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若干、先の話ですが、申し込み締め切りが近いのでご紹介します。

福島大学うつくしまふくしま未来支援センターさんの主催で、光太郎詩「あどけない話」中の「ほんとの空」を冠した東日本大震災からの復興支援シンポジウムです。これまでに京都東京愛知いわき新潟南相馬仙台、そして福島市でそれぞれ開催されてきました。このたび、九州で初の開催となります。  
時   間  : 13時00分~17時30分
場   所  : 熊本学園大学  熊本県熊本市中央区大江2丁目5-1
参 加 対 象   : 一般市民、教育関係者、行政職員、大学関係者、団体職員 他
参 加 費  : 無料
主   催  : 
熊本学園大学
                           
国立大学法人福島大学うつくしまふくしま未来支援センター(FURE) 

 東日本大震災・福島第一原発事故から8年、また熊本地震発生から3年が経過しようとしています。
 このたび、福島大学と本学とで合同シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで -東日本大震災と熊本地震の教訓から学ぶ-」を開催することが決定しました。被災地域が抱える課題、復興に向けてのさまざまな活動をご紹介するとともに、復興への取り組みを通して得られた経験や知見を「経験知・支援知」とし、将来の大規模災害にいかに活かしていくべきかについて議論します。参加ご希望の方は事前申込みが必要です(参加費無料)。下記の「参加申込フォーム」もしくは「チラシ・参加申込書」を参照のうえFAXもしくはメールにてお申し込みください。

プログラム
 Ⅰ部 基調講演
  「熊本地震からの復旧・復興、そして未来への礎づくり」……大西 一史(熊本市長)
 Ⅱ部 現状報告
  「熊本の現状と課題」……藤本 延啓(社会福祉学部講師)
  「福島の現状と課題」……初澤 敏生(FUREセンター長)
 Ⅲ部 パネルディスカッション
  「東日本大震災と熊本地震の教訓から学ぶ」
   モデレーター:初澤 敏生(FUREセンター長)
   パネリスト:藤本延啓(社会福祉学部講師)
         照谷明日香(ボランティアセンター ボランティア・コーディ
ネーター)
         本多 環(FUREこども支援部門特任教授)
         深谷 直弘(FURE地域復興支援部門特任助教)

申込み方法:FAXかメールまたは申込フォームによりお申込みください。締切:2月13日(水)



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3.11も近いことですし、お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

若し此世が楽園のやうな社会であつて、誰が何処に行つて働いても構はず、あいてゐる土地なら何処に棲んでも構はないなら、私はきつと日本東北沿岸地方の何処かの水の出る嶋に友達と棲むだらう。そこで少し耕して畠つものをとり、少し漁つて海つものをとり、多く海に浮び、時に遠い山に登り、さうして彫刻と絵画とにいそしむだらう。

散文「三陸廻り 八 夜の海」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

昭和6年(1931)の、一ヶ月にわたるこの三陸旅行中、智恵子の心の病が顕在化したとされています。しかし、一方の光太郎は、この時期、ある種の「智恵子離れ」的なことも無意識に考えていたような気がします。そしてそれもまた智恵子の心の病を引き起こした要因の一つなのではないでしょうか。

傍証は上記の一節、特に「友達と棲む」。無論、これには「智恵子と別れて」という意味はないのでしょうが、大正期の光太郎であれば、何の臆面もなく「智恵子と棲む」と書いているはずです。

昨年、全国公開されたドキュメンタリー映画「映画「一陽来復 Life Goes On」。一昨年、岩手、宮城、福島の3県を中心にロケが行われ、東日本大震災からの復興の様子を追ったものでした。

昨年11月に、DVDが発売されまして、先月入手しました。もう少し早くご紹介するつもりが、他にも色々書くべきことが多く、今日になってしまいました。 

一陽来復 Life Goes On

2018/11/16 TBSサービス 定価 3,800円+税

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昨年5月に映画館で拝見して参りましたが、その本編には未収録の未公開映像も入っています。

当会の祖・草野心平が愛し、心平を名誉村民として下さり、今も心平を偲ぶ「天山祭」を開催して下さっている、福島県川内村がメインの舞台の一つとなっています。震災後しばらくは、福島第一原発のメルトダウンにより、全村非難を強いられた村です。

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原発事故にもめげず、無農薬のお米を作り続ける秋元美誉(よしたか)さん。川内村編は、秋元さんのさまざまなご苦労がメインの内容です。

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秋元さんと昵懇の、村商工会長・井出茂さん。かつては心平を偲ぶ「かえる忌」を、経営なさっている小松屋旅館さんで開催なさっていました。

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上記は、震災後、川内村で栽培が進んだブドウ畑です。ブドウは土壌や大気中の放射線を吸収しないそうで。

遠藤雄幸川内村長、婦人会の皆さんなど、天山祭やかえる忌でお世話になった面々もご出演。

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天山祭会場にして、心平の別荘であった天山文庫もちらっと映りました。

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川内村以外では、北から行くと、岩手県釜石市。地域にコミュニティーとしての神社や祭りの様子、震災後、いち早く再開した居酒屋さんなど。

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宮城県では、南三陸町。自らも津波の被害を受けながら、避難所や、その後も地域のさまざまな活動の拠点として建物を提供なさっているホテル観洋さん。右下は従業員の方による「語り部」活動です。

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こちらを会場に開催されている、そろばん教室で学ぶ5歳の女の子(映画のポスター等にも大きく使われました)とそのお母さん。お父さんは、津波の犠牲になりました……。

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同じ宮城県の石巻。

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3人のお子さんを津波で亡くしたご夫婦がメインです。木工職人であるご主人は、震災後、地域の集会所的な建物を作ったり、小学校に寄贈する本棚を作ったりなさっています。

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その本棚に入る本は、アメリカ人ご夫婦からの寄贈。

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ご夫婦のお嬢さんは、石巻の小中学校でALT(アシスタント・ランゲージ・ティーチャー=外国語指導助手)として働いていましたが、やはり津波に呑み込まれ、亡くなっています。はじめは日本に来るのがつらかったというご夫妻も、同様の思いをなさった方同士、石巻の皆さんとすっかり仲良しに。


福島では、南相馬。ご自宅の敷地が、浪江町との境界線上にある牧牛家の方。

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国の殺処分の指示に抵抗し、牛を育て続けています。どうも、震災の翌年公開の園子温監督映画「希望の国」で、故・夏八木勲さんが演じられた主人公は、この方もモデルの一人なのかな、と思われました。当方、一度、この牧場の前を通りました


釜石や石巻には光太郎の足跡も残っていますし、石巻に隣接する女川町では、毎年、女川光太郎祭が開催されており、他人事とは思えませんでした。


ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

しかし又製作する者は殆ど毎日新らしく蘇ります。「皮を脱がない蛇は死ぬ」とニイチエの申した通り、毎日がいつも新しい毎日であります為、この長い年月が更に古い気を起こさせません。

散文「故成瀬校長の胸像に就て一言」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

大正8年(1919)に、智恵子の母校・日本女子大学校に依頼された、同校創業者の成瀬仁蔵胸像が、なかなか完成しないことへの釈明の文章から。その長い間にも、自分は進化し続けているので、待ってほしい、という趣旨です。結局、像の完成は昭和8年(1933)でした。

「一陽来復 Life Goes On」に出演された震災被災者の皆さんも、意味は違えど、「毎日新らしく蘇り」、「毎日がいつも新しい毎日であり」、一歩一歩進んでこられたのでしょう。その歩みを応援し続けたいと思います。

一昨日、上野の東京藝術大学大学美術館さんで、「NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」」展を拝見したあと、京浜東北線で大森に向かいました。

その前に、「西郷どん」展を拝見したので、銅像の「西郷どん」にもご挨拶。それから、「西郷どん」展を見る前でしたが、最近、ロダンがらみで横浜美術館さんで開催中の「ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより」や、DVD「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」を拝見したりしましたので、国立西洋美術館前の「地獄の門」も。

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特に「接吻」の部分を、しみじみと観て参りました。

さて、大森。東口から歩いてすぐの西友大森店さん5階の映画館・キネカ大森さんに参りました。こちらで一昨日、映画「一陽来復 Life Goes On」の上映が始まりました。もっとはやく他館で観るつもりでいましたが、何やかやで一昨日になってしまいました。

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東日本大震災の被災から立ち直ろうとする人々を描いたドキュメンタリーで、益田祐美子プロデューサー、尹美亜監督など、平成28年(2016)に封切られた同様の映画「サンマとカタール~女川つながる人々」とスタッフがかなり重複しています。いわば姉妹編といったところでしょうか。

「サンマとカタール」は、光太郎が昭和6年(1931)に『時事新報』の依頼で紀行文執筆のために訪れ、それを記念する文学碑が建てられ、そして「女川光太郎祭」を毎年開いて下さっている宮城県女川町が舞台でしたが、「一陽来復Life Goes On」は、岩手、宮城、福島で5ヶ所の被災地を取り上げています。すなわち、岩手県釜石市、宮城県の南三陸町と石巻市、福島県では浪江町、そして川内村。

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基本、これら5ヶ所の人々の、最近の様子のレポートです。

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このうち福島の川内村は、いわき出身の当会の祖・草野心平が生前にたびたび訪れ、名誉村民に指定して下さっています。そこで、夏には心平を偲ぶ「天山祭」、秋には「かえる忌」(昨年は中止となりましたが)が行われ、「かえる忌」では当方、心平と光太郎の交流について、講話をさせていただいたことものあります。

川内村で米作りを続けられている秋元さん夫妻、それから「かえる忌」を主催なさっている天山心平の会会長にして、川内村商工会長の井出茂氏がご出演。

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消防団の訓練に秋元さんの作った米を使ったおにぎりを差し入れる婦人会の皆さんの中にも、「かえる忌」で見知った顔がありました。それから遠藤川内村長もちらっとご登場。ちなみにナレーションは藤原紀香さんと山寺宏一さんですが、画面には一般の方しか出てきません。

他の地域の登場人物の皆さんも、それぞれの事情や想いをかかえつつ、ときにくじけそうになりながらも、前を向いて歩く姿が描かれていました。


上記動画で流れますが、テーマソングは松任谷由実さん作曲の「春よ、来い」。この映画のための井内竜次氏によるヴォカリーズアレンジバージョンです。ラストシーン、満開の桜のドローン撮影をバックにこれが流れ、思わずうるっと来てしまいました。号泣しているお客さんもいらっしゃいました(笑)。

終演後、大森での初日ということで、尹美亜監督と、出演なさっていた南三陸のホテル観洋さんの女将・阿部憲子さんによる舞台挨拶。舞台挨拶はこれが最後とのことでした。

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全国での上映、じつはほぼ終わってしまっているのですが、キネカ大森さんをはじめ、まだところどころで公開がありますし、「サンマとカタール」同様、テレビ放映やDVD化されることを期待しております。


【折々のことば・光太郎】

ミケランジエロは何をおいても美に生きた。彼ほど美の力を深く感じ、美が人間を救ふものだと信じてゐた者はあまりなかつたやうに思へる。

散文「ミケランジエロ ブオナローテイ」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

光太郎自身も、「美が人間を救う」と信じ、手探りを続けた生涯だったように思われます。

今朝は、地震で目が覚めました。当方自宅兼事務所のある千葉県北東部では震度4でしたが、揺れの時間がやけに長く感じました。

マグニチュードは7.4。まず福島県に津波警報が発令され、その後、宮城県にも。8時過ぎの時点で、仙台港には1㍍40㌢の津波が到達、と報じられています。

福島、女川、茨城東海の各原発、特に大きな被害はないようですが、一時、「福島第三原発で、燃料棒貯蔵プールで冷却用の電源が停止」というニュースもありました。第三原発というのは存在しないので、変だな、と思っていましたが、のちに「第二原発3号機」と訂正されました。報道もかなり混乱していたようです。6時台の段階では、テレビ局によって各地の津波到達予想時刻がかなり異なってもいました。

3.11の悪夢が頭をよぎりましたが、第二原発は8時前に復旧したそうです。しかし、地元の皆さんの恐怖はいかばかりであったろうと、胸が痛みます。そろそろ9時。まだ完全に安心、というわけではありませんが。


さて、昨日の『朝日新聞』さんの記事。

復興へ 葉加瀬太郎さん「ひまわり」の歌詞アイデア募集

 東日本大震災からの復興を後押しする「復興支援音楽祭 歌の絆プロジェクト」(主催・三菱商事、福島放送、朝日新聞社)が来年3月、福島県郡山市で開かれる。出演するバイオリニスト葉加瀬太郎さんは、音楽祭で披露する自曲「ひまわり」につける歌詞のアイデアを被災地の子どもたちから募ることを決め、20日から呼びかけを始めた。

 「ひまわり」は震災時のNHK連続テレビ小説「てっぱん」のテーマ曲。「東北のため、日本のための応援歌」と位置づけ、コンサートでも必ず弾いてきた。
 応募できるのは岩手、宮城、福島の3県出身か在住の小中高校生。「ふるさと」をテーマに、歌詞、作文、詩など形式自由。寄せられたアイデアをもとに、作詞家の松井五郎さんが作詞する。葉加瀬さんは「未来への希望を持てるような曲にしたい」と話す。
 住所、氏名、フリガナ、連絡先、年齢、学校名、学年を明記の上、〒963・8535 郡山市桑野4の3の6 福島放送「復興支援音楽祭歌詞アイデア募集係」へ。ホームページ(http://www.kfb.co.jp/fukko/別ウインドウで開きます)からも可(21日10時以降)。締め切りは12月31日。問い合わせは電話(024・933・5856、平日9時半~17時半)かメール(himawari-kashi@kfb.co.jp)。抽選で10組20人に音楽祭の招待券を、10人に葉加瀬さんのサイン入りCDを贈呈する。



昨日もご紹介しましたが、「原発いじめ」といった問題も、ここに来てクローズアップされている状況です。ぜひとも、福島で復興の合い言葉として広く使われている、光太郎詩「あどけない話」に出て来る「ほんとの空」の語を入れていただきたいものです。

そして、もういい加減、こうした恐怖を与えるシステムへの依存、やめにしませんか? と問いたいところです。


追記 今日の地震に関し、東日本大震災の時の画像を使ってデマを流している馬鹿者がいるそうです。情けないやら、憤りを感じるやら……。この手の悪質なデマに踊らされないように注意して下さい。

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【折々の歌と句・光太郎】

山の石落ちて時あり座をうつす自然のちから我にせまりぬ
明治39年(1906) 光太郎24歳

大いなる自然の力にはあらがえません。大きな地震のたびにそう思わざるを得ません。いかにその自然と共存していくかを真剣に考えなければいけないと思います。

今日は光太郎の誕生日です。戸籍上は明日、3月14日を誕生日としていますが、家族も光太郎自身も、13日を誕生日と認識していました。

存命であれば、満で言うと133歳。ただ、この時代の人はまだ数え年で数えていましたので、このブログでも光太郎の年令は数え年で表記しています。児童生徒の「1年生」「2年生」のように、出生の時点で「生まれて1年目だから1歳」と数える方式です。学校に「0年生」がいないのと同じで、「0歳」というのは存在しません。

閑話休題。

昨日は、当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市と隣接している旭市に行っておりました。用件自体は光太郎がらみではなく、趣味で取り組んでいる音楽関係の用事でしたが、それが終わった後で、光太郎にからめました。

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旭市の東端に「刑部岬」というところがあります。北の銚子から連なる屏風ヶ浦と、南の九十九里浜との境界で、飯岡灯台も設置されています。

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さらに「飯岡刑部岬展望館〜光と風〜」という施設があります。

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展望館という名の通り、ここに上がると眺望が開けます。

南に目をやると、弧を描く九十九里浜。

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その中央やや南寄りのあたりが、昭和8年(1933)、智恵子が療養していた片貝(現・九十九里町)

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ちなみによく晴れた日には、ここから富士山も望めます。

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ただ、当方、ここには5~6回行きましたが、空が霞んでいる時が多く、富士山が見えたのは1度だけでした。

北に目を転じると、銚子の犬吠埼が見えます。

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大正元年(1912)、写生旅行に来ていた光太郎を追って智恵子も来、愛を確かめた場所です。光太郎にはこの年発表された「犬吠の太郎」という詩もあります。

というわけで、今日誕生日を迎える光太郎を偲んで参りました。

高台にある刑部岬を下りると、飯岡漁港です。展望館から漁港が一望できます。

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3.11翌日ということもあり、そちらにも足を運んでみました。

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昨日も書きましたが、この辺りは東日本大震災で津波が押し寄せ、尊い命が奪われています。3.11当日の一昨日は、旭市で県と市による合同慰霊祭が行われました。5年が立ちましたが、ひん曲がった杭などにまだ傷跡が残っています。

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さらに南下すると、九十九里浜に出られます。

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5年前のあの日、この海が牙を剝いたのです。ここ飯岡で亡くなった方々、そしてやはり5年前のあの日、宮城県女川町で津波に呑まれて亡くなった女川光太郎の会の中心だった貝(佐々木)廣さんを偲び、手を合わせました。下記は当時の旭市の様子。

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帰りがけ、高台の畑作地帯を通りました。たくさんの風車が回っています。

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銚子ウィンドファーム」と言って、大規模な風力発電施設です。他に耕作放棄地に設置されたソーラーパネルもかなり目に付きました。やはり、当方毎年訪れている川内村など、福島第一原発を抱える福島に思いを馳せざるを得ません。これがもっと広まれば、それで充分じゃないか、という気がします。

風力発電、太陽光発電とも、いろいろ課題はあるのでしょうが、少なくとも壊れても放射線を垂れ流すことはありません。いい加減、原子力ムラの利権に群がる人々には目を覚まして欲しいものです。

東北の被災地に光太郎智恵子ゆかりの地が多いということで、当方、復興支援の問題に非常に関心を持っておりますが、これも光太郎智恵子のもたらした縁と考え、今後も活動を続けたいと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

春の草ふみてあるきたや友おくりたや   昭和20年(1945) 光太郎63歳

駒込林町のアトリエが空襲で全焼し、宮澤賢治の実家の招きで花巻に疎開、直後に肺炎で臥床していた折の作品です。花巻まで行き添ってくれた年若い友人・宮崎稔の帰京に際しての作と推定されます。

シチュエーションは違えど、当方も昨日、九十九里浜で、志を同じうした亡き友・貝(佐々木)廣さんを偲びました。

一昨日の3月5日、葛飾区のプラネターリアム銀河座さんでのプラネタリウム上映「智恵子抄と春空」を拝見して参りましたが、そちらに着く前の話です。

当日は高速バスで東京駅に出、八重洲地下街で昼食を摂りました。その後、JR東京駅の八重洲地下中央口を目指して歩いていると、こちらのイベントに出くわしました。

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「東北復興 報道写真展」。仙台に本社を置く『河北新報』さんの肝煎りで、この時期、毎年行われています。昨年の紙面に載った震災復興関連の主な記事が、5つのテーマでパネル展示されています。

同時開催で「東北復興展」も開催中。今年は大船渡市観光物産協会さんの共催で、同地の名産品などが販売されていました。

「そういえば、今日は愛知大学さんでシンポジウムだったっけ」と思いながら、拝見しました。

翌日、ニュース検索してみました。 

「3間」喪失、肥満増に影響 子どもの空間・時間・仲間

福島民友新聞 3月6日(日)

 福島大は5日、名古屋の愛知大車道キャンパスでシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで―震災・原発事故から5年を迎える福島を考える」を開いた。本県の現状に理解を深めてもらう県外シンポジウムは5回目だが、中京圏では初。松本幸英楢葉町長が参加したパネル討論では、地域の絆をいかに構築するかなど、震災と原発事故から得た教訓を来場者に伝えた。
 パネル討論に参加したのは、松本町長のほか、震災発生後からボランティア活動に尽力しているタカラ印刷(福島市)の林由美子会長、震災時に郡山市のビッグパレットふくしまに設けられた県内最大規模の避難所を運営した天野和彦福島大うつくしまふくしま未来支援センター(FURE)客員准教授、いわき市で避難者の生活状況を調査している土屋葉愛知大准教授ら4人。
 シンポジウムでは子どもをテーマにした鼎談(ていだん)「悲しみ乗り越え前に進む子ども達、進めずにいる子ども達」も行われた。本多環FURE特任教授(こども支援担当)は、本県で震災後に全国平均に比べ不登校や肥満の増加、学力低下の傾向が表れたことについて「震災と原発事故による避難により、子どもたちの生活環境で重要な空間、時間、仲間の『3間(さんま)』が福島県だけ急激に失われたことが原因」との見解を示した。
 本多特任教授は、1980年代にも子どもにとって必要な「時間、空間、仲間」の環境が失われ校内暴力などの荒れた教育環境が表面化したと分析する。
 しかし、それは全国的な現象だったため特定の都道府県が目立つことがなかったが「今回は福島県だけ急激に奪われた」と指摘し、一見すると違う原因があるように見える子どもたちの変化の背景には、共通した教育環境の変化があるとした。
 鼎談では、相馬市出身のシンガー・ソングライター堀下さゆりさん、FUREの中田スウラセンター長と意見交換した。


昨日の『朝日新聞』さんでは、東北地方の首長の皆さんへのアンケート調査が掲載されていました。その中で、「被災地への関心が薄れていると感じるか」との質問にはほぼ全員が「感じる」「時々感じる」と回答されていました。悲しい現実ですね。記憶を風化させないために、まだまだいろいろな取り組みが必要だと思います。復興展やシンポジウムなどもその一つでしょう。ただ、マンネリ化しないことが重要だと思います。

さて、葛飾のプラネターリアム銀河座さんに行く前に、常磐線の南千住駅で途中下車しました。方角的には一緒なので、同駅近くにある円通寺さんという寺院に参拝してから銀河座さんへと、当初からの予定でした。

比較的有名な寺院です。名前は知らなくとも、画像を見れば、ああ、ここか、という方は都内には多いのではないでしょうか。

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本堂の上に、像高12㍍の巨大な観音像。国道4号線沿いですので、非常に目立ちます。この像の原型は光太郎の父・光雲の作です。当方、機会があるたびに光雲作の仏像が納められている寺院を参拝しており、一昨日もその一環でした。

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こちらは幕末の彰義隊隊士の墓などもあります。当方、判官贔屓の傾向が顕著でして、幕末であれば新選組、旧会津藩、彰義隊、遊撃隊などなどの生き様には常々感服しています。

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こちらは移築された、上野戦争で焼け残った寛永寺の黒門。近くまで寄ってみると、弾痕が生々しく残っています。

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さらに戊辰戦争最後の闘い、北海000道函館で、新選組副長土方歳三らと共に闘った松平太郎の墓や、同じく榎本武揚、大鳥圭介、永井玄蕃頭尚志らの追弔碑も。

そこで頭上を見上げれば、再び光雲原型の観音像。

これらの人々、さらには震災で亡くなった多くの皆さんの彼岸での安寧を願い、手を合わせました。

円通寺さんをあとに、国道4号を北上、京成電鉄の千住大橋まで歩き、青砥駅へ。その後、プラネターリアム銀河座さんでの「智恵子抄と春空」拝見、というわけで、時間軸は昨日のブログに戻ります。

もうすぐ3.11。「ほんとの空」が本当に戻り、本当の意味での復興が為される日が来ることを、切に祈ります。


【折々の歌と句・光太郎】

春雨や稍ゝ水たまるかなたらひ          
明治33年(1900)頃 光太郎18歳頃

関東地方は昨夜から雨です。しかしもう冬の氷雨という感じではありません。一雨ごとに春、ですね。

地方紙のコラム、記事から2件ご紹介します。

まずは『佐賀新聞』さんの一面コラム。 

有明抄 復興災害

2016年01月18日
 <孤独の痛さに堪へ切った人間同志の/黙つてさし出す丈夫な手と手のつながりだ>。詩人高村光太郎の「孤独が何で珍しい」は、孤独への肯定感がにじむ。<孤独の鉄(かな)しきに堪へきれない泣虫同志の/がやがや集まる烏合(うごう)の勢に縁はない>。つらさを乗り越えた者への連帯感が支えなのだろう◆思いをはせる縁(よすが)があればこそ生きる力もわく。何のつながりもなければ力尽きる。「社会的孤立の果ての死」をいう孤独死。言葉から伝わるのは過酷な現実の響きだけだ◆21年前の昨日、6434人が犠牲となった阪神大震災が起きた。この数字に孤独死は含まない。20年間、仮設住宅や復興公営住宅で約千人が人知れず息を引き取った。東京などでも孤独死はある。ただ1万世帯当たりの発生率は東京23区の約2倍という(塩崎賢明『復興<災害>』)◆16年前、神戸の復興住宅を訪ねた。新築団地の部屋はバリアフリーで、緊急時通報装置もあった。ただ戸外や隣室の音は聞こえない。「隣近所は知らない人ばかり。気を遣う」。お年寄りのつぶやきが耳に残った◆復興事業による災厄を「復興災害」という。皮肉に満ちた言葉だ。抽選入居の復興公営住宅がコミュニティー崩壊を招き、孤独死の遠因となったとの指摘もある。被災者に差し出されたのは、その痛みを知る手だったのだろうか。(梶)


阪神淡路大震災からもう21年経ったか、という感じです。同時にもうすぐ東日本大震災からも5年。「復興災害」などという矛盾した言葉は消えてほしいものです。


続いて、『福島民友』さん。 

朝礼で「ほんとの空体操」 二本松・市職員実践、市民へ浸透図る

 二本松市は10008日、昨年誕生し、市民への普及を図っている健康体操「ほんとの空体操」を、朝礼時に全職員が実践する取り組みを開始した。
 ほんとの空体操は「元気な高齢者」を増やし、介護予防につなげるのが目的。2013(平成25)年3月に誕生した「市民の歌」に合わせて六つの動きを左右で行い、普段動かさない筋肉をほぐしたりするストレッチの動きが基本。同市の快フィットネス研究所の吉井雅彦所長が、高齢者でも気軽にできる体操として考えた。
 市は、市民への浸透が遅れている市民の歌とセットにして「運動する習慣」を目指す方針だが、まずは職員から実践しようと、朝礼時に市民の歌を流し、全職員が取り組む。各課にほんとの空体操のDVDを配布し、マスターを呼び掛けた。
 初日の体操を終え、男性職員の一人は「朝、体が起きていない時に体操をすることで、仕事の効率化にもつながるのでは」と話した。担当の高橋久美子市高齢福祉課介護保険係主査は「職員のマスター度は思ったより高かった。機会があるごとに個人や団体に実践を呼び掛けてほしい」と話している。


昨年、このブログでご紹介した「ほんとの空体操」に関してです。

下記は二本松市さんのサイトから採らせていただきました。


皆さんで取り組むことで、『佐賀新聞』さんにあったような孤独死の防止にも役立つのではないかという気がします。そこまで極端な話にならなくとも、最近話題の「生活不活発病」の予防にはなりそうですね。広まってほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

旅なれば一人なればの御情(みなさけ)かゆるせ夕野をただ徒歩(かち)ゆかむ

明治34年(1901) 光太郎19歳

「生活不活発病」、当方には無縁だろうなと思っております。年間20回前後は東北に足を運び、数回は中部、関西にも。さらに毎朝夕、犬の散歩で合計1時間以上は歩くようにしています。

昨日の夕雲は見事でした。

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3.11が巡ってきました。

新聞やテレビでは、少し前から東日本大震災がらみの特集などを組んで下さっていますし、イベントなどもいろいろあって、いいことだと思います。記憶を風化させないというのはもちろん、未だに避難生活を強いられている皆さんがたくさんいたりする現状に目をつぶるわけにはいきませんから。


新聞各紙の報道をご紹介します。  

<「福島」復興考えるシンポ>「地域ごとの被害を見て」 立命大で280人参加

毎日新聞京都版 3月9日

 東京電力福島第1原発事故に関連したシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで」が8日、立命館大朱雀キャンパスホール(京都市中京区)で開かれ、放射能汚染被害を受けた福島県での農業復興や被災者支援の取り組みが報告された。復興支援の拠点施設「福島大学うつくしまふくしま未来支援センター」と福島大の主催で約280人が参加した。

 元NHKアナウンサーで、現在はNPO法人「8bitNews」を設立し、インターネットなどを使って福島のニュースを発信するジャーナリストの堀潤さんが講演した。

 「『今も苦しんでいる福島』と語った際、その福島は何を指すのか」とまず問題提起。「本州で岩手県に次いで広い福島県は、(原発がある)海側の浜通りから、山側の会津地方まで、放射能被害の程度が違う。地域ごとに細かく見ず、ひとくくりに福島を捉えてしまうと、支援を届ける場所が曖昧になる恐れがある」と警鐘を鳴らした。 

福島の現実と課題「現地で知って」 震災4年、京都でシンポ

京都新聞 3月9日

 東日本大震災から4年を迎えるのを前に、福島県の現状を考えるシンポジウム「ほんとの空が戻る日まで」が8日、京都市中京区の立命館大朱雀キャンパスであった。復興への取り組みが進む一方で、現在になって表面化した問題を大学教授や被災者が講演し、「課題解決のために、多くの人に現地を訪れてほしい」と市民に呼び掛けた。

 被災地の状況を全国に発信する取り組みの一環で、福島大などが主催した。東京や大阪に続いて京都でも開かれ、約280人が参加した。シンポでは、東京電力福島第1原発事故による県内の放射線量や影響を受けている生産物の出荷状況などを、福島大の教授が説明した。

 本多環特任教授は、家族と別れたり親がストレスを抱えたりして家庭環境などが変化した子どもは、自分の存在意義について悩み、自信をなくしていると指摘。震災から4年近くが経過して体力の低下が明らかになっているとし、「医療面のケアなど、これまでは対症療法にとどまっていたが、教育や福祉の専門家を交えた複合的な支援が必要だ」と訴えた。

 福島市にある松島屋旅館のおかみ高橋美奈子さん(47)は、関西の旅行業者から客に対して責任を持てないため福島行きの商品をつくれないと言われたことを紹介。「原発の汚染水問題などが起きる度に、企画や復興にむけた計画が覆えされる課題はある。現地を見てもらうために自分たちにできることを考えていきたい」と力を込めた。 

大震災から4年…実情伝え 福島大が京都でシンポジウム

福島民友 3月9日

 
 福島大うつくしまふくしま未来支援センターは8日、京都市の立命館大で京都シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで」を開いた。300人以上の聴衆を前に、同大の研究者らが震災、原発事故から間もなく丸4年となる本県の実情を伝えた。

   2013(平成25)年に東京、昨年は大阪でシンポジウムを開いており、今回が3回目。元NHKアナウンサーでジャーナリストの堀潤さんが基調講演した後、同センターの大瀬健嗣特任准教授が本県の放射性物質汚染の現状などについて、小山良太副センター長が本県農業の放射性物質対策などについて、本多環特任教授が子ども支援について報告した。「震災・原発事故からの福島の闘い」と題し、開沼博特任研究員をコーディネーターにパネルディスカッションも行った。


明るいニュースも報じられています。昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念し、文学碑が建てられ、今も女川光太郎祭を毎年開催している宮城県女川町から。 

<JR石巻線>復興の象徴また一つ 女川駅の新駅舎公開

毎日新聞 3月5日

 東日本大震災の津波で流失した宮城県女川(おながわ)町のJR石巻線女川駅の新駅舎が5日、報道陣に公開された。町のシンボルのウミネコが羽ばたく姿をイメージした大屋根が特徴。かさ上げなどの再建が進む町中心部の核となる。  
 
 旧駅は沿岸にあったが、新駅は約200メートル内陸に移設し、敷地も7~9メートルかさ上げした。ホームから真っすぐ先に海が見渡せ、駅舎を起点に海岸に向けて駅前広場やプロムナード(遊歩道)、商店街などを整備する復興計画が本格化する。

21日に開業し、石巻線浦宿駅までの2.3キロ区間の運行が再開、4年ぶりに石巻、仙台方面と鉄路でつながる。町はこの日を「新生女川のまちびらき」と位置づけ、記念式典で復興をアピールする。

3階建ての駅舎は、海外でも活躍する建築家、坂茂(ばん・しげる)さんが設計。温泉施設「ゆぽっぽ」を併設した。3階の展望台からは町を一望できる。


女川の新たな玄関口、新駅舎は水鳥の羽ばたきイメージ

産経新聞 3月6日

 東日本大震災の津波で被災し、不通となっているJR石巻線の浦宿-女川間(約2・3キロ)運転再開に先駆け、駅舎が流されるなど甚大な被害を受けたJR女川駅(女川町)の新駅舎が5日、報道陣に公開された。同区間は21日に運転が再開される予定。

公開された新駅舎は2月20日に完成。世界的建築家の坂茂(ばん・しげる)氏が設計した。屋根が木造の鉄骨3階建てで、延べ床面積は約900平方メートル。屋根は曲線を描き、水鳥が翼を広げて羽ばたく姿を重ねたという。1階は駅事務所や待合所、2階は町営の温泉施設になっている。

この日は女川駅からの列車の試運転も実施。2両編成の列車が女川駅から浦宿駅の手前まで、報道陣を乗せて2往復した。駅は震災前より200メートル内陸へ移転したため、一部ルートを変更。運転手や乗務員は、信号などの設備や新しいルートの確認を行った。

21日は午前6時12分の始発から運転再開。震災前と同じく1日に上下22本の列車が運行する。町営温泉施設は22日からオープンする。

JR石巻線は、美里町の小牛田(こごた)駅から女川駅を結ぶ全14駅約44・7キロ。平成23年3月の震災で全線不通となったが、同年4月から25年3月にかけ、浦宿まで段階的に復旧していた。浦宿-女川間は線路や、女川駅の駅舎が流されるなど甚大な被害を受け、同駅の移転やかさ上げのために再開が遅れていた。

女川町町民課町民生活係の小山幸宏主査は「駅は新しい女川町の玄関口になる。運転再開を皮切りに町を活気づけ、復興の一翼を担ってくれれば」と期待を込めた。


 しかし、素直に喜べない部分もあるようです。女川光太郎祭会場となっており、女川光太郎の会事務局長で、あの日、津波に呑まれた故・貝(佐々木)廣さんの奥様のお店、佐々木釣具店が入っている仮設商店街・きぼうのかね商店街に関する報道です。

(東日本大震災4年)仮設商店街、悩む移転

朝日新聞 3月9日

 4年前に津波被害を受けた東北沿岸の各地で、地元を元気づけてきた仮設商店街の商店主たちに「2度目の移転」の決断が近づいている。新たなまちなみにあわせた「本設」の商店街づくりの構想もあるが、東日本大震災を機に人口減と高齢化は加速。廃業を考える人は少なくない。

 ■細る客足、家賃増も壁
 宮城県女川町の中心部では、津波で全壊したJR女川駅が21日に新しくでき、12月には駅前に新商店街が完成する予定だ。構想では、幅15メートルの遊歩道が海岸にかけて延び、両側にスーパー、薬局のほか、ダイビングショップやギター工房など27店が並ぶ。

 商店街を運営する「女川みらい創造」によると、「半数は町の外から客を呼び込める店」だ。近江弘一専務は「観光客が趣味に没頭し、ゆったりと過ごせるように考えた」と話す。

 1・5キロ西の高台には、被災した商店が移った「きぼうのかね商店街」がある。50店が入る平屋建ての長屋は3年前、県立高校の敷地に建てられた。震災直後、相次いで完成した仮設住宅の近くにできたが、仮設に住む人は減り始め、早ければ2年後に閉鎖される見通しだ。

 ここから新商店街に移ると決めた店は九つ。別の場所で再建をめざす店もあるが、およそ10店は廃業が取りざたされ、移転に二の足を踏む店主が多い。

 一角で理容店を営む深堀浩一さん(71)は「年齢を考えれば難しいね」。ここで営業を終えるつもりだ。震災後、町の人口は3割減り、なじみ客の足も遠のいた。仮設商店街には国の復興予算や寄付があてられ、月2万円の共益費と光熱費で済むが、新商店街に移れば家賃もかさむ。


むずかしいところです……。

きぼうのかね商店街といえば、先頃来日された、英国のウィリアム王子も訪問なさいました。

ウィリアム王子、女川の「希望の鐘」鳴らし離日

産経新聞 3月1日008

 来日中の英国のウィリアム王子は1日、東日本大震災の被災地、宮城県石巻市を訪問後、女川町に入った。100人以上が出迎え、獅子舞踊りや太鼓を鳴らして歓迎した。
 王子はがれきの中から見つかった「希望の鐘」を鳴らし、復興のために開設した商店街の人々とも言葉を交わした。
 王子は日本での全日程を終えて1日夕、次の訪問先の中国へ向かった。

英王子「私も大切な母亡くした」石巻など訪問

河北新報 3月2日

 来日中の英国のウィリアム王子(32)は1日午前、東日本大震災で甚大な被害が出た石巻市と宮城県女川町を訪れ、被災状況を視察し、住民らと交流した。
石巻市では、社屋が津波にのまれながらも手書きの壁新聞を発行した石巻日日新聞の施設を訪れ、記者や津波で3人の子どもを亡くした木工作家の遠藤伸一さん(46)、綾子さん(46)夫妻と面会した。
王子は真剣な表情で夫妻の話に耳を傾け、「私も大切な母を亡くした。思い出してつらい時にはきょうのことを思い出します」と語り掛けた。伸一さんが涙ぐんだ際には、王子が腕をさすり、「あなたは立派な父親だ」と励ました。007
石巻湾を一望できる日和山公園では、亀山紘市長が震災時の様子を説明。王子は犠牲者を悼んで献花し、黙とうをささげた。石巻小の児童2人から折り鶴を手渡されると、「息子のお土産にします」と話した。
女川町の仮設商店街「きぼうのかね商店街」では、地元住民が獅子舞や太鼓の演奏などで歓迎。王子は店舗を巡って商店主らと触れ合ったほか、がれきの中から見つかって商店街の象徴となっている「希望の鐘」を3回突き鳴らした。

 
右が「希望の鐘」です。この鐘の音が、すべての被災者の皆さんの心の中に、鳴り響くことを祈ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月11日

大正9年(1920)の今日、福島に帰省していた智恵子が東京駒込林町のアトリエに戻りました。

3月12日付けで光太郎が友人の作家・田村松魚に送った葉書に以下の記述があります。

智慧子は大層健康になつて肥つて昨夕帰つて来ました。丁度時候があたゝかなのでよかつたとおもひます。
しばらく田舎に居た人を見ると東京の生活の神経的に慌れて濁つてゐる事を感じさせられます。やはり国民の生気は田舎にあるかも知れませんね。
(略)
ちゑ子からあなたにも妙子さんにもよろしく


「智慧子」「ちゑ子」は原文の通り。「慌れて」もそうです。書簡や日記だと、意外に光太郎の表記はいい加減です。

智恵子歿後の昭和15年(1940)に書かれた「智恵子の半生」によれば、智恵子は結婚後も1年のうち3、4ヶ月は実家に帰っていることもあったそうで「東京には空が無いといつて歎いた」といいます。それが詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」につながります。

先週22日の土曜日、長野県白馬村を震源に起こった最大震度6弱の長野県北部地震。負傷された方が出たり、建造物の倒壊があったりと、心が痛みますが、亡くなった方がいなかったというのが何よりでした。
 
昨日の『信濃毎日』さんの報道です。

善光寺の仁王像が破損 「吽形」衣の先端折れる

 長野市の善光寺で26日までに、仁王門にある仁王像の一部が壊れているのが見つかった。県北部で22日夜に起きた地震の影響とみられ、善光寺は今後、修復する。
 仁王像は、向かって左側が口を開けた「阿形(あぎょう)」、右側が口を閉じた「吽形(うんぎょう)」。善光寺事務局によると、壊れていたのは吽形がまとう細長い衣「天衣(てんね)」の先端部分。寄せ木造りの接ぎ目付近で折れ、長さ1メートルほどの天衣の先端部分が地面に落ちた。
 現在の仁王門は1918(大正7)年に再建されたもので、仁王像はそれに合わせて造られた。彫刻家の高村光雲(1852〜1934年)と、弟子の米原雲海(1869〜1925年)の合作。文化財には指定されていない。
 
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大事にはいたらずに済んだようでよかったと思います。この像は一丈六尺、5メートル近い像ですので、倒れれば山門自体も大破したでしょうし、人が下敷きにでもなったら、ひとたまりもありません。
 
ちなみにこちらが開眼当時のお姿。古絵葉書です。
 
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足もとのこの部分が、バッキリいってしまったようですね。
 
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まずは被災した方々の支援でしょうが、そのあたりが落ち着いたら、きちんとした修復が為されることを望みます。
 
しかし、記事を読んで気になったのは、最後の「文化財には指定されていない。」の一言。
 
たしかにその通りです。というか、光雲の代表作の一つ、「老猿」は国の重要文化財に指定されていますが、それ以外にあまたある、光雲作の仏像、銅像などの類で文化財指定がされているものはほとんどないのではないかと思います。有名な「西郷隆盛像」や「楠正成像」ですらそうです。光雲作に限らず、近代の仏像、銅像で文化財指定を受けているものは、やはりほとんどありません。
 
まだ「新しい」という感覚なのかも知れません。しかし今年は元号に換算すれば明治147年、大正103年、昭和89年です。そろそろ近代の作品も、どんどん文化財指定対象として考えていい時期ではないのでしょうか。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月28日
 
昭和24年(1949)の今日、山形市美術ホールで開催されていた「智恵子遺作切抜絵展覧会」が閉幕しました。
 
戦時中、焼失を懼れ、光太郎は智恵子の紙絵を山形、茨城取手、そして花巻の三ヶ所に分けて疎開させていました。そのうち山形の真壁仁に預けられたものの中から作品を選択、この展覧会が開催されました。
 
チラシ、パンフレット等お持ちの方、あるいはそれらが保管されている図書館さん等の情報をお持ちの方は、こちらまでお知らせ願えれば幸いです。

一昨日、福島県南相馬市民文化会館ゆめはっとにて、邦楽奏者、浜根由香さんのコンサート「東北を謳う」を聴いて参りましたが、午前中には隣接する相馬市まで行って来ました。
 
目的地は原釜尾花海水浴場。明治40年(1907)夏、智恵子がここに滞在し、海水浴(当時は「潮湯治」といっていたそうですが)を楽しんだ場所です。父・今朝吉、弟・啓助も同行していました。さらに大正6年(1917)にも智恵子はここに滞在しました。
 
当方の刊行している『光太郎資料』中に、「昔の絵葉書で巡る光太郎紀行」という項があり、過日刊行した第42集で原釜尾花海水浴場を取り上げました。下記が昔の原釜の絵葉書です。
 
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ところが当方、実際にここを訪れたことがなかったので、浜根さんのコンサートが南相馬で開催されるのを幸い、足を伸ばしてみました。
 
『光太郎資料』作製のためにいろいろ調べていた中で、やはりこのあたりも東日本大震災の津波による甚大な被害を受けていたことは知っていましたが、やはり百聞は一見にしかず、です。
 
さて、海岸に到着。目に飛び込んできたのは、いきなりこれです。
 
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かつて宮城の石巻女川で、こうした風景は見ていますが、やはり見慣れるということはありません。
 
慰霊碑も建っていて、手を合わせて参りました。
 
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かたわらには藤棚が。説明板もありました。
 
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波打ち際には海水浴場の展望台。これは震災後によくテレビなどに登場しました。時計台の時計はあの日、止まったままです。ただし、針はずれています。津波が来たのは午後4時頃だそうです。
 
 
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展望台から見た海。この海が、牙をむいたのかと思えないほど、とてもおだやかでした。
 
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原釜海岸をあとに、南相馬に向かいました。途中、「道の駅そうま」があったので寄ってみました。
 
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すると、「震災伝承コーナー」という一角がありました。
 
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パネルやモニターで、津波の被害について説明がなされています。
 
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被害のすさまじさを示す、「現物」の資料も。
 
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その後、南相馬のコンサートに向かいました。
 
さらに終演後、国道6号に出て、常磐富岡インターから高速に乗り帰宅。国道6号も、先月、通行止めが解除されたものの、相馬地区はまだこういう状況です。
 
通行止めは解除になったものの、原発に近い区域では、歩行者、自転車、そして自動二輪でも通行不可です。許可証を持つ地元の方以外は、脇道には一切入れません。
 
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全国の原発を抱える自治体の皆さん。再稼働に賛成なら賛成で、ご自分の街がこういう状況になるかもしれないという覚悟はできていますか?
 
かつて智恵子が滞在した原釜に話を戻しますが、原発事故による海洋汚染も深刻で、漁業も周辺では未だに試験操業の段階、全壊した相馬原釜地方卸売市場の再開も来年になる見込みとのことです。
 
こちらも昔の原釜の絵葉書。こういう光景が復活するのはいつのことになるのでしょうか……。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月21日
 
明治23年(1890)の今日、上野公園桜ヶ岡の日本美術協会列品館で絵画展覧会が開幕し、光太郎の姉・さくの作品も並びました。
 
出品作は絹本堅淡彩の「鍾馗図」。数え16歳で夭折したさくですが、狩野派の絵を学び、将来を嘱望されていました。光雲にとっては期待の娘、光太郎にとっては自慢の姉でした。
 
のちにやはり画家志望の智恵子と結ばれた光太郎、日本画と洋画の違いこそあれ、そこにさくの面影を見ていたのかも知れません。

昨日は3.11。東日本大震災からまる3年が経ちました。
 
少し前から、各地で行われたイベントや、その報道などで光太郎智恵子に関わるものがあります。
 
当方は、銀座永井画廊さんで開催中の「高村智恵子紙絵展」に行って参りました。
 
永井画廊さんでは2012年以後、毎年3月に「被災地への祈りのメッセージ展」を開催していて、その一環です。更に昨日は関連行事として、光太郎の弟で鋳金の人間国宝・高村豊周の孫・朋美女史と、高村光太郎研究会員で、かつて群馬県立土屋文明記念文学館の学芸員だった佐藤浩美さんによるトークショーが行われました。

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トークショーの後、午後2時46分には、参会者による黙祷が捧げられました。
 
さて、一昨日のものですが、各地の地方紙の報道をご紹介します。 

東北と岐阜つながれ 岐阜市でイベント、黙とうも

 2014年03月10日 岐阜新聞
 東日本大震災をきっかけに、人とのつながり、支え合いを大切にしようと企画されたイベント「みんな友達!tunagari fes.2014」が9日、岐阜市金町の金公園で開かれ、大勢の人たちが触れ合いを楽しんだ。
 実行委員会(はやしちさこ代表)が開催し、5回目。手作りのお菓子や手芸品などの約120ブースが並び、家族連れらが出店者との会話を楽しみながら買い求めた。
 ステージイベントもあり、8グループが出演。関市のユニット「梅弦」は、震災で津波に流された松で作ったギターの演奏に合わせ、詩集「智恵子抄」を朗読した。
 地震発生時刻の2時46分には、来場者が黙とうをささげた。
 
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もう故郷に戻らない 「なみえ焼そば」店主決意

2014年3月10日 東京新聞
 東京電力福島第一原発事故のため全町避難を強いられている福島県浪江町。ご当地グルメ「なみえ焼そば」が全国的に脚光を浴びる中、町を離れて同県二本松市で営業を再開した「杉乃家」店主、芹川輝男さん(64)は、もう浪江町には戻らないと心に決めた。震災から三年。古里に帰らない選択をする被災者が、増えている。 (谷悠己)
 うどんのような極太麺にたっぷりのもやし、豚バラが中華鍋で「ジュジュッ」と音を立て、甘口の濃厚ソースと絡み合う。
 「浪江の人は年取ってても結構、大盛りを注文するんだ」。鍋を自在に操る芹川さんが話す。浪江町の仮役場がある二本松市は二千五百人の町民が暮らし、店は社交場となっている。
 芹川さんは原発事故後、家族で福島県内の避難所などを転々。釣り仲間だった二本松市の男性が空き店舗を探し、震災の四カ月後に店を再開できた。なみえ焼そばを作る店は町内に約二十店舗あったが、再開したのは杉乃家のみだ。
 以前の店では、東電社員や原発作業員も多かった。「町はずいぶん東電の世話になっていた。事故の賠償はしっかりしてほしいが、東電だけ責める気には今もなれない」。むしろ事故直後、関東の市民が「福島から電気が送られていたと初めて知った」と話していたことが悲しかった。
 浪江町の自宅兼店舗には盆や正月に一時帰宅する。室内のネズミが芹川さんと目線を合わせた後、一斉に姿を消す。部屋中が荒らされ、臭いがひどい。「あれを見たら、もう帰る気なくなるよ。悔しいけど、諦めがついた」。ずっと「浪江に帰りたい」と言っていた義父も二〇一二年六月に肺炎で亡くなった。
 昨年末に愛知県豊川市で開かれたB級グルメの祭典「B-1グランプリ」で、浪江の町おこし団体が作った焼きそばが優勝。それ以降、市外からも大勢の客が訪れる。「全てを失った後の再出発だから、今の方が楽しいかも。まだ仕事が見つからない避難者の人には言いづらいんだけど」
 店内には「がんばろう!浪江 ありがとう二本松」と書いた青地の横断幕を掲げる。青色は、美しかった浪江の海の色。そして、詩人・高村光太郎の妻智恵子が、二本松の生家から眺めて愛した安達太良(あだたら)山の空の色を重ね合わせた「故郷を離れた俺にとって、この街で長く店を続けることが生きる希望だからね」
 
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ちなみにこの店は、大山忠作美術館さんが入っている二本松駅前の市民交流センター1階にあり、当方もよく行く店です。
 
避難生活を続けられている方々はまだ26万人。事故を起こした福島第1原発はとても「コントロールされている」状態ではありません。大震災の記憶、まだまだ風化させるわけにはいきません。「被災」はいまだに続いています。
 
明日からまた東北レポートに戻ります。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月12日

文久3年(1863)の今日(旧暦ですが)、光太郎の曾祖父・中島富五郎が歿しました。
 
富五郎の父、長兵衛までは鳥取藩士だったとされています。富五郎の代から町人となり、浅草で魚屋などをやっており、富本節の素人名人だったとのこと。ところがその技倆を妬まれ、毒を盛られて半身不随に。それからは子供向けの玩具などを木工で作って生活していたそうです。光雲や光太郎に伝わる手先の器用さがここに見て取れます。

2月も今日で終わり、明日から3月です。そして近づく3・11……。というわけで、あちこちで関連イベントや出版物の刊行などがいろいろと企画されているようです。昨日ご紹介した銀座永井画廊さんの「高村智恵子紙絵展」もそうした一環です。
 
さて、地上波NHK総合で、月~金の午前8時15分から9時54分まで放映されている「あさイチ」。その中に9時台放送のレギュラーコーナーとして「ピカピカ☆日本」というコーナーがあります。
 
公式サイトより。

「地方を見回せば、そこかしこにキラリと光るピカピカのアイデアがあり、そこにはピカピカの笑顔があります。全国各地の元気な場所から日替わり生中継、「行ってみたい」「買ってみたい」情報満載でお届けします。」
 
やはり3・11が近づいてきたということで、来週は「バスで!列車で!アッキーがゆく“復興の地”」と題して被災地の宮城から福島、茨城がレポートされます。昨年も同様の企画で北海道から宮城までが扱われていたそうですが、その時は気づきませんでした。
 
公式サイトより。

「東日本大震災以降、たびたび被災地を訪問してきたアッキーこと篠山輝信さんの出会い旅。1年前は北海道根室市から宮城県石巻市までを、バスや列車を乗り継いで訪ね歩きました。今回は、その石巻市からスタートし、海沿いに宮城県から福島県へ。原発事故による帰還困難区域を前に、内陸部を経て再び沿岸へ。最後は茨城県へと至ります。」

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放送予定は以下の通りです。
 
3/3(月) 石巻市 → 3/4(火) 名取市 → 3/5(水) 相馬市・南相馬市・浪江町 → 3/6 (木)福島市・二本松市
 
このブログで何度もご紹介してきました光太郎・智恵子ゆかりの地を廻ります。光太郎・智恵子に直接言及されるかどうか不明ですが(おそらくその可能性は低いと思いますが)、被災地の「今」を知っていただき、さらに3年目を迎える3・11に思いをはせるためにも、ご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月28日

昭和28年(1953)の今日、東京中山文化研究所の婦人文化講座で「炉辺雑感」と題して講演を行いました。
 
この講演の筆録は「美と真実の生活」という題名で、この年6月発行の雑誌『婦人公論』に掲載され、『高村光太郎全集』第10巻に収録されました。ところが数年前、同じ月に発行された雑誌『女性教養』に載った「炉辺雑感」を読んだところ、「美と真実の生活」は「炉辺雑感」を7割ほどの分量にカットしたものだと判明しました。しかもカットされた部分にかなり重要な示唆があります。
 
アンカット版は昨年4月に高村光太郎研究会から発行された『高村光太郎研究(34)』中の、当方編集「光太郎遺珠⑧」に全文掲載いたしました。

昨日に引き続き、震災と光太郎関連を。
 
先週の『読売新聞』さんの青森版の記事です。

観光客「魅力あれば戻る」 風評被害 

 寒風吹きすさぶ2月下旬。県内有数の観光地・十和田湖畔休屋地区は静まりかえっていた。メーンストリートのホテルや土産物屋は多くがシャッターを下ろし、道の両脇には雪がうずたかく積もったまま。
 「お客さんはすぐ戻ってくれると思っていたが、2年たっても戻らない。どう手を打てばいいのか、出口が見えない」
 本県側の湖畔で唯一、冬季営業を続けるホテル「十和田荘」の中村秀行社長(57)の表情は険しい。
 バブル崩壊後の1990年代後半以降、減少傾向が続いていた湖への観光客。追い打ちをかけたのが、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故だった。十和田市などによると、震災前の2010年に比べ、客足は11年は6割程度、12年も7~8割程しか戻っていない。特に外国人観光客は一時ほぼゼロになり、風評被害の影響が顕著に表れた。観光客の関心は西日本に移り、今も東北地方全体で観光客が戻りにくい状況だ。
 観光関係者らでつくる十和田湖国立公園協会によると、震災後、湖畔の宿泊施設は8軒中4軒が閉鎖。売店の閉店が相次いだ。撤去費用がない施設は放置され、景観を壊すという悪循環に陥っている。
 「復活できるかどうか、正念場の3年目になる」。そんな危機感が官民に広がる中、再起に向けたアイデアが出始めている。
 十和田市は、名産「十和田湖ひめます」の販路拡大や宿泊クーポンの発行など、観光再生に向けた事業を来年度当初予算案に盛り込んだ。今年で設置60周年を迎えた湖畔の観光名所「乙女の像」の作者高村光太郎と妻・智恵子の愛をモチーフに「恋の名所」として湖をPRする案も浮上。市観光推進課の岡山新一課長は、「もはや風評被害で言い訳はできない。魅力があれば必ずお客さんは戻ってくる」と強調する。
 かつて十和田神社への参道沿いに栄えた門前町を再現する構想を温めるのは、十和田湖の冬祭り「十和田湖冬物語」を手がけるレストラン経営鈴木章悦さん(42)。十和田湖観光が衰退した要因について「企業努力が少なく観光客に飽きられてしまったのでは」と話す。これからは民間が自由にアイデアを出し、行政がフットワークよく支援することが重要だと指摘する。
 震災で顕在化した観光地としての足腰の弱さ。克服に向け、鈴木さんは意気込む。「昔はシャッターを開ければお客さんが来たが、もうそうはいかない。必ず『十和田湖は良くなった』と言わせたい」
2013年3月8日 読売新聞)
 
「魅力ある街づくり」。大切なことです。
 
当方の住む千葉県香取市も、ほんの10数年前まではさびれた街でしたが、江戸時代以来の古い街並みを生かし始めたところ、観光地として再生しました。首都圏に近いというのも大きいのですが、古民家や歴史遺産をうまく活用し、個性的な店が並ぶようになったのが大きいと思います。
 
相変わらずテレビ等のロケも多く行われており、NHK大河ドラマ「八重の桜」(会津藩本陣金戒光明寺のシーン)や、NTTドコモの堀北真希さん出演のCMなどは香取市で撮影されています。
 
しかし、やはり震災の爪痕は深く、半壊した古民家、液状化でガタガタになった道路などの改修もなかなか進みません。それでも一時激減した観光客の皆さんがかなり戻ってきました。ありがたいことです。
 
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十和田をはじめ、東北はやはり首都圏からのアクセスの問題もあるかと思います。それでも記事にあるとおり、「魅力があれば必ずお客さんは戻ってくる」と信じ、努力を続けてほしいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】3月12日

明治22年(1889)の今日、岡倉天心の勧めで、街の仏師だった光雲が東京美術学校に奉職することになりました。

「あの日」から2年経ちました。言わずと知れた東日本大震災です。
 
宮城では、光太郎顕彰活動に関わっていた方が津波に呑まれ、亡くなりました。そのお仲間で、ご家族を亡くされた方もいらっしゃいます。
 
福島では、原発事故の影響で、今も不自由な毎日を過ごされている方々がいらっしゃいます。
 
さて、おそらくこの時期に合わせたのでしょう。以前にこのブログで御紹介した映画「希望の国」(園 子温監督)のDVDとブルーレイが発売されました。 
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大谷直子さん演じる主人公の妻「智恵子」には高村智恵子のイメージが投影されています。
 
その大谷さんや、主人公役の夏八木勲さん、その息子役の村上淳さん(NHK大河ドラマ「八重の桜」の土方歳三役)ら、キャストの方々、さらに園監督はじめスタッフの皆さんの本音が収まったメイキングのディスクも付いています。
 
本編ももちろん、このメイキングのディスクがすごい内容でした。福島の原発周辺、宮城の石巻や気仙沼など、ロケ地となった場所の映像、そしてそこに暮らす人々の肉声……。
 
特に、被災地に行かれたことのない方にはぜひご覧いただきたい内容です。
 
今年の連翹忌でも、被災地の方々からの参加申し込みが届いております(当方の生活圏も一応被災地ですが)。復興の現状、復興されていない現状など、語っていただきたいと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】3月11日

大正2年(1913)の今日、読売新聞社で第2回フユウザン会展が開かれ、光太郎は塑像「男の首」を出品しました。
 
このフユウザン会展は、公設の展覧会に反旗を翻す新進作家達のアンデパンダンとして注目されました。第1回展はその前年秋。しかし、同人間の価値観の違いから、2回で終焉となりました。

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