新刊情報です。
陛下、今日は何を話しましょう
2019年5月12日 アンドルー・B.アークリー著 すばる舎 定価1,500円+税プレスリリースより
本書は、5月1日に迎えた新天皇陛下の即位に際して、陛下の学習院高等科時代のご学友で、当時オーストラリアからの外国人留学生であり、のちに英語のお相手を務めたアンドルー・B・アークリー氏が、天皇陛下や皇室の方々との交流を回想しながら、「素顔の新天皇陛下」を伝える一冊です。
著者は、1975年、交換留学生として学習院高等科に留学、天皇陛下とご学友になりました。いったん帰国後、東京外語大学に留学し、のちに日本に移住。以来20年以上にわたり交流を続けてきました。本書では、天皇陛下、上皇陛下、美智子様をはじめとした皇室の方々との知られざるエピソード、そして世の中には出ていない秘蔵写真を多数収録しております。
著者は陛下との交流を通じ「日本を心から愛するようになった」と述べています。著者に見せた友人としての「陛下の素顔」は、まさに日本の心そのものだったそうです。
著者は、1975年、交換留学生として学習院高等科に留学、天皇陛下とご学友になりました。いったん帰国後、東京外語大学に留学し、のちに日本に移住。以来20年以上にわたり交流を続けてきました。本書では、天皇陛下、上皇陛下、美智子様をはじめとした皇室の方々との知られざるエピソード、そして世の中には出ていない秘蔵写真を多数収録しております。
著者は陛下との交流を通じ「日本を心から愛するようになった」と述べています。著者に見せた友人としての「陛下の素顔」は、まさに日本の心そのものだったそうです。
【著者プロフィール】アンドルー・B・アークリー(アンドルー・ビー・アークリー)
オーストラリアのメルボルン生まれ。中学生時代、父の国連勤務のため、1971年にスリランカ、1973年にジャマイカに、それぞれ一年間滞在。1975年、国際ロータリークラブの交換留学生として学習院高等科に留学(学習院高等科が受け入れた初めての外国人留学生である)。当時の日本国文部省の学部国費留学生として国立東京外国語大学に入学し、1982年に日本事情の専攻で卒業し、オーストラリアに帰る。その後オーストラリアの鉱山会社・リオティントに就職し、東京丸の内にある子会社に転勤のため、再び来日。途中からオーストラリア外務省に出向のため、帰国。1986年に再来日する。元日豪音楽交流協会会長、元オーストラリアビジネス協会副会長。1993年、皇太子殿下と雅子妃のご婚約にあたり、海越社より『ぼくの見た皇太子殿下』を出版。
オーストラリアのメルボルン生まれ。中学生時代、父の国連勤務のため、1971年にスリランカ、1973年にジャマイカに、それぞれ一年間滞在。1975年、国際ロータリークラブの交換留学生として学習院高等科に留学(学習院高等科が受け入れた初めての外国人留学生である)。当時の日本国文部省の学部国費留学生として国立東京外国語大学に入学し、1982年に日本事情の専攻で卒業し、オーストラリアに帰る。その後オーストラリアの鉱山会社・リオティントに就職し、東京丸の内にある子会社に転勤のため、再び来日。途中からオーストラリア外務省に出向のため、帰国。1986年に再来日する。元日豪音楽交流協会会長、元オーストラリアビジネス協会副会長。1993年、皇太子殿下と雅子妃のご婚約にあたり、海越社より『ぼくの見た皇太子殿下』を出版。
【本書に記載されている著者が陛下にまつわる秘蔵エピソード(一部抜粋)】
*陛下の高校時代のニックネームは「じぃ」 著者が最後まで呼べずに後悔の意味
学習院高等科時代、陛下の秘密のあだ名は「じぃ」。陛下自身も気に入っていらっしゃったようですが、著者は恐れ多く最後まで呼ぶことができなかったそう。今それを後悔しています。その深い理由とは?
*「僕とお友達になっていただけますか?」から始まった!地理研で深めた陛下との友情物語
陛下と著者はクラブ活動で「地理研究会」に所属していました。著者は勇気を出して日本語で「僕と友達になっていただけますか?」と話しかけ、友情物語が始まりました。能登旅行や信州旅行などのエピソードも。
陛下と著者はクラブ活動で「地理研究会」に所属していました。著者は勇気を出して日本語で「僕と友達になっていただけますか?」と話しかけ、友情物語が始まりました。能登旅行や信州旅行などのエピソードも。
*お招きいただいた東宮御所で垣間見た一家の素顔
陛下と仲良くなるにつれ、東宮御所に招かれるようになりました。御所では上皇陛下、美智子様、秋篠宮様、清子様ともお近づきになり…著者はそこで数々の感動エピソードに遭遇することになります。
陛下と仲良くなるにつれ、東宮御所に招かれるようになりました。御所では上皇陛下、美智子様、秋篠宮様、清子様ともお近づきになり…著者はそこで数々の感動エピソードに遭遇することになります。
*上皇陛下、美智子様、陛下、皇室の方々から頂いた「感動の寄せ書き」
著者が高校の留学を終え、帰国する際にも信じられないサプライズがありました。友人たちからの寄せ書きの中に、陛下、上皇陛下、そして美智子様からもお言葉が記されていたのです。その知られざる内容とは?
著者が高校の留学を終え、帰国する際にも信じられないサプライズがありました。友人たちからの寄せ書きの中に、陛下、上皇陛下、そして美智子様からもお言葉が記されていたのです。その知られざる内容とは?
*『智恵子抄』高村光太郎の詩のお気に入りの一編から感じる雅子様への深い愛と思いやり
「この本で日本の心を学んでください」学習院高等科の留学を終え、帰国する際に陛下から手渡されたのは詩集。その中で陛下お気に入りの一節は、『智恵子抄』で知られる高村光太郎が智恵子への愛情と思いやりを綴ったものでした。後年、著者は陛下と雅子様のご婚約の会見を観ながら、その中身を思い出すのでした。
「この本で日本の心を学んでください」学習院高等科の留学を終え、帰国する際に陛下から手渡されたのは詩集。その中で陛下お気に入りの一節は、『智恵子抄』で知られる高村光太郎が智恵子への愛情と思いやりを綴ったものでした。後年、著者は陛下と雅子様のご婚約の会見を観ながら、その中身を思い出すのでした。
*庶民感覚を知る新時代の天皇 トンカツにカレーライス、中華料理がお好き。
著者が一番驚いたのは、陛下は特別な立場にありながらとても気さくで親しみやすいお方で、普通の方の生活感覚をご存知でいらっしゃったこと。トンカツにカレーライスといった庶民的なメニューも好まれました。
著者が一番驚いたのは、陛下は特別な立場にありながらとても気さくで親しみやすいお方で、普通の方の生活感覚をご存知でいらっしゃったこと。トンカツにカレーライスといった庶民的なメニューも好まれました。
オーストラリア人の著者・アークリー氏は、昭和50年(1975)から学習院高等科に留学、一学年下の今上陛下と共に地理研究会に所属。それが交流の始まりでした。いったん帰国するも、東京外語大に入学するため再来日、その間に家庭教師……とまではいかないものの、オックスフォード留学を控えていた陛下の英会話の練習相手的な任につかれ、足繁く御所に通われたそうです。そこでタイトルの『陛下、今日は何を話しましょう』につながるわけです。
プライベートな友人の立場から見た、大変真面目でありながら、茶目っ気があったり大胆だったり意外に庶民的だったり、何より気さくでこまやかな気遣いをされたりする、少年期から青年期にかけての陛下の姿が描かれています。
そうした中で、「智恵子抄」収録の「樹下の二人」(大正12年=1923)に関わるエピソードが紹介されています。ちなみに本書カバーの見返しには、この部分の一節が。
雅子さまはご婚約内定時の記者会見で、陛下の魅力を問われて、
「たいへん、忍耐強くて根気強くていらっしゃること。勇気がおありになること、そしてすごく思いやりのある方でいらっしゃること」
と答えています。
私は、雅子さまのお言葉を聞いたとき、学習院高等科での交換留学を終え、帰国する直前に陛下から手渡された、詩集『Japanese Songs of Innocence and Experience』のことがすぐに思い浮かびました。
「アンドルー君、日本では和歌や俳句ばかりでなく、詩にもすばらしいものがあります。この本で日本の心を学んでください」
というコメント付きで、プレゼントして下さった本です。
後で開いてみると、その本の46ページにだけ、ほかの本から抜粋した日本語訳が付けられていました。『智恵子抄』で知られる詩人・高村光太郎の『You and I Under a Tree(樹下の二人)』でした。
(略)
「樹下の二人」は、光太郎の妻・智恵子が二本松の実家に帰っていた時期に作られたそうです。追いかけてきた光太郎と智恵子が、ふたりで松林の崖に腰をおろしてパノラマのような景色をながめたときの、楽しい思い出が綴られています。
智恵子への愛情と思いやりがあふれる光太郎の詩を思い返し、陛下は雅子さまをどこまでも守っていかれるのだなと、と感じました。
上記(略)の部分では、「樹下の二人」全文が引用されていますが、割愛します。
今上陛下、学習院初等科のみぎりの作文でも「樹下の二人」に触れて下さっていましたし、これを期に、「智恵子抄」など光太郎作品がまた見直されるといいなと思っております。
ちなみに贈られたという『Japanese Songs of Innocence and Experience』。北星堂さんから昭和50年(1975)に刊行されたもので、Marie Philomene(マリー・フィロメーヌ)編、今も古書市場で時折見かけます。
さて、『陛下、今日は何を話しましょう』ぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
結局人はその望む方向へ無意識のうちににも歩いてゐるものだと考へざるを得ない。実に緩慢な歩みのやうだが結果から見ると存外早い。
散文「十二月十五日」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳
戦後の花巻郊外旧太田村での隠遁生活に関し、青年期から抱いていた北の大地での自然に囲まれた生活への夢を実現する意味合いもあったのだろう、と感懐しています。
『陛下、今日は何を話しましょう』著者のアークリー氏も、当初は単なる交換留学での来日でしたが、そこで知り合った陛下のお人柄に魅了され、結局は日本に根を下ろすことになりました。人の世の中、そういうものなのでしょう。