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先週17日の新聞に、智恵子の母校・日本女子大学さんの元学長・青木生子さんの訃報が出ました。

朝、購読している『朝日新聞』さんの社会面で見つけました。 

青木生子さん死去001

 青木生子さん(あおき・たかこ=元日本女子大学長・理事長、日本上代文学)14日死去、97歳。葬儀は近親者で営む。12月26日に東京都文京区目白台2の8の1の同大目白キャンパスで大学葬を行う予定。


『毎日新聞』さんの方が、よりくわしく業績等記述されているので、そちらも。 

<訃報>青木生子さん97歳=日本女子大元学長・国文学者

 青木生子さん97歳(あおき・たかこ=日本女子大元学長・国文学者)14日、死去。葬儀は近親者で営み、12月26日に東京都文京区目白台2の8の1の日本女子大・成瀬記念講堂で大学葬を開く。時間などは未定。
 東北大など卒。万葉集の研究で知られ、女子教育論も手掛けた。著書に「日本古代文芸における恋愛」「万葉挽歌論」など。93年に勲三等宝冠章。

002

青木さん、ご専門の上代文学以外でも、日本女子大さんに関する御著書が複数あり、当方、一冊持っています。平成2年(1990)、講談社さん刊行の『近代詩を拓いた女性たち 日本女子大に学んだ人たち』。同大の教養部での特別講義の筆録をもとにしたもので、智恵子にも一章割かれています。

基本的な論調は「伝説化された智恵子ではなく、できるだけ生身の人間としての智恵子を、女性として身近に引き寄せながら、彼女の生き方にまなざしを注いでみたいと思います」ということで、同大の同窓会誌である『家庭週報』などの記事を引用するなど、刊行当時としては、智恵子に関するあまり知られていなかった資料が提示されていました。

智恵子以外には、山川登美子、上代たの、平塚らいてう、丹下うめ、大村嘉代子、宮沢トシ(賢治の妹)、網野菊、原口鶴子、高良とみ、茅野雅子が取り上げられています。

残念ながら絶版となっていますが、古書サイト等で入手可能です。


ところで、同じ日の『朝日新聞』さんに、以下の記事も載りました。 

さくらさんへ、明るく別れの歌 ありがとうの会003

 8月に53歳で亡くなった漫画家さくらももこさんをしのぶ「さくらももこさん ありがとうの会」が16日、東京都港区の青山葬儀所で開かれ、約1千人が参列した。笑いを届け続けたさくらさんの意向で、会は「明るくなごやか」がテーマに。参列者はさくらさんの名前にちなんで桜色の小物を身に着けた。
 アニメ「ちびまる子ちゃん」で主人公まる子を演じる声優のTARAKOさんは、まる子の声で「天国へ行くあたしへ。そっちでもたまに、まる子描いてよね」と語りかけた。さくらさんから手紙で歌詞が届き、作曲を依頼された際のエピソードを披露したのは歌手の桑田佳祐さん。「またいつかお会いしましょう」と述べ、2人で共作したアニメのエンディングテーマ曲「100万年の幸せ ‼」を歌った。


亡くなった際には失念していましたが、さくらさん、明治大学教授の斎藤孝氏とのコラボで、平成15年(2003)、集英社さんから『ちびまる子ちゃんの音読暗誦教室』という書籍を刊行されています(著者名は斎藤氏のみのクレジット)。こちらも残念ながら絶版です。

基本、児童書ですが、古今東西の「名文」50余篇を紹介し、斎藤氏の解説に、まる子を主人公とした四コマ漫画が添えられています。で、光太郎詩「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)が取り上げられています。004

   あなたはだんだんきれいになる

 をんなが附属品をだんだん棄てると
 どうしてこんなにきれいになるのか。
 年で洗はれたあなたのからだは
 無辺際を飛ぶ天の金属。

 見えも外聞もてんで歯のたたない
 中身ばかりの清冽な生きものが

 生きて動いてさつさつと意慾する。
 をんながをんな
を取りもどすのは
 かうした世紀の修業によるのか。
 あなたが黙つて立つてゐると

 まことに神の造りしものだ。
 時時内心おどろくほど
 あなたはだんだんきれいになる。



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この書籍、手許にありながらその存在を忘れており、さくらさんが亡くなってしばらくしてから思い出し、このブログでご紹介するタイミングを失って、「しまった」と思っていたところでした。

それが、青木さんの訃報と同じ日にさくらさんのお別れ会の記事が出、「このタイミングで紹介するしかない」と思い、本日、記述いたしました。何か不思議な縁を感じます。ともあれ、お二人のご冥福をお祈り申し上げます。



【折々のことば・光太郎】

感じてゐながら言葉でそれを捉へる事のむつかしさを詩を書くほどのものは皆知つてゐる。よほど素直な心と、美を見る感覚との優れてゐるものでなければ此の境にまでは到り得ない。

散文「八木重吉詩集序」より 昭和18年(1953) 光太郎61歳

昭和2年(1927)に数え30歳で早世した八木重吉は、それが出来ていた稀有な詩人の一人、というわけでしょう。光太郎ファンの当方にとっては、光太郎、あなたもですよ、と言いたくなりますが(笑)。

この前年、草野心平らの尽力で、山雅房から『八木重吉詩集』が刊行されましたが、さらに八木の未亡人・とみ子の編集による決定版詩集の刊行が企図されました。光太郎はそれに向けて上記の一節を含む序文を執筆、さらに題字候補ということで3種類の揮毫をとみ子に送りました。

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八木の詩の題名から採った「麗日」二種、やはり八木の詩「うたを味わう」中の短章の題名から採った「花がふつてくるとおもふ」。それぞれ味のある筆跡ですね。

結局、戦局の悪化等もあり、この時点では決定版的八木詩集は刊行できず、序文、題字揮毫ともお蔵入りとなりました。

神奈川県相模原市にある相模女子大学さんの行事です。

5/14(日)オープンキャンパスを開催します

5/14(日)10時~15時、本学キャンパスにおいてオープンキャンパスを開催します。
本学の学びや模擬授業、学科説明、学科企画、入試制度説明、編入学ガイダンス、カフェテリア体験など実施します。
また、オープンキャンパスに3回参加すると本学学園キャラクター「さがっぱ・ジョー」のぬいぐるみストラップがもらえるイベントも実施します!
新緑のキャンパスで、皆様のご参加を心よりお待ちしております。

日程 : 2017年5月14日(日)
時間 : 10:00 ~ 15:00 予約不要
会場 : 相模女子大学 神奈川県相模原市南区文京2-1-1
内容 : 本学の学び 学科説明 個別学科相談 個別入試相談 保護者向け大学紹介 奨学金について知ろう!
       編入学ガイダンス 先輩と話そう(Q&A) カフェテリア体験 キャンパスツアーなど

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模擬授業メニュー

日本語日本文学科  【高村光太郎『レモン哀歌』を読み解く】
 今日社会が若い世代に求める能力は「読解力」と言われています。実は文化遺産としても優れた文学作品を多角的に読み解くことで、読解力は向上します。本模擬授業では近代の有名な詩を取り上げて、その実践を試みます。(45分)

英語文化コミュニケーション学科  【英語で外国人観光客に道案内をしましょう】
子ども教育学科  【子どもの発達段階ごとの特徴と重視すべき課題 】
メディア情報学科 
 【親子で体験するメディア情報学科  香水とメディアについて考えましょう!】
生活デザイン学科  【フォトショップで間違い探しゲームをつくってみよう】
社会マネジメント学科  【若者の消費者トラブル防止!のためにできること 】
人間心理学科  【音楽のもつ癒しの力】
健康栄養学科  
【カスタード・プディングをつくりながら卵・砂糖の調理性を学びましょう】
管理栄養学科  【栄養とは何か? ―食べることの意味を考える― 】
食物栄養学科  【何をどれだけ食べればいいの? ―実習で学ぶ栄養指導の基礎―】


とうわけで、日本語日本文学科さんで、光太郎詩「レモン哀歌」が取り上げられます。ありがたいところです。

「レモン哀歌」は、現在、東京書籍さんで発行している中学3年用の国語教科書「新しい国語」に掲載されています。現在の高校3年生が中3だった頃にも載っていたはずで、当時を思い起こしながら、そして、当時とまた違った受け止め方ができるはずですので、そういったことを考えながら臨んでほしいものです。

少子化の影響で、一部を除き、各大学さんとも、入学者の確保に四苦八苦という部分があるでしょう。こうした時こそ、各大学の自力の見せ所ですね。

また、彫刻、絵画、装幀、書、詩、短歌、評論、翻訳、建築など、非常に幅広く業績を残した光太郎について、各分野でもっともっと取り上げていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

青空は底がぬけて居るといふ。 なるほど見てゐると 真剣すぎるほどはるかなものだ。
詩「夏書十題 青空」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

すっかり初夏ですね。梅雨入り前のこのひととき、まだ蒸し暑さもピークには達さず、よく晴れた日の青空ははるかに高く感じます。

ただ、紫外線がきつくなってきました。当方、日光アレルギーがあり、これからが大変です。

昨日に引き続き、NHKさんの「連続テレビ小説 あさが来た」ネタです。

新刊のムックをご紹介します。 

日経BPムック 広岡浅子のすべて 仕事と生涯

2016/02/20 日経BP社発行 定価815円+税

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約250点の写真、初公開史料、関係者インタビューで綴る「本当の広岡浅子」。
浅子の姉・春(ドラマでは「はつ」)、嫁いだ天王寺屋の末路は?
浅子死す! ―― その“最期”の状況は?
ドラマでは語られていない「真実」が、この1冊に!

今から約100年前、日本の経済、社会の豊かな発展と女性たちの輝かしい未来を祈った女性がいました。その人の名は、広岡浅子。

時代が大きく転換した幕末から明治の時代を駆け抜け、歴史に名を残す偉人に劣らぬ功績を、いくつも残した女性実業家でした。広岡浅子の生涯は今なお色褪せることのない学びや人生哲学に満ちています。

約250点の豊富な写真、初公開の最新史料、関係者インタビュー。そこから見える「広岡浅子」のすべてを、お伝えします――。

≪主な内容≫
NHK朝ドラのヒロインは“広岡浅子”がモデル
『あさが来た』で注目! 「白岡あさ」の物語

【第1章】 広岡浅子が生きた「九転十起」の人生
【第2章】 浅子が守った「加島屋」と文明開化の日本
【第3章】 浅子の仕事と明治の偉人たち
【第4章】 浅子が育てた人材、築いた「新しい時代」


B5判104頁で、なかなか読みごたえがありました。メインは実在の広岡浅子の紹介ですが、NHKさん提供のスチール写真もふんだんに使われ、番組の紹介も充実しています。

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さらに「【第4章】 浅子が育てた人材、築いた「新しい時代」」の中で、日本女子大学校つながりの智恵子も紹介されています。

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その他、光太郎智恵子と関係の深い平塚らいてう、小橋三四子、井上秀(ドラマでは田村宜)、一昨年の朝ドラ「花子とアン」の主人公・村岡花子らの紹介も充実しています。

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ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

夕ばえや氷河下界に流れ去らず      明治42年(1909) 光太郎27歳

春とはいえ、まだまだ寒い日が続きます。インフルエンザ等も流行中。皆様もご自愛ください。

明治の女性実業家・広岡浅子を主人003公としたNHKさんで放映中の連続テレビ小説「あさが来た」。 いよいよ女子大学校設立に向けての話になって参りました。モデルとなっている学校は、智恵子の母校・日本女子大学校。「日の出女子大学校」という仮名で扱われます。再来週の第23週で、ついに女子大学校開校が扱われるそうです。

同校の開校は明治34年(1901)、智恵子の入学は同36年(1903)。智恵子と浅子、さらに光太郎、そして初代校長・成瀬仁蔵(朝ドラでは成澤泉)との関わりについては、昨年末のこのブログでご紹介しました。

成瀬仁蔵(成澤泉)役の瀬戸康史さんも、なかなかはまり役ですね。ヘンデル作曲の「O' load correct me」を唄うシーンがありましたが、この歌は日本女子大学校の愛唱歌として受け継がれているそうです。「智恵子抄」などの光太郎の詩にオリジナル曲を付けて歌われているモンデンモモさんは、同校の附属高等学校のご出身ということもあり、「智恵子抄」を扱うコンサートではよくこの曲を歌われています。


あさの娘・千代(広岡亀子)の親友で、吉岡里帆さん演じる田村宜のモデルは、同校一回生にして、のちの第4代校長となる井上秀。秀と光太郎智恵子の関わりについても、昨年のこのブログでご紹介しました。

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秀の同級生である一回生には、他にも小橋三四子、柳八重、服部マスなど、光太郎智恵子と関わりの深い人物がたくさんいます。また、ゲスト的に出演なさった三宅裕司さん演じる渋沢栄一は、のちに同校の第3代校長になります(秀が就任するまでの短期間、つなぎのような感じだったようですが)。

また、あさと、既に亡くなってしまった五代友厚(ディーン・フジオカさん)との会話の中で、自転車に関する話題が何度かありました。

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同校ではいち早く自転車を取り入れました。そのための伏線なのでは、と思って見ていましたが、考えすぎでしょうか。ちなみに智恵子のいた寮では智恵子が一番乗りでマスターしたそうです。

今後も目が離せません。


【折々の歌と句・光太郎】

おたがひにおとしめなげく人間のあぢきなきゆゑ寂しさきはまる
大正13年(1924) 光太郎42歳 

朝ドラ「あさが来た」では、女子大学校の開校までの道のりがかなり険しかったこともきちんと描かれています。今朝の回は、あさが刺されて入院している場面でしたが、じっさいにそういうことがあったそうです。お互いに貶め、嘆く悲しき人間の性(さが)と言ってしまえばそれまでですが。

12/20(日)に、智恵子の故郷・二本松で当方が講師として行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしておりますが、今回で終わります。

今回、まずは智恵子と同じく東北出身で、智恵子と深く関わった人々をご紹介します。

服部マス(明治11年=1878~昭和23年=1948)003。智恵子の恩師です。明治30年(1897)、智恵子は故郷・安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校高等科に進みますが、同じ年、福島師範学校を卒業した服部も油井小学校に赴任、智恵子の唱歌の授業を担当しました。明治33年(1900)には二本松小学校に転任しましたが、翌34年(1901)、日本女子大学校が開校するや、退職して国文学部に一回生として入学しました。

マスが三年生になった時、智恵子が福島高等女学校を終えて同校普通予科に入学。これに際し、服部は進学許可を渋る智恵子の両親に説得の手紙を書いたといいます。智恵子の両親も「服部先生が通っている学校なら……」と、進学を認めました。

卒業後は北京予教女学堂、奉天女子師範学堂に勤務。帰国後、大正11年(1922)頃から中華民国留学学生援護機関日華学会理事、中国留 日女子学生寮寮監を務め、「中国人留学生の母」と称されました。


幡ナツ(旧姓・小松 明治19年=1886~昭和37年=1962)。智恵子と同じ家政学部四回生でした。二本松に隣接する本宮町出身で、卒業後すぐ、福島市明治病院長・幡英二と結婚しました。明治42年(1909)、卒業後も智恵子が住んでいた女子大学校楓寮が閉鎖となり、住む所に困っていた智恵子を、自身が下宿していた日本画家・夏目利政宅に住まわせました。

明治45年(1912)、智恵子が福島の明治病院に滞在。ここで絵を描いたそうです。智恵子はこの年、太平洋画会展覧会に油絵「雪の日」「紙ひなと絵団扇」を出品しており、それかもしれません。明治病院さんには、ほぼその当時のまま中庭が残っていて、「高村智恵子ゆかりの中庭」として整備されています。

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左から智恵子、幡英二、ナツ。ナツが抱いているのは長男・研也です。さらにその子息の研一氏は、昨年の智恵子命日の集い、レモン忌にご参加下さいました。

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野村ハナ(旧姓・橋本 明治21年=1888~ 昭和無題43年=1968)。岩手県出身。教育学部二回生(同部は遅れて開設されたため、他学部で云うと七回生に当たります)。智恵子のすぐ下の妹、セキと同級生でしたが、セキより智恵子と仲良くなったと云うことです。帰省や上京の際には、福島の智恵子の実家に寄って泊まることがあったそうです。

同郷の、「銭形平次」シリーズ作者で、音楽評論家でもあった野村胡堂と一大ラブロマンスを経て結婚しました。その際に智恵子がハナの、金田一京助が胡堂の介添えを務めました。胡堂は絵の才能もあり、智恵子がそれを担当するようになる前、女子大学校名物の「文芸会」(文化祭的な)の演劇の背景画を頼まれて描いたそうです。それが智恵子の役目となり、「彼氏の仕事を奪ってしまったわね」と、智恵子とハナは笑いあったとのこと。

また、血のつながりはないそうですが、花巻の宮澤家と遠縁で、赤ん坊の頃の賢治をだっこしたこともあるそうです。


長沼セキ(明治21年=1888~昭和50年頃=1975頃)。智恵子の004すぐ下の妹で、野村ハナと同じく教育学部二回生でした。明治43年(1910)に卒業、大正4年(1915)、児童学研究 の名目で渡米します。その間も郷里に帰らず、東京にいましたが、何をして生活していたのか不明でした。しかし、徐々にわかってきました。

まず、明治45年(1912)7月の、東京高等女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の卒業生名簿にセキの名を見つけました。日本女子大学校を終えたあと、入学し直したようです。

また、同じ年には博文館から発行されていた少女雑誌『少女世界』に少女小説を寄稿しています。同じ雑誌の別の号には、智恵子の絵も掲載されています。

さらに、前後しますが、明治43年(1910)、日本女子大学校の同窓会である桜楓会編集部会報『桜楓会通信』の編輯員に任命、という記録も見つけました。

大正2年(1913)、智恵子の福島高等女学校時代の親友・上野ヤス の婚家(静岡・沼津)で、漱石門下の小宮豊隆(妻子あり)の子を出産。渡米は日本に居づらくなってのことだったと思われます。彼の地で日本人移民と結婚、二子をもうけ、昭和50年(1975)頃歿したそうです。

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セキと野村ハナが一緒に写った写真もありました。中央がセキ、右が野村ハナです。

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宮崎千代(生没年不明)。家政学部一回生。山形米沢出身。弟の省吾は光太郎も参加したヒユウザン会(のちフユウザン会)に所属した画家でした。同じ東北、ということで智恵子と親しくなり、大正3年(1914)、上野精養軒で開かれた光太郎智恵子結婚披露宴に出席しています。智恵子から千代宛の書簡5通が現存しており、貴重な資料です(智恵子書簡は70通たらずしか見つかっていません)。


その他、東北出身ではありませんし、これまでにご紹介して005きた『青鞜』や桜楓会本部ともほとんど関係ない、しかし智恵子と関わった女子大学校出身者をざっと紹介します。

永野初枝 家政学部三回生
 明治42年(1909)、楓寮解散後、一時期、智恵子を自宅に下宿させる。右の画像は『花紅葉』第7号、明治42年(1909)より。

秋広あさ子 中退のため卒業生名簿に記載なし 学部等不明
 明治36年(1903)当時、女子大学校自敬寮で智恵子と同室。智恵子の女子大時代のエピソードの大半は、秋広の回想による。ゼームス坂病院入院前の智恵子を見舞う。昭和21年(1946)、義子と孫が花巻郊外太田村の光太郎を訪問。光太郎晩年まで文通。

旗野八重 国文学部四回生
 歴史地理学者・吉田東伍の姪。智恵子と親しかった。卒業直後、病没。

佐藤澄子 家政学部七回生
 旧姓旗野。八重の妹。在学中、松井昇の助手として勤務していた智恵子に画を教わる。大正2年(1913)、新潟の実家に智恵子を招いて共にスキーに興じた。大正5年(1916)にも智恵子は旗野家別荘に滞在(下写真)。
 のち、立川農事試験場長佐藤氏(姉も女子大学校四回生)と結婚。光太郎詩「葱」のモチーフとなる。智恵子歿後の戦時中には光太郎を援助。

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藤井勇(ゆう) 英文学部四回生
 大正元年(1912)、智恵子、セキとともに、光太郎が滞在していた千葉銚子犬吠埼へ同行。

廣瀬さき 家政学部五回生
 明治39年(1906)、文芸会の背景を描く智恵子の助手を務めた。

内田龍子
  光太郎と交流のあった真壁仁による「高村智恵子の一生」(『高村光太郎と智恵子』  草野心平編 筑摩書房 昭和34年=1959)に、在学中の智恵子と自敬寮で一緒だったとして紹介。卒業生名簿に「内田龍子」名なし。国文学部三回生・山本龍か?


この他にも情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。特に「うちのばあさんが智恵子さんと親しかったので、手紙や写真が残っている」などは大歓迎です。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月27日

昭和4年(1929)の今日、『東京朝日新聞』読書欄に散文「ホヰツトマンの「草の葉」が出た」を発表しました。

「ホヰツトマン」はアメリカの詩人、ウォルター・ホイットマン。光太郎は大正10年(1921)、ホイットマンの『自選日記』翻訳を叢文閣から刊行するなど、彼に傾倒していました。

この年11月、長沼重隆訳のホイットマン詩集『草の葉』が刊行され、それを受けて書かれました。書き出しはホイットマンに傾倒していた光太郎らしく、「ブラボオ! と叫びたい事がある」としています。

12/20(日)に、智恵子の故郷・二本松で当方が講師として行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしております。

今回は、日本女子大学校の同窓会である桜楓会の中心にいたメンバーについて。やはり光太郎智恵子と浅からぬ縁のある人物がいろいろいます。

小橋三四子(みよこ 明治16=1883~大正10031=1922)。国文学部卒、一回生です。

卒業後、桜楓会の機関誌『家庭週報』の編集に携わりました。その後もその経験を生かし、女性編集者として活躍し、『読売新聞』記者を経て、雑誌『婦人週報』を創刊します。広岡浅子の薫陶を最も強く受けた一人で、浅子の随筆集『一週一信』の編集にも携わっています。

光太郎と智恵子を結びつけるのにも一役買っています。智恵子は明治末頃、いろいろな先輩芸術家に話を聴くと云うことを繰り返していましたが、その中で、雑誌『スバル』に「我が国初の印象派宣言」とも云われる評論「緑色の太陽」を発表した光太郎にも眼をつけ、小橋に相談。小橋はさらに同じ国文学部一回生だった柳八重に話を持って行きます。八重の夫・敬助は、画家で、明治39年(1906)、アメリカ留学中に光太郎と知遇を得ていました。

そういうわけで、柳八重(旧姓・橋本 明治16=1883004~昭和47=1972)。小橋とともに『家庭週報』の編集に携わり、やはりその後も女性編集者として活躍しました。

明治44年(1911)末、小橋から頼まれた八重は、駒込林町の光雲宅に居候していた光太郎のもとに、智恵子を伴います。これが光太郎智恵子、二人の運命的な出会いでした。

その後も、夫・敬助と共に大正3年(1914)、上野精養軒で開かれた光太郎智恵子結婚披露宴に出席していますし、夫婦ぐるみでの交際が続きました。

光太郎智恵子、それぞれが八重に宛てた書簡が複数残っています。以下は結婚披露直後のもの。

拝啓 この間はお忙かしい中をおいで下さつて恐入りました それに美しいブーケ迄頂戴して本当にうれしくおもひました まだあの蘭がにほつて居ます 長沼さんはあなたにはじめて紹介されたのが知り合ひの初めなので何だか特別ニあなたにお礼を申さねばならない様な気がします 今度は結婚といふ事についていろんな事を考へました 此から少しは落ちついて製作の出来る様になればいいと思つて居ます 何れ又お目にかかつて御礼を申し上げますが取りあへず手がみにて 二十七日 高村光太郎 柳八重子様
(大正3年=1914 12月27日 光太郎から八重)

 お目出度う存じます
 どうぞ相変りませず御願ひ申上げます
 旧冬私ども結婚の節は御多用の御内をお揃で御臨席下されましてありがたく存じました また其折は結構なお祝ひを頂戴いたし御礼を申上げます その御礼をも申上げませんうちまたこの程わざわざ御光来被下重ねがさね恐れ入りました あのバタは新らしくてほんとにバタらしいにほひです ありがたう存じあげます そのうち是非御伺ひ申上様と存じて居ります 御主人様御母上様にも何卒よろしく御願ひ申上げます 先づは幾重の御礼かたがた御わびまで早々申上ました
智恵
 柳八重子様
  どうぞまた御ゆるりと御越を願ひます
(大正4年=1915 1月3日 智恵子から八重)

微笑ましいですね。


今回、市民講座の講師を仰せつかって、小橋と八重、二人についても改めて調べたところ、こんな評を見つけました。

 柳八重子、(旧橋本)(三十一)は国文科一回の出で、今は西洋画家柳氏の令閨である。在学中校内評判の美文韻文家として、其艶麗な筆は今も尚ほ母校の語り草になつてをる。
 小林(注・小橋の誤り)三四子(三十)八重子と同期同科の卒業生で、桜楓会から発刊する家庭週報に毎号掲げる論文の巧みなのは、校中に比較する者なく、前者の美文に対し後者の論文は供に双璧の噂さ専らにて、尚ほ永く人の記憶に残るであらうとのこと。
(平元兵吾著『八大学と秀才』 大正元年=1912より)005

二人が編集に携わり、さらに智恵子も詩文を寄稿している『家庭週報』についても、こんな評がありました。

 特に注意すべきは桜楓会家庭週報が単に卒業生五名の手によりて毎週発刊せられつゝあることにして、欧米の諸大学に於ては日刊をも発行し居るのに比すれば敢て珍しき事にはあらずと雖も、我帝国大学にすら学生の手になる日刊は愚か週刊すらなきに比すれば、才媛諸子の活動寔に敬服の外なし、況や其内容も整頓し、記事の明確なる等到底之が斯の如き少数女性の経営に成るものと信ずること能はざるの観あり、想ふに本邦に於て女子の経営する週報は実に之を以て嚆矢となす、
(雑誌『新日本』第四号 明治39年=1906 7月 「女子大学校と其桜楓会の活動」芙蓉子 より)

画像は『家庭週報』の広告です。

さらに井上秀(明治8年=1875~昭和38年=1963)も006外せません。

井上は、日本女子大学校第四代校長を務めました。在任期間は昭和6年(1931)~同21年(1946)です。家政学部一回生で、卒業後、欧米留学を経て明治43年(1910)から女子大学校教授を務め、桜楓会初代幹事長でもありました。

京都府立第一高女で、広岡浅子の娘・亀子(朝ドラ「あさが来た」では「千代」)と同窓。その関係で浅子に女子大学校進学を強く勧められました。入学時には既に既婚、子供もいたということです(そういう女性も特に珍しくはなかったと云うことですが)。小橋と共に浅子の薫陶を最も強く受けた一人です。

光太郎が成瀬仁蔵胸像を制作中に、アトリエを訪問していますし、昭和13年(1938)10月の智恵子葬儀に際し、女子大学校代表として参列してもいます。

智恵子の葬儀後の、光太郎から井上宛の書簡も残っています。

拝啓 先般妻智恵子死去の節は御多忙中を御会葬下され千万忝く存上候
このたびは智恵子の同期生諸姉を始め大方の御哀悼を辱うし難有事と存居候ところ中陰の期も追々すゝみ候については一々御答礼可仕筈に候へ共本人の素志もあり母校たる御校へ些少ながら金三百圓御寄附いたして一々の答礼に代へ度本来小生出頭可仕なれど略儀を以て右為替同封致候間御受納下され度奉願候
         敬具
     昭和十三年十一月三日                    高村光太郎
    日本女子大学校長 井上秀子様

光太郎との関わりは、戦後まで続いています。光太郎最晩年、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京してから、井上が光太郎に講演の依頼をし、実現しています。

 今、井上先生が僕についてエラク能書を申し上げたが、こんなに思われているとは考えなかつた。有り難いんだが。また面はゆい気もする。どうか皆さん、余り期待しないで聞いて下さい。期待しすぎると、期待はずれということがある。陰で考えるとそう悪くないが本物を見るとつまらない、こなければよかつた(笑)……こんなことになるかも知れない。

 元来、僕はしやべるのが苦手で、あまり人前ではしやべらないことにしている。それがこうしてのこのこ出て来なければならなかつたのは、亡くなつた妻の母校の校長さんをしておられた井上先生に頼みに来られたからである。井上先生に頼まれたんでは仕方がない。絶体絶命である。悪るい人がいてくれたもんだと思う。(笑)しかし考えてみればこれも縁で。機縁を尊ばなければならぬ。機縁を尊び、いたるところに種をまいてゆく。とすれば、しやべるということもまた一つの菩薩行であろう。自分も一生懸命勉強するが、人にも勉強させる。自分の勉強したところを独り占めしないで、人にも話す、自分の見出したもの、得たもの、或いは自分の苦しみや喜びを人にも訴える、これも人間の務ぢやないかと思う。僕は矢張り話す機会を与えて下さつた井上先生に感謝しなければならない。
(「炉辺雑感」 昭和28年=1953 6月1日発行『女性教養』第173号。「本稿は昭和二十八年二月二十八日 中山文化研究所婦人文化講座の講演筆記であります。」の前書きがある。)


もう一人、仁科節。智恵子の一学年下にあた007 (2)る国文学部五回生で、小橋や八重ののちに『家庭週報』編輯に携わりました。光太郎による成瀬仁蔵胸像制作に際し、実質的に光太郎とのパイプ役を務めたようです。その関係で駒込林町アトリエを訪問し、その様子は『家庭週報』に3回ほどレポートされています。

そのうち、昭和4年(1929)6月の第990号には、駒込林町のアトリエの写真も掲載されています。現存するアトリエ外観の写真は少なく、貴重なカットです。

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繰り返しご紹介していますが、現在NHKさんで放映中の朝ドラ「あさが来た」。日本女子大学校設立に尽力し、開校後も学生や卒業生と交流が深かった広岡浅子が主人公です。今回ご紹介した小橋三四子や井上秀は、特に浅子と縁の深かった人物。おそらく「あさが来た」にも登場するでしょう。期待しています。


次回は最終回として、智恵子と縁のあった東北出身の同校卒業生をご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月26日

平成21年(2009)の今日、地上波テレビ朝日系で「はぐれ刑事純情派 最終回スペシャル さよなら安浦刑事!命を懸けた最後の大捜査!  福島二本松、岳温泉に消えた、“母と呼べない息子”の連続殺人トリック! 人情刑事・安浦、衝撃の過去が明らかに!」が放映されました。

昭和63年(1988)に連ドラとして放映が始まり、平成17年(2005)で一旦終了。「必殺シリーズ」で伝説の殺し屋・中村主水を演じた故・藤田まことさんが、一転してヒューマニティーあふれる役どころで新境地を開きました。その後、スペシャル版として4本が制作された人気ドラマの最終回でした。

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悪人たちの罠に嵌り、殺人事件の容疑者にされた実は無実の青年――安浦刑事と旧知の仲――が、故郷の二本松に潜伏したという設定で、二本松でのロケが敢行されました。

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智恵子生家も登場。

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山手中央署の刑事さんたち、何故か観光スポットのみで聞き込み捜査(笑)。

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二本松市や岳温泉観光協会さんのバックアップなので(笑)。

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クライマックスは岳温泉に近い岳ダムでした。

12/20(日)に、智恵子の故郷・二本松で当方が講師として行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしております。

今回は、雑誌『青鞜』に関わった日本女子大学校出身者について。

まずは平塚らいてう(明治19年=1886 ~ 昭和46年003=1971)。家政学部三回生で、智恵子と同じ生年ですが、早生まれのため、智恵子の一級上になります。しかし、卒業後の明治41年(1908)、漱石門下の作家・森田草平と心中未遂事件を起こし、学校の名誉に傷をつけたと云うことで、卒業生名簿から除籍されてしまいました。処分が解除になり、ふたたび卒業生として認められたのは没後の平成4年(1992)のことでした。

高級官僚だったらいてうの父は、これにより、らいてうがまともな結婚をすることをあきらめたといいます。その結婚資金としてためていた資金を使って、明治44年(1911)に創刊されたのが『青鞜』。らいてうはその表紙絵を智恵子に依頼しました。女子大学校時代の絵画の才能を知っていましたし、テニスを通じ、智恵子の芯の強さ的な部分を認めていたのでしょう。

追記 智恵子の手になる『青鞜』創刊号の表紙絵についてはこちら


もう一人、作家の田村俊子(明治17年=1884 ~ 昭004和20年=1945)。国文学部一回生ですが、病気中退のため、卒業生名簿には名前がありません。やはりらいてうの呼びかけで、『青鞜』創刊号に寄稿しています。その時点で既に俊子と同じく幸田露伴門下の田村松魚と結婚しており、田村姓でした。

『青鞜』メンバーの中では、特に智恵子と仲が良く、どこまで真実か解りませんが、一種の同性愛的な部分もあったことが、俊子の作品に描かれています(「二三日」、「魔」、「わからない手紙」、「悪寒」(以上明45年・大正元年=1912)、「女作者」(大正2年=1913))など。

また、明治45年(1912)には、光太郎の手を離れた画廊・琅玕洞で、智恵子との二人展「あねさまとうちわ絵」を開催しています。俊子が千代紙であねさま人形、智恵子がうちわ絵を出品しました。

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その後、光太郎と結婚した智恵子と、夫婦ぐるみの交無題際が続きますが、やがて松魚と別れ、大正7年(1918)、新しい恋人・鈴木悦を追ってカナダに渡ります。その際には光太郎智恵子は、横浜港まで見送りに行っています。鈴木が亡くなって、昭和11年(1936)に帰国。その際には智恵子はもはや心の病でゼームス坂病院にいました。歴史に「たら・れば」は禁物ですが、もっとも仲の良かった俊子が日本にずっといたら、智恵子の心の病ももしかしたら回避できたかも知れません。


智恵子と俊子は、『青鞜』メンバーの中ではちょっと浮いた存在だったようです。智恵子は俊子とはよく行動を共にしましたが、らいてうをはじめとする『青鞜』中心メンバーとは、少し距離を置いていました。智恵子が中心メンバーとの大きな集まりに顔を出したのは、確認できている限り2回のみです。

初めは明治45年(1912)、大森の富士川という料亭で開催された青鞜社の新年会。写真が残っています。

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智恵子がこういう会合に顔を出すのは珍しい、ということで、中央に据えられたのではなかろうかと思われます。右から二人目がらいてうです。

『青鞜』第2巻第2号(明治45年=1912 2月 この号も智恵子の表紙絵)に、新年会のレポートが掲載されています。智恵子に関わる部分のみ抜粋します。

正月二十一日と云ふ日曜日大森藤ヶ崎の富士川で新年会をした。在京社員全体とは行かなかつたが、松村とし、武市綾、小磯とし、長沼智恵、荒木郁、林千歳、宮城房、らいてう、白雨等が午前から初大師の人の波を押し分けて、集つたので楽しい、盛んな会合だつた。
 会合は翌日の午前二時頃迄続いた。女の世界、全世界の女は皆幸福な者としか思へなかつた。

 長沼氏と荒木氏とらいてう氏と林氏とはいつまでも泡立つコツプに未練を残して席を立たない。「ええゝゝ、さうです、さうです、それです」と我が意を得た人の話を幽に胸息をはづませながら、受け取るは朦朧体の長沼氏で生れて以来青空を見た事がないと云つた様子に、顔を火鉢より低く垂れて、ぐつたりと川土左宜敷、夢のやうに話しては皆んなを悩した。
 「あたし鏡花が大好き、エヽ夏目さんも好きよ。けれどもまだ他に今の若手で二人好きな人があるの、それはおしくてとても云へないわ、」前に延した首は三間も先きの方でかう云つた。撫で肩すらりつと着流した羽織を後にさばいて、品を作つて、こゝみがたに顎をつき出して居る。時々白い歯を見せて笑ふ鏡花式の、はなやかな方は宮城氏で、長沼氏と相隣り、一つの火鉢に睦じそうだつた。

そろそろ隠芸がはじまる。皮切はいつも荒木氏だ。「三味線がなければ」とか何とか難題を持ち出すのは長沼氏だ。

三人丈は雨の止むと共に遅く帰つた。

らいてうは狸寝だらう、何と話しかけても返事をしない。ふと昼間写真をとつた時、「どうすれば美人らしく見えるでせう」と長沼氏を捕へて真顔に訊いて居たのを思出して可笑しくなると共に、脱がさうとする荒木氏のコートを襠のやうに引つかけた海月のやうな長沼氏の姿が浮んだ。

100年以上前ですが、現代の女子会のようですね(笑)。

この時書かれた寄せ書きも、この号に掲載されています。智恵子の筆跡もあるはずなのですが、不鮮明なので解りません。

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2回目はぐっと時代が下って、昭和4年(1929)。「旧青鞜同人のあつまり」ということで、新宿中村屋で行われました。

『朝日新聞』に予告と報告の2回、記事が出、報告の方には写真も載りました。しかし、智恵子は野上弥生子が壁になって、顔の右側の輪郭しか解りません。2年後には心の病が顕在化、悲劇的な末路へと進む運命を暗示しているように見える、というと考えすぎでしょうか。

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その他の初期『青鞜』メンバー中の日本女子大学校出身者には、次のような人々がいました。家政学部四回生だった智恵子と近い年次の人々のみ載せました。

発起人
 保持研子  国文学部四回生 途中退学 のち復学し八回生として卒業
 中野初子  国文学部四回生005
 木内錠子  国文学部四回生
社員
 井上民   国文学部一回生
 大村かよ  国文学部一回生
 山本龍   国文学部三回生
 龍野ともえ 英文学部三回生
 上田君   国文学部四回生
 佐久間トキ 国文学部四回生
 茅野雅子  国文学部四回生 (歌人)
 阿久根俊  国文学部五回生
 松村とし  英文学部五回生
   武市綾子  英文学部六回生 など  
その他006
 木村政   補助団員 家政三
 潘しん   寄付者  家政三
 竹井たかの 賛助員  英文三
 平塚孝   寄付者  国文一 
    (らいてう姉・病気中退)
 上代たの  賛助員  英文七
   (後の女子大学校第6代校長)
 鈴村不二  賛助員  英文七  他

初期『青鞜』の活動は、世間から受け入れられていました。「新しい女」と揶揄されたり、罵詈雑言を浴びせられたりするのは、後に女子美術学校卒の尾竹紅吉が加わり、「五色の酒事件」や「吉原登楼事件」を起こしてからのことです。

こうした『青鞜』の活動も、成瀬仁蔵による個性的な教育の影響が見て取れるような気がします。


次回は、女子大学校同窓会の桜楓会で活動していたメンバーについて。やはり光太郎智恵子と深く関わった人々がいます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月25日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、クリスマスケーキを野生動物に食べられてしまいました。

翌日の日記の一節に、こうあります。

昨夜旧小屋のケーキを野獣がくふ。犬か。

熊は冬眠に入っているはずです。狐か狸かもしれません。先だって、花巻を訪れた際、花巻高村光太郎記念館近くにお住まいの花巻高村光太郎記念会高橋事務局長が、「今朝は犬の散歩中に狐と狸の両方に遭遇した」とおっしゃっていました。

この年6月には、明確な印税制を採らなかった龍星閣(『智恵子抄』版元)が罪滅ぼし的に費用を出して、山小屋に新棟が増築され、寝泊まりはそちらでして居ました。新棟は現在は50㍍ほど移築され、倉庫として使っています。

12/20(日)に、智恵子の故郷・二本松で当方が講師として行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしております。

今回から、日本女子大学校における、智恵子をとりまく人々。

まずは創立者にして初代校長の成瀬仁蔵。003

安政5年(1858)、周防国(現・山口市)に長州藩下級武士の子として出生、明治初期から教育者の道を歩み始めました。2度のアメリカ留学を果たし、その経験から女子教育の必要性を痛感、大阪梅花女学校や新潟女学校で教鞭を執り、やがて女子大学校設立の構想を持ちます。そして広岡浅子や渋沢栄一、大隈重信等の援助を取り付け、明治34年(1901)に日本女子大学校を設立します。

以後、校長として個性的な学校運営を推進するかたわら、自らも教壇に立ち、全校生徒対象の「実践倫理」という講義を受け持ちました。

歿したのは大正8年(1919)。その直前に、女子大学校として、成瀬の胸像制作を光太郎に依頼、光太郎は病床の成瀬を見舞っています。ところが像はなかなか完成せず、結局、14年かかって、昭和8年(1933)にようやく完成しました。別に光太郎がサボっていたわけではなく、試行錯誤の繰り返しで、作っては毀し、毀しては作り、自身の芸術的良心を納得させる作ができるまでにそれだけかかったということです。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

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校長時代の成瀬は、教育者としての厳格な一面も当然ありましたが、決して融通の利かない石頭ではなく、生徒たちに愛される存在でもあったようです。

「偉人は子供である」とは何人(なんびと)でもがいふ校長の総評である。
 一事をばかり熱心に考へていらつしやるので、その余のことは、ぬかつて失敗ばつかり。つひこの間も、欧州からお帰りの渋沢男爵を横浜まで迎へに行つたのに、上着を着て居なかつたさうである。男爵にお目にかゝつて挨拶をしようとして外套を脱ぎにかゝると、はじめて心づいた。
 上着を着て居ないのである。チヨツキの上に外套をかけたまま来てゐる。
 先生の大勢の子供たちが、この事をきいてもう笑ひころげてしまつた。
(『目白生活』 滝本種子 大正3年=1914)

大正期の生徒の回想です。特筆すべきは、こういう失敗をやらかしたことよりも、それを隠さずに生徒に語っているということ。生徒に対する成瀬のスタンスが見て取れます。

さて、智恵子。当然、『実践倫理』の講義は受けていますし、それ以外にも成瀬との個人的な関わりがあります。卒業後の明治43年(1910)11月に、旅行先の群馬赤城山から成瀬に送った絵葉書が現存しています。保存状態が良くなく、□の部分は判読不能です。

 葉鬱せし木も今は骨露はなる冬の赤城 牛は郷に帰り山は眠りに入て風のみ独り暴威を振ひ候 昨今の山籠りはあまり識れる□□□□□なく候へども余り□故にのみ止まりて少しばかりスタデーはし居り申候 御健祥に渡何よりと嬉しく存上まつり候 来月に入りての上帰京し伺申上たく候 御健康を切に願上げ候 早々

すでにご紹介したとおり、智恵子は卒業後、松井昇の助手として母校の教壇に立っていましたし、同窓会である桜楓会の業務にも携わっていました。そこで、在学中よりも卒業後の方が、成瀬との関わりは深まっていたのかも知れません。


続いて、広岡浅子。現在NHKさんで放映中の朝ドラ「あさが来た」のヒロインです。

浅子は嘉永2年(1849)の生まれ。世代的には光太郎智恵子の一世代前で、嘉永5年(1852)生まれの光太郎の父・光雲より年上です。朝ドラを見ていると、波瑠さん演じる若々しい姿しか思い浮かびませんが。

浅子は成瀬の女子教育推進に共鳴、いろいろと援助を行います。このあたりもやがて朝ドラの重要な展開として描かれるでしょう。ちなみに成瀬役は瀬戸康史さん、役名は「成澤泉」だそうです。「あさが来た」では、実名で登場する人物(五代友厚、土方歳三、大久保利通、福沢諭吉ら)と、仮名になっている人物とが入り乱れています。「泉」は成瀬の雅号「泉山」に由来するのでしょう。

ちなみに「あさが来た」、9月の第一回放送は、日本女子大学校(これも仮名で「日の出女子大学校」)の第一回入学式のシーンから始まりました。これが明治34年(1901)、浅子は数え53歳です。

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その後も浅子はたびたび同校を訪れ、生徒や卒業生と交流していたということで、明治36年(1903)入学の智恵子との関わりもあるのでは、と、いろいろ調べてみました。

はたしてありました。

こちらは智恵子卒業時(明治40年=1907)の集合写真です。

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左の方に智恵子、右下に成瀬仁蔵校長、そして浅子。同じ写真に写っていました。こちらは『財団医療法人明治病院百年のあゆみ』という書籍から採らせていただきました。福島市に現在も続く同院の創設者、幡英二の妻・ナツ(中央の赤丸)が、智恵子と同級生で、しかも二本松に隣接する本宮出身ということで、仲が良かったそうです。明治病院についてはこちら

そして、智恵子卒業後の明治43年(1910)、同窓会である桜楓会総会中の分科会・社会部大会。ここで智恵子が自らの絵画修行について発表したことは昨日触れましたが、その智恵子の発表の前に浅子が発言していました。

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こんな縁もあったのです。

また、浅子は御殿場にあった別荘を開放し、女性たちの啓発セミナーのような活動も行っていました。ここには女子大学校卒以外でも、市川房枝や村岡花子なども参加していたとのこと。残念ながら智恵子が参加したという記録は見つかっていませんが可能性はゼロではありません。

さらに、これは以前にもご紹介しましたが、光太郎がやはり日本女子大学校卒の小橋三四子(こちらも後ほどご紹介します)に宛てた書簡に、浅子の名が出て来るものがあります。浅子が歿した大正8年(1919、成瀬と同じ年でした)のもの。

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拝啓
今日新聞で広岡浅子刀自のなくなられた事を知り非常に感動を受けました
先達て頂戴した一週一信をよんではじめて刀自の真生活を知つたばかりの時此の訃音に接して残り惜しい心に堪へません
あなたの御心もお察し出来る気がいたします
しかし刀自の魂は此から後どの位実際的に人〻を導くか知れない事と信じます
どうも黙つてゐられない気がして此の手がみを書きました
刀自に対する尊敬と吊意とをおくみ取り下さい
一月十六日
            高村光太郎
 小橋三四子様


文面にある「一週一信」というのは、前年12月に刊行された浅子の随筆集です。

浅子自身に送った書簡類は確認できていませんが、もしかすると光太郎、さらには智恵子から浅子宛のものが残っているかも知れません。期待したいところです。

成瀬仁蔵・広岡浅子と因縁浅からぬ光太郎智恵子夫妻。というわけで、朝ドラにもぜひ登場させてほしいものです。


明日は同じく日本女子大学校での智恵子をとりまく人々のうち、雑誌『青鞜』を巡る人々をご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月24日

昭和49年(1974)の今日、銀座吉井画廊で開催されていた「白樺派とその周辺――書画展」が閉幕しました。

光太郎の作品も並びました。日本近代文学館所蔵の、美術史家・奥平英雄に贈った書画帖「有機無機帖」です。最晩年の昭和29年(1954)、奥平に贈られました。

12/20(日)に、智恵子の故郷、福島県二本松市で行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしております。

今回は日本女子大学校入学後の智恵子について。003

明治36年(1903)、福島高等女学校を卒業した智恵子は、日本女子大学校普通予科に入学します。翌年には四回生として家政学部に進みました。この四回生というのは、第四回入学生という意味です。

単なる良妻賢母教育にとどまらなかった同校で学ぶことによって、智恵子の才能が開花します。

まず絵画への傾倒。

一昨日のブログでご紹介した松井昇が同校で絵画の指導に当たっており、必修科目ではありませんでしたが、智恵子はそれを選択しました。福島高等女学校時代にも絵の才能は見せていましたが、そのころ取り組んでいたのは岩絵の具を使った日本画。おそらくここではじめて油絵の具に出会います。

智恵子の絵の才能は周囲も認め、女子大学校名物の一つ、秋季文芸会(文化祭的な)では、生徒による演劇の背景画を任されました。夜遅くまで講堂の地下でそれに取り組んでいた智恵子の姿が記憶されています。卒業後も智恵子は母校に残り、松井の助手として勤務、さらに太平洋画会に入会して、洋画家への道を目指します。『三つの泉』、『家庭』といった同校の刊行物や、雑誌『青鞜』などを、智恵子の描いた画が飾りました。

さらにテニス。家政学部で智恵子の一年上にいた平塚らいてうの回想が残っています。

 どちらが先にテニスをやりだしたか、それは忘れましたが、とにかくこのひとの打ち込む球は、まつたく見かけによらない、はげしい、強い球で、ネットすれすれにとんでくるので悩まされました。あんな内気なひと――まるで骨なしの人形のようなおとなしい、しずかなひとのどこからあれほどの力がでるものか、それがわたくしには不思議なのでした。
(『高村光太郎と智恵子』 筑摩書房 昭和34年=1959収録、「高村智恵子さんの印象」より)

下記は平成22年(2010)に朝日新聞出版さんから刊行された『週刊マンガ日本史44 平塚らいてう』です。

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智恵子、完全に悪役顔です(笑)。

らいてうは「どちらが先にやりだしたか、それは忘れましたが」と書いていますが、智恵子は福島高等女学校時代には既にテニスに取り組んでいました。

明治36年(1903)、智恵子が普通予科に入学した年の『日本女子大学校学報』第四号に、この年の運動会の様子がレポートされています。正式種目ではなく、オープニングアクトの「番外」で、テニスがプログラムに入っており、附属高等女学校生を含む15組が対戦したとあります。その選手の中に普通予科の「長沼ならゑ」という名が見えます。

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ところが、後の卒業生名簿を見ると、この年に普通予科だった智恵子と同級の生徒の中には、「長沼」という苗字は智恵子しか居ませんし、「ならゑ」という生徒も居ません。これはもしかすると「長沼ちゑ」を「長沼ならゑ」と書き誤ったのかな、などとも思えます。しかし、中退者も多かったので、卒業生名簿にはなくても「長沼ならゑ」という生徒が存在していたのかも知れません。また、智恵子の一学年下に「中西ならゑ」という卒業生がおり、そのあたりと混同していた可能性または「中西」は結婚後の性で旧姓・長沼可能性もあります。ただ、一つ下では計算が合わないのですが……。智恵子が入学早々に選手として活躍していたとすれば、素晴らしいですね。

さらに女子大名物の自転車も、智恵子は早々と乗りこなしたとのこと。

智恵子と寮の同室だったという秋広あさの回想。

その頃自転車は全く珍しい乗り物でしたが、寮にも一台備えられ、時間決めで練習させられました。皆は“珍しいけど厄介なこと”と云い乍らも誰が最初に乗れるか興味を持つておりました処、他ならぬ智恵子様が一番乗りしたのでした。それと申しますのも、雨の日には雨天練習場に乗り入れて練習したからだつたのでしよう。
(『高村光太郎資料第六集』 文治堂書店 昭和52年=1977収録「智恵子様のこと」より)

他にも秋広の回想は多方面にわたります。たたむ必要のない「無精袴」を考案したり、寮内で堂々と禁止されている間食をしたり、秋広が事情があって中退する時には涙を流して見送ってくれたり……。


卒業後も智恵子は同窓会である「桜楓会」の仕事にも携わっています。機関誌『家庭』や『家庭週報』に、絵や詩文を寄せていますし、同窓会大会の分科会で絵画修行について発表したという記録も見つけました。

当時の桜楓会の組織は「家庭部」「教育部」「社会部」の三つに分かれ、智恵子は「社会部」に所属しました。「社会部」の中に「出版部」があり、その関係で『家庭』や『家庭週報』と関わったと推測されます。

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そして明治43年(1910)4月5日から7日にかけて行われた桜楓会第七回総会の2日目、分科会である社会部大会で、智恵子が絵画修行について発表したことが、同会の年刊誌『花紅葉』第8号に記録されていました。これは従来の智恵子年譜には漏れていた事実です。ちなみにその前年にも社会部大会に出席しています。

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智恵子が光太郎と巡り会うのは、翌明治44年(1911)。今回講師を務めさせていただき、いろいろ調べる中で、光太郎と知り合う前の智恵子のきらめく青春時代が、改めて実感できました。


日本女子大学校で智恵子が関わった人々も、綺羅星の如し。明日以降、それらの人々をご紹介していきます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月23日

昭和6年(1931)の今日、春陽堂から『明治大正文学全集 第三十六巻 詩篇』が刊行されました。 

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光太郎作品9篇が掲載されました。こうしたアンソロジーの類は多いのですが、光太郎自身が作品の選択、詩句の校訂に関わっていると確認できているものは少なく、これはその一つです。

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一昨日、智恵子の故郷・二本松での市民講座「智恵子講座’15」の講師を仰せつかり、講義をして参りました。今日から数回、その内容を換骨奪胎してお届けします。

講座全体のテーマが「高村智恵子に影響を与えた人々」ということで、10月の第1回は智恵子の里レモン会会長の渡辺秀雄氏による「長沼家の家族とふるさと二本松」、先月行われた第2回は福島県中国交流史学会長、元福島女子高教頭の小島喜一氏。題は「油井小学校と福島高等女学校の先生達」、そして午前中の第3回が、太平洋美術会会員の坂本富江さんによる「松井昇と太平洋画会研究所」。

さらに当方が「成瀬仁蔵と日本女子大学校」。明治36年(1903)から同40年(1907)まで智恵子が学び、そして卒業後も少なからず関わった日本女子大学校を軸に、そこで出会った人々をご紹介しました。


こちらは女子大学校時代の智恵子です。

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こんな写真もあります。中央が智恵子ですね。

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まずは大学校そのものについて。

こちらは昔の絵葉書です。

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日本女子大学校は、明治34年(1901)、女子高等教育の第一人者、成瀬仁蔵によって、「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針を掲げ、創立されました。成瀬は明治初期から教育者として活動、大阪や新潟でも高等女学校の教壇に立ったりしていました。

ところが、高等女学校を終えた女子のさらなる行き場が少ないことを憂い、女子大学校設立を画策したわけです。そのために政財界にも働きかけます。そこで、現在NHKさんで放映中の朝ドラ「あさが来た」のヒロイン、広岡浅子(朝ドラでは「白岡あさ」)もからんできます。広岡浅子に関してはまた後ほど。

アメリカ留学の経験もある成瀬は、実に幅広い視野を持ち、女子大学校では様々な取り組みを行います。こちらも古絵葉書ですが、校内に茶室や、農園、牧場なども設けられました。

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また、運動会や文芸会(文化祭的な)は、評判を呼びます。智恵子が入学した明治36年(1903)の運動会は、5,000人を超える観客が集まったとのこと。

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さらに、自転車。運動会のプログラムにも自転車が取り入れられていましたし、運動会以外でも自転車に乗ることが奨励されていたそうです。

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こちらは文芸会の会誌『三つの泉』。明治40年(1907)に刊行されたもので、表紙は智恵子の手になります。国立国会図書館さんのインターネット公開デジタルデータで閲覧が可能です。この中で、智恵子はカットも担当しています。

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こうした運動会や文芸会、その他の部分でも、生徒の自主性が尊重せられ、通り一遍の良妻賢母教育ではなく、自分で考え、行動する女子がどんどん育っていきました。

そうした部分は、寮生活にも関わります。

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こうした寮が最盛期には30近くあり、それぞれの寮で「お主婦さま」というリーダーの下に、整理係、風儀係、体育係、文芸係、園芸係、衛生係など、さまざまな役割を設け、交替でそれぞれの任を担って、自治を行っていました。

さらに卒業後も、同窓会である桜楓会という組織がさまざまな事業を行っていました。上記の農園や牧場、そして銀行業務的なことにまで取り組んでいたといいいます。それから年刊(『花紅葉』)、月刊(『家庭』)、週刊(『家庭週報』)などの出版。これには智恵子もかなり関わっています。

そういう意味では、当時としては、男子校と比べてもかなり画期的な実践が行われていました。そうした中で、たくさんの才媛が輩出され、智恵子もまたその才能を開花させて行きます。

そのあたりは次回に。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月22日

昭和27年(1952)の今日、終焉の地となった中野のアトリエに、青森の地方紙『東奥日報』の記者が十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作の取材に来ました。

この取材の様子は、翌年元日の『東奥日報』で大きく報じられました。光太郎の長い談話も掲載されており、いずれ当方編集の「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』補遺作品集、雑誌『高村光太郎研究』に連載中)でご紹介します。

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