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昨日、埼玉県東松山市の元教育長で、生前の光太郎をご存じの田口弘氏から、市へ光太郎の肉筆資料等のご寄贈があった旨ご紹介いたしました。その件が今日、『東京新聞』さんの埼玉版で報じられています。今日の時点で、他紙では報じられていないようですが、今後、記事が出る可能性もありますので、しばらく様子を見てから『東京新聞』さんの記事をご紹介します。

今日は、1週間前の『日本経済新聞』さんに載った記事から。

「リーダーの本棚 辺境から世界を見つめる」と題された読書面の記事で、世田谷美術館館長の酒井忠康氏へのインタビューです。

酒井氏がピックアップされた「私の読書遍歴」という項に、光雲談話筆記『光雲懐古談』が紹介されています。

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インタビュー本文は長い上に、光太郎、光雲、智恵子の名が出て来ませんので、テキスト化はしません。上記画像、クリックで拡大しますので、そちらでお読み下さい。

当方の書架には酒井氏が関係された書籍が何点かございます。

『日本の近代美術11 近代の彫刻』(大月書店 平成6年=1994)。酒井氏の責任編集です。「高村光雲《老猿》」「高村光太郎《腕》」という章があり、ともに神奈川県立近代美術館学芸員(当時)の堀元彰氏のご執筆です。

『高村光太郎 いのちと愛の軌跡』(山梨県立文学館 平成19年=2007)。同名の企画展図録です。酒井氏の論考「高村光太郎の留学体験」が掲載されています。また、同展の関連行事として、酒井氏、当時の同館館長の近藤信行氏、光太郎令甥の故・高村規氏のお三方による鼎談「高村光太郎の人生 パリ・東京・太田村」も開催されました。

『画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく』(青幻舎 平成27年=2015)。昨年の平塚市美術館さんから全国巡回が始まり、現在、最後の巡回先の北海道立函館美術館さんで開催中の同名の企画展図録を兼ねた書籍です。平塚市美術館館長代理・土方明司氏(光太郎と縁が深く、酒井氏の師でもあった美術史家・土方定一の子息)の司会で、信濃デッサン館・戦歿画学生慰霊美術館無言館館長・窪島誠一郎氏との対談が収録されています。光太郎についても触れられています。

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006そして、氏が「私の読書遍歴」でご紹介された『光雲懐古談』。その前半部分を文庫化した『幕末維新懐古談』(岩波書店 平成7年=1995)。解説を酒井氏がご執筆なさっています。

昨年、NHKさんの「日曜美術館」で、「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」が放映されました。光雲制作の秘仏が初めて御開帳された「高野山開創1200年 金堂御本尊特別開帳」にからめての企画でしたが、ディレクター氏は、同番組のブログで、そもそものきっかけは『光雲懐古談』の衝撃的な面白さだったと述べられています。

内容もさることながら、光雲の語り口の妙、たしかに「衝撃的な面白さ」です。この点は、光太郎も影響を受けているのではないかと思われます。光太郎の文章も非常に読みやすく、範としたいものですが、その素養のある部分は、非常に語りがうまかったという光雲から受け継いでいるような気がします。

岩波文庫版はまだ版を重ねているようですので、ぜひお読み下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

森々と更け行く闇のむかつをにひとりたのしむ電(いなづま)のかげ

明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

「むかつを」は「向つ丘」。「向こうに見える丘」といったところでしょうか。万葉集などに使われている古語です。

【折々の歌と句・光太郎】

いはほなすさゝえの貝のかたき戸のうごくけはひのほのかなるかも
昭和5年(1930) 光太郎48歳

昭和5年(1930)制作の木彫「栄螺(さざえ)」を収めるための絹の袋に認(したた)められた短歌です。

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この木彫「栄螺」、平成15年(2003)に、約70年ぶりにその存在が確認され、大きく報じられました。袋はおそらく智恵子が縫ったものと推定されています。

光太郎彫刻の中では、一つのエポックメーキングとなった作品です。これを作る前と後で、彫刻の概念そのものに大きな変化があったとのこと。

 栄螺も彫つたが、それを父に見せたら「この貝はよく見たら栄螺の針が之だけ出てゐるけれど一つも同じのがないね。」と言つた。実はその栄螺を彫る時に、五つ位彫り損つて、何遍やつても栄螺にならない。実物のモデルを前に置いてやつてゐるが、実に面倒臭くて、形は出来るのであるが、どうしても較べると栄螺らしくない。弱いのである。どうしてもその理由が分らないので、拵へ拵へする最後の時に、色々考へて本物を見てゐると、貝の中に軸があるのである。一本は前の方、一本は背中の方にあつて、それが軸になつてゐて、持つて廻すと滑らかにぐるぐる廻る。貝が育つ時に、その軸が中心になつて針が一つ宛殖えて行くといふことが解つた。だからその軸を見つけなければ貝にならない。成程と思つて、其処をさういふ風に考へながら拵へたら、丸でこれまでのと違つて確りして動きのない拠り所が出来た。それで私は、初めてかういふものも人間の身体と同じで動勢(ムウヴマン)を持つといふことが解つた。それ迄は引写しばかりで、ムウヴマンの謂れが解らなかつたが、初めて自然の動きを見てのみこまなければならないといふことを悟つた。
 それ以来、私は何を見てもその軸を見ない中には仕事に着手しない。ところがその軸を見つけ出すことは容易ではない。然し軸は魚にも木の葉にも何にでも存在する。それを間違はずに見つけ出すのは、なかなか大変ではあるが、結局自然の成立ちを考へ、その理法の推測のもとに物を見て、それに合へばいいし、さうでない時には又見直したりしてやるのである。木の葉一枚でもそれを見ないでやつたものは、本当の謂れが分らないから彫つたものが弱い。展覧会などにも、さういふ弱い作品が沢山あるが、形は本物と一寸も違はないけれども、その形の拠り所が分つてゐないから肝心のところで逃げてゐて人形のやうになつて了ふ。人形と彫刻とは丸で格段の違ひである。その違ふ製作的根拠をはつきりと気がついたのはその栄螺の彫刻の時だ。
(「回想録」 昭和20年=1945)


 さて、この「栄螺」、所蔵する愛知県小牧市のメナード美術館さんで、現在展示中です。いわゆる所蔵品展の形で開催されている「版画と彫刻コレクション 表現×個性」での展示です。

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さらに、メナードさんで所蔵するもう一点の光太郎木彫「鯰」(昭和6年=1931)も並んでいます。

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こちらにも作品を収めるための袱紗(ふくさ)が附いており、やはり智恵子の縫製と考えられます。

認(したた)められている短歌は、「表現×個性」展を3月にこのブログでご紹介した際に取り上げましたが、001

あながちに悲劇喜劇のふたくさの此世とおもはず吾もなまづも

という短歌です。


「栄螺」、「鯰」とも、平成25年(2013)に、やはりメナード美術館さんで開催された「開館25周年記念 コレクション名作展Ⅴ 近代日本洋画」で並んで以来の公開です。メナードさん、なかなか他館に貸し出しをして下さいませんので、貴重な機会です。

ただ、「鯰」は他に2体存在が確認されており、東京竹橋の国立近代美術館さん所蔵のものが、この夏、信州安曇野の碌山美術館さんでの企画展「光太郎没後60周年記念 高村光太郎-彫刻と詩-展」で展示されます。関連行事は当方の講演です。

こちらは近くなりましたらまた詳細をお知らせします。


さて、メナード美術館さんの「表現×個性」、来月10日までの会期です。光太郎木彫以外にも、古今東西の逸品ぞろい。ぜひ足をお運びください。

皇居東御苑内の三の丸尚蔵館さんで開催中の展示「古典再生――作家たちの挑戦」について、昨日の『毎日新聞』さんの東京版に記事が載りました。光雲の名を大きく取り上げて下さっています。 

古典に挑んだ作品並ぶ 皇居の尚蔵館で19日まで 高村光雲、横山大観など /東京

 皇居・東御苑の三の丸尚蔵館で展覧会「古典再生?作家たちの挑戦」の後期展示が開催されている。高村光雲や横山大観など日本を代表する芸術家の作品が並ぶ。19日まで。

 今回の展示は、明治維新によって急速な西欧化が進むなか、古典に目を向け、自らの作風に取り入れながら創作を行った作家の作品が並んでいる。

 仏師の元で修行を積んだ高村光雲(1852?1934年)の木彫「猿置物」は、猿回しの猿が御幣と鈴を持ち、能楽の「三番叟(さんばそう)」を舞っている作品。昭和天皇の弟の秩父宮から、母親の貞明皇后に献上された。東京美術学校(現在の東京芸大)に依頼され、同校教授の高村が23(大正12)年に制作した。高村はかつて皇居にあった明治宮殿の室内装飾の彫刻にもたずさわっている。
 明治から昭和にかけて活躍した横山大観(1868?1958年)の日本画「秩父霊峯春暁」は埼玉県秩父市の秩父神社の依頼で28(昭和3)年に制作された。横山が実際に現地でスケッチして描いたもので、墨の濃淡などで秩父の山々や朝もやを表現した。
 入館無料。午前9時?午後4時45分。月、金曜休館。皇居大手門、平川門、北桔橋門から入門。最寄り駅はJR東京駅、地下鉄大手町駅、竹橋駅。【高島博之】

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光雲作品は、記事にある「猿置物」と「養蚕天女」。どちらも恐ろしいほどの刀の冴えで、まさに超絶技巧の逸品です。

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その他の展示品はこちら。ただし、現在の展示は「後期」です。画像一番右をご確認下さい。

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やはり記事にある横山大観の「秩父霊峯春暁」も、実に見事なものでしたし、他の作品もそれぞれに力のこもった作ばかりでした。やはり、ほとんどが皇室への献上品ということで、各作家の力の入れようも並々ならぬものがあるのでしょう。

来週日曜までの開催です。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

檜の香部屋に吹きみち切出の刃さきに夏の雨ひかりたり
大正13年(1924) 光太郎42歳

その光雲から受け継いだ彫刻刀の技を活かし、さらに工夫を加えて独自の木彫に挑んでいた頃の作です。

新刊、といっても2ヶ月前ですが、気付くのが遅れ、紹介が遅くなりました。 
2016/03/10 筑摩書房(ちくま新書) 墨威宏著 定価960円+税


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知らなかった!銅像の真実
歴史的人物や偉人の像、アニメのキャラクター像など日本全国の銅像を訪ね歩き、カラー写真と共に、エピソードや現地の情報を盛り込んで紹介する楽しい一冊。
明治期に欧米から入ってきた「銅像」文化は日本人に合っていたらしく、日本風にアレンジされて各地に次々に建てられていった。明治期後半には偉人の像、昭和初期には全国の小学校に二宮金次郎像、近年はアニメのキャラクター像なども立ち、第三次ブームと呼べるほど増え続けている。それぞれの銅像の背負っているものを掘り下げていくと、日本の近現代史が見えてくる。
 
目次
第1章 秘められた歴史
第2章 謎の銅像
第3章 昭和の記憶
第4章 源平合戦の虚実
第5章 戦国武将の盛衰
第6章 幕末の群像
第7章 銅像が語る文学史


基本的に、全国の銅像を紹介する項立てになっており、「第1章 秘められた歴史」の中で、光太郎の父・光雲が制作主任となって作られた「楠木正成像」「西郷隆盛像」が扱われています。

同時に、「銅像」受容の歴史を考察する作りにもなっており、楠公像、西郷像の項では、サブタイトルを「銅像会社設立を考えた光雲」とし、光太郎にも触れています。

特に日露戦争後、武功のあった軍人などの像を造る機運から、一種の銅像ブームが起こりました。光雲が「銅像会社」の構想をぶちあげたのは、光太郎が欧米留学から帰った明治42年(1909)です。日本郵船の阿波丸という船で、神戸港に着いた光太郎を迎えに来た光雲が、東京への汽車の中で光太郎に語りました。

「弟子たちとも話し合つたんだが、ひとつどうだらう、銅像会社といふやうなものを作つて、お前をまんなかにして、弟子たちにもそれぞれ腕をふるはせて、手びろく、銅像の仕事をやつたら。なかなか見込があると思ふが、よく考へてごらん。」
(「父との関係」 昭和29年=1954)

この光雲の構想は単なる思いつきではありません。楠公像や西郷像同様、東京美術学校として受注し、光雲を中心に山崎朝雲、本山白雲らが携わった銅像がかなりありましたし、光太郎の実弟・豊周は既に鋳金の道に進み始めていました。実際に光雲の残した綿密な構想メモも現存し、ビジネスとして非常に見込みのある企画だったといえます。

しかし、光太郎にとっては、功成り名遂げた人物の自己顕示、または周囲のゴマすりのような形での銅像制作は、俗なもの、芸術にあらず、という感覚でした。

私はがんと頭をなぐられたやうな気がして、ろくに返事も出来ず、うやむやにしてしまつた。何だか悲しいやうな戸惑を感じて、あまり口がきけなくなった。
(同前)

結局、光太郎は光雲を頂点とする日本彫刻界とは縁を切り、独自の路線を歩み始めます。光雲も、光太郎が乗ってこないなら、ということで銅像会社の構想は断念しました。

ただし、光太郎、のちに光雲の代作で銅像の原型制作は何度もやっていますし、銅像ならぬ肖像彫刻も数多く手がけています。『銅像歴史散歩』にも紹介されている光雲像、日本女子大学校初代校長・成瀬仁蔵(NHKさんの朝ドラ「あさが来た」における成澤泉)像など。

単なる「銅像」と「肖像彫刻」の境界がどこにあるのか、難しいところです。おおざっぱにいえば、作者があまり前面に出て来ず、モデルとなった人物の顕彰、という点が中心になっているもの、いわば「誰々作った」がメインなのが「銅像」、それに対し、作者が重要で、「誰々作った」という感覚で捉えるべきなのが「肖像彫刻」、といえそうな気がしますが、その線引きは曖昧模糊としています。

今後も考察を続けてみたいと思います。

ところで『銅像歴史散歩』。定価960円+税と、新書としては高額です。これは、ほぼ全ページカラーで画像が多数使われているせいでしょう。その意味では妥当な価格です。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

夏は来ぬものみなみちよかがやけよ生めよふえよととどろくちから
明治37年(1904) 光太郎22歳

当方、夏は大好きです。しかし、急に暑くなったせいで、あちこちで急に冷房が使われはじめ、かえってそれにやられました。夏風邪気味です。

新宿の中村屋サロン美術館さん発のイベント情報です。 
5月29日(日)  旅行代金(おひとり様)9,800円 ※大人・子ども同額

新緑と水が煌めき、雪解けの山が美しく映える5月の安曇野。パワースポットの穂高神社で安曇野の歴史に触れ、新宿中村屋ゆかりの彫刻家 荻原守衛(碌山)の作品を展示する碌山美術館で、芸術と自然を堪能するバスツアーです。

芸術と自然に囲まれた、豊かな時間を過ごしませんか?

特典付きで大満足!
・碌山美術館学芸員によるミニレクチャー付!
・荻原家ご当主のご案内による碌山の墓参付!(希望者)
・安曇野市と中村屋から素敵なプレゼント付!

新宿(8:00)=大王わさび農場(昼食・買い物・見学)=安曇野着 穂高神社参拝(解説付)=碌山美術館(ミニレクチャー・見学)=現ご当主のご案内による碌山の墓参(希望者)=新宿(20:00予定)
※行程は道路状況等により、入れ替わる可能性がございます

添乗員:同行  受付最少人数:1名 最少催行人員:30名 バスガイド:なし 食事:1回昼食
※5月9日までに最少催行人員に達しない場合は中止とさせていただきますこと、ご了承ください
※詳しい旅行条件説明書面をお渡しいたしますので、事前にご確認の上、お申し込みください

お問い合わせ・お申し込みは
近畿日本ツーリスト個人旅行株式会社
東京都新宿区新宿3-26-13 新宿中村屋ビル3階 03-3354-4021 受付時間11:00~19:00 (土日祝18:30)

旅行企画・実施
近畿日本ツーリスト個人旅行株式会社 新宿プレミアム旅行サロン 東京都新宿区新宿3-26-13

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お申込期限はまだ先でしょうが、明日までに30名に達しないと催行中止だそうで、とりあえず早めにご紹介しておきますが、それが杞憂に終わることを祈念いたします。

中村屋サロン美術館さん、昨年も同様の企画を開催されました。おそらくそれが好評だったので、二匹目のドジョウでと思われます(笑)。こういう場合には、バスツアーというのは非常に楽ですね。しかもいろいろお土産もあるようですし(笑)。

碌山美術館さんは、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の個人美術館ですが、光太郎をはじめ、碌山と縁の深かった作家の作品も収蔵、光太郎ブロンズ作品も多数お持ちです。複数の光太郎彫刻を一度に見られるのは、こちらと花巻高村光太郎記念館だけです。

7月から8月にかけては、当方も関わる企画展「光太郎没後60周年記念 高村光太郎-彫刻と詩-展」が開催されます。そちらはそちらとして、こちらにもぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

たらちねの母は死ねども死にまさずそこにもをるよかしこにも居るよ

昭和2年(1927) 光太郎45歳

昨日からの続きで、「母の日」がらみで。

母・わかの三回忌を前に作られました。昨日ご紹介した短歌と共に、雑誌『炬火』に発表した詩「母をおもふ」に反歌のように添えられたものです。

   母をおもふ

夜中に目をさましてかじりついた
あのむつとするふところの中のお乳。

「阿父(おとう)さんと阿母(おかあ)さんとどつちが好き」と
夕暮の背中の上でよくきかれたあの路次口。
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鑿(のみ)で怪我をしたおれのうしろから
切火(きりび)をうつて学校へ出してくれたあの朝。

酔ひしれて帰つて来たアトリヱに
金釘流(かなくぎりう)のあの手紙が待つてゐた巴里の一夜。

立身出世しないおれをいつまでも信じきり、
自分の一生の望もすてたあの凹んだ眼。

やつとおれのうちの上り段をあがり、
おれの太い腕に抱かれたがつたあの小さなからだ。

さうして今死なうといふ時の
あの思ひがけない権威ある変貌。

母を思ひ出すとおれは愚にかへり、
人生の底がぬけて
怖いものがなくなる。
どんな事があらうともみんな
死んだ母が知つてるやうな気がする。


「死ねども死にまさず」、「そこにもをる」「かしこにも居る」。後に妻・智恵子が亡くなった後にも、智恵子は元素となって私の周りに常に居る、と光太郎は繰り返し発言しています。そうした考えの源流がここにありそうです。

現在、皇居東御苑内の三の丸尚蔵館さんで開催中の展覧会です。

今月末から展示替えに伴い、光太郎の父・光雲作の木彫が2点、展示されます。 

第72回展覧会 古典再生―作家たちの挑戦

会 期 : 2016年3月25日(金)~6月19日(日)
      前期 3月25日~4月24日 中期 4月29日~5月22日
      後期 5月28日(土)~6月19日(日)
休 館 : 毎週月・金曜日
時 間 : 午前9時~午後4時45分(入館は午後4時30分まで)
料 金 : 無料

明治維新後,近代国家としての自立を目指した日本は,急速に西欧化を推し進めていきました。しかし,その影響下で廃仏毀釈による古器旧物の破壊や,美術工芸品の国外流出が相次いだこともあり,明治十年代半ば頃から日本古来の伝統を保護しようとする機運が高まりを見せます。江戸時代後期に興った復古思想とも重なりながら,絵画や工芸の分野では,モチーフや形状,表現技法などの面で近世以前の古美術を古典として意識した作品が数多く作られるようになりました。それらは古典の単なる焼き直しに終わる作品も少なくありませんでしたが,徐々にその中から古典を表面的に模倣するのではなく,その本質を捉えた上で作家の個性や近代的な進取の精神とを融合した,新味あふれる作品が登場しました。大正時代以降も作家たちは真摯に古典と向き合い,その中にそれぞれが自分なりの美を発見し,新機軸となる作品を生み出していきました。このように古典を昇華して生み出された作品は,伝統保護の重要性を認識していた皇室,宮内省からも高く評価されて展覧会などで買い上げられ,また,皇室への献上を目的に制作された作品にも注目すべきものが多くあります。
本展では,古典に範を取りながらも,明らかな近代的感覚を抱かせる,不思議な魅力をもった近代美術の作品を紹介します。それらを通して明治,大正,昭和,それぞれの時代の作家にとって常に創作の源泉となり得た,日本美術という土壌の豊かさを再認識していただく機会となれば幸いです。

見出された宝物
 蓬莱雲鶴蒔絵書棚    六角紫水ほか    一基     大正6年
 瑞鳥霊獣文蒔絵手箱   六角紫水      一合     昭和3年
東洋の美、新たなる挑戦
 秋爽          小坂芝田      十曲一隻        大正元年
 春庭・秋圃       小室翠雲      対幅     大正8年
受け継がれるやまとのこころ
 渓澗           宇田荻邨      二曲一隻     昭和2年
 秋草流水蒔絵螺鈿棚      川之邊一朝ほか      一基     明治28年
 菊蒔絵硯箱                    赤塚自得       一合     昭和3年
 猿置物         高村光雲       一点     大正12年
近代における神と仏
 養蚕天女        高村光雲       一点     大正13年
 肇国創業絵巻      安田靫彦ほか    二巻のうち      昭和14年
墨の彩り
 唐崎老松図       野村文挙       一面     明治30年頃
 月夜帰牧之図      木島桜谷       一幅     大正3年
 雪渓遊猿之図      山元春挙       一幅     大正4年
 秩父霊峯春暁      横山大観       一幅     昭和3年

上記が後期の出品作品です。

光雲の「猿置物」は別名「猿・三番叟」。

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平成25年(2013)、京都国立近代美術館で開催中された「皇室の名品-近代日本美術の粋」展にも出品されました。今年は申年と云うこともあり、同一題の純金製複製なども販売されています。

「養蚕天女」はその名の通り、養蚕の守護神です。

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帝室技芸員だった光雲の作は、宮内庁にかなり現存します。当方が把握しているだけでも十数点。

「養蚕天女」も二種000類所蔵されており、今回展示される大正13年(1924)のものは、高さ48㌢の比較的大きなものですが、昭和3年(1928)作のものは、約半分の高さ25㌢。

平成23年(2011)、眞子内親王殿下ご成年の際に公開された写真に、そちらが写っています。

皇室と養蚕の関連は深く、今も皇后陛下は明治以来続いている「皇后御親蚕」をされているそうです。


三の丸尚蔵館さんでは、昨年も「第68回展覧会 鳥の楽園―多彩、多様な美の表現」で、光雲木彫を展示して下さいました。今後も続けていただきたいものです。何と言っても入場無料ですし(笑)。


【折々の歌と句・光太郎】

春風や運動会の吹流し          明治33年(1900) 光太郎18歳

最近は5月に運動会をやってしまうという学校も多いようです。考えてみれば、秋に運動会、というのも昭和39年(1964)の東京オリンピックで開会式が行われた10月10日を体育の日、と定めて以来なのかも知れません。

明治期にも5月に運動会というのは一般的だったのでしょうか。それともこの「吹流し」は、鯉のぼりとは無関係のものなのでしょうか。詳細が不明です。

昨年、イギリスのヘンリー・ムーア・インスティ000テュートさんと、武蔵野美術大学さんとの共同企画により、日英それぞれで「近代日本彫刻展(A Study of Modern Japanese Sculpture」が開催されました。

英国展は1月28日~4月19日、日本展は5月25日~8月16日。当方、日本展のみ拝見に行きました。

それぞれ光太郎の彫刻作品も展示されました。英国展では「手」(東京国立近代美術館蔵)、「白文鳥」。日本展ではそれにプラスして、朝倉彫塑館蔵の「手」も。2点の「手」は、ともに大正期に鋳造、台座の制作も光太郎自身と推定されるものです。

関連行事として、昨年の7月17、18の2日間、「国際シンポジウム The Study of Modern Japanese Sculpture」が、武蔵野美術大さんで開催されました。日英、さらに米韓の研究者も参加しての、内容の濃いものでした。こちらは存じませんでした。

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その全ての発表、発言を記録した冊子が先月作成されたということで、当方、武蔵野美術大さんから戴いてしまいました。以前に同展の図録をお送りいただいていましたので、住所等ご存じだったようです。

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一昨日届きまして、一気に読みました。そして、刮目しました。日本近代彫刻の特異性(西洋のそれと比較しての)、その中で光雲・光太郎の系譜が果たした役割などについて、一つの解答が提示されているように感じました。

江戸時代までの仏像彫刻、置物などから、維新後の文明開化の中で、どのように西洋彫刻の概念が取り入れられて行ったのか、そして変容した点としなかった点、さらにロダニズム的なものの受容、そうした中で特異な様相を示した日本近代彫刻。結局、「彫刻とは何か」という根源的な問いにまで遡る必要性があると結ばれ、まだまだ研究の余地はたくさんありそうですが、今後の研究の方向性に大きく啓示を与えるものだと感じました。

冊子は約150ページ、図版も豊富です。市販されず、研究室のプリンタと簡易製本機による制作だそうですが、それではもったいない気がしました。そこで礼状にはぜひ市販する方向でご検討下さい、的なことを書いておきました。

実現して欲しいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

野がくれの葉かげの寂し小花(をばな)にも厳たり神の威は漏らす無き
明治37年(1904) 光太郎22歳

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自宅兼事務所の庭、シロツメクサです。刈っても刈っても繁茂する旺盛な生命力には驚かされます。

長野県安曇野市の豊科近代美術館の学芸員さんから、同館友の会という組織の会報を戴きました。同館は、それぞれ光太郎と親交のあった彫刻家・高田博厚、画家の宮芳平の作品を柱としています。

そんなわけで、連翹忌関連の資料、当方編集の『光太郎資料』などをお送りしており、その添え状に「当方、高村光太郎文筆作品、彫刻・絵画作品等の資料集成をライフワークとしており、光太郎に関する稀少資料(書簡、草稿、揮毫、稀覯雑誌他)を所蔵されている個人、団体等の情報がございましたら、御一報いただければ幸甚に存じます。」と書きましたところ、応えて下さいました。

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送って下さった学芸員さんによる「昭和6年に出した2枚のハガキ」という記事が載っており、未知の光太郎書簡が紹介されていました。宛先は滞仏中の高田博厚。高田に宛てた光太郎書簡はこれまで確認できていなかったので、驚きました。さらに戦前、それからフランスに送った外信用はがきというのも驚きです。

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内容的には身辺近状の報告といったところですが、面疔を病み半強制的に入院させられたこと、「ロマン・ロラン友の会」で一緒だった片山敏彦や、パリで客死した平林初之輔などに触れており、興味深いものでした。

「僕も仕事に精進してゐます」という一節があります。しかし、この直後、智恵子の心の病が顕在化し、その看病のため、光太郎はしばらく彫刻不可能の状態に陥ります。そうした史実を踏まえて読むと、心が痛みます。

以前にも書きましたが、筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』第21巻には、書簡宛先の人名索引が載っています。しかし、あるべきはずの名前が抜けていたりします。たくさん手紙を送っていたはずの人の名がないということで、その人あての書簡が見つかっていないのです。例えば有島兄弟、石井柏亭、志賀直哉、梅原龍三郎、岸田劉生、黒田清輝、深沢省三・紅子夫妻、吉井勇などなど。また、与謝野晶子や荻原守衛、武者小路実篤、川路柳虹、佐藤春夫などにあてたものは、それぞれ1~2通ずつしか見つかっていません(晶子、武者、佐藤あてはここ数年で見つけましたがそれでも1通ずつです)が、もっともっとあったはずです。
 
受けとった人自身が処分してしまったか、関東大震災や太平洋戦争などで焼失してしまったか、それとも人知れず眠っているかと言ったところですね。
 
新たな書簡により、少しずつ空白が埋まり、光太郎の新たな一面が見えてくるものです。人知れず眠っているものの発掘をライフワークの一環として続けて参りますので、ご協力をよろしくお願いします。


【折々の歌と句・光太郎】

春風やアルプスの雪遠く白し     明治42年(1909) 光太郎27歳

スイス経由イタリア旅行中の吟で、ここでいう「アルプス」は本物のヨーロッパアルプスのことです。

日本の中部地方には日本アルプスがあり、毎年、4月22日には、その麓の安曇野市碌山美術館さんで、光太郎の盟友・荻原守衛を偲ぶ「碌山忌」が開催されています。毎年、寄せていただき、今年も行く予定でした。さらに近くにあるいろいろな美術館さん、文学館さんに立ち寄るのも楽しみで、今年は豊科近代美術館さんに寄ろうと心に決めていました。

しかし今年は碌山忌当日に当方居住地の自治会長の集まりがあり(今年度、町内会長をやっております)、泣く泣く欠礼することにしました。

夏には碌山美術館さんで「夏季特別企画展 光太郎没後60周年記念 高村光太郎-彫刻と詩-展」があり、関連行事としての講演を頼まれておりますので、その機会に伺いますが、残念です。

光太郎の父・高村光雲がらみの情報です。

東京表参道にイスムさんという仏像専門店があります。1階が仏像ワールド、地下1階がイスムというそれぞれのブランドで、ギャラリー的に仏像を展示、販売されています。

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興福寺さんの阿修羅像、中宮寺さんの弥勒菩薩半跏思惟像などの国宝等のレプリカ、現代の仏師の作品などが常時展示されており、表参道という場所柄、ちょっと異質な空間なので、テレビで最近流行の「散歩」番組などでも取り上げられていました。それぞれオンラインショップも展開している、新しい形の仏像専門店です。

その仏像ワールドさんでのイベントをご紹介します。 

決算特別企画 純金・銀製仏像・仏具特別受注会

会  期 : 2016年3月15日(火)~31日(木)
会  場 : イスム表参道店1F 東京都渋谷区神宮前5-48-3 サンエムビル
時  間 : 11時~20時

昨年の中国株の大暴落に端を発し、米国経済の先行き不透明感による世界的な株安不安、そして我が国でも1月29日に日本銀行がマイナス金利政策の導入を決定したことによって、ペーパー資産に対する不信感が一層拡大し、金などの実物資産に興味を示す富裕層が増えています。
仏像ワールドではこうした動きにお応えして、純金や銀などの貴金属素材で作られた仏像や仏具の特別受注会をイスム表参道店にて開催致します。会期中は日本彫刻会の巨星高村光雲の銀製聖観世音菩薩像を始め、銀製の十二支守り本尊、銀製御鈴などの展示即売会を開催致します。
また、純金製仏像・仏具の特別受注会も同時開催となります。
銀製、純金製共に日頃のご愛顧に感謝し、通常小売価格より大幅割引にてのご提供とさせて頂きます。資産としても、美術工芸品としても一級の価値を持つ名品ばかり、この機会に是非お求めください。

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上野恩賜公園の『西郷隆盛像』、皇居前広場の『楠公像』、東京国立博物館像重要文化財『老猿』の作家であり、日本彫刻界を代表する巨匠 高村光雲の作品は、明治期の躍動する魂の力強さ、深遠な美の化身ともいうべき優しさを兼ね備えています。この度ご紹介する作品は光雲の傑作が銀や金といった貴金属素材によって一層輝き増し、そのどれもが家宝にも相応しい逸品です。作品全ての桐箱には高村光雲が使用していた落款を捺印させてお納めいたします。


というわけで、純銀製の光雲の木彫レプリカが中心だそうです。

銀製 聖観音 高村光雲原型
材質 銀925 サイズ(cm)高さ20×幅6.5×奥行6.5 重量約421g 販売価格(税別)\330,000 \264,000

銀製 大黒天 高村光雲原型
材質 銀925 サイズ(cm)高さ13.5×幅6.7×奥行6.5 重量約519g 販売価格(税別)\270,000 \216,000

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銀製 大黒天 高村光雲原型
材質銀925 サイズ(cm)高さ20×幅10×奥行9 重量約1,340g 販売価格(税別)\720,000 \576,000

銀製 恵比寿 大黒天 高村光雲原型
材質銀925 サイズ(cm)各高さ7.5×幅5.2×奥行5 重量各約184g 販売価格(税別)\270,000 \216,000
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それぞれ純金での制作も可能だそうです。

和テイストのインテリアとしてもいいように思います。当方ごときでは、とても手が出ませんが(笑)。


【折々の歌と句・光太郎】

大男ふたり添へたる金仏(かなふつ)にことしも会ひぬ語(ご)無きに似たり
明治36年(1903) 光太郎21歳

というわけで、仏像関連の歌です。「金仏」は東大寺の大仏、「大男ふたり」は南大門の金剛力士像でしょう。

この年、光太郎は東京美術学校彫刻科の研究科に在学中。5月に与謝野鉄幹らと関西に出かけ、新詩社関西清話会に出席しています。それ以前にも光太郎は、修学旅行で東大寺を訪れたことがあります。

大仏様の右の手は「施無畏(せむい)」の相。のちの光太郎の代表作、ブロンズの「手」につながります。

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NHKさんで現在放映中の連続テレビ小説「あさが来た」。主人公・白岡あさのモデルとなった広岡浅子を始め、成澤泉こと成瀬仁蔵、田村宜こと井上秀など、光太郎智恵子と縁のあった人々が登場しています。

昨日のこのブログで書きましたが、光太郎の父・光雲と縁のあった人物も既に登場しています。松坂慶子さん演じる大隈綾子です。

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昭和4年(1929)、萬里閣書房から刊行された『光雲懐古談』という書物があります。大正11年(1922)から、光太郎と、光太郎の友人で作家の田村松魚が光雲の談話を聴き、田村がそれを書き留めたものが中心になっています。

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その中に、「大隈綾子刀自の思い出」という一項が設けられています。田村による聞き取りが行われていた大正12年(1923)、綾子が亡くなったことを受け、ちょうどいいい機会だから、と語ったものです。

それによると、綾子は御徒町に住んでいた旗本・三枝家の娘で、その三枝家が光雲の師匠・東雲の得意客であったことに端を発します。

一度は東雲が間に入って綾子が大工棟梁の家に嫁いだり(程なく不縁となり、出戻りましたが)、東雲が三枝家の屋敷を買い取ったり(移築されて、後に徴兵逃れのため光雲の養母となる東雲の姉・悦が暮らしました)、綾子の兄で当主の竜之介が東雲に大黒様の像を彫って貰ったところ、間もなく綾子と大隈重信の結婚がまとまり、大黒様の御利益だと評判になって、三枝家の親類筋からも大黒様の注文が入ったり……若き日の光雲はそうした経緯をそばで見聞きしていました。

また、綾子が大隈家に嫁いだ後、綾子が実家に残した厖大な「南無阿弥陀仏」の願文を、光雲が師匠に命じられて、川施餓鬼の時に、二、三時間かけて吾妻橋から隅田川に流したこともあるそうです。

光雲の綾子評。

噂に聞けば大隈夫人綾子と云ふ人は、大層よく出来た人だとの評判であるが、成程、娘時代からあれ丈けの辛抱をして心を錬つて居られた丈あつて、今日天下一二と云はれる政治家の夫人となつてもやはりその妻としての役儀を立派に仕終せるといふは、心掛けがまた別なものであるかと感心したことでありました。

綾子が亡くなった後、綾子の過去に関する誤った風聞――光雲曰く「元、料理屋の女中であつたなど、誰々の妾であつたなど」――が広まり、それを憂えた光雲が、懐古談の中で、特に綾子の話をしたというわけです。

ところで、年令の関係ですが、光雲は嘉永5年(1853)の生まれ。綾子は2つ上の嘉永3年(1851)生まれです。ちなみに広岡浅子は嘉永2年(1850)生まれ。浅子の方が年上です。

「あさが来た」では波瑠さん(あさ)と松坂慶子さん(綾子)で、どう見ても綾子の方が年上に見えますが、そこはドラマの演出上、仕方がないのでしょう。


ところで光雲の語った「大隈綾子刀自の思い出」、「青空文庫」さんで読むことが出来ます。ぜひお読み下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

春をりをり雨の寒さよ一人旅       明治42年(1909) 光太郎27歳

やっと暖かくなったと思ったら、寒の戻りで冷たい雨。「三寒四温」とはよく言ったものですね。

一昨日の『日本経済新聞』さんの教育面に載った記事です。 

キャンパス新発見 日本女子大 建学の精神伝える講堂 1階700席、最近まで活用

 日本女子大学目白キャンパス(東京・文京)の正門をくぐると、右手に教会を思わせる木造の建物が見えてくる。成瀬仁蔵による建学の精神を今に伝える成瀬記念講堂だ。
 1901年(明治34年)、成瀬は大隈重信、渋沢栄一、広岡浅子ら多くの支援者を得て日本女子大学校を創立する。5年後には講堂が完成。2階に書架を備え、「日本唯一の婦人図書館」として一般開放を考えていたという。
 しかし相次ぐ災害が講堂を襲う。14年には火災が発生し、図書館計画が頓挫。関東大震災ではレンガが崩れるなど大きな被害に見舞われた。その後の修復工事で木造に改築された。
 講堂内部は創建当時の姿を今に伝えている。特徴的なのは天井部分。広い天井と独特なはりの形は西洋の教会のよう。日本では珍しいハンマービーム工法と呼ばれる建築方法だ。演台の上にある成瀬の胸像は高村光太郎の作。ステンドグラスも当時のままだ。貴重な建築物として、東京都文京区の有形文化財に指定されている。
 講堂には1階に約700席、2階に約400席があり、1階部分は最近まで式典や講演などで使っていた。歴代校長・学長が受け持つ授業もここで行われたという。創立者が書いた建学の理念を示す言葉が飾られるなど、「宗教色がない学校の校風を醸成する場でもあった」(成瀬記念館学芸員の岸本美香子さん)。
 現在は耐震工事を控えて一般公開はしていないが、講堂のすぐ近くにある成瀬記念館では創立者の生涯を常設展示している。4月8日までは「女子大学校創立の恩人―広岡浅子展」を開催中。NHK連続テレビ小説「あさが来た」のモデルとなった広岡が成瀬宛に出した書簡や、写真などを展示している。記念館は一般の人も見学できる。

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というわけで、NHKさんの「あさが来た」にからめ、光太郎作の成瀬仁蔵胸像が納められた成瀬記念講堂が紹介されています。

以前にも書きましたが、この像は成瀬が亡くなる直前の大正8年(1919)に、光太郎に制作が依頼されました。ところが像はなかなか完成せず、結局、14年かかって、昭和8年(1933)にようやく完成。別に光太郎がサボっていたわけではなく、試行錯誤の繰り返しで、作っては毀し、毀しては作り、光太郎自身の芸術的良心を納得させる作ができるまでにそれだけかかったということです。

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画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

いい加減なところで妥協して「はい、完成」とはしない、こうした光太郎の制作態度は、智恵子の絵画制作にも影響を与えたかも知れません。心を病む直前の智恵子も、取りかかった絵画を結局完成させられなかったことがたびたびあったということです。そしてそれが智恵子の場合、どんどん自信の喪失に繋がっていったようです。

さて、「あさが来た」。先頃、新キャストの発表が行われました。その中で、智恵子と同じ家政学部の1級上でテニス仲間、のちに『青鞜』を主宰し、智恵子にその表紙絵を依頼した平塚らいてうが登場することが明らかになりました。演じるのは元AKB48の大島優子さんです。実際のらいてうによく似ていますね。

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残念ながら「長沼智恵子」の名はありませんでしたが、ちょい役でもいいので、智恵子らしき人物程度でも登場して欲しいものです。

また、以前のこのブログで、日本女子大学校名物で、寮では智恵子が一番に乗りこなしたという自転車について書きました。やはり予想通り今週の放映で、自転車の話になるようです。ただ、あさ、女子大学校ではなく、大阪の銀行の前で練習していますね。

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本篇が駄目なら、スピンオフで、と期待していましたが、やはり先頃発表されたスピンオフ(4/23・BSプレミアム)の内容は、三宅弘城さん演じる加野屋で中番頭を務める亀助が主人公の物語で、女子大学校創立前の話だそうです。


ところで、すでに何度か登場していますが、若い頃の光雲と縁の深い女性も、重要な役どころで出ています。明日はその辺を。


【折々の歌と句・光太郎】

雨降れば羅馬はくらし桃の花       明治42年(1909) 光太郎27歳

「羅馬」は「ローマ」の漢字表記です。

ローマを含むイタリアでは、昨日、3月8日は「ミモザの日」だったそうです。男性が日ごろの感謝の意を込めて、女性にミモザの花を贈る習慣があるとか。

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当方自宅兼事務所の庭のミモザも咲き始めました。

昨日は、同時に「国際女性デー」でもあったそうです。国連主導で、女性の平等な社会参画などが呼び掛けられています。そう考えると、100年以上前の日本で、すでにそうした動きを進めていた広岡浅子や平塚らいてうの先駆性は、やはり凄いことだったのだと思います。

雑誌の新刊です。 

月刊『美術手帖』2016年3月号「超絶技巧!!宮川香山と明治工芸篇」

2016/02/17 美術出版社 定価1,600円+税

SPECIAL FEATURE 超絶技巧!! 宮川香山と明治工芸篇 山下裕二=監修
PART1 “美しい畸形”の陶芸家を再発見せよ! 宮川香山
PART2 極限の技が炸裂する、職人魂に驚嘆! 明治工芸の“必殺”仕事人!!
PART3 3人の現代作家が迫る、技巧と表現の世界 現代の超絶技巧

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少し前から再評価が進んでいる明治工芸、いわゆる「超絶技巧」の特集です。

メインで取り上げられているのは、真葛焼の陶工・宮川香山ですが、「PART2 極限の技が炸裂する、職人魂に驚嘆! 明治工芸の“必殺”仕事人!!」で、光太郎の父・光雲も取り上げられています。

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また、光雲が代表作の一つ、「老猿」を出品した万国博覧会や、光雲も任ぜられた帝室技芸員制度などにも触れ、非常に示唆に富んでいます。

京都清水三年坂美術館さんの収蔵品による、いわゆる「超絶技巧」の数々を集めた企画展。光雲の木彫も展示され、一昨年の日本橋三井記念美術館さんを皮切りに、静岡佐野美術館さん、山口県立美術館さん、福島郡山市立美術館さん、富山県水墨美術館さんと巡回し、昨年末の岐阜県現代陶芸美術館さんでとりあえず終わりました。その間にはNHKさんの「日曜美術館」でも取り上げられています。

一過性のブームで終わることなく、今後も広く取り上げられてほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

ちちのみのちち老いましてよねんなくしごとしたまふ春あさき日を
昭和8年(1933) 光太郎51歳

晩年の光雲を謳った短歌です。「ちちのみ」は「父のみ」。光雲妻・わかに先立たれたことを表します。

光太郎の父・光雲の作品が並ぶ企画展の情報です。 

かざり -信仰と祭りのエネルギー

会 期 : 平成28年3月1日(火)~5月15日(日)
会 場 : MIHO MUSEUM 滋賀県甲賀市信楽町田代桃谷300
時 間 : 午前10時~午後5時
休館日 : 毎週月曜(3月21日は開館)、3月22日
料 金 : 一般1,100円 高大生800円 小中生300円

煌びやかな仏教荘厳の世界、伎楽や舞楽の色彩と歌舞の世界、信仰の中の動物たち、祭りの賑わいなど、「かざり」をキーワードに日本人の精神世界を読み解いていく展覧会が、MIHO MUSEUMで開催されます。深く仏教に帰依した伊藤若冲の「鳥獣花木図屏風」(展示3月1日~4月17日)と「樹花鳥獣図屏風」(展示3月1日~13日)との競演や、滋賀県の水口曳山祭、大津祭、長浜曳山祭を彩る曳山懸装品など、神仏への信仰に根ざした「かざり」の世界が幅広く展観されます。

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毎年9月、神奈川横浜伊勢佐木町の日枝神社例大祭で街を練り歩く、光雲の手になる「火伏神輿」及び「獅子頭」が展示されます。当方、一度、現物を見て参りましたが、ともに見事な作でした。

ともに普段は神奈川県立歴史博物館に展示されていますが、この企画展のために貸し出すそうで、搬出の様子がTVKテレビ神奈川さんのローカルニュースで取り上げられました。

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お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

正直にまをせばかかる荒山に棲む四足のわれは族かも
大正13年(1924) 光太郎42歳

昨日ご紹介した短歌同様、自らの内なる荒ぶる獣性を謳った歌です。「まをせば」は「申せば」。

一昨日拝観した、神奈川県立県立近代美術館・鎌倉館さんの最後の企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」レポートの2回目です。

水沢勉館長のトークを聞き終え、いよいよ展示を拝見しました。

光太郎作品は2点。

2階の第一展示室に入ってすぐ、油絵の「上高地風景」(大正2年=1913)。下記はNHKさんの「日曜美術館」から採らせていただきました。左端が「上高地風景」です。

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智恵子との婚約を果たした信州上高地での作品です。昨年3月、山岳雑誌『岳人』さんの特集記事として、「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」の一部を執筆させていただきましたが、その中でこの絵も紹介しました。この際には、同館からポジをお借りして誌面を飾らせていただきました。

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「こんなに大きな絵だったっけか?」というのが正直な感想でした。この絵の実物を見るのは4度目くらいのはずですが、過去3回は他の光太郎絵画と共に展示されたのを見ており、この絵だけの印象はあまり残っていませんでした。

改めてよく観てみますと、フォービズム風の荒い筆触、色遣いの中にも繊細な神経が行き届いており、さらにやはり画面の大きさからくる迫力に圧倒されました。


続いてブロンズの「裸婦坐像」(大正6年=1917)。光太郎が敬愛したロダンの「花子の首」と同じコーナーに並んでいました。光太郎メインの企画展で、ロダン作品を参考出品することはよくありますが、それとは違った主旨で2人の作品が同じコーナーに並んでいることに感慨を覚えました。しかも、モデルの女優・花子はロダンのモデルを務めたほとんど唯一の日本人ということで、光太郎は昭和2年(1927)、郷里の岐阜に花子を訪ね、その模様を評伝『ロダン』に書き残しています。

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前列中央が「裸婦坐像」、左端が「花子の首」です。その間にはブールデル、後列には中原悌次郎など、やはりロダン、光太郎と縁の深い作者の作が並んでいます。


その他、柳敬助、梅原龍三郎、松本竣介、難波田龍起といった、光太郎と縁の深かった人々の作品なども興味深く拝見しました。


再び1階に下りました。館長トークの間に、こんなコーナーがあったのに気付いていて、そちらを拝見しました。

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来館者の皆さんが、自由にメッセージを書き込み、それが掲示されています。

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「日曜美術館」にもそういう部分がありましたが、スタッフ以外にもこの館に対する深い思い入れを持つ方が、非常にたくさんいらっしゃるようです。

こんな書き込みも。「裸婦坐像」についてでしょう。

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企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」、1/31(日)までです。そして最終日には閉館を迎えます。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】無題

少女子は兎の族(やから)ま裸になりてきよとんと坐りたるかも
大正15年(1926) 光太郎44歳

「少女子」は「おとめご」。時期的に少しずれていますが、「裸婦坐像」制作に関わるかもしれません。

詩人の真壁仁による「高村先生の彫刻」(昭和27年=1952)には次のように記されています。

「裸婦」はよく夫人をモデルにした作と思われているが、実際は百合子という横浜のチャブ屋の女である。チャブ屋の生活を嫌ってその女が逃げ出してきたとき、先生は一時かくまってあげた。そのとき、モデルになるかと言ったら、なるというので、先生は彫刻にこさえ、夫人は油絵に描いた。そんな商売の女と思えないほどいいからだだったそうである。

昨日は鎌倉に行っておりました。

今月いっぱいで閉館する神奈川県立近代美術館・鎌倉館さんの最後の企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」を見て参りました。

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同館は昭和26年(1951)開館、日本で最初の公立近代美術館、世界で3番目の近代美術館という歴史ある館です。2代目館長の土方定一は、文学趣味もあり、草野心平主宰の『歴程』同人で、その縁もあって、光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の在京建設委員に名を連ねるなど、光太郎と縁が深かった人物です。

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その関係もあって、光太郎が歿した昭和31年(1956)、「高村光太郎智恵子展」が初めて開催されたのがこちらです。

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もう少し早く行きたかったのですが、いろいろあり、また、昨日は午後2時から水沢勉館長のトークがあるということで、昨日に致しました。

鎌倉に着いたのは午後1時過ぎ。運良く八幡宮西側の、最も近い有料駐車場に車を入れることが出来ました。昼食は門前で蕎麦でも、と思っていましたので、途中で食べませんでした。昼食の前に券だけ買っておこうと思い、受付を目指すと、なんとまあ、長蛇の列でした。並ぶこと30分くらい。結局、昼食は後回しにしました。

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長年、この鎌倉の地で親しまれてきた館ですので、別れを惜しむ人々の来訪が絶えないのでしょう。また、元々休日でしたし、さらに、企画展も光太郎を含め、内外の有名作家の作品がたくさん出ており、それに加えて水沢館長のトークもあるということで、こうなったと思われます。

それから、先月にはNHKさんの「日曜美術館」で、「さよなら、わたしの美術館~“カマキン”の65年~」の放映があり、それがまたいい内容でしたので、それも大きいのではないでしょうか。

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番組では水沢館長、今回の企画展を担当された主任学芸員の長門佐季さん、そして、かつてこの館にスタッフとして関わられた皆さんの思いが語られました。

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館の建物自体が、ル・コルビジェに師事した建築家・坂倉準三の設計で、モダニズム建築の逸品です。そこでともに写真撮影が趣味だという、伊藤敏恵アナと共に司会を務める俳優の井浦新さん、ゲストで鎌倉出身・女優の鶴田真由さんが、館内外で入魂の写真撮影。

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当初は、閉館後は取り壊される予定でしたが、建築史的に貴重ということで、保存されることになりました。


さて、中に入って、展示の観覧は後ほどにし、まず水沢館長のトークが行われる中庭へ。こちらは光太郎とも縁のあったイサム・ノグチの作品です。

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定刻の2時少し前、水沢館長がご登場。トークが始まるまでの間、お話をさせていただきました。水沢館長は、平成25年(2013)に、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展の愛知碧南会場・藤井達吉現代美術館さんで記念講演「高村光太郎 造型に宿る生命の極性」をなさり、当方、それを拝聴、さらに帰りの新幹線でご一緒させていただきました。その後も長門さんともども、一昨年の連翹忌にご参加下さいました。

まだ先の話ですが、今回閉館する鎌倉館とは別の鎌倉別館で、平成31年(2019)かその翌年に、光太郎智恵子展をやりたいとのことです。別館も近々大がかりな改修工事が入るそうで、それが終わってからのことになります。ありがたいことです。
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水沢館長のトーク、黒山の人だかりとなりました。

鶴岡八幡宮の一角に、回廊(ピロティ)のようなスタイルで造られたこの館、まるで絵馬堂のようだというお話。さらに光太郎とも縁の深かった村山槐多やイサム・ノグチのお話。示唆に溢れるものでした。


その後、実際に展示を拝見しましたが、長くなりましたので、また明日。


【折々の歌と句・光太郎】

なびき行く野火の烟を指さして星なき宵よ友と別れし
明治34年(1901) 光太郎19歳

この年1月3日、与謝野鉄幹・晶子夫妻の新詩社の集まりが鎌倉で行われ、由比ヶ浜で焚き火をして20世紀の迎え火としたそうで、その際の作です。

水沢館長他、近代美術館鎌倉館に関わった人々の思いは「友と別れ」るようなものなのではないでしょうか。

兵庫県姫路市から、光雲がらみのイベント情報です。 

ちょこっと関西歴史たび 書寫山 圓教寺

 JR西日本では、平成25年春から、「歴史を知ると散策がさらに楽しくなる」をテーマに、地域と連携し、個人やグループのお客様でもお楽しみいただける期間限定の特別公開、特別講座など魅力的な企画をご紹介する「ちょこっと関西歴史たび」キャンペーンを四季ごとに開催しております。
 平成27年度冬季は、映画のロケ地としても有名な「書寫山 圓教寺(兵庫県姫路市)」を取り上げます。キャンペーン期間中は、通常非公開の「六臂如意輪観音像(ろっぴにょいりんかんのんぞう)」を特別公開するほか、国指定重要文化財の「四天王像(してんのうぞう)」をはじめ寺宝の特別公開など、さまざまな特別企画をご用意いたします。

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期間
 平成28年1月9日(土曜日)から3月31日(木曜日)
開催場所
 書寫山圓教寺(兵庫県姫路市)
協力
 姫路市、公益社団法人姫路観光コンベンションビューロー、神姫バス株式会社
拝観時間
 8時30分から16時(3月1日以降は17時)
 ※注釈 入山時、志納金として500円をお願いしております。(中高生以下、無料)
アクセス
 JR神戸線「姫路駅」より神姫バスで約30分、その後ロープウェイで約4分。
    摩尼殿(まにでん)まで徒歩20分。
 ※注釈 ロープウェイは毎時15分ごとに発車

キャンペーン特別企画
「六臂如意輪観音像」特別公開
 摩尼殿本尊。通常年一回、1月18日の鬼追い会式の時にだけ開帳される六臂如意輪観音像を特別拝観できます。
 ・期間
 平成28年1月9日(土曜日)から3月31日(木曜日)
 行事のため、毎月28日および1月18日(月曜日)、2月3日(水曜日)、3月21日(月曜日)
 の13時から15時はご覧いただけません。
 ・場所・時間
 場所 摩尼殿、公開時間 9時から16時(3月1日以降は17時まで)
 ・料金
 無料(予約不要)

この「六臂如意輪観音像」が光雲作のようです。また、やはり光雲作の鬼の面―1/18(月)に開催される修正会(しゅしょうえ)=鬼追い式会で使用されるもの―も展示されているようです。

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気付くのが遅れ、ご紹介するのが遅くなってしまいました。申し訳ありません。

秘仏の御開帳といえば、昨年は高野山金剛峯寺で開創1200年記念大法会があり、やはり光雲作の秘仏・薬師如来が初公開されました。こういうケースはまだまだあるのでしょうね。


【折々の歌と句・光太郎】

いかにして何をたのみしわれならむつひに消ゆべき此の光なり
明治34年(1901) 光太郎19歳 

何やら宗教的な煩悶といったものが背後に見えるような気がします。

翌年には東京美術学校彫刻科の卒業制作で、日蓮の塑像である「獅子吼」を作り、田中智学の法華経に熱中して本門寺の説教に通ったり、光雲の高弟・平櫛田中の手引きで西山禾山の臨済禅の提唱を聴いたりしています。

やはり幼い頃から仏師としての光雲の姿を見て育ち、「仏」の世界を身近に感じていたのでしょう。

一昨日、東京本郷で、当会顧問にして光太郎研究の第一人者・北川太一先生を囲む新年会に参加していまいりました。

この会には、早めに自宅兼事務所を出、そう遠くない場所にある、光太郎智恵子にからむ施設を訪れてから参加することにしています。一昨年は太平洋画会での智恵子の師・中村不折を紹介する台東区立書道博物館さん、昨年は、光太郎彫刻「黒田清輝胸像」が出迎えてくれる東京国立博物館黒田記念館さん。

今年は光太郎と同時代の彫刻家・朝倉文夫の旧居を改装して作られた、台東区立朝倉彫塑館さんに足を運びました。

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朝倉は光太郎と同じ明治16年(1883)、大分県の生まれ。やはり東京美術学校彫刻科出身(学年はずれていますが)です。国指定の重要文化財「墓守」や、たくさん作った猫の彫刻で有名です。

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留学の経験はなく、長沼守敬などから続く穏健な作風を継承し、光太郎や荻原守衛などのロダニズムとは一線を画しています。彫刻家として独り立ちしてからは、文展などのアカデミズム系を活躍の場としていました。そのため、光太郎はその作を余り高く評価していません。新聞等に発表した文展などの観覧記では、酷評を与えています。

当方、朝倉の作品をまとめて観るのは初めてでしたが、これはこれで美術史上、重要な位置を占めるものだと思いました。こうしたアカデミズム系の流れがあるから、光太郎や守衛の彫刻の特異性が際立つわけで、光太郎や守衛を飛沫を上げて迸る奔流、激流とすれば、朝倉はとうとうと流れる穏やかな大河、といった印象を持ちました。

建物自体も国の有形文化財に登録されています。昭和10年(1935)に完成したそうですが、アトリエ部分のおそろしく高い天井、茶室まで構えた純和風の居住空間、4階にあたる屋上に造られた庭園など、興味深く拝見しました。同じ区域と言っていい光太郎のアトリエが、昭和20年(1945)の空襲で灰燼に帰したのが、返す返すも残念です。

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残念、と言えば、同館には光太郎の代表作の一つ、ブロンズの「手」―それも大正期に鋳造され、台座の木彫部分は光太郎が彫ったもの―が収蔵されているのですが、展示されていなかったことです。昨年、武蔵野美術大学美術館さんで開催された「近代日本彫刻展」で、現物は見ていますが。


さて、朝倉彫塑館を後に、本郷までぶらぶら歩き、北川先生を囲む新年会に出席いたしました。


その後、地下鉄で銀座に出ました。次なる目的地は、東銀座の「いわて銀河プラザ」さん。岩手県のアンテナショップです。

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過日、このブログでご紹介した、「高村光太郎記念館をたずねて」という記事の載った花巻市発行の情報誌『花日和』をゲットするのが目的で、ちゃんと置いてありました。

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ところで、意外と思える程に多くのお客さんで賑わっていました。東日本大震災からの復興支援にもつながりますので、ありがたいことです。当方も愚妻の好物・ゆべしと、帰省している息子の好物の100%林檎ジュースを購入しました。驚くほど安い価格でした。だから繁盛しているのか、と納得しました。

皆様も是非足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

倦めば楽(がく)さむれば匠(たくみ)ぬればうた老(おい)はわが世の道になきもの
明治35年(1902) 光太郎20歳

今日は成人の日です。当方の息子も新成人ですが、当方の住む市では昨日、成人式が行われました。

というわけで、光太郎20歳の歌。

「匠」=彫刻、「うた」=短歌や詩、「楽」は音楽だと思いますが、光太郎が神田の高折周一音楽講習所でヴァイオリンを習い始めるのはこの2年後なので、今一つ謎です。聴くのは既に好きだったということでしょうか。やることが多すぎて、自分が老いることなど考えられないという青春の日々です。

現代の新成人諸君もそうなのでしょうが、光太郎のように、何度もつまづきながらであっても、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」という気概で、自分の道を切り開いていってほしいものです。

昨日の『日本経済新聞』さんの紙面から。 

生きる命 十選 掌編の試み (1)高村光雲「老猿」

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作家の丸山健二氏が、「危機と緊張感に満ちた生をおのれの本能と才知のみで生きる命」を宿した美術品10種を選び、それぞれを評する連載です。「掌編」と謳っており、評と言うより、短編小説の趣さえあります。

第1回で、光雲作の「老猿」を取り上げて下さいました。「感情や本能の高い障壁を乗り越えてきた証としての、強い意志に支えられた心組み」を持ち、「深い孤独を背負ってはいても、しかし、鋭い眼光には啓発されること大なるものがあり」、「心魂の奥深くには、他者の心中を思いやる、門外不出の宝物を秘めている」と描写されます。

そのまま作者・高村光雲その人を評しているようにも感じられます。そして、そうした血脈は、長男・光太郎にも受け継がれているのではなかろうかとも思いました。

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左が光雲、右が光太郎。明治24年(1891)、光雲39歳、光太郎8歳のカットです。


さて、「老猿」。上野の東京国立博物館さんに収められ000ていますが、残念ながら現在は展示されていません。同館では「博物館に初もうで」ということで、「えとの申の特集、そして松竹梅に鶴亀など、吉祥をテーマにした作品の数々」などを展示中ですが、「老猿」はラインナップに入っていません。なんだかもったいないような気がしますが、作品保護などの観点もあって、「あるから展示する」というわけにもいかないのでしょう。

一昨年昨年と、夏の時期に展示されていますので、今年もそうなるのかな、と思っています。

詳細が解りましたらまたお知らせいたします。


【折々の歌と句・光太郎】001

寒き日の自炊の水を運びけり
明治39年(1906) 光太郎24歳

画像は我が家の「老猿」ならぬ「老犬」です。つい先だって、12歳になりました。寒くなるとこの犬の水も凍るのですが、今シーズンはまだそうなっていません。

ここ数日、関東地方は記録的な暖かさでしたが、このあとは冬らしくなるそうです。

光太郎の父・光雲関連情報を2件。 

知恩院 秋の紅葉ライトアップ2015

期 間 : 2015年11月6日(金)~12月5日(土)
 間 : 17時30分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 ) 友禅苑、阿弥陀堂、黒門
  : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)
       団体割引 大人30名以上、1割引き
 
後 援  : 京都府、京都市、(公社)京都府観光連盟、(公社)京都市観光協会、
          (公財)京都文化交流コンベンション  ビューロー、京都商工会議所
協 賛  : 京阪電気鉄道(株)、古川町商店街振興組合、宮崎友禅翁顕彰会

今年の知恩院ライトアップは友禅染の創始者宮崎友禅斎を祀る庭園「友禅苑」、阿弥陀如来坐像をお祀りする「阿弥陀堂」、紅葉の名勝である「黒門」をライトアップします。
また、阿弥陀堂前にて献灯ロウソクを実施いたします。
ロウソクの灯りとLEDライトを積極的に使用して、節電に取り組んでいます。

主な見どころ】
 友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎ゆかりの庭園。池泉式庭園と枯山水で構成され、補陀落池は高村光雲作の聖観音菩薩立像が佇んでいます。移ろう季節の中で、秋の趣を感じることが出来ます。
 
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 阿弥陀堂
明治43(1910)年に再建。本尊は御身丈2.7mの阿弥陀如来坐像。様々な法要儀式を執り行う堂宇です。堂内に並べられている木魚は自由に叩いて頂けます。法然上人のみ教え「お念仏」に触れて下さい。
※法要儀式のため閉門する場合がございます。
 
 黒門
徳川将軍家による寺領拡大と共に組まれた石垣と、桃山城より移設した城郭風の黒門が特徴で、現在では知恩院境内有数の紅葉の名勝となっており、背景に京の街並みを見渡すことができます。
 
 献灯ロウソク
ライトアップ期間中、知恩院の阿弥陀堂前で献灯ロウソクを行います。献灯台へ祈りの灯をお捧げください。

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知恩院さんに鎮座まします光雲原型の観音像、この春に拝見して参りました。

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こちらが紅葉をバックに光の中に浮かび上がるとなると、さぞ幻想的でしょう。


もう1件、東の京からです。

上野の東京国立博物館(トーハク)内のミュージアムショップさんで、新製品がお目見えしました。 

精密複製彫刻 高村光雲作 老猿

商品コード : BI-132
価   格  : 39,960 円(税込み)
素   材  : ポリストーン(石粉、合成樹脂混合)
サ イ ズ  : 高さ200mm 幅190mm 奥行き160mm
重   量  : 1,250g
カ ラ ー   : 木肌色(所蔵作品に基づく着色)
※飾り板付属

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同館に所蔵されている、ご存じ重要文化財「老猿」のレ無題プリカです。

少し前には田中貴金属ジュエリーさんの純金製置物「申」をご紹介しましたが、来年が申年ということも関係しているのでしょうか。

ちなみにトーハクミュージアムショップさんでは、もう1点、「ボトル栓 老猿」という商品も扱われています。こちらは新製品というわけではないようですが。

また、オンライン販売はありませんが、「老猿」のポストカードも販売されています。

これを機に、「老猿」グッズがもっと増えてほしいところです。俵屋宗達の「風神雷神図屏風」、伝・鳥羽僧正作の「鳥獣戯画」などは広く商品化されています(当方もいろいろと愛用しています)。近代物は難しいのかもしれませんが。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月5日

昭和27年(1952)の今日、即興詩「(四つの仮面は)」を作りました。

  (四つの仮面は)

 四つの仮面は不可避の造型
 踊り静まる勘紫乃を
 おれの手のやうな手が
 つつむ
 幕がおりる

筑摩書房『高村光太郎全集』第19巻の解題を引き写します。

 昭和二十七年十一月五日夜、帝国劇場で催された藤間勘紫乃舞踊発表会のプログラムに書き付けられた。当日上演された「四つの仮面舞踊の為のエチユード」と題する作品のための詩は、Ⅰ不安、Ⅱ戦争、Ⅲ苦悶、Ⅳ希望の四部に分れ、作詩者は草野心平だった。美術担当は岡田謙吉で、舞台装置の中央に、光太郎の彫刻「手」に似た向かい合う二つの手首が作られていた。光太郎は当夜、デザイナー石井荘男の乞いにまかせて、そのプログラムに「踊は人をあつめ 人をむすぶ」と書いたあと、手元にあったプログラムにこの詩をしたため、勘紫乃にそのプログラムを渡すよう依頼したという。「光 Le5 Nov.1952」の署名がある。

現在発売中の『週刊ポスト』さんの11月13日号。16ページにわたり、「【大特集】三行広告 その奥深き世界を歩く」という記事が組まれています。

「三行広告」とは、主にスポーツ新聞などに掲載されるちょっと怪しい求人情報などの広告を指すことが多いのですが、ここではもう少し範囲を広げ、尋ね人や葬儀告知、純粋な広告なども扱っています。

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後半8ページは「【実録】本当にあった三行広告のドラマ」という見出しです。松下幸之助が考えたまだベンチャー企業だった時代のナショナルの広告、グリコ森永事件で犯人との取引連絡に使われたダミーの広告、『毎日新聞』さんに実際に載ったゴルゴ13への「仕事」の依頼広告――13年式G型トラクター買いたし――(実は宣伝)などに交じって、光太郎の出した広告も取り上げられています。

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左上には中野のアトリエで「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作中の光太郎。

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こちらが光太郎の部分です。

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問題の広告は、一昨年、このブログの【今日は何の日無題・光太郎】で取り上げました。大正3年(1914)の『時事新報』に載った、彫刻のモデルを募集する広告(右の画像)です。「三行じゃなくて、二行広告じゃないか」という突っ込みはやめましょう(笑)。

記事では昭和30年(1955)に雑誌『新潮』に載ったエッセイ「モデルいろいろ」からの引用もなされています。ただ、発表年を「1970年」としているのは大間違いですが……。また、見出しに「女性たちが殺到した」とあるのも大げさかな、という気がします。

広告ではありませんが、大正13年(1924)の8月、『東京朝日新聞』には、光太郎のこんな文章が載りました。アンケートに近いものですが、「もでる」とひらがな表記になっていたりするので、談話筆記かも知れません。


   探してゐるもの

 私のやうな貧乏な無風流漢には趣味ある探しものなど、めつたにありません。唯年中探し求めてゐるのはよいもでるです。職業的の人を好まないため、却々(なかなか)むづかしい事です。
 自分のいいと思つた人を誰でも頼める特権があつたらなあと時々おもひます。


さらに同じ年の11月には、アンサー報告的な文章も載りました。「探してゐるもの 探し当てた報告」というコーナーです。


   いゝモデル

 此間私が職業的ならぬモデルを常に探してゐるといふ事を申して以来、夫(それ)に就いて私に同情を寄せてくれる人の多いのを喜んでゐます。首ぐらゐならば随分無理な時間の都合をして来てくれる友人も出来、又未知の青年や婦人から全身のモデルになつてもいゝといふ意を通ぜられてもゐます。大変勇気を得ましたが今後も絶えず探してゆかうと思つてゐます。


モデルの需要と供給に関しては、光太郎に限らず多くの美術家が頭を抱えていたようで、光太郎の盟友・岸田劉生なども、知人を片っ端からモデルにしたがり、「岸田の首狩り」と揶揄されたり、顰蹙を買ったりしたそうです。

この辺りを書きはじめると、きりがないので、最後に光太郎の詩でオチをつけます。大正14年(1925)の作です。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。


  首狩000

首が欲しい、
てこでも動かないすわりのいい首、
どこからともなく春蘭のにほふ首、
ふうわりと手に持てる首、
銀盤にのせて朝の食卓に献ずる首、
まるでちがつた疾風(はやて)の首、
夢をはらんで理知に研がれた古典の首、
電気に充ちて静まり返つた嵐の前の首、
メフヰストをなやます美女の首、
だがやつばり男の首、
ただぽつかりと置ける首、
それでゐて底の知れない無垢の首、
合口をふところにして
又今日も市井のざわめきにまぎれこまう。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月3日

昭和21年(1946)の今日、花巻町羅須地人協会跡に立つ、光太郎が碑文を揮毫した宮澤賢治「雨ニモマケズ」詩碑の誤りを訂正、追刻しました。

花巻高村光太郎記念会会長の佐藤進氏著『賢治の花園―花巻共立病院をめぐる光太郎・隆房―』(地方公論社 平成5年=1993)から。

 昭和二十一年十月二十三日付の手紙で高村先生は父に詩碑の加筆について、次のように書き送ってくれました。

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 以前よりの懸案ではありましたが、賢治さんの詩碑に脱字があったり誤字があったりしているので、これを改めたいとお願いしたところ、高村先生が詩碑に直接加筆され追刻することになり、その心ぐみでそろそろ寒くなった東北の十一月の一日に山から出かけ、私の家に来ました。
 一日おいた三日の朝です。東北の十一月、既に肌寒く、吐く息が白々と見える冴えた冷い朝でした。高村先生に清六さんと父と私とがお供をして桜の詩碑に行きました。着いてみると、先にこの賢治の詩碑を彫った石工の今藤清六さんが、先に来て、詩碑の前に板をさしわたした簡単な足場を作っておき、そのかたわらで焚火をしていました。
 先生はおもむろに碑を眺め、やがて足場に上り、今、加筆をはじめようとしています。
 万象静寂の中に、人も静まり気動かず、冷気肌をおおい、立ち上る煙のみがその静寂を破っているばかりです。先生は筆を取り、『松ノ』『ソノ』『行ツテ』を加筆し、『バウ』を『ボー』とわきに書き替えました。つづいて裏に父が「昭和二十一年十一月三日追刻」と書き入れました。
 高村先生の父にあてた十一月六日付の葉書きは次の通りです。

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賢治詩碑の誤字脱字については、以下をご参照下さい。

気がつけば10月もそろそろ終わり、今年も残すところあと2ヶ月あまりとなりました。新刊書店では来年用のカレンダーの販売、郵便局さんでは年賀はがきの予約受け付け開始など、徐々に平成28年を迎える準備が始まっています。

そんな関係で、『日本経済新聞』さんの電子版に載った「プレスリリース」――ある種の広告――から。  

田中貴金属ジュエリー、2016年の干支「申」の工芸品「純金製置物」など発売

貴金属ジュエリーの老舗 GINZA TANAKA
2016年の干支「申」の工芸品を10月1日(木)より発売!
~日本を代表する名工たち渾身の逸品、縁起の良い純金製の置物や大判、根付などが登場~

 1892年に創業した貴金属ジュエリーの老舗GINZA TANAKA(田中貴金属ジュエリー株式会社 本社:中央区銀座、代表取締役社長執行役員:田中 和和(まさかず)、以下 GINZA TANAKA)は、2016年の干支である「申」を、純金で製作した置物、根付、大判など、新作の工芸品4点(税込価格39,000円~税込参考価格1,872,000円)を10月1日(木)よりGINZA TANAKA 9店舗とGINZA TANAKAオンラインショップにて発売します。(※参考価格は、金税込小売価格4,800円/gで計算しております。)
 GINZA TANAKAでは毎年、縁起物である干支をテーマにした純金・銀製の工芸品を製作・販売し、開運招福を願うお客様にご好評をいただいております。2016年の干支である「申」は、人間に近い姿から、昔より山神の使いとも言われ、信仰の対象としてもなじみの深い動物です。また、不幸や困難が“さる”とも言われ、縁起が良く、十二支の中でも人気のモチーフです。この度、GINZA TANAKAでは、日本を代表する名工などによる純金の美しい干支の工芸品を、新たに4点製作しました。

<GINZA TANAKA新作工芸品(一部)>
 【発売日】2015年10月1日(水)
 【販売店舗】GINZA TANAKA全国9店舗
       GINZA TANAKAオンラインショップ(
http://shop.ginzatanaka.co.jp/

■純金製置物「申」 高村光雲 原型作
 日本の近代彫刻の礎を築いた高村光雲が、天下泰平、五穀豊穣を祝う伝統芸能「三番叟(さんばそう)」をモチーフに、繊細な表情と躍動感のある動きを純金で表現しました。衣装と烏帽子をまとった猿のなんとも言えない表情が、輝く純金の素材を通して見事に表現されています。
 【税込参考価格】1,872,000円
 【原型作者】高村 光雲 氏
 【素材】K24 約150g(桐箱付)
 【サイズ】
 <本体>高さ約16.8cm 台座 直径約10.8cm
 <ガラスケース>高さ約26×幅約21×奥行約21cm

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元々は大正11年(1922)に彫られた木彫で、正しい題名は「三番叟」。オリジナルは宮内庁の三の丸尚蔵館さんに収められていますが、その複製とは考えにくいところです。光雲は同一の図題で複数の木彫を手がけることもしばしばでしたので、宮内庁のものではない作品からの複製でしょう。

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「三番叟」というのは、狂言師の舞う舞の名前で、その扮装を猿回しの猿が身につけている、という構図です。郷土玩具などで同様の図題がよく見られます。「厄難を去る」という縁起担ぎでしょう。

当方、ブロンズ複製のこの作品を持っています。

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かなり前に安く入手したものですが、どうやらパナソニックさんが昭和の頃にノベルティーグッズとして配布していたもののようです。

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さて、田中貴金属さんの今回の商品、同店オンラインショップのラインナップに入っています。今、このブログを書きながら価格を確認すると、「¥1,921,140」。ところが上記プレスリリースでは「¥1,872,000」。「この差は何だ?」と思ったら、「こちらの商品は金相場により価格が毎日変動いたします。」とのことでした。ある意味、豪壮な話ですね。

お金に余裕のある方、ぜひお買い求め下さい(笑)。

豪壮な話ついでにもう1件。先月、このブログでご紹介した「シンワアートオークション近代美術/木梨憲武」に、光雲の木彫「魚藍観世音」が出品されました。「1,200万円から2,500万円」という落札予想で出品されたのですが、蓋を開けてみると4,200万円での落札でした。

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落札者が個人なのか法人なのかなどは不明ですが、お近づきになりたいような、なりたくないような……といった感じです(笑)。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月27日

昭和25年(1950)の今日、山形の渡辺正治氏から葉書を受け取りました。

渡辺正治氏は女優の渡辺えりさんのお父様です。氏と光太郎の関わりについては、以下を御覧下さい。

神奈川県鎌倉市、鶴岡八幡宮の境内に神奈川県立近代美術館の鎌倉館があります。昭和26年(1951)開館、建物自体もル・コルビジェに師事した板倉準三の設計によるもので、非常に高い評価を受けています。

ちなみに光太郎が歿した昭和31年(1956)、「高村光太郎智恵子展」が初めて開催されたのがこちらです。

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こちらが来年1月をもって、閉館することになりました。土地の貸借、建物の耐震性の問題などがその理由だそうです。

すぐ近くに鎌倉別館があるので、こちらの機能は別館に移転、建物も歴史的に貴重ということで、耐震補強の上、保存される見通しだそうです。

そこで、鎌倉館としての最後の企画展が始まりました。光太郎作品も2点、並んでいます。光太郎作品が並んでいるという情報を得るのが遅れ、紹介が遅くなりました。申し訳ありません。 

鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」

期  日 : 2015年10月17日(土)~2016年1月31日(日)
第一会場 : 鎌倉館   
神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-53 Tel. 0467-22-5000
第二会場 : 鎌倉別館 「鎌倉からはじまった。1951-2016 工芸と現代美術」
          神奈川県鎌倉市雪ノ下2-8-11 Tel. 0467-22-7718
休 館 日  : 月曜日(ただし11月23日、1月11日は開館)、 12月29日(火)-1月3日(日)
開館時間 :  午前9時30分-午後5時(入館は午後4時30分まで)
観 覧 料  : 一般1,000円(900円) 20歳未満と学生850円(750円) 65歳以上500円
       高校生100円 
( )内は20名以上の団体料金

※鎌倉館の観覧券で、当日に限り鎌倉別館を無料でご観覧いただけます。

※中学生以下、障害者手帳をお持ちの方は無料。その他の割引につきましてはお問い合わせください。

※ファミリー・コミュニケーションの日:
毎月第1日曜日(今回は11月1日、12月6日)は、18歳未満のお子様連れのご家族は、優待料金(65歳以上の方を除く)でご観覧いただけます。

※11月3日(火・祝)「文化の日」は、開催中の展覧会を無料でご覧いただけます。


1951年11月17日、日本で最初の公立近代美術館として鎌倉の鶴岡八幡宮境内に誕生した神奈川県立近代美術館は、このたび2016年1月末をもって鎌倉館での展覧会活動を終了することになりました。
2015年度は、「鎌倉からはじまった。1951-2016」と題し、これまでの鎌倉での活動を三期に分けて紹介してまいりましたが、いよいよ本展が最後となります。
これまで鎌倉館に足を運んでくださった多くの皆様に感謝いたしますとともに、2016年4月以降は、葉山館と鎌倉別館の二館体制で活動してまいりますので、今後ともご理解とご支援を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

「カマキン」最後の展覧会
「鎌倉近代美術館(略称:カマキン)」として長く皆様に愛されてまいりました鎌倉館での最後の展覧会となるPART3では、1951年の美術館誕生から1965年までの15年を取り上げます。草創期の当館では、戦前、戦中の文化的空白を埋めるべく、佐伯祐三、萬鉄五郎、古賀春江、松本竣介などの、小規模ながらも充実した展覧会が開催されました。そうした調査と研究を重視した展覧会のあり方は、美術館の礎として受け継がれてきました。本展では、この時期に取り上げた作家による作品を所蔵品から選んで展示すると同時に、美術館の活動に伴って改修が重ねられてきた坂倉準三設計による鎌倉館の変遷を、図面や写真、映像資料で紹介します。なお、鎌倉別館では「工芸と現代美術」と題して、所蔵品のなかから工芸・デザインとその現代美術への展開を追います。ぜひご高覧ください。

関連企画
1 建築トーク 講師:青木淳氏(建築家) 11月1日(日)午後2時-3時30分
*要申込(先着30名)、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

2 トヨダヒトシ氏(写真家)によるスライドショー(ライブ・パフォーマンス)
10月24日(土)午後5時-6時 「白い月」(2010-15年、35mmフィルム、サイレント)
  ニューヨーク、春から冬へと向かう日々を綴った映像日記。
10月25日(日)午後5時-6時 「ツバメー吉村弘に捧ぐ(仮)」(2015年、35mmフィルム)
  サウンド・アーティスト吉村弘が残した写真をもとに構成したスライドショー作品。
*上映開始後の入場はできませんので、4時30分までにご入場ください。展示室は5時で閉場します。
*申込不要、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

3 小杉武久氏、和泉希洋志氏によるコンサート 11月8日(日)午後3時-
*午後1時より整理券を配付します。(混雑状況により入場を制限する場合がございます。)
*参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

4 石田尚志氏(画家/映像作家)による映像インスタレーション上映
11月28日(土)、11月29日(日)各日午後5時-
*4時30分までにご入場ください。上映開始後の入場はできません。展示室は5時で閉場します。
*申込不要、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

5 担当学芸員によるギャラリー・トーク 12月5日(土)午後2時-2時30分
*申込不要、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

6 館長トーク 話し手:水沢勉(当館館長)
12月12日(土)、2016年1月24日(日)各日午後2時-3時
申込不要、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

7 連続講演会「近代美術館とわたし」(県立機関活用講座)
第1回 10月17日(土)講師:荻野アンナ氏(作家/慶應義塾大学教授)
第2回 10月31日(土)講師:李 禹煥氏(美術家)
第3回 11月14日(土)講師:高階秀爾氏(大原美術館館長)
第4回 11月15日(日)講師:藤森照信氏(建築史家/建築家)
第5回 11月22日(日)講師:池内 紀氏(ドイツ文学者/エッセイスト)
各回午後2時-4時 *要申込(先着120名)
会場:鎌倉商工会議所会館 地下ホール
受講料:各回1,000円(任意の回数で申込み可能)
*1,7の申込方法:次の事項を明記し、fax、往復はがき、当館ホームページの問い合わせフォームのいずれ
かでお申し込みください。
1)企画名 2)氏名〔ふりがな〕 3)郵便番号、住所、電話番号、fax番号、メールアドレス 4)参加希望人数〔同伴者の氏名、ふりがな〕
*申込先:神奈川県立近代美術館 鎌倉 fax. 0467-23-2464


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さて、光太郎作品ですが、2点展示されています。

まずは大正2年(1913)、智恵子と婚約を果たした信州上高地で描かれた油絵「上高地風景」。この年の生活社主催油絵展覧会に出品されたものです。生活社は、フユウザン会分裂後、光太郎や岸田劉生らが興した団体でした。

今年3月、山岳雑誌『岳人』さんの特集記事として、「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」の一部を執筆させていただきましたが、その中でこの絵も紹介しました。この際には、同館からポジをお借りして誌面を飾らせていただきました。

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この油絵、光太郎の親友だった水野葉舟に贈られ、水野家で保管されていましたが、現在は同館に寄託されているそうです。

現在、平塚市美術館さんで開催中の企画展「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」に並ぶかな、と思っていたのが展示されず、残念に思っておりましたが、こちらに出すためだったのですね。


もう1点、ブロンズの「裸婦坐像」(大正6年=1917)。無題よく智恵子がモデルと勘違いされますが、違います。

光太郎は、横浜で夜の商売についていた「百合子」という若い女性を一時かくまってやったことがあり、その礼にと、モデルを務めてくれたそうです。智恵子も彼女をモデルに絵を描いたとのこと。


「裸婦坐像」は同型のものが日本各地に存在し、よく眼にしますが、「上高地風景」は油絵なので一点ものです。この機会に御覧下さい。


他の出品作は以下の通りです。

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光太郎と交流の深かった作家の作品もいろいろラインナップに入っています。絵画でいうと、柳敬助、中村彝、梅原龍三郎、松本竣介……。彫刻ではロダン、佐藤忠良、舟越保武、戸張孤雁などなど。

ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月23日

昭和58年(1983)の今日、福島県安達町(現・二本松市)の智恵子の生家裏山に「樹下の二人」詩碑が除幕されました。

「あれが阿多多良山/あの光るのが阿武隈川」で始まる、「智恵子抄」中の絶唱の一つです。

この裏山は鞍石山と呼ばれ、幼少時や帰省した智恵子がよく歩いていたり、智恵子の実家を訪れた光太郎を案内して二人で歩いたりした場所です。近くには展望台も設けられています。

晴れた日には碑に「ほんとの空」が映ります。

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一昨日、本郷での北川太一先生の祝賀会に参加したあと、新宿に向かいました。同日開幕した中村屋サロン美術館さんの戸張孤雁のテーマ展示を観るためです。

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孤雁と荻原守衛は、共にアメリカ留学中の明治34年(1901)に知り合い、双方の帰国後も交流が続いて、いわゆる中村屋サロンの中心メンバーとなりました。したがって、孤雁は光太郎とも交流がありました。光太郎より1歳年長です。

また、孤雁は明治43年(1910)、中村屋さんで守衛の臨終に立ち会いました。そんなわけで、昨年放映されたテレビ東京系の「美の巨人たち 荻原碌山作 女」で、孤雁が扱われました。

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この番組は、作品解説の部分と、作品にまつわるミニドラマ的な部分とが交互に配される構成になっており、この回のミニドラマは守衛歿後の中村屋サロンを舞台にしていました。大浦龍宇一さん演ずる光太郎と及川聡さん扮する孤雁を進行役に、守衛の追想がなされるというものでした。

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さて、中村屋サロン美術館さんに話を戻します。同館では展示室が二つあり、「特別展示」の際には2室ぶちぬきで開催、「テーマ展示」は手前の第1室のみをあて、奥の第2室は「通常展示」という構成です。先だって開催されていた「斎藤与里のまなざし」は「特別展示」、今回は「テーマ展示」でした。

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孤雁の作品は計14点。全て碌山美術館さんの所蔵でした。当方、年に1度は「碌山忌」のため碌山美術館さんを訪れていますが、同館でも常に孤雁作品の全てを展示しているわけではないので、初めて観るものもあり、興味深く拝見しました。

しかし、物足りなさも感じました。彫刻が全て小品だということもあるかもしれません。自画像などの絵画の方には感心しましたが……。このあたり、守衛、光太郎と比較しての現代における知名度と関わるような気がしました。

帰ってから、光太郎の孤雁評を改めて調べてみました。すると、交流が深かったにもかかわらず、かなり手厳しい見方もしていました。

戸張孤雁氏は際立つてロマンティツクだ。氏の内面的視野は常にその色を帯びてゐる。去年の文展の「力の弛んだ人」今年の「犠牲者」の如きは明白に其を語つてゐるが、「女の胴」のやうなものにも作者の見方、作者の意志の働き方に於て其の傾向を観取し得る。氏は人の顔がただ人の顔では気が済まない。その顔が或るロマンティツクな背景を持つてゐる事を好む。そして制作の動機が隠約の間に其処から起る。ロマンティツクである事自体には何の言ふべき事もない。唯其が芸術上に気質となつて動き始め、其の一種の好尚が自然に向ふ氏の眼を極限し、専ら其の気分の表現にのみ腐心してゆく様になる所に僕と相容れない点がある。戸張氏は僕の敬愛してゐる故荻原守衛氏と略同系に属すべき人でありながら、此の一点で離れてゐる。此は氏の生来か。それとも氏が暫く挿絵画家をしてゐた名残か。其の何れなるかは僕にもまだ解らない。氏の「犠牲者」が僕にもの足りなく感じさせ、十分やる可き処までやらなかつたと思はせるのは以上の様な理由があるのだらう。
(「彫刻に就て」 大正3年=1914)

ここで光太郎が「ロマンティツク」と言っているのは、言い換えれば彫刻の「物語性」でしょうか。明治末、留学前の光太郎も「物語性」あふれる彫刻を作っていました。軽業師の親方に折檻されて泣く玉乗りの少女とそれをかばう兄(「薄命児」 明治38年=1905)、経巻を投げ捨てて憤然として立つ日蓮(「獅子吼」 同35年=1902)など。

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ところがロダンを知ってからの光太郎は、こういう「物語性」を極力排除し、純粋に対象の造型性を追う彫刻に転じます。

細かな部分は忘れていましたが、こうした孤雁評が頭の片隅に残っていたためか、当方も物足りなさを感じてしまいました。

今回は「テーマ展示」ですので、奥の第2室は「通常展示」。ここの目玉でもある守衛の「女」、光太郎の油彩「自画像」などが展示されています。また、特に興味深く拝見したのは布施信太郎の手になる中村屋さんの包装紙とその原画。春夏秋冬、それぞれ郷愁をそそる絵柄ですし、亡くなった母方の祖父がよく中村屋さんの月餅や「碌山」をお土産に買ってきてくれたことを思い出しました。


現在の展示は来年1月11日(月・祝)までです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月19日

昭和2年(1927)の今日、光太郎の実弟にして後に鋳金の人間国宝となる豊周の第八回帝展特選が報じられました。

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上記は『朝日新聞』。文中に「夫人智恵子さん」とあるのは誤りで、豊周の妻は美和子でした。

この記事を見つけた際、智恵子の談話が新聞に掲載されているのは非常に珍しい、と喜んだのですが、よく読んだら記者の勘違いでした。

今でこそ「智恵子抄」のヒロインとして有名な智恵子ですが、『青鞜』からも離れ、この当時は単なる一般人だったわけで、こういう間違いもしかたがなかったかもしれません。

秋田から光太郎の父・光雲(今日、10月10日が命日です)がらみのイベント情報です。 

秋田公立美術大学公開講座 【明治の彫刻と工芸性】

日 時 : 平成27年10月14日(水) 18:00~19:30
場 所 : 美大サテライトセンター(フォンテAKITA6階) 秋田市中通2-8-1 018-832-9549
講 師
 : 秋田公立美術大学 美術教育センター 教授 志邨匠子
定 員 : 30人
対 象 : 高校生以上
受講料 : 無料
申し込み  : 秋田公立美術大学 社会貢献センターアトリエももさだ
                   TEL:018-888-8137 FAX:018-888-8147

明治期、初めて日本は西洋の「彫刻」に出会います。美術家達は、仏像や置物とは異なる立体表現にどうのように向き合ったのでしょうか。高村光雲に焦点を当て、彫刻と工芸の関係について考えます。

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興味深い内容です。近くであれば絶対に聴きに行くのですが……。

全国の大学さんなどの研究機関、こういった活動にももっともっと力を入れていただきたいものですね。少子化で大学さんも生き残りが大変なようですが、いいPRになると思います。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月10日

昭和25年(1950)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校に「高村文庫」が設置されました。

この日、光太郎が小学校に書棚を寄贈、学校では以前から光太郎に寄付を受けていた書籍をそこに収め、「高村文庫」と名付けました。

多分に漏れず、山口小学校は少子化のため廃校となり、建物も老朽化のため取り壊されてしまいましたが、跡地には光太郎が開校記念に贈った校訓「正直親切」の碑が建ち、当時を偲ぶよすがとなっています。

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新宿の中村屋サロン美術館さんから、来週末から始まるテーマ展示のお知らせ及び招待券等を戴きました。光太郎とも親交があった彫刻家、戸張孤雁がメインです。 

テーマ展示 戸張孤雁

会 期 : 2015年10月17日(土)~2016年1月11日(月・祝)
会 場 : 中村屋サロン美術館 展示室2
 間 : 10:30~19:00(入館は18:40まで)
休館日 : 毎週火曜日(火曜が祝祭日の場合は開館、翌日休館)
入館料 : 300円 ※入館料は展示室1と併せた料金です 
         ※高校生以下無料(高校生は学生証をご呈示ください) 
         ※障害者手帳ご呈示のお客様および同伴者1名は無料

明治末から昭和初期にかけて新宿中村屋に集った芸術家のうち、戸張孤雁を紹介します。 戸張は初期「中村屋サロン」の中心的存在でした。 留学し油彩画と挿絵を学びますが、明治43年に彫刻家 荻原守衛(碌山)が亡くなった後は、その粘土を貰い、彫刻家に転身しました。 本展示では碌山美術館にご協力いただき、多才な戸張の、情感溢れる油彩画、版画、素描、彫刻を紹介いたします。


関連イベント ギャラリートーク 学芸員による展示解説
期  日 : 2015年11月28日(土)14:00~ 約50分
費  用 : 無料(要入館)
参加方法 : 参加ご希望の方は、メールまたはお電話にてご応募ください。
 メールでご応募の方は、メールの件名を「ギャラリートーク」とし、①氏名②電話番号③参加人数(2名まで)④参加希望日 をご入力のうえ、ご送信ください。当館職員よりメールまたはお電話にて受付と詳細のご連絡をいたします。
当館連絡先03-5362-7508 メール
museum@nakamuraya.co.jp

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同館は、年2回程度「特別展示」を000行い、それ以外の期間は「通常展示」プラス「テーマ展示」という構成になっています。先頃行われた「生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」は「特別展示」。「特別展示」は館内のほとんどのスペースをそれに当てるため、普段「通常展示」で並んでいる作品のほとんどは引っ込みます。

今回の戸張孤雁は「テーマ展示」ですので、館内の半分程のスペースで、残りのスペースが「通常展示となります。今回の「通常展示」は既に先週から始まっています。そして、「斎藤与里のまなざし」の際には引っ込められていた光太郎の油絵「自画像」が復帰しています。

他に、館の目玉作品である荻原守衛の「女」、「坑夫」、中村屋サロンの中心にいた中村彝、鶴田吾郎、會津八一の作品も並んでいます。

さらに今回は、布施信太郎による中村屋さんの包装紙原画なども並んでいるそうです。

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ブログに書くネタのない時には、ここで終わって翌日に回すところですが、芸術の秋、文化の秋ということで、紹介すべき事柄がたまっており(「××について書いてないぞ」的なお叱りを受けたりもしています。少々お待ち下さい)、中村屋さんがらみの内容をさらに続けます。

中村屋サロン美術館さん、今月末に開館1周年を迎えます。そこで記念イベントが3種類設定されています。

〔イベントⅠ〕001
開館記念日に中村屋サロン美術館をご観覧の方全員に、彫刻家 荻原守衛(碌山)《女》をモチーフにしたオリジナル「月餅」等をプレゼント!
※記念品は多数ご用意しておりますが、なくなった場合、通常デザインの「月餅」になりますのでご了承ください 
開催日2015年10月29日(木)

これはレアですね(笑)。

〔イベントⅡ〕
館設置のアンケートで「中村屋サロンにメッセージ」をお寄せいただいた方に、中村彝《小女》のマグネットをプレゼント!
※景品は多数ご用意しておりますが、なくなった場合、別のグッズになりますのでご了承ください
開催日2015年10月29日(木)~11月3日(火・祝)

〔イベントⅢ〕
安曇野バスツアー
碌山美術館で芸術と紅葉を楽しむ安曇野バスツアーを開催いたします。碌山美術館学芸員の解説等、盛り沢山の特典がついたツアーです。詳細は
添付のとおりです。皆様のご参加をお待ちしております!

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碌山美術館さんには、光太郎作品も展示されています。また、現在は「夏季・秋季特別企画展 制作の背景-文覚・デスペア・女- Love is Art Struggle is Beauty」開催中です。このツアーを通じて新たな出会いがあるかも知れませんね(笑)。


というわけで、中村屋サロン美術館さん情報でした。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月9日

大正7年(1918)の今日、新潟・佐渡島訪問を終え、島を後にしました。

佐渡では歌人の渡辺湖畔の元を訪れています。現在、平塚市美術館さんで開催中の企画展「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく」に展示されている湖畔の娘・道子の肖像制作などに関わります。

弘法大師空海による開山から1200年を迎えた世界遺産・高野山金剛峯寺さんで、に続き、秋の特別御開帳が行われます。光雲の手になる金堂御本尊薬師如来(阿閦如来) にもふたたびお目にかかれます。

金堂の御本尊特別開帳

御本尊(薬師如来)は、昭和9年の弘法大師1100年御遠忌に合わせた金堂の再建とともに、当時の大仏師・高村光雲[たかむらこううん]師により造られました。以来、80年あまり厨子内に安置され、秘仏となっていた御本尊が今秋もう一度開帳されます。
期間:平成27年10月1日(木)~11月1日(日)
   ※10月1日(木)から3日(土)は結縁潅頂開催のため、一般内拝はできません。
 場所:壇上伽藍金堂/御本尊:薬師如来(阿閦如来)

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それに合わせ、宝物殿の霊宝館さんでは、やはり光雲の手になるこの像の頭部試作も展示されています。期間は、御本尊そのものの御開帳よりやや長く、11月29日(日)まで。

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また、南海電気鉄道さんと近畿日本鉄道さんでは、金剛峯寺さん、さらに奈良県吉野の金峯山寺さんとタイアップ、「まいろう。めぐろう。高野・吉野の秘仏本尊」キャンペーンを実施します。

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臨時バスの運行や特別きっぷの販売、さまざまなツアーなどが企画されているようです。

ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月29日

昭和25年(1950)の今日、詩文集『智恵子抄その後』のあとがきを執筆しました。

同書は同年11月、オリジナルの000『智恵子抄』(昭和16年=1941)と同じ、龍星閣から刊行されました。

前年に作られ、雑誌『新女苑』に発表された六篇から成る連作詩「智恵子抄その後」(「元素智恵子」「メトロポオル」「裸形」「案内」「あの頃」「吹雪の夜の独白」)を根幹とし、他の詩文を加えて編まれたものです。

しかし、題名とは裏腹に、智恵子に関する詩文は少なく、大半は花巻郊外太田村での山小屋生活に関わる散文で、「詩集」と冠するのは羊頭狗肉の感を免れません。

六十五年前の今日書かれた「あとがき」の全文はこうです。

 先年、「智恵子抄」をはじめて世に送つてくれた龍星閣主人澤田伊四郎君が、今度は又、「智恵子抄その後」を、むしろ略奪するやうな勢いで出版する。
 「智恵子抄」は澤田君が戦後休養のため郷里に隠遁してゐた頃、他の出版社が澤田君の快諾をうけ、二三の新作を加へて再出版したので、今も世上に行はれてゐるやうであるが、戦後五年を経た今日、澤田君は郷里から上京して龍星閣再興に志し、昔のゆかりに因むものか、まづ私の「智恵子抄その後」に眼をつけた。
 「智恵子抄その後」と題する一群の詩は六篇しかなく、しかもその六篇は互に有機的に結びついてゐてその間に他の詩篇をさし挟むことも出来ず、又その前後に他の詩篇を追加することも出来ない。さういふことをすれば壊れてしまふ。六篇では詩集にならないと私がいへば、六篇でも詩集になると澤田君はいふ。澤田君は私の手許から山小屋日記に類する文章その他を物色して、つひに斯ういふ一冊の詩集を構成してしまつた。私も澤田君の熱意に動かされて、結局この詩六篇を根幹とする詩集といふものの出版に同意した。
 「智恵子抄」は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた。「智恵子抄その後」の奥底に何があるか、書いてから一年ばかりにしかならないので、まだ自分にもよく分らない。おそらくこれを読む人々が卻てそれを鋭く見ぬいてくれることであらう。
   一九五〇年十月

光太郎の父にして明治彫刻界の頂点に立った高村光雲関連の情報です。 

近代の工芸と彫刻 -館蔵品より小品を中心に-

会  場 : 耕三寺博物館(潮聲山耕三寺内) 広島県尾道市瀬戸田町瀬戸田553-2
時  間 : 9:00~17:00 年中無休
料  金 : 一般 1,200円(1,000円)  高校生700円(500円) ( )内は団体料金 中学生以下無料

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出品作品
    作品名          作者                形状      時代
色絵お伽人形    伊東陶山(初代)    陶磁    明治後期~大正(20世紀)
色絵鳳凰形香炉   伊東陶山(二代)    陶磁    大正(20世紀)
寿老人置物     伊東陶山(二代)    陶磁    大正(20世紀)
染付色絵葡萄文花瓶 伊東陶山(三代)    陶磁    第4回新文展出品(昭和16年)
青磁獅子鈕香炉    諏訪素山          陶磁    大正(20世紀)
染付寒山拾得四方皿  河村蜻山          陶磁    昭和初期(20世紀)
染付更紗文八角花瓶  河村喜太郎         陶磁    昭和初期(20世紀)
青磁浮菊文花瓶    宮永東山          陶磁    第15回帝展出品(昭和9年)
白磁龍鈕香炉     道林俊正          陶磁    昭和初期(20世紀)
青磁獅子鈕丸形香炉  楠部彌一          陶磁    昭和初期(20世紀)
瑞花文花瓶      伊東陶山(初代)   陶磁    明治後期~大正(20世紀)
漆器奔放屏風     山崎覚太郎         漆工    第2回新文展出品(昭和13年)
乾漆盛器       山永光甫          漆工    第3回新文展出品(昭和14年)
花蝶文宝珠形蓋物   井田宣秋          金工    昭和前期(20世紀)
青銅香炉       香取正彦          金工    昭和前期(20世紀)
朧銀魚文花瓶     渡邉紫鳳          金工    第12回帝展出品(昭和6年)
黄銅胡桃鉢      西村英夫          金工    第14回帝展出品(昭和8年)
鎚起黄銅手爐     藤本長邦          金工    文展鑑査展出品(昭和11年)
猿          加藤宗巌          金工    第6回日展出品(昭和38年)
糸織姫        高村光雲          木彫    昭和前期(20世紀)
鏡          平櫛田中          木彫    昭和前期(20世紀)
某氏立像       朝倉文夫          ブロンズ  昭和前期(20世紀)


耕三寺博物館さんは、潮聲山耕三寺にある宝物館的な博物館です。「近代の工芸と彫刻 -館蔵品より小品を中心にー」は企画展、というわけではなく(さりとて常設、という扱いでもないようですが)、しばらくはこの展示が続くということで、上記に期間は掲載しませんでした。

光雲作品「糸織姫」が展示されていますが、これは平成14年(2002)に三重県立美術館、茨城県立近代美術館、千葉市立美術館と巡回した「高村光雲とその時代展」にも出品されました。また、同展にはやはり耕三寺博物館さん所蔵の「阿弥陀如来坐像」も出品されました。

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他にも光雲高弟の一人、平櫛田中の作品なども展示されています。


もう1件。過日、このブログで、今月19日開催の「シンワアートオークション近代美術/木梨憲武」に、光雲作の「木彫魚藍観世音」が出品されることをご紹介しました。その後、公式サイトに追加情報がアップされ、さらに光雲作の「郭子儀」も出品されるとの情報を得ました。

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郭子儀は中国唐代の武将。長寿だったため、古来、画題によく取り上げられていました。


光雲関連では、高野山金剛峯寺の開創1200年記念に関し、新たな情報もあります。また折を見てご紹介いたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月15日

大正8年(1919)の今日、信濃善光寺で光雲と米原雲海の合作による仁王像の開眼供養が行われました。

明治24年(1891)の大火で焼失した仁王像に代わる新しく作られ、阿形・吽形、ともに高さ一丈六尺、いわゆる「丈六」です。あまりに巨大すぎて、東京から長野までの運搬のため、特別に無蓋貨車をあつらえたという話も伝わっています。

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昨日に引き続き、光雲関連の情報です。

シンワアートオークション近代美術/木梨憲武

開催日 : 2015年 9月19日(土)
時 間 : 18:00
会 場
 : シンワアートミュージアム 東京都中央区銀座7-4-12 銀座メディカルビル
下見会 : 2015年 9月16日(水)~ 9月 18日(金) 10:00~18:00
           9月19日(土) 10:00~12:00 
出品点数 : 近代美術129点 木梨憲武8点
落札予想価格下限合計 : 近代美術:2億4,175万円  木梨憲武: 195万円

日本のアートオークション運営会社の中でも大手のシンワアートオークションさん。たびたび光雲作品が出品され、このブログでもご紹介していますが、今月開催のオークションで光雲の「木彫魚藍観世音」が出品されます。

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光太郎の箱書きがあるとのことで、真筆であれば非常に珍しい例です。それもあるので、落札予想額が8桁です。


もう1件。

毎年このブログでご紹介しています横浜南区山王町のお三の宮日枝神社さんのお祭りです。たくさんの神輿が出る中で、光雲の手になる彫刻が施された「火伏神輿」も出ます。関東大震災と、横浜大空襲の2回の火難をくぐり抜けたということで、「火伏」の名が冠されています。

当方、昨年は観に行って参りました。

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今年は9月18日~20日の3日間が例大祭だそうです。ところが公式サイトに「火伏神輿」の件が記されておらず、今年は出ないのかな、と思い、電話で問い合わせてみたところ、9月18日(金)13:30~、イセザキ・モールを巡回するとのことでした。

あとでイセザキ・モールのサイトを調べてみたら、チラシが掲載されていました。

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それから、やはり光雲作の獅子頭の木彫も、沿道にある書店の有隣堂さん前に展示されます。下の画像は昨年観に行った際に撮ったものです。火伏神輿も担がれていない時は同じ場所に置かれるようです。

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ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月3日

平成14年(2002)の今日、徳島県立近代美術館で「高村光雲とその時代展」が開幕しました。

この年4月から、三重県立美術館、茨城県立近代美術館、千葉市立美術館と巡回し、最後の開催地でした。光雲作品が約90点、光太郎木彫も5点並びましたが、意外といえば意外なことに、初の大規模な光雲展でした。

上記の記事でも解るように、光雲作品は散逸とまではいきませんが、その生涯に膨大な数が作られ、各地に存在するためです。また、弟子がほぼ全体を作り、仕上げのみ光雲が行って、光雲の銘が入れられたいわば工房作品も多く、そのあたりもネックです。

下記は当方が観に行った茨城展のチラシです。

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栃木県佐野市にある佐野東石美術館さんでの企画展です

木彫の美-高村光雲と近現代の彫刻-

会  期 : 2015年9月18日(金)~ 12月20日(日) 木曜休館
会  場 : 佐野東石美術館 栃木県佐野市本町2892
時  間 : 午前10時~午後5時
料  金 : 大人700円 小・中・高生300円

 日本近代木彫の父・高村光雲(1852~1934)を中心に、光雲門下の山崎朝雲,大内青圃,阿井瑞岑らの作品を展示いたします。また、光雲の高弟に学んだ平櫛田中,師事した澤田政廣,佐藤玄々(朝雲)など珠玉の作品を一堂に展示いたします。木彫の生命の輝きをどうぞご鑑賞ください。


最初にこの情報を見つけた時、「佐野東石」は人名かと思いました。ところがさにあらず、「佐野」は所在地の地名、「東石」は「東京石灰工業株式会社」の略で、コンクリートの原料や線路の敷石などに使われる砕石を扱う会社だそうです。美術館はかつての同社社長・故菊池登氏が、文化教養の高揚に寄与する目的で設立されたとのこと。

その意気や良し、というわけで、こうした小規模な私営美術館や文学館にはエールを送りたくなります。再来週あたり、あちら方面に行く都合がありますので、行ってこようと思っています。皆様もぜひどうぞ。


同館のサイトには、所蔵作品として光雲の木彫「牧童」が紹介されています。他にも光雲作品の所蔵があるかどうか、解りかねますが。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月2日

昭和30年(1955)の今日、『朝日新聞』に連載された「私のきいた番組」の第一回を執筆しました。

「私のきいた番組」は、9月4日、18日、10月9日、23日の4回にわたって連載された、ラジオに関する随筆です。

第一回は、ニュースをよく聴く、としたうえで、この年起こった森永ヒ素ミルク事件にも言及しています。

光雲関連の報道を2件。

まずは長野の地方紙『信濃毎日新聞』さんから。

善光寺資料館展示 三宝荒神ひな型 初の「補修の旅」

 近代日本を代表する彫刻家高村光雲(1852~1934年)と米原雲海(1869~1925年)の合作で、長野市の善光寺仁王門にある三宝荒神(さんぽうこうじん)像、三面大黒天像の試作品に当たる「ひな型」が27日、修理のため、展示してある善光寺の資料館(日本忠霊殿)から東京芸術大に搬出された。ひな型が修理で寺の外に出るのは、1919(大正8)年の制作以来、初めて。

 ひな型は、三宝荒神が高さ123センチ、三面大黒天が106センチ。仁王像の背面にある高さ2・5メートルほどの本像の制作前に、高村、米原が作った。文化財に指定されてはいないが、木造彩色でともに三つの顔と6本の腕があり、群青色の体や衣、金色の装飾が鮮やかだ。しみや欠損、カビが生えるなど傷みが目立つようになり、来年5月までの予定で修理することになった。

 27日は東京芸大大学院の保存修復彫刻研究室の3人が、付属品を外した像を緩衝材やさらしで幾重にも包み、慎重に運び出した。同大学院非常勤講師で近代彫刻が専門の藤曲隆哉さん(33)によると、伝統的な仏像彫刻の形式と近代の技法を融合させ、大正時代を代表する作品の一つという。善光寺事務局は「近代彫刻の観点での調査成果にも期待したい」としている。
(2015.8.28)


善光寺さんの仁王門には、光雲と高弟の米原雲海合作の仁王像が奉納されています。下記画像は大正時代の絵葉書です(以下同じ)。

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大正8年(1919)の開眼です。昨秋には、最大震度6弱を観測した長野県北部地震が発生、仁王像も破損しましたが、大事には至らなかったようです。

その仁王像の裏側には、三面大黒天像と、三宝荒神像が納められています。こちらも光雲・雲海の手になるものです。

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その試作(ひな形)が善光寺さんの資料館である日本忠霊殿に収蔵されていますが、そちらが東京芸術大学で補修されることになったという記事です。文化財修復の技術には定評がある同大、光雲も雲海も前身の東京美術学校で教鞭を執っていたゆかりの深い学校です。この際、きっちりと補修をしていただきたいものです。

下記は三面大黒天像のひな形。三宝荒神像のそれが写った絵葉書は未入手です。

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「高サ七尺五寸」というキャプションは、仁王門に納められている本体で、ひな形は約100㌢です。

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もう1件、『毎日新聞』さんの静岡版の記事です。昨秋ご紹介した袋井市の寺院・可睡斎さんに、明治31年(1898)頃に建てられた「活人剣」の碑に関してです。

<活人剣の碑>来月完成 李鴻章と軍医、交友の証し 袋井

 袋井市久能の禅寺・可睡斎(かすいさい)の境内に復活建立される「活人剣の碑」の工事が最終段階を迎えている。27日には制作者で金属工芸家の宮田亮平・東京芸大学長が訪れ、台座に載せる金属製の剣碑(高さ約5メートル)が据え付けられた。
 剣はサーベルの形をしておりステンレス製。表面をブロンズで覆ってある。富山県内のアトリエで制作した。この日作業員が重機などを使って台座の上に剣先が天に向かう形で慎重につり下ろした。高村光雲作とされる初代の碑は境内奥にあったが、復活碑は山門の横に建立される。
 宮田学長は「(初代の)復元ではなく現代に合わせた作品」と説明。剣の刃先の向きなど設置状態を調べ「このままでいいですね」と満足そうだった。
 初代「活人剣の碑」は、日清戦争(1894〜95年)の講和交渉のため来日した清国全権大使の李鴻章と、主治医を務めた旧陸軍軍医総監、佐藤進の交友の証しとして建立された。佐藤がいつも軍刀を身に着けている理由を尋ねた李に、「私の剣は活人剣」と答えたことが碑名の由来という。
 しかし第二次大戦中、金属供出でなくなり、台座だけが残った。地元有志らが再建委員会を設置。昨年から建設費(約3000万円)の募金活動を始めた。
 9月26日に完成を祝う「立剣式」を行い一般公開する。【舟津進】
(2015.8.29)


こちらも古絵葉書です。おそらく光雲が中心となって、上部の剣の部分を木彫で制作、それをブロンズで鋳造したものと思われます。

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色即是空とは申しますが、滅びるに任せず、修復したり再建したりができるのであれば、光雲ら先人の事績共々後世に伝えていって欲しいものです。その意味ではどちらも意義のある取り組みですね。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月31日 000

昭和61年(1986)の今日、徳間書店から内田康夫著『「首の女(ひと)」殺人事件』が刊行されました。

昭和57年(1982)、『後鳥羽伝説殺人事件』で始まり、現在も続く、浅見光彦シリーズの第10作です。光太郎の作った木彫の贋作を巡る事件を、名探偵浅見光彦が鮮やかに解決するというものです。

平成18年(2006)にはフジテレビさんが中村俊介さん主演で、平成21年(2009)にはTBSさんが沢村一樹さん主演で、それぞれドラマ化しています。どちらもBS放送などで、年1~2回、再放送されています。

浅見光彦シリーズはコミック化されている作品も多いのですが、この『「首の女(ひと)」殺人事件』は、それがなされていません。光太郎の「蟬」の木彫などを描かなければ成り立たないので、大変なのかも知れませんが、漫画家の皆さん、ぜひお願いします。

追記 平成30年(2018)、ぶんか社さんから、『まんがでイッキ読み! 浅見光彦 怪奇トラベルミステリー』が刊行され、夏木美香さんの画による「首の女……」が収録されました。

昨日、千葉県勝浦市にて「第39回千葉県移動美術館「高村光太郎と房総の海」」を拝見して参りました。

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会場は勝浦市役所近くの勝浦市芸術文化交流センター・キュステさん。音楽ホールなどを備えた施設です。

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千葉市にある千葉県立美術館さんの収蔵品の出張展示ということで、今回は「高村光太郎と房総の海」というテーマに絞っての実施です。

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順路に従って歩くと、まずは「房総の海」。様々な作家が描いた房総の海岸風景、風俗作品が展示されています。驚いたのは、中西利雄の水彩画。中西といえば、その歿後に光太郎が、東京中野に今も残る中西のアトリエを借りて、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)を制作しました。中西はアトリエを建てた直後に急逝し、その後、貸しアトリエとなっていたのです。

また、光太郎と同じ明治16年(1883)生まれの川瀬巴水の新版画、晩年を千葉県で過ごした東山魁夷の日本画など、逸品ぞろいでした。

そして光太郎の彫刻。以前にこのブログでご紹介したとおり、全てブロンズで「猪」(明治38年=1905)、「薄命児男児頭部」(同)、「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「手」(同7年=1918頃)、「十和田湖畔の裸婦群像のための手習作」(昭和27年=1952)、「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」(同28年=1953)の6点が展示されていました。

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いずれも新しい鋳造ですが、いいものです。入場無料ですし、お近くの方は、ぜひご覧下さい。


行きは当方の住まう香取市から東関東自動車道の宮野木JCTで京葉道に乗り換え、市原から国道297号で南下というルート、いわば内房廻りでしたが、帰りは勝浦から海岸沿いに北上する外房廻りで帰りました。途中、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた九十九里町に立ち寄るためです。

台風から変わった低気圧の余波で、大雨洪水警報が発令されており、実際、滝のような雨も降る中、愛車を駆りました。右手にちらちら見える九十九里浜の海も、だいぶ時化ていました。その白く荒々しい波濤を見ながら、さまざまな画家達が画題に選んだのもうなずけると思いました。

九十九里町に着いた頃には、雨も小降りとなっていました。国民宿舎サンライズ九十九里さんのかたわらに立つ、「千鳥と遊ぶ智恵子」碑を見て参りました。年に1、2回はここを訪れますが、何度来てもいいものです。

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昼食はそこからほど近い浜茶屋向島さんで摂りました。注文したのは、自分で食材を焼いて食べる本蛤セット+焼きおにぎり。この店も3度目の来訪ですが、いつもこれです。前回はほぼ1年前、NHK大阪放送局の「歴史秘話ヒストリア」ディレクター氏とのロケハンでした。

焼く前がこちら。蛤が3個、イワシが2尾、ホタテと栄螺が一つずつ。写っていませんが、焼きおにぎりは2個で1人前です。

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そして焼いている最中。香ばしい匂いが食慾をそそります。

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これで2,500円ほどです。「安い!」というわけではありませんが、このボリュームにしてはお手頃でしょう。ちなみに前回はNHKさんの取材費で食べさせていただきました(笑)。


さらに北上して、片貝漁港近くに今年4月にオープンした「海の駅 九十九里」に寄りました。「海の駅」というのは「道の駅」のパクリか? と思っていましたが、意外や意外、すでに全国の海岸140箇所ぐらいに設置されています。

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こちらには「いわし資料館」が併設されています。

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かつてここには「いわし博物館」(入場無料)がありました。そちらの学芸員だった永田征子さんという方は、平成16年(2004)に、博物館で起きた天然ガスの爆発事故で亡くなりました。永田さんという方は、智恵子史跡の保存にも力を入れられていたそうで、そういうことに思いを馳せつつ拝観しました。

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海の駅の2階から見た九十九里浜。雨はほぼやんでいましたが、やはり時化ていました。


さて、明日も九十九里ネタで書かせていただきます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月27日

昭和13年(1938)の今日、詩「或る日の記」を書きました。

   或る日の記000

水墨の横ものを描きをへて
その乾くのを待ちながら立つてみて居る
上高地から見た前穂高の岩の幔幕
墨のにじんだ明神岳岳のピラミツド
作品は時空を滅する
私の顔に天上から霧がふきつけ
私の精神に些かの條件反射のあともない
乾いた唐紙はたちまち風にふかれて
このお化屋敷の板の間に波をうつ
私はそれを巻いて小包につくらうとする
一切の苦難は心にめざめ
一切の悲歎は身うちにかへる
智恵子狂ひて既に六年
生活の試練鬢髪為に白い
私は手を休めて荷造りの新聞に見入る
そこにあるのは写真であつた
そそり立つ廬山に向つて無言に並ぶ野砲の列

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詩の下の画像が「水墨の横もの」、詩の右側の画像は大正2年(1913)、智恵子と婚前旅行に出かけた上高地で描いた油絵です。

詩は智恵子が歿する直前、昭和13年(1938)の10月に発表された一篇です。この前年には廬溝橋事件が起こり、日中戦争に突入しています。終末の三行はその辺りを指しています。

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