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『毎日新聞』さん社会面に連載されている俳人・坪内稔典氏による連載「季語刻々」。古今の名句を毎日一句ずつ紹介するコラムです。これまでもたびたび光太郎の句を取り上げて下さっていましたが、昨日もご紹介下さいました。

季語刻々 ゴンドラにゆらりと乗りぬ春の宵 高村光太郎

 1946年4月17日朝、光太郎が住む今の岩手県花巻市郊外の山小屋はもやに包まれ、いかにも春暁らしい風景だった。お茶、チーズ、大根や煮干しが具のみそ汁、かゆ、たくあんがこの朝のメニュー。昼間は雨がけむって降った。以上、光太郎の日記を紹介した。取り上げた句は1909年にイタリアを旅行した際のベネチアの風景である。<坪内稔典>

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句自体は明治42年(1909)春、留学先のパリから、約1ヶ月、スイス経由でイタリア各地を旅行した際の吟です。この旅中には60句ほどの句を詠みました。大半は留学仲間だった画家の津田青楓に宛てた絵葉書等にしたためたものです。

解説で用いられているのは、約40年後の昭和21年(1946)、花巻郊外旧太田村の山小屋での日記。前年秋からの山小屋生活の初期は、日々の献立を日記に詳述していました。「食」に対する光太郎のこだわりが見て取れます。

光太郎の短歌は、『明星』関連で松平盟子氏などが近年だいぶ取り上げて下さっていますが、俳句の方はまだまだ脚光が当たっていません。もっと注目されていいものだと思われます。


【折々のことば・光太郎】

南君の芸術には如何にもなつかしみがある。大手を振つた芸術ではない。血眼になつた芸術でもない。尚更ら武装した芸術ではない。どこまでもつつましい、上品な、ゆかしい芸術である。

散文「南薫造君の絵画」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

南薫造は、津田青楓同様、光太郎の留学仲間だった画家です。

他の作家への評ではありますが、光太郎が目指す芸術の一つのありようが示されています。

一昨日の『毎日新聞』さん。俳人の坪内稔典氏による連載コラム「季語刻々」で、光太郎の句を取り上げて下さいました。

季語刻々 春の水小さき溝を流れけり 高村光太郎

溝を流れる水、その水に春の明るさ、勢いを感じたのだろう。1909年、イタリアを旅した折の句。溝の春の水から光太郎は日本の春を感じたのかもしれない。詩集「道程」に次の一節がある。「猿の様な、狐(きつね)の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗(ちゃわん)のかけらの様な日本人」。自虐的だが、そうだとも思う。<坪内稔典>

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以前からこのコラムで光太郎の名を出していただき、その都度ご紹介して参りました。ただ、それら全て光太郎の名は、光太郎以外の作品の鑑賞文に使われていました。今回は光太郎そのものの句ということで、尚更ありがたいところです。


昨年のこのブログでは、366日間(閏年でしたので)、光太郎の短歌や俳句などを【折々の歌と句・光太郎】ということで一つずつご紹介して参りました。この句も4月5日にご紹介していました。

改めてそれを読んでみたところ、「あれっ」と思いました。「春の水小さき溝を流れけり」ではなく、「春の水小さき溝を流れたり」となっています。「やらかしたかぁ」と思い、『高村光太郎全集』を調べてみました。

すると、そうではなかったことが判明し、胸をなで下ろしました。といっても、坪内氏がやらかしたわけでもありません。どちらも正解でした。


全集第11巻には「春の水小さき溝を流れけり」の形で掲載されています。出典は明治45年(1912)発行の雑誌『趣味』第6年第2号に掲載された「伊太利遍歴」というエッセイです。イタリア旅行中の見聞録の合間に、この句を含む33句が挟み込まれています。坪内氏はこの形を引用されたわけです。

ところが、オリジナルの形は、留学生仲間だった画家の津田青楓にイタリアからリアルタイムで書き送った書簡で、そちらは「春の水小さき溝を流れたり」となっており、異稿として全集第19巻に掲載されています。当方、原型ということでこちらを引用しました。


「たり」から「けり」への変更が、どのようにして起こったのかは不明です。考えられるのは、以下の通り。

① 「伊太利遍歴」執筆に際し、「たり」より「けり」の方がしっくり来る、と考えた光太郎自身が意図的に改変した。
② 「伊太利遍歴」執筆に際し、「たり」であった原型がうろ覚えで、意図せずして「けり」に変わってしまった。
③ 「伊太利遍歴」掲載時に、光太郎の原稿は「たり」であったにも関わらず、「けり」と誤植されてしまった。

可能性として高いのは、①か②だと思います。他にも「伊太利遍歴」と、津田らに送った書簡で表記が異なる句は複数有ります。短歌や俳句は詠みすてで、いちいち書き留めておくことはしない、というのが光太郎のスタンスでしたし、②が最もありえるかな、と思われます。

ちなみに、古典文法としては、「たり」は「完了」(~た、~てしまう、~てしまった、)、「存続」(~ている、~ていた、~てある、~てあった)、「けり」は「伝聞した過去(~た)」、会話文や和歌で使われる場合には「詠嘆」(~よ、~なあ)と訳します。いわずもがなですが、どちらも助動詞です。

説話、物語などでは「今は昔……」というわけで、伝え聞いた過去の話ですよ、となり、「けり」が使われます。

今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。(「竹取物語」)

 いづれの御時にか。女御、 更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに、いとやんごとなき際にはあらぬが すぐれて時めき給ふありけり。(「源氏物語」)


俳句の場合、「けり」は「や」「かな」などとともに「切れ字」として使われ、古語の「詠嘆」の用法の流れを汲んでいます。時折、単に「五・七・五」にするためだけに使っているんじゃないか、という作にも出くわしますが(笑)。

したがって、「春の水小さき溝を流れけり」ときたら、「春の水が小さい溝を流れているなあ」となり、「春の水小さき溝を流れたり」の場合は、単純に「春の水が小さい溝を流れている」となりましょうか。

すると「けり」の方が、感慨が表面的となり、こちらの方がいいかも、という気はします。すると上記①、光太郎、意図的に改変した説が有力にも思えます。今となっては真相は藪の中ですが……。それにしても上記③、編集者の誤植、というケースだけは有って欲しくないものです(笑)。


【折々のことば・光太郎】

有り余る虚無だ 獅子と駝鳥の楽園だ 万軍の神の天幕だ 沙漠、沙漠、沙漠、沙漠 ひそかにかけめぐる私の魂の避難所だ

詩「沙漠」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

やがて来る「猛獣篇」時代へのプレリュード的な匂いがします。「猛獣篇」は、社会の矛盾などに対する怒りを、さまざまな猛獣(時に架空のモンスター)などに仮託して表出した連作詩で、その第一作は3年後の大正14年(1925)に書かれた「清廉」という詩でした。モチーフは妖怪「かまいたち」。

その後、「獅子」を題材とした「傷をなめる獅子」(同)、「駝鳥」を謳った「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)なども作られます。しかし、大正11年(1922)の段階でその原型は出来ていたわけで、「ローマは一日にして成らず」という感があります(ちょっと違いますかね(笑))。

先週の『東京新聞』さんの千葉中央版に以下の記事が載りました。

昨日もご紹介した、昭和9年(1934)に智恵子が療養した千葉県九十九里。こんなところにも悲惨な戦争の余波がしばらく残っていたという話です。 

<九十九里の赤とんぼ 千葉の戦後70年>智恵子が愛した砂浜 句に込めた平和への思い

 人っ子ひとり居ない九十九里の砂浜の砂にすわって智恵子は遊ぶ。

 詩人で彫刻家の高村光太郎の詩集「智恵子抄」の一節に、九十九里が登場する。一九三四年、妻智恵子は療養のために豊海町(現九十九里町)の真亀納屋に八カ月ほど滞在し、光太郎は毎週のように東京から見舞ったという。智恵子が小鳥と戯れ心を癒やしたその砂浜こそ、十四年後に米軍のキャンプ片貝に姿を変えた場所だった。
 内山いつ(78)=九十九里町=は、父親を太平洋戦争で亡くし、母子家庭で育った。「明日食べるものをどうにかしなくちゃいけない毎日だった」。五歳年下の妹・長谷川ぬい(73)=大網白里市=と、イワシの地引き網を手伝ったり、ヨシを刈って売ったり。少しでも家計の足しになるならと、夜なべで内職もした。
 自宅から三百メートル先にキャンプ片貝ができ、町の様子が不穏になる中で過ごした思春期だった。子どもたちがたばこを吸い、化粧した姿を見かけるようになった。夜道を歩いていると米兵に声を掛けられ、「アイ・アム・スクールガール」と答えると逃げていった。母子家庭に突然米兵が押しかけて来ることもあり、不安だった母親は、ガードマン代わりに内縁の夫を持った。
 そんな中、内山は豊海町の青年会が中心となった俳句会「白濤(はくとう)会」に参加する。中学生から二十代前半の若者が三十人ほど集まり、思いを句に込めた。「怖い体験をすることが増えた。誘惑も多く、このままでは町がだめになってしまうんじゃないかと、みんな思っていた」
 五二年四月、サンフランシスコ講和条約の発効で日本は主権を回復し、米軍による占領は終わった。しかし、同時に発効した日米安全保障条約(旧安保条約)により、米軍は希望する基地は今まで通り使うことができ、キャンプ片貝でも変わらず演習が続いた。
 五三年七月、朝鮮戦争の休戦協定が調印されると、キャンプ片貝で年二百日を超えて行われていた高射砲演習は徐々に減っていく。五七年三月には、政府が米軍に接収された九十ヘクタールのうち二十ヘクタールに縮小して提供することを決め、調達庁(現防衛省)が県に通知した。
 ところが米軍は同年五月、突然「永久に射撃演習を中止する」と県に通告。しばらくして敷地を返還し、十年間住民を苦しめたキャンプ片貝が姿を消した。
 突然の基地撤退について郷土史家の古山豊(67)=大網白里市=は「核兵器の開発が進む中、高射砲という戦術が時代遅れになり、キャンプ片貝の必要性そのものが低くなった」と指摘。五四年に自衛隊が発足して日本に一定の防衛力が備わったことも一因とみる。千葉大の三宅明正教授(日本近現代史)は、五〇年代後半、本州各地で米軍基地の撤退が相次いだことに着目。「政府が積極的に基地返還を求めることは無かったが、米国側が基地闘争の高まりを危険と判断し、返還を進めたのだろう。撤退は住民の反対運動が決定的だった」と分析する。
 キャンプ片貝の売店で働いていた宇津木勇(83)=東金市=は五六年ごろ、将校に「沖縄で働けないか」と尋ねると、「沖縄は米国の永久接収だから異動はできない」ときっぱり断られたことを覚えている。米軍基地は、米政府統治下の沖縄に集中。今も在日米軍専用施設の74%を占める。
 無人機「赤とんぼ」の墜落や高射砲演習「ドカン」の騒音、振動被害、米軍車両による事故…。九十九里の住民がかつて経験した同じ苦しみを今、沖縄をはじめ基地のある全国の町の人々が味わっている。
 平和の世永久(とわ)につづけよせみしぐれ
 内山は、ドカンの鳴り響くあの時代を生きたからこそ、暑い夏のせみしぐれに平和を感じ、平和を祈る。智恵子が愛した九十九里に思いをはせながら。  =文中敬称略、おわり  (柚木まり)

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昭和32年(1957)に返還されるまで、智恵子が歩いた浜の一帯が、米軍の実弾演習場として使われていたことは、千葉県民でもあまり知りません。当方も、光太郎智恵子がらみで知っていたというところです。昭和25年(1950)には、「九十九里浜闘争」という反対闘争も起こっています。この夏、自民党が安保法案の根拠として無理矢理引き合いに出していた「砂川闘争」など、各地でこうした住民運動が起こっていました。

返還後の昭和36年(1961)、記事にもある地元の俳句サークル「白濤会」の皆さんのお骨折りで、「千鳥と遊ぶ智恵子」碑が建てられました。

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実は、この碑も米軍基地に関係があります。

以下、草野心平の回想(昭和39年=1964 『新潮』掲載「高村光太郎・智恵子」)から。

 昭和三十六年(光太郎歿後六年)に私は二回、九十九里浜にいった。新しい町村合併後で片貝も真亀納屋も九十九里町に編入されていた。その町の青年有志が中心になり、あとでは町長なども応援にたっての詩碑建設の話が前年の暮頃から進んでいた。高村家でもそのことを了承したので、三十六年の何月だったかは忘れたが、石材と建碑の場所の選定をまかされて出掛けていった。
(略)
 町の有志の人たちのあいだではそれも大体目星がついているらしく私を先ずそこに案内した。米軍の演習基地はもうすっかり取払われていて、以前は何が建っていたのだろうか、正方形の大きなコンクリの台座が露出しているところがあった。既成のその台座を利用してその上に建てたいという意見であった。
(略)
 資金の点もあるらしいし、
「あの台座の上でもいいでしょう。」
 と私は言った。風景もいいし、あの辺を智恵子さんは散歩したに違いないとも思ったから。

というわけで、当初は、米軍演習場の遺構を使って碑の台座にするという計画でした。しかし、それは白紙に戻ります。先の心平の回想の続きです。

 その晩成東の宿で、みんなが引きあげたあとに私の考えは然し変わった。翌る朝東京へ帰る予定を変えて私はまた町役場に出掛けていった。米軍が使っていた台座の上に建てるのはどうしてもすっきりしない。あの上には絶対に建てたくない。そんな気持ちに私は豹変していた。そしてきのうと同じことを私たちは繰返した。米軍台座よりも沖合に近く、そこよりも更にいくらか高みのある砂丘、私たちはそこに決めた。津波などのことも考え、二米のコンクリの台座を新しくつくり実際に出来上がったときはあたりは平凡な砂の丘だけで台座は寸分も見えないように、そんな希望も受入れられた。

こうして「千鳥と遊ぶ智恵子」碑が建ったのです。当初は心平の回想の通り、波打ち際を望む砂丘に建てられました。下の画像は碑の除幕の翌年、昭和37年(1962)に刊行された『光太郎のうた』(社会思想社現代教養文庫 伊藤信吉編)の表紙です。

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しかし、その後、昭和47年(1972)に碑と海岸線の間に九十九里有料道路が通され、残念ながら現在は碑から海が見えません。何だかなあ……という感じです。


さて、もう1件、やはり先週の新聞記事を紹介します。「戦争」「光太郎」そして「俳句」ならぬ「短歌」ということで、多少なりとも関わるかと思いますので。『高知新聞』さんの記事です。 

「戦争は二度と再びするまいぞ」 短歌九条の会こうち発足 31文字に平和込め 県内から50人参加

 〈戦争は 二度と再び するまいぞ よろよろ生きて 九条守る〉―。政府による解釈改憲で憲法の平和主義が大きく変容しかけている中、高知県内の歌人らが「短歌九条の会こうち」を立ち上げた。31文字の短歌に平和への思いを込め、憲法9条を守るとの意思を広げていく狙いだ。
 会は7月15日に発足した。ちょうど、集団的自衛権の行使を可能とする安全保障関連法案の採決が強行され、衆院を通過した日に当たる。
 その様子を会員は詠んだ。
 〈国民の 理解不十分と 認めつつ いきなり衆院 採決強行〉
 会には、安保法案への危機感や憲法順守の思いを表現しようと、高知市や四万十市、安芸市などから50人余りが集まっている。世話人の梶田順子(みちこ)さん(75)=高知市福井町=によると、「戦前の反省がある」と言う。
 満州事変後の「15年戦争」で、斎藤茂吉や高村光太郎ら当時の著名な歌人は、積極的に「愛国歌」を詠んで戦争に協力した。
 梶田さんは「日常が壊されると、歌も自由に詠めなくなる。今はまだ、間違うちゅうことは間違うちゅうと言える。黙っていては認めたことになってしまう」と話す。
    ■  ■
 会員の作品には、自身の戦争体験を取り上げたものも多い。
 〈父おくる 母の涙を 見てしより 言へず語れず 戦を憎みき〉
 〈新婚の 僅(わず)かひと月 嫁残し 戦死せる子の 墓撫(な)づる母〉
 梶田さんは1945(昭和20)年7月4日の高知大空襲で自宅を失った経験を持つ。親類はニューギニアで戦死している。
 「他国の人を殺さず、殺されずにやってこれたのは憲法9条があったから。安保法案はその9条を壊してしまう。短歌を一つ一つ味わってもらい、今の社会情勢を考えるきっかけになれば」
 梶田さん自身はこう詠んだ。
 〈子の戦死(し)をば 誉れと言ひし 彼(か)の日日の 還(かえ)り来(きた)るを 止めねばならぬ〉
 会では、短歌を掲載した会報の発行や学習会を随時開催するという。投稿や入会希望、賛同者は梶田さん(090・8692・8221)へ。

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戦後70年。草野心平が「絶対に米軍が使っていた台座の上に詩碑を建てたくない」とがんばったような努力は、形を変えてこのように受け継がれています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月28日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、姪の高村美津枝に葉書を書きました。

 八月廿六日のおてがみ 今日来ました。お庭の作物のこと おもしろくよみました。それではこちらの畑につくつてゐるものを書きならべてみませう。大豆、人参、アヅキ、ジヤガイモ(紅丸とスノーフレイク)、ネギ、玉ネギ、南瓜(四種類)、西瓜(ヤマト)、ナス(三種類)、キヤベツ、メキヤベツ、トマト(赤と黄)、キウリ(節成、長) 唐ガラシ、ピーマン、小松菜、キサラギ菜、セリフオン、パーセリ、ニラ、ニンニク、トウモロコシ、白菜、チサ、砂糖大根、ゴマ、エン豆、インギン、蕪、十六ササギ、ハウレン草、大根(ネリマ、ミノワセ、シヨウゴヰン、ハウレウ、青首、)など。

本当かな?という気がしないでもありませんが、まあ、これら全てを同時に作っていたということではないのでしょう。

新刊です。 
2015/4/30  わたなべじゅんこ著 邑書林発行 定価2,000円+税  わたなべじゅんこ著

版元サイトより
 「出会うために歩くのか 歩くから出会うのか」  竹久夢二から寺山修司まで、みんなみんな俳人だった!
主に、俳句以外で名を成した方々の俳人としての姿を追いかける事で、 俳句って何なんだろう? という根本の問に迫ります。

 登場の人々は 竹久夢二  中村吉右衛門  永田青嵐  富田木歩  寺田寅彦  久米正雄
 内田百閒 野田別天楼  室生犀星  高村光太郎  津田青楓  矢野勘治  三木露風  
 瀧井孝作  寺山修司

 特に青嵐、木歩、寅彦あたりでは、関東大震災と俳句について語られていて、胸に迫るものがあります。 多くの方の手に届けたい一冊、宜しくお願いします。 装は、石原ユキオさんの描き下ろしです。

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著者のわたなべさんは俳人。関西の大学で非常勤講師をされるかたわら、『神戸新聞』さんの読者文芸欄で俳句の選者を務められているそうです。

余談になりますが、『神戸新聞』さんは一面コラム「正平調」でよく光太郎に言及して下さっています。

閑話休題。

本書で取り上げられている人々は、版元サイトにあるとおり、専門の俳人ではありません。しかし、それぞれに独自の境地を開いた人々。まずはそういった面々の俳句を論じて一冊にまとめていることに敬意を表します。

この手の伝統文化系は、それ専門の人物でないとなかなか取り上げない傾向を感じています。いい例が光太郎の短歌や俳句で、それなりに数も遺され、いい作品も多いと思うのですが、短歌雑誌、俳句雑誌での光太郎特集というのは見たことがありません。せいぜい短い論評がなされる程度です。以前にも書きましたが、いったいに短歌雑誌、俳句雑誌の類は派閥の匂いがぷんぷん漂っており、いけません。

そうした意味で、俳句専門の方が専業俳人以外の人々をまとめて論じていらっしゃる姿勢に好感を覚えました。

さて、光太郎の章。主に『高村光太郎全集』第19巻(補遺1)に掲載されている句を中心に、23ページにわたって展開されています。寺田寅彦とならび、もっとも多いページ数を費やして下さっていて、ありがたいかぎりです。他の人物で、9ページしかない章もあります。長さが第一ではありませんが。

長さだけでなく、その内容も秀逸。やはり専門の俳人の方が読むと違った視点になるのだな、と思いました。具体的には、光太郎の句の時期による変遷。

そもそも光太郎の文筆作品の中で、手製の回覧雑誌や、東京美術学校の校友会誌を除き、初めて公のメディアに掲載されたのが、俳句です。明治33年(1900)の『読売新聞』、角田竹冷選「俳句はがき便」に、以下の二句が載りました。

武者一騎大童なり野路の梅
自転車を下りて尿すや朧月

同じ年には『ホトトギス』にも句が掲載されています。ただ、その後、光太郎は与謝野夫妻の新詩社に身を投じ、俳句より短歌に傾倒するようになります。しかし、公にされない句作も続けていました。

わたなべさん、この時期の句は生硬なものとして、あまり評価していません。わたなべさんが転機とするのは、明治39年(1906)からの欧米留学。その終盤の同42年(1909)、旅行先のイタリアから画家の津田青楓にあてて書かれた書簡に、多数の俳句がしたためられています。

例えば、

寺に入れば石の寒さや春の雨
春雨やダンテが曾て住みし家
ドナテロの騎馬像青し春の風

こうした一連の句を、わたなべさんは高く評価しています。

曰く、

……どうしたことか。日本での初期作品よりずっとずっと俳句らしいではないか。頭の中でこねくり回していたのがウソのように、すっきりとした句風である。

それにしても、この句風の変化はいったいどうなのだろう。外国にいるから、一人旅であるから、だから自分の思いに素直になるのか。奇を衒うのをやめるのか。いや、初めて見るものが多くて、あっさりとした作風で仕上がってしまうのか。日本で作られたものと比べてこのイタリアでの句群はわかりやすい。情景も描ける。これは何だと考える必要を感じない。もともと美術家である光太郎の眼は見る力には恵まれていただろう。だから見たものを言語化するときに、どういうバイアスを掛けるのか、そこが言語作家としての腕ということになる。日本的なものに囲まれていたとき(つまり日本にいた頃)には悶々としていた言葉が、こうもオープンに、明るく、そして優しく(易しく)出てきたのは、日本文化という重しがとれたせいなのか。

慧眼ですね。やはり俳句専門の方が読むと、的確に表して下さいます。

ただ、一つ残念なのが、どうも勘違いをされたようで、『高村光太郎全集』第11巻を参照されていないこと。わたなべさんが参照された第19巻は補遺巻です。それでも現在確認できている光太郎の俳句の約半数は掲載されていますが、残り半数は第11巻におさめられています。

そこで、老婆心ながら、出版社気付で第11巻の当該部分、さらに第19巻刊行(平成8年=1996)以降に見つかった句が載ったものなどをコピーして送付しました。改めて光太郎の句について論じてくださる場合があるとしたら、参照していただきたいものです。

ともあれ、良い本です。ぜひお買い求めを。


竹久夢二へのオマージュとなっている装幀もなかなか素晴らしいと思います。手がけられた石橋ユキオ商店さんのブログがこちら


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月17日

昭和12年(1937)の今日、九十九里浜に暮らす智恵子の母・センに宛てて現金書留を送りました。

同封書簡の一節です。

昨今はうつとうしいお天気ですがお変りありませんか、小生はまだ何となく疲れがあつてとうとう今月は病院へ行かずにお会計を為替で送りました。チヱ子も時候のため興奮状態の様子で心配してゐます

翌年に歿する統合失調症の智恵子は南品川のゼームス坂病院に入院中。この年はじめには姪の春子が付き添い看護にあたるようになり、だいぶ落ち着いたそうです。ところが夏になると狂躁状態になるのが常で、この年のこの時期は前年から始めていた紙絵制作も途絶えていたそうです。

光太郎やセンが見舞いに行くと、さらに興奮状態が昂進、光太郎の足が遠のきました。世のジェンダー論者はこうした点から光太郎鬼畜説を唱えていますが、余人にはうかがい知れぬ深い苦悩があったのは間違いないと思います……。

新刊を紹介します。

2012/7/27 小野智美編 羽鳥書店 定価900円+税
 
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津波が町を襲ったあの日から――2011年5月と11月に、宮城県女川第一中学校で俳句の授業が行われた。家族、自宅、地域の仲間、故郷の景色を失った生徒たちが、自分を見つめ、指折り詠んだ五七五。記者として編者は、友や教師や周囲を思いやり支えあう彼らの姿、心の軌跡を丹念にたどる。(裏表紙より)
 
宮城県の女川町。このブログでもたびたび紹介しています。昭和6年(1931)に光太郎がここを訪れたことが縁で、平成3年(1991)に詩碑が建てられ、以来、「女川光太郎祭」が開かれている町です。そして昨年の大震災では津波による大きな被害……。
 
その女川に暮らす中学生達の句集です。軽い気持ちで読めるものではありません。実はamazonなどでこの本が出ているのはだいぶ前から知っていたのですが、軽い気持ちでは読めないなと思い、手が出ませんでした。しかし、先日、八重洲ブックセンターに立ち寄ったら平積みで置いてあり、思い切って購入しました。
 
 逢いたくて でも会えなくて 逢いたくて 
 
母親を亡くした生徒の作品です。「季語が入っていない」などというさかしらな批評をする人がいたら、人間じゃありませんね。
 
言葉にしても、音楽にしても、絵画や彫刻のような造型にしても、やはりそれを作った時の心境とは無縁でいられないのだと思います。そう考えると、「レモン哀歌」などの智恵子の死を謳った光太郎の詩篇も重みが違って感じられます。
 
それは表現する側だけでなく、受け取る側にも言えることだと、この本を読んで改めて気付かされました。「付記」という部分に、指導に当たった佐藤敏郎教諭が、今年の3月、3年生の最後の国語の授業で「レモン哀歌」を扱った話が書かれています。生徒は全員、身近な人の訃報に接しています。そういう体験を踏まえて読む「レモン哀歌」、そういう経験のない人間が読むのとはまた違うわけです。そしてそれを教える側の佐藤教諭も。
 
「この1年、みんなは死を考えたことが多かったと思う。今までおれは、死はどん底のような気がしていたんだ。暗闇に落ちていくような。だから怖いんだ。でも、ちがうかもしれない。たぶんね、ずっと登っているんだよ」
 そう言いながら、山の頂へ一直線に白墨を引いた。
「死っていうのは上。一番上なんだ。だから天に昇るんだ」
 そう言った瞬間だった。「おーっ」。教室に感嘆の声がわきあがった。
 なおも続ける。「智恵子は人生をふりかえって、ひとつの大きな仕事をやりとげた。最愛のだんな様への生涯の愛を一瞬に傾けたんだ。そういう登り切った達成感、満足感がある。だから『山巓でしたやうな』だ」。
 
この解釈には異論があるという人もいるかも知れません。しかし、あの過酷な体験を経て語られるこの言葉には、やはりさかしらな批評の立ち入る隙はありませんね。
 
この本、本当に軽い気持ちで読めるものではありません。しかし、多くの人に読んでほしいと思います。

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