タグ:その他芸術

一週間前に行ってきた練馬区立美術館の<N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」で講演された日本大学芸術学部美術学科教授の髙橋幸次氏から、同大学の「芸術学部紀要」の抜き刷りということで、玉稿を頂きました。有り難い限りです。まだ昨夕届いたばかりで、熟読していませんが、読むのが楽しみです。

イメージ 1

第45号抜刷 ロダン研究Ⅰ-「ロダンの言葉」成立の前提- 平成19年3月
第47号抜刷 ロダン研究Ⅱ-ジュディット・クラデルとフレディック・ロートン- 平成20年3月
第48号抜刷 ロダン研究Ⅲ-バートレットのロダン:高村光太郎のルドルフ・ダークス- 平成20年9月
第50号抜刷 ロダン研究Ⅳ-モークレールのロダン- 平成21年9月
第51号抜刷 ロダン研究Ⅴ-ポール・グセル(上)- 平成22年3月
第52号抜刷 ロダン研究Ⅴ-ポール・グセル(下)- 平成22年9月
第53号抜刷 ロダン研究Ⅵ-コキヨのロダン- 平成23年3月
第54号抜刷 ロダン研究Ⅶ-マルセル・ティレルのロダン- 平成24年3月
 
光太郎の著書、というか訳書ですが、『ロダンの言葉』正・続2冊があり、これは光太郎の代表的な業績を挙げる場合にはよく掲げられるものです。
 
正は大正5年11月に阿蘭陀書房から、続は同9年5月に叢文閣から上梓されました。光太郎が敬愛していたロダンが、折にふれて語った言葉などをまとめたものです。単行書としてまとめられる前は、『帝国文学』『アルス』『白樺』などに断続的に発表されています。
 
光太郎の弟で、鋳金家として人間国宝にもなった高村豊周の「光太郎回想」によれば、「上野の美術学校では、主だった学生はみなあの本を持っていて、クリスチャンの学生がバイブルを読むように、学生達に大きな強い感化を与えている。実際、バイブルを持つように若い学生は「ロダンの言葉」を抱えて歩いていた。その感化も表面的、技巧的にではなしに、もっと深いところで、彫刻のみならず、絵でも建築でも、あらゆる芸術に通ずるものの見方、芸術家の根本で人々の心を動かした。」「あの本は芸術学生を益しただけでなく、深く人生そのものを考え、生きようとする多くの人々を益していると思われる。だからあの本の影響の範囲は思いがけないほど広く、まるで分野の違う人が、若い頃にあの本を読んだ感動を語っている」とのことです。身内による身びいきという部分を差し引いても、ほぼ正確に当時の状況を物語っていると思われます。

イメージ 2

イメージ 3
 
画像は当方手持ちの正続2冊をスキャンしたものですが、劣化防止の為パラフィン紙で覆ってあります。そのため白っぽい不鮮明な画像になっています。すみません。
 
原典としては、ロダンの母国フランスで『ロダンの言葉』という書籍があったわけではなく、色々な人が筆録したロダンの談話などの集成です。
 
髙橋氏の「ロダン研究」は、その「色々な人」-主にロダンの秘書-について、原典にあたりつつ、それぞれのロダンとの関わりや、光太郎がどのように取り上げているかなどが論じられているようです。
 
当方、文学畑の出身ですので、こういう美術史に関わる研究紀要の類を目にする機会はそう多くありません。しかし、この分野での「事実」の追究の仕方には常々感心させられています。自戒を込めてですが、文学畑の論考はどうも「事実」の追究に甘さがあり、恣意的な言葉尻の解釈に終始してしまう場合が多いと感じています。そういう意味で、髙橋氏の「ロダン研究」、熟読するのが楽しみです。
 
こうした紀要の類は、発行元に問い合わせるか、あるいは国会図書館等でも蔵書がある場合があり、国会図書館では「論文検索」で調べる事ができますし、うまくいくとネット上でPDFファイルで閲覧が可能です。

一昨日、練馬区立美術館さんに講演を聴きに行く途中、江東区の東京都現代美術館さんに寄り道しました。こちらには美術図書室という施設があり、古い美術関係の蔵書が充実しているからです。
 
目当ては『芸術新聞』という古い新聞。その名の通り、美術や音楽、文学や演劇など、芸術全般についての記事が載った新聞です。昭和18年(1943)初め頃の号に、光太郎の「われらの道」という詩が載っているかも知れないと考え、調査してみました。
 
「われらの道」は、光太郎の詩集『記録』に収められたので、内容は分かっています。しかし、初出-雑誌等に初めて発表された状況-が不詳です。光太郎の手許に残された控えの原稿には「芸術新聞へ」のメモ書きが残されています。
 
さて、収蔵庫から出していただいたのは、マイクロフィルム。国会図書館では所蔵品のデジタル化が進み、館内のパソコン画面で閲覧するシステムになっていますが、他館ではまだそうしたシステムが不十分で、古い書籍や新聞雑誌等、写真撮影したマイクロフィルム(リールになっているもの)やマイクロフィッシュ(シートになっているもの)を専用の機械で閲覧するという方式が多く採られています。
 
事前に書誌情報として「欠号多」という文字を眼にしていましたので覚悟はしていましたが、やはり「われらの道」、発見できませんでした。ちょうど掲載された号が脱けているのだと思います。普通に考えれば、数十年前の特殊な分野の新聞がきっちり揃っていないというのも仕方のない話でしょう。まあ、あきらめずに探索は続けます。
 
そのままだと癪にさわりますし、まだ時間もあったので、開架コーナーから総目録的なものを取り出し、知られていない光太郎作品の掲載がないかどうか調べました。6/7のブログにも書きましたが、特定の雑誌の執筆者、記事の題名等の索引がしっかりしているものは重宝します。
 
さて、『東京美術学校校友会雑誌』『工芸』などの雑誌の総目録を調べましたが、目新しいものは見つかりません。ところが、『美術新報』という雑誌の総目録を見ると、持参した当方作成のリストに載っていない光太郎作品が記されています。題名は「美しい生命」。しかし、大喜びはできません。こういう場合、落とし穴があることがわかっているからです。
 
ともあれカウンターに行き、該当する明治43年(1910)の号を含む合冊(復刻版でした)を出してもらい、当該ページを見てみましたら、題名のあとに「高村光太郎氏(早稲田文学)」とあります。「やはりな。」と思いました。この時期の特に美術系雑誌は、他の雑誌に載った記事の転載が非常に多いのです。そこで、持参したリストで『早稲田文学』を調べてみました。しかし、「美しい生命」という題名の作品は載っていません。しかし、この時点でも大喜びはできません。まだまだ落とし穴があることがわかっているからです。

 
イメージ 1
 
当該ページをコピーし、そろそろ時間なので東京都現代美術館を後に、練馬区立美術館へ。講演を聴き、帰宅。『高村光太郎全集』を引っ張り出し、『早稲田文学』所収の作品を調べます。すると明治43年(1910)7月の第56号に載った「ENTRE DEUX VINS」という作品の一部が、コピーしてきた「美しい生命」と完全に一致することが判明しました。「やはりそうか。」と思いました。予想はしていましたが、少し悔しいものです。
 
特に古い美術系雑誌では、こういうふうに他の雑誌や新聞、書籍などから記事を転載し、さらに題名を変えてしまうというケースも結構多いのです。試みに手持ちのリストでページを繰ってみますと、備考欄に「転載」の文字がたくさん入っています。例えば明治45年(1912)の『読売新聞』に載った「未来派の絶叫」という文章は大正7年(1919)の『現代之美術』という雑誌に転載、同じ『読売新聞』に大正14年(1925)1月掲載の「自刻木版の魅力」という文章は同じ年5月の『詩と版画』という雑誌に転載、大正2年(1913)7月の『時事新報』に載った「真は美に等し」という文章は翌月の『研精美術』という雑誌に転載、というように枚挙にいとまがありません。そして、転載の際に題名が変えられることも多く、混乱することがあるのです。初めてこのケースの落とし穴にはまった時は、腹立たしいやら喜んでいた自分が情けないやらでした。以後、こういう落とし穴があるということを肝に銘じ、注意しています。
 
光太郎以外の書き手についてはよく知りませんが、この頃の美術系雑誌ではこういうこと(転載、題名の改変)が半ば当たり前のように慣習化していたのでしょうか。詳しい方、ご教示いただけるとありがたい限りです。
 
ただ、逆のケースもあるので注意が必要です。明日はその逆のケースを紹介します。

昨日拝聴して参りました、日本大学芸術学部髙橋幸次教授のご講演からのインスパイアで、光太郎彫刻の空間認識といったことについて述べてみたいと思います。
 
まず有名な十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)について。これは昭和28年(1953)の作。光太郎はこの像を造るため、7年間の山居を切り上げて上京しました。智恵子の顔をもつ、といわれています。
 
この像の除幕式で述べた「裸婦像完成記念会挨拶」(『全集』第11巻)には、こんな一節があります。
 
造形的には群像になりますから、像ばかりでなくて、像と像の間に出来るいろいろな空間が面白い。それで、それを考慮して、いろいろなシンメトリカルな穴が出来るわけです。それが面白いわけです。
 
また、『東奥日報』に載った「高村氏制作の苦心語る"見て貰えば判ります"像の意味は言わぬが花」という談話(「遺珠」③)では、以下の通りです。
 
あの像は全体がこういう(手で形を示して)ピラミツド型になつていて上へ行つて交叉している気持なんです。それを中途で切つた辺が頭になつていて、二人の中間のあたりが、ちょうど将棋の駒みたいなかつこうを形づくつている。彫刻は空間を見るんですネ。像が一人のときは真中が主になるが、二人以上の群像になると、二人の間にできるスキ間に面白味があるんですよ。

図にしてにると、下の画像のようになるでしょうか。写真は『高村光太郎彫刻全作品』(穴沢一夫他編 六耀社 昭和54年=1979)からスキャンさせていただきました。
イメージ 1
 
この隙間というか、余白に注目するという考え方は、書道でもよく行われます。光太郎が特に晩年、書の制作に意欲を燃やしたのも、あながち無縁ではないでしょう。

続いて平成14年(2002)、実に70余年ぶりに見つかった栄螺(さざえ)の木彫です。

イメージ 2

これについても、少し長いのですが、光太郎自身の言葉を引用してみましょう。出典は昭和20年(1945)の「回想録」(『全集』第10巻)です。
 
 実はその栄螺を彫る時に、五つ位彫り損つて、何遍やつても栄螺にならない。実物のモデルを前に置いてやつてゐるが、実に面倒臭くて、形は出来るのであるが、どうしても較べると栄螺らしくない。弱いのである。どうしてもその理由が分らないので、拵へ拵へする最後の時に、色々考へて本物を見てゐると、貝の中に軸があるのである。一本は前の方、一本は背中の方にあつて、それが軸になつてゐて、持つて廻すと滑らかにぐるぐる廻る。貝が育つ時に、その軸が中心になつて、針が一つ宛殖えて行くといふことが解つた。だからその軸を見つけなければ貝にならない。成程と思つて、其処をさういふ風に考へながら拵へたら、丸でこれまでのと違つて確りして動きのない拠り所が出来た。それで私は、初めてかういふものも人間の身体と同じで動勢(ムウヴマン)を持つといふことが解つた。それ迄は引写しばかりで、ムウヴマンの謂れが解らなかつたが、初めて自然の動きを見てのみこまなければならないといふことを悟つた。
 それ以来、私は何を見てもその軸を見ない中には仕事に着手しない。ところがその軸を見つけ出すことは容易ではない。然し軸は魚にも木の葉にも何にでも存在する。それを間違はずに見つけ出すのは、なかなか大変ではあるが、結局自然の成立ちを考へ、その理法の推測のもとに物を見て、それに合へばいいし、さうでない時には又見直したりしてやるのである。木の葉一枚でもそれを見ないでやつたものは、本当の謂れが分らないから彫つたものが弱い。展覧会などにも、さういふ弱い作品が沢山あるが、形は本物と一寸も違はないけれども、その形の拠り所分つてゐないから肝心のところで逃げてゐて人形のやうになつて了ふ。人形と彫刻とは丸で格段の違ひである。その違ふ製作的根拠をはつきりと気がついたのはその栄螺の彫刻の時だ。
 
こういう光太郎の空間認識を意識して、光太郎の彫刻を見ると、また違った見え方になります。画像ソフトでいたずらしてみました。参考にしてみて下さい。写真は平成2年(1990)に茨城県近代美術館他で行われた企画展「高村光太郎・智恵子-その造形世界」の図録からスキャンさせていただきました。
 
イメージ 3
イメージ 4
イメージ 5
 
ただし、「白文鳥」の木彫は2体をどういう向きに並べるべきなのかはよくわかりません。
 
結局、光雲たち草創期の近代彫刻家には、こういう意識が欠如、あるいはあっても不十分だったということではないのでしょうか。専門の方の御意見を伺いたいものです。
 
今日の内容が、みなさんがどこかで光太郎彫刻を目にする時の一助となれば幸いです。

今日は練馬区立美術館さんの<N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」に行って参りました。本日まで開催の日本大学芸術学部美術学科さん(N)と練馬区立美術館さん(N)の共同企画展「N+N展2012」の関連行事です。
 
「N+N展2012」は「触れる」というテーマのもと、日本大学芸術学部美術学科教職員の皆様による作品を展示していました。最近の美術界の傾向として、視覚だけに頼るのではなく、もっと五感(五官)を駆使すべしという流れがあるそうで、こちらのテーマも「触れる」ですから、自由に触れられる作品が多く展示されていました。
 
そして講演は「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」。講師は同大教授の髙橋幸次氏。パワーポイント等使いながら、非常にわかりやすいお話で、1時間40分ほど、あっという間でした。
 
イメージ 1

イメージ 2
 
光太郎は昭和3年(1928)の時点で、既に五感(五官)すべてが「触覚」に帰結する、という趣旨の発言をしていることをご紹介されました。そう考えると、光太郎は時代を突き抜けていたといえるかも知れませんね。
 
それから有名な「手」の彫刻を実例に挙げての光太郎の空間認識。当方、あの彫刻の画像を名刺に使ったりしていながら、今までそういう見方をしたことがなかったのですが、てのひらの部分に空間が設定されており、それを包み込みながら回転運動、そして人差し指が指す天を目指してあがってゆくイメージがあるとのこと。確かにそう見えます。
 
下の画像は平成19年(2007)、新潟市の会津八一記念館で行われた企画展の図録の表紙です。「手」が使われているので載せさせていただきました。おわかりになるでしょうか。

 
イメージ 3

 
あのロダンの「考える人」も、実はものすごいねじり、ひねりが入ったポーズです。自分でやってみるとわかりますが、右の肘を左の膝に置いています(このあたり、ミケランジェロの影響を指摘する説もあります)。こういうイメージ、いわば「視覚で触る」というようなイメージですね。それを光太郎も意識している、と、こういうわけです。
 
実にいい勉強になりました。
 
確かに光太郎は他にも様々な彫刻で、空間認識を大事にしているな、ということに思い当たりました。明日はその辺を書いてみようと思います。

昨日と今日は、以前のこのブログで紹介した明治古典会七夕古書入札会の一般公開でしたが、昨日も今日も他に所用があり、結局行きませんでした。
 
さて、先日、石川光明やら大熊氏廣やら、明治の日本近代彫刻草創期の彫刻家の話題を書きましたので、手持ちの資料の中からそのあたりに関するものを引っ張り出しました。暇をみて読み返したいと思っています。 

明治の彫塑「像ヲ造ル術」以後」

平成3年(1991)3月30日 中村傳三郎著 文彩社 定価4000円+税

イメージ 2
 
 
書き下ろしではないのですが、結果的に明治期の彫刻の編年体的通観がなされています。それにしても、帯がいいですね。内容もさることながら、この帯に惹かれて購入したことを覚えています。 

平成6年(1994)3月1日 田中修二著 吉川弘文館 定価6,214円+税

イメージ 1
 
『明治の彫塑』がどちらかというと編年体で書かれているのに対し、こちらはどちらかというと紀伝体です。高村光雲、後藤貞行、大熊氏廣の三人について、一章ずつ費やして論じています。後藤貞行はやはり東京美術学校に奉職した彫刻家で、動物彫刻を得意とし、「楠木正成像」の馬、「西郷隆盛像」の犬を手がけています。他に、石川光明、米原雲海ら同時代の彫刻家、朝倉文夫、荻原守衛ら次の世代の彫刻家にも触れています。
 
明日はやはり以前のこのブログで紹介した練馬区立美術館さんの<N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」に行って参ります。午後3時からなので、午前中は調査。日曜は国会図書館さん、駒場の日本近代文学館さんが休みですので、木場の東京都現代美術館さんに行きます。美術館でも、図書館のように図書の閲覧サービス等を行っているところがあり、東京都現代美術館さんもその一つです。

昨日、当方の暮らす市内の神社で月に一度の骨董市があり、行ってきました。
 
イメージ 1

イメージ 2
 
骨董市ですから、焼き物やら刀剣やらが主なのですが、とりあえず当方、だいたい毎月行っています。一部の業者が古書籍や「刷り物」といわれる一枚物の印刷資料等を持ってきていることがありますので。
 
結局昨日は何も買わず帰りましたが、時々買うのが、光太郎、智恵子、光雲ゆかりの地の古い絵葉書、特に戦前の発行と思われるモノクロのものです。先月は会津磐梯山のものを買いました。こうした骨董市だけでなく、古書店の店頭やネット販売や目録販売などでも気がつけば買っています。ネット販売や目録販売では結構高めの値段ですが(一枚数千円するものもあります)、骨董市などでは一枚100円くらいが相場ですし、宝探し的雰囲気が味わえて面白いものです。
 
光太郎たちがそこを訪れた時期にできるだけ近い時期の画像、ということで、ちょっとしたものを書く時に挿画として使えます。また、今は失われてしまった建造物などの画像は、結構貴重だと思います。
 
こうした古い絵葉書を使って、当方が刊行しています冊子『光太郎資料』にて光太郎たちの故地を紹介しています。『光太郎資料』については、後ほどのこのブログで紹介いたします。
 
昨年、群馬県立土屋文明記念文学館で開催された「第72回企画展 『智惠子抄』という詩集」の際には、当方手持ちの書籍やらポスターやらいろいろなものを出品物としてお貸ししたのですが、大正元年に光太郎と智恵子が「偶然」出会った銚子の犬吠埼や、大正2年に二人が一夏を過ごした上高地、昭和9年に智恵子が療養のために滞在した九十九里の絵葉書も当方のお貸ししたものが出品されました。ただし、あくまで光太郎たちがそこを訪れた時期にできるだけ近い時期の画像、ということで彼らの目に映った風景と若干異なるかも知れません。それでも、現在の姿より往時に近いものであることは確かでしょう。
 
さて、例によってお願いです。風景だけでなく、光太郎や光雲の彫刻(主に銅像)の絵葉書も集めているのですが、特に以下のものを探しています。もしお持ちの方で、譲っていただけるとか、画像を提供していただけるという方がいらっしゃいましたら、ご連絡下さい。
 
光太郎彫刻 
 宮城県 青沼彦治像(光雲代作) 志田郡荒雄村公園 大正14年(1925)
  除幕記念の袋入り5枚組のものを入手しましたが像が大写しになっているものがありません。
 千葉県 赤星朝暉胸像 千葉県立松戸高等園芸学校 昭和10年(1935)
 岐阜県 浅見与一右衛門像(光雲代作) 恵那郡岩村町 大正7年(1918) 
 
光雲彫刻
 秋田県 坂本東嶽像 仙北郡千屋村浪花字一丈木 大正12年(1923)
 栃木県 松方正義像 那須郡西那須野村 明治41年(1908)
 福井県 大和田荘七像 敦賀町永厳寺境内 明治44年(1911)
   〃  松島清八像 福井市足羽公園内 明治39年(1906)
 愛媛県 広瀬宰平像 新居郡中萩村字中村 明治31年(1898)
 
参考:屋外彫刻調査保存研究会ページhttp://www4.famille.ne.jp/~okazaki/zenkokuchousa1.htm

昨日紹介した小説、下八十五著「盗作か? 森鴎外の『花子』」を読んで、改めて花子のことが気になり、手持ちの資料の中から花子関連をもう一度読んでみました。
 
つくづく不思議な女性です。きら星の如くそれぞれ違った光彩を放つ光太郎人脈の中でも、ひときわ異彩を放っている一人だと思います。
 
昨日書いた通り、花子は明治末から大正にかけ、欧州各地で日本人一座を率いて公演を続け、各地で絶賛されました。しかし、現在の日本で彼女の名を知っている人がどれだけいるか、このギャップ。それは花子が欧州で活躍していた頃からそうでした。
 
一つには、芝居の内容の問題があると思います。仮に花子一座が日本で公演したら、嘲笑と怒号に包まれたことでしょう。女性が切腹をしたり、剣豪と柔術家が闘ったりという荒唐無稽な内容なのです。これは何も花子の責任ではなく、外国人興行主の意向です。当時の欧州では正しい日本文化など理解されていませんから、過度に日本情調を演出した内容が受けていたのです。したがって当時の日本ではキワモノ扱い。どんなに花子が名声を勝ち得ても、本国日本では無視され続けていました。その流れが現代まで続いているのです。
 
そんな中で、花子に着目した鷗外や光太郎は、矢張り炯眼の持ち主と言えるでしょう。そして彼女を彫刻のモデルにしたロダンも。
 
驚いたことに花子一座の芝居は、全て日本語で演じていたそうです。プログラムやパンフレットの類には、あらすじ等が細かく書かれていたと言うことですが、一つ一つの台詞など、観客にはわかりません。それでも観客がこぞって花子を絶賛したのは、言葉を超えて伝えられた彼女の表現力のせいだと思います。ちょうど我々が、言葉の意味はわからなくとも外国のオペラやミュージカルに感動するのと同じでしょう。ロダンも、クライマックスに切腹して果てる断末魔の花子の表情に惹かれ、彫刻にすることを思い立ったそうです。荒唐無稽な内容がどうあれ、そうした表現力で観客を虜にした花子、立派な女優だと思います。
 
さて、下氏の調査等のおかげもあり、花子の故郷・岐阜県では、花子を見直そうという動きが巻き起こりました。花子の妹の孫に当たる澤田助太郎氏(連翹忌にご参加いただいたこともあります)は、詳細な評伝を書かれました。 

ロダンと花子

澤田助太郎著 中日出版社 平成8年(1996)10月 定価1,456円+税

イメージ 1
 
また、岐阜県としてもこんな本を出しています。 

マンガで見る日本真ん中面白人物史シリーズ3 花子 ロダンに愛された国際女優

澤田助太郎原案 里中満智子構成 大石エリー作画 岐阜県 平成12年(2000)3月 定価記載なし

イメージ 2

この漫画、昭和2年(1927)に光太郎が岐阜の花子を訪れる所から始まりますが、光太郎、随分とイケメンに描かれています。風采のあがらぬおっさんに描かれなくてよかったと思いますが(笑)。

001

 
さらにこちらは4年前にお隣愛知で開かれた企画展のパンフレットです。 

特別展花子とロダン-知られざる日本人女優と彫刻の巨匠との出会い-

一宮市尾西歴史民俗資料館 平成20年10月

イメージ 3

それぞれ光太郎にも言及されています。
 
最後にもう一つ。花子が持ち帰ったロダンの彫刻二点は、現在は新潟市美術館さんに収められているそうです。今度新潟方面に行く時には、見に行ってみようと思っています。

新刊情報です。 

盗作か? 森鴎外の『花子』

下八十五著 文芸社 平成24年7月15日(まだ7/15になっていませんが奥付記載の日付です) 定価1,600円+税

イメージ 1
 
最初に断っておきますが、これは、あくまで小説です。光太郎を含め、登場人物のほとんどが実在の人物ですし、書かれている出来事の大半も事実ですが、あくまで小説です。
 
内容を紹介する前に、主要登場人物をめぐる史実を説明しておかなければならないでしょう。
 
台風の目となるのは、女優・花子。実在の人物なのですが、ご存知でしょうか。
 
明治元年、岐阜県の生まれ。本名・太田ひさ。旅芸人一座の子役、芸妓、二度の結婚失敗を経て、明治34年(1901)、流れ着いた横浜で見たコペンハーゲン博覧会での日本人踊り子募集の広告を見て、渡欧。以後、寄せ集めの一座を組み、欧州各地を公演。非常な人気を博しました。明治39年、ロダンの目にとまり、彫刻作品のモデルを務めます。
 
ここでもう一人のキーパーソン、森鷗外。明治43年、雑誌『三田文学』に短編小説「花子」を発表。花子が初めてロダンのアトリエを訪れた際の様子が、通訳として同行した日本人留学生「久保田某」の視点で描かれています。
 
花子とロダンとの交流は、大正六年のロダン死去まで続き、ロダンが作った花子の彫刻は数十点。大正十年、そのうち2点を入手し帰国、岐阜に帰ります。昭和2年、光太郎が岐阜の花子を訪問。この時の様子は同じ年、光太郎が刊行したロダンの評伝に描かれています。昭和20年、花子、死去。やがて人々から忘れ去られていきます。
 
ここまでは史実です。
 
さて、この「盗作か? 森鴎外の『花子』」、冒頭に書きましたがあくまで小説です。小説なので虚実ない交ぜになっています。明治43年に発表された鷗外の小説「花子」に登場する通訳の「久保田某」のモデルが、鷗外の家で書生兼鷗外の長男・於菟(おと)の家庭教師であった大久保栄という人物で、「花子」は大久保の手記の盗作あるいは剽窃ではないか、という仮説が検証されていきます。
 
謎解きの探偵役、前半は光太郎です。昭和2年、岐阜の花子を訪れる前に森於菟の家に立ち寄った光太郎は、於菟から件(くだん)の仮説を聞かされ、謎解きを依頼されます。しかし光太郎は踏み込んだ調査が出来ずあえなく帰京(ある意味情けない!)。調査は光太郎死後、光太郎旧知の元新聞記者・山岡(著者の下氏がモデルです)に引き継がれ、実に百年近い歳月を経て、真実が明るみになる、というストーリーです。ネタバレになるのでオチはここには書きませんが。
 
全四百余ページの大作です。あくまで小説ですが、山岡が、花子や大久保の出自やら現在の子孫やらを捜し当て、当時の状況を解明していくくだりなどは、おそらくほぼ著者・下氏の調査体験の通りと思われ、非常な労苦に頭が下がります。現在刊行されている花子の評伝の類は、下氏の調査結果を基にしています。
 
全四百余ページの大作ですが、当方、2日で読破しました。皆さんも是非お買い求め下さい。
 
ただ、本書を読む前に、鷗外の「花子」、光太郎の「オオギユスト ロダン」中の「十七.小さい花子(プチトアナコ)」を先に読んでおくことをお勧めします。鷗外の花子は「青空文庫」で、光太郎の方はアルス刊の『ロダン』、筑摩書房『高村光太郎全集』第七巻、あるいは春秋社版『高村光太郎選集3』に掲載されています。後の二つは大きめの公共図書館なら置いてあると思います。

イメージ 2
 
明日も花子ネタで行ってみようと思っています。

東北本線普通列車に乗っています。昨日から一泊で福島県二本松を訪れ、帰路についたところです。郡山から新幹線に乗り換えます。

実りの多い福島行でした。詳しくは明日以降のブログにて。

003

最近入手した光太郎関連の書籍ですが、少し前に出版されたものを紹介します。調査がゆきとどきませんで、最近までこれらの書籍の存在に気づきませんでした。 

南海漂蕩 ミクロネシアに魅せられた土方久功 杉浦佐助 中島敦

 岡谷公二著 冨山房インターナショナル 平成19年(2007)11月29日 定価2,400円+税

イメージ 2

サブタイトルに名前のある3人は、大正から昭和初期にかけ、日本統治下のパラオに流れていった人々です。3人のうち光太郎と親交のあったのは、ともに彫刻家の土方久功(ひさかつ)と杉浦佐助。光太郎との交流を含めた3人の南島生活を中心とした評伝です。
 
杉浦佐助は昭和14年(1939)に開かれた彼の個展のパンフレットに、光太郎が「恐るべき芸術的巨弾-杉浦佐助作品展覧会」という文章を寄せ、絶賛しました。今では全くといっていいほど忘れ去られた彫刻家ですが、著者岡谷氏が幻の作品を探すくだりなどは、読んでいてワクワクさせられました。 
001
左から川路柳虹(詩人)、杉浦、光太郎。右端の人物は不明です。

土方に関しても光太郎は昭和28年(1953)の『朝日新聞』に「現代化した原始美-土方久功彫刻展-」という文章を寄せています。のちに土方著『文化の果にて』(『智恵子抄』版元の龍星閣刊行)の序文として転用されました。

大江戸座談会

 竹内誠監修 柏書房 平成18年(2006)12月25日 定価2,800円+税

イメージ 1

昭和初期に刊行された雑誌『江戸時代文化』『江戸文化』に掲載された座談会の復刻です。画家の伊藤晴雨、編集者の山下重民らの有名どころから、元南町奉行所の与力、直心影流の達人、和宮に仕えた旧幕臣、江戸の商人など、さまざまな階層の人々が14のテーマで行った座談です。
 
光太郎の父・光雲も「江戸の見世物」「江戸の防御線-見附の話」「彰義隊」の3回に出席し、記憶を語っています。
 
光雲が江戸から明治初期にかけてを回想して語った回顧録の類は多く、光太郎が生まれ育った環境を知る上でも貴重な記録です。当方が発行しております冊子『光太郎研究』にそのあたりを少しずつ掲載しています。いずれはこの座談会も掲載しようと思っています。
 
冊子『光太郎研究』についてはまた後ほど紹介いたします。

6月となりました。
今日は近々行われるイベントをご紹介します。 

期 日 : 2012年6月3日(日)
会 場 : 東京晴海・第一生命ホール
時 間 : 14:30~
料 金 : S席¥5,500 A席¥4,500 B席¥3,500 C席¥2,500
      学生¥1,800(当日¥2,000) 高校生以下¥800(当日¥1,000)
  
昨日、ネットで検索していたら見つけました(いきなり明後日ですが、申し訳ありません)。

「大阪コレギウム・ムジクム」は大阪を拠点とし、関西・東京・名古屋など国内各地、そして海外でも活動している演奏団体だそうです。

五部構成のプログラムの中に「西村 朗/混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」が含まれています。これは、2009年に楽譜が発売されたもので、光太郎の「千鳥と遊ぶ智恵子」「山麓の二人」「レモン哀歌」に曲をつけた混声四部合唱です。

002


当方、個人的に合唱をやっているものですから、聴きに行きたいのですが、その合唱の本番が翌週にあり、最後の練習と重なっているため行けません。残念です。 

智恵子のまち夢くらぶ 智恵子講座’12 第3回「求愛熱愛期を中心にして」

期 日 : 2012年6月17日(日)
会 場 : 福島二本松市民交流センター
時 間 : 10:00~
料 金 : 参加費1,000円

講師・金田和枝さん(児童文学者) 

福島二本松の旧安達地区で活動している智恵子のまち夢くらぶさんの主催で、全7回の講座の3回目です。希望する会だけの参加も可能とのことです。

申込先は智恵子のまち夢くらぶの熊谷さん。tel/fax0243-23-6743。1週間前まで申し込み受付中のようです。
当方、これには行くつもりでおります。 

 <N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」

期 日 : 2012年7月8日(日)
会 場 : 練馬区立美術館
時 間 : 15:00~
料 金 : 無料 

講師・高橋幸次さん(日本大学芸術学部美術学科教授) 
 
光太郎やロダンなどのテキストをひもときながら、美術作品と触覚についてのお話だそうです。参加費は無料ですが、事前申し込み(希望者多数の場合は抽選)が必要です。イベント自体はまだ先ですが〆切りが6/28までだそうですので、紹介してしまいます。こちらも早速申し込みをしました。
 
他にもこんなイベントがある、という情報をお持ちの方はお知らせいただければ幸いです。こちらでもできる限り調べているのですが、テレビ放映を含め、終わってしまってから気づくこともありまして……。
 
ちなみにこのブログを始めた5月以降で終わってしまってから気づいたイベントがこちら。

小原啓楼 独演コンサート
別宮貞雄作曲歌曲集『智恵子抄』、抜粋で演奏されたそうです。
 
また、同じく5月以降で終わってしまってから気づいたテレビ放映はこちら。

テレビ東京系『乃木坂浪漫』
アイドルグループ乃木坂46メンバーによる『道程』の朗読です。動画サイトで観ることができます。
 
明日はまた「光太郎遺珠」内容紹介に戻ります。

名古屋の方からこんなニュースがあったとお知らせいただきました。

高村光雲の木彫を無断売却=横領容疑、元美術商逮捕―横山大観作品も質入れ―警視庁

時事通信 5月15日(火)16時36分配信

 預かっていた高村光雲作の木彫を2500万円で勝手に売却し、横領したとして、警視庁捜査2課などは15日、業務上横領容疑で、鳥取市桂見、元美術商の山本麿容疑者(47)を逮捕した。同課によると、容疑を認めており、売却益は遊興費や借金返済に充てたという。山本容疑者は他の美術商らから横山大観や東山魁夷作の絵画など約11点の販売委託も受けていたが、いずれも質の出し入れを繰り返していた。
 逮捕容疑は昨年9月、静岡県内の美術館に販売する名目で、東京都練馬区の美術商から預かった高村光雲作の木彫を別の美術商に2500万円で売却し、横領した疑い。
 同課によると、山本容疑者が美術館に売却する話を持ち掛け、4000万円で商談が成立したが、売却話は架空だったという。 
 
バブルがはじけてだいぶ経ちますが、光雲の木彫ともなるとこのくらいの金額になるのですね。
bf73898a-s

ムンクの「叫び」はオークションで96億円という話でしたが……。

さて、花巻行レポートの二回目です。
 
スポーツキャンプむら屋内運動場での高村祭を後にし、岩手高村記念会の高橋様とともに、山荘に向かいました。ここを訪れるのは10回目ぐらいですが、今回は特別に山荘内部に入れて頂けるとのこと。
 
ご存じない方のために申し上げておきますが、山荘とは、光太郎が昭和20年(1945)から7年間暮らした小屋です。山荘というしゃれた名前は名ばかりで、屋根は杉皮葺きで天井はなく、壁は隙間だらけの粗壁、今回初めて知りましたが、土台も柱をしっかり地面に埋めてあるわけではなく、大きめの石の上に置いてある状態です。光太郎が暮らしていた頃、冬場は隙間から雪が舞い込み、寝ている布団にもうっすら積もったというのですから、恐ろしい環境です。今でも周囲に人家はなく、電気も昭和24年(1949)までは引かれておらず、水は当然のように井戸。もっとも、山の麓なので少し掘ればすぐ水は湧くと言うことですが、逆に光太郎自身「水牢」と表現した程に湿気がひどかったそうです。
 
そのまま剥き出しにしておいては早晩朽ち果てるだろうということで、昭和33年(1958)には套屋(とうおく……上にかぶせた建物)が作られ、そちらも傷んできて昭和52年(1977)には鉄骨造りの第二套屋が建てられました。現在、見学者は第二套屋の内部に入り、第一套屋の外側からガラス越しに山荘を見る形になっています。似ているものを挙げろ、といわれれば、昨年世界遺産になった中尊寺金色堂を見学するイメージでしょうか。

イメージ 1
 
で、今回は高村記念会の特別なお計らいで、山荘の内部に入れて頂きました。もちろん初めての体験です。靴を脱ぎ、かつては畳が3枚敷かれていたという板敷きに上がりました。部屋としては意外と広い感じもしますが、この一間だけです(もっとも、昭和26年=1951には2間×3間の別棟-こちらは少し離れた場所に移動-が付け足されましたが)。また、当時の写真で見ると、壁際には書物がうずたかく積み上げられ、やはり最低限の居住空間でしょう。当時の書物は今でも作り付けの棚や床に置かれた茶箱の中などに無造作に置かれています。他にも雑多な生活用品の数々、囲炉裏のつけ木まで残っているのには驚きました。

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4
 
高村記念会の高橋氏曰く、やはり湿気のため、第一套屋の傷みがひどく、根本的に改修をしたいとのことでした。この小屋で劣悪な環境にめげず、光太郎は自らの戦争責任を恥じ、さらにそれまでの人生を振り返り、いつもどこかしらに無理があった社会との関わりを反省し、積極的にかつ自然な形で山口地区の人々との交流を持ちました。ここにいたって初めて光太郎はヒューマニストとしての姿を確立します。そうした巨星・光太郎を偲ぶよすがとして、永久に保存してほしいものです。
 
その後、近くに建つ記念館を拝見しました。こちらには光太郎の遺品や作品の数々が展示されていますが、内部をリニューアルし、以前は展示していなかったものも新たに出したとのことで、早速、初めて見る書簡なども見つけました。のちほどデータを送って下さると言うことで、楽しみにしています。
 
記念館には偶然、本宮寛子さんもいらしていて、以後、行動を共にさせて頂きました。聞けば当方と同じ光太郎ゆかりの大沢温泉さんにご宿泊とのこと。やはり高村記念会の浅沼氏(光太郎がここで暮らしていた頃の旧山口小学校長・故浅沼政規氏のご子息で、御自身もよく光太郎に郵便物を届けに行かれたそうです)のご厚意で、車で大沢温泉さんまで送って頂きました。非常に有り難い限りでした。
 
次回は大沢温泉をレポートいたします。

今日は岩手花巻に来ています。000

光太郎が昭和20年(1945)から7年間をすごした旧太田村山口地区にある高村山荘で、毎年、光太郎を偲ぶ高村祭が行われており、そちらに参加させて頂いております。

今夜は郊外の山中、大沢温泉さんに泊まります。こちらも光太郎ゆかりの宿。

詳しくは明日、帰ってからご報告致します。

今日はこれから放送される光太郎関連のテレビ番組から。

土曜ワイド「浅見光彦シリーズ22首の女殺人事件~福島‐島根、高村光太郎が繋ぐ殺人ルート!智恵子抄に魅せられた男が想いを託した首の女の謎」 

2012年5月19日(土) 15時30分~17時30分 地上波フジテレビ系

内田康夫原作の人気シリーズの第22弾。 福島と島根で起こった2つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは? 光太郎彫刻の贋作を巡り、思わぬ展開を見せる事件の真相は?
 
キャスト
浅見光彦……中村俊介  野沢光子…… 紫吹淳   真杉伸子……姿晴香   橋田刑事……菅原大吉
宮田治夫……冨家規政  真杉民秋……中谷彰宏  柴山亮吾……新藤栄作  浅見陽一郎……榎木孝明
浅見雪江……野際陽子  ほか
 
イメージ 1
 
もともとは平成18年(2006)2月24日に金曜プレステージの枠で放映された2時間ドラマの再放送です。

原作は内田康夫著『「首の女」殺人事件』(昭和61年=1986 8月31日 トクマノベルス)。この年5/6~6/1に東京セントラル美術館で実際に開かれた「the光太郎・智恵子展」が事件の発端になっています。
 
当方、学生時代にこの展覧会も見に行きました。光太郎・智恵子の企画展を見たのはこれが初めてで、印象に残っています。そしてその展覧会をモチーフにした作品ということで、『「首の女」殺人事件』も購入、その後、内田氏の浅見光彦シリーズにけっこうはまり、文庫や新書になった作品はすべて読みました。
 
この2時間ドラマも平成18年(2006)の本放送で見ました。花巻の光太郎記念館や岳温泉でのロケが行われ、意外と良くできていて感心しました。本放送をご覧になっていない方、ぜひご覧下さい。
 
ちなみにテレビの浅見光彦シリーズは、フジテレビ系の中村俊介主演のものと、TBS系の沢村一樹主演のものがあり、沢村一樹主演の方でも、平成21年1(2009)2月16日に「「首の女」殺人事件」がオンエアされました。この時は全9回の連ドラ枠で「浅見光彦~最終章~」という題名。サブタイトルは「最終話 草津・軽井沢編」でした。原作での物語の舞台に草津や軽井沢は出てこないのですが、なぜか草津・軽井沢となっていました。こちらはDVD-BOXとして販売されています。
 
フジテレビの中村俊介主演のシリーズはDVD化されていないので、残念です。
 
他にも光太郎・智恵子がらみのテレビ番組、映画等でDVD化してほしいものがたくさんあるのですが、なかなか難しいようですね。今後に期待しますが。

最近入手した書籍(雑誌を除く、雑誌に関しては5/9参照)を紹介します。 

2011/3/22発行 西和夫著 集英社 定価720円+税

カバーより「かつてウサギ小屋などと海外から揶揄されたように、日本の住宅事情は劣悪だとされている。だが夏目漱石や内田百閒、高村光太郎など極小の空間を楽しみながら住んだ先人たちをみると、広さのみが豊かさに通じるとは言えないのではないか。本書は、究極の住居の実例を示し、住むことの根源を考えてみようとするものである。狭い住居の工夫を知って身の丈の生活の意味を再検討する。
 
光太郎に関しては、25頁にわたり、戦後の大田村山口での独居自炊生活を紹介しています。

2011/6/20 木下直之著  祥伝社 定価1100円+税

カバーより「西郷隆盛、楠木正成からフーテンの寅さん、アンパンマンまでこれ1冊で、日本と世界の英傑に会える東京の銅像めぐりパーフェクト・ガイド!!
 
光太郎より光雲に関する資料です。「序章 日本の銅像の基礎知識」で、近代彫刻黎明期に触れています。以後の各章は東京を地域別に分け、有名な銅像の紹介。光雲作の楠木正成像、西郷隆盛像、他にもロダンや光雲門下の彫刻家が作った銅像などが豊富なカラー写真とともに紹介されています。
 
この項、来週も続けます。

4/22(日)、信州穂高の碌山美術館さんで開催された碌山忌に行って参りました。
 
碌山(ろくざん)とは、光太郎と交流のあった彫刻家、荻原守衛(明12=1879~同43=1910)の号。守衛と光太郎はお互いが留学中だった明治末にニューヨークで知り合い、その後光太郎が移り住んだロンドンやパリでも交流を深めました。お互いの帰国後も、手を携え、古い日本彫刻界に新風を送り込む役割を果たしたのです。しかし、守衛は数え32歳の若さで夭折。現在残っている彫刻は15点だけだそうです。それでも古い日本彫刻界に新風を送り込んだ功績は大きく、彼の絶作「女」は国の重要文化財に認定されています。
 
碌山美術館さんはそんな守衛の功績を後世に残すべく、碌山の故郷、信州穂高に昭和33年に開館しました。碌山作品の他、光太郎の作品もたくさん展示されていますし、何度も光太郎に関わる企画展を開催、現在も学芸員の方が我が連翹忌に欠かさず参加して下さっています。
 
さて、4月22日は守衛の命日、碌山忌ということで、行って参りました。4月も中旬ということで、関東ではとっくに桜は散っていましたが、信州はまさに満開の時期でした。
 
当方が着いたのは昼前で、まずは守衛の墓参。美術館自体はたしか4回目の訪問でしたが、守衛の墓は初めて行きました。館から車で10分ほどだったでしょうか。館の方に送っていただきました。やはり守衛と交流のあった画家、中村不折(太平洋画会での智恵子の師でもあります)の筆で墓碑銘が書かれていました。光太郎の代参のつもりで手を合わせて参りました。
 
その後は美術館に戻り、館内の見学と、碌山忌コンサート。高村光太郎研究会の会員で、「雨男 高村光太郎」の著者、西浦基さんも大阪から駆けつけていました。

 
イメージ 1
 
15:00から新宿中村屋CSR広報室長・吉岡修一氏の講演「新宿中村屋の創業者 相馬愛蔵・黒光の商人道と中村屋サロン」を聴きました。新宿中村屋を創業した相馬愛蔵(明3=1870~昭29=1954)も穂高の出身。同郷の守衛をはじめ、多くの文化人が店に出入りし、「中村屋サロン」が形成されました。守衛の生前には光太郎もしばしば訪れたということで、現在でも光太郎の描いた油絵「自画像」が中村屋に残っています。しかし、吉岡氏曰く、あちこちの企画展等への貸し出しが非常に多く、光太郎は「中村屋一出張の多い男」だそうです(笑)。
 
続いて、学芸員の武井敏氏による研究発表「相馬黒光の追憶」。かつて光太郎も真壁仁との対談(昭和27年=1952 3月30日放送『全集』第11巻)で出演したNHKのラジオ番組「朝の訪問」で、相馬愛三の妻、黒光が出演した回の録音を聴かせていただきましたが、残念ながら、列車の時間があり、途中で退出いたしました。
 
碌山美術館では立派な研究紀要なども発行され、研究の拠点としての役割も果たしています。西浦さんとも話しましたが、光太郎顕彰にもこういう拠点があれば……というのが正直な感想です。
それを抜きにしても、碌山美術館、とてもいいところです。昨年度のNHK連続テレビ小説「おひさま」の舞台になった安曇野、他にも見所がたくさんあります。ぜひお越し下さい。

碌山美術館と周辺での光太郎スポット

碌山館……レンガ作りの重厚な建物。守衛の彫刻作品を収めています。入口の壁には、「碌山の芸術を守り支えた先人の名を刻む」という石のプレートがはめ込まれており、守衛を援助した黒光、実兄・荻原本十、友人の戸張孤雁と光太郎の四人の名が刻まれています。

イメージ 2

第一展示棟……守衛の友人や系譜につながる彫刻家、画家の作品が展示されています。「手」「腕」など光太郎の彫刻も多数。
 
「荻原守衛」詩碑……碌山館の裏手に平成12年(2000)に建てられました。光太郎の詩「荻原守衛」が刻まれています。
イメージ 3
 
「坑夫」……隣接する穂高東中学校に建つ守衛の彫刻です。台座にはめ込まれた題字を晩年の光太郎が揮毫しました。この彫刻「坑夫」は、守衛滞仏中の明治40年(1907)の作で、守衛の元を訪れた光太郎が、是非日本に持ち帰るように助言したといわれています。こちらには昭和30年(1955)に建立されました。


イメージ 4
 

昨夜、NHKBSプレミアムで放映されたlogo「きらり!えん旅」。旅人は歌手の由紀さおりさん。原発事故で大変な状況の二本松を訪れました。
 
大変な状況にもめげず、野菜作りや和紙作りに精を出す地元の方々、原発に近い浪江町から避難されてきた方々……。そして「ほんとの空」自慢ということで、智恵子のまち夢くらぶの熊谷健一さんもご出演なさいました。智恵子生家の裏手にある詩碑の丘に由紀さんを御案内し、雪と春霞に覆われた安達太良山をお見せなさっていました。映像で見る限りロケの日(4/11)は気持ちの良い晴天で、まさしく「ほんとの空」が広がっていました。しかし、熊谷さん曰く「原発事故のため、青い空でも、ちょっと複雑なところがある。早く元の純粋な青い空に戻ることを願っている。」とのことでした。本当にそうですね。
 
番組のラストには安達文化ホールでの由紀さんのコンサート。熊谷さんはじめ観客の皆さんは涙を流して聴き入っていました。音楽は人の心を揺さぶるものだと、改めて痛感しました。
 
お見逃しの方は、5/16(水)午前11:00~11:30、5/17(木)15:30~16:00に再放送がありますのでご覧下さい。
 
東北復興のため、我々にできることもしっかりと考えていきたいと思います!

4月14日(土)、横浜のそごう美術館さんを後にし、000一路、新宿へと向かいました。
 
老舗のライヴハウス、ミノトール2さんにて、高木馨さんの『高村光太郎考 ぼろぼろな駝鳥』出版記念イベントがあったためです。同書は、昨年10月に文治堂書店さんから刊行されました。原稿用紙500枚という大作です。
 
さて、イベントは高木さんの親友で詩人・刀道の達人、佐土原台介氏の司会で始まりました。
 
光太郎関連では、中西利一郎氏の興味深いお話がありました。中西氏は、水彩画家の故・中西利雄氏(明33~昭23)のご子息で、中野区ご在住です。光太郎がその最晩年、十和田湖畔に建つ裸婦像(通称・乙女の像)の制作のため借りたのが中西利雄のアトリエ。

ちなみに光太郎はこちらの庭に咲いていた連翹を愛し、そこから光太郎の命日が「連翹忌」と命名されました。中西利一郎氏は、写真のパネル等を持参され、光太郎の回想を披瀝されました。
 
続いて当方のスピーチ。連翹忌についての話をメインに、15分ほどしゃべらせていただきました。
 
イメージ 1
 
その後は高木さんのお仲間のみなさんによるアトラクション。シンガーソングライター小藤博之さん、
ピアノ引き語りいまむら直子さんとシューフィーズの皆さん、アコースティックギター中村ヨシミツさんと歌の三原ミユキさん、フラメンコ手下倭里亜さんと手下ダンススタジオの皆さん。
 
この手のイベントが有れば、出来る限り駆けつけますし、しゃべれと言われればしゃべりますので、お声がけ下さい。

ブログ、開設したばかりで最近の報告が追いつきません。
 
4月14日(土)、まずは横浜のそごう美術館さんに行って参りました。お目当ては企画展「宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」(会期は4/22までで、もう終わってしまっています)。


000
  
現在は福島のいわき市立美術館で巡回開催中(6/17まで)。
 
赤羽末吉、いわさきちひろ、武井武雄、司修、ますむらひろしなど、後世のアーティスト達が表現した賢治の世界がメインでしたが、そこに光太郎の書も展示されました。岩手花巻、羅須地人協会の跡地に建つ「雨ニモマケズ」を刻んだ詩碑の元になった光太郎の揮毫です。
 
光太郎と賢治、二人が直接会ったのは大正15年の秋、おそらく一度しかありません。しかし、お互いにお互いの芸術世界を激賞していました。そうした縁もあり、賢治没後の昭和11年(1936)に建てられた碑の揮毫を光太郎が引き受けたのです。
 
当方、碑は何度も見ましたし、拓本も持っているのですが、やはり元の筆跡はまた違った感じがしました。

005

それにしても光太郎の筆跡のすばらしさ。この揮毫に限らず、光太郎書の全般にいえることですが、どれもものすごい芸術的な書、というわけではなく、当たり前の書法で当たり前に書いています。しかし、そこから漂う「品格」「気」とでもいうのでしょうか、それは絶対に真似の出来ないものだと思います。

4月2日、連翹忌終了後、1ヶ月の間にも光太郎関連のイベントなどいくつか参加して参りましたが、明日以降のブログでご報告します。
 
今日はこれから放送される光太郎・智恵子関連のテレビ番組の情報を二つ。 

 地上波テレビ朝日系 2012年5月9日(水) 13:20~

ゲストは渡辺えりさん。5/17(木)から公演が始まる光太郎・智恵子を主人公とした「月にぬれた手」、宮澤賢治を主人公とした「天使猫」のお話や、光太郎と面識があったお父様に関するお話が聴けることと思われます。

001


ただし、地上波ですので、関東地方以外では放送日程が異なるかもしれません。 

きらり!えん旅logo

NHKBSプレミアム 2012年5月10日(木) 19:30~

震災からの復興を応援する番組ですが、ゲストは由紀さおりさんで、福島・二本松が舞台です。地元で智恵子の顕彰を続けていらっしゃる「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷さんも出演なさっています。
 
ふるってご視聴のほど。

イメージ 2

イメージ 1
 
 
平成24年(2012)4月2日、東京日比谷の松本楼において、第56回連翹忌が行われました。昨年は震災の影響で集まりは中止、こうして皆さんとお会いするのは2年ぶりとなりました。
 
まず、一昨年の連翹忌まで、毎回元気に参加なさっていた宮城・女川光太郎の会の貝廣さんをはじめ、震災で犠牲になられた方々への黙祷。
 
乾杯のあとは、各地で活躍される方々からスピーチをいただきました。
 
高村光太郎記念会事務局長にして当会顧問をお願いいたしました、北川太一先生
女川光太郎の会の笠松さん、佐々木さん
岩手・高村記念会の高橋さん
光太郎・智恵子を主人公とした舞台「月にぬれた手」を上演される女優の渡辺えりさんとお仲間のみなさん
長野・碌山美術館の武井さん
昨年、「北川太一とその仲間達」を上梓された文治堂書店さん
やはり昨年、文治堂書店さんより力作「高村光太郎考 ぼろぼろな駝鳥」を刊行された高木馨さん
今年、「スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅」を刊行される坂本富江さん
光太郎のご親族で、鎌倉でギャラリー笛を開かれている山端ご夫妻
生前の光太郎を知る鋳金家・人間国宝の斎藤明先生
オペラ「智恵子抄」等でご活躍の歌手・本宮寛子さん
福島・智恵子のまち夢くらぶ熊谷さん
 
他にも大勢の方にスピーチをいただきました。ありがとうございました。
 
来年の第57回連翹忌も、どうぞよろしくお願いします。

↑このページのトップヘ