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東京六本木から、公開講座の情報です。
会   場 : 東洋英和女学院大学大学院 201教室 東京都港区六本木5-14-40
時   間 : 16:20-17:50
料   金 : 500円 
申   込 : 不要 先着100名
講   師 : 福田周(東洋英和女学院大学人間科学部教授)

高村光太郎は明治生まれの日本を代表する彫刻家です。彼は彫刻だけではなく、画家として、また随筆家としてもその才能を発揮しています。しかし、彼をより有名にしたのは詩集の『道程』や『智恵子抄』でしょう。そのうち『智恵子抄』は心の病に罹り亡くなった妻である智恵子への想いを詩にしたものです。この講座では、心の病をもつ妻に、夫の光太郎がどのように寄り添って生きたのかを考えていこうと思います。

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大学さんでこうした取り組みというのは、ありがたいですね。それこそさまざまな分野で、専門的に語れる人材はたくさんいらっしゃるわけですから。

たまたまでしょうが、今年は昭和13年(1938)に亡くなった智恵子の歿後80周年の節目の年です。各地で智恵子を語るイベント等、催されて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

毎日見慣れて平凡だと思ふものに在る斯かる真の美を又新しく発見するのはたのしい。美は到るところにあるのである。

散文「野菜の美」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

初出掲載誌は『婦人之友』第35巻第4号。「日本的美について」ということで原稿依頼があり、光太郎の提案で、野菜の美しさを取り上げることとなり、光太郎のアトリエに編集者が筵(むしろ)一面を覆い尽くす野菜を持ち込み、写真撮影。その写真グラビアに添えられた文章です。

2週間ほど前に、このブログで、彩流社刊・近藤祐氏著『脳病院をめぐる人びと  帝都・東京の精神病理を探索する』をご紹介しました。
 
12月22日付の『朝日新聞』に、作家の荒俣宏氏による書評が出ました。
 
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◇別角度の文学史が見えてくる

 日本近代の精神科病院は、公立施設に限定するならば、都市の美観と治安を守るために路上生活者を一掃する政策から誕生した。明治5年にロシア皇太子が訪日するのに合わせ、困窮者や病者を収容すべく設置された「養育院」内の「狂人室」が起源である。
 
 病者には背に「狂」の字を染めた衣服が着せられ、手枷足枷(てかせあしかせ)を付けられた。明治12年にはこれが独立して東京府癲狂(てんきょう)院となるのだが、やがて有名な相馬事件が発生、発狂と称して癲狂院に押し込められた旧相馬藩主を忠臣が救いだすという大騒動となった。
 
 監獄まがいの悪いイメージを嫌った病院側も、癲狂という語句を抹消するが、「内分泌の多い患者の睾丸(こうがん)を別の患者の腕に移植する」怪実験が行われた戸山脳病院が業務停止になるなど、おぞましい話に付き纏(まと)われた。
 
 本書は知られざる脳病院の歴史を東京エリアに絞って詳述した後、後半で精神科病院が林立する大正期前後に精神を病んだ著名文学者の運命を検証する。
 
 芥川龍之介や宇野浩二の眼(め)に「死ぬまで出られぬ監獄」と映った脳病院の情況を筆頭に、高村光太郎が妻の智恵子を入院させることを最後まで躊躇(ちゅうちょ)し、結局は入院後すぐに彼女を亡くした事情、その脳病院で治療する側にいた歌人斎藤茂吉の心情などを読み進むうちに、精神科病院を介して意外なほど多数の文学者が深く関係を結んでいたことに驚かされる。この文脈で別角度の文学史が語れる。
 
 ただ、本書では作家たちの病歴や妄想幻覚の深い分析が慎重に控えられている。精神科病院に入院させられた中原中也が自宅の屋根に座って弟を見送る場面で、芥川龍之介最後の映像がやはり高い木に登っているシーンだったとする指摘などが興味深いだけに、もう少し突っ込んでもよかった。蛇足だが、中村古峡や石井柏亭の人名が誤植のままなのは、稀(まれ)な書だけに残念。
 
なかなか的確な評です。
 
実は当方、まだ読んでいる途中です。荒俣氏も指摘していますが、時代遅れで、牽強付会に過ぎる精神分析学的手法を取っていないため、読んでいて納得いかない部分はありません。また、芥川や辻潤、宇野浩二らがどんな病状だったのかというあたりを、当時の社会状況や思想史的な潮流に当てはめた論旨が非常に興味深いのですが、やはり何というか、読んでいて非常に痛々しいものがあります。そう感じさせる著者の筆致に感心させられる部分が大きいともいえます。
 
この後、太宰治、中原中也と続いていきます。近いうちに読み終えようと思っています。
 
ところで版元の彩流社さん。今度は光太郎と特異な交流を持っていた詩人、野澤一(のざわ・はじめ)関連の書籍を刊行しました。題して『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』。さっそく注文しましたので、届き次第詳しくご紹介します。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月25日006

昭和21年(1946)の今日、宮澤清六と共に編者を務めた日本読書組合版『宮澤賢治全集』全6巻の刊行が始まりました。
 
第一回配本の「第二冊」は、『春と修羅』などの詩を収めています。
 
装幀、題字も光太郎。実にいい文字だと思いませんか?
 
黒いもやもやはシミではなくそういうデザインです。

新刊です。 

脳病院をめぐる人びと  帝都・東京の精神病理を探索する

近藤祐著 彩流社刊 定価2500円+税
 
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戦前の東京地図に散見し、しかし現在はその場所から消失した「脳病院」とは何か!?
 
芥川龍之介が神経衰弱の末に自殺した昭和二年以降、文学史にさまざまな狂気が連鎖する。辻潤は天狗となって二階窓からの飛翔を試み、太宰治はパビナール中毒で強制入院させられる。愛児を失った中原中也は忘我状態となり、高村智恵子は精神分裂病で生涯を終えた。わずか十年余りに連鎖するこれらの狂気には、何か共通因子があるのか。また彼らはどのような治療を施されたのか。明治・大正・昭和と帝都東京における脳病院の成立と変転を辿り、都市と人間、社会と個人の軋轢の精神史を探索する。
(帯より)
 
目次は以下の通りです。
 
プロローグ
第一部 
 第一章 初期癲狂院
 第二章 正系としての帝国大学医科大学・呉秀三・府立巣鴨病院
 第三章 脳病院の登場
 第四章 郊外へ
第二部
 第一章 芥川龍之介の小さな世界
 第二章 辻潤または飛翔するニヒリスト
 第三章 家族はどうしたのか ―高村光太郎と長沼智恵子―
 第四章 ここほ、かの、どんぞこの ―太宰治の分岐点―
 第五章 中原中也 暴走する精密装置
エピローグ
主要参考文献
年表
あとがき
 
昨日手元に届き、まだ光太郎智恵子に関する章しか読んでいませんが、それだけでもなかなかのものです。
 
著者の近藤氏はその道の専門家ではない、とのことですが、かえってそれだけに同じく専門家でない我々にわかりやすい書き方になっています。といって、門外漢が浅薄な知識で論じているものではなく、精神医学史についての調査は綿密に行き届いています。智恵子発病時に光太郎が短期間治療を依頼した諸岡存についての記述など、当方も知らなかったことがたくさんありました。
 
また、光太郎がなぜ智恵子の入院先として南品川のゼームス坂病院を選んだか、といった点の考察も、なるほど、と思わせるものでした。
 
惜しむらくは年代の記述で若干の事実誤認があるのですが……。
 
版元・彩流社さんのサイトへから注文可能です。

 
【今日は何の日・光太郎】 12月13日

平成4年(1992)の今日、日本テレビ系の教養番組「知ってるつもり?!」で、光太郎がメインで取り上げられました。
 
関口宏さんの司会で、比較的長寿の番組でしたので、ご記憶の方も多いでしょう。かつてはこういう番組がけっこうありましたが、最近、特に民放ではこの手の番組は減ってしまいましたね……。

【今日は何の日・光太郎】 11月19日
 
大正10年(1921)の今日、智恵子とともに新詩社房州旅行に参加しました。
 
というわけで、今回は「今日は何の日・光太郎」ネタで。
 
同じ大正10年11月に雑誌『明星』が復刊、光太郎はその復刊号に長詩「雨にうたるるカテドラル」を発表したのを皮切りに、昭和2年(1927)の再びの終刊まで、詩、短歌、翻訳、散文、時には素描も発表し続けました。
 
その『明星』発行元の新詩社としての一泊旅行があり、光太郎智恵子も参加しています。他には与謝野鉄幹・晶子夫妻、歌人の平野万里、詩人の深尾須磨子、版画家の伊上凡骨、文化学院の創立者・西村伊作、画家の石井柏亭などが同道しています。19日には現在の館山市北条に泊まり、翌日、同じ館山の那古、現在の南房総市白浜などを巡って帰ったとのことです。
 
昭和41年(1966)に書かれた深尾須磨子の「高村智恵子」という散文に、この時の回想が書かれています。ただ、半世紀近くを経て書かれたものなので、時期などに若干の記憶違いがあるようで、深尾はこの旅行を「たしか大正十一年早春だつた。」としています。光太郎智恵子関連でも、古い文献はこの旅行を深尾の回想を元に大正11年としていますが、筑摩書房『高村光太郎全集』別巻の年譜などでは大正10年になっています。
 
それはともかく、この時期としては数少ない智恵子の様子が描かれていますので、引用しましょう。ちなみに深尾と智恵子、この旅行が初対面でした。
 
 翌日は午後の出発まで、うららかな日ざしのなかを、めいめい思いおもいに、なぎさからなぎさを伝つて歩いた。私のかなり前方に光太郎のうしろ姿があり、そのまたはるかな前方に智恵子のうしろ姿があつた。よく見ると、砂に足をとられながらも、智恵子は前へ前へとぐんぐん歩いていくのだつたが、その早いこと、彼女を呼ぶ光太郎のほうは振りかえりもせず、まるでなにかに追いすがるように、飛鳥の早さで遠ざかつていく智恵子の姿をみつめつつ、私は一種異様な予感めいたものを覚えずにはいられなかつた。
 その智恵子が帰りの車中では私のとなりに座つたので、なにか話しかけたいような気持ちにかられたが、わざと黙つていた。やがて智恵子がとぎれがちに私に声をかけた。彼女がいつたのは、良人に死別してまもない私へのいたわり言葉ではなく、孤独がほんとうの人間の姿だから、というようなつきつめたものだつた。ちなみに、そのときの旅装といえば、晶子が洋装、私とあや(注・西村伊作長女)も洋装、智恵子は黒つぽいきものを着ていた。
 
智恵子が統合失調症を発症したのがいつか、正確なところはわかりません。昭和6年(1931)夏、『時事新報』の依頼で光太郎が三陸方面へ約1ヶ月の旅行に出ている間に訪ねてきた智恵子の母と妹が、智恵子の異状に気づいたといわれています(自殺未遂はさらにその翌年)が、それ以前からその兆候があったとしても不思議はありません。
 
少なくとも深尾はその10年前の智恵子に、すでに異様なものを感じていたのです。
 
光太郎自身も、昭和15年(1940)に書かれ、詩集『智恵子抄』にも収められている「智恵子の半生」(原題「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」)という散文の中で、次のように語っています。
 
だが又あとから考へると、私が知つて以来の彼女の一切の傾向は此の病気の方へじりじりと一歩ずつ進んでゐたのだとも取れる。その純真さへも唯ならぬものがあつたのである。思ひつめれば他の一切を放棄して悔まず、所謂矢も楯もたまらぬ気性を持つてゐたし、私への愛と信頼の強さ深さは殆ど嬰児のそれのやうであつたといつていい。私が彼女に初めて打たれたのも此の異常な性格の美しさであつた。言ふことが出来れば彼女はすべて異常なのであつた。私が「樹下の二人」といふ詩の中で、

ここがあなたの生れたふるさと
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。

と歌つたのも此の実感から来てゐるのであつた。彼女が一歩ずつ最後の破綻に近づいて行つたのか、病気が螺旋のやうにぎりぎりと間違なく押し進んで来たのか、最後に近くなつてからはじめて私も何だか変なのではないかとそれとなく気がつくようになつたのであつて、それまでは彼女の精神状態などについて露ほどの疑も抱いてはいなかつた。つまり彼女は異常ではあつたが、異状ではなかつたのである。
 
さらに深尾の回想では、次のようなエピソードも語られます。
 
 二度目に智恵子に会つたのは、昭和五、六年のころ、本郷駒込の光太郎のアトリエをおとずれたときのことだつた。そのころ、ある新聞社から、婦人欄の文化批評を担当するようにと、社長みずから足を運んでの再三の懇望がことわりきれず、さりとて引受ける気にもなれず、思いあまつたあげくのはて、ふと、わんぱく呼ばわりされていた光太郎のことを考えつき、ずばりその裁断にまちたいと、近よりがたい気持ちをおさえて出かけたわけである。
 入口のとびらの右手にのぞき窓があり、そこから訪問客のだれかをたしかめ、来意をきいたうえでとびらをあけるという順序どおり、智恵子が私を迎えいれた。黒いセーターに光太郎のおさがりの、黒いズボンをはき、ぞうきんがけをしていた智恵子は、アトリエから仕事中の光太郎を呼びよせ、二人で私の話をきいた。そのとき、即答をしぶる光太郎に引きかえ、智恵子は大賛成、自分もその新聞社で働いたことがあり、不思議な縁だ、視野をひろげるためにもぜひ承諾するようにといい、自分も思いきつて働きたいなどともいうのだつた。
 
智恵子が新聞社で働いていたという事実はありません。うそいつわりを言うシチュエーションではないので、妄想でしょう。こうなると、明らかに統合失調症の症状だと思われます。時期がはっきりしないのですが、早ければ昭和5年(1930)にはこういう出来事があったのです。
 
だからどうというわけではないのですが、時折、智恵子が突然変調をきたした、的な記述などを見かけることがありますので、そうではなさそうだ、ということを記しておく、というわけです。
 
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画像は大正14年(1925)、千駄木林町のアトリエでの光太郎智恵子。昭和31年(1956)筑摩書房発行の草野心平編『日本文学アルバム 高村光太郎』に掲載されていますが、それ以外にはこの写真はほとんど掲載されていないようです。参考までに。

新刊を取り寄せました。3ヶ月ほど前の刊行でしたが。

アートセラピー再考――芸術学と臨床の現場から

甲南大学人間科学研究所叢書 心の危機と臨床の知14 川田都樹子・西欣也編
2013/3/15 平凡社発行
定価 2800円+税
 
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治療法の一分野として幅広く実施されているアートセラピーの、臨床研究の成果のみならず、その歴史学的側面を考察し、高村智恵子やジャクソン・ポロックの事例を含めて、多角的に紹介する。


神戸の甲南大学さんに設置された人間科学研究所スタッフによる編著です。テーマは「アートセラピー」。芸術を媒体に使用する精神療法です。
 
第1部「近代日本のアートとセラピー」中の、「高村智恵子の表現-芸術の境界線(木股知史)」、「「治す」という概念の考古学-近代日本の精神医学(三脇康生)」、「アウトサイダー・アート前史における創作と治癒(服部正)」で、智恵子の紙絵や智恵子の主治医だった斎藤玉男について述べられています。
 
精神を病んだ智恵子は昭和10年(1935)から亡くなる同13年(1938)まで、南品川のゼームス坂病院に入院していましたが、そこの院長だったのが斎藤玉男です。この時代はまだ芸術療法という概念も曖昧で、作業療法に近い位置づけでした。それでもゼームス坂病院の実践は当時としては、ある意味画期的だったとのこと。
 
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とかく智恵子の紙絵やその終焉の様子などは、文学的、ドラマチックに捉えられがちですが、こうした科学の目を通してのアプローチも重要なのではないでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月8日

明治45年(1912)の今日、埼玉県百間村(現・宮代町)の英文学者・作家の島村盛助に宛てて、駒込林町25番地に完成したアトリエへの転居通知を送りました。
 
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本文は自刻木版です。同一の版を使った転居通知は同月6日付で作家の生田葵山にも送られています。
 
日付を特定できませんが、この頃、アトリエが竣工したと言えます。同じく日付を特定できませんが、アトリエの新築祝いに、智恵子がグロキシニアの鉢植えを持って訪れたのもこの頃です。
 
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