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先週のこのブログでご紹介したばかりの、「現代の智恵子抄」と称された映画「八重子のハミング」にご出演なさっていた、女優の上月左知子さんの訃報が出ました。 

女優の上月左知子さん死去=87歳、NHK大河「春日局」など

 上月 左知子さん(こうづき・さちこ、本名小池みき子=こいけ・みきこ=女優)24日、心不全のため東京都江戸川区の自宅で死去、87歳。

 神戸市出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は長男健朗(けんろう)氏。後日、お別れの会を開く予定。

 49年宝塚歌劇団入団。上月あきらの名で男役、左知子に改名後は娘役を演じた。退団後は映画「瀬戸内少年野球団」「八重子のハミング」、NHK大河ドラマ「春日局」などに出演した。
(時事通信 2018/01/30)

宝塚出身女優・上月左知子さん死去、87歳 大河や特撮でも活躍「前日まで元気…」

 女優の上月左知子さんが24日、心不全のため亡くなったことが30日、発表された。87歳だった。上月さんは宝塚時代は上月あきらとして活躍、57年に退団してからは上月左知子として活動していた。通夜、告別式は家族葬で執り行うとし、後日、お別れの会を開催予定。

 上月さんは1930年10月9日兵庫県生まれ。49年に宝塚歌劇団に36期生として入団、上月あきらの名前で活躍し、「南の哀愁」で初舞台を踏む。1957年に退団すると、上月左知子として活動し、映画「陽暉楼」「瀬戸内少年野球団」「空海」などに出演。テレビドラマもNHK大河「春日局」や、「花嫁のれん」の第1シリーズなどにも出演していた。また特撮ファンには「流星人間ゾーン」や、「ミラーマン」の母親役などでも知られていた。

 上月さんの長女で、元タカラジェンヌの女優・嘉月絵理は29日に更新したブログで「朝電話しても出ないので家まで行ってみたら、亡くなっていました。前日まで元気だったんですが…。でもピンピンコロリが理想だったので良かったのではないかと思います」と気丈に亡くなった時の様子を明かし「天使のような母の笑顔を思い出して冥福を祈って頂ければと思います」とつづっていた。
(デイリースポーツ 2018/01/30)


「八重子のハミング」では、升毅さん演じる主人公・石崎誠吾の母・みつ役でした。

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物語冒頭近く、誠吾が親友の榎木医師(梅沢富美男さん)から、がんの告知を受けたと告白されるシーン。
取り乱すことなく気丈に振る舞い、さらに息子を励まします。「あんたの運命と思って、あんたがしっかりせんと」と。

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そんな母親を見て、短歌が趣味の誠吾が一首。

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ところが誠吾の妻、八重子(高橋洋子さん)は、動揺を隠しきれず、さらに夫の看病の心労が極限に達し、それも原因となって、若年性アルツハイマーに……。

それを、がんの手術が成功して退院した誠吾が家族に打ち明けるシーン。ここでも上月さんは息子を叱咤激励します。

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「誠吾、あんたの命を助けるために、八重子さんが病気になったんよ」。言い換えれば、「今度はあんたが八重子さんの面倒をしっかり見なさい」ということでしょう。

といって、非協力的というわけではありません。夢幻界の住人となった八重子を温かく見守るシーン。

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直後のシーンでは、共に教員だった誠吾・八重子共通の昔の教え子(月影瞳さん)が、八重子の介護を申し出てくれます。息子夫婦のおこなってきた教育の成果が、思いがけないところで実を結んだと、感極まる上月さん。

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しかし、結局は、八重子の最期を看取ることに……。

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息子には凜として道義を説き、一方で徐々に壊れてゆく嫁を温かく見守る姑、実に難しい役どころですが、上月さん、みごとに演じられていました。

どうもこの作品がご遺作となられたようです。上月さん、最後にすばらしい役に巡り会えたことを喜ばれているのではないでしょうか。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

人面の中に彫刻を見、その内面から充溢する彫刻生の美を、その個人的特殊性の下に把握するのが彫刻家である。

散文「彫刻性について」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

シナリオの中に演じる人物の人間性を見、自分という個人的特殊性を通してそれを充溢させられるのが、上月さんのような名優というものでしょう。

またまたテレビ放映情報です。

五木寛之「風のCafe」1周年記念スペシャル ゲスト:渡辺えり

BSフジ 2014年11月 1日(土)17:30~18:30  再放送 11月15日(土)17:30~18:30
 
番組ホスト 五木寛之(作家)
番組アシスタント 冴木彩乃(出版プロデューサー)
ゲスト 渡辺えり(劇作家・演出家・女優) 
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 今回のゲストは、渡辺えり。そして、“もう一度聞きたい、あの話”をまじえての60分スペシャル!これまでCafeを訪れた各界の著名人、13人のゲストの名言を再びお届けする。
 五木から演劇界きっての歌唱力の持ち主と称賛される渡辺えりは、五木が作詞した歌を2曲もつ。その一つ「昼の花火」の歌詞は還暦を前にした渡辺にとって、今あらためて読むと泣きそうになるという。その歌詞のもつ意味は?
 戦時中、高村光太郎に心酔した父により、家に飾ってあった光太郎の写真をずっと自分の祖父だと思って育った渡辺。いじめられっ子だった小学校時代。そこから自信を持てるようになったきっかけ、そして山形から上京することになった理由の一つ、ジュリーこと沢田研二への憧れについて語る。
 そして、五木と渡辺のいくつもの接点。その一つが池袋の「舞台芸術学院」でのすれ違い。さらに、「ゲゲゲのげ」岸田國士賞受賞のきっかけをつくった「唐十郎」とのこと。唐は当時無名の渡辺の初期作品を候補作と間違えて読み、その実力を看破したという。また、美輪明宏にこの授賞式の衣装を買ってもらった話や、同時受賞した野田秀樹などの不思議な縁を話す。
 劇団「3○○」や演劇活動のかたわら、テレビにも出演。庶民的で可笑しなキャラクターを演じ人気を博している“国民的女優渡辺えり”。しかし、映像で見るイメージとは違い、劇作家渡辺えりの描く芝居はシュールなものだ。そのギャップが違いすぎて、お客さんが戸惑い理解されない、という悩みも打ち明ける。今度の舞台「天使猫」は東日本大震災の後、はじめて書き下ろした作品だ。被災地に思いを馳せ、復興未だ叶わぬ現地でもテントで上演される。そのきっかけは、共演する宇梶剛士と地元の人たちの「ここでやりたい、やってくれ」という言葉だった。
 渡辺えりは様々な顔をみせる。プロデューサー、脚本家、作家、評論家、タレント、そして俳優・・・あらゆる役割をこなす渡辺えりを、五木は「百姓」という言葉で例える。「百姓」という言葉には、元々「様々な職業」という意味があるのだ。五木は彼女に100歳までの舞台を期待する!
 
 
生前の光太郎と面識のあったお父様の影響で、光太郎を主人公とした演劇「月にぬれた手」を作られた渡辺えりさんがゲストです。
 
お父様と光太郎にまつわるエピソードは、かつての連翹忌、一昨年5月9日の「徹子の部屋」、昨年5月15日の花巻光太郎祭での講演などでご披露されました。
 
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今回もそのあたりのお話が聴けるのではないでしょうか。
 
また、現在、渡辺さんは宮沢賢治を主人公とした舞台「天使猫」の全国ツアー中。そのあたりも内容説明に入っています。
 
ぜひご覧下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月31日
 
昭和43年(1968)の今日、中央公論美術出版から、光太郎の弟・高村豊周著『自画像』が刊行されました。
 
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基本、鋳金の人間国宝として活躍した豊周の自伝ですが、随所で光太郎智恵子、光雲についても語られており、貴重な記録です。

やはり先月発売の雑誌から。 

山口百恵「赤いシリーズ」DVDマガジン vol.12

2014/08/12 講談社 定価1,514円+税
 
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'70年代に大人気だった、山口百恵さんと三浦友和さんによる「赤いシリーズ」。隔週火曜日発売で、全38巻、各巻に3話ずつ収録されたDVDがついているというものです。
 
この中で、やはり毎号「プレイバック 百恵の言葉」というコーナーがあり、当時のインタビューなどから百恵さんの言葉を紹介しています。この号のテーマは「愛読書」。昭和51年(1976)3月の『平凡パンチ』、同じ年4月の『週刊プレイボーイ』に載ったインタビューから、当時の百恵さんの愛読書を紹介しています。構成、文は中川右介さん。
 
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百恵さんが真っ先に挙げたのは、「智恵子抄」でした。
 
智恵子が狂っても死ぬまで愛した高村光太郎の愛に感動するのヨ。ああいう愛は、現代にはもうありませんネ。
 
私は智恵子のように深く愛されたいし愛したい。ただただそう願っているんです。
 
愛、愛というけれど、光太郎は口では愛を語らないけど、一歩さがったところで智恵子を見守っている。そんな愛ってステキ
 
やはり昭和51年(1976)刊行の『山口百恵の本 もう一つ百恵』(集英社)という本の中には、「詩情の世界 百恵の智恵子抄」という8ページの記事が載っています。
 
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百恵さんが犬吠埼、二本松と、「智恵子抄」ゆかりの地を歩くというもので、故・髙村規氏の写真が使われています。
 
この中では、こんな発言も。
 
私は中学1年の時、はじめて「智恵子抄」を手にし、その後、何度も何度も読み返し、胸を熱くさせてきました。
 
当時の智恵子は非社交的だったといわれています。私に似ていると思いませんか。
 
光太郎は智恵子のことをこういっています。「自分のつくったものを熱愛の目をもって見てくれるひとりの人があるという意識ほど美術家にとって力となるものはない」と。私には、とてもよくわかるんです。私の歌も結果的にはたくさんのファンのためのものとなることもあるでしょう。けれども歌う心はそのひとりの人に聞いてもらいたいだけで、すでにいっぱいなのだから……。
 
DVDマガジンの「プレイバック 百恵の言葉」を書かれた中川氏は、こうした百恵さんを「恐るべき17歳」と評しています。
 
それにしても、百恵・友和コンビでの「智恵子抄」というのも、見てみたかったと思います。
 
DVDマガジン、ネットで取り寄せることも可能ですし、大きめの書店なら、最新号でなくとも店頭に並んでいます。ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月6日
 
昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、詩人の竹内てるよが訪ねてきました。
 
光太郎は戦前から戦中にかけ、何度も竹内の詩集の題字を揮毫していましたが、実際に会うのはこの時が初めてだったそうです。

今日も携帯からの投稿です。001

花巻市文化会館において、渡辺えりさんの講演会があり、先程終わりました。昨日の高村祭での講演に続き、2日連続でしたが、さすがにプロですね。満員の聴衆を飽きさせることなく、光太郎と賢治の魅力や、その他に岩手が舞台ということで、朝ドラ「あまちゃん」の裏話など、大いに楽しめるお話でした。
今後、人前で話す機会が増えますので、見習いたいものです。

光太郎や賢治の愛した大沢温泉に泊まり(渡辺さんも泊まられています――当方とは別の部屋です、念のため(笑))、明日帰ります。

【今日は何の日・光太郎】5月16日

昭和4年(1929)の今日、詩人の尾崎喜八との旅の途上、群馬の中之条に一泊しました。

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