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信州安曇野の碌山美術館さんから、館報第38号が発行されました。光太郎の盟友・碌山荻原守衛の個人美術館ということで、毎年、光太郎がらみの企画を開催して下さっており、館報にそれが反映されています。

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表紙は最近同館が寄贈を受けた斎藤与里の絵画。斎藤は守衛や光太郎ともども、中村屋サロンに出入りしていた画家です。のちにはやはり光太郎ともども、ヒユウザン会(のちフユウザン会)に参加しています。

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手前味噌で恐縮ですが、昨年12月2日に同館で開催された、美術講座「ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る」の筆録が掲載されています。同館学芸員の武井敏氏と、当方の対談形式でした。

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それから、やはり昨年4月22日の第107回碌山忌での研究発表フォーラム・ディスカッション「荻原守衛-ロダン訪問の全容とロダニズムの展開-」でのご発表を元にされた、彫刻家・酒井良氏の「ロダンと荻原守衛」。

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さらに、これもやはり昨年7月から9月にかけて開催された夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」にからめ、同館館長・五十嵐久雄氏の論考「荻原守衛のロダン訪問の考察」。 明治44年(1911)の、与謝野寛・晶子夫妻のロダン訪問にも触れられています。

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その他、今年が同館の開館60周年にあたるということで、その関連記事と、来年度の予定表。

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また近くなりましたらご紹介しますが、やはり企画展で軽く光太郎に関わるようです。

毎号充実の内容で、今号は52ページ、カラーを含め、図版も多数収録されています(当方のまずい顔も(笑))。4月2日の第62回連翹忌にご参加下さる方には、館のご厚意で無料配布いたします。そうでない方は、館の方にお問い合わせ下さい。


【折々のことば・光太郎】

作の力といふのは生(ラ ヸイ)の力の事だ。作つた像が力のあるべき形をして居てもこの力が無ければカルメラが膨れ上つて居る様なものになつてしまふのだ。
散文「第三回文部省展覧会の最後の一瞥」より
 明治43年(1910) 光太郎28歳

前年秋に開催された文展の評です。「生(ラ ヸイ)」の有無が、光太郎にとっての彫刻の善し悪しとして語られるようになります。非常に観念的、主観的な見方ですが。

それがある作品として紹介されているのが、守衛の「北條虎吉氏像」でした。曰く「他の作と根を張つてゐる地面が違ふやうにちがふ。」「此の作には人間が見えるのだ。従つて生(ラ ヸイ)がものめいてゐるのだ。僕が此の作を会場中で最もよいと認める芸術品であるといふのは此の故である。」。

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ついでですので、上記の碌山美術館さん館報から画像をお借りしました。

今月一日に行われた、平成30年度埼玉県公立高等学校入学者選抜の国語の問題文に、光雲・光太郎父子が登場しました。ちなみに昨年は群馬県の社会の問題に光雲が出題されています。

いきなりの大問1、文学的文章の長文読001解問題で、出典は一昨年、集英社さんから刊行された原田マハさん著『リーチ先生』です。明治41年(1908)、イギリス留学中の光太郎と知り合い、その影響もあって日本への憧れが昂じ、来日した英国人陶芸家のバーナード・リーチを主人公とする小説です。

物語は、大正9年(1920)までの滞日中、そして帰国後の3年間、リーチの助手を務めたという設定の、架空の陶芸家・沖亀乃介を主人公とし、彼の存在以外はおおむね史実に添った内容となっています。光太郎、光雲、そして光太郎実弟の豊周も登場します。

作者の原田さん、この『リーチ先生』で、昨年、第36回新田次郎文学賞を受賞なさいました。

さて、埼玉の高校入試問題。web上に問題模範解答が公開されていますが、『リーチ先生』の本文自体は「掲載許諾申請中」だそうです。しかし、問題文から、どの箇所が抜粋されたか推定できました。まず、リーチが来日直後、まだ欧州にいる光太郎からの紹介状を手に、駒込林町の光太郎実家に光雲を訪ねるというくだりです。

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問1は、光雲のセリフから。「困ったやつ」は光太郎です(笑)。「誰や彼や」の中には、この小説の主人公、亀之介も含まれます。亀之介もひょんなことから知り合った光太郎の紹介で、光雲の元で書生をしているという設定で、このシーンがリーチと亀之介の初対面です。

ちなみに正解は「エ」。「ア」~「ウ」の気持ちも、全くなかったとは言い切れませんが(笑)。

続いて問2は、ある意味、無謀にも来日したリーチの心情に関して。



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問3は、主人公亀之介の何げない行動か002ら、その心情を問う問題。

リーチが光雲邸を訪れた翌日、光雲に東京美術学校へ連れられていった帰路、通訳として同行した亀之介との会話のシーンからです。

亀之介はかつて横浜の食堂で働いており(そこで光太郎と知り合いました)、船員たちとの会話から自然と英語を身につけていました。そして美術家を目指し、光雲の元に書生として厄介になりますが、専門の美術教育を受けたわけではなく、ある意味、恵まれた環境で学ぶことが出来ている美校生たちへのコンプレックスが、ぬぐいがたく存在しました。

そんな亀之介の鬱屈や屈託を察したリーチは、亀之介を励まします。


それを受けて、問4。


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正解は「イ」。

この後、亀之介はリーチの通訳兼助手として、ともに陶芸の道に進み、リーチの母国・イギリスのセント・アイヴスまでリーチについていくことになります。そして、陶芸家としての才を花開かせて行く、というわけです。


大問1、最後に表現上の003特色を問う問5。「適切でないもの」「二つ」というところがミソですね。解答用紙に枠が印刷されているはずですので、一つしか選ばないうっかり者はそういないと思いますが、「適切でないもの」を見落とし、あてはまるものを選んでしまうのは、中学生レベルではありがちです。

もし「しまった、自分がそうだった、どうしよう」という中学生さんがいましたら、大丈夫です。他にもけっこういますから(笑)。

ちなみに正解は「ウ」と「オ」です。「オ」は引っかけですね。全体のテーマは「芸術に対する熱い思い」ですが、この場面ではそれはそれほど語られていません。よく読めば、具体性に欠ける無理矢理設定した選択肢だというのは読み取れます。


それにしても、一昨年に刊行されたばかりの『リーチ先生』が問題文に使われるというのは、少し驚きました。

中学生諸君、入試も終わって時間が出来たところで、もう少し落ち着いたら、ぜひ全文を読んでほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

その気魄は内潜的である。その風趣は清潔である。煩瑣感が些かも無く、洗練された単純感が全体を貫く。

散文「東大寺戒壇院四天王像」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

昨日ご紹介した「戒壇院の増長天」を含む、奈良東大寺の戒壇院の四天王像に関するものです。古代の作品の評ながら、光太郎が目指した彫刻、それに限らずすべての芸術のありようを示しているように思われます。

東京北区から企画展情報です。 

田端に集まる理由(ワケ)がある~明治の田端は芸術家村だった!?

期 日 : 2018年2月10日(土) ~ 5月6日(日)
会 場 : 田端文士村記念館 東京都北区田端6-1-2
時 間 : 午前10時~午後5時
休館日 : 月曜・祝日の翌日
      月曜が祝日の場合は火・水曜休館、祝日の翌日が土日の場合は、翌週の火曜休館
料 金 : 無料

開館25周年記念展第1弾は、明治期の田端がテーマです。本展覧会では、芸術家たちが独自の文化を形成し、田端が芸術家村となった“理由(ワケ)”を様々な資料で紹介します。

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関連イベント

講演会「明治の美術 ~東京美術学校を中心に~」

東京美術学校(現・東京藝術大学)が設置されて以降、明治後期の美術界に起きた様々な動きを、上野・田端という地域社会とも関連付けながらご講演いただきます。

日時:3月25日(日) 14:00開演(13:30開場) 参加無料
講師:古田 亮 氏(東京藝術大学大学美術館准教授)
申込:往復はがきで3月12(月)必着。定員100名(応募多数の場合は抽選)。


田端といえば、光雲・光太郎父子が暮らしていた千駄木にもほど近く、そこに暮らし、文士村、芸術村といわれる共同体を形成していた芸術家の中には、光雲・光太郎と関わりの深かった人物も多く含まれます。

その初期に田端に住んだ陶芸家の板谷波山は、東京美術学校彫刻科で光雲に師事していました。同じく美術学校関係では、昨日もご紹介した鋳金家の香取秀真・正彦父子、画家の石井柏亭、その実弟の彫刻家・鶴三など。もともと、美術学校の学生たちが、田端近辺の下宿を多く利用していたのが、文士村、芸術村の始まりとも言われています。

その他、室生犀星、萩原朔太郎、平塚らいてうなども、田端文士村の一員で、光太郎と関わった面々です。


展示での光太郎との関わりは、光太郎も寄稿し、芸術運動「パンの会」の一つの源流となった雑誌『方寸』がらみくらいだと思われますが、関連イベントとしての講演会が、「明治の美術 ~東京美術学校を中心に~」ですので、ここでは光雲・光太郎関連のお話も出るのでは、と期待しております。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

いかなる時にも美術は千年の息をして生きてゐる生活体なのである。

散文「奉祝展に因みて」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

日中戦争は泥沼化し、翌年には太平洋戦争へと突入するこの時期、明治維新以来の西欧美術の輸入も一段落し、改めて美術の在り方を模索しようではないかという提言です。

紹介した一文の前には、「低劣な作家はかういふ社会の波に乗る事を心得てゐて口に民族意識といふやうな言を吐きながら、手に卑俗な彫刻しか作り得ず、純粋な芸術上の諸問題を回避する傾向があり勝ちである」といった一節もあります。

政治の世界にも当てはまりそうですし、80年経った現代、またぞろこういう輩が跳梁跋扈しているように思えてなりません。

大阪在住、高村光太郎研究会員の西浦基氏から新著が届きました。 

高村光太郎小考集

2018年1月28日  西浦基著  発行 牧歌舎  発売 星雲社  定価1,800円+税

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帯文より
高村光太郎の作品と人生に独自の視点から迫る労作

彫刻家であり、詩人である高村光太郎。かの『智恵子抄』の作者でもある光太郎の一連の作品の紹介に加え、寡黙であるが故に強そうに見えて優柔不断なところもあるその人生を余すところなく探求する。
後半部ではロダンやミケランジェロの見聞など、著者のヨーロッパ旅行記も掲載。

目次
第Ⅰ部 高村光太郎小考集
はじめに  自伝・略歴
第一章  高村光太郎の詩:「レモン哀歌」、他
根付の国 レモン哀歌 『暗愚小伝』二十篇の中の「二律背反」から:協力会議
第二章  高村光太郎の選択 流された選択・迷った選択・断固たる選択
第三章  彫刻に燃える ロダンとロダンに師事した荻原守衛とロダンに私淑した高村光太郎と
1 美しい二つのロダン美術館  2 ロダンの紹介  3 ロダンの出世作と女と艶裸体 
4 バルザック 
 5 ロダンの対人関係  6 ロダンの欲と創意工夫
7 ロダンに魅了された人々
  8 ロダンが下彫り職人、鋳造職人に厳しく指示した訳
追悼文その1 追悼文その2
第四章  高村光太郎の「伊太利亜遍歴」を見る
1 清浄なるスイスから  2 「ヹネチアの旅人」と随筆「伊太利遍歴」と絵ハガキと
3 著者個人の旅行の模様  4 琅玕洞(グロック・アズーラ)  5 ポンペイ
第五章  一枚の写真
碌山の恋
第六章  あぁ! わが青春の『智恵子抄』
1 詩集『智恵子抄』から見る描写の変遷  2 詩集『智恵子抄』誕生の経緯
3 詩集『智恵子抄』と随筆「智恵子の半生」の矛盾
第七章  高村光太郎の「AB HOC ET AB HAC」から 明治43年『スバル』に発表
第八章  『画論(アンリイ・マテイス)』高村光太郎訳(一九〇八年(明治四十一年)十二月)
1 マチスとの関わり  2 上から目線の光太郎  3 『画論(アンリイ・マテイス)』
4 荻原守衛との交誼とマチスから受けた影響を考える  
5 高村光太郎の模刻する技術力の高さを見る
6 高村光太郎の「彫塑総論」と「彫刻十個條」(全集四巻)
7 高村光太郎の贅肉についての文章を見る  8 『十和田湖畔の裸婦群像』を見て
9 智恵子をイメージできたかどうかについての、光太郎の芸術家としての脳内を考える
10 『十和田湖畔の裸婦群像』制作の頃
11 完成頃の関係者との会食時の挨拶メモ  12 制作
13 像建設の経緯について  14 ロダンと荻原守衛と高村光太郎の違いを見る
15 ロダンと荻原守衛と高村光太郎の作品に就いて  16 ある共同討議での事
17 『十和田湖畔の裸婦群像』の中型試作通称「みちのく」の顔は誰に似ているのだろうか?
18 『画論(アンリイ・マテイス)』と『十和田湖畔の裸婦群像』  19 総括として
第Ⅱ部 楽の断片
第一章 旅愁のパリ(フランス:二〇〇九年七月)
詩と恋愛 パリの夕暮れ 考える人を見る ロダンの恋 ジベルニー近郊のセーヌ川の朝
エトルタの海岸
  絶景エトルタの機転(クールベとモネ) サラサラ サラ 
初夏の青空(オンフルール) 旅愁(オンフルール)
年表
第二章 怒濤の嵐、船内のジャズ(イギリス:二〇一〇)年秋
『ロダンの言葉』ポール・グゼル筆録・高村光太郎訳 カレーの市民 ドーバー海峡
二〇一一年(卯年)春
 (献句) 犬句 犬柳 犬歌 沈まぬ夕陽
第三章 哀の六根 楽の六根 官能のシックスセンス
(晩八句) 高村光太郎に思いを馳せる・楽のひと時 (晩歌)平成二十四年七月三十一日
晩歌(母の死を悼む)  生を一考 お葬式 旅愁(マッターホルン) 哀の六根 楽の六官
官能のシックスセンス
第四章 歴史のひとこま―ガリレオ
概要 科学と宗教 異端審問所はガリレオを拷問にかけたか
第五章 美しき国ドイツ:二〇一一年秋
ケルン 妖精の生まれる国(デュッセルドルフ) ベルリン(ウンター・デン・リンデン)
マイセン
  ドレスデンの朝 アルテ・マイスター プラハ
第六章 清浄なるスイスとリヨン:二〇一二年十月
参考文献


一昨日届いたばかりで、まだ読んでおりませんが、とり急ぎ、ご紹介しておきます。


【折々のことば・光太郎】

美とは決してただ奇麗な、飾られたものに在るのではない。事物ありのままの中に美は存するのである。美は向うにあるのではなく、こちらにあるのである。

散文「美」より  昭和14年(1939) 光太郎57歳

この頃から光太郎は、頼まれて筆を執る色紙などの揮毫に「美しきもの満つ」「美ならざるなし」といった言葉を好んで書くようになります。

新刊情報です。 

永井和子随想集 日なたと日かげ

2018年1月11日 永井和子著 笠間書院 定価2,500円+税

更新されてゆく日々の陰影をスケッチした著者初の随想集。
平安古典を軸に、歌舞伎・演劇評、序文、追悼、ほか 「オノ・ヨーコさんの力」等、文学者としての眼が捉えた
縦横無尽の短文58篇で構成。

【本書はこれまで折々にふれて様々な立場から記した短文の中から幾つかを選び、まとめて一冊としたものである。全体を、Ⅰ随想的なもの・Ⅱ日本の平安文学に関するもの・Ⅲ先生方・先輩方の思い出・Ⅳそのほかの短文・Ⅴ追悼の記、におおまかに分け、ほぼ執筆年時順に配列した。そのため表記その他に統一性を欠くが、明らかな誤脱等を改めたほかは、もとのままとした。
 本書の『日なたと日かげ』はこうしたこれまでの日々・時間を象徴する言葉として書名としたものであり、具体的には原子朗氏の詩による。巻頭の一文〈「老い」と「日なたと日かげ」と〉を参照されたい。多くの方々と出会い、豊かな「時」に恵まれたことを思うと感謝は盡きない。】......「まえがき」より

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「たじろぐ――高村智恵子のこと 智恵子の切り絵――レモン会」というエッセイが掲載されています。初出は平成14年(2002)の『レモン会報』。毎年10月の、智恵子を偲ぶ「レモン忌」をはじめ、福島二本松で智恵子の顕彰に当たられている「智恵子の里 レモン会」さんの会報で、現在のレモン会は渡辺英雄会長ですが、その前に会長を務められていた、故・伊藤昭氏の頃のものです。

平成11年(1999)に伊藤氏の案内で、智恵子生家・智恵子記念館を訪れられたこと、翌年の「レモン忌」で、ご主人の故・永井克孝氏がご講演をされたこと等が描かれています。当時の「レモン忌」は、智恵子の実家・長沼家の菩提寺である満福寺さんで開催されていたそうで(現在は結婚式場的なJAさんの施設)、ご住職の追悼供養、地元の方々のご詠歌などもプログラムに入っていたとのこと。

「たじろぐ」というのは、智恵子の紙絵を眼にされてのご感想です。

なんという新鮮な美しさであろう。本物の切り絵はおだやかな初々しさに満ち、そのまま暖かく落ち着きながら精気がみなぎりわたって、それ自体が躍動している。私は、作者が生命の深淵に極めて自然に降ろした無垢の眼と、そこからさらりと汲み上げた純度の高い「形と色」に直対して、言葉もなかった。たじろぐ、というのはこのことか、と思った。

当方も実物の紙絵を初めて見た学生時代、同じようなことを感じました。おそらく、そういう方は多いのではないでしょうか。「智恵子の紙絵、あるある」的な(笑)。しかし、このようにうまく言葉に表すことができるのは、『枕草子』、『源氏物語』等の古典文学の研究がご専門ゆえのことでしょう。

そういうわけで、本書の大半はご専門の古典文学に関する
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ものですが、そうかと思うと、歌舞伎やシェークスピア、果てはオノ・ヨーコにまで話題が及びます。ぜひお買い求め下さい。


ところで、当時のレモン会伊藤昭会長は、旧油井村の智恵子生家近くに育ち、昭和23年(1948)には、花巻郊外太田村の山小屋の光太郎に会いに行かれました。平成3年(1991)から翌年にかけ、『毎日新聞』福島版に連載されたものを、近代文藝社から自費出版、さらに地元福島の出版社・歴史春秋社から同7年(1995)に再刊した『愛に生きて 智恵子と光太郎』という御著書がおありでした。入門編の智恵子評伝として好著ですが、平成11年(1999)に再版された後、絶版となっているようです。復刊が待たれます。


【折々のことば・光太郎】

飛行家が飛行機を愛し、機械工が機械を愛撫するやうに、技術家は何によらず自分の使用する道具を酷愛するやうになる。われわれ彫刻家が木彫の道具、殊に小刀(こがたな)を大切にし、まるで生き物のやうに此を愛惜する様は人の想像以上であるかも知れない。


散文「小刀の味」より 
昭和12年(1937) 光太郎55歳


この後、名工と呼ばれる鍛冶職人の手になる小刀のすばらしさが語られます。

ちなみに智恵子が紙絵制作の際に使っていたのは、マニキュア用の先の曲がったハサミ一丁だったそうです。

まず、『東京新聞』さんの記事から。見出しの「きょう」というのは先週土曜です。

鴎外と芸術家の親交たどる 文京の記念館、きょうから展覧会

 文京区立森鴎外記念館(千駄木1)で13日から、コレクション展「鴎外・ミーツ・アーティスト-観潮楼(かんちょうろう)を訪れた美術家たち」が始まる。文豪の鴎外(1862~1922年)と交流のあった芸術家ゆかりの作品などを展示、鴎外のあまり知られていない交友関係を明らかにする。4月1日まで。 (井上幸一)
 鴎外はドイツ留学中、洋画家の原田直次郎(一八六三~九九年)と出会い、美術批評も始める。以降、公私にわたって多くの芸術家と交流。画家をモデルに、「ながし」「天寵(てんちょう)」などの小説を生み出している。
 二階の書斎から東京湾が見えたという観潮楼は、鴎外が「青年」「雁(がん)」「高瀬舟」などの作品を著した住居跡。文京区が跡地に建てたのが森鴎外記念館だ。
 展覧会では、楼を訪れた芸術家に焦点を当て、鴎外に宛てた書簡、鴎外が所持していた絵画、鴎外作品を彩った装丁本、「ながし」の生原稿など、記念館のコレクション約八十点を展示。大下藤次郎、岡田三郎助、高村光太郎、長原孝太郎、藤島武二、宮芳平ら、画家や彫刻家たちに鴎外が向けたまなざしや、それぞれの芸術家が鴎外作品に何を見いだしたのかを浮き彫りにする。
 記念館の広報担当者は、「親交が深かった原田直次郎との関係を展示したことはあるが、他のアーティストとの関わりを広く紹介するのは初めて。美術界に鴎外が深く関係していた事実を知ってもらえれば」とPRしている。
 期間中の二月二十四日午後二時から、実践女子大の児島薫教授による講演会「鴎外が嘱望した洋画家藤島武二」を開催(定員五十人、事前申込制)。一月二十四日、二月七日、二十八日、三月十四日の午後二時からギャラリートーク、三月二十一日午前十一時から、鴎外作品のブックデザインを楽しむスペシャルギャラリートークがあり、いずれも学芸員が展示品などを解説する。観覧料三百円、中学生以下無料。二月二十六日、二十七日、三月二十七日は休館。問い合わせ、講演会の申し込みは、森鴎外記念館=電03(3824)5511=へ。

他紙でも紹介されていますが、若干、とんちんかんな記述があったりしますので割愛します。

というわけで、詳細は以下の通りです。 
会 場  : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間  : 10:00~18:00
料 金  : 一般300円(20名以上の団体:240円)
休館日  : 226日(月)、27日(火)、327日(火)

小説家、翻訳家、陸軍軍医など八面六臂の活躍で知られる鴎外ですが、実は美術とも深いつながりを持っており、沢山の美術家の知己を得ています。鴎外は美術家たちの良き理解者でありながら、時には厳しい批評者でもあり、また美術庇護者としても彼らを支えます。鴎外にとっても、彼らは仕事仲間であり、一方で創作の源泉となる存在でもありました。

鴎外が出会った美術家たちの中から、鴎外の居宅・観潮楼(現・文京区立森鴎外記念館)を訪れた美術家に、100年以上の歳月を経て、再び集まってもらいましょう。鴎外に作品を評価された洋画家・藤島武二、鴎外作品のモデルにもなった水彩画家・大下藤次郎、東京美術学校で鴎外の講義を受けた彫刻家・高村光太郎、鴎外の著書の装丁を多数手がけた洋画家・長原孝太郎…。美術界における旧派と新派、あるいは明治美術界から白馬会、太平洋画会との価値観がせめぎ合う中で、鴎外は彼らにどのような眼差しを向けてきたのでしょうか。そして美術家たちの眼は鴎外自身と鴎外作品に何を見出したのでしょうか。観潮楼に届いた美術家たちの書簡、鴎外の美術批評、鴎外作品を彩った装丁本など当館のコレクションを通して、「鴎外が見つめた美術家」と「美術家が見つめた鴎外」に迫ります。

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光太郎の母校・東京美術学校の教壇に立ち「美学」の講義をしたり、文展(文部省美術展覧会)の審査員をしたりした鷗外、美術については一家言ある人でした。そこで、光太郎を含む美術家たちとの交流をテーマにした企画展です。

展示目録によれば、光太郎関連では、光太郎から鷗外に宛てた葉書(明治43年=1910)、これは鷗外が自宅で催していた観潮楼歌会への誘いを断るものです。理由として、やはり今回の展示で取り上げられている藤島武二がフランスから帰った歓迎会とブッキングのためと書かれています。

それから明治42年(1909)の雑誌001『スバル』(覆刻)。裏表紙に光太郎筆の、鷗外をモデルにしたカリカチュア(戯画)が掲載されています。題して「観潮楼安置大威徳明王」。この絵に関し、今回の展示を報じる某紙では「高村が見た鴎外の超人的に多才な姿が映される」としていますが、そういうわけはありません。鷗外を尊敬しつつも、敬して遠ざけていた光太郎(観潮楼歌会も何だかんだ理由を付けて逃げ回っていました)、うっかり「誰にでも軍服を着させてサーベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」などという発言をし、鷗外に自宅に呼びつけられて説教された光太郎ですので。もっとも、「この絵はどういう意味だ」と詰問された際には「先生の超人的なお姿です」と切り抜けるつもりだったのかもしれません(笑)。

ちなみに同じシリーズでは馬場孤蝶、永井荷風、三木露風、北原白秋、与謝野晶子、小山内薫らのカリカチュアも描いていますし、実現はしませんでしたが、光太郎が経営していた画廊・琅玕洞で、同じ趣向の切抜人形展も企画していました。

ただし、茶化すだけでなく、それぞれ親しみを込めて描かれているものであることは確かです。

さらに光太郎著書『造型美論』(昭和17年=1942)、『某月某日』(同18年=1953)。それから与謝野寛が光太郎について触れた鷗外宛の書簡(明治42年=1909)も、光太郎のコーナーに出ています。

光太郎以外では、先述の藤島武二(光太郎が留学直前に再入学した東京美術学校西洋画科教授でした)、光太郎に猫をくれた岡田三郎助、光太郎と書簡のやりとりもあった宮芳平などにスポットが当てられています。


ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

日本人は概して習字を大切にしない。随分下手な書でも其れを書いた者の人物が直接に出てゐる事を喜ぶ。書法の衣裳を纏はないものに卻つて心ををひかれる。あまりうまい書を内心低く考へる者さへ居るのである。

散文「七つの芸術」中の「六 書について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

ここで言う「習字」とは、「書道」という意味ではなく、日々の鍛錬として毛筆で字を書くという意味です。書の発祥の地、中国では、「習字」を重視し、大抵の人の書くものはともかくも書として成立しているが、日本ではそうではなくなったという論旨です。

いずれも開催中の企画展です。

コレクション企画展 みんなの美術室

期 日  : 2018年1月2日(火) ~ 2月5日(月)
会 場  : 島根県立美術館 島根県松江市袖師町1-5
時 間  : 10:00~18:30
料 金  : 一般 500(400)円 大学生 300(240)円  小中高生 無料
        ( )内は20名以上の団体料金
休館日  : 火曜日

島根県立美術館が所蔵する版画・油彩・彫刻を中心に、<かたち><いろ><構成>や<技法><材料>など、美術をめぐるさまざまな要素について紐解きながらご紹介します。作品とともに分かりやすい資料をあわせて展示し、美術の基本を楽しく学ぶことができます。また、クイズパネル「アート7つのなぞ」やワークシート、持ち帰りできる鑑賞ガイド(小冊子)「‘みんなの’美術資料集」などもご用意し、子どもも大人も美術に親しんでいただける工夫がいっぱいの展覧会です。

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というわけで、ポスター、チラシにドーンと光太郎の「手」。

関連行事として、1月28日(日)には、「館長の特別授業」だそうで、同館の長谷川三郎館長が、「手」に就いて語られるとのことです。

お隣広島の呉市立美術館さんで開催中の「開館35周年記念 呉市立美術館のあゆみ展」でも、「手」が出ています。ブロンズの場合、同一の型から取った同じものが複数存在する場合があるので、実は「手」は全国にいくつあるかわからないほど多くあります。光太郎生前に鋳造されたものはおそらく3点しか確認できていませんが。


もう1件。こちらは光太郎ハガキが展示されています。

画家の手紙 制作と友への思い

期 日 : 2017年12月23日(土)004~2018年1月28日(日)
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館
       東京都調布市若葉町1-8-30
時 間 : 午前9時から午後5時まで
料 金 : 大人(高校生以上)200円、小・中学生100円
      市内在住の65歳以上は無料
      市内在住・在学の小・中学生は土曜日は無料
休館日 : 月曜日

実篤と交流のあった画家達の手紙から、画家ならではの視点や、個性豊かな書き文字の魅力をご紹介します。
武者小路実篤が学習院の友人と共に創刊した同人雑誌「白樺」は、文学だけではなく、美術も積極的に取り上げ、当時日本ではあまり知られていなかったロダンやゴッホを紹介したほか、美術展覧会も催し、美術を志す若者達に大きな影響を与えました。
「麗子像」などで知られる岸田劉生は、実篤との出会いを「第二の誕生」と表すほど強く感化されました。劉生から実篤に宛てられた手紙には、遠く離れた場所に住む実篤に「会えなくて淋しい」という、友への熱い思いが込められています。また実篤の著作「友情」の装幀を依頼されて「君の出す本は皆僕にさせてもらへバ光栄と思っている」と書いたり、実篤の著作を読んで自分の作品への意欲がかき立てられたことなどもつづられ、お互いに自分の仕事を高め合う関係であったことが伺えます。
当館には他にも、河野通勢、木村荘八、梅原龍三郎、安田靫彦、福田平八郎など日本近代絵画を代表する様々な画家の手紙が数多く所蔵されており、実篤との深い交流の様子や、制作への思いをみることが出来ます。本展覧会では、こうした手紙を取り上げ、画家ならではの言葉や視点、手紙の文言から見えてくる関係性、普段余り目にすることのない画家たちの個性豊かな文字の面白さについて着目します。彼等が手がけた装幀や挿絵も併せてお楽しみください。


画家ではありませんが、光太郎の葉書(昭和23年=1948)も出ています。

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確認できている、唯一の武者小路宛て書簡です。当方、7年ほど前に現物を見せていただきました。娘婿の武者小路穣が花巻郊外太田村の山小屋を訪れた件、武者主宰の雑誌『心』の件などが書かれ、「新しい村30年記念展覧会」に彫刻を出品するよう依頼がありながら難色を示したりもしています。

それぞれぜひ足をお運びください。


ところで、太田村の山小屋といえば、『朝日新聞』さんの土曜版。「みちのものがたり」という連載があり、今日は「高村光太郎「道程」」というタイトルで、太田村の山小屋(高村山荘)が紹介されます。昨年暮れに高村山荘、それから隣接する高村光太郎記念館さんを訪れた際、取材が入ったことを教えていただきました。先週出た予告では「次回は、高村光太郎「道程」。妻・智恵子を亡くした後、多くの戦争協力詩を発表し、戦後は岩手県に蟄居(ちっきょ)した芸術家の人生の道程をたどります。」とのこと。

7時46分追記 こんな感じでした。

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【折々のことば・光太郎】

如何なる新しいイズムも結局絵画が絵画を忘れては其れが何だ。画技そのものに具象して惻々人に逼るもの、其れが無くて何の絵画だ。

散文「七つの芸術」中の「一 絵画について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

この一節の少し前には「少し進んだ連中でも、気韻とか情趣とか、「何とも言へませんな」式の気分を喜ぶ。そこでずるい画家の思はせぶりにだまされる。」という部分もあります。

小手先の技術におぼれ、本質を追究しない多くの画家、そしてそれに踊らされる人々への警句です。

光太郎彫刻の展示されている企画展情報です。 

開館35周年記念 呉市立美術館のあゆみ展

期 日  : 2018年1月6日(土)~2月12日(月・振休)
会 場  : 呉市立美術館 広島県呉市幸町入船山公園内 
時 間  : 10時~17時
料 金  : 一般800円(600円) 高大生500円 小中生300円(200円) 敬老割400円
         ※( )内は一般前売及び20名以上の団体
休館日  : 火曜日

第1章:コレクションのあゆみ
第2章:高校生キュレーターの目 「自然・歴史・人」
第3章:米国から里帰りした美人画14点が集結!「郷土ゆかりの画家 谷口 仙花」

呉市立美術館は、呉市制80周年を記念して1982(昭和57)年8月に開館し、今年度で開館35周年を迎えまし た。この展覧会では全体を3章に分け、当館の歩みを振り返ります。

第1章では、コレクションのあゆみとして当館を代表する作品、ルノワールの《麦わら帽子の少女》をはじめ、近代日本画壇の巨匠奥田元宋、パリを描き続けた荻須高徳、日本のゴッホと呼ばれた棟方志功、詩人としても有名な彫刻家高村光太郎などの作品を厳選し展示します。

第2章では、高校生キュレータークラブのクラブ員が設定したテーマに基づき、彼らが選んだ作品を展示し、その解説も担当します。また前年度のクラブ員たちが取り組んだ美術館通りの彫刻の作品解説もあわせて展示します。

第3章では呉ゆかりの日本画家・谷口仙花(1910-2001)を紹介します。昭和初期の女性風俗を情緒豊かに描いた谷口仙花は、戦中から戦後にかけて呉市で暮らし、渡米後、米国で亡くなったため長く忘れ去られていました。近年の研究成果をふまえ、新たに発見された作品や資料、米国から里帰りした作品、船田玉樹との合作など初公開を含む約80点の作品と資料により、その画業を顕彰します。

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チラシ裏面に写真が印刷されていますが、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)が出ています。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

私は彫刻家である。多分そのせゐであらうが、私にとつて此世界は触覚である。触覚はいちばん幼稚な感覚だと言はれてゐるが、しかも其れだからいちばん根源的なものであると言へる。彫刻はいちばん根源的な芸術である。

散文「触覚の世界」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

光太郎にかかっては、五感のすべてが触覚に還元されるそうです。視覚は色彩や光を視神経で触れるもの。聴覚的には音楽は全身を共鳴させながら聴くもの。嗅覚も物質の微粒子を鼻の粘膜で触れて感じ、味覚もそばをのどで味わうように、やはり触覚に統一されるとのこと。

そして光太郎の触覚は、磨いた鏡のガラスにも木目のような縦横の凹凸を感じると書いています。舌を巻くほどの鋭敏さです。

「このシーンから始まるのか」と驚きました。今日から放映が始まる、NHKさんの大河ドラマ「西郷どん」。

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今朝の『朝日新聞』さんのテレビ欄です。

冒頭は東京・上野公園。西郷隆盛像除幕式で「あれはうちの旦那さんじゃなか」と3番目の妻・糸(黒木華)は叫ぶ。

光太郎の父・光雲が木型の制作主任を拝命し、東京美術学校が制作を請け負った西郷隆盛像に関し、昨今、このエピソードが定説と化しているように思われます。

西郷は有名な写真嫌いのために肖像写真はなく、イタリア人画家のキヨソーネが描いた肖像画も、最後の死後に弟の西郷従道の容貌を基にしたものであった。一八九八(明治三十一)年十二月の除幕式に、総理大臣の山県有朋や勝海舟、大山巌、英国公使アーネスト・サトウなど八〇〇名が出席した。鹿児島から西郷夫人のイトも招かれ、像を見て「うちん人は、こげんじゃなか」と言ったのを、従道があわてて窘(たしな)めたという。
            『東京の銅像を歩く』 木下直之監修 祥伝社 平成23年(2011)

同様の記述は、あちこちで見かけます。しかし、そのほぼすべてが「という。」なのです。

火のないところに煙は立たぬ」と申しますから、これに近い出来事があったのでしょう。ただ、これを詳述した当時の文献(新聞記事等)の記述を、当方、寡聞にして見たことがありません。どなたか、当時の何々という文献にこのエピソードが詳述されている、というのをご教示いただければ幸いです。

そんなにも西郷像は本人に似ていないのでしょうか?

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昭和2年(1927)から翌年にかけ、『東京日日新聞』に「戊辰物語」という連載がありました。各界著名人の談話筆記で、幕末から明治初年の世相が語られています。その中で、枢密顧問官で子爵だった金子堅太郎の回想にはこうあります。

私の知つてゐる時は西郷隆盛は神田橋にゐた。西郷の内に書生をしてゐる友達を尋ねて行くと「君は西郷を見た事があるか」といふので「ない」と答へると友達は「あれから来るのが西郷さんぢや」と指さしたのを窓からのぞくと一人の男が若党を連れて門からブラブラやつて来た。木綿の黒い羽織を着て刀を差し小倉のやうな袴をはいて、しかも冷やめし草履を引ツかけておる。顔かたちは上野の銅像そつくりの印象が残つておる。

それから、西郷像の鋳造を担当した岡崎雪声の談話。『国民新聞』の明治31年(1898)12月18日、像の序幕直後に載ったものです。

老西郷は生前嘗て写真を撮りし事なかりしため其の肖像に就ては人の知る能はざる苦心をなし先づ元印刷局御雇キヨソネ氏の石版画を根拠として翁が生前の知己親戚に付き一々其の好否を問ひ服装もはじめ陸軍大将の正服なりしが後平服に犬を牽きたる現在のものに改め石膏像(あぶらづち)をも幾度か造りて幾度か壤ち木彫に移りても亦削りつ添へつ非常の経営を重ねし由而して斯くの如きは独り当局其の人にのみ止らず局外の諸氏も亦非常の熱心を以て之を輔け青森県知事河野圭一郎氏の如き城山没落まで翁に従ひ常に其の髯剃り役を勤めしとの故を以て殊に一昨年の夏中炎天を冒して日々美術学校へ通はれ彫刻手に助言して身自ら職工とならんばかりに尽力せられたり

西南戦争の折、西郷の従者を務めていた河野圭一郎に助言してもらいながら、像の制作を行ったというのです。これで本人に似ていないということがありえるでしょうか。

そこで、妻・糸の発言の真意は、顔の問題ではなく服装の問題だ、という解釈があります。

その除幕式が挙行されたのは12月8日のことだった。この時、西郷夫人の糸子が「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてぇ」と洩らしたことが伝わり、顔が似ていないとの誤解が生じた。(略)しかしながら西郷糸子は顔が似ていないと呟いたのではなく、このような浴衣姿では散歩はしなかったという意味で言ったものらしい
『英傑たちの肖像写真―幕末明治の真実』 渋谷雅之著 渡辺出版 平成22年(2010)

ちなみにここでも「らしい」ですね。これも当時の文献等で、そういう内容のものを当方は見たことがありません。ご存じの方はご教示いただけると幸いです。

肝心の光雲はどう言っているのでしょうか。昭和9年(1934)1月7日の『小樽新聞』から。

何しろ昔の話でくはしい事は忘れてしまつたが、製作には相当苦しんだものだ、あのポオズにしてからが西郷さんといふ人は謹厳な人で和服の時は袴を放さなかつたんだといふ様な非難も聞いてゐる、どんな服装をさせるかといふことにも散々、頭をひねつてね、御維新当時の服装でやつてみたりしたが、一向に西郷さんの感じが出ない。
委員の間にも堅苦しくない、磊落な所がよからうといふ意見が出て結局、西郷さんが閑を見てはよく出掛けた兎の山狩のあの構図に決まつた次第で、これには榎本武揚さんなんか大いに賛成してくれた。


服装に関して、正しい経緯は以下の通りです。

明治22年(1889)、西南戦争で逆賊とされた西郷に復位の恩命が下され、それを機に銅像建設の計画が始まりました。まず、美術行政に尽力した九鬼隆一がブレーンとなって、図案懸賞募集が行われています。同年10月15日の『東京日日新聞』に載った「贈正三位西郷隆盛君銅像図案懸賞募集広告」によれば、「一馬上高サ二丈以下一丈ノ事 一陸軍大将ノ軍服ヲ着スル事」とあり、当初は軍服姿の騎馬像という計画でした。

しかし、経費の問題などから、現在の着物姿に改められたと、『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第一巻』(昭和62年=1987)に記述があります。一度は逆賊とされた西郷なので、軍服姿は忌避されたというのも通説のようですが、ここではそれは「議論が起こったため」と、ぼかされています。実際、明治26年(1893)には、軍服姿の木型も光雲らによって制作されていますが、破棄されました。

ところで、現在の着物姿は、光雲によれば「西郷さんが閑を見てはよく出掛けた兎の山狩のあの構図」。散歩ではありません。この点についての『小樽新聞』の談話筆記は、以下の通り。

あれを犬を連れて散歩してゐるんだなどといふ人があるが大間違ひだよ、その証拠には、腰にはわなを作る縄の束がぶら下つてゐるし、小さな刀を差してゐるが、これも山狩の時、いばらや篠竹を切り倒すにのに使ふものだ。あの犬は兎追ひの犬で桜島産の独特の小さいが悧巧な奴で西郷さんもよく可愛がつてゐたものださうだ。

なるほど。

そして、顔。

構図はさて決まつたが、写真があるわけではなし顔には弱つた。
人によつては西郷さんは目玉がらんらんと大きくて非常に恐ろしい顔つきをしてゐる、にらまれるとすくみ上る様な顔だつたといふし、ある人は目の切れの長い聡明な顔で眉毛がこく口元は一文字に引締つてむしろ可愛らしい顔つきで笑ふととても柔和だつたともいふし、つまり御機嫌のいい時と悪い時の相違だつたんだらうが、これ等の人の印象をまとめて、ああいふ風に仕上げたのだが、次には身丈がどの位あつたかといふ点で、また行きづまつてしまつた。
 陸軍で調べてもらつても一向分らんし、西郷さんのきてゐた軍服や長靴、晴子などを取り寄せてもらつて調べて見たところズボンはわたしの胸まで来るし、長靴はももまでもはゐるといふ代物、帽子のあご革は西郷さんの汗や脂で、真つ黒になつてゐたが、これまたわたしの顔を一ト回り半もする長いものでとにかく非常に大男だつたことは、はつきりしたわけだ。

やはり生前の西郷を知る人々の証言を取り入れていたことがわかります。「似ていない」説は成り立たないといえるのではないでしょうか。

そして再び服装。

スネのはみ出したつんつるてんの着物はいかにも滑稽のやうにも思へるが、西郷さんといふ人は殿様から拝領の着物はそのまま縫直さずに着たものださうで、従つて人並はづれた西郷さんが着れば、スネもはみ出さうし、腕も出やうといふものだ。

ここにも深謀遠慮があったのです。

ただし、当人が後から申し述べたことですので、世上の批判に対する自己弁護、と捉えることも可能でしょう。しかし、少なくとも、いいかげんに造ったということには成らないと思います。

さて、大河ドラマ「西郷どん」。除幕式のシーン、どのように描かれるのでしょうか。くれぐれも光雲をディスるような描き方にはなっていないことを祈ります。


【折々のことば・光太郎】

日本の工芸美術は、如何なる時にも遠慮無く世界の人の前に持ち出せるだけの秀美さを持つてゐる筈である。其は過去の日本が遺していつてくれた審美的遺伝の一つである。

散文「日本工芸美術会に望む」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

光太郎、銅像も広義の工芸と捉えていたかもしれません。ただし、芸術としての肖像彫刻とは一線を画するものという認識でした。

新春の企画展情報です。 

開館30周年記念コレクション名作展 30のテーマ Ⅱ期

期 日  : 2018年1月2日(火)~3月11日(日)
会 場  : メナード美術館 愛知県小牧市小牧五丁目250番地
時 間  : 10:00~17:00
料 金  : 一般 900円(700円)   高大生 600円(500円)   小中生 300円(250円)
                    ( )内は20名以上の団体料金および前売料金

休館日 : 月曜日(祝休日の場合は直後の平日)


1987年に開館したメナード美術館は、2017年10月に開館30周年を迎えます。それを記念し、Ⅰ・Ⅱ期あわせて「30のテーマ」を設定、現在所蔵する1,500余点のコレクションからそれぞれのテーマに合った作品を選び出して展覧会を構成します。代表作品によってコレクションの特徴や美術館の活動を振り返りながら、メナード美術館の魅力を再発見していただけたらと思います。

テーマ16~30で構成する「30のテーマ Ⅱ期」では、日本画や古筆、富士山を描いた作品により新春らしさを高めます。また、コレクションから最大と最小作品を並べて展示する「サイズ」や、「シュルレアリスム」「抽象」などバラエティに富んだテーマでお楽しみいただけます。

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光太郎の木彫「栄螺」(昭和5年=1930)と「鯰」(同6年=1931)が出ます。

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「栄螺」は平成15年(2003)に、約70年ぶりにその存在が確認され、大きく報じられました。その後、同館が買い取り、最近では平成25年(2013)の「開館25周年記念 コレクション名作展Ⅴ」、昨年の「版画と彫刻コレクション 表現×個性」で展示されています。


「鯰」は複数の作品があり、現在、竹橋の東京国立近代美術館さんでの常設展示「MOMATコレクション」で、大正15年(1926)の「鯰」が出ています(1月14日まで)。東西二つの「鯰」を見比べてみてはいかがでしょうか。

東京国立近代美術館さんでは、「鯰」以外にも木彫「兎」(明治32年=1899)、ブロンズ「手」(大正7年=1918)も並んでいます。

メナードさんもそうですが、他にも逸品ぞろいです。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

構造は比例である。比例は美である。

散文「家」より 大正10年(1921) 光太郎39歳

真性の彫刻家であった光太郎には、見る物すべての「構造」が気になって仕方がありませんでした。木彫「栄螺」も、初めは外面的な特徴のみを追って作ってもうまくゆかず、その構造に思いを馳せながら作ったところ、初めて納得の行くものになったとのこと。光太郎、彫刻に留まらず、絵画や書など、他の造型芸術にも、そうした意識を働かせていたのでしょう。

散文「家」。のちに評論集『美について』(昭和16年=1941)に収められましたが、初出掲載誌が不明です。情報をお持ちの方はご教示いただければと存じます。

早いもので、12月も後半に入り、今年も残すところあと2週間となりました。そろそろ年賀状にかからねばなりません。

来年の干支は戌(いぬ)。というわけで、犬をモチーフとした縁起物の置物をご紹介します。 

純金製置物 「陽光」 <高村光雲原型作>

発売元 GINZA TANAKA(田中貴金属)

慶びと飛躍をテーマに、陽の光を浴びて遊ぶ犬の姿を活き活きと表現。日本の近代彫刻の礎を築いた高村光雲の逸品。

材質 ゴールド         素材 K24          サイズ 約150g、本体高さ約10.5×幅約12×奥行約6cm
※ガラスケース(高さ約20×幅約23×奥行約15cm)・桐箱付

現在の価格 2,031,960円(税込)  販売レート G410
※「Gマーク」の商品は貴金属相場により価格が毎日変動します。
  相場が大きく変動する場合もございますので、予めご了承ください。
※販売レート商品の相場変動による注文のし直し、返品等はお受けしておりません。

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光太郎の父、光雲が、もともと木彫で作った狆(ちん)を原型としているようです。下記は別の作例ですが。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。
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発売元のGINZA TANAKA(田中貴金属)さんでは、昨年の干支、やはり光雲原型の純金製申の置物も販売なさっていました。今年の酉年の縁起もの的な光雲原型作品はラインナップになかったようです。復活してよかったと思いました。

お金に余裕のある方、ぜひお買い求め下さい(笑)。


【折々のことば・光太郎】

真の要求の無い処には何者も育ちません。此の意味で私は日本将来の芸術の為め皆さんの芸術的慾望の強い上にも強く、高い上にも高く、自由な上にも自由である事を望んでゐます。

散文「展覧会の作品批評を求められて」より
 
大正8年(1919) 光太郎37歳

光太郎のこうしたスタンスは、終生変わることはありませんでした。

一昨日、花巻高村光太郎記念館さんでの「高村光太郎 書の世界」展を拝見した後、大沢温泉菊水館さんにて一泊いたしました。今年3度目でした。

翌朝は小雪が舞っていました。

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軒先にはつらら。

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光太郎も浸かった露天風呂。

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NHKさんの朝のローカルニュースで、花巻市内の文化施設5館の共同開催「花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」をバスで廻るツアーのニュースをやっていました。

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6時台の放映は、予期しないまま始まってしまい、改めて7時台の放映をもう一度視聴。

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朝食後、チェックアウト。レンタカーで花巻市博物館さんを目指しました。

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こちらでは、やはり「花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」の一環として、「及川全三と岩手のホームスパン」展が開催中です。

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花巻の旧東和町出身で、この地に天然染色の羊毛織り、ホームスパンを根付かせた及川全三。光太郎とも交流がありました。その及川の歩みを作品や書簡、遺品などから追っていました。

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及川は上京していた昭和の初めに、やはり光太郎と交流のあった柳宗悦の影響で、民芸運動、そしてホームスパンの魅力にとりつかれ、教職を辞してこの道へ進んだとのこと。本場イギリスでも途絶えていた技術を復活させるため、かなりの苦労があったようです。

図録は発行されていませんでしたが、『花巻市博物館だより』には、展示パネルの一部が転載されているようで、そちらをいただいて帰りました。

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及川の作品、民芸運動の流れを汲むということで、素朴な中にも暖かみと気品があり、いいものでした。また、解説がなければ見落としてしまいそうなさまざまな工夫なども、解説パネルでよく理解できました。

しかし、残念ながら、光太郎との交流についてはほとんど触れられていませんでした。

そもそも及川がホームスパン制作を志したのは、柳に見せられたイギリスの染織家、エセル・メレのホームスパン作品がきっかけだそうで、そのメレの作品を光太郎が持っており、及川は旧太田村の山小屋でそれをたびたび見せてもらいました。その作品も高村光太郎記念館さんで所蔵しており、この機会に展示すればよかったのに、と感じました。また、盛岡てがみ館さんなどあちこちに及川の弟子にあたる福田ハレや戸来幸子に宛てた光太郎書簡も残っています(及川やホームスパンにふれています)し、過日もご紹介した光太郎愛用のホームスパンの服も、高村光太郎記念館さんで展示されています。

「及川全三と岩手のホームスパン」と銘打つなら、光太郎との関わりも外せない要素だと思うのですが、館同士の連携、情報共有などがうまくいっていないのか、また、改めて光太郎と及川全三に絞った展示を考えているからなのか、何ともいえません。同じようなことは、今夏同館で開催された企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」の際にも感じたのですが……。

ただ、今月9日に行われた関連行事、菊池直子氏(岩手県立大学盛岡短期大学部教授)による記念講演「ホームスパン作家・及川全三の足跡をたどって」では、光太郎についても触れられたそうで、それが救いですが……。

ところで、冒頭でご紹介した、参加5館を廻るバスツアー、来月も実施されます。また近くなりましたらご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

たとひ自分の崇拝する人から其が傑作であると保證されてゐるとしても自分自身で其感動を得ない時に、其作品を無理に善いと見ようとするのはいけません。
散文「展覧会を見る人に」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

そのとおりですね。世間には、「世間で人気の行列ができる展覧会だから見に行こう」という人もいるようですが。

一昨日、目黒の五百羅漢寺さんで開催された「第2回らかん仏教文化講座 近代彫刻としての仏像」を拝聴して参りました。

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講師は小平市立平櫛田中彫刻美術館さんの学芸員・藤井明氏。連翹忌にもご参加下さっていますし、その他色々お世話になっております。

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日本近代彫刻家の中でも、特に木彫系の作家に的を絞ってお話しされました。やはり、木彫系はその源流の一つが仏師であることからです。

ほぼその成年により、5つの世代グループに分け、それぞれの仏像へのスタンス、彫刻界全体での位置づけなどについて、細かく上げられました。

第一グループは主に江戸時代生まれの人々。光太郎の父・高村光雲を筆頭に、竹内久一、森川杜園、後藤貞行、山田鬼斎、石川光明など。純粋な仏師出身は光雲だけですが、それぞれ根付や人形など江戸期の職人の系譜に連なります。この世代は作品としての仏像を多く手がけ、仏像制作が副業という意識が希薄だったそうです。また、東京美術学校の教員となった彼らは、乏しい学校予算を補うためにも仏像の修復や模刻にあたるなどもしていました。

第二グループで、平櫛田中、山崎朝雲、米原雲海、内藤伸、加藤景雲たち。光太郎より若干年長で、まだ西洋を本格的に知らなかった世代です。彼らの多くは光雲門下。仏像も多く制作しましたが、それは副業的な位置づけで、むしろ仏教を主題とした作品が目立ちます。この世代が職人的な技術重視から、芸術家としての表現重視への転換期にいたとのこと。

光太郎を含む第三グループ。他に光太郎とほぼ同年代の石井鶴三、佐藤朝山(玄々)。仏像はあまり制作せず、西洋彫刻と日本彫刻の融合を図った人々と位置づけられました。しかし仏像への関心も高く、推古仏の美しさなどに初めて注目したのもこの世代といえます。実際、光太郎には仏像に関する評論等も少なからずあります。

光太郎より少し若い第四グループ。橋本平八、長谷川栄作、大内青圃、陽咸二ら。彼らは仏像の特徴に意識を向けた世代だそうです。

第五グループは、第四グループと同世代ですが、展覧会等に仏像や仏像風の彫刻を多数出品した人々。三木宗策、関野聖雲、後藤良(後藤貞行の次男)が挙げられています。

この流れが薮内佐斗司氏らの現代作家へも連なるというわけですが、途中に戦争とのからみもあったり、いろいろ複雑です。

それぞれのグループの作品などの画像をスライドショーで提示しつつ、非常にわかりやすいお話で、興味深く拝聴いたしました。ただ、氏自身でおっしゃっていましたが、まだまだ研究の途上ということで、作家達の信仰心の問題、この系譜に属さない(彫刻家を志さなかった)仏師達の件などには触れられませんでした。今後ともこのテーマでご研究が進むことを祈念いたします。

こと光太郎に関して言えば、信仰というより、哲学としての仏教、特に禅や仏典にはかなり興味を持っていたようです。揮毫した書には仏典からの引用が目立ちますし、禅宗の「無門関」などは愛読書でした。彫刻でも、ブロンズの代表作「手」は、観世音菩薩の「施無畏」の印相からのインスパイアで、それは最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」にも受け継がれます。

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他にも「光太郎と仏教」というテーマなら000、いくらでも話が出来るな、などと、聴きながら考えておりました。最近、講演や市民講座の講師の依頼が多いもので(笑)。

閑話休題。会場の五百羅漢寺さんの講堂、ホール的な施設の外側がぐるっと回廊のようになっており、同時の歴史や、光雲が理想としていた江戸時代の仏師・松雲元慶など関連する人物に関する展示なども為されており、開会前と休憩時間に興味深く拝見しました。松雲元慶以外にも、光雲・光太郎父子に関わった河口慧海、光太郎と親しく、ラジオ放送などでその詩の朗読も手がけた俳優の丸山定夫など。

また、10月に行われた第1回の講座「五百羅漢寺と江戸東京の仏教文化」(講師:同寺執事/学芸員・堀研心氏)のレジュメも戴きました。こちらでも光雲と同寺の関連などが取り上げられています。

昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』の後半、各種復刻版ではカットされている「想華篇」からの引用も為されており、感心しました。


同講座、今後も続き、全12回の予定とのこと。テーマはチラシによれば、仏像写真、仏教映画、仏教絵本、仏教建築、怪異、精進料理、初詣、仏前結婚式、葬儀、墓、仏教文学、仏画、博覧会だそうです。博覧会あたりには、また光雲もからむかな、という気がします。ご興味のある方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

印象派の歩んだ道は、彼等自身の予期しなかつた、或は気が付かなかつた重大な方向へ向かつてゐた。彼等が太陽を呼び、白色を喜び、陰影を追ひ、色彩に耽溺したのは、自然の意志から見れば一つの合言葉に過ぎなかつた。自然はさういふ「新」を彼等に与へて、彼等を跳躍させ、彼等を前進させた。

散文「真生と仮生」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

芸術界の流れは、「自然」の意志に従って、流れるべきように流れてきたという持論です。印象派は現れるべくして現れたのだ、というわけですね。このころから光太郎自身も「自然」の意志の赴くままに、と考え、自己の芸術を開花させてゆきます。

昨日まで1泊2日で甲信地域を歩いておりました。例によってレポートいたします。

まずは一昨日。それがメインの目的でしたが、一昨夜開催された美術講座「ストーブを囲んで 荻原守衛と高村光太郎の交友」のため、信州安曇野の碌山美術館さんを目指しました。

たまたま同級生の結婚披露宴が甲府で行われるというので、娘を愛車に乗せ、正午頃、千葉県の自宅兼事務所を出発。甲府南ICで中央高速を下り、甲府駅近くで娘を下ろして、甲府昭和ICから再び中央高速、岡谷ジャンクションから長野道へ。長野道を下りた頃には日が暮れて参りました。北アルプスの山々はすでに冠雪。気温は2℃ほどでした。

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美術館近くのビジネスホテルにチェックインし、館に到着。教会風の煉瓦建築・碌山館のたたずまいが幻想的でした。

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すでに閉館時間は過ぎており、展示棟は無人です。窓の外から光太郎の作品群を拝見。

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事務室で、ナビゲーター役の学芸員・武井敏氏と打ち合わせをし、いざ、会場へ。会場は木造ロッジ風のグズベリーハウス。永らく売店としても使われていましたが、売店機構は受付に移転し、こうした場合の集会所のみの(平常時は休憩コーナー的な)使用法になったそうです。

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「ストーブを囲んで」のタイトルにも謳われている、薪ストーブ。大活躍です。

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午後6時、開会。

武井学芸員の作成したレジュメを元に、守衛、碌山、それぞれの生い立ちや彫刻家を志した動機、渡米の顛末、そして知り合ってからの交友などについて、二人で語りました。

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当方も資料編的にレジュメを作成。

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今回、新たに光太郎が日記や書簡を除く文筆作品(対談を含む)で、守衛に触れたものの一覧表を作ってみました。明治末、一足先に留学から帰国した守衛にあてた書簡形式で書かれたものに始まり、守衛が文展に作品を出品しそれを激賞したもの、明治43年(1910)の守衛の死に際しての追悼文的なもの、そしてその後も光太郎最晩年まで、生涯、折に触れて守衛の名を出し、その早すぎる死を悼んでいます。

それらの中から、そして、光太郎の親友だった作家・水野葉舟による二人の交友の描写も抜粋しておきました。

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それから、守衛の死に際し、光太郎がやはり親友だったバーナード・リーチに送った英文の葉書。

Mr.Ogihara, a friend of mine, is dead suddnly. I am here by his tonb. You cannot imagine how I am sad !  Apile 26th
(私の友人の荻原氏が突然亡くなった。私は彼の墓のそばに来ている。君には私がどれほど悲しんでいるか想像できまい! 4月26日)

達筆だった光太郎が、殴り書きのような荒々しい筆跡です。それだけ悲しみの深さが解ります。

さらに、光太郎最晩年の昭和29年(1954)、碌山美術館さんに隣接する穂高東中学校さんに建てられた守衛の「坑夫」のために書いた題字。50年近くが経っても、光太郎の守衛に対する親愛の情に変化がなかったことが伺われます。

当方が存じなかった話も武井学芸員から出てきて、勉強させていただきました。守衛の「坑夫」は、パリ滞在中の粘土原型を光太郎が見、ぜひ日本に持ち帰るようにと勧め、残ったということは存じていましたが、絶作の「女」も、モデルを務めた岡田みどりという人物の回想によれば、破壊されるはずだったところをやはり光太郎が残すように進言したそうです。

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最近、一人での講演が多く、対談形式で行ったのは久しぶりでしたが、こちらの方が楽だな、という感じでした。武井学芸員がしゃべっている間に、次に何を言おうかと考えがまとめられますし、予定にはなかった方向転換も容易でした。武井学芸員のリードがみごとだったということもありますが。

対談の筆録は、来春刊行の同館館報に掲載される予定です。また改めてご紹介します。

終了後、事務棟の和室でストーブならぬ炬燵を囲んで、荻原家の方、館の皆さん、それから姉妹館的な東京新宿中村屋サロン美術館さんの方々10名あまりで打ち上げ。地元で取れた食材を使った料理に舌鼓。ありがたや。

宿に戻り、大浴場で疲れを癒し、就寝。

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翌朝、宿から見えた北アルプスの山々です。

一路、甲州へ。山梨県内の光太郎ゆかりの地を3ヶ所廻りました。碌山美術館さんに行く際にはいつもそうしていますが、甲信地域の光太郎ゆかりの人物に関わる施設、光太郎が訪れた場所などに足を運ぶことにしています。今回は、夕方、結婚披露宴出席を終える娘を拾う都合がありますので、山梨県内を攻めました(攻めてどうする(笑))。

そのあたりはまた明日以降。


【折々のことば・光太郎】

人間は感覚の力に依るの外、生の強度な充実を得る道はない。感覚の存在が「自己」の存在である。感覚は自然の生んだものである。あらゆる人間の思索は此の感覚の上に立つてゐる。感覚は実在である。思索は実在の影である。
散文「静物画の新意義」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

思索より、まずは自分の五感で得た感覚から入る造形作家の本質がよく表されています。これが書かれた前年に亡くなった守衛も、この部分を読んだら「そうそう」と首肯したのではないでしょうか。

昨日の『朝日新聞』さん埼玉版に載った記事です。

埼玉)彫刻家高田博厚の遺品、東松山市に寄贈へ

 文豪ロマン・ロランや詩人ジャン・コクトーらと交遊した世界的な彫刻家高田博厚(ひろあつ、1900~87)が神奈川県鎌倉市に残したアトリエが閉鎖されることになり、ゆかりの東松山市に遺品が寄贈されることになった。12月2日に鎌倉で遺族や知人ら関係者によるお別れの会があり、市への寄贈が改めて表明される。
 高田博厚は石川県生まれで福井県育ち。旧制中学時代から文学や哲学、美術に傾倒し、上京して彫刻家高村光太郎らと出会い彫刻を始めた。31年に渡仏。ロマン・ロランやジャン・コクトー、画家ルオー、哲学者アランらと交遊しながら西欧彫刻界で評価を得た。
 57年に帰国し、鎌倉市稲村ガ崎にアトリエを構えた。真摯(しんし)な写実と知的で詩情ある作風で、代表作にはロマン・ロラン、ルオー、川端康成らの肖像がある。86歳で死去。鎌倉のアトリエには、高田の彫刻作品や絵画、デッサン、ロマン・ロラン、アランの献辞入り書籍などを含む数百冊、彫刻台やヘラ、イーゼルなどの道具もある。没後30年を機に、遺族がアトリエの閉鎖を決めた。
 東松山市との縁は、今年2月に94歳で亡くなった元市教育長で詩人の田口弘さんが、高田と親交のあった国文学者で俳人の柳田知常に師事し、高田と出会ったという。以来、田口さんは東松山市で高田博厚彫刻展を開くなど親交を深めた。市は86~94年には高田の彫刻作品32体を購入し、高坂駅前約1キロの通りに設置。「高坂彫刻プロムナード」として観光資源化を図っている。
 高田の義理の娘、大野慶子さん(80)は「父が亡くなって30年。東松山市の方々の熱意に父も生前に感銘していた。アトリエの遺品すべてを東松山市に寄贈できることをきっと喜んでくれています」と話した。
 お別れ会は鎌倉のアトリエで、慶子さんら遺族のほか、東京芸大名誉教授で文化勲章受章者の洋画家野見山暁治さん、女子美術大名誉教授で洋画家の入江観さん、小樽商大名誉教授の高橋純さんら関係者だけで行われる予定だ。(大脇和明)

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記事にあるとおり、今年2月になくなった、埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏のご遺徳で、こうなりました。

氏は戦時中に光太郎と知り合い、出征前には光太郎の元を訪れて書の揮毫をもらったりもしたそうです。南方で九死に一生を得て復員後、花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に蟄居していた光太郎を2度訪問、その後も中央公論社版『高村光太郎選集』編集に協力するなどなさいました。

昨年には、光太郎から贈られた品々などを同市に寄贈。今年、天に召されましたが、実にお見事な「終活」でした。

また、光太郎と深い交流のあった高田博厚とも親しく交わられ、東武東上線高坂駅前に、光太郎像を含む高田の肖像彫刻32体が並ぶ「高坂彫刻プロムナード」の整備に奔走されました。また、今年の6月から7月にかけては、高坂で「高田博厚歿後30年展」が開催されました。そうした縁から、今回の寄贈ということになったのでしょう。

続報が出ましたら、またご紹介します。


ちなみに、来年、氏の一周忌に合わせ、田口氏から同市に寄贈された光太郎関連資料が、市立図書館さんに常設展示されることになりました。蛇足ながら、そのオープン記念ということで、「田口弘と高村光太郎 ~交差した二つの詩魂~」という題で、当方が講演をすることになりました。このあたりも詳細が出ましたらまたご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

ところが、面白いのは如何なるものにも其のもの特殊な興味を発見しないでは止まない人間の芸術慾であります。

散文「版画の話」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

その発明当初、印刷という実用に供するものに過ぎなかった版画が、芸術として発展していったことに対する言です。この場合、「興味」=「美」。

泉下の高田博厚、田口弘氏など「芸術慾」に憑かれた人々も、「そうそう」と首肯しているような気がします。

テレビ放映情報です。 

日曜美術館「熱烈! 傑作ダンギ ロダン」

NHK Eテレ 2017年12月3日(日) 9時00分~9時45分  
      再放送 12月10日
(日)20時00分~20時45分

没後100年の今年、改めて注目される彫刻界の巨星ロダン。美しいものに対していつも直球勝負を挑んだ作家を愛してやまない3人が、その魅力を縦横無尽に語り尽くす!

集まったのは、俳優で演出家の白井晃さん。俳優の若村麻由美さん。学芸員の南美幸さんの3人。それぞれが愛する作品を紹介しつつ、その魅力をアピール。ロダンの情熱がぎっしり詰まった大作「地獄の門」。演劇のようにドラマチックなシーンを見せる「カレーの市民」。そしてエロスと生命力が同居する「ダナイード」についてクロストーク。そしてロダンを愛するがゆえの「…これはちょっと…」なトークも!?

司 会 井浦新 高橋美鈴
ゲスト 白井晃 若村麻由美 南美幸(静岡県立美術館学芸員)

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画像に使われているのは、静岡県立美術館さん。その名も「ロダン館」という棟があります。そちらの学芸員さんがゲスト出演されます。また、同館では企画展「彫刻を撮る:ロダン、ブランクーシの彫刻写真」が開催中です。

ゲストといえば、女優の若村麻由美さんは、カミーユ・クローデルを舞台で演じられたということで、過日NHKBSプレミアムさんで放映された「ザ・プロファイラー 夢と野望の人生 「彫刻に“生命”を刻んだ男~オーギュスト・ロダン」」に引き続いてのご出演です。

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若村さん主演の「ワルツ」は、静岡県立美術館さんの「地獄の門」の前でも上演されました。

「ザ・プロファイラー」では、荻原守衛や光太郎がロダンの影響を受けたことにも言及されましたが、今回もそういうお話が欲しいところです。


テレビといえば、過日ご紹介した「<BSフジサンデースペシャル>『絶景百名山2時間スペシャル 第66回 「安達太良山・西吾妻山 秋」』」。いったん、12月3日(日)の放映と発表されながら、その後、11/25(土)の深夜に放映と訂正され、それも訂正。結局、元の通り12月3日(日)だそうです。

この手の番組、再放送ならともかく、新作が深夜のオンエアというのもおかしいなとは思っていたのですが、訂正というより、どこかの段階で担当者がやらかした誤発表のようです。始末書ものでしょうね。

というわけで、改めて。 

<BSフジサンデースペシャル>『絶景百名山2時間スペシャル 第66回 「安達太良山・西吾妻山 秋」』

BSフジ 2017年12月3日(日) 18時00分~19時55分

秋、様々な色に染まった木々の葉が山肌を美しく彩る紅葉の季節。
今回は東北地方の二つの百名山「安達太良山」と「西吾妻山」を2時間SPでご紹介。

安達太良山は、詩人・高村光太郎の「智恵子抄」に登場する福島を代表する山の一つ。
標高1,700mの裾野に広がる紅葉は美しく、秋は特に人気の高い山。
山の案内人は、麓の岳温泉で和菓子屋を営みつつ、山のガイドをしている渡辺茂雄さん(44歳)
幼い頃から安達太良山を見て育ち、その魅力に引き込まれた渡辺さんがガイドをするのは安達太良山のみ。
「多くの人に安達太良山と、自分の生まれ育った岳温泉のすばらしさを知ってもらいたい」
そんな渡辺さんのガイドは、地元の人だからこそ知っている情報が満載だ。
さらに渡辺さんは、温泉の源泉を管理する「湯守」という仕事を冬季限定で行なっている。
安達太良山の麓にある岳温泉の湯は、安達太良山の中腹にある湯元から8キロもの距離を下ろす日本一長い引湯。
冬の間は雪が深い為、登山技術のあるガイドが湯元の管理をするのだそうだ。
安達太良山を知り尽くす地元ガイド一押しの絶景とは…

西吾妻山は、福島県と山形県の境界に位置する吾妻連峰の最高峰、標高2,035mの山。
連峰の山の中で唯一2,000mを超える山であるが、周りの山々がそれに近い高さの為、飛び抜けて主峰という感じはしない山。
日本百名山の著者・深田久弥も「つかみどころがない」と称するほど。
そんな山を愛してやまないというのが、今回の山の案内人。
西吾妻山の麓、天元台スキー場でペンションを営む山岳ガイドの近藤明さん(62歳)
ガイド歴は40年。8,000mを超えるシシャパンマに登頂した経験があり、
年間200日以上をガイドとしてこなす山のスペシャリスト。
そんな近藤さんにとって、一番好きな山が西吾妻山。
展望がまるでない山頂だが大好きだという。
理由を尋ねると、なるほど納得の答えが返ってきた。
その理由がまた、西吾妻山の魅力を良く表現できていることに驚かされる。
ベテランガイドが愛する西吾妻山の魅力を、絶景とともにお伝え致します。

ナレーター 小野寺昭

それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

彫刻は何の欺瞞をも計らない。立体的のものを立体的に作ってゐる。又錯覚をも絵画ほど有機的には利用しない。せめて眼球の光を作るに却つて反対に之を刳りぬくといふ様な初歩な手品をする人がある位のものである。

散文「彫刻の面白味」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

ただし、この時代にはまだ彫刻といえばロダンに代表される具象。抽象彫刻が出てくるのはもっと後のことです。

眼球を刳りぬくという技法は、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」でも使われました。それほど特別な意味はありません。

11/26(日)、都内を歩き回っておりましたレポートの最終回です。

今回、時系列に逆らって書いておりまして、この日、最初に訪れたのが新宿三丁目駅近くの映画館、新宿ピカデリーさんでした。こちらでは、フランス映画「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」が公開中です。朝8時20分からの回を拝見しました。

朝っぱらから見るには重たい内容でしたが(笑)、実に感動いたしました。下記は公式サイトから。

1880年パリ。彫刻家オーギュスト・ロダンは40歳にしてようやく国から注文を受ける。そのとき制作したのが、後に《接吻》や《考える人》と並び彼の代表作となる《地獄の門》である。その頃、内妻ローズと暮らしていたオーギュストは、弟子入りを願う若いカミーユ・クローデルと出会う。
才能溢れるカミーユに魅せられた彼は、すぐに彼女を自分の助手とし、そして愛人とした。その後10年に渡って、二人は情熱的に愛し合い、お互いを尊敬しつつも複雑な関係が続く。二人の関係が破局を迎えると、ロダンは創作活動にのめり込んでいく。感覚的欲望を呼び起こす彼の作品には賛否両論が巻き起こり…。

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ロダン役のヴァンサン・ランドン、カミーユを演じたイジア・イジュラン、風貌もそっくりでした。人物像としては万人の持つ二人のイメージを、さらに誇張して描いていたように思われます。作品制作のためには自分自身の内的衝動に正直に随い、結果、いろいろなことを犠牲にしてはばからないという点では似たもの同士。世の中の常識や、倫理観といったものも、二人の前では意味を失うといった描写が繰り返されました。

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その結果、平坦な道のりではないにせよ、巨匠としてのしあがっていくロダン。一方のカミーユは、「ロダンの弟子」というフィルターを通してしか評価されず、愛人という曖昧な立場にも苦しみます……。

また、カミーユと知り合う前からロダンを支えていた内妻(最晩年に入籍)のローズ・ブーレ。かなり嫉妬深い女として描かれていました。ここは当方の持っていたイメージとは少し異なりました。

ちなみに光太郎は滞仏中、ロダン本人は展覧会の会場で見かけたくらいで、直接会話はしていません。ただ、親友の荻原守衛が、書簡の中で自分の親友としてロダンに紹介してはいます。さらに2回ほど、ロダンのアトリエを訪れましたが、ともにロダンは不在。代わりに応対したローズに、ロダンの厖大なデッサンを見せられ、圧倒されたとのことです。

008閑話休題。結果、カミーユは精神崩壊を来たし、実に30年の入院(かなり劣悪な環境だったそうです)を経て、恢復することなく、1943年に歿しました。その悲惨なカミーユの姿は、映画では描かれませんでした。象徴的に使われていたのが、カミーユの彫刻「分別盛り」の一部、「嘆願する女」。物語の終盤、ロダンが画廊でこれを見るシーンで、二人の関係の修復不可能な破綻、その後のカミーユの運命が暗示されました。心憎い演出でした。

光太郎は終生ロダンを敬愛してやみませんでしたが、実は、どちらかというとその傾倒は若い頃。壮年期以降は、かえってロダン以前のミケランジェロに言及することが多くなっていった感があります。下司(げす)の勘ぐりかも知れませんが、智恵子の悲劇がカミーユのそれとリンクする感覚があったのかもしれません。

しかし、光太郎とロダンの決定的な違いは、ロダンはカミーユ以外にも片っ端から若いモデル女性と関係を持ち、自分の肥やしとしていたところ。このあたりのエロティックな描写も、朝っぱらから見るには適当ではなかったように思いました(笑)。眼福ではありましたが(笑)。すると、ロダンが人でなし、極悪人、獣のような設定かというとそうではなく(フェミニズム論者には許せないかも知れませんが)、芸術の創造のためには必要だったという描き方でした。

その他、映画では、それぞれちょい役的な扱いでしたが、光太郎が訳した『ロダンの言葉』の原典の一部を書いたオクターヴ・ミルボー、カミーユと同じくロダンの弟子で、動物彫刻で名を馳せたフランソワ・ポンポン(光太郎の評論にも名が出ています)、それとは知らず光太郎と同じ建物に住んでいた、ロダンの秘書的なこともやった詩人のリルケ、さらにはモネやセザンヌ(智恵子が最も敬愛していました)なども登場し、当方、そのたび「おお」と言っていました(笑)。

そして光太郎が書き下ろした評伝『ロダン』(昭和2年=1927)の中で特に一章を割き、実際に岐阜まで会いに行ってロダンのモデルを務めた話を聞いた日本人女優・花子も、最後に登場しました。また、日本関連では、物語のラストシーンが、箱根彫刻の森美術館でのロケ。ロダン晩年の大作にして、物語の後半で大きくクローズアップされた「バルザック記念像」が展示されているためです。日本人の子供たちが「バルザック記念像」を使って「だるまさんがころんだ」で遊んでいました。100年経った遠い極東の島国でも、ロダン作品が愛されているという意図でしょうか。または、日本公開を前提とし、日本企業からのスポンサー料を見こしての大人の事情でしょうか(笑)。

「バルザック記念像」以外にも、「地獄の門」、「考える人」、「接吻」、「影」、「青銅時代」、「カレーの市民」などのロダン作品、それからカミーユの「ワルツ」なども、人間に劣らず存在感を示す「登場人物」的に続々登場。その意味でも大満足でした。

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美術史に詳しくない方でも、人間ドラマとして鑑賞できるすばらしい作品です。公開館が少ないのが残念ですが、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

しかし、君の様に全(まる)で違つた職業にゐながら美術の解つた人等が殖えて来なくては可けないのさ。小説の読者が小説家に限り、詩歌の読者が詩歌の作者に限り、絵画の真の鑑賞者がパレツトを持つた人に限つてゐるやうでは実に心細い次第なんだ。料理を味はふのが料理番ばかりぢや困るからね。
散文「銀行家と画家との問答」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

およそ100年前のこの警句から、この国の事態は好転したのかどうか……。たしかに人気の展覧会には長蛇の列が出来たりはしますが、相変わらず「腹の足しにもならん」という考え方も根強いように思われます。

一昨日、都内に出ておりましたレポートの2回目です。

メインの目的は、日比谷で開催された「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」拝聴でしたが、その前に日本橋に行っておりました。三井記念美術館さんで9月から開催中の特別展「驚異の超絶技巧! —明治工芸から現代アートへ—」拝見のためです。光太郎の父・高村光雲の木彫も出ているということで、観に行って参りました。

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同館では、平成26年(2014)に「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」という企画展を開催、その後、同展は日本中を巡回し、これが最近はやりの「超絶技巧」という語のはしりとなり、かつてはゲテモノ扱いだった明治期の種々の工芸に光が当てられるようになりました。それ以前から明治工芸の収集に力を入れていた、京都の清水三年坂美術館さんの協力が大きかったと思われます。

その後、同様の企画展が各地で開催されています。広い意味では、一昨日まで東京藝術大学さんで開催されていた「東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」」なども、共通するコンセプトも持っていたといえましょう。

今回も超絶技巧系の作品を集めた企画展ですが、それだけでは前回の二番煎じということで、その系譜を受け継ぐ現代作家の作品も併せて展示されています。今後はこういった工夫も必要になるでしょう。

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光雲をはじめとする、木彫の潮流も広い意味では超絶技巧の明治工芸ということで、今回も光雲作品が展示されています。制作時期が不明なのですが、「布袋」像。

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こちらは個人蔵ということで、展覧会への出品はおそらく初か、あったとしても少なかったものだと思われます。当方は初めて拝見しました。写真でも見た記憶がありません。椅子に座っているという、いっぷう変わったポージングです。

図録の解説文がこちら。

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『光雲懐古談』を引用していますが、やはり「青空文庫」さんで当該の章が読めるようになっていますので、リンクを張っておきます。輸出用の牙彫(象牙彫刻)が大流行した明治10年代半ば頃(光太郎が生まれた頃)の話です。逆に木彫は衰退の一途でした。沢田という商人は、その後、象牙の方が高く売れると云うことで、光雲に牙彫への転身をしきりに勧めましたが、光雲は頑として受け入れませんでした。光雲はその後、明治20年(1887)、皇居造営に伴う彫刻の仕事を命ぜられ、それがきっかけで飛躍していき、一方の牙彫は衰微していきます。

その沢田に注文されて布袋像を作ったことが紹介されていますが、やはり解説文の通り、これがそれとは限りません。

その他、木彫では東京美術学校で光雲と同僚だった石川光明、光雲が激賞したという根付師・森田藻己(小さな根付ではなく、大きな丸彫り)、現代では光雲の系譜に連なる加藤巍山氏の作品なども展示されていて、興味深く拝見しました。

木彫以外でも、牙彫、七宝、金工、漆芸、刺繍絵画、陶磁器などの逸品がずらり。安藤緑山の牙彫、並河靖之で七宝、正阿弥勝義による金工など、平成26年(2016)の同館、さらに清水三年坂美術館さんでも拝見した作品を再び目にでき、旧知の友人に再会したような感覚になりました。また、NHKさんの「日曜美術館」、テレビ東京さんの「美の巨人たち」などで取り上げられた作も多く、それらを思い出しながら拝見しました。

現代作家さんたちの作品にも感心しました。技法の継承という点で重要ですし、単なる守旧に留まらず、さらに先に進もうとする意慾が感じられました。しかし残念なのは、明治期の一部の技法はもはや現代では再現不能といわれていること。今後、それらが再現される技術の確立を求めてやみません。

同展、12月3日(日)までの開催です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

一体、作品の鑑賞の興味、といつて悪ければ愉快さは、作品そのものを通して作者と膝を割つて話の出来る処にあるのである。作者の見た自然の核心なり人事の情調なりの一寸二寸と解つて来る行程が堪らなく愉快なのである。どうしても作品の背後に作家の顔を見る所まで行かなければ、真の懐しみ、真の親しみは出て来ないのである。

散文「美術展覧会見物に就ての注意」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

これは極論ですが、やはりその作家の歩んできた道程を知っていると知らないとでは、作品の見え方は異なります。知っていることが必須ではありませんが、なるべく知ることを心がけたいと思います。

東京目黒から市民講座の情報です。

第2回らかん仏教文化講座 「近代彫刻としての仏像」

期   日 : 2017年12月9日(土)
会   場 : 天恩山五百羅漢寺 講堂 東京都目黒区下目黒3丁目20−11
時   間 : 18:00~19:30
料   金 : 聴講料 500円  拝観料 大人300円 学生(高校生以上) 300円
講   師 : 藤井明先生(小平市平櫛田中彫刻美術館 学芸員)

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江戸から東京へ
らかん仏教文化講座は、東京都目黒区の天恩山五百羅漢寺を会場に開催される連続講座です。かつて本所五ツ目にあった羅漢寺は、元禄時代に仏師の松雲元慶が独力で彫り上げた五百羅漢や、栄螺(さざえ)堂で知られる江戸の名所でした。元慶によって制作された仏像群は、日本の近代彫刻を開拓した高村光雲にも大きな影響を与えました。このように近世から近代への移り変わりをみる上でも、羅漢寺は重要な場所となります。目黒へ移転した現在も300体以上の彫像が残されています。

仏教文化について学ぶ連続講座
私たちのまわりには、数多くの仏教文化が存在しています。そうした私たちの生活に身近な仏教文化の多くは、実は近代以降につくられた、もしくは知られるようになった比較的新しいものです。そのため、前近代の経典や教義に関する研究や、仏教(美術)史の研究では扱われてきませんでした。しかし、現代社会と仏教のかかわりを知る上では、近代における仏教文化の変容について学ぶことができ、きわめて重要となります。
本講座は、仏教に関心のある方であれば、どなたでも聴講できる連続公開講座です。さまざまな領域で近代以降の仏教文化の研究を行っている専門家や研究者を招き、最新の研究状況を広く、わかりやすく紹介します。


講師が小平市立平櫛田中彫刻美術館さんの学芸員・藤井明氏。昨年の連翹忌にご参加下さっていますし、今年の春に同館で開催された特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」の際には、関連行事としての美術講座「ロダンと近代日本彫刻」で、光太郎に触れて下さっています。

おそらく平櫛田中や、田中の師の光雲、さらに田中以外の光雲門下の彫刻家などにも触れられるのではないかと期待しております。

先月行われた第1回の講座「五百羅漢寺と江戸東京の仏教文化」(講師:同寺執事/学芸員・堀研心氏)でも、光雲に触れて下さったそうで、聞き逃したのを残念に思っております。下記は『仏教タイムス』さんの記事。

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「明治期の大彫刻家・高村光雲が修業時代、寺に通って羅漢像から彫刻を学んでいたエピソード」とあります。

これは、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に述べられています。同書は700ページ超の大著で、前半が光太郎の親友だった作家の田村松魚の筆録になるという(一部は異なるようですが)「昔ばなし」、後半が折々の機会に光雲が語った講話等の集成である「想華篇」にわかれています。

このうち前半の「昔ばなし」は、『木彫七十年』(中央公論美術出版、昭和42年=1967)、『高村光雲懐古談』(新人物往来社、昭和45年=1970)、さらに『幕末維新懐古談』(岩波文庫、平成7年=1995)などの形で覆刻されていますし、インターネット上の「青空文庫」さんにも収められています。

もともと五百羅漢寺さんは本所五ツ目(現在の江東区大島)000にありましたが、本所緑町を経て、明治41年(1908)に現在の目黒に移転しています。明治初年までは境内に栄螺堂という堂宇があり、江戸や上方の名だたる仏師の手による観音像が約100体寄進されていて、光雲ら江戸の仏師はそれを手本にしていたとのこと。

ちなみに栄螺堂、「五百らかん寺さざゐどう」として、葛飾北斎の「富岳三十六景」のラインナップに入っています。堂上からの眺望が非常に良かったためです。

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しかし、廃仏毀釈のあおりで、栄螺堂は取り壊され、内部にあった観音像は下金屋という、金属の再生加工業者によって燃やされてしまいました。貼り付けてあった金箔を取るためです。その暴挙の行われる寸前に、徒弟時代の光雲と、師匠の高村東雲が駆けつけ、何とか出来のいい五体だけを救い出したそうです。その内の一体は光雲がもらい受け、終生、自身の守り本尊として崇めたとのこと。右の画像がそれですが、なるほど、後の光雲作のもろもろの観音像に通じるお顔立ちです。

作者は松雲元慶。江戸中期の僧侶にして仏師です。「雲」の字が入っていますが、光雲と直接のつながりはありません。

その松雲元慶、諸国行脚中に豊前耶馬溪の五百羅漢に出会い、自らも五百羅漢の造立を発願、さまざまな人々の助けを得、さらに松雲元慶歿後も遺志を継いだ人々によって、江戸の本所に五百羅漢寺が造営されたわけです。「暴れん坊将軍」徳川吉宗も一枚かんでいるそうです。

そのあたり、昭和4年(1929)刊行のオリジナル『光雲懐古談』の「想華篇」に詳しく述べられています。さらにモノクロですが、当時の五百羅漢の写真も掲載されています。

残念ながら『光雲懐古談』、前半の「昔ばなし」は繰り返し覆刻されていますが、後半の「想華篇」はオリジナルの昭和4年版にしか載っていません。また、豊富に載っている写真も復刻版ではかなり割愛されています。

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光雲の師・高村東雲のさらに師・高橋鳳雲が、この五百羅漢に啓発されて自らも五百羅漢像を造った話も「想華篇」に語られています。木彫原型は身延山久遠寺に納められましたが火災で焼失、鋳金にしたものは、鎌倉の建長寺さんの山門楼上に健在だそうで、機会を見て拝観したいものだと思っております。

ぜひとも「想華篇」の部分も、覆刻されてほしいものです。


話があちこち飛びましたが、「第2回らかん仏教文化講座 「近代彫刻としての仏像」」、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従つて、芸術家のPERSOENLICHKEIT に無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味に於いて、芸術家を唯一箇の人間として考へたいのである。

散文「緑色の太陽」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

日本に於ける初の印象派宣言とも言われ、あまりにも有名な評論です。これを読んだ智恵子が、ぜひとも光太郎に会いたいと思ったという話も伝わっています。

PERSOENLICHKEIT」は独語で「人格」の意です。

彫刻界では唯一といっていい、光太郎同年配の親友・碌山荻原守衛の個人美術館、信州安曇野の碌山美術館さんで来週開催される美術講座です。

美術講座 ストーブを囲んで 「荻原守衛と高村光太郎の交友」を語る

期    日 : 2017年12月2日(土)
会    場 : 碌山美術館  グズベリーハウス 長野県安曇野市穂高5095-1
時    間 : 18:00~19:30
料    金 : 無料

明治末、日本の彫刻に新しい展開をもたらした荻原守衛。明治、大正、昭和と彫刻家の憧れの的であり続けた高村光太郎。高村光太郎は「この世で荻原守衛に遭った深い因縁に感謝している」と述べています。そんな二人の交友を振り返ります!

パネリスト  : 小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
ナビゲーター :  武井敏 (碌山美術館学芸員)

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というわけで、同館学芸員の武井敏氏と、当方による対談です。

会場は館内のグズベリーハウス。毎年、4月22日の碌山忌の最後に「碌山を偲ぶ会」が開催される棟です。

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屋根の中央に見える煙突は棟内にある大きな薪ストーブにつながっており、このストーブがグズベリーハウスの象徴的存在。そのため、毎年この時期に行われる講座に「ストーブを囲んで」という題名が付されています。現地ではもう既に初雪が観測されていますので、光太郎とは真逆に寒さに弱い当方、ストーブが無ければ活動不能に陥ります(笑)。

同館では昨年、「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」、今年は夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」を開催して下さり、それぞれお手伝いさせていただきました。そうしたご縁で今回もお声がけ下さいまして、ありがたい限りです。

というわけで、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

生命の大河ながれてやまず、 一切の矛盾と逆と無駄と悪を容れて ごうごうと遠い時間の果つるところへいそぐ。 時間の果つるところ即ちねはん。 ねはんは無窮の奥にあり、 またここに在り、 生命の大河この世に二なく美しく、 一切の「物」ことごとく光る。

詩「生命の大河」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

002昨日ご紹介した「お正月の不思議」とともに、光太郎最後の詩篇です。青年期から追い求め続けた「命(ラ・ヴィ)」、「美ならざるなし」「うつくしきものみつ」、そうした考え方の集大成といえるでしょう。

「ねはん」は「涅槃」。仏教でいうところの生死を超えた悟りの世界、さらには「極楽」とほぼ同義に使われる場合もあります。余命3ヶ月半の光太郎、既にその境地に至っていたようです。

それでもその最期まで書の展覧会開催に意欲を燃やし、亡くなる5日前まで散文の原稿を断続的に書き続けていました。

そしてその死の3日前には、その生涯の歩みを草野心平が編んだ『日本文学アルバム 高村光太郎』のゲラを校閲、「That's the endか」とつぶやいたそうです。

その終焉は昭和31年(1956)4月2日、午前3時45分。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を作り上げた、中野の貸しアトリエでのことでした。前日から東京は季節外れの大雪にすっぽり包まれ、終生、「冬」を愛した光太郎の最期を飾りました。

地方紙・高知新聞さんの一面コラム「小社会」。先週、歿後100年のロダンに絡め、光太郎に触れて下さいました。 

小社会 2017.11.17

 美術の教科書に載っている著名な作品の本物に出合うと、心の内でガッツポーズをしたくなる。だから印象が強く残っているはずなのに、「いつ、どこで」が定かでない作品が少なからずある。

 フランスの彫刻家オーギュスト・ロダンの「考える人」もその一つ。東京・上野の国立西洋美術館の前庭にある大きな像は何度も見ているが、原型の小さな像との初対面は思い出そうとしても出てこない。

 40年余り前に、高知市で開かれた同美術館所蔵の「松方コレクション展」で見たという県民は多いだろう。実業家の松方幸次郎が1910年代から欧州で収集し、59年にフランス政府から日本に寄贈返還された絵画や彫刻のコレクションだ。

 中でも、ロダンの彫刻は世界でも有数の規模を誇るという。「考える人」のほか、「青銅時代」「地獄の門」「バルザック」といった代表的な作品が網羅されている。日本にロダンのファンが多いとされるのは、松方のおかげといえるかもしれない。

 美術学校生の時に雑誌でロダンに出合った高村光太郎は、のどが詰まりそうな気がしたという。当時の西洋の彫刻家とはまるで異なり、日本人の作家に近いと感じたようだ。ロダンは日本の職人かたぎに感心し、「あれでなくては芸術はできない」と述べたと光太郎が書き残している。

 近代彫刻に新たな生命を吹き込んだロダンが77歳で没して、きょうでちょうど100年になる。


というわけで、光太郎が敬愛し、確かに日本にもファンの多いロダン。公開中のフランス映画「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」(次の日曜に観て参ります)、上野の国立西洋美術館さんで開催中の「《地獄の門》への道―ロダン素描集『アルバム・フナイユ』」展など、好評のようです。


もともとロダン作品を多数所蔵されている静岡県立美術館さんでは、以下の企画展が開催中です。

彫刻を撮る:ロダン、ブランクーシの彫刻写真

期 日 : 2017年11月14日(火)~12月17日(日)
会 場 : 静岡県立美術館 静岡市駿河区谷田53-2
時 間 : 10:00~17:30
料 金 : 一般:300円(200円)/大学生以下・70歳以上:無料
      ( )内は20名以上の団体料金
休館日 : 毎週月曜日

2017年は、彫刻家オーギュスト・ロダン(1840〜1917年)の没後100年にあたります。
これを記念し、日本でも有数のロダン・コレクションを誇る当館は、「ロダン没後100年に寄せて」という総称のもと、彫刻家ロダンと写真との関係に着目した3つの小企画展を連続で開催します。
写真術が誕生したのは19世紀。
多数の芸術家がこのメディアを積極的に活用しました。
ロダンも例外ではなく、自作の彫刻を写真家に撮影させ、1890年代以降、それらの写真を作品として展覧会に出品しました。
本企画は、当館所蔵品を中心に、ロダンと写真との関係性を直接に物語る作品のみならず、ロダンとほぼ同時代の彫刻家ブランクーシの自撮による彫刻写真や、さらにはロダンの彫刻を現代の写真家が撮影したものなど、複数の作品/テーマを組み合わせることによって、ロダンの芸術観や写真観を多方面から再考する試みです。
ロダンの新たな一面をご紹介する本企画。
ご鑑賞の後は、ロダン館へも足をお運びいただき、新たな視点でロダン芸術を丸ごと味わってください。

写真を積極的に活用したものの、決して自ら撮影は行わなかったロダン。 ロダンと交流のあった彫刻家ブランクーシは、彼とは異なり、第三者に作品の撮影を任せず、自らアトリエの演出・照明・撮影の全てを行いました。ロダンおよびブランクーシの彫刻・アトリエや肖像を撮影した写真を展示し、その相違や、彫刻家と写真との関係について再考します。


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第1,2は紹介しませんでしたが、「ロダン歿後100年に寄せて」の総題で9月から始まっている企画展示の第3弾です。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

一年の目方がひどく重く身にこたえ、 一年の味がひどく辛く舌にしみる。

詩「開びゃく以来の新年」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

翌年の『中部日本新聞』他の元日号のために書かれた詩の冒頭部分です。草稿に残されたメモによれば、制作の日付は12月5日。光太郎、余命4ヶ月足らずです。その自覚も既にあったと思われます。

この年4月には宿痾の肺結核による大量の血痰。7月まで赤坂山王病院に入院。退院し、中野のアトリエに戻りましたが、もはや手の施しようがないという意味での退院でした。それでも岩波文庫版『高村光太郎詩集』の校閲をしたり、筑摩書房版『宮沢賢治全集』の題字揮毫、装幀を行うなど、その歩みを止めることはありませんでした。

10月にはラジオ放送のための対談を草野心平と行い、その音源はNHKさんに残っています。最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関する部分は、先月、十和田市で講演させていただいた際に聴衆の皆さんに聴いていただきました。

先週日曜の朝にオンエアされたNHKさんの日曜美術館「皇室の秘宝~奇跡の美術プロジェクト~」、今夜、再放送があります。現在、東京上野の東京藝術大学さんで開催中の東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」」を取り上げています。

日曜美術館「皇室の秘宝~奇跡の美術プロジェクト~」

NHKEテレ 2017年11月19日(日)  20時00分~20時45分

昭和天皇のご結婚の際に献上された美術品が皇居から初めて持ち出され公開された。一流の工芸家たちが5年の歳月をかけた奇跡のプロジェクトの作品を紹介する。

東京芸術大学の美術館で開催されている展覧会。金のまき絵やらでんが一面に施された飾り棚。天皇と皇后用に1対で献上された豪華な作品である。また48人の工芸家が技法を競った作品が装飾されたびょうぶ。金工、木工、漆、陶芸など日本の伝統工芸がここに集約されている。実はこのプロジェクトには中止に追い込まれそうな危機があった。皇室の秘宝とともにその秘められた物語を紹介する。

出演 井浦新 高橋美鈴 古田亮(東京藝術大学准教授)


冒頭近くで、番組のつかみ的に、光太郎の父・高村光雲の「鹿置物」(大正9年=1920)が、大きく取り上げられました。

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番組進行役の井浦新さん、髙橋美鈴アナも感嘆しきり。


メインで取り上げられた作品は、大正13年(1924)の皇太子ご成婚を奉祝する御飾り棚一対(昭和3年=1928)。その超絶技巧があますところなく解説されていました。

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棚自体は、蒔絵師を中心とした職人達の手になるものですが、この棚を飾る各種工芸品などの中に、光雲の「木彫置物 養蚕天女」(昭和3年=1928)も含まれていました。

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この「養蚕天女」が単体の作でなく、このためのものだったというのは、同展の図録を読んで初めて知りました。ちなみに今回は展示されていませんが、皇室にはこれより一回り大きい「養蚕天女」も奉納されています。

関東大震災による甚大な被害を乗り越え、「こういう時だからこそ」と、自粛ムードをはねのけてこれらを作り上げた人々の思いにも言及されており、美術作品そのものだけでなく、背景のドラマを知ることの重要性も再認識しました。


もう1点、大きく取り上げられたのが、やはり一対の「二曲御屛風」(昭和3年=1928)。

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こちらには、光雲三男にして、家督相続000を放棄した光太郎に代わって髙村家を継いだ、鋳金の人間国宝・髙村豊周の作「石楠花(しゃくなげ)」も張り混ぜられています。

全体としては、48名の作家の扇面型、色紙型の作が配され、制作方法も多種多彩。金工あり、木工あり、七宝や象嵌、蒔絵、漆工芸など、百花繚乱の感があります。

この中では、豊周の「石楠花」は色合い的にも地味な作なので、番組では取り上げられませんでしたが、写るには写りました。

大きく取り上げられたのは、豊周の作の斜め下に配された青山泰石の「木画扇面 松叭々鳥」。これが筆で描いたものでなく、木に木をはめ込んで作られているというのですから驚きです。

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だからといって、豊周の鋳金の方が劣っているということにもなりません。技法がまるで違うもの同士、比べようがありませんから。

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藝大美術館さんでの展覧会(今月26日(日)まで)ともども、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

人類はじめてきのこ雲を知り、 みづからの探求は みづからの破滅の算出。 ノアの洪水に生きのこつた人間の末よ、 人類は原子力による自滅を脱し、 むしろ原子力による万物生々に向へ。

詩「新しい天の火」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

この時期、原子力の平和利用ということが、盛んに論じられていました。旧ソ連では世界初の原発が稼働、もう少し後には民間船舶にも原子力機関搭載の原子力船が導入されるようになります。まさに「原子力 明るい未来の エネルギー」的な風潮だったわけです。

しかし、第五福竜丸事件もこの年でした。それから広島、長崎の悲劇を踏まえ、懐疑的な見方を示しつつも、光太郎は基本的に原子力の平和利用推進には肯定的でした。このあたり、昔から社会認識の部分では、周囲に流されて「甘い」見方になってしまうという、一種の光太郎の弱点が露呈されてもいます。

およそ60年後の福島の惨状など、思いもよらなかったのでしょう。一概には責められませんが。

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光太郎の父・高村光雲の作品が出品される企画展で、今月初めまで愛知の豊橋市美術博物館さんで開催されていたものが、奈良に巡回です。

ニッポンの写実 そっくりの魔力

期 日 : 2017年11月23日(木・祝)~2018年1月14日(日)
会 場 : 奈良県立美術館 奈良県奈良市登大路町10-6
時 間 : 午前9時~午後5時
料 金 : 一般・大学生 400(300)円 高大生 250(200)円 小中生 150(100)円
      (  )内20人以上の団体料金
休館日 : 月曜日(祝日の場合はその翌平日) 12月27日(水)~1月1日(月・祝)

何かにそっくりなものを眼にしたとき、私たちは「すごい!これ、本物?」と、素朴な驚きを覚えます。
眼に見えるものをあるがままに再現することへの欲望は、私たちの心に深く根ざした、古くて新しい感情なのではないでしょうか。「現実の事象をそのまま写し取ること」-日本の近代美術家たちは、近世までの「写実」の伝統を土壌としながら、西洋美術の流入を大きな刺激として、多様な「写実」へのアプローチを試みてきました。そして現代では近年、精緻な写実表現を目指す動向とともに、彫刻や工芸においても、日本の伝統的な技術の上に、克明な再現を軸とする表現が注目を集めています。
その一方でまた、写実を包括した超絶技巧と呼ばれる表現形態では、絵画にとどまらず、日本の伝統技術を追究した木造彫刻・金属工芸をはじめ、人体、動植物、日用品を克明に再現した作品も際立って注目されています。また、映像の世界においても、これまでの「記録」としての画像を凌ぐ超密度な画素と装置、アプリケーションも広く一般に流通し、わたしたちの「写実」に対する認識を変化させつつあります。 
この展覧会では、あらゆる対象があらゆる形態で写実的に表現されうる現在の状況、それによりかわろうとしている今日の「リアル」に対する感性のありようを、約80点の写実絵画、超絶技巧による立体作品、高精細な映像作品を通じて考える機会としたいと思います。

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関連行事

(1)  記念対談「“そっくり”で読み解く写実の魅力」
  12月3日(日曜日)午後2時から午後3時30分 レクチャールーム
  講師:丸地加奈子(豊橋市美術博物館 主任学芸員)
  定員80名(12時30分開場・先着順) 要観覧券
(2)  講演会「新写実憧景」
  12月10日(日曜日)午後2時から午後3時30分 レクチャールーム
  講師:南城守(前奈良県立美術館学芸課長)
  定員80名(12時30分開場・先着順) 要観覧券
(3)  美術講座「そっくりの魔力」
  1月7日(日曜日)午後2時から午後3時30分 レクチャールーム
  講師:深谷聡(当館主任学芸員)  定員80名(12時30分開場・先着順) 要観覧券
(4) 学芸員によるギャラリー・トーク 12月16日(土曜日)、12月23日(土曜日・祝日)、
  1月13日(土曜日) 14時から15時頃まで 展示室 要観覧券
(5)  ミュージアムコンサート レクチャールームなど
(6)  ワークショップ「そっくり工作に挑戦!」1階無料休憩室 会期中随時・参加費無料


ありがたいことに公式サイトに出品リストが出ており、光雲作品は豊橋巡回と同じ3点とわかりました。

「天鹿馴兎(てんろくくんと)」(明治28年=1895・個人蔵)、「砥草刈(とくさがり)」(大正3年=1914・大阪市立美術館蔵)、「西行法師」(制作年不明・清水三年坂美術館蔵)の3点です。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

紅顔、白髪、 「記者殿」は超積極の世界に生きて 時代をつくり、時代をこえ、 刻々無限未来の暗黒を破る。

詩「記者図」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

この年1月の『新聞協会報』第1000号の記念号に載った詩で、「紅顔」の新米から「白髪」のベテランまで、新聞記者さんたちへのエールです。

「事件にぶつけるからだからは/火花となって記事が飛ぶ。/どこへでも入りこみ/どんな壁の奥でも見ぬく。」
「対象に上下なく、/冒険は日常茶飯。/紙と鉛筆とカメラとテープと、/あとはアキレス筋の羽ばたく翼。」といった部分もあります。

光太郎同様、戦時中は大政翼賛会の提灯持ちと化してしまった新聞社も、占領下のGHQによる新たな束縛の時期を経て、この頃には正常化していました。

ところが現代はどうでしょう。少しでも政権批判的な事を書けば、やれ「偏向報道」だの「工作員」だのと騒ぎ立てる輩にあふれ、国会議員まで「○○新聞死ね」と発言して憚らない現実。検証や批判―「暗黒を破る」使命を放棄し、与党の機関誌かと見まごう御用新聞もまかり通っています。

気骨ある「記者殿」の伝統の火を消さないで欲しいものですね。

昨日は都内に出て、4件の用事を済ませて参りました。3回に分けてレポートいたします。

今日はまず1件目、光太郎の母校にして、父・光雲、実弟・豊周が教鞭を執った東京藝術大学さんで開催中の「東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」」を拝見した件。

大正から昭和最初期の頃に、皇室の方々の御成婚や御即位などの御祝いのために、当代選りすぐりの美術工芸家たちがそれぞれ腕を振るって制作した献上品などを集めた企画展で、それらはまとめて皇居の外で展示されたことがないというものです。

それらの制作や献上に際しては、東京美術学校第5代校長・正木直彦が音頭を取ったり仲介したりといったことが多く、同校教授だった光雲の作品も少なからず含まれていました。

このブログで以前にご紹介した際には、たしか出品リストが公式サイトにアップされていなかったため、光雲作品はチラシに載っている「松樹鷹置物」(大正13年=1924)以外に何が出ているか分かりませんでしたが、その後、アップされた出品リストにより、他にも光雲作品が展示されていることを知って、これはぜひとも観に行かねばと思い、行って参りました。

ちなみに光太郎も東京美術学校出身ですが、光雲の勧めを断って教職には就きませんでした。そのため、光太郎の作品は含まれていません。

光雲単独の作品は以下の通りでした。写真は故・髙村規氏によるものです。


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「鹿置物」(大正9年=1920)、「猿置物」(大正12年=1923)。


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「木彫置物 養蚕天女」(昭和3年=1928)、「松樹鷹」(大正13年=1924)。

これらは平成14年(2002)に千葉市美術館さん他で開催された「高村光雲とその時代展」や、皇居内の三の丸尚蔵館さんで開催される企画展などで観たことがあるものでしたが、やはり何度観てもいいものです。鹿の角の質感、松の木肌のリアルさ、猿や天女の衣の本物と見まごう表現など、光雲ならではの超絶技巧です。

ちなみに「松樹鷹」と「猿置物」はポストカードにもなっていました。1枚150円です。

これら以外に、光雲と他の作家の合作もあり、それらは初めて観ました。

「萬歳楽置物」(大正4年=1915)、ブロンズです。原型は木彫で、光雲と、その高弟の山崎朝雲の作。台座の部分の制作者は由木尾雪雄という蒔絵師です。螺鈿があしらわれ、実に豪勢な作りでした。鋳造も見事です。

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それから栄えある出品ナンバー1番「綵観(さいかん)」(明治37年=1904)。八曲一双の屏風なのですが、木で出来ています。その両面に、絵画、木彫、鋳金、七宝、牙彫(象牙)、蒔絵、陶芸などで、光雲はじめ、総勢18名の錚々たるメンバーの作品がはめ込まれています。橋本雅邦、川端玉章、石川光明、海野勝珉、竹内久遠(久一)、大島如雲、はては最近とみに注目を集めている宮川香山や濤川惣助まで名を連ねています。

光雲の作は、狆(ちん)をあしらった木彫レリーフ「いし」(「し」は「子供」の「子」ですが、「い」はけものへんに「委」、第2水準でも存在しない字でした)。

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わかりにくいのですが、中央がそれです。左は川端玉章、右は橋本雅邦です。

さらに、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝、高村豊周の作もありました。豊周は家督相続を放棄した光太郎に代わって高村家を継ぎ、東京美術学校鋳金科の教授を務めました。これも合作で、「二曲御屛風 腰彫菊花文様」(昭和3年=1928)。「石楠花(しゃくなげ)」が豊周の鋳金レリーフです。

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この屏風、今日オンエアされるNHKさんの「日曜美術館 皇室の秘宝~奇跡の美術プロジェクト~」の番組案内で「48人の工芸家が技法を競った作品が装飾されたびょうぶ。金工、木工、漆、陶芸など日本の伝統工芸がここに集約されている。」と紹介されています。豊周の名が出るかどうか微妙ですが。

その他の作家の作品も、逸品ぞろい。やはり皇室に納められた作品ということで、作者の気合いの入り方が異なるのでしょう。錚々たるメンバーの合作系は、皇室に、ということでもなければ実現しなかっただろうと思われる部分もあります。

今月26日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

あなたのきらひな東京が わたくしもきらひになりました。 仕事が出来たらすぐ山へ帰りませう。 あの清潔なモラルの天地で も一度新鮮無比なあなたに会ひませう。
詩「報告」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

言わずもがなですが、「あなた」は、かつて「東京に空が無い」(「あどけない話」昭和3年=1928)と言った智恵子です。智恵子を直接のモチーフとした詩は、これが絶作となりました。

戦時中の戦争協力を悔い、自らに課した「彫刻封印」の厳罰。それを解き、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、「清潔なモラルの天地」、花巻郊外太田村から7年ぶりに再上京して最初の詩です。

7年間、厳しくも美しい自然に囲繞された生活の中で濾過された光太郎の眼には、生まれ故郷とは言う定、7年ぶりに見た東京の街は、「きらひにな」らざるをえない街だったというのです。

ただ、実際には草野心平らと夜な夜な飲み歩いたり、映画やコンサート、各種の展覧会や果てはストリップまで見て歩き、けっこう「東京」を楽しんでいたようにも思えますが……。それは光太郎一流の「韜晦」だったのかもしれません。

テレビ放映情報です。

ザ・プロファイラー 夢と野望の人生 「彫刻に“生命”を刻んだ男~オーギュスト・ロダン~」(再放送)

NHKBSプレミアム 2017年11月8日(水)  18時00分~19時00分

岡田准一がMCを務める歴史エンターテインメント。「考える人」「地獄の門」で知られ、今年、没後100年を迎える彫刻家ロダン。30歳をすぎても、貧乏生活から抜け出すことができず、苦悩に満ちた日々を送った。こだわったのは「男の裸」。ところが、名声を得た後、1人の女性との関係をきっかけに、女性像や愛をテーマとした作品を発表するように。だが、その女性との関係は悲劇的な結末に。人間味あふれる人生に迫る。

司 会 岡田准一
ゲスト 鹿島茂,若村麻由美,篠原勝之

2日にオンエアされた本放送を拝見しました。

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光太郎が終生敬愛した彫刻家ロダン。その生涯を、代表作品や、周囲の人々との関わりから追ったものです。

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今月11日に封切られる映画「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」を紹介、弟子であり愛人でもあったカミーユ・クローデル、そして内縁の妻(最晩年に入籍)ローズ・ブーレとの三角関係。

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光太郎にも言及されました。

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連翹忌にも何度かご参加下さっている、日本大学芸術学部の髙橋幸次先生もご出演。

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なかなかのクオリティーでした。


同じく、光太郎と縁の深かった美術家ということで。

美の巨人たち “夭折の天才”村山槐多と関根正二…自画像に刻んだ鮮烈な人生

テレビ東京  2017年11月11日(土) 22時00分~22時30分 
BSジャパン  2017年11月29日(水) 23時00分~23時30分

燃えるようなガランスと染み入るようなバーミリオン。二つの赤に託された思いとは?二人の夭折の天才が残した自画像の変遷をたどり、その20年あまりの鮮烈な人生に迫る。

大正時代に彗星のごとく現れた画家・村山槐多と関根正二。98年前の1919年に二人はその生涯を閉じました。槐多22歳、正二20歳という若さで…。村山槐多は燃えるようなガランス、関根正二は染み入るようなバーミリオンを好みました。二つの赤に託された思いとはなんだったのか?夭折の天才が目指したものは何だったのか?自画像に秘められた真実に迫ります。

ナレーター 小林薫  神田沙也加

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今回取り上げられる二人のうち、村山槐多は、光太郎より13歳年下の明治29年(1896)生まれ。宮沢賢治と同年です。大正8年(1919)に、数え24歳で結核のため夭折。その晩年、光太郎と交流があり、光太郎はそのままずばり「村山槐多」(昭和10年=1935)という詩も書いています。

  村山槐多

槐多(くわいた)は下駄でがたがた上つて来た。
又がたがた下駄をぬぐと、
今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。

いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。

「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
「居るよ。」
「僕は眼がつぶれたら自殺します。」

眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。

画家だった村山ですが、詩も書き、光太郎に見て貰ったりもしていました。それが「くしやくしやの紙」で、歿した翌年、大正9年(1920)には、『槐多の歌へる』の題で詩集が出版されています。光太郎は推薦文も寄せています。

そのあたり、番組で紹介されるといいのですが……。


もう一件。

日曜美術館「皇室の秘宝~奇跡の美術プロジェクト~」

NHKEテレ 2017年11月12日(日)  9時00分~9時45分
      再放送 11月19日(日)  20時00分~20時45分

昭和天皇のご結婚の際に献上された美術品が皇居から初めて持ち出され公開された。一流の工芸家たちが5年の歳月をかけた奇跡のプロジェクトの作品を紹介する。

東京芸術大学の美術館で開催されている展覧会。金のまき絵やらでんが一面に施された飾り棚。天皇と皇后用に1対で献上された豪華な作品である。また48人の工芸家が技法を競った作品が装飾されたびょうぶ。金工、木工、漆、陶芸など日本の伝統工芸がここに集約されている。実はこのプロジェクトには中止に追い込まれそうな危機があった。皇室の秘宝とともにその秘められた物語を紹介する。

出演 井浦新 高橋美鈴 古田亮(東京藝術大学准教授)

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こちらには光太郎の父・高村光雲作の「松樹鷹置物」(大正13年=1924)が展示されており、ちょっとでも紹介してほしいものです。


それぞれ、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

不発か時限か、 ぶきみなものが そこらあたりにころがつて 太平楽をゆるさない。 人の命のやりとりが 今も近くでたけなはだ。

詩「遠い地平」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

翌年元日の『新岩手日報』のために書かれた詩の一節です。

朝鮮戦争を念頭に置いて書かれていますが、現代の日本にもあてはまりますね。ちょうど、宗主国から「ぶきみな」人物が来日している折ですし。ポチはシッポを振るのに余念がないようですが(笑)。

光太郎が終生敬愛した彫刻家、オーギュスト・ロダンがらみです。

まずは米国発のニュース。

ロダン作のナポレオン胸像、米市庁舎で偶然発見 80年間誰も気づかず

【AFP=時事】近代彫刻の父と称される彫刻家オーギュスト・ロダン(Auguste Rodin)が制作したフランス皇帝ナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte)の胸像が米東海岸のとある町の市庁舎で数十年にわたりひっそりと眠っていた──。このほど、その発見について初めて報じられた。

 白い大理石の胸像は、ニュージャージー(New Jersey)州マディソン(Madison)の市庁舎で見つかった。制作者不明のまま80年間、台座の上に置かれていたのだという。

 同市は2014年、所有する美術品の目録を作成するため、美術史を勉強する22歳の学生を採用した。学生は、一目でロダンのスタイルとわかる胸像に「A. Rodin」のサインが入っていることに気が付いた。

 この胸像に好奇心を抱き、学生はすぐに確認作業を開始。専門家らに相談し、過去の保存記録を徹底的に調べ、最終的にロダン研究の権威でパリ(Paris)を拠点とする「Comite Auguste Rodin」に助言を求めた。

 謎はすぐに解けた。同団体が収集した資料の中から写真が見つかり、その写真には長らく紛失したと考えられていた胸像とロダンが一緒に写っていたのだ。そして2015年9月、胸像を鑑定するために専門家がマディソンの市庁舎を訪れた。鑑定作業は数十秒で終わった。胸像は1904年、ニューヨーク(New York)州の著名弁護士の妻から制作を依頼されたもので、400万~1200万ドル(約4億6000万~13億7000万円)の価値があると分かった。

 ロダンの胸像と判明してから約2年が経過して、今回その発見について初めて発表された。窃盗などの恐れがあるとの理由でこれまで秘密にされていたのだという。フィラデルフィア美術館(Philadelphia Museum of Art)に移されることも併せて発表された。【翻訳編集】 AFPBB News
2017年10月25日

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こういうことがあるのですねぇ。しかし、「400万~1200万ドル」とは……。まぁ、大理石の一点ものですから、そのくらいしてもおかしくないのでしょう。

見つかったのは数年前のようですが、今年はロダン歿後100年ということで、不思議な因縁を感じます。

歿後100年ということで、再び注目の集まるロダン。テレビ番組でも取り上げられます。

ザ・プロファイラー 夢と野望の人生 「彫刻に“生命”を刻んだ男~オーギュスト・ロダン~」

NHKBSプレミアム 2017年11月2日(木) 21時00分~22時00分

岡田准一がMCを務める歴史エンターテインメント。「考える人」「地獄の門」で知られ、今年、没後100年を迎える彫刻家ロダン。30歳をすぎても、貧乏生活から抜け出すことができず、苦悩に満ちた日々を送った。こだわったのは「男の裸」。ところが、名声を得た後、1人の女性との関係をきっかけに、女性像や愛をテーマとした作品を発表するように。だが、その女性との関係は悲劇的な結末に。人間味あふれる人生に迫る。

司 会 岡田准一
ゲスト 鹿島茂,若村麻由美,篠原勝之

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そして、映画でも。

ロダン カミーユと永遠のアトリエ

公  開 : 2017年11月11日(土)より 全国ロードショー
場  所 : 新宿ピカデリーBunkamuraル・シネマ ほか
出  演 : ヴァンサン・ランドン (オーギュスト・ロダン)
         イジア・イジュラン (カミーユ・クローデル) 他
監  督 : ジャック・ドワイヨン 
配  給 : 松竹、コムストック・グループ
上映時間 : 120分

「地獄の門」「考える人」などの作品で知られ、「近代彫刻の父」と称される19世紀フランスの彫刻家オーギュスト・ロダンの没後100年を記念して製作された伝記映画。弟子入りを切望する女性彫刻家カミーユ・クローデルと出会ったロダンが、彼女の才能と魅力に惹かれていく姿を描く。

1880年、パリ。40歳の彫刻家オーギュスト・ロダンはようやく国から作品制作を依頼されるようになり、後に代表作となる「地獄の門」を生み出していく。その頃、内妻ローズと暮らしていたロダンだったが、弟子入りを願う女性カミーユ・クローデルが現れ、彼女の才能に魅せられたロダンはクローデルを助手にし、やがて愛人関係になっていくが……。

「ティエリー・トグルドーの憂鬱」でカンヌ国際映画祭主演男優賞を受賞したヴァンサン・ランドンがロダンに扮し、カミーユ・クローデルをフランスで歌手としても活躍しているイジア・イジュランが演じた。監督・脚本は「ポネット」の名匠ジャック・ドワイヨン。


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それぞれ、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

今放たれて翼を伸ばし、 かなしいおのれの真実を見て、 三列の羽さへ失ひ、 眼に暗緑の盲点をちらつかせ、 四方の壁の崩れた廃墟に それでも静かに息をして ただ前方の広漠に向ふといふ さういふ一つの愚劣の典型。
詩「典型」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

「典型」は、光太郎自身。明治・大正・昭和を生き、忠君愛国の精神で塗り固められ、戦時中には道を誤った「愚劣の典型」だというのです。

昨日ご紹介した「偶作」同様、「それでもやれることをやろう」といった建設的な方向にベクトルが向いていた点は、高く評価されて然るべきだと思います。

ちょっと変わった企画展です。

涯テノ詩聲(ハテノウタゴエ )詩人 吉増剛造展

期日 : 2017年11月3日(金・祝)~12月24日(日)
会場 : 足利市立美術館 栃木県足利市通2丁目14-7
時間 : AM10:00~PM6:00
料金 : 一般700(560)円/高校・大学生500(400)円/中学生以下無料 
     ( )内団体料金
      11月23日(祝・木)は無料
     第3日曜日「家庭の日」(11/19、12/17)は中学生以下のお子さま同伴ご家族無料

 吉増剛造(よします・ごうぞう 1939- )は、1960年代から現在にいたるまで、日本の現代詩をリードし続けてきました。その活動は、詩をはじめとすることばの領域にとどまらず、写真や映像、造形など多岐に広がり、私たちを魅了し続けています。
 常にことばの限界を押し広げてきた吉増の詩は、日本各地、世界各国をめぐり、古今東西、有名無名の人々との交感を重ねる中で綴られてきました。本展では、半世紀以上におよぶ活動の中から、各時代の代表的な詩集を柱とし、詩や写真をはじめとする吉増の作品群に加えて、関連するさまざまな表現者の作品や資料と共に展示します。
 現代のみならず、古代の営みにまで遡って様々な対象をとらえ、そこからかつてないビジョンを生み出し続ける吉増の視線、声、手は、日常を超えた世界への扉を私たちの前に開くでしょう。

1.詩集の彼方へ
 吉増剛造は、1964年に第一詩集『出発』(新芸術社)を刊行して以来、現在まで20冊あまりの詩集を含む、70冊を超える著作を発表してきました。その軌跡を辿ることで、吉増が現代詩の枠にととまらず、文学の限界を押し広げ、新たな言葉の可能性を表現し続けていることが明らかになるでしょう。ここでは、半世紀におよぶ詩作の中から、代表的な10冊の詩集を時代ごとに選び、吉増の活動を振り返りながら、各時代で関わりある人々の作品や資料をあわせて紹介します。

2.写真を旅する 
  詩人として出発した吉増剛造は、その活動の初期から数多くの写真を撮影し、それらは詩作にも影響を与えています。国内外の様々な場所で撮られたこれらの写真は、1970-80年代よりしばしば自著の中でも使用され、1990年代以降はギャラリーなどでの発表が始まりました。さらに、現在にいたるまで、吉増独自の多重露光写真を中心に、国内外各地で精力的に写真展が開催され、3冊の写真集が刊行されています。写真家としての吉増も、その活動を辿る中で重要なものの一つです。

3.響かせる手
 現代の詩人の中で、吉増剛造ほど、手で言葉を記すという行為を深めてきた者はいないでしょう。豊かな色彩と文字で記された吉増の原稿は、直筆原稿のイメージを越えて見るものを魅了します。近年では、きわめて細やかな文字が記された上からさらにインクなどで彩られ、絵画的ともいえる表現へと発展し、そこからは、書家としての吉増剛造の姿が新たに見えてくるでしょう。ここでは、現在の吉増の作品のほか、吉増が言及してきた様々な表現者、書き手の原稿、書などの作品をあわせて紹介します。

出品作家:吉増剛造/赤瀬川原平/芥川龍之介/荒木経惟/石川啄木/浦上玉堂/折口信夫/加納光於/川合小梅/北村透谷/島尾敏雄 /島尾ミホ/ダイアン・アーバス/高村光太郎/瀧口修造/東松照明/中上健次/中西夏之/中平卓馬 /奈良原一高/西脇順三郎/萩原朔太郎/柳田國男/吉本隆明/松尾芭蕉/南方熊楠/森山大道/与謝蕪村/良寛/若林奮


「1.詩集の彼方へ」で、「各時代で関わりある人々の作品や資料をあわせて紹介」とあり、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)が展示されます。 吉増氏には、第二詩集『黄金詩篇』(昭和45年=1970)に収められた「高村光太郎によびかける詩」という長詩があるので、そのためでしょう。

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台東区立朝倉彫塑館さんの所蔵で、3点しか現存が確認できていない、大正期の鋳造のうちの一つです。台座の木彫部分も、光太郎が彫ったものです。

今年はじめに小平市平櫛田中彫刻美術館さんで開催された特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」、一昨年に武蔵野美術大学美術館さんで開催された「近代日本彫刻展(A Study of Modern Japanese Sculpture)」などにも展示されています。


ちなみに吉増氏、評論でも光太郎に触れて下さっています。昭和54年(1979)、河出書房新社さん刊行の『文芸読本 高村光太郎』所収の「高村光太郎の詩の文体」。昭和48年(1973)のご執筆だそうで、初出は他の雑誌なのでは、と思われます。

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余談ですが、同書は、当方学生時代の講義のテキストでした。


お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

世界の機構の万華鏡は 転々として偶然の連鎖のやうでゐて しかも力学の必然を持つてゐる。 人力に基いて人力を超えてゐる。

詩「偶作」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

所詮人類は、お釈迦様の手のひらの上で暴れる孫悟空のようなもの、ということでしょうか。

晩年の光太郎詩には、この種の「諦観」が見て取れます。ただ、それがニヒリズムや無力感に結びつかず、「それでもやれることをやろう」といった建設的な方向にベクトルが向いていた点は、高く評価されて然るべきだと思います。

光太郎の父・高村光雲がらみの企画展です。
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 午前9時30分~午後5時00分  会期中の金・土曜日は午後 8 時まで開館
料 金 : 一般1300円(1100円) 高・大学生800円(600円) 中学生以下無料
         ( )内は20名以上の団体料金
休館日 : 月曜日

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およそ 100 年前。大正から昭和最初期の頃に、皇室の方々の御成婚や御即位などの御祝いのために、当代選りすぐりの美術工芸家たちが技術の粋を尽くして献上品を制作しました。中には、大勢の作家たちが関わった国家規模の文化プロジェクトがありましたが、今日ではそれを知る者がほとんどいなくなっています。いったん献上されたそれら美術工芸品は、宮殿などに飾り置かれていたために、一般の人々の目に触れる機会が極めて限られてきたからです。
古くから皇室は、日本の文化を育み、伝えてきましたが、近代になってからは、さまざまな展覧会への行幸啓や作品の御買上げ、宮殿の室内装飾作品の依頼などによって文化振興に寄与してきました。皇室の御慶事に際しての献上品の制作は、制作者にとって最高の栄誉となり、伝統技術の継承と発展につながる文化政策の一面を担っていました。大正期には、東京美術学校(現、東京藝術大学。以下美術学校)5代校長・正木直彦(1862 ~ 1940)の指揮下で全国の各分野を代表する作家も含めて展開された作品がこの時代の美の最高峰として制作されました。本展では、宮内庁に現存する作品とともに、その制作にまつわる作品や資料を紹介いたします。
また本展は、東京美術学校を継承する東京藝術大学の創立130周年を記念して、東京美術学校にゆかりある皇室に関わる名作の数々も合わせて展示いたします。皇室献上後、皇居外で初めて公開される作品を中心に、100年前の皇室が支えた文化プロジェクトの精華をお楽しみください。


002光雲作品としては、宮内庁三の丸尚三館さん所蔵の「松樹鷹置物」(大正13年=1924)が展示されます。光雲木彫の最高峰の一つです。

大正13年(1924)の皇太子(のちの昭和天皇)ご成婚に際し、大正天皇、貞明皇后から皇太子に贈られました。東宮御所の玄関を飾る置物として作られたとの伝来があります。

像高1㍍ほどある大きな物ですが、さらに1㍍を超す漆塗りの台に据えられていたようです。

光雲は、この作の制作に当たって、帝室博物館(現・東京国立博物館)から鷹の剥製を借用し、参考にしたとのこと。

今にも獲物めがけて飛びかからんばかりの鷹の躍動感と、樹皮のひび割れまで忠実に写生された松の老樹(彫刻材は楠)の表情がみごとです。


同じ上野公園の国立西洋美術館さんでは、過日ご紹介した「《地獄の門》への道―ロダン素描集『アルバム・フナイユ』」が開催されます。それから、東京国立博物館さんでは、常設展示「近代の美術」で、11月12日(日)まで、光太郎の木彫「鯰」とブロンズの「老人の首」が出ています。

併せてご覧下さい。

追記・「松樹鷹」以外にも、光雲の作は複数展示されています。「鹿置物」(大正9年=1920)、「猿置物」(大正12年=1923)、「木彫置物 養蚕天女」(昭和3年=1928)。さらに光雲と他の作家の合作、光太郎の実弟・高村豊周の作も出ています。

【折々のことば・光太郎】

文化は高いほどいいので まさにカンチエンジユンカたるべきです むしろ地上を離れて 成層圏に入るべきです

詩「Rilke Japonica etc.」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

「カンチエンジユンカ」は、ヒマラヤ山脈のカンチェンジュンガ。世界3位の標高で、8,586㍍です。

この時点では世界最高峰・エベレストの標高も正確にはわかっておらず、エベレストが最高峰だろうというのは推定でしかなく、それより高い山も存在するのでは、という説もあったようです。エベレスト、カンチェンジュンガ、さらに第2位のK2すべて、まだ登頂されていません。「ほぼ世界最高峰」という意味で、カンチェンジュンガが持ち出されているのでしょう。

全体としては、十五年戦争により停滞、さらには逆行してしまった日本文化の低さを嘆くとともに、文化行政への批判も含んだ詩です。

光太郎が終生敬愛し続けた、オーギュスト・ロダンの企画展です。

《地獄の門》への道―ロダン素描集『アルバム・フナイユ』

期 日 : 2017年10月21日(土)~2018年1月28日(日)
会 場 : 国立西洋美術館 版画素描展示室 東京都台東区上野公園7番7号
時 間 : 午前9時30分~午後5時30分  毎週金・土曜日:午前9時30分~午後8時
          ただし11月18日は午後5時30分まで
料 金 : 一般500円(400円)、大学生250円(200円) ( )内は20名以上の団体料金
休館日 : 月曜日(ただし、2018年1月8日(月)は開館)、
        2017年12月28日(木)~2018年1月1日(日)、1
月9日(火)

1880年、建築予定のパリの装飾芸術美術館の門扉となるべき大型彫刻の注文を受けたオーギュスト・ロダン(1840-1917)は、ダンテの『神曲』「地獄篇」を題材として、《地獄の門》の制作に取り組み始め、まずは大量のデッサンを手がけます。「私は1年の間、ダンテとともに生きた。彼によってのみ生き、彼のみと生きたのだ。そして彼の“地獄”の8つの圏谷(たに)をデッサンした」(ロダン)。生前に犯したさまざまな罪のために地獄で責苦に喘ぐ死者や、空中を跳梁する悪魔。ウェルギリウスとダンテの導きで地獄巡りに出たロダンの想像力は紙の上に荒々しい幻想の世界を生み出しました。やがてロダンは、これらのデッサンをあまりに現実から離れたものとして放棄し、新たに「自然にもとづいて」デッサンをやり直したといいます。しかしここには、デッサン家としてのロダンが紙の上で繰り広げたより自由なヴィジョンがあるとともに、生の苦悩と創造の輝きが混然となって展開する壮大な《地獄の門》創造の萌芽を見ることができます。
支援者の美術愛好家モーリス・フナイユの名を取って『アルバム・フナイユ』として知られる大型素描集『オーギュスト・ロダンのデッサン』は、ロダン自身が選び出してタイトルを付けた「地獄篇」をめぐる142点のデッサンを精巧なフォトグラヴュール技法によって同寸で複製したものです。「地獄篇」、「辺獄(リンボ)、「習作」の3部で構成され、詩人オクターヴ・ミルボーの序文を加えて、1897年にグーピル商会の後継会社ブソ&マンツィ&ジョワイヤン社から125部限定で出版されました。ロダン自身が制作プロセスに深く加わったこの素描集は高い評価を受け、後の「画家本(リーヴル・ダルティスト)」の先駆ともいわれます。ロダンが没してから100年にあたる2017年秋の小企画展示では、《地獄の門》の主要な関連彫刻作品とともに、この『アルバム・フナイユ』の全図版をご紹介します。

同館前庭に立つ、ロダン畢生の大作「地獄の門」。その制作過程をうかがい知ることのできる素描が展示されます。

関連する記事が、先月末、『朝日新聞』さんに出ました。ご執筆は日本大学芸術学部・髙橋幸次教授。このブログにたびたびご登場いただいております。

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長いので全文は引用しませんが、冒頭部分で光太郎にも触れて下さっています。

 「近代彫刻の父」とも呼ばれるオーギュスト・ロダン(1840~1917)が、今年11月に没後100年を迎えます。ロダンの魅力は、彫刻という不動のものに「動き」や「生命感」を持たせたこと。彫刻家の荻原守衛や高村光太郎らにも大きな影響を与え、明治末から戦後にかけて、日本でも「ロダニズム」が席巻しました。


光太郎畢生の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」も、「地獄の門」に影響を受けています。光太郎は2体全く同じ像を向かい合わせにしていますが、ロダンは「地獄の門」のてっぺんに、3体の同型の像を並べました。後に「影」としてシングルカットされています。

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光太郎は「乙女の像」完成後の談話で、「影」に触れ、インスパイアであったことを示唆しています。


さて、国立西洋美術館さん、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

若しも智恵子がここに居たら、 奥州南部の山の中の一軒家が たちまち真空管の機構となつて 無数の強いエレクトロンを飛ばすでせう。

詩「若しも智恵子が」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居生活。戦争協力を恥じ、自らを罰するために選んだ自虐に等しい過酷な生活でしたが、その中で最も求めたもの、それは亡き智恵子との再会でした。


昨日に引き続き、光太郎彫刻が展示されている企画展の情報です。

状況をわかりやすくするために、地元紙『デーリー東北』さんの記事をご紹介します。

「旅と名所」テーマに 街かどミュージアムで5周年記念秋期展/青森・八戸

 青森県八戸市にある八戸クリニック街かどミュージアム(小倉秀彦館長)で、23日から5周年記念秋期展「旅と名所」が開かれる。時代ごとに変わる旅の楽しみや名所の捉え方にスポットを当て、全国各地の風景や名物を描いた浮世絵や木版画など195点を展示。観光名所として名高い十和田湖にある高村光太郎作「乙女の像」の習作「手」の石こうから鋳造されたブロンズ像も特別に公開する。11月12日まで。
  江戸時代、街道と宿場の整備により、旅は庶民の娯楽となり、それに伴い、さまざまな名所絵が描かれた。会場では、歌川広重の「狂歌入東海道五十三次」全56図をはじめ、歌川国芳、歌川国貞ら人気絵師が手掛けた名所絵を紹介。同館の小倉学学芸員は「和歌に詠まれた名所や、その土地にある伝説など、文学を織り交ぜた作品が多い」と特徴を解説する。
  明治時代になると、江戸や京都に限らず、全国津々浦々の名所が注目されるようになる。背景には、国民の郷土愛を培うとともに、外貨獲得や自然保護を目指す当時の政府の狙いがあった。その時代を反映した作品として、鳥瞰(ちょうかん)による旅行案内図を制作した吉田初三郎や、伝統的な浮世絵技術の復興と近代化を目指した「新版画」を確立した版画家川瀬巴水の作品などを中心に展示する。
  浮世絵や木版画を通して、時代の変遷とともに移り変わる人々の“旅情”が感じられる展示となっている。
  入館料は一般500円、高校生200円、中学生以下無料。開館時間は午前10時~午後5時。休館日は祝日を除く月・火曜日。
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というわけで、光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために、習作として作った手の習作を鋳造したものが展示されています。

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本来は習作で、光太郎生前には鋳造はされなかったものですが、その歿後にブロンズが作られ、光太郎展的な企画展に展示されることがあります。平成25年(2013)に千葉市美術館さん、岡山井原市立田中美術館さん、そして愛知碧南の藤井達吉現代美術館さんを廻った「生誕130年彫刻家高村光太郎展」でも並びました。今回の八戸では、企画展自体のコンセプトとはあまり関係ないようですが、「特別公開」ということだそうです。

そちらの詳細がこちら。

5周年記念秋期展旅と名所――広重から北東北の新版画・鳥瞰図まで

期 日 : 2017年9月23日(土)~11月12日(日)
会 場 : 八戸クリニック街かどミュージアム 青森県八戸市柏崎1丁目8-29
時 間 : 10:00〜17:00
休館日 : 毎週月曜日・火曜日(祝日の場合は開館)
料 金 : 大人500(400)円 高校生200(100)円 
      ( )内10名以上の団体 中学生以下無料

江戸時代、街道と宿場の整備が進み、旅は人々の娯楽となりました。寺社詣を口実に、江戸や京都の名所を訪れ芝居や食事を楽しむ。浮世絵にはそんな彼らの姿と共に、旅に関連させ狂歌や伝説などを楽しむ文化が表れています。全国に鉄道網が敷かれる明治を経て、大正以後の経済発展により旅の大衆化が進み、国家も自然保護・外貨獲得・国民の保健休養教化の一環などの目的で関連政策を強化、近代の観光産業が成立していきます。そんな時代に鳥瞰図や新版画などが生まれ、その近代の新たな風景は人々に旅への憧憬を抱かせました。今回は、これらの作品を紹介し江戸から昭和初期までの旅を概観します。

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お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

おれは自己流謫のこの山に根を張つて おれの錬金術を究尽する。 おれは半文明の都会と手を切つて この辺陬を太極とする。

詩「「ブランデンブルグ」」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

詩の中に初めて「自己流謫」の語が使われました。「流謫」=「流罪」です。結局、公的には戦犯として処されることがなかった光太郎、だからといって「助かった」というわけではなく、己で己を罰することにしたのです。

具体的には花巻郊外太田村の山小屋での、自虐に等しい独居生活。しかし、ただここに住んでいるというだけでは不十分でした。そこで、光太郎は自らに考え得る限りの最大の罰を与えています。すなわち、天職と考えていた彫刻の封印でした。

情報を得るのが遅れましたが、光太郎の木彫が出ている企画展です。 
会 場 : 富山県美術館 富山県富山市木場町3-20
時 間 : 9:30〜18:00
休 館 : 水曜日(祝日を除く)、祝日の翌日  9月24日、11月4日は臨時開館
料 金 : 一般1,300円(1,000円)大学生950円(750円)( )内20名以上の団体料金

古来より現在まで、多くの作品が「生命=LIFE」をテーマに生み出されてきました。古今東西の芸術家たちがこのテーマに関心を持ち、作品を通してその本質を明らかにしようとしてきたのは、それが私たち人間にとってもっとも身近で切実なものであったからにほかなりません。
本展は、富山県美術館(TAD)の開館記念展の第一弾として、アートの根源的なテーマである「LIFE」を「『すばらしい世界=楽園』をもとめる旅」ととらえ、「子ども」「愛」「日常」「感情」「夢」「死」「プリミティブ」「自然」の8つの章により構成し、国内外の美術館コレクションの優品を中心とした約170点を紹介するものです。ルノワールなどの印象派から、クリムト、シーレなどのウィーン世紀末美術、ピカソ、シャガールなどの20世紀のモダンアート、青木繁、下村観山などの日本近代絵画、折元立身、三沢厚彦などの現代アートまで、生命と美の深い関わりについて考察し、この富山県美術館でしか体験できない、新たなアートとの出会いを創出します。

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光太郎の木彫「蝉」(大正13年=1924)が出ています。

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複数現存している「蝉」のうち、「1」のナンバーのものですので、「展示作品リスト」には「蝉1」となっています。富山県内の個人の方が所蔵されています。

同館は先月のオープン。その開館記念ということで、気合の入った企画展です。日本中の美術館等から、古今東西かなりの数の名品が集められています。また、同時開催のコレクション展では、東京美術学校で光太郎が彫刻科を卒業したあと入り直した西洋画科での同級生・藤田嗣治の作品が目玉となっています。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

はじめて一人は一人となり、 天を仰げば天はひろく、 地のあるところ唯ユマニテのカオスが深い。

詩「脱卻の歌」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

「ユマニテ」は「humanité」、「ヒューマニティー」の仏語です。「卻」は「却」の正字。連作詩「暗愚小伝」を書き終え、自らの戦争責任と、そこに到るこれまでの生涯を振り返り、光太郎は真に自らの進むべき道に開眼します。

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