タグ:レシピ

状況をわかりやすくするために、まず『朝日新聞』さん福島版の記事から。一昨日の掲載です。

福島)草野心平の足跡 料理から知る 企画展 6月まで

 いわき市出身の詩人草野心001平(1903~88)の足跡を、心平が一家言を持っていた料理を通じて見つめ直す。そんな企画展が、市立草野心平記念文学館で開催中だ。期間中に関連の催しもある。6月18日まで。
 「蛙(かえる)の詩人」として今も親しまれている心平は、身の回りの動植物だけでなく、食材や料理にも思いをはせる詩人だった。
 稿料だけでは食べていけなかった1931年に、ふるさとの名前を付けて始めた焼き鳥屋台「いわき」や50歳を前に開いた居酒屋「火の車」を切り盛りした話は有名だ。
 企画展「草野心平の詩 料理編」では、1981年刊行の詩集「玄玄」に収録され、「元来が。/愛による。/発明。」とつづった「料理に就いて」の自筆原稿のほか、刊行本、写真、遺品などを展示。食に対するたしなみのほか、生きる力に裏打ちされた人柄や創作活動をしのばせる内容となっている。
 写真で紹介されている「火の車」のカウンターには「悪魔のこまぎれ」「白夜」「美人」など詩人らしい暗号のような品書きが並ぶ。安価な材料を仕入れ、名前とともに独創的な調理法を編み出したとされる。
 屋台「いわき」の焼き鳥の出来栄えについては「東京広しといえども比べもののない程のものだった」とうぬぼれていた。夫高村光太郎と訪ねた智恵子が、たれを入れたかめを見て「おいしそうね」といい、それが智恵子から聞いたまともな言葉の最後だったと心平が記したエピソードも紹介されている。
 期間中、文学作品に登場する料理の創作や研究で知られる料理研究家、中野由貴さんの講演「心平さんの胃袋探訪―創作料理の試食と解説―」が21日に開かれるほか、6日と6月3日には学芸員によるギャラリートークもある。(床並浩一)


というわけで、福島県いわき市の草野心平記念文学館さんで開催中の企画展です。当会の祖・草野心平と料理に絞ったもので、光太郎智恵子に直接関わらないと思っていたので紹介しませんでしたが、そうでもなかったようでした(汗)。

春の企画展 草野心平の詩 料理編

期 日 : 2017年4月15日(土)〜6月18日(日)
場 所 : いわき市立草野心平記念文学館  いわき市小川町高萩字下タ道1番地の39
時 間 : 9時から17時まで(入館16時30分まで) 
休館日 : 月曜日
料 金 : 一般 430円(340円)/高・高専・大生 320円(250円)
      小・中生 160円(120円) ( )内は20名以上団体割引料金

 「料理は玄人には勿論のこと料理人でない素人の私達にも無限に広い分野を展開してくれる。」 草野心平『わが酒菜のうた』
 草野心平(1903〜1988)にとって料理は、創作の主題の一つであると同時に、実生活において、ただならぬ関心を寄せていた営みでもありました。
 日々の実践によって編み出された、彼独特の調理法などをまとめた随筆集も刊行していますが、それらは、食材への確かな目利きと、鋭敏で記憶力抜群の味覚によって裏打ちされています。
 本展では、心平の作品世界を料理という視点で展観し、「元来が。/愛による。/発明。」という詩人の料理への思いと、その等身大の魅力を紹介します。

イメージ 2

イメージ 3

関連行事 

ギャラリートーク

 日時 2017年5月6日(土)13時30分〜14時
 会場 文学館企画展示室
 定員 ありません。
 聴講 観覧券が必要です。申し込みは不要ですので会場にお越しください。

「心平さんの胃袋探訪 〜創作料理の試食と解説〜」

 日時 2017年5月21日(日)11時〜13時
 講師 料理研究家 中野由貴
 会場 文学館小講堂
 定員 先着50名
 参加 参加料500円。申し込みが必要です。
 申し込み受付 2017年4月20日(木)午前9時から受付
 申し込み方法 電話0246(83)0005、FAX 0246(83)2939、
        E-mail info@k-shimpei.jpのいずれかで、「胃袋探訪係」まで。
        お名前、電話番号をお知らせください。


他にも関連はしませんが、期間中に、「いわき濤笛会 山口流篠笛コンサート そよ風のしらべ」(5/7)、「心平誕生日の市民朗読会」(5/12)、「あがた森魚コンサート」(5/13)などが予定されています。

ぜひ足をお運びください。


さて、冒頭の『朝日新聞』さんに紹介されているエピソード。出所は心平が書いた「光太郎・智恵子」。初出は昭和39年(1964)の『新潮』ですが、単行書『わが光太郎』(昭和44年=1969 二玄社)『実説智恵子抄』(昭和50年=1975 弥生書房)などにも収録されました。

私が新宿で屋台のやきとり屋をやってた時である。よしず張りの紺ののれんをくぐって鳥打帽の高村さんと、全く思いもよらない智恵子さんが現われた。私はいきおいよく渋団扇を叩いた。
「それたれですか。」
智恵子さんは小さなカメを指して言った。
「ええ。」
「見せて下さい。」
カメを少し斜めにすると、のぞきこんだ智恵子さんが、
「おいしそう。」
と言った。わきで高村さんが、
「近頃方々のを食べてるんだが、屋台では草野君とこが一番うまい。」
誰にともなく高村さんがそう言った。
その晩が、まともな智恵子さんの、私にとっては最後だった。(それ以前は色々。)

心平が焼き鳥「いわき」を開店したのは、昭和6年(1931)5月(翌年には閉店)。開店に先立って、智恵子から椅子代わりにリンゴの木箱をもらったそうです。智恵子の統合失調症が顕在化したのが、同じ年の8月。その頃のエピソードです。

心平は飲食店経営への夢が断ちがたかったようで、昭和27年(1952)には小石川田町に居酒屋「火の車」を開店(のち、新宿角筈に移転)、同31年まで営業していました。

この間、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した光太郎が、まだ健康状態が許した頃にはよく通いました。ということは、『朝日新聞』さんの記事にも紹介されている怪しげなメニューも食べたのでしょう。ちなみに「白夜」はキャベツとコーン入りの牛乳スープ、「悪魔のこまぎれ」は酢蛸です。「美人」というのは存じませんが、板わさが「美人の胴」というネーミングでした。他に「丸と角」(チーズとカルパス)、「十万」(数の子)、「どろんこ」(鰹の塩辛)、「冬」(豚の煮こごり)などがありました。

その後、昭和35年(1960)には、バー「学校」も開いています。こちらは心平が名誉村民となった福島県川内村で健在です。


さて、「春の企画展 草野心平の詩 料理編」。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

冬は鉄碪(かなしき)を打つて叫ぶ、 一生を棒にふつて人生に関与せよと。
詩「冬の言葉」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

昨日ご紹介した「或る墓碑銘」にも「一生を棒に振りし」というフレーズがありましたし、この後も同様の句が散見されます。当方、できれば棒に振りたくありませんが(笑)。

「鉄碪(かなしき)」は「鉄床」「鉄敷」とも称し、加工しようと思う金属を乗せる鋳鉄製の台です。それを金槌などで叩けば、硬質の金属音。冬の凍てついた空気感の象徴でもありましょう。

新刊コミックスです。

くーねるまるた 第3集

イメージ 1
 
小学館『ビッグコミックスピリッツ』連載の漫画の単行本・第3集です。作者は高尾じんぐさん。
 
主人公は、日本の大学院修了後、そのまま日本に居着いてしまったポルトガル人女性といういっぷう変わった設定です。、同じアパートに住む女性達との「食生活」を軸に話が展開、毎回、お金を使わない安上がりな、しかししゃれた料理のレシピが掲載されています。
 
このほど刊行された第3巻の「第36話 青梅」で、『智恵子抄』に触れています。「梅」ということで「梅酒」です。
 
  梅酒006
 
死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒濤の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。
夜風も絶えた。
 
この回では梅酒以外に、「梅醤油」、「梅ドリンク」などが紹介され、さらにメインは梅酒の梅を具に使った「梅酒カレー」。レシピも載っています。
 
ところで、今年の初め頃、その名もズバリ『梅酒』という題名のコミックスを紹介しました。
 
こちらの作者は幸田真希さんという女性漫画家。
 
そして今回の高尾じんぐさん、ということで、女性は『智恵子抄』の「梅酒」が好きなんだな、と思ったところ、今日の記事を書くために調べていて、高尾さんは実は男性だと知りました。上記の絵柄で、料理漫画。登場人物のほとんどが女性。てっきり作者も女性だと思いこんでいました。
 
「そういうのが封建時代的性差別観念だ」と、ジェンダー論者のコワいお姉様方に糾弾されてしまいそうです(笑)。

【今日は何の日・光太郎】 12月20日

昭和9年(1934)の今日、九十九里で療養していた智恵子を再び駒込林町のアトリエに引き取りました。
 
福島の智恵子の実家・長沼家破産、一家離散後、九十九里に移っていた智恵子の妹・セツの婚家に、母・センともども身を寄せていた智恵子。この年5月からの九十九里生活の中で、「尾長や千鳥と相図」(詩「風にのる智恵子」)し、「人間商売さらりとやめて」(同「千鳥と遊ぶ智恵子」)、「限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出」(同「値ひがたき智恵子」)てしまいました。いわば人格崩壊……。
 
九十九里の家には幼い子供もおり、ギブアップ。しかしアトリエに戻っても智恵子の病状は昂進するばかりで、翌昭和10年(1935)2月末には、南品川ゼームス坂病院に入院させることになります。
 
上記の梅酒は、おそらく九十九里に行く前に智恵子が作ったものでしょう。

↑このページのトップヘ