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新刊情報です。

陛下、今日は何を話しましょう

2019年5月12日 アンドルー・B.アークリー著 すばる舎 定価1,500円+税

プレスリリースより

本書は、5月1日に迎えた新天皇陛下の即位に際して、陛下の学習院高等科時代のご学友で、当時オーストラリアからの外国人留学生であり、のちに英語のお相手を務めたアンドルー・B・アークリー氏が、天皇陛下や皇室の方々との交流を回想しながら、「素顔の新天皇陛下」を伝える一冊です。
著者は、1975年、交換留学生として学習院高等科に留学、天皇陛下とご学友になりました。いったん帰国後、東京外語大学に留学し、のちに日本に移住。以来20年以上にわたり交流を続けてきました。本書では、天皇陛下、上皇陛下、美智子様をはじめとした皇室の方々との知られざるエピソード、そして世の中には出ていない秘蔵写真を多数収録しております。
著者は陛下との交流を通じ「日本を心から愛するようになった」と述べています。著者に見せた友人としての「陛下の素顔」は、まさに日本の心そのものだったそうです。


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【著者プロフィール】アンドルー・B・アークリー(アンドルー・ビー・アークリー)
オーストラリアのメルボルン生まれ。中学生時代、父の国連勤務のため、1971年にスリランカ、1973年にジャマイカに、それぞれ一年間滞在。1975年、国際ロータリークラブの交換留学生として学習院高等科に留学(学習院高等科が受け入れた初めての外国人留学生である)。当時の日本国文部省の学部国費留学生として国立東京外国語大学に入学し、1982年に日本事情の専攻で卒業し、オーストラリアに帰る。その後オーストラリアの鉱山会社・リオティントに就職し、東京丸の内にある子会社に転勤のため、再び来日。途中からオーストラリア外務省に出向のため、帰国。1986年に再来日する。元日豪音楽交流協会会長、元オーストラリアビジネス協会副会長。1993年、皇太子殿下と雅子妃のご婚約にあたり、海越社より『ぼくの見た皇太子殿下』を出版。

【本書に記載されている著者が陛下にまつわる秘蔵エピソード(一部抜粋)】

*陛下の高校時代のニックネームは「じぃ」 著者が最後まで呼べずに後悔の意味
学習院高等科時代、陛下の秘密のあだ名は「じぃ」。陛下自身も気に入っていらっしゃったようですが、著者は恐れ多く最後まで呼ぶことができなかったそう。今それを後悔しています。その深い理由とは?

*「僕とお友達になっていただけますか?」から始まった!地理研で深めた陛下との友情物語
陛下と著者はクラブ活動で「地理研究会」に所属していました。著者は勇気を出して日本語で「僕と友達になっていただけますか?」と話しかけ、友情物語が始まりました。能登旅行や信州旅行などのエピソードも。

*お招きいただいた東宮御所で垣間見た一家の素顔
陛下と仲良くなるにつれ、東宮御所に招かれるようになりました。御所では上皇
陛下、美智子様、秋篠宮様、清子様ともお近づきになり…著者はそこで数々の感動エピソードに遭遇することになります。

*上皇陛下、美智子様、陛下、皇室の方々から頂いた「感動の寄せ書き」
著者が高校の留学を終え、帰国する際にも信じられないサプライズがありました。友人たちからの寄せ書きの中に、陛下、上皇陛下、そして美智子様からもお言葉が記されていたのです。その知られざる内容とは?

*『智恵子抄』高村光太郎の詩のお気に入りの一編から感じる雅子様への深い愛と思いやり
「この本で日本の心を学んでください」学習院高等科の留学を終え、帰国する際に陛下から手渡されたのは詩集。その中で陛下お気に入りの一節は、『智恵子抄』で知られる高村光太郎が智恵子への愛情と思いやりを綴ったものでした。後年、著者は陛下と雅子様のご婚約の会見を観ながら、その中身を思い出すのでした。

*庶民感覚を知る新時代の天皇 トンカツにカレーライス、中華料理がお好き。
著者が一番驚いたのは、陛下は特別な立場にありながらとても気さくで親しみやすいお方で、普通の方の生活感覚をご存知でいらっしゃったこと。トンカツにカレーライスといった庶民的なメニューも好まれました。


オーストラリア人の著者・アークリー氏は、昭和50年(1975)から学習院高等科に留学、一学年下の今上陛下と共に地理研究会に所属。それが交流の始まりでした。いったん帰国するも、東京外語大に入学するため再来日、その間に家庭教師……とまではいかないものの、オックスフォード留学を控えていた陛下の英会話の練習相手的な任につかれ、足繁く御所に通われたそうです。そこでタイトルの『陛下、今日は何を話しましょう』につながるわけです。

プライベートな友人の立場から見た、大変真面目でありながら、茶目っ気があったり大胆だったり意外に庶民的だったり、何より気さくでこまやかな気遣いをされたりする、少年期から青年期にかけての陛下の姿が描かれています。

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そうした中で、「智恵子抄」収録の「樹下の二人」(大正12年=1923)に関わるエピソードが紹介されています。ちなみに本書カバーの見返しには、この部分の一節が。

 雅子さまはご婚約内定時の記者会見で、陛下の魅力を問われて、
「たいへん、忍耐強くて根気強くていらっしゃること。勇気がおありになること、そしてすごく思いやりのある方でいらっしゃること」
 と答えています。
 私は、雅子さまのお言葉を聞いたとき、学習院高等科での交換留学を終え、帰国する直前に陛下から手渡された、詩集『Japanese Songs of Innocence and Experience』のことがすぐに思い浮かびました。
「アンドルー君、日本では和歌や俳句ばかりでなく、詩にもすばらしいものがあります。この本で日本の心を学んでください」
 というコメント付きで、プレゼントして下さった本です。
 後で開いてみると、その本の46ページにだけ、ほかの本から抜粋した日本語訳が付けられていました。『智恵子抄』で知られる詩人・高村光太郎の『You and I Under a Tree(樹下の二人)』でした。
 (略)
 「樹下の二人」は、光太郎の妻・智恵子が二本松の実家に帰っていた時期に作られたそうです。追いかけてきた光太郎と智恵子が、ふたりで松林の崖に腰をおろしてパノラマのような景色をながめたときの、楽しい思い出が綴られています。
 智恵子への愛情と思いやりがあふれる光太郎の詩を思い返し、陛下は雅子さまをどこまでも守っていかれるのだなと、と感じました。

上記(略)の部分では、「樹下の二人」全文が引用されていますが、割愛します。

今上陛下、学習院初等科のみぎりの作文でも「樹下の二人」に触れて下さっていましたし、これを期に、「智恵子抄」など光太郎作品がまた見直されるといいなと思っております。

ちなみに贈られたという『Japanese Songs of Innocence and Experience』。北星堂さんから昭和50年(1975)に刊行されたもので、Marie Philomene(マリー・フィロメーヌ)編、今も古書市場で時折見かけます。

さて、『陛下、今日は何を話しましょう』ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

結局人はその望む方向へ無意識のうちににも歩いてゐるものだと考へざるを得ない。実に緩慢な歩みのやうだが結果から見ると存外早い。

散文「十二月十五日」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

戦後の花巻郊外旧太田村での隠遁生活に関し、青年期から抱いていた北の大地での自然に囲まれた生活への夢を実現する意味合いもあったのだろう、と感懐しています。

『陛下、今日は何を話しましょう』著者のアークリー氏も、当初は単なる交換留学での来日でしたが、そこで知り合った陛下のお人柄に魅了され、結局は日本に根を下ろすことになりました。人の世の中、そういうものなのでしょう。

光太郎、それから光太郎の父・光雲の作品が載ったアンソロジー的な書籍を2冊、ご紹介します。

猫の文学館Ⅰ 世界は今、猫のものになる

2017年6月10日 筑摩書房(ちくま文庫) 和田博文編 定価840円+税

猫たちがいきいきと描かれている短編やエッセイを一冊に。内田百閒(けん)が、幸田文が、大佛次郎が、川端康成が、向田邦子が魅せられた猫大集合!

大佛次郎、寺田寅彦、太宰治、鴨居羊子、向田邦子、村上春樹…いつの時代も、日本の作家たちはみんな猫が大好きだった。そして、猫から大いにインスピレーションを得ていた。歌舞伎座に住みついた猫、風呂敷に包まれて川に流される猫、陽だまりの中で背中を丸めて眠りこんでいる猫、飼い主の足もとに顔をすりつける猫、昨日も今日もノラちゃんとデートに余念のない猫などなど、ページを開くとそこはさまざまな猫たちの大行進。猫のきまぐれにいつも振り回されている、猫好きにささげる47編!!

1 のら猫・外猫・飼い猫005
2 仔猫がふえる!
3 猫も夢を見る
4 猫には何軒の家がある?
5 そんなにねずみが食べたいか
6 パリの猫、アテネの猫
編者エッセイ 猫が宿る日本語


世の中、猫ブームだそうで、それに乗った企画のようです。日本近現代の猫に関するエッセイ、短編小説、童話、詩などが集められています。

第5章が「そんなにねずみが食べたいか」という題になっていますが、これは、この章に収められた光太郎詩「猫」(大正5年=1916)の冒頭の行「そんなに鼠が喰べたいか」から採っています。

その他、光太郎と関わりの深かった人々――与謝野晶子、佐藤春夫、室生犀星、三好達治、岡本一平、尾形亀之助ら――の作品も載っています。

しかし、時代が違うと言えばそれまでですが、昔の猫は平気で捨てられたり、避妊手術を受けられなかったり、餌は自分で調達しなければならなかったりと、いろいろ大変だったようです。

ちなみにわが家の猫、娘が拾ってきて1年半近くになりますが、お姫様のように過ごしております(笑)。

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もう1冊。 

コーヒーと随筆

2017年10月1日 mille books 庄野雄治006
 定価1,300
円+税

近代文学に造詣の深い、『コーヒーの絵本』の著者で徳島の人気焙煎所アアルトコーヒー庄野雄治が、コーヒーを飲みながら読んで欲しい随筆を厳選しました。大好評を博した『コーヒーと小説』の姉妹書、2冊続けて読むと何倍も楽しめる内容です。前作に続きカバー写真には、作品に登場する魅力的な女性の象徴として人気シンガーソングライター・安藤裕子さんを起用! 現代に生きる私たちにこそ響く、至極面白く読みやすい随筆20編です。コーヒーを飲みながらお楽しみください。
 
「新しいものは古くなるが、いいものは古くならない。それを証明する随筆集」
人はずっと変わっていない。百年前の人が読んでも、百年後の人が読んでも、同じところで笑って、同じところで泣くんじゃないのかな。コーヒーと一緒に、偉大な先達たちの真摯な言葉を楽しんでいただけると、望外の喜びだ。

掲載作品(掲載順)
「畜犬談」太宰治、「巴里のむす子へ」岡本かの子、「家庭料理の話」北大路魯山人、「立春の卵」中谷宇吉郎、「大阪の可能性」織田作之助、「陰翳礼讃」谷崎潤一郎、「変な音」夏目漱石、「恋と神様」江戸川乱歩、「余が言文一致の由来」二葉亭四迷、「日本の小僧」三遊亭円朝、「柿の実」林芙美子、「亡弟」中原中也、 「佐竹の原へ大仏を拵えたはなし」高村光雲、「大仏の末路のあわれなはなし」高村光雲、「ピアノ」芥川龍之介、「人の首」高村光太郎、「好き友」佐藤春夫、「子猫」寺田寅彦、「太陽の言葉」島崎藤村、「不良少年とキリスト」坂口安吾


光雲の2篇は、ともに昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に載ったもの。田村松魚による談話筆記です。内容的には、若き日の光雲が、悪友や実兄達と、明治22年(1889)、「佐竹っ原」と呼ばれていた現在の新御徒町あたりに、見せ物小屋を兼ねた張りぼての大仏を作った話。くわしくはこちら

光太郎の「人の首」は、昭和2年(1927)の雑誌『不同調』に掲載されたエッセイで、肖像彫刻をいろいろ手がけた経験から、人の首の魅力を語ったものです。


光太郎、光雲の作品、こういったアンソロジーに採録していただき、ありがたく存じます。それだけの魅力があると評価していただいているということでしょうが、まさしくその通りです。

光雲の談話筆記は、『光雲懐古談』以外にも、光雲存命中のいろいろな書籍等に断片的に収録されていますが、軽妙な語り口と、舌を巻くような確かな記憶力、豊富な話題で、面白いものばかりです。時代作家の子母澤寛は、新聞記者時代に光雲の談話筆記を採って『東京日日新聞』に載せ、絶賛しました。代表作『父子鷹』あたりには、光雲の語った江戸時代の様子が反映されているそうです。宴席では、その話芸の面白さから、芸妓衆が光雲のそばにばかり寄っていき、美術学校の同僚連は、「光雲先生とは呑みたくない」と言ったとか言わないとか(笑)。

光太郎のエッセイは、文体やら話の運び方やら、エッセイのお手本といえるようなものです。どうも、話芸に通じていた光雲の影響も無視できないような気がします。

今後とも、こういったアンソロジーへの採録が続くことを希望します。


【折々のことば・光太郎】

開拓の精神を失ふ時、 人類は腐り、 開拓の精神を持つ時、 人類は生きる。 精神の熟土に活を与へるもの、 開拓の外にない。

詩「開拓に寄す」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

盛岡市で行われた岩手県開拓五周年記念開拓祭に寄せた詩の一節です。

昭和51年(1976)には、花巻市太田の旧山口小学校向かいに、この一節を刻んだ「太田開拓三十周年記念」碑が除幕されました。

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先週、岩手盛岡に2泊3日で行っておりましたが、その間に当ブログの閲覧数がまた跳ね上がりました。帰ってきてからアクセス状況の解析ページを調べてみると、『「私」を受け容れて生きる 父と母の娘』を刊行された末盛千枝子さん関連で、当ブログにたどり着かれた方がたくさんいらっしゃいました。

5月にも同じことがあり、その際には『日本経済新聞』さんと『朝日新聞』さんに書評が載った直後でした。そこで、また何かのメディアで取り上げられたのだろうと思い、そちらも調べてみました。

すると、まず7/12(13日未明)、NHKさんの「ラジオ深夜便」に末盛さんがご出演、「困難が私を導く」と題されてお話をされていました。

末盛千枝子さん「困難が私を導く」<7月12日(火)深夜放送>

末盛千枝子さんは、1986年に国際的な児童図書の展示会「ボローニャ国際児童図書展」でグランプリを受賞、その後、皇后・美智子さまの講演録やターシャ・テューダーの絵本を手がけるなど編集者として活躍してきました。しかしその陰では、夫の急死や経営していた出版社の閉鎖、移住した岩手で起きた東日本大震災など、さまざまな困難を乗り越えてきました。この「困難」こそ、自分の人生を導いてきた原動力だという末盛さんに、2回にわたってお話を伺いました。その1回目です。

こちらは2回に分けてのオンエアだそうで、2回目も近々放送されるでしょう。番組情報に気をつけていたいと思います。


それから、『週刊文春』さんでも取り上げられていました。

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文春さんというと、スキャンダルというイメージになりつつありますが、もちろんそういうわけではなく「新 家の履歴書」という連載で4ページにわたって末盛さんの紹介でした。

『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』についても触れられており、さらにその中で語られている光太郎との縁についても記述がありました。

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さかのぼって、7/10には、『産経新聞』さんにも書評が出ています 

【聞きたい。】末盛千枝子さん『「私」を受け容れて生きる-父と母の娘-』 世の中の良い所を見続ける

005「私にとってはそんなに大変なことではなかった。読んだ方の反応に、逆にびっくりしています」と末盛千枝子さん。皇后さまの講演録『橋をかける』や、皇后さまが英訳されたまど・みちおさんの詩集『どうぶつたち』などを手掛けた絵本出版社「すえもりブックス」の元代表だ。自伝的エッセーである本書では『橋をかける』にまつわるエピソードや、詩人の高村光太郎との交流、家族の思い出が語られる。
 大学卒業後、絵本出版社に勤めたがキャリア志向はなく結婚退社。しかし、夫は8歳と6歳の息子を残して急死。生来の難病を抱える長男はスポーツでのケガで下半身不随に。脳出血で倒れた再婚相手の看護、出版社の経営難など、“激動と波乱の人生”だが、語り口は非常に静かだ。表題にある「受け容(い)れて」生きることの尊さが胸にしみる。
 「自分の大変さではなく、世の中の良い所を見続けることがとても大事」と話す。例えば、天気の良い秋の日、長男がいるリハビリ専門病院では、生涯忘れられない風景を見たという。「息子の入院仲間で金色の髪をしたお兄さんがね、光り輝くようなイチョウの木の下で、2、3歳の子供と奥さんと一緒にお弁当を広げていた。病院でのピクニックは、本当に美しくまるで聖家族のよう。大変な最中でも、こういうことに出合う幸せがある」
 会社をたたみ平成22年、長男らとともに父の故郷の岩手県に居を移した。翌年の東日本大震災後、被災した子供たちに絵を届ける活動を開始。懸命に本を求める保育園児の姿に感動した。「ある子は、流されてしまった自分の大好きな絵本を見つけ『あった!』と、その本を抱きしめた。本好きの仲間と出会うのが何よりうれしい」。そしてこう言葉を接いだ。「困難があったからこそ今がある。いろんなことをこれで良かったと思える」。ほほ笑む末盛さんがとてもまぶしかった。(新潮社・1600円+税) 村島有紀

【プロフィル】末盛千枝子
 すえもり・ちえこ 昭和16年、東京生まれ。父は彫刻家の舟越保武。慶応大卒。63年「すえもりブックス」を設立。「3・11絵本プロジェクトいわて」代表。


『毎日新聞』さんと『読売新聞』さんでも取り上げて下さいましたし、NHKさんの、中江有里のブックレビュー・6月の3冊」でも紹介されています。

まだ読まれていない方、ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

いさましき夏の遠海(とほうみ)雲きれぬををしく晴れよ今は汝(な)が世ぞ
明治34年(1901) 光太郎19歳

今日は「海の日」だそうで。しかし関東はまだ梅雨明けせず、今一つ青い空、もくもく白くわきあがる入道雲、という感覚になりませんね……。

光太郎を敬愛していた彫刻家の故・舟越保武氏の長女にして、絵本作家・編集者の末盛千枝子さんによる自伝的エッセイ『「私」を受け容れて生きる 父と母の娘』。「千枝子」と言う名を光太郎に付けて貰った経緯や、それがその後の人生に及ぼした影響などにも触れられています。

だいぶ好評のようで、もともと連載されていた新潮社さんのPR誌『波』に載った中江有里さんによるそれを皮切りに、あちこちに書評が出ています。『日本経済新聞』さんと、『朝日新聞』さんに載ったものがこちら。『福島民報』さん他の地方紙に載った評はこちら

約一週間前に、『毎日新聞』さんにも載りました。 

『「私」を受け容(い)れて生きる 父と母の娘』 神様に「逃げなかった」と言いたい 末盛千枝子(すえもり・ちえこ)さん

 ターシャ・チューダーやM・B・ゴフスタインなどの000名作絵本の数々を世に送り出してきた編集者が自らの人生を振り返った。「ああいうことも、こういうこともあったなあ、と思い出しながら書くのは楽しい作業でした」と感慨深げに語る。
 1941年、彫刻家・舟越保武の長女として生まれた。「千枝子」という名は、父が面識のなかった高村光太郎を突然訪ね、つけてもらったという。後に、深いカトリック信仰に根ざした崇高な作品を残した父は、だじゃれや落語を愛する意外な一面も持っていた。「志ん生はテープで繰り返し聴いていました」
 家族の笑い声が聞こえてきそうな幼少時代だが、長女として我慢することもあったらしい。そんな時、絵本が近くにあった。
 「私にとって絵本は、希望を語るものであり、悲しむ子どものそばに寄り添ってくれるものだった」と記す。「自分がこれと思う本を一生の間に一冊でも」。大学を卒業すると、絵本の出版社「至光社」で働いた。
 主に海外版の編集に携わった後、NHKの音楽番組のディレクター、末盛憲彦と結婚。2人の息子を授かる。だが結婚から11年、夫が急死する。
 「たいまつを引き継ぎたい」。人々の心に光をともすのは音楽も絵本も同じ。「G・C・PRESS」で再び絵本の仕事をはじめ、『あさ One morning』で国際賞を受賞、やがて自ら「すえもりブックス」を創設する。皇后さまの『橋をかける 子供時代の読書の思い出』を出版し話題になった。
 青春時代に親しかった哲学者の古田暁(ぎょう)と再会、95年に2度目の結婚をする。このくだりは「書きにくかった」とはにかむ。2013年の古田の死去後、半世紀ほど前にバチカンで、若い2人がローマ法王に謁見している写真が見つかった。「知り合いの修道院の院長から『ジグソーパズルの最後のピースが出てきたのですよ』と言われ、気持ちが助かりました」
 顧みれば、波瀾(はらん)万丈な人生ではなかったか。「それは特にありません」と首を振り、「大変だと思ったことも、乗り越えた時の喜びがあると考えれば、それはそれで良いかな」と続ける。「たぶん、私は死ぬ時に言うと思います。『逃げませんでしたよ。これでいいですね、神様』と」<広瀬登>


それから『読売新聞』さん。ただし、こちらでは光太郎について触れられていません。 

『「私」を受け容れて生きる』 末盛千枝子さん

 写真撮影のため本にちなむものを頼むと、父が作001ったブロンズのレリーフを持ってきてくれた。自分の結婚式の引き出物だという。
 彫刻家、舟越保武さんの長女として生まれ、結婚や出産を挟んでタシャ・チューダーをはじめ絵本の出版を手掛け、「すえもりブックス」を設立。皇后さまの講演をまとめた本などを出版した。その著者が、人生を振り返った。
 「人生は、自分が思うようにはなりません。成るようになるものですね」。撮影の間、穏やかにほほ笑んだ。
 疎開先の自然豊かな岩手で育った少女時代。苦労する両親を見て芸術家だけとは結婚しないと思い、人生に臆病だった若い頃。30歳のとき出会い、仕事から帰ると子供のオムツにアイロンをかけるほど優しかった最初の夫は、自宅で突然に倒れて亡くなった。
 <パパは あをい そらの てんごくにいるのです(略)だから かそうばで やくのは ぬけがらだけです>
 幼い孫に、保武さんはこんな手紙を書いたという。
 「つらい出来事が起きた直後には、希望なんて見えません。でも、逃げずにいれば、それらと一緒に生きていけるように感じる。悲しみや苦しみに意味があると思えるようになる。悩むからこそ、人は色々なことを考え、深まってゆくのではないでしょうか」
 障害を抱えた長男、再婚した夫とともに、東京から岩手県八幡平市に引っ越し、東日本大震災を経験した。その後、2度目の夫も亡くしている。現在は被災地の子どもに絵本を届ける「3・11 絵本プロジェクトいわて」を発足させ、代表を務める。
 「津波で本を流された子どもが保育園に置いた段ボールの中から同じ本を見つけ、抱きしめた時の顔。本好きの同志として、忘れられませんでした」(新潮社、1600円)


先週水曜日には、NHKさんで午前中に放映されている「ひるまえほっと」という情報番組に、やはり中江有里さんがご出演、「中江有里のブックレビュー・6月の3冊」というコーナーで、この書籍を取り上げて下さいました。

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当方、たまたま運転中で、カーナビにはNHKさんが流れており、突然この書籍の紹介が始まったので驚きました。そういうわけで録画できなかったのが残念です。


さて、『「私」を受け容れて生きる 父と母の娘』。新潮社さんから好評発売中。ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

かたつむり早く角出せと思へどもじつと静まり蘭の根にねむる
大正13年(1924) 光太郎42歳

梅雨時というと、カタツムリですね。

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似たようなナメクジは許せませんが、なぜかカタツムリは愛らしいイメージがあるというのが不思議なところです。

光太郎、カタツムリを木彫で作っています。ただし、それがメインではなく、蓮根に添えてアクセントにしたものです。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

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このブログも5年目に入りまして、閲覧数が10万件突破しています。ありがとうございます。割り算をすると、一日平均70件弱の閲覧を頂いています。

が、時折、閲覧数が跳ね上がります。イベントのレポートなどを載せた際に、そのイベントの関係者の方などがよくご覧下さるようです。

岩手花巻に滞在中だった先日の日曜日も急に多数のご訪問。その時はなぜ?という感じでした。前日には花巻のレポートを載せていましたが、携帯からの短い投稿でしたので、閲覧数の跳ね上がるような内容ではありませんでした。

携帯からではどの記事にアクセスがあったのかなどの解析が出来ません(そろそろタブレットを買え、ということでしょうか)。帰って参りまして、解析のページを見ると、末盛千枝子さんに関わる記事に多数のアクセスがあることがわかりました。

そこで思い当たったのが、新聞の書評欄。各紙おおむね日曜日に掲載されますが、末盛さんの新刊『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』の書評が、どこかの新聞に載ったので(近々書評が出るだろうと思っていました)、さらに同書についてネットでサーチされた方が当方ブログにたどりつかれたのだろう、というわけです。

果たして、ありました。

まず『日本経済新聞』さん。光太郎智恵子の名も出して下さいました。 

あとがきのあと 「私」を受け容れて生きる 末盛千枝子氏 困難を克服しつつ歩む人生

 彫刻家、舟越保武の長女。やはり彫刻家となった舟越桂の姉にあたり、家族の死や事故、震災、皇后美智子さまとの交流など起伏に富んだ人生を歩んできた。絵本作りに尽力し、国際児童図書評議会(IBBY)の理事も務めた。そんな半生を本書で振り返った。
 幼いころは裕福とはいえず、我慢の多い生活で心の支えになったのが絵本。やがてこれを仕事とし、美智子皇后さまにIBBYの退会でビデオで講演していただく機会を得た。「皇后さまはとても優しく気品があり、りんとした方。長男が入院したとき、すぐにお見舞いの電話を下さったことは忘れられない」と話す。
 皇后さまの気遣いは、スポーツの事故で体が不自由になった長男のこと。その父である最初の夫も54歳で突然死した。「こうした出来事がなければ今の人生はなかった。それで幸せかといわれれば分からない。でも、私に与えられた運命を受け入れて生きてきた」
 本書には実際、悲しみよりも感謝や慈しみの言葉が多くつづられる。それは、幼い弟の死をきっかけとした「信仰」ゆえだという。カトリックの指導者だった再婚相手から「神様はあなたをひいきしている」と言われたことが忘れられない。「困難を、神様からの宿題として受け止めて一つ一つ克服する私を見て、ある種のうらやましさを感じたのだろうと思う」とほほえむ。
 名付け親は父が尊敬した高村光太郎。「智恵子抄」で知られる高村の妻の名の漢字を替えて「千枝子」だ。
 2010年には岩手県八幡平市に引っ越し、東日本大震災を経験。被災地に絵本を届ける事業に奔走し、13年に再婚相手を看取ったことを機に、心の整理の一環として本書を書きとめた。「つらいことはたくさんあったけれど、決して不幸ではなかった。人生は生きるに値すると伝えたい」

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同日、『朝日新聞』さんにも書評が載りました。ただし、こちらには光太郎智恵子の名はありません。 

(著者に会いたい) 「私」を受け容れて生きる 父と母の娘 末盛千枝子さん(75)苦しかったことも自分の一部

 40年近く絵本の編集に携わってきた。「心を打つ絵本には、どこかに悲しみのひとはけが塗られている。そして、きちんと希望がある」と言う。平坦(へいたん)ではない自身の道程を著した本書を読むと、人生にも重なる言葉に思えてくる。
 父は彫刻家の舟越保武氏。7人きょうだいの長女で、大学卒業後、出版社で働いた。独立後、皇后美智子さまの講演録や英訳詩集を手がけ、親交を深めてきた。「『でんでん虫のかなしみ』というお話があってね、と最初に伺った時はびっくりして」。だれもが悲しみを背負っていることを伝える新美南吉の物語で、子どもの頃に出会った本が、のちの美智子さまを支えてきたのだと心に染みた。
 自身も困難に直面してきた。42歳の時、8歳と6歳の息子を残して夫が急死した。15年前には長男が事故で脊髄(せきずい)を損傷し、胸から下が動かなくなった。経営難に陥った出版社をたたみ、東京から父の故郷・岩手に移り住んでまもなく東日本大震災に遭う。
 「幸せとは、自分の運命を受け容(い)れることから始まる」との思いが書名の由来。だが「そう思えない時もあったのでは?」と尋ねると、「時間はかかるけれど、あきらめずにいれば、いつしか困難を乗り越え、強くなっていることに気づく。苦しかったことも、今の自分の一部なんですよね」としみじみと語った。
 病院からの帰り道、盛岡で車いすの長男と映画や展覧会を楽しむ。「東京では出来なかったこと。何が幸いするかわからない。ここでたくさん友だちを得たことも不思議なご褒美」とほほ笑んだ。被災した子どもたちに絵本を届ける活動を、今も仲間と続けている。

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当方、末盛さんとは2回お目にかかりました。最初は代官山で開催されたクラブヒルサイドさん主催の読書会「少女は本を読んで大人になる」(この記録集『少女は本を読んで大人になる』も好評発売中です)、二度目は一昨年の花巻高村祭。こういうと失礼ですが、本当に素敵なお年の召し方をされている方です。当方も、それから作家の中江有理さんも、「朝ドラのヒロインのよう」と感じています。ぜひお読み下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ
大正12年(1923) 光太郎41歳

今日、平成28年(2016)5月20日は、明治19年(1886)、福島県安達郡油井村(現・二本松市油井)に生まれた智恵子の130回目の誕生日です。

この短歌は、「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な詩「樹下の二人」に添えられたものです。

光太郎最晩年、昭和30年(1955)に、当会顧問の北川太一先生が採った聞き書きには、以下の一節があります。

「樹下の二人」の前にある歌は安達原公園で作ったんです。僕が遠くに居て智恵子が木の下に居た。人というのは万葉でも特別の人を指すんです。
 詩の方はお寺に行く道の山の上に見晴らしの良いところがあってね、その土堤の上に坐って二人で話した。もう明日僕が東京に帰るという時でね。それをあとから作ったんです。詩と歌は別々に出来てそれをあとで一緒にしたわけだ。

二本松では今日から高村智恵子生誕130年記念事業「智恵子生誕祭」が行われます。明日、ぶらりと行ってみようと思っています。

過日のこのブログでご紹介した、末盛千枝子000さん著『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』が一冊、版元の新潮社さんから送られてきました。

おそらく第60回連翹忌関連の資料を末盛さんにお送りしたので、そのご返礼として、末盛さんのご指示だろうと解釈、ありがたく頂戴いたしました。ただ、自分でも一冊購入していますので、いずれどなたかに差し上げようと思っています。

新潮社さんで作られた同書のチラシ、さらに同社のPR誌『波』(元々、『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』は同誌の連載でした)の今月号に載った、中江有里さんによる書評のコピーが同封されていました。

チラシの方は、書籍のチラシというのはこういう風に作ればいいのだな、と、参考になります。


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中江さんの書評は、以下の通り。

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朝ドラのヒロインのような人生 ――『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』  中江有里

 以前テレビの取材で、末盛さんの弟さんで彫刻家の舟越桂さんにお会いしたことがあります。世田谷のアトリエにお邪魔してインタビューさせて頂いたのですが、その時はご家族のお話は伺わなかったので、皇后様のご講演録『橋をかける』を手がけられた名編集者である末盛さんが、このように波乱に満ちた人生を送られているとは、全く知りませんでした。四十二歳のとき最初の旦那さんを突然亡くされたこと、ご長男の難病と障害、再婚相手の方の介護と看取り、経営していた出版社「すえもりブックス」の閉鎖、そして岩手に移住した直後の東日本大震災……。お写真を拝見すると、とても品がありお優しそうでいらっしゃって、苦労や不幸をまったく感じさせない佇まいに驚くのですが、自伝的エッセイである本書を読み、その理由が分かったような気がします。
  末盛さんは、一九四一年に彫刻家・舟越保武さんの長女として生まれ、高村光太郎によって「千枝子」と名付けられました。「女の名前は智恵子しか思い浮かばないけれど、智恵子のような悲しい人生になってはいけないので字だけは変えましょうね」と高村さんは言われたそうです。その時点でもう、ある種の「運命」を感じてしまうのですが、彫刻だけで家族八人が食べていくことには、大変な困難が伴いました。そんな貧しさのなか、ひたむきに芸術と向き合うお父様と、お父様のことを尊敬し支え続けたお母様の生き様は、「本当に美しいものは何か」といったことや、生きる上での「覚悟」を末盛さんに教えたのだと思います。お金はなかったかもしれませんが、六人の子供たちはとても自由にそれぞれの生き方を選び取っていて――桂さんが苦労を承知の上で、お父様と同じ彫刻家という職業を選んでいるくらいですから。
  また、「信仰」も末盛さんの人生を語る上で欠かせないものです。末盛さんが小学校四年生のとき、八カ月で亡くなった弟さんの死をきっかけに、ご家族全員でカトリックの洗礼を受けました。外国人神父さまとの交流など、日本に暮らしながら「日本的でないもの」に幼い頃から触れてきたことで、この世界には様々な価値観が存在することを、自然と教えられたのでしょう。その中でも、大学時代にある神父さまから、「愛はすすめではなく、掟です」と言われたというエピソードは、その後の末盛さんの人生を示唆するようでもあり、かなり印象的でした。つまりは、最初の旦那さんの突然死といった、愛するがゆえに苦しみが与えられてしまう出来事があったとしても、愛を憎むことなく受け容れるのだということで、厳しい教えでありながら、「私にとってすべての始まりだった」と末盛さんは書かれています。
  空腹だからご飯が美味しく食べられるのと同じで、困難があるからこそ、幸せを感じることができる――末盛さんの人生を拝読して、何より強く感じたことです。そんな末盛さんを支えたものの一つに、忘れられない「ある光景」があったということに、私は非常に共感を覚えました。二十代半ば頃、末盛さんが初めてヨーロッパを旅され、スイスのアルプスに登られたときのこと。五十ドルもする登山鉄道に意を決して乗り込んだものの、すぐに土砂降りになってしまった。しかし頂上に近づくにつれて辺りは明るくなり、光り輝くアルプスの峰々を眺めることができた……そんな「奇跡」のような出来事なのですが、私自身も、旅行や撮影で、思いがけない瞬間に思いがけないほど美しい景色に出会ったことがあるので、その時の、言葉にできないほどの感動――天候といった自分ではどうにもできないことだからこそ強く心を打たれるし、まるでご褒美をもらったかのような、何かに守られているような確信めいた気持ちになるということが、本当によく分かります。それに、自分自身の存在を肯定されているようにさえ思えるのです。「信じること、希望し続けることという意味で、この光景は、私の人生の北極星のようなものになった」とあり、末盛さんの生き方の神髄を感じました。
  他にも、皇后様との友情や絵本編集者としての仕事など、常に前を向き生きるその姿には、読んでいる人の心を揺さぶり、励ます力があります。まるでNHKの朝ドラの主人公のように、この世界を肯定し続ける女性の「物語」に、今の時代だからこそ、一人でも多くの人に出会ってもらいたいです。

 

驚いたのは、「朝ドラのヒロインのような人生」という題名。先月、このブログで同書をご紹介した際に、末盛さんの来し方を、当方も「NHKさんの朝ドラの主人公になってもおかしくないような感がしました」と書きました。同じことを考える人がいるんだと、苦笑しました。NHKさん、ぜひご検討下さい(笑)。

ブログをお読み下さった皆様、ぜひお買い求め下さい。

光太郎に関する部分も必読ですが、後半の、東日本大震災の被害(末盛さんは岩手県八幡平市ご在住)から立ち直るというくだりも感動的でした。ご自分も大変な思いをされているのに、被災した子供達を思いやり、「3.11絵本プロジェクトいわて」を立ち上げ、心のケアに奮闘されたお話など。

九州では大変なことになっています。九州の皆さんにも、落ちつかれたら是非お読みいただきたいと思います。生活再建のための一つの指針となるかと存じます。


【折々の歌と句・光太郎】

つま立つて乙女が行くや春の雨    明治42年(1909) 光太郎27歳

「つま立つて」、彫刻家ならではの観察眼のような気がします。

新刊情報です。 

「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―

2016年3月25日 末盛千枝子著 新潮社 定価1600円+税 

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幸せとは、自分の運命を受け容れること――。

彫刻家・舟越保武の長女に生まれ、本当に美しいものとは何かを教えられた幼少期。皇后様のご講演録『橋をかける』を出版した絵本編集者時代。戦争や貧しさ、息子の難病に夫の突然死、会社の倒産。そして、故郷岩手での東日本大震災……何があっても、「私」という人生から逃げずに前を向く著者の、波乱に満ちた自伝的エッセイ。

末盛千枝子スエモリ・チエコ
1941年東京生まれ。父は彫刻家の舟越保武で、高村光太郎によって「千枝子」と名付けられる。慶應義塾大学卒業後、絵本の出版社である至光社で働く。1986年には絵本『あさ One morning』(G.C.PRESS刊行)でボローニャ国際児童図書展グランプリを受賞、ニューヨーク・タイムズ年間最優秀絵本にも選ばれた。1988年に株式会社すえもりブックスを立ち上げ、独立。まど・みちおの詩を皇后様が選・英訳された『どうぶつたち THE ANIMALS』や、皇后様のご講演をまとめた『橋をかける 子供時代の読書の思い出』など、話題作を次々に出版。2010年から岩手県八幡平市に移住し、その地で東日本大震災に遭う。現在は、被災した子どもたちに絵本を届ける「3.11絵本プロジェクトいわて」の代表を務めている。


光太郎に私淑した彫刻家の故・舟越保武氏のご長女で、絵本作家・編集者としてご活躍なさっている末盛千枝子さんの新著です。一昨年から昨年にかけ、新潮社さんのPR誌『波』に連載されていたエッセイ「父と母の娘」に加筆、一冊にまとめたものです。

当方、末盛さんには2回、お目にかかりました。

最初は平成25年(2013)、東京代官山で行われたイベント「読書会 少女は本を読んで大人になる」。末盛さんが講師で、『智恵子抄』を取り上げて下さった時でした。こちらは竹下景子さんや阿川佐和子さんなどとのご共著で後に一冊の書籍にまとめられました。

その後、一昨年の5月15日、花巻高村祭でもご講演。それぞれで、名付け親である生前の光太郎との思い出を語られました。

今回の『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』にも、同様のお話。さらに昨年7月、盛岡少年刑務所さんでの「高村光太郎祭」――昭和25年(1950)に光太郎本人がこちらを訪れて講演をしたことにちなんで、続けられています――で講演をなさった時のことなども書かれていました。

手元には昨日届き、まだ拾い読み、斜め読みですが、熟読するのが楽しみです。しかし、拾い読み、斜め読みでも、末盛さんのある意味ドラマチックな生き方、そして何があっても「自分」を受け入れて生きるというスタンスがページからこぼれてきます。

話が飛躍しますが、NHKさんの朝ドラの主人公になってもおかしくないような感がしました。

ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

ながめては深き思ひに沈む身をはなちし野火はただもえて行く
明治34年(1901) 光太郎19歳

各地で野焼き、山焼きが行われています。いかにも春、ですね。

当会顧問・北川太一先生の新著が完成しました

いのちふしぎ ひと・ほん・ほか

2015/10/17 北川太一著 文治堂書店刊 定価1500円+税

光太郎への思慕と敬愛により知った伊藤信吉・草野心平。出版により知己を得た品川力・渡辺文治。仏教文化に志を共有した三宅太玄・加茂行昭。昭和十九年、出征前の師や学友への追悼文他、著者が選んだ五十編、初の随想集。


Ⅰ ひと000
 追悼 上州烈風の詩人 信吉さんのお手紙
 高村さんと草野さん
 光太郎と心平の往復書簡
 詩人の死 草野さんと秋山さん
 「注文の多い料理店」に寄せて
 『春と修羅』と『道程』に思う
 白秋と光太郎 その交遊の軌跡
 新井奥邃 未来を指針する世界性
 品川力さんのこと
 文治さんと清二さん
 『白雲』高橋一夫先生追悼
 覚え書 染谷誠一句集に寄せて
 照源寺の龍
 問疾 太玄和尚に寄せる
 三宅太玄老師に

Ⅱ ほん
 ウイリヤム・チンデル伝 伝記文学・私の一冊
 私の「ひろいよみ」
  ⑴ 世界図絵(J・A・コメニウス)
  ⑵ ラ・ロシュコー箴言集001
  ⑶ 運慶とバロックの巨匠たち(田中英道)
 ある本の歴史 ロダンから守衛へ
 おめでとう『彷書月刊』一〇〇号
 やさしい心 菅宮慶江『童心とともに』
 本の音 夜の露店の古本屋
 本のいのち
 さらば東京古書会館
 『古書通信』の六十年
 無知の罪を知った『展望』
 文学館に望むこと
 DVD版『美術新報』に驚く

Ⅲ ほか
 幻の書の風景
 高村光太郎の書
 旅へのおすすめ
 パリの連翹忌
 パリの十日間
 オペラ「源氏物語」によせて
 自戒として 高村さんのことば
 光太郎と山川丙三郎訳『神曲』
 うつくしきものみつ 加茂行昭さんに
 駿河町富士 わが風景と思い出
 回想の向丘高校
 長いバカンスが取れたら
 小川義夫『絆 きずな』跋
 勝畑耕一詩集『熱ある孤島』帯文
 喜びと願いと 女川・光太郎文学碑公園の完成に寄せて
 いのちを描く 長谷川建作品展にあたって
 智恵子の場合
 大空(そら)からの伝言(メッセージ) To memory of Noriko
 美はみつけた人のもの 北川太一さんからひとみちゃんへ

初出誌メモ
あとがき


B6版170ページの薄い小さなかわいらしい本ですが、その内容の濃いことといったらありません。当方、本文の校正をさせていただいたので、既に3回ほど読みましたが、思わず読みふけりながら赤ペンを握っていました。あとがき以外に書き下ろしのものはなく、大半は掲載誌に載ったものを既に読んでいたのですが、それでも読みふけってしまいました。

さて、昨日は東大正門前のフォーレスト本郷さんにて、北川先生のご結婚60周年のダイヤモンド婚及び本書の出版記念の祝賀会でした。

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企画なさったのは、北川先生が高校の教諭をなさっていた頃の教え子の皆さん。当方もお招きにあずかりました。

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宮城女川から、女川光太郎の会の佐々木英子さん、笠松弘二さんも駆け付けました。

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花束及び記念品の贈呈。

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当方、奥様のお隣に座らせていただき、60年前(昭和30年=1955)の思い出を伺いました。光太郎は最晩年で、光太郎の日記には、お二人が中野のアトリエへご結婚の報告にいらしたことも記されています。新婚旅行は二本松方面。かつて光太郎も泊まった穴原温泉などにも行かれたそうです。当時の新婚旅行といえば、箱根や熱海が一般的だったそうで、行く先々で「何でこんなところに?」と訊かれたそうです。

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こちらは智恵子の生家。北川夫妻と智恵子の恩師・服部マスの縁者の方。昭和30年代の智恵子生家の様子としても貴重な写真です。

いつまでも仲良くお元気でいらしていただきたいものです。

さて、『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』、版元の文治堂書店さんにご注文下さい。

TEL,FAX: 03-3399-6419 MAIL: bunchi@pop06.odn.ne.jp 〒167-0021 東京都杉並区井草2-24-15


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月18日

昭和27年(1952)の今日、星ヶ丘茶寮において、三好達治、草野心平との座談会を行いました。

この座談は12月の雑誌『新潮』に「詩の生命」の題で掲載されました。

このところ、新刊紹介ということで記事を書いています。一昨日は池川玲子『ヌードと愛国』(講談社現代新書)、昨日は清家雪子『月に吠えらんねえ(2)』(講談社アフタヌーンKC)と、講談社さんの書籍が続き、今日も講談社さんのものです。
 
別に当方、講談社さんには何の義理もありませんし(笑)、講談社さんも光太郎に何の義理もないのでしょう。たまたまなのだと思います。  
富岡幸一郎選 高村光太郎他著 2014/11/10 講談社(講談社文芸文庫) 定価1,400円+税
 
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版元サイトより
 
妻に先立たれた夫の日々は、悲しみの海だ。
男性作家の悲しみは、文学となり、その言葉は人生の一場面として心に深く沁み込んでいく。
例えば藤枝静男の「悲しいだけ」のように……。
高村光太郎・有島武郎・葉山嘉樹・横光利一・原民喜・清岡卓行・三浦哲郎・江藤淳など、静謐な文学の極致を九人の作家が描いた、妻への別れの言葉。
 
目次
 元素智恵子  高村光太郎
 裸形  高村光太郎
 智恵子の半生  高村光太郎

 小さき者へ  有島武郎
 出しようのない手紙  葉山嘉樹
 春は馬車に乗って  横光利一
 死のなかの風景  原民喜
 朝の悲しみ  清岡卓行
 にきび  三浦哲郎
 悲しいだけ  藤枝静男
 妻と私  江藤淳

 
というわけで、光太郎の詩が二篇、散文が一篇選ばれています。巻頭に挙げていただいているのがありがたいところです。
 
「元素智恵子」、「裸形」ともに、昭和24年(1949)に作られた六篇から成る連作詩「智恵子抄その後」の中の一篇です。「智恵子の半生」は昭和15年(1940)の雑誌『婦人公論』に「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」の題で発表され、翌年刊行された詩集『智恵子抄』に改題のうえ、収められたエッセイです。
 
したがって、目新しいものではないのですが、他の作家がどのように妻の死と向き合っているのか、合わせて読むことでまた違ったとらえ方が出来るのではないかと思います。
 
個人的には江藤淳「妻と私」に感動しました。実はそれ以外の作品は未読です(昔、読んだ作品はありますが)。なかなか重たいテーマの作品集なので、読むのが辛い部分がありまして……。
 
ともかくも、ご紹介しておきます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月19日
 
大正11年(1922)の今日、田村松魚とともに、光雲の懐古談を聞き始めました。
 
この談話は翌月まで続き、昭和4年(1929)、萬里閣書房から『光雲懐古談』が刊行され、その前半の「昔ばなし」としてまとめられました。筆録は田村です。光雲が語ったのは自己の半生、同時代の美術界の様相などです。
 
『光雲懐古談』に収められた田村の言。
 
此の「光雲翁昔ばなし」は大正十一年十一月十九日(日曜日)の夜から始め出し、爾来毎日曜の夜毎に続き、今日に及んでゐる。先生のお話を聴いてゐるものは高村光太郎氏と私との両人限りで静かな空気をこわすといけない故、絶対に他の人を立ち入らせなかつた。最初の第一回は光太郎氏宅他は今日まで先生のお宅でされつゝある。
 
ただ、以前にも書きましたが、昭和2年(1927)に春陽堂から刊行された『漫談明治初年』という書籍に収められている光雲談話と重なる部分があり、精査が必要です。
 
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新潮社さんで発行している『波』というPR誌があります。
 
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現在発売中の4月号から、絵本作家・編集者の末盛千枝子さんの連載「父と母の娘」がスタートしています。
 
以前にも書きましたが、末盛さんは光太郎と交流のあった彫刻家、故・舟越保武氏のご息女です。「千枝子」というお名前は、光太郎が名付け親とのこと。今年の花巻光太郎祭(5/15(木))では末盛さんを講師に招き、記念講演をしていただくそうです。
 
「父と母の娘」、第1回はその光太郎による命名、そして偉大な芸術家に名前を付けてもらってのプレッシャーなどについてのお話が書かれています。そうしたお話は、昨年の12月に代官山のクラブヒルサイドさんで開催された「読書会 少女は本を読んで大人になる」でお聴きしましたが、非常に興味深い内容です。
 
『波』、他にも津村節子さんの連載「時のなごり」等も載っています。今月号は「震災から三年」。夫の故・吉村昭さんともども三陸の田野畑村と縁の深い津村さんですが、近著『三陸の海』に関わる内容となっています。
 
ぜひお買い求めを。
 
ところで末盛さんのお父様、故・舟越保武氏関連の展覧会が、今週末から東京オペラシティーアートギャラリーで開催されます。
 
同館サイトから。

[特別展示]舟越保武:長崎26殉教者 未発表デッサン

舟越保武(1912-2002)は、清新な造形のなかに深い精神性をたたえた数々の作品によって、日本の近代彫刻史に大きな足跡を残しました。作風の重大な転機は戦後まもなく、長男の急死を契機にカトリックの洗礼を受けたことでした。その8年後の1958(昭和33)年《長崎26殉教者記念像》の制作に着手、完成までに4年半を費やし、後年「作家生命を賭けるつもり」だったと述べる この作品によって、第5回高村光太郎賞を受賞。以後、島原の乱の舞台・原城跡で着想を得た《原の城》やハンセン病患者の救済に命を捧げた《ダミアン神父》をはじめ、キリスト教信仰やキリシタンの受難をテーマにした数々の名作を制作します。
 
そうした観点から、《長崎26殉教者記念像》は舟越芸術の原点と呼べる重要な作品といえるでしょう。
 
《長崎26殉教者記念像》のためのデッサンは98点を数えます。粘土でつくった聖フランシスコ吉(きち)像の顔に舟越は敬虔なクリスチャンだった父の面影を見たそうですが、《長崎26殉教者記念像》は舟越の父への贖罪と再生の記念碑というべき作品に違いありません。
 
主催:公益財団法人 東京オペラシティ文化財団
協賛:日本生命保険相互会社
 
会場:ギャラリー3&4(東京オペラシティ アートギャラリー 4F)
期間:2014.4.19[土]─ 6.29[日]
開館時間:11:00 ─ 19:00(金・土は11:00 ─ 20:00/いずれも最終入場は閉館30分前まで)

休館日:月曜日(ただし、4月28日、5月5日は開館)
特別展示入場料:200円
 
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「長崎26殉教者」 高村光太郎賞記念作品集『天極をさす』より
 
こちらもぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月15日

明治44年(1911)の今日、神田淡路町に開いた画廊・琅玕洞(ろうかんどう)を、僅か1年で閉じました。
 
昨年の今日のブログでは、琅玕洞開店について書きました。日本初の画廊ともいわれ、光太郎も気合いを入れて開いたのですが、現実は厳しく、ちょうど1年で閉店です。
 
詳しくはこちら

新刊を紹介します。 

吉本隆明著 2012/10/15 大和書房(だいわ文庫) 定価600円+税
 
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今年亡くなった評論家・吉本隆明氏の著書。2004年に同社からハードカバーで刊行されたものの文庫化です。
 
「男女が共に自己実現しようとして女性の側が狂気に陥った光太郎・智恵子の結婚生活」という項があり、光太郎・智恵子にふれています。
 
他にも夏目漱石、森鷗外、島尾敏雄、中原中也、小林秀雄らに言及し、「恋愛論」が展開されます。
 
いつも思うのですが、氏の論は決して突飛な論旨ではなく、ごく当たり前といえば当たり前のことを述べています。しかし、誰しもがそういうことを感じていながらうまく言葉で言い表せないでいたことを明快に言ってのけるところに氏のすごみを感じます。
 
例えば、恋愛に関しても「恋愛というのは、男と女がある距離の中に入ったときに起きる、細胞同士が呼び合うような本来的な出来事」と定義しています。
 
そして一つ何かを論じると、その裏の裏まで掘り下げ、読む者を納得させずにおかないという特徴もあります。論とか文章といったもの、こうあるべきだといういいお手本になります。是非お買い求めを。

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