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昨日は、東京小平市に行っておりました。同市平櫛田中彫刻美術館さんで開催中の特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」を拝見のためでした。

出かける前に拝見していたNHK Eテレさんの「日曜美術館」とセットの「アートシーン」で、同展が扱われていまして、いやが上にも期待が高まりました。

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昨日は関連行事の美術講座「ロダンと近代日本彫刻」があり、先にそちらの会場である放送大学東京多摩学習センターさんに参りました。

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講師は同館学芸員の藤井明氏。昨年の連翹忌にご参加下さっています。

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定員50名ということで案内がありましたが、100名ほど集まってしまい、急遽、パーテーションをはずして会場を広げての対応。質問を含め、約1時間半でした。

まず、ロダンその人の紹介。さらに我が国に於けるロダン受容の歴史。活字として残っている早い時期の例として、岡倉天心や岩村透にまじって、光太郎の文章も挙げて下さいました。さらにロダンの影響を受けた彫刻の実作者として、荻原守衛、中原悌二郎、戸張孤雁、沼田一雅、本保義太郎、そして光太郎。

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ロダン彫刻の特徴と、具体的にどういう部分で影響が及んだのかなど、非常に興味深いお話でした。

まず、きれいな外形を追い求めるのでなく、内面から沸き上がる「生命の芸術」を追う姿勢。それからトルソ(胴体のみの彫刻)や手などの、人体の一部分をモチーフとし、やはりきれいな仕上げを施さない「不完全の美」。そして群像表現や、別個の彫刻を組み合わせる「アッサンブラージュ」。光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」もアッサンブラージュの例としてあげられていました。

さらに、ヨーロッパでもそういう動きが起こりましたが、日本でも、ロダンへの反発から生まれたベクトルもあることも。

有意義な講座でした。

その後、徒歩10分ほどの平櫛田中彫刻美術館さんへ。このブログを開設する前にお邪魔して以来で、6年ぶりくらいでした。

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同館は光雲の高弟の一人だった平櫛田中の旧宅を利用して建てられたものです。こちらが旧宅部分。

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満で107歳という長寿をまっとうした田中ですが、100歳になってから入手したという巨大なクスノキの原木が庭にそのまま残っています。試算では30年分はゆうにあるとのこと。以前にもご紹介しましたが「六十七十は はな たれこぞう おとこざかりは 百から百から」と言っていた田中、どれだけ長生きするつもりだったのでしょうか(笑)。

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さて、館内へ。

受付のすぐ前には、ロダンの「考える人」。像高40㌢ほどの小さなバージョンですが、それだけにあふれ出る生命観がかえって凝縮されているように感じます。

展示室は5つに分かれ、ただ「ロダンですよ」、「影響を受けた作家の作品ですよ」とずらっと並べるだけでなく、先ほどの藤井氏の美術講座の内容とリンクして、「生命の芸術」、「不完全の美」、「アッサンブラージュ」、「ロダンへの反発」と、それぞれテーマが与えられています。

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光太郎作品は3点。碌山美術館さん所蔵の「腕」(大正7年=1918)、「十和田湖畔の裸婦群像中型試作」(昭和28年=1953)、そして朝倉彫塑館さん所蔵の「手」(大正7年頃=1918頃)。

この朝倉彫塑館さんの「手」は、光太郎生前に鋳造された数少ないもののうちの一つで、台座の木も光太郎が彫ったものです。一昨年、武蔵野美術大学美術館さんで開催された「近代日本彫刻展 −A Study of Modern Japanese Sculpture−」で拝見して以来でした(上の方に「アートシーン」からの画像があります)。

その他、ロダンを始め、影響を受けた彫刻家の作品。なかなか見応えがありました。平櫛田中も木彫家でありながら、原型は塑像で制作をしていたり、塑像家の石井鶴三らと交流があったりと、やはりロダンの影響を受けています。

帰りがけ、図録を購入。こちらについては明日、ご紹介します。


今週末にもまた行って参ります。もう一つの関連行事として、以下があるもので。

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講師の髙橋幸次先生のご講演を以前にも拝聴し、すばらしかったのと、やはり髙橋先生には連翹忌にご参加いただいているのと、「ロダンと同時代のフランス音楽」も当方大好きなもので。

今から楽しみです。


【折々のことば・光太郎】

詩はおれの安全弁。

詩「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

光太郎は詩人としても有名ですが、なぜ彫刻家が詩を書き続けたのでしょうか。その答えは光太郎自身の言から引きましょう。

昭和14年(1939)に書かれた散文「自分と詩との関係」によれば、光太郎にとっての詩は「彫刻の範囲を逸した表現上の欲望」によって彫刻が「文学的になり、何かを物語」るのを避けるため、また「彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため」に書かれたものだというのです。

青年期には光太郎もそういう彫刻を作っていましたが、謎めいた題名やいわくありげなポーズに頼る彫刻ではなく、純粋に造型美だけを表現する彫刻を作るため、自分の内面の鬱屈などは詩として表現するというわけです。
まさしく詩は安全弁だったのです。

だからといって、光太郎の詩が副次的な産物や二義的なものということにはなりませんが。

昨日ご紹介した、土田昇氏著・みすず書房刊『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』を読み、改めて光太郎が木彫に際して使用した刃物類について、調べてみました。

光太郎自身が書き残した文章には、実は自分の使っている道具類についての記述はあまり多くありません。その中で、最も詳しく書かれているのが、昭和12年(1937)に書かれた「小刀の味」、及び同25年(1950)執筆の「信親と鳴滝」です。

まず、刃物類全般について。

 飛行家が飛行機を愛し、機械工が機械を愛撫するやうに、技術家は何によらず自分の使用する道具を酷愛するやうになる。われわれ彫刻家が木彫の道具、殊に小刀(こがたな)を大切にし、まるで生き物のやうに此を愛惜する様は人の想像以上であるかも知れない。幾十本の小刀を所持してゐても、その一本一本の癖や調子や能力を事こまかに心得て居り、それが今現にどうなつてゐるかをいつでも心に思ひ浮べる事が出来、為事する時に当つては、殆ど本能的に必要に応じてその中の一本を選びとる。前に並べた小刀の中から或る一本を選ぶにしても、大抵は眼で見るよりも先に指さきがその小刀の柄に触れてそれを探りあてる。小刀の長さ、太さ、円さ、重さ、つまり手触りで自然とわかる。ピヤニストの指がまるでひとりでのやうに鍵をたたくのに似てゐる。桐の道具箱の引出の中に並んだ小刀を一本ずつ叮嚀に、洗ひぬいた軟い白木綿で拭きながら、かすかに錆どめの沈丁油の匂をかぐ時は甚だ快い。(「小刀の味」)

 あたりまへの事だが、美術家にとつて一番大切なのは道具である。画家の筆墨、彫刻家の鑿や小刀、これは命から二番目といひたい。
(略)
 私にとつて彫刻の道具はこの世で最も神聖なものであり、又最愛の伴侶である。他の一切のものから聖別された此のものは、どんなことがあつても身を以て護り通さねばならない。形勢がいつ爆撃をうけるか分からなくなつた時、私は亡父の形見の道具箱に(これには小刀類が充満してゐたが)細引をかけて、どう持つても抽出のすべり出さないやうにした。いちばん手馴れて別れ難いノミや小刀の最小限度十五六本は別に毛布にくるみ、これも亡父譲りの砥石二丁と一緒に大きな敷布に厚く包んで、これを丈夫な真田紐で堅固にゆはへ、重さ二貫目弱であつたが、空襲警報の鳴るたびに肩にかけ、腰に飯盒をぶらさげて、防火用のバケツと鳶口とを手に持つて往来に飛び出したのであつた。昭和二十年四月十三日の大空襲で遂に駒込林町のアトリエが焼けた時、私はとりあへず近所の空地にかねて掘つてあつた待避壕の中へ避難したが、そこへ持ちこんだのは夜具蒲団の大きな包二つと、外には例の道具箱と、肩からかけた敷布にくるんだ小刀と砥石とだけであつた。眼の前でアトリエは焼けおち、中にあつた蔵書と作品とはみるみる火に包まれてしまつたが、何だか惜しい気も起らず、むしろさつぱりした感じで、ただひたすら此の道具がありさへすればといふ考のみが頭をつよく占めてゐた。古いがらくたや、古い製作など、どしどし燃してしまへと、これらの道具がいつてゐるやうにさへ思へた。
 その後、道具類と夜具蒲団とは、一旦利根河畔の取手町にある宮崎稔氏の宅に運び、更に取手駅から岩手県花巻町の故宮澤賢治の実家に送られ、その実家が戦火に焼かれた後、転々して、今はこの太田村山口の山小屋に落ちついたといふ次第である。私は今でもその道具箱と砥石をいつでも持ち出せる待機の状態に置いてゐる。山に頻々と起る山火事をおそれての事だ。(「信親と鳴滝」)

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この刃物類のうち、光太郎が特にお気に入りだったのは、幕末から明治にかけての鍛冶職人・栗原信親(のぶちか)の作品でした。

信親は嘉永2年(1849)、現在の千葉県白井市近辺の生まれ。ちなみに光太郎の父・光雲は嘉永5年(1852)の生まれです。刀工として名高かった栗原信秀の弟子となり、明治に入ってから師匠の娘と結婚して婿養子となりました。明治12年(1879)には、後の大正天皇である嘉仁親王の生誕を祝し、自ら打った刀を献上するなどしています。しかし、同9年(1876)に出された廃刀令の影響はいかんともしがたく、やがて彫刻刀の制作に転身しました。
この点、昨日ご紹介した千代鶴是秀と似ています。同じく刀工の家系だった是秀は鑿や鉋などの大工道具を主に扱うようになりました。

光太郎の信親評は以下の通り。

 わたくしの子供の頃には小刀打の名工が二人ばかり居て彫刻家仲間に珍重されてゐた。切出(きりだし)の信親(のぶちか)。丸刀(ぐわんたう)の丸山(まるやま)。切出といふのは鉛筆削りなどに使ふ、斜に刃のついてゐる形の小刀であり、丸刀といふのは円い溝の形をした突いて彫る小刀である。当時普通に用ゐられてゐた小刀は大抵宗重(むねしげ)といふ銘がうつてあつて、此は大量生産されたものであるが、信親、丸山などになると数が少いので高い価を払つて争つてやつと買ひ求めたものである。此は例へば東郷ハガネのやうな既成の鋼鉄を用ゐず、極めて原始的な玉鋼(たまはがね)と称する荒がねを小さな鞴で焼いては鍛へ、焼いては鍛へ、幾十遍も折り重ねて鍛へ上げた鋼を刃に用ゐたもので、研ぎ上げて見ると、普通のもののやうに、ぴかぴかとか、きらきらとかいふやうな光り方はせず、むしろ少し白つぽく、ほのかに霞んだやうな、含んだやうな、静かな朝の海の上でも見るやうな、底に沈んだ光り方をする。光を葆(つつ)んでゐる。さうしてまつ平らに研ぎすまされた面の中には見えるやうな見えないやうなキメがあつて、やはらかであたたかく、まるで息でもしてゐるかと思はれるけはひがする。同じそさういふ妙味のあるうちにも信親のは刃金が薄くて地金があつい。地金の軟かさと刃金の硬さとが不可言の調和を持つてゐて、いかにもあく抜けのした、品位のある様子をしてゐる。当時いやに刃金のあつい、普通のぴかぴか光る切出を持たされると、子供ながらに変に重くるしく、かちかちしてゐてうんざりした事をおぼえてゐる。丸山のは刃金があついのであるが、此は丸刀である性質上、そのあついのが又甚だ好適なのであった。
 為事場の板の間に座蒲団を敷き、前に研ぎ板を、向うに研水桶(とみづをけ)(小判桶)を置き、さて静かに胡坐をかいて膝に膝当てをはめ、膝の下にかつた押え棒で、ほん山の合せ研を押へて、一心にかういふ名工の打つた小刀を研ぎ終り、その切味の微妙さを檜の板で試みる時はまつたくたのしい
。(「小刀の味」)

 ノミや小刀は亡父遺愛のものはもとより、私自身で求めたものでも、もう今日では入手不可能のやうな、すばらしい利刀ばかりである。日清役から日露役へかけての時代までは生きてゐた昔の伝統に従つて、当時の鍛工が玉鋼で鍛へたノミや小刀類の切味はちよつと言葉ではいひ表はせない。中でも信親(のぶちか)といふ鍛工のうつた切出(きりだし)(鰹節を削る小刀のやうな形をしたもの)の如きは実に物凄いといひたくなる。第一その形がいい。小刀の表といふのは黒い背の方だが、その地金の黒い、ねばり強いやうな肌といひ、両側を斜めに削つてあるその削り度合の釣合といひ、見るからに名刀の品格を備へてゐる。元来小刀やノミは地金で大体の形をつくり上げ、その裏に鋼の板を焼きつけて、これが刀となるのであるが、この地金と鋼との厚さの釣り合、硬さの釣合、さういふものが切味に大影響を持つてゐる。鍛工によつてそれがそれぞれ違ふので、おのおの独特の持味が出てくるわけである。信親といふ鍛工のは地金も割に軟く、鋼も薄く出来てゐる。砥石でとぐと、地金がやはらかくおりて、黒雲のやうな研水が出る。地金のおりる勢で、鋼の刃先がぴたりと研げる。みると地金の刃面(はづら)の先に真一文字にうすく鋼の刃が白く光つて、いかにも落ちついてゐる。裏をかへして刃裏をみれば、もちろん全面が鋼で、ただまつ平に鏡のやうに光つてゐる。その光りかたが煙つてゐる。少し白ばんで、むらむらと霧がかかつてゐるやうで、ただやたらにぴかぴかとは光つてゐない。鍛へる時に打ちかへした鋼の層によつて出来る木目(もくめ)が見えるやうな見えないやうな工合にかすかにある。もう随分昔から研いでは使つたので、中には始め五六寸の長さであつた小刀が次第に短くなつて、一番もとの地金ばかりの裏に刻印してある信親といふ銘が小刀の柄から出てきてしまつたのもある。かうなると尚更大切なやうな気がする。(「信親と鳴滝」)

実に手放しの褒めようです。そして、このような名工の作った名品を、このように表現できる光太郎の力量にも注目せざるを得ないでしょう。まさに「鬼に金棒」。決して「猫に小判」ではないわけです。

その他、「信親と鳴滝」では、京都鳴滝産の砥石についても紹介されていますが、割愛します。

信親以外に光太郎が使用していた名工の作というと、「卍正次」と称された宮内省御用刀工にして、光雲と同じく帝室技芸員だった桜井正次(まさつぐ)の鑿があり、大正15年(1926)の短歌に謳われています。

 正次がうちし平鑿くろがねのうら砥ふまへて幾夜わが砥ぐ

残念ながら、是秀作の鑿ないしは彫刻刀を実用していたという記述は、『高村光太郎全集』には見あたりません。しかし、書簡のやりとりや、信親の娘婿が石膏取り師の牛越誠夫で、光太郎と交流があったこと(最後の大作・「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏取りは牛越が担当しました)、光太郎と親しかった光雲高弟の平櫛田中が是秀の作を使っていたことなどから、その可能性は高いと思われます。

しかし、『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』中の、是秀の注文受け帖に関する項には、光太郎の名が出て来ません。まぁ、光太郎が直接是秀に注文しなくとも、販売店を通して購入することが可能だったので、そのあたりなのでは、と推測しています。

下記はほとんど唯一、光太郎が木彫制作中の写真。もしかすると、手に持っている刃物が是秀作かも知れません。

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信親、正次、是秀など、光太郎と道具について、今後の究明課題として気に留めておこうと思いました。

追記 やはりありました!


【折々のことば・光太郎】

この一人の彫刻の徒弟は、 あの金髪の美少年と笑みかはす、 生きて動く兎のやうな十七の娘のからだを 嫉妬に似た讃嘆に心をふるはせながら、 今粘土を手に取つて、 喰べるやうに見るのである、 見るのである。

詩「五月のアトリエ」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

木彫ではなく、塑像制作中の一コマです。「金髪の美少年」は五月の陽光の比喩、「十七の娘」は彫刻のモデルです。

五官全てを触覚に還元する光太郎、若さにあふれたモデル娘が放つ生命力の躍動を、まさしく喰べるように見ています。

新刊情報です。久々にものすごく読みごたえのある書籍でした。

職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容

2017年2月10日 土田昇著 みすず書房 定価3,700円+税

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刀工名家に生まれ、廃刀令後の明治に大工道具鍛冶として修行し、道具を実際に使う大工たちの絶賛によってゆるぎない地位を得た千代鶴是秀(1874-1957)。
修業時代に師から使用者重視という製作思想の根幹を心に刻みつけられた是秀の、機能美の極致のような作品の中で、唯一ほかと異なるたたずまいをもつのが一群のデザイン切出小刀である。自由で流麗な意匠をまとったこれら切出群は、実用面からいえば使いにくく、道具が道具でなくなるギリギリの地点に位置する。抜群の切味を隠し持ちながら、使用されることを想定しない非実用の美。道具鍛冶として名声を得ながら、是秀はなぜ実用を犠牲にした美しいデザイン切出を作ったのか。
著者は祖父、父と三代にわたる大工道具店を営む中で、長年、千代鶴是秀の作品に向き合ってきた。是秀からじかに教えをうけた父、土田一郎から伝えられた貴重な話や資料を手がかりに、朝倉文夫らとの交わりをはじめ、是秀の周囲の芸術家や文化人、職人たちの跡をたんねんにたどり、その作風変化の謎を時代という大きな背景の中でひとつひとつときほぐしてゆく。鑿や鉋、切出と深く対話するように。鍛冶文化の豊かさを伝えながら。


明治から昭和にかけて活躍し、名人と謳われた大工道具鍛冶の千代鶴是秀(ちよづる・これひで)の評伝です。

色々な意味で、すさまじい職人と言わざるを得ません。師匠の石堂寿永ともども、砂鉄から作る日本古来の玉鋼(たまはがね)に見切りを付け、輸入物の洋鋼(ようはがね)での制作を選択します。明治も後期となると入手できる玉鋼の品質にばらつきが生じたためです。使う人の立場に立ってその品質を追求するなら、あっさりと伝統を打ち破るという革新性には感服しました。

一方で、機能性を犠牲にし、デザイン性を重視した非実用的な切り出し小刀なども制作しています。それでいてその製法は古来の方式ににのっとった、手間暇のかかる方法であるという矛盾。通常の刃物は、使うたびに研がれ、摩滅していく、いわば消耗品です。しかし、非実用的な刃物であれば、使われることがないので研ぐ必要もなく、そのフォルムを保ち続けます。著者の土田氏曰く「道具というものの消えてなくなる哀れな運命をもしかすると身にまとわずにすむかもしれないものとして提示した可能性はとても高い」。哲学的とさえ思われます。

その他、古来の名工の技術を徹底的に調べ上げて取り入れたり改良したり、制作に際しては動力を伴う機械類を一切使用しなかったり、戦時中には粗製濫造で済まされる軍刀の制作に手を染めなかったり、本当に色々な意味で、すさまじい職人と言わざるを得ません。


詳細が不明なのですが、光太郎は是秀の作った鑿(のみ)ないしは彫刻刀を使っていたと思われます。

『高村光太郎全集』には、是秀の名が四ヶ所に現れます。

うち三ヶ所は、光太郎から是秀に宛てた書簡です。いずれも昭和20年(1945)、東京を焼け出され、岩手花巻の宮沢賢治実家、旧制花巻中学校の元校長・佐藤昌宅に身を寄せている際にしたためられました。

五月十五日附の貴翰岩手県花巻にて拝受しました、小生五月十五日東京発当地にまゐり居ります。当分此地に落ちつく気で居りますが其後肺炎にかかり昨今漸く恢復に向ひました次第、いづれ全快の上いろいろ申上げたく存じます。東京の空襲ますます烈しき由、目黒方面は如何でせうか、切に御安泰をいのります、おてがミ拝受のしるしまで、(6月9日)

この文面から、二人は旧知の仲だったことがうかがえます。ちなみに是秀は光太郎より9歳年長です。

拝復 毎々御見舞のおてがミ拝受忝く存じます、東北地方も今日では烈しい戦場となりましたが花巻町はいまのところ無事で居ります。小生目下彫刻用の雑道具をあつめたり、砥石を探したりして居ります。刃物類など中々入手に困難の状態です。 東京に居られて御無事なのは此上もない幸運と存じ上げます、ますます御健勝のほど祈上げます、(8月3日)

やはり刃物関係の話題が出ています。かつて是秀作の刃物を使っていたことが推測されます。そして、この一週間後に宮沢家は空襲で全焼、佐藤昌宅に一時的に移り、以下の書簡をしたためます。

八月十八日付の貴翰拝受 小生八月十日花巻町空襲の際又々戦火に見舞はれて罹災、目下さし当つての避難中にて、近く太田村といふ山間の地に丸太小屋を建てる予定でありますが、火事のため、折角少々集めた刃物其他を又焼失いたしました。 お言葉により鉋、鑿、手斧、まさかりなど、あらためてそのうちお願申上げたく存じ居りますが、とりあへず御返事まで 艸々(8月28日)

是秀から光太郎に、刃物類提供の申し出があったことがわかります。

ところが、結局それは実現しなかったと思われます。この翌月からの、光太郎が郵便物の授受を記録したノートに是秀の名が見えず、日記にも是秀から大工道具類を受け取ったという記述がありません。

これで是秀とのつながりは切れたのかと思いきや、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京し、故・中西利雄のアトリエを借りて住んでいた昭和28年(1953)の日記に、突如、是秀の名が出て来ます。

七月八日 水 くもり、雨、 鶴千代是秀翁くる、 

光太郎、「千代鶴」を「鶴千代」と誤記していますが、これは間違いなく是秀でしょう。是秀がなぜ訪ねてきたのか、どんな話をしたのかなどは、一切記述がありません。ただ、是秀の娘婿の牛越誠夫が、粘土で作った塑像をブロンズに移す際の石膏型を作る石膏取り職人で、「乙女の像」の石膏取りを担当しており、その関係があったとは推定できます。

『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』には、牛越の娘(=是秀の孫)と光太郎が一緒に写った写真が牛越家に伝わっていたという記述がありました。ちなみに同書を読むまで、是秀と牛越が義理の親子だったとは存じませんでした。

さて、光太郎は是秀の作った鑿(のみ)ないしは彫刻刀を使っていたと思われる、と書きましたが、長くなりましたので、そのあたりの考察は明日書きたいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

おう冬よ、 このやはらぎに満ちた おん身の退陣の荘重さよ。 おん身がかつて あんなに美美しく雪で飾つた桜の木の枝越しに、 あの神神しいうすみどりの天門を、 私は今飽きること無く見送るのである。

詩「冬の送別」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

「春が来た」と言わずに「冬が往ってしまった」とするあたり、冬をこよなく愛した光太郎の本領発揮です。寒さに弱い当方には到底考えつきません(笑)。

「美美しく」は古語「美美(びび)し」=「美しい、はなやかである」の連用形。誤植ではありません(笑)。

日曜日の朝、当地はうっすらと雪が積もりました。「美美し」とは思いましたが、「冬はもういいよ」という感覚です。愛犬は大喜びで雪の上を転げ回っていました。気が知れません(笑)。

光太郎を巡る人々を取り上げるテレビ番組が相次いで放映されます。

美の巨人たち ボーグラム『マウント・ラシュモア・ナショナル・メモリアル』

テレビ東京  2017年2月4日(土)  22時00分~22時30分
BSジャパン 2017年3月1日(水) 23時00分~23時30分

新大統領の動向に注目が集まるアメリカ。その中西部ラシュモア山に、偉大なる4人の大統領の顔が彫られた巨大彫刻があります。一体どのように彫られたのか?その苦闘の物語。

今回の作品は、アメリカ中西部サウスダコタ州ラシュモア山に彫られた巨大彫刻。4人の大統領の顔が彫られた、壮麗で精密な作品です。そのうちの一人、ワシントンの顔の長さは18m30cm、7階建てのビルとほぼ同じ高さです。作者はアメリカの彫刻家ガッツォン・ボーグラム。53歳の時依頼を受け、驚きの工法で作り上げました。しかしなぜこの4人?なぜこの並び?また、山頂にある謎の小部屋、そこに秘められた思いとは?彫刻家と作業員たちの苦闘の物語、お見逃しなく。

ナレーター 小林薫  蒼井優


毎回一つ(時折複数)の美術作品を取り上げ、その背景や人間ドラマを掘り下げる番組で、平成12年(2000)のスタートですから、もう長寿番組の範囲に入ったといっていいでしょう。

今回取り上げられるのは、アメリカの彫刻家・ボーグラム。たしか、この番組では初めて取り上げられるはずです。番組説明では、「ガッツォン・ボーグラム」となっていますが、フリー百科事典ウィキペディアでは「ガットスン・ボーグラム」で登録されています。また「ガットソン・ボーグラム」と表記する場合もあります。

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ファーストネームのカタカナ表記が定まっていないほど、日本ではなじみの薄い人物ですが、この作品は「ああ、これか」という方が多いのではないでしょうか。

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明治39年(1906)、3年半にわたる欧米留学に出た光太郎、まずはニューヨークに落ち着きます。まずアメリカで経済的にめどを付けるのが、当時の私費留学生の多くが辿った道で、碌山荻原守衛などもそうでした。

光太郎は東京美術学校教授・岩村透が書いてくれた紹介状を手に、彫刻家のヘルモン・アトキンス・マクニールやダニエル・チェスター・フレンチを訪ねますが、皆歓待はしてくれるものの、雇うとは言ってくれません。そこで、メトロポリタン美術館でその作品を見て感心したボーグラムに体当たり的に求職。すると、日給1ドルで助手として採用してくれました。ボーグラムは光太郎以前にも、光太郎の先輩に当たる本保義太郎という彫刻家を雇っていた時期があり、日本人には慣れていたようですし、困っている者を抛っておけない義侠心の持ち主だったようです。

ここで光太郎は実践的な彫刻制作を学びます。木彫は幼少時から父・光雲に叩き込まれてきた光太郎ですが、粘土による塑像制作は、東京美術学校で経験があるものの、教える方のレベルも低く、まだまだ不十分でした。それが、ボーグラムの仕事を目の当たりにし、非常に役に立ったといいます。

しかし、光太郎はボーグラムの彫刻を、それほど高く評価しませんでした。スケジュール通りにこなすビジネスライクな仕事ぶりには失望したと回想していますし、のちに取り組む岩壁の巨大彫刻もキワモノと見ていたようです。

ボーグラムは「美の巨人たち」で今回取り上げられるマウント・ラシュモアの大統領群像(1927~1941)以前にも、ジョージア州ストーンマウンテンの岩壁に南北戦争の英雄、リー将軍やジャクソン将軍などの巨大レリーフを手がけています。この制作の際には、光太郎やロダンにも声をかけたとのこと。

僕が日本に帰つてから、先生から手紙で、南部のストーン マウンテーンの絶壁の、一マイルも離れた場所から見える一枚岩の平らなところに、南軍のリー将軍だのジヤクソン将軍だのの像を彫るから、手伝いに来いと言つて来た。クレーンのようなものを山の上からつつて、彫る人はそのクレーンから鎖でぶら下る。電気仕掛けののみで、どこを何フイート彫れと下から電話があれば、そこをダダダダダダダとやつて、後それをこなしてゆけば彫れるという仕組である。フランスのロダンにも加勢してくれと頼んだからと、手紙には書いてあつたが、もちろんロダンは直ぐ断つたらしい。僕には、そんなことを考えるアメリカ人というものは不思議な気がした。(「青春の日」 昭和26年=1952)

ところが光太郎、人間的にはボーグラムを敬愛し続けていたようで、大正6年(1917)、ニューヨークでの個展を企画し、そのための資金集めに彫刻頒布の会を立ち上げます。入会者を募り、当時の金額で300円から5,500円の範囲で彫刻の注文を受けるというものです。その趣意書にはボーグラムの名も。

わたくしは彫刻家であります。親ゆづりの彫刻家であります。幼少の比から彫刻の中で育ち、やがて東京美術学校彫刻科卒業後、アメリカに往つて紐育の彫刻家ボーグラム先生の内弟子兼助手となつて働らき、技倆に就てもかなりの信用を得ました。(略)今度の戦争終結後、適当の時に、紐育市で個人展覧会を開かうと言ふ気になりました。ボーグラム先生も喜んでゐてくれます。

「幼少の比」は「幼少の頃」或いは「幼少の日」の誤植ではないかと思われます。「今度の戦争」は第一次世界大戦です。

そして最後に22名の賛同者の名が挙げられていますが、ボーグラムの名も入っています。

ちなみにこの彫刻頒布会は、結局入会者が少なくものにならず、ニューヨークでの個展も幻と終わりました。しかし、これを機に、代表作の「手」、「裸婦坐像」などの秀作が生まれました。

しかし、恩人とはいえ、やはり彫刻家としての評価はあまり高くなかったというのが正直なところのようです。昭和8年(1933)に岩波書店から光太郎の書き下ろしで刊行された、世界の彫刻事情を紹介する『現代の彫刻』には、

アメリカからはまだ然るべき人が出ない。もつと地面から生れた彫刻が欲しい。

という一節があります。


実を言うと当方、ほとんど光太郎の書いたものを通してしかボーグラムという彫刻家を存じません。「美の巨人たち」で勉強しようと思います。

皆様もぜひご覧下さい。


もう1件、光太郎にも触れる宮沢賢治についてのテレビ番組放映もありますが、長くなりましたので明日に廻します。


【折々のことば・光太郎】

僕等はいのちを惜しむ 僕等は休む事をしない 僕等は高く どこまでも高く僕等を押し上げてゆかないではゐられない

詩「僕等」より 大正二年(1913) 光太郎31歳

「僕等」はむろん、光太郎と智恵子です。恋愛が成就し、共に手を携えて芸術の道に精進していこうという高揚感に溢れています。画家として歩み始めていた智恵子も当初はそのように考えていたのでしょうが、しかし、途中で脱落。デッサンやデザインには特異な才能を持っていた智恵子でしたが、油絵の具で彩色する段になると、どうしても自分で納得の行くものが出来ませんでした。それが後の大いなる悲劇の最も大きな要因だったように思われます。

今週火曜日に開幕した三重県立美術館さんの「再発見!ニッポンの立体」展について、報道が為されています。

まず、地元紙『伊勢新聞』さん。

土偶や仏像、「ペコちゃん人形」 県立美術館 「立体」テーマの企画展

007 「立体」をテーマにした企画展「再発見!ニッポンの立体」が二十四日、津市大谷町の県立美術館で始まった。縄文時代の土偶から「ペコちゃん人形」まで、約百五十点の立体作品が並ぶ。四月九日まで。
  日本の立体作品は西洋の影響を受けた彫刻に注目が集まりがちだが、前近代の作品にも焦点を当てようと企画。人や動物などの実物に近づけた作品やユーモアを意識した作品など、コンセプトごとに展示した。
  平安時代の仏像や高村光太郎の彫刻作品「兎」、津市在住の中谷ミチコさんによるレリーフなど、県内外の作品を集めた。佐藤製薬の「サトちゃん人形」など、現代のマスコットキャラクターも並ぶ。
  田中善明学芸員は「かつては信仰の対象だった立体作品は、芸術や商業にまで広がりを見せているが、表現の方法は昔と通じているところがあるということを感じてもらえれば」と話していた。
  観覧料は千円(学生八百円、高校生以下無料)。午前九時半―午後五時まで。月曜休館(三月二十日は開館、同二十一日は休館)。問い合わせは県立美術館=電話059(227)2100=へ。


続いて主催に名を連ねる『読売新聞』さんの三重版。

日本の立体作品展 県立美術館で開幕

 縄文時代から現代までの立体造形作品を集めた展覧会「再発見!ニッポンの立体」(読売新聞社など主催)が24日、津市大谷町の県立美術館で始まった。
 高村光太郎など著名な作家の芸術作品だけでなく、ペコちゃん人形や縄文土偶、彫刻など多彩な作品154点を展示。一本の木を削り出した彫刻家棚田康司さんの作品「卓の少年―太陽―」「卓の少年―月―」は、独特な少年の表情が目を引く。
 同館学芸普及課長の田中善明さんは「日本の立体作品に西洋文化が与えた変遷を楽しんでほしい」と話している。
 4月9日まで。午前9時半~午後5時。月曜休館(3月20日は開館し、21日休館)。一般1000円、学生800円、高校生以下無料。問い合わせは県立美術館(059・227・2100)。
008

009その後、同館サイトで出品目録がアップされました。それによると、光太郎作品は、ブロンズの「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「大倉喜八郎の首」(同15年=1926)、それから、これまで巡回してきた群馬県立館林美術館さん、静岡県立美術館さんでは出ていなかったと思われる、木彫の「兎」(明治32年頃=1899頃)が並んでいます。右の写真は光太郎令甥・故髙村規氏によるものです。

光太郎の父、高村光雲の木彫はこれまで同様2点。「江口の遊君」(明治32年=1899)と「西王母」(昭和6年=1931)です。さらに、光雲の師・高村東雲の「西行法師像」(江戸時代後期)もでているとのこと。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

冬は見上げた僕の友だ 僕の体力は冬と同盟して歓喜の声をあげる 冬よ、冬よ 躍れ、さけべ、腕を組まう

詩「冬の詩」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

光太郎は「冬の詩人」と称されることもあります。実際に冬を好み、冬を題材にした詩を多く書いた他、その硬質な述志の詩句が、冬の厳しさを連想させるためです。

当方、この点には共感できませず、愛猫と一緒にコタツで丸くなっております(笑)。

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東京小平から特別展情報です。

特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」

期  日 : 2017年2月3日(金)~3月12日(日)
会  場 : 小平市平櫛田中彫刻美術館 東京都小平市学園西町1-7-5
時  間 : 午前10時から午後4時
料  金 : 一般800円(640円) 小・中学生 150円(110円)
       ※20人以上の団体の方は( )内割引料金

「考える人」「地獄の門」などによって世界的に知られるオーギュスト・ロダンの没後100年を記念して、ロダンと国内の彫刻家の作品を取り上げながら、ロダンが日本の彫刻界に与えた影響を、これまでにない広い角度から紹介します。

展覧会ではロダンの代表作「考える人」「カレーの市民」をはじめ、選りすぐりの近代日本の彫刻作品 約60点を、国内20ヶ所以上から集め展示いたします。

〈主な出品作家(予定)〉
オーギュスト・ロダン、朝倉文夫、石井鶴三、荻原守衛、菊池一雄、斎藤素巖、佐藤忠良、高田博厚、高村光太郎、辻晉堂、戸張孤雁、中原悌二郎、平櫛田中、藤井浩祐、藤川勇造、舟越保武、堀進二、本郷新、毛利教武、横田七郎

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関連行事

◆ 美術講座「ロダンと近代日本彫刻」
 と き 2月26日(日)午後1時30分~  
 ところ 放送大学 東京多摩学習センター 
      小平市学園西町1-29-1 一橋大学小平国際キャンパス内
 ※駐車場はありません
 講 師 藤井明(当館学芸員)
 定 員 50名    
 参加費 無料。事前申込みは必要ありません。
 問合せ 小平市平櫛田中彫刻美術館 電話:042-341-0098

◆講演会&コンサート「音楽とめぐるロダンの世界」
 と き 3月4日(土) 午後1時30分~
 ところ ルネこだいら レセプションホール
      西武新宿線「小平駅」下車、南口徒歩3分
 ※駐車場はありません
  第一部 講演会
   演題 「歿後100年。本当のロダンをご存知ですか?」
   講師 髙橋幸次氏(日本大学教授)
  第二部 コンサート  「ロダンと同時代のフランス音楽を中心に」
   曲 目 ドビュッシー「月の光」、ラヴェル「ソナチネ第2楽章」ほか
   出 演 ラ・ペスカ(斉藤智恵美(ソプラノ)、竹内綾(ピアノ))
   定 員 100名
   参加費 無料(全席自由) 事前申込みは必要ありません。
 問合せ 小平市平櫛田中彫刻美術館 電話:042(341)0098
 小平市文化振興財団    電話:042(345)5111


光太郎作品は、昭和27年(1952)の、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作。碌山美術館さんの所蔵です。

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その他、ロダンをはじめ、錚々たる彫刻家の作品が一堂に会します。また、館の名称に冠されている平櫛田中は、光雲門下。ロダニズムとはまた異なった潮流での大家です。そうした流れの中で光太郎彫刻を捉えるいい機会だと思います。

関連行事で講師を務められるお二人とも、連翹忌にご参加下さっている方々ですので、これは当方も行かざるを得ません。今から楽しみです。

皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

私にあなたが無いとしたら―― ああ それは想像も出来ません 想像するのも愚かです 私にはあなたがある あなたがある

詩「人類の泉」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

高らかに宣言された、智恵子への愛。

しかし、後の大きな悲劇の胚珠は、すでにこの詩に見て取れます。引用部分の直前には、「私は今生きてゐる社会で もう万人の通る通路から数歩自分の道に踏み込みました もう共に手を取る友達はありません ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです 私はこの孤独を悲しまなくなりました」という一節があります。世間と距離を置いて二人だけの世界に入ろうという姿勢は危険ですね。

また、終末近くには「あなたは私の為めに生れたのだ」というフレーズもあります。しかし、光太郎は逆に「私はあなたの為めに生れたのだ」とは、決して言いません。智恵子の主体性への理解が不十分だったと言えるのではないでしょうか。

三重県から企画展情報です。

昨年から始まり、群馬県立館林美術館さん、静岡県立美術館さんを巡回した企画展の、最終会場となります

再発見!ニッポンの立体

期 日 : 2017年1月24日(火)~2017年4月9日(日)
会 場 : 三重県立美術館  三重県津市大谷町11番地
時 間 : 午前9時30分~午後5時  (入館は午後4時30分まで)
休館日 : 月曜日(祝日休日にあたる場合は開館、翌日休館)
料 金 : 一般1,000(800)円 学生800(600)円 高校生以下無料
      ( )内は20名以上の団体料金、前売り料金

―土偶、仏像、人形からフィギュアまで約150点、大集合―
 日本には古くから仏像、神像、人形、置物、建築の彫物など、生活や信仰に結び付いた豊かな立体表現があります。ところが明治時代に入り西洋の彫刻が伝えられて以降、彫刻とそうでないものとに分けられたために日本古来の立体造形の多くは正統的な美術(ファイン・アート)として位置づけられませんでした。それでも、江戸時代以前の造形感覚が忘れられることはなく、精巧な技術を駆使して本物そっくりに似せることを目指したもの、それとは正反対の誇張や変形、単純化、戯画化などを加えたもの、小さなものや自然に寄せる日本人の感性に根ざしたもの等がつくられ、鑑賞され続けてきました。こうした流れは、現代のフィギュアやマスコットなどにも受け継がれているといえます。
 本展では、ジャンルを超えた多彩な立体表現約150点により、日本における立体表現が近代という時代の波を乗り越え、現在までどのように展開してきたのかを探ります。

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関連行事

美術セミナー 「再発見!ニッポンの立体」展にちなんで
1月28日(土)午前10時-午前11時30分
講師:毛利伊知郎(三重県立美術館顧問) 会場:亀山市文化会館 2階 会議室(亀山市東御幸町63)
事前申込不要、参加費無料

アーティスト・トーク
本展の出品作家が、出品作やこれまでの制作について、作品を前にお話します。
2月11日(土) 保井智貴 2月25日(土) 棚田康司 3月18日(土) 中谷ミチコ
いずれも午後3時から(40分程度を予定)参加には企画展観覧券が必要です。

ギャラリートーク
担当学芸員が展示室内で展覧会や作品についてわかりやすくお話しします。
1月29日(日) 2月12日(日) 3月12日(日) 3月26日(日)
いずれも午後2時から(1時間程度)

週末限定!だるま絵付け体験
展覧会カタログの表紙にもなっている「高崎だるま」のミニサイズに絵付けをしてみませんか。
水性ペンで模様を描いたり、布や紙をコラージュしたりしてオリジナルなだるまを作りましょう。
だるまは持ち帰ることができます。
開催日:会期中の土日祝日 場所:エントランスホール
参加無料・各日40個限定で、なくなり次第終了


光太郎のブロンズ彫刻が2点、「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「大倉喜八郎の首」(同15年=1926)。光雲の木彫も2点、。「江口の遊君」(明治32年=1899)、「西王母」(昭和6年=1931)が展示されるはず(電話で問い合わせてみたのですが、今一つ要領を得ませんでした)です。

追記 その後、上記以外に光太郎の木彫「兎」、光雲の師・高村東雲の「西行法師像」が出品されていることが判明しました。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

妥協は禁制 円満無事は第二の問題 己は何処までも押し通す、やり通す

詩「狂者の詩」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

旧態依然の日本美術界に、欧米仕込みの新風を吹き込む闘いの中で生まれた詩句です。この詩を書いた直前には、京橋の読売新聞社で第一回ヒユウザン会展が開催され、油絵を出品していました。

昨日は、当会顧問・北川太一先生を囲む新年会で、都内に出かけておりました。

主催は北川先生が都立向丘高の教諭をなさっていた頃の教え子の皆さんである北斗会さん。北川先生とお会いするのは一ヶ月ぶりでしたが、連翹忌や女川光太郎祭にご参加なさっている方を除く、北斗会の皆さんの大半とは、一年ぶりでした。

会場は毎年、東大正門前のフォーレスト本郷さん。昨日から大学入試センター試験で、東大さんでも試験が行われていました。

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毎年この席上で、北川先生からの年賀状を戴いています。

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曰く「鶏よ くらき夜をまもり あかるき曙をよべ」。戦前に逆戻りしたようなこのところの世相を背景に、参会者のお子さんやお孫さん達の世が明るい未来でありますように、との意だそうです。士官として軍隊生活を経験なさっている先生ならではの重いお言葉でした。


さて、毎年、この会に行く前に、必ず同じ方面で光太郎や光雲ゆかりの場所や、関わりのあった人物の記念館などに寄ることにしています。

今年は、本駒込駅近くの金龍山大圓寺さんというお寺に寄りました。

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こちらは光雲ゆかりの寺院です。

光雲晩年の昭和4年(1929)から同8年(1933)にかけ、光雲と、その高弟の山本瑞雲・三木宗策の手になる七体の観音像が寄進されました。いずれも一丈を超える大作だったそうです。

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左上から右下の順で、聖、如意輪、不空羂索、十一面、馬頭、準提、千手の各観音像です。

ところが、太平洋戦争の空襲で、全て灰燼に帰したとのこと。残念です。

ただ、最初に手がけられた聖観音のみ、鋳銅の像も作られており、そちらは現在も大圓寺さんの境内に露座で鎮座ましましています。

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現在は、戦後、光雲の系譜に連なる仏師たちによって復刻された七観音が収められましたが、それぞれ元の像より小さいサイズだそうです。現ご住職の奥様とおぼしき方が、堂内をご案内下さいました。

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海軍中将だった小笠原長生、同じく海軍の元帥・東郷平八郎らも、光雲同様、大圓寺さんとゆかりが深く、光雲を交えての座談会などがこちらで開かれたこともあり、当時の写真や東郷の書などが飾られていました。

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焼失した七観音以外に、光雲が彫った像が現存しているのですが、そちらは普段は厳重に保管しているとのことで、残念ながら拝観は叶いませんでした。

かわりに、大圓寺さんのパンフレットを戴いて帰りました。そちらには現存の像の写真が載っています。

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下の画像は慈母観音像。

台座にあたる部分は、日清戦争時に東郷元帥、小笠原中将が乗艦していた巡洋艦・浪速の外壁の鉄板だそうです。観音像が立っている部分は、砲弾が貫通した穴。小笠原の居室だった分隊長室の壁だそうで、小笠原が母から守り本尊として渡された観音像は爆風で真っ二つになったとのこと。それが身代わりになってくれたと信じた小笠原が大圓寺さんに鉄板を奉納、この話を聞いた光雲が、めくれた鉄板を波に見立て、波間に立つ観音像を彫ってあげたそうです。洒落ています。右下の童子は高弟の三木宗策の作だそうです。

やはり像は拝観できませんでしたが、鉄板は本堂に納められていました。

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これ自体はいい話ですが、七観音が空襲で焼失した件なども併せ、やはり戦争の恐ろしさを実感せざるを得ませんでした。

さて、都内には光雲ゆかりの寺院がまだまだあり、足を運んだことのない場所も多いので、また折を見て廻ってみたいと思っております。


【折々のことば・光太郎】

軽くして責なき人の口の端 森のくらやみに住む梟(ふくろふ)の黒き毒に染みたるこゑ 街(ちまた)と木木とにひびき わが耳を襲ひて堪へがたし

詩「梟の族」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

もともと、恋愛関係となった光太郎智恵子をゴシップ的に尾ひれを付けて噂する口さがない人々に対する批判として書かれた詩です。

世論といったものも、「軽くして責なき人の口の端」が増大することで、危険な方向に進み、やがて戦争へと繋がっていくのかもしれないな、と思いました。

三重県桑名市の広報紙、『広報くわな』の今月号に、以下の記事が載りました。

桑名石取祭の祭車行事 ユネスコ無形文化遺産登録決定! ―桑名の宝が世界の宝に―

「桑名石取祭の祭車行事」は、文化庁からユネスコ無形文化遺産に登録提案され、平成28 年10月31 日に、ユネスコの評価機関から登録の勧告を受けました。その後、11 月30 日( 日本時間12月1 日未明) にエチオピアの首都アディスアベバで開催されたユネスコ無形文化遺産保護条約第11回政府間委員会で「山・鉾ほこ・屋台行事」が審議され、登録が決定しました。登録が決まった瞬間、石取会館に集まった関係者の人たちから歓喜の声が上がり、万歳三唱をするなどしてお祝いしました。これまで、地域の皆さんに愛されてきた「桑名石取祭」が世界の宝として認められたことにより、世界の皆さんに親しまれることになります。
石取祭は、江戸時代初期に始まったといわれ、桑名城下の町人や藩士が楽しみにしていた夏の祭りです。平成19年3月に国指定重要無形民俗文化財となりました。
 祭車と呼ばれる山車(だし)は43台あり、これほどの山車が一堂に会する祭りは全国的にも非常に珍しく、国指定重要無形民俗文化財のなかでは日本最多を誇ります。
 毎年8月第一日曜日に「本楽(ほんがく)」、その前日に「試楽(しんがく) 」が行われます。試楽の日の午前零時の「叩き出し」に始まり、本楽の日の深夜まで丸二日間行われ、祭車数十台が鉦(かね)や太鼓を盛大に打ち鳴らしながら市内を練り歩きます。漆塗(うるしぬ)り、蒔絵(まきえ)、象嵌(ぞうがん)、螺鈿(らでん)、透かし彫り、西陣織(にしじんおり)などで装飾した豪華絢爛(ごうかけんらん)に装飾した祭車も見どころです。

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以前にこのブログでご紹介しましたが、この祭りで引き廻される祭車の中に、光雲作の彫刻を施したものが2台含まれています。

登録の決定は記事にあるとおり昨年11月でした。単独の指定ではなく、日本全国33の祭りが一括指定されました。その中には、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市で行われている「佐原の山車行事」も含まれています。そこで、『広報かとり』に同様の記事が載りました。

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当地では、、二回の祭りが行われます(街の中心を流れる小野川を境に担当地区が異なります)。こちらの山車には残念ながら高村系の彫刻はありませんが、東京美術学校の同僚で、光雲と親しかった石川光明の家系が制作した彫刻があしらわれているものがあります。また、山車の上に飾られる人形の中には、光雲が絶賛したという「活人形(いきにんぎょう)」の安本亀八の作品が使われてもいます。


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実を言うと、当地の祭りが登録されたことに気を取られ、桑名の石取祭も含まれていたことに、最近まで気付いていませんでした。紹介するタイミングを逸したかと思っていましたが、『広報くわな』さんで大きく取り上げられたので、ラッキーでした。

日本が誇る遺産です。末永く続いてほしいものですね。


【折々のことば・光太郎】

くたびれたら休むのさ。

詩「雪の午後」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

正月休みも昨日まで、今日から仕事始めという勤め人の方々も多いと存じます。ご苦労様です。

飲食店や商業施設などでは、暮れも正月も関係なかったところもありました。世の中が便利なのはいいことですが、時には休むことも必要ですね。

日本のアートオークション運営会社の中でも大手のシンワアートオークションさん。たびたび光太郎の父・高村光雲の作品が出品され、このブログでもご紹介していますが、来月開催のオークション「近代美術partⅡ」で光太郎のブロンズが出品されます。

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作品は「野兎の首」。戦後、花巻郊外太田村の山小屋に隠棲していた頃の作品です。発見されたのは光太郎歿後の昭和32年(1957)。山小屋を「高村山荘」として保全するための工事中でした。

この作品について、令甥である故・髙村規氏の回想から。

 山小屋へ移って最初に作った詩「雪白く積めり」を、記念に詩碑にするってことで、三回忌に詩碑にしたんです。その時に村のお百姓さんが「囲炉裏の灰の中から、こんな土の塊が出てきたんですけど、これ一体なんでしょうかね」って持ってきたんです。見たら、手のひらにのる一握りの土の塊なんですね。目とか耳らしきものがあるんで兎みたいに見えたんですよ。これはもう小屋の周りの普通の地面の土です。水に溶かしてドロドロにした土を粘土みたいにして作って囲炉裏の火で焼いたんですね。おそらく気持ちとしてはテラコッタみたいになればいいなと思って焼いたんだと。だけど囲炉裏の火じゃあ温度が上がりませんから完璧には焼き締めができてないで、そのまま灰の中に埋めてあったんですね。農家の人たちが掃除したらそういう物が囲炉裏にあるのを見つけたんですね。何か塊だから取っておいた、それを僕がたまたま詩碑のことで行ったもんですから持ってきてくれたんです。
 見たら、砂の塊みたいでポロポロポロポロ崩れてくるんですね。ちょうど親父(注 鋳金の人間国宝・高村豊周)のお弟子さんの西大由さんが一緒に僕についてきたもんですから、その人と相談して旅館まで、ハンカチにくるんで怖々やっとの思いで運んで、親父に電話したんです。そうしたら「それは貴重な彫刻かもしれないから、何とかして、うまく石膏だけ残してくれ」。そのお弟子さんとしゃべったら「石膏に取るのはいいけど、石膏が失敗したら両方ともだめになっちゃうよ。そこんとこをお父さんによく言っといてくれ」って言うから「そう言ってるよ」って言ったら「まあ、失敗するかどうかはともかく、石膏を用意してもらって、その土を石膏におこしてくれ」。
失敗したらやむを得ない。そのまま東京へ持ってきたら、汽車の中で崩れちゃうのは目に見えてますから。「失敗してもいいから兎に角石膏に取れって言ってるよ」。「よし」ってんで石膏取りが始まりました。西さんは石膏をどうやって手に入れたんだろう、丁寧に旅館の人に頼んでどっかで石膏を買ってきてもらったのかな。旅館の部屋の廊下のところで、石膏を溶いて、その土の塊にかぶせたんですよ。
 そして取った行程を全部、カメラ持ってたもんですから写真撮りました。石膏は全部うまく成功したんですね。石膏に取って初めてわかったんです。兎の首なんですね。それを親父がブロンズにおこしましてね。《野兎の首》っていうタイトルでよく展覧会に出品するんです。それが戦後七年間の岩手の山小屋時代の唯一の彫刻なんですね。親父はその時はもうほんとに涙を流して喜んでましたね、兄貴はやっぱり彫刻家なんだと。
(碌山忌記念講演会 「伯父 高村光太郎の思い出」 碌山美術館報第34号 平成26年=2014)

……という、ドラマチックな経緯を経て発見された彫刻というわけです。

落札予想価格の設定が30万から50万。光太郎ブロンズとしては破格の廉価(おかしな日本語ですが)です。というのは、あくまできちんとした制作ではない小さな習作――あるいは習作ですらない手すさびだということが挙げられます。とはいうものの、決して「駄作」というわけではありません。小品ながら行き届いた造形感覚、そしてちゃんとした粘土を使っていないことによって生じた荒々しいタッチが、かえって得(え)も言われぬ不思議な美を醸し出している優品です。下記写真も規氏撮影です。

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それから、最初の段階で複数鋳造され、昭和53年(1978)には花巻高村記念館の功労者に、新たに鋳造されて配布されたりもしていますので、同一の物がかなりあることも、あまり高価な設定になっていない理由の一つでしょう。

ただし、あくまで予想価格。オークションですので、蓋を開けてみればとんでもなく跳ね上がる(兎だけに(笑))こともあり得ます。というか、ある意味、そうなってほしいという気もします。「こんなものに大枚はたくのは馬鹿馬鹿しい」といわれてしまうのも癪ですので(笑)。

下見会が1月18日(水)〜1月20日(金) 10:00〜18:00と、21日(土) 10:00〜16:00、オークション本番が28日(土)15:00から、シンワアートミュージアムさん(東京都中央区銀座7-4-12 銀座メディカルビル(旧ぎょうせいビル) 1F)で開催されます。

懐に余裕のある方、是非どうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

揚げものにあげるをやめてわが見るはこの蓮根のちひさき巻葉

昭和5年(1930)頃 光太郎48歳頃

昭和5年(1930)頃に制作された木彫「蓮根」(写真:髙村規氏)を包む絹の袋にしたためられた短歌です。

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もういくつ寝ると、お正月。お正月といえば、おせち料理。おせち料理には蓮根が欠かせませんね。当方、あまり好きではありませんが(笑)。

光太郎、木彫作品には、ほぼ必ず智恵子手縫いの袋か袱紗(ふくさ)をつけ、短歌を添えています。木彫ではありませんが、「野兎の首」に、もし短歌を添えたとしたら、どんな歌が出来ていたのかなどと想像してしまいます。

それぞれ先週、『毎日新聞』さんの地方版に載った、美術館の企画展報道です。

まず和歌山版。

「ペール北山の夢」展 画家と両輪、時代動かす 大正期の美術界支援

 詩人で彫刻家の高村光太郎はかつて記した。「この人ぐらい熱心に当時の美術界に尽力した人はないであろう」と。「この人」の名は北山清太郎(1888~1945年)。大正初期に雑誌の出版や展覧会開催を通して、岸田劉生や木村荘八ら若い画家たちを支援した。19世紀のパリで無名だったゴッホらを支え「ペール・タンギー」と慕われた画材商の男性にちなみ、「ペール北山」と呼ばれた。

 彼の故郷、和歌山市の和歌山県立近代美術館で開かれている展覧会「動き出す!絵画 ペール北山の夢」はあまり知られていない北山の仕事を軸に、大正期の美術動向を探ろうとする意欲的な企画だ。

 明治末以降、国内では文芸雑誌「白樺(しらかば)」がセザンヌやロダンを紹介するなど西洋美術への熱が高まっていた。北山は1908年に水彩画同好者の団体を結成後、東京で画材商を営みながら12年4月に美術誌「現代の洋画」を創刊。当時としては珍しいカラー図版や海外論文の翻訳を掲載するなど情報発信に努めた。本展では同誌で紹介されたゴッホやセザンヌらの作品とあわせて、彼らにあこがれた国内の画家たちの油彩画など計約170点が並ぶ。
 例えば萬(よろず)鉄五郎の「女の顔(ボアの女)」(12年)。椅子に腰掛ける和装の女性が荒々しい筆致で描かれている。その構図はゴッホの「ペール・タンギーの肖像」を思わせ、毛皮の襟巻きに異国趣味が漂う。08年にフランスから帰国した斎藤与里(より)の「木蔭(こかげ)」(12年)はセザンヌの水浴図の影響がうかがえる。一方で「律義にたたんだタオルを持つ姿は銭湯帰りのよう。日本の風習が感じられて面白い」と同館の青木加苗(かなえ)学芸員は指摘する。
 両作品とも、斎藤と高村が中心となって12年秋に結成した若手絵画グループ「ヒユウザン(後にフュウザン)会」の展覧会に出品された。北山はその運営や機関誌の発行を手伝った。また同会解散後の15年、メンバーだった岸田や木村らが発足させた「草土社」の初期運営にも関わり、出品目録などを手がけた。劉生の「代々木附近(ふきん)」(15年)は目の前の赤土と切り通しの風景を写実的に描き、新時代の到来を感じさせる。
 雑誌「現代の洋画」は「現代の美術」と改題し、15年までの発刊が確認されている。北山はそのころ出会ったアニメーションの制作に没頭するようになり、美術界からは遠のいた。近年は国産アニメの先駆者として注目されつつある。
 2006年から調査を続けてきた同館の宮本久宣学芸員は「北山は事業家として時代の最先端に反応しながら、芸術文化を支えることにやりがいを感じていたのでは」と話す。北山と美術の直接的な関わりは10年にも満たないが、それは日本の洋画界の転換期でもあった。最新の西洋美術を受容しながら自らの表現を追い求めた画家たちと、それを支えた名プロデューサーは両輪となって熱い時代を動かしたのである。
 来年1月15日まで。12月29日~1月3日、月曜休館(9日は開館、翌日休館)。和歌山県立近代美術館(073・436・8690)。【清水有香】


先月から、和歌山県立近代美術館さんで開催されている企画展「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち」についてです。光太郎油彩画「上高地風景」「佐藤春夫像」が出品されています。

開幕した頃に、地元紙や全国紙の和歌山版などで結構報じられましたが、始まって1ヶ月ほど経ってからの報道。これはこれでありがたいそうです。

というのは、花巻高村光太郎記念館さんのスタッフ氏から聞いた話ですが、企画展に関しては、開幕後、しばらく経つと落ちた客足が、この手の報道が入ることでまた持ち直すからなのでそうです。「なるほど」と思いました。

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同様に、同じ『毎日新聞』さんの千葉版では、千葉県立美術館さんでの企画展「メタルアートの巨人 津田信夫」を報じて下さっています。こちらは光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった、高村豊周の作品も展示されています。

企画展 千葉「メタルアートの巨人 津田信夫」

 (毎日新聞千葉支局など後援) 来年1月15日まで、千葉市中央区中央港1の10の1、県立美術館。
 佐倉市出身の工芸家、津田信夫(1875~1946年)の代表的な作品を中心に、津田と関わりのあった工芸家や教え子の作品も展示し、津田の生涯を振り返る。

 津田は溶かした金属を型に流し込んで作る鋳金(ちゅうきん)の分野で活躍。鳥や動物などをモチーフに、装飾的表現を抑え形態そのものが持つ美を追求した。津田の初期から晩年までの金工作品、陶器を加えた約90点を紹介している。
 また、母校の東京美術学校(現東京芸術大学)で約40年間教壇に立ち、工芸家の高村豊周ら逸材を輩出した。明治期から同校は各種各地の委嘱制作の注文を受けた。津田は近代工芸史上最大規模の作品ともいえる国会議事堂の正面扉群のほか、日比谷公園の鶴の噴水、日本橋橋上装飾の麒麟(きりん)など、経費や工期に至るまで総括した工房の親方として業績を残している。
 美術館普及課の担当者は「津田は工芸家、教育者、工房の親方として、多方面に優れた業績を残したメタルアートの巨人です。近代日本を代表する工芸作品をじっくり見てください」と来場を呼びかけている。
 美術館(電話043・242・8311)は9時~16時半(入館は16時まで)。月曜休館(祝日の場合は翌日)、年末年始(28日~来年1月4日)。入場料は一般500円、高・大生250円、中学生以下無料。【渡辺洋子】


それぞれ、来年1月15日(日)までの開催です。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

一入に美術の海は波高しこゝ楫取りの腕をこそ見れ
明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

ペール北山、津田信夫、豊周、そして光太郎……。それぞれに波高き美術の海を渡っていったわけですね。

「一入」は「ひとしお」、「楫」は「かじ」と読みます。「こそ見れ」は係り結びですね。

新宿の中村屋サロン美術館さんから、企画展のご案内を頂きました。

中村屋創業115周年記念 新宿中村屋食と芸術のものがたり

期 日 : 2016年12月17日(土)~2017年2月19日(日)
会 場 : 中村屋サロン美術館 東京都新宿区新宿3丁目26番13号 新宿中村屋ビル3階
時 間 : 10:30~19:00(入館は18:40まで)
休館日 :  毎週火曜日(火曜日が休日の場合は開館、翌日休館)、12/31(土)~1/3(火)
料 金 : 200円
 ※高校生以下無料(高校生は学生証をご呈示ください)
 ※障害者手帳ご呈示のお客様および同伴者1名は無料

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食と芸術のドラマが織り成す新宿中村屋の“味”
 中村屋は1901年に創業し、2016年12月30日に115周年を迎えます。この間、多彩な食を生み出すとともに芸術活動を支援し、単なる小売店ではない、新宿中村屋という店格を築いてまいりました。創業者 相馬愛藏・黒光夫妻の独創性から、今まで日本に無かった食が生まれ、二人に惹かれて、多くの芸術家・文化人たちが中村屋に集いました。
 本展では、愛蔵・黒光を中心に起こった、食と芸術誕生のドラマを垣間見ていきます。一つ一つのドラマがスパイスとなり新宿中村屋という“味”を形成していった、その様子をお楽しみください。

主な展示作品
 彫刻 荻原守衛(碌山) 「女」「坑夫」  
 油彩 柳敬助「諏訪湖畔雪景」   中村彝「小女」  鶴田吾郎「盲目のエロシェンコ」
 水彩 布施信太郎 「中村屋の包装紙原画」
 版画 棟方志功 「中村屋の羊羹掛け紙」
 書   会津八一 「おほてらの」「いかるがの」 
 

関連行事 

新宿中村屋のドラマと料理を味わう ~食事付講演会~

 新宿中村屋の歴史やゆかりのある芸術家たちについて学んだ後、中村屋伝統の料理をご賞味いただきます。その後、中村屋サロン美術館にて展示をご覧いただく、中村屋満喫のイベントです。

《第1回テーマ》 創業者 相馬愛藏・黒光と新宿中村屋
 日  時 : 2017年1月21日(土) 10時~13時半頃
 講  師 : 株式会社中村屋CSR推進室課長 広沢久美子

《第2回テーマ》 相馬黒光と中村屋サロンの芸術家たち
 日  時 : 2017年2月4日(土) 10時~13時半頃
 講  師 : 中村屋サロン美術館学芸員 太田美喜子

定  員 : 各回24名 先着順、定員になり次第〆切
参加費  : 各回3,000円(税込、食事代、美術館入館料込み)
場  所 : 新宿中村屋ビル8F グラシナ
料  理 : 伝統のインドカリーやボルシチを含めたコース料理
申  込 : 中村屋サロン美術館 museum@nakamuraya.co.jp 03-5362-7508

既に定員に達しているそうです。


展示の方は、光太郎作品は並ばないようですが、講演の方で光太郎にもからむかな、と思っておりましたら、既に定員に達しているそうです。ただ、キャンセル待ち等があるかも知れません。

展示は昨日から始まっています。ぜひ足をお運びください。当方も年明けに行って参ります。


【折々の歌と句・光太郎】

我おもひ胸にはひめむしかはあれどあまりにやせしこの頬をいかに

明治33年(1900) 光太郎18歳

『明星』時代の、おそらくは架空の恋の歌です。

しかし、10年後の新宿中村屋における碌山荻原守衛を謳ったようにも読める歌です。

台湾の首都、台北から特別展情報です。

わかりやすくするために、『毎日新聞』さんの記事から。

台湾・故宮南院で日本美術展

008 台北の故宮博物院の分院である故宮南院(台湾嘉義県)で、東京国立博物館と九州国立博物館が所蔵する国宝や重要文化財などを展示した「日本美術の粋 東京・九州国立博物館精品展」の開幕式が12日、南院で行われた。訪台した国会議員を含む日台関係者数百人が出席した。

 来年3月5日までの期間中、国宝18件を含む絵画、彫刻、工芸など延べ151件を展示。縄文時代から明治時代まで日本美術を幅広く紹介しており、明治時代の木彫、高村光雲作「老猿(ろうえん)▽江戸時代の浮世絵、葛飾北斎筆「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」=写真▽安土桃山時代の狩野(かのう)永徳筆「檜図屏風(ひのきずびょうぶ)」などが含まれる。東博の銭谷真美(ぜにや・まさみ)館長は「これだけ多分野にわたる名品の数々を日本国外で大規模に紹介するのは初めて。日本美術、日本文化全体を深く理解していただけると確信している」とあいさつした。【嘉義(台湾南部)】


というわけで、光太郎の父・高村光雲作の重要文化財「老猿」が海を渡って展示されています。

それでは、展覧会情報を。

日本美術の粋 東京・九州国立博物館精品展

期 日 : 2016年12月10日(土)~2017年3月5日(日) 月曜休館
会 場 : 國立故宮博物院南部院區 アジア芸術文化博物館
時 間 : 9:00~17:00 
料 金 : 一般 250台湾ドル 団体(10人以上) 230台湾ドル
      障害者とその介護者一名まで無料
      国際学生証/青年旅行カード所持者 150台湾ドル (1台湾ドル=3.62円)

國立故宮博物院は2014年、東京国立博物館、九州国立博物館と共同で、特別展「台北 国立故宮博物院-神品至宝-」を開催し、本院が収蔵する逸品を日本で初めて展示致しました。この展覧会は両国の文化交流の重要な一里塚となり、日本中で大きな話題となりましたが、今回は、東京国立博物館と九州国立博物館からの感謝の意として、本院の南部院區において、「日本美術の粋 東京・九州国立博物館精品展」を開催致します。両博物館が収蔵する作品のうち、国宝18件、重要文化財44件などを中心に、最も優れた計151件を精選した本展覧会は、規模・質ともに、台湾はもちろん、日本国外で行う日本美術の展覧会として過去最大・最高のものとなります。展示は「第1章 祭祀と生活」「第2章 皇権と佛法」「第3章 貴族の世界」「第4章 武家の文化」「第5章 市民の創造」「第6章 伝承と創造」の6章から構成されており、古代から近代までの、約5000年にわたる豊かで多様な日本芸術を紹介するものです。


009一昨年に東京国立博物館さんで開催された「台北・国立故宮博物院展」で、台湾の秘宝の数々を借りた返礼に、今度は日本の国宝や重要文化財をお貸ししよう、というコンセプトだそうです。

そこでいわば日本代表選手として(笑)「老猿」が選出され、喜ばしいことですね。彼の地の皆さんは、あれをどう見るのか、興味深いところです。光太郎の作も選出されていればなおよかったのですが……。

「国威発揚」というような浅はかな考え方でなく、純粋に「文化交流」として、歓迎したい試みです。

台湾に行かれる方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

正次がうちし平鑿くろがねのうら砥ふまへて幾夜わが砥ぐ        
大正15年(1926) 光太郎44歳

「正次」は桜井正次。宮内省御用刀工にして、光雲と同じく帝室技芸員でした。「卍正次」として、日本刀の作が有名ですが、鑿(のみ)なども打っていたようで、それを光太郎が愛用していたわけですね。もしかすると、光雲から譲り受けたかもしれません。

光太郎が光雲から受けた教えとして、彫刻刀のたぐいはとにかくよく研ぐこと、というのがあったそうです。自分の体の一部であるように使いこなすためだそうです。そのため、光雲光太郎、ともに砥石にもこだわりを持っていました。

新刊情報です。

芸術の海をゆく人 回想の土方定一


酒井忠康著 2016年11月22日発行 みすず書房 定価 4,968円(本体4,600円)

目次 I
 土方定一の戦後美術批評から 007
 土方定一の詩、その他
 高村光太郎と土方定一
 暗い夜の時代  杉浦明平の「日記」から
 土方定一・周作人・蒋兆和のことなど
 北京にて  中薗英助と土方定一
 ある消息  詩人・杉山平一
 II
 ブリューゲルへの道  海老原喜之助
 ある書簡  松本俊介と土方定一
 わが身を寄せて  野口弥太郎
 土方定一のデスマスクと田中岑
 年賀状の牛と柳原義達
 ある日のローマ  飯田善國
 扉をひらく  一原有徳
 若いモンディアルな彫刻家  若林奮
 III
 『岸田劉生』についての覚書き
 『渡辺崋山』をめぐる話
 再読『日本の近代美術』
 『ドイツ・ルネサンスの画家たち』の思い出
 反骨・差配の大人  編集者・山崎省三
 歴史家として  編集者・田辺徹
 不思議な魔力  編集者・丸山尚一
 はぐれ学者の記  菊盛英夫
 二人の出会い  土方定一と匠秀夫
 追想のわが師
 土方定一の影  児童生徒作品展のことなど
 あとがき 土方定一略年譜 初出一覧 図版一覧

日本初の近代美術館である“カマキン”こと神奈川県立近代美術館の館長をながく務めた土方定一(1904-1980)は、アナーキズム詩人から出立したのちに美学者となり、美術批評家の草分けとしなった。館長就任以後も旺盛な批評活動を行い、また数々の芸術賞選考委員を務めるなど、指導者的役割を果たした泰斗である。
若き学芸員補として同館に勤務した酒井は、老境にさしかかった八方破れの館長を公私ともに支えることとなり、近代日本の芸術の海に針路を示す土方船長の肩越しに海を望み、その広さ、深さ、波濤の激しさを目の当たりにする。

「地方の公立美術館としてはユニークな企画展で知られ、わたしにもちょっとばかり誇りに思えるところがあった。もちろん企画展だけではない。陣頭指揮にあたっていた土方定一という人の仕事の采配に感心するところが大いにあったからである。氏を囲んで学芸諸先輩と過した夜の〈宴会〉などは、闘いにたとえればちょっとした“作戦会議”の観を呈していた」
(「再読『日本の近代美術』」)

師の影を追ううちに同館館長に就任、批評家として美術界に提言する立場となった著者は、いまなお師の影のなかにいる、と述懐する。師から弟子へ受け継がれた系譜をみずからたどりながら、日本美術の来し方行く末を問いなおす味わい深いエッセイ集。


世田谷美術館館長の酒井忠康氏による、氏が師事した元神奈川県立近代美術館館長・土方定一に関するエッセイ集です。

土方は本業の他に、草野心平主宰の『歴程』同人で、詩にも取り組んでいました。そこで、心平経由で光太郎とも縁があり、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の際には、在京建設委員の一人となり、光太郎の十和田湖下見(昭和27年=1952)、翌年の像除幕式に参加したりしています。

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上は昭和28年(1953)、「乙女の像」除幕式。左から光太郎、佐藤春夫、谷口吉郎(建築家)、土方、伊藤忠雄(鋳金家)です。

また、光太郎歿後は、当時、副館長だった神奈川県立近代美術館で、いち早く「高村光太郎・智恵子展」を開催するのに尽力しました。

そういうわけで、本書にも「高村光太郎と土方定一」の一項があり、おそらく他の部分でも光太郎に言及されていると思います。

ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

女房の縞の財布に五十両     大正9年(1920) 光太郎38歳

俳句というより川柳ですね。この年、友人の作家・田村松魚にあてた葉書にしたためられました。「良妻讃美は大賛成です。」の一言が添えられており、松魚の二度目の妻・妙子に関わると思われます。

先週は、外で働いている妻と娘がボーナスを貰ってきました。といっても、昔と違い、振り込みですが。当方、金銭的な部分では、二人におんんぶにだっこです(笑)。

京都から、光太郎の父・高村光雲がらみの企画展情報です。

うた詠むこころ The Composing Mind

期  日 : 2016年11月19日(土)~2017年2月12日(日)
場  所 : 清水三年坂美術 京都市東山区清水寺門前産寧坂北入清水三丁目337-1
時  間 : 午前10:00~午後5:00(入館は午後4:30まで)
休  館 : 月・火曜日(祝日は開館)  年末年始(12月26日(月)−1月3日(火))
料  金 : 大人 800円 大・高・中学生 500円 小学生 300円 団体 (20名以上)20%引

古来「ことだまの幸はふ国」といわれる日本では、歌は祈りを込めた詞であり、また森羅万象や心の機微を言葉でもって巧みに写し取り、よむ人を鼓舞し、慰め、感動を伝えてきた。その心は、日本の文化形成に大きな影響を与え、言葉のみならず、絵画や身の回りに備える調度品、刀装具などにも多く題材とされ、優れた作品を生み出してきた。蒔絵や金工などの技法でもって描かれる情景は、時に幻想的であり、歌の世界を超えた作り手たちの心象風景とも言えよう。
本展では、当館所蔵の美術工芸品の中から、歌にまつわる名品の数々をご高覧いただきたい。

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光雲の木彫、「西行法師」が出品されています。005

正確な制作年が不明なのですが、像高56㌢、桜財を使った緻密な作品です。

同館で昨年開催された企画展「明治の彫刻」にも出品され、当方、同じく京都の知恩院さんに立つ聖観音像とともに拝見して参りました。

この他にも同館では常設展もあり、そちらにも光雲作の木彫が出ていると思われます。

冬の京都もなかなか乙なものと存じます。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

この雪に宿かしたまへ法の師よこよひの鐘はわれつとめむに
明治33年(1900) 光太郎18歳

まるで遊行中の西行法師を謳ったような感じですね。または西行作として『新古今和歌集』あたりに載っていてもおかしくないような気もします。

昨日は、ATV青森テレビさんの番組制作取材に同行、千駄木の光太郎アトリエ跡などをめぐり、そこからほど近い当会顧問・北川太一先生のお宅にもお伺いし、そちらで北川先生と当方のインタビューを撮影しました。

今日も同じ件で、光太郎終焉の地、中野区の中西利雄アトリエに行って参ります。


この件についてはまた明日、2日分まとめてお伝えします。今日は最近入手した光太郎書簡について。

海外留学で光太郎がロンドンにいた頃、パリにいた画家の白瀧幾之助にあてた絵葉書で、『高村光太郎全集』には収録されていないものです。

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こちらは宛名面。消印が明治41年(1908)1月2日。パリのテアトル通り16番地、白瀧幾之助宛てです。

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文面の書かれた面。写真ではなく、石版画的な感じでしょうか。何せ100年以上前の絵葉書です。宛名面に印刷された文言によれば、イングランド南部ワイト島に位置するカウズという町の風景で、「Royal Yacht squadron」と記されています。「squadron」は「艦隊」。調べてみましたところ、1815年に設立され、まさにカウズの町に本部があったヨットクラブだそうです。「Royal」ですから、英王室との関連もあるのでしょう。

さて、文面は以下の通り。1月2日ということで、ある意味、年賀状的な内容でもありますが、大半は白瀧からの問い合わせに回答する事務的な内容ですね。

新年の御慶申納候
僕の処へも荻原君から手がみがあつた。
柳君の最近の手がみにある番地は矢張り618w.114□とある。
此でいいのだらう。
□光太郎

□の二文字分が読めません。ちょうどよいと思って、北川先生にもご覧頂いたのですが、やはり読めませんでした。もう少し推理してみます。

追記 「114」の後は「st」(ストリート)、「光太郎」の前は「二日」ではないかと、碌山美術館さんの学芸員氏からご指摘がありました。なるほど。それで正解ですね。

荻原君」は碌山荻原守衛、「柳君」は画家の柳敬助。白瀧を含め留学生仲間で、明治39年(1906)には光太郎、柳、白瀧は同時期にニューヨークに居住していましたし、荻原もパリからニューヨークを訪れ、光太郎らと会っています。

この葉書が書かれた明治41年(1908)には、光太郎はロンドン、白瀧はパリ、柳はニューヨーク、そして荻原は一足早くパリからイタリア、ギリシャ、エジプトを経て日本へ帰国する途中でした。「僕の処へも荻原君から手がみがあつた。」というのは、その船旅の途次からの手紙という意味でしょう。

白瀧幾之助は、光太郎より10歳年長。明治31年(1902)に東京美術学校を卒業し、洋画家として白馬会に所属していました。禿頭で大男、留学生仲間からは「入道」とあだ名されていましたが、非常に面倒見のいい人物で、光太郎もニューヨークやロンドンでさんざん世話になっています。また、両者晩年の戦後に、交流が復活しています。

100年以上前のロンドンからパリに送られた絵葉書が現存し、日本の当方の手元に届き、若き留学生たちの息吹が聞こえてきそうな内容……ある意味感無量です。


神田の古書店さんから入手しましたが、ほぼ同時期の白瀧宛書簡がごそっと売りに出ていました。光太郎からのものはこの1通だけでしたが、荻原のそれは3通含まれていました。早速、碌山美術館さんに連絡したところ、注文されたそうです。比較的長命だった光太郎の書簡はこれまでに3,400通余り見つかっていますが、夭折した荻原のそれは150通ほどしか知られておらず、新たに3通が加わったというのは大きいですね。これまでに見つかっていたものは、碌山美術館さんで昨年刊行の『荻原守衛書簡集』にまとめられています。

ちなみに光太郎の絵葉書は、70,000円でした。当分は節約に努めます(笑)。


【折々の歌と句・光太郎】

冬の空とほいかづちす黄に枯れて一馬(いちば)かげなき焼原(やけはら)の牧
明治39年(1906) 光太郎24歳

光太郎留学中の作です。ただし、最初の滞在国、アメリカで詠まれたものです。

光太郎の父・光雲が彫刻を手がけた、横浜南区山王町に伝わるお三の宮日枝神社さん「火伏神輿」。その名の由来は、関東大震災と太平洋戦争の空襲をくぐりぬけたことです。

毎年9月、日枝神社さんの例大祭で、伊勢佐木町のイセザキ・モールを巡行するのですが、今年は修復作業に入っていたため、出ませんでした。そのため、今年はこのブログでも日枝神社さんの例大祭をご紹介しませんでした。

このたび、その修復が終わり、イセザキ・モールさんでお披露目が始まったそうです。

横浜・伊勢佐木町繁栄の象徴 「火伏神輿」

◆90年の歴史で初の修復作業
 横浜・伊勢佐木町の繁栄の象徴で、関東大震災と横浜大空襲を免れた神輿(みこし)「火伏(ひぶせ)神輿」が90年余りの歴史で初めての修復作業を終えた。28日にJRAエクセル伊勢佐木(神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1丁目)でお色直しを済ませたばかりの神輿が披露された。
 1923年に完成した神輿は日枝神社例大祭などで担がれてきたため、彫刻や金具が欠けたり、塗りが剥がれたりするなどの傷みが目立っていた。
 そのため、東京都内の文化財修復専門工房に運ばれて、彫刻家・高村光雲(1852~1934年)が手掛けた彫刻を復元。奈良・法隆寺の七堂伽藍(がらん)に施されたものと同じ極彩色の染料を塗り直し、鮮やかによみがえった。
 今年3月から「MIHO MUSEUM」(滋賀県甲賀市)で開かれた特別展に貸し出した際、学芸員から「大正期の名工が古代御輿の粋を極めた貴重なもの。豪華な装飾を含めて文化財級」と高い評価を受けたこともあり、今回、本格的に修復を行うことにした。
 神輿がガラスケースに無事に収められると、伊勢佐木町1丁目の婦人用品店4代目店主、津田武司さん(77)は大きな拍手を送った。「神輿が戻ってきてうれしいの一言。世代を超えて大切にしたい」
 吉田新田の完成350周年を迎える来年9月の日枝神社例大祭でイセザキ・モールを練り歩くことにしている。
◆火伏神輿 伊勢佐木町の町内会が1915(大正4)年の大正天皇の即位の礼を記念し、高村光雲に制作を依頼した。23年9月、完成目前に東京・上野の工房で関東大震災に遭遇。火に包まれる直前に部材をすべて運び出し、震災10日後に無事納められたと伝えられている。
(2016/11/29 『神奈川新聞』)

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記事にある「「MIHO MUSEUM」(滋賀県甲賀市)で開かれた特別展」はこちら

 
『東京新聞』さんの神奈川版にも記事が出ました。

よみがえった火伏神輿 修復終わり、イセザキ・モールで展示

 明治時代の彫刻家・高村光雲(一八五二~一九三四年)らが制作した「火伏神輿(ひぶせみこし)」の修復が終わり、二十八日、神輿を所有するイセザキ・モール(横浜市中区)にあるJRAエクセル伊勢佐木一階ホールで展示が始まった。観覧無料。
 神輿は大正天皇の即位を記念し、伊勢佐木町の町内会が高村光雲に制作依頼。高村や東京美術学校(現・東京芸術大)の教授らが一九二一年に東京都内で制作を始めた。二三年九月の完成直前に発生した関東大震災や、四五年五月の横浜大空襲などの火災を免れたことから、火災を防ぐ「火伏神輿」と呼ばれるようになった。高さ一・八メートルで幅一・四メートル、担ぎ棒を含む長さは二・九メートル。
 大掛かりな修復は初めてで、六月から東京都狛江市で文化財修復工房を営む桜庭裕介さん(63)が手掛けた。色がはげた部分はエックス線で表面を分析し、制作当時と同じ顔料で補修。特殊な樹脂を染み込ませて今後の色あせを防ぎつつ、約一世紀の歴史を感じさせる退色はそのままにした。木彫の欠損は木の粉や漆などを混ぜたもので補った。
 来年は、これまで通り九月の地元の祭りで担がれる予定。祖父が制作時の世話人で、宝石店経営を受け継ぐ渡辺洋三さん(64)は「祭りでは乱暴に扱うこともあった」と苦笑しながら「町の人に、素晴らしい神輿だと再認識してほしい」と願った。(梅野光春)


今回いつまで展示されるのか、記事からは不明ですが、以前は祭りの時以外は神奈川県立歴史博物館さんで展示されていたので、今後もそうなるのではないかと思われます。

さらに同時期に光雲によって作られた獅子頭もセットです。

ぜひきれいになった神輿をご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

夕ぐれの雁におもはず窓あけてまたたき多き星を見しかな
明治33年(1900) 光太郎18歳

冬が近づき、空気がキインと澄んでいるため、星がきれいに見えます。当方自宅兼事務所のあるあたりは千葉でも田舎の方でして、夜間の光害が少なく、星の観察にはもってこいです。

光太郎の父・高村光雲作の木彫に関してです。

熱海來宮弁財天「弁天祭」

期  日 : 2016年11月23日(水・祝)
場  所 : 熱海來宮神社内 静岡県熱海市西山町43-1
時  間 : 午後1時30分~

静岡県熱海市に鎮座まします來宮神社さん。その境内に、摂社の扱いの來宮弁財天さんがあり、そちらの例祭です。

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年に一度のこの日、ご神体の弁財天像が御開帳。これが、光雲の作だそうです。

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光雲の彩色彫刻は類例があまりないものです。ただ、信州善光寺さんの山門背面の三面大黒天と三宝荒神(ひな形は史料館)、松島瑞巌寺さんに納められている観音像などにはやはり彩色が施されており、寺社仏閣に奉納されたものには意外と多いのかも知れません。

上の画像で見ると、袖の襞(ひだ)など、どう見ても本物の布にしか見えませんが、やはり木材なのでしょう。舌を巻かされます。

いろいろ調べておりましたら、昨年の弁天祭の様子が、「熱海ネット新聞」というサイトに掲載されていました。それによれば「一般公開は例祭の時だけとあって芸能関係者も含め、多くの参拝者が訪れた。」とのこと。

今年もどなたか有名芸能人に会えるかも知れません。ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

太(ふと)ももの肉(しし)のあぶらのぷりぷりをもつをみなすら見ざるふるさと

明治42年(1909) 光太郎27歳

このコーナーで7月にもこのシリーズを何首か紹介しましたが、日本女性に対する失望を露わにした連作です。その失望は貧弱な体格にも向けられています。そりゃまぁ、西洋の女性と比べればそうなのでしょうが……。

今月7日にNHKラジオ第二で放送された「カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス「高村光太郎」」の再放送があります。  

カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス

NHKラジオ第2  2016年11月14日(月) 午前10:00~午前10:30(30分)

この番組では、NHKが保有する貴重な「ラジオ・アーカイブス」の中から、作家を中心にセレクトし、懐かしい声を蘇らせます。自作朗読や文学・人生談義などを語る作家らの人間味あふれる魅力を肉声を通して伝えていきます。

「朝の訪問」(1952年3月30日放送)聞き手・詩人の真壁仁(花巻市にて)
彫刻家で詩人の高村光太郎(1883-1956)。彫刻家・光雲の長男に生まれ、東京美術学校を卒業し、欧米留学。帰国後、駒込にアトリエを開いた。長沼智恵子と結婚し、その死別後に詩集『智恵子抄』を出版した。戦後は岩手県花巻郊外の山荘で独居自炊生活を送った。今回の番組は1952年3月に放送した「朝の訪問」で、この山荘での生活ぶりや十和田湖畔に作った「乙女の像」について語っている。聞き手は詩人・真壁仁。

出演 大村彦次郎(元・文芸誌編集長) 宇田川清江アナウンサー

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7日の本放送を拝聴しました。光太郎と真壁仁の対談は11分ほどで、前後半に分けて流されました。その前後と合間に、雑誌『婦人倶楽部』、『小説現代』、『群像』などの編集に当たられていた大村彦次郎氏の解説が入ります。なかなかよく調べられており、感心させられました。

ただ、解説ではなく、番組としての説明の中で、録音場所を花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)と説明していましたが、花巻温泉の松雲閣別館の誤りです。

一般の方は、なかなか光太郎の肉声録音を聴ける機会はないと思いますので、ぜひお聴き下さい。


もう一件、訃報です。

りりィさん死去=64歳、「私は泣いています」の歌手、女優

009 「私は泣いています」で知られる歌手で女優のりりィ(本名鎌田小恵子=かまた・さえこ)さんが11日午前、肺がんのため死去した。
  64歳だった。福岡市出身。葬儀は近親者のみで行う。
  1972年デビュー。女性シンガー・ソングライターの先駆けとして注目され、74年に出したシングル「私は泣いています」が大ヒットした。女優としても活動し、映画「夏の妹」(大島渚監督)などに出演。近年も映画「パークアンドラブホテル」(熊坂出監督)に主演した他、「3年B組金八先生」「半沢直樹」「ラヴソング」などテレビドラマにも多数出演した。
  長男のJUONさんはミュージシャンで、「DREAMS COME TRUE」の吉田美和さんの夫。 
(時事通信 11/11(金) 13:42配信)


昨年公開された小栗康平監督映画「FOUJITA」に出演されていました。同映画は、光太郎と東京美術学校西洋画科で同級生だった画家・藤田嗣治を主人公とし、光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」が劇中に使われていました。

りりィさんの役は、戦時中に藤田が疎開していた先の農家の主婦・「おばあ」。加瀬亮さん演じる小学校教師の息子に召集令状が届き、戦争画の制作などで国策協力をしていた藤田は複雑な思いで彼を見送る、という設定でした。

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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、当方、本日から1泊2日で福島浜通りに行って参ります。今日は川内村での「第6回天山・心平の会 かえる忌」、明日はいわき市の草野心平生家で没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」に出席します。「心平忌」の方では、講話を仰せつかっております。

帰りましたらレポートいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

うすぐらき二階にならぶCOGNAC(コニヤツク)の瓶に火をもすCINEMA(シネマ)の明り                          
明治42年(1909) 光太郎27歳

舞台は浅草と思われますが、ことによるとこの年7月まで過ごしたパリを回想しているのかも知れません。   

りりィさんの歌にでも出て来そうな、アンニュイな雰囲気ですね。

静岡から企画展情報です。7月から9月にかけ、群馬県立館林美術館さんで開催されていた企画展の巡回となります。ちなみに来年1月末からは、三重県立美術館さんに巡回します。

再発見!ニッポンの立体 生人形(いきにんぎょう)からフィギュアまで

期 日 : 2016年11月15日(火)~2017年1月9日(月・祝)
会 場 : 静岡県立美術館  静岡市駿河区谷田53-2
時 間 : 午前10時〜午後5時30分(展示室への入室は午後5時まで)   
休館日 : 毎週月曜日 (祝日・振替休の場合はその翌日) 12/26~1/1
料 金 : 一般 1,000円(800円)  70歳以上 500円(400円)
      ( )内団体料金  大学生以下無料

古来、日本では仏像、神像、人形、置物、建築彫物など様々な立体造形がつくられてきました。
しかし、それらは西洋的な彫刻の概念に基づくものではなく、また西洋的な芸術鑑賞の対象でもありませんでした。
そのため、その多くは西洋的な彫刻とは異なるものとみなされて、いわゆる美術(ファイン・アート)としては位置づけられてきませんでした。近年、日本近代彫刻史の再検討が盛んに行われる中で、こうした日本の前近代以来の立体造形が改めて注目されています。この展覧会ではこういった成果をうけて、彫刻、工芸など従来のジャンル分けを越え、より自由な視点から日本の立体造形を紹介いたします。
主に近世から現代に至る多彩な日本の立体造形作品を紹介しながら、日本における「彫刻」と「工芸」という二つの分野の関わり、西洋的彫刻世界と前近代的造形世界を往還するわが国独特の感性について考えていきたいと思います。

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関連行事 

 特別対談 サブカルチャーからニッポンの立体を考える」
  工藤健志氏(青森県立美術館 学芸主幹)× 村上 敬(当館上席学芸員)
  12月4日(日)14:00〜15:30 場所:館講堂
 
 フロアレクチャー
  学芸員による解説 11月27日(日) 12月11日(日)いずれも14:00から30分程度
  集合場所 : 企画展第1展示室 申込不要、要観覧料


光太郎のブロンズ彫刻が2点、展示されるとのことです。京都国立近代美術館さん所蔵の「裸婦坐像」(大正6年=1917)、そして神奈川県立近代美術館さん所蔵の「大倉喜八郎の首」(同15年=1926)。

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光雲の木彫作品も展示されます。「江口の遊君」(明治32年=1899)、「西王母」(昭和6年=1931)です。共に京都の清水三年坂美術館さんの所蔵です。

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「江口の遊君」は、謡曲「江口」で、西行法師と歌問答をしたとされる遊女の妙(たえ)―実は普賢菩薩の化身―です。同じモチーフで複数の彫刻を作った光雲ですが、これは類例がほとんど無いのではないかと思われます。

同館は、光太郎が敬愛したロダン彫刻の収集に力を入れており、ずばり「ロダン館」という棟もあります。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

強きこといくたび言へどいかがせんひもじき時は金欲しとおもふ

大正15年(1926) 光太郎44歳

その通りです、光太郎先生(笑)。

ラジオ放送の情報です。光太郎生前の肉声が流れます。 

カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス「高村光太郎」

NHKラジオ第2  2016年11月7日(月) 午後8:30~午後9:00(30分)

この番組では、NHKが保有する貴重な「ラジオ・アーカイブス」の中から、作家を中心にセレクトし、懐かしい声を蘇らせます。自作朗読や文学・人生談義などを語る作家らの人間味あふれる魅力を肉声を通して伝えていきます。

「朝の訪問」(1952年3月30日放送)聞き手・詩人の真壁仁(花巻市にて)
彫刻家で詩人の高村光太郎(1883-1956)。彫刻家・光雲の長男に生まれ、東京美術学校を卒業し、欧米留学。帰国後、駒込にアトリエを開いた。長沼智恵子と結婚し、その死別後に詩集『智恵子抄』を出版した。戦後は岩手県花巻郊外の山荘で独居自炊生活を送った。今回の番組は1952年3月に放送した「朝の訪問」で、この山荘での生活ぶりや十和田湖畔に作った「乙女の像」について語っている。聞き手は詩人・真壁仁。

出演 大村彦次郎(元・文芸誌編集長) 宇田川清江アナウンサー


「NHKラジオアーカイブス」。当方寡聞にして、現在こういう番組が放送されていることを存じませんでした。NHKさんならではの貴重な取り組みですね。

今回放送される光太郎の肉声は、光太郎が花巻郊外太田村に在住時の昭和27年(1952)、やはりNHKラジオで放送されたものです。3月27日に、山形出身の詩人・真壁仁との対談で、花巻温泉の松雲閣別館で録音されました。オンエアは3月30日でした。

これに先立つ3月21日には、太田村の山小屋(高村山荘)に、建築家の谷口吉郎、詩人の藤島宇内が、佐藤春夫からの手紙を携えて訪ねてきています。青森県で計画が進んでいた、十和田湖の国立公園指定15周年記念モニュメントの制作依頼のためです。これが「十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)」として結実します。

対談の中で、「十和田湖」「裸婦像」といった単語は出て来ませんが、既に光太郎、乗り気になっていることがわかります。「今年あたりからいよいよ始まるですな、仕事が。」「これからは無駄なことをしないで猛烈にやるつもりですよ。」といった発言が見られます。

この対談、NHKサービスセンターさんの発行、BMGビクターさんの発売で、平成8年(1996)にCD化されています。

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他に昭和30年(1955)の草野心平との対談、自作詩朗読、それから室生犀星の肉声も収録されています。

文字にも起こされており、筑摩書房『高村光太郎全集』第11巻に収められています。

さて、「NHKラジオアーカイブス」。ラジオがうまく受信できないという方も、最近はよくしたもので、インターネットでリアルタイムの聴取が可能です。スマートフォン、タブレット、もちろんパソコンで、「NHKネットラジオらじる★らじる」のページからです。

また、リアルタイムで聴けなくとも、ストリーミングというわけで、過去の放送が聴けるようになっています。いずれ光太郎の回もアップロードされるでしょう。

ぜひお聴き下さい。


ラジオついでにテレビの件を。

昨日、とちぎテレビさん制作の「とちぎ発!旅好き! 感動!歴史と伝統の街~福島県二本松市~」が、提携している千葉テレビさんで放映されたので、拝見しました。

智恵子の故郷・二本松を取り上げるもので、光太郎智恵子にからむ内容かどうか、観るまでわからなかったのですが、いきなり冒頭近くで取り上げて下さいました。

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また、現在開催中の菊人形に関しても。

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当方は初日にお伺いしましたが、その際にはなかった光太郎人形が、智恵子人形の傍らに立っています(右の画像)。

その他、グルメ情報なども満載でした。

提携関係にある以下の各局で、これから放映されます。該当地域の方、ぜひご覧下さい。

群馬テレビ 2016/11/05(土) 午前11:30~
KBS京都  2016/11/06(日) 午前9:30~

埼玉のテレ玉さん、兵庫のサンテレビさんも提携はしているのですが、特別番組等のため、この回の放映はないようです。


また、年に1~2回、再放送されている2時間ドラマの放映もあります。

浅見光彦シリーズ22首の女殺人事件~福島‐島根、高村光太郎が繋ぐ殺人ルート!智恵子抄に魅せられた男が想いを託した首の女の謎

BSフジ 2016年11月8日(火)  12時00分~13時58分

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。
光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる!!

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初回放送はもともとは平成18年(2006)。岩手花巻の、現在は使用されていない、元の高村記念館(ただしドラマでは花巻という設定ではありませんが)、福島二本松の智恵子の生家・智恵子記念館などでロケが行われました。

ご覧になったことのない方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

腹へりてさびしくなりぬ空を見ん十一月のうらけき空を
大正13年(1924) 光太郎42歳

今日から11月ですね。関東は「うらけき空」とはいかず、雨模様です。

大阪は堺、光太郎の父・光雲がらみの企画展です。

河口慧海生誕150年記念事業「慧海と堺展」

期 日 : 平成28年10月26日(水曜)~12月4日(日曜)
会 場 : 町家歴史館 清学院   堺市堺区北旅籠町西1丁3-13 10時~17時
      町家歴史館 山口家住宅 堺市堺区錦之町東1丁2-31   10時~17時
      堺市博物館        堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁大仙公園内
  9時30分~17時15分
料 金 : 清学院 100円(65歳以上の方、障害のある方、中学生以下無料)
      山口家住宅 200円(65歳以上の方、障害のある方、中学生以下無料)
      堺市博物館 一般200円 高大生100円 中高生50円
 (65歳以上の方、障害のある方無料)

007 河口慧海(かわぐち えかい・1866年~1945年)の生誕150年となる本年、生誕の地である堺で、慧海の人と事績、ひいては慧海を生んだ堺の地に焦点をあてた記念事業を開催します。
 慶応2年(1866年)、堺山伏町(現在の堺区北旅籠町西3丁)に生まれた河口慧海は、仏教の原典を求めて日本人で初めてヒマラヤを越えて当時鎖国下のチベットに入った人物として知られています。帰国後刊行された『チベット旅行記』は、仏教学者だけではなく、民族学者、探検家にも高く評価され、英訳も出版されました。
 展示は、「慧海と堺展」と題して、10月26日(水曜)から12月4日(日曜)まで、清学院・山口家住宅・堺市博物館で行われます。主な展示品は、チベット探検時の日記や愛用の辞書、慧海の求めに応じて近代彫刻史の巨匠 高村光雲が制作した「釈迦牟尼(しゃかむに)仏像」、慧海を生涯支えた堺の親友 肥下徳十郎(ひげ とくじゅうろう)宅に伝わった「くり抜き日記帳」などです。
 講演会・シンポジウムと合わせて、河口慧海と慧海を生んだ堺を身近に感じていただければと思います。

関連行事

講演            奥山直司氏(高野山大学教授)・高山龍三氏
パネルディスカッション 奥山直司氏、高山龍三氏、吉川和子氏

平成28年11月3日(木曜・祝日) 午後1時30分~午後3時30分
会場 さかい利晶の杜(堺区宿院町西2丁1番1号)

光雲作の「釈迦牟尼仏」は、堺市博物館さんでの公開だそうです。

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日本人で初めてチベットに入った僧侶・河口慧海は、高村家の近くに住んでいた時期もあり、光雲や光太郎と交流がありました。

光雲は今回展示される「釈迦牟尼仏」や「大黒天像」などを慧海の求めに応じて制作。同様の仏像は仙台の福島美術館さんにも収蔵されています。

光太郎も戦時中に慧海自身の坐像の制作に携わりました。ただしこちらは作品の現存が確認できていません。おそらく昭和20年(1945)の空襲で焼失したと考えられます。


さて、ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

あらためてわがあなうらを見にければ蓮のうてなもなにもなかりきうたもなかりき

昭和23年(1948) 光太郎66歳

古代インドでは、仏像を作る習慣はありませんでした。西方のヘレニズム文化の影響を受け、いわゆるガンダーラ地方あたりで初めて仏像が作られる紀元前2世紀頃まで、仏教では仏像の代わりに法輪や菩提樹の木、そしてその足跡を石に刻んだ仏足石などによって、象徴的に釈迦信仰が行われていました。

仏足石の中には、「足下二輪相」というスタイルがあり、法輪をかたどった丸い紋様が刻まれているものがあり、その紋様は蓮の花にもよく似ています。この歌はそういった背景を持っています。

「あらためて自分のあなうら(足の裏)を見ても、蓮のうてな(台)も、何も無い。歌も無い。」といったところでしょうか。

ところでこの歌、『高村光太郎全集』では短歌の項に掲載されていますが、短歌ではありません。指折り数えてみると五・七・五・七・七・七と、七が一つ多いのです。この形式を「仏足石歌」と呼びます。オリジナルは奈良・薬師寺の仏足石歌碑。ここにこのスタイルの21首の歌が刻まれており、『古事記』、『万葉集』、『播磨国風土記』に類例が認められます。『高村光太郎全集』では、解題の部分に仏足石歌体である旨の記述が為されています。

こうした古歌の形式にも通じていたさしもの光太郎も、自分の足の裏を見てもお釈迦様のような蓮華紋はついていなかったようです(笑)。当方にもついていません(笑)。

今週月曜日の『日本経済新聞』さん。文化面で「あをによし奈良への憧憬十選」という連載が為されていて、その9回目です。

あをによし奈良への憧憬十選 9 細谷而楽「翁舞像」

 「翁」の面をつけて老人が舞う。「翁」とは「能にして能にあらざる曲」とも呼ばれる神聖な儀式の能曲。演者が神となって言祝(ことほ)ぎ、舞って天下泰平や五穀豊穣(ほうじょう)を祈る。
 この人形はその「翁」を舞う姿を造ったものだ。面や衣装に至るまでこまやかに表現されていて、彫刻の固さはさほど感じられない。
 これは木彫ではなく、天平時代の興福寺阿修羅像などと同じ「乾漆」という技法で造られている。作者は群馬県出身の細谷而楽(じらく)。東京美術学校塑像科で高村光雲に師事し、その後、奈良で仏像修復を扱う美術院で活躍する。特に乾漆彫刻の伝統技術を解明し、修復につなげた功績は大きく、新薬師寺十二神将の宮毘羅(くびら)大将(寺伝は波夷羅(はいら)大将)や法隆寺吉祥天像の修復は名高い。
 その技術が人形にも生かされている。細谷は昭和初期に春日大社が古典芸能の保存継承を目的に創設した「春日古楽保存会」で、金春流能楽師・桜間金太郎の舞う姿を見て、この乾漆で百体もの像を造ったという。これはその内の一つだ。
 奈良の文化財が今に守られ伝えられているのは、細谷のような人材と技術があったからだろう。その偉大な功績をしのぶよすがの翁舞像である。(1925年、乾漆彩色、像高36.3×幅18.7㌢、個人蔵)

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而楽細谷三郎。東京美術学校で光雲に師事、とありますが、学年としては光太郎と同期で、光太郎とのツーショット写真も残っています。左が細谷、右が光太郎。明治30年(1897)、光太郎14歳です。二人の奇妙な服装は、初期の東京美術学校の制服。「闕腋(けってき)」と呼ばれる昔の服を参考に制定されましたが、不評だったため程なく廃されました。

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細谷は明治8年(1875)または11年(1878)の生まれとされ、光太郎より8歳ないし5歳年長です。初期の美校ではさまざまな経歴の入学者がおり、生徒の年令の幅は広かったようです。

光太郎の文章等にもたびたび細谷の名が出て来ます。明治35年(1902)、それぞれが美校を卒業した際の卒業制作では、光太郎が日蓮(『獅子吼』)、細谷は俊寛と、それぞれ僧侶をモチーフにしたこと、同じ年の暮に、まだ実家で暮らしていた光太郎の彫刻室が火事で全焼した際に、後片付けの手伝いに来てくれたことなど。

卒業後、細谷は『日経』さんの記事にあるとおり、仏像修復の分野で活躍します。これには光雲が古社寺保存会の仕事もしていたため、そうした分野にも弟子たちの道筋を付けてやっていたという背景もあります。甲冑師の後裔だった明珍恒男などもそのクチでした。

それだけでなく、乾漆による実作でも上記のような秀作を残した細谷。この部分でも光太郎との関わりがあります。

昭和2年(1927)、青森十和田湖の道路整備等に尽力し、国立公園指定の礎を築いた地元の村長・小笠原耕一が歿しました。すると、小笠原と共に十和田湖周辺の開発を進めた元青森県知事の武田千代三郎が、盟友の死を悼み、自ら小笠原の塑像を制作しました。その原型を乾漆で完成させたのが細谷でした(画像左)。また、武田は自身の乾漆像の制作も細谷に依頼(画像右)。二つの像は十和田の蔦温泉にあった薬師堂に納められました。

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戦後になって、小笠原、武田、そして両者と親しく、文筆で十和田湖の魅力を広く世に紹介した大町桂月を併せた「十和田の三恩人」を顕彰する功労者記念碑として計画されたのが光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」です。

戦前から民間レベルで進められていた顕彰運動に細谷が関わっていて、戦後には光太郎がそのしめくくりに携わっているわけで、不思議な縁を感じます。

細谷而楽。もっと注目されていい作家だと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむとすなり

昭和13年(1938)頃 光太郎56歳頃

昨日の「ひとむきに……」同様、昭和16年(1941)刊行の『智恵子抄』に収められました。「おどろしき」は「恐ろしい」。

戦後、花巻に疎開した折、智恵子遺品の紙絵「いちご」にこの歌を添え、世話になった総合花巻病院長・佐藤隆房に謹呈。現在も花巻高村光太郎記念館に所蔵されています。

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石川県から企画展情報です。気付くのが遅れ、始まってしまっています。 
期  日 : 2016年9月10日(土) ― 10月23日(日)  無休
会  場 : 石川県立美術館 石川県金沢市出羽町2-1
時  間 : 午前9時30分から午後6時まで
料  金 : 一般1000円(800円) 大学生600円(500円) 高校生以下無料 65歳以上800円
                      ( )内団体料金

日本の近代が幕を開けた激動の明治時代は、国全体が大きく変貌を遂げた時代であり、ここから昭和にいたる近代は、美術史的にも大きな変動が見られ、多くの優れた作家たちが革新的な創作活動を行いました。現代の美術動向に繋がる重要な時代ですが、教科書などにおいても、美術史を含む文化史の記述は少なく、作家の紹介としても充分とは言えないでしょう。
このたび多くのご所蔵先のご協力のもと、絵画、彫刻、工芸、それぞれの分野において、近代日本の美術史に残る作家たちによる、優れた作品を一堂にそろえました。現代はインターネットの情報があふれていますが、美術作品を知るには実際に作品を見ること、これに勝る方法はありません。「教科書に載るような名品」をご覧いただくことで、個々の作品の魅力とともに、近代という時代の大きな流れを感じ取っていただければ幸いです。

主な出品作家
 日本画
  竹内栖鳳、横山大観、上村松園、小林古径、安田靫彦、堂本印象、伊東深水、東山魁夷、
  杉山寧、
平山郁夫、加山又造 ほか
 洋画
  浅井忠、坂本繁二郎、小絲源太郎、梅原龍三郎、安井曾太郎、中川一政、林武、
  東郷青児、小磯良平、宮本三郎、脇田和、鴨居玲 ほか

 彫塑
  山崎朝雲、荻原守衛、建畠大夢、朝倉文夫、高村光太郎、北村西望、淀井敏夫、
  佐藤忠良、舟越保武、富永直樹 ほか

 工芸
  板谷波山、富本憲吉、荒川豊蔵、浜田庄司、楠部弥弌、六角紫水、高野松山、松田権六、
  音丸耕堂、木村雨山、芹沢銈介、香取秀真、鹿島一谷、帖佐美行、黒田辰秋、氷見晃堂、
  大野昭和齋、平田郷陽、藤田喬平、西出大三 ほか

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関連行事
 講演会 会場はいずれも美術館ホール 聴講無料(定員209名)
 9月18日(日)13時30分~15時
  「近代美術の展開 ―絵画・彫刻を中心に―」 講師 宝木範義氏(美術評論家)
 10月2日(日)13時30分~15時
  「工芸の近代 ―作家の誕生と以降の創作表現―」
    講師 山崎達文氏(金沢学院大学教授)  

 0才からのファミリー鑑賞会
 10月16日(日) ①10時~ ②13時30分~
  講師:冨田めぐみ氏(赤ちゃんからのアートフレンドシップ協会・代表理事)
  定員:30名 ※電話でお申し込みください

 展示室でスケッチGO!
 10月10日(月・祝)13時~15時 お申し込み不要、当日受付

 ギャラリートーク(毎週日曜日)
  担当学芸員が展覧会の見どころや出品作品について解説を行います
  9/11、9/18、9/25、10/2、10/9、10/16、10/23 各日11時~ ※
観覧料

 土曜講座 ―学芸員による講義―
 会場:美術館講義室 聴講無料(定員50名) 各日13時30分~15時
 9月10日「モダニズムと古典主義―近代金工の様相―」 担当:中澤菜見子
 9月17日「織の名匠 宗廣力三と志村ふくみ」 担当:寺川和子
 9月24日「近代―日本画の豊穣なる時代―」 担当:前多武志
 10月8日「近代洋画の探求」 担当:二木伸一郎
 10月15日「近代工芸の名作」 担当:西田孝司

 映像ギャラリー 出品作家関連の映画やビデオを上映します
 各日13時30分~ 会場:美術館ホール 入場無料(定員209名)
 9月19日(月・祝)「西洋画との出会いと模索」「飾りなき漆の美 増村益城」
 9月22日(木・祝)日本の巨匠シリーズ「牛島憲之」「西山英雄」「富永直樹」
          「帖佐美行」
 10月10日(月・祝)「日本の伝統と変革」「糸の音色を求めて 志村ふくみの世界」


基本的に一作家一作品の展示だそうで、光太郎作品は「教科書に載るような名品」ということで、代表作の一つ、ブロンズの「手」(大正7年=1918頃)が出ています。


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地域によっては、光太郎の彫刻も実物を見られる機会は多くありません。お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

実のふたつ成りし無花果(いちじく)けさ見れば一つはあらで歌むすびあり

明治33年(1900) 光太郎18歳

昨日、たまたま観ていたNHKさんの「ひるまえほっと」という関東1都6県の情報番組で、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市が取り上げられました。2つ話題が紹介されたうちの1つが、最近、特産品として力を入れているイチジクについてでした。

三重県から展覧会情報です。 
期   日 : 2016年9月17日(土)~10月10日(月)  
会   場 : 三重県総合博物館 三重県津市一身田上津部田3060
時   間 : 午前9時~午後5時  (土日祝は午後7時まで)
休 館 日 : 月曜日(祝日の場合はその翌日)
料   金 : 無料

交流展示では、MieMuのシンボルでもある、津市内で発見された太古のゾウ「ミエゾウ」の標本のほか、南北朝時代に南朝側で活躍した北畠氏の拠点があった現在の美杉町多気にある遺跡の発掘資料や、藤堂氏入府以後、城下町として発展した江戸時代の津の様子がわかる絵図や古文書など、約480点の貴重な資料を展示します。さらに、市民に親しまれている神社や寺院等に奉納されている文化財を公開するほか、明治から平成にかけての津市が現在の市域に至るまでの合併の変遷をたどります。
1章 津のルーツ(旧石器・縄文・弥生・古墳時代)
2章 古代(奈良・平安時代)
3章 中世(鎌倉・室町時代)
4章 近世(安土桃山・江戸時代)
5章 近現代(明治・大正・昭和・平成)

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チラシ裏面に画像が掲載されていますが、光太郎の父・光雲作の「魚籃観音立像」が出品されます。

調べてみたところ、平成14年(2002)、三重県立美術館、茨城県近代美術館、千葉市立美術館、徳島県立近代美術館を巡回した企画展「高村光雲とその時代展」に出品されたものでした。

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明治36年(1903)の作。像高37㌢です。

「籃」は「らん」と読み、かごを表します。像の手に提げられているかごです。観音像のバリエーションとして「三十三観音」というカテゴリーがあり、「魚籃観音」も含まれます。中国起源の伝説に基づくもので、日本では単体で信仰されることは稀だそうですが、津市の蓮光院初馬寺さんには元禄期の石造仏「水掛け魚籃観音」が祀られており、漁業も盛んなこの地に魚籃観音信仰があったようです。

光雲には、他にも魚籃観音の作例があります。

ちなみに同じ三重県の桑名市では、光雲作の飾り物を施した祭車も出る「石取祭」が行われており、三重と光雲には色々縁があるようです。

意外と光雲作の木彫が見られる機会は多くなく、貴重な機会です。ぜひご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

こほろぎもかゝる夜はなけ湯のけぶり   明治34年(1901) 光太郎19歳

昼間はまだ蝉の合唱が聞こえますが、このところ日が暮れると、代わって秋の虫たちの競演です。季節は確実に進んでいますね。

週末の『朝日新聞』さんから、全文が長いので、抜粋で。 

(大峯伸之のまちダネ)御堂筋のいま2

■知恵出し合う「企業町会」
 行政と企業が手を携えた街づくりが進む大阪・御堂筋。先週紹介した「御堂筋まちづくりネットワーク」の活動エリアの南側では、長堀通を中心に取り組むNPO法人の「御堂筋・長堀21世紀の会」がある。約120の会員の大半は企業だ。
■作品29体「彫刻ストリート」
 オーギュスト・ロダン、ヘンリー・ムーア、高村光太郎、佐藤忠良……。御堂筋の東西の歩道には、国内外の著名な彫刻家の作品29体が並んでいる。
 大阪市の呼びかけで1991年から沿道の企業を中心に作品を買い、置いた。いずれも本物だ。最近は「御堂筋彫刻ストリート」とも呼ばれている。
 大阪市のガイドツアー講師を務める伊藤義麿さん(78)は鐘淵化学工業(現・カネカ)で働いていた頃、御堂筋沿いの日本生命を訪問。そのとき、歩道のアントワーヌ・ブールデルの作品に気づいた。
 伊藤さんの父は美術評論家の故・柳亮(やなぎりょう)。フランスのパリで暮らし、ブールデルの弟子の清水多嘉示(たかし)と交流があった。清水の作品「みどりのリズム」もまた御堂筋の歩道にある。伊藤さんは父が残した資料を読み込み、美術の勉強にのめり込んだ。
 伊藤さんと一緒に彫刻ストリートを歩いた。「足の筋肉の表現が細かくて緻密(ちみつ)でしょう」。大阪ガスビル近くのロダンの作品「イヴ」を前に、伊藤さんの話が止まらない。作品の前に自転車が放置される時期もあったが、伊藤さんは「最近は改善されました」とほほ笑んだ。
■府市と企業で目玉イベント
 四季を通じて、御堂筋はさまざまなイベントで盛り上がる。
 かつての代表格は「御堂筋パレード」だった。1983年に始まり、マーチングバンドやバトントワリング、企業などによる「フロート(花車)」が秋の大阪を彩ってきた。
 ところが、分担金を出してきた大阪府から見直しを求められたことをきっかけに、パレードは御堂筋の完成70周年にあたる2007年が最後に。約2キロを72団体・約7千人が練り歩き、約125万人(主催者発表)が沿道を埋めた。
 08~12年の春には、歩行者天国の「御堂筋フェスタ」、秋には「御堂筋kappo(カッポ)」がそれぞれ催された。この2イベントは13年春、同じ日の開催となった。一連の取り組みは「府市統合」をめぐる動きや議論と重なったものの、府と市の担当者は企業と手をたずさえ、「御堂筋の活性化」へ知恵を出し合っていく。
 14年春。府市は一緒に「御堂筋ジョイふる」を開き、昨年秋には「御堂筋オータムパーティー」に。F1カーや100台のフェラーリ車が登場した。
 この秋、どんな「目玉企画」が出てくるか楽しみだ。(大峯伸之)

記事にある御堂筋の彫刻ストリート、光太郎彫刻は、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作が設置されています。2年前に見てきたレポートがこちら

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数少ない光太郎彫刻屋外展示の一つです。


本家、十和田湖を扱うテレビ番組放映がありますので、ついでにご紹介します。 

イチオシ!2泊3日の旅 青森・奥入瀬~八甲田…水と緑の絶景!

BS日テレ 2016年8月11日 (木)  20時00分~20時54分

苔むす岩々が織りなす奇跡の渓流▽青森リンゴにこだわった贅沢高級ビュッフェ▽十和田湖の神秘的な光景に大感動▽ワイルドなボートツアー絶叫体験▽八甲田の温泉で絶品御膳

1泊2日の慌ただしい行程ではなく、「2日目をゆったり使える」2泊3日の旅を楽しみませんか?日本全国の風光明媚な景観を訪れ、旬の味覚を味わう2泊3日の“時間を贅沢に使った"旅番組です。

出演  旅人 佐伯チズ&南美希子   ナレーター 真地勇志


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ちらっとでも乙女の像の紹介があるといいのですが……。


当方、今日から地方出張で4泊5日の長旅です。

まずは信州安曇野。碌山美術館さんで開催中の企画展「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事で講演を仰せつかり、「高村光太郎作《乙女の像》をめぐって」と題してお話しさせていただきます。それが7日(日)ですが、早のりで今日から信州に参ります。

昨年、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん編集による『十和田湖乙女の像のものがたり』という書籍が刊行され、前半部分を執筆し、「乙女の像」についてがっつり調べましたので、その成果です。元々碌山美術館さんで「乙女の像」の中型試作、小型試作を所蔵されており、「この辺の内容でどうですか」というご提案もありました。もちろんそれ以外に光太郎の生涯の俯瞰、碌山荻原守衛と光太郎との関連、智恵子についても述べる予定です。

その後、9日(火)が宮城女川で女川光太郎祭。そちらでも講演が入っており、一旦帰宅すると遠回りになるので、8日(月)、一日かけて信州から三陸まで移動します。

帰宅予定は10日(水)。その間、このブログは携帯から投稿します。字数制限がある上、画像も制約があり、内容が薄いものとなりましょうが(いつもだろ、と突っ込まれそうですが)、見捨てないで下さい(笑)。

【折々の歌と句・光太郎】

ちひさき蟲にはあれどわれよりも命ながしとはしきわが蝉
大正13年(1924) 光太郎42歳

信州安曇野の碌山美術館さんで先週末から開催中の 「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の図録が届きました。

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B5判111ページ、立派な図録です。

同館館長・五十嵐久雄氏の「ごあいさつ」、島根県立美術館長・長谷川三郎氏の論考「彫刻家高村光太郎」、同館学芸員・武井敏氏の論考「高村光太郎の彫刻と詩―桃と乙女、そしてレモン―」、光太郎智恵子略年譜、彫刻に関わる光太郎の詩文、そして豊富な図版から成ります。図版は出展作品はもちろん、それ以外の参考図版も充実しています。

図版を見て、改めて思いました。それほど大規模な展覧会ではありませんが、光太郎智恵子芸術の精髄を集めており、二人の芸術世界を概観するには充分すぎる展示内容です。

光太郎の木彫が7点。「蝉」、「白文鳥」、「桃」、「柘榴」、「蓮根」、そして「鯰」が2種類。 ブロンズが12点。「獅子吼」、「薄命児男子頭部」、「園田孝吉胸像」、「裸婦坐像」、「腕」、「手」、「老人の首」、「黒田清輝胸像」、「光雲一周忌記念胸像」、「倉田雲平胸像」、「乙女の像(小型試作)」、「乙女の像(中型試作)」。このうち、「白文鳥」、「乙女の像(小型試作)」、「乙女の像(中型試作)」は、それぞれ2体で一対です。

さらに光太郎の作品としては、油絵の「自画像」、鉛筆書きの「乙女の像構想スケッチ」、肉筆詩稿(主に彫刻に関わる詩篇をセレクト)が18点、詩集が7冊(うち5冊は当方がお貸ししました)。

そして智恵子の紙絵の実物が40点。

22:35追記 山梨県の清春白樺美術館さんで所蔵の智恵子油絵「樟」も出品されています。書き落としました。

これほど充実した企画展ですが、それほど報道されておらず、残念です。地方紙のサイトでも開催予告的な記事は見つかりましたが、開幕した、という記事が見あたりません。今後に期待したいところです。

今後といえば、8月7日(日)、午後1時30分から当方の記念講演があります。

ぜひぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

羽を彫り眼だまをほれば木の蝉もじつと息して夕闇にはふ
大正13年(1924) 光太郎42歳

碌山美術館さんで展示されているのが、この短歌で詠まれている「蝉」です。

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先週の『朝日新聞』さんの夕刊に、以下のコラムが載りました。

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(各駅停話)新御徒町駅 幻の高村光雲の大仏

 駅を出るとすぐ、65店舗が並ぶ「佐竹商店街」がある。1898年に組合組織のできた、日本で2番目に古い商店街という。
 あたりには江戸時代、大名の佐竹氏の屋敷があったが、明治時代に撤去されて原っぱになった。佐竹商店街振興組合の秋本邦雄理事長(73)によると、明治時代には、鎌倉の大仏より大きな大仏があったという。
 つくったのは、近所に住んでいた彫刻家、高村光雲(1852~1934)。光雲の懐古談に、原っぱに見せ物用の大仏をつくって中に客を入れる構想を冗談半分に口にしたところ、周囲が乗り気になり、実現したという話が出てくる。
 1880年代中ごろにできた大仏は高さ約15メートル。後に同じく光雲のつくった西郷隆盛像の建つ、東京・上野近辺からも眺めることができたらしい。しかし、完成した年、嵐で骨組みだけ残して吹き飛んでしまったという。
 こうした話は、商店街の酒井孝昌さん(82)が30年近く前、地元の歴史を残そうと掘り起こした。大仏があったと思われる場所に案内してもらうと、小学校になっていた。「大仏が、地域の歴史に目を向けるきっかけになればうれしい」と酒井さん。(石山英明)


場所は台東区台東4丁目、現在、平成小学校のある辺りで、記事にあるとおり、江戸時代には佐竹家の屋敷があったため、「佐竹っ原」といわれていた空き地でした。時は明治22年(1889)、光雲は数え38歳、岡倉天心に請われて東京美術学校に奉職した年です。この頃、佐竹っ原にはよしず張りの簡素な飲食店や見世物小屋などが立ち並んでいました。ところが、目玉になるようなものはなく、どうにもさびしい状態だったとのこと。

そこで光雲と職人仲間との雑談の中で、あそこに何か目玉になるものを作ろう、という話になりました。モニュメントとかオブジェというニュアンスではなく、見世物小屋の延長として、しかし、ただ小屋を建てるのでは芸がないから、小屋全体を展望台も兼ねた大仏の形にしてしまえ、というのが光雲の発案でした。

光雲は冗談半分だったのですが、仲間たちは乗り気になり、光雲にひな形を作れ、と迫ります。言い出しっぺの光雲としては断り切れず、どうせ実際に作るとなると無理だと言われるに決まっている、と思いながら二尺四寸のひな形を作りました。すると、案に相違して仲間たちには好評、専門の大工などに見せても、これなら出来る、とのことで、実現します。

これが佐竹っ原の大仏で、材料は丸太、板、竹、漆喰。つまりほとんど張りぼてです。光雲の異母兄で大工の中島巳之助や、仕事師と呼ばれる今で言う足場組立職人、芝居の大道具師、左官屋、興行師なども巻き込み、2ヶ月ほどで完成します。光雲も、大工たちの間に入って陣頭指揮したとのこと。

高さは四丈八尺(約14.5㍍)。内部は、さざえ堂を参考にした螺旋階段を設置、大仏の頭部が展望台を兼ねた部屋で、眼や耳に開けられた穴から街並みが見渡せる仕組み。胴の内部は仏像やら古布などを展示、さらにステージまで設けて踊りも披露するという凝った作りでした。

完成した五月には、大入りになりましたが、その後、梅雨と真夏の猛暑の時期には客足が落ち込み、秋口になって、さあ盛り返すぞ、というところで台風の直撃を受け、骨組みだけを残して壊れてしまったそうです。というわけで、わずか4ヶ月ほどの命だったこの大仏、残念ながら写真や絵図などの現存が確認できていません。

このあたり、昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』に詳しく記述があり、「青空文庫」さんで読むことができます。まだ日本彫刻界の頂点に上る前の壮年期の光雲。しょうもないといえばしょうもないこともやっていたわけですが、微笑ましいエピソードです。


お読み下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

なきかけ又なきなほすみんみんのあかるきかなや必死のうたは
大正13年(1924) 光太郎42歳

群馬から企画展の情報です。 

再発見!ニッポンの立体

期 日 : 2016年7月16日(土)~9月19日(月・祝)
会 場 : 群馬県立館林美術館  群馬県館林市日向町2003
時 間 : 午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)   
休館日 : 毎週月曜日 祝日・振替休の場合はその翌日 8月15日を含む週は休館しません
料 金 : 一般610円(480円)、大高生300円(240円)   ※( ) 内は20名以上の団体割引料金
      ※中学生以下、障害者手帳等をお持ちの方とその介護者1名は無料。
      ※震災で避難されてきた方は無料で観覧できますので受付でお申し出ください。

わが国には土偶や埴輪、仏像や神像、人形、寺社を装飾する彫り物、置物など、信仰や生活に結びついた豊かな造形表現があります。ところが明治以降、西洋の彫刻がわが国に知られると、それらが刺激となって立体造形に大きな変化がもたらされます。それでも江戸時代以前の造形感覚が忘れられたわけではありません。精巧な技術を駆使して本物そっくりを目指した木彫の栗や象牙の貝殻には、西洋美術が得意とする写実表現とは異なる意識がみられます。それらは根付け、水滴、香合など小さな立体に寄せる日本人の感性に特によく表れています。一方で、現代のゆるキャラやマスコットにみる簡略化は、だるまや招き猫、各地で大切にされたこけしの造形と結びついています。本展ではジャンルを超えた多彩な造形表現によって日本固有の美意識を探ります。

学芸員による作品解説会 (申込不要・要観覧料)   展覧会担当学芸員による解説を聞きながら、作品を鑑賞します。
日時:7/27(水)、8/12(金)、9/11(日) 各日午後2時-(約40分)  会場:展示室

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案内文にあるとおり、古代から現代までの「立体」作品を集めた企画展です。

光太郎のブロンズ彫刻が3点、展示されています。代表作の「手」(大正7年頃=1918頃)、「裸婦坐像」(同6年=1917)、そして「大倉喜八郎の首」(同15年=1926)。

追記 光雲作品「西王母」「江口の遊君」も展示されています。

また、それぞれ近くなりましたらもう一度ご紹介しますが、下記の美術館さんにも巡回予定です。

2016年11月15日(火)~2017年1月9日(月・祝)静岡県立美術館
2017年1月24日(火)~4月9日(日)三重県立美術館

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

地を去りて七日(なぬか)十二支六宮(ろくきう)のあひだにものの威を思ひ居り
明治39年(1906) 光太郎24歳

「海の日」がらみで、光太郎が欧米留学のため横浜から乗船した、カナダ太平洋汽船のアセニアン号船中での作、最後です。

生まれて初めての長い船旅、大きなインパクトがあったようです。

直接的には光太郎には関わりませんが、光太郎が多大な影響を受けた、ロダンの企画展。北海道札幌での開催です。 

開館35周年記念 ロダン展

会 場 : 本郷新記念札幌彫刻美術館 札幌市中央区宮の森4条12丁目
会 期 : 2016年7月9日(土)~9月25日(日) 
休 館 : 月曜日 
      7/18(月・祝)9/19(月・祝)は開館し7/19(火)9/20(火)は休館
時 間 : 10:00~17:00(入館は16:30まで) 7月17日(日) 8月27日(土)は19:30まで
料 金 : 一般 1,000(800)円、65歳以上 800(640)円 高大生 600(540)円 中学生以下無料

本郷新記念札幌彫刻美術館は今年で開館35周年を迎えます。
これを記念し、フランスの彫刻家・オーギュスト・ロダン(1840-1917)の展覧会を開催します。
パリで生まれたロダンは、ほとんど独学によって彫刻家として大成し、身体の生命感を彫刻の本質と捉えた独自の表現により、「近代彫刻の父」と称賛されました。
札幌生まれで戦後日本の具象彫刻を牽引した彫刻家・本郷新(1905-1980)は、師・高村光太郎の著作『ロダンの言葉』や、ロダンの実作を通して、この巨匠に多くを学んでいます。
本展は、日本近代の彫刻家たちに多大なる影響を与え、彫刻家・本郷新の源流ともなったロダン芸術の魅力を広く伝えようとするものです。
代表作《地獄の門》の関連作をはじめとする、国内美術館所蔵のロダンの彫刻作品22品を中心に構成します。

〔出品作品〕
 《考える人》 1880年 (静岡県立美術館蔵)
 《カレーの市民》 第一試作 1884年 (静岡県立美術館蔵)
 《パオロとフランチェスカ》 1887-89年頃 (静岡県立美術館蔵)
 《眠れる女(裸婦)》 1887年 (札幌芸術の森美術館蔵)
 《フロックコートを着たバルザック》 1891-92年 (札幌芸術の森美術館蔵)
 《ジャン・デールの裸体習作》 1868-89年頃 (中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館蔵)
 《衣をまとったバルザック》 1897年 (北海道立函館美術館蔵)
  ほか

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関連行事

ロダンナイト
開館35周年を祝い、開館時間を延長、無料で観覧いただけます。イベントも開催
日 時:7月17日(日)17:00~19:30

ギャラリートーク
日 時:7月23日(土)、8月6日(土)、9月10日(土) 各回14:00~14:40
※申込不要、要展覧会観覧料

ロダンにタッチ!
一部の出品作品にさわって鑑賞いただけます。手でロダン彫刻を味わう特別なひとときをお楽しみください。
日 時:会期中の毎週土曜10:00~11:00

ミュージアムコンサート
日 時:8月27日(土)17:00~18:00

会 場:札幌彫刻美術館 本館


館の名前になっている本郷新は、舟越保武、佐藤忠良らとともに、光太郎に影響を受けた彫刻家です。光太郎没後の10年間限定で行われた「高村光太郎賞」の選考委員に名を連ねました。

同館は「記念館」と「本館」から成り、ロダン展は「本館」、「記念館」は本郷のアトリエをそのまま使い、本郷の作品などの常設展示が為されています。

併せてご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

ゆるぎなく水面(みのも)の影のこむらさき緑さすよと見れば消えたり

明治34年(1901) 光太郎19歳

「こむらさき」は美しい紫色の羽を持つ蝶です。一回り大きいオオムラサキは日本の国蝶ということになっています。

今月末から始まる信州安曇野の碌山美術館さんでの企画展です。
期  日 : 2016年7月23日(土)~8月28日(日) 会期中無休
場  所 : 碌山美術館 杜江館・第Ⅰ/Ⅱ展示棟  長野県安曇野市穂高5095-1
時  間 : 9:00~17:10
料  金 : 大人 700円(600円)  高校生 300円(250円)  小中学生 150円(100円) 
       ( )内団体:20名以上)
後  援 : 安曇野市 安曇野市教育委員会 安曇野市教育会 信濃毎日新聞社 市民タイムス
協  賛 : 清水建設株式会社 株式会社中村屋 医療法人仁雄会穂高病院
       株式会社とをしや薬局 
株式会社アイダエナジー

高村光太郎(1883~1956)の没後60年、高村智恵子(1886~1938)の生誕130年を記念して企画展を開催いたします。
木彫家・高村光雲の長男として生まれた光太郎は、幼少期より木彫の手ほどきを受け、東京美術学校や海外での研鑽を積むことでその資質を開花し、木彫・塑像に傑作を残しています。
また合わせ持っていた文学的資質は、評論・翻訳・詩作などに結実しています。「緑色の太陽」(1910)のような啓発的な評論、『ロダンの言葉』(1916)の翻訳等は、日本近代美術界を大いに刺激しました。のみならず、『道程』(1914)、『智恵子抄』(1941)等の詩作は現在もなお広く知られています。
高村自身は「私は何を措いても彫刻家である」「自分の彫刻を護るために詩を書く」と述べる一方で「詩精神(事物の中心に直入する精神)が言葉にあらわれれば詩となり、造型に形をとれば美術一般となる」とも言っています。
彫刻と詩を通して、高村光太郎の制作の根源へ思いを馳せていただければ幸いです。

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関連行事

特別企画展記念講演会 「高村光太郎作《乙女の像》をめぐって」

期  日 : 2016年8月7日(日)
場  所 : 碌山美術館 杜江館二階 
                          7/28追記 会場が美術館向かいの研成ホールに変更になりました。
時  間 : 13:30~
料  金 : 無料 (ただし入館料が必要です)
講  師 : 小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表)


というわけで、当方の講演があります。昨年、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん編集による『十和田湖乙女の像のものがたり』という書籍が刊行され、前半部分を執筆し、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」についてがっつり調べましたので、その成果です。元々碌山美術館さんで「乙女の像」の中型試作、小型試作を所蔵されており、「この辺の内容でどうですか」というご提案もありました。もちろんそれ以外に光太郎の生涯の俯瞰、碌山荻原守衛と光太郎との関連などについても述べる予定です。


さて、展示の方ですが、光太郎の木彫がひさびさにある程度まとめて並びます。まだ出品目録を頂いていないので、詳細は不明ですが(いずれ続報を出します)、平成25年(2013)に千葉市美術館さん、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さん、岡山井原市田中美術館さんを巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展以来です。

その他、もちろんブロンズ彫刻、絵画、詩稿などの光太郎作品、そして智恵子紙絵の現物も出ます。さらに当方の蔵書から、光太郎の詩集をお貸ししました。『道程』(大正3年=1914)と『智恵子抄』(昭和16年=1941)は碌山美術館さんで持っているというので、それ以外の生前の単行詩集、『大いなる日に』(同17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)、『典型』(同25年=1950)、さらに没後の刊行ですが、当会の祖・草野心平が鉄筆を執ってガリ版刷りで作った光太郎七回忌記念の『猛獣篇』(同37年=1962)もお貸ししました。

そうした意味では、かなり幅広い光太郎智恵子の総合展のような企画展です。

ぜひぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

ふるさとの少女を見ればふるさとを佳しとしがたしかなしきかなや

明治42年(1909) 光太郎27歳

欧米留学からの帰国直後、日本女性に失望シリーズ(笑)の一作です。

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