タグ:ヨーロッパ

昨日の午前中、パリからショッキングなニュースが。 

ノートルダム大聖堂で火災 93mの塔が焼け落ちる

 フランスのパリ中心部にある世界的な観光名所、ノートルダム大聖堂で15日午後7時ごろ(現地時間)、火災が発生し、教会の尖塔(せんとう)などが燃え落ちるなどの甚大な被害が出た。仏メディアによると、当時は大規模な改修工事が行われており、その足場付近から出火した可能性があるという。
 AFP通信によると、消防当局は火災は午後6時50分ごろに発生したと説明。現場では、大気汚染で汚れた聖堂をきれいにするための改修工事が数カ月前から行われており、屋根に取り付けられた足場部分から燃え広がった可能性があるという。火は屋根付近を中心に瞬く間に燃え広がり、大聖堂は炎と煙に包まれ、出火から1時間後には、高さ93メートルの尖塔も焼け落ちた。出火から4時間たった午後11時も燃え続けている。同日夜、現場で記者会見したローラン・ヌニェス内務副大臣は、「ノートルダムを救えるのか、現時点では見通しが立たない」と語った。消防士数人が負傷したという。
 セーヌ川に挟まれたシテ島に立つノートルダム大聖堂は、12世紀に建造が始まり、改修や増築を繰り返した。1991年には周辺の歴史的建築物などとともにユネスコの世界文化遺産に登録された。年間1200万人が訪れるパリ屈指の観光名所として知られ、日本人観光客も多く訪れる。
(『朝日新聞』)

夕方の報道では鎮火とのことでしたが、人的被害を含め、どの程度の被害が出たのか、まだ詳しいところがよくわかりません。既報では、尖塔が焼けて崩れ落ちたり、消火に当たった消防士の方が重傷を負ったりということだそうですが、亡くなった方はいないことを祈ります。

イメージ 5

イメージ 3 イメージ 4

イメージ 6 イメージ 7

イメージ 1 イメージ 2

ノートルダム000大聖堂といえば、エッフェル塔や凱旋門などと並ぶパリのシンボルの一つ。のみならず、フランスの道路原標はここに設置されていて、まさにパリはここから発展した場所でもあります。明治41年(1908)から翌年にかけ、欧米留学でパリに滞在していた光太郎も足繁く通いました。

右は、明治41年(1908)8月、パリの光太郎が、パリに移る前に滞在していたロンドンでの留学仲間だった彫刻家の畑正吉に送った大聖堂の絵葉書です。焼け落ちたという尖塔はこの裏側になります。

よく見ると、下の方、歩いている人物は写真以外に光太郎が描き込んでいます。さらに「こんな形で歩いてるんでせう」の一言も書き添えられています。

下って大正10年(1921)、光太郎はパリ時代を回想し、復刊成った与謝野夫妻の『明星』に、110行にもわたる長大な詩を寄稿しました。題して「雨にうたるるカテドラル」。「カテドラル」は仏語の「cathedrale」、「大聖堂」を意味します。

ちなみにこの詩は、光太郎に遅れてパリに留学、というか住み着いた東京美術学校の同級生・藤田嗣治を主人公とした映画「FOUJITA」(平成27年=2015)で引用されました。

     雨にうたるるカテドラル

 おう又吹きつのるあめかぜ。
 外套の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、
 あなたを見上げてゐるのはわたくしです。
 毎日一度はきつとここへ来るわたくしです。
 あの日本人です。
 けさ、
 夜明方から急にあれ出した恐ろしい嵐が、
 今巴里の果から果を吹きまくつてゐます。
 わたくしにはまだこの土地の方角が分かりません。
 イイル ド フランスに荒れ狂つてゐるこの嵐の顔がどちらを向いてゐるかさへ知りません。
 ただわたくしは今日も此処に立つて、
 ノオトルダム ド パリのカテドラル、
 あなたを見上げたいばかりにぬれて来ました、
 あなたにさはりたいばかりに、
 あなたの石のはだに人しれず接吻したいばかりに。
  
 おう又吹きつのるあめかぜ。
 もう朝のカフエの時刻だのに
 さつきポン ヌウフから見れば、
 セエヌ河の船は皆小狗のやうに河べりに繋がれたままです。
 秋の色にかがやく河岸(かし)の並木のやさしいプラタンの葉は、
 鷹に追はれた頬白の群のやう、
 きらきらぱらぱら飛びまよつてゐます。
 あなたのうしろのマロニエは、
 ひろげた枝のあたまをもまれるたびに
 むく鳥いろの葉を空に舞ひ上げます。
 逆に吹きおろす雨のしぶきでそれがまた
 矢のやうに広場の敷石につきあたつて砕けます。
 広場はいちめん、模様のやうに
 流れる銀の水と金茶焦茶の木の葉の小島とで一ぱいです。
 そして毛あなにひびく土砂降の音です。
 何かの吼える音きしむ音です。
 人間が声をひそめると
 巴里中の人間以外のものが一斉に声を合せて叫び出しました。
 外套に金いろのプラタンの葉を浴びながら
 わたくしはその中に立つてゐます。
 嵐はわたくしの国日本でもこのやうです。
 ただ聳え立つあなたの姿を見ないだけです。
    
 おうノオトルダム、ノオトルダム、
 岩のやうな山のやうな鷲のやうなうづくまる獅子のやうなカテドラル、
 灝気(かうき)の中の暗礁、
 巴里の角柱(かくちゆう)、
 目つぶしの雨のつぶてに密封され、
 平手打の風の息吹(いぶき)をまともにうけて、
 おう眼の前に聳え立つノオトルダム ド パリ、
 あなたを見上げてゐるのはわたくしです。
 あの日本人です。
 わたくしの心は今あなたを見て身ぶるひします。
 あなたのこの悲壮劇に似た姿を目にして、
 はるか遠くの国から来たわかものの胸はいつぱいです。
 何の故かまるで知らず心の高鳴りは
 空中の叫喚に声を合せてただをののくばかりに響きます。
  
 おう又吹きつのるあめかぜ。
 出来ることならあなたの存在を吹き消して
 もとの虚空(こくう)に返さうとするかのやうなこの天然四元のたけりやう。
 けぶつて燐光を発する雨の乱立(らんたつ)。
 あなたのいただきを斑らにかすめて飛ぶ雲の鱗。
 鐘楼の柱一本でもへし折らうと執念(しふね)くからみつく旋風のあふり。
 薔薇窓のダンテルにぶつけ、はじけ、ながれ、羽ばたく無数の小さな光つたエルフ。
 しぶきの間に見えかくれるあの高い建築べりのガルグイユのばけものだけが、
 飛びかはすエルフの群(むれ)を引きうけて、
 前足を上げ首をのばし、
 歯をむき出して燃える噴水の息をふきかけてゐます。
 不思議な石の聖徒の幾列は異様な手つきをして互にうなづき、
 横手の巨大な支壁(アルブウタン)はいつもながらの二の腕を見せてゐます。
 その斜めに弧線をゑがく幾本かの腕に
 おう何といふあめかぜの集中。
 ミサの日のオルグのとどろきを其処に聞きます。
 あのほそく高い尖塔のさきの鶏はどうしてゐるでせう。
 はためく水の幔まくが今は四方を張りつめました。
 その中にあなたは立つ。
  
 おう又吹きつのるあめかぜ。
 その中で
 八世紀間の重みにがつしりと立つカテドラル、
 昔の信ある人人の手で一つづつ積まれ刻まれた幾億の石のかたまり。
 真理と誠実との永遠への大足場。
 あなたはただ黙つて立つ、
 吹きあてる嵐の力のぢつと受けて立つ。
 あなたは天然の力の強さを知つてゐる、
 しかも大地のゆるがぬ限りあめかぜの跳梁に身をまかせる心の落着を持つてゐる。
 おう錆びた、雨にかがやく灰いろと鉄いろの石のはだ、
 それにさはるわたくしの手は
 まるでエスメラルダの白い手の甲にふれたかのやう。
 そのエスメラルダにつながる怪物
 嵐をよろこぶせむしのクワジモトがそこらのくりかたの蔭にに潜んでゐます。
 あの醜いむくろに盛られた正義の魂、
 堅靭な力、
 傷くる者、打つ者、非を行はうとする者、蔑視する者
 ましてけちな人の口(くち)の端(は)を黙つて背にうけ
 おのれを微塵にして神につかへる、
 おうあの怪物をあなたこそ生んだのです。
 せむしでない、奇怪でない、もつと明るいもつと日常のクワジモトが、
 あなたの荘厳なしかも掩ひかばふ母の愛に満ちたやさしい胸に育(はぐく)まれて、
 あれからどのくらゐ生れた事でせう。
   
 おう雨にうたるるカテドラル。
 息をついて吹きつのるあめかぜの急調に
 俄然とおろした一瞬の指揮棒、
 天空のすべての楽器は混乱して
 今そのまはりに旋回する乱舞曲。
 おうかかる時黙り返つて聳え立つカテドラル、
 嵐になやむ巴里の家家をぢつと見守るカテドラル、
 今此処で、
 あなたの角石(かどいし)に両手をあてて熱い頬(ほ)を
 あなたのはだにぴつたり寄せかけてゐる者をぶしつけとお思ひ下さいますな、
 酔へる者なるわたくしです。
 あの日本人です。


パリで伝統に裏打ちされた本物の芸術や、そこからさらに進んだ世界最先端の芸術に触れた光太郎。そこに限りない憧憬を抱きつつも、故国日本との目もくらむほどの落差を思い知らされ、打ちのめされました。そんな折には、ノートルダム大聖堂を訪れ、その石の肌に触れ、心を落ち着けたというのです。

もっとも、大聖堂あるいは焼け落ちたという尖塔に登った際には、進むべき道の困難さを感じての絶望に似た思いのあまり、幻覚に襲われたりもしていたようです。やはり留学仲間だった有島生馬の回想から。

 高村君はどうも神秘的な人で、吾々カムパーニユ街の仲間は「高村の神懸り」とあだ名をつけた。(略)時に姿を見せると、巴里の空を、ノトルダムの上から、飛べさうな気がした話や、セエヌ河が真つ赤な血を流してゐた話や、そんな神懸り的な事を真面目でぽつりぽつり云つた。

何はともあれ、光太郎にとって、パリといえば真っ先にノートルダム大聖堂。そこでの大規模火災ということで、胸が痛みますが、被害が壊滅的なものでないことを祈ります。


【折々のことば・光太郎】

煮え返るやうな若い時代の連中で毎日進んで行くといふやうな時代だから、二三日遭はないと何処かしら解らなくなつて了ふといふ風な毎日を送つてゐた。だから殆と毎日遭つてゐたと言つていい位顔を会せて議論したり描いたりしたものだ。あんな猛烈な時代といふものは尠いだらうと思ふ。

談話筆記「回想録 二」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

パリから帰って、岸田劉生、木村荘八らと結成したヒユウザン会(のちフユウザン会)時代の思い出です。

昨日のロンドンに続き、パリです。テルミン奏者の大西ようこさんが、フランス南部のエクス=アン=プロヴァンス、そしてパリでコンサートをなさり、それならぜひ光太郎ゆかりの地にいらして、写真を撮ってきてくださいと事前にお願いしておきました。

そして、無事帰国されたとメールを頂きました。以下、現地の画像を大西さんのブログから転載させていただきます。


まずは光太郎が住んだ下宿。光太郎が満を持してパリに移り住んだのは、明治41年(1908)6月のことでした。パリではモンパルナスのカンパーニュ・プルミエール通り17番地のアトリエに住みました。

イメージ 1

画像右上に「17番地」を表すプレートが写っていますね。同じ建物にはロダンと交友のあった詩人リルケが住み、ロダン本人もここを訪ねています。また、隣の通りにはロマン・ロランも住んでいました。

光太郎はアトリエに近いアカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエール(Académie de la Grande Chaumière)に籍を置きましたが、それ以外に語学の習得のため、日本語と仏語の交換教授をしていた「ノルトリンゲル女史」の手引きでフランス近代詩を教わったそうです。ヴェルレーヌやボードレールの詩作態度にうたれ、のちの詩作の原点がここにもあります。

ちなみにこの「ノルトリンゲル女史」に関して005は、従来、バーナード・リーチの紹介で知り合ったという程度しか分かっていませんでしたが、ジャポニズム学会所属桂木紫穂氏の調査により、『失われた時を求めて』で有名なマルセル・プルーストと親交のあった美術研究家・金属造形作家マリー・ノードリンガー(1876~1961)であることが判明しています。光太郎より7歳年上のマリーと光太郎、淡いロマンスもあったようです。

それ以外に、パリでの光太郎は、あちこち見物に歩いていました。帰国後の明治45年(1912)に発行された雑誌『旅行』に寄せた「曽遊紀念帖」という文章を数年前に見つけていたので、そのコピーを大西さんに渡しておきましたところ、そこに登場するほとんどの場所を廻って下さいました。

パンテオン(Panthéon de Paris)。18世紀後半にサント=ジュヌヴィエーヴ教会として建設され、後にアレクサンドル・デュマ、ヴィクトル・ユーゴー、ジャン=ジャック・ルソー、ヴォルテールらフランスの偉人たちを祀る霊廟となった建物です。かつてはここの前庭に、ロダンの「考える人」が設置されていました。現在はロダン美術館に移されています。光太郎が初めて見た「考える人」の実物でした。

イメージ 3  イメージ 4

リュクサンブール公園内にあるメディシスの噴水(Fontaine de Medicis)。1624年の制作です。

イメージ 5  イメージ 6

イメージ 7


サンミツシエルの噴水。サンミッシェル通り(Saint-Michel)沿いはカルチェ・ラタン地区(Quartier Latin)と呼ばれている学生街。ソルボンヌ大学を中心に広がり、その昔、大学では ラテン語が使われていたことにより「ラテン語の地区」という意味に由来します。

イメージ 8

イメージ 9


サント・シャペル教会 (Sainte chapelle)。「聖なる礼拝堂」という意味で、フランスのパリ中心部、シテ島にあるゴシック建築の教会堂です。

イメージ 10

イメージ 11


オペラ座(Théâtre National de l'Opéra, Paris)。フランスを代表するオペラ劇場で、1669年設立の王立音楽アカデミーが起源。その後たびたび名称変更、移転を繰り返しました。現在の壮麗な大歌劇場は1875年、ガルニエの設計で完成、ガルニエ宮ともよばれています。

イメージ 12

イメージ 13


「曽遊紀念帖」にはこんな記述も。

イメージ 14

この写真の場所は、つい最近気がつきましたが、昭和61年(1986)、第30回連翹忌が開催されたカフェ、クロズリー・デ・リラ(La Closerie des Lilas)でした。光太郎の下宿にも近く、画家のモネ、ルノワール、アングル、ピカソ、詩人のアポリネール、さらにはレーニンやトロツキーもここによく来たそうです。


大西さんのブログには、転用させていただいた以外にも、たくさんの画像と楽しいレポート。当方もますます行きたくなりました。さらに昨日ご紹介したロンドン、それからその前に光太郎が1年あまり居たニューヨーク、そして留学からの帰国直前の明治42年(1909)春に旅したスイスやイタリアの諸都市、ぜひとも廻ってみたいものです。いつのことになるやら……ですが(笑)。


【折々のことば・光太郎】

たつた一度何かを新しく見てください あなたの心に美がのりうつると あなたの眼は時間の裏空間の外をも見ます どんなに切なく辛(つら)く悲しい日にも この美はあなたの味方になります

詩「手紙に添へて」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

絶唱「レモン哀歌」をはじめ、後に光太郎詩文を数多く掲載してくれる、若い女性向けの雑誌『新女苑』への、確認できている限り初の寄稿です。暗い世相にも負けず、心に美を持つことの大切さを説いています。

最近、相次いで、訪欧された方々から、光太郎ゆかりの地の画像をいただきましたのでご紹介します。

まず、ロンドン。今年の連翹忌に初めてご参加下さった、千葉ご在住の安藤仁隆氏から。娘さんご夫婦がロンドンにお住まいだそうで、そちらに行かれた際に廻られたそうです。

光太郎は明治40年(1907)6月19日、1年あまりを過ごしたニューヨークを後に、大西洋を渡ってイギリスに向かいました。まだ航空旅客機は運用されてしておらず、利用したのはホワイトスターライン社の「「オーシャニック」(「オーシアニック」「オセアニック」とも表記)でした。ホワイトスターライン社は、この5年後に、かの有名な「タイタニック」を就航させます。「オーシャニック」は、そのタイタニックにつながる「スピードを犠牲にする一方、安定して快適な航海ができるような豪華大型客船」という画期的なコンセプトを初めて実現した船でした。クルーの何人かもかぶっています。

入港したサザンプトンからロンドンへ、ニューヨークで知り合い、先に渡英していた画家の白滝幾之助らの世話で、テムズ河畔パトニー地区の下宿に落ち着きます。

イメージ 1

安藤氏からいただいた(以下同じ)、テムズ川にかかるパトニー橋。

イメージ 2

その近くのカフェ。

光太郎が下宿していた建物が現存しているそうです。

イメージ 3

イメージ 4

その後、移ったチェルシー地区の下宿。現在はインテリアのショールームになっているとのこと。ただ、往時のまま天井が高く、彫刻家のアトリエとしてうってつけだそうです。ここで白瀧幾之助と共同生活をしました。

イメージ 5

イメージ 7

近くには、光太郎が学んだロンドン・スクール・オブ・アートの跡。3年前に廃校となり、今はマンションだそうです。ここで光太郎は、後に来日して陶芸家となるバーナード・リーチと知り合いました。

イメージ 6

ただ、当時のイギリスはパリと比べれば、芸術の先進性では遅れをとっており、スクール・オブ・アートではデッサンを学んだ程度で失望して退校、それなら英国人の文化や本当の生活を知ろうと、技芸学校ポリテクニックに移ります。それも現在はマンションに様変わりしているそうです。

イメージ 8

そして翌明治41年(1908)、留学の最終目的地と定めていたパリへと旅立ちます(もっとも、前年すでに下見を兼ねてパリにいた荻原守衛を訪ね、一緒にロダンのアトリエに行ったりもしていました)。ちなみにこの年、ロンドンでは第4回オリンピックが開催されました。現代とは異なり、半年もの会期でした。

後年の回想から。

 私はロンドンの一年間で真のアングロサクソンの魂に触れたやうに思つた。実に厚みのある、頼りになる、悠々とした、物に驚かず、あわてない人間のよさを眼のあたり見た。そしていかにも「西洋」であるものを感じとつた。これはアメリカに居た時にはまるで感じなかつた一つの深い文化の特質であつた。私はそれに馴れ、そしてよいと思つた。(『父との関係』 昭和29年=1954)

光太郎は保守的な一面も持っており、一面軽薄なアメリカ文明とは異なる、格式ある「英国」のライフスタイルは、敬愛すべきものだったようです。農商務省海外実業練習生の資格を得て義務づけられた報告書「英国ニ於ケル応用彫刻ニ就イテ」(明治41年=1908)などにも、それが読み取れます。この点、同じくロンドンに留学しながら、彼の地でこっぴどく人種的劣等感を植え付けられた夏目漱石との相違は興味深いところです。


明日は、フランスへ行かれていたテルミン奏者の大西ようこさんによるパリの光太郎ゆかりの地訪問の様子からご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

小人に詩無し ただあるは詩才のみ 君子に詩無し ただあるは明哲保身の言のみ 詩を培ふもの ただ聖と愚とあつて殆し

詩「詩について」 昭和12年(1937) 光太郎55歳

『論語』からのインスパイアですね。「小人」は『論語』のとおりの「小人」でしょう。しかし「君子」は真の意味の「君子」ではなく、アイロニーとしての「君子」でしょう。「誤解を招く表現であったなら撤回します」的な「明哲保身の言」をもてあそぶ、ある意味、賢い人々への痛烈な皮肉ですね。

真に詩をものするには、それらを突き抜けた神に近い「聖」までたどりつくか、それと真逆の「愚」に徹底するか、二者択一だ、というところでしょうか。晩年の光太郎はこの境地に至ったように思えますが、そうなるまでに、まだまだ長い苦闘、多大な犠牲が必要でした。

詩人の豊岡史朗氏から文芸同人誌『虹』が届きました。毎号送って下さっていて、さらに創刊号~第3号第4号第5号第6号と、ほぼ毎号、氏による光太郎がらみの文章が掲載されており、ありがたく存じます。

イメージ 1

イメージ 2


今号では「<高村光太郎論> 光太郎とパリ」。光太郎が明治41年(1908)から翌年にかけ、3年余に及ぶ欧米留学の最後に滞在したパリとの関わりを述べられています。

パリ時代を回想して作られた詩文がかなり網羅されており、短い稿の中ですっきりまとまっています。連作詩「暗愚小伝」中の「パリ」(昭和22年=1947)、随筆「遍歴の日」(同26年=1951)、長詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)、談話筆記「パリの祭」(明治42年=1909)、翌年のやはり談話筆記で「フランスから帰つて」、随筆「出さずにしまつた手紙の一束」(同43年=1910)、同じく「よろこびの歌」(昭和14年=1939)、さらには光太郎の実弟・豊周の回想も引かれています。

また、巻末の「パリの思い出」でも光太郎に触れられている箇所がありました。

当方は未だパリには行けずにおります。いずれ光太郎の辿った道のり、ニューヨーク、ロンドン、パリ、そしてスイスとイタリアの諸都市を廻ろうとは考えておりますが、いつになることやら(笑)。

パリといえば、親しくさせていただいているテルミン奏者の大西ようこさんが、先週、フランスのエクス=アン=プロヴァンスでコンサートをなされ、パリにも廻るとのことで、ぜひ光太郎が住んでいたカンパーニュ・プルミエル通り17番地界隈に行ってみて下さいと、資料をお渡し、画像を撮ってきて下さいとお願いもしました。そろそろ帰国されると思いますので、期待しております。

過日は、今年の連翹忌に初めてご参加下さった方から、ロンドンの光太郎ゆかりの場所を廻って来られたということで、多くの画像がメールで届きました。そちらも併せてご紹介しようと思っております。

ご期待下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間商売さらりとやめて もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の うしろ姿がぽつんと見える。

詩「千鳥と遊ぶ智恵子」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

舞台は3年前、智恵子の母・センと、妹・セツの一家が移り住んでおり、それを頼って心を病んだ智恵子が半年ほど預けられた、千葉の九十九里浜です。「智恵子抄」中の絶唱の一つとして、広く人口に膾炙している詩ですね。

ところが、「智恵子抄」に収められてしまうとそれが見えないのですが、この年の雑誌『改造』に初出発表された段階では、「詩五篇」の総題で連作詩のような形を取っていました。他の四篇は、やはり「智恵子抄」に収められた「値(あ)ひがたき智恵子」(明日、ご紹介します)、一昨日と昨日ご紹介した「よしきり鮫」、「マント狒狒」、そして割愛しますが「象」。後三篇は連作詩「猛獣篇」に含まれるものです。

「人間商売さらりとやめ」た智恵子は、もはや「猛獣」に近いものと認識されていたのかもしれません。ただし、光太郎曰くの「猛獣」は、獰猛な獣ということではなく、妖怪やら鯰やら駝鳥やらを含み、人間界に箴言、警句を発する者として捉えられています。

とすると、智恵子の発する箴言や警句は、そこまで智恵子を追い込んだ光太郎に対して向けられていると言えるのではないでしょうか。それを受けて光太郎は、それまでの世間との交わりを極力経っての芸術三昧的な生き方から、積極的に世の人々と交わる方向に舵を切ります。その世の中がどんどん泥沼の戦時体制に入っていったのが、光太郎にとっての悲劇でした。

福島は二本松で智恵子顕彰活動をされている智恵子のまち夢くらぶ代表の熊谷氏から、パリ研修のレポートをいただきました。
 
10月27日から11月3日までの行程で、「高村光太郎留学の地芸術の都パリ研修」と銘打ち、光太郎が住んでいたアパルトマン兼アトリエ、光太郎が訪れた場所、光太郎と関係の深い人物ゆかりの場所などを廻られたそうです。
 
イメージ 1
 
こちらは光太郎が暮らしていた建物。
 
000

 
Boulevard de Raspail (ラスパイユ大通り)とRue Campagne-Premièr(カンパーニュ・プルミエール通り)の交わるあたりです。
 
光太郎が暮らしていた明治41年(1908)から42年(1909)頃、同じ建物の階上にはリルケが住み、ロダンもここを訪れていました。また、近くにはロマン・ロランも住み、「ジャン・クリストフ」を書いていたとのこと。
 
光太郎はアトリエに近いアカデミーグランショミエール(L'académie de la Grande Chaumière)に籍を置き、クロッキーを学びましたが、もっぱら見物に歩き回っていたといいます。
 
数年前に、光太郎帰国後の明治45年(1912)に雑誌『旅行』に載せた「曽遊紀念帖」という文章を見つけました。
 
イメージ 4
イメージ 5
 
イメージ 6
 
イメージ 7
イメージ 8
 
イメージ 9
 
イメージ 10
 
これを読むと、パリで何をやってたんだ? と突っ込みたくなりますが、こうした雰囲気のパリと、伝統と格式に縛られた日本のあまりの差異に打ちのめされ、かえって何もできないでいたのです。
 
いずれ当方もゆっくりとパリでの光太郎の足跡を追ってみたいと思っています。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月1日
 
平成19年(2007)の今日、テレビ東京系「美の巨人たち」で、「高村光太郎 彫刻 手」が放映されました。
 
イメージ 11
 
メインは大正期のブロンズ「手」でしたが、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)の手にも触れました。
 
イメージ 12

イメージ 13
 
イメージ 14
 

↑このページのトップヘ