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昨日昼過ぎ、買い物等のため地元で愛車を走らせていました。地元でしたので、カーナビ画面は地図ではなくテレビ画面、NHKさんの「サラメシ」でした。すると、ニュース速報のチャイム。「何事だ?」と画面に目をやると、「西城秀樹さん死去」の文字。「あらららら」という感じでした。

共同通信さんの発表から。

歌手の西城秀樹さんが死去 新御三家で人気、俳優でも活躍

 「傷だらけのローラ」「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」などのヒット曲で知られる歌手の西城秀樹(さいじょう・ひでき、本名木本龍雄=きもと・たつお)さんが16日午後11時53分、急性心不全のため横浜市内の病院で死去した。63歳。広島市出身。葬儀・告別式の日程は未定、喪主は妻木本美紀(きもと・みき)さん。
 中学生のころからバンド活動を始め、16歳のときに「恋する季節」(1972年)でデビュー。73年の「情熱の嵐」がヒットして人気に火が付き、同時期にデビューした郷ひろみさん、野口五郎さんとともに「新御三家」と呼ばれた。ドラマや映画などで俳優としても活躍。


テレビのニュース映像から。

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西城さん、二度目の脳梗塞で倒れられた後の平成27年(2015)、渋谷Bunkamuraシアターコクーンさんで開催された「世界・日本名作集よりリーディング名作劇場「キミに贈る物語」~観て聴いて・心に感じるお話集~」 に出演され、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)の、初出発表形(102行のロングバージョン)を抜粋して朗読して下さり、その不屈のチャレンジが、その当時のニュースになりました。


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まだ63歳だったとのこと。太く短く、激しく駆け抜けられた一生だったように思われます。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

ぼくも妻を亡くしたが妻は「元素」となつてぼくの身の回りに生きている。愛すれば愛するほど亡くなつた人は生きている。悲しいときには無性に悲しいものだ。これ以上悲しいことはない、ドン底だと思うけれど、それが後には光りに変るものです。この悲しみが人を清らかに高くする。死んでしまえば魂も消えてしまうと思うのはごく小さな考えだ。

談話筆記「悲しみは光と化す」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

大正天皇第二皇子・秩父宮雍仁親王の追悼談話です。西城さんご遺族にこの言葉を贈ります。

足立区西新井を拠点に活動されているシンガーソングライター・北村隼兎(はやと)さんから、自作のCDをいただきました。題して「詩と旋律の日本文学」。リリースされたのはごく最近、というわけではなさそうです。
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曲目は以下の通り。
 
1.「月夜の浜辺」中原中也
2.「サーカス」中原中也
3.「山麓の二人」高村光太郎
4.「黒手帳」宮沢賢治
5.心よ(インスト)
6.「八木重吉詩集」八木重吉


というわけで、光太郎の「山麓の二人」が入っています。
 
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北村さんとは昨年の10月、福島二本松で開かれた智恵子忌日の集い「レモン忌」で初めてお会いしました。その際には「レモン哀歌」と「あどけない話」をギター弾き語りで披露なさいました。
 
今回の「山麓の二人」、また、他の詩人の詩に曲をつけた作品も含め、軽妙かつ力強く、非常にいい感じです。
 
附属のブックレットに書かれた北村さんの言葉から抜粋させていただきます。
 
新しい世界は新しい媒体の中で成り立ち、006
古いモノは選別されてゆく。
 
誰がどんな想いで
過去を未来へ繋げてゆくのか?
 
私は私の出来うる形でそれを繋げてゆこうと
想っています。
 
そして百年後、
先人達の詩とメロディとが1セットで
まだこの地球上に残っていたとしたら、
 
このうえないほどしあわせなことだろうなぁ
 
百年前の言葉に旋律をつけるという行為は
自分の存在しない百年後を想う機会となりました。
 
当方もよく、100年後にも光太郎智恵子の名がメジャーであり続けてほしいと思います。そのためには後世の人間が次の世代へと引き継ぐ努力をしなければなりません。そしてそれは一人や二人の力でできることでもありません。どうぞお力添えを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月17日

昭和14年(1939)の今日、『読売報知新聞』および『朝日新聞』に、「文部科学省選定日本国民歌」のうちの、光太郎作詞・箕作秋吉作曲の「こどもの報告」が完成したという記事が載りました。
 
確認できている限り、光太郎が歌曲の歌詞として作った2作目です。1作目は昭和12年(1937)の「わが大空」。作曲は坂本龍一氏などの師にあたる松本民之助です。
 
「文部省選定日本国民歌」は、他の詩人(歌人)・作曲家による5曲とともに6曲でワンセットとなり、演奏会やラジオ放送で扱われ、さらにはレコード化もされました。しかし6曲ともあまり評判がよくなく、いつの間にか忘れ去られてしまいました。
 
そのあたりの経緯は当方が編集・刊行しています『光太郎資料』という冊子にて詳述しております。次号は4月2日、連翹忌に刊行予定で、現在、鋭意作成中です。ご連絡いただければ送料のみにておわけします。

昨日のブログで歌手の二代目コロムビア・ローズさんにふれました。今日も追加で。
 
ローズさん、「智恵子抄」のヒットで、その後、「文芸歌謡」路線で行ったようです。「たけくらべの歌」(昭和39年=1964)、「二十四の瞳」(同40年=1965)などの歌をリリースしています。「二十四の瞳」のB面は「智恵子のふるさと」という歌です。これらはみな作詞・丘灯至夫、作曲・戸塚三博とのトリオで制作されました。
 
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智恵子のお膝元、二本松では「智恵子抄」と「智恵子のふるさと」を一本に収録したカセットテープが、平成11年に販売されました。
 
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「智恵子抄」、いろいろな方がカバーしています。
 
昭和45年(1970)には西尾和子さんの歌でリリース。これはTBS系で放映されたドラマ「智恵子抄」(木村功・佐藤オリエ主演)の主題歌として新たに録音されたものです。
 
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また、平成17年には三代目コロムビア・ローズさんの歌で、シングル「異国の華~お春物語~」のカップリングになっています。
 
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その他にも歌として、あるいはインストゥルメンタル(歌なし)で、いろいろな方がカバーしています。そのあたりはいずれ当方発行の冊子『光太郎資料』にて詳述したいと思っています。

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