タグ:写真


光太郎の父・高村光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像などが納められている信州善光寺さんでの写真コンテストが開催されます。

地元紙『信濃毎日新聞』さんから。

善光寺・仁王門、初の写真コンテスト 4月1日から作品募集

 長野市の善光寺は、仁王門の000写真コンテストを初めて企画し、4月1日に作品募集を始める。仁王門が昨年、火災後の再建から100年を迎えたことを記念し、参拝客により親しんでもらおうと企画。併せて明治、大正時代や昭和の前半ごろまでに撮影された仁王門の写真提供も呼び掛けている。
  コンテストの題材は、仁王門や門の中に納められている仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像など。1912(明治45)年の御開帳の際に一時的に置かれ、現在は飯山市の広場にある「先代」仁王像も含む。
  現在の仁王像の制作に携わった彫刻家高村光雲(1852~1934年)のひ孫で写真家の高村達(とおる)さん(51)=東京=や同寺の小林順彦(じゅんげん)・寺務総長(53)らが審査。特賞3点、入選5点を選び、7月25日?9月15日に境内の善光寺史料館に展示し、仁王門再建100年を記念して9月に予定する特別法要で表彰する。
  同寺事務局文教課は「善光寺の身近さが感じられるよう表現してほしい」としている。
  コンテストへの応募は、カラーA4サイズで題名、住所、氏名、年齢、連絡先を明記し、6月14日までに善光寺事務局文教課(〒380―0851長野市長野元善町491―イ)に送る。問い合わせは同事務局(電話026・234・3591)へ。
  仁王門の昔の写真は資料として保存し、後世に残す考えだ。これまでに門前の大石堂写真館から、仁王像が納まる前の仁王門の写真を入手。正月行事を担う堂童子とみられる僧侶が写っており、18年12月?19年1月の撮影と推測される。他に、現在の仁王門の前に建てられていた「仮の門」の写真なども提供された。寄せられた写真は、展示パネルや刊行物などに掲載する場合がある、としている。


善光寺さんのサイトから。

【仁王門の写真コンテストを開催致します。】

『仁王門再建百年・仁王像開眼百年記念イヤーイベント』の一環としまして、現在の仁王門を題材にした写真コンテストを実施致します。応募方法等は、下記の通りです。応募開始は、4月1日(月)からとなりますのでふるってご応募願います。


【応募方法】
・カラープリントA4サイズにて応募してください。※応募件数に制限はありません。(写真プリント又はインクジェットで、プリントしたものに限ります。)
・題名・住所・氏名・年齢・連絡先を明記のうえ、善光寺まで送ってください。
★作品の返却は、致しません。(大切な作品は、複製を取って応募ください。)

【賞】
・特賞3点  ・入選5点  

【題材】
・(現在の)善光寺仁王門及び仁王像、三宝荒神像、三面大黒天像
・飯山市“寺町シンボル広場”内 仁王門(旧仁王像)

【締切】
・2019年6月14日(金)必着

【審査員】
・高村達氏(写真家・高村光雲の子孫)    ・毛利英俊氏(元信濃毎日新聞社・写真部長)
・長瀬哲氏(飯山市教育委員会・教育長)  ・小林順彦師(善光寺寺務総長)

【その他】
・応募封筒の表に『仁王門写真コンテスト応募』と明記してください
・他人の著作権・肖像権を侵害するような行為が行われた場合、それに関するトラベルの責任は一切負いかねます。
・被写体が人物の場合、必ずご本人(被写体)の承諾をいただいてください。
・入特選作品は、ご通知後に弊局まで原版(画像データ)を提出いただき、善光寺史料館に展示及び善光寺HPに掲載いたします。
◎入特選の方へ、仁王門再建百年記念法要(仮称)時に表彰いたします。
《応募先》
〒380-0851 長野市大字長野元善町491-イ 善光寺事務局 文教課 電話026-234-3591


仁王像の開眼から100周年ということで、善光寺さんでは昨年からさまざまな取り組みをなさっています。例年開催されている寺域全体でのライトアップに加え、仁王門北側に納められた、やはり光雲らによる「三宝荒神像」と「三面大黒天像」のライトアップ仁王像に関する市民講座、そして文化財指定に向けた仁王像の本格調査など。この秋には100周年特別法要も予定されています。

そうした流れの中での写真コンテスト。腕に自信のある方、ぜひご応募下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は生来の雷ぎらひである。どういふわけといふ理由も何もないが、あの比例外れな、途方もない、不合理極まる大音響が第一困る。これはまるで前世紀の遺物ではないか。イグアノドン、マストドンの夢ではないか。

散文「雷ぎらひ」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

誰にでも恐怖を伴う苦手なものがあるようで、虫が苦手、犬が苦手、蛇が苦手、高いところが苦手、お化けが苦手、注射が苦手などなど、よく聞きますね。光太郎の場合は、雷だったそうで。

そうでない人から見れば、甚だ滑稽に見えることもあり、光太郎の雷嫌いにもつい笑ってしまいますが、当人はいたって真面目。それがまた笑いを誘ったりもします。ちなみにその様子は以下の通り。

・ 夜間に落雷があることを昼間のうちに予知。
・ 落雷が近づくと、電気のブレーカーを切る。
・ 一切の金属を体から遠ざける。足袋のこはぜも不可。
・ 脚に滑り止めのゴムをはめた籐椅子の上であぐらをかく。
・ 恐怖を紛らわすために『古事記伝』のような木版本を読み、そちらに意識を向ける。

まぁ、落雷も確かに危険ですが……。

ちなみに信濃善光寺さん、平安時代末の治承3年(1179)には落雷による火災に見舞われています。

昨日、拝見して参りました。  

−オリジナルプリント展− Life 命の輝き -Portraits-

期 日 : 2018年5月8日(火)~6月8日(金)
会 場 : 日本大学藝術学部芸術資料館 東京都練馬区旭丘2-42-1
時 間 : 9:30〜16:30《土曜は12:00 まで》
料 金 : 無料
休館日 : 日曜日

「Life 命の輝き」をテーマに国内外の写真家による⼈物の写真を集めました。いわゆるポートレートから街⾓でのスナップ写真まで多様な写真表現によるイメージを通して、様々な環境のもとで⽣活している⼈々の⽣き⽣きとした⽣命の輝きを感じていただければ幸いです。

イメージ 1

もう少し早く行くつもりが、いろいろあって昨日になってしまいました。

西武新宿線江古田駅で降り、ほぼ駅前の同大藝術学部江古田校舎。

イメージ 2

受付で入館証を受け取り、警備員の方が入り口まで案内して下さいました。資料館といっても独立した建物でなく、普通の校舎の3階にあります。

イメージ 3 イメージ 4

イメージ 5

すべてモノクロの作品で、世界各国の写真家約50名のプリントおよそ100点が展示されていました。当方も存じていたところでは、ユージン・スミス(米)、ウジェーヌ・アジェ(仏)、大石芳野など。このうち、ウジェーヌ・アジェは、光太郎と同じ時期に、光太郎のアトリエがあったパリのカンパーニュ・プルミエール街17番地に居住していて、交流はなかったようですが、面識程度はあったかも知れません。

古いもので、19世紀の写真から、'90年代の比較的新しいものまで、題材としては基本的に全て人物写真ですが、有名人から市井の人々まで、いわゆる肖像写真的なものから、日常のスナップ的なものまで、さまざまで飽きさせませんでした。モノクロ写真のもつ独特の迫力、一種の抽象性など、たしかに芸術の名を冠されるにふさわしいと感じます。

有名人のポートレートとしては、海外ではチャップリン、オーソン・ウェルズ、ピカソなど。国内では、林忠彦撮影の太宰治、坂口安吾など。

そして、光太郎。003

日藝さんで開催と聞き、光太郎令甥の故・髙村規氏がそちらの卒業生なので、規氏の作品かな、と思っておりましたが、さにあらず。肖像写真家として活躍していた、故・吉川富三氏の右の作品でした。

撮影場所は光太郎が蟄居生活を送っていた、花巻郊外太田村の山小屋内部です。キャプションでは昭和24年(1949)となっています。

光太郎の日記によると、同23年(1948)9月に吉川が来訪しています。おそらくその時の写真で、発表されたのが翌年ということなのではないかと思われますが、翌年の日記の大部分が欠けているので、不詳です。

吉川来訪の記述がこちら。まず8月22日。

吉川富三といふ人より写真アルバムを小包書留にて送り来る。来月余の写真撮影に来たしとの事。文化人多くの写真(署名入)あり。預かりもの。(郁文帖)

そして9月10日。

午前九時盛岡よりとて写真家吉川富三氏同業(盛岡)の唐健吉といふ人と来訪。高橋正亮さんが案内してくる。ズボンの尻の修繕をしてゐたところ。修繕を終りてよりあふ。午后二時頃まで撮影さまざま。「郁文集」を返却す。揮毫してくれとて紙を置いてゆく。同氏の器械は普通の三脚附器械。 そのうち細川書店の岡本氏といふ人来訪。東京より来たりし由。吉川氏等一行大澤温泉泊りの由にて辞去後、岡本氏と談話。(略)弘さんからもらつた大西瓜を割つて一同に御馳走せり。吉川氏より食パン、チース(小箱)(ソーセージ)をもらふ。

『郁文集』は、武者小路実篤の題字、志賀直哉の序文で昭和37年(1962)に出版された吉川の作品集。もうこの頃には既に原型が出来上がっていたのですね。

さらに9月30日。

吉川富三氏より先日撮影の写真の内4葉送つてくる。随分老人らしくなれり。

笑えます。光太郎は写真嫌いで有名でした。9月12日に、詩人の宮崎丈二に送ったはがきにこんな一節があります。

昨日は東京の吉川富三氏といふ写真家が来て弱りました。

その後、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、昭和27年(1952)に帰京した後も、吉川は中野のアトリエを3回ほど訪れてやはり写真を撮影しているようです。

はがきといえば、光太郎が吉川に送ったはがきも一通、確認されています。昭和25年(1950)のものです。

おハガキと「文化人プロフイル」と忝なくいただきました、豪華な写真帖なのでびつくりしました。多くの知人がゐるのでなつかしく飽かず見入つてゐます、畑の仕事が中々いそがしくなりました、今日は雨で静かですが、みどりの美しさ限りなしです、

『文化人プロフイル』は、『郁文集』に先だって、吉川単独でなく数人の写真家の作品を収めた写真集です。


写真に限らず、どういった造形芸術でも、或いは文筆作品などでも、作品は作品としてのみ見るべきと、よく言われますが、こうした背景を知って見るのも大事なのではないかと思いました。


というわけで、日藝さんの「−オリジナルプリント展− Life 命の輝き -Portraits-」、以上の背景を踏まえて御覧いただければと存じます。


【折々のことば・光太郎】

私は今迄に経験した事の無い淋しい鋭い苦痛の感情をしみじみと感じた。動乱と静粛と入りまざつた心の幾日かを空しく過した。さうしてロダンが立派にやり遂げるだけの事をやり遂げて、其の私的存在をかき消してしまつた事を思ふと、不思議な伝説的の偉大さを感じる。ロダンの生きてゐた時代に自分も生きてゐたといふ事がまるで歴史のやうに意味深く、又貴く感ぜられる。
散文「ロダンの死を聞いて」より 大正7年(1918) 光太郎36歳

吉川富三の写真を見、山小屋来訪の話に触れ、つくづく光太郎の生きていた時代に自分も生きていたかったと思いました。

文京区千駄木の、旧安田楠雄邸。大正8年(1919)の建築で、関東大震災後、旧安田財閥の安田善四郎が買い取り、平成7年(1995)まで安田家の所有でした。現在は公益財団法人日本ナショナルトラストさんによって管理されており、一般公開や企画展示などに活用されています。

その安田邸から路地を一本はさんで北隣が、光太郎の実家である旧駒込林町155番地。光太郎の父・光雲が終の棲家とし、家督相続を放棄した光太郎に代わって、鋳金の人間国宝となった実弟の豊周が受け継ぎました。その後、豊周子息の写真家だった故・規氏、そして今は豊周令孫でやはり写真家の達氏がお住まいです。明治44年(1911)暮れ、光太郎と智恵子が初めて出会ったのも、ここでした。

そんな関係で、旧安田邸では、「となりの髙村さん」展の第1弾を平成21年(2009)に開催しました。その頃ご存命だった規氏の写真などが展示されたそうです(当方、そちらには行けませんでした)。


そして今月、その補遺展および光太郎実家の一般公開が行われます。

となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展

期 日 : 2018年4月18日(水)002・21日(土)
       25日(水)・28日(土)
会 場 : 旧安田楠雄邸庭園
       東京都文京区千駄木5-20-18
時 間 : 10:30~16:00
料 金 : 一般500円、中高生200円、
      小学生以下無料(保護者同伴必須)

昨年11月に開催した「となりの髙村さん展第2弾」。その補遺(ほい)として、旧安田邸お隣の高村豊周(とよちか)邸の写真展と見学会を開催します。

高村光雲の三男で、高村光太郎の弟の高村豊周氏は、鋳金家で人間国宝。
また、高村邸は昭和34年築の数寄屋建築で、国の登録有形文化財に登録されています。
ぜひこの機会に足をお運びください!
*髙村邸は、老朽化のため本年解体の予定です。

高村邸見学会:1回目13:00~、2回目14:30~
 *28日(土)を除く
 *旧安田楠雄邸庭園見学者対象 各回20名

園路特別開放: *21日(土)、28日(土)のみ


当方、高村邸は何度かお邪魔し、智恵子の紙絵の現物を手にとって拝見したりしましたが、いつも規氏、達氏の写真スタジオでした。この機会にお邪魔させていただこうと思っております。

皆様もぜひどうぞ。003


【折々のことば・光太郎】

外側ばかりを気にするな。内の力をまづ養へ。
散文「寸感」より 
大正15年(1926) 光太郎44歳

この年、東京府美術館で開催された、「聖徳太子奉讃美術展覧会」の評から。

光太郎自身も、大正2年(1913)の生活社主催展覧会以来、13年ぶりに彫刻を出品しました。塑像「老人の首」、木彫「鯰」が出品作でした。

この展覧会には、光雲、豊周も作品を出しており、父子三人が同時出品したのは、おそらくこれが最初で最後ではないかと思われます。

イメージ 3

一昨日、上野の東京藝術大学美術館さんで開催中の「東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」」を拝見したあと、谷中を抜けて千駄木へと歩きました。

谷中は明治23年(1890)~同25年(1892)、光太郎一家が一時居住していました。父・光雲は同22年(1889)から東京美術学校に奉職、谷中に移ってから教授に昇格するとともに、帝室技芸員も拝命し、皇居前広場の楠木正成像の制作主任にもなりました。代表作の「老猿」も谷中で制作しました。

ところが光太郎が尊敬し、強く感化を受けていた6歳年上の姉・咲(さく)が16歳の若さで肺炎で亡くなり、失意の光雲は谷中の家に居たたまれず、千駄木への転居を決めました。

さて、不忍通りを渡って団子坂を上り、森鷗外の観潮楼跡を過ぎて、路地を右に入ります。少し歩くと、現在も続く髙村家。家督相続を放棄した光太郎に代わり、後に鋳金の人間国宝となった実弟の豊周が跡を継ぎました。豊周令孫の朋美さんが庭掃除をなさっていました(笑)。

イメージ 1

その手前が目的地・旧安田楠雄邸なのですが、安田邸は髙村家とは逆サイドに正面玄関があり、さらに路地をくねくねと進み、旧保健所通りに出て、少し戻ります。
002


豊島園の創設者・藤田好三郎によって大正8年(1919)に建てられた邸宅を、安田財閥の安田善四郎が買い取り、その子、楠雄が住み続けました。

003

イメージ 4

イメージ 5  イメージ 6

こちらでは、水曜、土曜のみ「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」が開催中です。故・髙村規氏は豊周の子息、つまりは光太郎の令甥。写真家として活躍された方でした。

入り口で入場料700円也を納め、靴を脱いで上がります。ボランティアガイドの方が邸内や庭園の説明をして下さいました。

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

こちらは平成8年(1996)に安田家から公益財団法人日本ナショナルトラストさんに寄贈されています。その後、邸内でさまざまな催しや展示に利用されており、その一環として「となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展」が開催中です。

在りし日の規氏。

イメージ 10

平成21年(2009)に開催された「第一弾」の折のものも。

イメージ 11

004

愛用のカメラや日用品。

2階にあがると、昔の千駄木の写真が。題して「規さんが生まれ育った千駄木林町」。このあたり、旧地名は本郷区駒込林町でした。レトロな建物や自動車、行き交う人々など、実に自然でいい感じでした。

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

光雲、光太郎、そして智恵子の作品の写真は、邸内のあちこちに。

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

21世紀の都心に居ることを忘れさせられるようなひとときでした。

今月29日までの水曜、土曜に公開されています。ぜひ足をお運びください。

続いて、安田邸を出て左、光太郎アトリエ跡地を通り過ぎ、動坂方面へ。

イメージ 21

動坂上交差点を右折、田端駅を目指しました。田端といえば文士村。芥川龍之介や萩原朔太郎、そして室生犀星等が住んでいました。犀星は、このルートを辿って光太郎アトリエを何度か訪れたはずです。大正初期、最初に訪れた頃は何度も智恵子に追い返されたそうですが(笑)。

田端駅から山手線で池袋へ。豊島区役所さんで開催中だった(昨日で終了)「2017アジア・パラアート-書-TOKYO国際交流展」会場へと足を向けました。そちらは明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

おれは十年ぶりで粘土をいじる。 生きた女体を眼の前にして まばゆくてしようがない。 こいつに照応する造型の まばゆい機構をこねくるのが もつたいないおれの役目だ。

詩「お正月に」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

005翌年の『朝日新聞』元日号のために書かれた詩です。

「生きた女体」は、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため雇ったモデル・藤井照子。当時19歳でした。

プールヴーモデル紹介所に所属していたプロの美術モデルで、木内克の彫刻のモデルも務めていたとのこと。「乙女の像」の仕事のあと、結婚してモデルはやめたようで、結婚の報告のため光太郎を訪れたりもしていました。

以前にも書きましたが、まだご存命なら80代前半のはずで、消息をご存じの方はご教示いただければと存じます。

先日、十和田市に行った際、現地の方から、「東京の青果店に嫁いだらしい」という情報を聴いたのですが、詳細が不明です。

写真系の展覧会情報です。情報を得るのが遅れ、既に始まっています。

高橋昌嗣展 文士の逸品 物から物語へ。

期   日 : 2017年10月21日(土)~10月28日(土)009
会   場 : アートスペース煌翔 
       東京都杉並区南阿佐ヶ谷3-2-29
時   間 : 11:00~19:00
料   金 : 無料

写真家・高橋昌嗣さんが撮影してきた、文士たちの愛用品の写真展。

元になったのは、雑誌『文藝春秋』に連載された「文士の逸品」(1997年7月号〜2001年9月号連載)で撮影されたもの。いま『サライ.jp』で「漱石と明治人のことば」を連載中の文筆家・矢島裕紀彦さんとの二人三脚の取材で、その後、同タイトルの単行本として一冊に纏まった。

山口瞳の帽子、向田邦子のシャツジャケット、金子みすゞの手帳、中山義秀のハガキ、芥川龍之介のマリア観音像、小泉八雲の蛙の灰皿、佐佐木信綱の風帽、椎名麟三の鉛筆削り、田山花袋の版木、西田幾多郎の人形、有吉佐和子の三味線、川端康成の土偶、森鴎外の双六盤、斎藤茂吉のバケツ、志賀直哉の杖、与謝野晶子の訪問着、井上靖の靴、坂口安吾のストップウオッチ、梶井基次郎の鞄、北原白秋の硯箱、尾崎放哉のインク瓶、壺井栄の姫鏡台、寺山修司の人形、樋口一葉の櫛、田中英光の本、岡本かの子のロケット、萩原朔太郎のギター、高村光太郎の長靴、中勘助の匙、野上彌生子の伎楽面、谷崎潤一郎の長襦袢、山本有三の戸棚、泉鏡花の兎の置物、幸田露伴の煙管……これでもまだ、展示作品の半分にも満たない。

時として数々の作家達に創作の情熱を与えたり、時には折れそうな心を支えたりもしたであろう愛用品たちの姿は、作品からは伺えない文士たちの“人間”としての存在を、問わず語りに伝えてくれる。


同タイトルの単行本」は、文藝春秋社さんから平成13年(2001)に刊行されています。

008光太郎の長靴は、おそらく、花巻高村光太郎記念館さんの所蔵のものでしょう。身長180㌢超と、当時としては大男だった光太郎、手足も並外れて大きく、足のサイズも30㌢超だったそうです。そのあたり、手前味噌になりますが、平成24年(2012)にTBSサービスさん刊行の『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』中の、当方の談話筆記「光太郎の足は三十センチあった⁉」でご紹介しております。

右の画像は、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した、昭和27年(1952)のもの。それまで蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村で、農作業の際に履いていたであろう長靴で、かまわず東京の街に現れました。

その後も、長靴に国民服というこの出で立ちで都内を闊歩(美術展などにも)、「あら、高村光太郎よ」と奇異の目で見られたそうですが、全く気にしなかったとのこと。さすがです(笑)。

光太郎の長靴以外も、「斎藤茂吉のバケツ」だの「坂口安吾のストップウオッチ」だの、「何じゃ、そりゃ?」というものがたくさんありますね(笑)。しかし、そいうったものにも、それぞれのドラマがあるのでしょう。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

二つに割れた世界の間に挟まる者に 一九五〇年は容赦もなからう。 白く冷たく雪に埋もれた正月を 東北は今どんな決意で迎へる気だ。

詩「一九五〇年」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

仙台に本社を置く地方紙『河北新報』の、翌年元日号のために書かれた詩です。そこで、「東北は今……」となっているわけです。「二つに割れた世界」は東西冷戦を指します。

あと2ヶ月ちょっとで、2018年です。自公連立与党の圧勝に終わった衆議院選挙を経て、新聞紙上ではもはや既定路線のように「改憲」の文字が目立ちます。2018年、どうなることやら、ですね。

ところで、今回の選挙でも、福島の原発事故の処理もまだ終わらないというのに、エネルギー政策がまったくといっていいほど争点に上らなかったように思います(選挙区によってはそうでもなかったのかも知れませんが)。果たして、それでいいのでしょうか……。

光太郎が昭和20年(1945)から、足かけ8年を過ごした岩手花巻から、企画展情報です。 

光の詩人 内村皓一展~白と黒の深淵~

期  日 : 2016年12月3日(土)~2017年2月19日(日)
場  所 : 花巻市立萬鉄五郎記念美術館 岩手県花巻市東和町土沢5区135
時  間 : 8時30分~17時(入館は16時30分まで)
休  館 : 月曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始(12月29日~1月3日)
料  金 : 一般400(350)円/高校・学生250(200)円/小中学生150(100)円
       ( )内20名以上団体料金

1914(大正3)年盛岡市に生まれた写真家・内村皓一(1914-1993)は、1940(昭和15)年関東軍に徴用され中国・奉天にわたります。翌16年から2年余りにわたって撮りためたのは、奉天市内の市民や風景。戦争により厳しい生活を送りながらも生き抜く、生々しい市井の人々の姿をとらえた人物像や、戦争のなかでも変わらず美しくあり続ける奉天の風景などでした。終戦後そのなかから30数枚のフィルムを荷物に忍ばせ帰国。残り3,000本は自らの手で焼却しました。
帰国後は花巻市で家業の印刷業を営むかたわら、1947(昭和22)年アムステルダム国際サロン「盗女」「ボロ」「流浪者」「不具者」入賞を皮切りに数多くの国際サロン展に出品。その入選作は2,000点を超え、1950(昭和25)年には、英国ロイヤルアカデミーサロンで「瞑想」グランプリ受賞するなど多くの受賞歴を持ちます。また、戦後花巻に疎開していた高村光太郎と親交を持ち「光の詩人」と称されました。また写真クラブ「皓友会」を結成し後進の指導に努めるかたわら、各国の写真団体と交流展を開催するなど交友をすすめました。1973(昭和48)年には岩手日報文化賞を受賞。昭和59年英国王室写真協会正会員。1993(平成5)年80歳で亡くなるまで後進の指導に尽力しました。
本展では、内村の奉天時代の作品50点に、戦後サロンを中心に発表した女性像や「貌」シリーズをあわせ、初の大規模な回顧展として内村写真の全貌を辿り、これまであまり紹介されることのなかった郷土の美術家を検証します。

イメージ 1


イメージ 2


上記紹介にある通り、光太郎と交流のあった写真家・内村皓一の名は、光太郎の日記に散見されます。また、昨年、娘婿に当たる内村義夫氏から、御岳父にあてた光太郎書簡のコピーを拝見させていただきました。また、非常に珍しい光太郎作詞「初夢まりつきうた」のレコードも拝見。さらに、花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)で、光太郎が使っていた皿と同じ物を戴いてしまいました。そのあたりはこちら

さて、その内村皓一の写真展が開催中です。光005太郎を撮った写真も展示されています。開催されることは知っていましたが、光太郎ポートレート出品については存じませんで、紹介していませんでした。

昭和23年(1948)頃、太田村時代の光太郎を撮ったもので、「高村光太郎先生『帰路』」。この頃の光太郎にしては珍しく、きちんとシャツにズボン姿です。大概は国民服や、智恵子の織った布で作ったちゃんちゃんこなどですが、どうも何かオフィシャルな場からの帰り道のようです。

その他にも、日中戦争当時の外地の様子、戦後サロンを中心に発表したものなど、貴重な写真が多数出品されています。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

めづらしき写真機ひたとわれに向くわが身光りてまぬかれがたし
大正15年(1926) 光太郎44歳

光太郎、写真嫌いで有名でした。ただし、晩年になると、そうでもなくなったようです。とはいっても、好きになったというわけでもないのでしょうが。

内村皓一のように、ちゃんと交流のあった相手ではなく、いきなり来ていきなり撮るジャーナリズム系や、パパラッチ的に無遠慮に撮ることを信条としていたカメラマンには、最期まで嫌悪を隠しませんでした。

のち、令甥の規氏が写真家の道を志したと知ったとき、具体名を挙げて、「××のような写真家にはなるな」と釘を刺したそうです。

神奈川県平塚市美術館さんで開催中の企画展です。 

生誕100年記念 写真家 濱谷浩展

期 日 : 2015 年7 月18 日(土) ~ 9月6 日(日)
会 場 : 平塚市美術館
  : 9:30 ~ 18:00( 入場は17:30 まで)

       ※9 /1(火)以降9:30 ~ 17:00( 入場は16:30 まで)
休館日 : 月曜日( ただし7 /20 は開館、7/21は休館)
 
 : 一般200(140) 円、高大生100(70) 円
        ※( ) 内は20 名以上の団体料金
        ※中学生以下、毎週土曜日の高校生は無料
        ※各種障がい者手帳をお持ちの方と付添1 名は無料
        ※65 歳以上で、平塚市民の方は無料、市外在住の方は団体料金
  : 平塚市美術館 神奈川県平塚市西八幡1-3-3
特別協力
 : 濱谷浩写真資料館

 このたび平塚市美術館では世界的に著名な写真家濱谷浩の生誕100 年を記念した展覧会を開催します。
 濱谷浩(はまやひろし:1915-1999)は東京下谷で生まれ、後年は大磯に居を構えた日本を代表する写真家です。15 歳のときに父の友人からカメラを贈られたことをきっかけに写真に情熱を傾けるようになった濱谷は、高校卒業後に銀座のオリエンタル写真工業に勤め、本格的に写真の技術や知識を身に付けると、まもなくフリーランスのカメラマンとして活動を始めました。1939(昭和14)年に雑誌の取材で新潟県の高田市を訪れ、雪国の厳しい風土とそれに立ち向かう人々の営為に感銘を受け、以降、日本の風土と人間の関係を突き詰めた写真を撮影するようになります。
 その後、高度成長期を迎えた日本においてテレビが普及し、報道の機動性、速報性、同時性などの面でその影響力が増していく中で写真表現の可能性を模索した濱谷は、エヴェレストをはじめ世界に残された自然の撮影を開始します。
 人間の生を深く洞察し、大自然の極限の様相に迫るカメラワークは国内外で高く評価され、1987(昭和62)年写真界のノーベル賞と称される「ハッセルブラッド国際写真賞」を受賞しました。
 本展では、大きく変動する昭和という時代に生き、カメラを通して「人間が生きるとは何か」ということを真摯に問いかけた濱谷の軌跡をご紹介します。

イメージ 1

濱谷浩(はまや ひろし)は大正4年(1915)生まれの写真家。日本の風土に生きる人々を撮り続け、特に「裏日本」を題材にした写真が有名です。また、肖像写真も多く手がけ、昭和58年(1983)には、光太郎を含む学者、芸術家100名ほどのポートレートをまとめた『學藝諸家』という写真集を出版しています。

昭和25年(1950)1月1日発行の『アサヒカメラ』第35巻第1号に、濱谷による光太郎が暮らす山小屋訪問記「孤独に生きる 高村光太郎氏を岩手県太田村に訪ねて」が掲載されました。ちなみに表紙は木村伊兵衛撮影のヴァイオリニスト・諏訪根自子です。

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

グラビアとして写真が8葉、長文の訪問記も、光太郎書簡や贈られた短歌などを引きつつ、興味深い内容です。写真はどれも、厳しい山居生活の側面を写し取り、すばらしいものです。上記の手の肖像は、肥後守の小刀で、鰹節を削る光太郎の手です。想像ですが、何か彫っているところを撮りたい、という濱谷のリクエストに、戦時の反省から彫刻封印の厳罰を自らに科していた光太郎が、彫刻刀で木を彫るところではなく、小刀で鰹節を削る様子を撮らせたのではないかと思います。

さて、ここに収められた写真が、平塚市美術館さんの「生誕100年記念 写真家 濱谷浩展」にも並んでいるとのこと。情報を得るのが遅れ、紹介が遅くなりました。濱谷は晩年は平塚に住んでいたとのことで、平塚市美術館さんでの開催です。


ちなみに、疎開などでやはり濱谷と縁の深い新潟・長岡市の新潟県立近代美術館さんでも、「生誕100年 写真家・濱谷浩」展を開催中です。ただ、こちらは光太郎の肖像写真が展示されているかどうか不明です。情報をお持ちの方、こちらまでご教示いただければ幸いです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月17日

昭和40年(1965)の今日、詩人の高見順が歿しました。

高見は明治40年(1907)の生まれ。自分よりはるかに若い詩人たちをかわいがった光太郎に気に入られ、昭和25年(1950)に刊行された高見の詩集『樹木派』の題字を揮毫したり、最晩年の昭和30年(1955)には雑誌『文芸』のため、高見との対談「わが生涯」を行ったりしています。

イメージ 5  イメージ 6

詩集『樹木派』の題字は、現在も公益財団法人高見順文学振興会さんの会報に使われているそうです。

先だって、ご案内を戴きましたが、光太郎の実弟・豊周の令孫にして、現在の髙村家当主の髙村達氏の写真展が開催されています。 

髙村達氏 写真展「Botanical Garden~植物園」

イメージ 1

会 期 : 2015年5月9日(土)~5月21日(木) 10:30-18:30   ※最終日は16:00まで 
会 場 : ホテル椿山荘東京「アートギャラリー」ホテルロビー階
                    東京都文京区関口2-10-8 03-3943-1111
入場無料

達氏は、昨夏亡くなった父君・規氏の跡を継いで、同じ写真家としてご活躍中です。

ところで、現在、高村家では「たか」の字は「」(いわゆる「はしごだか」)を使われています。

イメージ 2


ちなみに「」の字を、旧字体だと思いこんでいる方が多いのですが、この字は旧字体ではなく、「俗字」という扱いです。この問題は、戦後になって改訂された旧字体、新字体の問題ではありません。戦前から通常の「」の字はちゃんと存在しました。

以前から気になっていたのですが、故・規氏のからんだ光雲や豊周に関する書籍はほとんど「」になっていました。下の画像は平成11年(1999)に刊行された光雲の彫刻写真集の内容見本です。

イメージ 3

どういうことかと思っていたのですが、先月末、花巻の高村光太郎記念館リニューアルオープンの際、記念式典にいらしていた達氏との雑談の中で、その話が出て、疑問が氷解しました。

髙村家では、昔からはしごだかの「髙」の字を慣習的に使用していたとのこと。光太郎も少年時代は「髙」の字を使っていました。下の画像は明治27年(1894)、数え12歳、高等小学校時代の習字です。

イメージ 4

しかし、それがいつのことか詳細が不明なのですが(おそらく明治期)、戸籍の届け出の際に、光雲の弟子の誰かが代わって手続きに行き、「髙」ではなく、通常の「高」の字で届け出てしまったとのこと。

したがって、高村家では戸籍上は「村」、しかし慣習として「村」を使い続けているということです。

ところが光太郎は、少年期は別として、長じてからは、戸籍通りにすべきだろうということで、「村」としていたそうです。自分は家督相続を放棄した分家、という意識もあったのかも知れません。

複雑ですね。

このブログでも、煩瑣になるのを避けるため、「村」で統一させていただきます。ただし、現在の髙村家に関わる箇所のみは「」の字を使います。

ところで達氏写真展、当方、明後日、花巻高村祭に向けて千葉の自宅兼事務所を出ますが、その際に立ち寄っていこうと思っております。みなさんもぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月12日

明治43年(1910)の今日、広島に住む画家の南薫造に宛て、葉書を書きました。

 あの葉書が届いた相ですね。
 チエルジイのあのエムバアクメントや リツチモンドのキングスホテルを思ひ出させて 人に身顫ひさせる 悪いわるい意地の悪い夏が来ましたね。日本に住んで居るといふ外は 僕と日本とは今の処没交渉です。Ah!

前年に欧米留学から帰朝、光雲を頂点とする古い日本彫刻界との闘いを余儀なくされていた時期のものです。

光太郎と南は、明治40年(1907)から翌年にかけ、ともに留学でロンドンに滞在、彼の地で親しく交わりました。「エムバアクメント」はテムズ川のヴィクトリア堤防、「リツチモンド」もロンドンの地名です。

昨日は六本木に行って参りました。目的地は東京ミッドタウン内のFUJIFILM SQUAREさんにある写真歴史博物館さんです。
 
イメージ 3 イメージ 4
 
 
 

イメージ 5
 
以下の展覧会が開催中です。

「土門拳 二つの視点」 第二部「風貌」

開 期  2014年12月2日(火)~ 2015年2月2日(月) 007 (2)
時 間  10:00 ~ 19:00(入館は18:50 まで)
会 場  FUJIFILM SQUARE(フジフイルムスクエア) 写真歴史博物館
      港区赤坂9丁目7番3号東京ミッドタウン・ウェスト
入場料 無料
主  催 富士フイルム株式会社
協  力 土門拳記念館
 
第一部「こどもたち」が10月から開催されていましたが、今週から第二部「風貌」が始まりました。
 
土門撮影の、光太郎を含む26人の肖像写真が展示されています。
 
光太郎以外は以下の通り。
 
志賀直哉 谷崎潤一郎 幸田露伴 島崎藤村 永井荷風
小林秀雄 林芙美子 牧野富太郎 柳田国男 三島由紀夫
山田耕筰 志賀潔 九代目市川海老蔵 初代水谷八重子
十四世千宗室 滝沢修 濱田庄司 イサム・ノグチ 朝倉文夫
安田靫彦 小林古径 上村松園 安井曾太郎 藤田嗣治 
梅原龍三郎
 
これらは昭和28年(1953)にアルスから刊行された土門拳写真集『風貌』に収められた物だと思います。
 
イメージ 2  イメージ 6
  
光太郎の写真は、昭和15年(1940)に駒込林町のアトリエで撮影されたもの。
 
昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展でも出品させていただきましたが、木彫の「鯉」(未完)を制作中の写真です。
 
ほとんど唯一、光太郎が木彫を制作している瞬間を撮影したもので、貴重なショットです。
 
この『風貌』には、光太郎が推薦文を寄せています。
 
 土門拳はぶきみである。土門拳のレンズは人や物を底まであばく。レンズの非情性と、土門拳そのものの激情性とが、実によく同盟して被写体を襲撃する。この無機性の眼と有機性の眼との結合の強さに何だか異常なものを感ずる。土門拳自身よくピントの事を口にするが、土門拳の写真をしてピントが合つているというならば、他の写真家の写真は大方ピントが合つていないとせねばならなくなる。そんな事があり得るだろうか。これはただピントの問題だけではなさそうだ。あの一枚の宇垣一成の大うつしの写真に拮抗し得る宇垣一成論が世の中にあるとはおもえない。あの一枚の野口米次郎の大うつしの写真ほど詩人野口米次郎を結晶露呈せしめているものは此の世になかろう。ひそかに思うに、日本の古代彫刻のような無我の美を真に撮影し得るのは、こういう種類の人がついに到り尽した時にはじめて可能となるであろう。
 
他にも光太郎は、前年の昭和27年(1952)に書いた「夢殿救世観音像」という文章でも、土門を賞賛し、エールを送っています。
 
 土門拳が法隆寺夢殿の救世観音をとると伝へられる。到頭やる気になつたのかと思つた。土門拳は確かに写真の意味を知つてゐる。めちやくちやな多くの写真家とは違ふと思つてゐるが、中々もの凄い野心家で、彼が此の観音像をいつからかひそかにねらつてゐたのを私は知つてゐる。
(略)
 写真レンズは、人間の眼の届かないところをも捉へる。平常は殆と見えない細部などを写真は立派に見せてくれる。それ故、専門の彫刻家などは、細部の写真によつてその彫刻の手法、刀法、メチエール、材質美のやうな隠れた特質を見る事が出来て喜ぶ。土門拳の薬師如来の細部写真の如きは実に凄まじいほどの効果をあげてゐて、その作家の呼吸の緩急をさへ感じさせる。人中、口角の鑿のあと。衣紋の溝のゑぐり。かういふものは、とても現物では見極め難いものである。
 その土門拳が夢殿の救世観音を撮影するときいて、大いに心を動かされた。彼の事だから、従来の文部省版の写真や、工藤式の無神経な低俗写真は作る筈がない。
(略)
 救世観音像も例によつて甚だしい不協和音の強引な和音で出来てゐる。顔面の不思議極まる化け物じみた物凄さ、からみ合つた手のふるへるやうな細かい神経、あれらをどう写すだらう。土門拳よ、栄養を忘れず、精力を蓄へ、万事最上の條件の下に仕事にかかれ。
 
ただし、この撮影が不可能となり、この文章もお蔵入りになってしまいました。
 
このように土門を高く評価していた光太郎ですが、自身が撮影されることは忌避する部分がありました。
 
 写真と言うものは、あまり好きではない。いつか土門拳という人物写真の大家がやってきた。ボクを撮ろうとしたわけだ。自分は逃げまわって、とうとううつさせなかった。カメラを向けられたら最後と、ドンドン逃げた。結局後姿と林なんか撮られた。写真というものは何しろ大きなレンズを鼻の前に持ってくる。この人はたしか宇垣一成を撮ったのが最初だったが、これなどは鼻ばかり大きく撮れて毛穴が不気味に見える。そして耳なんか小さくなっているし、宇垣らしい「ツラ」の皮の厚い写真だった。カメラという一ツ目小僧は実に正確に人間のいやなところばかりつかまえるものだ。
 
昭和27年(1952)の『岩手日報』に載った談話筆記「芸術についての断想」の一部です。これは『風貌』に載った「鯉」制作中の写真のことではなく、昭和26年(1951)の5月に、土門が花巻郊外太田村の山小屋に撮影に来た時のことを言っているようです。笑えますね。
 
さて、写真歴史博物館さんでの展示、来年2月まで開催されています。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月4日
 
昭和58年(1983)の今日、東京国立近代美術館の工芸館で開催されていた「モダニズムの工芸家たち―金工を中心にして」が閉幕しました。
 
光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった高村豊周の作品も8点、展示されました。図録の表紙も豊周の作品「挿花のための構成」(大正15年=1926)です。
 
イメージ 7

昨日、東京は荒川区の町屋斎場に於いて執り行われた、光太郎の令甥にして高村光太郎記念会理事長、元日本広告写真家協会会長、髙村規氏の葬儀に参列してきました。
 
イメージ 1
 
イメージ 2
 
イメージ 3
 
心のこもった、いいお式でした。
 
参列者を代表して弔辞を読まれたのは写真家の田沼武能氏。亡くなった規氏の先輩にあたられ、お若い頃の規氏のエピソードなどを交えた弔辞には、心を打たれました。
 
心を打たれたというと、司会の方によってご披露された渡辺えりさんの弔電もでした。渡辺さんは光太郎を主人公とした演劇「月にぬれた手」を作られたり、連翹忌にもたびたびご参加下さったりで、規氏とのご交流も深いものがありました。
 
祭壇の前には、規氏撮影の写真を使った書籍のうち、祖父光雲の作品集「木彫髙村光雲」(中教出版 平成11年=1999)、伯父光太郎の作品集「高村光太郎彫刻全作品」(六耀社 昭和54年=1979)、そして父豊周の作品集「鋳」(髙村豊周作品集刊行会 昭和56年=1981)が飾られていました。
 
イメージ 4
 
本職の広告写真の分野以外に、智恵子も含め、こうした高村一族の造形作品を写真として遺して下さったことは、規氏の大きな業績と言えます。こうした作品集以外に、各種企画展の図録に使用した写真も、そのほとんどが、規氏によるものです。しかも、この彫刻にはこの写真、というふうにきちっと管理がなされており、それによって図録の編集も容易でした。そうしたデータは、ご長男の達氏が同じ写真家として規氏を助けられていたので、引き継がれていくと思われます。
 
また、いろいろな書籍に掲載された、光太郎の回想。親族の眼から見たそれは、他人には見せなかった光太郎の生の姿が語られ、非常に貴重な記録です。
 
昨年4月、信州安曇野の碌山美術館で開催された碌山忌記念講演会が、規氏の「伯父 高村光太郎の思い出」でした。今年3月に同館から刊行された館報第34号には、その全文が掲載されています。
 
イメージ 5

イメージ 6
 
同館の御厚意で、今年4月2日の第58回連翹忌で、参会の皆様に1部ずつ配布いたしました。そうしましたところ、早速、詩人の間島康子様、同じく宮尾壽里子様が、それぞれそちらを資料に論考を書かれています。
 
同趣旨の回想は、平成23年(2011)刊行の雑誌『花美術館 Vol.18 特集 詩魂が宿る芸術 光太郎、智恵子』にも掲載されています。
 
イメージ 7
 
また、現在、青森十和田市の十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんで刊行を進めている乙女の像60周年記念誌的なものにも、昨秋行った青森テレビの川口浩一アナウンサーによる規氏へのインタビューが掲載される予定です。
 
その他、短いものを含めれば、光雲、光太郎、豊周、智恵子に関する氏の文筆作品は枚挙にいとまがありません。こうした部分も、規氏の大きな業績と言えるでしょう。
 
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月21日
 
明治10年(1877)の今日、東京上野公園で、第1回内国勧業博覧会が開会しました。
 
光雲、数え26歳。師匠高村東雲の名で出品した白衣観音が、一等龍紋賞を獲得、これにより、光雲の名が知られてゆくこととなります。

↑このページのトップヘ