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昨日は埼玉県に行っておりました。

県中央部の東松山市、元教育長の故・田口弘氏が光太郎と交流がおありだったため、何度かお邪魔しているのですが、同市の主にシニアの方々向けの社会教育施設「きらめき市民大学」さんで講座の講師を仰せつかり、お話しして参りました。

同市で講師を務めさせていただくのは3度目となりました。最初は昨年、同市の市立図書館さんに田口氏から寄贈された光太郎関連の資料を展示する「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」がオープンした記念講演、「田口弘と高村光太郎―交差した二つの詩魂―」と題して。二度目は今年の1月、市立図書館さんの主催講座で「高田博厚、田口弘、高村光太郎 東松山に輝いたオリオンの三つ星」という題で、光太郎・田口氏とそれぞれ交流の深かった彫刻家の高田博厚をからめ、お話しさせていただきました。

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すると、同市には主にシニアの方々向けの社会教育施設「きらめき市民大学」さんという施設があって、多方面から講師を招いてさまざまな講義を行っており、そちらでも話をしてくれ、ということになった次第です。

そこで、昨日は「高村光太郎と東松山」と題し、講義をさせていただきました。

90分与えられまして、前半は光太郎の生涯のアウトライン、後半は田口氏、高田博厚との関わりから、市内に残る光太郎関連の資料や石碑、彫刻作品などについて。

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つつがなく終えました。

驚いたことに、事務局の方が、田口氏の奔走で光太郎の筆跡を使って建てられた「正直親切」碑の設置場所である市立新宿小学校さんで建立当時に児童会長をなさっていて、除幕式では児童代表で挨拶をなさったそうでした。

それにしてもきらめき市民大学さん、そういう名称で公民館的な建物を使って実施しているのかと思いきや、そうではなく、きらめき市民大学という施設そのものが存在しており、驚きました。ちゃんとカーナビにも表示されました。

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元は埼玉県立の青年の家だった建物だそうですが。


終了後、隣町の比企郡鳩山町に足を伸ばしました。

昨日は、光太郎が総合的な芸術家だったという実例を示すために、どうせ自家用車ですし、いろいろと車に積み込んで持参し、休憩時間や終了後に受講生の方々に見ていただきました。ブロンズの彫刻、短歌をしたためた自筆の短冊、『道程』や『智恵子抄』の初版、田口氏の御著書などなど。それから、自筆のハガキも一葉。

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10年ほど前に入手したもので、昭和19年(1944)4月13日のものです。送った相手は当会の祖・草野心平主宰の『歴程』同人だった内山義郎。戦後の昭和27年(1952)に角川書店から出た『現代詩集 歴程篇』では、巻末の同人紹介欄に光太郎と並んで名が載っています。

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それによると東京の人だそうですが、住所が「比企郡今宿村」となっています。現在の鳩山町です。観音院という寺院であること、戦時中であることを考えると、どうも疎開なのかな、という気はしていました。

で、調べてみましたところ、「大豆戸(まめど)」という字名は現在も使われており、しかも「観音院」という寺院も健在のようで、行ってみた次第です。

こちらが観音院。
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残念ながらもはや廃寺となっているようでした。それにしても、75年前に光太郎からのハガキがここに届いたのかと思うと、感慨深いものはありましたが。

その後、千葉の自宅兼事務所に戻りました。


さて、「営業」になりますが(笑)、上記のような市民講座等の講師、きちんとした団体さんの主催で(「大東亜八紘一宇の会」とかいうのは勘弁して下さい(笑))、日程さえ合えば、お引き受けいたしますので、お声がけいただければと存じます。


【折々のことば・光太郎】

やはり書は人であり、いかに造型がよくてもわるくても、結局それを書いた人物をよくあらわしています。それがおもしろいです。

アンケート「墨人に」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

上記のハガキなども、何気に書かれた筆跡ですが、きちっとした人格が表れているように感じます。

昨日は埼玉県東松山市で、市民講座の講師を仰せつかっていました。題して高田博厚、田口弘、高村光太郎 東松山に輝いたオリオンの三つ星」。

同市の元教育長で戦時中から光太郎と交流があった故・田口弘氏、光太郎が最も高く評価した同時代の日本人彫刻家にして、光太郎つながりで田口氏と交流があった高田博厚、そして光太郎、この3人が、さながらオリオン座の3つ星のごとく、東松山に大きな芸術文化の花を咲かせた、的なお話をさせていただきました。

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明治16年(1883)、東京に生まれた光太郎。父・光雲の跡を継ぐべく、東京美術学校に入学、3年半の海外留学を経て帰国。ロダンをはじめとする最先端の芸術を目の当たりにし、これこそ自分の道と思い定め、日本彫刻界と訣別します。その決意を「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」(「道程」大正3年=1914)と高らかに宣言するなど、詩にも開眼。画家志望の長沼智恵子と共棲生活に入ります。

そんな時期に、絵を志していた高田と知り合い、たちまちその才を見抜きます。高田は光太郎の影響もあり、彫刻に転じ、ともに芸術精進。さらに人道主義者ロマン・ロランの顕彰などでも手を携えました。

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光太郎は高田の著書(ロマン・ロラン翻訳)の刊行に骨折ったり、装丁を手がけたり、高田と共に雑誌を立ち上げたりしました。

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光太郎と高田が一緒に写った、確認できている唯一の写真がこちら。大正15年(1926)に来日したシャルル・ヴィルドラック(ロマン・ロランの友人)の歓迎会での一コマです。

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その後、共産主義に傾き、当時非合法だった共産党員をかくまったかどで高田は逮捕。そんなこんなで日本に居づらくなった高田は渡仏を決意。光太郎はその援助にも奔走しました。

2通のみ現存が確認されている光太郎から高田宛の書簡は、ともに高田の渡仏直後に送られたものでした。

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やがて智恵子の心の病が顕在化。昭和13年(1938)には、肺結核のため亡くなります。その頃、旧制中学の生徒だった田口氏は、師で俳人、光太郎とも交流があった柳田知常の影響で、光太郎に心酔しはじめました。

日中戦争、太平洋戦争と進む中で、三人三様に苦しい日々を送ります。高田はパリを占領したナチスドイツによりベルリンに移送。田口氏は師範学校卒業後、南方の日本語学校に赴任のため出征(その前に柳田の仲介で光太郎に会いました)し、乗っていた輸送船が撃沈されて九死に一生を得、光太郎は戦意高揚の詩文を大量に書く羽目になり、昭和20年(1945)には空襲で東京を焼け出され、花巻の宮沢賢治の実家へ疎開……。

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やがて終戦。高田はソヴィエトに保護され、パリへ戻ることができ、田口氏は捕虜となったものの復員。そして光太郎は戦時の翼賛活動を恥じて、花巻郊外太田村の山小屋で蟄居生活を始めます。

昭和22年(1947)と同24年(1949)には、田口氏が太田村に光太郎を訪ね、中央公論社版の『高村光太郎選集』全6巻のために、当会の祖・草野心平に資料提供。光太郎は最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、昭和27年(1952)に上京、同31年(1956)に亡くなりました。田口氏はその葬儀に参列しました。

ちなみに「乙女の像」といえば、同時代の若手彫刻家たちは、この像をさんざんにけなしましたが、一人高田のみは、傑作とは言い難いとしながらも、その大自然との調和のあり方をたたえています。結局、けなした彫刻家たちの名は現代では忘れられつつあり、高田の名は残っているわけで、見る目のない者とある者の差異はこういうところにも現れるのでしょう。

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高田は光太郎の没した翌年、帰国。以後、様々な分野で光太郎顕彰に骨折ってくれました。10回限定で行われた、造形と詩、二部門の高村光太郎賞選考委員を務めたり、光太郎の胸像を制作したりなど。

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昭和40年(1965)の第9回連翹忌で、高田と田口氏が初めて出会ったようです。昭和51年(1976)に東松山市の教育長に就任された田口氏は、光太郎顕彰(各地での講演、市内新宿小学校さんに光太郎碑を設置など)の傍ら、高田の彫刻にも魅せられ、同市での高田展や、東武東上線高坂駅前に高田の彫刻群を配した彫刻プロムナードの設立に奔走しました。高田もそれに応え、同市での講演なども行っています。

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田口氏のもう一つの大きな業績、日本最大のウォーキング大会・日本スリーデーマーチの同市での開催にも、光太郎の「歩くうた」(昭和15年=1940)の精神の具現化という意味合いもありました。

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高田は昭和62年(1987)に没。その後も田口氏は光太郎、高田の顕彰に努めます。

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94歳になられた平成28年(2016)には、光太郎から贈られた書や署名本、書簡などを同市に寄贈されました。同年、その展示が市立図書館さんで行われ、関連行事として氏自ら生前最後のご講演。翌年には逝去されました。氏の没後、寄贈された資料は、やはり市立図書館さんに「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が設置され、無料で公開されています。

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田口氏の亡くなった一昨年、鎌倉にあった高田のアトリエの閉鎖に伴い、アトリエにあった彫刻その他も同市に寄贈されています。昨年には、それらを展示する企画展も開催されました。これらも氏のご遺徳の賜ですね。

こういったお話をさせていただきました。

来年は高田の生誕120周年となりますし、今後とも同市では、高田、そして田口氏や光太郎の顕彰に力を注いで下さるそうです。当方、高田に関しては余り詳しいお話をできないもので、今後は高田に通じている方のお話などの機会を設けていただきたいと存じます。

高坂駅前の「彫刻プロムナード」、市立図書館さんの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

除去したい記念像や噴水や建築や壁画の類は東京の街上だけにも沢山ある。今後も続々出来る事だらう。之を取締まる方法は無いか。十分信頼すべき鑑査制度を編み出してくれる頭脳は無いか。全国の自治機関は今の内に此事を何とか始末せねばなるまい。

散文「公共記念碑的作品の審美的取締」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

愚劣かつ醜悪なモニュメントが乱立していた当時の東京に対する苦言です。

田口氏も、おそらくこの文章を目にされた上で、高田の彫刻なら大丈夫と、彫刻プロムナードの設立を決意されたのでしょう。炯眼とはまさにこのことですね。

埼玉県から市民講座の情報です。手前味噌で恐縮ですが、当方、講師を仰せつかっております。

図書館講座「高田博厚、田口弘、高村光太郎 東松山に輝いたオリオンの三つ星」

期   日 : 2019年1月19日(土)
会   場 : 東松山市立図書館 埼玉県東松山市本町2-11-20
時   間 : 13:30~15:00
講   師 : 小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
料   金 : 無料
申 し 込 み : 直接または電話で市立図書館 0493-22-0324

東松山市とゆかりの深い三人の文学と芸術、人生について学びます。

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同市元教育長の故・田口弘氏は、戦時中から光太郎と交流があり、戦後には花巻郊外太田村に蟄居中の光太郎を2回ご訪問、さらに昭和26年(1951)から刊行が始まった中央公論社版『高村光太郎選集』編集のため、戦前から作成されていた光太郎に関するスクラップブックを、当会の祖・草野心平に貸与なさいました。そこで、昭和59年(1984)に、市内の新宿小学校さんに建てられた「正直親切」碑の建立に奔走されたり、平成28年(2016)には、光太郎から贈られた書や署名本、書簡などを同市に寄贈されたりなさいました。氏の没後、寄贈された資料は、市立図書館さんに「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が設置され、無料で公開されています。

さらに、やはり光太郎と交流のあった彫刻家・高田博厚とも親しくされ、光太郎胸像を含む高田の彫刻32点を配した同市の東武東上線高坂駅前から延びる「彫刻プロムナード」整備にも力を注がれました。そうしたご縁から、鎌倉にあった高田のアトリエの閉鎖に伴い、アトリエにあった彫刻その他も同市に寄贈されています。昨年には、それらを展示する企画展も開催されました。

というわけで、田口氏、高田博厚、そして光太郎、3人の交流と東松山との関わりについて、お話をさせていただきます。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

高田君の彫刻の写真は中々見事である。まだ実物は見ないが、此だけでも見当がつく。今知らん顔をしてゐる人達も今に否応無しに此彫刻家を認めねばならない時が来るであらう。実力といふものは面白い。

散文「雑誌「大街道」の事」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

「天才は天才を知る」と申しますが、まだ世間からほとんど注目されていなかった高田の彫刻を、光太郎はいち早く素晴らしいものとして認識していました。

埼玉県東松山市の広報紙『広報ひがしまつやま』の今月号。今年初めに市立図書館さん内にオープンした「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が大きく取り上げられています。

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田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー

ところ  市立図書館2階(常設展示中)
ビデオ上映  午前9時30分~午後5時
問 市立図書館 ☎22-0324 FAX22-0064


田口弘 1922年(大正11年)〜2017年(平成29年)
詩人、教育者。昭和51年から16年半にわたり市教育長を務める。その間、日本スリーデーマーチの開催や、東武東上線高坂駅前に彫刻家・高田博厚の作品32点が並ぶ高坂彫刻プロムナード【高田博厚彫刻群】の整備に携わる。学生時代より、恩師の影響で高村光太郎に傾倒し、生涯研究を続けた。光太郎から贈られた書や交流書簡、関係書籍などを平成28年に東松山市に寄贈した。

高村光太郎 1883年(明治16年)〜1956年(昭和31年)
詩人、彫刻家。彫刻家・高村光雲の長男として生まれる。大正3年、口語自由詩の詩集「道程」を刊行。昭和16年、妻・智恵子との愛の生活をうたった詩集「智恵子抄」を発表。戦後は戦争協力の責任を感じ、岩手県太田村(現花巻市)の粗末な山小屋にこもり自炊生活を送った。アトリエの庭に咲く連翹の花を好んだことから、命日である4月2日には東京と花巻で「連翹忌」が営まれる。

①高村光太郎コーナーの全景。モニターでは光太郎の思い出を生前の田口さんが語りかけてきます。
②光太郎が田口さんのために書した聖書の一節(ロマ書)。
③光太郎から送られた書簡やはがきを展示しています。
④1月13日にオープン式典が行われ、田口さんの長女・直子さんも出席しテープカットが行われたほか、記念講演会も行われました。


東松山市さんといえば、やはり故・田口氏のご遺徳で、光太郎と縁の深かった彫刻家・高田博厚との関わりも深い街です。昨年には鎌倉の高田アトリエにあった遺品類が寄贈されるなどしています。そもそもは、高田の存命中に東武東上線高坂駅前からのびる「高坂彫刻プロムナード」が整備されたのが大きな契機となっています。

その「高坂彫刻プロムナード」の、先月発行された新しいパンフレットを頂きました。恐縮です。

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高田の詳細なプロフィール、東松山市との関係など、オールカラーで40ページ。

32体並ぶ彫刻、一点ずつ、1ページとって紹介されています。下記は光太郎胸像。

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さらに恐縮なことに、「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」オープンの際に、当方が行った記念講演の模様が、東松山市さんのHP内に動画で紹介されています。暇な方は御覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

朝起きて顔を洗ひ含漱をして、ああせいせいしたと思ふのも美である。さういふ単純な感覚上の美がいつのまにか最も深い精神上の美にまでもつながるのである。人は日常身辺の健康な感覚上の美によつて無意識裡に力づけられる。その力が大きい。

散文「十二月八日の記」より 昭和17年(1942) 光太郎59歳

太平洋戦争開戦を受けて、翌年元日発行の『中央公論』に寄せた文章です。

のちに戦局が悪化すると、そうでなくなりますが、開戦の時点での光太郎、まだかなり冷静に「非常時こそ美を愛する心を忘るるなかれ」的な発言をしています。

このブログ、なるべく早くご紹介したい件を先にしています。イベントやテレビ放映情報等は時宜を見て、早すぎず遅すぎぬ時期に。新刊情報、新聞雑誌で光太郎智恵子光雲の名が出た場合などもなるべく直後に、という感じで。逆に速報性の必要ない件は後回しにすることがありまして、今回の件がまさにそうです。

ひと月ほど前、埼玉の大宮で大学時代の同窓会があって参加して参りました。大宮ですと、公共交通機関の場合、夜9時過ぎには出ないと千葉の田舎にある自宅兼事務所に帰れません。翌日は朝からまた別件があり、泊まるわけにも行きません。となると、一次会しか参加できない状況で、それも惜しい気がし、自家用車で参りました。当然酒は飲めませんが、当方、もともとあまり酒は好きではありませんし、最近とみに飲酒の習慣が無くなっていますので、それは苦になりません。

そこで、その同窓会の前に、会場の大宮からそう遠くない、同じ埼玉県の北葛飾郡杉戸町に立ち寄りました。前々から一度行ってみたいと思っていたところでしたので。なぜなら、ここが光太郎のルーツに関わる地だからです。

どういうことかというと、光太郎の父・高村光雲の実母(つまり光太郎の祖母)・すぎ(通称・ます)が、かつてこの地にあった東大寺という寺院(ただし、神仏混淆の修験道のそれ)の出なのです。

光雲の父・中島兼吉(通称・兼003松)は、江戸で香具師(やし)を生業としていました。明治32年(1899)に82歳(おそらく数え年)で歿していますので、文化14年(1817)頃の生まれ。最初の妻との間に、巳之助という子がいましたが、程なく離縁、嘉永3年(1850)頃にすぎと再婚し、同5年(1852)に光雲が生まれています。巳之助は光雲より7歳年上だったそうです。後に腕のいい大工となり、明治22年(1889)、「佐竹っ原」と呼ばれていた現在の新御徒町あたりに、見せ物小屋を兼ねた張りぼての大仏が作られた際、光雲ともどもこのプロジェクトに参加しています。くわしくはこちら

明治になって徴兵令が布かれた際、長男は徴兵免除だったのですが、光雲は次男。そこで、師匠の高村東雲の姉・悦が独り身で居たそうで、その養子となって長男といういわば免罪符を得ました。そのため、高村姓となったわけです。

閑話休題。兼吉とすぎの結婚については、おそらく、香具師だった兼吉が、各地の神社仏閣などの祭礼、縁日などに関わっていたために知り合ったのではないかと思われますが、いろいろわからないことだらけです。光雲や光太郎、それから光太郎実弟の豊周の回想にいろいろ書かれていますが、どれもあやふやな伝聞にもとづくもののようです。第一、すぎ自体、東大寺住職・菅原氏の血縁であることは確かなようですが、何年何月に誰の子として生まれたのかなど、今ひとつはっきりしません。光雲の回想には「東大寺の菅原道甫という住職の娘」とありますが、年代がまるで合わないのです。菅原氏は明治になって東氏と改姓、その後裔の方の書いたものによれば、すぎは道甫の娘・ますの子となっています。すぎの通称「ます」は、母の名を継いだということでしょう。当会顧問の北川太一先生もこの説を採られ、『高村光太郎全集』別巻収録の家系譜はそうなっています。

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ところが、埼玉の郷土史家の方が書かれたものでは、また違う説が唱えられています。

いずれにせよ、光太郎の祖母・すぎ出生の地ということで、行ってみました。

事前の調査では、東大寺という寺院はもはや残っていないそうでしたが、当時の住職等の墓所が残っているということでした。また、隣接していた永福寺さんという寺院は今も健在とのこと。そちらが東大寺の法燈を嗣いでいるそうです。

さて、永福寺さん。杉戸町の下高野地区です。

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山門やら鐘楼やら、そして本堂も、なかなか立派なたたずまいでした。

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本堂には「高村」の千社札。「まさか、関係ないよな」とは思いましたが……。

敷地の一角に、「西行法師見返りの松」。

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源平の争乱により焼失した奈良東大寺の大仏再建勧進の途上、西行法師がこの地で行き倒れ、村人に手厚く看病されたという伝説が残っています。のちに東大寺の重源上人もここを訪れ、その話を聞きいて感動し、西行が運び込まれたお堂に東大寺の寺号を許したとのこと。

ところがその東大寺は、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となってしまいました。神仏混淆の修験道系だったそうで、そうした寺院は廃寺の憂き目に遭うことが多かったそうです。当時の住職・道貞(ますの甥のようです)が、その措置に逆らったあげく捕縛され、八丈島送りになったとも伝えられています。明治初年にはまだ島流しの刑があったのですね。

ちなみに文久年間と思われますが、高村東雲に弟子入りする前の10歳頃の光雲が、丁稚奉公の予行演習のような形で東大寺に一年ほど預けられていたそうです。

永福寺さんの北側に、広大な墓地があります。その一角に、「東氏累代之奥津城」ということで、東大寺の人々の墓所が。神仏混淆らしく、鳥居も建てられていました。

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右上の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、開祖・西行、二世・重源以下、二十七世・道円までの名が刻まれています。すぎの祖父と思われる二十五世・道甫の名もありました。


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左上の画像が、すぎの兄と思われる二十九世・道顕と、その子である三十世・道貞の墓。道貞は八丈島から帰ったあと、東と改姓し、神仏分離ということで、神官となったそうです。

この墓所は、男女で位置が異なり、女性陣の墓石は少し離れた一段低いところにかたまって建てられています(下の画像)。兼吉に嫁いだすぎの墓はありませんが、すぎの母・ますの墓なども含まれているのでしょう。どれがそれかは特定できませんでしたが。

すると、そのかたわらに、一本のソテツの木(右上の画像)。杉戸町内には、道貞が八丈島から持ち帰ったというソテツが遺されているそうで、これもそうなのか、或いはその木から株分けでもしたものかもしれない、と思いました。

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それぞれの墓石に、光太郎の代参のつもりで手を合わせて参りました。


ちなみにすぎ、そしてその夫・中島兼吉(つまりは光雲の両親・光太郎の祖父母)の墓は、台東区の涼源寺さんというお寺にあるそうで、いずれそちらにも行ってみたいと思っております。


【折々のことば・光太郎】

日本の彫刻は埴輪に帰らなくてはならない。

講話筆録「日本の美」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

棟方志功や岡本太郎などとは異なり、光太郎は縄文の美を認めませんでした。ごてごてしていて日本人の感覚ではない、大陸的だと。それが、古墳時代の埴輪には、簡素な明るさがあってすばらしい、としています。ここにも光太郎の彫刻観の一端が見て取れます。

先月、市立図書館さんに「田口弘文庫高村光太郎資料コーナー」をオープンさせた埼玉県東松山市さんの広報紙『広報ひがしまつやま』の今月号に、その件が報じられました。

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オープン記念に開催された当方の講演についてもご記述下さっています。

このコーナーは、戦時中から光太郎と交流があった、同市の元教育長・故田口弘氏から同市が寄贈を受けた光太郎関連の資料を展示するものです。当方のオープン記念講演の中では、氏と光太郎の関わりについて話させていただきました。その中で、昭和58年(1983)、市内に新たに開校した新宿小学校さんに、光太郎の筆跡を写した「正直親切」碑(光太郎の母校、荒川区立第一日暮里小学校さんにも同じ文字を刻んだ碑があります)が、氏のお骨折りで建立されたことにも触れました。

そうしましたところ、講演会終了後、市役所の方が、当時の資料が見つかったというので、送って下さいました。B4判二つ折りのリーフレットです。

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当時教育長だった田口氏の「この石碑ができるまで」、当時の校長先生による「記念碑の除幕にあたって」、そしてこの文字を提供して下さった、当時の花巻高村記念会の浅沼政規事務局長が書かれた「高村光太郎書「正直親切」の由来について」が掲載されています。浅沼政規氏は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)にほど近い、山口小学校の初代校長先生でした。もともと「正直親切」の文字は、昭和23年(1948)に、同校が太田小学校山口分教場から山口小学校に昇格した際に、光太郎が校訓として贈ったものです。氏は平成9年(1997)に亡くなりましたが、ご子息の隆氏はご健在。山口小学校に通っていた頃、光太郎の山小屋に郵便物を届けに行ったりなさっていて、今も光太郎の語り部としてご活躍中です。

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ところで、驚いたのは、このリーフレットに光太郎詩「少年に与ふ」(昭和12年=1937)が印刷されていたこと。先日の講演会の冒頭に、地元の朗読グループの方が、光太郎詩と、詩人でもあった田口氏の詩を一篇ずつ朗読なさることとなり、何かふさわしい詩は、と照会されたので、この詩を推薦しました。光太郎詩の中ではそれほど有名な作品ではありませんが、「持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。/天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。/それが自然と此の世の役に立つ。」という一節が、まさに田口氏の生き様に通じると思ったからです。そうしましたところ、昭和58年(1983)作成のリーフレットで、やはり田口氏がこの詩を選んでいたということで、驚いた次第です。

また、田口氏は、光太郎つながりで、彫刻家の高田博厚とも親交を深め、同市の東武東上線高坂駅前からのびる「彫刻プロムナード」整備にも骨折られました。その縁で、先月、高田の遺品、遺作が同市に寄贈されることとなりました。その件でも同市役所の方から照会がありました。高田の居住していた鎌倉のアトリエのリビングに、光太郎の絵らしきものが掛かっていたが、これは何なのか、と。

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大分色が褪せていますが、これは昭和22年(1947)11月30日発行の雑誌『至上律』に口絵として載ったもので、当時光太郎が蟄居していた花巻郊外旧太田村の水彩スケッチです。この切り抜きを高田が壁に掛けていたと知り、胸を打たれました。

さて、同市立図書館さんの「田口弘文庫高村光太郎資料コーナー」、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

何だかあたり前に出来てゐると思へれば最上なのである。それが美である。

散文「蝉の美と造型」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

光太郎が好んで木彫のモチーフとした蝉に関する散文です。本来薄い翅(はね)をかえって厚く仕上げるところが腕の見せどころ、としています。そうすることで、彫刻的な美しさがより顕著になるそうです。しかし、翅が薄いとか厚いとか、そんなことは気にならずに、すっと目に入ってくるもの、「何だかあたり前に出来てゐる」べきともしています。

このことは彫刻に限らず、詩にしても、絵画にしても、書にしても、光太郎芸術の根柢に流れる考え方で、実際にそれが実現されているといえるでしょう。

昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。

昨年2月に亡くなった、同市の元教育長で、戦時中から光太郎と交流のあった故・田口弘氏が、一昨年、光太郎から贈られた書や書籍など、一括して同市に寄贈なさり、市立図書館さん内に、その展示スペース「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が設置され、昨日はそのオープンセレモニー等が行われました。

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そのオープンセレモニーのあとの記念講演講師の依頼があり、馳せ参じた次第です。

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午後1時半から、資料コーナーに椅子を並べた会場で、オープンセレモニー。

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設置の経緯の説明や、森田市長さんはじめ来賓の方々のご挨拶等に続き、テープカット。田口氏のご息女もハサミを持たれました。


コーナーの概要をお知らせします。

まず目を引くのが、田口氏が光太郎から贈られた書。

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凸版印刷さんにお願いし、作っていただいた複製だそうですが、この手の技術の進歩には目を見張るものがあります。精巧に出来ており、ぱっと見には本物と区別が付きません。

左の大きな書は、新訳聖書の「ロマ書」の一節「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」。昭和24年(1949)に書かれたもので、筑摩書房『高村光太郎全集』第17巻のグラビアにも使われています。光太郎が聖書の文句を揮毫したものは珍しいのですが、故・田口氏が敬虔なクリスチャンだったことに由来します。

右の方は色紙「世界はうつくし」、「うつくしきもの満つ」など。はじめ、故・田口氏が昭和19年(1944)、南方に出征する際、光太郎に書を書いてもらったそうですが、氏を乗せた輸送艦が撃沈され、氏は九死に一生を得たものの、書は海の藻屑と消えたそうです。そこで戦後、復員された氏が花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に蟄居していた光太郎を訪ね、再び同じ言葉を揮毫してもらったというものです。

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光太郎からの書簡類。こちらも基本、カラーコピーですが、小包の包装、鉄道荷札などは現物でした。

それから、光太郎の署名入りの中央公論社版『高村光太郎選集』全6巻。昭和26年(1951)から28年(1953)にかけ、当会の祖、草野心平が中心となって編まれたものですが、故・田口氏が新聞雑誌等から切り抜いたスクラップブックが大いに役立ったそうです。

その他、氏がこつこつ集められた光太郎の著作や、光太郎智恵子に関する書籍類も大量に寄贈されたそうで、それらは定期的に入れ替えながら展示されるとのこと。

002


同館2階にこのコーナーが設けられ、無料で拝観できます。ぜひ足をお運びください。

オープンセレモニーの終了後、3階視聴覚ホールを会場に、当方の記念講演。「田口弘と高村光太郎 ~交差した二つの詩魂~」と題させていただきました。

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前半は、総合的な芸術家として、つまづきをくりかえしながらも大きな足跡を残した光太郎の生涯を紹介させていただきました。途中から、故・田口氏とのかかわり、そして光太郎の「詩魂」を受け継ぎ、光太郎とはまた異なる分野で活躍された田口氏の業績を追いました。

講演に先立ち、地元の朗読サークルの方が、光太郎と、詩人でもあった田口氏の詩を一篇ずつ朗読されることになり、何かふさわしい詩はないかというので、以下の詩を指定させていただきました。

光太郎詩は「少年に与ふ」。昭和12年(1937)、雑誌『無風帯』に発表され、同18年(1943)、詩集『をぢさんの詩』に収められました。

   少年に与ふ015

 この小父さんはぶきようで
 少年の声いろがまづいから、
 うまい文句やかはゆい唄で
 みんなをうれしがらせるわけにゆかない。
 そこでお説教を一つやると為よう。
 みんな集つてほん気できけよ。
 まづ第一に毎朝起きたら
 あの高い天を見たまへ。
 お天気なら太陽、雨なら雲のゐる処だ。
 あそこがみんなの命のもとだ。
 いつでもみんなを見てゐてくれるお先祖様だ。
 あの天のやうに行動する、
 それがそもそも第一課だ。
 えらい人や 名高い人にならうとは決してするな。
 持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。
 天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。
 それが自然と此の世の役に立つ。
 窓の前のバラの新芽を吹いてる風が、
 ほら、小父さんの言ふ通りだといつてゐる。


おそらく、少年(青年)時代の田口氏もこの詩を読んだと思われます。そして、戦後に復員されてからの氏のご活躍は、まさに詩の後半の「えらい人や 名高い人にならうとは決してするな。/持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。/天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。/それが自然と此の世の役に立つ。」を地でゆくようなものだったと思い、この詩を指定した次第です。

追記:昭和58年(1983)、市内に新たに開校した新宿小学校さんに、光太郎の筆跡を写した「正直親切」碑が建立された際のパンフレット(おそらく田口氏も制作に関わられたはず)にこの詩が印刷されていました。「やはり」という感じでした。

田口氏の詩は、「けさ八十歳」。光太郎から受け継いだ「詩魂」を、どのように生かしていったかと、そういう詩です。94歳で亡くなった氏が80歳になられた時の作品ですが、氏の半生が履歴書のように一望できます。

     けさ八十歳004

 八十歳のけさは春の彼岸の入り 雲なく風なし
 白木蓮の円錐の樹形の花群れは
 純白の光のいのちを一身に聚め
 吹上の溢れるほどの豊満な花輪の賜りもの
 それに応えるおまえの八十までは何だったのか
 何でおまえは生きてきたのか
 この日頃思案してもの怖じもなく答えれば
 ハイ 感動を求めて生きて来ました と
 その折々の天の配剤をいただいて
 幼くして母、姉と一時に死別 父、兄妹と離ればなれ
 中学時代かけがいのない師 柳田知常先生に私淑
 駒込林町の高村光太郎さんの美に導かれ
 アララギの五味保義先生の姿勢を敬慕し
 戦いの末期 ルソン島沖を泳いで助かる014
 その折失った高村さんの餞別の書「美しきもの満つ」は
 岩手の山小屋で再び書いて頂いて 今在る
 復員した青年教師は〈創造美育〉の運動に熱中したり
 五年間 日教組のオルグでストライキに人の重さを知る
 また全国教育研究集会の「美術」の司会を担当
 推されて埼玉教職員組合の委員長をしたり
 自分の能力の適正を危ぶむ労働金庫の専務まで
 そんな有為転変もいま思いかえせば
 みんなみんな神さまの深いお図らいだったのか
 この一人の運命の曲がり角はそうとしか考えられない
 きわどくしかも無理のない選択だったのか
 〝風はおのが好むところに吹く〟ように
 終わりの十六年 幸せにふるさとの教育長に迎えられ
 今までのキャリアを集注して教育と文化運動にかかわる
 たまたまその間 日本スリーデーマーチの実行委員長
 以来朝の〈歩け〉は二十三年累計四万キロで地球一周にも
 ウォークマンで十年モーツアルトに離れがたく
 兄に眼を開かれた絵は
 ルオーの「キリスト」に辿り着く
 旬日 フィンの息子からスタミッツのセロのCD届く
 もうすぐ高村さんの連翹忌がやってくる

氏は同市を会場に開催されている「日本スリーデーマーチ」の実行委員長も永らく務められましたが、そこにも光太郎の影響があったそうです。

「文化運動」という部分では、やはり光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚と親交を結ばれ、光太郎胸像を含む高田の彫刻32点を配した同市の東武東上線高坂駅前からのびる「彫刻プロムナード」整備にも骨折られました。その縁で、先月、高田の遺品、遺作が同市に寄贈されることとなりました。亡くなった後も、氏のご遺徳による業績が続いているわけです。


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平成27年(2015)、氏のご自宅にお邪魔する機会がありました。その際に氏がおっしゃったお言葉が、忘れられません。「大事なのは、光太郎なら光太郎から学んだことを、あなたの人生にどう生かすか、ということです」。まさしく氏は、光太郎から受け継いだ魂を、さまざまな分野に生かされたわけで、昨日の講演でも、そのようなお話をさせていただきました。不覚にも、講演をしながら、その時の光景がよみがえり、うるっと来てしまいました。


同市では、高田博厚の関係等で、今後も色々と動きがありそうです。また情報がありましたらお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

彫刻は極度に触覚の世界である。此れを浅くしては指頭の感覚、此れを深くしては心の触覚、此世を触覚的に感受し精神を触覚的にはたらかす者、それが彫刻家である。

散文「七つの芸術」中の「二 彫刻について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

故・田口氏にしても、「心の触覚」を鋭敏に働かせて、さまざまな業績を残されたのでしょう。「心の触覚」、言い換えれば「詩魂」となるでしょう。

今月9日に亡くなった、元埼玉県東松山市教育長にして、生前の光太郎と交流のあった田口弘氏の追悼ページが、同市のホームページ上にアップされました。


全国的に見ても非常に異例のことだと思いますが、それだけに氏の功績や人徳の大きさが偲ばれます。多年にわたり教育長を務められた他、東武東上線高坂駅から伸びる「彫刻プロムナード」(光太郎胸像を含む高田博厚作品群が設置)の整備、同市を会場とした「日本スリーデーマーチ」開催・運営への尽力、そして昨年の光太郎関連資料の寄贈などなど……。

動画投稿サイトYouTube上には、昨夏撮影された氏へのインタビューがアップされ、上記のページにも貼り付けられています。こちらでも転用させていただきます。


光太郎の日記は、明治末のもの、昭和20年(1945)に花巻に疎開した後のものを除くと、戦前・戦時中のものは空襲で灰になってしまいました。したがって、その出会いの頃の日記は残っていません。戦後のものも、昭和24年(1949)、25年(1950)の大半は失われています。

花巻郊外太田村の山小屋で書かれ、残っている戦後の日記に氏の名が初めて出て来るのが、昭和22年(1947)8月23日。上の動画で3分33秒頃からのエピソードです。

午後少し横になる。田口弘氏来訪に起される。木村知常氏の教子。フイリツピン ジヤヷの話等。「ジヤヷ詩抄」肉筆、余に献してくれる。乳かんづめ、急須、湯呑等もらふ。林檎御馳走する。三時半辞去、西鉛を教へる。明日詩碑へ詣る由。

「詩碑」はおそらく花巻町の光太郎が碑文を揮毫した宮沢賢治詩碑と思われます。


それから翌年2月9日。

<田口弘さんより去年八月もらつた乳カンをあける>

おそらく練乳でしょう。


続いて昭和26年(1951)12月22日。

選集第三回分を尾崎喜八、宮崎稔氏、田口弘氏宛の小包をつくる、

さらに「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した後の、同28年(1953)2月16日。

藤島氏に田口弘氏宛小包托、

「選集」は中央公論社から全六巻で刊行された『高村光太郎選集』。田口氏が作っていた光太郎のスクラップ帳も参考に草野心平が編集にあたりました。動画では9分45秒頃からその話が出ています。

その他、『高村光太郎全集』およびその補遺である当方編集の「光太郎遺珠」(雑誌『高村光太郎研究』連載)に、光太郎から田口氏宛の書簡が計10通。それら全て(小包の包装紙まで保存されていました)、昨年、東松山市に寄贈され、公開されています。

改めて氏の追悼展的に展示されることを期待します。


【折々のことば・光太郎】

敷居の前にぬぎすてた下駄が三足。 その中に赤い鼻緒の 買ひ立ての小さい豆下駄が一足 きちんと大事相に揃へてある。 それへ冬の朝日が暖かさうにあたつてゐる。
詩「下駄」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

止まった市電の窓から見えた煎餅屋の店先の様子です。そのものを描かなくとも、おかっぱ頭の小さな女の子の姿が目に浮かび、見事です。

短いフレーズを切り取ることが出来ず、このコーナーでは割愛しましたが、この時期、「小娘」「丸善工場の女工達」「米久の晩餐」など、市井に生きる無名の人々に対する暖かな眼差しが感じられる詩が多く作られました。

昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。同市の市立図書館で開催中の「高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~」を拝見、さらに講演を拝聴して参りました。田口弘氏は同市の元教育長。戦時中から光太郎と親交のあった方です。

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開館と同時くらいに現地に到着、まずは展示を拝見しました。

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入ってすぐが光太郎肉筆資料のコーナー。書や書簡等がガラスケースに並べられています。以前に田口氏のお宅ですべて拝見しましたが、きれいに並べられていると、また違った見え方がします。

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書簡の大半は、戦後の花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)からのもの。山小屋暮らしの一端が垣間見え、興味深いものです。

例えば昭和25年(1950)2月の封書。欄外に「積雪の重みで電燈は断線、小さな物置小屋はつぶれました、」などとさりげなく書かれています。

一通のみ、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、再上京して居住した中野のアトリエからのハガキがあり、そちらでは乙女の像の制作にも触れられています。

仕事のことに没頭してゐるため、ついお便りを書くことさへのびのびとなつてゐました、仕事の方は着々進んで居ります、

周囲の壁には、花巻高村光太郎記念会さんご提供の写真画像(山小屋生活の様子、乙女の像など)が引き延ばされて貼られており、理解が助けられます。

会場奥は、光太郎に関わる元の田口氏蔵書。光太郎本人から送られたサイン入りのものから、平成に入ってからのものまで、さまざまです。光太郎から贈られたものについては、その小包の包み紙や鉄道荷札まで保存されており、一緒に展示されていました。

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また、昭和58年(1983)、田口氏のお骨折りで市内の新宿小学校に建立された光太郎書を刻んだ「正直親切」の碑の画像、その元となった光太郎の書(複製/花巻高村光太郎記念会提供)、さらに田口氏、光太郎本人と交流のあった彫刻家・高田博厚のコーナーも設けられていました。

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同館ではここまでがかりな企画展示は初めてとのことでしたが、なかなか充実した展示でした。


その後、展示会場と隣接する視聴覚ホールにて、田口氏のご講演。教育委員会の方もご登壇し、インタビュー形式でのお話でした。「矍鑠(かくしゃく)」という表現が適当かどうか分かりませんが、大正11年(1922)のお生まれで、おん年94歳の田口氏、ユーモアを交えながら、非常に貴重なお話をご披露されました。

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昭和24年(1949)8月、復員後、中学校教諭をなさっていた氏は、二度目の太田村ご訪問をなさいました。この年の大半の光太郎日記は現存が確認できないのが残念です。その際に氏と同道した当時の教え子お三方のうちのお一人、馬橋旭氏も会場にいらっしゃり、思い出をお話下さいました。

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午後は、同じ会場で昭和42年(1967)公開の中村登監督・岩下志麻さん、丹波哲郎さんコンビによる松竹映画「智恵子抄」の上映がありました。ただ、以前にも観たことがありましたし、他の用件もあったためそちらはパスしました。いずれまたゆっくり拝見したいとは思っております。


同展は28日(日)まで開催中。ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

小鳥らは何をたのみてかくばかりうらやすげにもねむるとすらん
制作年不詳

昨日に引き続き、昭和5年(1930)頃に制作された木彫「白文鳥」を包む袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌です。こちらは、画像左の雌の方に添えられたものです。

雌雄を比べてみると、ぱっちりと眼を開けている雄に対し、雌の方はやや眼を細めています。

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先頃、埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏が、書簡や書など光太郎関連資料を寄贈された件がニュースになりました。地元テレビ局・テレ玉さんの報道がこちら。『東京新聞』さんと『毎日新聞』さん、そして『産経新聞』さんはこちら

少し遅れて先週、『朝日新聞』さんの埼玉版にも記事が載りました。

埼玉)高村光太郎の書簡、元東松山市教育長が寄付

005 元教師で、東松山市教育長を長く務めた田口弘さん(94)が先月、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883―1956)から届いたはがきや封書、色紙、直筆サイン入り全集など約100点を市へ寄贈した。書簡は主に戦中戦後、田口さんが高村に送った自作の詩や食料品に対するお礼状で、高村の誠実な人柄がうかがえる。
 田口さんは旧制松山中学に在学当時、国文学者だった恩師の影響で高村研究を始めた。師範学校専攻科で、新聞や雑誌に載った高村の記事や作品をノートに書き写すなどして卒業論文にまとめた。44年4月、その恩師に連れられて高村を訪ね、論文を見せたところ、「僕より僕のことを知っているね」と言われたという。
 「すでに『智恵子抄』などを発表した著名人だったのに、初対面の学生の論文を丹念に読んでくれた」と感激した田口さんは、ますますファンに。海軍軍属として南方戦線へ赴く直前に会うと、「世界はうつくし」など色紙2枚を書いてくれたという。田口さんはインドネシアで捕虜生活をおくりながら詩作に励み、「ジャワ抄」にまとめた。
006 復員後、岩手県の疎開先へ高村を訪ねた田口さんが、戦地で色紙を失ったことをわびると書き直してくれた。新制松山中学の教諭となった田口さんは、その後も妻が編んだ靴下や高村が好物の練乳など食料品を送り続け、生まれた長男には「光夫」と名付けた。
 練乳に対して高村は「かかる乳製品の貴重なものを老人がいただくのは世の嬰児達(えいじたち)に相済まぬ気がいたしましたが」「紅茶に入れたり、うすめて朝ののみものにしたり、パンをつくったりしてよろこんで居(お)ります」と封書をしたためた。
 田口さんが送った作品には「立派なものです。新鮮で、ほんとの感じに満ちてゐます」などと評し、「ジャワ抄」で田口さんが用いた「カンポン」(集落)という現地語を返礼のはがきの文面に使うなど気遣いも随所に見せている。
 田口さんは「高村は今も、私の生き方の教科書。若い時代の出会いが人生を決める。寄贈する書簡で、若い人が高村の崇高な人間性にふれてくれれば」と話す。市は書簡を市立図書館に所蔵し、8月10日から公開することにしている。(西堀岳路)

記事にある「ジャワ抄」は正しくは「ジャワ詩抄」。田口氏手製の詩集です。


記事にある市立図書館での公開及び田口氏の講演会について、市の広報誌『広報ひがしまつやま』の今月号に、案内が掲載されました。 

高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~

期 日 : 8月10日(水)~28日(日) 
会 場 : 東松山市立図書館3階展示室 東松山市本町2-11-20
時 間 : 午前9時30分~午後7時
休館日    : 第4月曜日

講演会
期  日 : 8月21日(日)午前11時~11時45分
会  場 : 市立図書館3階研修室
講  師 : 田口 弘 氏
定  員 : 50人(申込順)
申込み 8月5日(金)から直接又は電話で市立図書館へ。[TEL] 0493(22)0324

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『広報ひがしまつやま』、さらに田口氏と光太郎の関わりについての記事も掲載されています。

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当方も講演会にはお邪魔しようと考えております。

展示される資料も、光太郎自筆ハガキ以外にも、筑摩書房『高村光太郎全集』の口絵を飾った書や、それらが贈られた際の小包の包装紙、鉄道荷札などもあるはずで、光太郎の息吹がありありと感じられる逸品ぞろいです。ぜひご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

つつましく手にはふ小蝉ぢぢとなきたちまち飛びて青空に入る

大正13年(1924) 光太郎42歳

過日ご紹介した、埼玉県東松山市の元教育長で、生前の光太郎をご存じの田口弘氏から、市へ光太郎の肉筆資料等のご寄贈があった件、新聞三紙で紹介されているのがネットで確認できました。

まずは『東京新聞』さんの埼玉版。 

光太郎との絆、後世に 東松山の田口さんが書簡など市に寄贈

 「道程」「智恵子抄」などで知られる001詩人で彫刻家の高村光太郎(一八八三~一九五六年)の晩年に交流があった東松山市の元教育長田口弘さん(94)が二十四日、光太郎からの書簡や書など約百点を市に寄贈した。直筆の書簡十通はどれも、四十歳近く年下の田口さんに細かい気遣いを見せる誠実な人柄をしのばせる。田口さんは「高村さんに関心を持つ若い人の研究のために少しでも役立てたい。高村さんの高い精神にぜひ触れてほしい」と話している。

 田口さんは旧制松山中学(現松山高校)三年のとき、国語教師だった柳田知常氏(後に金城学院大学長・故人)の授業で光太郎の詩に触れた。以来、新聞・雑誌に掲載される光太郎の詩や随筆のスクラップを始め、入手できなかった「道程」を柳田氏から借りて全文をノートに書き写すなど、光太郎にのめり込んだ。

 田口さんは進学した大泉師範学校専攻科(現東京学芸大)で卒業論文「高村光太郎研究」をまとめ、一九四四年春、師事を続けていた柳田氏に連れられて東京・駒込のアトリエで初めて光太郎に会う。光太郎は卒論を一ページずつめくりながら「私のことを私よりも知っているね」と笑みを浮かべたという。初対面の学生にもていねいに接する光太郎に、田口さんは感銘を受けた。

 田口さんは占領地域で日本語を教える海軍教員として南方への赴任が決まった同年夏、光太郎のアトリエを訪ね「世界はうつくし」「うつくしきもの満つ」の書をもらったが、同年十二月、乗っていた輸送船がフィリピン沖で米軍に撃沈され、書は多くの仲間とともに沈んでしまった。今回、市に寄贈した同じ言葉の書は四七年、岩手県太田村(現花巻市)山口の山小屋に光太郎を訪ね、再び書いてもらったものだ。

 四五年から七年間、雪の吹き込む粗末な山小屋で独居生活をしていた光太郎。戦中に戦争協力詩を多く発表したことへの自省の念から、とされる。田口さんは勤めていた松山中学の教え子を連れて会いに行ったり、足が十三文(約三十一センチ)と大きく、既製品の靴下が買えない光太郎のために、妻の手編みの靴下を送るなどの交流を続けた。

 四八年に届いたはがきには「『ジャワ詩抄』は今も小生の机上にあります。山口部落(カンポン)にて」とあった。ジャワ詩抄は田口さんが復員前のインドネシアの収容所で書いた詩をまとめ、光太郎に送った詩集のタイトル。「カンポン」は詩集の中に出てくるインドネシア語の「村」の意で「あなたの詩集をちゃんと読んでいますよ」という温かい心遣いだった。

 旧制中学時代の田口さんのスクラップノート五冊は詩人の草野心平に貸し出され、草野が編集を担当して五一年から刊行された「高村光太郎選集」(全六冊)に役立てられた。光太郎は「あなたの切り抜きのおかげ」と、自ら包装した小包で配本のたびに送ってきたという。

 田口さんは「詩人、芸術家としての立派さだけでなく、人間として生きる(志の)高さ、誠実な生き方をした人だった」と振り返った。

 市は寄贈された書簡などを八月十~二十八日、市立図書館で一般公開する。森田光一市長は「素晴らしい市の宝として大切にしていきたい」と述べた。


続いて『毎日新聞』さん。こちらも埼玉版に記事が出ました。 

高村光太郎の書や交流書簡 元教育長の田口弘さん、東松山市に全資料 市立図書館収蔵、8月10日から一般公開 /埼玉

「誠実な生き方も次世代に伝えたい」 002
 「智恵子抄」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)と親交があった元東松山市教育長で同市在住の詩人・田口弘さん(94)が24日、高村の書や交流書簡などを同市に寄贈した。寄贈品は同市立図書館に収蔵され、8月10~28日に一般公開される。森田光一市長は「東松山出身の梶田隆章先生のノーベル物理学賞受賞に続き、市の宝がまた一つ増えた」と感謝した。

 1922(大正11)年生まれの田口さんは旧制松山中(現県立松山高)3年の時、国語教師だった恩師から高村のことを教わり、その作品と芸術への取り組み方に魅せられるようになった。高村が書いたり、紹介されたりした新聞や雑誌の記事をもらさずスクラップしたノートは5冊を数える。
 教師を養成する当時の東京府大泉師範学校に進学後も研究を続け、卒業前に論文「高村光太郎研究」にまとめると、恩師と東京・駒込のアトリエに高村を初めて訪ねた。38年に妻の智恵子さんを亡くし「智恵子抄」で多くの人々の心をとらえていた高村は39歳離れた学生の論文に目を通し、「私よりも私のことを知っている」とユーモアを交えて語った。田口さんは高村のこまやかな心遣いに感銘を受け、卒業後、日本軍占領地で住民に日本語を教える海軍軍属になることが決まって出発する前にもアトリエを訪ねた。
 高村は45年の東京空襲で焼け出され、宮沢賢治の弟・清六の招きで疎開した岩手・花巻の宮沢家でも花巻空襲で再び焼け出された。花巻郊外の粗末な小屋で7年間に及ぶ農耕自炊の生活を送った高村を、46年に復員して現在の東松山市立中の美術教師となった田口さんが訪ねたのは47年。49年には中学3年の教え子3人を連れて再訪した。
 52年に帰京するまで冬は雪が吹き込む小屋で農耕がてら詩を作っていた高村に、田口さんは誕生日の贈り物などとして妻手作りの毛糸の靴下や練乳などを送り続けた。
 今回寄贈したのは、その時の礼状を含めた高村直筆の封書2点やはがき8点、訪ねた際に書いてもらうなどした書幅4点に、関連書籍を加えた約100点。封書やはがきの字は能筆でも知られた高村らしく、丁寧でバランスも良い。
 田口さんは、49年に受け取った「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」という書を掛け軸にして特に大切にしてきた。高村は、同封した手紙に新約聖書の中で「感激」した言葉を書いたと記していた。
 田口さんは「私たちがもし、見たいと思っているものがあるなら、それはすぐに見えるものではないのだから、じっと我慢して生活する中で見つめ続けていれば体得できるという意味でしょう」と説明し、「私がキリスト教徒で、詩を書いていることをご存じだったので、『芸術を志す者は忍耐強く、自分の願っているものを終生求めなさい』という励ましを込めた言葉」と受け止めている。
 日教組中央執行委員や県教組委員長などを経て76年から同市教育長を16年間務めながら詩を書き続けてきた田口さんは「青春時代の出会いは大事。高村さんと実際に会って目を開かされた者として、詩人として立派というにとどまらない、その誠実な生き方も次世代に伝えたい。そのために役に立てば、という思いで全ての資料を寄贈しました」と話している。


最後に『産経新聞』さん。やはり埼玉版です。 

高村光太郎の書簡など寄贈 東松山の元教育長、市へ100点 埼玉

 東松山市の元教育長で詩人、田口弘さん(94)が、親交のあった彫刻家で詩人、高村光太郎(1883~1956年)の書簡や書幅など約100点を同市に寄贈した。田口さんは高村と3回面会し、書簡をやりとりするなど高村が亡くなる直前まで細やかな交流が続いた。市は書簡などを市立図書館で所蔵し、今夏一般公開するほか、高村の誕生月の3月に毎年公開する予定だ。
                   ◇
 田口さんは旧松山中在学中に恩師の柳田知常さんの指導で高村を研究。昭和19年、東京府大泉師範学校の卒業論文で高村論を書き上げ、柳田さんに連れられて東京・駒込のアトリエを訪問。初めて会った高村は論文を繰った後、「僕以上によく知っていますね」と笑顔を見せたという。
 その後、田口さんが海外教員として戦地に赴任する際に高村から書を贈られるなど交流は続いた。詩人、草野心平が編纂した「高村光太郎選集」(中央公論社、全6巻)では、田口さんが中学時代から切り抜いた新聞スクラップなどの高村研究ノートが資料として生かされた。
 書簡は昭和23年から高村が亡くなる3年前の同28年まで、直筆はがき8点、直筆封書2点の計10点。田口さんが書いた詩の感想や贈り物への謝礼、日々の暮らしなどが簡潔に綴られている。さらに、直筆の色紙や掛け軸など書幅4点、高村の署名入り同選集など貴重な書籍が寄贈された。
 田口さんは「高村さんは誠実な方でした。半歩でも一歩でも近寄りたいと願い、おぼつかないが生涯の弟子として生きてきた」と述懐。思い出の品の寄贈について「現物で高村さんが生きているんだと紹介できる。青春時代の文学青年は出会いが一番大事。出会いがないと目が開かれない」と話した。このほか、彫刻家、高田博厚(1900~1987年)の彫刻「萩原朔太郎青銅像」(昭和49年制作)1点も寄贈した。
 同図書館は8月10~28日、書簡などを一般公開する。同21日には田口さんの展示品解説を含めた講演会も開かれる。問い合わせは同図書館(電)0493・22・0324。

その他、東松山市さんの公式ツイッター、市長の森田光一氏のブログにも記述がアップされています。ご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

わが船の鳴く声きけばわがこころ神戸の水戸に血をしぼり泣く

明治42年(1909)頃 光太郎27歳頃

明治42年(1909)の今日、光太郎は約3年半の海外留学を終え、日本郵船の阿波丸に乗って、神戸港に到着しました。

欧米で世界最先端の芸術をまのあたりにし、日本美術界とのあまりの落差を感じて、これから始まる自らの苦闘を予感して作った歌です。

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埼玉県のローカルテレビ局、テレ玉さんが昨日報じたニュースです。

高村光太郎と親交があった男性 直筆書簡などを寄贈

詩人、彫刻家として知られる高村光太郎と親交があった男性が高村光太郎から送られた書簡や書籍など100点あまりを東松山市に寄贈しました。東松山市役所を訪れたのは、市内在住で、市教育長を17年間務めた田口弘さん(94)です。田口さんは、旧制中学時代に高村光太郎の研究をはじめ、その時に使っていたノートが「高村光太郎選集」の編集に資料として使われたことから、20歳の頃に高村光太郎と出会い、高村から詩集を贈られるなど交流を続けました。「高村光太郎がライフワーク」と話す田口さんが集めた書籍およそ80冊や直筆の書簡、掛け軸など、およそ100点が寄贈されました。東松山市の森田光一市長は、「市の宝として、多くの人に見てもらえるようにします」と感謝の意を述べました。田口さんから寄贈された書籍などは、8月10日から28日まで市立図書館で一般公開されるということです。

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田口氏は記事にもあるとおり、東松山市の教育長を永らく務めた方です。その間、今も同市で開催されている日本スリーデーマーチの誘致、運営や、東武東上線高坂駅前からのびる「彫刻通り」の整備などにも力を注がれました。「彫刻通り」は光太郎と縁の深かった故・高田博厚の作品――光太郎胸像を含む――を屋外設置したものです。また、やはり氏のお骨折りで、市立新宿小学校さんには、光太郎の筆跡を刻んだ「正直親切」の石碑が昭和58年(1983)に建立されています。

当方、昨年、東松山の田口氏のご自宅を訪問させていただきました。かつて光太郎命日の集い・連翹忌にご参加いただいていましたが、最近はご高齢のため遠出は不可能とのことで、ご欠席が続いており、10年ぶりくらいにお会いしました。その際のレポートがこちら。氏と光太郎の縁や、今回寄贈された品々の簡単な解説も載せてあります。

その折に、その品々の寄贈先についてのご相談も受けました。当会に寄贈、というお話もあったのですが、それよりも地元のお宝として、市に寄贈されるか、花巻の高村光太郎記念館さんなどの施設に寄贈されるかした方が良いでしょうというお話をして参りました。結局、市に寄贈なさったというわけです。

過日、東松山市立図書館さんから光太郎関連資料の寄贈を受けた旨、メールを戴きました。その中の書簡一通についてのご質問でしたが、個人情報保護の観点からでしょう、最初は田口氏の名は書かれていませんでした。しかし、「東松山」「光太郎」「寄贈」で、田口氏だとピンと来ました。はたしてその通りだと追伸のメール。ただ、失礼ながらお年がお年ですので、亡くなられ、ご遺族からの寄贈かとひやっとしましたが、それは違うとのことで安心しました。

テレ玉さんで、市立図書館さんでの公開については触れられていましたが、さらに会期中に田口氏ご本人の講演も企画されているとのことです。戦後の光太郎をご存じの方はまだ多くご存命ですが、花巻疎開前の駒込林町アトリエ時代をご存じの方はめっきり少なくなりました。非常に貴重な証言が聴けるはずです。

東松山での展覧会については、詳細が出ましたらまたご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

稲妻や旅の靴ぬぐ夕まぐれ        明治42年(1909) 光太郎27歳

そろそろ梅雨も終わりに近づいています。そうすると大気の状態が非常に不安定。九州などでは豪雨の被害も出ています。雷や突風、低い土地への浸水など、十分お気を付け下さい。

埼玉県から企画展情報です。今夏、新宿の中村屋サロン美術館さんの特別展示で扱われた、光太郎の盟友・斎藤与里の生誕130年記念展が与里の故郷で開催されます。 

生誕130年記念 斎藤与里展 ~巨匠が追い求めた永遠なる理想郷~

場 所 : サトヱ記念21世紀美術館  埼玉県加須市水深大立野2067 
期 日 : 2015年10月24日(土)~2016年3月13日(日)
時 間 : 10:00~17:00
休館日
 : 月曜日(11/23、1/11は開館し、11/24、1/12は休館)
      年末年始休館(12/24~1/12は休館)
料 金 : 一般 900円、大学生・高校生 700円、小中学生 600円、障害のある方 500円
主 催 : 加須市、加須市教育委員会、サトエ記念21世紀美術館

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加須市サイトより
~郷土の偉人・斎藤与里の作品や功績を紹介~
加須の偉人・斎藤与里の生誕130年を記念し、加須市、市民および「サトエ記念21世紀美術館」(加須市水深)等が収蔵する作品を中心に、約80点を一堂に集め展示します。
 皆さん、ぜひご観覧ください。
■斎藤与里とは…■
斎藤与里(さいとうより・1885~1959) … 岸田劉生、高村光太郎らとフュウザン会を結成、ゴッホやセザンヌを日本へ初めて紹介するなど日本近代美術史上において重要な役割を果たした芸術家。
日本人独自の油彩画を目指し辿り着いた絵画世界は、牧歌的な風景の画題の裏に、日本の伝統的な絵画が源氏物語絵巻や浮世絵など線と色面から構成される平面性を重視したものである。
加須市では、加須市名誉市民第1号(加須第1号)として顕彰しているほか、「加須の偉人」の一人として位置づけている。

美術館サイトより
 開館より15年目の秋を迎えるサトエ記念21世紀美術館では、加須市ならびに加須市教育委員会との共催により、生誕130年記 念斎藤与里展~巨匠が追い求めた永遠なる理想郷~』を開催いたします。
 斎藤与里(さいとう より・1885~1959)は埼玉県加須市に生まれ、青年期に20世紀初頭のフランスに留学して以降、技法の習得や鍛錬を学ぶことが主流であった当時の美術界においては先駆的に、オリジナリティを重視する日本人独自の油彩画の創出を志した日本近代美術史を代表する芸術家です。全国各地にて創作活動だけでなく著述や後進たちへの指導を行うなど精力的な活動を行いますが、晩年の約20年は、故郷・加須に『草香居』と名付けたアトリエを構え、毎年のように画風を変遷させながら独自の芸術
世界を確立します。自らの理想郷と呼ぶべき愛する郷里において、牧歌的で詩情豊かな風景や人物を描くことに到達した与里の作品は、現在も多くの人々の心を動かし続ける不思議な魅力に満ちています。
 本展では留学時代から晩年までの生涯を回顧し、フュウザン会、日展、東光展などに出品された代表作を中心に約80点余を一堂に集め展覧いたします。芸術家・斎藤与里の画業をご堪能いただける機会となれば幸いです。

関連行事
○第1回ミュージアムトーク
 「斎藤与里・日本最初の反アカデミスムの画家」
 講師:関根秀一氏(流通経済大学教授・美術史)
 日時:2015年11月29日(日) 14:00~

○第2回ミュージアムトーク
 「斎藤与里・画家としての軌跡」
 講師:佐々木憲三 氏(美術文献研究家)
 日時:2016年2月14日(日) 14:00~

 会  場: サトエ記念21世紀美術館エントランスホール
 時  間: 各回、約1時間30分程度
 定  員: 座席数(約100席)に限りがあり、着席は先着順とさせていただきます。
 その他: 聴講・鑑賞には展覧会入館券が必要となります。


第2回講師の佐々木憲三氏は、連翹忌ご常連のお一人。これは行かざあなるまい、というところです。皆様もぜひどうぞ。


ところで、同じ埼玉つながりで、昨日、さいたま市の大宮ソニックシティ大ホール行われた第68回全日本合唱コンクール全国大会高校の部について。

光太郎の詩に曲をつけたもの――を自由曲を選んだ学校が2校あり、そのうち、高校Bグループ(33人以上)で、三好真亜沙さん作曲の「女声合唱とピアノのための「冬が来た」」中の「冬の奴」を演奏した東京の豊島岡女子学園高等学校コーラス部さんが、みごと銀賞。高校Aグループ(8~32人)で、智恵子の後輩にあたる日本女子大学附属高等学校コーラスクラブの皆さんが、鈴木輝昭氏作曲の「女声合唱とピアノのための組曲 智恵子抄」」中の「裸形」を演奏し、こちらは残念ながら参加賞に当たる銅賞でしたが、出場できるだけでもすごいことですので、胸を張ってほしいものです。


主催に名を連ねる『朝日新聞』さんのサイトに載った東京版の記事から。

東京)豊島岡女子が銀、国学院久我山が銅 合唱コン高校

 さいたま市の大宮ソニックシティで24日に開かれた第68回全日本合唱コンクール(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)の高校部門で、都代表の豊島岡女子学園は銀賞、国学院久我山は銅賞を受けた。
 高校B(33人以上)の豊島岡女子学園は、最高賞の文部科学大臣賞を受けた2010年以来2度目の全国大会。厳しい冬に負けそうになる自分に打ち勝つ高村光太郎作詞の「冬の奴」を歌った。寺西美月部長(2年)は「今までの気持ちを全部ぶつける思いで歌いました。すごく楽しかった」と語った。銀賞を受け、「ほかの学校の演奏を聴いて、まだまだ課題が残っていると耳で実感しました。妥当な結果だったと思う」と話した。
 高校A(8~32人)の国学院久我山は幻想的な「ねぼすけぼうず」などを歌った。中高一貫の同校はこれまで中学生だけの女声の音楽部で全国大会に3度出場の実績があるが、「歌い続けたい」という生徒の希望で昨春に高校生を含めた部となった。今回は中学生も含め部員全員17人で高校部門に初出場を果たした。
 大矢早彩(さあき)部長(2年)は中1のときに全国で金賞を受け、「先輩たちに恩返ししたいと取り組んできた」という。人数は出場校で最少。「少人数ならではの強みをいかし、繊細に丁寧に歌えました。後輩には『やりたい音楽をやれば結果はついてくる』と伝えたい」と話した。(青木美希)

豊島岡女子さんの動画がこちら

神奈川版から。 

神奈川)清泉女学院が金賞 全日本合唱コンクール

 さいたま市の大宮ソニックシティで24日に開かれた第68回全日本合唱コンクール(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)高校部門で、関東支部代表としてAグループ(8~32人)に出場した清泉女学院が金賞に輝いた。日本女子大付属は銅賞を受けた。
 清泉女学院は、自由曲で新川和江作詩、鈴木輝昭作曲の「終(つい)の日のわたしを焼く…」を披露。後半部のユニゾンでは、「死」と向き合う中で自己犠牲の言葉をたたみかけるように発する場面を、万感の思いを込めて歌い上げた。
 部長の伊藤瑠那さん(2年)は「今までやってきたことと仲間を信じ、心を一つに最高の演奏ができた。訴えたいことはすべて客席に届けられました」。指揮をした佐藤美紀子顧問は「心を合わせて強さが出せた。私にも幸せなひとときだった」と部員をたたえた。
 7回目の出場を果たした日本女子大付属の自由曲は高村光太郎作詩、鈴木輝昭作曲の「裸形」。妻智恵子への深い愛をつづった詩を、力強く、また女声合唱ならではの伸びやかで透き通った歌声で表現した。
 部長の豊田彩織さん(3年)は「男性の愛を女性で高校生の私たちが表現する難しさはありましたが、自分たちのできる最高の演奏ができました」と語った。指揮をした丸山恵子講師も「みんな集中してがんばりました」とねぎらった。


こうした活動を通し、若い世代にも光太郎智恵子の世界が受け継がれていってほしいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月25日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、近くの山口小学校の校訓として「正直親切」の書を揮毫しました。

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この文字を刻んだ碑は、山口小学校跡、光太郎も通った東京の第一日暮里小学校さん、埼玉東松山の新宿小学校さんにそれぞれ建てられています。

昨日は埼玉県東松山市に行って参りました。こちらにお住まいの、光太郎と交流のあった田口弘氏のお宅を訪問させていただくのが第一目的でした。

氏は同市の教育長を永らく務められ、在任中には、今も同市で開催されている日本スリーデーマーチの誘致、運営に骨を折られました。退任後は市立図書館顧問、幼稚園の園長先生などを歴任、現在はご隠居なさっています。大正11年(1922)年生まれの、御年93歳だそうです。

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氏と光太郎、出会いは昭和18年(1943)。俳人の柳田知常を介してだったそうです。翌年には軍属として南方へ出征される前に、駒込林町の光太郎アトリエを訪れ、数点の揮毫をしてもらったとのこと。この点、3月に女優の渡辺えりさんとご一緒にお話を伺いに行った、深沢竜一氏や、動員先の工場から光太郎を訪ねたえりさんのお父様と似ています。

氏は南方で乗っていた輸送艦が撃沈されて命からがらの目にあいました。その際、出征前に光太郎に揮毫して貰った書は海のもくずとなったそうです。戦後は捕虜としてジャワ収容所に入れられ、昭和21年(1946)に帰国されたとのこと。

昭和22年(1947)には、花巻郊外太田村に隠棲していた光太郎を訪問。その後も2回ほど太田村の光太郎の元を訪れたそうです。

光太郎ゆかりの品々を、拝見して参りました。

山小屋で書いて貰ったり、埼玉のご自宅008に送り届けられたりした書が4点、光太郎からの書簡が10通、光太郎から贈られた献呈署名入りの中央公論社版『高村光太郎選集』全六巻、それらが小包で届いた際の包み紙(宛名や差出人の部分が光太郎筆跡)、鉄道荷札。さらに、光太郎歿後に、特に高村家にお願いして鋳造させて貰ったという、ブロンズの「大倉喜八郎の首」など。

こちらは軸装された書。聖書の一節です。氏がクリスチャンであるため、光太郎が特にこの言葉を選んで揮毫してくれたそうです。

我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん ロマ書 光太郎

と読みます。

他の3点の書は、色紙。しかし、太田村の山小屋で、目の前で書いて貰ったという2点は、戦後の混乱期ゆえ、色紙というよりボール紙のようなものです。よくある縁取りもされていません。
しかし、それだけにかえってよそゆきでない雰囲気が感じられました。

書かれているのは短句「うつくしきもの満つ」「世界はうつくし」、短歌「太田村山口山のやまかげにひえをくらひて蟬彫る吾は」。短句二つは、南方の海に沈んだ書と同じ言葉を、再度書いて貰ったそうです。

うつくしきもの満つ」は、光太郎が好んで書いた言葉で、他にも類例がありますが、この言葉を最初に書いて貰ったのは、昭和19年(1944)の自分が最初ではないかというのが氏の弁です。

世界はうつくし」。昭和16年(1941)には「うつくし」が漢字の「世界は美し」という詩が作られていますが、この言葉が書かれた書は類例がありません。

それぞれ氏が私刊された書籍(『詩文集 高村光太郎の生き方』)などで写真は見たことがありましたが、やはり実物を手に取ってみるのとでは大違いですね。


氏とは、10年ほど前の連翹忌でお会いしていますが、長々お話ししたのは初めてでした。氏から当方の自宅兼事務所に電話があり、一度会って話がしたい、ということでお邪魔いたしました。こうした品々の今後について、これからご相談させていただくことになります。

昨日のお話の中で、氏のおっしゃった言葉が非常に心に残りました。光太郎について詳しく研究するのはいいが、それだけでなく、そこから何を学ぶか、自分の人生にどのように活かしていくかが重要だ、とのお言葉。まったくもってそのとおりですね。


帰りがけ、氏のお宅から2㌔ほどの所にある市立新宿小学校さんに寄りました。こちらには、氏のお骨折りで建立された石碑があります。

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光太郎が昭和26年(1951)、太田村の山口分教場が小学校に昇格した際、校訓として贈った言葉「正直親切」が刻まれています。

10年ほど前にこの碑を見に行ったことがありましたが、昨日、建立の際のお話も伺ったので、改めて観て参りました。

文字は渋る石屋さんを、「あなたの仕事が半永久的に残るんだから」となだめすかし、手彫りでやってもらったとのこと。機械を使っての彫りでは、光太郎の書の感じがうまく表せないという理由です。

この書の現物は花巻の高村光太郎記念館にありますし、光太郎の母校である東京荒川区の第一日暮里小学校さんも校訓として使用、やはりが建っていますし、花巻の山口小学校跡地にも碑が建っています。

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小学一年生でも読めるようにと、ひらがなのルビも光太郎が書き添えています。

「正直親切」。単純なようで、奥の深い、いい言葉です。


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他にも東松山市には、やはり田口氏のお骨折りで出来た、光太郎を敬愛していた彫刻家・高田博厚の作品を配した「彫刻通り」があります。こちらには光太郎胸像もあるのですが、一昨年、観て参りましたので、昨日はパスしました。


それにしても、貴重なお話が伺えました。当方、生前の光太郎は存じません。その分、直接交流のあった方々の証言など、積極的に聴いておきたいと考えております。

来週末には、花巻高村祭のためまた花巻に行きます。その際、地元の、やはり生前の光太郎を知る方々とお話しできる機会を設けて下さるとのこと。ありがたく拝聴して参ります。

追記 田口氏、2017年2月にご逝去されました。謹んでご冥福をお祈009り申し上げます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月10日

大正13年(1924)の今日、古今書院からロマン・ロラン作、光太郎訳の戯曲『リリユリ』が刊行されました。

装幀、題字も光太郎です。

つい先だって、今まで知られていなかったロマン・ロランの文章の光太郎訳が見つかりました。のちほど詳細をレポートします。

今日は「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展の最後の巡回先、愛知県碧南市藤井達吉美術館にての開会式・内覧会(一般公開は明日から)に行って参ります。帰りは夜中となりそうなので、日付が変わった未明のうちに今日の分を書いてしまいます。
 
出先からケータイで短めに投稿する事も可能なのですが、早めに書いてしまいたい事情もあります。
 
このブログでは光太郎智恵子がらみのさまざまなイベント等をご紹介しています。そのために情報収集はおさおさ怠りなくやっているつもりなのですが、こちらの網の目から漏れる情報も多いようです。
 
終わってしまってからこんなイベントがあったというのをネットで見つけることもしばしばありますし、昨日書いた田沼武能「アトリエの16人」のように、終了間際に気がつく場合もあります。当方の情報収集力もまだまだです。
 
今回もそう。明後日に行われるイベントを昨日になって知りました。反省しきりです。というわけで、間がないのでできる限り早くご紹介します。 

リーディングドラマ「智恵子の空は」

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『朝日新聞さいたま版マリオン』さんの記事から。
 
朗読グループ「声の会」による公演。浅川安子(構成、演出)。音楽、動きなどを取り入れ、高村光太郎の「智恵子抄」をもとに智恵子の生涯を語る。ピアノとクラリネットの演奏も。1000円。要予約。電話中村さん(048・641・6753)。
 
日 時:2013年11月2日(土) 昼の部13:30~ 夜の部18:00~
会 場:彩の国さいたま芸術劇場小ホール(最寄り駅 与野本町)
料 金:1000円 全席自由
 
同会HPによれば、「リーディングドラマ」とは、以下の通りです。
 
 昨今、朗読の持つ力が見直され、朗読劇や朗読構成劇などという名前で舞台上演されることも増えてきました。これは日本語の持つ生命力を目や耳を通して回復させたいというあらわれだと思います。
 私たち「声の会」のリーディングドラマも、朗読に美術や音楽、照明、動きを取り入れ、総合的な舞台表現を目指しています。私たちの発する言葉が、舞台空間をより際だたせることによって、何倍もの力を得て、ストレートに観るものの心に伝わることを切に願うからです。
 
ぜひ行きたいのですが、なにせ急に知ったもので都合がつきません。残念です。

【今日は何の日・光太郎】 10月31日

昭和16年(1941)の今日、牛込矢来町の城西仏教会館で催された「文芸講演と詩朗読の会」で講演をしました。
 
上記と同じ朗読の会ですが、その趣旨は大きく違います。
 
当方、この時のプログラム(B4判二つ折り)を所蔵しています。裏面に書かれた趣意書的なものを引用しましょう。
 
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 変転きはまりない時代に最も肝要にして不動不退転の国民の生活を樹立させる底のものは国家の力であり、国民の固き信念であります。大日本帝国臣民であるわれわれはこの力を充分蓄積し、この固き信念を深く身につけて一旦緩急の際には、すみやかに勇往邁進凛々真摯敢闘の精神を内に充溢しのぞまねばなりません。われわれ青年はすでに銃剣の林を征き砲煙をおかして帝国の威力を世界に轟かして参りました。今日われわれの思はねばならぬ責務の重大は、銃前と云はず銃後と云はず、現代日本の各方面より要望されており、われわれ青年はわれわれ青年の意気と熱情とを以てこれに当るべき秋であります。
 このとき文化面に於て、われわれは青年詩人の新しい声と盛り上がる熱情とをかたむけて新文化銃後翼賛の微力をつくしたいと思ふものであります。たゞならぬ今日のあらねばならぬ方向はこの巨大な歴史的現実の下に厳然として唯一つ存在して居る、捨身即ち祖国を愛する日本民族の血の伝統に生きる事であります。われわれ青年詩人は今こそ現代日本の輿望に応へて詩精神の覚醒と正しい履践をせねばならぬのであります。
 民族が興隆せんとするときには必ず民族の詩は栄えるのであります。現代日本の直面してゐる情勢は新しき東亜の黎明へ、十億の民の共栄へ向つて輝かしい任務を遂行する努力でもありまして、この偉大なる希望のもとにわれわれの血はたぎつてゐるのであります。文字通りわれわれは詩を以て聖業に翼賛し奉る秋であります。大政翼賛会文化部に於てもかゝる時代にかゝる詩の国民に与へる力の重大を惟ひ既に「詩の朗読」の運動が始められて居ります。
 詩と詩人社もこゝに「文芸講演と詩の朗読会」を催して現代青年詩人の志向とその自主的精神を明らかにし詩によつて民族精神の高揚を為す運動の一としたいと考へる次第であります。
 昨秋及今春名古屋に於ける「文芸講演と詩の朗読会」に引続き催される今回の会は現代詩精神社の後援の下に、一つには同人山田嵯峨の大浪漫主義を盛つた詩集「四方天」の出版を記念し、又一つには徳安攻略戦に散華した詩友田中清司を偲ぶために開催されるものであります。したがつて今迄在来の出版記念会や追悼会の旧套を打破する意味も含み、こゝに詩壇新体制確立の為青年詩人を中心に溌剌清新の新風を盛りうる事と信ずるものであります。
 幸ひ詩壇の耆宿高村光太郎氏と詩朗読の先輩照井瓔三氏の賛助御快諾を得ました事はわれわれのもつとも光栄とするところであります。就而此青年詩人の一大快事に御集り願ひ度く御友人御誘ひの上御来場下さいます様御案内申上げます。
 昭和十六年十月   詩と詩人社同人識
 
まるで某半島の某独裁国の「ナントカ日報」という新聞のような感じですね。日本もつい数十年前にはこうだったのです。
 
この時はまだ太平洋戦争開戦前です。しかし既に日中戦争は泥沼化していました。国家総動員法はこれにさかのぼる昭和13年(1938)には制定されており、各種団体は大政翼賛会の旗の下に統合が進み、文学もその例外ではありませんでした。
 
詩人はその作品の執筆や朗読で、国策に協力する事が義務づけられた時代だったのです。
 
「詩と詩人社」は新潟・魚沼に本部を置いた詩人結社です。やはりプログラムの裏に同人の一覧が載っていました。
 
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当方、寡聞にして田村昌由、浅井十三郎、武井京史(「武井京」とあるのは誤り?)山田嵯峨くらいしか知りません。
 
田村にしても前後3回ほど光太郎に詩集の序文を書いてもらっているから知っているようなもの。浅井・武井・山田は昭和18年(1943)に行われ、同社発行の「詩と詩人」に載った座談で光太郎と同席しているから知っているようなものです。
 
それにしても戦死した同人の追悼を兼ねるとか、名簿に「出征中」の文字があるとか、本当に嫌な時代です。詩人が銃を手に取って戦うとか、銃後の者たちもこんなイベントで国策協力とか、そしてそこに光太郎も絡んでいるとか、そんな時代だったわけです。

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