青森の地方紙『デーリー東北』さん。先週、一面コラムで光太郎について触れて下さいました 

天鐘(3月15日)

彫刻家で詩人だった高村光太郎の手と足は並外れて大きかった。国産の革靴は入らず米国人から譲り受けた13文半(32センチ)を愛用。長靴は靴屋で一番大きい12文半(30センチ)を調達したが小さくて我慢して履いていたという▼花巻市の記念館が所蔵する革靴と長靴を改めて測っていただいた。12文半で窮屈だから32センチ近かったのだろう。身長は6尺(180センチ)で当時としてはかなりの偉丈夫だが、体躯(たいく)にも増して手足が大きかった▼32センチなら身長209センチのジャイアント馬場と同じ。「16文キック」は米靴規格の号を文と取り違えたためで実際は14文だった。光太郎は大きな四肢を気にしていたが、自身の左手を描いた塑像は指が長くて美しい▼24歳の時、留学先の米国で自作にいたずらした学生の腕を締め上げた。すると柔道と勘違いされ、レスリング選手と闘うはめに。柔道は未経験だったが逆手で押さえつけたら相手は悲鳴を上げて降参したとか▼頑丈な体躯をサンドー体操(今のボディビル)で鍛え、腕っ節も人一倍強かった。戦争を賛美した芸術家が素知らぬ顔で転向していく中、彼は戦争詩を書いた贖罪(しょくざい)から花巻の山麓で独居生活に入り、自らを戒めた▼明治3年の今日はわが国初の西洋靴工場が東京築地に開設された「靴の記念日」。輸入軍靴が大き過ぎたためだが、逆に手足が国際規格の光太郎を悩ませた。和製ロダンの秘話である。


意外と知られていない光太郎のエピソードを紹介して下さり、ありがたく存じます。

30㌢の靴が小さくて我慢して履いていたというのは本当のようで、常に靴や靴下には困っていたことが、いろいろな文献から伺えます。

つい昨年発見した書簡にも記述がありました。

 本当にあるのですね。
 あたたかい十三文の靴下。送つていたゞいて、小生の特大の足もよろこんでゐます。ばけもの屋敷で、あたたかい冬がこせそうです。有り難う存じます。
(昭和16年=1941 12月10日 西倉保太郎宛はがき)

「ばけもの屋敷」は、智恵子没後の駒込林町のアトリエ。近所の子供達がそう呼んでいたそうです。


それから花巻高村光太郎記念会さんで復刊した『高村光太郎山居七年』という書籍にも。

 山口に移った旧冬、先生が戸来恭三さんの所へ来た時、
「冬になって雪が降ってきたが、下駄があるだけで、はきものがなくて困りました。何しろ僕の足が特別大きいので、はき物を探すには大変苦労します。」
「それあ、ことだなす。先生などにお使いってもらうのは、ほんとに笑いごったどもが、こっちの方では藁であんだつまごというのめいめいの家でつくってはくもなす。そんなもんでよくおでれば、何時でもつくって上げあんす。」
「つまごというのは藁の靴のことでしょうね。……それはまことにいい話を伺いました。藁は毛皮についで保温の性能がよいということだから、藁の靴ならまことにあたたかでよいでしょう。是非一つお作りになっていただきます。僕の足はとても大きいのだから。十三文位あるんだから。そこをよくしってつくっていただきたいです。」
 恭三さんは、藁細工の上手な老父に頼んで早速大きなつまごを作って貰いました。そのつまごは、編上げの靴風に足くびも隠れる半長の吟味したものでした。
 その靴を先生に届けた所、手にとり色々にもちかえて眺め、靴の中へ手を入れてみたり、足袋の足にあわせてみたりして大変喜ばれ
「これは素晴らしい。これがあれば雪の道も暖かく歩けます。大きさもたっぷりできてるし、それに美しい。」
 先生は冬を通して此の靴を愛用しました。春になってその藁靴が要らなくなった時、小屋の東側の水屋に近い柱にかけておきましたが、その藁靴が何枚かのスケッチの材料となりました。

昭和20年(1945)、花巻郊外太田村山口の山小屋(高村山荘)に移り住んで間もなくのエピソードです。

光太郎が愛用したつまごの実物は花巻高村光太郎記念館に所蔵されています。また、昭和22年(1947)、甥の故・高村規氏に送ったはがきに、このつまごが描かれています。

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他にもやはり米兵用と思われる特大の靴下をもらって喜んだ話も載っています。


再び「天鐘」。怪しげな柔道技で米国人学生をギブアップさせた話、ボディービルの話も実話です。4年程前にこのブログでもご紹介しました。

こうした人間くさいエピソードを知ると、ぐっと身近に感じると思うのですが、どうでしょうか。


ちなみに「天鐘」末尾に「明治3年の今日はわが国初の西洋靴工場が東京築地に開設された「靴の記念日」。」とありますが、その工場を造ったのが西村勝三。のち、明治39年(1906)になって、東京向島の西村家別邸に、光太郎の父・光雲が原型を作った西村の銅像が建立されています。

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【折々の歌と句・光太郎】

自転車を下りて尿すや朧月       明治33年(1900) 光太郎18歳

軽犯罪法違反ですが(笑)、これも人間くささの表れ、ということで。