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ブログ掲載に関し、こちらも正式発表を待っていましたが、先週発表されましたので御紹介します。
 
ほぼ今年いっぱい行われる3館巡回の企画展で、あと2館は西日本、中部日本なのですが、そちらの当該館からはまだ正式発表がないので、皮切りに当たるもののみ御紹介します。  

期 日 : 平成25年6月29日(土)~8月18日(日)
会 場 : 千葉市美術館
時 間 : 10:00~18:00 金土は20:00まで
休 館 : 第一月曜日(7月1日、8月5日)
料 金 : 一般 1000円(800円) 大学生 700円(560円) 小・中学生、高校生無料
      ( )内団体料金

近代日本の彫刻家を代表する存在である高村光太郎(1883-1956)の生誕130周年の節目を迎えて開催される本展覧会では、彼の彫刻家としての原点ともいえる木彫作品を重視するとともに、彼が参照したロダン(1840-1917)をはじめとするヨーロッパの彫刻家、佐藤朝山(1888-1963)や藤川勇造(1883-1935)などの同時代の日本の彫刻家たちの作品と妻・智恵子(1886-38)が制作した紙絵を併せて展示することによって、光太郎の造形世界について再考を試みます。
 
同時開催 高村光太郎の周辺
「彫刻家・高村光太郎展」展の開催に合わせ、当館の所蔵作品のなかから、彼と関わりのあったアーティストたちの作品を中心にご紹介します。

(同館HPより)
 
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今回の企画展の特色は、とにかく「彫刻家」としての光太郎にこだわること。したがって、今までの企画展でよく並べられていた著書や筆跡などの類は並びません。そのかわり、若き日の習作に始まり、現存する光太郎彫刻の
ほとんどすべてが並ぶ予定です。
 
特筆すべきは木彫の作品。これもほとんどが出品予定です。今までの企画展ではブロンズの作品は必ず出品されていましたが、木彫はあまり出品されませんでした。ブロンズは同じ原型から鋳造した同一のものがたくさんあるのに対し、木彫は一点のみということも理由ですし、「木」というある意味あえかな素材であり、また、施されている着色が経年による劣化で薄く成りつつあるという問題もあるためです。
 
同じ理由で、光太郎木彫を持っている美術館等も、常設展示では出していません。先日、北川太一先生との雑談の折、そういう話題になり、「ああいう木彫をじかに見て啓示を受ける若い人もいるだろうに、もったいないね」とおっしゃっていました。その通りだと思います。でも、保存という観点から見ればしょうがないのでしょう。
 
しかし、今回はほとんどの木彫が出品されます(残念ながら平成14年(2002)に七十余年ぶりに所在が確認された「栄螺(さざえ)」は出品されません)。図録もものすごいものができそうです(当方も一部を担当します)。
 
この機会にぜひ、光太郎彫刻の世界をご覧下さい。他の2館についても、正式発表があり次第、御紹介します。
 
【今日は何の日・光太郎】2月26日

大正12年(1923)の今日、帝国ホテルで開かれた「与謝野寛先生生誕50年記念晩餐会」に出席、発起人代表としてスピーチしました。

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本物のピカソ、やってくる 埼玉・川越の中学校

 本物のピカソやルノワール、人間国宝らのアート作品が、16日から2日間、川越市今福の市立福原中学校体育館で展示される。人間国宝美術館(神奈川県湯河原町)と真鶴アートミュージアム(同県真鶴町)による「出張美術館」の一環。
 なかなか美術館に足を運ぶことがない人や子どもたちが本物に触れる機会をつくり、震災や不況の中にある日本を元気にしようと、両美術館が昨年から始めた企画。今年は福島県郡山市の専門学校とともに同校が選ばれた。
 展示するのは、両館が所蔵する絵画、彫刻、陶器など約100点。ピカソやルノワール、シャガール、コローら海外の有名画家の作品に加え、国内からも棟方志功、岡本太郎、高村光雲、梅原龍三郎、東山魁夷、平山郁夫、横山大観、北大路魯山人、草間彌生らによる超一級の芸術作品がそろう。
 16、17日の午前9時30分~午後4時。学芸員の説明もある。16日午後(時間未定)には、東京芸術大学の北郷悟副学長が来校し、作品を解説する。
 入場無料。駐車場が狭いため公共交通機関の利用を呼びかけている。問い合わせは同校(049・243・4140)。
朝日新聞デジタル 2013-02-09

お近くの方、足を運ばれてみてはいかがでしょうか。
 
川越は江戸時代、特産のサツマイモのキャッチコピーを「九里四里(栗より)美味い十三里」とし、江戸から川越までの距離、13里(約50㎞強)がサツマイモの別名となりました。都心から50㎞強、池袋から東武東上線で約40分、以外と近いところです。当方、子供の頃、2年余り住んでいました。蔵作りの古い街並みがいい感じです。
 
都内の方もどうぞ足を運ばれてみて下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】2月14日

昭和16年(1941)の今日、『読売新聞』に15回にわたって掲載された座談「新女性美の創造」が最終回となりました。光太郎の他に宮本百合子、豊島与志雄などが参加しました。

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左から3人目、光太郎

歌舞伎俳優の十二代市川團十郎さんの訃報が駆け巡りました。
 
光太郎は、十二代團十郎さんの曾祖父に当たる九代團十郎のファンで、青年期にはよく舞台を観に行っていましたし、2度、彫刻を手がけています(残念ながら2点とも現存しません)。
 
一度目は東京美術学校(現・東京芸術大学)在学中の明治37年(1904)。当時の日記に記述があるのですが、油土を使ったレリーフでした。
 
二度目は昭和12年(1937)から翌13年(1938)にかけて。この時は粘土の塑像でした。しかし、未完成に終わっています。光太郎曰く「それから九代目團十郎の首を作りはじめたが、九分通り出来上るのと、智恵子の死とが一緒に来た。團十郎の首の粘土は乾いてひび割れてしまつた。今もそのままになつてゐるが、これはもう一度必ず作り直す気でゐる。」(「自作肖像漫談」昭和15年=1940『高村光太郎全集』第9巻)。しかし、昭和20年(1945)の空襲で、アトリエもろともこの像も焼けてしまいました。
 
二度目の像を作っている最中に書いた散文や詩も伝わっています。
 
まず散文「九代目團十郎の首」(昭和13年=1938『高村光太郎全集』第9巻)から。
 
 九代目市川團十郎は明治三十六年九月、六十六歳で死んだ。丁度幕末からかけて明治興隆期の文明開化時代を通過し、国運第二の発展期たる日露戦争直前に生を終つたわけである。彼は俳優といふ職業柄、明治文化の総和をその肉体で示してゐた。もうあんな顔は無い。之がほんとのところである。
(中略)
 私は今、かねての念願を果たさうとして團十郎の首を彫刻してゐる。私は少年から青年の頃にかけて團十郎の舞台に入りびたつてゐた。私の脳裏には夙くすでに此の巨人の像が根を生やした様に大きく場を取つてしまつてゐた。此の映像の大塊を昇華せしめるには、どうしても一度之を現実の彫刻に転移しなければならない。私は今此の架空の構築に身をうちこんでいるけれど、まだ満足するに至らない。
(後略)

さらに「團十郎像由来」という詩(昭和13年=1938『高村光太郎全集』第2巻)も書かれました。
 
   團十郎像由来
 
 不動の剣をのみこそしないが001
 おびただしい悪血をはいたわたくしは
 おこさまのやうに透きとほつてしまつた
 精神に於けるオオロラの発光は
 わたくしを青年期高層圏の磁気嵐に追つた
 明治文化の強力な放電体
 九代目市川團十郎にばつたり出あつた
 巨大な彼の凝視に世紀のイデアはとほく射ぬかれ
 腹にこたへる彼のつらねに幾代の血の夢幻は震へ
 彼のさす手ひく手に精密無比の比例は生れ
 軽く浮けば有るか無きかの鷺娘
 山となれば力の権五郎
 一切の人間力の極限を
 生きの身に現じたこの怪物は
 無口なやさしい一個の老人
 品川沖に絲を垂れ
 茅が崎の庭でおでんをくふ
 わたしは捉へ難きものに捉へられ
 茫茫として春夏秋冬を粘土にうもれ
 あの一小舞台から吹き起る
 とめてとまらぬ明治の息吹を
 架空構築にうけとめようと
 新らしい造血作用を身うちに燃やして
 今は絶体絶命の崖の端まで来てしまつた
 
「昭和」に入って「明治」を懐かしみ、「明治」を代表する人物の一人して、九代團十郎を作ろうと思ったようです。
「平成」も25年。「昭和」の名優がまた一人亡くなりました。ご冥福をお祈り申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎】2月6日

昭和16年(1941)の今日、JOAKラジオ(現・NHK東京)で、光太郎作詞の歌曲「歩くうた」が柳兼子の歌で放送されました。

柳兼子は白樺派の美学者・柳宗悦の妻です。

仙台レポートの2回目です。
 
宮城県美術館の企画展「生誕100年/追悼 彫刻家 佐藤忠良展「人間」を探求しつづけた表現者の歩み」。彫刻の数々の後には絵画や忠良が装幀した書籍などが並んでいました。そして、最後に並んでいたのが忠良の蔵書で、光太郎訳の『ロダンの言葉』2冊でした。
 
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どちらも叢文閣から刊行された普及版で、1冊は昭和4年(1929)の版、もう1冊は同12年(1937)の版でした。内容的には同一なのですが、昭和4年の版が表紙が取れてぼろぼろになってしまったので、新たに12年版を購入したとのこと。ぼろぼろになるまで読み込んだということです。実際、開かれていた頁にも線が引かれていました。また、忠良がこの2冊を宮城県美術館に寄贈した際の添え書きも一緒に展示されており、そこには「小生にとつての彫刻出発の一種の原点にもなつた本」と記されていました。
 
こうした後進の彫刻家への影響という点では、一人忠良のみではありませんでした。光太郎の弟・豊周の『定本光太郎回想』(昭和47年=1972 有信堂)に、以下の記述があります。
 
 この頃「ロダンの言葉」を訳しはじめたのは、兄にとっても、僕たちにとっても、今考えると全く画期的な大きな仕事だったと思う。
  雑誌にのった時は読まなかったけれど、本になってからは僕も繰返して愛読した。あの訳には実に苦心していて、ロダンの言葉を訳しながら兄の文体が出来上がっているようなところもあるし、芸術に対する考え方も決って来ているところが見え、また採用した訳語も的確で、「動勢」とか「返相」とか兄の造った言葉で今でも使われているものが沢山ある。そんな意味で、あれは兄には本当に大事な本だった。
 それだけに、他の学校は知らないが、上野の美術学校では、みなあの本を持っていて、クリスチャンの学生がバイブルを読むように、学生達に大きな強い感化を与えている。実際、バイブルを持つように若い学生は「ロダンの言葉」を抱えて歩いていた。その感化も表面的、技巧的ではなしに、もっと深いところで、彫刻のみならず、絵でも建築でも、あらゆる芸術に通ずるものの見方、芸術家の生き方の根本で人々の心を動かした。新芸術の洪水で何かを求めながら、もやもやとして掴めなかったものがあの本によって焦点を合わされ、はっきり見えて来て、「ははあ」と肯ずくことが一頁毎にある。ロダンという一人の優れた芸術家の言葉に導かれて、人々は自分の生を考える。そういう点で、あの本は芸術学生を益しただけでなく、深く人生そのものを考え、生きようとする多くの人々を益していると思われる。
 
 忠良は昭和9年(1934)に東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学、同14年(1939)に卒業しています。今回展示された『ロダンの言葉』普及版は昭和4年と12年の版ですから 、この頃買ったものと推定されます。
 
 さらに、企画展ではなく常設の佐藤忠良記念館(県美術館に併設)には、忠良が入手した参考作品ということで、ロダン本人のデッサンも展示されていました。
 
 ロダン・光太郎・忠良、このように芸術の精神が受けつがれ、血脈となっていくのですね。
 
 最後に、今回の企画展図録に載ったノンフィクション作家・澤地久枝さんの文章から。
 
 佐藤さんの彫刻に心安らぐのは、粘土をこねて形を造ってゆくとき、佐藤さんはモデルの生命の源泉を手にくみとっていて、血の通う形ができてゆくからではないのだろうか。
 人も自然も、佐藤さんの作品では呼吸をし、むこうから語りかけてくるみたいだ。自然と私たち人間のいとなみの、ギリギリのところにある真実とでもいうべきもの、佐藤忠良作品に私が心から感動するのは、生命を愛する人の祈りが伝わってくるから。
 
 同じことは血脈を共有するロダンにも、光太郎にも云えるのではないでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】1月28日

大正2年(1913)の今日、智恵子に宛てた長い手紙を書いています。夢の中で智恵子が磔(はりつけ)にされる話などが書かれました。
 
謎めいた、しかし面白い手紙です。いずれ稿を改めて御紹介しようと思います。

宮城県美術館で開催中の企画展「生誕100年/追悼 彫刻家 佐藤忠良展「人間」を探求しつづけた表現者の歩み」を観て参りました。
 
午前5時半に千葉の自宅を出て、東京駅発8時12分の東北新幹線・はやぶさ1号に乗り込みました。朝が早かったし、途中停車駅があるとアナウンスや速度の変化で目が覚めますが、大宮を出たらあとは仙台までノンストップということで、爆睡しました。
 
ふと目を覚ますともう福島県内で、車窓から外を見て、驚きました。銀世界! 青森や岩手ならいざ知らず、南東北でもこの状況か、と思いました。
 
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9:48、仙台に到着。仙台では傘が必要なくらい雪が降っていました。
 
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路線バスに乗り、一路、宮城県美術館へ。
 
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入り口から玄関まで、職員の方が雪かきをしてくださっていました。館内に入ると、眼鏡が曇ってしばらく何も見えませんでした。後で訊くと、気温はマイナスだったそうです。
 
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さて、じっくり時間をかけ(途中で昼食もとりつつ)、本館の企画展と、常設の佐藤忠良記念館の展示を観ました。
 
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「書は人なり」とよくいいますが、改めて「彫刻も人なり」と思いました。
 
昨秋、上野の国立西洋美術館の企画展「手の痕跡」展で、ロダンの作品をまとめて観ましたが、そこで感じたのは「激しさ」でした。作品となった人物の表情、ポーズ、人体の部分部分の力の入り具合、躍動感、高揚感、そして作品のタッチ、どれをとっても「激しさ」を感じ、それがロダンという作者の人となりの反映のように思われました。
 
今回、佐藤忠良の作品からはロダンのような「激しさ」とは逆の、春の日差しのような穏やかさのようなものを感じました。乱暴な言い方で、反論もあるかも知れませんが、ロダンを「動」とすれば佐藤は「静」。しかし、「静」といっても、「止まっている」という感じではありません。「止まって」いたらマネキン人形です。しかし、佐藤の彫刻は「静」の中に「動」を感じます。佐藤自身「具象でモビールをやってみているような感じ」と述べていますが、まさにその通りです。例えば座っている女性の像でも、ただ漫然と弛緩したポーズをとっているわけではありません。座りながらも爪先を軽く立て、そこに軽い緊張感-「激しさ」ではなく抑制された-が感じられるのです。
 
「見る人に説明するようには作らない」というのが佐藤のポリシーだったようです。雄弁にがなりたてるのではなく、さりとて寡黙に口をつむぐのでもなく、抑制された自己主張。こういう部分に作者の人となり、さらには「東北人の典型」といった解釈を与えるのは安易でしょうか?
 
今年また、光太郎彫刻をまとめて観る機会があります。その時に自分でどう感じるのか、それから皆さんがどう感じるのか、興味深いものがあります。
 
続きはまた明日。
 
【今日は何の日・光太郎】1月27日

昭和10年(1935)の今日、日本語におけるソネットなどの定型、押韻詩を試みる文学運動、マチネ・ポエティック社が結成され、光太郎も参加しています。

明日、1/26(土)は仙台に行って参ります。
 
2件、用事があります。
 
まず一件目、宮城県美術館で開催中の企画展「生誕100年/追悼 彫刻家 佐藤忠良展「人間」を探求しつづけた表現者の歩み」を観て参ります。
 
佐藤忠良(ちゅうりょう)は明治45年(1912)、宮城県生まれの彫刻家。光太郎より一世代あとです。光太郎ら一世代前の彫刻家によって目を開かれ、具象彫刻で一境地を開きました。昭和33年(1958)から全10回限定で行われた造型と詩、二部門の「高村光太郎賞」の第3回(昭和35年=1960)入賞者です。そんな関係で、連翹忌にもご参加いただいたことがあります。一昨年3月に亡くなり、昨年は一周忌と生誕百年が重なったため、佐藤忠良記念館を併設する宮城県美術館にて同展開催の運びとなりました。
 
他の方のブログで、忠良の蔵書で光太郎が訳した「ロダンの言葉」が展示されているなどといった記述を見つけました。その他には、直接、光太郎と関わる展示はあまりないようですが、光太郎の開いた日本近代彫刻の歩みが、次の世代にどのように受けつがれたのか、少し注意して観てこようと思っています。
 
ちなみに会期は2/24(日)まで。関連行事の目玉は昨年11/23に終わってしまいましたが、忠良の娘で、女優の佐藤オリエさんの講演会「父 佐藤忠良を語る」でした。
 
余談になりますが、佐藤オリエさんは、昭和45年(1970)に、TBS系の昼ドラ「花王愛の劇場 智恵子抄」で、智恵子役を演じられました(光太郎役は故・木村功さん)。
 
実は佐藤オリエさんの講演会が終わってから、佐藤忠良展が開かれていたことを知り、ブログに載せるタイミングを逸していました。
 
もう1件。昨年5月のこのブログで御紹介した「シューマンと智恵子抄」の朗読・荒井真澄さん/ピアノ・齋藤卓子さんによるコンサート「楽園の月」が太白区長町の古民家カフェ「長町遊楽庵 びすた~り」さんで行われます。昨年同様、一関恵美さんの墨画展も同時開催ということです。素敵なお三方にお会いできるのが楽しみです。
 
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帰ってきましたら、詳しくレポート致します。
 
【今日は何の日・光太郎】1月25日

大正15年(1926)の今日、ロマンロラン著、高田博厚訳の評伝『ベートオヱ゛ン』が刊行されました。

光太郎が装幀・題字を担当しました。

先日、ロダン作の彫刻「カレーの市民」について書いたところ、大阪在住の研究者・西浦氏から、試作が残っている旨、お手紙と画像をいただきました。
 
ロダンは一つのモチーフについて、いろいろと制作を重ねるタイプでした。以前にも書きましたが、有名な「考える人」も元は「地獄の門」の一部だったものを独立した一個の彫刻にしたものですし、大きさの違うバージョンがあったりします。
 
「カレーの市民」も、発注から除幕まで10年かかっており、その間に、着衣にしてみたり、裸体像にしてみたり、単体で6人を作ってみたりといろいろと試作を重ねたとのこと。
 
気になったので調べてみたところ、日本の静岡県立美術館のロダン館に「カレーの市民」単身像の試作が展示されていることが判りました(専門の方は「何だ、知らなかったのかよ」とおっしゃるかも知れませんが、当方、まだまだ勉強中でして……)。しかも配置を工夫し、間を歩けるようにしてあります。
 
以前から一度行ってみようとは思っていましたが、ますます行きたくなりました。
 
ちなみに下の画像は、昭和2年にアルスから刊行された光太郎の著書『ロダン』の口絵に載った「カレーの市民」です。
 
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原型なのか、試作なのか、ともかく完成して鋳造されたものではありませんね。

閲覧数が7,000件を超えました。有り難うございます。
 
さて、地上波テレビ東京系で、土曜の夜に「美の巨人たち」という番組を放送しています。BSではBSジャパンで、1ヶ月遅れぐらいで日曜の夜の放映です。毎回、一人の作家の一つの作品に的を絞り、ミニドラマ的なものも交えつつ紹介しています。地味な番組ですが、コアなファンが多いようで(当方もその一人ですが)、平成12年に放映開始で、そろそろ長寿番組の仲間入りですね。
 
光太郎についてもこれまでに3回取り上げられました。平成13年(2001)7月には木彫の「鯰」、同19年(2007)12月には「手」、昨年(2011)11月には「十和田湖畔の裸婦像」。光雲の「老猿」も、平成19(2007)年6月に扱われました。今後、ぜひ智恵子や光太郎の弟・豊周についても取り上げて欲しいものです。
 
先週土曜日のオンエアは、17世紀イタリアバロック期の彫刻家、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作「アポロンとダフネ」。ギリシャ神話に題を取ったもので、全能神ゼウスの息子、アポロンが、川の神の娘、ダフネに恋をしますが、これを嫌って逃げるダフネと、追いすがるアポロンの姿を刻んだものです。逃げるダフネの体は半分月桂樹に変化(へんげ)しています。
 
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大理石の彫刻ですが、「超絶技巧」という点では舌を巻く様な作品でした。何しろ、薄い月桂樹の葉まで(それも何枚も)一つの石から掘り出しているのです。番組の中で、同じことを現代の彫刻家に依頼してやってもらっていましたが、見事に(笑)失敗していました。
 
特に興味深かったのは、「展示」に対する作者の意図でした。
 
この彫刻は、完成後にどこにどのように置かれるかがあらかじめ判っていて、ベルニーニはその空間構成を考えて作っているとのことでした。例えば、壁際に置かれることが判っていたので、壁側に当たる面は粗彫りのままの箇所が残っているとか、展示場所に入ってきた人に、はじめはアポロンの後ろ姿だけが見えるようにし、やがて近づくと逃げるダフネの姿が眼に入るようにしてある、といった点です。ベルニーニは、こういう作り方で「物語性」を彫刻に持たせていた、という結論に達していました。「なるほど」と思わされました。
 
しかし、光太郎はベルニーニに対して、高い評価は与えていません。『高村光太郎全集』増補版全21巻別巻1、全体を通してベルニーニの名前は1回しか出て来ませんし、その1回も「ベルニニ、カノヷ、ジエロオム、マクモニイ、降つて現今の新海竹太郎氏あたりの彫刻については生死でも口にする外何も言ふ気になれない」(「言ひたい事を言ふ」大正3年 『高村光太郎全集』第4巻)と、とりつく島もありません。
 
「超絶技巧」といえば、光太郎の父・光雲の木彫。薄い月桂樹の葉をも石から掘り出すベルニーニに負けず劣らず、一本の木から観音像の持つ蓮の花まで掘り出していました。
 
しかし、光太郎はこの手の「超絶技巧」には否定的なのです。
 
薄いものを薄く彫つてしまふと下品になり、がさつになり、ブリキのように堅くなり、遂に彫刻性を失ふ。これは肉合いの妙味によつて翅の意味を解釈し、木材の気持に随つて処理してゆかねばならない。多くの彫金製のセミが下品に見えるのは此の点を考へないためである。すべて薄いものを実物のやうに薄く作つてしまふのは浅はかである。
(「蝉の美と造型」 昭和15年(1940) 『高村光太郎』全集第5巻)
 
ここには「具象」から「抽象」への発展といった考えが垣間見えます。ただ、光太郎は完全に「抽象」へは進みませんでしたが。
 
また、「物語性」についても、光太郎は若い頃は積極的に自作に取り入れていましたが、後に方向転換します。
 
若し私が此の胸中の氤氳を言葉によつて吐き出す事をしなかつたら、私の彫刻が此の表現をひきうけねばならない。勢ひ、私の彫刻は多分に文学的になり、何かを物語らなければならなくなる。これは彫刻を病ましめる事である。
(「自分と詩との関係」 昭和15年(1940) 同第8巻)
 
しかし、どうしても吐き出したい「胸中の氤氳」をどうするか。そこで「詩」です。
 
私はどうしても彫刻で何かを語らずには居られなかつたのである。この愚劣な彫刻の病気に気づいた私は、その頃ついに短歌を書く事によつて自分の彫刻を護らうと思ふに至つた。その延長が今日の私の詩である。それ故、私の短歌も詩も、叙景や、客観描写のものは甚だ少く、多くは直接法の主観的言志の形をとつてゐる。客観描写の欲望は彫刻の製作によつて満たされてゐるのである。かういふわけで私の詩は自分では自分にとつての一つの安全弁であると思つてゐる。
(同)
 
この点についてはまた別の機会で述べましょう。
 
さて、大阪の研究者・西浦氏から、また海外の写真等をいただきました。今日のこのブログの内容に関わりますので、その辺を明日。

一昨日の国会図書館での調査で見つけた、『高村光太郎全集』等未収録の作品を御紹介します。
 
大正6年(1917)2月2日の『東京日日新聞』に載った談話です。内容はロダンに関して。ロダンはこの年11月に亡くなりますが、その前から何度か重病説が報じられ、これもその時のものです。
 
ロダン翁病篤し 大まかな芸術の主 作品は晩年に一転して静に成て来た
 
『ロダンは千八百四十年巴里の生れで本年十一月十四日で満七十七歳になる。工芸学校に入学し、昼はルーブル美術館に、夜は図書館に通ひ、尚動物彫刻の大家バリに学んで刻苦精励し十七歳で卒業し、一人前になつて芸術家といふよりは職人の生活に入つた。
 在学中三度まで美術家の登竜門なるボザー(官立美術学校)の入学試験を受けたが、三度まで素描で落第し終に断念したが、晩年この事を人に語つては「あの時落第したのは実に幸福だつた」と述懐した。彼の職人生活はかなり長く具に辛酸を嘗めた。
 其間の仕事といふのは噴水の装飾とか壁縁の装飾の石膏細工であつたが、その下らない仕事こそ後年立派な果実を結ぶ根を養つたのであつた。廿三歳の時シヤンバーニユの田舎娘なるローズと結婚し翌年彼の有名な「鼻の潰れた男」をサロンに出して美事に刎られた。
 それは無論出来の悪い為では無く当時の審査官の固持せる美の標準からは醜悪極まる物に見えたのであつた。其の證拠には三年後のサロンで同じ物が立派に通過した、
 普仏戦争の最中白耳義に出稼ぎし白耳義にはその当時の作品が沢山残つてゐる。卅六歳の時までその国に滞在して、問題の作品「黄銅時代」を作り掛けたのも其頃だつた。「黄銅時代」は等身大の男の立像で、人間の精神の覚醒を象徴したので足一本に半年も費やした苦心の作だつたが、仏国へ帰つてサロンに出品すると一旦授賞を決定され間も無く取消された。といふのは余りに真に迫つてゐた為、生きてゐる人間の身体に型をあてて取つた詐欺的の作品といふ誤解を受けたからだ。
 其うち彼の真の技倆を認める人が多くなつて、四十歳の時同一の物をサロンに再び出して三等賞を受け先年の寃が雪がれた上政府に買上られ、今はルクサンブール美術館にある。この時代から彼の製作の速力は増大し、毎年多数の傑作を産んで其名声は漸次世界的になつた。続いて出たのが『聖ジヨンの説教』『アダム』『イヴ』ポルトロワイヤル庭園にあるユーゴーの記念像等である。
 装飾美術館のダンテの門を飾るべき『フランチエスカの群像』『三人の影』『思想』等をも作つた。ダンテの門は中止になり、『思想』は彼の希望に依りパンテオンの前に安置されたが、これはダンテの神曲の中の地獄へ落ち行く人から思ひ付いたもので彼の代表作と呼ばれてゐる。
 文豪バルザツクの記念像を頼まれ、似てゐないといふので刎ねられたこともあつた。その頃から彼の作風は一転化を来たして大まかな綜合的な芸術となりだんだん単純に静かになつて来た。彼には女弟子クローデル、男弟子エミール・ブールデルの他に余り有名な弟子はない。』
 

00311月にロダンが亡くなった際にも、光太郎の追悼談話があちこちに掲載されましたが、重病説の時に語った談話は今回が初めての発見でした。
 
ロダンの生涯が簡潔に、しかし押さえるべき点はきちんと押さえた上で語られています。途中に出てくる「ダンテの門」というのは「地獄の門」、「思想」というのが「考える人」です。
 
「廿三歳の時シヤンバーニユの田舎娘なるローズと結婚し」とありますが、それは事実婚ということで、その時点では入籍していません。もちろんそれは光太郎も知っていました。
 
二人が入籍したのは、この談話が掲載される直前の1月29日。その点に関する記述がないため、この時点では光太郎もそれは知らなかったようです。前年に軽い脳溢血を起こしたロダンは、以後健康に不安を抱え、同じく病気がちとなったローズとの入籍を果たしたのだそうです。しかしそれもむなしく、ローズは2月14日に歿し、ロダンの健康もすぐれません。結局、先に書いたとおり、ロダンはこの年11月に亡くなります。
 
事実婚というのは、フランスではさほど珍しいことではなかったようです。サルトルとボーボワールなどもそうでした。
 
実は光太郎と智恵子もそうです。結婚披露宴は大正3年(1914)の12月でしたが、入籍したのは智恵子の統合失調症がのっぴきならぬところまで行ってしまった昭和8年(1933)です。これは自分に万一のことがあった時の智恵子の身分保障といった意味合いもあったようです。光太郎、ロダンの真似をしたというわけではないのでしょうが、おそらく頭の片隅にはロダン夫妻の事はあったと思います。
 
光太郎とロダン、他にもたどった軌跡に奇しくも共通点があります。それは先の談話の最後に書かれている「女弟子クローデル」について。そのあたりを明日のブログに書きましょう。

国立西洋美術館「手の痕跡」展をレポートします。
 
これは同館で所蔵するロダンの彫刻58点とブールデルの彫刻11点、素描や版画を展示している企画展です。当方、ロダン作品をまとめてみるのは初めてで、非常に興味深いものがありました。
 
11/24、9時半頃西洋美術館に着きました。まずは予習を兼ねて以前から前庭に展示されている屋外彫刻を見ました(これらも出品点数にカウントされています)。
 
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ロダン作、「考える人(拡大版」)、「カレーの市民」、そして「地獄の門」などです。ご存知の方も多いと思いますが、有名な「考える人」は、最初は「地獄の門」の群像の一部でした。他にも「地獄の門」から取り出して単体の彫刻になったものは数多くあります。

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そして館内地下の企画展示室へ。フラッシュを発光させない、シャッター音に気をつけるという条件のもと、撮影は許可されていました。
 
大半は松方コレクションですが、ロダン彫刻の中でも有名なものがいくつも含まれています。「青銅時代」「洗礼者ヨハネ」「鼻のつぶれた男」「考える人」「ヴィクトル・ユゴー」「接吻」などなど。ほとんどはブロンズで、数点、大理石が混ざっているという構成でした。
 
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6/30前後のブログで紹介した日本人女優・花子の彫刻も2点。

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また、「バルザック」や「地獄の門」の習作もあり、完成作との比較という点で興味深く見ることができました。
 
ところどころにブールデルの作品。作風の似通った二人ですが、おもしろいことに、知らない彫刻を遠目に見ても「あれはブールデルだな」というのがほぼ間違いなくわかること。似通っていても個性がはっきり出ているのです。
 
それから素描や版画。光太郎はロダンの留守中にロダン宅を訪ね、夫人のローズからおびただしい素描を見せられ、圧倒されたという逸話があります。もちろん彫刻の数々も光太郎に大きな衝撃を与えたのはいうまでもありません。
 
さて、感想を。100年の時を経たものがほとんどですが、やはり素晴らしい、の一言に尽きます。「具象」の持つ即物性が圧倒的な力で迫ってきます。「質感」「量感」とでも言えばよいでしょうか。それから不動のものでありながら躍動感にも溢れています。光太郎は、彫刻というものは決して止まっているものではない、自分の方が彫刻の周りをぐるっと回ることで、変化して行く「辺相」=輪郭を楽しむことができる、といったようなことを述べています(すみません、ぱっと出典が思い浮かびません)。今回も展示の方法が工夫され(すべてを壁際に押し込められるとそういう見方ができません)、いろいろな角度から見ることができ、それが実感できました。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
明日は、光太郎彫刻との比較的な部分でレポートします。

閲覧数が6,000件を突破しました。ありがとうございます。
 
紹介しようと思っていて忘れていた件がありました。現在、上野の国立西洋美術館で開催中の「手の痕跡」展です。
 
高村光太郎に多大な影響を与えたロダン001、そしてロダンの系譜を最も色濃く受け継いだ一人、ブールデル。国立西洋美術館ではロダン作品58点、ブールデル作品11点を所蔵しているそうですが、今までそれらをまとめて展示する企画展がなかったそうです。そこで今回の企画展が持たれることになりました。
 
会期は来年1月23日まで。
 
それにしても同館にロダン作品が58点もあったとは知りませんでした(無料で見られる前庭には「考える人」や「地獄の門」「カレーの市民」が据えられています)。大半は「松方コレクション」だと思われます。これは川崎造船所(現・川崎重工業)社長を務めた松方幸次郎が、明治末から大正初めにに商用でヨーロッパを訪れた際、イギリスやフランスで収集した多くの美術品です。 もともと国立西洋美術館自体が「松方コレクション」を中心に作られたという経緯があります。
 
このあたりがブロンズ彫刻の強みですね。同一の型から同じ物が作れるので、「考える人」は世界中に約20点、日本にも数点あるそうです。同館に58点あるからといって、ロダンの母国・フランスにそれが無い、というわけではないのです。
 
光太郎のブロンズ彫刻、有名な「手」なども日本中に散らばっています。このあたり、あまり突っ込むと微妙な問題になってくるので、今日はこれ以上書きませんが、いずれ書きます。
 
さて、「手の痕跡」展。当方も暇を見て行ってこようと思っています。会期が結構長いので、都合がつけやすいと思います。皆様も足をお運び下さい。

大正8年(1919)9月15日、長野県は善光寺さんで、明治24年(1891)の大火で焼失した仁王像に代わる新しく作られた仁王像の開眼供養が行われました。
 
阿形・吽形、ともに高さ一丈六尺、いわゆる「丈六」です。現在の単位に直せば4.84848485 メートル。ただ、実際にはもう少し高いようです。あまりに巨大すぎて、東京から長野までの運搬のため、特別に無蓋貨車をあつらえたという話も伝わっています。材は木曾檜だそうです。この仁王像の作者が、光雲と米原雲海です。
 
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同じ仁王門の、仁王像の裏側にも光雲・雲海合作の三宝荒神、三面大黒天が据えられています。こちらは一回り小さいものですが、それでも七尺五寸(2.27272727 メートル)です。
 
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ちなみに上の画像はすべて大正8年(1919)の開眼供養記念の絵葉書です。
 
これら四体の像は、今も善光寺を訪れる善男善女を迎えてくれています。当方も昨年の暮、家族旅行で立ち寄りました。ブロンズの銅像とはまた違う、木の温かみが感じられるものです。
 
お近くにお越しの際はぜひお立ち寄りください。

001昨日のブログで、島根県立石見美術館の「東京芸大美術館所蔵 日本近代美術の名品展 森鷗外と米原雲海を中心に」を御紹介しました。
 
鷗外については、来月オープンの鷗外記念館を訪れてから、まとめてレポートします。今日はもう一方の米原雲海に関して、簡単に紹介しましょう。
 
雲海は明治2年(1869)、島根・安来の生まれ。長じて大工をしていたのですが、彫刻の道を志し、故郷に妻子を残し(それを隠して)光雲の門をたたきます。それが明治23年のことです。大工として基礎がしっかり出来ていたために、めきめきと頭角を現し、後に文展(文部省美術展覧会)などにも出品、高い評価を受けるようになります。
 
インターネットサイト「青空文庫」さんで、「光雲懐古談」が公開されています。その中の「谷中時代の弟子のこと」に詳細が載っています。
 
明治末、光太郎は留学から帰り、文展などの評を新聞などに発表するようになります。その中では、幼少期から接していた雲海に対しても、歯に衣着せぬ評を与えています(けちょんけちょんにけなしているわけではないのですが)。光太郎は少年時代、米原に木彫を教わったのですが……。
 
ロダンによって西洋近代彫刻への眼を開かれ、日本との目もくらむばかりの格差に打ちのめされていた光太郎にとって、古い仏師の伝統の延長線上にある光雲系の彫刻は、様式にこだわりすぎているように見えたようです。
 
左上の画像は、雲海作「盲人川を渡る」。明治32年(1899)の作、翌年のパリ万博での銀賞受賞作です。ただし光雲の名で出品されました。平成7年3月発行『芸術新潮』第46巻第3号「【特集】日本人が見捨てた明治の美 「置物」彫刻の逆襲」から画像を拝借しました。
 
雲海は大正14年(1925)、数え57歳で没しています。少々早い死です。その少し前、大正8年には光雲との合作で、大きな注文仕事をこなしています(当方、昨年の暮れに見て参りました)。
 
明日はその辺を。

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企画展:鷗外と雲海ゆかり、近代美術の代表作100点--来月26日まで益田・グラントワで /島根

毎日新聞 10月23日(火)16時38分配信

津和野出身の文豪、森鷗外(1862-1922)と、安来出身の彫刻家、米原雲海(1869-1925)にゆかりある作品を集めた「東京芸大美術館所蔵 日本近代美術の名品展」が、益田市有明町のグラントワ・県立石見美術館で開かれている。鷗外の生誕150年を記念し、2人が同時期に教壇に立った東京美術学校の後身、東京芸術大が所蔵する作品を集めた。
 
鷗外は留学先のドイツでヨーロッパの絵画を学ぶ日本の洋画家たちと接点を持ち、その後も交流を続けた。東京美術学校では美術解剖学を教えるなど日本の近代美術とかかわりが深い。雲海は高村光雲に師事し、優れた技量で木彫界に革命を起こしたとされる。
石見美術館の柱の一つが鷗外であり、木彫家の澄川喜一グラントワセンター長が東京芸大学長を務め、同大美術館設立にも尽力したことから企画展が実現した。

会場には、鷗外と交流のあった画家や、雲海ゆかりの彫刻家らの作品が並ぶ。国重要文化財の洋画2点や黒田清輝、横山大観らの作品を含む日本近代美術の代表作、雲海や光雲、光雲の息子で詩人として知られる高村光太郎らの彫刻など、展示作品は約100点に及ぶ。第2会場には、県出身者が在学時に制作した作品も並ぶ。
11月26日まで。薩摩雅登教授による記念講演会(11月4日)など関連イベントも開かれる。グラントワ(0856・31・1860)。
 
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今年は森鷗外生誕150年ということで、来月には千駄木に記念館が新しくオープンするなど、各地でイベント等があります。生誕地・島根でもこういう企画があるのですね。光雲や光太郎の作も出るとのこと。近くの地域の方、行かれてみてはいかがでしょうか。
 
鷗外と光太郎もなかなか面白い関わりがいろいろありますので、いずれこのブログで紹介します。
 
一方の米原雲海、上記記事にもあるとおり、光雲の弟子の一人です。ただし、故郷・出雲である程度修行を積んでからの入門で、生え抜きの光雲門下ではありませんでした。当然、光太郎とも関わりがあります。明日はそのあたりを書いてみようかと思っています。

BS朝日の番組「百年名家」を見て、千駄木の光太郎アトリエが空襲で焼け落ちた時のエピソードを思い出しましたので紹介します。
 
6/25のブログで紹介した『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』に掲載された元日本詩人クラブ会長の寺田弘氏による「証言」です。

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 空襲で高村光太郎さんの家が焼けたときに、一番最初に駆け付けたのが私なんです。二階の方が燃えていて、誰もいないんです。その二階の燃えていた場所が智恵子さんの居間だったんですけど、そこから炎がどんどん燃えだして、それを高村光太郎さんは、畑の路地のところで、じっと見つめてたんですよね。
 そして、「自分の家が燃えるってのはきれいなもんだね、寺田くん」って。これには驚きましたね。その翌日、焼け跡の後片付けをやっていたら、香の匂いがしたんですよ。高村さんが「ああ、智恵子の伽羅が燃えている」って、非常に懐かしそうに立ち止まったのが、印象的でしたね。
 
それに対する爆笑問題のお二人のコメント。
 
田中 自分の家が燃えているのに。
太田 きれいだねって。
田中 なかなかね、そんなこと言えないじゃないですか。
太田 これは言えないよ。言えないっていうか、ちょっと狂気ですよね。なんでもそうやって芸術家
っていうのはさ。表現者っていう職業はどんなことでもそうやってとらえますよね。ああこれはきれい だとかなんだとかって言ってる場合じゃねえんだ、馬鹿野郎ってことですよね。
田中 まあ、どうなんですかね。思い出の家とか、本当はもっとすごい思いをしてるんでしょうけど。空襲ですもんね。でもそんなときに、そこで、こう言ってしまうという。
太田 言ってしまうというか、本気で感じちゃうところに問題があるんですよ。やっぱりこういう表現者ってどこか異常ですからね。だから普通の生活はできないですよね、こういう人たちは。特にこの 時代の文壇の人たちってのはみんなそうでしょうけどね。
 
当方、焼け落ちるアトリエを見つめる光太郎の姿に、芥川龍之介作「地獄変」の主人公、絵師・良秀の姿が重なります。

ところで『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』、売れているのでしょうか? 当方の「証言」も掲載されているので気に掛かります。少し前、近所の書店では新刊コーナーに1冊置いてありましたし、高速バスのターミナルがあるので時々立ち寄る浜松町の書店では平積みになっていましたが。

さて、千駄木。予想通り「若大将のゆうゆう散歩 千駄木(後半)」も再放送されるようです。 

若大将のゆうゆう散歩 「千駄木(後半)」

BS朝日  2012年10月23日(火) 17時25分~18時00分
 
今日は昨日にひき続き文京区「千駄木」をお散歩 ▽日本では数少ないレースドール作家の繊細な技 ▽伝統技術でつくる木製風呂桶の父娘職人

番組概要
さあ、若大将と一緒に街に出ませんか?散歩の楽しみ方、お勧めコースをお茶の間に紹介するこの番組。好奇心旺盛な加山さんは永遠の少年。目をキラキラ輝かせながら、街の息づかい、人とのふれあいを体験します。

出演者    加山雄三、生稲晃子、佐分千恵(テレビ朝日アナウンサー)

ぜひ御覧下さい。

テレビ放映の情報です。気がつくのが遅れ、紹介が遅くなってしまいました。 

百年名家 「東京 根津・千駄木~文豪の愛したお屋敷町~」

 BS朝日1 2012年10月14日(日) 12時00分~12時55分 の放送内容
 
「谷根千(やねせん)」と呼ばれ、親しまれる谷中、根津、千駄木地区。夏目漱石や森鴎外などが居を構え、文豪たちに愛された閑静なお屋敷町を八嶋さんと本上さんが巡ります。

番組内容

最初に訪れたのは千駄木の洋館。ステンドグラスには、当時の社会情勢を反映した戦闘機と戦艦が描かれている。また、女中さんの呼び出し装置など様々な工夫も。そんな邸宅の収納を整理していると意外なものを発見。次に向かったのは、大正8年建築の大邸宅。在来建築技術と西洋技術を融合して建てられた。戦時中の空襲にも焼け残ったこの家にあったのは、なんと防空壕。その入口は、何とも意外な場所に隠されていた。最後に、根津の料理店を訪ねる。文化庁指定登録有形文化財の店内中央には、なんと築百年を超える土蔵が残されていた。新旧の混ざり合った贅沢な空間で、大都会に息づく歴史の重さに心を打たれる二人だった。

番組概要

百年名家~築100年の家を訪ねる旅~▽築100年以上の家屋を訪ね、そこに暮らす家族や街の様子を紹介。今も息づく伝統的な家と生活を守り続ける人々に触れ、生きるヒントや豊かな生活を送るための知恵を探します

出演者

八嶋智人、本上まなみ
 
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この番組、昨年、震災直前に当方の住まう香取市でロケを行い、追加で震災後の惨状を交えて放送されました。それ以来、親しみを感じている番組です。
 
今回の注目は、番組内容の中にある「大正8年建築の大邸宅」。旧安田楠雄邸というところで、安田財閥に関わります。この家、通称「155番地」=高村家(光太郎実家)のお隣です。そんなわけで、平成21年にはここで「となりの高村さん展」という一風変わった展覧会が開かれました。
 
今回も高村家に関して触れられることを期待します。
 
★第一部『愛ガ咲ク コンサート』
 第二部『智恵子抄』(高村光太郎への愛を一生貫き、罵り、叫び、崩れていった、女の半世)

を観に行って参ります。
 
そこで、「百年名家」は録画予約して出かけます。

少し前に戦時中の金属供出で失われてしまった光太郎、光雲作の銅像について書きました。
 
そもそも上野の西郷さんの原型(木型)が鹿児島に運ばれ、そこで空襲により焼失した、という話の流れからそちらに行ったもので、あまり下調べもせずに書きました。
 
書きながら、光雲作の以前にご紹介した長岡護全像以外の光雲作の銅像の数々はどうなっているんだろう、と疑問がわき、そこで、調べてみました。ネットで調査してみると、昭和3年に刊行された『偉人の俤(おもかげ)』という書物があることを知りました。これは、明治から昭和初年に国内に建造された銅像700基余りを、ほぼ網羅した写真集です(すべて、ではありません。大正7年(1918)の浅見与一右衛門像などは漏れています)。そして、平成21年に復刻版が刊行されており、さらに「資料編」もついているとのこと。この本にあたればかなり詳しいことがわかりそうだと気付きました。
 
当方生活圏の図書館に所蔵されていればと思い、まず成田市立図書館のHPを調べました。成田市立図書館はこれまでもけっこうマニアックな(笑)書籍が収蔵されていて、非常に助けられています。案の定、ありました。
 
そこで早速、昨日、行って調べて参りました。その結果、やはり光雲作の銅像もかなり戦時供出されていることが判明しましたので紹介します。
 
① 西村勝三像 明治39年(1906)
 
西村勝三(天保7年(1837)~明治40年(1907))は、日本で初めて本格的な靴を製造した実業家です。その功績をたたえ、向島の西村家別邸に建てられました。

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当方所蔵の古い絵葉書です。
 
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こちらは『偉人の俤』から。
 
 
② 坂本東嶽像 大正12年(1923)
 
東嶽坂本理一郎(文久元年=1861~大正6年=1917)は秋田県選出の代議士。郷里の秋田県仙北郡美郷町千屋に建てられた像です。
 
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以前に地元の方から送っていただいた資料のコピーです。
 
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こちらはやはり『偉人の俤』から。
 
この2体は『偉人の俤』資料編によれば、やはり戦時供出で現存せず、ということになっています。
 
ただ、坂本東嶽像は現在、秋田の仙北に現存しています。岐阜の浅見与一右衛門像のように、戦後に新たに別人が作ったのでしょうか。または、やはり光雲作・愛媛の広瀬宰平像は、供出されたものの、原型が保存されており、それを使って復刻されています。そのパターンでしょうか。情報をお持ちの方はお知らせいただければ幸いです。
 
その他、無くなった理由が不明ながら無くなった銅像もあります。

 福井県 大和田荘七像 敦賀町永厳寺境内 明治44年
   〃  松島清八像 福井市足羽公園内 明治39年
 
さらに、残っているかどうかも不明、というものも。

 栃木県 松方正義像 那須郡西那須野村 明治41年
 
このあたりに関しても情報をお持ちの方はお知らせいただければ幸いです。

同じブロンズでも、寺院に寄進され、露座として境内にある光雲作の仏像類は、かなりの程度こちらで情報を把握しています。それらは現存するものも多く、いずれ見て歩こうと思っております。

光雲の彫刻にも、戦時中に残念ながら供出されてしまい、現存しないものがあります。
 
長岡護全銅像
 
明治39年、熊本の水前寺公園に建てられた像です。画像は当方手持ちの古絵葉書です。

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 長岡護全(もりまさ)は熊本の名門、細川家の出で、日露戦争遼陽の会戦で戦死。名門の出ですので、軍神的な扱いを受けたのでしょう。光雲が中心となり、白井雨山、水谷鉄也ら光太郎とも関わる彫刻家が手がけています。
 
この像も戦時中に供出、現存していません。ただ、ネットで調べたところ、跡地に写真が展示されているとのことです。

他にも光雲作で供出されてしまい、現存しないものがあると思われます。光太郎のものはかなりわかっているのですが、光雲のものは消息不明のものが少なくありません。情報をお持ちの方はお知らせ願います。

戦時中に残念ながら供出されてしまい、現存しない光太郎彫刻についての紹介、最後です。
 
赤星朝暉胸像
 
昭和10年(1935)の作。千葉県立松戸高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)に据えられました。赤星朝暉は同校の初代校長です。
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『高村光太郎 造型』春秋社 より
 
例によって光太郎の言から。
 
 松戸の園芸学校の前の校長の赤星さんのを拵へやが、これは自分として突込めるだけ極度の写実主義をやつてみたもので、一寸ドナテルロ風な物凄い彫刻である。
(「回想録」昭和20年(1945)『高村光太郎全集』第10巻)

 翁は偶然の因縁で、私と同番地の地所内に住居を持つて居られ、そこから松戸の園芸学校へ通つて居られたらしく、あとで思へば、この特色ある面貌には時々往来であつてゐたやうに思ふ。翁が松戸の高等園芸学校の校長さんをやめられたので、学校の校庭に記念の胸像がたてられたわけである。幾年頃であつたか、今忘れてしまつたが、これは学校へ行つて調べればすぐ分ることである。
 翁は近所に居られることとて、よくポーズに通つてくれた。もう七十歳を超えて居られたと見えたが、頑丈な体格を持ち、色の浅黒い、いかにも土に関係の深さうな、特異な相貌をしてゐた。かん骨が高く、眼は凹んでまろく、大きく、鼻がとがり、口も大きく、あごは四角に張つて肉がついてゐた。その二重まぶちのまろい大きな眼が奥の方で光つてゐるさまは、ちよつと戦国時代の野武士をおもはせて愉快だつた。私はこの顔の食ひ入るやうな皺の線條にドナテロ風の食慾を感じて、徹底的にその実在性に肉薄した。これまで作つてゐた都会の文化人等とはまるで違つた人間族の代表がそこに出来上つたやうに感じた。像が出来上がる少し前に翁は物故せられたやうであつたが、この像のきびしさを松戸の学校のお弟子さん達はどう見たか、少々突つこみ過ぎたやうにも感じた。しかし気持は悪くないので、後年、朝鮮徳寿宮の美術館で毎年行はれる日本美術の展観の時、一年間の契約で原型の石膏型をかしたことがある。それでその年の館の図録の写真にこの胸像が出てゐる。今ではそれもこの作品のかたみとなつたわけである。校庭にあつたブロンズの胸像を軍へ献納する時、学校から問合せがあつて、原型が保存されてゐるなら、献納する。原型がもはや無くて、かけがへがないなら、献納しないといつて来た。その時には、まさかアトリエが焼けると思はなかつたので、原型は現存してゐるから献納せられよと返事を出した。それで皆なくなつた。
(「焼失作品おぼえ書き」昭和31年(1956)『高村光太郎全集』第10巻)
 
 この像も、岐阜の浅見与一右衛門像同様、戦後になって再建されています。

 再建は昭和26年(1951)ということで、光太郎存命中ですが、光太郎の書いたものの中に、再建云々の記述は見当たりません。昭和26年といえば、光太郎は花巻郊外太田村山口の山小屋で隠棲中。光太郎と無関係に進められたのではないかと思われますが、詳しいことがわかりません。情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。
 
2014/03/03追記 再建された像は、光太郎とも交流のあった彫刻家・武石弘三郎が作り、新潟に建てられた像の原型を使ったものでした。
 
 松戸は同じ千葉県内で、それほど遠くありませんので、そのうちに調査にも行ってみようかとも思っています。
 
 さて、もう一篇、この像に関する光太郎の言を。
 
間もなく、智恵子の頭脳が変調になつた。それからは長い苦闘生活の連続であつた。その病気をどうかして平癒せしめたいと心を砕いてあらゆる手を尽している期間に、松戸の園芸学校の前校長だった赤星朝暉翁の胸像を作つた。これも精神異状者を抱へながらの製作だつたので思つたよりも仕事が延びた。智恵子の病勢の昂進に悩みながら其を製作していた毎日の苦しさは今思ひ出しても戦慄を感ずる。智恵子は到頭自宅に置けないほどの狂燥状態となり、一方父は胃潰瘍となり、その年父は死去し、智恵子は転地先の九十九里浜で完全な狂人になつてしまつた。私はその頃の数年間家事の雑務と看病とに追はれて彫刻も作らず、詩もまとまらず、全くの空白時代を過した。私自身がよく狂気しなかつたと思ふ。其時世人は私が彫刻や詩作に怠けてゐると評した。
(「回想録」昭和15年(1940)『高村光太郎全集』第9巻)
 
 なんとまあ、この像を作っている時はこういう状態だったわけです。その意味でも、光太郎にとっては思い出深いものだったのでしょうが、現存しないということで、非常に残念ですね。
 
 明日は同じく戦時供出でなくなった光雲の彫刻を紹介します。

昨日の続きで宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)に建てられた光太郎作の青沼彦治像についてです。
 
こちらは像の序幕記念の絵葉書。袋付き5枚セットのものを入手できました(仙台の古書店から送られてきた目録で発見しました)。像の下の方に移っているのが青沼彦治本人でしょう。残念ながら像が大写しになっているカットがありませんでしたが、意外と珍しいものだと思います。

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この像も、残念ながら戦時中に金属供出の憂き目に遭いました。現在では、台座がひっそりと残っています。場所は古川駅から1㎞程北の荒雄公園というところです。すぐ近くに吉野作造記念館があります。当方、2年前の冬に行って参りました。

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岐阜の浅見与一右衛門像同様、やはり像は無くなっても翁を顕彰する気運は無くならず、昭和41年(1966)に工事が行われ、台座の基底部は野外ステージに転用、主柱部分に新たにレリーフを作ってはめ込んであります。

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注目すべきは主柱の裏側。大正14年(1925)建立当時の石製銘板が遺っていました。「監督 高村光雲  原型 高村光太郎  鋳造主任 高村豊周」の文字が刻まれています。

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さて、青沼家には、供出前にこの像を撮影したフィルムが残っており、ビデオテープにコピーされ、像の近くにある吉野作造記念館に所蔵されています。
 
当方、2年前にここを訪れた際、見せていただきました。動画として残っているというのは珍しい例です。しかし、動画といっても銅像を撮影したものですから、動きはありません。ただ、写真では見られない背部なども写っていたように記憶しています。
 
他にも光太郎作品で戦時供出されたものがあります。明日も続けます。

昨日に引き続き、戦時中に残念ながら供出されてしまい、現存しない光太郎彫刻についての紹介です。
 
青沼彦治像

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『青沼彦治翁遺功録』より
 
大正14年(1925)、これも光雲の代作ということで、光太郎が制作。宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)に建てられました。青沼彦治は慶応2年(1866)の生まれ。やはり酒造業を営んでいた素封家でした。地域への貢献も大きく、地元民がその偉業を頌え、銅像建立を発願しました。除幕式は大正14年(1925)11月7日。青沼翁はまだ存命中でした(昭和11年=1936歿)。上の画像で像の右に立っているのが光太郎。左に座っているのが光雲、その後ろはおそらく鋳造を担当した光太郎の弟・豊周(とよちか)です。
 
後年、光太郎はこの像について「古川から入つたところにある荒雄村に、青柳とかいう人の銅像があつて、これも代作として原型を僕がやつたものだが、これは戦時中に供出してしまつたらしい。これはつまらないもので、なくなつてよかつた。(「遍歴の日」昭和26年(1951)『高村光太郎全集』第10巻)と語っています。自作でありながら手厳しい評です。
 
この像について述べた光太郎の文章は、長らくこれしか見つかっていませんでしたが、3年程前に、昭和11年、地元で非売私刊で出された『青沼彦治翁遺功録』という書籍に寄せた序文を見つけました(「光太郎遺珠」④収録)。少し長いのですが紹介します。
 
 わたくしは平素、青沼彦治翁に親炙してゐた者ではなく、先年亡父光雲が、翁の寿像を製作した時、その助手として働いたため、製作の前後に僅かに翁に接する光栄を得たに過ぎない者である。因つてただ、一彫刻家の目に映じた、翁の特徴についてのみその一端を語る事としたい。
 翁は決して長身の方ではなく、むしろ小柄であり、且つ肥満しても居られなかつた。さうかといつて鶴のやうに痩せても居られず、程よき比例を全身の均衡に持つて居られたので、すらりとした姿勢が、遠くから望見する時、ともすると長身のやうにさへ見えた。一方の肩が稍撫で肩になつてゐるのが、翁の特徴で其が又大変懐しみある温容となり、いかにも謙虚な魂を示して居られた。しかも第一公式の羽織袴の時の端然さは、まるで仕舞でも舞はれるかと思ふ程であつた。
 翁の相貌で誰でもすぐに気のつく事は、頭蓋の人並み以上に大きい事とその方形なる事と、前額の隆い事であつた。整然とした、鼻梁と、秀でた眉と、確乎たる頤との関係は、どうしても蒙古系の骨格とは思はれなかつた。
 殊にその二重瞼のいきいきした、聡明な眼光と、愛嬌ある、口唇とは、翁の動いてやまざる精神の若さを表現してゐた。特に異例なのは、耳朶の大きくて強くて張つて居られた事である。かなり多くの肖像製作に従事したわたくしも、翁ほどの大きな、耳朶は見た事は曾つてなかつた。僅かに亡父光雲の耳が此に拮抗し得られるかと思ふ(耳で名高い羽左右衛門の耳は、大きいけれども薄く、故大倉喜八郎翁の如きは、想像以上に小さかつた)。
 翁はいかにも物静かな、応対ぶりで会話をせられたが、いつの間にか中々熱心に、細かく周到に話題の中心に迫つてゆくのが常であつた。翁と亡父光雲との対話を傍聴してゐる時は面白くたのしかつた。
 亡父は耳が相当に遠かつたし、翁は純朴な東北弁まる出しであつたから、話は時々循環してその尽くる所を知らなかつた。今や、翁も父も此世に亡い。
 其を思へば、感旧の哀しみに堪へ難いが、しかし父はその製作により、翁はその巨大な功績のかずかずによつて、永久に吾等の間に記憶せられる。翁の遺徳の大なるに聯関して、直ちに亡父の遺作を想起し得る事は、不肖わたくしのひそかに慰とするところである。
 昭和十一年七月

実際には光太郎の作なのですが、あくまで光雲の名で創られていますので、この文章もそういう内容になっています。それにしても、肖像彫刻を創る際に光太郎が対象をどのように捉えていたのかが端的に表されていて、その意味では一級の資料です。また、翁と光雲の噛み合わない会話のくだりなどは、読んでいて微笑ましいものですね。
 
長くなったので、一旦切ります。続きは明日。

昨日、光雲が制作主任であった上野の西郷さんの銅像について書きました。
 
西郷さんの銅像は戦時供出をまぬがれ、上野公園に現存しています。しかし、光雲作、光太郎作の銅像の類のうち、残念ながら供出されてしまったものも少なくありません。
 
それらについて御紹介すると同時に、情報等ございましたらご提供のお願いです。
 
まずは光太郎作品から。
 
浅見与一右衛門銅像
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『浅見与一右衛門翁と「岩村電車」 復刻版』より
 
大正7年(1918)、光雲の代作ということで、光太郎が制作。現在の岐阜県恵那郡岩村町に立てられました。浅見与一右衛門は天保14年(1843)の生まれ。岩村で酒造業と庄屋を兼ねた素封家で、維新後は岐阜県議会議長、衆議院議員などを務めました。また、岩村電車を開通させるなど、地域への貢献も大きく、地元民がその偉業を頌え、喜寿の記念に銅像建立を発願しました。除幕式は大正8年(1919)4月27日。浅見翁はまだ存命中でした(大正13年=1924歿)。
 
後年、光太郎はこの像について「銅像の代作では、木曽川のへりの村の村長さんのものがある。有徳な村長さんで、村中の人が金を出して作つたものだが、それがとても猫背のフロツクコートを着て膝のとび出したズボンをはき、シルクハツトを持つているところをこさえたものである。モデルのとおりにこさえたけれど、そんなに悪くない作のはずだ。だが村では不評判だつたことだと思う。父は、もう少しおまけした方がいいなどと言つたものだ。なにこういうところがかえつておもしろいのです、と言つてそのまま鋳金した。(「遍歴の日」昭和26年(1951)『高村光太郎全集』第10巻)と語っています。
 
「村長さん」というのは光太郎の勘違いなのではないかと思われます。上記の浅見翁経歴は、平成19年、地元で刊行された『浅見与一右衛門翁と「岩村電車」 復刻版』に依りましたが、県議会議長、衆議院議員という記述はあっても村長という記述はありません。ネットで調べても同様です。

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このあたり、詳しくご存知の方は情報をいただければ幸いです。
 
この像が、残念ながら戦時中に金属供出の憂き目に遭いました。現在では、台座がひっそりと残っています。

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また、やはり「有徳の人」だったということで、地元で像を再建しようという運動が起こり、昭和60年(1985)、岩村町出身の彫刻家、永井浩氏によって新たな像が創られました。おそらく元々の像の写真等を参考にしたのでしょう、同じポーズで創られています。

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当方、3年前の夏に岩村を訪れました。旧中山道の宿場町、恵那から山中に入ったところで、浅見家をはじめ古い街並みが残り、風情のある場所でした。当方の住む千葉県香取市同様、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
 
他に岩村城跡や歴史資料館など、見どころも多いので、一度行かれる事をお勧めします。
 
次回も同じように供出されて現存しない光太郎彫刻について御紹介します。

先日紹介しましたNHK総合テレビで放映の「歴史秘話ヒストリア」、昨日オンエアされました。
 
光雲が制作主任となって、上野に作られたおなじみの銅像が取り上げられましたが、光雲とか東京美術学校という話にはなりませんでした。少し残念でしたが、銅像の場合、「誰が作ったか」より「誰を作ったか」が重きをなすことが多いので、しかたがないでしょう。
 
ただ、顔の制作の際、「光雲が」という主語は抜けていましたが、弟の西郷従道の顔を参考にした、というエピソードは紹介されていました。
 
下の画像は、やはり古い絵葉書。銅像の完成後、西郷さんの故郷・鹿児島に据えられた原型の木型です。

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少し後の時代になると、銅像の類は粘土で原型を作る塑像が一般的になりますが、この時期(西郷像は明治25年=1892)、原型は木彫で作られていました。これが残っているのであれば、鹿児島まで見に行こうと思っていたのですが、残念ながら太平洋戦争中に空襲で焼失してしまったそうです。
 
光太郎の彫刻もそうですが、戦災で焼失したものは少なくありません。また、金属供出といって、武器制作のため、全国の銅像が次々と鋳つぶされました。渋谷のハチ公もしかり。現在のハチ公は2代目です。光雲や光太郎の作った銅像にも、供出されてしまったものがあり、原型も空襲で焼けてしまったため、今では写真でしか見られないものもあります。
 
そうかと思うと、昨日のニュース、今朝の新聞で報道されていましたが、なんと、十和田湖の湖底から旧日本軍の飛行機が引き上げられたとのこと。
 
何とも複雑な思いです。

明後日、NHK総合テレビで放映の「歴史秘話ヒストリア」は、西郷隆盛を扱います。 

歴史秘話ヒストリア「のんびり犬と暮らしたい~上野のシンボル西郷さん」

 NHK総合 2012年9月5日(水) 22時00分~22時45分 の放送内容
 
上野のシンボル・西郷さん。明治維新のヒーローの願いは犬とのんびり暮らすこと?そして西郷さんが愛した温泉とは。西南戦争で散ったラストサムライ西郷さんの秘話。

番組内容
上野のシンボル、西郷さん。のほほんとした着流し姿の銅像でおなじみ、明治維新のヒーローの願いは、犬とのんびり暮らすこと? 近年見つかった史料から解き明かされる、西郷さんの知られざる愛犬生活とは? さらに温泉も楽しんでいた頃、突如起きた最大の悲劇、史上最大の国内戦・西南戦争。相棒たちに見せた優しさとは? ラストサムライ・西郷さんが、なぜ今も多くの人に慕われるのか。その大いなる愛の秘密に迫る。

出演者 キャスター 渡邊あゆみ

先週オンエアの予告編では、上野の銅像が映っていました。

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この像は、明治25年(1882)、光雲が主任に任じられ、東京美術学校が制作にあたりました。有名な薩摩犬「ツン」は、後藤貞行が中心になっての制作です。除幕は明治31年(1898)。今でも上野のランドマーク的存在ですね。上の画像は明治時代の絵葉書、様式からして明治39年までのものです。
 
西郷像をメインに扱うわけではなさそうですので、光雲や後藤の話などはあまりないかとは思いますが、紹介しておきます。

つい3日前のブログに芹洋子さんのCDがらみで十和田湖のことを書いたばかりですが、十和田湖に関して残念なニュースが入っています。 

十和田湖観光汽船が倒産 「原発事故の風評被害が深刻」

 青森・秋田両県にまたがる十和田湖で遊覧船を運航する十和田湖観光汽船(本社・青森市)が17日、民事再生手続きの開始を青森地裁に申請し、倒産した。同社は「原発事故の風評被害で修学旅行生らが来なくなった。乗客数は事故前の7割までしか戻らず、収益回復が見込めない」と説明している。
 同社によると、震災後、外国人旅行者と修学旅行生が激減。乗客は2010年度の約10万人から11年度に約6万5千人に減り、12年度も回復していない。
 負債総額は約5億7千万円。今後も遊覧船事業を続けながら、従業員42人も解雇せずに再建を目指すとしている。青森県や金融機関に十和田湖の観光振興策などの支援を求めている。
 同社は3月、原発事故の風評被害だとして昨年4月~今年2月の減収分の全額4200万円の賠償を東京電力に求めたが、5月に昨年3~5月の外国人旅行客の減少分として75万円が払われただけだったという。
朝日新聞デジタル  2012年8月17日19時16分
 
まったくこんなところにも震災や原発事故の影響か、と、正直なさけなくなります。
 
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画像はひと昔前のテレホンカードです。光太郎作の乙女の像と遊覧船が写っています。
 
当該の会社は遊覧船の運航は続けるそうですし、十和田湖では二社が遊覧船を運航していたということですので、残る一社にも頑張ってほしいものです。しかし、頑張るといっても人が来ないことにはどうしようもありません。
 
当方、4月来、4回東北に行きました。まだまだ震災や原発事故の爪痕が残っています。その現状を風化させず、日本全体の問題として捉えるためにも、ぜひ東北を訪れてほしいと思います。現地の様子を見るだけで、一つの復興支援になると思います。

yahoo!のニュース検索で1件、ヒットがありましたのでご紹介します。光雲の代表作の一つ、有名な「老猿」に関してです。
 
画像は平成14年に開催された展覧会のチラシです。「老猿」が大きく載っているので使わせていただきます。 
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にほんご鹿沼市:高村光雲「老猿」生んだトチノキで「木彫りのまち」PRへ 第1弾、26日に国立博物館見学ツアー /栃木

 ◇若手林業者ら乗り出す
日本近代彫刻の重鎮・高村光雲(1852~1934)の代表作「老猿」の素材が、鹿沼市産のトチノキだったことに、同市の若手林業者のグループ「森のなかま」(福田勝美代表)が着目。「木彫のまち鹿沼」のPRに乗り出した。26日には第1弾として東京国立博物館に展示されている「老猿」見学ツアーを計画。国の重要文化財である作品を味方につけ、イメージアップに努める。【浅見茂晴】
木工業が盛んな同市には、鹿沼産材の使用拡大を目指し、森林組合や製材所、建具店など木工関係者でつくる鹿沼地区木材需要拡大協議会がある。「森のなかま」は協議会の企画を実行するグループで、チェーンソーアーティストによる松尾芭蕉像をまちの駅「新・鹿沼宿」に設置した。
また、彫刻屋台や木版画の「川上澄生美術館」もあることから、森のなかまでは「木のまち、木工のまち鹿沼」に続く第三のキャッチコピーとして「木彫のまち」を考案した。
高村は東京生まれ。仏師の弟子として木彫を学び、同時に西洋の写実主義を取り入れて、新しい時代を切りひらいた。「老猿」のほか東京・上野の西郷隆盛像や皇居前広場の楠公像などで知られる。
「老猿」(高さ90・9センチ)は1893(明治26)年のシカゴ万博出品のため制作。大ワシとの格闘直後の気迫あふれる姿を描写した。材料のトチノキは、鹿沼に来て買い付けた。その際のエピソードを「栃の木で老猿を彫ったはなし」に書き残している。同市の上粕尾地区にあった、幹の直径が約2メートルの大木を切り出したという。その後、切り株から新たな芽が出て、現在は3代目と伝えられる木が、幹の周囲約3メートルにまで成長している。
現地は林道の終点から徒歩約30分上った斜面にあり、雑草が生い茂っている。整備が必要な状態だ。「森のなかま」は11月、現地確認に訪れる予定で、このトチノキをそのシンボルの一つと位置づけ、イメージアップを図っていくと同時に木彫に関するエピソードの掘り起こし作業も進める。代表の福田さんは「老猿に使われた木にあやかって、いろいろな方法でPRし、木工業の発展に寄与したい」と話している。
見学日程は26日、市民を対象に定員25人を募集する。8月10日までに申し込む。問い合わせは、協議会事務局(電話0289・62・5171)。

毎日新聞 8月7日朝刊

光雲、この「老猿」の制作には非常に苦労したそうです。彫刻そのものに関してもそうでしたし、ニュースで取り上げられている材料の買い付けも予想外の出来事が重なったため苦労しています。また、ちょうどこの時期に長女(光太郎にとっては姉)さくが急逝するという悲しい出来事もありました。
 
そのあたりは光雲自身の回想録『光雲懐古談』(昭和4年)に詳しく書かれています。サイト「青空文庫」に掲載されていますので、リンクを貼ります。
 
それにしても100年以上前に一度伐採された栃の木がまた芽を吹いて生き延びている、というのもすごいですね。
 
花巻や二本松、女川、そして今回の鹿沼など、光太郎・智恵子・光雲ゆかりの地は全国にたくさんあります。それぞれの地域で町おこしに活用してほしいものですね。そういうことが顕彰活動にもつながりますから。
 
明日は宮城県女川光太郎祭に行って参ります。

またオリンピック関連に戻ります。「またか」と思われるかも知れませんが、四年に一度のことですのでご寛恕の程。
 
『高村光太郎全集』の頁を繰っていて、光太郎がオリンピックに言及した箇所をまた発見しましたので、紹介します。
 
2篇あり、どちらも少し前に紹介した座談「新女性美の創造」と同じく、昭和11年(1936)のベルリンオリンピックに関係するものです。
 
まず、第二十巻に掲載されている「「美の祭典」を観る」という散文。座談「新女性美の創造」を紹介した時にも書きましたが、「美の祭典」はベルリンオリンピックの記録映画です。日本での公開は4年後の昭和15年。のんびりした話ですね。もっとも、純粋な記録映画ではなく、後から選手にもう一度演技してもらっての撮影、今で言う「やらせ」が多用されているとのことで、クランクアウトまでに時間がかかったようです。
 
初出は昭和15年12月1日発行の『科学知識』第20巻第12号。かなり畑違いの雑誌ですが、光太郎、本当にいろいろな分野の雑誌に寄稿しています。そのあたりについても後ほど書いてみようと思っています。
 
長い文章ではありませんので全文を紹介しましょう。「いかにも彫刻家」という視点が窺えます。
 
「美の祭典」の全体に叙情性の濃厚なのを認めた。闘争のスリルよりも均衡の美を求める努力と意志が著しい。体操と飛込とに一番多く時間を与へてゐるのでもわかる。
 編輯に於ける全体的構成の雄大なことと、撮影途上の細かい注意とは相変らず見のがし難い。常に個々の競技そのものよりも、その競技のうしろにある力と美とを表現しようとしてゐるし、又馬の蹄の先とか、日本女性の足の指とか、各国人の表情の相違とか、雲と帆、雲と人とか、さういふ数々の挿話のおもしろさを長からず短からず取り入れてゐる緻密さがある。
 体操の美には殊に感心した。人体の力の比例均衡を存分に満喫して満足した。無理のない運動の流暢さが如何に鍛錬された力の賜であるかを見た。女学生の集団体操の撮影の順序には微笑した。
 最後の飛込の天と水と人体との感覚は圧巻である。尚ほ水泳の葉室君の顔がこの上もなく美しくて嬉しかつた。
 
「葉室君」は葉室鐵夫。005子200㍍平泳ぎの金メダリストです。

女子200㍍平泳ぎの金メダリストは前畑選手ですから、アベック優勝だったのですね。

もう一篇、その前畑選手の名前が、昭和30年(1955)、光太郎最晩年の日記の巻末余白に記されたメモ書きに現れます(『高村光太郎全集』第十三巻)。
 
ベルリンオリムピツクで前畑秀子が二百米平泳で優勝したのは一九三六年。(浅草のカフエでその放送をきいたので年代おぼえの為書抜)
 
なぜ突然この時期に前畑選手の名前が出て来るのか不思議でしたが、8月5日~14日にかけての日記に、断続的に「夜日米水泳をラジオできく」といった記述があるので、その関係で思い出したのだと思います。
 
例の「前畑がんばれ!」を光太郎は浅草のカフェで聞いていたのですね。この時、智恵子はその終焉の地となった品川のゼームス坂病院で、有名な紙絵の制作にかかっていました。
 
ざっと調べた限りでは、光太郎とオリンピックの関連はこんなところでした。ロンドン五輪も後半戦に突入。会期中にまた何か見つけたら紹介したいと思います。

閲覧数が2,000を超えました。ありがとうございます。
 
ロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍紹介のとりあえず最終回です。

荻原守衛と日本の近代彫刻-ロダンの系譜

昭和60年(1985)4月6日 埼玉県立近代美術館編・発行 定価記載無し

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埼玉県立美術館さんでの同名の企画展図録です。メインは碌山荻原守衛ですが、守衛と交流があり、やはりロダンの影響を受けた光太郎、戸張孤雁、中原悌二郎ら、そしてロダンそのものの作品も出品されました。収録されている論考、中村傳三郎氏「荻原守衛と日本の近代彫刻」、三木多聞氏「ロダンと近代彫刻」、坂本哲男氏「中村屋をめぐる美術家たち-荻原守衛と相馬黒光を中心に」、伊豆井秀一氏「日本における「近代彫刻」」の四編、短いながらもそれぞれに的を得た感心させられるものです。 

日本彫刻の近代

 平成19年(2007)8月23日 淡交社美術企画部編 淡交社発行 定価2,476円+税

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東京国立近代美術館他二館での同名の企画展(こちらは当方も見に行きました)の公式カタログです。図録としての部分はもちろん、解説が非常に充実している厚冊です。昨日紹介した芸術の森美術館編「20世紀・日本彫刻物語」同様、およそ百年の日本近代彫刻を概観、さらに平成の彫刻まで扱っています。光太郎に関しては、ロダンとの関わりも触れられていますが、塑像より木彫の方に重きが置かれているかな、という感じです。
 
やはり少し古いものですのですし、美術館の企画展図録、カタログですので、古書店サイト、またはAmazonなどでも中古品の販売をご利用下さい。または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

今日も光太郎とロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍を紹介します。 

日本の近代美術11 近代の彫刻

平成6年(1994)4月20日 酒井忠康編 大月書店発行 定価2,718円+税

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全12巻から成る「日本の近代美術」の11巻目です。総論として酒井忠康氏の「近代の彫刻」、各論として光雲の「老猿」、光太郎の「腕」をはじめ、荻原守衛、藤川勇造ら10人の彫刻家の代表作を紹介し、簡単な評伝を収録しています。光太郎の項の担当は堀元彰氏。やはりロダンの影響、そしてロダンを超えようとする工夫などについて論じられています。図版多数。 

20世紀・日本彫刻物語

平成12年(2000)5月27日 芸術の森美術館編 札幌市芸術文化財団発行 定価記載無し

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札幌・芸術の森美術館さんでの同名の企画展図録、というより解説書です。図版はもちろん、解説の文章が充実しています。光雲ら前の世代の彫刻家から始まり、高田博厚、佐藤忠良ら次の世代までを網羅しています。光太郎や守衛世代の作家については「生命の形」と題し、ロダンの影響が述べられています。
 
やはり少し古いものですので、新刊で手に入れるのは難しいかもしれません。古書店サイト、またはAmazonなどでも中古品の販売がある場合がありますので、そちらをご利用下さい。または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

このところ、光太郎の翻訳書『ロダンの言葉』に触れています。そこで、何回かに分けて手持ちの資料の中から、光太郎とロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍を紹介しましょう。
 
ちなみに「これでブログのネタ、何日かもつぞ」とけしからんことも考えています。5月初めにこのブログを開設して以来、1日も休まず更新していますが、何せ光太郎・智恵子・光雲のネタだけで毎日毎日書くとなると、ネタ探しに苦労する時もあります。そうこうしているうちに、困った時はテーマを決めて手持ちの資料の紹介にあてればいいと気づきました。当方手持ちの光太郎関連資料、おそらく2,000点を超えています(ある意味しょうもないものを含めてですが)。1回に2点ずつ紹介したとしても1,000回超。3年くらいはもちますね(笑)。 

近代彫刻 生命の造型 -ロダニズムの青春-

 昭和60年(1985)6月20日 東珠樹著 美術公論社発行 定価1,800円+税

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第一部では、光太郎、荻原守衛、中原悌二郎といった近代日本彫刻家がロダンから受けた影響。第二部では『白樺』や他の美術雑誌などに見るロダン受容の系譜。第三部は「日本に来たロダンの彫刻」というわけで、例の花子関連にも言及しています。 

異貌の美術史 日本近代の作家たち

平成元年(1989)7月25日 瀬木慎一著 青土社発行 定価2524円+税

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雑誌『芸術公論』に連載された「作家評価の根本問題」をベースに、書き下ろしや他の書籍等に発表された文章をまとめたものということです。彫刻家に限らず、中村彝、梅原龍三郎、岸田劉生などの洋画家、小川芋銭や竹久夢二といった日本画家にも言及しています。光太郎に関してはずばり「高村光太郎におけるロダン」。図版が豊富に使われている点も嬉しい一冊です。
 
どちらも少し古いものですので、新刊で手に入れるのは難しいかもしれません。古書店サイト、またはAmazonさんなどでも中古品の販売がある場合がありますので、そちらをご利用下さい。  
 
または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

昨日、光太郎の翻訳書『ロダンの言葉』に触れましたので、もう少し。
 
光太郎の著書、というか訳書ですが、『ロダンの言葉』正・続2冊があり、これは光太郎の代表的な業績を挙げる場合にはよく掲げられるものです。
 
正は大正5年11月に阿蘭陀書房から、続は同9年5月に叢文閣から上梓されました。光太郎が敬愛していたロダンが、折にふれて語った言葉などをまとめたものです。単行書としてまとめられる前は、『帝国文学』『アルス』『白樺』などに断続的に発表されています。
 
昭和30年代には新潮文庫に正続2冊、少し前までは岩波文庫に『ロダンの言葉抄』というラインナップがあったのですが、絶版となって久しい状態です。筑摩書房発行の『高村光太郎全集』第16巻に全文が収録されていますが、手軽に読みたい場合、最近のものとしては以下の書籍が刊行されています。 

ロダンの言葉 覆刻

 平成17年(2005)12月1日 沖積舎 定価6,800円+税

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写真製版により、正続2冊をそのまま覆刻したものです。続の方はオリジナルからの覆刻のようですが、正の方は昭和4年(1929)刊行の普及版からの覆刻のようです。金原宏行氏の解説がついています。 

 平成19年(2007)5月10日 講談社文芸文庫 講談社 定価1,300円+税

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正の方のみ収録されています。湯原かの子氏の解説、光太郎の略年譜、著書目録がついています。
 
前回も紹介しましたが、光太郎の弟で、鋳金家として人間国宝にもなった高村豊周の「光太郎回想」によれば、「兄がロダンの言葉を集めて、ああいう形式で本にまとめることをどこから思いついたか、考えてみると、少し唐突のようだが僕は「論語」ではないかと思っている」「文章の区切りが大変短い。どんなに長くても数頁にしか渉らないから、読んでいて疲れないし、理解しやすい。ことに本を読む習慣の少なかった美術学生にとって、これは有難かった。」とのことです。
 
是非ご一読を。

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