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板橋区在住の坂本富江さまから情報を頂きました。
 
『東京新聞』さんにノンフィクション作家・大野芳さんの「幻の女優 マダム・ハナコ」という連載があるとのことで、切り抜きも送って下さいました。
 
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だいぶ前のこのブログでご紹介しましたが、「ハナコ」とは明治末から大正にかけ、欧州各地で日本人一座を率いて公演を続け、各地で絶賛された日本人女優です。
 
明治元年(1868)、岐阜県の生まれ。本名・000太田ひさ。旅芸人一座の子役、芸妓、二度の結婚失敗を経て、明治34年(1901)、流れ着いた横浜で見たコペンハーゲン博覧会での日本人踊り子募集の広告を見て、渡欧。以後、寄せ集めの一座を組み、欧州各地を公演。非常な人気を博しました。明治39年(1906)、ロダンの目にとまり、彫刻作品のモデルを務めます。
 
花子とロダンとの交流は、大正6年(1917)のロダン死去まで続き、ロダンが作った花子の彫刻は数十点。大正10年(1921)、花子はそのうち2点を入手し帰国、岐阜に帰ります。
 
ロダンと関わった数少ない日本人の一人というわけで、昭和2年(1927)、光太郎が岐阜の花子を訪問。この時の様子は同じ年、光太郎が刊行した評伝『ロダン』に描かれています。
 
昭和20年(1945)、花子、死去。やがて人々から忘れ去られていきます。
 
大野さんの「幻の女優 マダム・ハナコ」、ドナルド・キーンさんによる花子遺族の訪問を軸に描かれていますが、光太郎と花子の交流についても触れられています。連載の6回目にあたる4/22には、光太郎から花子宛の書簡の写真が掲載されていました。
 
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さて、ネットでいろいろ調べてみたところ、大野さんの「幻の女優 マダム・ハナコ」は系列の『中日新聞』さんでも連載されているようですし、新潮社さんから刊行されている雑誌『新潮45』の4月号に大野さんの同名の記事が載っています(早速注文しました)。
 
「花子」といえば朝ドラの「花子とアン」での村岡花子さんが旬ですが、もう一人の「花子」にも注目していただきたいものです。ちなみに余談になりますが、「花子とアン」、当方の住む千葉県香取市でもロケが行われています。 吉高由里子さん演じるヒロインの花子が、初恋の相手の帝大生に別れを告げるシーンや、花子のお父さん役の伊原剛志さんが社会主義伝道をしているシーンなど。
 
さて、記事を送って下さった坂本富江さんは、智恵子も所属していた太平洋画会の後身・太平洋美術会さんの会員です。来月には第110回太平洋展が開催され、坂本さんは智恵子の故郷・二本松に近い三春の滝桜の絵を出品なさるとのこと。
 
会場は六本木の国立新美術館、会期は5/14(水)~26(月)です。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】4月27日

明治24年(1891)の今日、光雲が東京美術学校から「楠正成銅像」模型主任を命ぜられました。
 
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東京渋谷の東急百貨店本店で、昨日から下記のイベントが始まりました。

秀作彫刻展

 場 : 東急百貨店渋谷本店 8階 美術ギャラリー  渋谷区道玄坂2-24-1
 期 : 20144月24日(木)~30日(水)
 間 : 10時~19時 最終日は17時閉場
 
木のぬくもりを十分に活かした木彫やブロンズ像などを一堂に集め、展示販売いたします。
 
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展覧会、というより展示即売会です。
 
上記画像にあるとおり、光雲の木彫「阿倍仲麻呂」が出品されています。税込み864万円……。光雲の真作であれば、このくらいの値段はつきます。ただ、何をもって真作とするか、というと微妙な問題をはらみます。
 
光雲には弟子が多数いました。山崎朝雲、米原雲海など、のちに大成し、有名になった弟子もたくさんいましたし、無名のまま終わった弟子はそれ以上に多かったと思われます。
 
ちょっと変わった所では、昭和11年(1936)に猟奇的な殺人事件をおこして世間の耳目を集めた、かの阿部定のヒモだった女衒・秋葉正義も一時期ではありますが、光雲の元で木彫を学んでいたとのこと。
 
そうした無名の弟子はなかなか生活が苦しく、その援助のため、ほとんど弟子が作った作品の仕上げだけを光雲が行い、「光雲」のクレジットを入れてやったこともあるというのです。そうすることによって、市場価格が上がる仕組みです。もちろん、光雲がその上乗せ分をピンハネしていたわけではなく、弟子の実入りにしてやっていたわけです。
 
そうした弟子の手がほとんど入っていない作品の場合、「高村」でなく「高邨」と銘を入れたらしいという説もあります。
 
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といっても、光雲生前には、作品の値段もそれほどではなかったようです。光太郎の回想によれば、光雲は「1日の手間賃がいくら、この作品は何日かかったからいくら」という計算で価格を決め、それもたいした値段をつけなかったといいます。曰く「俺にゃ、そう高く取る度胸はねえ」と、江戸っ子の職人の気概を終生持ち続けたとのこと。
 
ところが、客との間に入る商人がマージンを高く取ることがあったそうで、光雲歿後にはそうした美術商が何軒かつぶれたという話も残っています。
 
さて、864万円……。泉下の光雲は苦笑しているのではないでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月25日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外湯口村(現・花巻市)の円万寺を来訪、一緒に奉納の神楽を見物しました。
 
当時、円万寺には、チベットで修行した経験を持つ僧・多田等観が疎開していて、親密に交流しており、光太郎の暮らす太田村山口の山小屋から5㎞以上ありましたが、ときおり行き来していました。
 
円万寺は小高い山の上にあり、登っていくのは大変です。光太郎もこの日の日記に「観音山正面の石段をのぼる。くたびれる。」と記しています。
 
ただ、それだけにここから見るながめは絶景です。下記は花巻市観光協会さんのページから拝借しました。
 

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昨日書きました三井記念美術館さんの「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」同様、光雲の木彫作品が並ぶ企画展です。 会場は東京藝術大学大学美術館さん。
 
全国3ヶ所の巡回で、すでに1館目の仙台市博物館さんは終了。当方は先月、そちらを観て参りました。 

東日本大震災復興祈念・新潟県中越地震復興10年 法隆寺 祈りとかたち

 催 : 東京藝術大学 法隆寺 朝日新聞社
 期 : 2014/4/26[土]~6/22[日]
 間 : 午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
 館 : 月曜日(4/28、5/5は開館)、5/7[水]
 金 : 一般前売り¥1,300(当日¥1,500)、大学・高校生前売り¥800(当日¥1,000)
 
推古天皇15年(607年)、聖徳太子によって建立された日本を代表する古刹・法隆寺。その法隆寺の至宝を総合的に紹介する大規模な展覧会が、約20年ぶりに東京で開催される。  本展では、除災や国家安穏を祈って造られた金堂の毘沙門天、吉祥天(いずれも国宝)をはじめ、奈良・飛鳥時代以降の優れた彫刻や絵画、色鮮やかな染織品を含む工芸など仏教美術の粋を出陳。また、法隆寺所蔵の文化財保護と継承に携わってきた東京美術学校(現・東京藝術大学)の活動や、法隆寺を主題に制作された近代の絵画・彫刻なども展示される。
法隆寺で聖徳太子の教えとともに守られてきた、約70件の名品たちとじっくり向き合えるまたとない機会を、ぜひお見逃しなく。
 
 
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飛鳥時代からの仏像などの数々の寺宝に混じって、光雲の木彫「聖徳太子像(摂政像)」(昭和2年=1927)、「佐伯定胤像」(昭和5年=1930)が展示されます。これは東京美術学校と法隆寺が密接な関係にあったことが背景になっています。
 
さらに新潟展ということで、新潟県立美術館にて2014年7無題月5日(土)~8月17日(日)に巡回されます。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月20日

昭和18年(1943)の今日、龍星閣から『随筆某月某日』が刊行されました。
 
同名の題で『知性』、『歴程』、『東京帝国大学新聞』、『改造』など、あちこちの雑誌等に発表した随筆その他を集めたものです。
 
智恵子に関する内容のものも含まれ、『智恵子抄』を補完するという意味合いもある一冊です。

今週土曜日(4/19)、地上波テレビ東京系の「美の巨人たち」にて、カミーユ・クローデルがメインで扱われます。 

美の巨人たち カミーユ・クローデル『ワルツ』

地上波テレビ東京系 2014年4月19日(土)  22時00分~22時30分
BSジャパン 2014年5月14日(水) 22時54分~23時24分
 
番組内容
今日の作品はカミーユ・クローデル作『ワルツ』。高さ45cm程のブロンズ像、男女がワルツを踊る姿は躍動感に溢れています。ところが、どこか危うく不安定。なぜ倒れそうな程に傾いているのか?師であり愛人であったロダンへの想い、そして苦悩…そこには彼女の葛藤と決意が込められていました。また作品誕生にまつわる偉大な音楽家とは?困難な時代を生きた女性彫刻家カミーユ、作品に込められた情愛、プライド、悲しみに迫ります。
 
ナレーター 小林薫
 
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以前にも書きましたが、カミーユは、光太郎が敬無題愛していたロダンの弟子にして愛人です。
 
それなりに才能に恵まれていながら、偉大なる師の蔭で、「しょせんはロダンの猿真似」と酷評され、ロダンにも捨てられ、最期は精神病院で寂しく歿するという、何やら智恵子を彷彿とさせられる生涯でした。
 
今回扱われる「ワルツ」という作品も、そういう背景抜きには語れない作品のようです。地上波テレ東系が受信できない地域の方、BS放送で来月オンエアされます。ぜひご覧下さい。
 
もう一人、ロダンの弟子といえば、光太郎の親友だった荻原守衛(カミーユほど長い間、直接に指導を受けたわけではありませんが)。
 
来週火曜日(4/22)は守衛の命日・碌山忌です。信州安曇野の碌山美術館にて、碌山忌の集いが開かれます。
 
詳細は以下の通り。

碌山忌(104回忌)

2014年4月22日(火)

会場:碌山美術館(入場無料)
 ミュージアムトーク 10時30分 14時30分
 碌山忌コンサート(館庭) 13時30分~15時30分
 墓参  16時~
 研究発表会 17時~17時45分 杜江館2階
 「イタリア・エジプト日記と旅スケッチの考察」同館学芸員・武井敏氏
 碌山を偲ぶ会  18時15分~ グズベリーハウス
 
碌山忌記念講演会 2014年4月27日(日) 13時30分~15時
「日本彫刻史上の橋本平八」 毛利伊知郎氏(三重県立美術館長) 杜江館2階
 
昨年の碌山忌は、何と雪でした。まさか今年は大丈夫だとは思いますが……。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月16日000

平成11年(1999)の今日、文化庁特別会議室において平成11年第4回文化財保護審議会が開催され、光雲の木彫「老猿」を重要文化財に指定する旨の答申がなされました。
 
この年は近代の作品の指定が多く、同時に指定されたのは、黒田清輝の油絵「湖畔」、土田麦僊の日本画「絹本著色湯女図」、同じく村上華岳で「絹本著色日高河清姫図」などでした。
 
そういえば、今年の2月に「美の巨人たち」で取り上げられた守衛の「」(石膏原型)も昭和42年(1967)に重要文化財に指定されています。
 
いずれ光太郎の彫刻もそうした指定を受けて欲しいものです。

戦後に光太郎が7年暮らした花巻市郊外太田村山口(現・花巻市太田)に、昌歓寺という曹洞宗の寺院があります。戦国時代には既に当地にあったという古刹です。光太郎の暮らした山小屋とそう遠くなく、光太郎も時折足を運んでいました。
 
つい先だって、この昌歓寺から光太郎にまつわる文書が出てきました。
 
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書かれたのは光太郎晩年の昭和30年(1955)2月。十和田湖畔の裸婦群像制作のため帰京した後のことです。この直前に太田村は花巻町などと合併して消滅、花巻市の一部になっています。筆者は当時の昌歓寺住職と思われます。ほれぼれするような筆跡ですね。
 
内容的には、光太郎に十一面観音像の制作を依頼し、承諾を得たらしいことが記されています。
 
  十一面観音菩薩建立趣意
私は、終戦直後から今時戦役の戦歿勇士の慰霊と社会の混濁を浄化せんとの見地から観世音菩薩の建立を発願しておったことは皆様御承知の通りであります。而も三十三観世音菩薩方の中でも願力の強大なそして功徳力の広大な十一面観世音菩薩の勧請を冀って居た者であります。
然る処宿世の因縁が熟したとでも申しましょうか、現代彫刻界の至寶高村光太郎先生の思召しに依り大体の御約束が結ばれて御病気全快を期とし今年中に記念作品として先生の御作にかゝる佛像が昌歓寺に安置さるゝ運びに至りつゝあることは、当寺院としては勿論、花巻市民否岩手県民として歓喜に堪えない次第であります。
観音経の中に、観音の妙智力はよく世間の苦を救い給うと示された通り、抜苦与楽であって、いわゆる人の意見をよく聞き、立場を替えて物を考え、衝突しそうな時にはどちらかが自主的にバックして自他共に傷つかぬお互いに許し合える場を見つける自由な働きをし、その力のお蔭で危い世間を安らかに渡らせていたゞける大功徳がもたらされるのであります。平和観音と終戦後名づけられたのも、此の辺の消息を申したのでありましょう。
岩手の記念作品ともなしたい此の佛像の製作に対する報謝のしるしとして、広く浄財の喜捨を仰ぎ、先生に御贈りしたいと存ずるものであります。
厚く佛法僧の三寶に帰依せる十方の施主よ、此の悲願に答えられて、此の事業の達成に満腔の御法援あらんことを冀うものであります。
かくすれば世界恒久平和のシンボルともなり、併せて英霊並に施主の供養も成就され、現当二世の安楽も招来されるでありましょう。
茲に此の問題の中心ともなって、因縁をもたらした八重樫甚作氏を願主に依頼し、駿河重次郎氏並びに高橋吉一氏を世話人に依頼して準備にとりかゝりたいと思います。
伏して三寶に祈誓して、此の願成就に邁進するものであります。
 昭和三十年二月二十六日
 観音像建立発願者
 発願主 花巻市太田 昌歓寺三十世天海大典
 願 主 花巻市太田 檀徒 八重樫甚作
 世話人 花巻市太田 信徒 駿河重次郎
 世話人 花巻市太田 檀徒 高橋吉一
 
旧太田村の人々の、光太郎を敬愛してやまなかった念がよく見て取れます。
 
しかし、この観音像、光太郎の手で作られることは叶いませんでした。翌年には宿痾の肺結核のため、光太郎は還らぬ人となってしまいました。
 
この文書、続きがあります。
 
高村光太郎先生の御遺志により同先生厳父故高村光雲翁の上足当代佛像彫刻界の龍象東京世田ヶ谷の森大造先生の手によって成さるゝの因縁が圓熟し時恰も四月二日中𡌛に亡き高村先生の御霊前に弔問の際に於て決定大本山総持寺に参拝して佛前に於て奉告し以て十方施主の檀信徒諸彦に報告するものである
昭和三十一年四月五日契約之日
 於大本山総持寺
       発願主 昌歓寺三十世天海大典
  弔問者 願主  八重樫甚作
       会計  沢田喜代松
右事実を證明する
 昭和三十一年四月五日
  大本山総持寺 監院 岩本勝俊
 
亡くなった光太郎の後任として、十一面観音の制作を、同じ東京美術学校卒(そこで光雲の上足=高弟となっているのでしょう)の彫刻家・森大造に依頼したというわけです。
 
森の名は『高村光太郎全集』には出てきませんが、先頃見つけた雑誌『九元』掲載の、光太郎を講師に招いての座談会「第二回研究部座談会」(昭和15年=1940)に、その名が見えます。
 
この座談は、昨秋当方私刊の『光太郎資料40』及び、明後日、高村光太郎研究会より刊行予定の『高村光太郎研究35』に掲載しました。この時期に森の名を眼にし、不思議な縁を感じます。
 
森の故郷、滋賀県米原には森の個人美術館・醒井木彫美術館があり、一度行ってみようと思っていましたし、次に花巻に行く際には、昌歓寺にも寄って、問題の仏像も見てこようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月31日

明治42年(1909)の今日、イタリア・フィレンツェからパリ在住の画家・津田青楓に宛てて絵葉書を出しました。
 
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今朝ヹニスを出でてフィレンツセに来る。愈々伊太利亜のまんなかに来りたる訳なり。ヹニスの面白かりし事よ。
  春雨や南へいそぐ旅烏
  「ゴンドラ」に雨あたたかし水の色
  「ゴンドラ」を一丁漕ぎぬ春の風
  赤き屋根のあちこちにあり青畠
             三月三十一日 光
  安井君にもよろしく
  
 光 Le31 Mars 1909 â Firenze
 
三年余の欧米留学の終わり近く、パリからスイス経由でイタリア旅行をした際のものです。「ヹニス」はヴェニス。この時期に津田に宛てた葉書には、このように俳句が記されているものがいくつかあります。

昨日は都内に出て参りました。
 
まずは4/2(水)の第58回連翹忌会場、日比谷松本楼様に。今回の連翹忌では、フルート奏者の吉川久子様が演奏と朗読で、華を添えてくださることになり、そのための打ち合わせでした。
 
吉川様は、昨年6月に横浜で、「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」というコンサートを開かれました。連翹忌では、昨年のコンサートで伴奏を務められた海老原真二さん、三浦肇さんにも加わっていただき、昨年のコンサートのダイジェストをやっていただきます。ありがたいことです。
 
 
ちなみに日比谷公園の桜は7~8分咲きといったところでした。
 
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その後、上野に行きました。上野の桜も同じような感じでした。上野では、東京藝術大学大学美術館へ。先週始まった「藝大コレクション展―春の名品選―」を観て参りました。
 
 
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「2013年度新収品」ということで、光雲の木彫「鷹(寿老)」(昭和3年=1928)が展示されています。光雲は同一のモチーフで複数の作品を作ることも多かったのですが、これは他に類例が無く、非常に興味深いものでした。
 
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実際に観るまでどういうものかさっぱり解らなかったのですが、キャプションを読み、帰ってからネットで調べてみてよくわかりました。
 
元和7年(1621年)、徳川幕府二代将軍・秀忠の江戸城への帰途、その愛鷹「寿老」が、日本橋本町にあった「木屋」という雑貨屋の店内に舞い込み(「屋根にとまり」とする資料もありました)、そのまま戻らなかったため、この鷹を下賜されたという逸話があるそうです。
 
この彫刻は木屋の後裔が光雲に依頼して作らせたとのこと。鷹はもちろん「寿老」で、とまっている米俵は「寿老」の飼育のために毎年給されていた米を表しているそうです。
 
いつ見ても光雲の木彫は、その超絶技巧に舌を巻かされます。
 
他の出品リストは以下の通りです。
 
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チラシがこちら。
 
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厚冊の豪華図録は作られていませんが、無料の簡易図録が配布されていました。ありがたや。
 
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会期は来月13日(日)までです。その後、現在、仙台市博物館で開催中の「東日本大震災復興祈念・新潟県中越地震復興10年 法隆寺 祈りとかたち」展が巡回してきます。こちらは来月26日(土)~6月22日(日)まで。やはり光雲の木彫「聖徳太子像(摂政像)」(昭和2年=1927)、「佐伯定胤像」(昭和5年=1930)が展示されます。
 
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ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月29日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村で、地元の方が村長選挙に立候補、応援演説を頼まれましたが断りました。
 
戦時中の大政翼賛会文化部や日本文学報国会といった「前科」を自ら問題にしてのことです。同様の「前科」がありながら、そしらぬ顔をして、本人が国政選挙に打って出た文学者もいたのですが……。

信州安曇野の碌山美術館様より、同館館報の第34号をいただきました。B5判、72ページもある分厚いものです。ありがとうございます。
 
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表紙は同館にて新しく収蔵した光太郎彫刻「倉田雲平胸像」。長野出身の彫刻家・酒井良氏が解説されています。
 
十和田湖畔の裸婦像制作後に取り組み、結局、未完のまま光太郎は歿してしまいました。しかし、未完ゆえの荒々しいタッチが不思議な迫力をかもし出している彫刻です。モデルは日華ゴム(現・ムーンスター)の創業者・倉田雲平です。
 
後半、光太郎の甥・高村規氏による「伯父 高村光太郎の思い出」が掲載されています。
 
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昨年4月、同館で催された碌山忌記念講演会の筆録です。
 
こちらは18ページもあり、非常に読み応えがあります。内容的にも、近親者として見た光太郎の様々なエピソードが紹介されており、非常に興味深いものです。表紙の「倉田雲平胸像」についても記述があります。
 
他にも学芸員の武井敏氏による「碌山研究 荻原守衛のイタリア・エジプト旅行② ―フィレンツェ篇―」、「美術講座 ストーブを囲んで 名誉副館長荻原孝子さんを語る 碌山の芸術に捧げた生涯」など、興味深い記事が満載です。
 
4/2(水)の連翹忌にご参加頂ける方には、無料でお配りいたします。
 
それ以外の方、お問い合わせはこちらまで。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月26日

昭和19年(1944)の今日、茨城取手の長禅寺で、講話を行いました。
 
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取手には、光太郎と親交の深かった宮崎仁十郎・稔の親子が住んでいました。のちに戦後になって、光太郎が仲介して、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と稔が結婚します。
 
宮崎家との関係から、長禅寺には光太郎の筆跡を刻んだ碑が二基現存しています。一基は昭和14年(1939)に建てられた「小川芋銭先生景慕之碑」。小川芋銭(うせん)は日本画家。取手に近い牛久に暮らし、河童の絵を描き続け、やはり宮崎家と交流がありました。もう一基は昭和23年(1948)建立の「開闡(かいせん)郷土」碑。ともに題字のみ光太郎の揮毫です。
 
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左:「小川芋銭先生景慕之碑」  右:「開闡郷土」碑
 
長禅寺は戦時中、錬成所という社会教育のための機関が置かれていたとのことで、ここで光太郎の講話が行われました。やはり宮崎家の肝煎りです。聴衆は40名程。母についての話があったということですが、それ以上詳しいことは不明です。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月21日001
 
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村山口の小屋に、建築家の谷口吉郎、詩人の藤島宇内が訪ねてきました。
 
二人の用件は、青森・十和田湖畔に立てる十和田国立公園指定15周年記念モニュメントの制作依頼でした。これが十和田湖畔に立つ裸婦群像(通称・乙女の像)に繋がっていきます。
 
その前年から青森県では佐藤春夫ら、中央の著名文化人等に相談するなど、いろいろと段取りを立て、この日の二人の訪問に至ります。二人には佐藤春夫からの丁重な手紙が託されていました。
 
4月には県の関係者も山小屋を訪問、ともかくも現地を見てから、という光太郎の要望で、6月には関係者一同で十和田湖の現地視察。この際にも谷口と藤島は同行しています。
 
下記の画像が6月の現地視察時のもの。左端から草野心平、光太郎、松下英麿(編集者)、谷口、菊池一雄(彫刻家)、佐藤春夫夫妻、藤島です。
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そのあたりの事情は、この画面左の「ブログリンク」にも登録してありますが、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんのHP「十和田湖奥入瀬ろまん新聞」に詳しい経緯が書いてあります。
 
「十和田湖奥入瀬ろまん新聞」中の「「乙女の像」の歴史と魅力にせまる ろまんヒストリー」lというメニューです。
 
昨年、像の除幕から60周年を迎えたのを機に、十和田市さんや地元ボランティアの皆さんが中心となって、像をめぐるいろいろな顕彰活動が展開されています。
 
過日は像の設置工事に直接携わった技師の方への聞き取り調査もなさったとのこと。今まで活字になっていなかったような当時の様子等が、やはり「十和田奥入瀬ろまん新聞」中にアップロードされています。
 
今年も引き続き、いろいろと顕彰活動が行われるとのこと。当方も少しばかりお手伝いしています。今後の活動については、順次、ご紹介していきます。

東京から企画展の情報です。
 
 
期 日 : 2014年3月21日(金・祝)- 4月13日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 展示室1
時 間 : 
午前10時 - 午後5時 4月11日(金)は午後8時まで
休 館 : 毎週月曜日
料 金 : 一般300(250)円 高校・大学生100(50)円(中学生以下は無料)
 
     ( )は20名以上の団体料金

東京藝術大学のコレクションは、前身である東京美術学校の開校に先立って開始された芸術作品・ 資料の収集にはじまります。以来125 年余り、収集された作品は28500 件以上、教育資料として古今の優品や貴重な資料が収集されただけでなく、本学に学び、また教えた歴代の学生と教員たちによっても多くの作品が残されています。

東京藝術大学大学美術館では、この多彩なコレクションを広く展観する機会として、毎年春にコレ クション展を開催しています。本年は、特に絵画作品に光をあてて、皆様のお目にかけます。上代絵 画の名品≪過去現在絵因果経≫[国宝]から、2013 年度新収蔵品の高村光雲作≪鷹(寿老)≫まで、 バリエーション豊かな藝大コレクションをお楽しみください。
 
東京藝術大学は、前身である東京美術学校の時代から、120年以上の長きにわたって古今東西の芸術資料・作品の収集につとめてきました。28,500件以上の多様なコレクションはその成果であり、藝大の歩みを映し出すものです。本展覧会では春の名品選と題して、藝大コレクションを代表する作品を展示、その豊かな魅力をお伝えします。また特集展示として、二つのテーマを設けて近世・近代の絵画をご紹介します。

特集展示1 女性を描く/ヌードと出会う
特集展示2 近世の山水/近代の風景 ―富士山図を中心に― 

 
というわけで、光雲の作品が展示されます。《鷹(寿老)》という作品、調べてみましたがよくわかりません。同館のサイトには収蔵品のデータベースがあるのですが、ヒットしませんでした。「2013年度新収品」とあるので、まだアップされていないのかもしれません。

時間を見つけて観に行ってみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月8日

大正9年(1920)の今日、『続ロダンの言葉』の翻訳が完了しました。
 
単行書『続ロダンの言葉』は、この年5月に叢文閣から出版されました。

一昨日、茨城県笠間市に、映画「天心」を見に行くと共に、日動美術館さんにも行って参りました。
 
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こちらは銀座の日動画廊創業者、長谷川仁・林子夫妻により創設された美術館で、光太郎の作品は収蔵されていないようですが、彫刻や絵画で、光太郎と深い交流のあった作家の作品がたくさん並んでいます。
 
一度は行ってみようと思いつつなかなか果たせず、一昨日、初めて行ってみました。
 
正面入り口を入ると右手に「パレット館」。名だたる画家達が愛用したパレット、さらにパレットに絵を描いたものが展示されています。
 
左手が「フランス館」。こちらに光太郎と親交のあった画家たちの作品が展示されています。具体的には岸田劉生、藤田嗣治、藤島武二、梅原龍三郎、安井曾太郎などなど。それらが並ぶ1階の展示室は「長谷川仁・林子記念室」という名前になっていますが、その室名を書いた扁額は草野心平の揮毫でした。意外なところで意外な人の名を目にしました。
 
2階展示室は、フランス印象派系の作品など。こちらも光太郎が評論で取り上げたり、知遇を得たりしていた作家の作品が多く並んでいました。ルノワール、ドガ、セザンヌ、モネ、マチス、ピカソ……。
 
やはり本物は違いますね。収蔵作品は3,000点ほどだそうで、展示替えもあり、下のパンフレットにある高橋由一「鮭」などは見られませんでした。
 
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「フランス館」入り口あたりから、奥の「野外彫刻庭園」にかけて、やはり光太郎と親交のあった彫刻家の作品もたくさん並んでいました。佐藤忠良、舟越保武、本郷新、菊池一夫などなど。
 
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これで、屋内展示でもいいので、何かしら光太郎の作品があればいうことなしです。
 
「野外彫刻庭園」を通り抜けると、「企画展示館」です。「世界文化遺産登録記念 東海道五十三次と富士山写真展」が開催中でした。富士河口湖町立河口湖美術館さんとのコラボ企画で、広重の「東海道五十三次」、そして公募入選の富士山の写真がずらっと並んでいます。富士山と、それを取り巻く四季折々の自然。やはり日本人の魂をゆさぶる風景ですね。 
 
同館には、徒歩20分くらいのところに「春風萬里荘」という別館がありますが、こちらには行きませんでした(映画「天心」を観る都合がありましたので)。こちらは陶芸家の北大路魯山人の旧居を移築したものだそうで、茅葺き入母屋造りの重厚な建築だそうです。
 
魯山人は光太郎と同じ明治16年(1883)の生まれ。今のところ、二人の間に直接のつながりは見いだせていませんが、どこかしらで接点はあったのではないかと想像しています。ちなみに「春風萬里荘」にも心平の書が展示されているそうです。また折を見て、こちらにも行ってみたいと思っています。
 
というわけで、日動美術館。都会の喧噪を離れた雰囲気も非常に好ましいと感じました。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月28日

昭和9年(1934)の今日、草野心平により『宮澤賢治追悼』が刊行されました。
 
光太郎は「コスモスの所持者宮澤賢治」を寄稿しています。歿後間もなく、まだ一般にはほとんどその存在を知られていなかった賢治に対し、光太郎は以下のように語りました。
 
内にコスモスを持つ者は世界の何処の辺遠に居ても常に一地方的の存在から脱する 。内にコスモスを持たない者はどんな文化の中心に居ても常に一地方的の存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮澤賢治は稀にみる此のコスモスの所持者であつた。

昨日は鎌倉に行って参りました。
 
第一の目的は、神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催中の「ロダンからはじまる 彫刻の近代」を観るためでした。
 
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こじんまりとした企画展示でしたが、内容は濃いものでした。
 
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まず会場にはいるとロダン作「花子のマスク」。明治41年(1908)の作です。ただし、「鋳造1974年」と特記してありました。
 
以前にも書きましたが、花子はロダンのモデルを務めた日本人女優で、光太郎は昭和2年(1927)に岐阜まで会いに行っています。
 
それからロダンの素描が1点、展示されていました。
 
他はロダンに影響を受けた後進の彫刻家達の作品。海外ではブールデル、ジャコメッティなど、日本では中原悌二郎、戸張孤雁、保田龍門など。
 
そして光太郎。大正6年(1917)の「裸婦坐像」と、同15年(1926)の「大倉喜八郎の首」が並んでいました。
 
それから特集展示ということで、チェコの彫刻家ズビネック・セカールの作品が約20点。庭にも本郷新や柳原義達など、やはりロダンや光太郎の影響を受けた彫刻科の作品がありました。
 
正直、荻原守衛や舟越保武、佐藤忠良なども並んでいるともっとよかったかな、と思いましたが、ぶらっと立ち寄るにはちょうどいい規模かもしれません。
 
会期は来年3月23日までです。
 
こちらがあまり時間がかからなかったので、古都・鎌倉を歩きました。以前から行ってみたいと思いつつ、未踏の場所があったからです。
 
材木座にある長勝寺さん。日蓮宗の古刹で、元々日蓮が草庵を結んだ地だそうです。
 
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こちらの境内に立つ日蓮上人の銅像が、光雲の作です。
 
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上の画像、対象物がなくて大きさがわかりにくいと思いますが、高さ約8メートルだそうで、巨大な像です。日蓮と言えば辻説法。その姿をとらえています。
 
この像、もともとここに建てられたものではなく、東京の洗足池畔にあったものを移したとのことですが、詳しい経緯などは書かれていませんでした。
 
日蓮といえば、光太郎も東京美術学校の卒業制作(明治00635年=1902)で日蓮を作っています。題して「獅子吼」。こちらは経巻を投げ捨て、憤然として立つ姿、とのことですが、腕まくりをして、今にも殴りかかってきそうなポーズです。腕を組んでいる、と勘違いしている方が多いのですが、右腕は垂らしています。
 
やはり光太郎の日蓮の方が、近代的ですね。おそらく光雲の日蓮は上野の西郷隆盛像や皇居前広場の楠木正成像同様、原型は木型でしょう。衣の波打ち方など、様式にはまっていて、リアルさには欠けています。迫力はあるのですが……。
 
さて、今日は自家用車でなく、公共交通機関で行きました。鎌倉駅に行くのも一つの目的でしたので。
 
今年6月に、横浜で、「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」というコンサートをされたフルート奏者の吉川久子さん。

今年7月から、JR鎌倉駅の発車メロディーとして、吉川さんの演奏による「鎌倉」(♪しーちりがーはーまーのー、いーそづーたーいー)が流れているとのことで、聴いてみたかったのです。いい感じでした。通常の発車メロディーは電子音によるもので、やはり機械的な感じが否めませんが、JR鎌倉駅のものは吉川さんのフルート演奏を録音して使っているため、温かみがあります。古都の雰囲気にぴったりですね。
 
鎌倉駅をご利用の際には、ぜひ耳をお傾け下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月23日

昭和63年(1988)の今日、東京地方裁判所民事法廷において、長く争われていた『智恵子抄』著作権に関する裁判の判決が言い渡され、著者側の勝利となりました。
 
その後の控訴審も同様の判決が出、著作権に関する代表的な判例ということで、法曹界では有名な事象です。

昨日、小学館さんで刊行している雑誌、『サライ』の12月号を取り寄せて手に入れました。
 
実は、現在、店頭で販売されているのは1月号です。ではなぜ先月号を手に入れたのか、と申しますと、ネットで調査中、12月号の付録「平成26年『サライ』特性カレンダー 「日本美術の名宝」暦」に光太郎の木彫「鯰」が使われているという情報を得たからです。
 
喜び勇んで書店に行ったのが14日。その時点では毎月10日発売というのを知らず、既に12月号は売られていませんでした。あきらめきれずにネットでバックナンバーが購入できないかと試み、ようやく手に入れた次第です。
 
早速開封してみると、こんな感じでした。
 
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そして6月が「鯰」。竹橋の東京国立近代美術館が所蔵しているもので、今年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の千葉展と岡山展で出品されたものです。
 
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他のラインナップは以下の通り。
 
1月:国宝「普賢菩薩像」、2月:狩野山雪「雪汀水禽図屏風」、3月:俵屋宗達「風神雷神図屏風」、4月:岩佐又兵衛「浄瑠璃物語絵巻」、5月:円山応挙「藤花図屏風」、7月:狩野永徳「洛中洛外図屏風」、8月:葛飾北斎「諸国瀧廻り」、9月:久隅守景「夕顔棚納涼図屏風」、10月:快慶「阿弥陀三尊像」、11月:狩野秀頼「高尾観楓図屏風」、12月:雪舟「秋冬山水図」。
 
こうしてみると、近代は光太郎だけですね。
 
それから本誌の方では光雲が紹介されています。
 
10月にこのブログで紹介した京都国立近代美術館で開催中の「皇室の名品-近代日本美術の粋」展の記事が載っており、光雲の「松樹鷹置物」が大きく載っています。
 
この雑誌は美術関連にも力を入れています。7月号では「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」を取り上げて下さいました。ありがたいことです。
 
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当方、時折利用する雑誌専門の通販サイト「Fujisan.com」で入手しましたが、小学館さんのサイトからもバックナンバーが取り寄せられます。ともに定価750円。ぜひお買い求めを。

【今日は何の日・光太郎】 12月22日

大正3年(1914)の今日、上野精養軒で光太郎智恵子の結婚披露宴が行われました。
 
99年前の今日が、二人の結婚記念日というわけです。まぁ、共棲生活に入ったのはもっと前と推定されますし、逆に入籍したのは昭和8年(1933)ですから実に20年近く後ですが。
 
雨男光太郎の面目躍如で、この日も冬には珍しい豪雨だったそうです。
 
以前にも書きましたが、第一詩集『道程』の刊行も同じ大正3年です。したがって、来年・2014年は『道程』刊行100周年、光太郎智恵子結婚100周年ということになります。そのあたりの線で顕彰活動を進めていこうと考えております。

展覧会情報です。  

ロダンからはじまる 彫刻の近代

2013年12月14日~2014年3月23日
神奈川県立近代美術館 鎌倉別館 鎌倉市雪ノ下2-8-1
近代彫刻の父と呼ばれるフランスの彫刻家ロダンとその弟子ブールデル、彼らの影響を受けた高村光太郎、戸張孤雁、中原悌二郎らのほか、海外の20世紀彫刻からはアルプやジャコメッティなど、当館の所蔵作品から選りすぐりの彫刻作品と彫刻家による素描や版画、約30点を紹介します。併せて、チェコスロバキア出身の彫刻家ズビネック・セカール(1923-1998)の作品約20点による特集展示を行います。
 
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先日、同館館長の水沢勉氏にお聞きしたのですが、光太郎作品は、同館で所蔵している「裸婦坐像」が展示されるとのことです。
 
12/22追記「大倉喜八郎の首」も展示されていました。
 
チラシ右上の画像はロダンの「花子の首」ですね。光太郎はロダンの評伝執筆(昭和2年=1927)に際し、モデルになった日本人女優・花子こと太田ひさに会いに岐阜まで行っています。

他にも光太郎と交流のあった彫刻家の作品が並び、彫刻史の中で光太郎を捉えるには恰好の機会でしょう。冬の鎌倉も乙なものと思います。ぜひ足をお運び下さい。
 
展覧会がらみでもう一件。現在、愛知碧南の藤井達吉現代美術館で開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」についての報道がありました。 

高村光太郎展、入場1万人に 愛知・碧南、15日まで

2013年12月5日03時00分 朝日新聞
 碧南市藤井達吉現代美術館で開催中の「彫刻家 高村光太郎展」(同美術館主催、朝日新聞社など共催)が4日、入場者1万人を達成した。
 1万人目は、初めて同館を訪れた半田市上池町の主婦広瀬和子さん(66)。彫刻家としての光太郎に興味があり、友人と一緒に訪れたという。
 広瀬さんは「力強いブロンズの『手』や、可愛らしい『蝉(せみ)』『柘榴(ざくろ)』などの木彫に感動しました。彫刻家としての才能も感じた」と話し、木本文平館長から認定書や同展の図録、藤井達吉の陶板などが贈られた。
 同展は、光太郎の生誕130年を記念して開催。妻智恵子の切り紙絵なども展示されている。
 15日まで。一般700円、高大生500円、小中学生300円。問い合わせは同美術館(0566・48・6602)へ。
 
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先日も書きましたが、3館巡回のうち、既に終了している千葉市美術館ではのべ2万人近く、岡山井原の田中美術館でも同じく1万人以上の方がご来場下さったそうです。ありがたいことです。
 
こちらは来週末までとなっています。あと10日ほどでどれだけ入場者数が伸びるでしょうか。本当に一人でも多くの方にご覧いただきたいと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月6日

昭和30年(1955)の今日、『国立博物館ニュース』掲載のため、美術史家の奥平英雄と対談を行いました。
 
原題は「高村光太郎氏にきく/芸術について私はこう思う/自然に残る伝統芸術/詩精神と彫刻の問題など」。「芸術について」の題で『高村光太郎全集』第11巻に収録されています。

先月のこのブログに少し書きましたが、JR東日本さんが提供する会員組織、大人の休日倶楽部会員向け雑誌の12月号で光太郎が取り上げられ、このほど発行されました。
 
『大人の休日倶楽部ジパング』『大人の休日倶楽部ミドル』の2誌で、共通の連載コラム「一枚の手紙から」というページです。毎回、近代の文学者が書いた手紙を一通ずつ紹介しています。今月号が光太郎というわけです。
 
 
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取り上げられているのは明治44年(1911)、画家の津田青楓に送った葉書で、現物は花巻の財団法人高村記念会さんで所蔵しています。
 
文面は以下の通り。
 
僕は北海道へ行く。
『琅玕洞』はよす。つぶす。
又今にやればやる。
芸術家もよす。つぶす。
又今にやればやる。
 
これだけだと、何のことやら……という感じですね。そこで、この時期の光太郎の動向をざっくりと解説します。
 
光太郎は明治42年(1909)、彫刻をはじめ、最新の芸術に対する000眼を開かされた3年余の欧米留学から帰国しますが、帰ってきた日本は旧態依然。父・光雲を頂点とする古い日本彫刻界と相容れず、対立を余儀なくさせられます。
 
翌明治43年(1910)には、自らの生活のため、また、志を同じくする芸術家仲間の作品を世に知らしめるため、神田淡路町に日本初といわれる画廊を開きました。それが「琅玕洞(ろうかんどう)」です。名前の由来は、アンデルセン作・森鷗外訳『即興詩人』の中に出てくるイタリア・カプリ島の観光名所から。これは現在では「青の洞窟」というのが一般的です。
 
右の画像が「琅玕洞」。藤井達吉現代美術館刊行の『藤井達吉のいた大正』から引用させていただきました。
 
琅玕洞では柳敬助や斎藤与里、浜田葆光などの個展を開催したり、藤井達吉の工芸作品や与謝野夫妻の短冊などを販売したりし、それなりに好評を得たのですが、経営的にはまるで成り立たず、わずか1年で閉鎖。画家の大槻弍雄(つぐお)に譲渡されます。光太郎は、というと、北海道に渡り、酪農のかたわら、彫刻や絵を作ろうと考えました。ただ、実際に北海道札幌郊外の月寒まで行ってみたものの、少しの資本ではどうにもならないと知り、すぐに帰京しています。下記は月寒種羊場。戦前の絵葉書です。
 
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今回『大人の休日倶楽部』さんで取り上げられている葉書は、琅玕洞を手放し、北海道へ渡る直前のものです。
 
墨書の荒々しい筆致、詩のような文面、紙面にあるとおり「旧体制のしがらみを捨てて新天地で生きる決意表明」が一種、悲壮感さえ漂わせながら伝わってきます。
 
ところで今回の記事、花巻の高村記念会さんを通じて協力要請があり、実際に執筆されるライターさんに当方自宅兼事務所までお越しいただき、上記のこの当時の背景などについてレクチャーいたしました。そのため記事の下部キャプションには「取材協力」ということで名前が載っています。ありがたいことです。
 
ちなみに「大人の休日倶楽部」さんのホームページでは、来年・2014年版のカレンダーの無料ダウンロードサービスを行っています。JR東日本さんなので、12ヶ月分、東日本の観光地の水彩画でいろどられ、いい感じです。
で、1月がいきなり十和田湖。

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湖畔には高村光太郎作の「乙女の像」をはじめ、十和田ビジターセンターや温泉など、様々な施設が点在している。毎年2月に開催される「十和田湖冬物語」では、雪像やかまくらなどはもちろん、夜を彩る冬花火も打ち上げられ、冬ならではの幻想的で美しい十和田湖を楽しむことができる。
 
というキャプションが入っています。001
 
ご活用下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月29日

昭和44年(1969)の今日、早稲田大学文学碑と拓本の会編『宮澤賢治高村光太郎の碑』が二玄社から刊行されました。
 
A5判64ページ。この当時、全国に建てられていた賢治と光太郎の文学碑を写真入りで紹介するものです。
 
この時代の大学生は渋い調査をしていたのですね。

一昨日、愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館に行って参りました。「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、碧南展は3回目の訪問です。ちなみに千葉展は3回、岡山展も1回行きましたので、つごう7回目でした。
 
一昨日は最後の大きな関連行事として、神奈川県立近代美術館館長の水沢勉氏による記念講演「高村光太郎 造型に宿る生命の極性」がありました。
 
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彫刻を中心に、光太郎の造形作品を取り上げ、その背景や意義などをわかりやすく解説され、非常に興味深く拝聴しました。単に即物的な彫刻の解説にとどまらず、人間・光太郎の道程を下敷きにし、さらに光太郎絵画と智恵子絵画の比較といった点まで踏み込まれ、ある意味目から鱗でした。光太郎の絵画はやはり彫刻家としてのそれで、対象の扱い方も彫刻家的、それにひきかえ智恵子の方がもっと自由に捉えており、もっと智恵子の造型にスポットがあたってもいいのではないか、など。
 
智恵子の油絵で現存するものは三点しか確認されていませんが、その他の造型作品として、デッサンが2点、雑誌の口絵として油絵をカラー印刷したものが2点、やはり雑誌のカット(ペン画?)や、今回も展示されている紙絵などが残されています。また、手芸作品なども。
 
来年は光太郎智恵子結婚100年(ついでにいうなら詩集『道程』出版100年)。美術館、文学館関係の方、こうした企画展示を計画されてはいかがでしょうか。
 
さて、「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。6月に千葉市美術館で始まり、岡山井原市の田中美術館を経て、現在は最後の碧南市藤井達吉現代美術館ですが、碧南展も折り返しを過ぎました。いよいよ大詰めです。
 
折り返しを過ぎたところで入場者6,000名を超えたとのこと。後半はさらに伸びて欲しいものです。リピーターが多いそうで、ありがたいかぎりですが、まだの方にもぜひご覧いただきたく存じます。
 
下記は『岐阜新聞』さんのサイトから。
 
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さらにこちらは東海地区で載った『朝日新聞』さんの全面広告です。
 
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会期は12/15(日)まで。いよいよ大詰めです。本当に1人でも多くの方に観ていただきたいと思っています。よろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月25日007

昭和22年(1947)の今日、戦後の詩2篇を補い、白玉書房から詩集『智恵子抄』を再刊しました。
 
オリジナルの『智恵子抄』は、昭和16年(1941)に龍星閣から刊行され、戦時にも関わらず13刷まで版を重ねましたが、やはり戦争の影響で龍星閣が休業、昭和26年(1951)に同じ龍星閣が復元版を出版しますが、その間、白玉書房版が刊行されていました。昭和25年(1950)の第5刷まで確認できています。
 
補われたのは「松庵寺」(昭和20年=1945)、「報告」(同21年=1946)の2篇でした。どちらも智恵子の命日(10月5日)に書かれたものです。
 
ただ、白玉書房の鎌田敬止は、元の版元である龍星閣の澤田伊四郎と十分に連絡を取っていなかったようで、この出版には若干のトラブルが生じました。

鋳金家で人間国宝の齋藤明氏の訃報が出ました。 

鋳金作家の人間国宝、齋藤明さん死去

 齋藤明さん(さいとう・あきら=鋳金作家、人間国宝)が16日、老衰で死去、93歳。通夜は20日午後6時、葬儀は21日午前10時30分から東京都練馬区春日町4の17の1の愛染院会館で。喪主は長女愛子(あいこ)さん。
 父の指導を受けて伝統的な金属の鋳造技術を習得。伝統を踏まえながら近代感覚にあふれる造形を追求し、1993年に重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けた。
(朝日新聞)
 
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文中にある「父」は齋藤鏡明(きようめい)(明23=1890~昭13=1938)。東京・巣鴨で鋳物工房を営む鋳金家でしたが、明氏18歳で他界。以後、明氏は父の弟子や友人等の指導を得て研鑽を積んだそうです。
 
昭和24年(1949)に、光太郎の弟で無題やはり鋳金家の高村豊周の工房に入り、主任として実績を積み上げ、平成5年(1993)には重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定されました。
 
その間、光太郎の塑像の鋳金をたくさん手がけ、長野・碌山美術館や花巻の高村光太郎記念館に収められている光太郎作品は、ほとんど氏の鋳造になるものです。したがって、現在愛知碧南の藤井達吉現代美術館で開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」に並んでいる作品にも、氏が鋳造なさったものが含まれています。また、十和田湖畔の裸婦像の修復等にもあたられました。
 
昨年の連翹忌ではスピーチをしていただき、今年の連翹にも元気にご参加くださいました。また、その席上で「以前、こんな講演をしました」ということで、平成9年(1997)5月15日、花巻の高村山荘で行われた第40回高村祭記念講演の筆録を渡されました。題して「高村光太郎先生のブロンズ鋳造作品づくり」。
 
一読して、美術史上、非常に貴重な記録であると確信し、当方の刊行している冊子『光太郎資料』の今年10月発行分(第40集)に収録させていただきました。ご希望の方には送料のみでお分けしています。下記コメント欄等からご連絡下さい。
 
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
実は、気がつくのが遅れて紹介しなかったのですが、今年3月には日本詩人クラブ会長を務められた詩人の寺田弘氏、6月にはやはり鋳金家の西大由氏と、相次いで生前の光太郎を知る方が亡くなっています。
 
寺田氏は光太郎が序文を書いた「傷痍軍人詩集」(昭和18年=1943)の編集にあたったり、光太郎とともに座談会に参加したりしています。
 
昭和20年(1945)4月、空襲で駒込林町の光太郎アトリエが炎上した時に真っ先に駆けつけたのが寺田氏だそうで、その時の回想が昨年刊行された『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』に掲載されています。
 
西氏は高村豊周の弟子にあたる鋳金家。かつて行われていた造型と詩、二部門の「高村光太郎賞」を昭和38年(1963)に受賞されました。
 
花巻の光太郎山荘近くに立つ「雪白く積めり」、成田三里塚に立つ「春駒」、群馬草津に立つ「草津」などの光太郎詩碑パネルの鋳造を手がけたのも西氏です。

 
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併せてご冥福をお祈り申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月20日

明治43年(1910)の今日、日本橋大伝馬町の三州屋で開かれたパンの大会に世話人として参加しました。
 
この時には有名なエピソードが二つありました。
 
まず一つ、光太郎が長田秀雄、柳敬助の入営祝の幟(のぼり)に黒枠を書きました。この出来事は『萬朝報』に「非国民」と叩かれ、「黒枠事件」と称されました。光太郎自身は深い意図はなかったとうそぶきましたが、本当はどうだったのでしょうか。
 
もう一つ、この頃光太郎が「モナ・リザ」と呼んで入れあげていた吉原河内楼の娼妓・若太夫に、作家の木村荘太がそれと知ってちょっかいを出し、さらに光太郎を挑発、決闘になりかけました。谷崎潤一郎は木村に味方し、介添えに付いてやると息巻いたそうですが、その場になってみると何も起こりませんでした。光太郎はそういうこともあるだろうと若太夫をあきらめ、木村は自分の子供っぽい行為を反省。しかし若太夫は木村を選びました。

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東海道新幹線のぞみ号車中にて書いております。真上の画像は名古屋駅で見た黄色い新幹線。正体はドクターイエロー」という保守点検用の車両で、あまりお目にかかれないものだそうです。たしかに当方、初めて見ました。「見ると幸せになれる」という都市伝説があるそうで、ラッキーでした。そこで、おすそ分けします(笑)。

今日は愛知碧南の藤井達吉現代美術館に行って参りました。現在開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事として、同館学芸員の土生和彦氏による講演「木彫家・高村光太郎」を聴くためです。

土生氏、碧南の前に巡回だった岡山井原の田中美術館でも講演をされたのですが、それを聴き逃したので、今日、参上した次第です。

スクリーンに画像を映しつつ、碧南市が野外彫刻による町作りに力を入れていることに始まり、藤井達吉の紹介、光太郎との関わり、そして主に光太郎の木彫について、専門的な内容を実に分かりやすく語られました。

聴衆は地元の一般の方が大半だったと思いますが、十分にご理解頂けたのではないでしょうか。

おそらく搬入などの際に撮影されたらしい画像、手板の裏面など、めったに見られぬカットもありました。

企画展会期は来月15日迄。来週は神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏の講演もあります。ぜひ足をお運び下さい。

【今日は何の日・光太郎】 11月16日

昭和61年(1986)の今日、二本松歴史資料館で開催された「光太郎・智恵子の世界―その愛と美の生涯―」展が閉幕しました。

今日から「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、最後の巡回先である愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館さんで一般公開が始まります。
 
昨日は開会式・内覧会ということで、お邪魔して参りました。

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ここに行くのは初めてでした。名古屋から東海道本線、名鉄線を乗り継ぎ、碧南駅から館まで歩きました。意外と駅から近く助かりましたし、古民家等が残る街並みがいい感じでした。館のすぐ近くには歴史のある味醂工場などもあるようで、再訪の際には街並み探訪もしてみようと思いました。
 
着くと、担当学芸員の土生和彦氏が出迎えて下さいました。館長室にて木本文平館長、それから6月から8月、同展が最初に公開された千葉市美術館の河合正朝館長もいらしていて、お話を伺いました。千葉展は結局2万人近くの方がいらしたそうでしたし、2館目の岡山井原市立田中美術館も、「日曜美術館」の放映後に入館者数が跳ね上がり、1万人以上とのこと。藤井達吉現代美術館も問い合わせ等非常に多いそうです。ありがたいかぎりです。
 
午後3時半から開会式。木本館長のごあいさつや来賓祝辞、担当学芸員の紹介などがあり、テープカットも行われました。
 
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その後、2階の会場へ。3館目ともなると、どのような展示の工夫をしているのかと、そちらがまず気になりました。
 
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入り口には巨大なパネル。今回はポスター、チラシ等、木彫の「柘榴」をメインに使っています。昨日もいらしていましたが、株式会社アーティカルの小島邦康氏の力作です。
 
会場は3室に分かれており、1室目はブロンズ彫刻が中心。光太郎以外にもロダンや荻原守衛など周辺作家の作品もあって、比較ができます。
 
2室目の前半は木彫が中心。鏡を使って「蟬」の腹部が見えるようにしてあったり、木彫を包んでいた袱紗や布を一緒に展示したりという工夫がされていました。ブロンズ同様、同時代の光雲や佐藤朝山の作品も並んでいます。2室目後半は光太郎晩年にスポットを当て、十和田湖畔の裸婦像試作などが中心でした。
 
1階の3室目は智恵子紙絵が26点並ん014でいます。面白いなと思ったのは、通常、壁に垂直に掛ける智恵子の紙絵を、展示ケースを使って床と水平に置き、いろいろな角度から観られる点。22点は壁に垂直の展示ですが、4点だけこのように展示しています。紙絵なので2次元の作品と思われがちですが、厚さコンマ何㍉ながら紙の重なりが感じられる展示方法でした。
 
また、同館は美術普及教育的な部分にも力を入れているそうで、子供向けの工夫も随所にされていて感心しました。入り口には「キッズガイド」というA4判二つ折りの冊子があり、それと対応して、いくつかの展示作品の低い位置に子供向けのキャプションが設置されています。小さい頃からいいものを観ることは大切だと思います。
 
さらに4室目として常設展。館の名前に冠されている藤井達吉の作品が展示されています。藤井は光太郎と縁の深かった工芸家。藤井については明日のこのブログで詳しく書きます。
 
会期は12月15日まで。月曜休館ですが、基本的に午後6時まで開館しています。何度も書いていますが、この機会を逃すと、これだけの光太郎彫刻が集められる機会がまたいつあるかわかりません。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月1日

大正10年(1921)の今日、雑誌『明星』が復刊。光太郎は詩「雨にうたるるカテドラル」を寄稿しました。
 
「雨にうたるるカテドラル」は、パリ留学中に訪れたノートルダム寺院をモチーフにした長い詩(93行)です。壮大なゴシック建築、そこに刻まれた数々の歴史、それをとりまくイル・ド・フランスの空気、さらにそれと対峙する自己の姿を鮮やかに描き出しています。
 
光太郎は粘土で彫刻を作り、木で彫刻を作り、そしてこの詩のように言葉で彫刻を作ったとも言われています。

6月に千葉市美術館さんを皮切りに始まった「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展。8月には岡山井原市の田中美術館さんに巡回、先週日曜日に閉幕しました。
 
そしていよいよ今週金曜日、最後の巡回先である愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館さんで開幕します。
 
さて、同じ愛知県の小牧市にあるメナード美術館さんでは、「開館25周年記念 コレクション名作展Ⅴ 近代日本洋画」が開催中です。
 
同館は常設展示は行わず、企画展のみ。時々このように館蔵名作展的なものを行っています。
 
「近代日本洋画」とタイトルにありますが、彫刻や西洋の絵画も展示されています。その彫刻作品の中に、光太郎の木彫「栄螺(さざえ)」と「鯰」があります。
 
栄螺」は永らく行方不明で、もはや失われてしまったとまで思われていたのが、平成15年に70余年を経て所在が明らかになったものです。

 
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「鯰」は現在3点の現存が確認されています。メナードのものは我々の世界では分類整理上「鯰3」とナンバリングしています。「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展では、千葉で「鯰2」、井原で「鯰1」と「鯰2」が展示されました。今度の碧南では「鯰1」のみ展示されます。それに対しての「鯰3」です。
 
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「鯰1」は個人蔵。「鯰2」は竹橋の東京国立近代美術館所蔵。そして「鯰3」がメナード美術館蔵というわけです。
「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展で、ぜひとも3尾の「鯰」を一堂に会させたかったのですが、こればかりは所蔵者の方々の都合もあり、どうしようもありません。
 
というわけで、碧南の「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展、メナードの「開館25周年記念 コレクション名作展Ⅴ 近代日本洋画」、併せてご覧下さい。ただ、同じ愛知県内ですが碧南~小牧は2時間近くかかるようです。
 
ちなみに「開館25周年記念 コレクション名作展Ⅴ 近代日本洋画」、日本洋画は岸田劉生、藤田嗣治、藤島武二、小出楢重、梅原龍三郎、熊谷守一、長谷川利行、佐伯佑三……まだまだメジャーな名前が続きます。西洋の作品もセザンヌ、モネ、ゴッホ、ピカソ、マチス、シャガール、ヴァン・ドンゲン、ルオー、ブラマンク……。彫刻の部も光太郎以外に高田博厚、佐藤忠良、舟越保武(すべて光太郎に関わる彫刻家です)。
 
会期は12/23までです
 
【今日は何の日・光太郎】 10月29日

昭和9年(1934)の今日、編者として名を連ね、装幀や題字を担当した文圃堂版『宮沢賢治全集』の刊行が開始されました。
 
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編集実務は草野心平。毎日のようにこのブログに心平の名が出てきますが、それだけ光太郎との縁が深かったということですね。

京都から展覧会情報です。 

皇室の名品-近代日本美術の粋-

 
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会 期 : 2013/11/9(土)~2014/1/13(月・祝)
会 場 : 京都国立近代美術館 京都市左京区岡崎円勝寺町(岡崎公園内)
入場料 : 当日一般1,300円 学割・前売り割引あり
 
記念イベント
11/16(土) 記念講演会 「皇室と日本近代工芸」 京都国立近代美術館学芸課長 松原龍一
11/23(土) 記念鼎談 「皇室が護り育てた日本近代美術」
       大原美術館長 高階秀爾・前京都国立近代美術館長 尾﨑正明・
       宮内庁三の丸尚蔵館研究官 太田彩
12/14(土) 記念講演会 「皇室と明治の美術」 東京芸術大学 古田亮
同展サイトから
 本展は、代々の皇室に引き継がれてきた美術品群が国に寄贈されたことを受け、平成5(1993)年に開館した宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵する美術工芸品の中から、選りすぐった近代以降の作品約180点を、六つの章に分け体系的に紹介するものです。日本画の横山大観、竹内栖鳳、油彩画の高橋由一、彫刻の高村光雲、七宝の並河靖之、金工の海野勝珉など、内国勧業博覧会や万博への出品作、御成婚や御即位を祝して制作された作品など、皇室ゆかりの名品が一堂に会します。
 本年12月に天皇陛下は傘寿を迎えられます。その佳き年と、京都国立近代美術館の開館50周年、宮内庁三の丸尚蔵館の開館20周年が重なりました。各館の記念事業の一つとして、皇室とは特別にゆかりの深い京都の地で、皇室が守り育んでこられた、まさに近代日本美術の粋をご観覧いただけるまたとない機会となります。
 
上記チラシにも載っていますが、光雲の作品も展示されます。
 
大正13年(1924)の作、「松樹鷹置物」。宮内庁001の三の丸尚蔵館に所蔵されているものです。ただし後期のみの展示となっていました。前期は11/9~12/8、後期が12/11~1/13で、前後期でかなり展示品の入れ替えがあるようです。
 
他には以下の通り。
「鶴亀置物」 
 明治40年(1907) 竹内久一との合作 後期
「萬歳楽置物」 
大正5年(1916) 山崎朝雲との合作 前期
「猿置物」 大正12年(1923) 前期
「矮鶏置物」 明治22年(1889) 後期
 
光雲と皇室との関連は深く、明治20年(1887)の皇居造営の際に内部の装飾彫刻を手がけたのを皮切りに、同23年(1890)には帝室技芸員に任命、同26年(1893)には皇居前広場に建つ楠木正成像原型を完成させ、その他、何度も御前彫刻を仰せつかっています。
 
せっかくの機会ですので、足をお運び下さい。当方も「松樹鷹置物」が並ぶ後期に行ってみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月22日

昭和17年(1942)の今日、詩人の風間光作、西山勇太郎と群馬県宝川温泉湯ノ小屋を訪れました。
 
この時、宿の主人・鈴木重郎の日記帳に言葉を書き残しています。

現在、岡山県井原市の田中美術館で開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。11月からは愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館に巡回となります。
 
過日、同館よりチラシその他届きました。
 
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以下、同館サイトから。 

生誕130年 彫刻家高村光太郎展 

会期   平成25(2013)年 11月1日(金)から 平成25(2013)年 12月15日(日)まで
 
観覧時間
10:00-18:00 ※11月9日(土)は21時までの夜間特別開館
 
休館日
月曜日(ただし11月4日は開館し、翌11月5日は休館)
 
観覧料
一般700(560)円  高校・大学生500(400)円  小・中学生300(240)円 ※()は20名以上の団体
 
関連行事
 
■記念講演会① 
日 時 2013年11月16日(土) 午後2時~3時30分
講 師 土生 和彦 (当館学芸員)
内 容 「木彫家・高村光太郎」
場 所 大浜まちかどサロン(美術館向かい)
定 員 先着60名 (定員になり次第締切)

■ 記念講演会② 
日 時 2013年11月23日(土) 午後2時~3時30分
講 師 水沢 勉 氏 (神奈川県立近代美術館 館長)
内 容 「高村光太郎 造型に宿る生命の極性」
場 所 大浜まちかどサロン(美術館向かい)
定 員 先着60名 (定員になり次第締切)
 
■ ミュージアムコンサート 
日 時 2013年11月9日(土) 午後7時~8時
内 容 光太郎の詩の世界を歌曲で味わってみませんか。当日は展覧会場も午後9時までの夜間特別開館となります。
作 曲  野村 朗 氏
演 奏  森山 孝光 氏(バリトン) 森山 康子 氏(ピアノ)
定 員   100名 (定員になり次第締切)
曲 目  歌曲「冬の言葉」(詩:高村光太郎) 連作歌曲「智恵子抄」(詩:高村光太郎)
参加費 無料(展覧会場観覧には別途観覧料が必要です)
場 所 美術館1階 ロビー

■ワークショップ
日 時 2013年12月1日(日) 午前10時~午後4時
内 容 「塑像に挑戦!光太郎の手を作ろう」
彫刻家が作った「手」の作品は、本物以上に表情豊かで迫力があります。自分の手と一日じっくり向かい合い、粘土で手を作りましょう。
講 師 小島 雅生 氏(造形作家・東海学園大学 准教授) 
対 象 小学3年生~中学生
定 員 10名 (定員になり次第締切)
参加費 500円
持ち物 昼食、汚れてもよい服装
場 所 美術館地下1階 創作室

【講演会、コンサート、ワークショップ申込方法】  2013年10月22日(火)午前10時より受付を始めます。お電話にて、①氏名、②住所、③電話番号、④参加人数をお知らせください(先着順)。
tel 0566(48)6602
 
■ギャラリー・トーク
当館学芸員が展示作品の解説を行います(約30分)。
日 時 11月: 2日(土)、9日(土)、30日(土)  12月: 7日(土)、14日(土) 午後2時より
予約不要 観覧券をお持ちの上、美術館2階ロビーにお集まりください。
 
過日のNHKさんの「日曜美術館」の反響として、実物を見てみたい、というのを多く目にしました。この機会にぜひどうぞ。特に木彫の数々は、この機会を逃すと次はいつ見られるか分かりません。
 
ところで、岡山井原展の方も、今月20日まで開催中ですのでよろしく。

【今日は何の日・光太郎】 10月12日

明治33年(1900)の今日、与謝野鉄幹の新詩社刊行の雑誌『明星』に、初めて作品が載りました。
 
「大我小我」という欄に載った短歌五首です。
 
君が文よみつつをればそれとなくゆかしき人の息の香ぞする
君こよひ来べしとききて人知れずかきし障子の歌を消すかな
実の二つ成りし無花果(いちぢく)けさ見れば一つはあらで歌むすびあり
里とほく荒磯づたひさまよひて岩かげに泣く海人(あま)を見しかな
それゆゑに智恵を忘れんものならば筆も我折らむ書(ふみ)も我裂かむ
 
与謝野晶子の「みだれ髪」にも通じる、いかにも『明星』の星菫調ですね。ただし、光太郎初期のものは、鉄幹の添削がかなり入っているということで、後に光太郎自身、この時期のものは自分の作とは言い難いと発言しています。

岩手からイベント情報です。 

岩手大学ミュージアム10周年記念事業 大学収蔵美術展 ~教材としてのアートの魅力~

期間:2013年9月27日(金)~11月3日(日)
会場:岩手大学情報メディアセンター(図書館) 盛岡市上田3-18-8
入場無料
 
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岩手大学さんの美術・デザインコース(特設美術科)で教材として提示するために収集された美術品を一般公開するというものです。
 
光太郎の代表作「手」も含まれているとのこと。
 
以前にも書きましたが、ブロンズの作品は同じ型から鋳造したりということで、複数存在するものがあり、「手」も全国に10点以上あるのではないかと思われます。
 
他にサモトラケのニケや萬鐵五郎の作品なども展示されているようです。
 
同大の特設美術科は、光太郎と交流のあった盛岡出身の画家・深沢紅子、美術史家の森口多里(水沢町出身)らが昭和22年(1947)に開いた岩手美術研究所を母体としているそうで、のちに岩手美術工芸学校、そして岩手大学特設美術科へと発展していったとのこと。
 
光太郎は花巻時代に美術工芸学校で講演を行ったり、卒業式などには祝電を送ったりしています。当方、この頃森口に送った葉書を5通所蔵しています。
 
というわけで、光太郎と縁浅からぬ岩手大学さんで、光太郎の作品も展示されているイベント。お近くの方はぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月4日

昭和28年(1953)の今日、後楽園に「ホリデイ・オン・アイス」を観に行きましたが、満員で入れませんでした。
 
「ホリデイ・オン・アイス」といえば、アメリカのフィギュアスケーターによるアイスショーで、当方が子供の頃(昭和40年代)、テレビのCMもやっていた記憶があります。昭和20年代にすでに日本公演があったというのは驚きでした。
 
光太郎、この後しかたなく草野心平が経営していた居酒屋「火の車」に出かけています(笑)。

昨日、渋谷のNHK放送センターに行って参りました。10/6(日)放送の「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像~」のスタジオ収録を観るためです。

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司会は伊東敏恵アナと俳優のARATA改め井浦新たさん、ゲストは美術にも造詣の深い作家の平野啓一郎氏でした。
 
驚いたのは、ほとんどぶっつけ本番だということ。収録本番前に軽くリハーサルもあったのですが、それも「カメラ戻し」―VTRが終わってスタジオの映像に戻ること―のタイミングの確認ぐらいで、実際のトークは撮り直しを一切せず、一発収録でした。
 
お三方とも、光太郎・智恵子についてよくお調べになっていたようで、話ははずみ、結局カメラが回っていたのは1時間近くだったでしょうか。45分の番組中、VTRが約30分、逆算するとスタジオでの部分は約15分ということになります。お三方のお話の部分もこれから編集し、それくらいの時間にまとめるとのこと。つまり放映されるのはスタジオでのお話の約3分の1というわけです。いろいろいいお話だっただけに、残念な気もします。逆に言うと、当方は全部のお話が聴けてラッキーでした。
 
約30分のVTRもよくできていました。8月からの短期間でよくぞこれだけ作ったという感じです。ネタバレになるのであまり細かくご紹介できませんが、千駄木や品川、花巻や十和田など光太郎ゆかりの地の映像、「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」が次に巡回される愛知県碧南市藤井達吉現代美術館木本館長、高村光太郎記念会事務局長北川太一先生の的確な談話、そして花巻時代の光太郎の思い出ということで、花巻高村記念会理事の浅沼隆さんのお話がありました。その他、当時の写真や動画(昭和29年=1954、ブリヂストン美術館作成の美術映画『高村光太郎』から抜粋)、そして井原市立田中美術館で実際にいろいろな角度から撮影された光太郎彫刻の数々……十分ネタバレになっていしまいました、すみません(笑)。
 
伊東敏恵アナのナレーション、バックに流れる音楽も素晴らしく、これぞテレビの持つ威力、という気がしました。Vを観終わる頃にはなぜか涙が出そうになりました。
 
ただ、番組全体の方向性が、どちらかというと彫刻の技法やら美術史上における位置づけといったことよりも、人間・光太郎に突っ込んだ作りになっており、特にサブタイトルにもあるとおり、智恵子との関わりがかなり深く追求されています。その意味では「日曜美術館」といいながら、彫刻や美術史の専門家の方々には不満の残る内容かも知れません。
 
しかし、これは一般向けのテレビ放送であって、学会での研究発表等ではありません。スタジオでのお話も、出演者の方々それぞれの個人としてのご発言ということで、お考え下さい。当方のような立場の人間がああいう発言をすると問題があるかな、という部分もあります。ですが、一般向けに光太郎智恵子の世界を紹介するには、十分すぎる内容だと思います。
 
惜しむらくは45分という時間の枠ですね。また別の機会に「日曜美術館 高村智恵子」または「高村光雲」、さらには他の番組でも取り上げられることを期待します。
 
さて、昨日発売のNHKさんのPR誌『NHKウィークリーステラ』で、今回の放送について1ページ、紹介が載っています。一般書店でも販売されています。前田敦子さんの表紙が目印です。ぜひお買い求め下さい。
 
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【今日は何の日・光太郎】 10月3日

昭和6年(1931)の今日、新聞『時事新報』で、光太郎の紀行文「三陸廻り」の連載がスタートしました。
 
実際に旅したのは8月から9月ですが、その旅の間に留守を預かる智恵子に統合失調症の症状が顕在化したそうです。日本という国時代も泥沼の戦争に向かう時期。光太郎にとって大きな転機の時期の始まりです。

次の日曜日(10/6)、午前9時からNHK Eテレで「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」。が放映されます。 

日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像

NHK Eテレ 2013年10月6日(日)  9時00分~9時45分
       再放送
 10月13日(日) 20時00分~20時45分
 
『智恵子抄』で知られる高村光太郎。今回は、日本の近代彫刻を切り拓いた偉大な彫刻家としての人生に注目する。傑作誕生の陰には、妻・智恵子との知られざる物語があった。

番組内容

まっすぐに天をさす人差し指。一瞬の動きを見事に捉えたブロンズ彫刻「手」。日本近代彫刻のれい明期を告げる作品の作者は、「智恵子抄」で知られる高村光太郎だ。明治彫刻界の巨人・高村光雲の長男として生まれ、フランス留学をきっかけに独自の彫刻を模索。そんな光太郎を支えたのが妻・智恵子の存在だった。最晩年の大作など傑作の数々を紹介しながら、生涯を智恵子の面影と共に生きた、彫刻家・高村光太郎の実像に迫る。

出演者

  • 出演 芥川賞作家…平野啓一郎,
  • 司会 井浦新,伊東敏恵

同番組の公式サイトにも詳細情報がアップされました。

 
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まっすぐに天をさす人差し指、呼応するようにほかの指は内側に力強く折り込まれていく。一瞬の動きを見事に捉えたブロンズ彫刻『手』。日本近代彫刻のれい明期を告げるこの作品、作者は『智恵子抄』の詩で知られる高村光太郎(1883~1956)だ。

明治彫刻界の巨人・高村光雲の長男として生まれた光太郎は、将来を約束された日本彫刻界のプリンスだった。しかし、東京美術学校・彫刻科在学中に近代彫刻の父・オーギュスト・ロダンの存在を知り、日本独自の近代彫刻を創造する決意をする。フランス留学を経て帰国した光太郎は先鋭的な活動をスタート。旧態依然とした日本の美術界を徹底的に批判し、どこまでも理想を求める中で孤独を深めていくようになる。そんな光太郎を絶望の淵から救い出し、一変させたのが妻・智恵子との出会いだった。「智恵子の純愛に接し、退廃生活から救い出された」と語る光太郎は、以後、智恵子ともに手に手を取り合って、彫刻に打ち込み、数々の作品を生み出していく。

しかしその幸せは長くは続かなかった。智恵子の死、戦争、そして戦争賛美の詩人というレッテル・・・。さまざまな紆余曲折の中で、一生を通じて智恵子の面影とともに生きた彫刻家・高村光太郎。その実像に迫っていく。
 
アドバイザーとして番組制作に関わらせていただきましたが、驚きました。何に驚いたかというと、45分の番組を制作するのにここまでこだわるか、という姿勢です。
 
担当ディレクター氏からは3日にあげずメールやら電話やらが入り、質問攻勢でした。たとえば……
 ・ 光太郎が生まれた旧下谷区西町3番地の現在の正確な番地は。
 ・ 光太郎がロダンの存在に衝撃を受けたことを示す文筆作品というと。
 ・ 光太郎が死んだはずの智恵子とビールを飲んだというエピソードがあるようだが、その出典は。
 ・ 光太郎の木彫作品の制作過程にどのような試行錯誤があったのか。
 ・ 木彫作品を入れていた袋や袱紗は智恵子が縫ったという説があるが本当か。
 ・ 智恵子が懐に入れて歩いたという木彫作品は特定できるか。
 ・ 『青鞜』創刊号の智恵子の表紙絵は何を描いたものか。
 ・ 光太郎がパリでロダンの「考える人」を実際に見た事が証明できるか。
 ・ 智恵子が好きだった花は。
などです。
 
担当ディレクター氏曰く「五月雨式」にそれらの質問が矢継ぎ早に来て、その都度分かる範囲のことはお答えしました。「豚もおだてりゃ木に登る」というわけで、「この度の番組制作では、そちらがいてくださるだけで、どれだけ心強いかわかりません。本当にありがとうございます。」という言葉にまんまとのせられてしまいました(笑)
 
それにしても、「事実ではないことは盛り込みたくない」ということで、かなり細かい点まで突っ込まれています。その姿勢には感心しました。昨今、番組制作の在り方についていろいろ批判が起こることがありますが、この番組については素晴らしいと思いました。
 
ぜひご覧下さい!
 
さて、明後日10/2にはスタジオ収録が行われます(放映直前に収録というのには驚きました)。当方、出演はしませんが、撮影に立ち会わせていただけることになりましたので、渋谷のNHKさんに行って参ります。
 
また、同じく10/2発行のNHKさんのPR誌「NHKウィークリーステラ」に今回の放送の紹介が載るそうです。一般書店で販売していますので、ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月30日

1950(昭和25年)の今日、光太郎が部分的に解説を担当した『世界美術全集 第24巻 西洋十九世紀Ⅲ』が平凡社から刊行されました。
 
光太郎が担当したのはロダン作「考える人」「姉と弟」の解説。以後、断続的に昭和28年(19853)まで、『世界美術全集』の解説を手がけています。ロダン以外にはミケランジェロや古代エジプト彫刻、光雲などでした。

昨日ご紹介したNHKさんの「日曜美術館」、10月6日放送の「智恵子に捧げた彫刻~詩人・高村光太郎の実像~」。現在岡山県井原市の田中美術館さんで開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にからめての内容になります。
 
当方、先月30日、オープニングの日に行って参りましたが、その後どういう状況かと思い調べてみました。
 
まず9月9日付の『中国新聞』さんの記事。

全国の光太郎彫刻115点展示

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の生誕130年を記念した特別展「彫刻家・高村光太郎展」が、井原市井原町の田中美術館で開かれている。同市出身の彫刻家平櫛田中=ひらくしでんちゅう=(1872~1979年)も高く評価した彫刻作品を並べ、美術家としての足跡に光を当てている。10月20日まで。
 全国の美術館や個人が所蔵する光太郎の木彫や塑像、スケッチなど計115点を並べる。代表作で、仏像の手に着想を得たブロンズ像「手」や、果物の種を宝石のように削り、みずみずしさを表現した木彫「柘榴(ざくろ)」などがある。
 詩集「道程」「智恵子抄」でも知られる光太郎。展示品の中には、妻智恵子が、果物や花を題材に、色紙を切り貼りした「紙絵」43点もある。
 福山市引野町の無職藤井俊昭さん(63)は「光太郎の作品は、細部にこだわる繊細さと、大胆な彫り方が同居していて魅了される。趣味で彫刻をしているので勉強になる」と話していた。
 一般700円、65歳以上350円、高校生以下無料。9月11日、10月9日午後1時半からは、同館でギャラリートークもある。
 9月29日午後1時半からは井原市井原町の市民会館で、学芸員の記念講演会がある。入場無料。同館=電話0866(62)8787。
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続いて9月12日付の『山陽新聞』さん。

彫刻家高村光太郎の背景探る 井原・田中美術館で作品解説

 特別展「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」を開催中の井原市井原町、市立田中美術館で11日、作品解説があった。美術ファンら約50人が生命感あふれる作品が生まれた背景に耳を傾けながらじっくりと鑑賞した。
 最初に青木寛明主任学芸員が、詩集「道程」などで知られる詩人の顔とは違う彫刻家の姿を紹介。妻・智恵子をイメージした「裸婦坐像」は「結婚直後に作られたもので智恵子との安定した生活が如実に感じられる」と説明した。
 ロダンの影響を受けた代表作「手」については「見る向きによって指が細く見える。いろいろな角度から眺めてみて」と呼び掛けた。
 井原市制施行60周年記念展。光太郎の彫刻48点にロダンらの作品を加えた計115点を展示している。会期は10月20日まで(9月16、23日、10月14日を除く月曜と9月17、24日、10月15日休館)。山陽新聞社など共催。
 作品解説は10月9日午後1時半からも行う。
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11日に行われたギャラリートークの報道です。
 
ギャラリートークは10月9日にも行われる由。それから井原の次に巡回になる愛知県碧南市藤井達吉現代美術館の学芸員・土生和彦氏による記念講演が29日に隣接する市民会館で開催されます。

8d5a5e3c-sそれから、報道ではありませんが、田中美術館の学芸員、青木寛明氏からメールを頂きましたので抜粋します。 

入館者数はまだまだですが、来館者の皆様には好評です。「こんなに良いとは思わなかった」という感想が多々あります。ありがたいことです。先日来館された老婦人は蝉1のご所蔵者に少女の頃、作品を見せてもらったことがあるとのことで、袋があったはずだがと言われ、展示していることを言うと喜ばれていました。
 
こういうエピソードは心が温まりますね。画像は光太郎令甥・髙村規氏の撮影になるものです。

会期、10月20日までです。ぜひ足をお運び下さい。

ae050c75【今日は何の日・光太郎】 9月17日

大正10年(1921)の今日、アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマン著、光太郎訳『自選日記』が叢文閣から刊行されました。
 
光太郎は彫刻家としてはあまり金が稼げませんでした。一つの彫刻を仕上げるのにも徹底的にこだわりぬいていたためで、父・光雲のように彫って彫って彫りまくるということはできなかったのです。
 
語学に堪能だった光太郎はこうした翻訳も多く手がけています。この頃、翻訳が一番手っ取り早く稼げる手段だったとのことです。
 
他にも有名な『ロダンの言葉』をはじめ、エリザベット・ゴッホ(画家ゴッホの妹)、ヴェルハーレン、ロマン・ロランなどの訳を手がけています。

昭和51年(1976)に放映が始まったNHK Eテレ(旧教育テレビ)さんの「日曜美術館」。美術番組の嚆矢ですね。
 
これまでの放送で光太郎がメインで取り上げられたことはなかったそうですが、10月6日のオンエアでついにそれが実現します。題して「智恵子に捧げた彫刻~詩人・高村光太郎の実像~」。同番組のサイトで予告が出ましたのでお知らせします。
 
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岡山県井原市立田中美術館で現在開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にからめての内容になります。制作はNHK広島放送局です。
 
先月はじめ、田中美術館の次に巡回される愛知県碧南市藤井達吉現代美術館を通し、協力要請がありました。そして広島放送局の担当ディレクター氏に当方事務所兼自宅までお越しいただき、いろいろと打ち合わせを致しました。その後、メール等でやりとりしながらあちらのご質問に答えたり、種々の情報をご提供したりで、現在番組制作中です。田中美術館や東北各地でのロケはもう行われ、北川太一先生の談話も撮られたそうです。
 
光太郎の彫刻家としての歩みに智恵子との関わりをからめ、その歩みの集大成として十和田湖畔の裸婦像にたどり着くという流れでの45分間だそうです。
 
本放送は10月6日(日)9:00~、NHK Eテレにて。再放送は特に何もなければ同じくNHK Eテレにて、1週間後の10月13日(日)20:00~になるはずです。ぜひご覧下さい!
 
【今日は何の日・光太郎】 9月16日011

昭和48年(1973)の今日、兵庫県神戸市の神戸文化ホールが開館しました。外壁に智恵子の紙絵「紫陽花」をあしらった田中岑氏による巨大モザイクが作られました。
 
同時に壁画の下には草野心平筆による光太郎詩「晩餐」の一節、「われらのすべてに溢れこぼるるものあれ
われらつねにみちよ」を刻んだ碑も設置されました。
 
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 この碑の元になった心平の揮毫は、心平を偲ぶ集い「かえる忌」の会場となっている福島県川内村の小松屋旅館さんに現存します。

追記:どうも工芸による複製のようです。
 

生誕130年 彫刻家高村光太郎展」開催中の田中美術館がある岡山県井原市。光雲の高弟だった平櫛田中の故郷ということで、街のあちこちに田中の彫刻が配されています。
 
特に田中美術館にほど近い「田中苑」という公園には、たくさんの田中作品、田中の筆跡を刻んだ碑などがあります。また、田中美術館ロビーにも。
 
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「鏡獅子」
 
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田中筆跡
 
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 左:「岡倉天心胸像」  右:「西山公」
 
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左:田中筆跡  右:「鏡獅子」石膏原型
 
他にも市立図書館や福祉センター前にも田中の彫刻、それから町中至る所で現代作家やロダンの野外彫刻が観られます。
  
「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」と併せてご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月2日

昭和20年(1945)の今日、宮澤賢治の会主催の「高村先生からお聞きする会」で「美しく懐かしき国、日本」と題して講話を行いました。

岡山県井原市立田中美術館での「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。共催に入って下さっている『山陽新聞』さんで報道されました。 

井原で高村光太郎展が開幕 生命感あふれる彫刻ずらり

 井原市立田中美術館(同市井原町)で30日、特別展「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」(同美術館主催、山陽新聞社など共催)が開幕。生涯にわたって制作を続けた彫刻作品を通して、詩集「道程」「智恵子抄」などで知られる詩人の顔とは違った芸術家の姿を紹介している。
 光太郎は、木彫家の父・光雲に幼少から彫刻を学び英仏など海外にも留学、創作に励んだ。同展は現存するほぼ全てという48点を核に、同時代の彫刻家の作品や妻・智恵子の美しい切り絵など計115点を展示している。
 会場には、西洋的なモチーフと仏教の印を融合した代表作「手」や、人物の内面までとらえた胸像、動植物の木彫などがずらり。傾倒したロダンや、親交のあった荻原守衛らの彫像も並び、入場者らは作風を見比べながら堪能していた。
 井原市制施行60周年記念展。会期は10月20日まで(9月16、23日、10月14日を除く月曜と9月17、24日、10月15日休館)。


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井原は他にもいろいろと見所があります。明日はその辺りを書きましょう。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月1日

大正12年(1923)の今日、関東大震災に遭いました。
 
この日、智恵子は福島に帰省中で難を逃れました。光太郎はアトリエで彫刻制作中でしたが、幸い駒込林町のアトリエは無事。その後、被災者のためにアトリエを開放したり、智恵子の実家から製品の日本酒を取り寄せ、にわか酒屋を始めたりしました。

昨日、岡山県は井原市立田中美術館での「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」開会式に行って参りました。
 
6月から8月20日にかけての千葉展に続いての巡回開催です。田中美術館は光雲の高弟だった平櫛田中(ひらくしでんちゅう)の個人美術館として昭和44年に開館したものです。井原市は田中の故郷です。
 
午前10時から隣接する井原市民会館で開会式、市長や議員さんの挨拶の後、美術館に移動してテープカットが行われました。
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井原市のゆるキャラ、「でんちゅうくん」も駆けつけました。平櫛田中作の彩色木彫「鏡獅子」をモチーフにしています。

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その後は展覧会を観ました。
 
出品されているのは千葉展とほぼ同一ですが、いろいろ違いもあります。
 
まず木彫「鯰」。千葉では1点だけでしたが、こちらでは2点並んでいます。
 
それから千葉では2点のみ展示されていた木彫を包む袱紗(ふくさ)。光太郎が自作の短歌をしるしているものですが、こちらでは「蓮根」や「鯰」のものなど、多数出品されています。
 
また、田中美術館がもともと所蔵していた光太郎から田中にあてた書簡も3通並んでいます。このうち1通、留学先のパリから送られたものは未発表のもの。来春刊行の雑誌『高村光太郎研究』中の「光太郎遺珠」にて詳細を公表します。
 
そして田中の作品の数々も観られます。光雲の系譜を引きつつも独自の世界に達した見事なものです。
 
逆にスペースの関係で智恵子の紙絵は千葉より少ない展示ですが、それでも43点並んでいます。
 
千葉展の際にも書きましたが、光太郎智恵子に関し、これだけの規模の展覧会はめったにありません。特に西日本では久しぶりの開催です。ぜひ多くの方に観ていただきたいものです。
 

【今日は何の日・光太郎】 8月31日007

昭和35年(1960)の今日、龍星閣から『光太郎智恵子』が刊行されました。
 
光太郎智恵子の詩文、書簡のうち、お互いに関するものをピックアップして一冊にまとめたものです。
 
昭和43年(1968)には増補版も刊行されています。
 
一昨日の火災で全焼した福島の不動湯温泉から、光太郎智恵子連名で、智恵子の母・センに送った葉書も収録されています。日付は昭和8年(1933)9月2日。この葉書は現在、二本松の智恵子記念館に展示されています。
 
青根から土湯へまゐりました。土湯で一番静かな涼しい家に居ます。もう二三日ここにゐるつもりでゐます 九月二日
 
不動湯さんは本当に残念でした。
 
当方のコメントがNHK福島さんで流れ、ネットにも載りました。
光太郎智恵子が泊まった部屋や自筆の宿帳が焼けたのは残念ですが、それ以上に亡くなった方がいらっしゃるというのに心が痛みます。

「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。千葉市美術館での千葉展は好評のうちに幕を閉じ、明日から岡山県井原市の田中美術館(でんちゅうびじゅつかん)さんに会場を移して開催されます。
 
 
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井原市制施行60周年記念 田中美術館秋季特別展 「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」

会期 平成25(2013)年8月30日(金)~10月20日(日)  8月30日は開会式のため、10時30分より開館
 
開館時間 午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
 
休館日 月曜日
 ただし、9月16日、9月23日、10月14日は開館、9月17日、9月24日、10月15日は休館
 ※8月24日(土)~8月29日(木)は、展示替えのため休館
 
主催 井原市立田中美術館
 
共催 NHKプラネット中国、山陽新聞社
 
企画協力 NHKプラネット中部
 
入館料 •一般:700円(560円)•65歳以上:350円(280円) •高校生以下 無料 ※( )内は有料団体20名以上の料金
            
(問)井原市立田中美術館(℡0866-62-8787)         
〒715-8601 岡山県井原市井原町315 井原市立田中美術館
         
記念講演会
日 時:平成25年9月29日(日) 13時30分~15時         
講 師:土生 和彦 氏 (碧南市藤井達吉現代美術館 学芸員)         
会 場:井原市民会館 鏡獅子の間         
演 題:木彫家・高村光太郎         
入場料:無料         

概要
髙村光太郎(1883-1956)は江戸末期から明治期に活躍した木彫家・高村光雲(1852-1934)の長男として東京・下谷に生まれ、幼い頃より後継者としての修練を与えられました。父から江戸時代そのままの指導方法によって木彫の基礎を学んだ光太郎は東京美術学校で木彫の他に塑造を学び、卒業後アメリカそしてフランスに留学します。
帰国後の光太郎の活動は、彫刻よりも文筆活動によって広く知られるようになります。日本最初のポスト印象派宣言とも、あるいはフォーヴィズムの先駆とも評される「緑色の太陽」(1910)に代表される評論、『道程』(1914)、『智恵子抄』(1941)などの詩業、そして『ロダンの言葉』(1916)といった翻訳は、芸術家である彼の存在を印象付けました。
その一方で光太郎は、彫刻の制作とその発表については慎重であり続けました。残念なことに1945年の空襲によって彼のアトリエは被災し、多くの彫刻作品が失われ、彫刻家としてのあゆみは全体像が見えにくいものとなってしまいました。そして、疎開による環境の変化は、彫刻を制作する機会の妨げとなりました。
最晩年、光太郎は自ら「私は今でも自分を彫刻家だと思つているし、私の彫刻の仕事をかえり見て、それが詩の仕事に及ばないとは思わない。また、明治以來の日本の彫刻の中で自分の彫刻がどういう役割を果たしているかも知つている。そしてまだ相當の可能性を保持していることも信じている」(「自傳」)と記しました。彫刻家の歿後、戦災を免れた作品によって直ちに遺作展が開催され、今日に至るまで数多くの展覧会で彼の彫刻は近代日本を代表する作品として取り上げられています。
生誕130年の節目を迎えて開催される今回の展覧会では、光太郎の原点ともいえる木彫作品をはじめ、彼が参照したロダン(1840-1917)や同時代の佐藤朝山(1888-1963)、中原悌二郎(1888-1921)などによる作品と妻・智恵子(1886-1938)が制作した紙絵をあわせて展示します。本展が光太郎の彫刻作品を見直す契機となると共に、今日活発化している近代日本彫刻をめぐる研究への一助なとなることを願います。

出品作品
•高村光太郎作品(彫刻)48点、(スケッチブック)2冊、(クロッキー帳)1冊 
•高村智恵子作品(紙絵)43点
•光太郎周辺の彫刻家たち:ロダン3点、ブールデル1点、マイヨール1点、
 高村光雲1点、荻原守衛2点、毛利教武1点、佐藤朝山7点、中原悌二郎2点
•その他:土門拳撮影光太郎彫刻写真1点、デスハンド1点、
 高村光雲愛用で光太郎が受け継いだ彫刻刀1揃 
 
特に西日本在住の皆様、ぜひ足をお運び下さい。
 
当方、今夜から夜行高速バス、新幹線を乗り継いで岡山入りし、明日の開会式に行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月29日

昭和62年(1987)の今日、愛媛松山いよてつそごうで開催されていた「高村光太郎と智恵子の世界」展の関連行事として、愛媛松山子規記念館を会場に、北川太一先生が記念講演をされました。
 
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先日のブログでふれた光雲の高弟・米原雲海がらみの情報です。『北日本新聞』さんの記事から。  

「清宵」高岡に“里帰り” 光雲弟子・米原雲海の木彫像

 高岡市の美術品収集家、荒俣勝行さん(70)が所有し、3月まで国登録美術品として東京国立近代美術館に預けられていた木彫像「清宵(せいしょう)」が高岡に“里帰り”し、24、25の両日、同市で行われる「高岡山町筋土蔵造りフェスタ」(北日本新聞社後援)で展示される。高村光雲の高弟、米原雲海(1869-1925年)が1907年に制作し、東京と西欧で高く評価された作品で、荒俣さんは「優しい表情が何よりの魅力。多くの人に見てもらいたい」と話している。

 国登録美術品制度は、優れた価値を持つ作品に、美術館で広く公開の機会を設けるために国が実施している。登録されると、文化庁の推奨する全国の美術館で展示される。

 「清宵」は稚児天神像で、東京勧業博覧会で1等、日英博覧会で金賞となった雲海の出世作。文化庁の調査員は「どの方向から見ても欠点がない」と評価した。雲海は岡倉天心の教えを受けており、美術史上の価値も高いという。

 荒俣さんは2001年に県内の古物商から入手した。文化庁による鑑定を受け、翌年、国登録美術品に選ばれた。島根県立美術館に5年、その後、東京都国立近代美術館に5年預けたが、「手元に置き、県内で公開したい」との思いからことし3月に登録を取りやめ、作品を引き取った。

 土蔵造りフェスタでは、同市木舟町の国重要文化財「菅野家」に展示し、24日は午後1時から、25日は午前11時から見学できる。「清宵」のみ、両日とも午後6時まで。入場には菅野家の観覧料が必要。
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「高岡山町筋土蔵造りフェスタ」は高岡市で恒例のイベントだそうです。土蔵造りの街並みとして国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている山町筋(やまちょうすじ)で「土蔵の家で所蔵のお宝展示」などが行われるとのこと。その一環として雲海の木彫が観られるようです。
 
高岡というと高岡銅器が有名で、彫刻と因縁浅からぬ土地柄、そういうつながりもあるのでしょう。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月23日

昭和8年(1933)の今日、光太郎・智恵子、正式に入籍しました。
 
二人が結婚披露宴を行ったのは大正3年(1914)暮。それ以来、世間の習慣に束縛されたくないということで、事実婚の状態でした。フランスでは事実婚は今も珍しくないそうで、光太郎の敬愛していたロダンとローズ・ブーレもそうでした。
 
日本でも智恵子と縁の深い平塚らいてうと奥村博なども大正元年(1912)から昭和16年(1941)まで事実婚状態でした。らいてうは長男の兵役に際し、「私生児」として不利益を被らないようにと入籍を決意したそうです。
 
光太郎の場合は、智恵子の統合失調症が関係しています。自分に万一のことがあった場合の財産分与などを考えてということだったそうです。

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