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昨日は、ロダン作の彫刻「カレーの市民」にからめ、作者の意図と展示の方法といった点について述べました。せっかくの作者の意図が反映されないような展示の仕方は避けてほしいものです。
 
同様に、作者の意図と出来上がった作品との間に齟齬が生じるケースがもう一つあります。「鋳造(ちゅうぞう)」に関する問題です。
 
一口に「彫刻」といっても、大まかに分けて二種類の作り方があります。二種類、という点を強調した場合、「彫刻」ではなく「彫塑(ちょうそ)」といいます。「彫」と「塑」に分かれるということです。
 
一つは、材料となる木や石を彫って作る方法。余計な部分をそぎ落として行くわけで、マイナスの方向にベクトルが向きます。これが「彫」。出来た作品は「彫像」と呼びます。
 
もう一つは「塑」。粘土を積み重ねて作る方法です。こちらはゼロの状態からどんどんプラスしていくわけです。出来た作品は「彫像」に対して「塑像」と呼びます。
 
そう考えると、全く逆のプロセスですね。ロダンにしても光太郎にしても、「彫」、「塑」、両方に取り組んでいます。ただ、ロダン、というかミケランジェロやベルニーニなど西洋の「彫」は主に大理石であるのに対し、光太郎や光雲など日本の「彫」は主に木を使うという違いはあります。
 
「彫」の場合は、通常、最初から完成まで、作者自身の手で行われます。ただし、光雲の場合、弟子が大部分を作り、仕上げだけ光雲が担当、それで「光雲作」のクレジットが入るということもあったそうです。もちろん弟子にも代価が入るのですが。光太郎は弟子は取らない主義でしたから、そういうことはなかったようです。
 
ところが「塑」の場合は、作者が手がけるのは粘土で原型を作るところまでというのが通例です。その後、石膏で型を取り、金属(ブロンズなど)を流し込んで(これを「鋳造」といいます)完成となるのですが、鋳造は専門の鋳金家が行うのが普通です。光太郎の弟、豊周(とよちか)は人間国宝にも指定された鋳金家で、大部分の光太郎塑像の鋳造を手がけています。
 
光太郎に対しての豊周のように、気心の知れた鋳金家が仕事をしてくれれば、作者の意図がかなり反映された鋳造になるのでしょうが、作者の死後に無関係の鋳金家によって鋳造されたものなどはその限りではないようです。
 
高村光太郎研究会から年刊刊行されている『高村光太郎研究』第33号に載った大阪の西浦基氏の「彫刻に燃える-ロダンとロダンに師事した荻原守衛とロダンに私淑した高村光太郎と-」によれば、ロダン彫刻にそういうケースがあるとのこと。
 
下の画像は氏からいただいたフランスのロダン美術館にある「接吻」の写真です。
 
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男の右の掌は、女の腿にしっかりと密着しています。ところが、日本に来ている「接吻」のブロンズ(ロダン死後の鋳造)では、この掌が浮いていて、指先だけが触れているようにしか見えないというのです。作のモチーフがモチーフだけに、この手の位置は重要な意味を持ちます。それが反映されていない鋳造では……。
 
もっとも、市場に出回っているブロンズの塑像の中には、原型から型を取ったのではなく、既に出来たブロンズからさらに型を取り、鋳造した粗悪なものもあるとの話を聞いたことがあります。当然、細部は甘くなりますね。そういうインチキにだまされないようにしたいものです。

昨日に引き続き、「彫刻」と「視点」の問題を。
 
「カレーの市民」。ロダンの代表作の一つで、1895年(明治28年)に序幕された6人の群像です。「カレー」はフランス北部、ドーバー海峡に面した都市です。
 
光太郎の「オオギユスト ロダン」(昭和2年=1927 『高村光太郎全集』第7巻)から、像の背景と制作時のエピソードを以下に。
 
彼が「地獄の門」の諸彫刻に熱中してゐる間にフランスの一関門カレエ市に十四世紀に於ける市の恩人ユスタアシユ ド サンピエルの記念像を建てる議が起つた。其話をカレエ市在住の一友から聞かされ、いろいろの曲折のあつた後、雛形を提出して、結局依頼される事になつた。ルグロやカザンの骨折が大に力になつたのだといふ。十四世紀の中葉、カレエ市を包囲した英国王エドワアドⅢ世が市の頑強な抵抗に腹を立てて、市を破壊しようとした時、残酷な条件通り身を犠牲にする事を決心して市民を救つた当年の義民の伝を年代記で読んだロダンはひどく其主題に打たれた。犠牲に立つた者は一人でなくして六人であつた。ロダンは一人の銅像の製作費で六人を作る事を申出で、十年かかつて「カレエの市民」を完成した。
 
さて、下の画像は大阪の西浦氏からいただいた、フランス・カレー市庁舎前に設置された「カレーの市民」の写真です。台座の高さが低いのがお判りになるでしょうか。
 
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再び光太郎の「オオギユスト ロダン」から。
 
ロダンは此群像をカレエ市庁の階段の上の石畳へ置いて通行する者と同列の親密感を得させたいと考へた。
 
いわゆる英雄や偉人の肖像とは違い、街を救った義民の群像ということで、高い台座の上に見上げる形でなく、見る人の目線の高さに配置する事をロダンは望んだというのです。彫刻自体も、6人の中には、頭を抱えて苦悩するポーズの人もいます。見る人に「あなたたちと同じ普通の人なんだよ」というメッセージを放っているわけです。
 
こうしたロダンの考えのもと、現在のカレー市庁前の「カレーの市民」は、画像のように低い台座に設置されているのです。
 
しかし、完成当初はそうしたロダンの考えは容れられず、1924年(大正13年)までは、通例に従って高い台座上に設置されていたとのこと。「芸術の国」、フランスでさえそうだったのですね。
 
「カレーの市民」、同じ型から12基が鋳造され、世界各地に散らばっています。おおむねロダンの意図通り、低い位置での展示が為されているようです。さらにアメリカでは、これが「ロダンの真意だ」と、6人をバラバラに配置し、その間を人が歩けるようにした展示をしている所もあります。当方、よく調べていないので、本当にそれがロダンの真意かどうかは判りません。詳しい方はご教授いただけるとありがたいのですが……。
 
12基のうちの一つは、上野の国立西洋美術館前庭にあります。多くは語りませんが、ここのものは「高い台座」の上に「鎮座ましまして」いらっしゃいます。多くは語りませんが……。

昨日はテレビ東京系の番組「美の巨人たち」で取り上げられた、17世紀イタリアバロック期の彫刻家、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作「アポロンとダフネ」に関して書きました。
 
同番組の中では、2次元の芸術である絵画と、3次元の造型である彫刻、どちらが優れているか、といった話も出て来ました。それは一長一短、単純な比較は出来ないものだと思います。
 
しかし、一ついえることは、2次元だからといって、3次元を感じさせない絵画ではだめなのでしょうし、3次元なのに2次元的な(平板な)彫刻ではもっとだめだということです。
 
ところで、3次元の彫刻には、2次元の絵画にはない特質、というか恐ろしさといった部分があるように思います。
2次元の絵画は、2次元であるが故に、よほど変な角度から見ない限り、その見え方にそれほど差異は生じないと思います。もっとも、遠くから見るか、近くで見るかという問題はありますが。モネの「睡蓮」などはいい例です。
その点、彫刻は360度、どの角度から見るかによって全く見え方が異なるわけです。また、360度だけでなく、上から見下ろすか、自分の目線と同じ高さで見るか、下から見上げるか、そういうことまで考えると、視点の位置は上下左右全方向が存在します。彫刻を中心にした球体の内側に自分がいる、というイメージでしょうか。
 
先日、第57回高村光太郎研究会で、大阪の研究者・西浦氏との雑談中、田辺市立美術館での「詩人たちの絵画」展に話が及びました。氏も見に行かれたそうです。同展には光太郎の有名な彫刻「手」が出品されていました。
 
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そこで、西浦氏曰く「あの『手』は長野の碌山美術館に展示されているものと較べて一回り小さい感じがした」とのこと。ご存じない方のために補足しますが、ブロンズの彫刻は同じ型から鋳造したものが複数存在します。「手」も全国に散らばっています。しかし、サイズの違うものはないはず。そこで即座に否定したのですが、氏はどうも納得いかなかったようで、田辺市立美術館、碌山美術館双方に問い合わせたそうです。結果、やはりサイズは同一。高さ39㌢、幅28.7㌢、奥行き15.2㌢だとのこと。
 
これは、展示方法の相違による視点の違いで、大きさが異なって見えるのだと思われます。碌山美術館では目線とほぼ同じ高さに展示してあり、しかも間近に見られるので、大きく見えます。しかし、田辺では上から見下ろすような角度での展示だったので、やや小さく見えたということなのでしょう。
 
そう考えると、彫刻の展示というのはある意味恐ろしいものがあります。展示の方法によって、視る者の視点を限定してしまうことがありえるからです。それを逆手に取ったのが昨日のブログに書いたベルニーニの「アポロンとダフネ」なのです。
 
ミケランジェロなどもこの手を使っているようです。有名な「ダビデ」。目線と同じ高さで見ると、やけに頭がでかい。しかし、下から見上げると遠近法の魔術で、そう感じられないというのです。逆に言えば正しいサイズで頭を作ったら、下から見上げた時に変に小さく見えてしまうということです。
 
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この「視点」の問題、ロダン彫刻にも存在します。明日は西浦氏からいただいた海外のロダン彫刻の写真にからめて考察してみます。

カミーユ・クローデル。
 
昨日御紹介した「ロダン翁病篤し」に名前があったロダンの弟子の一人だった女性です。1864年の生まれ。この名前が出てくると、当方、胸を締め付けられる思いがします。
 
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光太郎が昭和2年(1927)に書き下ろしで刊行したアルス美術叢書『ロダン』から。
 
クロオデル嬢は詩人クロオデルの同胞、嬢自身もロダンの弟子となつて優秀な彫刻を作つてゐる。書くことを許せ。彼女の美はロダンの心を捉へ、一時ロダンをして彼女の許へ走らしめた。ロダン夫人は後年当時の苦痛を思出してはよくロダンに述懐した相である。「でもお前を一番愛してゐたのさ、だつて今だに其処にゐるのはお前ぢやないか、ロオズ、」と其度にロダンは慰めた。クロオデル嬢は巴里の北二十五里程あるシヤトオ チエリイの近くから出て来てロダンの弟子となり、直ぐ才能を表はして「祖母」で三等賞を取つたりしたが、後にロダンと別れてから健康を害し、ヸル エヴラアルに閉囚せられてゐたといふ。ロダンの一生に於ける悲しい記憶の一つである。
 
光太郎は婉曲に書いていますが、「健康を害し」は「精神を病んで」という意味です。
 
19歳の時に42歳のロダンに弟子入りし、激しい恋に落ち、ロダンの子供を身ごもります。しかしロダンには内妻ローズ・ブーレが既にいました。結果、中絶。
 
光太郎は「優秀な彫刻を作つてゐる」と好意的に表しています。実際、ロダンの作品の助手としても腕をふるっていましたが、彼女単独の作品は、同時代のフランスでは「ロダンの猿まね」という評もありました。
 
そうしたもろもろが積み重なって、精神に破綻を来したのです。
 
これは彼女の代表作の一つ「分別盛り」。
 
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左の男性はロダン。よく見るとその背後から覆い被さる老婆が男を連れて行こうとしています。この老婆がローズ。そして右の取りすがる女性がカミーユ自身です。悲しい彫刻です……。
 
彼女が入院したのはかなり劣悪な環境だった病院でした。そこで「ロダンが彫刻のアイディアを盗みに来る」との妄想にとりつかれていたとのこと。実に30年の入院を経て、恢復することなく、1943年、歿。
 
ある意味、智恵子を連想させませんか?
 
光太郎にはロダンのように三角関係的な話は表だってはありませんが、巨大な才能の前につぶされてしまった才能、という意味ではロダンとカミーユ、光太郎と智恵子は相似形を形作っています。
 
芸術の世界とは、かくも恐ろしい物なのですね……。

国立西洋美術館の「手の痕跡」展にからめ、光太郎とロダンのかかわりについて述べてみます。
 
筑摩書房発行『高村光太郎全集』の第7巻には、単行書にもなった評伝「オオギユスト ロダン」をはじめ、ロダンについて書かれた光太郎の評論等が数多く掲載されています。それらを読むと、光太郎がロダンによって眼を開かれ、多大な影響を受けたことが見て取れます。
 
 ロダン程、円く、大きく、自然そのものの感じを私に起させる芸術家は、ルネサンス以降に無い。埃及(エジプト)や希臘(ギリシャ)には此の「大きさ」を感じさせる芸術が尠くないが、しかし神経がまるで違ふからわれわれ自身の悩みと喜びとを同じ様に分つてくれない。此点になると、ロダンの芸術は如何にも肉身の気がする。われわれの手を取つてくれる様だ。そしてロダン其人の生活が息のやうにわれわれにかかつてくる。あらゆる善い意味に於て特に近代的だと思はせられる。何千年の歴史がロダンの中に煮つめられてゐるのを感じる。皆生きて来てゐる。人類の歩みをまざまざと見る。(「ロダンの死を聞いて」大正7年=1918)
 
しかし、光太郎もロダンを頭から肯定しつくしているわけではありません。いったん受け入れた上で、自分なりに咀嚼し、そこから独自の境地を導き出さねばただの猿真似になってしまいます。
 
限りなく彼を崇敬する私も、彼を全部承認するわけにはゆかない。むしろ承認しない部分の方が多いかも知れない。私は彼と趣味を異にする。此入口が既にちがふ。彼の堪へ得る所に私の堪へ得ないものがある。美の観念に就ても指針が必ずしも同じでない。私の北極星は彼と別な天空に現れる。(「オオギユスト ロダン」昭和2年=1927)
 
たしかに光太郎の彫刻世界は、ロダンそのものではありません。しかし、光太郎が大見得を切った程にロダンを超えられたか、というと決してそうも思えません。ただし、それは才能の問題ではなく、光太郎に架せられたもろもろの制約のせいという気もします。
 
ロダンによって眼を開かされ、留学から帰国した明治末期は、父・光雲をはじめとする古い彫刻が主流で、新しい彫刻が受け入れられる素地がありませんでした。その後も生活不如意や智恵子の統合失調症発症、そして泥沼の戦争による物資欠乏、戦後には戦争協力を恥じての山小屋生活での彫刻封印。ようやくそうした制約から解き放たれた老境には、もはや身体がついてゆかなくなってしまいます。
 
もし光太郎に、自由に彫刻制作に専念できる環境が与えられていたら、と残念に思います。
 
最後に、今回の「手の痕跡」展の出品作の中から、光太郎と同じことをやっている、というより光太郎が同じことをやっているという手法を発見しましたので。それを紹介します。
 
下の画像は、今回の出品作のうちの一つ「説教する洗礼者ヨハネ」の足です。解説板には以下のように書いてありました。「歩くという動きにたいして身体の各部分の形は不自然に見える。開いた両足には体重の移動がなく、人間が前進する動きではない。」
 
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たしかに両方のかかとがべたっと地面に着いています。歩いている足としては、これではおかしいのです。
 
また、解説板には以下の記述もありました。「右肩の関節の位置は解剖学的に正確とはいえず、よく見ると腕も異常に長い。」。つまり随所が人体としてありえない形状なのです。しかし、この彫刻は一見してそのような感じを与えません。これはどういうことなのでしょうか。
 
答えはやはり解説板から。「部分的に見ると不自然な身体の各部は、統合されたときに美しいシルエットと強い説得力をもって観者に訴えかける。」ということなのです。
 
さて、光太郎。下の画像は最晩年の十和田湖畔の裸婦像です。
 
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「説教する洗礼者ヨハネ」同様、両足のかかとがべたっと地面に着いています。ここには光太郎の意図があります。この点について、光太郎曰く、
 
あの像では後の足をスーツとひいているが、あの場合には踵が上るのが本当なんだけれども(立ち上がつて姿態を作り)こういうふうにわざと地につけている。彫刻ではそういう不自然をわざとやるんです。あれが踵が上つていたら、ごくつまらなくなる。そういうところに彫刻の造型の意味があります。(「高村氏制作の苦心語る ”見て貰えば判ります” 像の意味は言わぬが花」昭和28年=1953)
 
ロダンの意図と全く同じですね。これは意識してロダンの手法を取り入れたのか、そうでないのかは何とも言えません(光太郎は当然、「説教する洗礼者ヨハネ」は見ていますが)。また、当方は門外漢なのでよくわかりませんが、人体彫刻としてこういう手法はロダン、光太郎に限らず、お約束の基本なのかも知れません。詳しい方、ご教授願えれば幸いです。
 
彫刻も漫然と見るのではなく、こういう点などに注意して見ることも大切だな、と改めて感じた「手の痕跡」展でした。
 
以上、「手の痕跡」展レポートを終わります。

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