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当方の住む千葉県からの展覧会情報です。

第39回千葉県移動美術館「高村光太郎と房総の海」

千葉県広報紙『ちば県民だより』より

県立美術館の収蔵作品を身近な文化施設でご覧いただくための展覧会です。高村光太郎(たかむらこうたろう)の彫刻や勝浦周辺の海を描いた水彩画・版画、海を題材にした日本画・油彩画など、千葉県ゆかりの作家の作品を展示します。

日   時 : 2015年8月18日(火曜日)~31日(月曜日)9時~17時
会   場 : 勝浦市芸術文化交流センター・キュステ(勝浦市沢倉523-1)
問い合わせ : 県立美術館TEL043-242-8311


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千葉県立美術館サイトより

今回の展覧会では、「高村光太郎と房総の海」をテーマとして、彫刻家高村光太郎の作品6 点と、日本画家若木山の作品4 点を中心に、鵜原や太海といった勝浦周辺の景勝地を描いた作品も展示します。この夏、県立美術館の名品を、潮風の香る海辺の街、勝浦でお楽しみください。

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「高村光太郎」と「房総の海」ということで、光太郎の彫刻が6点、熊本県出身の日本画家・若木山(わかき たかし)の作品などで房総の海を描いたものが展示されます。

光太郎智恵子と千葉県は意外と結びつきが深く、人生の要所要所で千葉を訪れています。大正元年(1912)、智恵子との愛を確かめたのは銚子犬吠埼。大正10年(1921)には与謝野夫妻の新詩社主催の旅行に夫婦で参加。同14年(1925)には夫婦だけで房総の海を旅したことも。さらに成田郊外三里塚には光太郎の親友・水野葉舟が移り住み、光太郎もたびたび訪れました。そして昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が九十九里浜に転地療養しています。

そういう背景があるからなのでしょうか、千葉県立美術館さんでは、光太郎の彫刻を8点所蔵しています。この数字は全国の美術館の中でも多い方です。ちなみに内訳は、全てブロンズで「猪」(明治38年=1905)、「薄命児男児頭部」(同)、「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「手」(同7年=1918頃)、「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)、「野兎の首」(昭和20年代)、「十和田湖畔の裸婦群像のための手習作」(昭和27年=1952)、「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」(同28年=1953)です。ただし、いずれも比較的新しい鋳造です。

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入場無料ですし、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月8日000

昭和29年(1954)の今日、終焉の地となった中野のアトリエに、岩手疎開中に親交のあった花巻町在住の女性が訪れ、盛岡銘菓「豆銀糖」をお土産にもらいました。

豆銀糖は、水飴、砂糖、青大豆のきな粉を原料に作られる、素朴な味わいのお菓子です。似たものを挙げろ、と言われれば、埼玉・熊谷銘菓の「五家宝」、茨城・水戸銘菓の「吉原殿中」。わかる人にしかわかりませんね(笑)。

光太郎はこれが意外と好物だったようで、書き残したものなどの中に時折現れます。
001
岩手はね、その、庶民階級がいいんです。それが僕は好きなんです。だから人によく話すけど、八戸煎餅ですね。それと豆銀糖と。ああいうものに実にいい、うまいものがある。で、殿様が食べるようなものは別にない。
(対談「朝の訪問」昭和24年=1949)

右は今年5月、花巻高村祭の折に、花巻在住の内村義夫さんからいただいた豆銀糖の包み紙です。美味でした。

ちなみに「八戸煎餅」は「南部煎餅」ですね。

光太郎と縁の深かった彫刻家2人を中心とした企画展をご紹介します。

まずは舟越保武。戦後には岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)で教鞭を執り、たびたび同校に招かれた光太郎と交流を持ちました。それ以前の、戦前には長女(このブログでたびたびご紹介している末盛千枝子さん)の名付け親になってもらったり、光太郎歿後の昭和37年(1962)には「長崎26殉教者記念像」で高村光太郎賞を受賞されたりしています。 

開館30周年記念 舟越保武彫刻展 まなざしの向こうに

期 日 : 2015/07/12(日)~2015/9/6(日)  (すでに始まっています)
場 所 : 練馬区立美術館 練馬区貫井1丁目36番16号
休館日 : 月曜日(ただし、7月20日(月曜・祝日)は開館、翌21日(火曜)休館)
時 間 : 午前10時~午後6時 ※入館は午後5時30分まで
観覧料 : 一般800円、高校・大学生および65~74歳600円、
      中学生以下および75歳以上無料、


舟越保武は1912年(大正元)に岩手県に生まれ、盛岡中学時代にロダンに憧れて彫刻家を志しました。大理石や砂岩などの石による清楚な女性像で知られる舟越がはじめて石彫に取り組んだのは練馬に在住していた1940年(昭和15)のことであり、舟越は練馬ゆかりの作家でもあります。
1950年(昭和25)以降は自らのカトリック信仰に裏付けられた宗教的主題の作品で独自のスタイルを確立しました。それらは崇高な美しさをたたえており、他の具象彫刻作品とは一線を画するものです。とりわけ、長崎市に設置された《長崎26殉教者記念像》や《原の城》、《ダミアン神父》は、彼の代表作というだけでなく、戦後日本の彫刻を代表する重要な作品の一つといえるでしょう。 1987年(昭和62)に病気のために右半身不随となりましたが、その後10余年にわたり左手で制作を続け、それまでとは異なる迫力を持つ作品を生み出しました。
本展では、代表的な彫刻作品約60点に加え、初公開を含む多数のドローイングを展示し、舟越保武の生涯にわたる彫刻の仕事を回顧いたします。


関連行事 ※要事前申込 いずれも往復ハガキまたはEメールでお申し込み。

 記念講演会「舟越保武の彫刻:造形性をめぐって」 
   日時 7月25日(土曜) 午後3時~
   講師 髙橋幸次(日本大学芸術学部教授)
  
 記念講演会「手で見るという事―私の舟越保武体験―」   
   日時 8月8日(土曜) 午後3時~
   講師 萩原朔美(多摩美術大学造形表現学部教授)
  
 声優、銀河万丈による読み語り  【貫井図書館共同主催】
   日時 8月29日(土曜) 午後3時~
  
 <美術講座>石彫「身体の一部を彫ってみよう」
   日時 8月8日(土曜)、9日(日曜)【2日制】
      両日とも、午前10時30分~午後5時
   講師 石井琢郎(彫刻家)

 映画上映会「日本二十六聖人 われ世に勝てり」
  (1931年、90分、製作:平山政十、弁士:小崎登明修道士)
   日時 8月30日(日曜) 午後3時~


申し込み不要の関連行事

学芸員によるギャラリートーク
   日時 8月1日(土曜)、15日(土曜) 両日とも、午後3時~
 記念コンサート
   日時 8月22日(土曜) 午後3時~
   演者 小池ちとせ(ピアノ・武蔵野音楽大学准教授)
      河野めぐみ(メゾソプラノ・藤原歌劇団団員/武蔵野音楽大学講師)

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続いて、光太郎の盟友だった碌山荻原守衛。 

夏季・秋季特別企画展 制作の背景-文覚・デスペア・女- Love is Art Struggle is Beauty007 (2)

期 日 : 2015/08/1(土)~2015/11/8(日)  
場 所 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
休館日 : 会期中無休
時 間 : AM9:00~PM4:10(入館は30分前まで)
観覧料 : 大人 700円 高校生 300円 小中学生 150円

荻原守衛(号:碌山 1879-1910年)の残した傑作《女》(1910年)は、相馬黒光への思いが制作の動機となっています。この作品をより深く理解する上で不可欠なのが《文覚》(1908年) 《デスペア》(1909年)の二つの作品です。鎌倉の成就院に自刻像として伝わる木像に、文覚上人の苦悩を見て取り制作した《文覚》、女性の悲しみに打ちひしがれる姿に文字通り絶望(despair)を表わした《デスペア》には、当時の荻原の胸中が重ねられています。最後の作品 《女》には、それらを昇華した高い精神性が感じられます。それはまた人間の尊厳の表象にも
つながるものなのです。
個人的な思いを元にして作られた作品が普遍的な価値あるものとなっていることは、百年前の作品が現代の我々の心に響いていることからも容易にうなずくことができます。作品に普遍的価値をもたらした荻原の精神的な深さと芸術の高さ、またそれらの当時における新しさとを、多くの方々に感じ取っていただこうと本企画展を開催いたします。


「文覚」、「デスペア」、「女」。それぞれ、光太郎が激賞した守衛の作品の題名です。

以下、光太郎の詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)です。

  荻原守衛

単純な子供荻原守衛の世界観がそこにあつた、007
坑夫、文覚、トルソ、胸像。
人なつこい子供荻原守衛の「かあさん」がそこに居た、
新宿中村屋の店の奥に。

巌本善治の鞭と五一会の飴とロダンの息吹とで荻原守衛は出来た。
彫刻家はかなしく日本で不用とされた。
荻原守衛はにこにこしながら卑俗を無視した。

単純な彼の彫刻が日本の底でひとり逞しく生きてゐた。

――原始、008
――還元、
――岩石への郷愁、
――燃える火の素朴性。

角筈の原つぱのまんなかの寒いバラツク。
ひとりぼつちの彫刻家は或る三月の夜明に見た、
六人の侏儒が枕もとに輪をかいて踊つてゐるのを。
荻原守衛はうとうとしながら汗をかいた。
004
粘土の「絶望」はいつまでも出来ない。
「頭がわるいので碌なものは出来んよ。」
荻原守衛はもう一度いふ、
「寸分も身動き出来んよ、追いつめられたよ。」

四月の夜ふけに肺がやぶけた。
新宿中村屋の奥の壁をまつ赤にして
荻原守衛は血の塊りを一升はいた。
彫刻家はさうして死んだ――日本の底で。


この詩を刻んだ詩碑が同館の庭に建っています。ここ最近、毎年4月22日の碌山忌の集いで朗読されてもいます。「絶望」が「デスペア」。上記のチラシに印刷されている彫刻です。


それぞれぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月23日009

昭和56年(1981)の今日、集英社から円地文子監修『近代日本の女性史 第十巻 名作を彩るモデルたち』が刊行されました。


この中で作家の金井美恵子さんが智恵子の章を約40ページ担当されています。

函に描かれているのは、日本画家、故・大山忠作氏の「智恵子に扮する有馬稲子像」です。

他の「モデル」は、有島武郎『或る女』の佐々城信子、徳富蘆花『不如帰』の大山信子、永井荷風「風ごこち」「矢はずぐさ」の藤蔭静枝、谷崎潤一郎『痴人の愛』の小林せい子、そして竹久夢二の絵のモデルとなった山田順子です。

4月に小学館さんから刊行された石川拓治氏著『新宿ベル・エポック』。

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相馬愛藏・黒光夫妻、碌山荻原守衛を軸に、昨日もご紹介した新宿中村屋サロン美術館さんの元となった、「中村屋サロン」を巡る人々の光芒を追った労作です。

先週の『朝日新聞』さんの読書面に、書評が載りましたのでご紹介します。 

新宿ベル・エポック―芸術と食を生んだ中村屋サロン [著]石川拓治

■異文化接合点で濃密な人間模様
 母の勤務地が新宿だったので、子どもの時分、たまに中村屋のカレーを食べに連れて行ってもらった。うちは貧しかったから、それはたいへんなご馳走(ちそう)だった。本書はその中村屋の物語。創業者夫婦の相馬愛蔵・黒光(こっこう)と、夫妻を慕って集まった芸術家たち、なかでも彫刻家の荻原碌山(ろくざん)が織りなす人間模様を記す。
 愛蔵と碌山は同郷で、信州安曇野の人。地域一の名家・相馬家に仙台藩の上士の家から嫁がくる。農家の五男坊だった碌山少年は、彼女を憧れのまなざしで見つめていた。話はそこから始まる。
 三人は互いを大切に思い、認め合った。それは三角関係という言葉でひとくくりにできるものではない。彼らの濃密な連関の向こうには、百年ほど前の、外国に向きあう日本社会の姿が見えてくる。
 中村屋サロンは異文化の接合点であった。インドの志士ボースのカレーも、ロダンに学んだ碌山の彫刻もその好例である。相馬夫妻は新しい文化の揺り籠を用意したのだ。
    ◇
 小学館・1944円

[評者]本郷和人(東京大学教授・日本中世史) 


相馬夫妻、守衛、そして光太郎、それから昨日もご紹介した斎藤与里、中村彝、戸張孤雁、柳敬助、ラス・ビハリ・ボース、エロシェンコなどの織りなす人間模様の格好の手引きです。お買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月7日

昭和26年(1951)の今日、勝手に講演会の講師として報道に名前を挙げられて憤慨しました。

この日の日記の余白メモです。

承諾無きうちに講演などと発表すること岩手の習慣らし、かかる時余は出席せず。

前日の日記には、

七日に太田校にて演講と新聞に出た由、無茶也

とあります。「講演」とすべきところが「演講」となっているのは、怒りに我を忘れていたためでしょうか。

翌年には同じようなケースでブッキングまで起こっています。

一昨日、昨日と、新聞報道について書きましたので、今日もその流れで。

光雲、光太郎の名がちらっと出た記事をご紹介します。

まず、『産経新聞』さん。

22日の文化面、「【自作再訪】 澄川喜一さん「そりのあるかたち」 錦帯橋の美しさに惚れ込んで」という記事。

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元東京芸術大学学長で東京スカイツリーのデザイン監修者として知られる彫刻家、澄川喜一さん(84)。47歳のときに誕生した代表作「そりのあるかたち」は、ライフワークとして取り組んできたシリーズだ。反った曲線が特徴の抽象彫刻は、どこか懐かしく親しみがある。代表作誕生の背景には、日本の伝統文化が深く関わっている。

と始まり、昭和53年(1978)、平櫛田中賞を受賞した抽象彫刻「そりのあるかたち」についての話、さらに岩国の錦帯橋、法隆寺の五重塔、東京スカイツリーなどの古今の造型に触れています。

その中で、光雲が主任となって原型が作られた、上野の西郷隆盛像にも言及されました。

公共の場には、周囲の環境に合った作品を創らなければなりません。多くの人が目にするのですから、ひとりよがりの彫刻では駄目なんです。高村光雲は、東京の上野公園の西郷隆盛像を創りました。戦後、軍国主義を一掃するために軍人の銅像がことごとく撤去される中で、西郷さんは残りました。造形もさることながら着流しで犬を連れた庶民的な姿にしたアイデアも良かった。後世に残るものもあれば消えてしまうものもあります。彫刻家の社会に対する責任は重大です。

最後の一文、まさしくその通りですね。


『産経新聞』さん、翌日の教育面には、光太郎の名が。

インテリアデザイナーの小坂竜氏と、お父さんの彫刻家、故・小坂圭二氏を紹介する「父の教え 創作への情熱教わった師匠」という記事です。

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故・小坂圭二氏は、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作に際し、光太郎の助手を務めた彫刻家です。

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その圭二氏の紹介文で、光太郎が引き合いに出されています。

【プロフィル】小坂圭二
 こさか・けいじ 大正7年、青森県生まれ。中国と南太平洋のラバウルで兵役に服す。昭和25年に東京芸術大彫刻科卒業。青山学院中等部の美術教師をしながら彫刻家として活躍。阿部合成や柳原義達らに師事し、高村光太郎の助手を務めた。74歳で死去。


同じくプロフィールの紹介で、光太郎を引き合いにしたのが、『京都新聞』さんの先週の記事。陶芸家バーナード・リーチに関連する記事でした。

東西陶工の縁、百年越え 京都・宇治の一族、リーチ工房に

 20世紀を代表する陶芸家の1人、バーナード・リーチ(1887〜1979年)の母国・英国の工房で登り窯を造った京都・宇治の陶工の一族がこの春、リーチの工房で新たな作陶に挑んだ。近代陶芸の礎を築いた巨匠の工房で、約100年の時を経て再び生み出された東西の美の結晶が27日から京都市内で展示される。
 英国で陶芸に取り組んだのは、宇治で代々続く窯元「朝日焼」の次期当主、松林佑典さん(34)。リーチの工房を支えた陶工松林靏(つる)之助(1894〜1932年)は、13代当主だった曽祖父の弟にあたる。
 靏之助は京都市立陶磁器試験場付属伝習所(現・京都市産業技術研究所)で、後の人間国宝、濱田庄司らに師事。1922年、28歳で英国留学した。リーチと濱田は英南西部セントアイブスで工房を開いたが窯が壊れ、靏之助に窯の築造を依頼した。靏之助は半年がかりで日本式登り窯を造り、京都の陶芸の知識をリーチの弟子たちに教えた。窯は半世紀にわたり使われ、世界で評価される多数の作品が生まれた。
 靏之助は25年に帰国後、38歳の若さで亡くなり、ほぼ無名の陶工だった。京都女子大の前?信也准教授(日本工芸史)が大英博物館で靏之助の茶碗を発見したことから、近年に研究が進んだ。前?准教授は「靏之助がいなければ、今日、私たちの知るリーチはなかった」と高く評価する。
 今年3〜4月の約1カ月間、リーチの工房に滞在した佑典さんは、今も工房の道具が日本由来だったり、釉薬(ゆうやく)の名前が日本語だったりして驚いたという。100年前の姿が残る石造りの工房で、宇治と英国の土を混ぜ、地層や年輪のような味わいのある茶碗など30点を制作した。「異質なものが混ざり合って多様なハーモニーが生まれる。東洋と西洋が交わる普遍的な美を目指した」と話す。
 展示は京都市中京区衣棚通三条上ルの「ちおん舎」で、29日まで。入場無料。28日午後4時半から、前?准教授の講演会もある。朝日焼TEL0774(23)2511。

 ■バーナード・リーチ 英国の陶芸家。幼少期を日本で過ごし、英国に留学中の詩人高村光太郎と出会い、20代で版画家として再来日した。日用品に美を見いだす民芸運動を提唱した柳宗悦と親交が深く、在日中に陶芸にのめり込んだ。東西の美や哲学を融合した作品を発表した。


小坂圭二にせよ、バーナード・リーチにせよ、その紹介に縁の深かった光太郎が引き合いに出され、ありがたいかぎりです。「高村光太郎? 誰、それ?」という状況になってしまうと、こうはいきません。そうならないように、光太郎の名を後世に残す活動に取り組み続けたいと思っています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月29日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋を訪れた歌人の伊藤岩太郎の持参した画帖に「悠々たる無一物に荒涼の美を満喫せん」と揮毫しました。

伊藤は当時、岩手郡大更村(現・八幡平市)に住んでいました。その後、盛岡に居を構え、自宅の庭に先達の偉業を偲ぶとともに、自分の50年に及ぶ歌道精神の総決算の意味で石川啄木、若山牧水、長塚節、斎藤茂吉、木下利玄、北原白秋の歌碑を建立しました。

伊藤と光太郎のかかわりは、この日の日記にしか確認できませんが、もう少しいろいろあったように思われます。画帖の現物も確認できていません。今後の宿題とします。

「悠々たる……」はこの年に書かれた連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」にある「悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する」の変形。漢文調に語順を変え、送りがなを廃したバージョンの揮毫も複数存在します。

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昭和23年(1948)、光太郎と交流のあった彫刻家・笹村草家人を介し、神田小川町の汁粉屋主人・有賀剛に贈ったと推定されるもの。

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同じ頃、隣村に疎開していたチベット仏教学者・多田等観に贈ったもの。

一昨日、東京池袋で「東京精神科病院協会 心のアート展 創る・観る・感じる パッション――受苦・情念との稀有な出逢い」、さらにリブロ池袋本店内のぽえむ・ぱろうるに行った後、JRから地下鉄に乗り換える都合もありまして、巣鴨にも立ち寄りました。

上京した際には複数の用件を済ませるのを基本としており、さらにこのブログのためのネタ拾いという意味合いもあります。

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こちらがかの有名なとげ抜き地蔵・高岩寺さん。巣鴨といえば、「おばあちゃんの原宿」ですが、目的地はこちらではなく、高岩寺さんを横目に中山道(国道17号)を北上、右手の路地を入っていった西巣鴨4丁目にある妙行寺さんというお寺です。こちらの境内に、光雲作の観音像が露座で鎮座なさっているという事だけは知っておりまして、行ってみようと思った次第です。

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めざす妙行寺さんのすぐ近くを、都電荒川線が走っていました。あとで地図を見たところ、巣鴨駅で下りて歩くより、地下鉄三田線の西巣鴨駅、または大塚駅から都電に乗り換え、新庚申塚という駅で下りればすぐでした。巣鴨という地名だけを頼りに、巣鴨駅の近くだろうと、あまり調べもせず行ったので失敗しました。巣鴨駅からはけっこうありました。

さて、妙行寺さん。100㍍ほどのところを国道17号が走っているにもかかわらず、境内は静かな雰囲気でした。本堂やら仏塔やら、いい風情でした。

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目的の光雲作の観音像もすぐに見つかりました。

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光雲作の特徴をよく顕し、優美なお姿です。今年3月に拝観して参りました、紅葉の季節にはライトアップもされる京都・知恩院さんの観音像と相通じる雰囲気です。

しかし、台座の石柱に「うなぎ供養塔」の文字。「なんじゃ、そりゃ?」です。

観音像を含むこの塔が、東京うなぎ蒲焼商組合などの発願で建立されたものでした。細かな場所もそうでしたが、どういう像があるのかもろくに調べずに行ったので、存じませんでした。

台座の側面には、加盟店の名がずらり。

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背面には「原型者 高村光雲先生  鋳造者 渡辺008長男先生  昭和三十五年五月二十日建立」の文字。光雲が歿したのは昭和9年(1934)ですから、歿後かなり経ってから鋳造されたものということになります。そういうケースも少なくないので、この点はあまり意外ではありません。

鋳造者は渡辺長男(おさお)となっています。「あれっ」と思いました。渡辺は日本橋の麒麟などの彫刻を造った彫刻家です。彫刻制作だけでなく、鋳造も手がけていたのか、と思いました。

帰ってから調べてみると、渡辺の義父は岡崎雪声。岡崎は鋳金家で、やはり光雲がらみの楠公銅像や、やはり日本橋の麒麟などの鋳造に携わっています。娘婿の渡辺もそうした関係で鋳造の技術を身につけていたのかも知れません。

しかし、渡辺の没年は昭和27年(1952)。妙行寺さんの「うなぎ供養塔」の建立は昭和35年(1960)。像の鋳造だけは先に行われていたということでしょうか。

目指す観音像を拝観し終え、境内をぶらつきました。すると、こんなものが。

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「四谷怪談お岩様の寺」という碑です。

これも存じませんでしたが、妙行寺さんにはお岩さんの墓があるとのことで、驚きました。歌舞伎などで「四谷怪談」を上演する際には、関係者が必ずお岩さんの墓参りをするという話は聞いたことがありましたが、それがまさかここだとは……。てっきりお岩さんの墓も四谷近辺にあるとばかり思っていました。

やはり帰ってから調べたところ、妙行寺さん、元は四谷の隣の信濃町にあって、明治になってから巣鴨に移転したとのこと。それなら納得です。

光雲作の観音像、うなぎだけでなく、お岩さんの魂も供養していただきたいものです。


この手の光雲が原型を手がけた仏像のたぐいは、都内のあちこちの寺院で見ることが出来ます。浅草寺の沙竭羅龍王像などもその一つ。また折を見て他の寺院の像を拝観し、レポートしたいと思っております。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月22日

明治43年(1910)の今日、智恵子が旧制米沢中学の生徒・鈴木謙二郎に宛てて葉書を書きました。

実はねからだがあまり思はしくなかつたのであれから今迄房州に行て居りましたのです 昨夕帰て御はがきを拝見しました さうでしたか けふは廿二日 もう退院なすつたかとも存じますが如何です 其後の御経過はお宜しいですか 其中都合して病院ならば御伺したいと思ますが女は不自由で困ります、まァ折角御摂養して御全快の程祈上ます

鈴木は智恵子の七歳年下。明治40年(1907)、智恵子が父と弟と共に、福島県北部の原釜海岸にあった金波館という旅館での潮湯治(海水浴をそう呼んでいました)逗留中に知り合い、以後、姉弟のように文通をするようになりました。この書簡の「実はね」という書き出しも姉のような雰囲気ですね。

智恵子から鈴木宛の書簡は17通確認されています。智恵子の書簡は70通ほどしか見つかっていません(まだまだどこかに眠っていそうですが)ので、そのうちの17通というのは、かなりのパーセントです。

鈴木はこの時、東京帝大病院の耳鼻科病棟に入院していたとのこと。

一昨日からの流れがありますので、光雲ネタをもう一日続けます。

富山からの企画展情報です。 

チューリップテレビ開局25周年記念 超絶技巧! 明治工芸の粋

会 期 : 2015年6月26日(金曜)~8月16日(日曜)
会 場 : 富山県水墨美術館 富山市五福777番地
主 催 : 明治工芸の粋実行委員会(富山県水墨美術館・チューリップテレビ)
休館日 : 月曜日(ただし、7月20日は開館)、7月21日(火曜)
  : 午前 9時30分から午後5時まで(入室は午後4時30分まで)
観覧料 : [前売り]一般のみ800円 [当日]一般1,000円 大学生700円 高校生以下無料
関連行事 : 日本美術応援団(山下裕二団長・本展監修者)のメンバーによるトークショー
       会場 富山県水墨美術館映像ホール 定員 120名 日時未定

 鋭い観察眼から生まれた本物と見まがうほどのリアリティ、文様をミリ単位で刻み、彩色し、装飾を施す繊細な手仕事。明治時代、表現力・技術ともに最高レベルに達した日本の工芸品は、万国博覧会にも出品され海外の人々を驚嘆させました。しかし、その多くは外国の収集家や美術館に買い上げられたため、日本で目にする機会にはほとんど恵まれませんでした。
 その知られざる存在となりつつあった明治の工芸の魅力を伝えるべく、長年をかけて今や質・量ともに世界随一と評されるコレクションを築き上げたのが村田理如(むらたまさゆき)氏です。本展では、村田氏の収集による清水三年坂美術館(京都)の所蔵品から選りすぐりの逸品を一堂に紹介します。並河靖之(なみかわやすゆき)らの七宝、正阿弥勝義(しょうあみかつよし)らの金工、柴田是真(しばたぜしん)・白山松哉(しらやましょうさい)らの漆工、旭玉山(あさひぎょくざん)・安藤緑山(あんどうろくざん)の木彫・牙彫をはじめ、京薩摩の焼きものや印籠、刺繍絵画など、多彩なジャンルにわたる約160点の優品をとおして、明治の匠たちが魂をこめた、精密で華麗な「超絶技巧」の世界をお楽しみください。

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昨年の東京三井記念美術館さんから始まり、これまで静岡佐野美術館さん、山口県立美術館さん、郡山市立美術館さんを巡回した展覧会です。

これまでと同じく、光雲の木彫「西王母」「法師狸」が並ぶとのこと。

他にも七宝、金工、自在置物、薩摩焼、象牙彫刻、漆工、刀装具などの逸品が目白押しです。


ちなみに会場の富山県水墨美術館さんは、平成15年(2003)には「高村光太郎と智恵子の世界」展を開催して下さいましたし、光太郎のブロンズ「薄命児男子頭部」(明治38年=1905)、「裸婦坐像」(大正6年=1917頃)を所蔵しています。


お近くの方、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月16日

昭和28年(1953)の今日、東京中野の料亭ほととぎすで、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」原型完成の報告会に出席しました。

像の制作のため、「十和田国立公園功労者顕彰会」という組織が結成され、光太郎のバックアップがなされました。そのメンバーに対しての報告会で、青森からは副知事の横山武夫が上京し、他に佐藤春夫夫妻、土方定一、藤島宇内、草野心平、小坂圭二、谷口吉郎が参加しました。

この時、光太郎が行った報告のためのメモ書きが現存しています。

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昨日に続き、光雲ネタで。

一昨日、富山の地方紙『北日本新聞』さんに載った記事です

日蓮像の完成を祈願し鋳造火入れ式 高岡・古城製作所が受注

 高岡市野村の古城製作所(大野政治社長)は、石川県七尾市の日蓮宗実相寺に建立される開祖・日蓮の銅像を受注した。13日、高岡市福岡町土屋の工場で、鋳造火入れ式が行われ、建立を計画した千葉県市川市の日蓮宗大本山、法華経寺の新井日湛貫首や大野社長らが無事な完成を祈った。9月に建立、開眼予定で、来年4月に奉納される。
 法華経寺は1260(文応元)年創建の日蓮が最初に開いた寺として知られる。実相寺は、145代の新井貫首が生まれ育った寺。今回は、2021年に日蓮の生誕800年を控え、来年は実相寺31代で新井貫首の祖父の50回忌となることから、12年に法華経寺に建立した日蓮像と同型の製作を古城製作所に依頼した。
 建立するのは、近代彫刻界の大家、高村光雲による日蓮像の原型を使った高さ約4メートルの銅像。台座を含めると約8メートルにもなる。火入れ式では僧侶2人が木剣を打ち、祈禱する中、職人が溶かした銅を鋳型の湯口に注いだ。
 大野社長は「立派な銅像に仕上げ、高岡銅器をアピールしたい」と話した。


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石川県の実相寺さんという寺院に、光雲が原型を作った日蓮像が建立されるという内容です。

この像は、鎌倉の長勝寺さんにあるものと同型で、他にも各地に建立されています。

静岡県富士市の妙祥寺さんにあることは、以前から存じておりましたが、千葉県市川市の中山法華経寺さんにも奉納されていたと、今回の記事で初めて知りました。そちらは今回と同じ高岡の古城製作所さんの鋳造だそうで、ホームページを見て驚いたのですが、同社の取扱商品のラインナップに今回の像が入っています。他の寺院、あるいは個人でも注文されたのかも知れません。

古城さんでは45㌢のミニチュア版も作っているとのことで、これには少し笑いました。泉下の光雲も苦笑しているのではないでしょうか。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月15日

昭和44年(1969)の今日、求龍堂から高村光太郎記念会編、『高村光太郎賞記念作品集 天極をさす』が刊行されました。

「高村光太郎賞」は、昭和32年(1957)、筑摩書房から最初の『高村光太郎全集』の刊行が始まった直後、実弟の豊周から、その印税を光太郎の業績を記念する適当な事業にあてたいという意向が出され、始まったものです。

その規定を抜粋します。

一、故高村光太郎を記念し、造型及び詩の二部門に高村光太郎賞を設定する。
一、授賞対象となる作品は、主として、造型部門に於いては発表作品、詩部門に於いては詩集とする。
一、本賞設定当初の選考委員は、
 造型=今泉篤男、木内克、菊池一雄、高田博厚、谷口吉郎、土方定一、本郷新
 詩=伊藤信吉、尾崎喜八、亀井勝一郎、金子光晴、草野心平
 とする。

賞金は十万円。同一部門で複数の授賞が出た場合には折半、そして、永続的に行うのではなく、10回で終わる、とも定められました。

副賞として、光太郎が短句「いくら廻されても針は天極をさす」と刻んだ木の盆を、豊周がブロンズに鋳造した賞牌が贈られました。

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『天極をさす』の書名はここから採りました。

ところで、数年前にこの賞牌がネットオークションに出品され、ある意味、少し残念でした。出所もわかっています。

第一回の授賞式は昭和33年(1958)、最終第10回は同42年(1967)。10年間で造型部門17名、詩部門15名が授賞
しました。内訳は以下の通り。

造型部門は、柳原義達、豊福知徳、佐藤忠良、向井良吉、白井晟一、舟越保武、堀内正和、西大由、吾妻兼治郎、水井康夫、細川宗英、大谷文男、黒川紀章、一色邦彦、篠田守男、建畠覚造、加守田章二。

詩部門が、会田綱雄、草野天平、山之口貘、岡崎清一郎、山本太郎、手塚富雄、田中冬二、高橋元吉、田村隆一、金井直、山崎栄治、中桐雅夫、生野幸吉、中村稔、富士川英郎。

これらの人々の略歴を調べると、多くは「高村光太郎賞授賞」と記されています。また、造型部門の受賞者及び選考委員により、「連翹会展」が6回開かれました。

『天極をさす』は、高村光太郎賞の完了を記念して、上記受賞者及び選考委員、そして高村豊周の作品(造型系は写真)を掲載した大判の書籍です。

その後、箱根彫刻の森美術館さんで、具象彫刻を対象とした「高村光太郎大賞」が始まりましたが、どうも趣旨が違う、ということで、3回で終了しました。

仙台に本社を置く東北の地方紙、『河北新報』さん。一昨日の一面コラムで光雲を取り上げて下さいました。

河北春秋

 組織「イスラム国」によるイラクやシリアの古代遺跡の破壊が続く。約3千年前のアッシリア帝国のニムルド遺跡、約2千年前に栄えたハトラ遺跡。世界遺産のあるパルミラも制圧したと伝えられる。なんとも残念▼と思ったら、日本でも明治維新のころ、文化遺産が災難に遭っていた。理由の一つは、新政府による「神仏分離令」だ。廃仏毀釈(きしゃく)運動が進み、結果として寺院や仏像、仏具などの売却、廃棄につながった。仏師の高村光雲が焼却寸前の観音像を買い取った、という逸話もある▼そして、明治6(1873)年の「廃城令」。お城は封建時代の遺物と見なされた。多くが破壊され、維持コストがかかると売り払われた。太平洋戦争を経て、天守が創建当時のまま残ったのは、12城だけだ▼その一つ、弘前城のある弘前市が言い出しっぺとなり、「現存十二天守同盟」なるものを結成する。兵庫・姫路や松山など11市と協力し、情報発信や外国人観光客誘致などを進めるそうだ。松江城(松江市)の国宝内定や城巡りブームもあって、大いに盛り上がるだろう▼存続の危機があった事実や背景も、伝えられるといいと思う。先達の価値観は、時の為政者によってすっかりひっくり返されることもある。いまだからこそ、考えてみては。(2015.6.12)

イスラミック・ステートによる文化財破壊のニュースから、明治初頭の廃仏毀釈へと話が進み、光雲のエピソードが紹介されています。先日放映されたNHKEテレさんの「日曜美術館 命を込める 彫刻家・高村光雲」の中でも少し扱われていたエピソードで、元ネタは昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』です。

神仏分離の政策は、王政復古となった慶応年間からすでに太政官布告の形で進められました。仏教の排斥を企図したものではなかったにも関わらず、各地で拡大解釈がなされ、エスカレート。廃藩置県前、中部地方のある藩では、藩主の菩提寺を含め、領内全ての寺院が破壊され、何と現在でも仏式の葬儀を行う家庭がほとんど無いということです。

『光雲懐古談』に記されたエピソードは、光雲がまだ徒弟修行中の明治9年(1876)頃のこと。本所にあった(現在は目黒に移転)羅漢寺という寺院境内の栄螺堂が取り壊され、堂内に安置されていた観音像百体が焼却されることになりました。請け負ったのは「下金屋」という金属のリサイクル業者。像に施されている箔の金を、焼却した後で取り出すというわけです。

今にも火をかけられる、という話が町の人から師匠・東雲の処にも007 (2)たらされましたが、あいにく師匠は留守。そこで、以前からそれらの観音像を手本とするため足繁く通っていた光雲が、現場に飛びます。業者と交渉の結果、特に出来がいいと目星をつけていた五体、それもすでに解体されていたものの部材を集めて、譲って貰いました。業者は足もとを見てふっかけてきたそうですが、後から駆け付けた師匠が支払いました。

そのうちの一体を、光雲は自分の守り本尊として師匠から買い取り、終生、手元に置いていたとのこと。江戸時代の仏師・松雲元慶の作で、右の画像の観音像です。現在も高村家に遺っているはずです。確かに光雲の作に通じる柔和なお姿ですね。

『光雲懐古談』のこのくだり、「青空文庫」さんで公開中ですので、ご覧下さい。四つの章に分かれていますが、ひとつながりです。



たかだか150年ほど前、我が国でもこうした乱暴な文化財破壊が行われていたわけで、イスラミック・ステートの暴挙も笑えません。

もっとも、『河北新報』さんの「河北春秋」(少し前には保守系の泡沫政党の議員が、別の日の「河北春秋」にお門違いの非難を開陳していて、笑えました)の最後に有るとおり、さらに近い過去である70年前の苦い経験も無視し、先人の守ってきた金科玉条を破壊しようとする為政者の支配する国ですから……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月14日

昭和23年(1948)の今日、散文「一刻を争ふ」を書き始めました。

稿了は翌日。翌月の雑誌『婦人之友』に掲載され、のち「季節のきびしさ」と解題の上、詩文集『智恵子抄その後』に収められました。

すでに2年余りを過ごした花巻郊外太田村の山小屋で、自然の営みの力に驚嘆させられることを綴っています。

今月7日の『毎日新聞』さんに、光太郎の名が。光太郎がメインではなく、親友の荻原守衛に関する内容で、東京大学名誉教授、姜尚中氏のコラムです。 

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熊本出身の姜氏、かつてNHKEテレさんの「日曜美術館」に出演されていた頃、番組収録で信州安曇野の碌山美術館を訪れ、熊本と信州のつながりを実感されたそうです。

曰く、

つたのからまる教会風の碌山美術館には、高村光太郎と並び称される彫刻家・荻原守衛の作品が展示されているが、その守衛が夏目漱石の熱烈な愛読者であり、その号、碌山は、阿蘇を舞台にした漱石の『二百十日』の主人公のひとり、「碌さん」にちなんだらしいということが分かったのだ。

守衛の号は「碌山」。その由来は知られているようで意外と知られていない気がしますが、夏目漱石の短編小説「二百十日」(明治39年=1906)から採られています。守衛が漱石のファンだったためです。「二百十日」の登場人物の一人が「碌さん」。「碌さん」→「碌山」というわけです。

漱石は、明治29年(1896)、それまでの任地だった「坊ちゃん」の舞台、伊予松山から姜氏の故郷・熊本の旧制五高に赴任、同33年(1900)の英国留学に出るまでを過ごします。この地で中根鏡子と結婚しています。

「二百十日」は、熊本時代に同僚と阿蘇登山を試み、嵐にあって断念した経験を元に書かれました。主要登場人物は二人。「文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与える」べきだと豪語する「圭さん」。「坊ちゃん」を彷彿させられます。その威勢のいい言葉にうなずきながらも、逡巡し、それでも一生懸命生きようとする「碌さん」。

姜氏は、守衛が「圭さん」でなく「碌さん」に共感を覚えていることに注目し、次のように語っています。

「圭山」ではなく、「碌山」なのも、迷い、悩みながらも、「朋友を一人谷底から救い出す位の事は出来る」とつぶやく碌さんに、守衛が自分自身の姿を重ね合わせていたからではないか。迷いと思慕の情にあふれる「デスペア」や「女」、さらに毅然(きぜん)とした風格の「文覚」や「坑夫」などの代表作には、そうした守衛の弱さと強さが表れているように思えてならない。

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そしてご自分の中にも「碌さん」的な部分を見いだし、次のように結んでいます。

漱石や碌山とは比べようもないほど卑小だが、私の中にも碌さんに近いものがあるように思えることがある。そう思えば思うほど、熊本と長野はしっかりとした一本の糸で結ばれているようにみえる。

さながら「坊ちゃん」のように、某大学の学長職を投げ打って飛び出した氏は、「圭さん」に近いような気もするのですが……。


さて、光太郎。以前に書きましたが、文展(文部省美術展覧会)の評を巡って、漱石に噛みつきました。同様に、恩師・森鷗外にも喧嘩を売ったり(ただし、「文句があるならちょっと来い」と呼びつけられると、しおしおっとなってしまいましたが)と、「権威」というものにはとにかく逆らっていた光太郎。「圭さん」に近いような気がします。

歴史に「たら・れば」は禁物とよく言いますが、守衛と光太郎、名コンビとしての二人三脚が続いていたら、と思います。かえすがえすも守衛の早逝(明治43年=1910)が惜しまれます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月13日

平成10年(1998)の今日、短歌新聞社から大悟法利雄著『文壇詩壇歌壇の巨星たち』が刊行されました。

大悟法利雄は明治31年(1898)、大分の生まれ。若山007牧水の高弟、助手として知られた歌人。沼津市若山牧水記念館の初代館長も務めた他、編集者としても活躍しました。

同書には、「高村光太郎 父光雲をいたわる神々しい姿」という章があります。おそらく昭和3年(1928)の光雲の喜寿祝賀会での光太郎一家、戦前の駒込林町のアトリエの様子、戦後、中野のアトリエに「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を造り終えた光太郎を訪ねた際の回想などが記されています。

当方刊行の『光太郎資料』第37集に引用させていただきました。ご入用の方は、こちらまで。

現在、武蔵野美術大学美術館さんで開催中の「近代日本彫刻展」の図録が届きました。

先月末、観に行ってきたのですが、その際は図録がまだできていないということで、郵送していただくよう手続きをしておいたものです。表紙は光太郎の木彫「白文鳥」。

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英国のヘンリー・ムーア・インスティテュートとの共同開催で、今年1月から4月までは英国リーズでの開催でした。そこで、半分は英文です。しかし、邦訳も付いているので助かりました。

英国の研究者3名による対談が、非常に興味深く感じられました。3名は、ヘンリー・ムーア・インスティテュート館長のリサ・ルファーブル氏、同館学芸員のソフィー・ライケス氏、そしてロンドン大学教授のエドワード・アーリントン氏。

目から鱗だったのが、西洋諸国には今回出品されているような、動物をモチーフにした小品の彫刻が存在しない、というくだりでした。あちらでは「彫刻」というと偉人などの肖像や人体が基本。動物彫刻もあるにはあっても、ライオンなどの比較的大きな物ばかりだというのです。

ちなみに今回の出品作は、以下の通り。

・「手」 高村光太郎 大正7年(1918) 頃 ブロンズ、木彫(台座部分)
・「白文鳥」 高村光太郎 昭和6年(1931)頃 木彫
・「冬眠」 佐藤朝山  昭和3年(1928) 木彫
・「石に就て」 橋本平八 昭和3年(1928) 木彫/「石に就て」 の原型となった石
・「干物(めざし)」「静物(干物)」「静物(カタクチイワシ)」「静物(豆)」
 「静物(骸)」  横田七郎 昭和3年(1928)~同4年(1929) 木彫
・「蘭者待 模刻」 森川杜園 明治7年(1873) 木彫

さらに英国展では、以下が出品されていました。

・「海老」 水谷鉄也 大正15年(1926) 木彫
・「海幸」 宮本理三郎 制作年不明 木彫

このうち、題名でわかりにくい佐藤朝山の「冬眠」がガマガエル、横田七郎の「静物(骸)」は小鳥の死骸、森川杜園の「蘭奢待 模刻」は正倉院収蔵の香木、宮本理三郎の「海幸」は魚の干物です。

西洋では、こうしたものが彫刻のモチーフになることがない、日本人は「自然」全体からモチーフを採っている、というわけです。


また、唯一、人体をモチーフにした光太郎のブロンズの「手」も、台座の木彫部分とのコラボレーションに、非常に特異なものを感じているようです。


曰く、007

この台は作品の奥深くまで伸びており、作品を直立させています。しかし、手を取り去って台座自身を見てみると、思いがけず素晴らしいものを目にします。(略)台座はそれ自体彫刻なのです。(略)この台は生長する、生きているもののように思われ、木の枝や根あるいは幹に似ています。そして、この有機的な木の土台からブロンズの手が生えているように思えるのです。(ヘンリー・ムーア・インスティテュート学芸員ソフィー・ライケス氏)

図録には、ブロンズ部分を取り去った台座のみの写真も掲載されています。

当方、この状態の実物はまだ見たことがありませんが、いずれそういう機会もあるかと期待はしています。


それから、日本人研究者による論考3本も、なかなかに読みごたえがありました。小平市立平櫛田中彫刻美術館学芸員・藤井明氏の「展示作品の作家について:歴史背景と経歴」、武蔵野美術大学彫刻科教授の黒川弘毅氏による「媒体と素材:リアリズムについての考えの差異」、大分大学教育福祉学部教授の田中修二氏で「日本彫刻への視点:1910年代~1930年代における彫刻家の社会的背景」。


さらに、英国人研究者の論考2本からも彼我の彫刻に対する認識の違いが見て取れます。一例を挙げれば、西洋では「共箱」という概念もないということ。今回、武蔵野美術大学美術館さんでの展示では、光太郎の「白文鳥」の共箱が並んでいましたが、意味もなく並べてあったのではなかったわけです。


その他、近代日本の彫刻史についても随所で触れられ、光雲や荻原守衛などについても記述があります。展示作品以外の図版も豊富。お買い得です。

008
武蔵野美術大学美術館さんでの展示は8月16日まで。ただし、「手」が2つ並ぶのは今月20日までです。ぜひ足をお運びいただき、図録もご購入ください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月9日

昭和47年(1972)の今日、この月2日に亡くなった、光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝・豊周に、追善のため従四位銀杯一個が贈られました。

昨日の「日曜美術館 一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」を受けて、光雲彫刻作品が見られる機会をご紹介します。 

まずは光雲が教授を務めていた東京美術学校と縁の深い法隆寺での展観です。既に始まって久しいのですが、今月いっぱい開催されています。

平成二十七年度春季法隆寺秘宝展 ―至宝の世界―

場  所 : 法隆寺大宝蔵殿 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1の1
期  間 : 2015年3月20日(金)~6月30日(火) (無休)
時  間 : 午前9時~午後4時
料  金 : 一般(中学生以上)500円  小学生250円

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公式サイトより
平成13年春、聖徳太子1380年御聖諱を記念して、毎年、春と秋に特別公開「法隆寺秘宝展」を開催させていただくこととなり、本年で15回目となりました。 
今回は飛鳥・奈良時代の至宝をはじめとして、法隆寺において展開された信仰とともに伝存した数々の宝物に加え、大正十年(1921)の聖徳太子1300年御忌法要に際して、制作奉納された中村不折筆の西園院客殿の襖絵や、東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授でもあった高村光雲をはじめとする彫刻家によって刻まれた行道面なども、展示させていただきました。
ゆっくりとご鑑賞いただければと存じます。

光雲作品は大正10年(1921)作「行動面 綱引」。伎楽・舞楽系のものかと思いますが、すみません、よくわかりません。同じ種類の「行動面」は、光雲以外に門下の錚々たるメンバーが手がけています。米原雲海、平櫛田中、山崎朝雲、加藤景雲、山本瑞雲などなど。


続いて昨日の「日曜美術館」でも詳しく取り上げられていた重要文化財の「老猿」。東京国立博物館の所蔵ですが、明日から蔵出しです。光太郎のブロンズ「老人の首」も並びます。 

近代の美術

場  所 : 東京国立博物館 本館 18室  東京都台東区上野公園13-9
期  間 : 2015年6月2日(火)~7月12日(日) (月曜休館)
時  間 : 9:30~17:00
料  金 : 一般620円、大学生410円

公式サイトより
明治・大正の絵画や彫刻、工芸を中心に展示します。明治5年(1872)の文部省博覧会を創立・開館のときとする当館は、万国博覧会への出品作や帝室技芸 員の作品、岡倉天心が在籍していた関係から日本美術院の作家の代表作など、日本美術の近代化を考える上で重要な意味を持つ作品を数多く所蔵しています。こ れらによって明治、大正、そして昭和の戦前にかけての日本近代の美術を概観します。
日本画は、水鳥など水景をとらえた作品や梅雨の季節に因んだものを展示します。洋画は、明治期における日本の風景をとりあげた作品を中心にご覧いただきます。彫刻は写実表現の際立つ高村光雲の老猿とともに、個人の内面感情まで表現された光雲の子光太郎の老人の首などを展示します。工芸は、明治26年(1893)にアメリカで開催されたシカゴ・コロンブス世界博覧会に出品された作品を中心に、明治時代後半における工芸の諸相をご覧いただきます。

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館のサイトでは7月12日(日)までとなっていますが、「日曜美術館」では8月23日(日)までとなっていました。とりあえず7月12日でいったん区切られ、やはり人気のある作品なので、その後も「老猿」は続けて展示されるということでしょうか。


さらに、こちらも昨日の「日曜美術館」でも詳しく取り上げられていた、高野山金剛峯寺金堂の秘仏・薬師如来。春の御開帳は先月21日で終わりましたが、秋の御開帳があります。

高野山金堂御本尊特別開帳

場  所 : 高野山金剛峯寺 和歌山県伊都郡高野町高野山132
期  間 : 2015年10月4日(日)~11月1日(日)

838年に「高野山の総本堂」として建立され、開創当時は「講堂」と呼ばれていました。現在の金堂は、度重なる火災に見舞われ、7度目に再建されたもので昭和9年に完成したものです。内部には仏師・高村光雲氏により作られた御本尊・薬師如来がおまつりされています。

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こちらはまた近くなりましたら詳しくご紹介します。


現存する光雲作品は数が多く、その他にもぽつりぽつりと各地で展示されています。先月まで奈良でもそういった機会があったのですが、詳細が不明なものはなかなか紹介しにくいところです。電話で問い合わせても要領を得ない場合があります。そこで、主催者の皆さん、ネット等にはできるだけ詳しく情報を載せていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月1日

大正2年(1913)の今日、雑誌『詩歌』第3巻第6号に詩「人類の泉」を発表しました。

智恵子への愛を高らかに謳う、『智恵子抄』前期の傑作の一つです。


人類の泉

世界がわかわかしい緑になつて007
青い雨がまた降つて来ます
この雨の音が
むらがり起る生物のいのちのあらはれとなつて
いつも私を堪らなくおびやかすのです
そして私のいきり立つ魂は
私を乗り超え私を脱(のが)れて
づんづんと私を作つてゆくのです
いま死んで いま生まれるのです
二時が三時になり
青葉のさきから又も若葉の萠え出すやうに
今日もこの魂の加速度を
自分ながら胸一ぱいに感じてゐました
そして極度の静寂をたもつて
ぢつと坐つてゐました
自然と涙が流れ
抱きしめる様にあなたを思ひつめてゐました
あなたは本当に私の半身です
あなたが一番たしかに私の信を握り
あなたこそ私の肉身の痛烈を奥底から分つのです
私にはあなたがある
あなたがある
私はかなり残酷に人間の孤独を味つて来たのです
おそろしい自棄の境にまで飛び込んだのをあなたは知つて居ます
私の生(いのち)を根から見てくれるのは
私を全部に解してくれるのは007 (2)
ただあなたです
私は自分のゆく道の開路者(ピオニエエ)です
私の正しさは草木の正しさです
ああ あなたは其を生きた眼で見てくれるのです
もとよりあなたはあなたのいのちを持つてゐます
あなたは海水の流動する力を持つてゐます
あなたが私にある事は
微笑が私にある事です
あなたによつて私の生(いのち)は複雑になり 豊富になります
そして孤独を知りつつ 孤独を感じないのです
私は今生きてゐる社会で
もう萬人の通る通路から数歩自分の路に踏み込みました
もう共に手を取る友達はありません
ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです
私はこの孤独を悲しまなくなりました
此は自然であり 又必然であるのですから
そしてこの孤独に満足さへしようとするのです
けれども
私にあなたが無いとしたら――
ああ それは想像も出来ません
想像するのも愚かです
私にはあなたがある
あなたがある
そしてあなたの内には大きな愛の世界があります
私は人から離れて孤独になりながら
あなたを通じて再び人類の生きた気息(きそく)に接します
ヒユウマニテイの中に活躍します
すべてから脱却して
ただあなたに向ふのです
深いとほい人類の泉に肌をひたすのです
あなたは私の為めに生まれたのだ
私にはあなたがある
あなたがある あなたがある

ただし、よく読むと、すでに後の大いなる悲劇――智恵子の統合失調症の発症――につながる要因が見て取れます。

「私は今生きてゐる社会で/もう萬人の通る通路から数歩自分の路に踏み込みました/もう共に手を取る友達はありません/ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです/私はこの孤独を悲しまなくなりました/此は自然であり 又必然であるのですから/そしてこの孤独に満足さへしようとするのです」

のちに光太郎自身、こうした生活を「智恵子と私とただ二人で/人に知られぬ生活を戦ひつつ/都会のまんなかに蟄居した。」 (「美に生きる」 昭和22年=1947)と語っています。光太郎にとってはそれでよくても、智恵子にとってどうだったのでしょうか。

また、終末部分、光太郎は「あなたは私の為めに生まれたのだ」とは謳っていますが、「私はあなたの為めに生まれたのだ」とは謳いません。あくまで「私」が中心なのです。

まぁ、こういったことは後になってから言えることですが。

NHKEテレさんで、本日放映の日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」を観ました。

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いつもながらに丁寧な番組造りで、高村光雲という巨匠の生きざまが、しっかりと浮き彫りになっていました。

代表作「老猿」や「矮鶏」、東京美術学校として取り組んだ「楠木正成像」など、そして息子・光太郎の視点を通じ、「職人」なのか「芸術家」なのかという問に対する答えを導き出そうという試みがなされていました。結論としては、単に旧来の江戸の伝統を守るだけでなく、文明開化によって流入してきた西洋美術の方向性も取り入れようとしたその姿勢が高く評価されていました。

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軸足を旧来の伝統に置きながら、新しい西洋の美も取り込もうとした光雲。ロダンをはじめとする西洋近代美術を自己の核として、しかし幼い頃から叩き込まれた日本の良き伝統も忘れなかった光太郎。言い換えれば、単なる守旧にとどまらなかった光雲と、軽薄な西洋かぶれに終わらなかった光太郎。結局、光雲と光太郎は表裏一体なのではないかと思います。

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番組では、開創1200年を迎え、特別開帳された光雲晩年の作である高野山金堂の秘仏も紹介されました。ここにも単なる守旧にとどまらなかった光雲の真髄が表されているように感じました。

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そして、石橋蓮司さんによる、昭和4年(1929)の『光雲懐古談』などからの朗読。ぴったりでした。

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再放送が来週日曜日、6月7日の20時00分から、やはりNHKEテレさんです。ご覧になっていない方、ぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月31日

昭和25年(1950)の今日、細川書店から日本ペンクラブ編纂『現代日本文学選集Ⅺ 現代詩』が刊行されました。

光太郎作品「冬が来た」「秋の祈」「山麓の二人」「雷獣」が収められました。

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一昨日の『東京新聞』さんの一面コラムです。

筆洗

彫刻家の高村光雲はカツオの刺し身をある時から還暦になるまでぷっつりと口にするのをやめた。こんな理由がある▼師匠の家で奉公していた時、食事にカツオの刺し身が出たが、若い光雲には満足できる量ではなかった。師匠の分が台所にある。光雲は大根で猫の足跡の印形を彫り、判子(はんこ)のようにあちこちに押した。猫の犯行に見せ掛けて、師匠の分を平らげた▼気の毒なのは裏長屋の無実の猫で、師匠の妹さんに捕まり、ひどいお仕置きを受けた。「それ以来、無実の罪を得て成敗を受けた猫のために謝罪する心持ちで鰹(かつお)の刺身だけは口に上さぬように心掛け」ていたとは殊勝だが、若き日は、カツオの刺し身の魅力に勝てなかったか▼カツオではなく、豚肉である。六月中旬から食中毒防止のため飲食店などで生レバーや生肉を提供できなくなる。豚の生肉を食した経験はないが、がっかりしている人もいるだろう。お気の毒だが、危険がある以上、御身のためである▼カツオのたたきには、真偽の分からぬ「伝説」があるそうだ。土佐藩主の山内一豊が腹を痛めやすいとカツオを刺し身で食べることを禁じたが、それでも食べたい庶民が表面だけを焼くたたきを編み出したという▼光雲の猫の足跡ではないが、豚の生肉の提供禁止を受け、食いしん坊の日本人が新たな「味」を発見するのではないか。前向きに考えてみる。


元ネタは、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』です。同書には、この他にもこうした落語のような話が満載で、飽きさせません。むろん、真面目な話も多いのですが。

東京美術学校教授、帝室技芸員として当時の彫刻界の頂点に上り詰めた光雲。しかし、その若き日には廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、輸出向けの象牙彫刻が大流行し、木彫の灯は風前の灯火でした。そうした頃の苦労譚の一つです。

さて、明朝9時から、NHKEテレさんの「日曜美術館」で、「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」が放映されます。

下記は現在発売中のNHKさん刊行の番組情報誌『NHKステラ』に載った同番組の紹介記事です。クリックで拡大します。

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予想通り、「『光雲懐古談』の朗読を交え」とあります。朗読は石橋蓮司さん。楽しみです。

再放送もありますが、お見逃し無く。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月30日

昭和25年(1950)の今日、創元社から『現代詩講座 第2巻 詩の技法』が刊行されました。

当時の錚々たる詩人、二十余名の寄稿から成ります007。光太郎も寄稿しています。

しかし、この巻は「詩の技法」というサブタイトルで、他の詩人達が「現代詩の構成」(村野四郎)、「現代詩のレトリック」(丸山薫)、「現代詩に於ける「俳句」と「短歌」」(三好達治)など、大まじめに書いている中、光太郎は「詩について語らず」という題です。書き出しからしてこうです。

詩の講座のために詩について書いてくれといふかねての依頼でしたが、今詩について一行も書けないやうな心的状態にあるので書かずに居たところ、編集子の一人が膝づめ談判に来られていささか閉口、なほも固辞したものの、結局その書けないといういはれを書くやうにといはれてやむなく筆をとります。

なぜ「詩について一行も書けないやうな心的状態にある」のでしょうか。やはり、戦時中、大量に空疎な先勝協力詩を書き殴った自責の念がそこに垣間見えます。

以前には断片的ながら詩について書いたこともありましたが、詩についてだんだんいろいろの問題が心の中につみ重なり、複雑になり、卻つて何も分らなくなつてしまつた状態です。今頃になつてますます暗中模索といふ有様なのです。

かえって詩に対する真摯な態度が読み取れる、と言えばほめすぎでしょうか。

東北から帰ってきてからも、あちこち出かけています。

一昨日は、都下小平の武蔵野美術大学美術館さんに出かけて参りました。以前にご紹介した「近代日本彫刻展 −A Study of Modern Japanese Sculpture−」が始まりました。

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他にも企画展が開催されており、「近代日本彫刻展」は一室のみでの開催でした。

光太郎作品としては、木彫の「白文鳥」(昭和5年=1930頃)、ブロンズの「手」(大正7年=1918頃)が2種類、展示されています。


「白文鳥」は、一昨年に全国3館を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展でお借りして以来、約1年半ぶりに観ました。

愛くるしい彫刻です。分類すれば写実彫刻なのですが、全体にざっくりした彫刻刀の痕を残しており、完璧な写実ではありません。また、光雲のように羽毛の一本一本を様式化して彫るということもやって居らず、ロダンに学んだ粘土での表現を木彫に反映させているのがよくわかります。

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しかし、写実以上に写実。生命力に溢れています。

今回は、この「白文鳥」を入れていた共箱も展示されていました。こちらは初めて観ました。

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さらに「手」が2点。上野の朝倉彫塑館さん(左)と、竹橋の東京国立近代美術館さん(右)所蔵のものです。以前にも書きましたが、この2点は確実に大正期の鋳造です。また、木製の台座も光太郎の制作。2つ並んでいるのを観るのは初めてで、今まで気づいていませんでしたが、台座の形がかなり異なっています。

竹橋のものは意外と台座の板の部分が薄タイプです(右の画像)。ところが朝倉彫塑館さん所蔵のものは、板の部分の厚さがこの2倍近くあります(左)。どちらも面の処理の仕方が、「白文鳥」とよく似ており、この台座の制作が後の木彫作品(「蟬」「蓮根」など)を多く作るようになった一つの契機というのがうなずけます。

ちなみに全国各地にある「手」の台座は、高村家所蔵のものを模しています。こちらも光太郎作の台座と推定され、刳型の付いた装飾的な台座です。

図録には、ブロンズをはずした台座のみの写真も載っています。ただし、図録の印刷が間に合わなかったそうで、受付で名簿に住所氏名等を書き、代金を支払って、後ほど郵送していただくシステムになっていました。

こちらは8月16日まで開催されています。ただし、東京国立近代美術館さんの「手」は6月20日までの展示だそうです。


もう1件、展覧会レポートを。というか、まだこのブログではご紹介していませんでしたので紹介も兼ねます

後閑寅雄喜寿チャリティ書画展

開催日 2015年5月27日(水) ~ 5月31日(日)
時 間 9時~21時(ただし小ギャラリーは16時30分まで。最終日は16時まで)
会 場 流山市生涯学習センター 
     千葉県流山市中110 つくばエクスプレス(TX)流山セントラルパーク駅3分
入場無料
 
 流山市にお住いの書道家。学校サポートボランティアによる毛筆授業の指導補助を長年続けられています。文字を読む、書くということから離れつつある中で学校教育における書道の指導の重要性が高まり、市民との協働による日本の伝統文化である毛筆授業を平成12年11月から続け、毎年約800人の児童を対象に通年で約100回の授業補助を行っています。平成26年度には流山市育成会議連絡協議会から青少年の育成功労者として表彰されました。

参考借用陳列敬仰作品(小ギャラリー)
西川春洞、西川寧、浅見筧洞、新井光風、田中東竹、牛窪梧十、青山杉雨、成瀬映山、梅原清山、有岡陖崖、金子鷗亭、金子卓義、佐藤氷峰、金子大蔵、張廉卿、宮島詠士、上條信山、田中節山、市澤静山、高塚竹堂、今関脩竹、清水透石、中山竹径、佐藤竹南、深井竹平、尾上紫舟、日比野五鳳、杉岡華邨、高木東扇、高木厚人、池田桂鳳、榎倉香邨、小林章夫、今井凌雪、村上三島、古谷蒼韻、斗盦、和中簡堂、鈴木槃山、渡辺大寛、内藤富卿、黒野陶山、松井如流、鈴木桐華、野口白汀、小木太法、宮沢賢治、高村光太郎、村上鬼城、中村不析、北村西望、殿村藍田、清水比庵、山本直良、与謝野晶子、山手樹一郎、吉田茂、片山哲、他

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流山在住の書家、後閑(ごかん)寅雄(号・恵楓)氏の作品展です。

参考出品ということで、古今の書もたくさん展示され、その中に光太郎の名があったので、観に行きました。


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後閑氏の作品は素晴らしいものでした。一時流行った、書なのか絵画なのか解らない、墨痕の形のおもしろさだけに頼った「読めない書」ではなく、また、これは現代でもよくあるのですが、書かれている言葉のみに頼り、造型性の薄い書(「誰々の詩句を書きました」というだけのもの)でもありませんでした。

そして参考借用陳列敬仰作品。光太郎の書も展示されているとはいえ、比較的新しく、類例の多い戦後の色紙か何かだろうと勝手に思いこんでいて、軽い気持ちで観に行ったのですが、実際に眼にし、仰天しました。

展示されていた光太郎作品は、短歌が書かれた短冊でした無題が、おそらく明治末のものです。

右の画像は、以前から知られている短冊ですが、よく似ています。こちらは明治44年(1911)頃のものです。「天そそる家をつくるとをみなよりうまれし子等は今日も石切る」と読みます。

白黒反転で、一見、版画のように見えますね。しかし、これは手書きです。といっても、黒地に白で書いているのではなく、字の周りを墨で囲んで塗りつぶしているのです。この手法を「籠書き」と言います。光太郎はこの手法を得意としており、書籍の装幀、題字などでも同じことをやっています。

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左は明治45年(1912)の雑誌「劇と詩」、右は同44年(1911)の同じく『創作』の、それぞれ表紙です。

今回展示されていた短冊も、この籠書きの手法。しかも、「天そそる……」の短冊同様、上部に墨絵が描かれており、ますます同じ時期のものと思われました。贋作特有の反吐が出そうないやらしさは感じられず、間違いないものだと思います。第一、こうした手法のものでは贋作の作りようがありません。

さらに驚くべきことに、書かれている短歌が、『高村光太郎全集』等に未収録のものでした。「金ぶちの鼻眼鏡をばさはやかにかけていろいろ凉かぜのふく」と読めました。眼にした段階で「こんな短歌、記憶にないぞ」と思ったのですが、その場では資料がありません。急いで自宅兼事務所に帰り、調べてみると、はたして、『高村光太郎全集』等に未収録のものでした。こういうこともあるのですね。

こちらは東京の書道用品店さんの所有だそうで、近いうちに行って手にとって見せていただこうと考えております。

ところで、参考借用陳列敬仰作品、他にはどんな物が並んでいたかというと、他の光太郎のものは、複製が1点。関連する人物として、与謝野晶子の色紙、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の複製、それから昨年個展を拝見した金子大蔵氏の作品も並んでいました。氏は好んで光太郎の詩句を取り上げられていますが、やはり光太郎の詩「最低にして最高の道」の一節を書かれていました。

こちらの展覧会は31日(日)までです。会期が短いのが残念です。


武蔵野美術大学さんともども、ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月29日

昭和26年(1951)の今日、55年ぶりに手に取った少年時代の彫刻に墨書揮毫をしました。

彫刻は木彫レリーフの習作「青い葡萄」。明治29年(1896)、数え14歳の作品です。

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これを詩人の菊岡久利が入手、花巻郊外太田村の光太郎の元に送りました。以下、菊岡の回想。

 僕はそれを鎌倉の古物店で見つけたのだが、人々は、まだ塗らない鎌倉彫の生地のままの土瓶敷ぐらゐに思つたらしい。一五センチ四方、厚さ二センチの板にすぎないのだから無理もなく、ながくさらされてゐたものだ。(略)当時岩手の山にゐた高村さんに届けると、『どうしてかゝるものを入手されたか、不思議に思ひます。確かにおぼえのあるもので、小生十三、四の頃の作』と書いて来て、レリーフの裏に、
 五十五年
 青いぶだうが
 まだあをい
と詩を書いてよこしてくれたものだ。

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こちらが裏面。後半の「明治廿九年八月七日 彫刻試験 高村光太郎」は明治29年(1896)の署名です。

テレビ放映情報です。 

日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」

NHKEテレ 2015年5月31日(日)  9時00分~9時45分  再放送 6月7日 20時00分~20時45分

日本の近代彫刻を切り拓いた高村光雲。高野山金剛峰寺におさめた本尊が80年ぶりに公開されるのを機に、職人としての姿勢を貫きながら新たな芸術を探求した生涯に迫る。

開創1200年を迎えた高野山で、金剛峯寺金堂の本尊が、昭和9年におさめられて以来、初めて開帳された。作者は、幕末から昭和にかけて、日本の近代彫刻を切りひらいた彫刻家・高村光雲。金堂の本尊は、70歳を過ぎ、なみなみならぬ思いで彫り上げたこん身の作。職人であることに誇りを持ちながら、新たな時代の彫刻を探求し続けた、その生涯に迫る。
高村光雲は、11歳で仏師のもとに弟子入りし、ひとりの職人としてその道を歩み始めた。
明治維新の後、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)などの影響で、木彫の世界が厳しい状況に追い込まれる中、決して信念を曲げず修行を重ねた。西洋の彫刻を学んだ息子の光太郎は、職人としての姿勢を貫こうとする光雲を強く批判したが、光雲自身も新しい彫刻を模索し、「老猿」など、近代彫刻を代表する傑作を世に送り出した。

そんな光雲が、最晩年「現代第一流ノ人格手腕ヲ具備スル彫刻家」と目され、依頼を受けたのが高野山の秘仏だった。死を意識しながら、何を目指したのか。職人と芸術家、相反する領域をひょうひょうと行き来しながら、木彫一筋に生きた光雲の実像に迫る。

出演 アーティスト…須田悦弘
司会 井浦新 伊東敏恵
朗読 石橋蓮司

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高野山開創1200年の特別開帳にからめての内容のようです。007 (2)

昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』をはじめ、光雲は詳細な談話筆記を大量に残しています。おそらく石橋蓮司さんの朗読というのは、そのあたりからでしょう。ぴったりの感じがします。

ぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月26日

明治31年(1898)の今日、臨画「布袋図」を描きました。

無題光太郎数え16歳、東京美術学校の予備ノ課程に在学中でした。「乙 高村光太郎」と署名があります。他の作品では「予備科乙」となっているものがあり、「乙」はクラス名のようです。

縦98センチ、横44センチ。驚嘆の出来ですね。

この頃の日本画の講師には川端玉章らがいました。

橋本雅邦は、この年4月に校長・岡倉天心へのバッシング、「美術学校事件」に連座して、図案科の助教授だった横山大観らと共に退職しています。

ちなみに嘱託職員には座学の美学担当で森鷗外がいました。

今年1月のこのブログで、英国ヘンリー・ムーア・インスティテュートにおいて開催された「近代日本彫刻展(A Study of Modern Japanese Sculpture)」についてご紹介しました。

これは、日本の武蔵野美術大学美術館さんとの共同開催で、基本的に同じ内容を、先に英国で、のちに日本で開催するというものです。

そういうわけで、光太郎の木彫「白文鳥」とブロンズの「手」が、海を渡りました。

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その日本展が、今月末から、武蔵野美術大学美術館さんで始まります。 

近代日本彫刻展 −A Study of Modern Japanese Sculpture−

会 期 : 2015年5月25日(月)~8月16日(日)
会 場 : 武蔵野美術大学美術館 展示室5
休館日 : 日曜日、祝日 ※6月14日(日)、7月20日(月・祝)、8月16日(日)は特別開館
時 間 : 10:00ー18:00(土曜日、特別開館日は17:00閉館)
入館料 : 無料
主 催 : 武蔵野美術大学 美術館・図書館
監 修 : 黒川弘毅(武蔵野美術大学彫刻学科教授)

イギリス、ヘンリー・ムーア・インスティテュートの企画による本展では、森川杜園、高村光太郎、佐藤朝山、橋本平八、横田七郎の木彫など、日本の近代彫刻の特徴を示す自然物をモチーフにした彫刻約10点を紹介する。明治以降、彫刻史において独自のポジションを形成した近代日本彫刻の意義を検証すると同時に、その作品の魅力に迫る。

<出展作品>
・「手」 高村光太郎 1918年 ブロンズ、木彫(台座部分)
  東京国立近代美術館所蔵/台東区立朝倉彫塑館所蔵(注
・「白文鳥」 高村光太郎 1931年頃 木彫 個人蔵(フジヰ画廊)
・「冬眠」 佐藤朝山 1928年 木彫 福島県立美術館所蔵(横井美恵子コレクション)
・「石に就て」 橋本平八 1928年 木彫/「石に就て」 の原型となった石 個人蔵(三重県立美術館寄託)
・「静物」など5点 横田七郎 1928年~1929年 木彫 平塚市美術館所蔵
・(予定)「蘭者待 模刻」 森川杜園 1873年 木彫 東大寺所蔵

注) 台東区立朝倉彫塑館所蔵作品は全期間、東京国立近代美術館所蔵作品は5月25日から6月中旬までの展示を予定。いずれもブロンズ部分は「真土(まね)鋳造法」によるもの。高村光太郎によって作られたと推定され木製台座の形状は異型で、この2作品の同時展示は初の試みとなる

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おそらく木彫の「白文鳥」は、一昨年、千葉市美術館さん、岡山井原市田中美術館さん、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さん、で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展以来の展示です。

「手」に関しては、少し書きにくい問題があります。全国の美術館等に、いったいこれがいくつあるのか、当方も把握できていません。ブロンズの彫刻はそういうものが多く、かの有名なロダン作「考える人」も世界中に存在します。

重要文化財に指定されている荻原守衛の「女」にしてもそうです。ただし、「女」は石膏原型が残っており、厳密に言うと重要文化財に指定されているのは、この原型です。

ところが、「手」の原型は、おそらく昭和20年(1945)の空襲で、駒込林町の光太郎アトリエもろとも焼失してしまったと推定されます。

それでは、全国にあまたある「手」はどうやって作られたのかということになりますが、大正期に鋳造された初めの「手」から採った型で作られているのです。したがって、厳密に言えば複製です。

複製ではなく、大正期に鋳造されたものは、多分、竹橋の東京国立近代美術館さん所蔵のものと、台東区の朝倉彫塑館さん所蔵のもの,さらに高村家にも。他にも有るかもしれませんが、当方が把握しているのはこの3点のみ。そのうち2点が今回の武蔵野美術大学美術館さんに展示されます。

この2点には、木製の台座が付いています。この台座も、光太郎が彫ったものと推定されています。当方、ブロンズ部分を取り外した台座のみの写真を見せて貰ったことがあります。「白文鳥」などの木彫を手がけるようになったのは、この「手」の台座の制作が、一つの契機になっているのではないかという説もあります。

ところで、全国にあまたある「手」の台座は、木製ではなく樹脂製。やはりコピーなのです。

見に行かれる方、ぜひ、台座に注目して下さい。


当方、今日から3泊4日で、東北に行って参ります。

その前に、東京で高村達氏写真展「Botanical Garden~植物園」を拝見。 その足で東北新幹線に飛び乗り、今夜はまた鉛温泉藤三旅館さんに宿泊です。花巻の㈶高村光太郎記念会さんのご尽力で、昭和23年(1948)に光太郎の泊まった31号室に泊めていただくことになりました。有り難い限りです。

明日は光太郎が昭和20年(1945)から7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋、高村山荘敷地にて第58回高村祭。記念講演を仰せつかっています。明日の宿泊は大沢温泉山水閣さん。こちらも光太郎が足しげく通った温泉宿で、光太郎が泊まった部屋を復元した「牡丹の間」に泊めていただきます。

その後、現地でいろいろと調査。そして17日(日)には仙台で、朗読の荒井真澄さん他による「無伴奏ヴァイヲリンと朗読「智恵子抄」 」を聴いて参ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月14日

昭和13年(1938)の今日、東京資生堂画廊で「岸田劉生十周忌回顧展覧会」が開幕しました。

同4年(1929)に数え39歳で早逝した岸田の回顧展です。そのパンフレットに光太郎執筆の「寸言-岸田劉生十周忌回顧展覧会」が掲載されました。

光太郎のブロンズ作品が1点ずつ出品されている企画展が開催中です。

まずは静岡。 

静岡市美術館開館5周年記念 大原美術館展 名画への旅

会 場 : 静岡市美術館 静岡県静岡市葵区紺屋町17-1葵タワー3階
会 期 : 2015年4月18日(土)~5月31日(日)
時 間 : 10:00~19:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般1300円 大高生・70歳以上900円 中学生以下無料

大原美術館は、日本で初めて西洋美術が鑑賞できる美術館として1930(昭和5)年岡山県倉敷市に開館しました。その豊富なコレクションの基礎を築いたのは、実業家・大原孫三郎(1880-1943)とその盟友で岡山県出身の洋画家・児島虎次郎(1881-1929)でした。虎次郎は孫三郎の支援を受けて三度渡欧し、フランス、ベルギー、ドイツ、スペインなどを巡ります。今でこそ西洋絵画は身近な存在ですが、海外の情報を得ることも旅行も容易でない当時に、虎次郎がもたらした名品の数々は、日本で高い関心と熱狂をもって受け入れられました。美術館創設時の強い公共精神―若い芸術家や一般の愛好者のために優れた美術作品を鑑賞、研究する場を提供する―は現在まで受け継がれ、そのコレクションはそれぞれの時代を反映しながら豊かに発展してきました。
静岡市美術館開館5周年記念となる本展では、児島虎次郎の作品をはじめ、珠玉の西洋絵画、日本近代美術の名作、そして静岡ともゆかり深い芹沢銈介や民藝運動の作家、さらに山口晃ら近年活躍めざましい現代の作家たちの作品など、大原美術館を代表する75点を一堂に紹介します(会期中一部展示替えあり)。大原美術館のこれまでの活動を辿りながら、孫三郎と虎次郎が目指した美術館、そして初めて本物の西洋絵画に触れた当時の人々の熱い想いに、改めて触れる機会となれば幸いです。


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クリックで拡大

光太郎の作品は、「腕」(大正7年=1918)が並んでいます。非常に迫力と量感に溢れた作品です。

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藤島武二、岸田劉生、梅原龍三郎、バーナード・リーチなど、光太郎と縁の深い作家の作品も出展されています。

気づくのが遅くなり、主な関連行事のうち、未実施のものは以下だけになってしまいました。すみません。

講演会「洋画家たちの挑戦-大原美術館所蔵作品を中心に」

日 時 2015年5月10日(日)14:00~15:30 (開場13:30~)
講 師 柳沢秀行氏(大原美術館学芸課長)


続いて北海道は札幌から。 

彫刻の美~本郷新に学ぶ彫刻鑑賞

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会 場 : 本郷新記念札幌彫刻美術館 札幌市中央区宮の森4条12丁目
会 期 : 2015年4月25日(土)~6月28日(日)
時 間 : 10:00~17:00
休館日 : 月曜日
料 金 : 一般500円 65歳以上400円 大高生300円 中学生以下無料

彫刻家本郷新(札幌生まれ、1905-1980)による『彫刻の美』は、青少年向けの芸術叢書として1942年に冨山房から出版されました。彫刻の本質や魅力を平明かつ的確に、また美しくつづった名著として再版を重ね、今なお読み継がれています。 本展は、本書のなかの本郷の言葉を手がかりに「彫刻の美」を味わおうとするものです。「量」「動勢」「調和」「材質」等、本郷の提示する彫刻の要素に着目しながら、作品の見どころを紹介します。 当館および札幌芸術の森美術館の所蔵品のなかから、日本近代彫刻の優品を中心に、その源流にあるロダン等の西洋近代彫刻の作品を加えて構成。彫刻と言葉の響き合う空間にぜひおでかけください。

[おもな出品作家]
 荻原守衛、戸張孤雁、高村光太郎、中原悌二郎、本郷新、佐藤忠良、舟越保武、ロダン、ブールデル、マイヨール、デスピオ

関連行事

■美術講座「彫刻の美~本郷新芸術の源流」
当館学芸員が本郷新の彫刻芸術とその源流にある西洋近代彫刻についてお話しします。
日時:2015年5月16日(土)14:00~15:00 会場:本館研修室     講師:樋泉綾子(当館学芸員)
*申込不要、要展覧会観覧料
無題
■講習会「おとなのデッサン教室」
講師とともに「彫刻の美」展の作品を鑑賞し、彫刻のデッサンを学びます。
日時:2015年5月30日(土)14:00~16:30
講師:國松明日香氏(彫刻家)
参加料:1,800円   定員:20名
申込方法:5月13日(水)9:30より電話受付開始(011-642-5709)


光太郎作品は、「裸婦坐像」(大正6年=1917)。小品ですが、愛らしい彫刻です。


それぞれ光太郎作品は1点ずつの展示ですが、お近くの方で、普段、光太郎の彫刻の実物を目にする機会のない皆さん、ぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月9日010

平成22年(2010)の今日、音楽ユニット古川本舗のCD「SING ALONG」がリリースされました。

いわゆるVOCALOID系で、田中到氏作曲の「レモン哀歌」(若干の詩の改変有り)が収録されています。なかなか軽妙、それでいて哀愁漂うメロディーで、一度聴くとけっこう頭から離れません。

昨年4月から、全国を巡回中の「超絶技巧!明治工芸の粋」展。日本橋の三井記念美術館さんを皮切りに、静岡三島の佐野美術館さん、山口県立美術館さんと、巡回されました。

当初の予定では、先月、山口展が終わった後、間が空いて、6月から富山県水墨美術館さんに行く予定だったのですが、その前に、福島の郡山市立美術館さんが入りました(もしかすると、もともとどこかしらで開催する予定ではいたものの、会場が未定だったのかもしれませんが)。

そういうわけで、郡山の情報に気づくのが遅れ、もう始まってしまっています。 
会 期 : 2015年4月21日(火曜日)~6月14日(日曜日)
 間 : 午前9時30分から午後5時まで(入館は午後4時30分まで)
休館日 : 毎週月曜日(5月4日(月曜日・祝日)は開館、5月7日(木曜日)休館)
主 催 : 郡山市立美術館
協 力 : 清水三年坂美術館
監 修 : 山下裕二(明治学院大学教授)
 力 :  広瀬麻美(浅野研究所)
  : 一般:1000(800)円高大500(400)円()内は20名以上の団体料金
        中学生以下、65歳以上、障がい者手帳をお持ちの方は無料

明治時代、表現力・技術ともに最高レベルに達した日本の工芸品は、万国博覧会に出品され海外の人々を驚嘆させました。ところが、それらの実物を日本国内で見ることはほとんどできません。それは、明治の工芸品の多くは海外輸出用であったためです。
本展では、村田理如(まさゆき)氏の収集による京都・清水三年坂美術館の所蔵品のうち、並河靖之らの七宝、正阿弥勝義らの金工、柴田是真、白山松哉らの漆工、旭玉山、安藤緑山らの牙彫をはじめ、驚くべき技工が凝らされた薩摩焼や印籠、近年海外から買い戻された、ほとんど未紹介であった刺繍絵画など、選りすぐりの約160点を紹介します。
鋭い観察眼から生まれたリアリティ、ミクロ単位で刻まれた文様、繊細な手仕事……海外の人々を驚愕させた明治の日本人たちの真の底力をぜひ感じとってください。

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関連行事

対談 「再発見、明治工芸の粋」
講師:村田理如(まさゆき)さん(清水三年坂美術館館長) 山下裕二さん(本展監修者、明治学院大学教授)
日時:2015年4月29日(水曜日・祝日)午後2時から 会場:多目的スタジオ(参加無料)
※終わってしまいました。すみません。

美術講座「知られざる明治工芸の魅力」
講師:当館学芸員
日時:2015年5月23日(土曜日)午後2時から
会場:講義室(入場無料)

ギャラリートーク
講師:当館学芸員
日時:2015年5月9日(土曜日)、6月6日(土曜日)午後2時から
会場:企画展示室(観覧券が必要です)

 

チラシには書いていないようですが、電話で確認したところ、これまでの巡回先と同様に、光雲の木彫2点「法師狸」、「西王母」が展示されています。

それ以外の七宝や牙彫、自在置物なども目を見張るものばかりです。

特に福島の方、お見逃し無く。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月2日

昭和5年(1930)の今日、詩「春の一年生」を執筆しました。

いい香(にほひ)がする、
あたらしい香がする。
この学校の香かしら、003
このカバンの香かしら、
この本の香かしら。
おなか一ぱい息を吸ふと、
しんからうれしくなるやうな、
こんないい香がする。

小学校はもう昔、
今日から新規の一年生。
ほんとに新規、ほんとに始まり。
どんなお話や、どんな学科や、
どんな遊戯や、どんなお友だちが、
この学校に待つてるのかしら。
おもしろい、たのしい、
さうして、少しはむづかしい、
まだ聞いたこともない事がたくさん、たくさん、
あの原つぱの草の芽のやうに青々と、
桜の花の蕾のやうにあかあかと、
きつとみんなを待つてゐる。
みんなといつしよに勉強するのはいいな。
声をあはせてうたふのはいいな。
組をそろへて遊ぶのはいいな。
今日から新規の一年生、
立派な新規の一年生。

空には春かぜ、地には希望、
少年少女は春のやうだと、
ラヂオのをぢさんが言つてゐた。
春のやうならたのしいな。
春は何でもきれいで明るい。
私が春ならどうしよう。
うそは決してつくまい、
正しい人にならう、真理を究めよう、
すなほに、やさしく、のびのびと、
朝日のやうにいきいきと進まう。
ああ、ほんとにいい香がする。
おなか一ぱい息を吸ふと、
ひとりでうれしくなるやうな、
こんないい香がする。


右上の画像は光太郎の手許に残された草稿です。欄外に「冨山房教科書一年生用のために。」と書き込みがあります。ただ、この詩が載った当時の教科書がまだ確認できていません。

「一年生」といっても、「小学校はもう昔」とあるので、小学一年生ではありません。当時の教育制度に鑑みると、小学校卒業後に進む、旧制中学校(5年制)や高等女学校などの一年生です。使われている語句も、その年代の子供が対象と考えて矛盾はありません(「遊戯」がひっかかるのですが……)。

情報をお持ちの方は、こちらまでご教示いただければ幸いです。

一昨日行って参りました長野のレポート、2回目です。

メインの目的地、碌山忌会場の安曇野市の碌山美術館さんに着きました。

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昨年までは、有志での守衛の墓参が、午後に行われていましたが、今年は午前中だったため、見送りました。まずは守衛の彫刻作品がまとめて収めてある碌山館へ。こちらの彫刻群とは1年ぶりの対面です。

続いて第1展示棟に行き、光太郎の彫刻群を拝見。新しく「十和田湖畔の裸婦群像のための小型試作」(像高約56㌢)が増えていました。中型試作(同約112㌢・小型の約2倍)は以前からあり、これで中型と小型のそろい踏みとなりました。どちらも全国各地に存在するものですが、2種類が揃っているところはここだけではないかと思われます。

ちなみに原寸(同約220㌢・中型の約2倍)のものは十和田湖畔と、箱根彫刻の森美術館さんにしかありません(石膏原型は東京芸術大学さん)。

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さらに杜江館で展示中の守衛の絵画、第2展示棟で開催中の企画展「荻原守衛の軌跡をみる-書簡・日記・蔵書-」を拝見しました。肉筆のものは、作者の体温が伝わってきます。守衛の肉筆をまとめてみるのは初めてで、興味深く拝見しました。企画展の方では、光太郎から守衛宛の葉書も展示されていました。こちらも現物を見るのは初めてでした。

企画展の会場には、この日、同館から刊行された書籍『荻原守衛書簡集』が置いてあり、パラパラめくっていると、そこにお世話になっている武井学芸員がいらして、「こちら、どうぞ」ということで、同書を一冊戴いてしまいました。定価4,000円もするものですので、有り難いやら恐縮するやらでした。

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同書、それから碌山忌に関して、長野の地方紙『信濃毎日新聞』さんで報道されました。 

荻原碌山、命日に理解深める 安曇野の美術館開放

 安曇野市穂高の碌山(ろくざん)美術館は、同市出身の彫刻家荻原碌山(本名・守衛(もりえ)、1879~1910年)の命日の22日、第105回碌山忌を開いた。同館を無料開放し、学芸員が彫刻作品を解説。碌山が画家を目指して上京した19歳から晩年までの書簡約150通を収録した「荻原守衛書簡集」もこの日に合わせ発刊した。

 学芸員の武井敏さん(41)は来館者に、碌山の彫刻作品で残っているのは15種類だけで、同館では全てが見られると紹介。有名な作品「女」など、人妻の相馬黒光(こっこう)への恋愛と苦悩をモチーフに作られた作品が多いと説明した。美術館友の会会員ら十数人は、穂高の生家近くの墓も訪ねた。

 書簡集は、没後100年に合わせ発刊した作品集に続く記録集。東京、ニューヨーク、パリに滞在したそれぞれの時期に、郷里の先輩井口喜源治や長兄の荻原十重十(とえじゅう)らに宛てた手紙を、原本が残る物は全て写真で紹介し、思いが感じられるようにした。

 碌山が親しく交流した米国人画家・美術史家のウォルター・パッチに宛てた手紙(米スミソニアン博物館所蔵)は自筆の英文。武井さんは「芸術的な思いが深まっていく様子や、日露戦争など社会情勢への考えが読み取れる」とする。A4変形判、411ページ。同館で4千円(税込み)で販売する。

 同館は、碌山の書簡や日記など約50点を並べた企画展も5月24日まで開いている。4月27日は休館。

報道には記載がありませんが、守衛がロダンに宛てた書簡も掲載されており、そこには光太郎の名も。明治40年11月、当時留学でロンドンに住んでいた光太郎が守衛に会いにパリに来て、さらに二人でムードンのロダン邸を訪れた際のことが書かれています。その際はロダンは不在で、内妻のローズ・ブーレにパリ市内のアトリエを訪ねるように言われたものの、光太郎がロンドンに帰る都合でそれが果たせなかったと書かれています。この書簡については全く存じませんで、驚きました。

同書には、先述の光太郎から守衛宛の葉書も掲載されています。

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その後、杜江館2階で開催された碌山忌記念講演会「荻原守衛の書簡をめぐって」を拝聴しました。講師は信州大学名誉教授で同館顧問の美術史家・仁科惇氏。『荻原守衛書簡集』の編集委員長として、さまざまなご苦労があったというお話をされました。

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講師の仁科氏(右)を紹介する五十嵐館長(左)です。

続いて碌山研究発表ということで、武井学芸員による「新井奥邃(おうすい)と荻原守衛」。

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新井奥邃は思想家。守衛は留学に出る前、明治33年(1900)から翌年にかけ、明治女学校の敷地内に住んでいましたが、同じ時期に奥邃も明治女学校で教壇に立っており、そこで守衛は奥邃の思想に感化を得たらしいとのこと。

ちなみに光太郎も奥邃の思想に共感を示しています。守衛とも交流のあった画家の柳敬助に宛てた書簡(大正5年=1916)に奥邃の名が見えます。

余程以前に君から新井奥邃翁の「読者読」の一遍を恵まれた事がありました それから後僕は此の黒い小さな書を常に身辺に置いて殆と何百回か読み返しました そして此頃になつてだんだん本当に翁の言が少しづゝ解つて来た様に思はれます 其は意味が解つたといふので無しに僕の内の望む処と翁の言とがますます鏡に合はせる程一致して来たのを感ずる様になつたのです それて尚更愛読して自分の勇気をやしなはれてゐます 此事を君に感謝します 翁の言を集めた書が其後印行された事がありますか 若しあつたら其もいつか読みたいと思つてゐます かういふ書はくり返し読めばよむ程尽きぬ味が出て来ます

しかし、『高村光太郎全集』で、奥邃の名が出てくるのはここだけです。光太郎と奥邃については、今後の検討課題です。


講演会、研究発表が終わり、グズべりーハウスという棟で、毎年恒例の「碌山を偲ぶ会」。

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昨年から、要項に光太郎詩「荻原守衛」が印刷され、冒頭に参加者全員でそれを朗読するという試みが始められました。

参加者の方のスピーチもあり、今月2日の第59回連翹忌にご参加いただいた新宿中村屋サロン美術館さんの河野女史のスピーチも。

当方もスピーチさせていただき、来週の花巻高村光太郎記念館リニューアルオープンや、『十和田湖乙女の像のものがたり』について話して参りました。さらには来年が光太郎歿後60年、智恵子生誕130年という件も。(「企画展で取り上げて下さい」という意味です)スピーチというより、営業です(笑)。

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その後は愛車を駆って一路、千葉の自宅兼事務所まで。強行軍でしたが、有意義な1日でした。

以上、長野レポートを終わります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月24日

昭和5年(1930)の今日、東京向丘の大圓寺で、観音開眼大供養会が行われました。

像は光雲が顧問として監督に当たり、高弟の山本瑞雲が主任として作られた木彫仏です。さらにそれを原型として境内に露座の鋳造仏も開眼され、同じ像の木像と鋳像が同時に奉納されるという異例の事が行われました。

他にも大圓寺さんには光雲がらみの像が多く安置されており、いずれ行ってみようと思っています。

昨日は都内を歩き回りました。3回に分けてレポートいたします。

まず、芝増上寺さん。

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4月2日(奇しくも第59回連翹忌の当日)、本堂地下に宝物展示室がオープンし、里帰りを果たした英国ロイヤルコレクション所蔵の「台徳院殿霊廟模型」が、目玉として展示されています。この制作(明治43年=1910)には東京美術学校があたり、光雲も監修者として名を連ねています。

4月2日の『朝日新聞』さんの記事がこちら。

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浜松町駅から歩き、地名の由来ともなった大門をくぐって境内へ入り、本堂を参拝。目指す宝物展示室の入り口付近では、何やら僧侶の皆さんが読経中。密教系の護摩法要のような感じでした。増上寺さんは浄土宗なので「?」と思ってよく見ると、どうやら一般家庭から納められた仏壇のお焚き上げを行っているようでした。

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さて、地下の宝物展示室へ下り、入場料700円也を支払って、中へ。まず正面にドーンと「台徳院殿霊廟模型」。模型というよりもはや小建築です。撮影は禁止なので、いただいたチラシから画像を拝借します。

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これで10分の1スケールだというのですから、焼失した霊廟自体の大きさ、豪壮さはいかばかりであったか、と思いました。

戴いたパンフレットに載っていた昭和20年(1945)当時の境内の伽藍配置はこの通り。台徳院殿霊廟は本堂の南側にありました。現在の本堂も巨大な建物ですが、図面によればそれよりはるかに大きかったことが分かります。

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修復のため取り外された部材や説明パネル、修復の模様を追ったビデオを観、光雲が監修者として関わった意味がよく分かりました。霊廟のエクステリアや内装の、肘木、かえる又、欄間などに施された彫刻も、ちゃんと10分の1スケールで復元されているのです。この仕事は明治末には光雲系の木彫師でないと不可能だったでしょう。

ちなみにこの台徳院殿霊廟、日光東照宮の建築に先駆けて作られたもので、いろいろな意味で東照宮のプロトタイプ的な要素もあったとのことです。

平日にもかかわらず、多くのお客さんがいらしていました。高い知的好奇心を持つ方々が多く存在するというのも、この国の強みの一つですね。

宝物展示室を後に、本堂裏手に廻りました。墓地があり、その一角に納骨堂が建っています。

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この納骨堂内部には地蔵菩薩さまがおわすのですが、そちらも光雲が原型を制作したものだそうです。昭和8年(1933)の建築で、こちらは空襲の被害をまぬがれています。

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扉は時折開いているらしいのですが、残念ながら、昨日は開いておらず、光雲作の地蔵菩薩は見られませんでした。ただ、堂の周囲の四方に銅製の狛犬のような彫刻があり、光雲系の匂いがします。しかし、ざっとネットで調べてみても詳細は不明です。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただけると幸いです。

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増上寺さんを後に、次なる目的地、新宿に向かいました。以下はまた明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月17日

平成4年(1992)の今日、福島県安達町(当時)が『命と愛のメッセージ』を刊行しました。

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同日開館した智恵子記念館のパンフレット的な刊行物ですが、50ページ超、紙絵を中心に智恵子作品集の要素も持っています。その後発見された智恵子筆のデッサンを収めた改版が平成14年(2002)に発行され、現在も記念館で販売中です。

いろいろ紹介する事項が多く、間が空いてしまいましたが、先週末、京都に行って参りましたのでレポートします。

目的地は2カ所。まずは東山の知恩院さんに。

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こちらにある友禅苑という庭園には、光雲が原型を作成した聖観音像が鎮座ましましています。

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この像は秋11月、紅葉の季節にライトアップされます。

知恩院さんには何度も足を運んでおりますが、実はそのライトアップの報道を読むまで、こちらに光雲原型の観音様がいらっしゃることを存じませんで、この機会にと思い、拝見して参りました。

光雲は江戸の生まれで、東京をホームグラウンドにしていましたので、東京には光雲作の仏像を収める寺院が非常に多いのですが、京都はそうでもありません。

数年前にその発見が報じられた嵯峨野の大覚寺さん、鷹が峰の光悦寺さんなどが有名なところです。

そちらは堂内や宝物館に収められていますが、知恩院さんのものは露座です。京都で露座の仏像でちょっとしたもの、というのは珍しいのではないでしょうか。


知恩院さんを出て、そのまま歩いて南下、円山公園や祇園を抜け、清水方面へ向かいました。知恩院さんを含め、早咲きの桜がみごとでした。まだソメイヨシノはほとんど開花していませんでした。

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ただ、雨だったのが残念でした。それはそれで風情があったのですが。

次なる目的地は、清水寺近くの清水三年坂美術館さん。

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こちらでは、2月から企画展「明治の彫刻」を開催中です。

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光雲作の木彫が4点、展示されています。「聖観音像」「月宮殿 天兎」「老子出関」「西行法師」です。

他に光雲と親交の深かった石川光明、光雲高弟の山崎朝雲などの木彫、今年1月、テレビ東京系の「美の巨人たち」で取り上げられた森田藻己の根付「竹の中の大工」もありました。光雲が森田の根付けを愛用し、絶賛していたとのこと。

木彫は見る機会が多いのですが、今回、牙彫(げちょう・象牙彫刻)がたくさん出品されており、まとめて牙彫を見るのは初めてなので、興味深く拝見しました。明治前半には牙彫が輸出品としてもてはやされましたが、光雲は師匠伝来の木彫にこだわり、廃仏毀釈で仏像の注文がほとんどなくなっても牙彫にはてをつけなかったそうです。また、金工でなく、木彫や牙彫で作られた自在置物もあり、「こんなものもあったのか」と驚きでした。

企画展は館の二階でしたが、一階は常設展的に、彫刻以外の七宝や金工、漆芸などの作品が並んでいました。こうした明治の「超絶技巧」がちょっとしたブームですが、やはり凄い、と思いました。

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同館では同館自体でこのような展示を行いつつ、さらに出張巡回で「特別展 超絶技巧!明治工芸の粋」も展開しています。現在は山口県立美術館に巡回中です。こちらでも光雲の木彫が並んでいます。

館の方とお話をさせていただきましたが、こちらの展示品はほぼすべて、館の所蔵する「村田コレクション」だそうで、外部から借り受けることはほとんどないそうです。「光太郎展をやりませんんか?」という営業の意図もあっておじゃましたのですが、どうもそうはいかないようです。

さて、「明治の彫刻」、来月17日まで開催中です。知恩院さんともども、足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月1日

明治42年(1909)の今日、日本女子大学校桜楓会の機関誌『家庭』が創刊されました。

この雑誌の編輯人は小橋三四子、発行兼印刷人は柳八重。いずれも智恵子と親しい同大の先輩で、1年半後には二人を介して光太郎と智恵子の邂逅が実現します。

『家庭』には智恵子の描いたカットも掲載されました。数多い挿画の中でどれが智恵子の手になるものか特定できない面がありますが、このあたりは智恵子作と云われています。

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まずは新聞報道から。 

<高野山>大法会の詳細発表

毎日新聞2015年3月16日(月)

 高野山真言宗・総本山金剛峯寺(和歌山県高野町)は16日、寺の境内で開く開創1200年記念大法会(だいほうえ)(4月2日~5月21日)の詳細な日程を発表した。金堂(総本堂)の本尊薬師如来(高村光雲作)が初めて開帳される他、さまざまな法会(儀式)や催しが連日執り行われる。

 初日は172年ぶりに再建された中門の落慶式典があり、金剛峯寺の中西啓寶(けいほう)座主による加持の後、大相撲の白鵬関ら3横綱による土俵入りがある。その後、金堂で薬師如来の開帳と僧約400人による読経などがある。

 期間中は他宗派による法会もあり、5月19日には天台宗(総本山・比叡山延暦寺=大津市)が初めて高野山で法会を営む。また、境内の資料館「高野山霊宝館」では連日、国宝や重文を特別展示する。

 金剛峯寺は期間中延べ20万~30万人の参拝を見込んでいる。高野山は平安時代の僧、弘法大師空海が真言密教の道場として開いた。【上鶴弘志、入江直樹】
 

4月2日から高野山開創1200年記念大法会 和歌山

産経新聞2015年3月18日(水)

 高野町の高野山真言宗総本山・金剛峯寺は、4月2日から5月21日までの開創1200年記念大法会の内容を発表した。初日は開白法会のほか、約170年ぶりに再建された壇上伽藍中門の落慶法要が営まれ、大相撲の白鵬ら3横綱の奉納土俵入りがある。期間中、壇上伽藍大塔に大日如来などを3D映像で投影する「高野山1200年の光-南無大師遍照金剛-」、秘仏の特別開帳なども予定されている。

 開創1200年記念大法会は、弘仁7(816)年に弘法大師・空海が高野山に密教の道場を開いて1200年目を迎えたことを記念して開催。4月11日には阪神大震災や東日本大震災の犠牲者を追悼する災害物故者追悼法会、5月19日には開山以来初めてとなる天台宗総本山・比叡山延暦寺の僧による「慶讃法会」が営まれる。

 壇上伽藍大塔への3D映像の投影は、同12~17日午後7時20分と同8時10分に声明と合わせて行われ、境内は幻想的な雰囲気に包まれる。

 秘仏の公開は、これまで開帳された記録が残っていない高野山の総本堂、金堂の本尊・薬師如来(高村光雲作)や金剛峯寺・持仏間の弘法大師坐像が特別開帳される。霊宝館では、運慶作「八大童子像」(国宝)をはじめ、空海が中国・唐から投げて高野山に飛来したとの伝承が残る「飛行三鈷杵」(重要文化財)など高野山三大秘宝、快慶作「孔雀明王像」(同)などが展示される。詳細は金剛峯寺公式ウェブサイト(http://www.koyasan.or.jp)。


というわけで、弘法大師空海による開山から1200年を迎える世界遺産・高野山金剛峯寺さんで、いろいろと記念行事が行われます。

その中で、金堂に納められている光雲作の薬師如来像が初めてご開帳されるとのことです。

現在の金堂は昭和7年(1932)の再建、同9年(1934)落慶。その際に、昭和元年(1926)の火災で焼失してしまった開創当初から格蔵されていた秘仏本尊7尊を光雲が復刻したのですが、これまで一度もご開帳されたことがないそうです。

初日は4月2日。この日は大相撲の横綱・白鵬の土俵入り奉納なども行われるそうです。

奇しくも光太郎の命日・第59回連翹忌の当日です。同じく4月2日は、以前にご紹介した東京芝増上寺の宝物展示室にて、徳川二代将軍・秀忠の「台徳院殿霊廟」模型の公開も始まります。

こういうことを「仏縁」というのかな、と思っています。000


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月30日

平成3年(1991)の今日、文彩社から、中村傳三郎著 『明治の彫塑 「像ヲ作ル術」以後』が刊行されました。

光雲・光太郎親子、碌山荻原守衛などについての論考です。

光太郎の父・光雲がらみの展覧会情報です。 

三の丸尚蔵館 第68回展覧会 鳥の楽園-多彩,多様な美の表現

会 場 : 宮内庁三の丸尚蔵館 東京都千代田区千代田1-1 皇居東御苑内
 期 : 平成27年3月21日(土・祝)~6月21日(日)
               前期:3月21日(土・祝)~4月19日(日)
               中期:4月25日(土)~5月17日(日)
               後期:5月23日(土)~6月21日(日)
休館日 : 毎週月・金曜日,展示替の期間 但し,5月4日(月・祝)は開館
 
 :  4月14日(火)まで 午前9時~午後4時15分
               4月15日(水)から会期終了まで 午前9時~午後4時45分
入館料 : 無料 

概  要
本展では,当館が所蔵する19世紀から現代までの作品を中心に,国内だけでなく,海外のものも含めて,鳥を主題とした作品の数々を紹介いたします。
美しい宝石のような羽を持つ鳥や力強く空を自由に舞い飛ぶ鳥の姿に,古くから人々はあこがれて吉祥の意を見いだし,その姿を描き,形作って,身近に飾ってきました。長寿の鳥とされたツルは,慶事の折には必ず登場します。また,神聖で高貴な鳥であるクジャクは,花鳥画の主要な画題の一つとして描かれ,近代にもその伝統は引き継がれました。そして,家禽かきんとして人の生活と密接に結びついてきたニワトリは,古代中国の伝説に基づく諫鼓鶏かんこどりのように泰平の図として表される一方,作家たちが実際にニワトリを飼って観察し写生することで,躍動感あふれる作品が生み出されました。この他,身近な小禽や水鳥,外来種のインコ,現代では絶滅が危惧されているライチョウなど様々な鳥の,多彩な表現をお楽しみください。
美術の世界に棲すむ鳥の楽園へようこそ。


三の丸尚蔵館の概要
三の丸尚蔵館は,皇室に代々受け継がれた絵画・書・工芸品などの美術品類が平成元年6月,国に寄贈されたのを機に,これら美術品を環境の整った施設で大切に保存・管理するとともに,調査・研究を行い,併せて一般にも展示公開することを目的として,平成4年9月に皇居東御苑内に建設され,翌年11月3日に開館しました。
なお,平成8年10月に故秩父宮妃のご遺贈品,平成13年4月に香淳皇后のご遺品,平成17年10月に故高松宮妃のご遺贈品,さらに平成26年3月には三笠宮家のご寄贈品が加わり,現在約9,800点の美術品類を収蔵しています。

出品目録によれば、光雲作の木彫が2点、いずれも中期(4月25日(土)~5月17日(日))に展示されます。

明治22年(1889)作の「矮鶏(ちゃぼ)置物」と、大正13年(1924)作の「松樹鷹置物」です。

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「矮鶏置物」は、はじめ明治22年(1899)のパリ万博に出品予定で製作されました。ところが、その前に、光雲の意思とは関係なく、美術協会の展覧会に出品する羽目になり、さらにそれを見た明治天皇が是非欲しい、ということでお買い上げになったものです。

このあたりの事情は、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に詳しく述べられています。

ネット上の「青空文庫」さんで読めますので、リンクを貼っておきます。



「松樹鷹置物」は、一昨年、京都国立近代美術館で開催された「皇室の名品-近代日本美術の粋-」展にも出品されたもので、こちらも光雲木彫の最高峰の一つです。

他にも石川光明橋本雅邦、海野勝珉、竹内栖鳳、堂本印象らの逸品が展示されます。お見逃しなく。


余談になりますが、現在、ある地方の市立美術館で、収蔵品展的な企画展が開催されていて、主な出品物作者に光雲があげられています。ところが、チラシの写真を見た限り、木彫を元にブロンズで鋳造した複製です。それを「光雲作」として出品するのはどうかと思いますね。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月17日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、村の診療所医師・山田林一の診察を受けました。

前々日から熱っぽかったということで、近くの分教場の教師だった佐藤勝治が連れてきてくれました。山田医師は結核による発熱を抑える薬・ピラミドンを置いていきました。医師が診れば明らかなのですが、光太郎はかたくなに結核であることを否定し続けていました。

青森在住の彫刻家・田村進氏から、書籍を戴きました。008

『日本美術家事典2015』。版元サイトにも載っている序文によれば、「現在制作活動を行っている日本の美術家(日本画・洋画・彫刻・工芸・書)の個々の歩みを一冊にまとめることに主眼をおいて企画された事典」とのことで、平成元年(1989)に創刊、以後、増補改訂が続けられ、今年のものは第26号になるそうです。

B5版、600ページ超の大判大冊で、「現代作家篇」と「物故作家篇」から成り、前者が中心です。「日本画」「洋画」「彫刻」「工芸」「書」の5分野で、作家名を項目とし、おそらく数千名が紹介されているようです。

「彫刻」の部では、扉ページに田村氏の作品「光太郎山居」の石膏原型が使われています。一昨年から制作にかかられ、このほど、ブロンズ鋳造が完成したと、御手紙にはありました。戦後、花巻郊外太田村の山小屋に蟄居生活を送っていた頃の光太郎肖像です。


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田村氏の紹介が載ったページは、全体像も掲載されています。

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昨夏発行された美術雑誌『花美術館』にも紹介がありました。昨秋には、当方、このためのレリーフ習作を戴いてしまいました。4月2日の第59回連翹忌にて展示し、皆様にお見せするつもりでおります。

『日本美術家事典2015』、「物故作家篇」も掲載されており、光太郎、光雲、豊周(智恵子はありません)も項目になっていますし、光太郎と同時代、または次の世代で交流のあった作家も網羅されており、ありがたい書物です。版元サイトから購入可能ですし、公共図書館等に置かれるでしょう。ぜひお手にとっていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月15日

昭和29年(1954)の今日、雑誌『美術街』第121号に、光太郎の実弟・豊周執筆の評論「无型と実在」が掲載されました。

无型(むけい)は鋳金家であった豊周が中心となり、大正15年(1926)に結成された工芸作家の同人の会です。

昨日は、東京町田の西山美術館さんに行って参りました。先日の八木重吉記念館さん同様、町田に娘が住んでいる関係です。ロダンの作品がかなりあるということで、行ってみました。

こちらは実業家の西山由之氏が、自宅敷地内に開設された私設美術館です。

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コレクションは3本柱で、「ロダン」、「ユトリロ」、そして「銘石」です。

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まずは通り沿いにドーンと大きな門。ご自宅の門と兼用のようで、表札もかかっていました。

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ここから町田特有の急な坂をさらに車で上がっていき、ご自宅の脇に美術館があります。

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入り口にはなぜか黄金色の「考える人」。

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さらに銘石。ロビーにも。

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ここでの「銘石」は、アメジストなどの水晶系の大きなものという感じで、「パワーストーン」と謳っており、どれも直接手で触れられるようになっていました。

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5階建ての1階はロビー、受付、そしてショップです。入館料1,200円でしたが、JAFの会員証提示で900円に割引でした。最初に、「こちらに該当する方は割引がございます」と見せられた紙にJAF会員に関しても書いてあり、「あ、会員証持ってます」ということに。非常に親切だなと思いました。さらに小さな水晶の欠片を2粒いただけます。「お財布に入れておくと金運アップになりますよ」とのこと(笑)。

2階、3階にロダンの作品が展示されているということで、階段を上がって2階に。すると、最初に眼に入った彫刻は、意外なことにロダンではなく荻原守衛の「女」でした。

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さらに驚いたことに、キャプションによれば、守衛を援助していた新宿中村屋の相馬家にあったものだそうです。戦時中の疎開などの関係で、この地に残されたとのこと。したがって、守衛と親交のあった山本安曇の鋳造です。

そこから先には、様々なロダン作品と「銘石」が。ロダン作品はブロンズが中心でしたが、大理石やデッサンもありました。

有名なところでは、「鼻の潰れた男」、「青銅時代」、「バルザックの頭部」など。

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4、5階はユトリロの展示でした。こちらは撮影禁止と言うことで画像はありませんが、油彩、水彩など数十点が並んでいました。

壁に貼られている年譜を見て、初めて知りましたが、ユトリロは光太郎と同じ明治16年(1883)の生まれでした(生まれといえば、今日、3月13日は光太郎の誕生日です。存命なら満133歳になります)。

光太郎がユトリロに言及したのは、今のところ昭和15年(1940)に書かれた評論「上野の現代洋画彫刻」の中で一度だけですが、好意的に紹介しています。表記は「ユトリヨ」となっています。

ドガの画いた灰色の間仕切、マネの生きて濡れてゐる絵具、ルソオのたのしい調和、ユトリヨのエナメル色の空。これらを昔のルウブル紙幣のやうに笑ふものは必ず芸術から復習をうけるだらう。

なるほど、という感じですね。
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さて、西山美術館さん。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月13日

昭和35年(1960)の今日、『光太郎資料』が創刊されました。

当会顧問にして、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生による手作りの冊子です。筑摩書房から刊行された最初の『高村光太郎全集』の補遺と訂正から始まりましたが、不定期刊行で平成5年(1993)までの間に第36集まで出され、さまざまな資料が掲載されました。

光太郎の誕生日に合わせ、この日の創刊となったと思われます。

その名跡をお譲りいただき、当方が37集以降を3年前から刊行しています。

先程、1泊2日の行程を終え、仙台から帰って参りました。仙台にある大学に通っている息子の、学生寮から一般のアパートへの引っ越しのために行きましたが、せっかく仙台まで足を伸ばしたので、今朝方、美術館を観て参りました。若林区にある福島美術館さんです。以前に一度だけ、当方のブログにてご紹介いたしました。

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上記はいただいてきた館のパンフレットです。こちらにある通り、光雲作の木彫が2点、所蔵されています。

1点はチベット仏教学者で僧侶の河口慧海に関わるものだそうです。慧海は大阪堺の出身ですが、東京の本郷弥生町や根津など、高村家の近くに住んでいたこともあり、光雲や光太郎と交流がありました。下の画像で、左が光雲、右が慧海です。

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で、福島美術館さん所蔵の慧海ゆかりの光雲木彫がこちら。

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ただし、今日観に行ったところ、こちらは007展示されていませんでした。

もう1点、「落ちない観音様」。神棚に飾られていたそうですが、あの東日本大震災でも神棚から落ちなかったということで、館の方ではそこを売りにしています。もう受験シーズンもそろそろ終わりですが、御利益があるのでは?

そちらは展示されていました。そこで、レポートを兼ねてご紹介いたします。

福島美術館さんは、地下鉄南北線の愛宕橋駅からほど近い、住宅街にあります。

美術館には見えない建物ですね。それもそのはず、元は身体障害者の総合福祉施設、ライフセンターという今でいうカルチャーセンターだそうで、現在も運営母体は社会福祉法人共生福祉会さんです。このあたりの経緯も館のブログに記述があります。

ちなみに「福島」は共生福祉会の創設者、福島禎蔵の名から。

新春吉例「めでた掛け-35年目の迎春-」という企画展が終了したばかりで、常設展のみ。入館料は何と100円でした。良心的というか何というか……。頭が下がります。

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常設展のみということで、確かに狭いスペースでしたが、福島禎蔵、そして先代と先々代のコレクションの中から逸品が並んでいました。

やはり仙台。伊達家ゆかりの品々、和時計、歌川国芳などの絵、そして福島禎三がNHKさんとも関わっていたとのことで「ラヂオ」。

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そして、「仏像」のコーナーに「落ちない観音様」が鎮座ましましていらっしゃいました。想像していたより小さな仏様でした。

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キャプションによると、震災の時まで光雲作であることに気づいて居らず、礼拝の対象として神棚に置かれていたそうです。

先程も書きましたが、もう受験シーズンもそろそろ終わりですけれど、御利益があるのでは? 受験生の皆さん、ぜひ拝観を(笑)。

追記 同館、平成30年(2018)をもって無期限休館となってしまいました。

館の裏手には、ある意味仙台のシンボル、広瀬川。

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陽気がよければ川原でのんびりするのもいいかと思います。ただ、今朝は寒く、早々に引き上げました。昨日は晴れていながら小雪が舞っていました。強風に山の雪が飛ばされてくる風花(かざはな)だと思いますが。既にタンポポやオオイヌノフグリが咲いて、梅は散り始めている房総の住民にはきつい寒さでした。

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ところで、昨日のブログに書いた町田の八木重吉記念館さんにしてもそうですが、こうした施設の館が頑張っている姿には頭が下がります。こういう灯を消してはいけないと思います。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月3日

昭和30年(1955)の今日、吸入器を購入しました。

宿痾の肺結核が進行し、病床に臥すことが多く、光太郎の余命、あと1年と1ヶ月という時期です。それでも食事は自炊、調子のいい時には原稿や書を書いていました。

一昨日の『日本経済新聞』さんの夕刊に、光太郎の名が出ました。

今月から始まった仏文学者小倉孝誠氏の連載「美術と文学―共鳴と相克」の第三回が、「国境を越えたロダンの魅力 リルケや白樺派も熱狂」で、日本に於けるロダン受容についても述べられ、光太郎に触れています。

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かなり長文ですので、全文は載せません。

「ロダンといえば彫刻、彫刻といえばロダンという感じで、近代彫刻の歴史における彼の地位は突出している。」にはじまり、ロダンの略伝、ヴィクトル・ユゴーやバルザック、ゾラ、ミルボー、そしてリルケら、文学者との交流が語られます。

そして日本に於けるロダン受容史的な話になり、白樺派とのかかわり、明治45年(1912)の与謝野夫妻によるロダン訪問、そしてわれらが光太郎がムードンのアトリエを訪ねたエピソードが紹介されています。

彫刻家にして詩人の高村光太郎は、08年ムードンのアトリエを訪ねた。ロダンは不在で会えなかったが、そこで彼の作品を前にした時、その量感と官能性に圧倒された、と後に回想している。

これはパリ留学中に有島生馬や山下新太郎らと共にムードンのアトリエを訪れたことを指します。晩年に書かれたエッセイ「遍歴の日」でその際の様子が語られています。それ以前にも明治40年(1907)11月、当時ロンドン留学中だった光太郎がパリに荻原守衛を訪ね、一緒にロダンのアトリエまで足を伸ばしていますが。2回とも正確に言うと、「会えなかった」というより、留守を狙って行ったふしがあります。高村家の家訓として、「あつかましいことは厳禁」といった戒めがあり、邪魔をしないようにという配慮があったようです。ただ、内妻のローズ・ブーレは在宅で、彼女にロダンの彫刻やデッサンの束を見せて貰ったりしてはいます。

特に目新しいことが書かれているわけではありませんが、「入門講座」と謳う連載ですので、それでいいと思います。ちなみに第一回はドラクロワ、第二回はゾラと印象派を主に取り上げていました。

当方、日経さんは購読しておりません。ネットでも、有料会員登録をしないと読めない記事の扱いになっていました(後で別の入り口から入ると読めたのですが)。そこで、こういう場合どうするか、といいますと、地元の市立図書館に行き、コピーをしてきます。おそらく全国の公立図書館でそれが可能だと思います。図書館にはそういう使い方もありますので、ご参考までに。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月21日000

昭和57年(1982)の今日、岩手花巻で、佐藤隆房著『非常の時』が刊行されました。

佐藤隆房は、宮澤賢治の主治医にして、光太郎とも交流を持ち、光太郎歿後は花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めました。

題名の「非常の時」は、昭和20年(1945)の花巻空襲の際、身を挺して怪我人の看護に当たった、佐藤率いる総合花巻病院の職員一同に光太郎が贈った詩の題名です。題字は光太郎筆跡を転用しています。

内容的には、『花巻病院新聞』などに掲載された佐藤の随筆を集めたもので、光太郎に触れる箇所もたくさんあります。

この前年に亡くなった佐藤の遺稿集という形で、子息の進氏(現・㈶花巻高村光太郎記念会理事長)によって私刊されました。

昨日に引き続き、芝増上寺さんの展示情報です。

『産経新聞』さんで大きく報道されています。 

2代将軍秀忠の墓所「台徳院殿霊廟」模型、日本初公開へ。

 徳川幕府の第2代将軍秀忠の墓所で、70年前の空襲で焼失した国宝建造物「台徳院殿霊廟(れいびょう)」の実像を唯一知ることのできる精巧な模型が英国で見つかり、徳川家康の没後400年目を機に4月から、霊廟のあった増上寺(東京・芝公園)で公開されることになった。
 模型は実物の10分の1(幅約4メートル、奥行き約5メートル、高さ約2メートル)で、1910年(明治43年)にロンドンで開かれた日英博覧会の展示品として当時、東京市が著名な彫刻家、高村光雲ら東京美術学校の専門家の監修で製作した。
 展示後、模型は英王室直属機関のロイヤル・コレクションに渡った。徳川時代の建築の専門家でもある同機関の現代表、ウィリアム・コールドレイク氏が20年前、埋もれていた模型を見つけ、修復に着手。作業が複雑で修復は未完了だが、家康没後400年目の今年、増上寺に貸与する形で公開することになった。
 霊廟は秀忠が没した1632年に建立され、霊廟建築のひな型ともなったが、焼失後はモノクロ写真でしか見ることができなかった。コールドレイク氏は「模型なら質感や色がわかり、当時の専門家の手による作品というだけでも国宝級だ」と話している。

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展示の概要は以下の通りです。

「増上寺宝物展示室」概要
【名 称】増上寺 宝物展示室
【日 付】平成27年4月2日(木)より一般公開
【時 間】10:00~16:00
【休館日】火曜日 *御忌期間中4/2~7は毎日公開。その他臨時公開日あり
【会 場】大本山 増上寺 大殿地下1階「宝物展示室」(旧三縁ホール)
【入館料】一般 700円(税込) *徳川将軍家墓所拝観とのセット券 1,000円(税込)


ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月19日

平成12年(2000)の今日、ソプラノ歌手藍川由美のCD『「國民歌謡~われらの歌~國民合唱」う歌う』がリリースされました。

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昭和15年(1940)に徳山璉の歌で発表された、光太郎作詞、飯田信男作曲の「歩くうた」が収められています。当時の楽譜通りの演奏です。

以前にもご紹介しましたが、藍川さんは歌謡史の研究も兼ね、忘れ去られつつある歌謡曲等の実演に取り組まれています。

東京は芝から、光太郎の父・光雲がらみの情報先の話のため、もうすこし後で記事にしようと思っていましたが、新聞報道がなされていますので、ご紹介します。

芝増上寺さんのサイトから。

増上寺宝物展示室2015年4月2日OPEN

 平成27年は、徳川家康公没後400年にあたります。その記念すべき年に、家康公によって徳川将軍家の菩提寺と定められ発展してきた増上寺では、本堂地下1階に宝物展示室を開設することになりました。

展示の中心となるのは、英国ロイヤルコレクション所蔵の「台徳院殿霊廟模型」です。台徳院殿霊廟は二代秀忠公の墓所として、1632年(寛永9年)、三代将軍家光公によって境内南側に造営された壮大な建築群でした。徳川家霊廟の中で最も壮麗とされる日光東照宮のプロトタイプとなった霊廟で、1930年(昭和5年)に国宝に指定されましたが、1945年(昭和20年)5月の戦災により焼失してしまいました。

この模型は、いまではモノクロ写真でしか往時の姿をしのぶことができない台徳院殿霊廟の主要部分が、10分の1のスケールで製作されたものです。

女王陛下より増上寺へ霊廟模型の長期貸与が決定

  模型の製作は、東京美術学校(現東京芸術大学)が行い、古宇田実教授(建築)、高村光雲教授(彫刻)両名の監修のもと、明治末期の最高の技術をもって、忠実に再現しました。
  英国側がこの模型を日本で展示し、ひろく一般公開する意向を持ち、英国大使を通じて徳川御宗家並びに増上寺への協力依頼により本計画が実現しました。
  展示室を開設し一般公開することは、日英文化交流にとって友好のしるしとなること、そして模型が持つ美術工芸品的、資料的、歴史的価値を多くの人に知っていただける好機だと増上寺では考えています。 

1910年(明治43年)ロンドンで開催された日英博覧会に東京市の展示物として出品。博覧会終了後に英国王室へ贈呈され、ロイヤルコレクションの一つとなり、現在まで英国にて大切に保管されてきたのです。


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英国大使館さんのサイトにも情報が掲載されています。 
明治期の台徳院殿霊廟模型が、こ004の春、日本で初公開されます。
東京の失われた国宝建造物の中でも重要な建築の一つに挙げられる台徳院霊廟の1/10スケール模型が、100年余ぶりに日本に戻りました。英国ロイヤル・コレクションの1つであるこの模型は、徳川家2代将軍、徳川秀忠公(1579-1632)の墓所である台徳院霊廟を再現したものです。エリザベス2世女王陛下のお許しで、日本の職人の手による12ヶ月にわたる丹念な修復作業を経て、当初霊廟が建造されていた東京(かつての江戸)の増上寺にて、長期公開されます。本模型は 徳川家初代将軍、家康公の没後400年を記念した展示(4月2日より一般公開)の中核をなすものです。
台徳院殿霊廟は、1632年、徳川家の菩提寺である増上寺の境内に建造され、その名は秀忠公の法名に因んでいます。本霊廟はその後の霊廟建築におけるひな形の一つとなっており、特にさまざまな場所に施された独特の装飾は大きな影響を与えましたが、1945年、東京への戦時中の爆撃により焼失しました。
模型は1910年にロンドンで開催された日英博覧会のために東京市(当時)が発注したもので、より小型の日本の歴史的建造物模型13点と共に展示されました。高名な彫刻家、高村光雲など東京美術学校(現・東京芸術大学)の専門家による監修の下、当時トップクラスの大工、漆職人、彫刻家らによるチームが製作を担当。幅3.6メートル、奥行き5.4メートル、高さ1.8メートルで、同博覧会のために依頼された大半の模型の5倍の大きさでした。
模型は、台徳院殿霊廟を構成する三棟、本(ほん)殿(でん)、拝殿(はいでん)、相之間(あいのま)を内外にわたり、色彩豊かに細部に至るまで再現しています。屋根は数千枚に及ぶ親指の爪サイズの銅瓦など、素材や技巧にも忠実です。
東京での修復作業は主に本殿部分で、屋根瓦や漆塗りの木の枠組みや扉、御簾、徳川家の家紋、金箔を施した阿弥陀浄土図などの壁画の修理や洗浄などが行われました。須(しゅ)弥壇(みだん)の両端に立つ来迎柱(らいごうばしら)は特に注意深く修復され、霊廟を取り囲む巨大な透(すき)塀(べい)の洗浄と再構築もおこなわれました。   日英博覧会は1910年5月14日から10 月29日までロンドンのホワイトシティで開催され、日本が参加した国際博覧会としては最大規模のものでした。発展を遂げる日本国のイメージを英国に発信し、両国の貿易関係を強化することを目的としていました。この博覧会では日本の工芸・音楽・スポーツ・娯楽のデモンストレーションも行われ、英国王ジョージ5世やメアリー王妃も訪問、来場者は800万人超に達しました。その後、霊廟の模型は国王に贈呈され、長年にわたり王立植物園(キューガーデン)にて一般公開されてきました。
駐日英国大使 ティム・ヒッチンズより:

“長い年月を経て、台徳院の模型が日本に戻ることを非常に喜ばしく思います。2008年に皇太子殿下が訪日された際、模型の来迎柱の一つを増上寺の副住職に贈りました。今回は模型全体が戻ります。英国と日本が協力することで、歴史的にも政治的にも重要かつ非凡な職人技を広く一般に届けることができるという、今後のあり方を象徴的する素晴らしい出来事です。この模型は、炎に消えて取り戻せないと思われた建物を甦らせます。”
ロイヤル・コレクション・トラスト 総責任者 ジョナサン・マースデンより:

“この類まれな模型の存在意義は、オリジナルの建物と敷地の消滅によってさらに高まっています。私はエリザベス2世女王陛下の代理として、ロイヤル・コレクションの一つであるこの見事な作品の管理責任を担っておりますが、ロイヤル・コレクション・トラストと増上寺の素晴らしい提携のおかげで、この模型が最高の職人によって修復され、東京の皆さんに江戸時代の最高建築を十分にご堪能いただけることを嬉しく思います。”
大本山増上寺 友田達祐 執事長より:

“エリザベス2世女王陛下のご好意により、台徳院殿霊廟模型が100年ぶりに里帰りし、4月2日から増上寺において一般公開できますことを、心より喜んでおります。徳川将軍家の菩提寺として発展してきた増上寺の、往時を偲ぶ貴重な資料でもあり、修復・展示実現のため、ご尽力いただきましたロイヤル・コレクション・トラスト、駐日英国大使館はじめ、関係皆様に感謝いたします。”


他にも新聞報道等がなされていますが、長くなりましたので、またご紹介いたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月18日

昭和27年(1952)の今日、光雲高弟の一人、本山白雲が歿しました。

本山は高知出身の士族。明治4年(1871)の生まれで、光太郎より12歳年長でした。旧主のとりなしで光雲に弟子入りし、さらに東京美術学校にも入学、卒業後はそのまま美校に奉職しました。幼い日の光太郎が、共に彫刻修行に励んだ一人です。

昭和4年(1929)に刊行された光雲の談話筆記『光雲懐古談』中の「谷中時代の弟子のこと」から。

 それから、やはり谷中時代の人で、今日は銅像制作で知名の人となつてゐる、本山白雲氏があります。氏は土佐の人、同郷出身の顕官岩村通俊(いはむらみちとし)氏の書生をしてゐて、親を大切にして青年には珍しい人で美術学校入学の目的で私の宅へ参つて弟子になりたいといふことで、内弟子となつてゐました。後に学校に這入りました。今日でも氏は能く昔のことを忘れず、熱さ寒さ盆暮れには必ず挨拶にきてくれます。今では銅像専門の立派な技術を持つた人です。

「銅像専門」とありますが、代表作は郷里005の高知桂浜に立つ、有名な坂本龍馬像です。

ところで、今日、2月18日は、本山以外にも、奇しくも光太郎と関係のある人物多数の命日です。

明治36年(1903)、五代目尾上菊五郎。光太郎は彼のファンで、肖像彫刻も作りました(現存は確認できず)。

昭和14年(1939)、岡本かの子。彫刻科を卒業し、再入学した東京美術学校西洋画科での同級生・岡本一平の妻で、智恵子同様、『青鞜』のメンバーでもありました。

永禄4年(1564)、ミケランジェロ・ブオナローティ。言わずと知れたルネサンスの巨匠です。ロダンと共に、光太郎彫刻の血脈を形作りました。

こうした中で、やはり光太郎との縁の深さを考え、本山を代表にさせてもらいました。

京都から企画展情報です。 
 場 清水三年坂美術館 京都市東山区清水寺門前産寧坂北入清水三丁目337-1
 期 2015年2月21日(土)~2015年5月17日(日)月・火曜日休館(祝日は開館)
 金 一般800円、大・高・中学生500円

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明治の彫刻が日本の美術館で展示されることは滅多にない。展示されるとしても せいぜい木彫や牙彫で、他の素材を使った作品は展示されない。明治の彫刻には、 木彫、牙彫以外に漆彫刻や貝殻、べっ甲、珊瑚などを彫刻して木や象牙に象嵌する彫嵌(ちょうがん)作品もある。
今回の展示では高村光雲や石川光明、安藤緑山らの牙彫・木彫 作品に加え、堆朱陽成や逸見東洋の堆漆作品、旭玉山、田中一秋らの彫嵌作品など、明治の多様な彫刻美術の全貌をご高覧いただきたい。


清水三年坂美術館さんは、幕末、明治の金工、七宝、蒔絵、薩摩焼を常設展示する日本で初めての美術館として平成13年(2001)に、京都清水寺近くに開館しました。平成23年(2011)には企画展「高村光雲と石川光明」を開催して下さっています。

また、昨年から東京日本橋静岡三島山口と、全国巡回中の「超絶技巧! 明治工芸の粋」展も、同館の所蔵品によるものです。

光雲の木彫がある程度まとめて見られる機会はそう多くありません。当方も桜の時期にでも暇を見つけて行ってこようかなと思っています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月13日

昭和23年(1948)の今日、電車を乗り間違いました。

花巻郊外太田村の山小屋で暮らしていた時期のエピソードです。花巻の町に出、その帰途、花巻電鉄の西花巻駅から下り線に乗るはずが、間違って上り線に乗ってしまい、一時間半ほど無駄にしてしまいました。

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以前にもご紹介しましたが、こちらは当方手持ちの古絵葉書です。

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こちらは現在の花巻駅近くの 西公園で、静態保存されている車両「デハ3」。

「馬面電車」と呼ばれる非常に細長い独特の形状です。

山口県から企画展情報です。

昨年4月から7月に、東京日本橋の三井記念美術館さんで開催された企画展で、その後、10月から12月に静岡の佐野美術館さんを経て、三館めの巡回になります。さらに6月から富山県水墨美術館さんに廻るそうです。

※ 2015/5/2 追記 富山県水墨美術館さんの前に、郡山市立美術館さんが入りました。

光雲の木彫2点「法師狸」、「西王母」が展示されます。 

特別展 超絶技巧!明治工芸の粋―これぞ、明治のクールジャパン!!

2015年2月21日(土)〜4月12日(日) 山口県立美術館 山口市亀山町3-1
[開館時間] 9:00〜17:00 (入館は16:30まで) [休館日] 月曜日(ただし3月2日、4月6日は開館)
[観覧料] 一般1200(1000)円/学生・シニア1000(800)円
◎コレクション展セット券〈当日券のみ〉 一般1300(1100)円/学生1100(900)円

※シニアは70歳以上の方、( )内は前売りおよび20名以上の団体料金。※18歳以下および高等学校、中等教育学校、特別支援学校に在籍の方等は無料。
※前売り券はローソンチケット(Lコード66380)、セブンチケットおよび県内各プレイガイドでお求めください。
[主催] 山口県立美術館、朝日新聞社、yab山口朝日放送 [協力] 清水三年坂美術館 [監修] 山下裕二(明治学院大学教授)
[企画協力] 広瀬麻美(浅野研究所) [特別協力] 山口県職業能力開発協会、エフエム山口
[協賛] 公益財団法人やまぐち産業振興財団、一般社団法人山口県発明協会

思わず息をのむ、細密さ。目を疑うような、リアリティ。
近年、メディアでも盛んに取り上げられ、注目を集めている明治の工芸。激動の時代に花開いた、精緻きわまりない超絶技巧の数々は、眩暈(めまい)がするような衝撃をもって私たちを魅了します。しかしその多くは当時輸出用として制作されたため、海外で高い評価を得てきた一方、日本国内において全貌を目にする機会はこれまでほとんどありませんでした。忘れられかけた明治工芸の魅力を伝えるべく、長年をかけて今や質・量ともに世界随一と評されるコレクションを築き上げたのが、村田理如(まさゆき)氏です。本展では、村田氏の収集による京都・清水三年坂(きよみずさんねんざか)美術館の所蔵品から厳選した、七宝(しっぽう)、金工、漆工、牙彫(げちょう)など、多彩なジャンルにわたる作品を一堂に公開します。160点以上にのぼる優品を通して、明治の匠たちが魂を込めた、精密で華麗な明治工芸の粋(すい)をお楽しみください。

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関連行事

入門講座 初めての明治工芸
本展の担当学芸員による入門講座。
作品にまつわる背景と見どころを交えながら、展覧会と明治工芸の魅力をご紹介します。
[日時]3月7日(土) 14:00〜15:00
[講師]岡本麻美(山口県立美術館 専門学芸員)
[会場]山口県立美術館 講座室
[定員]80名(当日先着順)、聴講無料

トークイベント「日本美術応援団 明治工芸を応援する! in 山口」
「日本美術応援団」団長を務める本展監修者・山下先生と、NHK『日曜美術館』の司会者としてもおなじみの新・応援団員、井浦新氏。
一昨年の「五百羅漢図展」に引き続き、日本美術を応援する二人が明治工芸の魅力をあつく語ります。
[ゲスト]井浦 新氏(俳優、クリエーター)、山下裕二氏(本展監修者、明治学院大学教授)
[日時]3月21日(土・祝) 14:00〜15:30 
[会場]山口県教育会館 大ホール 
[定員]300名(先着順・要事前申込) 
[料金]トークイベントのみ:500円 
◎セット料金(トークイベント+展覧会観覧券):一般1500円/学生・シニア1300円
※18歳以下および高等学校、中等教育学校、特別支援学校に在籍の方等は無料。
【お申し込み】「明治工芸展トークイベント参加希望」として、
①代表者氏名 ②年齢 ③住所 ④電話番号 ⑤参加人数を明記の上、下記の申込フォームより、もしくは往復はがきにて、美術館までお申し込みください。当館より折り返しご連絡いたします。


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お近くの方、ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月4日

昭和22年(1947)の今日、明治末の新詩社時代からの親友だった作家、水野葉舟死去の報に接しました。

当日の日記から。

郵便物の中に電報あり。水野葉舟死去と見ゆ。(ヨウシウシス」シキ五ヒヒミヅノ)とあり電文脱字あれど死去確かなり。驚く外なし。肺か癌か。ゆきたけれど今はゆきがたし。

葉舟の死は2月2日。死因は肋膜炎でした。

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