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たまたまネット上で見つけました。九州鹿児島から演劇の公演情報です。 

演劇集団宇宙水槽 番外公演#1 『ちえこのかって』

期   日 : 2018年12月22日(土)~24日(月・振休)
会   場 : ギャラリー游 鹿児島市山之口町3-14
時   間 : 22日(土) 14:00~/18:00~  23日(日) 14:00~/18:00~
        24日(月・振休) 14:00~
料   金 : 一般1200円  学生(高校生以下)800円  (予約制/25席)
問 合 せ    : cosmorium@hotmail.co.jp  電話・SMS:090-3744-8736(宮田)

世間の世間の注目する「新しい女」、若き女流油絵画家・智恵子。日本の芸術界の矛盾を批判して世間を騒がせていた新進気鋭の芸術家、光太郎。2人が出会ったのは、明治44年12月のことだった。光太郎は妻である智恵子の死を「レモン哀歌」という詩に描いた。
智恵子という女の人生、苦悩、喜び、狂気、レモンの香りで隠しおおせた”秘密”――
2人の芸術家の姿を描く、宇宙水槽の二人芝居。
 
脚本:イワモトエリ   演出:宮田晃志   出演:うとよしみ/宮田晃志


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お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

自分の芸術を模倣である、と言はれれば、模倣でない、と心の底から言ひ張れる。自分の芸術を虚偽である、と言はれれば、虚偽でない、と心の底から言ひ張れる。自分の芸術を遊動である、と言はれれば、遊動でない、と心の底から言ひ張れる。自分の芸術を概念である、と言はれれば、概念でない、と心の底から言ひ張れる。自分の芸術を外殻である、と言はれれば、外殻でない、と心の底から言ひ張れる。

散文「所感」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

岸田劉生、木村荘八らと共に開催した第二回フユウザン会展の目録に載せた文章の冒頭部分です。強烈な矜恃が見て取れますね。

一昨日、昨日と光太郎の父・高村光雲が主任として制作に当たった上野の西郷隆盛像について書きましたが、西郷像と同様に、光雲の手になる大作、信州善光寺さんの仁王像に関して、イベント情報です。 

善光寺寺子屋文化講座第2幕『冬至に仁王さんのお顔を見てみよう』

期   日 : 2018年12月22日(土)
会   場 : 信州善光寺 長野県長野市大字長野元善町491
時   間 : 朝 午前6時50分受付   夕 午後3時受付
料   金 : 無料

善光寺の仁王像の配置は、一般的な配置と逆になっています。なぜなのでしょうか?
太陽が一番低くなる冬至の日に、物事の始まりを表す阿形像に朝日が、終わりを意味する吽形像に夕日が当たるように仁王像を配置したといわれております。この現象を見るため、『冬至に仁王さんのお顔を見てみよう』を行います。
※天候次第で、やむを得ず中止の場合がございます。

講師: 相原文哉先生(第24回善光寺寺子屋文化講座・講師)
定員: 朝・夕 各30名
 
お申込み方法
12月1日(土)より、電話にて下記までお申込み願います。先着各30名様まで。
善光寺事務局(026-234-3591)


大正8年(1919)に開眼供養が行われた、善光寺さんの仁王像。光雲とその高弟・米原雲海の作です。100周年の記念イベントの一環で、同様に、仁王門の裏側に安置されたやはり、光雲・雲海作の「三宝荒神像」と「三面大黒天像」のライトアップも先月から行われています。

善光寺の仁王像の配置は、一般的な配置と逆になっています」とありますが、通常は向かって右が口を開いた「阿形(あぎょう)」、左に口を閉じた「吽形(うんぎょう)」という配置が一般的だそうです。

確かに、光雲作でもそうなっている仁王像が残っています。

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下は善光寺さんの仁王像の約3分の1大の試作ですが、確かに逆になっています。

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光雲・雲海は、奈良東大寺さんの金剛力士像を参照したらしく、そちらは善光寺さん同様に「左・阿、右・吽」です。そこで、古い時代はそうだったのかと思いきや、同じ奈良の法隆寺さんでは、通常とされる「右・阿、左・吽」
となっています。厳格なルールはなかったということなのでしょうか。

冬至の日光云々は後付の解釈のような気がしますが、それでも冬至の頃に朝日が阿形に、夕陽が吽形に当たるというのは、確かに神秘的ですね。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

中にも、余の心を顫慄せしめたのは、あの名高いジヨツトの壁画、基督の一代記であつた。小さな物置小屋の様な「マドンナ デ ラレナ」の寺の扉を押して、その薄暗い室へ足を踏み入れた時のセンセエシヨンは、殆と大きな危険に臨んだ時の様なものであつた。

散文「伊太利亜遍歴」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

遡ること3年前の、欧米留学末期、スイス経由でイタリアを約1ヶ月間旅した回想の一節です。

場所はパドヴァ。イタリア北部、ベネツィア郊外の町で、コペルニクスやガリレオ・ガリレイ、ダンテなどとのゆかりがあります。「ジヨツトの壁画」は、スクロヴェーニ礼拝堂に残るフレスコ画。ルネサンス期のジョット・ディ・ボンドーネの手になるものです。「マドンナ デ ラレナ」は、スクロヴェーニ礼拝堂の別名「アレーナ礼拝堂」ということでしょう。キリスト教系の施設に「」の訳を当てるケースは当時、一般的でした。

善光寺さんもそうですが、やはり宗教的な施設で古い芸術作品に触れる際、敬虔な気持ちにさせられるものですね。

昨日、テレビ東京さんの「美の巨人たち 上野のシンボル!高村光雲『西郷隆盛像』が愛され続ける理由」について書きましたが、もう少し西郷隆盛像について。

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上記は当方所蔵の古絵葉書。宛名面の様式からして、除幕(明治31年=1898)からそう経っていない明治39年(1906)までのものと推定されます。見物の人々の「おお」という声が聞こえてきそうですね。

主任として制作に当たった光雲の息子として、光太郎はこの像をどう見ていたのか、光太郎の書いたものからご紹介します。ちなみに除幕の年、光太郎は数え16歳、前年に父・光雲が教鞭を執っていた東京美術学校に入学しました。

まずはその制作時のことを回想しての文章から。

 美術学校の岡倉さん時代は、先生といふものは一年を通じて生徒の面倒をみることが出来れば他に何をしても構はないといふ状態で、きちんと学校には来ても来なくてもいいといふことで、先生は学校で多くお手本となるものを拵へてゐた。又政府の関係団体などから始終記念像等の註文が来る。先生はその製作に従事してゐれば、それが教授の一つの実例になつて、生徒は見てゐていろいろ学ぶ。例へば父が仕事に与つた楠公の銅像の時は微かにしか覚えてゐないけれど、西郷隆盛の銅像の時はよく知つてゐるが、美術学校の中に臨時に小屋を拵へてやつた。
(略)
 西郷さんの像の方は学校の庭の運動場の所に小屋を拵へ、木型を多勢で作つた。私は小学校の往還りに彼処を通るので、始終立寄つて見てゐた。あの像は、南洲を知つてゐるといふ顕官が沢山ゐるので、いろんな人が見に来て皆自分が接した南洲の風貌を主張したらしい。伊藤(博文)さんなどは陸軍大将の服装がいいと言つたが、海軍大臣をしてゐた樺山さんは、鹿児島に帰つて狩をしてゐるところがいい、南洲の真骨頂はさういふ所にあるといふ意見を頑張つて曲げないので結局そこに落ちついた。南洲の腰に差してあるのは餌物を捕る罠である。樺山さんが彼処で大きな声で怒鳴りながら指図してゐたのを覚えている。原型を作る時間は随分かかる。小さいのから二度位に伸ばすのである。サゲフリを下げて木割にし、小さい部分から伸ばしてゆく。そして寄木にして段々に積み上げながら拵へたものだ。山田鬼斎さん、新海(竹太郎)さんなどいろいろな先生が手伝つてゐた。その製作の工程には、それに準じて様々な仕事がある。削る道具も極く大きいから各種の工夫のあるものが要るし、大工に属する仕事が沢山ある。さういふのを生徒が毎日見ながら覚えることは生徒の為にはなつたらうと思ふ。
(談話筆記「回想録」より 昭和20年=1945)

除幕は明治31年(1898)でしたが、木型の制作はもっと早くから行われていました。「小学校」とあるのは下谷高等小学校、光太郎は明治29年(1896)にここを卒業しています。

光太郎の記憶に依れば、兎狩りの姿にすることを主張したのは、やはり薩摩出身の樺山資紀だったそうですが、少年時代の伝聞ですので、何とも言えません。

そうして出来た西郷像、最晩年の光太郎はこう評しています。

静かに考へてみると、結局父光雲は一個の、徳川末期明治初期にかけての典型的な職人であつた。いはゆる「木彫師(きぼりし)」であつた。もつと狭くいへば「仏師屋(ぶしや)」であつた。仕事の種類からいつて、仏師屋の縄張をはるかに突破したやうな、例へば「楠公銅像」とか「西郷隆盛銅像」とかいふものを作つても、その製作の基調はやはり仏師屋的であつた。
(略)
父の作品には大したものはなかつた。すべて職人的、仏師屋的で、又江戸的であつた。 「楠公」は五月人形のやうであり、「南洲」は置物のやうであり、数多い観音、阿弥陀の類にはどれにも柔媚の俗気がただよつてゐた
(「父との関係―アトリエにて2―」より 昭和29年=1954)

しかし、全く評価していなかったかというと、そうでもなかったようです。

幸に日本彫刻の伝統の中に肖像彫刻の一目があつて、天平以来彫刻と人間とのつながりをともかくも保持してゐる。人間とのつながりと言つても、古代に於いてはもとより凡夫の像ではなく、宗祖とか開基とか、いづれも高徳名智識の像であり、従つて半ば仏像に準ずるものである。いづれも礼拝の対象であるから、その相貌風姿も、彫刻様式もほぼ仏像に依る手法で作られてゐる。例へば耳朶の如きも大抵仏像に見るやうに長大に造られ、着衣の衣紋も仏像の衣紋に近く、決して有りのまま肖像的理念によつて出来たものではない。
(略)
此の延長が明治時代に於ける西郷隆盛の銅像である。上野に立つてゐるあの銅像はまつたく仏像彫刻の技法の一転した木彫様式の写実であつて、恐らく斯かる様式の最後をなすものと言へよう。さういふ意味でもあの銅像は甚だ興味があるのである。
(「本邦肖像彫刻技法の推移」より 昭和16年=1941)

なるほど、実作者でもあり卓越した評論家でもあった光太郎の鋭い視点が垣間見えます。仏像との類似という点では、他の機会にも言及しています。

父の作つた銅像の原型はみな木彫であつた。粘土や石膏では作らなかつた。上野の西郷南洲でも、二重橋外の楠公銅像でもみな寄木(よせぎ)法による木彫で原型を作つた。西郷銅像の風に吹かれる単衣物の裾の衣紋(えもん)の彫り方が、木彫でよく彫る「渡海達磨」の裾の衣紋そつくりなのもそのためである。

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左は明治27年(1894)、新納忠之介が東京美術学校の卒業制作として作った「渡海達磨」です。たしかに裾の部分、西郷像と似ていますね。

「近世」から「現代」への橋渡しの時期である「近代」の、初期を牽引したのが光雲、後期を担ったのが光太郎とも言えましょう。その過度期の前世代に対する否定は必要欠くべからざるもの。それがなければ何事も発展しません。それが光雲光太郎父子にはある種の悲劇でもありました。

さて、西郷隆盛というと、光太郎は詩でも西郷に触れています。001


   或る講演会で読んだ言葉

 大人とは何でせう。
 子どもとは何でせう。
 大人とは分別のついた大きな子供。
 子どもとは大人の分子を残らず持つた小さな芽です。
 子どもが大人に変るのではありません。
 子どものまんま
 そのまま機能が出そろつて
 それで大人になるのです。
 大人は小さな乳呑児の中にもう居ます。
 大人はみんな子どもの面立(おもだち)そつくりです。
 大きな西郷隆盛は
 結局小さな吉之助とちがひません。
 子ども子どもといつて
 別物にするのは止しませう。
 大人になつて変るのは
 ただ末梢にすぎません。
 子どもはあらゆる本能の巣です。
 (以下略)

昭和17年(1942)の作。ほぼ前半を引用しました。これで終わっていればそれなりにいい詩なのですが、後半になると、戦時中ということで、大東亜の危急存亡を救う健全な少国民を育てましょう、的な内容となり、「おいおい」という感じです。

大きな西郷隆盛は 結局小さな吉之助とちがひません。」は、NHKさんの「西郷どん」でも、そのような描き方がされていたようですね。

また上野に行く機会があったら、今日書いたようなことを思い返しつつ、西郷像を観てみたいと思っております。


【折々のことば・光太郎】

絹濃しの豆腐と言つた様に非常に軟かく、物質が飽和し、分子と分子とが飽和して居て舌の僅かな労力の為めにすぐ崩れて了ふけれど、それかと言つて歯答へがないと言ふのではない。言ふに言はれぬ此の間の舌ざはりが、芋だの、南瓜だのの味に重大な位置を占めて居ると思ひます。

談話筆記「芋と南瓜の触感」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

光太郎、その最晩年まで、西郷隆盛の故郷・鹿児島特産のサツマイモが大好物でした。食感が似ているということで、カボチャもでした。ちなみに智恵子は芋類は好まなかったそうです。

さすが詩人、食レポも見事です(笑)。

先週土曜日、テレビ東京さんの「美の巨人たち 上野のシンボル!高村光雲『西郷隆盛像』が愛され続ける理由」の放映がありました。

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西郷の妻・糸が、除幕式の際に「うちの旦那さぁはこげな人じゃあいもはん」と言ったというエピソード(結局、当方が知りたいその出典は紹介されませんでしたが)から、像の制作にあたった光太郎の父・光雲らの苦労話が色々と紹介されました。

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光雲については、西洋の写実を取り入れた先進性を紹介してくださいました。

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コメンテーターとして、当方もお世話になっている小平市平櫛田中美術館さんの藤井明学芸員氏がご登場。

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NHKさんの「日曜美術館」等にもご出演されている藤井氏、いつもながらに的確なコメントです。

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今年初公開された、顔のない西郷像原型の写真なども使われました。

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確実に本人だと言い切れる写真の残っていない西郷隆盛、そこで、光雲が参考にしたのがキヨッソーネの描いた肖像画。他に生前の西郷を知る人々の意見を随分聞いたそうです。

結果、何とか本人に似た顔になりましたが、糸は納得いきません。それは、顔の問題でなく、服装の問題。

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この点に関しては、この像は兎狩りの姿だということで。しかし、なぜそんな姿になったのかというと、当初は軍服姿や騎馬像の構想があったものの、やはり恩赦で復権したとはいえ西南戦争で大君に弓を引いた人物、ということで、その構想が却下されたためでした。

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そこで、西郷の従弟、大山巌が……

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当方、このエピソードは存じませんでした。

その結果、着流し姿となったというわけです。

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このあたりについて詳述している当時の文献、読んでみたいのですが……。

テレビ東京さん系列のBSテレ東さんで、12月29日(土)の18:00~18:30にも放映があります。テレビ東京さん系の放送局がない地域の方、こちらでご覧下さい。


そして日曜日には、NHKさんの大河ドラマ「西郷どん」最終話。

1月の第1話が西郷像の除幕式のシーンから始まり、最終話でも像に触れられるかと思っていましたが、残念ながら像は登場せず。しかし、西郷の死後、当時の人々が大接近していた火星を「西郷星」と呼んで拝んでいたというエピソードの中で、やはり糸が「うちの旦那さあはあげな高い所に居て人から見上げられるようなお人ではなかった」と言うシーンがありました。脚本の中園ミホさん、これが第1話の除幕式で糸が「うちの旦那さぁはこげな人じゃあいもはん」と言ったという理由につながるのですね。なるほど、そういう解釈も成り立つな、と思いました。

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ところで当方、新選組や会津藩、彰義隊などを好むもので、この1年、「西郷どん」は観ていませんでした。そこで最終話を観て初めて知ったのですが、「美の巨人たち」でも紹介された、上野の西郷さんが連れている愛犬の「ツン」も登場していたのですね。存じませんでした。

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それから、最後のかつての盟友・大久保利通がその開催に心血を注いだという設定になっていた内国勧業博覧会。「西郷どん」では触れられませんでしたが、この時に、光雲は師匠・高村東雲の名で白衣観音像を出品、見事に一等龍紋賞に輝きました。博覧会というものが全く周知されていなかったこの当時、東雲は出品の依頼に対し、わけがわからないし面倒だと考えたので高弟の光雲に自分の名で出品させたのです。それが一等龍紋賞。しかし、それがどれほどすごい賞かというのが、もらってからもよくわからなかったというのだから笑えます。そのあたり、昭和4年(1929)に刊行された光雲の談話筆記『光雲懐古談』に記述があります。「青空文庫」さんで公開して下さっていますので、お読み下さい。

「西郷どん」最終話、NHK総合さんで、12月22日(土)、13:05~14:05に再放送があります。見逃した方、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

妾がマツスネエを唄へば妾のマツスネエですよ。伊十郎が勧進帳を唄へば伊十郎の勧進帳ぢやありませんか。

散文「ノンシヤランス」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

「ノンシヤランス」は仏語の「 nonchalance 」。「のんき」とか「投げやり」「無関心」といった意味です。女優と脚本家の会話、という設定で書かれたもので、ある意味、短編小説のような趣もあります。

引用部分は女優のセリフ。「妾」は「めかけ」ではなく「わたし」と読みます。「マツスネエ」はジュール・マスネ。「タイスの瞑想曲」などで有名なフランスの作曲家です。「伊十郎」は芳村伊十郎、長唄の名人でした。

要するに、扱う作品の芸術性も大事だが、演者の芸術性にもっと評価を与えるべき、という趣旨です。「何を」より「いかに」ということですね。造形芸術にも当てはまる問題です。

過日もちらっとご紹介しましたが、テレビ東京さんの美術系長寿番組「美の巨人たち」で、光太郎の父・光雲が主任として制作に当たった上野の西郷隆盛像が扱われます。  
BSテレ東  2018年12月29日(土) 18:00~18:30

太く濃い眉、しっかり見つめる目、一文字の口もと…西郷の死から21年後に建てられた高村光雲作『西郷隆盛像』は“これぞ西郷”というイメージを作り上げました。ところが完成当時、西郷の妻は「主人はこんな人じゃない」と批判。それでも光雲は、このような批判が起こるのを覚悟で、あえて西郷をこの姿で残したと言います。一体この銅像の何に問題があったのでしょうか?日本一有名な銅像の堂々たる姿に潜む意外な真相に迫ります。

ナレーター 小林薫/神田沙也加

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ちなみにNHKさんの大河ドラマ「西郷どん」は、翌16日(日)が最終回です。

1月の第1話「「薩摩のやっせんぼ」は、上野の西郷像除幕のシーンからでした。

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そこで西郷三番目の妻・糸が叫びます。

最終話でも西郷像に関して、できれば光雲も登場させてほしいものですし、この辺りのエピソードについて、「美の巨人たち」で紹介されるようです。話の出所等も紹介していただけるとありがたいのですが……。

それぞれ、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

英国の芸術の中で、一番英国人の気質の美点を表して居るのは建築だ。彫刻はペケ。絵画は一般に英国人の執拗な点をよく示して居る。コンスタブルでも、タアナアでも、近くはヰスラーでも少し面白い画家は皆英国離れがして居る。可笑しな現象だ。其の癖此等の人を通じて底に流れて居る一脈の水は、争はれない「アングロサクソン」の色である。

散文「画室日記の中より」より 明治41年(1908) 光太郎26歳

ニューヨークに続いて移り住んだロンドンでの感想です。かなり的確に当時の英国美術を観察しています。一面では保守的な部分も持っていた光太郎、ニューヨークでは感じなかった重厚な歴史の厚みを感じ、また、それを好意的に捉えてもいます。

北海道小樽に昨年オープンした似鳥美術館さん主催の市民講座です。  

似鳥美術館研究会「日本における人体像の表現―高村光雲と光太郎」

期    日 : 平成30年12月8日(土)
会    場 : 旧三井銀行小樽支店 北海道小樽市色内1丁目3-1
時    間 : 10:30 ~ 12:00
料    金 : 一般1,500円、小樽市民1,000円、学生700円
講    師 : 岩崎直人氏 (札幌芸術の森学芸企画担当係長)

かつて作家・小林多喜二が働いていた旧北海道拓殖銀行小樽支店。長い時を経て似鳥美術館として生まれ変わり、現在は日本画や洋画、ガラス工芸作品など約300 点以上を常設展示しております。「似鳥美術館 研究会」は、そんな多岐に渡る似鳥美術館のコレクションを紐解いていく、初の本格美術講座です。

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今年の5月から始ま001り、月1回のペースでさまざまなジャンルの美術講座が開かれています。で、12月の講座が光雲と光太郎。会場は同じ小樽芸術村の中にある「旧三井銀行小樽支店」です。

同館ではオープン当初から光雲とその弟子筋の木彫群を一つの目玉として下さっていますし、今年、光太郎のブロンズ「十和田湖畔裸婦像のための手」も、新たに購入されたそうです。また、最近、光雲の「不動明王像」もラインナップに加わったとのこと。

残念ながら、華々しくオープンしたものの、収蔵品がそれっきりで増えるでもなし、こうした講座等の事業を行うでもなし、やがて忘れ去られて寂しく閉館……という美術館さんも現実に少なくない中、似鳥さんの取り組みには頭が下がります。

今後もこうした活動を継続し、できれば売りに出ている光太郎の木彫なども展示品に加えていただきたいものですが……。


【折々のことば・光太郎】

松木氏に依頼されたこの鯉の木彫製作によつて私は数々の彫刻上の経験を味ひ、さまざまなメチエに関する自覚を得た。

散文「松木喜之七遺稿集「九官鳥」によせて――
松木喜之七氏と私の鯉――」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

松木喜之七は新潟長岡の実業家。002趣味人でもあり、文化芸術そしてスポーツにも関心を寄せ、長岡市スポーツ協会の前身・長岡市体育団の会長を務めたりもしました。

戦前、昭和9年に亡くなった光雲の存命中、端午の節句のためにと光太郎に鯉の木彫を依頼、大枚500円をおいていきました。光太郎は早速制作にとりかかりますが、悪癖が頭をもたげ、何度作っても自分で納得が行きません(ブロンズの「成瀬仁蔵胸像」は14年かかりました)。鱗の処理が出来ない、というのです。鱗をリアルに彫ってしまうと俗な置物のようになるし、さりとて彫らずば鯉にならないし……というわけで、結局、完成しませんでした。光太郎、代わりにと「鯰」を進呈しています。現在、愛知小牧のメナード美術館さんに収蔵されている作品です。

確認されている、光太郎が木彫に取り組んでいるところを撮った唯一のスナップ、土門拳による昭和15年(1940)の写真に、「鯉」が写っています。

その後、松木は召集されて、軍服姿で光太郎の元を訪れ出征の挨拶。しかし、南方戦線で還らぬ人となってしまいました。

このブログで紹介すべき事項が多く、明日になってしまいました。光太郎の父・光雲が制作主任として携わった、上野公園の西郷隆盛像関連です。 

西郷隆盛像建立120周年記念講演会『上野の西郷さん』を語る

期  日 : 平成30年12月2日(日)
時  間 : 14時~16時
会  場 : 東京国立博物館 平成館 大講堂(台東区上野公園13-9)
料  金 : 無料
定  員 : 300名

内  容 : 
基調講演 竹内誠 (江戸東京博物館名誉館長)
専攻は、江戸文化史・近世都市史。現職のほか、徳川林政史研究所所長などを務める。「絵戸社会史の研究」をはじめ著書・編著多数。このほかNHK大河ドラマや金曜時代劇の時代考証を担当し、多方面で活躍。平成27年3月、第67回NHK放送文化賞受賞。

記念演奏 友吉鶴心 (台東区観光大使・薩摩琵琶奏者)
幼い頃より様々な日本文化芸能を学び、世界的な薩摩琵琶奏者・鶴田錦史に師事。祖父の名跡を世襲。宮家御前演奏の栄を賜るほか、台東区主催公演・東京都主催公演・国立劇場主催公演を始め古典はもとより様々なジャンルとセッションを重ね国内外で多彩な活躍中。文部大臣奨励賞・NHK会長賞等受賞。日本文化・芸能の普及の一端としてNHK大河ドラマ『西郷どん』を始めNHKスペシャルドラマ等の文化・芸能等の考証・指導を多数担当。

区公式ホームページの「電子申請」からお申し込み可。 URL:http://www.city.taito.lg.jp/

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申し込み〆切が過ぎてはいますが、まだ定員300名に達していなければ受け付けてもらえるかもしれません。


【折々のことば・光太郎】

国語といふものは決して文法にさへあつてゐればそれでいいといふものではなく、語感、語脈、いひまはし、言葉癖活用のすべてに鋭い感覚がはたらかなくてはほんとにならない。

散文「江南文三訳「日本語の法華経」序」より
 昭和19年(1944) 光太郎62歳

それまでに満足の行く法華経の解説本が無く、解説しているつもりが言葉の使い方がなっておらず、却って難しくしてしまっていた、という文脈での発言です。

江南文三は光太郎より4歳年下。与謝野夫妻の新詩社に依り、後、雑誌『スバル』の編集にも当たりました。

11月24日(土)、日比谷で開催される「第12回明星研究会 シンポジウム与謝野晶子の天皇観~明治・大正・昭和を貫いたもの」に行く前に、皇居東御苑内の三の丸尚蔵館さんに寄りました。現在、第82回展覧会 「明治美術の一断面-研ぎ澄まされた技と美」が開催中です。

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お目当ては、光太郎の父・光雲作の「矮鶏置物」。今回の目玉の一つと位置づけられているようで、入口に大きな写真。これ、欲しいなと思いました(笑)。

展示室に入ってすぐ左手、壁際のそれではなく、独立した展示ケースに収められており、360度全方向から観られるようにしてありました。こちらで光雲作品を出す際にはほぼいつもそうして下さっていて、ありがたいかぎりです。

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明治22年(1889)の作です。像高は雄の方が32㌢、雌の方は21㌢、ほぼ実物大でしょう。共に桜材で、眼のみ他材を象嵌ではめ込み、瞳の部分には黒檀が使用されているらしいとのこと。当初、雄のみを制作し、日本美術協会展に出品、明治天皇の眼に留まってお買い上げとなり、その後に雌が制作されました。

記憶にある限り、これを観るのは4回目ですが、何度観てもいいものです。後に大家となってから、同一図題を繰り返し造るようになったり、工房作的に弟子が大まかに作ったものの仕上げを行って「光雲作」のクレジットを入れたりしたものとは異なり、まだ青年期の余韻の残る数え38歳、攻めの姿勢が色濃く見えます。

特に先に造られた雄の方。鶏冠(とさか)の質感、羽毛一枚一枚の硬さと柔らかさ(その矛盾)までもが見事に表現されています。そして、驚くことに、これが片足で立っているという絶妙なバランス。

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同展は12月24日(月)までですが、残念ながらこの作は前期のみの展示ということで、既に撤収されています。ただ、図録(1,900円也)は後期にも継続して販売されています。

その他、並河靖之の七宝花瓶、柴田是真の蒔絵、旭玉山の牙彫、宮川香山の磁器など、逸品ぞろいでした。そんな中で、興味を引いたのが、後藤貞行の馬の彩色木彫。

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派手さはなく、どちらかというと地味な作品なのですが、その写実性という点に興味を引かれました。元々陸軍騎兵所に勤務していた後藤は馬の生態にも詳しく、自身の作として馬を作る際には写実に徹し、デフォルメは行わなかったそうです。

後藤は彫刻家に転じて光雲の手ほどきを受け、そして東京美術学校に奉職。すると、美術学校に住友財閥から別子銅山開坑200年記念事業として献納する楠木正成像制作の依頼が来ます。光雲が主任となり全体を統括するとともに人物部分を手がけ、馬の部分は主に後藤が担当しました。

当方、この後、日比谷に行く都合がありましたので、楠木正成像にも立ち寄りました。

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この馬は、左の前脚を大きく挙げ、曲げています。ところが、馬の専門家だった後藤曰く、馬の脚がこのような形になる事はありえないそうで、しかし、こういう形にしなければ像としての構図がさまにならないとする光雲と激しくやりあったとのこと。結局は後藤が折れたようです。

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光雲や後藤がこれだけ苦労して作り上げたものですが、ロダン流の最先端の彫刻を西洋で実際に見てきた光太郎、この像は五月人形のようにしか見えないと、高い評価は与えていません。

これはこれでいいものだと思うのですが……芸術というものは難しいものだと実感させられます。

後藤は、やはり東京美術学校として依頼を受けた西郷隆盛像では、西郷の愛犬・ツンの部分を担当したそうです。ちなみに西郷像といえば、テレビ東京さん系の「美の巨人たち」の12月15日(土)放送分で取り上げられます。また近くなりましたら詳細をご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

精神の突面だけがラインに刻まれてゐて、およそ平面をゆるさない。これらの詩の内面ふかく立ち入ることの出来るのは、同じやうな魂のきびしさと信とに死をのりこえたもののみの事である。私はおそろしい詩集を見た。

散文「森英介詩集「火の聖女」序」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

森英介(本名・佐藤重男)は、山形米沢出身の詩人。掛け値無しに光太郎はその特異な詩業に感服したようで、森宛の書簡にも「あの詩稿からうけた感動は比類なく強いものです」としたため、この詩集が刊行される直前に急逝した森を惜しみ、その墓碑銘(米沢市相生町の善立寺)の揮毫も引き受けています。

たまたまネットで見つけまして、早速購入しました。来年のカレンダーです。

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手すき和紙 MINOGAMI きよこハウス」さんという工房の製品で、「前向きことばーやる気が出る名言ー」というタイトルです。

手漉きの美濃紙製で、縦ほぼ47㌢、横おおむね15㌢。手漉きということで、1枚の大きさが微妙に異なっていまして、味わいを感じます。留め具は木製で、そこがまた温かみを醸し出しています。

1ヶ月1枚プラス表紙の13枚。毎月、「やる気が出る名言」が一篇。

いきなり1月が、光太郎の「道程」(大正3年=1914)から、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」です。

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絵の部分、それから文字も原画が切り絵だそうで、これもまたほっこり系ですね。

2月以降は以下の通り。ちなみにそれぞれ英訳がついています。

 2月  夢見ることをやめたときその人の青春は終わるのである  倉田百三
 3月  なんでもやってみなはれ やらなわからしまへんで
鳥井信治郎(サントリー創業者)
 4月  いいことがある ますますよくなる きっとよくなる かならずよくなる
中村天風(実業家)
 5月  無理をするな 素直であれ  種田山頭火
 6月  雨ダレ石ヲウガツ  ことわざ
 7月  あの黒雲の後ろには太陽が輝いている  新渡戸稲造
 8月  夢中で日をすごしておればいつかはわかる時が来る  坂本龍馬
 9月  かれはかれ われはわれ でいこうよ  大久保利通
 10月  捨てる神あれば 拾う神あり  ことわざ
 11月  笑われて 笑われて つよくなる  太宰治
 12月  ふまれても ふまれても 青空を見て微笑むなり 我はおきあがるなり
 星は我に光をあたえ給うなり  武者小路実篤


1部3,456円(税込)、送料290円です。きよこハウスさんサイトに注文方法が記されています。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

同君の郷土に対する熱情はなみなみでなく、深く郷土の地霊を思ひ、郷土の天然、郷土の人事、郷土の祭祀、郷土の暦日、ことごとく同君の最も大切な心の奥のいつきの宮となつてゐる。

散文「真壁仁詩集「青猪の歌」序」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

真壁仁は山形出身の詩人。早くから光太郎と交流がありましたが、さらにこの詩集『青猪』序文を光太郎が書いたことが契機となり、亡き智恵子の紙絵の約3分の1を山形の真壁の元に疎開させることとなりました。ちなみに「青猪」はカモシカの異名です。

光太郎自身、およそ一年後に東京を焼け出され、花巻郊外太田村で農耕自炊生活に入り、北の大地を郷土とするような詩を書き始めるとは、思ってもいなかったことでしょう。

昨年から始まり、三井記念美術館さん、岐阜県現代陶芸美術館さん、山口県立美術館さんと巡回した展覧会です。 

驚異の超絶技巧! 明治工芸から現代アートへ

期    日 : 2018年11月16日(金)~12月24日(月・振休) 
会    場 : 富山県水墨美術館  富山市五福777番地
時    間 : 午前9時30分から午後6時まで
料    金 : 前売り 一般のみ900円
            当日 一般1200(900)円 大学生900(650)円
         ※( )内は20名以上の団体 高校生以下無料
休 館 日  : 月曜日 ただし12月24日は開館

近年、明治工芸に対する注目度が飛躍的に高まってきました。七宝、金工、牙彫、木彫、漆工、刺繍絵画など、おもに輸出用としてつくられた工芸作品が海外から里帰りし、多くの人が瞠目するようになったのです。2014年から翌年にかけて、当館など全国6会場を巡回した「超絶技巧!明治工芸の粋」展は、そんな明治工芸再評価の機運を盛り上げるための画期的な展覧会でした。
大好評を博したその企画の第2弾として、明治工芸と現代アートの超絶技巧が対決する展覧会を開催します。明治工芸を産み出した工人たちのDNAを受け継ぎ、超絶技巧プラスαの機知に富んだ現代作家の作品も多数展示します。

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おそらく、これまでの巡回会場同様、光太郎の父・光雲作の木彫「布袋像」が展示されるものと思われます。

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その他、様々なジャンルの超絶技巧系。七宝、金工、牙彫、漆工、刺繍絵画などですが、明治期のそればかりでなく、現代作家による超絶技巧の復元や、さらに明治の技巧を凌ぐ作も。大竹亮峯氏の自在置物「鹿子海老」、髙橋賢悟うじによるアルミニウムを使った金工「flower funeral(花葬)」は、少し前にテレビ東京さん系の美術番組「美の巨人たち」で取り上げられました。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

民族の大いに動くとき、人は必ず詩を渇望する。澎湃たる民族の動きそのものが已に詩を意味するのである。

散文「田村昌由編「日本青年詩集」序」より 
昭和16年(1941) 光太郎59歳

太平洋戦争開戦直前ということもあり、若干(というかかなり)、きな臭い表現ではありますが……。

昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。現在、市立総合会館において「高田博厚展2018」が開催中です。

光太郎を深く敬愛し、光太郎もその才を認めた高田。光太郎に関わる展示も為されていました。

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昨年、鎌倉にあった高田のアトリエが閉鎖されることとなり、そこにあった品々が、高田と縁の深い東松山市に寄贈され、その寄贈品が展示の中心でした。昨年2月に亡くなった、同市の元教育長・田口弘氏のご遺徳です。

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メインは高田の彫刻群。

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左は光太郎、高田、ともに敬愛し、高田は滞仏中に本人にも会ったロマン・ロラン。右はやはり光太郎、高田共に交流のあった武者小路実篤。

光太郎関連では、前述の田口弘氏所蔵だった「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926) 、光太郎令甥の故・高村規氏撮影の光太郎遺影、光太郎から高田宛の献呈署名入り『ロダン』(昭和2年=1927)。

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『ロダン』は、鎌倉の笛ギャラリーさんで先月から今月初めに開催された「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その七」に並んだもの。ギャラリーオーナーで、光太郎の妹・しずの令孫に当たる山端夫妻がたまたま入手されたそうです。東松山市の担当者に、こんなものが並んでいましたよ、とお伝えしたところ、早速拝借したそうで。

鎌倉の高田アトリエの様子的な展示。

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市内の中学生による、高田の彫刻に関しての学習の成果や、高田から諸家宛の書簡なども並んでいました。

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それから、昭和32年(1957)、高田からパリ郊外のアトリエを引き継いだ、画家の野見山暁治氏の作品。

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その野見山氏と、作家の堀江敏幸氏による対談が、午後1時半から開催されました。

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堀江氏は高田の『フランスから』の講談社文芸文庫版の解説を執筆なさっています。主にその堀江氏がインタビュアー的な役割で、野見山氏から高田の思い出を引き出す感じで進みました。

野見山氏、大正9年(1920)12月のお生まれで、もうすぐ満98歳です。まったくそれを感じさせない程、しっかりした口調で(矍鑠、というわけでもなく)、記憶もはっきりされていましたし、何より「人間」高田博厚の様々な側面を、ユーモラスに語って下さいました。

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スクリーンには古写真などもふんだんに映し出され、興味深く拝見。下の画像は野見山氏も加盟されていた「在仏日本美術家協会」のメンバーですが、中央には、明治末の東京美術学校で光太郎の同級生でもあった藤田嗣治も写っています。

また、野見山氏は長野県上田市にある、戦没画学生の絵を集めた無言館さんの設立にも深く関わられました。その辺りのお話は今回は出なかったのですが。

当方、来年1月に、今年に引き続き、同市の図書館さんで講演をさせていただくことになっております。今年は前述の故・田口弘氏と光太郎の交流についてでしたが、来年は高田と光太郎について、さらに田口氏もからめてお話しするつもりで居ります。それに向けて、貴重なお話を伺うことができ、非常に有意義でした。

昨日の対談の模様、おそらく追って東松山市さんのHPに動画等がアップされることと思われます。

講演会終了後、別室で、名刺交換会。

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この時になって初めて気づきましたが、野見山氏、何とジーンズ姿でした。失礼ながら、もうじき98歳というお年でジーンズを履きこなされている点に驚きました。

お世話になっている小平市平櫛田中彫刻美術館さんの学芸員・藤井明氏もいらしていました。最近、行った先々でお世話になっている方々に思いがけずお会いするケースが多く、不思議な感覚です。

さて、「高田博厚展2018」、来週末18日(日)までの開催です。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】001

竹内勝太郎はおそらく日本で詩を構成したと言ひ得る最も大きな詩人であらう。言葉の機能を素材として、ヴアレリの謂ふ意味に於ける詩の能力量の極限にまでこれを発力せしめるための構成を組織しようとして歩々透脱、つひに晩年の生成的渾沌を含む超数学的詩法を創造するに至つたものと思はれる。

散文「竹内勝太郎遺稿詩集「春の犠牲」後記」より
 
昭和16年(1941) 光太郎59歳

竹内勝太郎は、明治27年(1894)生まれの詩人。滞仏経験があり、彼の地でポール・ヴァレリーに傾倒、その影響を受けて日本に於ける象徴詩を確立したと評されています。

昭和10年(1935)、転落事故で死亡。弟子筋に当たる富士正晴の尽力で、『春の犠牲』が刊行されました。光太郎はその題字2種(表紙、扉)と後記に筆を振るいました。

光太郎にしても、高田博厚にしても、野見山暁治氏にしてもそうですが、かつてはフランスの影響というのが実に多大でした。

東京千代田区、超絶技巧系の企画展示です。 

第82回展覧会 「明治美術の一断面-研ぎ澄まされた技と美」

期   日  : 平成30年11月3日(木)~12月24日(月・振休)
          前期 11/3~25(日) 後期 12/1(土)~12/24

場   所  : 三の丸尚蔵館 東京都千代田区千代田1-1
時   間  : 午前9時から午後3時45分
料   金  : 無料
休 館 日  : 月曜日・金曜日 展示替え期間(11月26日から11月30日)及び12月23日(祝)
            ただし11月23日(金・祝)及び12月24日(月・振休)は開館

 明治時代の美術は,開国後間もない社会的な混沌と激動の時代であったその初期を経て,様々な制度を整えつつあった前半期に大きな変貌を遂げました。日本美術の長い歴史の中にあって,それはわずかな期間に起こった急激な変化であったと言えるでしょう。本展では,明治10年代から20年代に制作された絵画,彫刻,工芸,写真を中心に取り上げることで,この時期の造形表現に見られる特質を浮かび上がらせます。
 この時代の美術の特質として,まず注目されるのは主に工芸や彫刻の分野に顕著に見られる卓越した技巧主義です。江戸時代に成熟した高度な技術を引き継ぐ精緻な表現によって,新しい時代の変化に応じた作品の数々が生み出されました。一方,文明開化の風潮によって積極的に採り入れられた西洋のイメージや技法は,それまでの時代とはまったく異なる表現を生み出しました。それは一言で表わすならば迫真的表現と呼ぶべきもので,技巧主義とも結び付いて平面作品,立体作品に関わらず様々な素材,技法のもとで,文字通り真に迫った表現が追究されました。また,幕末から技術が流入した写真は,人や物をありのままに写すという記録的な性格から,徐々に絵画的な表現を目指すようになりました。
 本展では,近年,“超絶技巧”と注目されている明治時代の造形表現に焦点を当てながら,一つ一つの作品のどこがそれほど驚異的なのかを解き明かし,この時代の美術の本質に迫ります。ご覧になった方々の明治美術に対する興味や理解がさらに深まれば幸いです。

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宮内庁さんですので、「超絶技巧」の語は最前面に押し出されてはいませんが、出品物のラインナップはまぎれもなくそれですね。

光太郎の父・光雲作の「矮鶏置物」(明治22年=1889)が出ています。

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一般人から注文を受けて製作したものですが、半ば強引に日本美術協会展に出品させられ、それが明治天皇の眼に留まり、お買い上げとなった作です。その辺りの経緯、昭和4年(1929)の『光雲懐古談』に詳しく記されています。青空文庫さんで無料公開中。


光雲38歳、東京美術学校に奉職し、サクセスロードを歩み始めた頃の話です。同じ展覧会に出品された濤川惣助の七宝花瓶についても記述がありますが、これも今回の三の丸尚蔵館さんで並ぶ(後期)ようです。

「矮鶏」は前期(11/3~11/25)のみの展示だそうです。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

私は自分では甚だしく源始粗厲な詩を書いてゐながら、また近代感覚の尖角から立ちのぼるメタフオルとイメジの噴霧岫雲の美を美としてよろこび味ふものである。所謂超現実派の蔵する純粋性に比例均衡の精神美を見る事さへ少なくない。
散文「上田静栄詩集「海に投げた花」序」より
 昭和15年(1940) 光太郎58歳

上田静栄は明治31年(1898)、大阪生まれの女流詩人。智恵子の一番の親友で、『青鞜』メンバーだった作家・田村俊子の弟子となり、その縁で光太郎智恵子のアトリエにも出入りしていました。当時としては珍しかったであろうレモネードをご馳走になったりしたそうです。

光太郎関連の書籍を何点も出版して下さっている文治堂書店さんが出している、PR誌、文芸同人誌的な『トンボ』。以前も同名のものが出されていましたが、平成28年(2016)から「第二次」ということで、年2回発行されています。

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  第二次創刊号(2016/1)     第二号(2016/7)    第三号(2017/1)     


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当会顧問、北川太一先生の玉稿も載り、当方も第四号から「連翹忌通信」という連載を持たせていただいております。

その各号の表紙絵、それから挿画を描かれている、成川雄一氏の個展が、昨日、始まりました。 

成川雄一近作展

期   日  : 平成30年11月8日(木)~13日(火)
場   所  : 画廊ジュライ 千葉市中央区中央4-5-1 きぼーる2F
時   間  : 11:00~18:00 (最終日 ~17:00)

料   金  : 無料

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文治堂さんから案内を頂き、同じ千葉県内ですし、拙稿のページにも見事な挿画を描いて下さって、拙稿の拙さをカバーして下さっている方ですので、早速、馳せ参じて参りました。

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ご本人がいらしていました。初めてお会いしましたが、画風の通りの温厚そうな方でした。拙稿のページに見事な挿画を描いて下さって、拙稿の拙さをカバーして下さっている件に、厚く御礼を申し上げておきました。

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『トンボ』も並んでいました。

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許可を得て、展示作品を撮らせていただきました。

千葉県といえば、九十九里浜。昭和9年(1934)、智恵子が療養した地でもあります。

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さらに、案内ハガキにも使われた鳥の画の連作。

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桜を描いた水彩画なども。

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成川氏、昭和12年(1937)のお生まれだそうで、御年81歳になられます。失礼ながら、そうは思えない若々しい画風――特に色遣い――に感心させられました。まだまだお元気でご活躍の程、祈念いたします。

というわけで、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

この象徴の森にわたくしが理解よりもさきに先づ感受したものは、人生の深みに激動するものの微妙な寂かさである。それは叙説を絶つ。

散文「田中信造詩集「古き幻想の詩」序」より
 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「寂かさ」は「しずかさ」。

同じ文章に依れば、田中信造は山形県米沢出身。光太郎智恵子と遠い姻族だそうで、そうした縁から智恵子遺作紙絵を詩集の装幀に使用しています。

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明治24年(1891)の大火で焼失した信濃善光寺さんの仁王門が再建されたのが、100年前の大正7年(1918)。落慶法要は3月に行われたそうです。ただ、光太郎の父・光雲と、その高弟・米原雲海による阿吽の仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像はそれには間に合わず、翌大正8年(1919)に開眼法要が営まれました。

そのあたりの100周年を記念するイベントが開かれています。

SBC信越放送さん発のローカルニュースから。 

善光寺仁王門再建100年を記念・北側の像のライトアップ開始

 長野市の善光寺の仁王門で、再建100年を記念した北側の像のライトアップがはじまりました。
ライトアップされたのは善光寺仁王門の北側に安置されている「三宝荒神像」と「三面大黒天像」です。
 仁王門の像は南を向いた仁王像が有名ですが、仁王像と同じく高村光雲と米原雲海が制作した北側の高さ2メートルほどの木像の存在はあまり知られていませんでした。
 通りかかった女性は「よく通るが、これまでぜんぜん気付かなかった。すごくきれいだと思った」と話していました。
 ライトアップは仁王門の再建100年にあわせて行われ、参拝客などが闇に浮かび上がる木像をカメラで写していました。
 ライトアップは朝6時から夜8時まで毎日行われます。

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地方紙『信濃毎日』さん。 

善光寺 再建100年 北側の2像、照明で光を

 長野市の善光寺仁王門で、仁王像の北側に安置されている三宝荒神(さんぽうこうじん)像、三面大黒天像を照らし出す照明設備が設けられ、5日夜に初点灯された。仁王門が今年、再建100年の節目を迎えたのに合わせた。門の北側にあり、南側の仁王像に比べて目立たない両像をアピールする目的で、6日以降は午前6時~午後8時に照らす。
  同寺事務局によると、両像は木造で彩色され、高さは3メートル弱。三宝荒神は火よけの神として祭られ、三面大黒天は、参拝者が豊かで心安らかにいられるよう願いが込められている。1919(大正8)年、仁王像2体と併せ、彫刻家高村光雲(1852~1934年)と弟子の米原雲海(1869~1925年)が制作した。
  門の北側にあるため日中も日が当たらず、のぞき込まないとよく見えない状態だった。同寺は来秋までの1年間を、仁王門再建100年・仁王像造立100年の「記念イヤー」と位置付けており、照明整備はその取り組みの一環。像の名称や由来も近く掲示する。
  この日は現地で点灯式があり、読経した小林順彦(じゅんげん)・寺務総長(53)は「記念の年に改めて像の価値を見つめ直したい。参拝の際には手を合わせてほしい」と願っていた。

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こちらが北側二像の古絵葉書。

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たしかに、参道正面の仁王像に比べれば、目立たない存在ではありますが、いずれも優品です。その試作(ひな形)も善光寺さんに納められていますが、平成27年(2015)には、東京芸術大学保存修復彫刻研究室さんにおいて補修も行われました。本堂西側の日本忠霊殿1階・善光寺史料館さんで観ることができます。

『信毎』さんの記事によれば「来秋までの1年間を、仁王門再建100年・仁王像造立100年の「記念イヤー」と位置付けており」とのことですので、今後もいろいろありそうですので、注意しておこうと思います。


【折々のことば・光太郎】

わたくしは世に已み難いものにのみ心を動かす。

散文「黄瀛詩集「瑞枝」序」より 昭和9年(1934) 光太郎52歳

「已み難い」は、光太郎の口癖でもあったそうです。

昨日は、光太郎の親友・碌山荻原守衛の個人美術館・碌山美術館さんの開館60周年記念行事にお招きいただき、信州安曇野に行っておりました。

記念行事は、近くの穂高神社さんで開催されましたが、その前に同館に参りまして、展示を拝見。「開館60周年記念 秋季企画展 荻原守衛の人と芸術Ⅲ 彫刻から造形思考へ-荻原守衛とその系譜-」というタイトルでの展示となっています。

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光太郎彫刻作品も7点、並んでいました。

そちらを拝見後、穂高神社さんへ。

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参拝後、境内の一角にある参集殿という施設に。こちらで記念行事が開催されました。

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まずは建築家の藤森照信氏による記念講演「碌山美術館の建築と建築家について」。非常に興味深い内容でした。

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当方、寡聞にして存じませんでしたが、碌山美術館さんの本館(碌山館)は、スペイン・バルセロナのサグラダファミリアで有名なガウディを日本に紹介した、今井兼次という建築家の設計だそうで、様式的にはロマネスク様式建築の範疇に入るとのこと。

ギリシャ建築を範とする重厚で権威的な石造りの古典主義建築に対し、教会などに多用されたバロック様式、さらにそれより古い様式がロマネスク建築。11~12世紀頃にやはり教会などを造る際に流行った様式で、手作り感溢れる素朴なスタイルです。当時の農民が、畑から出てきた石などを持ち寄り、手作業で積んだとのこと。

碌山館は石ではなく焼過煉瓦ですが、中世ヨーロッパと同様に、隣接する穂高中学校の生徒などが煉瓦を積む作業を手伝ったりしたそうで、教会風の外観といい、まさにロマネスクの精神を顕現した建物と言えるそうです。

講演の後は、同じ会場で記念祝賀会。

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同館代表理事にして、元館長の所賛太氏のごあいさつ、現荻原家ご当主の荻原義重氏をはじめ、来賓の方々の祝辞。

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アトラクションとして、松本ご在住の桂聰子さんによるフルート演奏。

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その後、乾杯、そして祝宴。美味しい料理を頂きました。

最後は、万歳三唱。

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今でこそ、個人美術館は当たり前のように全国に存在しますが、同館の開館当時はその嚆矢といえるものだったわけで、しかも、以来60年間、安曇野地域の文化推進に果たしてきた役割も非常に大きかったことと思われます。

同館建設に骨折った、彫刻家の笹村草家人、石井鶴三らは、晩年の光太郎に何かと相談を持ちかけ、光太郎も同館開館を心待ちにしていましたが、その日を待つことなく他界。生前の光太郎が同館を訪れることができたら、さぞや喜んだだろう、などと思いました。

祝賀会参加の引き出物的に、またまた書籍を頂いてしまいました。『荻原守衛日記・論説集』。題名の通り、現存する守衛の日記と、雑誌等に発表した美術評論などの集成です。

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A4版ハードカバー、571頁という厚冊で、ほぼオールカラー。日記の部分は、日記そのものの画像が全頁掲載され、もちろん活字にもなっており、さらに詳細な注釈も。舌を巻くようなものすごい資料です。

ただ、守衛帰国後の日記は相馬黒光によって守衛没後に焼かれてしまって現存しませんし、留学中の日記もすべてが残っているわけではなく、残念ながら日記の部分には光太郎は登場しません。しかし、索引を見た限りでは「論説」の部分に、光太郎、そして光雲の名が頻出しているようで、この後、熟読いたします。


今後とも、同館が末永く愛され続けることを願ってやみません。紅葉も美しい季節、皆様も是非足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

ブラボオ! と叫びたい事がある。最近、長沼重隆訳ホヰツトマンの「草の葉」の出来た事だ。
散文「ホヰツトマンの「草の葉」が出た」より
 昭和4年(1929) 光太郎47歳

ホヰツトマン」は、光太郎が私淑した19世紀アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマン。光太郎はホイットマンの日記を翻訳し、『白樺』などに寄稿した他、『自選日記』(大正10年=1921)として刊行もしました。

草の葉」は1855年に刊行されたホイットマンの代表作で、それまでに富田砕花、有島武郎らによって断片的に翻訳されていましたが、あくまで断片的なものでしかありませんでした。それが、英文学者・長沼重隆により、ほぼ完全な訳が行われたことを、光太郎は「ブラボオ!」と言っているわけです。これを機に長沼と光太郎は交流を持つことになったようです。

ちなみに当方、上記『荻原守衛日記・論説集』の刊行に「ブラボオ!」と叫びたくなりました。病のため任期半ばで退任なさった前碌山美術館長・五十嵐久雄氏のご功績大なりと承り、昨日、車椅子ながら祝賀会にご参加の五十嵐氏に久々にお目に掛かることもでき、望外の喜びでした。

埼玉から、光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚の企画展示情報です。 

高田博厚展2018

期 日 : 2018年10月25日(木曜日)~2018年11月18日(日曜日)
会 場 : 東松山市総合会館1階多目的室 東松山市松葉町1-2-3
時 間 : 9:00~17:00
料 金 : 無料

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高坂駅西口の「高坂彫刻プロムナード」を彩る様々な彫刻の作者である高田博厚の企画展を開催します。
この企画展で展示する作品の多くは、高田博厚のご遺族の方から寄贈いただいた品です。高田博厚のご遺族より寄贈いただいた彫刻作品のほか、デッサンや絵画、フランスから持ち帰った書籍等を展示します。


彫刻作品
〇アラン〇マハトマ・ガンジー〇マルセル・マルチネ 〇ロマン・ロラン 〇ジョルジュルオー〇川端康成 〇中原中也 など

デッサン
〇アラン〇マハトマ・ガンジー〇ロマン・ロラン 〇ジャン・コクトー 〇ジョルジュ・ルオーなど

書籍等
アラン『芸術論』
他に高田博厚と著名人との往復書簡の写しなど

その他
高田博厚と交流のあった高村光太郎や田口弘についての展示や、高田博厚のフランス時代のアトリエを引き継いだ野見山暁治氏の展示なども行います。
 

関連行事 特別講演会 野見山暁治/堀江敏幸

日時 2018年11月11日(日)13:00~15:00  会場 東松山市総合会館4階多目的ホール

「高田博厚展 2018」の開催に伴い、1957年に高田のパリ郊外のアトリエを受け継いだ洋画家・野見山暁治氏と、小説家でフランス文学者の堀江敏幸氏の対談を行います。国内外の著名な思想家や芸術家から厚い信頼を得た彫刻家、高田博厚とはどんな人物だったのか、その人柄や生前のエピソードをぜひお聞き下さい。

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過日、光太郎の縁者の山端氏が経営な001さっている北鎌倉の笛ギャラリーさんで開催中の「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その七」を拝見に伺いましたところ、光太郎から高田に贈られた書き下ろし評伝『ロダン』(昭和2年=1927)が展示されていました。たまたま山端氏が古書店から入手されたとのことでした。

で、「こんなものが展示されていますよ」ということを、東松山市の担当者の方にお教えしたところ、非常に興味を持たれ、北鎌倉まで行かれて借用、展示されるとのことです。

高田は昭和6年(1931)に渡仏しましたが、それ以前に持っていたほとんどの品々は散逸してしまったらしく、これもその一つです。

他にも光太郎関連のものが展示されるようで、当方、関連行事の講演の日に拝見に行って参ります。ちなみに講演の講師のお一人、芥川賞作家でもあられる堀江敏幸氏は、角田光代さんとのご共著『私的読食録』(平成27年=2015)の中で、光太郎詩集にも触れて下さっています。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

元来、人はアクの強い四十代前後の中年には、よい顔は少ないとされているものである。しかし、恋愛に耽る頃の青年時代は皆美しいと言われ、また、年老いてからはどことなく風格が出てくるものだともいわれている。

談話筆記「志賀さんの顔」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

「志賀さん」は、光太郎と同年齢の志賀直哉。その風貌について、同じ談話では「志賀さんは稀に見る中年の男の美をたたえた人であつた」としています。

しかし現今は、年老いてからもアクの抜けない、否、いっそう毒々しくなる妖怪のような顔が、特に永田町界隈に多く見受けられますね(笑)。

光太郎以上に肖像彫刻を多く手がけた高田博厚は、どういう意見だったでしょうか。

信州安曇野の碌山美術館さん。光太郎の親友・碌山荻原守衛の個人美術館として、昭和33年(1958)に開館し、今年、60周年を迎えました。

そこで、記念行事のご案内をいただいております。

まずは記念講演会。 

碌山美術館の建築と建築家について

期 日 : 2018年10月20日(土)
場 所 : 穂高神社参集殿 長野県安曇野市穂高6079
時 間 : 13:30~15:00
料 金 : 無料
講 師 : 藤森照信(建築史家・建築家)

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その後、同じ会場で60周年記念祝賀会に突入します。こちらは参加費5,000円だそうで。

同館の開館には、最晩年の光太郎も多大な関心を寄せ、協力を惜しみませんでした。残念ながら開館前に光太郎の生命の火は燃え尽きてしまいましたが、その功績を讃え、本館である煉瓦造りの碌山館入口のプレートには、光太郎の名も刻まれています。

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また、同館に隣接する穂高東中学校さんに立つ守衛のブロンズ彫刻「坑夫」の題字は光太郎が揮毫し、光太郎が亡くなる前年(昭和30年=1955)に除幕されました。

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その縁の深い同館の60周年記念式典ですので、行かざあなるめいというわけで、参上します。光太郎の代参のつもりで行って参ります。

ちなみに現在開催中の企画展は、こちら。 

開館60周年記念 秋季企画展 荻原守衛の人と芸術Ⅲ 彫刻から造形思考へ-荻原守衛とその系譜-

期 日 : 2018年9月22日(土)~11月4日(日) 会期中無休
場 所 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : AM9:00~PM5:10 (11月はAM9:00~PM4:10)
料 金 : 大人 700(600)円  高校生 300(250)円  小中学生 150(100)円
       ( )内は、20人以上の団体料金

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このたび碌山美術館では開館60周年記念企画、「荻原守衛の人と芸術Ⅲ 彫刻から造形思考へ-荻原守衛とその系譜-」を開催致します。春季、夏季に続く本展は、荻原守衛(碌山)の系譜に連なる彫刻家と造形の展開を紹介するものです。
荻原はパリを立つ際に、師と仰いだロダンから「自然を師とせよ」という言葉を受け取ります。自然への観照、「真実」の追求によって荻原は生命感あふれる作品を示し、若い芸術家たちの心を捉えました。戸張孤雁は、荻原亡きあとの粘土を貰い受け彫刻家となり、当時画家を志していた中原悌二郎も、彫刻家へと歩みを進めます。戸張と中原が活躍する日本美術院彫刻部には荻原の「生命の芸術」が伝わり、石井鶴三や喜多武四郎など俊英の輩出を導きます。荻原の系譜は、「生命の芸術」を変容しながら、明治末から大正、昭和、そして日本美術院最後の同人となる基俊太郎の平成へと繋がります。
本展では明治大正期を第一展示棟に、昭和以降を第二展示棟に配置することで、時代とともに移り変わる造形の展開をご覧いただけます。
明治大正期の彫刻には、モデルから抽出した生命感が彫刻に表れています。これは、自然(真実)の獲得に全霊を尽くし、生命の写実に挑んだ成果とみてとれます。昭和以降の彫刻には、石井鶴三の「立体感動」や基俊太郎の空間への意識のように、造形そのものに思考が表れ、新たな造形の展開が示されます。
荻原守衛の登場によって目覚めた日本の近代彫刻は、自然への観照、造形への意識化をそれぞれの個性のなかに育みながら展開してきました。本展を通じて、荻原守衛の系譜における造形の展開をご覧いただければ幸いです。

夏期企画展が、「美に生きる―萩原守衛の親友たち―」で、光太郎と柳敬助、戸張孤雁に斎藤与里が大きく取り上げられましたが、今回も光太郎に関わると思われます。ただ、メインは次の世代の彫刻家たちのようです。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

その詩人が死んだら、もう二度とその類の詩をきき得ないといふ稀有な詩人が、こんどのどさくさの中の多くの死にまじつて死んだのである。

散文「逸見猶吉の死」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

逸見猶吉は、明治40年(1907)生まれ。草野心平の『歴程』に依り、光太郎とも交流がありました。戦時中は関東軍報道隊員として満州に派遣され、終戦後の昭和21年(1946)、帰国できずに現地で病死しています。

高祖保を紹介する中でも書きましたが、こうした報に接するたび、戦争推進に加担した自らへの慙愧の思いが、光太郎を捉えたことでしょう。

アートオークションでの光太郎の父・高村光雲作品出品情報です。 

第587回毎日オークション 絵画・版画・彫刻

日 程 : 2018/10/20(土) 14:00~  
下見会 : 2018/10/18(木) 10:00~18:00 10/19(金) 10:00~18:00 10/20(土) 10:00~13:00

光雲作の木彫2点が出品されます。

番号順にまず、「大聖像」。像高20㌢ほどの小品です。

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「大聖」とは、徳を積んだ人物の意で、ここでは孔子を指します。ほぼ同一の図題の作品は他にも存在が複数確認されています。左下は信州北野美術館さん、中央は敦井美術館さん、右下は札幌芸術の森美術館さんの所蔵です。

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続いて「聖徳太子像」。

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こちらにも、同一図題の作品が存在します。島根県立美術館さん所蔵のものです。

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また、牛と人物を配した作品は他にもあります。

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こちらは「牛と童子」という題が付けられています。個人蔵の作品です。他に、画像はありませんが、老子や蘇東坡と牛を配した作品もあるとのこと。

今回出品の2点、然るべき所に収まって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

水野君は三田綱町だつたか四国町だつたかに居り、私は駒込林町に居り、互に訪問しては果てしない散歩につれ出して、歩きながらあらゆる問題に触れて語り合つたものであつた。鷗外の翻訳、国男、藤村の詩から、多田親愛のかな文字の書に至るまで、凡そ問題になるものは悉く取り上げでよく激論した。
散文「水野葉舟君のこと」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

親友であった作家・水野葉舟の追悼文の一節です。

冒頭部分では「水野葉舟君は私のたつた一人の生涯かけての友達だつた」と述べています。光太郎壮年期以降は、年少の芸術家たち――草野心平、尾崎喜八、高田博厚ら――が集まってきましたが、同年配で、青年期からの長い間の交友があったとなると、葉舟しかいなかったようです。

情報を得るのが遅れまして、既に始まっています。 

彫刻家の眼―コレクションにみる朝倉流哲学

期 日 : 2018年9月8日(土)~12月24日(月・休) 
場 所 : 台東区立朝倉彫塑館 東京都台東区谷中7-18-10
時 間 : 9:30~16:30
料 金 : 一般 500円(300円) 小中高校生 250円(150円)  (  )内は、20人以上の団体
休館日 : 月・木曜日

彫刻家 朝倉文夫が蒐集した美術品や趣味の道具をご紹介します。
彫刻家の眼で蒐集した多彩なコレクションは、独自の美意識や審美眼を示しています。
アトリエと邸宅という空間で、朝倉作品とコレクションをご堪能ください。

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光太郎ブロンズ彫刻の代表作、「手」001(大正7年=1918)が展示されています。

「手」は、戦後に鋳造されたものが日本中に広まり、少なくとも20点くらいは各地の美術館、文学館等に収められているのでは、と思われます。

しかし、朝倉彫塑館さんで持っている「手」は、大正期の鋳造で、台座の木彫部分も光太郎が彫ったオリジナルです。確認できている限り、他のオリジナルは、竹橋の東京国立近代美術館さんと高村家にあるのみです。ちなみにそれぞれ台座の形が異なり、興味深いところです。

朝倉彫塑館さんでは、けっこう各地の展覧会にこれを貸し出して下さっており、それだけにかえって同館で見られる機会が少ないので、この機会をお見逃し無く、というところですね。

情報に気づくのが遅れたため、関連行事の「スペシャリスト★トーク」が先月末に終わってしまっています。講師は昨年、みすず書房さんから『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』を刊行された土田刃物店店主・土田昇氏でした。明治から昭和にかけて活躍し、名人と謳われた大工道具鍛冶の千代鶴是秀(ちよづる・これひで)が、朝倉のために生け花用の道具一式その他を作ったための人選でしょう。

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千代鶴は光太郎とも縁がありました。そのあたりで土田氏に質問しようと思っていたのですが、残念です。


ともあれ、来週、近くの太平洋美術会さんにお邪魔しようと思っておりますので、併せて立ち寄ろうと思っております。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

ビルマのやうな暑い土地に送つて此の有為な若い詩人を死なしめた乱暴な、無神経な組織体そのものをつくづくなさけないものに思ふ。その粗暴な組織体がともかくも日本から消え失せるやうな事になつた今日、高祖保さんのやうな詩人こそ今居てもらひたいといふ循環心理がぐるぐるおこる。

散文「高祖保さんをしのぶ」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

高祖保は、明治43年(1910)生まれの詩人。光太郎の詩集『をぢさんの詩』の編集を担うなど、光太郎と縁の深い詩人でした。しかし、終戦の年の1月、ミャンマーで戦病死。数え36歳の若さでした。

光太郎自身、「此の有為な若い詩人を死なしめた乱暴な、無神経な組織体そのもの」の一員、とはいかないまでも積極的に加担していたわけで、こうした報が届くたび、慙愧の思いが募っていったのだと思います。

昨日は都内に出ておりました。2回に分けてレポートいたします。

まずは小平市の平櫛田中彫刻美術館さんで開催中の「明治150年記念特別展 彫刻コトハジメ」を拝見。

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全体が9つの章に別れており、それぞれのサブタイトルは以下の通りでした。

第1章 前近代の立体造形 / 第2章 美術教育 / 第3章 銅像 / 第4章 模刻と修復 / 第5章 高村光雲一門の活躍 / 第6章 西洋彫塑の研究 / 第7章 多様なる木彫世界 / 第8章 美術団体と展覧会 / 第9章 ロダンの受容

この章立ての題名を概観するだけでも、日本近代彫刻史の骨組みが分かりますね。

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「第1章 前近代の立体造形」では、「美000術」や「彫刻」といった概念がまだ定着する以前の、江戸時代後期から明治草創期が扱われ、光太郎の父・高村光雲の師、高村東雲の作が3点、並んでいました。

2点で一対の「大黒天・恵比寿像」、それから「西行法師像」。それぞれ非常に精緻な作りで、なるほど光雲の師匠だ、と思わせられる作品です。

「第3章 銅像」では、光雲の「楠木正成銅像頭部(木型)」。皇居前広場に建つ楠木正成像の木型の頭部で、像高約70センチの大きなものです。

他に、やはり楠公銅像に関わった岡崎雪声、光雲の弟子・米原雲海の作も。

そして「第5章 高村光雲一門の活躍」。

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光雲自身の作は、「天鹿馴兎(てんろくくんと)」(明治28年=1895)、「大黒天・恵比寿香合」(明治初期?)。それぞれ初めて観るもので、興味深く拝見しました。「天鹿馴兎」は、鹿の角が欠けていましたが、毛並みの表現など後の光雲作の動物彫刻に通じます。

その他、「一門」ということで、山本瑞雲、林美雲、米原雲海、山崎朝雲、そしてもちろん平櫛田中。「競演」あるいは「饗宴」といった感がありました。

思いがけず「第9章 ロダンの受容」で、光太郎の朋友・碌山荻原守衛の「北条虎吉氏像」。毎年、信州安曇野碌山美術館さんにお邪魔し、拝見しているもので、旧友とばったり再会したような気になりました(笑)。

他にも逸品ぞろいで、まさに眼福。光太郎の作が無かったのが残念でしたが。出品リストを下に掲げます。


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それから、図録2,000円也を購入し001て参りました。巻頭に掲げられた東京藝術大学教授・佐藤道信氏の「「彫刻」の出自と特性」、巻末の小杉放菴記念日光美術館学芸員・迫内祐司氏の「東京彫工会小史――明治期を中心に」の2本の論考、それぞれ非常に示唆に富む内容でした。

また、同館藤井明学芸員による各展示品の解説等、さらに4篇のコラム――「①博覧会」、「②彫刻の台座」、「③裸体表現に
対する規制」、「④彫刻家のくらし」も労作です。

今週末、NHKさんの「日曜美術館」内の「アートシーン」で取り上げられるとのことですので、ご覧下さい。

会期は11月25日(日)まで。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

宮澤さんの真実な心の馬鹿力は、遂に厚い中間の壁を貫通して一般衆生の心の中にあまねく浸潤するに至つたし、生れつきの詩人である宮澤さんの詩といふものの魅力は、遂に誰の口の端にもその詩が自然に出てくるやうな広大な法悦境を作り出した。わたくしは自分の生きてゐる眼の前で、このやうな奇跡に似た当然事の成就せらるのを見ることが出来たのを幸と思ふ。

散文「一言」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

真実な心の馬鹿力」、言い得て妙、ですね。

名古屋秋田と巡回した企画展の京都展です。 
期 日  : 2018年10月2日(火)~11月25日(日)
会 場 : 京都文化博物館 京都市中京区東片町623-1
時 間 : 10:00〜18:00
料 金 : 一般1,400(1,200)円、大高生1,000(800) 円 中小生 500(300)
       
( )内20名以上の団体
休館日  : 月曜日(祝日の場合は開館、翌日休館) ただし、10月22日(月)は開館
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 2018年は、明治改元から150年にあたり、これを記念して明治期の華やかな皇室文化をテーマに特別展を開催します。
 本展は、明治宮廷前史として幕末から政治の舞台となった京都における天皇と皇室の波乱に満ちた時代から始まります。1869(明治2)年、明治天皇が東京へ移居し、天皇を中心とした近代国家の建設が進められますが、欧米と並ぶ文明国家をめざす明治政府は、欧米諸国との融和を図るため鹿鳴館や明治宮殿で外国使臣をもてなすなど欧化政策をとります。一方で江戸時代から続く日本独自の優れた美術・工芸を世界に発信するため、帝室技芸員制度を作り、その保護・育成にも努めました。京都から多くを輩出した帝室技芸員の貴重な作品からも明治宮廷文化の美と技をご覧いただけます。
 

関連イベント

特別講演会 『昔語りは珠匣(しゆかふ)のごとく – 平成に伝えられる明治の皇室文化– 』
日時:2108年10月16日(火)14:00〜15:30
講師:彬子女王殿下  会場:京都文化博物館 別館ホール(定員200名)

連続講演会
①「岩倉具視と幕末の朝廷」講師:松中博(京都市歴史資料館研究員)
   日時:2018年10月13日(土)10:30〜12:00

②「明治期京都の七宝—産業と美術工芸の狭間」講師:畑智子(京都文化博物館)      
   日時:2018年10月27日(土)10:30〜12:00

③「帝室技芸員 – その成立と役割」講師:塩谷純(東京文化財研究所)
   日時:2018年11月17日(土)10:30〜12:00

※①②③とも会場は京都文化博物館3階フィルムシアター(定員160名)

④音楽会「明治の西洋音楽と皇室」
 日時:2018年10月20日(土)開場13:30 開演14:00
 出演者:ソプラノ 東朝子、宇田川泰子 女声合唱団「ミルテンクランツ」
 指揮:成毛敦 ピアノ:藤井いづみ
 会場:京都文化博物館 別館ホール(定員200名)

※①②③④とも要申込 参加費無料(ただし、本展覧会入場券(半券可)が必要)


帝室技芸員の作品ということで、光太郎の父・高村光雲の作「魚籃観音像」が出品されるはずです。また、関連イベント中の講演③「帝室技芸員 – その成立と役割」 では、光雲にも触れられることでしょう。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

まあ仮に花巻といふ町が、幾百年かの後に消えてなくなるやうな事があつたとしても、この町の名は滅びないであらう。宮澤賢治がそこに生れ、そこに居住し、そこで仕事したといふ事によつて此の町の名は滅びない。宮澤賢治は不朽である。不朽であるばかりでなく、彼は絶えず、ひろく、ふかく、つよく人類の中へ進展するであらう。

散文「宮澤賢治十七回忌」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

光太郎の名も、不朽のものとして残って欲しいものです。

鹿児島から企画展情報、これまでに東京大阪を巡回したNHK大河ドラマ特別展「西郷どん」展の鹿児島展です。  

明治維新150周年記念黎明館企画特別展・NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」

期 日  : 2018年9月27日(木)~11月18日(日)
会 場  : 鹿児島県歴史資料センター黎明館 鹿児島県鹿児島市城山町7番2号
時 間  : 午前9時~午後6時
料 金  : 一般1000円(800円) 高校・大学生600円(480円)( )は20名以上の団体
休館日    : 月曜日及び10月25日(木)

明館「西郷どん」展は,平成30年NHK大河ドラマ「西郷どん」の放送に関連して,ドラマの登場人物に関係する文化財や歴史資料を通じ,主人公である西郷隆盛ゆかりの地の歴史や文化を紹介する展覧会です。
治維新の英雄である西郷には,肖像写真が一枚も残っておらず,その生涯はいまだに謎に包まれています。薩摩藩の下級藩士の家に生まれた西郷は,両親を早くに亡くし,家計を支えるために農政の役人補佐として働き始めます。やがて,藩主の島津斉彬に抜擢された西郷は,斉彬の密命をおび,江戸や京を奔走し,薩摩を代表する人物へと成長していきました。
感な青年期を経て,三度の結婚,二度の離島での生活ののち,一介の薩摩藩士に過ぎなかった西郷は,勝海舟,坂本龍馬らの人物たちと出会い,やがて「革命家」へと変貌し,倒幕の大きな原動力となります。類い希なる「勇気」「決断力」「実行力」で,明治維新を成し遂げた西郷ですが,その最期は,明治政府と戦い,命を散らすこととなりました。
展においては,西郷の生涯と,彼を取り巻く維新の群像について,節目となる歴史的な出来事を中心に,激動の時代をリアルに感じることができる資料,西郷本人ゆかりの品々を紹介していきます。

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関連行事

1 記念講演会「西郷隆盛と西南戦争」
 【日時】平成30年10月6日(土曜日)午後1時30分~午後3時
 【会場】黎明館2階講堂(245席)
 【講師】明治大学文学部教授落合弘樹氏

2 記念シンポジウム「西郷隆盛と明治維新」
 【日時】平成30年10月20日(土曜日)午後1時30分~午後4時
 【会場】黎明館2階講堂(245席)
 【パネリスト】
  鹿児島県立図書館長原口泉氏(基調講演「西郷隆盛が明治維新で目指したもの」)
  大阪経済大学特別招聘教授家近良樹氏
  鹿児島大学教育学部准教授佐藤宏之氏
  尚古集成館長松尾千歳氏

3 黎明館職員による展示解説講座第1回「幕末維新期の政局における西郷隆盛と島津久光」
 【日時】平成30年9月30日(日曜日)午後1時30分~午後3時
 【会場】黎明館2階講堂(245席)
 【講師】黎明館学芸専門員市村哲二

4 黎明館職員による展示解説講座第2回「愛加那と西郷隆盛」
 【日時】平成30年11月10日(土曜日)午後1時30分~午後3時
 【会場】黎明館2階講堂(245席)
 【講師】黎明館学芸課主事小野恭一

5 小・中学生向け「西郷どん」展示解説
小学生・中学生を対象に,黎明館の学芸員が「西郷どん」展の展示を楽しく,わかりやすく解説します。150年前にタイムスリップして,きみも「西郷どん」博士になろう。
中学生以下無料。参加者には,もれなくオリジナル学習シートをプレゼントします。
 第1回10月14日(日曜日)午前10時~午前10時50分
 第2回11月4日(日曜日)午前10時~午前10時50分
 集合場所 黎明館1階ロビー中央階段前(午前9時50分までに)
 講 師 黎明館学芸課主事小野恭一 黎明館学芸専門員市村哲二
 対 象 小学生・中学生とその保護者
 参加費 中学生以下無料 保護者の方は,お得な団体観覧料で御覧になれます。
 定 員 20名(要申込み,先着順)定員に満たない場合,当日申込み可
 申込み方法 申込み開始日以降に,黎明館学芸課(099-222-5396)まで電話。
 定員に達しましたら,募集を締め切らせていただきます。
 第1回9月14日(金曜日)から受付開始(受付時間:午前9時~午後6時)
 第2回10月4日(木曜日)から受付開始(受付時間:午前9時~午後6時)


展示の最後、西郷の歿後を扱う「人々の中の西郷」のコーナーで、光太郎の父・光雲が制作主任として関わった西郷隆盛銅像に関する資料が出品されます。どうも東京展で出品された、西郷隆盛銅像の、顔がない「のっぺらぼう」写真は残念ながら展示されないようですが。

関連行事が充実しています。お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

彼はこれまで気づかれずに居た日本語の深さを路傍の石ころからでも見つけ出した。生きた言葉を方々から拾ひ上げた。彼はいつでも満足してゐない。日本語のリトムについて時々不満げに模索してゐる。

散文「芭蕉寸言」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

「彼」とは光太郎ではなく、松尾芭蕉。やはり詩人としての大先輩に自らの姿を二重写しにしているようです。

神奈川から企画展情報です。 

開館30年記念展 中川一政美術館の軌跡

期 日  : 平成30年9月22日(土)~12月23日(日)
場 所  : 真鶴町立中川一政美術館 神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴1178-1

時 間  : 9:00~16:30
料 金  : 一般800(700)円 高校生以下 450(350)円 ( )内20名以上の団体 
休館日  : 毎週水曜日

 平成元(1989)年3月に開館した真鶴町立中川一政美術館は、平成30(2018)年度に開館30年を迎えます。開館以来中川一政画伯とご遺族の方々から寄贈を受けた作品の展示や、画伯と交友のあった芸術家とのコラボレーション企画展を通して中川一政の芸術世界について深く掘り下げてきました。
 この度は開館30年記念展覧会として、「開館30年記念展 中川一政美術館の軌跡」を開催いたします。       
 本展は、開館30年を区切りに、中川一政の画家としての原点に立ち返るため、一政の自作と画家の創作活動と人生に多大な刺激と影響を与えた周辺の作家たちの作品を展観するとともに、開館当時の展示の再現を試み、中川一政の画業と美術館30年の軌跡を辿ることを目的としています。また、この展覧会を通じて、「生命いのちの画家」中川一政の全体像について新たな視座を見出だしていきます。

主な出品作家
 中川一政/石井鶴三/梅原龍三郎/岸田劉生/木村荘八/小杉放菴/高村光太郎/椿貞雄/長與善郎/武者小路実篤/萬鉄五郎/山本鼎/ジョルジュ・ルオー/ポール・セザンヌ/フィンセント・ヴァン・ゴッホ 他(順不同)

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中川一政は、光太郎より10歳000年少の画家です。大正10年(1921)、光太郎が翻訳したエリザベット・ゴッホ(フィンセント・ヴァン・ゴッホの妹)著『回想のゴツホ』出版の際に写真を提供するなど、光太郎と交流がありました。

今回の企画展では、光太郎のブロンズ「老人の首」(大正14年=1925)が展示されます。こちらは駒込林町の光太郎アトリエに造花を売りに来る元旗本の老人をモデルにしたもので、同型のものは、上野の東京国立博物館さんに、やはり光太郎と交流のあった思想家・江渡狄嶺の妻ミキからの寄贈品として、さらに信州安曇野碌山美術館さんには新しい鋳造のものが収蔵されています。

中川一政美術館さんのものは、中川自身の旧蔵品だそうで、当方、その存在を存じませんでした。光太郎生前に光太郎自身から購入したか贈られたかしたものなのか、光太郎歿後に入手したものなのか、そこまでは判然としません。

他に、中川自身をはじめ、やはり光太郎と交流のあった作家の作品がたくさん並びます。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

どんな自明の事のやうに見える事柄をも、もう一度自分の頭でよく考へ直してみる。どんな思考の単位のやうに見える事柄をも、もう一度分子に分けてよく観察してみる。どんな無縁のやうに見える事柄同志をも、もう一度その相関関係の有無をよくたづねてみる。さういふことの習慣が人にパンセすることを可能にさせる。

散文「ヴァレリイに就いて」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

光太郎の考える「賢者」というものの本質が、端的に表されています。

「パンセ」は仏語のpense(考える)の受動態pensée。パスカルの著書の題名としても用いられました。

『日本経済新聞』さんと『朝日新聞』さんに碧海(おうみ)寿広氏著『仏像と日本人』(中公新書)の書評が出ました(『読売新聞』さんにも出たようですが、ネット上で読めません)。

まず、『日経』さん。光太郎の名も出して下さっています。 

仏像と日本人 碧海寿広著 信仰か芸術か 葛藤の近現代  

 本来的には信仰の対象であった仏像を、私たちは明治以降、美術作品として「鑑賞」の対象にもしていった。そしていま、日本人は仏像をどのような眼差(まなざ)しで見ているのか、その過程を丹念に追ったのが本書だ。

明治元年(1868年)の神仏分離令を契機とした廃仏毀釈の嵐は、寺院や仏像に巨大なダメージを与えた。そこからの復興の道筋として、寺院の什宝(じゅうほう)を「文化財」と見なし、国が保護するという形ができる。やがてそれらの文化財は、新しい「美術史」という学問の枠組みの中に取り込まれ、美術館・博物館制度の整備と軌を一にして、保護、研究、そして鑑賞の対象となっていった。
 こうした仏像の「鑑賞」は、戦前まで『古寺巡礼』の和辻哲郎を代表とする、教養を持つ男性たちの、いわばエリート文化の側面が強かった。しかし戦後の映像メディアの発達、奈良・京都への修学旅行の普及、「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンなどを背景とした、古社寺や仏像が目的の「観光」は、性別・年齢・社会階層を問わない大衆文化へと変じていく。その間、和辻をはじめ、亀井勝一郎、高村光太郎、土門拳、入江泰吉、白洲正子ら「鑑賞」する者の中に常に生じていた、信仰か芸術かという葛藤への、それぞれの向き合い方への言及も非常に興味深い。
 そして現在、評者自身も文化財としての仏像の「鑑賞」を助け、促す、メディアでの活動を仕事としている。その立場から見たとき、学んだり考えたり、実際に仏像の前まで足を運んだりするステップを省き、直感的にその見方を示すことで、鑑賞の大衆化に貢献してきた、これまでの仏像写真のあり方が、変化していることを感じる。
 現在、所蔵先や画像権利者に対して支払う使用料が高額で、(紙媒体の制作経費が相対的に低下していることもあるが)メディア側が広報用に無料で提供される画像を頻繁に利用、切り口を特定の展覧会に依拠したものが目立つようになった。寺や美術館・博物館といった「場」から、展覧会という、結ばれてはほどかれる「こと」との関係性が強くなっていく結果、人々が仏像に向ける眼差しが今後どう変化する、あるいはしないのか、密(ひそ)かに注視している。

《評》美術ライター 橋本 麻里



続いて『朝日』さん。こちらは光太郎の名はありませんでしたが。 

(書評)『仏像と日本人』 碧海寿広〈著〉

 ■信仰の対象? 文化財とみる?
 このところ仏像ブームが000続いている。われわれは何を求めて仏像を見に行くのだろう。
 本書は、近現代において日本人が仏像とどのように向き合ってきたか、その変化を追う。面白いのは、見る側の視線が世情とともに揺れ動くことだ。
 明治のはじめ、仏像が大きな危機を迎えたのはよく知られている。仏教排斥運動によって、多くの寺や仏像が破壊されたのである。そのとき、それを救ったのが文化財という思想だった。万国博覧会への出展や、博物館での展示、さらには寺院自身が宝物館を建て、文化的価値の高いモノは国宝や文化財に指定されていった。つまり宗教性を薄めた結果、難を逃れることができたのである。有名なフェノロサと岡倉天心による法隆寺の秘仏開扉も、信仰を棚上げにしたからこそ可能になった出来事だった。
 その後、和辻哲郎の『古寺巡礼』が仏像鑑賞ブームを巻き起こしたが、戦争が始まると、人々はまた仏像に祈るようになる。
 信仰の対象とする立場と美術と見る立場の間で揺れ動いていくわけだが、それらは互いに対立するばかりではない。たとえ信仰心がなくとも、仏像を自分の足で訪ね歩くことによって受ける感動が、仏を感得する喜びとそんなに違うはずがない、と断じた白洲正子の慧眼(けいがん)には唸(うな)らされた。
 現在はどうだろう。サブカル視点で見ている人も少なくなさそうだが、各人が仏像を前に何らかの感情に包まれたなら、そこから個別の美や宗教の経験を創造できる、と本書はあらゆる態度を肯定して清々(すがすが)しい。
 実は私は、全国に散在する巨大仏(高さ何十メートルを超すような大仏)を訪ねて回ったことがある。そのときこれらの仏像をどういう態度で見ればいいかとまどった。美術として鑑賞するには大味だし、真剣に拝むには突飛(とっぴ)すぎた。仏像自体の枠組みさえも今後は変化していくのかもしれない。そんなことを思う。
 評・宮田珠己(エッセイスト)


なかなか注目を集めているようです。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間の代弁者といふ以上、詩人は或る訴へを持つ。人間の心霊に対する訴、人間の感情に対する訴、さうして自然に向つての訴。詩人があらゆる段階を踏んで進み得る究極が、自然との同化、自然への没入、彼我圓融の境であることをしばしば見る。

散文「ホヰツトマンの事」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

その好例として、光太郎はワーズワースや芭蕉を挙げています。しかし、アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンは、その境地をも超えた存在として語られています。曰く「彼は訴へない。ただぶちまける。彼の言葉は雨のやうにただざんざんと降る。」

そこで当方が思い出すのは、当会の祖・草野心平です。来週、心平の企画展が、山梨県立文学館さんで開幕します。また稿を改めてご紹介します。

毎年ご紹介していますが、横浜伊勢佐木町ににあるお三の宮日枝神社さんのお祭りです。たくさんの神輿が出る中で、光太郎の父・高村光雲の手になる彫刻が施された「火伏神輿」も出ます。大正天皇即位記念に製作され、関東大震災と、横浜大空襲の2回の火難をくぐり抜けたということで、「火伏」の名が冠されています。 

日枝神社例大祭(お三の宮 秋まつり)

期   日 : 2018年9月14日(金)~16日(日)
会   場 : イセザキ・モール 神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1・2丁目

【火伏の神輿行列】9月14日(金)午後1時30分ころ
火伏の神輿は、大正天皇即位記念事業の1っとして企画されたものです。伊勢佐木町は横浜一の神輿を鎮守に奉納したいと当時の帝室技芸員高村光雲先生の助力をお願いしました。設計には東京芸術学校の島田教授、製作主任は神輿造りの第一人者といわれた小川氏、彫刻は光雲先生自らが彫刀をふるわれました。
関東大震災や戦災をまぬがれてことから誰言うとなく苦を散ずる、火を逃れた霊験を讃え"火伏の神輿"といわれるようになったといわれています平成17年から白装束の氏子による行列がおこなわれています。

【大神輿御巡行】 9月16日(日)有隣堂前奉安 午後5時から7時ころ
社宝大神輿は千貫神輿とも呼ばれ、その大きさ、巧緻さ、荘重さ等、横浜随一の大神輿です。以前は、3日にわたり飾り立てた黒牛に引かせていましたが、現在は小型トレーラーで牽引しています。
猿田彦神、祓い神職により先導され、氏子・崇敬者と共に丸一日かけて氏子町内を御巡行致します。

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一度拝見に伺いました。神輿というと勇壮な担ぎ回000しのイメージですが、こちらはしずしずと荘厳な感じです。火伏神輿以外にも、やはり光雲作の獅子頭一対の展示もあり、間近に観られるいい機会です。

獅子頭は14日(金)~16日(日)まで休まず展示されます。

その他、和太鼓の演奏や子供神輿、火伏神輿とは別の町内大神輿の渡御などがあり、多くの人でにぎわいます。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩を書く以上は、言葉を大切にして、言葉が今日までどう使はれ、現在どう生きてゐるかに深く思をひそめねばならない。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

光太郎が詩作の際に留意していた事柄の一端がよく表されています。

東京小平から企画展情報です。 

明治150年記念特別展 彫刻コトハジメ

期 日  : 2018年9月14日(金)~11月25日(日)
会 場  : 小平市平櫛田中彫刻美術館 東京都小平市学園西町1-7-5
時 間  : 午前10時~午後4時
料 金  : 一般…800円(650円)、小・中学生…150円(110円)
        ( )は団体20人以上
休館日 : 会期中無休

 平成30(2018)年は、明治元年からちょうど150年にあたります。
 明治時代は江戸時代まで続いた封建社会に代わって、天皇を中心とする新しい国家体制が築かれるとともに、西洋文明を盛んに取り入れながら、産業、交通、教育など様々な分野で急速に近代化が進められました。
 美術の世界も例外ではなく、明治9年開校の工部美術学校における西洋美術教育や世界各国で開催された万国博覧会への参加を通じて、日本の長い伝統を持つ造形世界と並行しつつ、あるいは互いに影響しあいながら、新たな表現が生まれていきました。広く知られるように、「美術」「彫刻」という、私たちにとって馴染みのある言葉が誕生したのもこの時代のことでした。
 今、この明治時代の彫刻が関心を集めています。今日彫刻の表現が多様な拡がりをみせ、絵画、工芸、建築といった他ジャンルとの境界が益々曖昧となっていくなかで、彫刻という言葉と概念が形成された時代まで遡り、彫刻の出自を見極めたいという欲求が人びとの間で高まっているのかもしれません。
 本展においても、明治150年という記念すべき年に、こうした問題意識を軸にして、「博覧会」「銅像」「美術教育」「展示空間」「美術団体」といった様々なキーワードを重ねながら、初公開作品を含むおよそ60点の彫刻作品とともに、この時代における彫刻の特性を浮き彫りにしたいと思います。

主な出品作家 朝倉文夫 石川光明 荻原守衛 高村光雲 平櫛田中 山崎朝雲 山本瑞雲 米原雲海 他

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関連行事

(1) 特別展記念講演会「日本彫刻のはじまり」
 日時:9月22日(土) 午後1時30分~
 会場:放送大学東京多摩学習センター
 講師:佐藤道信(東京藝術大学教授)
 申込み:事前申込み不要

(2) 学芸員による美術講座
 日時:9月29日(土)、 10月6日(土)、19日(金)、11月7日(水)、17日(土)
 各日 1回目午前11時~、2回目午後2時~(※10月6日は1回目のみ)
 会場:小平市平櫛田中彫刻美術館
 料金:無料(ただし、観覧料が必要)

(3) 江戸糸あやつり人形一糸座「人形浄瑠璃公演」
 日時:10月6日(土)、7日(日) 各日とも午後2時~3時
 会場:小平市平櫛田中彫刻美術館 記念館
 料金:無料(ただし、観覧料が必要)
 出演:江戸糸あやつり人形 一糸座

(4) ルネこだいら出前コンサート「魂の津軽三味線」
 日時:10月28日(日)  1回目 午前11時~11時30分、 2回目 午後1時30分~2時
 開場は公演の30分前
 会場:小平市平櫛田中彫刻美術館 記念館(雨天時は展示館)
 料金:無料(ただし、観覧料が必要)
 出演:中山信人(津軽三味線)

(5) 秋のお茶会&菊展示
 日時:11月2日(金)~4日(日) 午前10時~午後3時
 費用:1席300円(別途、観覧料が必要)
 定員:各日とも先着60席
 協力:小平茶道華道友の会、愛菊会、JA東京むさし

(6) 秋のわくわく体験美術館ウィーク
 日時:10月27日(土)~11月4日(日)
 対象:小・中学生
 内容:期間中、小・中学生は無料で観覧できます。 (同伴の保護者の方は観覧料が必要)


光雲の名が出品作家の中にありましたので、問い合わせてみましたところ、3点出るそうです。

まず、明治26年(1893)作の「楠木正成銅像頭部(木型)」。文字通り皇居前広場に建つ楠木正成像の木型の頭部です。したがって、なかなかの大きさで、像高約70センチです。平成14年(2002)に、茨城県近代美術館他を巡回した「高村光雲とその時代展」の際にも出品されています。

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それから、昨年、豊橋市美術博物館さん000他を巡回した「ニッポンの写実 そっくりの魔力」展にも出た「天鹿馴兎(てんろくくんと)」(明治28年=1895・個人蔵)、さらに、大黒さまと恵比寿さまが彫られた香盒(こうごう・香を入れる蓋つきの容器)も出るとのこと。そちら2点は拝見した記憶がありません。

他に、光雲の弟子筋や、光太郎周辺作家も目白押し。当方、来週には参上する予定です。皆様もぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩は個人の心の中に生まれるものではあるが、決して一私人の私的述懐に終るものであつてはならない。あくまで個人的であつて、しかも公けな、普遍性を持つてゐなければならない。はじめから誰にでも通ずる普遍性を心がければ必ず類型に堕して生命のないものになるにきまつてゐるが、さればとて自分一人のわたくし心をいぎたなく書き並べても詩の格は持ち得ない。一人に極まることが万人に通ずる道であるところに詩の妙味は存する。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

一人に極まることが万人に通ずる道である」というのが全ての事象にあてはまるというのが、光太郎の持論のようで、前年に書かれた随筆で、詩集『智恵子抄』にも収められた「智恵子の半生」(昭和)にも、「一人に極まれば万人に通ずるということを信じて、今日のような時勢の下にも敢て此の筆を執ろうとするのである。」の一節があります。

昨日に引き続き、企画展情報です。 

驚異の超絶技巧!明治工芸から現代アートへ

期 日 : 2018年9月7日(金)~2018年10月21日(日) 
会 場 : 山口県立美術館  山口市亀山町3-1
時 間 : 午前9 時~午後5時
料 金 : 一般 1,300(1,100)円 / 学生 1,100(900)円 / シニア 1,100(900)円
         ※( )内は20名以上の団体 高校生以下無料
休 館 : 9月10日(月) 10月15日(月)

近年、明治工芸に対する注目度が飛躍的に高まっています。かつて、輸出品として海を渡った作品が、次々に里帰りを果たし、多くの人々がその魅力を再発見することとなったのです。
本展は、そのきっかけとなった「超絶技巧! 明治工芸の粋」展の続編。3年前に当館でも開催され、その「超絶」ぶりが大いに話題となった展覧会の第2弾です。前回と同様、今回も、七宝、金工、牙彫、木彫、漆工、刺繍絵画など幅広いジャンルから厳選された明治工芸の逸品をご紹介するのにくわえて、明治の「超絶技巧」を受け継ぎつつ新たな世界を築いている15人の現代作家による驚愕の現代アートも多数ご紹介いたします。
明治の工人たちの超人的センスと「わざ」の数々をお楽しみいただくとともに、失われて久しいと思われていたその「超絶技巧」が、時空を越えて現代に脈々と引き継がれている姿を、明治工芸と現代アートのコラボレーションでご堪能ください。

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関連イベント

「日本美術応援団 驚異の超絶技巧を応援する! in山口」
[出演]山下裕二(本展監修者、明治学院大学教授)
[日時]10月13日(土) 14:00〜15:30
[会場]山口県立山口図書館レクチャールーム    [定員]200名(先着順、要申込)
[聴講料]無料※「驚異の超絶技巧! 明治工芸から現代アートへ」展のチケットが必要です。
【申込方法】
超絶技巧展トークイベント参加希望」 とご記入の上、 ①参加希望者全員の氏名、②年齢、③住所、④電話番号を明記し、美術館ウェブサイトの申込フォーム、または往復はがきでお申し込みください。当館より、折り返しご連絡いたします。

「参加アーティストによるトークイベント」
アルミニウムという、明治工芸とは全く異なる素材を用いて新たな表現に挑戦する気鋭のアーティスト、高橋賢悟(1982〜)。超絶技巧のDNAを受け継ぐ現代作家を代表して、自作について、熱く語っていただきます。
[講師]高橋賢悟(金工)   [日時]9月30日(日) 14:00〜15:00
[会場]山口県立美術館講座室 [定員]80名(聴講無料、先着順)

学芸員によるギャラリートーク
[日時]9月15日、10月6日、13日 (いずれも土曜日) 10:00〜(30分程度、申込不要)




昨秋、日本橋の三井記念美術館さんで開催され、今年に入って岐阜県現代陶芸美術館さんを巡回し、三館めの開催となります。ちなみに11月から富山県水墨美術館さん、来春、大阪あべのハルカス美術館さんも巡回予定です。

問い合わせたところ、三井さん同様、光太郎の父・光雲作の「布袋像」が出るそうです。

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その他、七宝、金工、牙彫、漆工、刺繍絵画など、様々なジャンルの「超絶技巧」作品が並びます。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

詩は意味ばかりのものではなく、その全体に漲る一つの名状しがたい気魄のやうなものこそ其の核心を成すのである。一語づつの意味を拾つて唯思念しただけでは詩は多く解しにくい。言葉の森林のやうな厚みの奥から湧き出して来るものをまづ感ぜねばならぬ。一つの詩篇を包むコロナのやうなもの、又それから発する電磁気のやうなもの、又は工作機械の抵抗から起る低いうなりのやうなものの中に詩は息づいてゐる。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

何気に、しかし、秀逸な比喩ですね。

明日、開幕です。 

第42回千葉県移動美術館「近代日本とフランス-旅するまなざし-」

期   日 : 2018年8月28日(火)~9月9日(日) 会期中無休
会   場 : 茂原市立美術館・郷土資料館 千葉県茂原市高師1345-1
時   間 : 午前9時~午後5時
料   金 : 無料

千葉県移動美術館は、千葉県立美術館の収蔵作品をより多くの県民の皆様にご鑑賞いただくため、市町村の文化施設等を会場に開催する展覧会です。第42回を迎える今回は、茂原市立美術館・郷土資料館を会場に開催します。
第42回となる今回のテーマは「近代日本とフランス―旅するまなざし―」です。日本とフランス両国関係を紐解きながら、浅井忠(あさいちゅう)や都鳥英喜(ととりえいき)、板倉鼎(いたくらかなえ)をはじめとするフランスを旅した作家の作品を展示します。併せて茂原市ゆかりの作家である石川響(いしかわきょう)、関主税(せきちから)の作品もあわせて紹介します。

■主な展示作品
浅井忠《欧州市場風俗》1903年  高村光太郎(たかむらこうたろう)《手》1918年  シャルル・エミール・ジャック《森の中》1871年  ラファエル・コラン《田園詩》1903年  ギュスターヴ・クールベ《眠る人》1853年など

■関連事業
千葉県立美術館学芸員によるギャラリートーク
日時:平成30年9月2日(日曜日)1回目:午前11時~、2回目:午後1時30分~
受付:事前申込不要。当日会場にお集まりください。
2回目はお子さんを連れたお客様を優先とした親子ギャラリートークとして実施します。おおむね、5歳から小学生のお子さんを対象とした内容となりますので、予めご了承ください。

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というわけで、光太郎のブロンズ「手」(大正7年=1918)が出ます。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

言葉は作者自身の内から確かな選択と自覚とを以て出て来たものでなければ生きない。どんな立派な言葉でもその言葉に神経が無いやうになれば古物化してしまふ。凡(およ)そ詩語といふ特別な用語があるやうに思ふ者もあるが、それは考方が逆で、表現の緊密が極まれば其が即ち詩語となるのである。
散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

なるほど。

新刊情報です。といっても2ヶ月ほど経ってしまっていますが……。 

ロダンを魅了した幻の大女優マダム・ハナコ

2018年6月9日  大野芳(おおのかおる)著  求龍堂  定価1,800円+税

ロダンのモデルになった唯一の日本人、女優マダム・ハナコとは誰なのか?
巨匠ロダンを魅了しモデルになった唯一の日本人、それは明治時代の末、日本から遠く離れたヨーロッパで熱狂的な人気を博した女優マダム・ハナコだった。
花子探索の道にはまった二人の研究者澤田助太郎と資延勲の成果をもとに、花子の波乱の人生をまとめたノンフィクション。
明治時代の末、恋にやぶれてヨーロッパに旅立ったひとりの女性がいた。女優となった彼女は、一座を率いてヨーロッパ・ロシアを巡業し、一大センセーションを巻き起こした。 明治35年から大正10年に帰国するまでの約20年間、「マダム・ハナコ( 花子)」という芸名で人気を博した。切腹するシーンを演じる花子は、身長136cmの小さな体にもかかわらず、舞台上での存在感は圧倒的で、彫刻家ロダンの目にとまり、彼女をモデルにした彫刻を何点も残している。

目次001
 プロローグ
 第一章 花子探索の旅
 第二章 花子の生い立ち
 第三章 花子ヨーロッパへ
 第四章 ロダンと花子
 第五章 世界大戦争
 終章 料亭「湖月」のマダム
 マダム・ハナコ関係略年譜
 あとがき


平成26年(2014)、『中日新聞』さんと、系列の『東京新聞』さんに連載された「「幻の女優 マダム・ハナコ」を再構成、加筆訂正されての単行本化です。

このブログでは新聞連載時にちらっとご紹介しました。その後、単行本化されるだろうと思っていたのですが、6月に刊行されていたのに気づきませんでした。

気づいたのは『朝日新聞』さんに書評が載ったおかげでした。 

(書評)『ロダンを魅了した幻の大女優 マダム・ハナコ』 大野芳〈著〉

 ■西洋人のハート、誠意で射抜く
 本書は明治35(1902)年から大正10(1921)年までの約20年間、西欧で女優マダム・ハナコとして活躍し、ロダンにも愛(め)でられて多数の彫刻のモデルとなった太田花子の足跡を、本人からの聞き書きと内外の史料や証言、埋もれた記録を掘り起こしつつたどった労作である。
 不幸な生い立ちを背負った花子は芸者屋へ売られ、駆け落ちした男にも捨てられて失意のどん底に。国際博覧会など日本ブームにわくドイツへ渡って女優になり、やがて一座を組んで西欧諸国を巡業、ロシアの涯(は)てからニューヨークまで縦横無尽に駆け巡って大人気を博す。異国の言葉もわからず知識もない花子がよくあの時代に活躍できたものだと驚嘆させられる。
 とはいえ、それだけなら「世界の涯てに日本人がいた!」という程度の感嘆符で終わってしまう。本書の肝はそこではない。
 なぜ花子は西洋人にこれほどモテたのか。西洋人から見れば子供のような体形の花子が舞台の上で切腹の場面などをリアルに演じて拍手喝采を浴びる。東洋人の女優が珍しかったのは確かだろうが、本書に掲載された数々の写真を見ても、正直、花子は美女ではなく、愛くるしいとも言い難い。
 著者は巧みにその謎を解いてみせる。夫が死んだときも、開幕が迫る中、列車の中で号泣しつつ巡業地へ向かう花子。山賊が出るという山道で遅れ、塵穢(ほこり)にまみれたまま舞台の前で観客に詫(わ)びる花子。巡業の列車ではトイレでも必死で異国語を覚えた。どこにいてもロダンを気づかって手紙を書き、ロダンの内妻を思いやる。やっぱり心なのだ。それだけは世界共通!
 森鴎外をはじめ当時の日本人は、芸者あがりの花子を酷評し嘲笑した。誤解の元となる短編まで書いた。だからこそ、著者は本書を世に問うたのではないか。表層で人を評価してはいけない。言語や知識を越えた誠意だけが、人を、世界を動かすのだ……と。
 評・諸田玲子(作家)
     *
 『ロダンを魅了した幻の大女優 マダム・ハナコ』 大野芳〈著〉 求龍堂 1944円
     *
 おおの・かおる 41年生まれ。ノンフィクション作家。『北針』『宮中某重大事件』『戦艦大和転針ス』など。


光太郎が敬愛したロダンのモデルを務め、光太郎が評伝『ロダン』(昭和2年=1927)執筆に際し、岐阜まで会いに行った日本人女優・花子の評伝です。

花子に関してはこちら。


本書でも随所で光太郎について言及して下さっています。

ちょうど上記リンクにもある岐阜県図書館さんの企画展「花子 ロダンのモデルになった明治の女性」が開催中ですので、これはもうそれを見に行け、と言う啓示なのだと思い、盆明けに行って来ることにしました。

皆様も本書お買い求めの上、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

言葉は生きものであるから、自分で使つてゐながらなかなか自分の思ふやうにならず、むしろ言葉に左右されて思想までが或る限定をうけ、その言葉のはたらきの埒外へうまく出られない場合が多い。人間の心情にはもつと深い、こまかい、無限の色合いがあるのに、言葉はそれを言葉そのものの流儀にしか通訳してくれない。

散文「言葉の事」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳


だから「言ふにいはれぬ」という常套句が使われるのだ、と光太郎は指摘しています。その通り、まったく言葉というやつは厄介ですね。

光太郎の父・高村光雲関連で2件。 

桑名石取祭

期 日 : 2018年8月4日(土)、5日(日) 001
会 場 : 三重県桑名市本町春日神社周辺 

石取祭(いしどりまつり)は、桑名南部を流れる町屋川の清らかな石を採って祭地を浄(きよ)めるため春日神社に石を奉納する祭りで、毎年8月第1日曜日とその前日の土曜日に執り行われています。
 町々から曳き出される祭車は、太鼓と鉦で囃しながら町々を練り回ります。 試楽(土曜日)の午前0時には叩き出しが行われ、祭車は各組(地区)に分かれ、組内を明け方まで曳き回し、その日の夕方からも各組内を回り、深夜にはいったん終了します。
 本楽(日曜日)は午前2時より本楽の叩き出しが明け方まで行われ、いよいよ午後からは各祭車が組ごとに列を作り、渡祭(神社参拝)のための順番に曳き揃えを行います。 浴衣に羽織の正装で行き交う姿は豪華絢爛な祭絵巻を醸し出します。一番くじを引いた花車を先頭に午後4時30分より曳き出された祭車は列をなし、午後6時30分からは春日神社への渡祭が順次行われます。
 渡祭後は七里の渡し跡(一の鳥居)を経て、午後10時頃より始まる田町交差点における4台ずつの祭車による曳き別れが行われるのも見逃すことのできない場面です。


光雲作の飾り物をつけた祭車も出るという祭りです。公式サイトはこちら

昨年はこのブログでご紹介するのを失念いたしまして、一昨年に書いた記事がこちら。光雲作の飾りをつけた祭車についても書きました。また、一昨年には、この祭りを含む全国33の山車祭り系が、ユネスコ世界文化遺産に一括指定されています。

お近くの方、ぜひどうぞ。


もう1件、光雲がらみで。 

明治150人の偉人投票キャンペーン

今年は明治改元から150年目!それにちなんでこの度、明治時代にゆかりのある150人の偉人の人気投票を実施します。
『えっ!? あの偉人が西郷隆盛と共演!?』
見事1位になった偉人は、9月8日(土)より開催予定のイベント、リアル脱出ゲーム『帝國ホテル支配人の偉大なる推理』のストーリーに登場します!!あなたの1票がストーリーを変える!?

期間 2018年8月7日(火)17:00まで
投票方法(応募方法)
STEP1明治村公式twitter(@meijimura_pr)をフォローしてください。
STEP2あなたが好きな偉人の[投票ボタン]を押して、ツイートをすれば投票完了!

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候補の150人は既にエントリーされており、その中で誰が1位になるか、だそうです。どちらかというと大正から昭和の光太郎は入っていませんが、光雲は堂々の出馬です(笑)。

ただ、同じ芸術家でも漱石や鷗外、晶子、また、伊藤博文、大久保利通、大隈重信ら新政府の要人達(西郷隆盛は別格扱いで不出馬ですが)、さらには野口英世や福沢諭吉と言った学者系もあなどれません(笑)。

おそらく光雲がトップということはあり得ないでしょうが、せめて上位にランクインして欲しいものです。

しかし、エントリーされた150人を見ると、明治という時代の活気というか、華やかさというか、もちろん暗黒面もあったのですが、ある種の濃密なエネルギー的なものを感じます。大正、昭和、そして来年には終わる平成の150人となると、どういうラインナップになるのかな、などと思いました。


【折々のことば・光太郎】

私はポエジイの為に何の寄与もしてゐない。此の形式でなければどうしても昇華し得ないものが自分の肉体と精神とに鬱積して来るので已むを得ず書いてゐる。さうして出来たものを自分では詩と呼んでゐる。

散文「小感」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

いわば自然発生的な詩、ということでしょうか。

7/29(日)、安曇野市の碌山美術館さんにて、夏期企画展「美に生きる―萩原守衛の親友たち―」を拝見した後、愛車を次なる目的地、諏訪方面に走らせました。目指すはサンリツ服部美術館さん。安曇野ICから乗った長野道を岡谷ICで下り、走ること十数分。諏訪湖の湖畔にありました。

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諏訪で服部と言えば、やはりそうなのかな、と思っていましたら、やはりそうでした。服部セイコー創業者・服部金太郎の孫にして、元セイコーエプソン社長の故・服部一郎氏のコレクションと、株式会社サンリツさんが集めた美術品を展示する私設美術館です。

こちらでは、7月15日(日)から、企画展「明治維新150年記念 幕末から昭和の芸術家たちと近代数寄者のまなざし」が開催中。光太郎の父・高村光雲作の木彫「鍾馗像」が出ているというので、拝見に伺った次第です。

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展示室は二つあり、奥の方の広い展示室がその会場でした。

光雲の「鍾馗像」は目玉の一つと位置づけて下さっているようで、壁際のショーウィンドウ的なケースではなく、会場ほぼ中央のガラスケースに展示され、おかげでぐるっと360°から見ることができました。銘を見れば、光雲個人の作なのか、弟子の手が入っているのか、ほぼわかるのですが、残念ながら、銘は確認できませんでした。おそらくひょいと持ち上げると、底に刻まれているのではないかと思われます。ただ、若干、粗い彫りなのかな、という気もしました。しかし、秀逸だなと思ったのは、ポージング。以前に見た他の「鍾馗像」は、どれも直立不動の仁王立ち(鍾馗様が仁王立ちというのもおかしな話ですが(笑))でしたが、こちらは左足を岩に乗せていて、その分、躍動感が感じられます。像高は50㌢ほどだったでしょうか。

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他に、平櫛田中、富本憲吉、柴田是真ら、光雲・光太郎親子と関わりの深かった作家の作も展示されており、興味深く拝見しました。光太郎の朋友・岸田劉生の絵は、8月21日(火)からの後期での展示だそうで、そちらは見られなかったのが残念でしたが。

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光雲の「鍾馗像」は、前後期通じての展示だそうです。

もう一つの展示室では、同時開催として「憧憬の西洋」。ブラマンクやキスリングなどの西欧画家と、東京美術学校西洋画科での光太郎の同級生・藤田嗣治などの日本人画家が描いた西洋の風景画の展示でした。藤田の絵(大正6年=1917)は、光太郎も見たであろうモンマルトルの風景。「光太郎に見せたかったな」と思いました。

長野県は、美術館の数では日本一の県だそうです。今回も、道すがら、多くの美術館さんがありました。ただし、維持していくのは大変なようで、やはり光太郎と交流のあった村山槐多の作品などを展示していた上田市の信濃デッサン館さんは事実上閉館、それから、光太郎とは関わりませんが、小布施の池田満寿夫美術館さんなども閉館してしまいました。

いろいろ難しい問題もあるとは思いますが、どこの美術館さんも盛況であるような、そういう世の中であってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

衣を剥げば日常語即詩語である。詩は言葉の裸身である。

散文「詩について」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

いわゆる美辞麗句を避け、口語自由詩の確立に功績のあった光太郎ならではの言ですね。

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