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震度7の大地震による被害で、北海道が大変なことになっています。亡くなられた方には謹んでお悔やみ申し上げます。

平成23年(2011)の東日本大震災当時、当方自宅兼事務所のある地域もそれなりの被災地となり、いろいろ大変だったこと、そして津波の犠牲となられた当時の女川光太郎の会事務局長・貝(佐々木)廣氏のことなどを思い出しています。

さて、北海道に本拠を置く日本ハムファイターズさん関連で。8月30日(木)の『スポニチ』さんから。 

日本ハム・清宮、初の単独ポスター登場 逆転Vへ「お楽しみはこれからだ」

 首位の西武を6・5ゲーム差で必死に追う日本ハムが、初めてドラフト1位の清宮幸太郎内野手(19)の単独ポスターを作製したことが29日、分かった。逆転優勝の機運を高めるため、9月上旬から道内各所に掲示される予定だ。今月21日の1軍昇格から高校通算111本塁打の本領を発揮している怪物ルーキーが「主力選手」と認定された。
   逆転優勝への機運を高めるため、北海道を一丸にする。球団が初めて作製した清宮の単独ポスターが道内各地に登場するのは9月上旬予定。球団関係者は「10月に(優勝で)ファンの皆さまと一緒に喜ぶため、チームを盛り上げたいという思いでポスターを作りました」と思いを明かした。
  清宮は昨秋のドラフトで7球団競合の末に入団。キャンプ期間のコンディション不良などで開幕は2軍だった。5月9日のオリックス戦でプロ1号を記録したものの、その後は打撃不振や右肘の炎症などで今月中旬までは大半が2軍暮らし。それでも21日に今季3度目の1軍昇格を果たすと、前日28日までの7試合で打率・385、3本塁打、8打点と好成績を残し、今回の抜てきにつながった。
  シーズン終盤の時期に緊急作製されたポスターは「♯お楽しみはこれからだ」という言葉と躍動感あふれる写真で「逆襲」を予感させるものとなっている。清宮の他にも主将の中田、レアードら計10選手で各1000枚、計1万枚が作られた。
  今季は二刀流で看板選手だった大谷がポスティングシステムでエンゼルス、抑えの増井がオリックス、正捕手の大野が中日にそれぞれFA移籍。大幅な戦力ダウンで開幕前の下馬評は低かった。それでも主将の中田を中心にチーム一丸となり開幕から白星を重ね、現在も西武、ソフトバンクと優勝争いを展開。清宮を筆頭に浅間、渡辺ら若手を積極的に起用しているが、栗山監督は「もう年齢は関係ない。勝てるメンバーで戦う」と語っている。
  今季、チームはビジターで27勝29敗1分けだが、ホームは33勝22敗2分けと大きく勝ち越し。逆転優勝の実現には北海道のファンの後押しは不可欠だ。今月に入って失速したチームは24日から26日まで札幌ドームで行われた楽天3連戦で7カードぶりに勝ち越し。ファンの大声援を力に変えて再び上位の西武、ソフトバンクを猛追する態勢を整えた。
  シーズン佳境の時期にポスターを新たに作製するのは球団では初の試み。一丸で2年ぶりの優勝を目指す。

問題のポスターがこちら。

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お気づきでしょうか。

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光太郎詩の代表作の一つ「道程」からのインスパイアですね。同じ「コータロー」つながりで、ということでしょうか。

これまでもスポーツ界などで偉業を成し遂げた人々への形容として、「道程」のフレーズが使われてきました。野茂英雄選手大相撲の横綱・白鵬関、それからスポーツではありませんけれど(「盤上の格闘技」ともいえますが)、将棋の藤井聡太七段……。

清宮選手、プロ野球ではまだまだ偉業といえる実績はありませんが、「清宮の後ろに道は出来る」の一節に相応しい活躍を期待したいと思います(個人的には東北楽天ファンですが(笑))。

そしてその活躍で、北海道の皆さんを勇気づけていってもらいたいものです。がんばろう、北海道。


【折々のことば・光太郎】

吐き出さずにゐられないものをどういふ形で打ち出したらいいのか、それを知らないために空しく自己の内天を殺してしまふ人も多いと思ふのであるが、それが詩といふ近代形式によつて最も身近に表現され得るといふ事を知つた者にとつては、此世にかかる解放と美の世界との存在するよろこびが身につくわけである。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

ある意味、「吐き出さずにいられないものを打ち出す」=「自己の能力を存分に発揮する」ということになりましょうか。野茂投手、白鵬関、藤井七段、そして光太郎、皆それが出来、活躍につながったわけですね。清宮選手、そして世の中の全ての人々が、それぞれの分野でそうなれるような世の中であってほしいものです。

先日、主に北海道の文学に注目する北方文学研究会さん発行の同人誌『北方人』の第27号を頂きましたが、その中で、釧路で発行されている文芸同人誌『河太郎』第43号が紹介されていました。光太郎に触れる論考が掲載されているとのことで、関係先(web上にアップロード作業をされている同誌サポーターの奈良久氏)に連絡をとったところ、無料で頂いてしまいました。恐縮です。

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光太郎に触れる論考は、『釧路新聞』記者の横澤一夫氏による「原始の詩人たちの時代 『 至上律 』 『 北緯五十度 』 『 大熊座 』」。

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昭和初期に北海道で発行されていた詩誌 『至上律』、『北緯五十度』、『大熊座』に関するもので、それぞれ弟子屈で開拓に当たりながら詩作を続けた更科源蔵を中核とした雑誌です。

このうち、『至上律』は光太郎の命名。他に発表したものからの転載が多いのですが、ヴェルハーレンの訳詩などを多数寄稿しています。この雑誌は戦後まで続き、隠遁生活を送っていた花巻郊外太田村のスケッチなども寄せました。

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『大熊座』は、昭和13年の刊行。一号で終わってしまいましたが、詩「夢に神農となる」、「高村光太郎作木彫小品・色紙・短冊頒布」の広告を寄せています。

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『北緯五十度』には光太郎の寄稿は確認できていません。

これら三誌をめぐり、更科と光太郎以外にも、さまざまな人物が関わっています。伊藤整、尾崎喜八、猪狩満直、草野心平、真壁仁、森川勇作……いずれも光太郎と因縁浅からぬ面々です。それらの織りなす人間模様について詳しく述べられ、興味深く拝読致しました。

さらに昨日ご紹介しましたが、今年の明治古典会七夕古書大入札会に、光太郎のものを含む、更科の詩集『種薯』(昭和5年=1930)を特集した雑誌『犀』(同6年=1931)のための草稿類が出品されており、奇縁を感じました。

先述の通り、web上にアップロードされています。是非お読み下さい。


【折々のことば・光太郎】

――原始、 ――還元、 ――岩石への郷愁、 ――燃える火の素朴性。

詩「荻原守衛」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

亡き友を偲ぶ詩です。守衛が(そして自らも)目指した彫刻のあるべき姿が端的に表されています。

この年刊行された相馬黒光による守衛回想、『黙移』に触発されての作と思われます。現在、夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」が開催中の信州安曇野碌山美術館さんに、この詩を刻んだ詩碑が建てられています。

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注文して置いた書籍が届きました。 
2016年7月20日 北野麦酒著 彩流社 定価1,800円+税

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北海道・札幌にある親会社(ビスケットの坂栄養食品)との軋轢から存続の危機に直面している「レトロスペース・坂会館」。

本社と苦闘する坂館長と対峙した渾身のドキュメントを緊急出版します!

札幌市内の私設博物館「レトロスペース・坂会館」。 坂一敬館長は自己の好みを基準として昭和のモノをこれでもかと蒐集し、特異でかつレトロな空間を具現化。いままさに当館が直面する存亡の危機に「命を賭してココを守る!」と意気軒昂だ。

前作の『蒐める!』(彩流社刊)以上のエネルギーで坂館長がこれまでの人生を語り尽くした秘話満載。

「智恵子抄」の高村智恵子のヌード写真、レトロスペースから無くなったマネキンたち、これまで出会った有名・無名の人たち、そして館長をめぐる女性たち、 夢にまで見た幻の1冊。なぜ坂館長はこれほどのモノを蒐めたのか。 運営存続への支援の輪がいま、全国で展開中である!


「レトロスペース・坂会館」さんは、札幌にある、膨大な数のレトログッズを展示している私設博物館のような施設だそうです。花巻南温泉峡にある「昭和の学校」さんと似た雰囲気のようですが、そこに「秘宝館」的なアヤシい要素がかなり加わっているようで、あちこちのサイトなどで「珍スポット」的な紹介もされています。

書籍の方は、全8章から成り、そのうちの第2章が「坂館長が見た「智恵子抄」の智恵子の幻のヌード写真」、第7章が「ヌード写真の智恵子」となっています。ただし、それぞれ智恵子に触れている部分は少しずつで、大半は別件の記述です。

「智恵子のヌード写真」……いったいどういうことかというと、光太郎との結婚前に智恵子が通っていた太平洋画会美術研究所に関わっています。

坂会館さんの館長・坂一敬氏が、その作品に惚れ込み、親交を結んでいた画家の故・宮田清氏という方がいらっしゃいました。あまり有名な画家ではなかったようで、ネット上に載っている情報も多くはありませんが、裸婦画を得意としていたようです。明治22年(1889)、札幌の生まれ。明治末、太平洋画会美術研究所で、智恵子と共に学んだとのこと。明治19年(1886)生まれの智恵子の3歳年下になります。昭和61年(1986)ころ亡くなったとのことです。

その宮田氏が、晩年に坂氏に、「薪ストーブで焼いてくれ」と、段ボール二箱半のヌード写真を渡したそうです(宮田家には薪ストーブがなかったとのこと)。おそらく今で云う「終活」の一環だったのでしょう。裸婦画を描くために撮ったヌード写真、生きているうちに処分してしまいたかったというわけです。宮田氏はフィルムの現像や印画紙への焼き付けも自分で行う技術、機材を持っていたそうです。

その中に、「下宿の畳の上で撮ったもののよう」な智恵子のヌード写真が数枚あったというのです。坂氏、それ以前に智恵子と宮田氏のつながりを聞いていたし、通常の智恵子の写真も見たことがあったようで、すぐに智恵子だと分かったとのこと。

智恵子と宮田氏のつながり、というのはこうです。明治末、宮田氏と、それから仲の良かったやはり太平洋画会美術研究所に学んでいた彫刻家の中原悌二郎の二人が、揃って性病に感染、その治療費を捻出するために春画を描いて売りさばくことを考え、そのモデルを智恵子に依頼したというのです。有り得ない話ではありません。

ところが、写真は現存しません。坂氏、それら数枚に写っているのが智恵子とわかり、それらだけ抜いておこうかとも考えたそうですが、坂氏を信頼して処分を委託した宮田氏の心情を慮り、そのまま火にくべたそうです。

もしそれが残っていて、間違いなく智恵子のヌード写真であれば、とんでもない資料です。しかし、他の写真も含めて、脱いでくれた女性たちと宮田氏の間の信義、処分を託された坂氏と宮田氏の間の信義、そういったことを考えると、残っていてはいけない写真でしょう。

そういうわけで、真偽の程は明らかではありませんが、永遠の謎やロマン的なエピソードとして扱いたいと思います。

ちなみに「レトロスペース・坂会館」さん、現在、存続の危機に立たされているそうで、それを救うため、坂氏と親交のある北野氏が本書を執筆したとのこと。北野氏には同趣旨の『蒐める! レトロスペース・坂会館』というご著書もあり、今回のものと同じ彩流社さんから上梓されています。

場所は札幌市西区の手稲通り沿いだそうです。ご興味のある方は是非どうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

わかき日のこの煩悩のかたまりを今はしづかにわが読むものか
昭和22年(1947) 光太郎65歳

作歌の背景は、この年札幌青磁社から刊行された『道程』復元版にかかわります。晩年を迎え、若き日の詩群を読み返しての感想です。

当方、今日は神田の東京古書会館さんで、「七夕古書大入札会2016」の一般下見展観を拝見して参ります。光太郎若き日の書簡なども手に取って見ることが出来ます。光太郎自身が見れば、やはりこの歌と同じような感想を抱くのではないでしょうか。

また、のちの智恵子が若き日の自分のヌード写真を見たとしたら……などと想像が膨らみます。

昨日の『日本経済新聞』さんの文化面掲載の記事に、光太郎の名がちらっと出ました。

北海道文教大学教授にして、昨年まで北海道文学館理事長を務められた神谷忠孝氏によるもので、「北海道文学ここにあり」と題するものです。サブタイトルが「小林多喜二や石川啄木ら、ゆかりある作家・作品を紹介」となっています。

北海道出身の作家の作品、もしくは北海道に題を採った文学作品を「北海道文学」と定義し、北海道文学館での企画展、昨年増補版が刊行された『北海道文学大事典』の編集などを通し、その豊かさが語られています。

また、北海道は文芸同人誌の刊行が盛んであることにも言及されています。「雪深く極寒の北国は人を屋内にとじ込める。ドストエフスキーやトルストイを生んだロシアと同じく、北海道の気候は物語を紡ぐ想像力を養うのかもしれない。」とのこと。なるほど、太宰治や寺山修司を生んだ青森、石川啄木や宮澤賢治を生んだ岩手も同じかもしれません。

さて、神谷氏の挙げる「北海道文学」に関わる人名は、以下の通り。

国木田独歩、有島武郎、小林多喜二、寺山修司、知里幸恵、池沢夏樹、吉増剛造、円城塔、渡辺一史、山田航、石川啄木、寒川光太郎、そして高村光太郎。

北海道に理想郷を見てやってきた作家は多い。(略)詩人の高村光太郎、函館などで新聞記者として暮らした石川啄木も有名だ。

光太郎が北海道に渡ったのは、欧米留学から帰って2年経った、明治44年(1911)。経営していた日本初の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)を畳み、札幌郊外の月寒で酪農のかたわら、芸術作品の創作を夢見てのことでした。しかし具体的な考えはなく、行き当たりばったりの計画だったため、たちまち頓挫し、引き返していますが。くわしくはこちら

その体験を元に作ったのが、詩「声」です。

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止せ、止せ
みじんこ生活の都会が何だ
ピアノの鍵盤に腰かけた様な騒音と
固まりついたパレツト面の様な混濁と
その中で泥水を飲みながら
朝と晩に追はれて
高ぶつた神経に顫へながらも
レツテルを貼つた武具に身を固めて
道を行くその態(ざま)は何だ
平原に来い
牛が居る
馬が居る
貴様一人や二人の生活には有り余る命の糧(かて)が地面から湧いて出る
透きとほつた空気の味を食べてみろ
そして静かに人間の生活といふものを考へろ001
すべてを棄てて兎に角石狩の平原に来い

そんな隠退主義に耳をかすな
牛が居て、馬が居たら、どうするのだ
用心しろ
絵に画いた牛や馬は綺麗だが
生きた牛や馬は人間よりも不潔だぞ
命の糧は地面からばかり出るのぢやない
都会の路傍に堆(うづたか)く積んであるのを見ろ
そして人間の生活といふものを考へる前に
まづぢと翫味(ぐわんみ)しようと試みろ

自然に向へ
人間を思ふよりも生きたものを先に思へ
自己の大国に主たれ
悪に背(そむ)け

汝を生んだのは都会だ
都会が離れられると思ふか
人間は人間の為したことを尊重しろ
自然よりも人工に意味ある事を知れ
悪に面せよ

PARADIS ARTIFICIEL!

馬鹿
自ら害(そこな)ふものよ

馬鹿
自ら卑しむるものよ


画像は昔の絵葉書、農商務省月寒種羊場。光太郎が訪れた明治末よりは新しいものですが。


その後も光太郎は、北海道在住の詩人、更級源蔵と親しくなり、たびたび北海道移住の夢を語ります。戦後の花巻郊外太田村での独居生活も、この夢に通じるところがあるのでしょう。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月25日

大正14年(1925)の今日、ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレン(光太郎の表記ではヴエルハアランまたはヹルハアラン)の詩集 『天上の炎』を翻訳、新しき村出版部から刊行しました。

画像は扉です。当方、カバーなししか持っていないもので。

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北海道からイベント情報を2件ご紹介します。

「モンクール読み語りライブ 〜「詩」を想い、そして 思い出す日。20」

日 時 : 2014年6月29日(日) 開場12時頃/開演13時
場 所 : 詩とパンと珈琲 モンクール 
       札幌市中央区北3条西18丁目2-4 北3条ビル1F(南向き)
料 金 : 投げ銭
特 集 : 高村光太郎・城理美子
主 催 : ヨミガタリを楽しむ会
 
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朗読系のイベントのようです。光太郎を取り上げてくださる由、ありがたいかぎりです。
 




高村智恵子紙絵複製展

日 時 : 2014年5月23日(金) ~7月28日(月) の土・日・月
場 所 : ギャラリー日の丘 北斗市三ツ石347 0138-75-3557
 
明治・大正期の詩人高村光太郎の妻智恵子の切り絵を貼り重ねた作品複製約40点を展示する。
 
『北海道新聞』さんのイベント情報で見つけました。「智恵子の切り絵を貼り重ねた作品複製」という部分、意味がよくわからないのですが……。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月5日

明治45年(1912)の今日、『読売新聞』に智恵子を紹介する記事「新しい女(一七) 最も新しい女画家」が掲載されました。
 
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前月に第1回与謝野晶子からはじまった連載の17回目で、他に田村俊子、相馬黒光、松井須磨子、長谷川時雨などが取り上げられ、翌年には単行本にもなりました。
 
かなり好意的に紹介されています。一部抜粋します。
 
『好きなのは、やはりゴオガンのです』話す時、その声は消えるやうに低くなる、『このごろ描きましたのは――』と立つて壁によせかけた小さな板を裏返して『ぢきこの近くなのです』、見ると、木立の間から畠を越えて夕空が明るくのぞかれる、木の葉といひ草の葉といひ、女とは思はれぬほどつよくそして快く描いてある、ふとセザンヌの雨の画を思ひだしたので、そのことをいふと『えゝセザンヌもほんとにようございますわね』と子どもらしく口を開いて目をほそめた、

北海道文学の研究者、盛厚三氏から北方文学研究会発行の同人誌『北方人』第19号を戴きました。ありがたいことです。
 
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光太郎は、その度に頓挫しましたが、何度か北海道移住を企てており、北海道在住だった詩人等との交流もいろいろとありました。今号に掲載されている盛氏の「評論/釧路湿原文学史(2)」にも、そうした詩人のうち、更級源蔵、猪狩満直といったあたりが紹介されており、興味深く拝読しました。
 
また、以前のブログでご著書『序文検索―古書目録にみた序文家たち』をご紹介させていただいた、かわじもとたか氏も「書誌/個人名のついた雑誌―日本人編(3)」を寄稿されています。
 
当方、やはり北海道出身(と思われる)詩人・編集者の八森虎太郎にあてた光太郎書簡(ハガキ)を2通持っています。一通は昭和24年(1949)9月のもので、以前のブログでご紹介しました。
 
もう一通がこちら。昭和23年(1948)5月のものです。
 
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「落下傘」をいただき、又池田克己氏詩集をもいただき、何とも恐縮に存じました、 大変立派に出来てゐるので気持ちよく思ひました、 池田さんからは「法隆寺土塀」をもいただき、 この処詩の大饗宴です。
厚く御礼申上げます。
 
『落下傘』は金子光晴の詩集です。『池田克己詩集』『法隆寺土塀』とも、札幌にあった日本未来派発行所から上梓されたもの。こちらは雑誌『日本未来派』を発行しており、光太郎も寄稿しています。昭和23年(1948)7月刊行の第13号。「十年前のあなたは 十年後のあなたは」というアンケートへの回答です。
 
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ただし光太郎が答えているのは「十年前のあなたは」の項のみ。この時点では、健康に不安を抱え、十年後にはもうこの世にいないだろう、などと考えていたのでしょうか。実際、8年後に亡くなっています。
 
昭和23年(1948)の十年前は同13年(1938)、智恵子がこの年10月に亡くなりました。 
 
ちなみに上記ハガキに出てきた三冊、すべてこの号の裏表紙に広告が出ています。
 
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更級源蔵や猪狩満直、そしてこの『日本未来派』の面々、さらにマイナーな北海道詩人(島田正など)との交流、内地出身ながら北海道と縁のあった詩人(猪狩もそうですが、他に宮崎丈二など)との交流もあり、そのあたり、もっと掘り下げなければ、と思っているところです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月28日000

平成19年(2007)の今日、NHK教育テレビ(現・Eテレ)の「知るを楽しむこの人この世界 ほとけさまが教えてくれた 仏像の技と心」第8回「「西郷さん」で会いましょう~童子のこころで」で、光雲作西郷隆盛像が取り上げられました。
 
ナビゲーターは彫刻家の藪内佐斗司氏。飛鳥時代の広隆寺弥勒菩薩像、天平期の興福寺阿修羅像、さらに定朝、運慶、快慶と、仏像彫刻の流れを追う番組でした。

その最終回で光雲作西郷像。渋谷のハチ公同様、ランドマークとして待ち合わせの場所に使われたことから、「「西郷さん」で会いましょう」というサブタイトルになっています。
 
日本放送出版協会からテキストも発行されました。

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