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7/29(土)夕刻、花巻高村光太郎記念館さんに到着。この日は記念館さんの市民講座「夏休み親子体験講座 新しくなった智恵子展望台で星を見よう」の講師を仰せつかっておりました。

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市の広報誌などでも宣伝していただき、十数組、30名ほどの親子と、地元の方が若干名、ご参加下さいました。せっかくそれだけの申し込みがあったにもかかわらず、あいにくの曇り空でした。

ところが、開始時刻が近づくと、雲が切れ始めました。

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これなら、少しは星も見えるかな、という感じでした。

午後七時、記念館の展示室1、光太郎彫刻が並んでいるスペースで、開会。

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はじめに当方の話でした。ただ、メインは星空の観察ですので、短く切り上げました。彫刻や詩歌で「美」を追い求めた光太郎、山川草木鳥獣虫魚などの大自然にも美を見いだし、その一環として、天体にも関心を持っていたらしいこと、特に、記念館のある旧太田村山口に隠遁してから、市街地では気づきにくい天体の美しさに憑かれたこと、約70年前に光太郎が見上げたのと同じ星空と思って見てほしいことなどをお話しさせていただきました。

レジュメでは、天体についての記述がある光太郎文筆作品を紹介しました。はじめにこの企画の話が出た際、当方が講師を仰せつかるつもりもなく、適当に「こんなものまとめましたので、よかったら使って下さい」と、お送りしたもので、それも急いで作ったので、文筆作品といっても、『高村光太郎全集』の、詩歌、随筆、日記の巻を斜め読みし、ピックアップしたに過ぎません。それでも、数多くの箇所が見つかりました。

特に昭和24年(1949)に書かれた随筆「みちのく便り 一」には、山小屋から見える天体の魅力をかなりくわしく書いています。

 みちのくといへば奥州白河の関から北の方を指すのでせうが、さうすると、岩手県稗貫郡といふ此のあたりは丁度みちのくのまんなか位にあります。北緯三十九度十分から二十分にかけての線に沿つてゐる地方です。有名な緯度観測所のある水沢町はここから南方八里ほどのところにあり、天体も東京でみるのとは大分ちがひます。星座の高さが目だち、北斗七星などが頭に被ひかぶさるやうな感じに見えます。山の空気の清澄な為でせうが、夜の星空の盛観はまつたく目ざましいもので、一等星の巨大さはむしろ恐ろしいほどです。星座にしても、冬のオライアン、夏のスコーピオンなど、それはまつたく宇宙の空間にぶら下つて、えんえんと燃えさかる物体を間近に見るやうです。木星のやうな遊星にしても、それが地平線に近くあらはれてくる時、ほんとに何か、東京でみてゐたものとは別物のやうな、見るたびにびつくりするやうなもので、月の小さいものといいたい位にみえます。その星影が小屋の前の水田の水にうつると、あたりが明るいやうに思はれます。星の光は妙に胸を射るやうに来るものです。昔の人が暁の金星を虚空蔵さまと称した、さういふ畏敬の念がおのずから起るやうです。夜半過ぎて用足しに起きた時など、この頃の寒さをも忘れて私はしばらく星空を眺めずにはゐられません。このやうな超人的な美を見ることの出来るだけでも私はこの山の小屋から去りかねます。かういふ比較を絶した美しさを満喫できるありがたさにただ感謝するほかありません。たかだかあと十年か二十年の余命であつてもその命のある間、この天然の法楽をうけてゐたいと思ひます。宮澤賢治がしきりと星の詩を書き、星に関する空想を逞しくし、銀河鉄道などといふ破天荒な構想をかまへたのも決して観念的なものではなくて、まつたく実感からきた当然の表現であつたと考へられます。

このとき光太郎、数え67歳でしたが、まるで少年のように、天体の美しさのとりこになっている様子がよくわかりますね。

その他、特に記述が多いのは、月に関してでした。細かく書いていた山小屋生活前半の日記には、天体についての記述がたくさんあります(後半になると、一日に書く長さが短くなり、あまり天体については書かれなくなってしまいます)。特に月は毎日のように記述があり、イラスト入りでその形を記述している日もありました。

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それからこんなものも。

 もう十五年前のことになります。
 初めて紐育へ行つた五月初旬、街路樹にぱらぱら新芽の出る頃でした。このさき、どうして金をとつて勉強していいか、初めて世の中へ抛り出されて途方に暮れながら、第五街の下宿の窓から、街路の突き当たりに、まんまろく出た満月を見て、故郷の父母弟妹のことを思い、止度なく涙の出たのを忘れません。
アンケート「私が一番深く印象された月夜の思出」(大正11年=1922)

俳句でも。

  自転車を下りて尿すや朧月  (明治33年=1906)
  ドナテロの石と対座す朧月  (明治42年=1909)

そして詩でも、「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)、「月にぬれた手」(同24年=1949)などで月をモチーフにしています。


惑星では、ずばり「火星が出てゐる」(昭和2年=1927)という詩がありますし、他の詩でも、木星やら金星やらが出てくる箇所がけっこうあります。

うすれゆく黄道光に水星は傾き、/巨大な明星と木星ばかり肩をならべて、/いまがうがうと無限時空を邁進してゐる。    「落日」 昭和15年(1940)

ああ、もう暁の明星があがつて来た。  「漁村曙」昭和15年(1940)

詩をすてて詩を書かう。記録を書かう。同胞の荒廃を出来れば防がう。私はその夜木星の大きく光る駒込台で/ただしんけんにそう思ひつめた。     「真珠湾の日」昭和22年(1947)

日記でも同様です。

昭和20年(1945) 12月25日 夜晴、火星大也 

昭和21年(1946)1月1日   夜天に星きらめく。オリオン星座顕著なり。オリオンのあとより大きく火星がひかる。
                 
昭和21年(1946) 4月16日  木星が丁度中天に来た頃いつもねる。 月と木星と同位置にあり。夜おそくまで村の子供の叫声がきこえる。月明るし。
                     
昭和22年(1947) 2月25日  夜星うつくし。木星、金星未明の頃大きく輝く。
 
昭和22年(1947) 4月17日  夜も星月夜、明方残月と金星と木星美し。    

昭和22年(1947) 4月25日  夜読書、十時、木星サソリ座にあり。 

昭和22年(1947) 4月29日  夜星出る。木星大なり。       

昭和22年(1947) 5月4日  月おぼろ、木星月に近づく、


そして、星座を形作る恒星に関しても。

風の無いしんしんと身籠つたやうな空には/ただ大きな星ばかりが匂やかにかすんでみえる/天の蝶々オリオンがもう高くあがり/地平のあたりにはアルデバランが冬の赤い信号を忘れずに出してゐる
「クリスマスの夜」 大正11年(1922) アルデバラン……おうし座の一等星

腹をきめて時代の曝しものになつたのつぽの奴は黙つてゐる。/往来に立つて夜更けの大熊星を見てゐる。
「のつぽの奴は黙つてゐる」昭和5年(1930)    大熊星……北斗七星を含む大熊座

イソゲ イソゲ 」ニンゲ ンカイニカマフナ ヘラクレスキヨクニテ
「五月のウナ電」昭和7年(1932) ヘラクレス……ヘラクレス座

或夜まつかなアルデバランが異様に鋭く、/ぱつたり野山が息凝らして寝静まると、/夜明にはもうまつしろな霜の御馳走だ。
「冬が来る」昭和12年(1937) 

まだ暗い防風林の頭の上では/松のてつぺんにぶら下つて/大きな獅子座の一等星が真紅に光る。/隣の枝のは乙女座だらう。/北斗七星は注連飾のやうだし、/砂丘の向ふの海の方には/ああ、もう暁の明星があがつて来た。
 「漁村曙」昭和15年(1940) 

オリオンが八つかの木々にかかるとき雪の原野は遠近を絶つ 昭和22年(1947)

日記では……

昭和4年(1929) 6月10日  夜天東方よりアークチュラスの星、夏の気息を余の横顔に吹きかく。
            注・アークチュラス…… アークトゥルス。 うしかい座の0等星

昭和21年(1946)1月1日
   夜天に星きらめく。オリオン星座顕著なり。オリオンのあとより大きく火星がひかる。
                                   
昭和21年(1946) 1月28日  風おだやかにて晴れ、星月夜なり。オリヨン君臨す。

昭和21年(1946) 3月7日   夜中空はれ間あり。サソリ座大きく出ていゐ。暁近き頃とおぼゆ。

昭和21年(1946) 3月30日  夜星みえる。夜更けてサソリ座大きく立ってみえる。

昭和21年(1946) 4月7日  夜星出てゐる。サソリ座夜半大きく出る。

昭和21年(1946) 5月3日  星出る。星明り。サソリ座高し。     

昭和22年(1947) 1月15日  空晴れ、オリオン美し。

昭和22年(1947) 1月18日   夜でも寒暖計五度をさしてゐる。軒滴の音がする。オリオン美し。

昭和22年(1947) 4月25日  夜読書、十時、木星サソリ座にあり。

昭和22年(1947) 8月14日  晴、昨夜星らん干。サソリ座大きく見え、暁天に廿七日の月出でたり。

昭和22年(1947) 9月16日  夜、銀河明るし。            

昭和22年(1947) 5月4日  星が出ると、オリオン、大犬等の壮観、

それから、智恵子と結婚した大正前半頃、東京駒込林町のアトリエで飼っていた黒猫の名前は、星座のくじら座から取って「セチ」。その猫を謳った詩や、猫の名前にふれた智恵子の書簡も残っています。

とまあ、こんなことをレジュメに書きましたが、とてもすべて説明している時間はなく、バトンタッチ。ともに花巻ご在住で、天文サークル「星の喫茶室」の伊藤修さん、根子(ねこ)義照さん(猫さんではありません(笑))。

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簡単に天体観測について説明のあと、記念館から徒歩5分ほどの、智恵子展望台へ。当初の予定では、こうでした。

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しかし、この時はまた雲が低くたれ込めており、結局、星は一つも見えませんでした。残念。

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ふたたび記念館へ移動。帰り道、山小屋付近で蛍が光りながら飛んでいました。

記念館では、お二人により、DVDの上映や、天体望遠鏡、写真パネルなどの説明。そうこうしているうちに、雲が切れ始め、講座終了後、参加者の皆さんが帰られる頃には、ぽつぽつ星が見えました。展望台に居る時に見えればベストだったのですが、こればっかりは自然相手ですので致し方在りません。それでも、少しでも星が見えて良かったと思いました。

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講座の前後、伊藤さん、根子さんとお話しさせていただいた中で、お二人とも光太郎がずいぶん天体について記述を残しているのに驚かれていました。また、天文愛好家ならではの着眼で、日記の日付と見ている星座の関係から、時にはかなり早起きして夜明け前に星を見ていたはず、というご指摘。ほう、と思いました。それから、光太郎が姻戚の宮崎稔に村上忠敬著『全天星図』の入手を依頼したのも、流石だ、というお話でした。逆に、彗星や流星について、特に、明治44年(1911)のハレー彗星について書き残していないことを残念だとおっしゃってもいました。そのあたりは、今後、新たな文章などの発見があれば、と思っております。

最初に書いたとおり、大自然を愛した光太郎。その一環として天体の美にも反応したのでしょうが、宮沢賢治の影響もあるような気もしています。今後、賢治と光太郎の関わりについてしゃべる機会があれば、そういう話もしようと思っております。

午後9時頃、片付けも終わり、撤収。レンタカーをその日の宿・台温泉に向けました。

以下、また明日。


【折々のことば・光太郎】

山を見る先生の眼に山の叡智がうつる。 山は先生をかこんで立ち、 真に見るものの見る目をよろこぶ。
詩「先生山を見る」より 昭和14年(1939)
 光太郎57歳

「先生」は、光太郎より10歳年長、登山家の木暮理太郎です。2年後に光太郎の『智恵子抄』を上梓する龍星閣から刊行された、木暮の『山の憶ひ出』下巻に載った木暮の写真にインスパイアされて書かれた詩です。やはり大自然の美を愛するものとしてのアフィニティー、ということなのでしょう。
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光太郎、翌年には木暮の山姿の彫刻を作り始めますが、結局、完成しませんでした。

昨日の『福井新聞』さんの一面コラムから。 

越山若水

一昨夜、昨夜と雲にいらだった人が多いかもしれない。火星が地球に最接近する「スーパーマーズ」である。南南東の夜空に赤く輝く星をご覧になれただろうか▼火星は約2年2カ月ごとに地球と接近を繰り返す。その距離は毎回違う。今回最も近づいた5月31日は7528万キロと、ほぼ10年ぶりに「中接近」したという▼「スーパー」だが「中」くらい、では拍子抜けの気がしないでもない。ただ、見た目で一番小さかった1月に比べいまの火星は3倍も大きい。観察には好機である▼高村光太郎も最接近を見たのかもしれない。「要するにどうすればいいか、という問は、/折角(せっかく)たどつた思索の道を初にかへす」と始まる「火星が出てゐる。」という詩がある▼まずい読み手ながら、例えばこんな一節にひかれる。「お前の心を更にゆすぶり返す為(ため)には…あの大きな、まつかな星を見るがいい」。孤高の星を仰ぐ求道者が浮かんで美しい▼地球から月までは約38万キロ。火星はその数百倍も遠く、ロケットで往復するだけで3年かかる。巨額の費用も必要だ。それでも、世界各国が有人探査計画を進めている▼なぜかといえば将来、人類が移住できそうな星だとみられているから。この計画にロマンを感じるかどうか。青く美しい地球を壊した末に「地球が出ている」とうたうのか、と人類の所業に心痛む人も多いだろう。


というわけで、現在、通常時に比べて地球と火星の距離がかなり近い状態だそうです。

そちらを報じた『中日新聞』さんの記事。 

火星が明るい! 5月31日 火星最接近!

火星接近!
午後11時ごろ南東の空を眺めると、赤い光を強烈にはなっている星が目に入る。火星だ。近くの土星やさそり座のアンタレスがかすんでしまうほど。アンタレスは火星の敵という意味だが、アンタレスよりも3等級も明るい-2等星で輝いている。
それもそのはず5月31日は2年2か月ぶりの火星最接近なのだ。しかも今年は準大接近、前回の2014年4月よりも一回り大きな火星が見えるということで大いに期待が高まる。

火星の動き
火星は地球のすぐ外側を公転周期687日で回っているため、地球から星空の中で輝く火星を見ていると、その動きはとても目まぐるしく、ほぼ2年で天球を1周してしまう。
 今年1月におとめ座の足元にいた火星は、東へ東へと順行し、2月にはてんびん座を通過し3月にさそり座、4月にへびつかい座に入ったかと思ったら17日には動きが止まり、逆行モードに転じUターンしててんびん座まで戻ってしまう。
そして6月30日に再び止まって順行に転じて、そのまま東へ足早移動し8月にはアンタレスに接近する。
火星は、地球に追いつかれ並び追い越されてゆくことになる。この間火星はダイナミックに変化をする。地球との距離は、1月には2億3100万kmもあったが、最接近の5月31日には7530万kmまで縮まり、12月には2億2900万kmまで離れてしまう。
 明るさは、1月はおとめ座のスピカと変わらない1.1等から、5月には木星の明るさに迫る-2等に達し、12月には0.8等南のうお座のフォーマルハウトよりやや明るい0.8等まで落ちてしまう。
 気になる大きさ視直径は、1月の6秒角から最接近時の18秒角、そして年末の6秒角へと、猫の目のように目まぐるしく変化する。だからこそ、火星接近は、一大天文現象になるのだ。

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文章ではわかりにくいのですが、図を見れば一目瞭然ですね。

昨夜は関東は快晴で、南の空に火星がくっきり見えました。あやしいほどの光でした。というか、先月中旬くらいら、赤い大きな星が網戸越しにも見えていたので、気になっていました。その後、「火星再接近」というニュースを見て、ああ、あれが火星だったか、と思った次第です。

光太郎ファンは、「火星」というと、次の詩を思い浮かべます。大正15年(1926)、12月5日作。翌昭和2年1月1日の雑誌『生活者』第2巻第1号に掲載されたものです。


    火星が出てゐる005

 火星が出てゐる。
 
 要するにどうすればいいか、といふ問は、
 折角たどつた思索の道を初にかへす。
 要するにどうでもいいのか。
 否、否、無限大に否。
 待つがいい、さうして第一の力を以て、
 そんな問に急ぐお前の弱さを滅ぼすがいい。
 予約された結果を思ふのは卑しい。
 正しい原因にのみ生きる事、
 それのみが浄い。
 お前の心を更にゆすぶり返す為には、
 もう一度頭を高く上げて、
 この寝静まつた暗い駒込台の真上に光る
 あの大きな、まつかな星をみるがいい。
 
 火星が出てゐる。
 
 木枯が皀角子(さいかち)の実をからからと鳴らす。
 犬がさかつて狂奔する。
 落葉をふんで
 藪を出れば
 崖。
 
 火星が出てゐる。001
 
 おれは知らない、
 人間が何をせねばならないかを。

 おれは知らない、
 人間が何を得ようとすべきかを。
 おれは思ふ、
 人間が天然の一片であり得ることを。
 おれは感ずる、
 人間が無に等しい故に大である事を。
 ああ、おれは身ぶるひする、
 無に等しい事のたのもしさよ。
 無をさへ滅した
 必然の瀰漫よ。
 
 火星が出てゐる。
 
 天がうしろに廻転する。
 無数の遠い世界が登つて来る。
 おれはもう昔の詩人のやうに、
 天使のまたたきをその中に見ない。
 おれはただ聞く、
 深いエエテルの波のやうなものを。
 さうしてただ、
 世界が止め度なく美しい。
 見知らぬものだらけな不気味な美が
 ひしひしとおれに迫る。
 
 火星が出てゐる。


「火星再接近」のニュースを見て、この詩を引用した報道やコラムが、全国どこかの新聞に載るだろうと予想していましたら、まさしくその通り、『福井新聞』さんがやってくださいました。ありがとうございます。「まずい読み手ながら」と謙遜されていますが、どうしてどうして、「孤高の星を仰ぐ求道者が浮かんで美しい」という解釈はその通りです。

しかし、同じく求道的な内容であっても、大正3年(1914)の、あまりにも有名な「道程」で謳い上げられた「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」という高らかな調子はありません。この時期の光太郎の、さまざまな面での葛藤や焦燥が込められているからです。

父・光雲を頂点とする旧態依然たる日本彫刻界と訣別し、独自の道を歩き始め、それなりに認められるようにはなっていた光太郎ですが、まだまだ「大家」の域までの評価は得ていません。

かえって、詩の部分での評価が高まり、光太郎の元には、草野心平、尾崎喜八、黄瀛、佐藤春夫、真壁仁、更科源蔵、宮沢賢治、岡本潤、中原中也、高橋元吉、尾形亀之助ら、若い詩人たちが集ってきます。佐藤春夫曰く「多くの若者を愛し、また多くの若者から慕はれた」、「あの人に近づいたあらゆる人が不思議と、みんな自分が一番気に入られてゐたやうな感銘を持つて帰る」(『小説高村光太郎像』昭和32年=1957)ということでした。

こうした若い詩人たちとの交流が、光太郎をしてアナーキズムやプロレタリア文学に近い位置に導きました。もちろん、それは光太郎一流の旧弊な日本を否定する精神あってのことでした。「彼は語る」「上州湯桧曽風景」「機械、否、然り」「似顔」といったこの時期の詩には、人間を人間として扱わない強欲な資本家に対する怒りなどが表出されています。そうした怒りをさまざまな「猛獣」の視点で描いた連作、「猛獣篇」が手がけられるのもこの時期です。

しかし、そうした怒りも、畢竟するに一芸術家としての狭い視野からのものに過ぎず、そこには確固たる社会認識に基づく方法論も、社会変革を志す姿勢にも欠けていました。

光太郎曰く、

その方(注・プロレタリア文学)にとび込めば相当猛烈にやる方だからつかまってしまう。しかし自分には彫刻という天職がある。なにしろ彫刻が作りたい。その彫刻がつかまれば出来なくなってしまう。彫刻と天秤にかけたわけだ。(略)プロレタリア文学の良い部分には勿論ひかれたが、心から入ってはゆけなかった。
(「高村光太郎聞き書き」 昭和30年=1955)

というわけでした。


「火星が出てゐる」の、「要するにどうすればいいか」という自問は、このあたりに関わってきます。

ついでに言うなら、パートナー智恵子も目指していた油絵画家への道をほぼ断念、不安定な状態になっていきます。そして慢性的な生活不如意。二人の生活もさまざまな軋みを見せ始めます。そして智恵子の方は、自身の健康問題、相次ぐ近親者の死、実家の破産、光太郎と違って狭い交友範囲だったこと、更年期障害、子供もいないことなどなど、様々な要因がからみあって、光太郎曰く「精一ぱいに巻切つたゼムマイがぷすんと弾けてしまつた」状態―心の病―になってゆくのです。


さて、火星。

当分は夜間、南の空によく見えるはずです。ひときわ赤く大きく輝いているので、すぐにわかります。それを見ながら、光太郎智恵子に思いを馳せていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

まこもぐささびしう風に香をよせて夕の舟の人泣かしむる
明治35年(1902) 光太郎20歳

一昨日からご紹介している利根川の旅の中での一首です。

昨日は、東京下町区域に出かけておりました。

メインの目的は葛飾区立石のプラネターリアム銀河座さんでのプラネタリウム上映「智恵子抄と春空」の拝見でした。

京成電鉄の青砥駅で下車、案内にしたがって歩くこと数分、いかにもプラネタリウムというドームのある建物が目に入り、すぐにわかりました。

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こちらは證願寺さんという寺院に併設されているという珍しいプラネタリウム施設です。ところが、会場は、通りから見えたいかにも、という建物ではなく、寺院の庫裡のような棟でした。


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この中にドームがあるのです。驚きました。

始めにこの季節の星空が投影され、今見える惑星や星座の説明。プラネタリウムを観るのは数十年ぶりでしたが、機器やソフトの進歩はすごいものがありますね。昔は投影中もドームの内側にうっすらと線が見えたりしていたような気がしますが、そんなこともなく、本当に星空を観ているような感覚でした。

その後、「智恵子抄と春空」。こち002らはスライドショー的な形での上映でした。「智恵子抄」中の絶唱の一つ、「あどけない話」どんよりけむる地平のぼかしを軸に、春の空についてのお話がなされました。


   あどけない話

智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。

智恵子は遠くを見ながら言ふ、
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。


日本人の感覚では「春」といえば「霞」ですね。

しかし、気象用語では「霞」の語は使われず、「雲」か「霧」、あるいは「靄」だそうです。地面に接していないものが「雲」、地面に接していて、視界1㎞以下なら「霧」、それ以上なら「靄」。「春霞」というのは文学としての表現であって、科学的な用語ではないとのこと。勉強になりました。

その「春霞」も、湿気によるものではなく、この季節に大陸から飛んでくる「黄砂」によるもものだというお話でした。この季節に飛来が多く、何とアメリカ大陸にまで到達しているそうです。

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昨今は健康への影響が懸念されるPM2.5(微小粒子状物質)の飛散も問題視されていますね。「あどけない話」が書かれた昭和初期の頃は、まだそうした懸念はなかったのでしょうが、光太郎よりも結核が早く進行した智恵子は、黄砂であっても敏感に反応したとも考えられます。

文学的に考えると、智恵子の言う「東京に空が無い」は、東京の閉塞感を表していると考えられます。絵画修行のため、日本女子大学校卒業後も望んで帰郷しなかった智恵子ですが、アトリエに専用の画室まで作ってもらいながら思うように伸びない自分の力量に対するいらだちはかなりのものだったでしょう。対するにパートナー光太郎の芸術はどんどん世に受け入れられ、明らかにその光太郎は智恵子の絵画を高く評価していません。しかし、実生活の部分では、光太郎は「智恵子によって私は救われた」と公言。それがアイデンティティーの喪失感につながったことは想像に難くありません。

また、もともと社交的でなかった智恵子ですが、光太郎も「俗世間」との交渉をなるべく断とうとしました。後に光太郎はその頃の生活を「智恵子と私とただ二人で/人に知られぬ生活を戦ひつつ/都会のまんなかに蟄居した。二人で築いた夢のかずかずは/みんな内の世界のものばかり。/検討するのも内部生命/蓄積するのも内部財宝。」(連作詩「暗愚小伝」中の「蟄居」昭和22年=1947)と表現しています。二人の間には子供も出来ませんでしたし、まさに「閉塞」ですね。

ところで、昨日のプログラムでは、連翹忌にも触れて下さいました。

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当方自宅兼事務所の庭には、光太郎がその目で見て「かわいらしい花」と言った、終焉の地・中野アトリエに咲いていた連翹の子孫が植わっています。そちらはまだ咲きませんが、剪って花瓶に生けてある方は、室温で暖められ、もう咲き始めました。


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連翹は中国原産です。「黄砂」と同じ「黄色」でも、大違いですね(笑)。


【折々の歌と句・光太郎】

ドナテロの石と対坐す朧月      明治42年(1909) 光太郎27歳

天体系の俳句です。「ドナテロ」はルネサンス初期のイタリア彫刻家。光太郎は高く評価していました。「石」はおそらく野外彫刻でしょう。

ドナテロの彫刻に月光が当たっている、ではなく、「石と対坐」する「朧月」。いいですね。

フィレンツェで詠まれた句ですが、この「朧月」も、サハラ砂漠から飛んできた黄砂の影響なのでしょうか。

東京葛飾区のプラネタリウム施設「プラネターリアム銀河座」さんでの上映情報です。 
高村光太郎の詩集・智恵子抄の「あどけない話」で春の空を考えます。
「桜若葉の間に在る、、、」空の話です。000
春の湿気ある空、春霞を文学とともに考えてみませんか?


投影日と解説員(通常の勤務と違います) 
第1週土曜日 2016/3/5 西かおり・春日了
第3週土曜日 2016/3/19福田弥生・春日了

会  場 : プラネタリーアム銀河座
 
      東京都葛飾区立石7-11-30 證願寺(ショウガンジ)内
時  間 : 15:00~15:50
料  金 : 大人1000円  子供500円(10歳~中学生まで)
定  員 : 22名(予約制)

当方、学生時代、よく池袋サンシャイン60のプラネタリウム施設に行きました。単なる天体などの解説にとどまらず、ストーリーのあるプログラムで、さまざまな内容が楽しめるようになっていました。お約束のギリシャ神話的なものや、現在当方の住む千葉県香取市の偉人・伊能忠敬と天体観測の話などなど。

葛飾のプラネターリアム銀河座さんでも、そのようにストーリー性のあるオリジナルのプログラムを毎月上映されているようで、来月のプログラムが「智恵子抄と春空」だそうです。

こういった分野で光太郎智恵子の世界を取り上げて下さるのは、有り難いかぎりです。


【折々の歌と句・光太郎】

あかつきは早まもあらぬ星かげにおく霜まもる神のみすがた
明治33年(1900) 光太郎18歳

というわけで、星を詠った短歌です。

福島の地方紙『福島民友』さんの記事です。  

“夢実現までの努力”語る 22日、山崎直子さん講演会

 福島ゾンタクラブ主催の「宇宙飛行士山崎直001子講演会」は22日午後1時30分から、福島市公会堂で開かれる。同市教委、福島民友新聞社などの後援。
 同クラブが毎年開催している学校支援事業の一環で、記念講演会は初めて。当日は山崎さんが「将来への夢と希望の実現に向けて」と題して講演。宇宙飛行士としての夢を実現するまでの努力などを紹介するほか、夢を持つこと、その夢を実現するまでの努力の大切さなどを訴える。
 定員は1千人。小中学生、高校生は無料だが、入場整理券が必要。大学生と一般は1000円。チケットは、中合、岡崎陶器店、あきたや楽器店で取り扱っている。問い合わせは白川明美実行委員長(電話024・542・4041)へ。
(2013年7月4日 福島民友おでかけニュース)
 
山崎直子さんといえば、2010年、スペースシャトル・ディスカバリーに搭乗、向井千秋さんに続き、日本人2人目の女性宇宙飛行士として脚光を浴びました。その頃、山崎さんを支えた座右の銘の一つが、光太郎の詩「道程」の一節「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」だったことが報じられたのを記憶されている方も多いことでしょう。
 
才色兼備の女性に愛され、あの世の光太郎も光栄と感じているのではないでしょうか。
 
さて、もうお一方、光太郎をこよなく愛する才色兼備の女性。このブログにたびたび登場していただいている、シャンソン歌手のモンデンモモさん。「道程」などの光太郎の詩にご自分で曲を付け、歌われています。「モンデン」は本名で、漢字で「門田」、れっきとした日本人なのですが、よく「何人ですか?」と聴かれ、そういう場合、「宇宙人です」と答えています。山崎さんとは違った意味で凄い女性です。
 
明日の福島での講演会では、その宇宙飛行士と宇宙人のコラボが実現します。どのタイミングになるのかよくわからないのですが、同じ福島公会堂のステージでモモさんが自作の「道程」を歌われるとのこと。
 
モモさんに聞いた話では、山崎さんのお知り合いの方が、山崎さんと「道程」の関連から、「こんなものがありますよ」と、モモさんのCD(ちなみにその制作には当方も関わっています)を差し上げたとのことで、その縁で今回のコラボが実現しました。
 
当方、モモさんのお供で福島に行って参ります。あわよくば来年以降の連翹忌に、山崎さんに入らしていただこうという目論見ももちろんあります。
 
さて、花巻での調査がまだ途中です。そこで、方角が「同じなので、今日は朝一で花巻に行き、調査。例によって大沢温泉さんに一泊、明日の朝、福島に向かいます。講演会の様子は帰ってきてからレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月21日

明治16年(1883)の今日、光太郎のすぐ上の姉・うめが幼くして歿しました。
 
この年3月に生まれた光太郎はまだ赤ん坊です。したがって、光太郎にはうめに関する直接の記憶はありませんでした。うめは享年数えで5歳。利発な子供だったということです。

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