タグ:その他芸術

光太郎彫刻が、海を渡ります。企画は武蔵野美術大学美術館さん。 
 
 
本学美術館がヘンリー・ムーア・インスティテュートと展覧会を共同開催します。
 
ヘンリー・ムーア・インスティテュートと武蔵野美術大学 美術館・図書館が共同開催する展覧会「近代日本彫刻展(A Study of Modern Japanese Sculpture)」が、1月28日よりイギリスで開催されます。高村光太郎、佐藤朝山、橋本平八などによる日本の優れた近代彫刻を紹介します。なお、本学美術館での開催は、5月25日(月)からです。
 
ヘンリー・ムーアは20世紀を代表する具象彫刻家。イングランド北部の都市・リーズ芸術学校に学びました。そこで、リーズに「ヘンリー・ムーア・インスティテュート」が設立されています。そちらのサイトから。 

A Study of Modern Japanese Sculpture

28th January 2015 - 19th April 2015 (2015年1月28日~4月19日)
 
イメージ 1
 
イメージ 2
 
光太郎作品は、ブロンズの「手」、木彫の「白文鳥」が展示されるようです。他に、橋本平八、佐藤朝山、水谷鉄也、宮本理三郎といったラインナップになっています。
 
イギリスの皆さんが、光太郎をはじめとする日本彫刻をどう見るのか、興味深いところです。
 
 
「日本彫刻」「イギリス」といえば、昨夜のテレビ東京系「美の巨人たち」で、そういう話が出ました。
 
取り上げられたのは森田藻己(そうこ)。明治から昭和前期に活躍した根付師です。
 
イメージ 3
 
イメージ 5
 
この番組は、毎回、ミニドラマ的な部分が間に挿入される構成になっており、昨夜は根付に興味を抱いたイギリス人女性が京都を訪れるという話になっていました。実際、イギリスなどで日本の根付は高く評価されているようです。
 
イメージ 4

ところで、過日のこのブログで、この番組の紹介を書いた時、「森田藻己は光雲とも交流のあった根付師です。光雲がらみの話が出ればいいのですが……。」と書きましたが、ありがたいことに、そういう話になりました。
 
イメージ 6
 
イメージ 7
 
イメージ 8
 
光雲が森田の根付けを愛用し、絶賛していたとのこと。
 
衛星放送のBSジャパンで、2月18日(水)の23時00分~23時30分に再放送があります。地上波テレビ東京系が受信できない地域の方は、こちらをご覧下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月18日
 
昭和26年(1951)の今日、『朝日新聞』岩手版に、当時の岩手県知事・国分謙吉と光太郎との対談「新しき岩手の創造」が掲載されました。
 
国分は岩手初の民選知事です。光太郎詩「岩手の人」のモデルであるという説もあります。

愛媛松山からの情報です。  

現代作家人形展 ARTISTIC DOLLS EXHIBITION 2015

会 期 : 2015年1月8日(木)~1月18日(日) 水-定休
時 間 : 午前11:00~午後7:00
会 場 : ギャラリー リブ・アート 愛媛県松山市湊町4丁目12-9メゾンM2ビル3F
 
イメージ 1
 
 
2015年新春を寿ぐ恒例の<現代作家人形展>今年も好評開催中です。今回は、愛媛県内から5人、同じく県外から5人の作家さんをお迎えしいつもよりさらに賑やかでエネルギーあふれる展示になっています。みなさま、是非ともお見逃しなく。
 
 
人形作家・高橋満利子さんの作品で、「智恵子抄」が展示されているそうです。
 
イメージ 2
 
イメージ 3
 
イメージ 4
 
背景の「レモン哀歌」「千鳥と遊ぶ智恵子」のパネルは、御主人で書家の高橋正治さんによるものだそうです。
 
音楽、演劇、アート……いろいろな分野の方が、光太郎智恵子の世界からインスパイアされた作品を発表されています。ありがたいかぎりです。
 
拝見したいところですが、四国はやはり遠いので、残念ですが行けません。近隣の方はぜひどうぞ。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月14日000
 
昭和25年(1950)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、詩人の伊藤信吉に宛てて葉書を書きました。
 
一月四日付のおてがみ届きました。 丁度新潮社からもてがみが来ましたが、それには小生の通知への返事はなく、編集者に神保光太郎氏、尾崎喜八氏は如何ですかと問合せてきました。よつて、両氏はあまり近すぎてどうかと思ふといふ旨と、小生の前便通り、貴下にお願ひしては如何といふ事を申送りました。 今年は相当の寒さで〇下二十度位になります。雪がきれいです。
 
新潮社云々は、この年、秋に刊行された新潮文庫版『高村光太郎詩集』に関わります。65年経ちますが、まだ版を重ねています。絶版にはしないでほしいものです。
 
伊藤はこの後、昭和28年(1953)に、同じ新潮社の「世界名詩選集」の一冊、『高村光太郎詩集』の編集にもたずさわりました。

一昨日、東京本郷のフォーレスト本郷さんにて、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきましたが、少し早めに自宅兼事務所を出て、界隈を歩きました。
 
昨年からそうしていますが、この界隈には光太郎智恵子光雲の故地、ゆかりの人物に関する記念館等が多く、毎年のこの機会には、そうした場所を少しずつ見て歩こうと思っています。昨年は、明治期に太平洋画会で智恵子の師であった中村不折がらみで、台東区立書道博物館を訪れました。
 
今年は、東京国立博物館黒田記念館の耐震改修工事が終わり、リニューアルオープンしましたので、まずそちらに行きました。
 
イメージ 1
 
イメージ 2
 
イメージ 3
 
イメージ 4
 
東京美術学校西洋画科で、光太郎の師で006あった黒田が、大正13年(1924)に亡くなる際、遺産の一部を美術奨励事業に活用するようにとの遺言を残し、それを受けて昭和3年(1928)に建てられました。設計は美術学校で教鞭を執っていた建築家・岡田信一郎です。
 
永らく美術研究所(現・東京文化財研究所)の庁舎として使用されていましたが、新庁舎が近くに建てられ、この建物は東京国立博物館に移管、黒田の作品を中心に展示されてきました。
 
その後、東日本大震災を受けて、平成24年(2012)から改修が始まり、このたびリニューアルオープンの運びとなりました。
 
新たに「特別室」が設けられ、黒田の代表作品の数々が一気に観られる、ということで、かなりにぎわっていました。入場は無料です。ありがたいのですが、もったいない気がします。
 
館内に入り、これまた重厚な感じの階段を上がって二階に。左手が特別室、右手が黒田記念室です。黒田記念室入り口には光太郎作の黒田清輝胸像が展示されており、それを観るのが最大の目的でしたが、黒田に敬意を表し、まずは特別室に。
 
イメージ 6
 
イメージ 7
「湖畔」 (重要文化財) 明治30年(1897)
 
イメージ 8
三部作「智・感・情」 明治32年(1899)
 
イメージ 9 イメージ 10
「舞妓」 明治26年(1893)      「読書」 明治24年(1891)
 
すべて撮影可でした。これらを一度に観られるというのは、贅沢ですね。ただし、特別室は年3回の公開だそうで、今回の公開は今日まで。次回は3月23日(月)~4月5日(日)だそうです。
 
続いて黒田記念室へ。
 
007 (2) 
 
上の画像は入り口上部、欄間のような部分です。わかりにくいのですが、中村不折の揮毫で「黒田子爵記念室」と書かれています。
 
そして入り口左には、光太郎作の「黒田清輝胸像」。まるで黒田本人が「ようこそ」と言いながら迎えてくれているような感じです。

007 008

一昨年の「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展以来、久しぶりに拝見しました。
 
009 
 
記念室内部は、完成作だけでなく、スケッチ、デッサン、下絵、さらには黒田の遺品なども展示されています。また、室内は創建当初の内装。天窓からの採光が温かく、いい感じです。
 
010


特別室は年3回のみの公開ですが、記念室は常時公開です(月曜休館)。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月12日011
 
平成4年(1992)の今日、双葉社から関川夏央・谷口ジロー『『坊ちゃん』の時代 第三部 啄木日録 かの蒼空に』が刊行されました。
 
漱石と、同時代の文学者達を描いた五部作の三作目です。この巻は明治42年(1909)4月から6月の東京を舞台とし、主人公は石川啄木です。
 
光太郎はこの年7月に欧米留学から帰朝するため、登場はしませんが、「パンの会」のシーンで、「近々帰ってくるそうだ」と噂されています。
 
光太郎は登場しませんが、智恵子が登場します。
 
市電の中で、啄木が平塚らいてうと智恵子に偶然出くわし、らいてうに向かって無遠慮に、前年、漱石門下の森田草平と起こした心中未遂について尋ねるというくだりです。
 
智恵子はらいてうをかばいます。 
 
イメージ 17
 
イメージ 18
 
しかし、なおも食い下がる啄木、すると、堪忍袋の緒を切らせた智恵子のビンタ炸裂(笑)。
 
イメージ 19
 
関川氏の創作ですが、こういうエピソードがあったとしても、不思議ではないでしょう。

来年1月―といっても、もう来週から1月ですが―の光太郎関連イベント等も、少しずつご紹介していきます。
 
タイトルの通り、上野の東京国立博物館内―正確には道をはさんで西隣―にある黒田記念館さんが、1月2日(金)、リニューアルオープンします。しばらくの間、耐震工事ということで休館中でした。
 
イメージ 1
 
「黒田」は黒田清輝。国の重要文化財の「湖畔」(光雲の「老猿」と同時に指定されました)などで有名で、「近代洋画の父」といわれる洋画家です。東京美術学校西洋画科で教鞭を執り、明治38年(1905)から翌年にかけ、欧米留学前の光太郎が同科に再入学していた際に、指導にあたりました。光太郎は同校彫刻家を明治35年(1902)に卒業、研究科に残っていたのですが、西洋美術を根底から勉強し直そうと、西洋画科に再入学したのです。
 
この時、黒田の同僚には藤島武二、光太郎の同級生には藤田嗣治、岡本一平(岡本太郎の父)、望月桂らがいました。教える方も教わる方も、錚々たるメンバーですね。
 
そんな縁もあり、光太郎は昭和7年(1932)、黒田の胸像を制作しました。同館にはその像が現存しています。この像は、ここと、東京芸術大学大学美術館さんと、二点だけしか鋳造されていないのではないかと思います。昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展では、芸大さんのものをお借りしました。
 
さて、リニューアルオープンですが、以下の日程になっています。
 
2015年1月2日(金) ~ 2015年2月1日(日) 開館時間:9:30~17:00 
休館日:月曜日(祝日・休日の場合は開館、翌火曜日休館)
 
 
館内には「湖畔」が展示されている「特別室」があり、こちらは常時公開ではなく、以下の日程でオープンです。
 
第1回:2015年1月2日(金)~1月12日(月・祝)
第2回:2015年3月23日(月)~4月5日(日)
第3回:2015年10月27日(火)~11月8日(日)
 
 
また、先述の光太郎作「黒田清輝胸像」は「黒田記念室」の入り口に常時展示されます。室内は黒田作品で、6週間ごとに展示替えだそうです。
 
観覧料は無料です。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月27日
 
昭和28年(1953)の今日、ラジオ放送のため、美術史家・奥平英雄との対談「芸術と生活」(原題「彫刻と人生」)が録音されました。
 
オンエアは翌年1月7日。文化放送でした。
 
以前にも書きましたが、かつてはカセットテープで市販されていました。「矍鑠(かくしゃく)」という表現が適当かどうかわかりませんが、数え71歳の光太郎、十和田湖畔の裸婦群像(通称乙女の像)の除幕を終え、今後の展望を比較的元気に語っています。

昨日のこのブログ、皇居前広場に立つ楠正成像(楠公銅像)についてでした。昨日書きましたとおり、売店で、楠公銅像をあしらったA4判クリアファイルを購入しましたが、そのかたわらにこんなものも並んでいて、買ってしまいました。
 
イメージ 1
 
サンリオさんのキャラクター、キティちゃんのハンドタオルです。
 
ご当地キティということで、日本各地の観光地などでその土地々々の風物をあしらったキティちゃんグッズが売られていますが、楠公銅像のバージョンがあったとは知りませんでした。
 
また、ボールペンとシャープペンシル、それからストラップもありました。
 
イメージ 2  イメージ 3
  
イメージ 4  イメージ 5
  
また、帰ってからネットで調べてみると、ファスナーマスコットもあり、ネットで購入しました。
 
楠公銅像、一種の東京のシンボルとして愛されている事の証左でしょうが、高村光雲も、あの世で苦笑しているのではないかと思います。
 
同じ光雲作、そして共に「東京三大銅像」に入っている上野の西郷隆盛像バージョンもあるかと思って調べてみました。しかし、西郷さんについては鹿児島限定でのバージョンがありますが、上野の西郷さんとしてのキティちゃんグッズは無いようです。上野限定はパンダがモチーフ。ぜひ、上野西郷バージョンを作っていただきたいものです。
 
では、光太郎がらみでのキティちゃんグッズは、というと、こちらもちゃんと存在しまして、明日のこのブログにてご紹介します。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月20日
 
昭和4年(1929)の今日、岸田劉生が歿しました。
 
「麗子」像の連作などで有名な岸田劉生。数え39歳の早逝でした。
 
大正期の『白樺』や、フユウザン会、生活社を通じ、劉生と光太郎は深いつながりを持っていました。そのためその逝去の報には、哀惜の意を隠せません。
 
12月22日の『読売新聞』に載った光太郎の「岸田劉生の死」から、書き出しの部分を抜粋します。
 
 今夜は本当に悲しい。寝耳に水だ。昭和四年十二月二十日、朝の新聞で、岸田劉生の危篤の報道を読み、程経て既に彼が午前零時半に死んだのだといふ事を知つた。つい此間、ブルデルの死を聞いて遺憾やる方無い思をしたが、その「死」がこんなにつけつけと物凄く吾等の身近の天才の上にまで侵入して来ようとはまさか思ひも寄らなかつた。私は食後の洗面所で立ちながら言つた。「岸田劉生が死んだのかな」さう口に出して言つたら急に胸がいつぱいになつた。走馬燈のやうにいろんな事が頭に出て来てをさまりがつかない。今夜「読売」に頼まれて此一文を書かうとしても、唯徒らに取りとめもなくさまざまの思ひが湧き起るのみだ。
 此頃では人が天才といふ言葉を大変嫌ふやうだが、いくら嫌つても天才といふもののある事を打消すわけにはゆかない。ただ稀有(けう)なだけだ。画家岸田劉生は私達の身近に親しく見る事の出来たその稀有な天才の見本だ。此は二十年も前から口にしてゐた事だが今でも此言を取消すわけにゆかない。岸田劉生を除いては今日、吾が日本に天才らしい画家を一人ぐらゐしか私は知らない。彼だけは私の見る所、無條件に天才であつた。
 
続いて、翌年2月の雑誌『みづゑ』に載った「岸田兄の死を悼む」から抜きます。
 
 岸田劉生の死ほど最近私の心を痛打したものは無い。昔荻原守衛が死んだ時もかなりの打撃をうけたが、この方はむしろ多分に友情的の分子が含まれてゐたと思ふ。友情といふ方面から言へば、最近、岸田兄と私とは以前ほどの私交的関係を持たず、文通すら殆ど絶えてゐたし、僅かに「大調和展」の会員であつた関係上、その会合などの時に旧交を温めた程度の交友状態に過ぎなかつたのであるが、私が岸田劉生に対する尊敬と評価とひそやかな景慕とは二十年来渝る事無き、言はば公人としての公けな心根であつた。そして心の奥の方では、いつも、私自身がもつと成長し、もつと成熟し得る時が来たら、又再び以前のやうに近しい、しかし以前よりも平淡な、水のやうに何でもない程親しい友交を獲たいと念願し、遠く望んでゐた事であつたのである。さういふ事は今はすべて空しくなつた。
(略)
 彼は多くの人の期待と予望とを背負ひながら死んでしまつた。神秘の扉はしまつてしまつた。彼にかはる者は無い。無いとなると世界中に無い。実に言ひやうもなく惜しい。
 
 
イメージ 6
 
上の画像は、大正8年(1919)、『白樺』10周年記念に撮られた一枚です。前列右から3人目が岸田、後列左から3人目が光太郎です。

過日、上京した折に、時間が少し余っていたことがありました。そこで寄り道。行った先は皇居前広場。ここには光雲が主任となって、東京美術学校が請け負った楠木正成の銅像があります。
 
イメージ 1
 
イメージ 2
 
イメージ 3
 
イメージ 4
 
イメージ 5
 
実は当方、ちゃんとこれを見るのは初めてでした(幼い頃に見た記憶があるのですが)。
 
実に重厚。それもそのはず、この像は「無垢」です。
 
「無垢」というと、一般に「純真無垢」など、「イノセント」という意味で使われますが、こうした金属工芸の場合、「内部が中空ではない」という意味です。通常の銅像をはじめとする鋳金では、「中型」と「外型」を作り、その間に溶けた銅を流し込む方式で、出来上がったものは中空の状態になります。ところがこの像は、外型のみの状態に溶けた銅が流し込まれ、内部まで詰まっている状態です。したがって、重量としても物凄いことになっていると思われます。
 
そう思つて見るのでそう感じるのかも知れませんが、とにかく重厚です。
 
しかし、光太郎はこの像や、同じ光雲の手になる上野の南洲西郷隆盛像など、「芸術」としては認めていません。
 
父の作品には大したものはなかつた。すべて職人的、仏師屋的で、又江戸的であつた。「楠公」は五月人形のやうであり、「南洲」は置物のやうであり、数多い観音、阿弥陀の類にはどれにも柔媚の俗気がただよつてゐた。(「父との関係―アトリエにて2―」 昭和29年=1954)
 
たしかに絶対的評価としてはそうなのかもしれません。しかし、相対的評価としてみると、これほどの存在感、迫力を放つ像は、他に無いように思います。
 
そこで、この像と、西郷隆盛像、さらに靖国神社にある大熊氏廣作の大村益次郎像を合わせて「東京三大銅像」とする場合があります。
 
今年、銅像を扱ったテレビ番組を2本観ました。6月21日、BS日テレさんで放映された中川翔子のマニア★まにある #32銅像男子・(ドウゾウダンシ) 銅像男子が語る銅像の魅力!?」、10月30日、同じくBS日テレさんの「木曜スペシャル #15 偉人巡礼!歴旅銅像ツアー」。どちらも、ちらっと楠公銅像、西郷隆盛像にふれていました。事前に楠公銅像に触れるかどうか分かりませんでしたし、ちらっと紹介されただけなので、放映後もこのブログでは特にコメントしませんでしたが、この際なのでご紹介しておきます。
 
まず、「木曜スペシャル」の方では、全国の坂本龍馬、武田信玄、上杉謙信の銅像を紹介するのがメインでしたが、合間に「東京三大銅像」の紹介がありました。
 
イメージ 6

イメージ 7
 
続いて「中川翔子のマニア★まにある」。こちらはサイト「日本の銅像探偵団」管理者の遠藤寛之氏が選ぶ「一度は見ておきたい銅像ベスト3」ということで、堂々の第1位に、楠公銅像を挙げて下さいました。
 
イメージ 9
 
イメージ 10
 
遠藤氏によれば、楠公銅像は「キング・オブ・銅像」だそうです(笑)。
 
イメージ 8
 
ちなみに第2位は、「二本松の菊人形」会場である福島二本松霞ヶ城に建つ二本松少年隊の像でした。作者は二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」も作られた、光雲の孫弟子にあたられる橋本堅太郎氏です。
 
イメージ 11
 
 
さて、楠公銅像そばに売店があり、そこで楠公銅像グッズをいろいろゲットしてきました。
 
まずは最近よくあるA4判クリアファイル。中央に楠公銅像、裏面は皇居二重橋です。
 
イメージ 13
 
イメージ 12

もったいなくて使えません。袋に入れたまま保管しています。
 
また、その他、笑える楠公銅像グッズが手に入りました。また明日、ご紹介します。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月19日
 
平成18年(2006)の今日、福島二本松で、NTT DoCoMo東北のCM「智恵子のふるさと篇」の撮影が行われました。
 
 
主演は宮崎あおいさん。
 
こちらは、当時、東北で配布されていたカード型の広告です。智恵子の生家・記念館裏手の「樹下の二人」碑の前に立つ宮崎さん。裏面は安達太良山と阿武隈川、ほんとの空です。
 
イメージ 14
 
二本松で智恵子の顕彰活動を行っている「智恵子のまち夢くらぶ」の皆さんもご出演なさいました。
 
イメージ 15

イメージ 16
 

昨日は新宿方面に行って参りました。
 
用件は二つありましたが、まずは新宿文化センター小ホールで開かれた、中村屋サロン美術館開館記念講演会「中村屋サロンの芸術家たち」を拝聴。
 
イメージ 1
 
 
講師は大原美術館館長にして美術史家の高階秀爾氏でした。
 
スクリーンを使って画像を大きく提示しつつ、碌山荻原守衛をはじめ、新宿中村屋に集った芸術家たちのプロフィール、作品、美術史的位置づけなどを非常に分かりやすくお話下さいました。
 
イメージ 2
 
光太郎については、明治43年(1910)に書かれた評論「緑色の太陽」を軸に、同時代の美術家に与えた影響の大きさを語られました。
 
「緑色の太陽」は、日本初の印象派宣言ともいわれるもので、以下のような部分があります。
 
 僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従つて、芸術家のPERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味に於いて、芸術家を一箇の人間として考へたいのである。
 
 人が「緑色の太陽」を画いても僕は此を非なりとは言はないつもりである。僕にもさう見える事があるかも知れないからである。「緑色の太陽」がある許りで其の絵画の全価値を見ないで過す事はできない。絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。この場合にも、前に言った通り、緑色の太陽として其作の格調を味ひたい。
 
その他、柳敬助、戸張孤雁、斎藤与里、中村彝、鶴田吾郎らについて詳述。特に中村彝の画風に見られるルノワールの影響などのお話は、非常に興味深いものでした。
 
また、中村屋サロン美術館さんからのお知らせもありました。現在開催されている開館記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」は来年2月までですが、その後、サロンを形成した作家一人一人を取り上げていくとのこと。
 
次回企画展は柳敬助を中心にするそうです。柳といえば、やはり光太郎と親しく、また、妻の八重は日本女子大学校での智恵子の先輩。光太郎と智恵子が知り合うきっかけを作った一人です。これも観に行かなければ、と思いました。
 
いずれ光太郎も単独で扱っていただきたいものです。
 
さて、開館記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた」。まだ御覧になっていない方は、ぜひ足をお運びください。光太郎の油絵「自画像」、ブロンズの「手」「裸婦坐像」が展示されています。
イメージ 3
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月2日
 
昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校で、開校記念日の学芸会が行われ、光太郎が寄贈した式場用幔幕が披露されました。
 
イメージ 4
 
光太郎がデザイン案を出した校章が大きく染められています。この日の児童向け光太郎講話から。
 
 幕に染めた『校章』のことですが、『校章』は学校の印で、帽章としても使われますが、山口の学校の『校章』を、さて何にしようと考えて、結局、栗を採り入れることにしました。
 栗はここの名産です。栗の実は食べるとおいしい。栗はおいしいものの代名詞で、うまいものを栗のようだというくらいです。木は硬くて長持ちします。それに、玉の中央から上に伸びているのは雌しべで、これから大きくなるという意味です。実はふっくらと丸いのがいいのです。
 栗のことを思つていたら、、みなさんの顔も栗の実のようにつやつやして見えます。
 そういうわけで、これを採り入れたのです。
(浅沼政規著『山口と高村光太郎先生』平成7年(1995)㈶高村記念会より)

最近のいただきもの、2回目です。
 
青森市ご在住の彫刻家・田村進氏から、なんと、彫刻をいただいてしまいました。
 
イメージ 1
 
イメージ 2
 
一昨年の作品で、「レリーフ習作・巨星光太郎」。光太郎の肖像彫刻です。
 
大きさは38㌢×28㌢、材質はブロンズで、ずしりと重たいものです。材料費だけでも何万円とか……。恐縮です。
 
昨年の連翹忌にて、画像を大きく拡大したものをパネルに入れ、会場内に展示いたしました。もとは昭和24年(1949)10月、花巻郊外太田村の山小屋を訪れた写真家の濱谷浩が撮影した下記の写真をモチーフにしています。
 
イメージ 3
 
光太郎、数え67歳です。
 
美術雑誌『花美術館』の昨年4月号に、この彫刻が大きく紹介されています。
 
そちらから引用させていただきます。
 
類稀なる一人の芸術家には、そこへ至る道筋が神の計らいの如く予(あらかじ)め用意されているのではないだろうか。然るべき時に、出会うべくして出会う人物、その作品と書物、諸々の事象までもが綿密に配線された”芸術の糸”で硬く結ばれ、やがて自己世界の確立と昇華の時を得る。田村氏と光太郎の出会いはまさに”神のはからい”のそれであった。本作は、光太郎との強い縁(えにし)で結ばれた魂の軌跡が深く刻まれ、敬慕なる純正の輝きが奥深い世界から煌めきを放っている。本作は、光太郎の芸術と人となりを再び掘り起こし、心に刻み続けてきた崇敬の念、この心震わす繊細な表現に、光太郎と初めて出会った氏の心の昂(たかま)り、感慨が我々の胸奥にも甦るかのようだ。光太郎は七十三才のまま氏が年長になる程に長年温めてきた氏の計らいが見事成就し、実に味わい深い。これも神の計らいやも知れぬ。
 
田村氏は昭和28年(1953)10月21日の、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)の除幕式にご参加、さらにその2日後に青森の野脇中学校で行われ、光太郎も演壇に立った文芸講演会で光太郎の講演を聴かれたそうです。
 
さらに田村氏は、光太郎の、レリーフではない胸像も制作されています。題して「冷暖自知光太郎山居」。こちらも完成し、鋳造にまわされたとのこと。
 
さて、レリーフ。こんな立派なものを私するのは申し訳ありません。広く皆様に観ていただきたく存じます。そこで、来年4月2日の連翹忌では展示するつもりですし、御依頼があれば貸し出し等も行いたいと思います。こちらまでご一報下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月30日
 
昭和51年(1976)の今日、瑠璃書房から奥平英雄著『晩年の高村光太郎』が刊行されました。
 
奥平は東京国立博物館に勤務していた美術史家。十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため上京した中野のアトリエに足繁く通い、晩年の光太郎に親炙しました。その回想録です。
 
元は昭和32年(1957)に二玄社から刊行されましたものですが、復刊。限定140部、二重函、天金の特装本も刊行されました。
 
イメージ 4  イメージ 5 
 
特装本には付録として、カセットテープがついています。こちらは昭和28年(1953)12月の録音。奥平と光太郎の対談です。「彫刻と人生」のタイトルで、翌年1月、ラジオの文化放送でオンエアされました。光太郎の肉声が聴ける貴重な資料です。

福島から展覧会情報です。 

藝大に学んだ巨匠たち──東京藝術大学大学美術館所蔵作品を中心に

イメージ 1
 
イメージ 2
 
会 期 : 2014年11月15日(土曜日)~12月14日(日曜日)
 場 : いわき市立美術館 2階企画展示室
休館日 : 月曜日(11月24日は開館、翌25日は休館)
 間 : 午前9時30分から午後5時(入場は午後4時30分まで)
 催 : いわき市立美術館、東京藝術大学美術学部、東京藝術大学大学美術館
後 援 : 福島県
 金 :
 一般 1,000円(800円) 高・高専・大生 500円(400円) 小・中生 300円(240円)
      ※( )内は20名以上の団体割引料金
    観覧料が無料になる場合
       1 いわき市在住の65歳以上の方
       2 身体障がい者手帳、療育手帳、精神障がい者保険福祉手帳のいずれかをお持ちの方
       3 市内の小・中・高・専修・高専生(ただし、土曜日と日曜日のみ)
                     (注)身分を証明する手帳等をご提示下さい。
また、平日に「いわき市内の小・中・高・専修・高専生」が、学校の教育活動の一環として利用する場合も、企画展・常設展が無料になります。
 
会期中の催し
1) 記念講演会1
  「藝大コレクションを語る」
   日時 平成26年11月16日(日)14:00~15:00
  会場 3階セミナー室
   講師 古田亮(東京藝術大学大学美術館准教授)
   参加費 無料
 
2)記念講演会2
  「横山大観と東京美術学校」
  日時 平成26年11月23日(日)14:00~15:00
  会場 3階セミナー室
  講師 小泉晋弥(茨城大学教授)
  参加費 無料
 
3)記念講演会3(都合により中止となりました。ご了承ください。)
   「藝大コレクションと私」
  日時 平成26年11月24日(月)14:00~15:00
  会場 3階セミナー室
   講師 田口安男(東京藝術大学名誉教授、いわき市立美術館名誉館長)
  参加費 無料
     
4)アーティスト・トーク1
  日時 平成26年12月7日(日)14:00~15:00
  会場 企画展示室
  講師 中村一美(藝大大学院油画修了、多摩美術大学教授)
  参加費 企画展入場券半券が必要
 
5)アーティスト・トーク2 
  日時 平成26年12月14日(日)14:00~15:00
  会場 企画展示室
  講師 山本伸樹(藝大大学院壁画修了、美術家)
  参加費 企画展入場券半券が必要
 
【同時開催】
1.藝大Am+いわき   高校生クロッキーワークショップの作品展示 
  会場:美術館1階ロビー(入場無料)
2.藝大Am+いわき   いわきから藝大へ 明日の巨匠たち 
  会場:いわきアリオス(入場無料)
 
東京藝術大学は、前身の東京美術学校と東京音楽学校が明治20年に設立され、その後昭和24年の学制改革による両校統合により現在に至っていますが、我が国最初の官立の総合的な芸術教育と研究の専門機関として発足以来、数多くの優れた人材を育成し、近現代の美術と音楽の動向に大きな影響を及ぼしてきました。

またこの間、教育研究資料として国宝、重文を含む古美術、楽器、絵画・彫刻・工芸品、建築・デザイン図面など約28,500件の芸術資料の収集を通して、日本の近現代美術の調査研究において欠くことのできない国内有数の質と量を誇るコレクションを形成し、今日、極めて高い評価を得ています。

本展は、この素晴らしい藝大コレクションのなかから、東京美術学校(東京藝術大学)が輩出してきた明治・大正・昭和初期を代表する作家たちの教官・学生時代に制作した貴重な絵画や彫刻作品をとりあげ、さらに同時代性をもった戦後の良質な美術作品といわきの美術を収集方針に掲げる当館コレクションを一部加え、戦後美術の動向に多大な影響を与えてきた藝大関連作家と、当地の美術界に大きな足跡を残してきた藝大に学んだいわきの作家たちの作品を紹介します。

本展が、明治期に設立されて以降、常に中央及び地方の美術界に主導的な人材、作家を送り続けてきた教育研究機関としての藝大の果たしてきた役割を再考する機会となることを期待するとともに、若き日の巨匠たちが制作した貴重な逸品の数々を、ご高覧いただきたいと思います。
 
主な出品作家 : 高橋由一、横山大観、下村観山、菱田春草、黒田清輝、藤島武二、岡田三郎助、青木繁、佐伯祐三、高村光太郎、小磯良平、杉山寧、高山辰雄、加山又造、平山郁夫、浜田知明、駒井哲郎、杉全直、山口長男
 000
 
というわけで、今日から開催です。展示される光太郎の作品は「獅子吼」。明治35年(1902)の作で、東京美術学校の卒業制作として作ったものです。
 
モチーフは日蓮。経巻を投げ捨て、憤然として立つ姿を表しているそうです。
 
ネット上に出品目録が出ていないのですが、チラシを見ると、その他、高橋由一の「鮭」(重要文化財)、横山大観の「村童観猿翁」、長沼守敬の「老夫」など、名品がもりだくさんです。
 
お近くの方、ぜひ足をお運び下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月15日
 
昭和30年(1955)の今日、中野のアトリエで、作家の高見順と対談「わが生涯」を行いました。
 
翌31年(1956)1月には雑誌『文芸』に、さらに光太郎没後の同32年(1957)には、中央公論社刊『対談原題文壇史』に掲載されました。『高村光太郎全集』第11巻にも収録されています。

3件ご紹介します

アートシーン 中村屋サロン美術館開館記念特別展 中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた― 

NHKEテレ 2014年11月16日(日)  9:時45分~10時00000
                     
 再放送20時45分~21時00分
 
司会 井浦新,伊東敏恵
 
今回のメインは、多くの芸術家たちが集った中村屋サロンの展覧会。明治の終わり、パン屋として開業した新宿のレストランに、彫刻家の荻原守衛や高村光太郎、画家の中村彝など、若き才能が集い、切磋琢磨(せっさたくま)しながら数々の傑作を生み出しました。そのほかにも話題の展覧会をピックアップ。お楽しみに。
 
「日曜美術館」とセットの15分間番組です。過日レポートした新宿中村屋サロン美術館開館記念特別展がメインで扱われます。16日(日)、朝と夜、2回放送です。 

五木寛之「風のCafe」1周年記念スペシャル ゲスト:渡辺えり

BSフジ 2014年 11月15日(土)17:30~18:30
 
番組ホスト 五木寛之(作家)
番組アシスタント 冴木彩乃(出版プロデューサー)
ゲスト 渡辺えり(劇作家・演出家・女優) 
-----
 今回のゲストは、渡辺えり。そして、“もう一度聞きたい、あの話”をまじえての60分スペシャル!これまでCafeを訪れた各界の著名人、13人のゲストの名言を再びお届けする。
 五木から演劇界きっての歌唱力の持ち主と称賛される渡辺えりは、五木が作詞した歌を2曲もつ。その一つ「昼の花火」の歌詞は還暦を前にした渡辺にとって、今あらためて読むと泣きそうになるという。その歌詞のもつ意味は?
 戦時中、高村光太郎に心酔した父により、家に飾ってあった光太郎の写真をずっと自分の祖父だと思って育った渡辺。いじめられっ子だった小学校時代。そこから自信を持てるようになったきっかけ、そして山形から上京することになった理由の一つ、ジュリーこと沢田研二への憧れについて語る。
 そして、五木と渡辺のいくつもの接点。その一つが池袋の「舞台芸術学院」でのすれ違い。さらに、「ゲゲゲのげ」岸田國士賞受賞のきっかけをつくった「唐十郎」とのこと。唐は当時無名の渡辺の初期作品を候補作と間違えて読み、その実力を看破したという。また、美輪明宏にこの授賞式の衣装を買ってもらった話や、同時受賞した野田秀樹などの不思議な縁を話す。
 劇団「3○○」や演劇活動のかたわら、テレビにも出演。庶民的で可笑しなキャラクターを演じ人気を博している“国民的女優渡辺えり”。しかし、映像で見るイメージとは違い、劇作家渡辺えりの描く芝居はシュールなものだ。そのギャップが違いすぎて、お客さんが戸惑い理解されない、という悩みも打ち明ける。今度の舞台「天使猫」は東日本大震災の後、はじめて書き下ろした作品だ。被災地に思いを馳せ、復興未だ叶わぬ現地でもテントで上演される。そのきっかけは、共演する宇梶剛士と地元の人たちの「ここでやりたい、やってくれ」という言葉だった。
 渡辺えりは様々な顔をみせる。プロデューサー、脚本家、作家、評論家、タレント、そして俳優・・・あらゆる役割をこなす渡辺えりを、五木は「百姓」という言葉で例える。「百姓」という言葉には、元々「様々な職業」という意味があるのだ。五木は彼女に100歳までの舞台を期待する!
 
イメージ 1
 
11月1日に放映されたものの再放送です。「父の戦争体験と詩人・高村光太郎」ということで、お父様と光太郎のつながりについてのお話があります。
 
現在、全国ツアー中の、宮澤賢治を主人公とした舞台「天使猫」についてのお話も。
 
1日の本放送を見逃した方、どうぞ。 

土曜スペシャル「秋の東北 激走1200km“滝&紅葉スポット”制覇旅2」 

テレビ東京 2014年11月15日(土)  18時30分~20時54分

東北ぐるり1200km “滝&紅葉”めぐり旅2

錦秋に染まる日本列島…
そこで今回は、東北にある滝をめぐって「滝と紅葉」をカメラにおさめ、紅葉写真のベストショットを競い合う!
 
盛岡をスタートし岩手・青森県をめぐるチームと秋田県をめぐるチームに分かれ目指すは青森・弘前城!3日間の移動距離は2チーム合わせて1200km!

 落差100メートル・東北屈指の大きさを誇る安の滝、海に落ちるマニア垂涎の珍しい滝、弥勒菩薩を祀ったソーメン滝、青森を代表する景勝地・奥入瀬渓流が誇る銚子大滝など東北地方の名瀑をめぐる。道中では、田沢湖、十和田湖などの紅葉スポットに、絶品ご当地料理をはじめ今が旬の秋の味覚を味わい、さらに紅葉を愛でながら浸かる絶景の露天風呂なども堪能!

 果たして、紅葉写真のベストショットに選ばれるのはどっちのチームなのか!?  錦秋に染まる名瀑をご覧あれ!
 
【出演者】  金山一彦、マルシア、福井仁美、金子昇、秋野暢子、相沢まき
 
イメージ 2
 
イメージ 3
 
十和田湖ということで、乙女の像がぜひ写ってほしいものです。
 
 
ところで、以前にも書きましたがもう一度。
 
NHKさんの教養番組「歴史秘話ヒストリア」で、今月26日に「ふたりの時よ 永遠に  愛の詩集「智恵子抄」」というサブタイトルで、光太郎智恵子がメインの回がある予定でした。しかし、さきごろ、台風の緊急報道があった影響で放送がずれ込み、さらに12月は真珠湾攻撃や忠臣蔵など、旬の内容を扱うそうでずらせず、延期になりました。「愛の詩集」ならバレンタインデー、とのことで、来年2月11日(再放送は18日)のオンエアだそうです。
 
 
11/15追記
こういう情報を書いたその日、しかもこの記事を書いている最中、TBSさんの朝の情報番組「いっぷく!」で過日ご紹介した「あだたら恋カレー」や「おっ!PAIぷり~ん」が取り上げられていたとのこと。事前に情報を得られず見逃しました。残念です。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月14日
昭和5年(1930)の今日、光太郎の木彫「栄螺」が出品された、大阪の高島屋長堀店で開催されていた「木耀会木彫展覧会」が閉幕しました。
 
木彫「栄螺」。即売会を兼ねたこの展覧会で買い手が付き、以後、行方が判らなくなっていましたが、平成15年(2003)、70余年を経て再び世に出て来ました。
 
イメージ 4
 
現在は愛知県小牧市のメナード美術館さんに所蔵されています。

京都からの情報です。 

知恩院 秋の紅葉ライトアップ2014

 間 : 2014年11月1日(土)~11月30日(日)
 間 : 17時30分~21時30分(21時受付終了)
 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 ) 友禅苑、阿弥陀堂、黒門坂 
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小中学生)
      [団体割引]大人30名以上、1割引き
   京都府 京都市 (公社)京都府観光連盟 (公社)京都市観光協会、
      (公財)京都文化交流コンベンションビューロー 京都商工会議所
   西日本旅客鉄道(株)京都支社 京阪電気鉄道(株) 古川町商店街振興組合
      宮崎友禅翁顕彰会
 
~復興への祈り~
今年の知恩院ライトアップは友禅染の創始者宮崎友禅斎を祀る庭園「友禅苑」、阿弥陀如来坐像をお祀りする「阿弥陀堂」、紅葉の名勝である「黒門坂」をライトアップします。
また、災害復興のため阿弥陀堂前にて献灯ロウソクと三門前広場にて宮城「希望の環」による東北地方物産の直売(11月15日[土]〜24日[月])を実施いたします。
 
主な見どころ】
 友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎ゆかりの庭園。池泉式庭園と枯山水で構成され、補陀落池は高村光雲作の聖観音菩薩立像が佇んでいます。移ろう季節の中で、秋の趣を感じることが出来ます。
 
 阿弥陀堂
明治43(1910)年に再建。本尊は御身丈2.7mの阿弥陀如来坐像。様々な法要儀式を執り行う堂宇です。堂内に並べられている木魚は自由に叩いて頂けます。法然上人のみ教え「お念仏」に触れて下さい。
※法要儀式のため閉門する場合がございます。
 
 黒門坂
本年のライトアップが初公開となる黒門坂。徳川将軍家による寺領拡大と共に組まれた石垣と、桃山城より移設した城郭風の黒門が特徴で、現在では知恩院境内有数の紅葉の名勝となっており、背景に京の街並みを見渡すことができます。
 
 災害復興支援 献灯
ライトアップ期間中、知恩院の阿弥陀堂前で献灯ロウソクを行います。献灯台へ祈りの灯をお捧げください。
※献灯冥加は災害復興のため一部寄付いたします。
 
イメージ 1
 
寺の町だけあって、京都にも光雲の仏像がかなりあります。そのうち、知恩院さんの聖観音像が、紅葉を背景としたライトアップ。
 
近郊の方、あるいは紅葉を見に上洛される方、ぜひとも足をお運び下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月30日

昭和42年(1967)の今日、二玄社から『高村光太郎全詩稿』が刊行されました。
 
光太郎の手元に残された大正5年(1916)から、昭和31年(1956)に歿するまでの詩稿、およそ850枚を写真製版し、北川太一先生が詳細な解説を加えた、上下二分冊の書籍です。
 
イメージ 2
 
イメージ 3
イメージ 4
 
イメージ 5
 
昭和20年(1945)4月、空襲により駒込林町のアトリエは灰燼に帰しました。その際、光太郎はそれまでの詩稿を持ち出ましたが、行方不明となりました。
 
十和田湖畔の裸婦像制作のため、昭和27年(1952)に再び上京した光太郎の元に、詩稿の束が戻ってきました。それは炎上したアトリエの隣家、蔵石家で奇跡的に保管されていたのです。 
 
イメージ 6
 
アトリエ炎上から岩手時代を経て、歿するまでの詩稿はそのまま光太郎の手元に蓄積され続け、戻ってきた古い詩稿と合わせ、その数およそ850枚。中には光太郎の単行詩集に収録されず、同人誌的なものに発表されただけで終わり、どんな詩だったのか不明のものも、数多く含まれていました。
 
のちの筑摩書房刊行『高村光太郎全集』編纂に大いに役立ったことは言うまでもありません。
 
その詩稿を写真製版し、刊行されたのが『高村光太郎全詩稿』です。
 
推敲の跡が生々しく残り、さらに雑誌等に発表した後、単行詩集に収録する際の改変の跡などもうかがえる詩もあります。何より、活字からは感じ取りにくい、光太郎の息づかい的なものが、肉筆の文字から伝わってきます。
 
難点は、B4サイズの大判で、コート紙を使用しているため、かなりの重量であること。当方手持ちのクロス貼り表紙のもの(革張り表紙の特製版もあります)の上巻は3.7㌔㌘、下巻は3.8㌔㌘でした(笑)。

光太郎の父、光雲に関し、先日ご紹介した内容の追補です。
 
まず、今月初めにご紹介した「シンワアートオークション 近代美術」が27日の土曜日に開催されました。光雲作の木彫「大黒天」が出品され、落札価格は¥7,400,000とのこと。
 
イメージ 1
 
7月にあった同じシンワさんのオークションでは、やはり光雲作の木彫聖観音像が1000万超での落札でしたので、それよりは安いものの、やはり凄い金額ですね。
 
 
続いて、先週ご紹介した静岡の可睡斎という寺院に関するニュース。先週は『静岡新聞』さんの報道をご紹介しましたが、『産経新聞』さんの静岡版でも報じられました。  

日清交友の歴史、「活人剣碑」再建へ 静岡・袋井の有志が寄付募る

 日清戦争当時の清国全権大使・李鴻章(り・こうしょう)と陸軍軍医総監・佐藤進の絆を現代に伝える、寺院「可睡斎」(袋井市久能)の「活人剣碑」。現在は台座のみが残されているが、地元の有志により再建が計画されている。来年9月までに寄付を募って完成を目指す方針で、関係者らは「日清両国の交友の歴史を知ってもらうことで、現代の日中友好にも役立つのでは」と期待している。
                    ◇
 日清戦争の講和条約の交渉が下関で行われていた明治28(1895)年3月、清国全権大使の李鴻章が暴漢にピストルで襲われ、左目を負傷する事件が発生。陸軍軍医総監の佐藤進は、明治天皇の勅命を受けて李の治療に当たった。治療を通じて佐藤と交友を深めていた李が、常に軍服帯刀姿で治療する佐藤に「戦い方を知っているのか」と戯れかけると、佐藤は「私が手にする刀は殺人刀ではなく、活人刀だ」と即答。李はこの返答に感じ入り、別れに際して清の光緒帝からの褒章を約する詩を佐藤に贈った。
 
  李と佐藤の交友は、「活人刀」の問答として新聞紙上で大いに評判を呼んだ。佐藤が参禅していた縁もあり、可睡斎の日置黙仙斎主(当時)は「この話を長く後世に伝えたい」と発願。敵も味方もともに平等であるという「冤親(おんしん)平等」の思想のもとに浄財を募り、明治31年ごろに日清両国の戦没者の霊を弔う活人剣碑を建立した。
 
  碑には高村光雲が製作した長さ約4メートルの軍刀が安置されていたが、金属製であったため太平洋戦争の際に供出された。現在は台座のみが残されており、碑の前で足を止める人はまばら。可睡斎の僧侶、吉井敬晴(けいせい)さん(49)も「碑にまつわる言い伝えはあったが、その価値があまり知られていなかった」と振り返る。
 
  再建のきっかけとなったのは、地域の文化財を再発見する「袋井まちそだての会」の活動だ。数年前から活人剣碑の調査を進め、建立時と同じく寄付を募って再建することを決めた。同会事務局長の鈴木敬雄さん(67)は「戦争当時は日清両国で多くの戦没者が出たが、戦争の歴史の上に現在の平和があることを知ってほしい」と話した。
 
  剣の製作は金属工芸家で東京芸術大学学長の宮田亮平氏に依頼しており、碑の再建には総額3千万円ほどがかかる見込み。一口1千円から寄付を受け付けている。問い合わせは「活人剣碑」再建委員会(電)0538・42・2121。
 
当方、先週の『静岡新聞』さんの報道を読み、早速、当時の絵葉書をネットで購入しました。
 
イメージ 2
 
記事にもある通り、太平洋戦争中の金属供出で、もはや見ることができないものです。
 
かなり前のこのブログで書きましたが、同じく金属供出で失われた光雲、光太郎の彫刻がかなりありました。
 
光雲でいえば、明治39年(1906)、熊本の水前寺公園に建てられた長岡護全銅像。東京向島にあった西村勝三像(明治39年=1906)、秋田県仙北にあった坂本東嶽像(大正12年=1923)もそうです(西村像、坂本像についてはこちら)。
 
他にも制作された記録や写真はあるものの、現存しない光雲作の銅像のうち、金属供出のため無くなったものもあると思われます。
 
光太郎でいうと、岐阜にあった浅見与一右衛門銅像(大正7年=1918)、宮城にあった青沼彦治像(大正14年=1925)。これらはいずれも光雲の代作です。また、千葉県立松戸高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)に据えられた赤星朝暉胸像(昭和10年=1935)は、完全に光太郎のクレジットでした。
 
こういう愚かな歴史は繰り返してはいけませんね。
 
ところが、同じ銅製の彫刻でも、光雲作の仏像の類は、いまだに主に東京の多くの寺院に残っているのです。いずれ暇をみつけて見て歩こうと思っています。やはり仏像を供出したり鋳つぶしたりということには抵抗があったのでしょうか、狂気の戦争の時代にも、良心が見て取れます。しかし、仏像ではなく梵鐘はかなり金属供出の対象になったという話を聞きます。銚子にある当方の親戚の寺院でもそうでした。
 
ところで、銅像の類はなかなか文化財002指定が成されていないのが現状です。そろそろ設置場所の各自治体で、そのあたりを考慮してほしいものですね。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月30日
 
昭和31年(1956)の今日、角川文庫の一冊として「高村光太郎詩集」が刊行されました。
 
編集は草野心平です。
 
同じ角川文庫のラインナップに『道程 復元版』が既にあったため、こちらは『道程』以後の詩作品を収録しています。

光太郎の父にして、重要文化財の「老猿」、上野の西郷隆盛像などの作者、高村光雲に関わる報道がありましたので、ご紹介します。 

近代彫刻家、米原雲海の作品一堂に 安来で展示会開幕

 日本を代表する、島根県安来市出身の近代彫刻家、米原雲海(1869~1925年)の作品を一堂に集めた展示会が18日、同市安来町の和鋼博物館で開幕した。日本の木彫に新風を吹き込んだ作家の代表作が、来館者を魅了している。10月20日まで。002

 雲海は1890年、安来を離れて上京し、巨匠高村光雲の門下で、目覚ましい上達を見せた。97年に種痘の創始者ジェンナー像を制作するに当たり、西洋彫刻の技法「比例コンパス」を初めて木彫に用いるなど、日本の木彫界に大きな足跡を残した。

 市内で雲海展が開かれるのは14年ぶり2度目で、10月に合併10周年を迎える市が記念事業として開催。東京芸術大学や県立美術館、長野県、茨城県の個人などから借り、前回の約2倍となる39点の雲海作品をそろえた。

 東京国立博物館の前庭に立つジェンナー銅像の原型となる等身大木像をはじめ、親交のあった日本画家・橋本雅邦の像や、竹取物語の登場人物を表現した「竹取翁」など代表作がずらりと並んでいる。

 雲海展に合わせて市は、同市広瀬町布部の加納美術館で高村光雲や兄弟弟子の作品を展示。同市安来町の観光交流プラザでは地元出身の現代彫刻家の作品展も開いている。いずれも10月20日まで。

(『山陰中央新報』 2014/9/18)
 
過日ご紹介した「新安来市発足10周年記念事業 「米原雲海とその系譜展」に関する地元での報道です。
 
 
もう一つ、別件です。 

日清戦争当時の逸話の証し「活人剣碑」再建へ 袋井・可睡斎

 日清戦争当時の中国全権大使李鴻章と日本陸軍軍医総監の佐藤進のエピソードを基に可睡斎(袋井市久能)に建てられ、現在は台座のみ残っている「活人剣碑」の再建計画が26日、同市役所で発表された。市民団体などでつくる再建委員会が事業主体となって広く資金を募る。碑は東京芸術大学長で文化審議会会長の宮田亮平氏が制作する。来年9月に完成する予定。
 碑の由来は約120年前にさかのぼる。講和条約の交渉時、李は暴漢に狙撃され顔を負傷した。主治医の佐藤の治療によって回復した李は、帯刀姿の佐藤に「医事に剣は不要では」と尋ねた。佐藤は「人をあやめる剣ではなく、生(活)かすための活人剣だ」と即答し、李はいたく感動したという。
 当時の可睡斎の日置黙仙斎主がこの逸話を後世に伝え、日清両国の戦没者の霊を弔おうと碑の建立を発案した。剣の部分は高村光雲が制作し、1898年ごろ、高さ6メートルほどの碑が完成した。ところが、剣は金属製だったため太平洋戦争時に供出された。
 地元有志でつくる「袋井まちそだての会」(遠藤亮平代表)や可睡斎、佐藤が第3代理事長を務めた学校法人順天堂(東京)は地域に眠る遺産に再び光を当てるべく、数年前から再建に向けた協議を進めてきた。遠藤代表(66)は「(碑は)歴史を振り返るよすが。日中友好や平和のシンボルにもなるはず」と期待を込める。
 再建は現存する台座と別の位置を検討する。委員会は約3千万円の資金を募る。一口千円。問い合わせは可睡斎<電0538(42)2121>へ。
(『静岡新聞』 2014/9/27)
 
当方、寡聞にしてこうした碑があったことは存じませんでした。「可睡斎」は、寺院です。「日清両国の戦没者の霊を弔おうと」というのがいいですね。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月27日
 
明治32年(1899)の今日、東京美術学校校友会の補欠委員に推挙されました。
 
翌年には、俳句一句がこの校友会発行の雑誌『東京美術学校校友会雑誌』第2号に掲載されました。現在確認されている最初の活字になった光太郎文筆作品です。

昨日は、横浜伊勢佐木町に行き、先週ご紹介した日枝神社例大祭で、光雲作の彫刻を配した神輿を観て参りました。
 
午後1時から神輿の巡行というので、それに併せて自宅を出、「ヨコハマトリエンナーレ2014」会場の横浜美術館に車を駐めました。高速を下りてすぐですし、意外といつもガラガラなので、都合がよいのです。天気もよかったので、伊勢佐木町まで歩きました。ただ、汗ばむ陽気でした。
 
イセザキモールの有隣堂さんの前に神輿があるというので、そちらへ。時計を見ると12時過ぎ。ちょうど和太鼓の演奏で盛り上がっていました。
 
イメージ 1
 
イメージ 2
 
少し離れたところにめあての神輿。立派な神輿でした。
 
イメージ 3
てっぺんには鳳凰。側面には唐獅子のレリーフ。唐獅子は丸彫りのものも四隅に配されています。
 
イメージ 6
 
イメージ 4
 
イメージ 5
 
さらに唐獅子と唐獅子の間には、十二支の彫刻。非常に精緻です。
 
イメージ 7
 
イメージ 8
 
イメージ 9
 
イメージ 10
 
ただ、よく見る光雲作品と違って、彩色が施されており、木肌の感じなどがよく判りませんでした。
 
近くにはやはり光雲作の獅子頭も。こちらは木の質感がまさに光雲彫刻です。
 
イメージ 11
 
イメージ 12
 
イメージ 13   イメージ 14

午後1時の巡行にはまだ間があったので、近くで昼食を取り、あらためて出直しました。
 
イメージ 15
 
イメージ 16
 
イメージ 17
 
イメージ 18
 
若衆が威勢よくかつぐのもいいのですが、こういう白装束の面々がしずしずとかついでいくのもいい感じですね。
 
ちなみに『神奈川新聞』さんの記事がこちら。 

白装束で厳かに 横浜・イセザキモールで火伏神輿行列

 災難よけで知られる神輿(みこし)が練り歩く「火(ひ)伏(ぶせ)神輿行列」が13日、横浜市中区伊勢佐木町1、2丁目で行われた。日枝神社例大祭のメーン行事の一つ。今年で10回目。
 町内の有志による担ぎ手30人が白装束に身を包み、雅楽の演奏を先導に「エイサー、エイサー」と掛け声を掛けながら厳かに1、2丁目を往復した。
 同神輿は関東大震災や戦火を免れたことから、火を逃れた霊験をたたえ火伏の神輿と呼ばれるようになったという。
 
 
ちなみに光雲が暮らした文京区千駄木にも、光雲作の子供神輿が残っているはずなのですが、詳細が不明です。情報をお持ちの方はご教示下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月14日
 
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の診療所医師・太田公俊方で村人15,6人と酒を飲みつつ座談を行いました。
 
十和田湖畔の裸婦像制作のため上京する光太郎の送別会的に、村長・高橋雅郎の肝煎りで行われました。筆録が残っており、平成18年(2006)刊行の厚冊『光太郎遺珠』に掲載してあります。

昨日に引き続き、光太郎の父・高村光雲に関する新着情報です。

シンワアートオークション 近代美術

開催日 2014年 9月27日(土)
時間 17:00
会場 シンワアートミュージアム
下見会 シンワアートミュージアム
 2014年 9月24日(水)~9月26日(金) 10:00~18:00
 2014年 9月27日(土) 10:00~12:00 
カタログ 4,000円
出品点数 176点
落札予想価格下限合計 3億6,175万円
 
主な出品作品
高村光雲 「大黒天像」 H14.9cm 木彫 大正13年作 落札予想価格:\5,000,000.~\8,000,000
 
イメージ 1
 
東山魁夷「湖光る」/荻須高徳「Marchand de Charbon à Vanve, Paris」/ピエール=オーギュスト・ルノワール「Buste de Femme」
 
以前にも光雲作品が出たのでご紹介したシンワアートオークションさんでの、新たな入札会です。
 
 
もう1件。
2014/9/12(金)~14(日)
 
年間で最も大切な祭事であり、かつ盛大に執り行われる日枝神社の例祭のことです。
また、お三の宮秋祭りでも知られており、現在は九月中旬、敬老の日前の金土日に行われ、『神奈川の祭り五〇選』にも選ばれています。

横浜随一の大神輿による氏子内御巡行は毎年行われ、本祭り(奇数年毎)には大小40基にも及ぶ町内神輿連合渡御がイセザキ町などを練り歩き、市内屈指の規模を誇ります。
境内では神賑行事として、氏子有志による奉納演芸会や、児童園児による書画の作品展などが催され、縁日や献灯で賑わいます。
 
イメージ 4
 
横浜は南区山王町のお三の宮日枝神社さんのお祭りです。年中行事ですので、このブログでも一昨年昨年と紹介いたしました。光雲作の「火伏神輿」も出ます。13日(土)の13時から、伊勢佐木町を練り歩きます。3日の間で練り歩かないときは有隣堂さんの前に、やはり光雲作の獅子頭とともに展示されるとのことです。
 
イメージ 2

イメージ 3

今年は見に行ってみようかな、と思っております。000
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月8日
 
昭和17年(1942)の今日、光太郎が背の文字を揮毫した佐藤隆房著『宮澤賢治』が冨山房から刊行されました。
 
佐藤隆房医師は、総合花巻病院を開いた宮澤賢治の主治医。その関係で、賢治を広く世に紹介した光太郎と知り合いました。昭和20年(1945)に空襲で東京のアトリエを失った光太郎を花巻に招くのに一役かってもいます。
 
花巻到着後にすぐ高熱を発して倒れた光太郎を看護したり、終戦直後の短期間、光太郎を自宅に住まわせたりもしました。その後も足かけ8年岩手で暮らした光太郎と深い交流を続けました。光太郎歿後も花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めています。
 
イメージ 6
 

島根から、光太郎の父・光雲の関連での新着情報です。 

新安来市発足10周年記念事業 「米原雲海とその系譜展」

新安来市発足10周年記念事業として和鋼博物館と共催。  
安来市加納美術館では 「米原雲海とその系譜展」と題し、雲海の師弟・同門の方々の作品を展示。
 
イメージ 1
 
 
日 時  2014年9月18日(木)~10月20日(月) 火曜休館 9:00~16:30
場 所  加納美術館  〒692-0623  島根県安来市広瀬町布部345-27
料 金  一般1,000円 高校生以上の学生500円
 
正確には、安来市内の「和鋼博物館」「加納美術館」「安来市観光交流プラザ」の3箇所で同時開催で、和鋼博物館では「米原雲海彫刻展」、観光交流プラザでは「現代彫刻家展」が開催されます。
 
加納美術館さんの「米原雲海とその系譜展」で、光雲の作品も展示されます。
 
イメージ 2
 
米原雲海は光雲の弟子の中でも、力量の高かった一人。信濃善光寺の仁王像を、光雲と共に制作しています。
 
他に雲海の兄弟弟子、山崎朝雲、加藤景雲ら、さらに雲海の弟子に当たる木山青鳥らの彫刻も、「系譜」ということで出品されます。
 
ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月7日
 
明治43年(1910)の今日、光太郎が装幀と表紙の装画を担当した吉井勇歌集『酒ほがひ』が刊行されました。
 
イメージ 3
 ペルシャ文字があしらわれています。

注文しておいた書籍が届きました。NHK Eテレさんで放映中の「日曜美術館」で司会を務められている、俳優の井浦新さんのエッセイ集です。 
2014年8月6日 青幻舎 定価1,600円+税
 
素顔のエッセイ
ポートレート満載、書き下ろしコラムも掲載
自分が興味をもったことに対して、
とことん突き詰めていく面白さを、
この本を通じて、体感してもらえると嬉しいです。
歴史・美術・日本の手仕事を、心から愛する井浦新が、
NHK「日曜美術館」での感動体験から人生観までを語りました。
紹介作家 本阿弥光悦、鈴木其一、河鍋暁斎、河井寛次郎、植田正治、藤城清治、ムンクほか全18篇。
特別コラム 「崇徳院が僕に舞い降りた」「展覧会の僕的見方」、「実はメモ魔なんです」ほか収録。
 
イメージ 2
 
井浦さんが司会に抜擢された昨年からの放映で、特に心に残っている18本について、それぞれの作家や作品を軸に、軽妙なエッセイが展開されています。
 
昨秋放映の「智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」も取り上げて下さいました。ありがたや。
 
その際には渋谷のNHKさんで、スタジオ収録に立ち会わせていただいたのですが、光太郎の彫刻に対する井浦さんの的確な表現に感心しました。今回もそれが生かされています。
 
ブロンズの『手』は、「関節のゴツゴツした感じや肉感が、ものをつくる人の手に見えてくる。職人の手というか、働いている人の生々しい手で、リアルさに迫力を感じます。」。
 
木彫の「鯰」には、「《鯰》の愛嬌のある顔と、木彫なのに、ヌメッとしているような皮膚感覚がたまりません。」。
 
同じく木彫の「蟬」では、「《蟬》の表現は、鋭い観察眼によるものですが、なんともさらっと彫られているところが凄い。」。
 
などなど。
 
特に感心したのは、「十和田湖畔の裸婦群像」(通称乙女の像)に対してです。番組の中では、十和田湖で実際に見て、なぜこの像がここのためにつくられたのか、違和感を感じたとおっしゃっていました。今回もそういう記述がありますが、それだけでなく、こうも書かれいています。
 
 だけど、今回の「日曜美術館」で、その違和感の理由が少しわかったような気がします。
 光太郎の生涯をとりまいていた、しがらみを一切脱ぎ捨てて、ひとりの人間として智恵子に向かった証でもあり、智恵子と自分のためだけに《裸婦像》をつくった。だから、人に見せるための「作品」になっていないのではないでしょうか。
 
十和田湖畔の裸婦像に対しては、以下のような、十和田の自然と一体化しているという評が一般的です。
 
 構想のすばらしさと、その大きさからくる重量感と、更にこの像の背景に原始林と湖のあることを念頭においたとき、私は宇宙性をもった或る深い「詩魂」を感じた。この像の立体感は、おそらく十和田湖の水面に対して過不足あるまい。
 (亀井勝一郎「美術と文学(二)」『群像』 講談社 昭和30年=1955)
 
 自然の中に置く彫刻はむずかしい。自然の大変な圧力を持ちこたえるだけの力のものか、あるいは自然の力の中に溶けてしまつているのだけが、美を感じさせる。湖畔の樹木の間に立っている緑青(ろくしよう)の二人の若い女は、自然の中にそれを見る者の心を反撥させることなく、調和していた。日本では、これだけに外の自然の中に出しておける彫刻は他に一つもない。ヨーロッパにだって滅多にない。
 (高田博厚「十和田湖像が意味するもの」『東京新聞』 昭和35年=1960)
 
しかし、井浦さんは、逆に十和田湖の風景の中のこの像に違和感を感じたそうです。それは、この像が智恵子の顔を持つことに由来し、個人的な制作動機も背景に持つことを鋭く見抜いているからで、ある意味、慧眼です。
 
光太郎自身も、公共の彫刻であるこの像に、個人的な制作動機が入っていることに後ろめたさを感じている部分があったようです。
 
 なお、東京のアトリエのことなどを相談しているうちに、「智恵子を作ろう」と、ひとりごとのように高村さんはいわれた。それはこんどの彫刻に対する作者自身の作意を洩されたものであつたが、高村さんはその言葉のあとで、そんな個人的な作意を十和田湖のモニユマンに含ませることは、計画者の青森県にすまないような気がすると、そんな意味の言葉を申し添えられたのである。
(谷口吉郎「十和田記念像由来」『文芸』臨時増刊号 河出書房 昭和31年=1956)

 
というわけで、なかなか鋭い井浦さんのご著書。ぜひお買い求めを。
 
光太郎以外にも、岡倉天心、宮澤賢治(藤代清治さんの影絵にからめて)、朝倉文夫など、光太郎と関わりの深い人物にも言及されています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月2日
 
明治37年(1904)の今日、新詩社清遊会で赤城山を訪れた与謝野鉄幹、三宅克己、石井柏亭、伊上凡骨、大井蒼梧、平野万里を案内しました。
 
光太郎は前月から赤城山に滞在、後から来た一行を迎えての案内でした。
 
イメージ 1
 
左から、大井、鉄幹、伊上、光太郎、石井、平野、撮影は三宅です。

最近、このブログでご紹介した企画展につき、報道がなされていますので、2件、ご紹介します。いずれも光太郎の名前が入っているものです。
 
まずは、金沢で開催中の「中村好文 小屋においでよ!」 について。 

暮らし、12平方メートルに凝縮 金沢で中村好文の「小屋」展

『朝日新聞』 2014年7月9日 無題
 
 人が暮らせる最小限の空間を追求した建築展「小屋においでよ!」が、金沢市の金沢21世紀美術館で開かれている。建築家の中村好文が寝食、調理、風呂、トイレの機能を12平方メートルに凝縮した。
 
 中村が作った「小屋」は、幅3メートル、奥行き4メートル。だが天井が3メートルと高いせいか、内部は広く感じる。間取りはワンルーム。居間の窓際にソファベッドが造り付けられ、寝室を兼ねている。右手奥に台所があり、勝手口に通じる。左手奥にはシャワーとトイレ。小さなクローゼットもある。
 
 中村は武蔵野美術大在学中から、住宅の設計に興味を持った。悪条件であるほど建築家の能力が問われると考え、いわゆる狭小住宅を好んで設計してきた。今回の作品は「建築というより営巣」。「小屋をテーマに住宅の本質をあぶり出したい」と話す。
 
 設計には、名作といわれる小屋を見てきた経験が生きている。建築家ル・コルビュジエの「休暇小屋」、詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年に住んだ岩手県花巻の「山荘」。アメリカの文筆家ソローが「森の生活」で描いた小屋も参考にした。
 
 裏テーマは「エネルギー」だという。屋根に太陽光発電パネルをつけ、一つしかない電灯の電源を賄う仕組み。屋根の上の樽(たる)に雨水をため、シャワーは太陽熱で温めたタンクの水で、炊事は七輪の炭火で。「この家を見て、暮らしを考え直してもらうのが目的。質素で簡素な暮らしを『いいな』と思ってもらえれば」
 
 設計段階のスケッチや図面、ル・コルビュジエ、高村光太郎らの「名作小屋」の模型なども展示している。(安部美香子)
 
 
続いて、高岡市美術館の「メタルズ!-変容する金属の美-」展について。

金属の機能切り口に メタルズ!展-村上隆高岡市美術館長に聞く(下)

北日本新聞』 2014年7月8日003
 
■既成概念取り払う
 高岡市美術館で開かれている「メタルズ!-変容する金属の美」展は、全国の美術館や博物館が所蔵する古代から現代までの約100点の金属造形作品がそろう。企画・監修した村上隆高岡市美術館長がこだわったのは、その「見せ方」だ。時間軸にとらわれず、金属の機能性にスポットを当てた展示とし、これまでにない展覧会を実現させた。

 二条城に飾られていた国宝の釘隠(くぎかくし)、法隆寺伝来の重要文化財「金銅小幡(こんどうしょうばん)」、国内で唯一出土した金製の勾玉(まがたま)…。会場には、歴史的に価値が高い古代や中近世の名品が並ぶ。京都国立博物館学芸部長を務めていた村上館長のネットワークで、高岡に初めてこうした逸品が集うことになった。

 近現代の作品も、美術の教科書でおなじみの高村光太郎「手」や、芥川龍之介が「この首は生きている」と語った逸話が残る中原悌二郎「若きカフカス人」など、多様な作品がそろった。

 村上館長は「美術館、博物館という枠組みを取り払いたかった」と意図を説明する。一般的に、美術館は明治時代以降、博物館は明治以前の作品を展示するケースが多いが、そうした枠組みにとらわれると、金属の多様な美は紹介できない。目指したのは、既成概念に縛られない自由な展覧会だ。

 「お勉強の場にはしたくない」と、時代や年代別に並べることはせず「金属が持つ機能性を大事にして展示の構成を考えた」。金属は硬く強いだけでなく、独特の光沢があり、振動や熱を伝えるなどの特性を持つ。企画展会場の三つの展示室のうち、古代から近代までの金属造形を集めた第2室は「飾り」「響き」「器」など機能別に並べた。

 近現代の作品は機能ではくくりにくいため、第1室に工芸作品と具象彫刻、第3室は抽象的な造形作品を集めた。「時代とともに、金属は道具だけでなく自己表現の素材として用いられるようになる。機能で分けられなくなるのは当然」とし、それぞれの展示室の中で見せ方を工夫した。

 日本の金属造形史を美術館的な手法で俯瞰(ふかん)する「メタルズ!」展は、金工のまち・高岡を出発点に全国4市を巡回する。村上館長は「日本人の生活の中で、金属造形がどういう意味合いを持ってきたかを見てもらう場。新たな発想を生むためにも、いろんな見方をしてほしい」と語った。■第1室「二度楽しめる空間」
 村上隆館長が「メタルズ!」展の展示で最も苦労したのは、近現代の工芸作品と具象彫刻を集めた第1室だ。

 工芸は、伝統的な金工技術を踏襲しつつ新しい方向性を追求した作品群。芸術表現の素材として金属を用いた彫刻とは、性質が全く異なる。村上館長は「両者のせめぎ合いを目の当たりにし、本当に悩んだ」と振り返る。

 そこで考えたのが、二つの世界の良さを生かす展示。壁面のガラスケース内には工芸作品を並べ、中央の開けたスペースに彫刻を展示した。

 彫刻は、村上炳人(へいじん)「つめこまれたちえぶくろ」を中心に、12点を円形に配置した。時計や十二支を意識したという。にらみ合うネコ(朝倉文夫「眈々(たんたん)」)とカラス(柳原義達「道標 鴉(からす)」)など、それぞれの作品の目線の先も意識して鑑賞すると面白い。中央の「つめこまれたちえぶくろ」は正面がない全方位的な作品で、磨き上げられた金属部分が周囲の作品を映し出す効果もある。

 村上館長は「一つの空間で2度楽しめる展示になったと思う。ぜひ足を運んで展示の秘密を読み解いてほしい」と話した。(高岡支社編集部・荒木佑子)

 「メタルズ!」展は8月31日まで。高岡市美術館開館20周年・北日本新聞創刊130周年記念。高岡の後、碧南市藤井達吉現代美術館(愛知)、北九州市立自然史・歴史博物館(福岡)、新潟市新津美術館(新潟)を巡回する。
 
ところで、また見落とすところでしたが、「メタルズ」展、昨年、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展を開催した、愛知碧南藤井達吉現代美術館にも巡回されるのですね。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月11日
 
明治28年(1895)の今日、光雲が、京都で行われた第四回内国勧業博覧会に木彫「氷室翁」を出品し、妙技二等賞、「天鹿馴兎」「睡猫置物」で妙技三等賞を受賞しました。

富山県高岡市から企画展の情報です。

高岡市美術館開館20周年記念 メタルズ!-変容する金属の美-

期 日 : 2014年6月28日(土)~8月31日(日)
会 場 : 高岡市美術館 富山県高岡市中川1丁目1番30号
時 間 : 午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
料 金 : 
一般1,000円(前売・団体・65歳以上800円)、
      高校・大学生700円(団体560円)
 小中学生300円(団体240円)

休 館 : 月曜日(月曜日が祝・休日の場合は開館し、翌平日に休館)
 
 金属器生産の長い歴史を持つ高岡から発信する展覧会。古代から現代に至るさまざまな金属造形・金属工芸作品を展示します。展示構成は、時間軸にとらわれずに、輝き、彩り、音など、金属の持つ特性や機能性に着目するなど、これまでにない切り口とします。
 
 本展は、400年にわたる金属器生産の歴史を持つ高岡からの発信として、高岡市美術館が企画し、金属産業とゆかりの深い地域の博物館・美術館と連携して開催します。各地の博物館・美術館のご協力のもと、古代から現代に至るさまざまな金属造形作品、金属工芸作品をご覧いただきます。
 その構成は、時間軸にとらわれずに、例えば、輝き、彩り、音など、金属の持つ特性や、道具、装飾などの機能性に着目するなど、これまでにない切り口とします。博物館・美術館がそれぞれの枠組みを超えて連携するのは画期的であり、美術界、さらには産業界に対しても「明日への提言」となる展覧会です。
イメージ 1
 
関連行事
 
○展覧会鑑賞と鋳造メーカー・作家アトリエ見学ツアー
第1回 7月11日(金)午後1時~5時
内容:展覧会鑑賞(学芸員による解説)/大澤美術鋳造所/般若鋳造所/畠春斎家
第2回 7月18日(金)午後1時~5時
内容:展覧会鑑賞(学芸員による解説)/株式会社老子製作所/平和合金株式会社/中村美術工芸
集合・解散 いずれも高岡市美術館  参加料 観覧券が必要
申込み 7月1日(火)午前9時30分から受け付け 
     電話(0766-20-1177)先着12名まで受付け 1回のみの参加も可能
 
○連続講演会
(1)「近代作家の工芸表現について」 7月19日(土)午後2時~3時30分
  講師 諸山 正則氏(東京国立近代美術館工芸館 工芸室長)
(2)「変容する金属の美」 7月26日(土)午後2時~3時30分
  講師 村上 隆(高岡市美術館長)
いずれも 高岡市美術館BF ビトークホール (聴講無料・申込不要)
 
○シンポジウム ・トークショー 「メタルズ!展を語ろう」
井浦 新氏(俳優、NHK日曜美術館キャスター)×村上 隆
パネルディスカッション「金属の美について語ろう」
 コーディネーター:村上 隆(高岡市美術館長)
パネリスト:大澤 光民氏(人間国宝 金工作家)  能作 克治氏(株式会社能作 社長)
      原田 一敏氏(東京藝術大学大学美術館 教授)
      平戸 香菜氏(金屋町金属工芸工房かんか 金工作家)
とき 8月10日(日)午後1時30分~4時10分(開場 午後1時)
ところ 高岡市生涯学習センターホール(高岡市末広町1番7号ウイング・ウイング高岡4F)
参加料 無料


富山県高岡市は、鋳造による「高岡銅器」の街として有名です。そちらで館長の村上隆氏自らが企画・監修されたという企画展です。約100点の、古代から現代に至るまでの金属造形作品が展示されているそうです。ネット上で出品目録が見つかりませんが、光太郎作のブロンズ彫刻「手」も出品されているとのこと。
 
また、関連行事ではNHK「日曜美術館」でおなじみの俳優・井浦新さんもご登場。
 
お近くの方、ぜひどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月8日
 
昭和27年(1952)の今日、盛岡の岩手県公会堂で、ジャーナリスト・下村海南の講演会を聴きました。

「オークション」というシステムがあります。昨今は一般人が自由に出品できるインターネットオークションが幅広く利用されています。
 
元々「オークション」といえば、英国のサザビースのように、決まった日にちに特定の会場で競りをするもので、時折報道で「××の絵が○億円」などとあるのは、殆どがこうした「アートオークション」によるものです。
 
日本でもアートオークションを運営している企業が幾つかあり、現在は愛知のメナード美術館に収まっている光太郎作の木彫「栄螺」は、こうしたアートオークションで70余年ぶりに世の中に出て来ました。
 
さて、日本のアートオークション運営会社の中でも大手のシンワアートオークションさん。去る6月28日(土)にシンワアートミュージアムにて「近代美術 / 近代陶芸 / 近代美術PartIIオークション」を開催しました。
 
こちらに光雲作の木彫「聖観世音菩薩像」が出品され、落札されています。
 
イメージ 1
 
落札価格は、なんと¥10,500,000=一千とび五十万円。普段、せいぜいカンマ一つの世界でしか生活していませんので、右から「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……」と数えないとパッとわかりませんでした。
 
光雲作の優品であれば、このくらいの値段がついてもおかしくはありません。
 
つい先日も同じことを書きましたが、光雲生前には、作品の値段もそれほどではなかったようです。光太郎の回想によれば、光雲は「1日の手間賃がいくら、この作品は何日かかったからいくら」という計算で価格を決め、それもたいした値段をつけなかったといいます。曰く「俺にゃ、そう高く取る度胸はねえ」と、江戸っ子の職人の気概を終生持ち続けたとのこと。
 
ところが、客との間に入る商人がマージンを高く取ることがあったそうで、光雲歿後にはそうした美術商が何軒かつぶれたという話も残っています。泉下の光雲は苦笑しているのではないでしょうか。
 
もっとも、同時に落札された棟方志功の板画は八千二百万でしたが……。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月4日
 
昭和62年(1987)の今日、八千代出版から石井昌光著『日本近代詩人論 ――高村光太郎から丸山薫まで――』が刊行されました。
 
石井氏は明治44年(1911)のお生まれ。宮城学院女子大002学の学長などを務められた方です。「あとがき」によればこの年に亡くなっています。
 
そういう大先輩に対して失礼かとは存じますが、真面目ないい論考です。
 
扱われているのは光太郎を筆頭に、萩原朔太郎、宮澤賢治、三好達治、丸山薫。それぞれの詩人に対する敬愛の眼差しが伝わってきます。
 
やはり扱う対象に対するリスペクトの念に欠けるものは、読むに耐えません。「対象の批判をするな」というわけではありませんが、その対象が「鼻持ちならない」とか云うなら、「論じるな」と言いたくなります。
 
といって、一面だけを捉えて、我田引水のリスペクトも困りものですが……。自戒のためにも書いておきます。
 
ちなみに右の画像、白っぽいのはパラフィン紙のせい。シミは古書店で購入した時からついていました。

株式会社花美術館発行のアート雑誌『花美術館』の最新号です。
 
イメージ 1
 
特集は陶芸家の北大路魯山人ですが、後半の「現代作家――美覚と眼力」というコーナーで、青森在住の彫刻家、田村進氏の近作「冷暖自知光太郎山居」が4ページにわたり紹介されています。
 
イメージ 2  イメージ 3

イメージ 5  イメージ 4

氏は昭和28年(1953)、十和田湖畔の裸婦群像除幕のため青森を訪れ、その後、野脇中学校で講演を行った光太郎とお会いになったことがあり、その偉大さに打たれたお一人です。一昨年にはレリーフの光太郎肖像も作製されています。
 
作品名は「冷暖自知光太郎山居」。戦後、花巻郊外太田村で独居していた頃の光太郎の肖像です。「冷暖自知」とは「仏法の悟りは、人から教えてもらうものでなく、氷を飲んでおのずからその冷暖を知るように、体験して親しく知ることのできるものである。」(『広辞苑』)の意。大正元年(1912)作の光太郎詩「或る宵」に使われています。
 
   或る宵
 
 瓦斯の暖炉に火が燃える
 ウウロン茶、風、細い夕月

 ――それだ、それだ、それが世の中だ
 彼等の欲する真面目とは礼服の事だ
 人工を天然に加へる事だ
 直立不動の姿勢の事だ
 彼らは自分等のこころを世の中のどさくさまぎれになくしてしまつた
 曾て裸体のままでゐた冷暖自知の心を――
 あなたは此を見て何も不思議がる事はない
 それが世の中といふものだ
 心に多くの俗念を抱いて
 眼前咫尺の間を見つめてゐる厭な冷酷な人間の集りだ
 それ故、真実に生きようとする者は
 ――むかしから、今でも、このさきも――
 却て真摯でないとせられる
 あなたの受けたやうな迫害をうける
 卑怯な彼等は
 又誠意のない彼等は
 初め驚異の声を発して我等を眺め
 ありとある雑言を唄つて彼等の閑(ひま)な時間をつぶさうとする
 誠意のない彼等は事件の人間をさし置いて唯事件の当体をいぢくるばかりだ
 いやしむべきは世の中だ
 愧づべきは其の渦中の矮人だ
 我等は為すべき事を為し
 進むべき道を進み
 自然の掟を尊んで
 行住坐臥我等の思ふ所と自然の定律と相戻らない境地に至らなければならない
 最善の力は自分等を信ずる所のみにある
 蛙のやうな醜い彼等の姿に驚いていはいけない
 むしろ其の姿にグロテスクの美を御覧なさい
 我等はただ愛する心を味へばいい
 あらゆる紛糾を破つて
 自然と自由とに生きねばならない
 風のふくやうに、雲の飛ぶやうに
 必然の理法と、内心の要求と、叡智の暗示とに嘘がなければいい
 自然は賢明である
 自然は細心である
 半端者のやうな彼等のために心を悩ますのはお止しなさい
 さあ、又銀座で質素な飯(めし)でも喰ひませう
 
 
この詩は大正初年の作ですが、「冷暖自知」の語は、のち、太田村での農耕自炊の生活の中で、「為すべき事を為し/進むべき道を進み/自然の掟を尊んで/行住坐臥我等の思ふ所と自然の定律と相戻らない境地に至」らんとした光太郎の内面をよく表している言葉だと思います。
 
3ページ目の画像にある背部の銘は北川太一先生の揮毫です。
 
田村氏による<製作意図>から。
 
 現今の時勢だからこそ光太郎を知らしめたいとの強い想いで制作。北川太一先生から資料の提示を仰ぎ、光太郎へのオマージュにしたいとの決意で臨んだ。
 勿論力量不足は否めない事実であるが、一人でも多くの人々に高村光太郎の偉大さを伝えたいとの一念に押された。
 詩人、歌人、評論家、書家そしてなにより彫刻家を自認、標榜した作家であった。美術家はもとより特に小学校高学年、中学生には人生の応援歌として詩『牛』を読んで欲しい! 加えて文芸評論の全てや、十和田湖休屋の『乙女の像』には日本民族の精神の指針、人生への示唆が溢れているのを確認して欲しい。

「牛」はこちらをご覧下さい。
 
『花美術館』、amazonなどから購入可能です。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月1日無題
 
昭和22年(1947)の今日、雑誌『展望』に連作詩「暗愚小伝」が掲載されました。
 
「戦争責任」を柱に、幼少期からの自らの来し方を20篇の連作詩にまとめたもの。光太郎、一つのターニングポイントになった作品群です。
 
これ以前の太田村での農耕自炊は、「文化集落の建設」といった無邪気な夢想ともいえる部分がありましたが、「自己流謫」=自分で自分を流刑に処する、という方向に変わっていきます。
 
まさしく「冷暖自知」の境地に入って行くわけです。

渋谷東急さん8階美術ギャラリー。今年4月には「秀作彫刻展」なる展示即売会を開催しましたが、現在、以下が開催中です。  

佛像の美 展

会場 東急百貨店渋谷本店 8階 美術ギャラリー  渋谷区道玄坂2-24-1
会期 2014年6月26日(木)~7月2日(水)
時間 10時~19時 最終日は17時閉場
 
心穏やかに安心できる喜びを仏像の美しさの中に求めた意欲作の数々を一堂に集め、展示販売いたします。
 
イメージ 1
 
光雲の師・高村東雲の作品が出品されています。
 
高村東雲は本名・奥村藤次郎。文政9年(1826)、下谷北清島町の生まれ。江戸末期の仏師です。
 
その系譜をたどってみましょう。将軍家ご用達の仏師・七代幸慶門下の法眼・高橋鳳雲のもとで11年の修行を積み、独り立ちの際に、師の姓名から「高」と「雲」、自身の姓から「村」、本名の「藤次郎」の「藤」を「東」に換え、高村東雲を名乗りました。師の高橋鳳雲は安政5年(1858)に歿しています。
 
したがって、光太郎家系の高村姓はここから始まったわけで、それほど由緒が深いわけではありません。
 
光太郎の父・光雲は本名・中島光蔵。文久3年(1863)に東雲に弟子入りしました。かの新選組が結成された年です。当時の慣習に従って、光雲も11年の修行を積み、明治7年(1874)に独立します。ほぼ同時に徴兵忌避のため、師・東雲の姉・悦の養子になり、高村姓となりました。
 
当時の徴兵令では、長男は徴兵免除。光雲には大工となった異母兄がおり、徴兵対象でしたので、養子縁組がなされたのです。
 
東雲はその後、明治12年(1879)に歿。没後、東雲の号は直系の子孫に受け継がれていき、三代目東雲が晴雲と号を変え、さらに二代目晴雲に受け継がれました。
 
その初代東雲の作品が渋谷東急の「佛像の美 展」に出品されています。光雲の識(鑑定)が入っているとのこと。ぜひご覧下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月29日無題
 
昭和55年(1980)の今日、赤坂のサントリー美術館で開催されていた「近代芸術家の書」展が閉幕しました。
 
光太郎を含む50余名、約200点の作品が並ぶ大規模な展覧会でした。
 
光太郎作品は「うつくしきもの満つ」「蟬のうた」「リンゴ畑に」「太田村山口山の……」「有機無機帖」、さらに彫刻「手」。
 
夏目漱石、森鷗外、樋口一葉、横山大観ら、並み居る諸先輩方をさしおいて(笑)、光太郎の書が図録の表紙を飾りました。

昨日、横浜に行って参りました。
 
午前中、港の見える丘公園にある神奈川近代文学館で調べ物をし、午後はそこからほど近い南区の増徳院というお寺に行きました。元々は元町にあったお寺で、有名な外国人墓地はこのお寺の敷地だったそうですが、関東大震災の関係で、数㌔離れた現在地に移転したとのことでした。
 
こちらの境内に光雲作という聖観音菩薩像が鎮座ましましているというので、観に行った次第です。
 
港の見える丘公園から、外個人墓地やフェリス女学院などのある山手地区の高台の道を、カーナビに導かれて走ること数分、着きました。門前に駐車スペースが見あたらなく、「困ったな」と思ったところ、山門をくぐった境内が非常に広く、そちらに駐められました。
 
目指す観音像は、本堂の手前に独立した観音堂という堂宇があり、そちらにいらっしゃいました。
 
イメージ 1
 
イメージ 3
 
イメージ 2
 
像高約七尺。かたわらに立つ案内板に依れば、奈良薬師寺の聖観音像を模刻したものだそうです。非常に優美なお姿の鋳造仏です。
 
イメージ 4
 
大正12年(1923)10月の作とあり、まさに関東大震災の直後です。説明板には震災の文字はありませんが、このお寺の縁起にも震災が関わっており、無関係とは思えません。ただし、この地にこの像が建てられたのは昭和42年(1967)だそうです。しかし、この案内板を読んでも今ひとつなぜここにこれが、というのがよく判りませんでした。
 
失礼して像の裏手に回ってみると、台座にいろいろと銘が入っていました。
 
イメージ 5
 
「大正十三年四月」の文字。鋳造の成った年月でしょう。
 
イメージ 7
 
「顧問 高村光雲」。「顧問」という語から、工房作といったニュアンスが感じられます。
 
イメージ 6
 
さらに「池田鋳造所」の文字。
 
ただ、案内板を読んでも詳しいことが判りません。
 
光雲の仏像はあちこちで見られます。同じ神奈川の鎌倉は材木座の長勝寺さんの日蓮像、東京浅草観音の沙竭羅龍王像信濃善光寺の仁王門などなど。
 
ただし、なぜそこにこれが、という由来が今ひとつはっきりしないものが多く、そのあたりの調査も今後の課題の一つかな、と思っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月26日

昭和16年(1941)の今日、『都新聞』に散文「神経の浪費 中央協力会議の印象(上)」が掲載されました。
 
「中央協力会議」は大政翼賛会の肝煎りで始まったもので、各地方代表、各界代表の代議員が参加、挙国一致体制の確立に向け、さまざまな提案、議論がなされました。
 
前年12月に臨時会議が開催され、さらにこの年6月16日~20日の日程で第1回会議が開催されました。光太郎はこの第1回会議で「芸術による国威宣揚」について提案しています。さらに第2回会議はちょうど太平洋戦争開戦の日に重なり、途中で切り上げられました。この後も何度か開催されましたが、光太郎は第2回限りで委員を辞しています。
 
こういう会議の印象記であるにもかかわらず、光太郎の論調は否定的ですし、サブタイトルが「神経の浪費」、さらに翌日掲載の(下)に至っては「無駄な時間」というサブタイトルです。このサブタイトルは『都新聞』がつけたものかもしれませんが、大政翼賛会にケンカを売っているようにしか見えません。太平洋戦争開戦前には、まだこんなことが許されていたのですね。ちなみに『都新聞』は現在の『東京新聞』です。
 
イメージ 8
 
この文章、永らく初出掲載誌が不明で、『高村光太郎全集』には随筆集『某月某日』からの採録でしたが、数年前に『都新聞』に掲載を確認しました。

近刊です。

『日本美術全集 17 前衛とモダン』003

小学館刊行
北澤憲昭著 
定価 :本体15,000円+税 
発売日 2014/06/25
 
判型/頁 B4判/320頁
 
 
美術「誕生」を経て、美術「変容」へ
明治末から大正にかけて、日本の近代美術は内面性と社会性に目覚めてゆきます。高村光太郎が芸術の絶対自由を叫び、荻原守衛は内的生命を高らかに歌い上げ、岸田劉生が内なる美を唱えます。
伝統派の絵画に、装飾性に満ちた清新な地平が切り開かれたのもこの時代でした。
そして、アヴァンギャルドたちは絵画や彫刻の枠から美術を解き放ち、民芸運動は美術と生活につながりを見出してゆきます。
関東大震災に見舞われたこの時代は、明治がつくりあげた美術が激しく揺さぶりをかけられた時代でもあったのです。
黒田清輝、青木繁から始まるこの巻では、明治が創り上げた美術が大いに変容していく時代に登場した作品を、「自己表現の自覚」と「社会性への目覚め」という新しい視点と数多くの作品で俯瞰します。

目次
 はじめに  北澤憲昭
 テクノロジーからアートへ ―― 制度史的なスケッチ  北澤憲昭
 「表現」の絵画  北澤憲昭
  (コラム)日本近代美術史にみるユートピア思想  足立 元
  (コラム)震災の記録画  ジェニファー・ワイゼンフェルド 
 図案と写真  森仁史
  (コラム)書の近代 ―― 「型」から造型へ  天野一夫
 偶景『狂った一頁』 ――日本映画と表現主義の邂逅  藤井素彦
 都市空間のなかの造型 ―― 建築・彫刻・工芸  藤井素彦
 いけばなの近代化と未遂の前衛  三頭谷鷹史
 前衛――越境する美術  滝沢恭司
 図版解説
 関連年表
 序文英訳・英文作品リスト
 
『日本美術全集』。小学館さんの創業90周年記念ということで、一昨年から全20巻の予定で刊行中です。刊行開始時、この手の全集ものの刊行は時代の流れに逆行しているという批判、「大丈夫か?」と危ぶむ声などがありました。そのあたりは、編集委員でもある美術史家の辻惟雄氏による「日本美術全集の刊行にあたって」に詳しく書かれています。
 
世界あるいは日本の美術史上の作品を網羅して、パブリック(一般読者層)に提供する大型の「美術全集」が日本で初めて刊行されたのは、昭和初期の平凡社版『世界美術全集』(1927〜30)が最初とされる。
第二次大戦後、平凡社から再び『世界美術全集』が出された。そのとき高校3年だった私は、父にねだって、黄色い布の表紙に皮の背表紙をつけた第1回配本を手に入れた。そのときの喜びは忘れられない。
以後、角川書店版『世界美術全集』を経て、小学館の『原色日本美術』(1966‐1972)が空前の美術出版ブームを巻き起こし、その余熱のなかで、学研版『日本美術全集』(1977-80)、講談社版『日本美術全集』(1990‐94)、小学館版『世界美術大全集(西洋編・東洋編。日本美術は含まず)』(1992‐2001)と続いた。しかし、このあたりで、美術全集の刊行は途切れてしまう。編集費の増加が定価を釣りあげた。テレビの美術番組や展覧会カタログが充実してきた。執筆内容がアカデミックで難解になった。大型本を置く場所がない、などの理由に加えて、コンピュータによるデジタル画像の普及が、紙に印刷する美術図書の存続を脅かしている、という見方もある。
だが、そのような状況にあっても、従来の大型版『美術全集』は引き続き必要だ。
美術作品の観賞には、大型の図版が必須である。将来それは、家庭に備えられた大型の液晶パネルに表示された画像に取って代わるかもしれない。だが決して簡単には実現しないだろう。版権など、ややこしい問題が控えているからだ。場所塞ぎとはいえ、大型本『美術全集』の役割はまだまだ続くだろう。ただ、古びた内容だけは御免だ。
今回の企画は、アカデミズムの世界からスタートしながら、あえて日本美術の広報担当者を目指す山下裕二氏の案に基づいて発足した。気鋭の若手美術史家の登場を促すと同時に、難解な論文をチェックする。最近の研究成果を反映させ、若者の美意識にも添った新たな作品の価値づけをする。新鮮で魅力ある図版を載せる。「東アジアの中の日本美術」(第6巻)、「若冲・応挙、みやこの奇想」(第14巻)「激動期の美術」(第16巻)、「戦争と美術」(第18巻)など、巻立てにも新しさを盛り込む――こうした様々の工夫がなされている。
20年ぶりの『日本美術全集』に、ご期待いただければ幸いである。
 
イメージ 2
 
あえてこの時代にこうした豪華全集を世に問う小学館さんの英断、出版社としての良心に敬意を表さざるを得ません。
 
ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月23日
 
平成7年(1995)の今日、テレビ朝日系「驚きももの木20世紀」で「愛の詩集「智恵子抄」の悲劇―高村光太郎と妻・智恵子―」が放映されました。
 
司会は三宅裕司さん、麻木久仁子さ005ん。スタジオゲストは斎藤慶子さん、故・池田満寿夫さん。ナレーションは伊東由美子さん、間宮啓行さん。
 
Vには北川太一先生、高村規氏、さらには、光太郎の親友・水野葉舟のお嬢さんで、やはり光太郎と交流のあった詩人・尾崎喜八と結婚した故・尾崎実子さん・栄子さん母娘、智恵子の姪・斎藤美智子さん、岩手時代の光太郎を知る宮森祐昭さんがご出演。犬吠埼、九十九里、二本松、花巻、そして今はなき不動湯温泉などでのロケ、その他資料の静止画像も豊富でしたし、俳優座の皆さんによる再現Vも素晴らしい作りでした。
 
翌年にはブックマン社から関連書籍『驚きももの木20世紀 作家、その愛と死の秘密』が刊行され、この回の内容も約30ページでまとめられています。

光雲の彫刻作品の展示がある展覧会情報を二つ。 

東日本大震災復興祈念・新潟県中越地震復興10年 法隆寺 祈りとかたち

期 日 : 2014年7月5日(土)~8月17日(日)
会 場 : 新潟県立近代美術館 新潟県長岡市千秋3丁目278-14
時 間 : 9:00~17:00  券売は16:30まで
休 館 : 
7月7日(月)、14日(月)、22日(火)、28(月)、8月4日(月)
  
  催 新潟県立近代美術館 新潟日報社 BSN新潟放送 UX新潟テレビ21
           「法隆寺 祈りとかたち」新潟展実行委員会 法隆寺
特別協力 朝日新聞社
協  賛  大伸社
協  力  日本通運/塩竃港運送
特別協賛  株式会社 福宝

 
006

展覧会の概要
 法隆寺は、推古15年(607)に聖徳太子によって斑鳩宮(いかるがのみや)の近くに創建された日本を代表する古刹です。『日本書紀』によれば、天智9年(670)4月30日夜半に落雷によって全焼したとされ、再建には40年を費やしました。その間に、太子時代の優れた仏教美術が多数集められ、法隆寺は太子建立寺院から太子信仰寺院へと変貌を遂げました。現在では、日本で初めて世界文化遺産として指定を受けたことでも、世界中により知られるようになりました。
  本展では、法隆寺が太子信仰寺院として復興していった歴史を踏まえ、国宝《地蔵菩薩立像》をはじめとして、重要文化財18点を含む法隆寺の宝物と、東京美術学校との130年に渡る交流の歴史の証でもある、高村光雲、平櫛田中らの聖徳太子像や《法隆寺金堂壁画模写》、そして法隆寺信仰を示す近代日本美術作品など、一堂に紹介します。
  本年は東日本大震災から3年、そして奇しくも新潟県中越地震から10年にあたります。震災を乗り越えられた方々に、法隆寺再建という歴史を見据えつつ、「日本美術や日本人の精神文化の再発見」を供することは歴史的にも、そしてそれぞれの「復興」という意味においても意義深い展覧会であると言えるでしょう。

展覧会構成
第1部 美と信仰 法隆寺の仏教美術 
第2部 法隆寺と東京美術学校
第3部 法隆寺と近代日本美術

関連イベント
■講演会 講堂 [無料] 申込不要・先着165名
 7月5日(土) 13:00~   「和の社会と日本文化」 講師:大野玄妙 氏(法隆寺管長)
 7月26日(土) 14:00~  「法隆寺の美術と聖徳太子」 
講師:水野敬三郎 氏(同館名誉館長・東京藝術大学名誉教授)

■関連講座 講堂 [無料] 申込不要・先着165名
  8月2日(土)14:00~ 「金堂壁画と日本近代美術」 講師:長嶋圭哉(同館主任学芸員)
■映画鑑賞会 講堂 [無料] 申込不要・先着165名
  7月19日(土)14:00~/15:00~ (2回上映)    映画『聖徳太子』(1994年25分)

 
仙台東京(明後日まで開催中)と巡回され、最後の巡回先の新潟での展覧が始まります。
 
東京美術学校関係者の法隆寺に関わる作品、ということで、光雲の「聖徳太子像(摂政像)」が二体(明治44年=1911、昭和2年=1927)並びます。また、第三部には、法隆寺の103世管主であった佐伯定胤の像も。こちらも光雲作です(昭和5年=1930)。
 
仙台、東京とも好評でした。ぜひ新潟展も盛況となってほしいものです。
 

もう一点、詳細がよくわからないのですが、宮崎県からの情報です。既に始まっています。 

現代人気作家彫刻展

会  場 : 宮崎山形屋 本館6階 美術画廊 宮崎市橘通東3丁目4番12号
開催期間 : 2014年6月18日(水)~30日(月)
開催時間 : 午前10時-午後8時  ※最終日午後5時終了
 
こちらでも光雲の彫刻が並んでいるとのこと。
 
ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月20日
 
昭和59年(1984)の今日、『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』が刊行されました。
 
イメージ 2
 
編集・解説は北川太一先生。数百枚の写真を使い、さらに的確な解説で、光太郎の生涯を非常に分かりやすく俯瞰できる作りになっています。
 
刊行後30年経ちますが、まだ新潮社さんのサイトから、新刊で購入できます。

昨年から今年にかけて出版されたもののうち、ちらっと光雲について記述があるものを3点紹介します。 

戦争という見世物 日清戦争祝捷大会潜入記006

木下直之著
2013年11月20日
ミネルヴァ書房
定価 2,800円+税
 
 
日清戦争に勝利し、日本中が沸いた明治二七年一二月九日。上野公園不忍池付近で開催された、「日清戦争戦捷祝賀大会」にタイムスリップ。清国軍艦撃沈の劇、大きな凱旋門……その祝賀大会の様子を史実に沿い、日本の見世物研究の第一人者が生き生きと活写する。
 
[ここがポイント]
・明治27年12月9日、日清戦争戦捷祝賀大会の全
 貌が明らかに。
・貴重な写真を多数掲載。
・見世物研究の第一人者が活写する。
 
日清戦争祝勝記念ということで、異様に浮かれる明治27年(1894)の東京が描かれます。
 
光雲に関しては、その援助者だった実業家・平尾贊平の依頼で「分捕石鹸」なるものをデザインしたという話が紹介されています。打ち首にされた清国兵の首をモチーフにしたとのこと。ヘイトスピーチのような話です。
 
光太郎に関しても、昭和22年(1947)に発表した連作詩「暗愚小伝」中の「日清戦争」という詩で、平壌の戦いで玄武門突破の戦功を挙げた原田重吉一等兵について取り上げていることにふれています。
 
その他、光雲・光太郎ゆかりの人物がたくさん登場し、さらに当時のある意味狂躁状態だった世相を知るには、うってつけの一冊です。
 
ただし、苦言を一つ。せっかく巻末に「人名索引」が設けられていながら、光雲、光太郎ともに抜け落ちています。内容的には面白い書籍だけに惜しいミスです。


消された「西郷写真」の謎 写真がとらえた禁007断の歴史

斎藤充功著
2014年3月28日
学研パブリッシング
定価 1,800円+税
 
 
歴史上の人物として人気の高い西郷隆盛。だが彼が写っている真正写真はいまだに確認されていない。それはなぜか。本当に写真は存在しないのか……西郷の真正写真を追い求めた筆者による「歴史ミステリー・ノンフィクション」。
 
光雲が制作主任として携わった上野の西郷隆盛像の話-西郷本人に似ていない、とされている-から始まり、確実に西郷隆盛と確認できる写真が伝わっていないこと、そこに明治政府の意図を読み取り、「写真」という新たなメディアツールがどのように取り入れられていったのかまで論じる力作です。一時話題になった「フルベッキ写真」についても触れています。


にほんテキヤはどこからやってくるのか?008 露天商いの近現代を辿る

厚香苗著
2014年4月17日
光文社(光文社新書)
定価 760円+税
 
 
浮かれた気分の人びとが集まるところには、どこからともなく商人がやってくる。ヤキソバを焼くソースの匂いや派手な色彩の露店は、私たちをいつもとは違う心持ちにしてくれる。そんな祝祭空間で生計を立てている露店商たちが本書の主人公である。(「はじめに」より)
主な舞台は東京の下町。そのあたりでは伝統的な露店商を「テキヤさん」と呼んでいる。「親分子分関係」や「なわばり」など、独特の慣行を持つ彼ら・彼女らはどのように生き、生計を立て、商売を営んでいるのか――。
「陽のあたる場所からちょっと引っ込んでいるような社会的ポジション」を保ってきた人びとの、仕事と伝承を考察。
 
民俗学的なアプローチで、「テキヤ」の歴史的背景から現状までの詳細なレポート。光雲の父・兼吉(通称・兼松)が浅草のテキヤだったこと、光雲もその手伝いをしていたことなどに触れています。
 


 
以上3点、すべて光雲がメインではなく、少しふれられるだけではあるものの、いずれも当時の世相、社会的背景といったことを理解する上で、切り口は違いますが、それぞれ興味深いものです。
 
ぜひお読み下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月13日
 
昭和30年(1955)の今日、ラジオで東京六大学野球の早慶戦を聴きました。
 
当時、同じ六大学の立教大には、かの長嶋茂雄が在籍しており、この年の秋季リーグから5シーズン連続でベストナインに選ばれるなどの活躍でした。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月9日006
 
大正12年(1923)の今日、有島武郎が歿しました。
 
光太郎と有島は、同じ白樺派の一員。手紙のやりとりなどもあったのではないかと思われますが、光太郎から有島宛の書簡は見つかっていません(武郎より弟の生馬の方が、より光太郎に近かったのですが、生馬宛も見つかっていません)。
 
右の画像、左が武郎、右が生馬です。
 
逆に武郎から光太郎に宛てた書簡は残っています。この年3月1日付で、光太郎の代表的彫刻の一つ、「手」に関わるものです。この日、光太郎から武郎に「手」が贈られました。
 
 今日は御制作『手』を態々お届け下さいまして有り難う御座いました。拝見して驚きました。手といふものがあんな神秘的な姿を持つてゐるものだとは今まで心付きませんでした。あれは又一箇の群像でもありました。見てゐれば見てゐる程それは不思議です。明日は面会日ですから早速部屋に飾つて見る人を驚かさうと楽しんでゐます。『手』といふ題で感想を書いてみたいと思つてゐます。何しろ本当にありがたう御座いました。永く永く襲蔵して御厚情を記憶します。
 
さらに詩「手」。こちらは3月9日に書かれました。
 
    
 (高村光太郎氏の製作にかかる左手のブロンズを見入りて)
 
孤独な寂しい神秘……
手……一つの手……見つめていると、肉体から、
霊魂から、不思議にも 遊離しはじめる手。
存在の荘厳と虚妄――神か無か。
おゝ見つめていると
凡てのものが手を残して消え失せて、
無辺際(むへんざい)の空間に、
ただ一つ残り在る手。
左の手を見つめろ。
今、おまえ自身の左の手を、これを読む時の光の下に、じっとみつめろ。
五つの指の淋しい群像、
何を彼らは考え、
彼らは何をするのだ。
指さすべき何が……握りしむべき何が………………
…………………………………
手は沈黙にまでもがいてゐる。
 
しかし、その僅か三ヶ月後、武郎は自らの命を絶ってしまったのです。
 
のちに昭和31年(1956)、秋田雨雀が書いた「『ブロンズの手』を中心として」という文章から。
 

 一九二三年(大正十二年)に不幸な出来事007が私たちの周囲にあった。あの自由思想家で、クロポトキンの哲学に強く影響された私たちの尊敬する有島武郎君は恋愛のつまづきのために、あの立派な生涯を終えてしまった。その不幸な出来事の少し前から、彼が彼の机の上で絶えず愛撫していた彫刻が一つあった。それは説明するまでもなく、高村光太郎君の『ブロンズの手』であった。
 有島武郎はこのブロンズの手を『虚空を指す手』と呼んでいた。そして、有島はあの追いせまった、短い生涯に絶えず、このブロンズの手の『人さし指』の『節くれだった』部分をほとんど毎日のように愛撫し、或は『哀撫』していたに相違なかった。
 なぜならば、ブロンズの手の『人さし指』のあの部分だけは、『黄銅色』にかがやいていたからであった。彼の死後、私は『二つの手』という詩を雑誌『泉』に掲載した。それは『一つの手』は机上にとどまり、『一つの手』は虚無に帰したという意味であった。
 私は有島生馬さんから送られたあの『ブロンズの手』と高村光太郎君のあの見事なホイットマンの『自選日記』を胸に懐きながら、あの惨虐無謀な侵略戦争の戦火の中を歯をかみしばりながら生き残って来た。
 
右の画像は、昭和14年(1939)、自作の「手」を見る光太郎です。もしかしたら亡き有島を偲んでいたのかもしれませんね。
 
ちなみにこの辺りの経緯を勘違いしたのか、「手」のモデルは有島武郎の手だ、などと書かれた噴飯ものの論文がまかり通っていますが、あくまでモデルは光太郎自身の左手です。

2021年追記 「手」に関わる新発見がありまして、以下もご覧下さい。

ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見。
ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-①。
ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-②。

大阪からイベント情報です。  

まちあるき「御堂筋は名彫刻の宝庫だ(東側コース)~グレコも高村光太郎も~」

御堂筋は日本が誇る名彫刻の宝庫であることをご存知ですか?「大阪あそ歩」で、じっくりと鑑賞歩きをしてみましょう、まず、御堂筋東側。ブールデルの妻の像「休息する女流彫刻家」と「腕を上げる大きな女」、グレコの「坐る婦人像」、高村光太郎の「みちのく」、ルノワールの(そう、あの画家の)「ヴェールを持つヴィーナス」、佐藤敬助お淀井俊夫も・・・・!!!美術評論家柳亮を父にして育った伊藤義麿が直接ご案内します。
 
<コース>
北から南へ。ブールデル~グレコ~中村晋也~高村光太郎~佐藤敬助~朝倉響子~桜井祐一~ブールデル~淀井俊夫~船越保武~メッシー~ルノワール~チャドウィック~(地下鉄心斎橋駅)
 
日 時 : 2014年5月20日(火) 13:30~
集 合 : 地下鉄御堂筋線淀屋橋駅北改札口前
所 要 : 約2~3時間
費 用 : 1500円(小学生以上)※集合時に支払い。お釣りのないようにしてください。
定 員 : 15名
問合せ先 大阪あそ歩委員会050-3672-8327(申込専用、平日13時-17時)
申込方法 ホームページから
 
大阪市の中心街を通る御堂筋には、「御堂筋彫刻ストリート」ということで、内外の彫刻作品が多数展示されています。今回のイベントは、その東側の彫刻を観て廻る、というもののようです。
 
光太郎の「みちのく」。これは十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作(昭和28年=1953)です。他に一昨日の花巻高村祭でご講演なさった末盛千枝子さんのお父さま、舟越保武の作品「道東の四季 春」も入っています。
 
また、今回は御堂筋東側だけのようですが、西側にはロダンや佐藤忠良など、やはり光太郎と縁の深い彫刻家の作品も並んでいます。ぜひ一度、足をお運び下さい。
 
ちなみに御堂筋の彫刻といえば、3年前、一夜にして19体の彫刻にそれぞれ測ったようにぴったりの赤い服が着せられる、という「事件」がありました。

誰が何のため…一夜で銅像19体に赤い服

2011年7月27日 スポニチアネックス
 
大阪市の目抜き通り、御堂筋の歩道に設置されたブロンズ製の人物彫刻29体のうち19体に、洋服をかたどった赤い布が着せられる不可思議な現象が起きた。24日夜から25日未明にかけての数時間で何者かが取り付けたとみられる。“真夏の浪速のミステリー”に市の担当者は「何の目的があってのことか、さっぱり分かりまへん」と戸惑いを見せている。

 御堂筋はキタ(梅田周辺)とミナミ(難波周辺)の2大繁華街を通るメーンストリート。市は92年以降、淀屋橋交差点から心斎橋交差点の間に文化・芸術面のモデルとして銅像設置を進めてきた。現在はロダン作「イヴ」や高村光太郎作「みちのく」など29体が並ぶ。これらの一部に何者かが一夜のうちに“赤い服”を着せた。

 19体は約1キロの間に並んでいる。それぞれ胴や肩の部分をビニールひもで縛られ、ワンピースやドレスなどに見えるように形を整えて、体形にフィットするように寸法も合わせてあった。

 市によると25日午前9時ごろ、通勤中の人から通報を受けた。市は、いたずらとみて大阪府警東署に事実関係を伝えた。彫刻本体に傷や破損、落書きなどはなかったため、被害届は提出していない。

 市はその後、3人がかりで約1時間かけて布を撤去。彫刻を管理する市計画調整局の開発調整部都市景観担当課は「最初はきちょうめんに脱がせていたがうまく脱げないので、途中でカッターを買って裂いた。それでも1時間かかったので、着せた人はだいぶ手間がかかったんちゃいますか」と話す。

 誰が、何のためにやったのかは不明。同課は「大阪のいたずらにしてはオシャレですわな。正直意味がよう分からん」。標的になった19体はすべて女性像でもなく、残り10体の中にも女性像はあることから「何の基準で19体を選んだのかすら分かりません」と首をひねるばかり。

 同課によると過去、スプレーなどによる落書き被害などがあったほか、今年4月には銅像1体が台座から切り離されて歩道に放置される事件があった。ただ、「今回のように像自体に害がないのは初めて」という。目撃者もおり「何かのイベントでやってるのかと思った」と話している。

 ≪平松市長「罪問わないので名乗り出て」≫大阪市の平松邦夫市長は26日の記者会見で「罪は問わないので、どういう人たちがやったのか知りたい」と“犯人”に名乗り出るよう呼び掛けた。「怒られるかもしれないが、現物を見たかった」とも述べた。赤い布を着せた行為については「何かメッセージがあるように見える。たぶん単独では無理」と推理。「毎回この彫刻がキャンバスになると思われるのは困る」とした上で「(市は)ほかにもアートなどのやり方(場)を用意している。そこで一緒にやりませんかと言いたい」と語った。
 
イメージ 1
 
この「事件」、その後どうなったのでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月17日

昭和17年(1942)の今日、日本文芸家協会が解散しました。
 
太平洋戦争まっただなかです。他にも文筆家の団体がたくさんあったのですが、軒並み解散し、光太郎が詩部会会長となる日本文学報国会に吸収されて行きます。「バスに乗り遅れるな」という合い言葉があったそうです。美術関係も美術報国会という団体に一元化されるなど、どんどん国民総動員の動きが加速していきました。恐ろしい時代です。

テレビ放映情報です。 

日曜美術館 「明治の工芸 知られざる超絶技巧」

NHKEテレ 2014年5月11日(日)  9時00分~9時45分 再放送 5月18日(日)  20時00分~20時45分
 
万国博覧会などを舞台に西欧に輸出され、爆発的な人気を誇った「明治の工芸」。時代が変貌する中、危機に見舞われた職人たちが、技の限りを尽くして生み出した驚異の世界。
 
象牙で作られた本物そっくりのタケノコ。体が自由自在に動く金属のヘビ。刺しゅうで描かれた巨大なクジャク。激動の時代、日本人の技と誇りをかけて生まれた驚異の世界がある。「明治の工芸」。万国博覧会などを通して西欧に輸出されたため、作品の多くが海外のコレクターの手に渡った。日本では長く忘れ去られた存在だったが「現代では再現不可能」とまで言われる超絶技巧にいま注目が集まっている。技の再現に挑み、秘密に迫る。
 
出演 明治学院大学教授…山下裕二, 司会 井浦新,伊東敏恵
 
イメージ 1
 
日本橋の三井記念美術館さんにて開催中の「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」に関連しての番組です。出展中の光雲作木彫「西王母」「法師狸」も紹介されるといいのですが……。
 
ところで、番組公式ページに依れば、同展の巡回情報が更新されています。期日未定だった山口県立美術館さんが2015年2月21日~4月12日、さらに巡回先が一つ増えています。富山県水墨美術館さんで2015年6月中旬~8月上旬だそうです。
 
展覧会、番組ともにご高覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月5日

大正5年(1916)の今日、雑誌『婦人週報』に、智恵子のアンケート回答「女なる事を感謝する点」が載りました。
 
曰く、
 
 私に恋愛生活(現在の)が始まつてから、始めてさういふ感じを意識しました。これは一つの覚醒です。其の他にはまだ私には経験がありません。「女である故に」といふことは、私の魂には係りがありません。女なることを思ふよりは、生活の原動はもつと根源にあつて、女といふことを私は常に忘れてゐます。
 
いかにも智恵子らしい発言ですね。

昨日は都内に出かけて参りました。
 
まずは上野の東京国立博物館さん。連休谷間の平日、しかもそこそこ雨が降っていましたが、多くの人でにぎわっていました。
 
イメージ 1
 
特別展「キトラ古墳壁画」が目的の方が多かったようで、ご覧の通りの行列。興味はあるのですが、40分待ち、と言われ、そちらはパスし、本来の目的のジャンル別展示だけ観ることにしました。
 
本館1階第18室が「近代の美術」となっており、光太郎のブロンズ彫刻「老人の首」(大正14年=1925)、光雲の木彫で重要文化財の「老猿」(明治26年=1893)が展示されています。
 
00418室の入り口近くに「老人の首」がありました。同じ型から作ったものは、昨年、千葉市美術館他で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にも並んでいたのですが、こちらの方が古い鋳造のようです。
 
キャプションには「江渡幹子氏寄贈」とあり、光太郎と交友のあった青森県五戸出身の思想家・江渡狄嶺(えとてきれい)の縁者かな、と思いました。狄嶺の妻がミキという名です。当時、女性は戸籍上の名に「子」がついていないことが多く、一種の敬称として互いに「子」をつけて呼び合ったり、自分でも「子」をつけて名乗ったりすることが一般的でした。また、やはり戸籍上の名に漢字が使われていなくても、自分で漢字をあてることもよく行われていました。智恵子も与謝野晶子も、それから現在NHKの朝ドラ「花子とアン」で扱われている村岡花子もそうです。「花子とアン」にはそういうエピソードもありました。

追記 やはり寄贈者は江渡の妻・ミキでした。

 
光太郎の回想に依れば、モデルは駒込林町のアトリエに造花を売りに来る老人。昔、旗本だったそうで、江戸時代の面影を残すその顔に惹かれてモデルとして雇ったそうです。
 
ただ、光太郎の縁者によると、光雲の異母兄・中島巳之助に甚だよく似ている、という証言もあります。
 
そして18室の終わり近くに「老猿」。
 
イメージ 3  イメージ 4
  
イメージ 5  イメージ 6
  
圧倒的な存在感です。「高さ90センチ」というデータは頭に入っているのですが、どうみてもそれ以上の大きさに見えます。
 
こちらはあまり目にする機会が多くなかったので(平成14年=2002の茨城県近代美術館「高村光雲とその時代」展、同19年=2007の東京国立近代美術館「日本近代の彫刻」展に続き、3回目です)、興味深く観ました。
 
やはり彫刻は3次元の作品なので、観る角度によって見え方が違いますし、写真等ではわからない細部もよく観られました。
 
イメージ 7
 
イメージ 8
 
「老人の首」「老猿」の展示は5月25日(日) まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
その後、上野を後に、一路日本橋へ。三井記念美術館さんでの「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」を観て参りました。そちらのレポートはまた明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月1日

明治26年(1893)の今日、シカゴ万国博覧会が開幕しました。
 
はるばる海を渡って「老猿」が展示されました。アメリカの人々は、その技術の巧みさに驚いたといいます。
 
そうした彫刻としての凄さとは別の面でも話題になりました。この「老猿」は、そもそも老いたニホンザルが猛禽と格闘した後、飛び去って行く猛禽を見上げている構図だそうです。左手には逃げた猛禽の羽根を握りしめています。
 
イメージ 9
 
これが物議をかもしました。シカゴ万博日本パビリオンのすぐ前、一説によると「老猿」の視線の先にはロシアのパビリオンがありました。そのロシアの国章が鷲。
 
当時の日本は東アジアの覇権を巡ってロシアや清とにらみ合いを続けている時期でした。教科書にも載っているビゴーの風刺画が有名ですね。
 
イメージ 10
 
翌年には日清戦争、さらにその翌年、講和のための下関条約に対しては、ロシアが中心になっていわゆる「三国干渉」を仕掛けてきます。そこで、「老猿」が握りしめている猛禽の羽根はロシアを象徴し、日本のロシアに対する威嚇だ、ととらえられたのです。
 
しかし、光雲はそうした外交や政治には疎かったといいます。どうもこの説は牽強付会に過ぎるように感じます。

ご存知上野の東京国立博物館さん。
 
イメージ 1
 
企画展や特別展というわけではないのですが、現在、光雲・光太郎父子の作品が同時に展示されています。
 
場所は本館18室。同館は収蔵品数も厖大なため、展示の入れ替えも頻繁にやっています。展示は適当に並べるわけでなく、部屋ごとにコンセプトを明らかにし、関連のある作品をまとめる形をとっています。
 
で、現在、本館18室では「近代の美術」ということで、33件の作品が並んでいます。以下、同館サイトから。
 
近代の美術
本館 18室  2014年4月15日(火) ~ 2014年5月25日(日)
明治・大正の絵画や彫刻、工芸を中心に展示します。明治5年(1872)の文部省博覧会を創立・開館のときとする当館は、万国博覧会への出品作や帝室技芸員の作品、岡倉天心が在籍していた関係から日本美術院の作家の代表作など、日本美術の近代化を考える上で重要な意味を持つ作品を数多く所蔵しています。これら所蔵品から明治、大正、そして昭和の戦前にかけた日本近代の美術を紹介します。
 
光雲作品は重要文化財の木彫「老猿」(明治26年=1893)。光太郎作品はブロンズの「老人の首」(大14=1925)です。
 
イメージ 2    イメージ 3
  
他にも上村松園「焔」、黒田清輝「読書」、土田麦僊「大原女」など、近代美術の至宝が目白押し。同館のブログでは「日本の近代美術の全貌を見ることができる部屋」と書かれています。
 
当方、連休谷間の明後日あたり、三井記念美術館「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」と併せて観に行こうと思っています。
 
みなさんもぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月28日

大正15年(1926)の今日、日本橋柳屋ソーダ・ファウンテンで、来日したフランスの小説家、シャルル・ヴィルドラック夫妻の歓迎会に出席しました。
 
ヴィルドラックはロマン・ロランと親しく、この時期光太郎は片山敏彦らと「ロマン・ロラン友の会」を結成しており、同会主催で行われました。
 
イメージ 4
後列左から二人め光太郎、片山敏彦、右端尾崎喜八
前列左から2人め倉田百三、ヴィルドラック夫妻、高田博厚

↑このページのトップヘ