああ植物は清いと思ふ。

詩「新緑の頃」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

季節外れですが(笑)……。

昭和6年(1931)、光太郎が新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を書くため、8月9日から約1ヶ月、宮城から岩手の三陸海岸一帯を旅した事を記念し、毎年、女川光太郎祭が開催されています。こぢんまりと行うイベントで、ネット上に詳細情報等有りませんが、問い合わせた結果と昨年までの要項を参考にまとめると、以下の通りです。

第26回女川光太郎祭

期 日 : 2017年8月9日(水)
時 間 : 午後2:00~
場 所 : 女川町まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川浜字大原1-36
内 容 : 
 献花
 光太郎紀行文、詩などの朗読
 講演 「高村光太郎、その生の軌跡 ―連作詩「暗愚小伝」をめぐって⑤―」
     高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明 
 ギター・オペラ演奏 宮川菊佳(ギタリスト) 本宮寛子(オペラ歌手)

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会場が昨年の女川フューチャーセンターCamassから、震災前、元々の会場だった海浜公園(上記地図でいうと「メモリアルゾーン」)に近い女川町まちなか交流館に変更になりました。やがてメモリアルゾーンの整備も終われば、ここにあった光太郎文学碑も再建され、そちらでの開催になると思います。その日も近いように思われます。

智恵子の故郷・福島二本松からは、智恵子の顕彰に携わるレモン会の皆さんが貸し切りバスでいらっしゃるそうです。しかし、残念ながら、今年は当会顧問・北川太一先生はご欠席だそうです。

今年で5回目となりますが、当方の講演が入ります。永続的に講演をし続けることになりそうなので、まず10年くらいは光太郎の一生を区切って俯瞰する方向でと考え、昭和22年(1947)に、それまでの人生を振り返って書かれた連作詩「暗愚小伝」の構成にしたがって進めており、今年は智恵子との出会いから結婚生活、そして死別のあたり――明治末から太平洋戦争直前くらい――を扱います。

ちょうどこの期間に、『時事新報』の依頼で三陸を廻っていますので、その辺も、と考えております。

そのために、その旅で光太郎が利用した三陸汽船の古文書を入手しました。大正15年(1926)ですから、光太郎が三陸を訪れた5年前に発行された、金子常光の手になる鳥瞰図をあしらった案内です。

ちなみにネットオークションに出品され、入札したのですが負けました。負けて「ちっ」と思っていたら、オークションではない、古書販売サイトに出品されているのを見つけ、オークションで負けた価格より安く手に入りました。捨てる神あれば拾う神あり、ですね(笑)。

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広げると全幅90㌢ほど。南は塩竃から、北は宮古までのリアス式海岸が描かれています。

女川近辺を拡大すると、こうです。

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裏面には汽船の利用案内や、各寄港地の説明などが書かれています。

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これは三陸汽船について調べている中で知ったのですが、月2便の東京芝浦港との往復便がありました。それについても記述があります。最近、光太郎は、これを利用したのではないかと考えるようになりました。

時事新報に連載された「三陸廻り」は、石巻から宮古までの行程が書かれていますが、東京から石巻までと、宮古を出て東京への足取りが書かれていません。これまで何となくそれぞれ陸路だったのでは考えていましたが、往復とも船で済んでしまえばその方が楽だったはずです。当時は陸路にしても新幹線などありませんでしたし。

光太郎が三陸を廻るという話を聞いた、花巻の宮沢賢治は、花巻に会いに来てくれることを熱望していたそうですが、それは果たされませんでした。それも、月2便しかなかった船の便の都合、と考えれば、納得が行きます。

確証はありませんが、今後、そのあたりについて書いた書簡などが見つかれば面白いな、と思っております。


さて、女川光太郎祭、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

あなたはまだゐる其処にゐる あなたは万物となつて私に満ちる  私はあなたの愛に値しないと思ふけれど あなたの愛は一切を無視して私をつつむ

詩「亡き人に」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

翌年に書かれた散文「智恵子の半生」にも、同様の記述があります。

或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失ふ事によつて却て私にとつては普遍的存在となつたのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言はば彼女は私と偕にある者となり、私にとつての永遠なるものであるといふ実感の方が強くなつた。私はさうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。一日の仕事を終つて製作を眺める時「どうだらう」といつて後ろをふりむけば智恵子はきつと其処に居る。彼女は何処にでも居るのである。

この境地に至るまでの苦しみや辛さは想像するに余りあります。そして、この境地に達さなければやっていけなかったであろうということも。

一昨日の朝、宿泊させていただいた青根温泉湯元不忘閣さんを後に、愛車を北へ向けました。メインの目的である仙台での朗読家・荒井真澄さんとテルミン奏者・大西ようこさんによるコンサート「朗読とテルミンで綴る智恵子抄」が午後3時開演。リハーサルや会場準備、チラシ折り込み等があるので昼頃には会場入りと思っていましたが、それにしても時間があったため、寄り道をしました(当初からそのつもりでしたが)。

行った先は、仙台からほど近い松島の瑞巌寺さん。こちらには、昭和2年(1927)、光太郎の父・高村光雲作の観音像が納められています。下の画像は古絵葉書です。瑞巌寺さんには30年ほど前に参拝いたしましたが、その際には存じませんで、見落としていました。

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納められているのは庫裡。こちら自体も国宝の建築です。


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光雲作としては類例があまり多くない、彩色彫刻です。おそらく丈六(約4.8㍍)の大きなもので、そうなると白木では見栄えがしないかもしれません。鮮やかな彩色が、神々しさをさらに倍加させています。

説明板によれば、元々は現JR仙石線が宮城電鉄だった頃、松島まで路線が延引された際に、無事故と事業の発展を祈願して同線の駅近くに奉納されたものだそうです。ということは、発願主は宮城電鉄さんだったのでしょうか。

この地の平安と、道中安全を祈願して参りました。

庫裡の向かいが宝物館となっており、まだ時間もありましたので、拝観。青根温泉不忘閣さん同様、やはり地元の英雄・伊達一族に関するお宝、それから円空仏なども展示されており、興味深く拝見しました。


さて、再び愛車を駆って仙台へ。途中で昼食を摂ったり、お二人への花束を買ったりしつつ、正午過ぎには青葉区のJazz Me Blues Nola(ジャズミーブルースノラ)さんに到着しました。こちらは一昨年、やはり荒井さんのご出演なさった「無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」以来、2年ぶり2回目です。

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ちょうど機材のセッティングが終わってリハーサルが始まるところでした。

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当方が持参した光太郎の遺影(連翹忌でも使わせていただいている、令甥の写真家、故・髙村規氏撮影のもので、ほとんど唯一、光太郎が笑顔の写真)、智恵子紙絵の複製などを並べさせていただきました。

その後、チラシの折り込みなどをお手伝いし、午後2時半、開場。当会と共に後援に入って下さった花巻高村光太郎記念会さんから、生前の光太郎をご存じの浅沼隆さん、さらに智恵子の故郷・福島二本松で顕彰活動を進められている智恵子のまち夢くらぶの野里氏もはるばる駆けつけて下さいました。

開演は午後3時。

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休憩を挟んで1時間半ほどだったでしょうか。大西さんの奏でる古今東西の名曲に乗せ、荒井さんによる光太郎詩文等の朗読。テルミンの一種幽玄な響きと、荒井さんのしっとり落ち着いた美しいお声が絶妙にもつれ合い、絡み合い、美しくも悲しい、しかし最後は再生へと向かう光太郎智恵子の愛の世界を醸し出していました。

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全体の構成や、合間にはMCも入り、飽きさせない工夫が為されていました。テルミンを見るのも聴くのも初めて、という方が多数いらっしゃいましたので、大西さんお得意のテルミン講座。さらにはお二人のなれ初め(笑)についてのお話などなど。お二人が初めて会われたのが、昨年の連翹忌。ビュッフェ形式で料理が並ぶうちの、ケーキのコーナーだったそうです(笑)。「天才は天才を知る」ということでしょうか(笑)、お互いに「ただ者ではない」と感じられたそうで、たちまち意気投合、これまでもちょこちょことコラボをなさり、今回が初めてのきちんとした公演でした。

午後の部がつつがなく終わり、楽屋でおにぎりなどを頂いて軽く腹ごしらえ。そして7時から夜の部でした。

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当方、リハーサルを含めて結局3回聴いたことになりますが、お二人のパフォーマンスがそれぞれにすばらしく、もちろん光太郎の詩文の魅力もあって、まったく飽きることもなく、どっぷりと光太郎智恵子の世界に浸らせていただきました。

午後の部と夜の部の合間、それから終演後に拝読したご来場の皆様が書いて下さったアンケートでも、絶賛の嵐でした。再演を希望する声も多く、是非実現して欲しいものです。

終演後、お二人と、大西さんのご主人(ラブラブご夫婦で、いつもご主人がご一緒です)、そして当方の4人で夜の仙台の街に繰り出し、打ち上げ。日付が変わる頃まで大いに盛り上がりました。

連翹忌が取り持つご縁でこうしたイベントとなり、望外の喜びです。これまでも、こうしたパフォーマーの方々のコラボ、美術館・文学館さんと関連行事の講演会講師、出版関係者の方々と執筆者の皆さん、顕彰団体さんと視察研修先の方々などを結びつける役割を果たして参りましたが、こういうネットワークを広げることも大事な役割と考えております。

この輪をもっともっと広げたいと存じます。さらに多くの方々に連翹忌へご参加いただき、こうしたネットワークに関わっていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

さわぐには及びません やる事をやりなさい  威張るには及びません 頭をはつきり持ちなさい

詩「ゆつくり急がう」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

詩全体には、昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、約1ヶ月、宮城から岩手の三陸沿岸を旅した経験が背景にあります。

この旅行に出ている間に、智恵子の心の病が顕在化したということになっています。光太郎の留守中に訪ねてきた智恵子の母や妹が、智恵子の異状に気づいたそうです。となると、第三者の目による異状顕在化であって、もしかするとそれ以前から症状は現れていたかも知れません。詩人の深尾須磨子あたりはかなり早い時期から智恵子の言動に違和感を覚えていました。

そしてどうもこの時期の光太郎は智恵子の状態を楽観視していたようで、そのあたりが「さわぐには及びません  やる事をやりなさい」にも反映されているような気もします。

さすがに翌年に智恵子が自殺未遂を図ると、そうも言っていられなくなりますが……。その結果、青根温泉などへの湯治の旅に結びつくのです。

宮城県に行っておりましたが、2泊3日の行程を終えまして、先ほど、千葉の自宅兼事務所に帰って参りました。2日に分けてレポートいたします。

メインの目的は、昨日開催された朗読家・荒井真澄さんとテルミン奏者・大西ようこさんによるコンサート「朗読とテルミンで綴る智恵子抄」。当会も後援に名を連ねておりましたので。

宿泊は1泊目、同じ宮城県内の青根温泉湯元不忘閣さんに泊めていただきました。こちらは昭和8年(1933)、光太郎智恵子も1週間ばかり逗留した宿です。

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智恵子の心の病が完全に顕在化したのが、昭和6年(1931)。光太郎が新聞『時事新報』の依頼で、紀行文「三陸廻り」を書くため、女川を含む三陸一帯を旅していた時のことです。翌年には睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺未遂。一命は取り留めましたが、どんどん症状は進行していきました。

そして翌8年、智恵子の故郷に近い東北や北関東の温泉巡りをすることで、少しは恢復するかと考えた光太郎は、智恵子を連れて旅に出ます。出発前の8月23日には、本郷区役所に婚姻届を提出。大正3年(1914)に結婚披露宴を行ってから、実に19年が経っていましたが、この間、2人は事実婚状態だったのです。以前にも書きましたが、フランスではそれが珍しくないそうで、光太郎が敬愛していたロダンとローズ・ブーレも、2人が亡くなる直前まで届けを出しませんでした。

さらに翌昭和9年(1934)には、光太郎の父・光雲が亡くなって、まとまった遺産が光太郎に入るのですが、その前に光太郎が先に逝ってしまえば(光太郎自身も結核の症状が既に出ていました)、智恵子には相続の権利が発生しません。そこらを考えての入籍だったのでしょう。しかし、智恵子にはもはやその意味を理解することもできなくなっていたようですが……。

東京を発った2人は、最初に智恵子の故郷・安達(現・二本松市)を訪れ、智恵子実家長沼家(既に破産して離散)の墓参などを行い、裏磐梯川上温泉に向かいました。そこで過ごした時の記憶を元に書かれたのが「――わたしもうぢき駄目になる」のリフレインで有名な「山麓の二人」(昭和13年=1938)です。

次に訪れたのが、青根温泉でした。戦後の昭和24年(1949)に、宮城在住の人物に送った葉書に以下の記述があります。青根に誘われたようで、その返答ですね。

青根温泉へのお誘ひ忝く存じました。 青根温泉へは小生も先年智恵子と一緒に一週間ばかり滞在したことがあります。あの正面の大きな宿でしたからたぶんその大佐藤といふ家だつたでせう。実にいい温泉だと思ひました。再遊もしたいけれどその頃にならないと都合が分りません。

「大佐藤」というのが、光太郎が泊まった当時の不忘閣さんの名称でした。青根でもっとも早く湯宿を開いて、江戸時代には仙台藩伊達氏の御殿湯として使われていました。当主は代々佐藤仁右衛門を名乗り、他にも佐藤姓の宿があったことから、区別するために「大」一文字をつけていたようです。

右は館内に展示されていた003古い看板。ちょっと見にくいのですが、「大佐藤」の文字が見て取れます。

「不忘閣」というのは、元々、お殿様のために使われていたメインの建物(現在は「青根御殿」と呼ばれています)の名前だったそうです。

その後、光太郎智恵子は、また福島県に戻り、9月2日には土湯温泉の奥にある不動湯から、智恵子の母・センにあてて葉書を送っています。

青根から土湯へまゐりました、土湯で一番静かな涼しい家に居ます。 もう二三日ここにゐるつもりでゐます。

ちなみに不動湯は平成25年(2013)に火災で焼失。現在は日帰り入浴施設として再開されています。当方、旅先の岡山でそのニュースを知り、驚くと同時に心を痛めました。そして最後に栃木の塩原温泉に逗留し、帰京しています。

さて、不忘閣さん。現在の宿泊棟は現代の建築ですが、それ以外に光太郎智恵子滞在時の建造物がまだ残っています。

こちらは本館で、明治40年(1907)の竣工。

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現在は、食事のための棟として使われています。

中庭は庭園。池には魚に混じってサンショウウオorイモリ。自然が豊かなのがわかります。

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そして青根御殿。こちらは最初、江戸時代に建てられましたが、やはり焼失、光太郎智恵子が訪れた前年の昭和7年(1932)に再建されたものだそうです。

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現在は資料館的な使われ方となっており、毎朝、女将の解説で、宿泊客対象に見学ツアーが開かれています。

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伊達家関連のお宝。

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ここを訪れた文人墨客関係。

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大正11年(1922)には、光太郎の師・与謝野夫妻も逗留していました。

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となると、与謝野夫妻からここの話を聞いたのかも知れません。

また、本館内にはこんな掲示も。

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「頭がよくなる温泉」とのことで、まさに精神を病んだ智恵子にうってつけ。この点まで含めて、与謝野夫妻が光太郎にここを紹介したとしたら、いい話ですね。

温泉は、本館内と、別棟の蔵の中にもありまして、それぞれ堪能させていただきました。

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近くには、作曲家の古賀政男の記念館も。代表曲の一つ「影を慕いて」作曲の契機がこの地での体験だそうで、建物は古賀とは無関係の、仙台から移築された元宣教師の住居だそうですが、レトロな洋風建築がいい感じでした。

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足湯もありました。

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続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

七月は今猛然とわれらを襲ふ。 莢隠元(アリコヴエル)、サラダ、トマト、コンコムブル。 質素な友の食卓を満艦飾する 精気と新鮮と分厚な現実。
詩「卓上の七月――素描風なる日常詩――」より
 昭和6年(1931) 光太郎49歳

シチュエーションとしては、友人の家族に招かれての会食のようです。野菜系が多く、健康的かつおしゃれっぽい感じですが、確かに質素かも知れません。しかし、この前に、それを補ってあまりある友人一家のほほえましい様子が描かれています。

不忘閣さんの食事、山間の宿らしく山菜などが多かったのですが、健康的でした。

本日、仙台で開催される、朗読家・荒井真澄さんとテルミン奏者・大西ようこさんによるコンサート「朗読とテルミンで綴る智恵子抄」拝聴のため、昨日から宮城県入りしております。
現在地は、蔵王山中の青根温泉♨。湯元不忘閣さんという老舗の温泉旅館♨に泊めていただいております。

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こちらは、昭和8 年(1933 )8月末から9月初めにかけて約1週間、光太郎智恵子が逗留した宿です。心を病んだ智恵子の療養のため、ひと月ほど東北南部から北関東の温泉♨巡りをした一環でした。当時の建物が残っており、非常に風情があります。

このあと、宿を出まして仙台方面に向かいます。詳しくは帰ってからレポート致します。

3.11を迎え、東日本大震災に関わる話題をお届けしています。今回も、津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられた高村光太郎文学碑(平成3年=1991建立)の魂を受け継ぎ、宮城県女川町内に「千年後のいのちを守るために」と建てられ続けている「いのちの石碑」に関わる話題を。

まずは『東愛知新聞』さんの記事です。

宮城出身の遠藤さん 豊橋でチャリティー絵画展

 東日本大震災で被災、現在、田原市で生009活する宮城県女川町出身の遠藤美貴子さん(39)によるチャリティー絵画展「MNikico.EArTExhibitio HOPE」が、豊橋市曙町のギャラリーgaraco(garage2階)で開かれている。心に傷を抱えながらも、明るい未来に向けて前向きに進もうとする、自らの気持ちや被災地への願いを込めた小品絵画を販売している。31日まで。
 遠藤さんは6年前の3月11日、地元で被災。高台へ避難し、津波から逃れることができたそうだ。避難所生活、仮設住宅での暮らしを経て、翌年、自然豊かな田原市へ移住した。「仮設住宅で1人になった時、不安や怖い気持ちがよみがえった。亡くなった友だちも、知り合いもおり、心が苦しくなった。前向きになろうと、遠くの地を選んで移り住んだ」と話す。
 避難生活中、無心になりたい気持ち、不安を払拭したい気持ちから、心のケアのために描き始めた絵。田原に移っても、心はいつも被災地にあることから、「支援をしよう」と仕事の傍ら絵を描き、ポストカードを作り、チャリティー販売を開始した。毎年この時期に合わせてチャリティー展を開いており、収益を女川や気仙沼大島など被災地へ届け続けてきた。
 いつも田原市で展示を行っており、豊橋での開催は今回が初。会場には「HOPE(希望)」をテーマに、小品20点を展示した。作品は、コーヒーで染めた画用紙に、被災地への思いを投影させた少女や子供の姿を極細の製図ペンで細密に描いたもの。復興途中で被災地が姿を変える中、昔を懐かしむ気持ちを演出しようと、紙をコーヒーで染めてノスタルジックに仕上げている。「辛さを抱えながらも上を向いて」との思いを、祈る姿、希望のニュアンスを込めた風船を持つ姿などで表現。愛らしくも少し愁いのある表情が印象的だ。
 「いのちの大切さを伝えられたら、心に悲しみを抱えながらも、被災地の人たちが笑顔で頑張っていることを知って欲しい」 と遠藤さん。会場では絵以外に、ポストカード5種、自らデザインしたTシャツも販売。収益 は女川町の「いのちの石碑プロジェクト」や気仙沼大島へ届ける予定という。


同じ件が、豊橋地区で発行されている『東日新聞』さんにも記事が載っていますが、有料会員向けサービスなので読めませんでした。

全国紙では、『朝日新聞』さんの愛知版に載りました。

愛知)田原へ移住の遠藤さん 被災地支援の絵画展

 東日本大震災で被災した故郷の復興を願ったペン010画約20点が並ぶ。作者は、宮城県女川町から田原市へ移り住んだ遠藤美貴子さん(39)。「HOPE(希望)」をテーマにした初めての個展が、豊橋市曙町の園芸店「ガレージ」内のギャラリーで開催中だ。
 2011年3月。遠藤さんは、宮城県石巻市の勤務先にいた。高台の神社へ逃げ、津波も免れたが、水がひくまで孤立した。
 震災から3日目。長男が通っていた女川町の小学校まで歩き、やっと無事を確認した。住んでいた3階建てのアパートは全壊。避難所からテント生活を経て、仮設住宅に移った。海の近くで暮らしてきた遠藤さんはサーフィンが大好きだった。しかし、あの日以降、海を見ると足がすくみ、サーフボードを手にすることができなくなった。
 1年後の12年春、「人生を暗いまま終わりたくない」と引っ越しを決意。故郷に両親を残し、長男と2人で田原市へ移り住んだ。
 「心は被災地にあった。何もせずにはいられなかった」と遠藤さん。趣味で描いたオリジナルのポストカードなどを近くのサーフショップなどで販売し、売上金を被災地へ届ける活動を始めた。
 遠藤さんは被災地で出会い、絵とサーフィンが縁で、12年9月に田原市で奇跡的に再会した長野県の画家山本拓也さん(45)とともに、14年からチャリティー絵画展を開催。2人はこの春、田原市を生活の拠点とし、結婚する約束を交わしている。
 遠藤さんにとって今回の絵画展が初個展。会場には、女性や子どもをモチーフに繊細なタッチで描かれたペン画に、コーヒーで色づけをした小さな作品が並ぶ。
 年2回、帰郷している遠藤さんは「復興はまだ道半ば。仮設住宅で暮らす人たちは心が疲れてきているように見える。自分の絵で被災地に元気を届けたい」と話す。
 会場ではオリジナルTシャツの販売もある。経費を引いた売上金は、長男の同級生らが中心となり、女川町で1千年後の命を守るためのモニュメントづくりを進めている「いのちの石碑プロジェクト」に寄付される。31日まで。木曜定休。(松永佳伸)

昨年暮れになくなった岡山市の学校法人ノートルダム清心学園の元理事長・渡辺和子さんご執筆のエッセイ集『置かれた場所で咲きなさい』を思い起こしました。

ただし、自主的な避難とは異なり、原発事故に伴う避難指示で、やむなく「置かれた場所」に留まらざるをえない皆さんも、まだまだたくさんいらっしゃいます。その無念さは、いかばかりか……。しかし、だからといって、咲かずに腐るのみではいけないような気もします。もちろん、そこに強制的に置かれたことに対する怒りは忘れてはいけないと思いますが……。


ちなみに今日、3月13日は、光太郎134回目の誕生日です。

戦後の7年間、自らの戦争協力責任を反省し、花巻郊外太田村の山小屋に隠遁生活を送った光太郎。あえて過酷な環境に身を置き、自らの天職と定めた彫刻も封印しました。しかし、村人との関わりなどの中で、そして詩歌や書、さらに生涯の締めくくりとして、封印を解いて取り組んだ「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」などで、立派な花を咲かせました。

置かれた状況は異なりますが、こうした光太郎の生き様も一つの指針になるかと存じます。


【折々のことば・光太郎】

自由と闊歩との外何も知らない、 勇気と潔白との外何も持たない、 未来と光との外何も見ない、 いつでも新らしい、いつでもうぶな魂を 寂寥の空気に時折訪れる 目もはるかな宇宙の薫風にふきさらして、 獅子はをなめてゐる。
詩「傷をなめる獅子」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

「清廉」、「白熊」に続く、連作詩「猛獣篇」の第三作です。獅子がなめている傷は、「執念ぶかい邪智」を持った人間が、「あの極楽鳥ののむれ遊ぶ泉のほとり 神の領たる常緑のオアシスに、 水の誘惑を神から盗んで、 きたならしくもそつと仕かけた 卑怯な、黒い、鋼鉄のわな」によるものでした。まるで利権まみれの原発のようですね。

昨日は3.11。東日本大震災から6年が経過しました。

先日もこのブログで書きました、東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられた高村光太郎文学碑(平成3年=1991建立)の魂を受け継ぎ、宮城県女川町内に「千年後のいのちを守るために」と建てられ続けている「いのちの石碑」の件で。

まず、昨日の未明、NHK総合さんで放映された「被災地からの声 宮城県女川町」を拝見しました。

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進行は津田喜章アナウンサー。23分間の番組でしたが、はじめに「いのちの石碑」の件が取り上げられました。

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かつて光太郎文学碑が建っていたあたりの映像です(下の画像も)。

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そして、高台に建てられた「いのちの石碑」。

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その他、「女川光太郎の会」現会長の須田勘太郎氏がお住まいの、同町出島(いずしま)のレポートもありました。震災前、約500人いた島民は約90人に激減、小中学校も統合で無くなってしまったそうです。当方、女川には年に一二度お邪魔していますが、島嶼部には行ったことがありません。いずれ、須田氏に案内していただこうと思いました。

6年前の映像とともに、他にも女川町民の皆さんの「声」が多数。見応えがありました。


昨日は、『朝日新聞』さんの別刷り「東日本大震災6年」でも、「いのちの石碑」が紹介されました。

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プロジェクトのメンバーで、海上保安官を目指すという、山下脩さん。巨大防潮堤の建設という道を採らなかった女川町のキャッチフレーズ「わたしたちは海と生きる。」を地でいくようで、ジーンと来ました。

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再びNHK総合さんで放映で放映された「被災地の声」から、出演された阿部由季さんの「声」。

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まさしくそのとおりですね。

明日も「いのちの石碑」関連で。


【折々のことば・光太郎】

首が欲しい、 てこでも動かないすわりのいい首

詩「首狩」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

この後、「○○な首」「××の首」というフレーズが10行続きます。「なんじゃ、そりゃ?」という感じですが、種明かしをすれば、彫刻のモデルとしての「首」を求めているわけです。いずれご紹介しますが、光太郎、電車に乗っても他の乗客の「首」が気になってしかたがない、的なことも発言しています。天性の造型作家としての、ある意味、宿業のようなものですね。

昨日のこのブログで、東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられた高村光太郎文学碑(平成3年=1991建立)の魂を受け継ぎ、宮城県女川町内に「千年後のいのちを守るために」と建てられ続けている「いのちの石碑」の件を書きました。

最近の状況がどうなっているかと思い、調べてみたところ、まず、今月初めに地方紙『河北新報』さんに載った記事がヒットしました。 

<卒業式>津波で祖母犠牲「成長見守って」

 東日本大震災の教訓を未来に伝えるため、宮城県女川町003の津波到達点に「いのちの石碑」を仲間と建立してきた鈴木美亜さん(18)=宮城県石巻市=が1日、石巻西高(東松島市)を卒業した。客室乗務員(CA)の夢を抱き、7月から米国の大学に語学留学する。津波で亡くなった祖母に「成長を見守っていてほしい」と祈り、新たな一歩を踏みだした。
 鈴木さんが生まれ育ったのは女川町尾浦地区。同じ集落にあった祖母トシミさん=当時(87)=の自宅は比較的高い場所にあり、チリ地震津波(1960年)でも被災しなかった。
 6年前のあの日、鈴木さんの父親が祖母を迎えに行ったが、祖母は「大丈夫だから」と自宅にとどまった。津波に見舞われ、戻らぬ人となった。
 強くて優しい、憧れの存在でもあった祖母との突然の別れに、鈴木さんは葬儀で涙が枯れるほど泣いた。
 「もう津波で命を落とす人を出したくない」
 2011年4月に入学した女川一中(現女川中)で、同じ思いを持つ同級生らと津波から命を守る活動を始めた。合言葉は「1000年後の命を守る」。
 町内の21の浜に石碑を建立する「いのちの石碑」プロジェクトや、被災体験や津波対策案などをまとめる「女川いのちの教科書」作りなどに携わった。
 CAは幼い頃からの夢。ボリビア人の母の帰郷で飛行機に乗ると、日本語が不得手な母にも優しく丁寧に対応する姿に憧れた。
 留学を決断したのは昨年12月。親や高校の先生には反対された。国内の大学で学ぶことも考えたが「CAになるために本場で語学を学びたい」という思いは捨てきれなかった。
 「なれるよ、みーちゃんなら」。以前、夢を語ったときに祖母が掛けてくれた言葉が頭をよぎった。
 約6年間、本音で語り合ってきた女川の仲間たちも後押ししてくれた。「もし挫折しても、女川のみんなが支えてくれると思う」
 青い海を漁船が行き交う尾浦の風景は、古里を遠く離れても心に深く刻まれている。米国で出会う新たな友人にも震災の経験を伝えていくつもりだ。1000年後の命を守るために。


あの日、小学6年生だった子供達も、高校を卒業する年令になりました。つらいこともたくさんあったとは思いますが、逆に、あの経験がその後の人生のプラスになっていくこともあると思います。


さらに今朝の『朝日新聞』さんの宮城版。

宮城)東京から現場に行き、被災者と心通わせる

 海を望む高台。向けられた録音機に、高校004生が訥々(とつとつ)と言葉を吹き込む。「あれから6年。震災を経験した人でも記憶が薄れている。どう伝えていくか。自分たちが頑張る」
 2月4日、女川町。TOKYO FMの復興支援番組「LOVE&HOPE」を担当するフリーディレクター、黒川美沙子さん(43)らが震災6年特番の取材に訪れていた。「大きな地震が来たら、この上まで逃げて」と呼びかける「女川いのちの石碑」。建てている女川中学校の卒業生の思いは3月10日、電波に乗って関東へと届けられる。
 女川の訪問は30回をくだらない。彼らを取材するのは2度目。指導してきた教員の阿部一彦さん(50)は「1回だけ取材に来るマスコミは何百人といる。でも黒川さんは、今の自分たちの生の声を、ずっと聞いてくれている」。
 番組は月曜から金曜の午前6時半から10分間。被災者や復興を支援する人たちが出演し、全国のFM38局をつないであの日の体験、今の思いが語られる。放送は8日、1432回を数えた。
     ◇
 「被災地と全国をつなごう」と番組が始まったのは、2011年4月4日。「心と体のケア」をコンセプトに、当初は低体温症の予防や上手な栄養の取り方を、避難所に向け発信するなどしていた。
 転機は1週間後。初めて石巻に入った。不明者を捜す自衛隊の車が走り、がれきが折り重なり、電気も水道も不通のまま。広がる光景は想像を絶した。
 倉庫で支援物資の仕分けをしている中年の男女がいた。津波に襲われ、かろうじて立つ自宅の2階でそれぞれ暮らすという。でも「ゼロからでなく、一からのスタート。命があるんだから」と取材に明るく答え、「また来てね。次はバーベキューしようね」と笑顔までくれた。
 泣きたくてどうしようもないはずなのに、笑っている。家族のため、地域のため、前を向かざるを得ない。その強さ、かなしさ――。現場に行かなければすくい取れない、ありのままの被災地を伝えよう。番組のつくりは、大きく変わった。
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 スポンサーはつかない。コスト管理の厳しい民放。震災3年を過ぎると、予算が4割ほど削られた。それでもスタッフは朝5時半に集合し、片道5時間。車を駆って月に1度は東北に行く。
 何度も出演してもらった福島県沿岸部の40代の男性。両親と子ども2人が犠牲になった。父と長男が見つからず、今も行方を捜す。震災5年の昨年、取材に訪れたパーソナリティーに「5年も経ったのに、いつまでやるんですか」と、あえて聞いてもらった。男性は声を荒らげ、でも涙ながらに「やめるつもりはない」と言い切った。
 震災から10年後、同じ質問をしたら何を語るのだろうか。心を通わせ、追っていきたい。
 仮設住宅を出て復興した、という人もいれば、家族を失った悲しみから立ち直っていない、という人もいる。被災者一人ひとりにある物語。そして、あのとき起きたこと。話を聞けば、伝え続けなければいけないという思いがわき上がる。「だから、番組は終われないですよね」(桑原紀彦)


記事にあるTOKYO FMさんの番組、明日には特番として拡大枠でオンエアされます。 

特別番組 『LOVE&HOPE Special忘れない、伝えたい 僕たちがつくるいのちの教科書』

放送日時: 3月10日(金)16:00~16:55
放送局: TOKYO FM
出演者: 高橋万里恵  片田敏孝教授(群馬大学大学院教授・広域首都圏防災センター長)

1000年後の子どもたちの為に。 女川005の高校生による命のバトンを未来に繋ぐ活動に密着 LOVE & HOPE Special 『忘れない、伝えたい 僕たちがつくるいのちの教科書』

TOKYO FMでは人と人とのこころのつながりを大切にし、問いかける「HUMAN CONSCIOUS~生命を愛し、つながる心」をステーション理念として掲げており、毎年3月11日に、6年前に発生した東日本大震災を風化させないために、特別番組を放送しています。
震災6年目となる今年は、3月11日の前日である10日(金)16:00~16:55に『LOVE&HOPE Special忘れない、伝えたい 僕たちがつくるいのちの教科書』を放送致します。
パーソナリティは、「釜石の奇跡」を生み出した防災研究の第一人者、群馬大学大学院の片田敏孝教授と、朝のワイド番組『クロノス』パーソナリティの高橋万里恵。東北の若い世代が伝え、残そうとしている「震災の記憶と記録」を紹介します。

◇1000年後の子どもたちのために…「女川 いのちの教科書」の取り組みとは?

東日本大震災から6年。震災の記憶が薄れゆく中、番組が密着したのは、宮城県女川出身の高校3年生による「1000年後のいのちを守るプロジェクト」です。震災当時小学校6年生だった彼らがまず手掛けたのが「いのちの石碑プロジェクト」。「ここより上に逃げてください!」という文字を刻んだ石碑を町内の津波到達地点に建立しました。困難だったのは土地の取得。「子供たちの1000年先を見据える活動に、一人、また一人と、自分の土地を提供する町民が現れた。」そう語るのは、子どもたちの指導にあたった阿部一彦先生(震災当時女川第一中学校教員)です。
そして、石碑の次に彼らが取り掛かったのが、「いのちの教科書」の作成です。「子どもが教科書で数学を学ぶように、女川のこと、地震や津波のことを学ぶ教科書を作りたかった。」この3年間で100回を超えるミーティングを重ね、試行錯誤の末、「女川 いのちの教科書(中学生版)はいままさに、完成のときを迎えています。
震災当時小学生だった彼らがこの6年間どんな思いでプロジェクトに関わってきたのか。大切な人を亡くしたもの。喪失感に悩んだもの。生きていることが苦しくなったと語るメンバーもいます。プロジェクトに関わる想いは違えども、願いはひとつ。「一人でも多くの命ではなく、一人の命も失わないように、この震災の記憶と記録を1000年後まで語り継ぎたい」そして旅立ちの季節。この春高校を卒業し、それぞれの夢に向かって飛び立つ彼らが選び取った進路と未来の夢とは?一人ひとりの選択と決意はそのまま被災地の希望の灯です。


関東地方の皆様、それから地域局で提携があって放送を聴ける皆さん、ぜひお聴き下さい。


【折々のことば・光太郎】

又新しいラツシユ・アワアに騒然たる人間の急迫の力を思ひ むしろ猛然として、 この元気溢れるスケルツオに短音の銅鼓(テムパニ)を打ち込むのである。 「さあ、やるぞ」

詩「月曜日のスケルツオ」より 
大正14年(1925) 光太郎43歳

「スケルツオ」は現代仮名遣いだと「スケルツォ」。音楽用語で「諧謔曲」と訳し、基本的に速い3拍子、ゆったりした部分との差異を対比させ、激しい感情を表したりします。

この詩の前半は、光太郎が彫刻のモデルに雇った少女のおしゃべりを引用しています。そのとめどない、他愛ない、おそらく早口でまくしたてるおしゃべりを、スケルツォと比喩しています。「やかましいから黙っていろ」という意味合いではなく、むしろ少女の生命感溢れるおしゃべりを心地よくとらえ、そこにかぶせる自らの「さあ、やるぞ」の一言を、ティンパニーの一打に例えてもいます。

「さあ、やるぞ」。いい言葉ですね。震災からの復興もそうですが、それぞれの置かれた場所で、前向きに、決然と、そして人の道を踏み外すことなく、「さあ、やるぞ」の声に満ちる世の中であってほしいものです。

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