昨日は、東京小平市に行っておりました。同市平櫛田中彫刻美術館さんで開催中の特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」を拝見のためでした。
出かける前に拝見していたNHK Eテレさんの「日曜美術館」とセットの「アートシーン」で、同展が扱われていまして、いやが上にも期待が高まりました。
昨日は関連行事の美術講座「ロダンと近代日本彫刻」があり、先にそちらの会場である放送大学東京多摩学習センターさんに参りました。
講師は同館学芸員の藤井明氏。昨年の連翹忌にご参加下さっています。
定員50名ということで案内がありましたが、100名ほど集まってしまい、急遽、パーテーションをはずして会場を広げての対応。質問を含め、約1時間半でした。
まず、ロダンその人の紹介。さらに我が国に於けるロダン受容の歴史。活字として残っている早い時期の例として、岡倉天心や岩村透にまじって、光太郎の文章も挙げて下さいました。さらにロダンの影響を受けた彫刻の実作者として、荻原守衛、中原悌二郎、戸張孤雁、沼田一雅、本保義太郎、そして光太郎。
ロダン彫刻の特徴と、具体的にどういう部分で影響が及んだのかなど、非常に興味深いお話でした。
まず、きれいな外形を追い求めるのでなく、内面から沸き上がる「生命の芸術」を追う姿勢。それからトルソ(胴体のみの彫刻)や手などの、人体の一部分をモチーフとし、やはりきれいな仕上げを施さない「不完全の美」。そして群像表現や、別個の彫刻を組み合わせる「アッサンブラージュ」。光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」もアッサンブラージュの例としてあげられていました。
さらに、ヨーロッパでもそういう動きが起こりましたが、日本でも、ロダンへの反発から生まれたベクトルもあることも。
有意義な講座でした。
その後、徒歩10分ほどの平櫛田中彫刻美術館さんへ。このブログを開設する前にお邪魔して以来で、6年ぶりくらいでした。
同館は光雲の高弟の一人だった平櫛田中の旧宅を利用して建てられたものです。こちらが旧宅部分。
満で107歳という長寿をまっとうした田中ですが、100歳になってから入手したという巨大なクスノキの原木が庭にそのまま残っています。試算では30年分はゆうにあるとのこと。以前にもご紹介しましたが「六十七十は はな たれこぞう おとこざかりは 百から百から」と言っていた田中、どれだけ長生きするつもりだったのでしょうか(笑)。
さて、館内へ。
受付のすぐ前には、ロダンの「考える人」。像高40㌢ほどの小さなバージョンですが、それだけにあふれ出る生命観がかえって凝縮されているように感じます。
展示室は5つに分かれ、ただ「ロダンですよ」、「影響を受けた作家の作品ですよ」とずらっと並べるだけでなく、先ほどの藤井氏の美術講座の内容とリンクして、「生命の芸術」、「不完全の美」、「アッサンブラージュ」、「ロダンへの反発」と、それぞれテーマが与えられています。
光太郎作品は3点。碌山美術館さん所蔵の「腕」(大正7年=1918)、「十和田湖畔の裸婦群像中型試作」(昭和28年=1953)、そして朝倉彫塑館さん所蔵の「手」(大正7年頃=1918頃)。
この朝倉彫塑館さんの「手」は、光太郎生前に鋳造された数少ないもののうちの一つで、台座の木も光太郎が彫ったものです。一昨年、武蔵野美術大学美術館さんで開催された「近代日本彫刻展 −A Study of Modern Japanese Sculpture−」で拝見して以来でした(上の方に「アートシーン」からの画像があります)。
その他、ロダンを始め、影響を受けた彫刻家の作品。なかなか見応えがありました。平櫛田中も木彫家でありながら、原型は塑像で制作をしていたり、塑像家の石井鶴三らと交流があったりと、やはりロダンの影響を受けています。
帰りがけ、図録を購入。こちらについては明日、ご紹介します。
今週末にもまた行って参ります。もう一つの関連行事として、以下があるもので。
講師の髙橋幸次先生のご講演を以前にも拝聴し、すばらしかったのと、やはり髙橋先生には連翹忌にご参加いただいているのと、「ロダンと同時代のフランス音楽」も当方大好きなもので。
今から楽しみです。
【折々のことば・光太郎】
詩はおれの安全弁。
詩「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳
光太郎は詩人としても有名ですが、なぜ彫刻家が詩を書き続けたのでしょうか。その答えは光太郎自身の言から引きましょう。
昭和14年(1939)に書かれた散文「自分と詩との関係」によれば、光太郎にとっての詩は「彫刻の範囲を逸した表現上の欲望」によって彫刻が「文学的になり、何かを物語」るのを避けるため、また「彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため」に書かれたものだというのです。
青年期には光太郎もそういう彫刻を作っていましたが、謎めいた題名やいわくありげなポーズに頼る彫刻ではなく、純粋に造型美だけを表現する彫刻を作るため、自分の内面の鬱屈などは詩として表現するというわけです。
まさしく詩は安全弁だったのです。
だからといって、光太郎の詩が副次的な産物や二義的なものということにはなりませんが。