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光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海による信州善光寺さんの仁王像。今年が開眼百周年ということで、このところいろいろと動きがありました。


で、さらに先月。

まずはSBC信越放送さんのローカルニュースから。

善光寺の仁王像をPR・僧侶が事前研修

長野市の善光寺にある仁王像を参拝客にPRしようと、案内役を務める僧侶の事前研修が行われました。
善光寺の仁王門で勇ましく構える仁王像。
高村光雲と米原雲海が手がけ、1919年に登場してから今年で100年を迎えます。
きょう長野市の善光寺事務局で開かれた研修会には善光寺の僧侶などおよそ40人が参加しました。
講師を務めたのは東京芸術大学大学院の非常勤講師・藤曲隆哉さんで東大寺の仁王像を参考につくられていることや台座に固定されずに背中にある支えのみで立っているなどと解説していました。
善光寺の僧侶たちによる案内は来月13日から9月まで土曜と日曜を中心に行われる予定です。

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続いて地方紙『信濃毎日』さん。

開眼100年 保ち続ける絶妙バランス善光寺仁王像 実は自立構造

010 善光寺(長野市)の仁王門に納められた仁王像2体が、台座に突起などで固定されず、ほぼ像の重さだけで自立する珍しい構造であることが26日、東京芸大大学院の文化財保存学・保存修復彫刻研究室などの調査で分かった。全国の仁王像でも見当たらない構造だといい、1919(大正8)年の開眼から100年間、絶妙なバランスで倒れずに立ってきたことになる。
 7~9月に同寺一山の僧侶たちが参拝者に仁王像や仁王門を案内する取り組みに向け、26日に同寺で研修会を開催。この場で講師を務めた同研究室非常勤講師の藤曲(ふじまがり)隆哉さん(36)が、1月に実施した現地調査の分析結果を明らかにした。
 藤曲さんによると、一般的に仏像の足には「ほぞ」と呼ばれる突起状の部材があり、それを台座の穴に差し込んで固定している。しかし、善光寺の仁王像の足にはほぞがなく、金具で像の背中と壁をつなげているものの、壁の板に大きな負荷がかかっている跡はないという。
 像は重さ300キロ以上とみられ、藤曲さんは「均整の取れたプロポーションで、バランスを取って自立している状態」と指摘。ただ、設置当初と比べると台座上で10センチほど動いたことも分かったとし、「100年間立っているものの、このままで倒れることはないか検討が必要」とした。
 仁王門南側の左右に並ぶ仁王像は、向かって左側が口を開いた阿形(あぎょう)、右側が口を閉じた吽形(うんぎょう)で、ともに高さ5・3メートル前後と分かった。彫刻家高村光雲(1852~1934年)と弟子の米原雲海(1869~1925年)を中心に、松本市中町出身の彫刻家太田南海(1888~1959年)らが関わって制作。ほぞを使わない構造について藤曲さんは「西洋の先進的な制作技法を取り入れており、今までにない造形を目指した表れかもしれない」と推測した。
 このほかエックス線調査では、複数の部材をかすがいやくぎを使って内部で接合していること、頭部や足、指先などに空洞があり、軽量化を図っていることも判明。像全体について「虫食いなどはなく、良い状態」としつつ、「もう修理を計画してもいい時期に来ている」と指摘した。
(6月27日) 


像高5メートルを超える仁王像に「ほぞ」が採られて居らず、ほぼほぼ自立しているというのは驚きでした。光雲とその一派の高い技倆がこんなところにも表れているわけで。

仁王像開眼百周年の特別法要は9月だそうです。その件で、また別件でも情報が入りましたらお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

別に感想もありませんが、新年号の満艦飾を見ると、如何にも田舎田舎した野暮くささを感じるだけです。

アンケート「雑誌新年号観」全文 大正15年(1926) 光太郎44歳

「雑誌の新年号なるものに対する感想」という問いに対しての答えです。ここでいう「雑誌」は、どちらかというと商業資本の総合誌を指しているのでしょう。現代でもそうですが、新年号というと、通常よりも派手な装幀を施してめでたさを強調し、売り上げ増を狙うもので、それに対するアイロニーですね。

アメリカの首都ワシントンDCにある国立美術館・ナショナル・ギャラリー・オブ・アートで開催中の企画展です。光太郎の父・高村光雲の代表作にして重要文化財「老猿」が海を渡って展示されています。

The Life of Animals in Japanese Art 「日本美術に見る動物の姿」展 

期  日  : 2019年6月2日(日)~8月18日(日)
       3rd and 9th Streets along Constitution Avenue NW, Washington, DC.
時  間 : 月~土 10:00~17:00  日 11:00~18:00
主  催 : 独立行政法人国際交流基金
          ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントンD.C.)
       ロサンゼルス・カウンティ美術館

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国際交流基金(ジャパンファウンデーション)は、米国のナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントンD.C.)及びロサンゼルス・カウンティ美術館との共催により、両美術館において「日本美術に見る動物の姿」展を開催します。
日本では古墳時代から、人々は動物や自然と共に歩み、共に生きてきました。1500年以上の長きにわたって動物は人間の友として、また時には人間を超える超自然の力として、様々な形で造形美術や文学の重要な主題となってきました。動物が芸術表現上、これほど主要な地位を獲得してきたことは日本文化の特徴の一つといえます。本展覧会では、人々の暮らしや精神風土、宗教観と深く関わってきた多彩な動物表現を、絵画、彫刻、漆芸、陶芸、金工、七宝、木版画、染織、写真など様々なメディアを通して探究します。
本展では日米あわせて約100の重要なコレクションから貴重な作品300点以上を展示します。このうち、7点の重要文化財を含む180点近くの作品は、これまでほとんど海外で紹介されることのなかった日本で所蔵されている作品です。この歴史的な機会は、日米両国における多くの関係者の協力によって実現することとなりました。本展のキュレーターはロサンゼルス・カウンティ美術館日本美術部長であるロバート・シンガー氏と千葉市美術館館長の河合正朝氏が務め、日本の専門家のチームが共同キュレーターとして参加しています。なお、シンガー氏は1973年度の国際交流基金日本研究フェローであり、自身のキャリアの初期に日本に長期滞在し、日本美術の研究を行いました。
ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーにとって本展は、「大名美術展」(1988年)、「江戸:日本の美術 1615-1868」(1998年)、「伊藤若冲-動植采絵」展(2012年)に続く4番目の大型日本美術展となります。2012年に開催された「伊藤若冲」展では一か月の会期中に231,658人もの観客が訪れるなど、日本美術への関心は高まりを見せています。「動物」という新たな切り口に挑む本展の開催により、米国において日本文化への理解が一層深まることが期待されます。


早速、NHKさんで紹介されていました。

ワシントンで「日本美術に見る動物の姿」展

アメリカの首都ワシントンにある国立美術館で、日本人が昔から動物と共生してきたことを表す日本の絵画や彫刻などの美術品を集めた展示会が始まりました。
「日本美術に見る動物の姿」展と題した展示会は、日本の国際交流基金などの主催でワシントンにある国立美術館で始まりました。
5日、行われた式典では日本とアメリカの専門家たちが展示品の説明に立ち「自然との共生が日本の文化の特色だ」と語り、美術品を通して動物を大事にする日本の文化を感じ取ってほしいと展示会の意義を強調しました。
会場には古墳時代の犬や鳥の埴輪から国の重要文化財となっている高村光雲作の木彫り「老猿」それに竜をあしらった江戸時代の武将のかぶとなど動物をテーマにした美術品300点余りが展示されています。
また、ファッションデザイナーの三宅一生さんや前衛芸術家、草間彌生さんの作品もあって、古代と現代の日本のアートが楽しめるようになっています。
今回の展示会を企画したロサンゼルス・カウンティ美術館のロバート・シンガー氏は「西洋美術では、動物をここまで取り上げない。日本の美術には動物への親しみがある」と話しています。

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「老猿」は、元々明治26年(1893)のシカゴ万博に出品するために制作されたもので、その後、アメリカで展示された事があるのかどうか存じませんが、いずれにしても久々の渡米でしょう。ちなみに平成28年(2016)には、台湾の國立故宮博物院での展示が為されています。

シカゴ万博翌年の明治27年(1894)には日清戦争が開戦するなど、アジアの覇王を目指していた当時の日本、ロシアとの関係もぎくしゃくしていました。日清戦争後にはいわゆる三国干渉で、下関条約によって得た遼東半島を返還せざるを得ず、後の日露戦争(明治37年=1904~同38年=1905)の遠因とも成りました。

シカゴ万博では、日本パビリオンと隣接してロシアのそれが設置され、「老猿」の眼光鋭い視線がたまたまその方向を向いていたため、日本がロシアに喧嘩を売っている図と解釈されました。「老猿」が右手に握っているのは、格闘の末、取り逃がした鷲の羽。これもロシア王室の紋章が鷲をモチーフにしていることから、深読みされた一因となりました。下は「老猿」制作に先立って光雲が描いたデッサンです。

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同展、9月~12月にはロサンゼルスのカウンティ美術館に巡回。展示替え等がなければ、「老猿」はしばらくアメリカに滞在ということになり、日本では見られません。

NHKさんで紹介されなかった他の出品作家は、伊藤若冲、河鍋暁斎、歌川国芳、曾我蕭白、岡本太郎、奈良美智、宮川香山など。作者不明の古いものも「鳥獣人物戯画」など、逸品ぞろいのようです。

渡米される方、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

ここに来てから満四年はたつので、春夏秋冬をいくつか繰返してゐる間に山の幸をいろいろおぼえて仕合せしてゐる。冬は雪が深いので何もないが、春夏秋には何かしら野生自生の食物が山にはある。

散文断片「山の幸いろいろ」より 昭和24年(1949)頃 光太郎67歳頃

光太郎歿後に見つかった原稿用紙1枚(以降欠)の文章から。おそらく『婦人之友』に不定期に連載された「山~」シリーズの下書き的なものかと思われます。

アートオークション大手の毎日オークションさん。時折、光太郎や光太郎の父・光雲関連が出品されます。

6月8日(土)開催の「第608回毎日オークション 絵画・版画・彫刻」では、光雲の作が出ます。 

第608回毎日オークション 絵画・版画・彫刻

日  程 : 2019年6月8日(土) 10:30~
下 見 会  : 2019年6月6日(木)・6月7日(金) ともに10:00~18:00


光雲の作、まずは木彫の「恵比寿・大黒天」。

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弟子の手が入った工房作ではないようですし、2体一組ということもあり、予想落札価格がかなりの額になっています。


同じく木彫で、「大聖像」。

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同一図題の作品が昨年も出品されましたが、別物のようです。「大聖」は孔子のことで、光雲が好んで彫ったモチーフでもあり、各地の美術館さんにも類似作が収められています。


続いて、木彫原型から抜いたブロンズ。まずは「慈母観音」。

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光雲と縁の深かった、東京駒込の金龍山大圓寺さんに、よく似た木彫の慈母観音像が寄進されています。類似作から型を取って鋳造したもののようです。光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周による鋳造とのこと。

先月、智恵子の故郷、福島二本松に行った折、この手の作品をお持ちだという方に写真を見せていただきました。そちらは「養蚕天女」でした。木彫のものは大小2種、宮内庁三の丸尚蔵館さんに納められていますが、ブロンズのものが流通していたりするのですね。


さらに、やはりブロンズの「恵比寿大黒天」。

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こちらは誰の鋳造ともわからず、欠損部分もあるようなので、あまり高い値段は付かなそうです。


いつも書いていますが、然るべき所に収まって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

モデルを眼の前に見ながら、それがどうしても分らない。いはば徹底的にモデルの中に飛びこめない。一体になれない。自分の彫刻とモデルとの間の関係がどうしても冷たい。ロダンの彫刻にあるような、あの熱烈な一体性が得られない。動物園の虎の顔をいくら凝視しても虎の気持ちが分らないやうに、モデルの内面が分らない。

散文「モデルいろいろ2 ――アトリエにて7――」より
 昭和30年(1955) 光太郎73歳

遠く明治末、パリでの体験の回想です。

留学前、日本では彫刻のモデルは職業として確立して居らず、周旋屋のような老婆が手当たり次第に金銭的に困っている人などをスカウトして美術学校へ派遣していました。したがって、体格も貧弱だったり、途中で勝手に来なくなってしまったりと、さんざんだったようです。

その点、留学先、特にパリでは、さまざまな美しい職業モデルと接することができました。しかし、畢竟するに、生きて来た文化的背景の違いから、西洋人の内面を真に理解することは不可能という思いにとらわれます。モデルの指の動き一つとっても、どういう意味があるかさっぱり分からないとか……。光太郎のフランス語会話力には問題ありませんでしたし、コミュ障的な部分があったわけでもありませんでしたが……。ただ、逆に言うと、表面的なつきあいのみで、西洋人を真に理解したつもりでいた輩よりは真摯な悩みだったといえるでしょう。光太郎、結局、10年の留学予定を3年半ほどに縮め、帰国の途につきます。

ディスるわけではありませんが、光雲ら、光太郎より前の世代の彫刻家たちには、光太郎のこうした悩みそのものが理解不可能だったことでしょう。

先月亡くなった、高村光太郎賞受賞者の彫刻家・豊福知徳氏に関し、氏の故郷である福岡県に本社を置く『西日本新聞』さんが大きく記事にされています。 

故豊福知徳さん彫刻作品を巡る 反戦の思い「穴」に込め

 国際的に活躍した久留米市出身の彫刻家、豊福知徳さんが18日に亡くなった。享年94歳。福岡都市圏には、終戦後の旧満州(中国東北部)や朝鮮半島からの博多港引き揚げにちなむ大型記念碑「那の津往還」(福岡市博多区沖浜町)を始め、各所に作品が点在する。主な鑑賞スポットを紹介する。
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 「那の津往還」はマリンメッセ福岡の脇の博多湾沿いにある。高さ15メートル、長さ17メートルの鋼製で、1996年に建立。黒っぽい色の船上に人間をイメージした朱色の像が立つ。
 末広がりの上部に独特の楕円の穴が複数空く。舳先が向くのは、朝鮮半島かその先の中国か、北西の方角だ。豊福さん名の碑文には「敗戦直後の失意とその後に湧き興ってきた生への希望を永遠に記念する…」とあった。引き揚げ者が139万2400人余を数えた博多港の歴史を刻むモニュメントだ。引き揚げ経験者たちの声を受け、市が有識者らを交えた選定委をつくって、豊福さんの作品が選ばれた。
 陸軍特別操縦見習士官として特攻出撃前に終戦を迎え、行き場を失った豊福さん自身の戦争体験と、日本軍不在の下、ソ連軍が侵攻し、襲撃の恐怖、飢餓と長旅の疲労に見舞われながら逃げ延びた引き揚げ者の苦難を重ねている‐。作品をそう解釈するのが、美術評論家で、豊福知徳財団理事長の安永幸一さん(80)。「記念碑には戦争へのアンチテーゼ、戦争放棄、戦争反対、という豊福さんの次世代へのメッセージがこもっていると思います」
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 同市博多区下川端町の博多リバレイン前には、87年建立の「那の津幻想」がある。船上に人が立つデザインは30代の頃、高村光太郎賞を受けた出世作「漂流’58」のシリーズの一つで、「‐往還」もその系列だ。「‐幻想」は、人の胸に複数の楕円の空洞がある。戦争の空しさと戦後の心の漂流を形にして見せてくれているようにも感じる。
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 同市早良区百道浜4丁目には、「豊福知徳ギャラリー」がある。「世界的に著名な彫刻家の豊福さんとその作品をもっと多くの人に知ってほしい」と昨年夏オープンし、金・土・日曜と祝日の正午から午後6時まで無料で鑑賞できる。一部は販売している。代表的なシリーズものなど作品12点と描画4点を展示。代表の阿部和宣さんは「昨年から亡くなられた画家の浜田知明さんや宮崎進さんと同じように、豊福さんの創作の原点には戦争体験があったと思います。作品には精神性があって、見る側は何かを感じ、魅了される」と話す。
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 篠栗町の若杉山中腹にあり、豊福さんがよく通ったのが「茶房 わらび野」。建物内外に大小の計7点の作品があり、喫茶や食事を楽しみながら鑑賞できる。福岡市街地と博多湾を見渡すカウンターがあり、豊福さんはそこでワインを飲んだという。「店を気に入っていただいて、作品は置いていかれた。未完ですが、最後の作品はここで彫られたんですよ」と、女将の久保山美紀さん。
 豊福さんは1960年にイタリア・ミラノに渡り、そのまま定住。それまでの具象表現から、木に楕円形の穴をあしらった抽象形態に転じていった。
 「当時、イタリアの新しい造形表現に触れていた豊福さんは偶然、楕円の穴が開いた時にピーンと来たのだと思う。穴のノミの鋭さにはどきっとするような切れ味がある。剣道や居合道に通じ古武士のようだった豊福さんらしい」。安永さんは和洋折衷の美を語る。
 福岡市美術館は衝立状の大作を常設展示。県立美術館は、6月29日-8月29日に開くコレクション展で、所蔵の数点と肖像写真を追悼展示する予定だ。
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過日も書きましたが、「高村光太郎賞」は、筑摩書房さんの第一次『高村光太郎全集』が完結した昭和33年(1958)から、その印税を光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周の希望で、昭和42年(1967)まで10年間限定で実施されました。造形と詩二部門で、豊福氏は造型部門の第2回受賞者です。ちなみに過日、新著『高村光太郎の戦後』をご紹介した中村稔氏、最終第10回の詩部門を受賞されています。

さらにいうなら、第5回詩部門(昭和37年=1962)で受賞の田中冬二(明治27年=1894~昭和55年=1980)の遺品類が山梨県立文学館さんに寄贈されており、その中に「高村光太郎賞」関連の資料も。光太郎が文字を刻んだ木皿を原型に、豊周が鋳造した賞牌などです。光太郎が好んで揮毫した「いくら廻されても針は天極をさす」の語が刻まれています。他に副賞ののし袋や授賞式の次第なども。閲覧も可能です。

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同じ賞牌を授与された豊福氏の受賞作「漂流」そのものは木彫で、イタリアのコレクターに買われたとのことですが、同じ時期に作られたシリーズの1作が、博多に野外彫刻として展示されているそうで、これは存じませんでした。豊福氏というと「楕円の穴」ですが、そこには戦争体験も深く関わっていたとのことで、なるほどなぁ、という感じでした。

地元では氏の顕彰も進んでいるようです。光太郎共々、氏の功績も末永く語り継いでいってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

私は独学のつもりで、フランスのサロンのカタログや、西洋の美術雑誌の挿画の彫刻の写真などを参考にした。もとより甚だ幼稚で、今日から見るとつまらない大サロンの彫刻にひどく感心したり、物語性のある構図に深遠な意味があるやうに思つたりした。そして目の前にある生きたモデルがさつぱり分らず、空しくあはれな模写のやうな写生をつづけてゐた。

散文「モデルいろいろ1 ――アトリエにて6――」より
 昭和30年(1955) 光太郎73歳

その少年時代、まだロダンを知る前の明治30年代の回想です。それからおよそ50年、ようやく豊福氏のように世界に通用する彫刻家が日本から出たわけです。やはり泥沼の十五年戦争の影響ですね。それがなければあるいは光太郎も世界的評価を得るに至れたかもしれません。

北海道から講演会の情報です。
会    場 : 札幌文化芸術交流センター SCARTS 
            札幌市中央区北1条西1丁目 札幌市民交流プラザ2F
時    間 : 10時30分~12時
料    金 : 500円 
         ご受講の方は彫刻美術館で開催中の砂澤ビッキ展―樹―」展を無料でご観覧いただけます。
講    師 : 新関伸也氏(滋賀大学教育学部教授)

美術の教科書でもおなじみの彫刻家たち。仏師としての修練をつみ、西洋の写実を取り入れた光雲。その息子にしてフランス近代彫刻の巨匠ロダンに心酔した光太郎。そして西洋彫刻のもうひとりの紹介者であり、日本近代彫刻の礎を築いた荻原。日本の伝統的な技法と、西洋由来の彫刻が出会った時代に、彼らが生んだ作品の魅力とは?

※本講演会は彫美連続講座の第1回として開催するものです。彫刻の見方や楽しみ方を学び、芸術鑑賞の幅を広げる全4回の講座です。
※今年度より1講座ごとのお申込みとなりました。

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昨年も光雲に関わる講座「銅像時代-明治150年の光と影」を開催して下さった本郷新記念札幌彫刻美術館さんの主催です。

光太郎の父にして明治木彫界を代表する光雲、さらに彫刻家としては光太郎唯一無二の親友だった荻原守衛、そして光太郎。この三者を取り上げるということで、ありがたい企画です。

申し込みは同館まで。お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

美術史上から見ると、明治初期の衰退期に彫刻の技術面に於ける本質を、父の職人気質が頑固に守り通して、どうやらその絶滅を防いだことになる。彫刻の技術上の本質については無意識のうちに父は伝統の橋となつた。たとへば彫刻のこなしとか、木取りとか、肉合(にくあ)ひとか、つり合ひとかいふものは作品の高下に拘わらず彫刻に内在すべきもので、これを口やかましく父が伝へただけでも父の役目は果されてゐると見るべきである。

散文「父との関係1 ――アトリエにて2――」より
 昭和29年(1954) 光太郎72歳

明治初年の廃仏毀釈により、仏師としての仕事が激減した際、同業者がどんどん転業していく中で、木彫の孤塁を守り通した光雲。光太郎はその部分の功績を評価しています。しかし、同じ文章で「結局父光雲は一個の、徳川末期明治初期にかけての典型的な職人であつた。」とし、特にその製作態度の部分で手厳しい評を与えてもいます。

予定では、智恵子の故郷、福島二本松に聳え、智恵子が「ほんとの空」があると言ったという安達太良山の山開きの件をレポートするつもりで居ましたが、急遽、訃報が入りましたのでそちらをご紹介します。

彫刻家の豊福知徳さんが死去 楕円の穴特徴000

 楕円形の穴を幾つも開けた抽象的な作品で知られる彫刻家の豊福知徳(とよふく・とものり)さんが18日午後11時57分、福岡市の病院で死去した。94歳。福岡県出身。葬儀・告別式は近親者で行う。後日、お別れの会を開く予定。喪主は長女夏子(なつこ)さん。
 国学院大在学中に旧日本陸軍に志願し、終戦後は復学せず、彫刻家の冨永朝堂氏の下で木彫を学んだ。1959年に高村光太郎賞を受賞。60年にイタリアのミラノに拠点を移し40年以上活動した。2003年に帰国後は日本とイタリアを行き来しながら創作を続けた。
(共同通信) 

世界的彫刻家の豊福知徳さん死去 「那の津往還」など

 世界的な彫刻家の豊福知徳(とよふく・とものり)さんが18日、福岡市内の病院で死去した。94歳だった。葬儀は近親者で行う。喪主は長女夏子さん。後日、お別れの会を開く。
 福岡県久留米市出身。59年に高村光太郎賞を受賞し、60年のベネチア・ビエンナーレ出品を機にイタリアへ移住。ミラノにアトリエを構え、40年以上にわたり現地で制作を続けた。楕円(だえん)形の穴をいくつも開けた独特な造形作品で知られ、ローマ国立近代美術館や東京国立近代美術館など、国内外の美術館に作品が所蔵されている。
 福岡市の博多港引揚(ひきあげ)記念碑「那の津往還」などの作品も手がけ、昨年には福岡市早良区百道浜に専門ギャラリーが開設された。
(朝日新聞)

昭和34年(1959)、木彫「漂流」により、第2回高村光太郎賞を受賞した彫刻家の豊福知徳氏の訃報です。ここに挙げた以外の各紙の報道でも、「高村光太郎賞受賞」が氏の経歴に必ずと言っていいほど記載されていました。

「高村光太郎賞」は、筑摩書房さんの第一次『高村001光太郎全集』が完結した昭和33年(1958)から、その印税を光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周の希望で、10年間限定で実施されました。造形と詩二部門で、歴代受賞者には、造形が柳原義達、佐藤忠良、舟越保武、黒川紀章、建畠覚造、そして豊福氏など、詩では会田綱雄、草野天平、山之口獏、田中冬二、田村隆一ら、錚々たる顔ぶれ。審査員は高田博厚、今泉篤男、谷口吉郎、土方定一、本郷新、菊池一雄、草野心平、尾崎喜八、金子光晴、伊藤信吉、亀井勝一郎など、これまた多士済々でした。

当初から10回限定と決め、昭和42年(1967)で終了。同44年(1969)には、求龍堂さんから大判厚冊の『高村光太郎賞記念作品集 天極をさす』が刊行されました。歴代受賞者や審査員の作品等を紹介し、さらに高村光太郎賞の開始の経緯、年譜などが掲載されています。

そちらに載った豊福氏の彫刻が右画像です。

そして氏の言葉。

受賞作「漂流」は、私にとって殊に思い出深い作品であった。それは受賞作ということからではなく、その頃の自分の仕事の一くぎりを為した作品であったと思うからである。
処でこの重要なるべき作品の記録が手元にない。作品の所有者や所在地に加えて写真すらもないというのは私の不精のせいで、一九六〇年のヴェニス・ビエンナーレに出品して、そのままあるイタリアのコレクショナーに買取られたまではわかっているが、その後の消息は一切不明である。
この作品は受賞作ではなく、その頃しきりに制作していた漂流シリーズの中の一点である。

1950年代後半というと、ヘンリ・ムーアなどの影響もあって、彫刻の世界にも抽象がかなり入り込んできていましたが、この頃の氏の作風は完全な抽象でもなく、さりとて具象とも言えず、双方の良いところをバランスよく取り入れているように感じます。

当時の連翹忌は、高村光太郎賞の授賞式も兼ねていましたので、豊福氏、受賞された昭和34年(1959)と翌年の連翹忌に参加なさっています。受賞の年には豊福和子さんというお名前も参加名簿に残っており、おそらくご夫人なのでしょう。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

とにかく日本人の趣味、教養はいま実におくれている。四等国以下、野蛮人といつてよい。敗戦の混乱で日本人の正体が分つたわけで、実に徳川時代そのままなんだ。こうしたひどい状態で全然絶望かといえばそうでないとやはり考えたい。

談話筆記「ラジオと私」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

敗戦の傷跡がまだ色濃く残っていたこの頃を憂えての発言です。光太郎が亡くなった昭和31年(1956)には「もはや戦後ではない」と言われ、文化的な部分でも新しいものがどんどん出てくるようになりました。豊福氏などもそうした新時代の旗手だったわけで……。重ねて謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

甲信地域には、光太郎ゆかりの人々の記念館さんや、それらの人物の作品などを収めた美術館さんなどが多く(その代表が碌山美術館さんですが)、時間に余裕がない場合を除き、碌山美術館さんに行く際には、必ず他にも立ち寄ることにしています。

一昨日は、月曜日でした。記念館さん、美術館さんの類は、ほぼほぼ月曜休館なので、どうしようかと考えた結果、長野市の信州善光寺さんに参拝することにいたしました。

こちらの仁王門には、光太郎の父・光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像が納められ、仁王門は昨年、仁王像は今年が、それぞれ100周年のメモリアルイヤーとなります。9月には100周年を記念しての特別法要があるそうで、それに向けて、昨年から今年にかけ、さまざまな動きがありました。


9月の特別法要にも足を運ぶつもりでおりますが、予定が狂うことも考えられますし、下見も兼ねてと考え、今回参拝しておくことにしました。

ちなみに善光寺さんを訪れるのは3回目でした。最初は幼かった頃、2度目はこのブログを始める直前の10年ほど前の家族旅行でした。

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善光寺さん、駐車場は裏手の方でした。そこで、本来なら上記画像でいうと下の方にあたるゾーンから、仁王門、山門をくぐり、本堂へというのが正しい経路になりますが、裏口から入ったので、それとは逆のコースをたどりました。

最初に本堂裏の日本忠霊殿・善光寺史料館。三重塔の形をした建造物です。

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こちらには、仁王像、三宝荒神像、三面大黒天像のひな型が展示されています。

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ひな型といっても、仁王像は像高1メートル50センチ余ですし、三面大黒天像、三宝荒神像も同じく1メートル余で、それなりの大きさです。

4体とも、平成14年(2002)に、茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代」展に出品された時に拝見しまして、17年ぶりでした(10年前の家族旅行の折にはパスしましたので)。「高村光雲とその時代」展の際は、とにかく出品点数が多く、一つ一つの作品を仔細に観る余裕が無かったのですが、今回改めて4体を細かに拝見、興味深く感じました。

像高150㌢余ということで、考えてみれば当然なのですが、仁王像は寄木造りでした。有名な光雲の木彫というとそれほど大きなものは無く、一木造りのものがほとんどですから、意外に感じました。ただ、寄木といっても、ボーッと見たのでは継ぎ目がわからないほどに処理されています。

それにしても今にも動き出しそうな躍動感が実に見事でした。

三面大黒天像、三宝荒神像は、平成27年(2015)に東京藝術大学さんによる修復が行われており、くすみの見えていた彩色が色鮮やかに復活し、まるで最近作られたもののようでした。


その後、本堂→山門→仁王門と、逆コースで歩き、再び仁王門から山門、本堂へ。

随所で桜が見事でした。平日にもかかわらず、やはり多くの参拝客の皆さんでにぎわっていました。

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さて、仁王門。

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こちらの仁王像は丈六(約 4.85m)です。

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大正時代、これを運ぶために特別に無蓋貨車をしつらえたという話もあります。

それぞれの背面に、三面大黒天像、三宝荒神像。

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おそらく10年前には無かった説明版が設置されていました。「像高約二メートル」となっていますが、七尺五寸のはずなので、換算すると約2㍍85㌢となります。台座部分を入れずれに約2㍍としているのでしょう。

続いて山門。

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そして本堂。

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この地の安寧を祈願し、さらにちょっとだけ個人的に「道中安全御加護」と唱えさせていただきました。

本堂の斜め前に、「授与品所」があり、最近はやりの御朱印などもこちらでいただけるようになっています。さらにお札やお守り、数珠やお香、その他さまざまなグッズも販売されています。

仁王尊グッズはないかと思って覗いてみましたところ、ありました。それもかなり。

まず交通安全のお守り。赤、白、黒と三種類ありましたが、さすがに3枚買うのも何ですので、黒のみ購入。

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続いてエンボスステッカーセット。

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さらに手ぬぐい。

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仁王尊、ここまで行くと、ゆるキャラ化しています(笑)。


その後、駐車場に戻り、愛車を駆って安曇野市碌山美術館さんを目指しまして、昨日のレポートに戻ります。


というわけで、信州レポート、終わります。


【折々のことば・光太郎】

時鳥は暗いうちから啼いてゐて一日中実にせつかちに、つづけざまに啼く。よくも続くものだと思ふほど休みなしに「ホンゾンカケタカ、ホンゾンカケタカ」をくり返す。こんなに切なく友を求める鳥も珍らしく、蝉のせつかちに似てゐる。
散文「七月一日」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

「時鳥」は「ホトトギス」。自宅兼事務所周辺でも、そろそろその特徴ある鳴き声が聞こえてくると思われます。

花巻郊外旧太田村での蟄居生活。気ままな一人暮らしという面もありましたが、「こんなに切なく友を求める」あたりに光太郎の一抹の寂しさを読み取るのは考えすぎでしょうか。

昨日は愛車を駆り、日帰りで信州に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

まず、メインの目的であった、安曇野市の碌山美術館さん。光太郎の親友だった碌山荻原守衛を顕彰する個人美術館ですが、昨日が守衛の命日、「碌山忌」でして、いろいろと催しもあり、駆けつけた次第です。

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平成25年(2013)の碌山忌にお伺いした際には雪が降り、一時吹雪いたりして驚きましたが、昨日はもう春爛漫という感じ。同じ吹雪でも桜の花吹雪でした。

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守衛が亡くなったのは明治43年(1910)、昨日は第109回という扱いでした。

午後4時から墓参ということで、それに間に合うように行きましたが、少し早く着いたので、先週土曜から始まった企画展示「荻原守衛生誕140周年記念特別企画展 傑作《女》を見る」を拝見。会場は第二展示棟です。

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直上の画像は、閉館後に許可を得て撮りました。

守衛の絶作にして、その石膏原型が近代彫刻として初めて重要文化財に指定された「女」(明治43年=1910)。同郷の先輩で、新宿中村屋さんの創業者・相馬愛蔵の妻だった良(黒光)の面影を遺しています。

同じく良との関わりが指摘される「文覚」(明治41年=1908)、「デスペア」(明治42年=1909)と合わせ、石膏複製3体が展示されています。周囲の壁とガラスケースにはそれらに関するパネル展示や、守衛自筆の構想スケッチ、光太郎から守衛宛の書簡など。実に興味深く拝見しました。


その後、現荻原家ご当主の荻原義重氏の車に乗せていただき、墓参。歩いて行くには遠い場所です。

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太平洋画会で智恵子の師でもあった中村不折の揮毫による守衛墓碑に香華を手向けました。明治43年(1910)、守衛が亡くなった直後、関西旅行に行っていた光太郎も急ぎ墓参に訪れています。

荻原氏に相馬家(当時の建物が現存)なども案内していただき、再び館へ。

午後5時20分から、武井敏学芸員による研究発表。

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題して「『荻原守衛日記・論説集』の発刊と新発見」。こちらも興味深く拝聴しました。メインは昨秋、同館から刊行された『荻原守衛日記・論説集』を編んでみて、改めて見えてきた守衛像、的なお話でした。

それから「おまけ」として、「Ogihara」と「Rokuzan」。一般には「荻原守衛」は、「おぎらもりえ」と読んでしまっていますが、正しくは「おぎら」だそうで、守衛がローマ字表記で書いた書簡などに、「Ogihara」と記されている実例が挙げられました。ところが、どこかで混乱が生じたようで、先述の義重氏、パスポートを申請する際に「おぎら」と書いたところ、不可。なぜか住民票では「おぎら」となっていたそうで。しかし正しくはあくまで「おぎら」だとのこと。ただし、守衛自身も「Ogiwara」と署名している場合もあるそうですが。

それから、「Rokuzan」。「碌山」の号は、夏目漱石の小説「二百十日」(明治32年=1899)の登場人物「碌さん」から採られたものですが、となると、「ろくん」ではなく「ろくん」と読むべき、という説がありました。しかし、こちらも守衛留学中に買い求めた蔵書に「Rokuzan」の署名がみつかり、やはり「ろくん」で良かったのだ、と確認できたとのこと。

くわしくは割愛しますが、実は「光(こう)太郎」、「智恵子」も本名ではありませんし、意外と名前はくせ者です。


研究発表終了後、懇親会的な「碌山を偲ぶ会」。

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会場は木造ロッジ風のグズベリーハウス。永らく売店としても使われていましたが、売店機構は受付に移転し、こうした場合の集会所としての(平時は休憩コーナー的な)使用法になっています。


毎回恒例となりました、光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)の全員での朗読に始まり、同館元館長にして代表理事の所賛太氏のご挨拶、高野現館長による報告、そして碌山友の会会長・幅谷啓子さんの音頭で献杯。

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その後、ほぼほぼ手作りのお料理をいただきながら、スピーチ。

いの一番に当方に振られてしまいました。で、同館には非常にお世話になっておりながら、経済的な部分での援助が出来ず(それをやってしまいますと、光太郎と関連する人物の顕彰団体等全てに平等にやらねばなりませんので)申し訳なく思っておりましたので、罪滅ぼしに下記を寄贈する旨、お話しさせていただきました。

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昭和55年(1980)に発行された50円切手、「近代美術シリーズ第8集 荻原守衛 女」の関連です。

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20枚つづりの1シートと、解説書。

それから、切手コレクターの方々が作成されたFDCとその解説書。「FDC」は「ファースト・デイズ・カバー」の略だとのことで、それぞれの切手と関連する図柄の封筒などを作成し、当該切手の発売日に郵便局の窓口で購入した切手を貼り、発行日の消印を押してもらうというものだそうです。当方、切手マニアではありませんので詳しいことはよくわかりません。間違っていたらごめんなさい(笑)。

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同じ近代美術シリーズの第16集では、光太郎の父・光雲の「老猿」も取り上げられており、そちらを集めている中で、「守衛の「女」もあるんだ」というわけで、「では碌山美術館さんに寄贈しよう」と思い立ち、ネットオークションなどでコツコツ集めた次第です。

さっそくグズベリーハウス内に飾って下さいました。足を運ばれる方、ご覧下さい。

逆にいただきもの。

守衛と関わりの深かった新宿中村屋さんから。

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開けてみると……

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中村屋さん名物の一つ、月餅でしたが、通常のものではなく、碌山美術館さんの本館と、「女」をあしらった特別バージョン。平成27年(2015)、新宿の中村屋サロン美術館さんで、開館1周年記念に配られたものと同一のようです。

何だかもったいなくて食べられません(笑)。


午後8時を過ぎたところで、散会。愛車を駆って帰りました。

碌山美術館さんに参上する前に、長野市の善光寺さんに参拝してまいりましたので、明日はそちらをレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

人間として当りまへに行動しさへすれば、別に努力しなくともそんな不愉快な車中の空気を醸し出さずにすむはずなのだが、不思議に汽車の中では多くのプチブルが動物性を発揮して、平素の家庭生活の野蛮さを曝露し、お里の知れる振舞を平気でやるのを目撃せねばならなかつた。

散文「汽車ぎらひ宿屋ぎらひ」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

「汽車ぎらひ宿屋ぎらひ」は光太郎自身の自称です。汽車そのものや旅行自体が嫌いというわけではなく、行く先々で眼にする人々のマナーの悪さが気になって、出不精になったというのです。

公共交通機関や安い宿で、傍若無人な振る舞いに閉口させられる、というのはまったく同感です。

終わってしまった話ですが、光太郎の父・光雲の関連で2件。

まず、テレビ東京系で先週火曜日(4/16)に放映された「開運! なんでも鑑定団」。

ゲストはテノール歌手の秋川雅史さんでした。秋川さん、ご自身でも独学で木彫を手がけられているということで、鑑定依頼品は秋川さんが尊敬する光雲の木彫。

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入手の経緯がとても面白い話でした。

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結局、600万円でご購入とのこと。

そして、日本大学芸術学部さんの大熊敏之先生による鑑定。本人鑑定額は買ったと時と同じ600万円でしたが……。

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オープン・ザ・プライス!

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なんと倍の1,200万円!

それもそのはず。

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弟子の手が入った工房作ではないというわけで。

さらに……。

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この作品、見覚えがあると思って調べてみましたところ、平成14年(2002)に茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」に出品されていました。

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題して「寿老舞」。確かに浅草の骨董商・晴雅堂清水さんで所蔵されていたものです。

大正13年(1924)の作ということで、この年、光雲は皇室に納められた「松樹鷹」、「養蚕天女」(東京国立博物館特別展 御即位30年記念「両陛下と文化交流―日本美を伝える―」で先月まで展示されていました)など、傑作を作っています。

秋川さん、いい買い物をしましたね。

公式サイトはこちら。系列のBSテレ東さんでは2ヶ月遅れくらいで放映がありますし、地上波テレ東さんでもいずれ再放送があります。また、テレ東系列以外の地方局でも、いわゆる「番販」の形で、休日の昼間などに放映される場合がありますので、ゲスト秋川さんの回でチェックしてみて下さい。


続いて、昨日行われた「第604回毎日オークション 絵画・版画・彫刻」。やはり光雲作という彫刻が2点、出品されました。

まず、木彫の「大黒天」。昭和6年(1931)の作。高さ7.5㌢の小さなものです。

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予想落札価格が50万円から80万円という設定でしたが、実際には160万円で落札されました。


もう1点、昭和5年(1930)の「世直福神(2点1組)」。こちらはブロンズで、大きさ的には「大黒天」とほぼ同じです。


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予想落札価格は20万円から30万円。結果は21万円でした。


やはり光雲彫刻、人気が高いというわけですね。今後も末永く愛され続けてほしいものです。


明日は光雲木彫を観て参ります。


【折々のことば・光太郎】

その無数に舞ひ落ちてくる雪片の動きを見つめてゐると眩暈をおこします。何だか気持ちのよい眩暈です。自分のからだが宙に浮くやうな気がします。

散文「雪解けず」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

7年間の蟄居生活を送った、雪深い花巻郊外旧太田村の山小屋での作です。「眩暈」は「めまい」です。

昨日に引き続き、信州安曇野の碌山美術館さん関連で。

過日、同館から贈っていただいた『碌山美術館報 第39号』。

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毎年、年度末に刊行される年刊ですが、毎号50ページを超える分厚いものです。今号は68ページもあります。ただ厚いというだけでなく、内容も充実。頭が下がります。

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過去の号でもそうでしたが、同館が顕彰する碌山荻原守衛の親友だった光太郎、そして智恵子についても言及されています。

ちなみにここ数年の号で、光太郎がらみを大きく取り上げて下さったもの → 第34号(平成26年=2014)第37号(平成29年=2017)第38号(平成30年=2018)

今号では、まず上記の表紙が守衛の代表作の一つ「坑夫」(明治40年=1907)の紹介。パリ留学中の習作で、これを見せられた光太郎が感銘を受け、ぜひ日本に持ち帰るように勧めた作品です。そうした経緯の説明が為されています。ご執筆は前館長の五十嵐久雄氏です。

それから同館の開館に奔走した荻原碌山研究委員会委員長 横沢正彦関連の記事で、昭和29年(1954)に東京芸術大学石井鶴三研究室から刊行された『彫刻家 荻原碌山』(光太郎が寄稿し、題字も揮毫)などに触れられています。

また、同館で昨秋行われた武井敏学芸員による美術講座「新しい女」の筆録。物心両面で守衛を助けた新宿中村屋創業者・相馬愛蔵の妻・黒光がメインですが、同じく明治から大正にかけに「新しい女」と称された平塚らいてう、伊藤野枝、松井須磨子らと並んで、智恵子についても詳しく言及されています。黒光や智恵子との関連で光太郎にも。

さらに、やはり昨秋の同館開館60周年記念行事の一環として開催された建築家・藤森照信氏によるご講演「碌山美術館の建築と建築家について」の筆録。講演で使われたスライドショーの図版も豊富に掲載されています。


ご入用の方は、同館まで。


【折々のことば・光太郎】

この小屋の中にはいろいろの有象無象が充満してゐますが、それらが消え去つたあとに、昔の人たちが出て来ていろいろ咡きます。最後に智恵子が出て来ます。食事の時でも執筆の時でも、僕はいつでも智恵子と二人ゐます。人間は死ねば普遍的になります。生きてゐる間は、対ひ合つてゐるだけの二人ですが、死ねばどこへでも現れます。

談話筆記「(今日はうららかな)」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

戦後の7年間、逼塞していた花巻郊外旧太田村の山小屋。そこに現れる「昔の人たち」の幻影。その中にはかつての親友、碌山荻原守衛の姿もあったのではないでしょうか。

光太郎の親友で、早世した碌山荻原守衛を顕彰する信州安曇野市の碌山美術館さん関連です。

まずはイベント情報。

第109回碌山忌

期   日 : 2019年4月22日(月)
会   場 : 碌山美術館  長野県安曇野市穂高5095−1
時   間 : 10:30~
料   金 : 無料

プログラム
 10時半~     ミュージアムトーク(碌山館)
 1時     ミュージアムトーク(第二展示棟)
 1時半~3時    碌山忌コンサート
 4時~      墓参
 5時20分~50分 碌山研究発表「『荻原守衛日記・論説集』の発刊と新発見」
          講師 武井敏学芸員
 6時~7時45分   碌山を偲ぶ会 会場 グズベリーハウス(会費1,000円)

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明治43年(1910)に、数え32歳で亡くなった守衛を追悼する碌山忌。109回めとなるそうです。

毎年、研究発表が行われており、今年は同館学芸員の武井敏氏による「『荻原守衛日記・論説集』の発刊と新発見」。『荻原守衛日記・論説集』は、昨秋、同館から刊行されたA4版ハードカバー、571頁という厚冊で、ほぼオールカラー。日記の部分は、日記そのものの画像が全頁掲載され、もちろん活字にもなっており、さらに詳細な注釈も。舌を巻くようなものすごい資料です。

同館では平成21年(2009)にカタログレゾンネ的な『荻原守衛作品集』、同27年には『荻原守衛書簡集』を刊行し、この『荻原守衛日記・論説集』をもって、守衛の作品、資料を網羅する三部作の完結と位置づけているとのこと。

ある意味、同書のプロモーション的な発表になるのでは、と思われます。

当方、昨年は雑用に紛れ、行けませんでしたが、今年は参上つかまつります。


もう1点、明日から開催の企画展。 

荻原守衛生誕140周年記念特別企画展 傑作《女》を見る

期   日 : 2019年4月20日(土)~9月29日(日) 会期中無休
会   場 : 碌山美術館第二展示棟  長野県安曇野市穂高5095−1
時   間 : 9:00~17:00
料   金 : 一般700円  高校生300円  小中生150円 
         障がい者手帳をお持ちの方は半額
         20名様以上団体料金 大人600円/高校生250円/小中生100円

1910年(明治43)年、荻原守衛(碌山)が亡くなる直前に完成させた《女》は、明治以降の彫刻では第1号となる重要文化財指定を受け、今日においても日本近代彫刻の傑作として評価されています。
腕を後ろ手に組みながら上体は天空に向うポーズの表現は、相克を象徴するかのように浪漫性に溢れ、膝から頭頂部へ繋がる螺旋状の上昇感は、荻原が求めていた彫刻の生命を余すことなく伝えています。
《女》には、荻原が思いを寄せた女性、新宿中村屋の女主人、相馬黒光(本名:良)の面影が心象のモデルとなって表れています。苦難の姿とその先にある穏やかな表情は、悲恋の絶望と苦しみを克服し、美の境地へと昇華した荻原自身の心の姿でもあります。
本展では、黒光への想いが制作背景にある《文覚》、《デスペア》の二作品にも触れ、傑作《女》に見る荻原の精神的な深さと芸術の高さ、またそれらの時代における新しさについて迫ります。

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ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

しかし私は今、希望に満ちてゐます。山に来てから健康は倍加するし、未来の仕事は大きいし、独居自炊孤座黙念、胸のふくらむ思です。

散文「消息 二」より 昭和21年(1946) 光太郎65歳

空襲による二度の罹災で、数多くのものを失った光太郎。しかしかえってさばさばした思いでした。裸一貫やり直そう、みたいな。

4月2日(火)の連翹忌関連、もう少し紹介すべきことがあるのですがいったん休止。

既に開幕している展覧会情報を得ましたので。

E.O展 ~多摩美出身作家~ vol.3

期  日  : 2019年4月3日(水)~8日(月)
場  所  : 
日本橋三越本店 本館6階 美術特選画廊 東京都中央区日本橋室町1-4-1
時  間  : 午前10時~午後7時(最終日は午後5時まで)
料  金  : 無料

多摩美術大学を卒業し、各分野の第一線で輝きを放つアーティストによるグループ展です。美術界からデザイナーまで作家約25名の作品を一堂に展覧いたします。異なるステージで存在感を放つ作家たちの競演をご高覧ください。
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【ギャラリートーク】
日時:4月6日(土)午後2時~ 場所:EO展会場内にて
※予約不要


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昨年、智恵子の故郷・福島二本松にある智恵子生家で、現代アートの祭典「福島ビエンナーレ 重陽の芸術祭 2018」の一環として開催された、切り絵作家の福井利佐さんの作品展に展示された「荒御霊(グロキシニア)」が出品されています。
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昨秋の智恵子生家の画像。

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他の出品作家さんは、以下の通り。

 青木恵美子さん(絵画専攻)  あだちなみさん(デザイン専攻) 
 池内啓人さん(デザイン専攻) 石黒賢一郎さん(絵画専攻) 
 大場再生さん(デザイン専攻) 加藤久仁生さん(デザイン専攻)
 木嶋正吾さん(絵画専攻)   北村さゆりさん(絵画専攻)
 肥沼守さん(絵画専攻)    齋藤将さん(絵画専攻)
 佐野研二郎さん(デザイン専攻)清水悦男さん(絵画専攻)
 須田悦弘さん(デザイン専攻) しりあがり寿さん(デザイン専攻)
 武田洲左さん(絵画専攻)   塚本聰さん(絵画専攻)
 中堀慎治さん(絵画専攻)     永井一史さん(デザイン専攻)
 能島千明さん(絵画専攻)   原雅幸さん(絵画専攻)   
 福井欧夏さん(デザイン専攻) 福井江太郎さん(絵画専攻)
 宮城真理子さん(工芸専攻)     百瀬智宏さん(絵画専攻)

福井さんのブログはこちら

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

妻は足もとの砂を掘つてしきりに松露の玉をあつめてゐる。日が傾くにつれて海鳴りが強くなる。千鳥がつひそこを駆けるやうに歩いてゐる。

散文「九十九里浜の初夏」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

雑誌『新若人』に「初夏の海」の総題で、有島生馬、茅野雅子の文章と共に掲載されました。7年前の昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子を九十九里浜に住む妹の家で療養させていた時の思い出です。

回想でありながら、「ゐた」ではなく「ゐる」。7年経っても、目を閉じれば、既にこの世に居ない智恵子の姿がありありとそこに「ゐる」ように感じられていたのではないでしょうか。

3月22日(金)、六本木の泉屋博古館さんを後に、上野に向かいまして、東京国立博物館さんで開催中の特別展 御即位30年記念「両陛下と文化交流―日本美を伝える―」他を拝見いたしました。

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同じ皇室関連でも、泉屋博古館さんの 「華ひらく皇室文化 明治150年記念 明治宮廷を彩る技と美」が主に明治天皇の時代をメインにしていたのに対し、こちらは今上陛下と美智子さまを中心にした展示でした。しかし、会場に入ってすぐ展示されていた東山魁夷の大作「悠紀・主基地方風俗歌屏風」は、「華ひらく皇室文化」の図録にも掲載されており、そちらの巡回展のどこかで展示されたようで、かぶっている出品物もありました。

光太郎の父・高村光雲作の「養蚕天女」を見るのが主目的でした。今上陛下昭和8年(1933)のお生まれ、光雲は翌昭和9年(1934)に没しており、直接のつながりはないようです。あるとすれば陛下の生誕記念に光雲作の彫刻が献上された、的なことになりましょうが、そういった記録は見あたりません。

ではなぜ光雲の作が、というと、歴代皇后陛下が取り組まれている養蚕のからみです。明治期に照憲皇太后の始められた皇室御養蚕が、皇居紅葉山御養蚕所で今も続けられており、今回の展覧会では「皇后陛下とご養蚕」というコーナーが設けられました。

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で、光雲の「養蚕天女」。皇室には大小2種類が納められており、今月31日までは大きな方の作(像高約50センチ・大正13年=1924)が展示されています。平成28年(2016)に、宮内庁三の丸尚蔵館さんで開催された「第72回展覧会 古典再生―作家たちの挑戦」で拝見して以来でした。来月は小さな方(同25㌢・昭和3年=1928)にバトンタッチされるのではないでしょうか。

図録には大小の画像が並んで掲載されており、見比べてみると、ただサイズが違うというだけでなく、すこし趣が異なることがわかります。

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大きな方(左)は全体にスマートで、シュッとした感じです。大正期の作でありながら、そのお顔は美智子さまを彷彿とさせられます。小さな方(右)は、若干ふくよかな印象を受けます。ちなみに小さな方は大正13年(1924)の皇太子ご成婚を奉祝する御飾り棚一対を飾る各種工芸品の一つとして制作されたもので、他の工芸品とのバランス的なことも考慮されているかもしれません。

他には養蚕によって紡がれた絹糸で作られた物なのでしょうか、今上陛下ご幼少時のお召し物(図録の表紙に使われています)や、美智子さまのイヴニングドレスなども展示されていました。養蚕関係以外には、「外国ご訪問と文化交流」ということで、両陛下の外遊の際に紹介された美術品の数々など。

その後、特別展会場を後に常設展的なゾーンへ。トーハクさんでは、常設展といっても展示替えを頻繁に行っています。「近代の美術」のコーナーでは、時折、光雲の代表作で重要文化財の「老猿」(明治26年=1893)が展示されていますが、現在は休憩中(笑)。しかし、息子・光太郎の「老人の首」(大正14年=1925)が出ていました。


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光太郎と交流のあった思想家・江渡狄嶺の妻ミキからの寄贈品で、昭和20年(1945)に光太郎から江渡家に贈られたもの。光太郎生前の鋳造という意味では貴重なものです。

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東京美術学校での光雲の同僚にして、上野公園の西郷隆盛像の犬「ツン」、皇居前広場の楠木正成像の馬を担当した後藤貞行の「馬」(明治26年=1893)。楠木正成像の馬の原型か、とも思いましたが、若干フォルムが異なります。しかし、無関係ではないでしょう。躍動感がすばらしいと思いました。

さらに光雲の高弟にして、光雲と共に信州善光寺さんの仁王像を手がけた米原雲海の「竹取翁」(明治43年=1910)。光る竹の中になよ竹のかぐや姫を見つけ、驚く姿です。ユーモラスですね。


さて、「両陛下と文化交流―日本美を伝える―」は、来月29日まで。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

詩歌の世界では人間内部の矛盾撞着を無理に無くする事がいいとは限らない。矛盾に悩んで、その克服に精進しながらも、その矛盾の間から出る真実の叫を表現せずに居られないのが此の道に運命づけられた者の業である。

散文「某月某日」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

同じ年に書かれた散文「自分と詩との関係」では、自分を「宿命的な彫刻家である」としています。「運命」と「宿命」、その使い分けには興味をそそられるところです。

3月22日(金)、品川の石井彰英氏邸をあとに、次なる目的地、六本木へ。泉屋博古館分館さんで開催中の 「華ひらく皇室文化 明治150年記念 明治宮廷を彩る技と美」を拝見して参りました。

都内ではすでに桜が見事でした。

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桜前線というのは不思議なもので、自宅兼事務所のある千葉は都内より暖かいのに、早咲きの何とか桜の類を除けば、まだ開花していません。

泉屋博古館分館さん。

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ゾーン的には2つに分かれ、一方は「鹿鳴館の時代と明治殿」ということで、主に明治期の皇室で使われていた日用品やボンボニエール(菓子器)などの類。こちらがメインと位置づけられているようでした。美術品の範疇には入らないのかもしれませんが、美術品と言っても過言ではない、明治工芸のクオリティーの高さが偲ばれます。

もう一方が、「明治宮廷を彩る技と美」。光太郎の父・光雲をはじめとする帝室技芸員らの作がずらり。

光雲の作は、明治32年(1899)に制作された「山霊訶護」。翌年のパリ万博に出品されたもので、現在は宮内庁さんの所有です。光雲令孫の写真家・故髙村規氏撮影による厚冊写真集『木彫髙村光雲』(平成11年=1999 中教出版)の函にも使われた、ある意味、光雲代表作の一つです。前期(4月14日(日)まで)のみの展示とのこと。
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17年ぶりに拝見しました。天空から襲来する猛禽に襲われそうになる小動物をかばう山姥がモチーフです。小動物は山姥の足元の兎と、腰の部分に猿。猿が配されていたことを失念しており、「あ、ここに猿がいたんだっけ」と思いました。
 
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図録(2,500円也)はこれまでの巡回展(名古屋秋田京都)と共通のものなので、今回出品されていない、「魚籃観音像」(明治期)、「聖徳太子像」(明治44年=1911)も掲載されています。

光雲と交流のあった彫刻家の作品も出品されており、興味深く拝見。

東京美術学校で光雲の同僚だった石川光明の「狗児置物」(明治43年=1910)。モフモフ感がたまりません。

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同じく光雲の同僚・竹内久一で「神鹿」(大正元年=1912)。今回のチラシににも使われた目玉の一つです。

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それから、陶芸家の板谷波山。元々美術学校の彫刻科出身でしたが、その後、陶芸に転じたという変わった経歴の持ち主です。その波山の木彫「鮭」(明治期)。波山の木彫は初めて拝見しました。

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ちなみに波山の陶芸家としての代表作「葆光彩磁珍果文花瓶」も出ていました。今回の出品物の中で、唯一の重要文化財です。会場の泉屋博古館分館さんの所蔵だそうで、「これはここにあったのか」と言う感じでした。

それから、日本画の橋本雅邦、漆工の柴田是真なども光雲の同僚。その他、陶芸の宮川香山、七宝の濤川惣助など、はやりの超絶技巧系の出品物もいろいろあり、目の保養になりました。
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共催展として、3月20日(水)~5月18日(土)の日程で、学習院大学史料館でも展示が行われています。こちらもやはり明治期の皇室で使われていた日用品をメインにしているようです(光雲作品の展示はないとのこと)。

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それぞれ、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

結局顔はなるやうにしかならない随一のものだから、どうでもいい。無いと同じやうなものだと当人は考へるのが自然であらう。だから世の中で一番不明瞭なものは誰でも自分の顔だといふことになる。

散文「手形」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

人ぞれぞれに、その人の生きて歩んできた来歴が顔に表れ、ごまかしようがないというのです。多くの肖像彫刻を手がけてきた光太郎の言だけに、説得力があります。

毎年、春と秋にご紹介しています京都知恩院さんのライトアップ。今年の春は、昨年までより遅い時期の開催となりました。

知恩院 春のライトアップ2019

期  間 : 2019年3月29日(金)~4月7日(日)
時  間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)
場  所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
         友禅苑、三門下周辺、女坂、
阿弥陀堂
料  金 : 大人 500円  小中学生 300円

京友禅の祖・宮崎友禅翁ゆかりの庭園「友禅苑」や、日本最大級の木造二重門である「三門」、御身丈2.7mの阿弥陀如来坐像をお祀りする「阿弥陀堂」をライトアップします。
例年、3月初旬~中旬にかけて行われる東山花灯路に合わせて開催しておりましたが、今年は知恩院の桜の見頃の時期に合わせて3月末~4月初旬の開催となりました。ぜひこの機会に、知恩院へお参りください。

主な見どころ】
友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
阿弥陀堂
明治43(1910)年に再建。本尊は御身丈2.7mの阿弥陀如来坐像。様々な法要儀式を執り行う堂宇です。堂内に並べられている木魚は自由に叩いて頂けます。法然上人のみ教え「お念佛」に触れて下さい。

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関連イベント

「聞いてみよう!お坊さんのはなし」
ライトアップ期間中には、阿弥陀堂にて「聞いてみよう!お坊さんのはなし」を毎日開催します。お坊さんの話を聞いたことがないという方や、仏教のことをよく知らないという方も大歓迎です。どなたでもお気軽にお越しください。
【テーマ】
・3月29日(金)~3月31日(日) 『あの世のおはなし』
・4月 1日(月)~4月 4日(木) 『阿弥陀様ってどんなお方?』
・4月 5日(金)~4月 7日(日) 『「南無」の心』
【開始時間】
  18時~/18時40分~/19時20分~/20時~(各回お話15分~20分 木魚念仏体験10分程度)
  ※状況により時間が変更になる場合がございます。

切り絵作家望月めぐみ作品展示
ライトアップの期間中、友禅苑の白寿庵にて切り絵作家 望月めぐみさんの作品展示が行われます。約50メートルの機械漉き美濃和紙に施された切り絵作品を、ライトアップされた白寿庵の広間でお楽しみください。
3月29日(金)、4月6日(土)には望月めぐみさんのトークショーも開催されます。この機会に是非お越しください。
19時〜(全2回) 友禅苑内の白寿庵にて 見学無料(拝観料500円別途必要)


光雲作という聖観音菩薩立像。過日、15年ほど前に購入した『東京芸術大学百年史 京美術学校篇 一巻』という書籍を久しぶりに見ておりましたところ、写真が載っていました。この写真の存在、すっかり忘れていました。

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キャプションによれば、明治25年(1892)の作で、後のページの記録等を見ると、上野公園の西郷隆盛像や皇居前広場の楠木正成像などと同様、美術学校として注文を受けたもののようです。「委嘱品竣功ノ分」というリストに、「観音銅像 壹体」「注文者 東京 福田循誘」とあり、おそらくこれがそうでしょう。福田は東京深川本誓寺の住職でしたが、歿後は知恩院さんに墓が建てられています。

やはり西郷像などと同様に、光雲が主任だったということで、光雲作となっているのだと思われます。ちなみに同じリストには西郷隆盛像も載っています。集合写真に写っている岡崎雪声は、西郷像や楠木正成像の鋳造を手がけており、この観音像もそうなのでしょう。明治25年(1892)というと、光太郎はまだ下谷高等小学校に在学中でした。

何はともあれ、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

家は古風な作りで、表に狐格子の出窓などがあつた。裏は南に面して広い庭があり、すぐ石屋の石置場につづき、その前には総持院といふ小さな不動様のお寺があり、年寄の法印さまが一人で本尊を守つてゐた。父の家の門柱には隷書で「神仏人像彫刻師一東齋光雲」と書いた木札が物寂びて懸けられてゐたが、此は朝かけて夕方とり外すのが例であつた。

散文「谷中の家」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

この文章の書き出しは「明治二十四五年頃の話である。」。まさしく知恩院さんの観音像が作られた頃の回想です。後の本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)に転居する前の、谷中に住んでいた時期です。

名古屋秋田京都と巡回した企画展の最終会場・東京展です。 

明治150年記念 華ひらく皇室文化 明治150年記念 明治宮廷を彩る技と美 

期 日 : 前期 2019年3月16日(土)~4月14日(日)  後期4月17日(水)~5月10日(金)
会 場 : 
泉屋博古館分館 東京都港区六本木1丁目5-1
時 間 : 10:00〜17:00
料 金 : 一般800円(640) 高大生600円(480) 中学生以下無料 ( )内20名以上の団体
休 館 : 月曜日(4月29日 5月6日は開館 4月30日 5月7日休館) 4月16日(展示替え)

共催展 3月20日(水)~5月18日(土)学習院大学史料館(東京都豊島区目白1-5-1 学習院大学内)


明治時代(1868-1912)、諸外国との外交のために皇室では洋装を採り入れ、洋食にて外国使臣をもてなしました。その舞台は、延遼館、鹿鳴館そして明治宮殿へと移り変わります。宮中晩餐会の食器やドレス、ボンボニエールなど華やかな宮廷文化を紹介します。
また、明治皇室は伝統文化の保護を提唱し、「帝室」(皇室)が「技芸」(美術)の制作活動を奨励する「帝室技芸員」制度が誕生します。美術界の最高の栄誉とされた彼らの作品は、日本文化の象徴として海外でも賞賛されました。
明治150年、そして新時代が幕を開ける今、明治皇室が守り伝えようとした日本の技と美をご覧ください。

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関連行事

◆ 講演会
 2019年3月16日(土) 15:00~16:00
 「明治宮廷を彩る技と美」 小松大秀氏(本展監修者・永青文庫館長)
 2019年4月13日(土) 15:00~16:00
 「明治宮廷と染織の美」 田中潤氏(学習院大学非常勤講師)
  (当日10時より入場された方一名につき一枚、座席指定付整理券を配布 定員:50名)
 ◆ ギャラリートーク
 2019年3月30日(土) 15:00~16:00
 「宮中晩餐会とボンボニエール」 長佐古美奈子氏(学習院大学史料館学芸員)
◆ 夕やけ館長のギャラリートーク
 2019年4月20日(土) 15:30~16:30  ナビゲーター:野地耕一郎(泉屋博古館分館長)
◆ ランチタイム・ショートギャラリートーク
 2019年3月22日(金)、4月11日・18 日(各木) 12:15~12:45
 ナビゲーター:森下愛子(泉屋博古館分館学芸員)
◆ シンポジウム
 「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美-」第88回学習院大学史料館講座
 日時 2019年4月27日(土) 13:30~16:30予定  場所 学習院創立百周年記念会館正堂
 第1部「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美-」を各分野より語る
 第2部 討論「明治の美術工芸と皇室の果たした役割」
 出演 彬子女王殿下・小松大秀氏・長崎巌氏・野地耕一郎 他
    入場無料・事前申込不要・当日先着700名


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皇室ゆかりの帝室技芸員ということで、光太郎の父、光雲の木彫「山霊訶護」(明治32年=1899)が出品されています(前期のみ)。翌年のパリ万博に出品され、銀牌を受賞した作品です。現在は宮内庁さんの所蔵です。

「山霊」とは「山姥」。足元におびえる小動物を配し、頭上の何者かに向かって叱るような表情を見せることで、猛禽類の襲来を暗示しています。

モデルは光雲の実父・中島兼松とされています。像高約67センチ、比較的大きな作品ですね。

平成14年(2002)に、茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代」展に出品され、拝見しましたが、その後目にした記憶が無く、久々に観てこようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

何はしかれ、此の悠久山の一本欅の異様の美しさは越後の風土を物語り、又越後の人達の性格の美を象徴してゐる。むやみとひよろ長く伸びないで、むしろ深く根を張り、四方に枝を伸ばし、みつしりと葉をつけ、まろくこんもりと静かに立つてゐる。

散文「悠久山の一本欅」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

「悠久山」は、新潟県長岡市にある山。この年5月、木彫「鯉」を頼まれていた長岡の素封家・松木喜之七を訪ねた際に、足を伸ばしたようです。

今は桜の名所として名高いようですが、この頃、関東でよく見る欅とは樹相の異なる欅の大木を目にし、つづった文章の一節です。豪雪地帯ゆえに枝が雪で折れ、それが復活しの繰り返しで、特異な形となったとのこと。今でもこの木は残っているのでしょうか?

それにしても、その姿を越後の人々の精神性に例え、「むやみとひよろ長く伸びないで、むしろ深く根を張り、四方に枝を伸ばし、みつしりと葉をつけ、まろくこんもりと静かに立つてゐる。」としていますが、或る意味、光太郎自身の目指す人間像とも言えそうですね。

第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

アートオークション大手の毎日オークションさん。時折、光太郎や光太郎の父・光雲関連が出品されます。

3月9日(土)開催の「第600回毎日オークション 絵画・版画・彫刻」では、光太郎のブロンズ「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)が出まして、50万円で落札されました。ただし、出品名は「老人の首」となっていました。

元々はテラコッタで、モデルは大倉財閥の創業者・大倉喜八郎。光雲が頼まれた大倉の肖像彫刻のための原型として作られました。というわけで、きちんとした作品として作られたものではなく、ブロンズの鋳造も光太郎歿後。さらにテラコッタの段階で、左の耳が欠けてしまっているという瑕疵もあります。

しかし、その表情等、非常に味のあるものですし、大理石の台座も付いたちゃんとした鋳造で、50万円というのは妥当な線でしょう。

光太郎、後に昭和6年(1936)になって、この彫刻の制作風景を詩にしています。

  似顔

 わたくしはかしこまつてスケツチする001
 わたくしの前にあるのは一箇の生物
 九十一歳の鯰は奇觀であり美である
 鯰は金口を吸ふ
 ――世の中の評判などはかまひません
 心配なのは国家の前途です
 まことにそれが気がかりぢや
 写生などしてゐる美術家は駄目です
 似顔は似なくてもよろしい
 えらい人物といふ事が分ればな
 うむ――うむ(と口が六寸ぐらゐに伸びるのだ)
 もうよろしいか
 仏さまがお前さんには出来ないのか
 それは腕が足らんからぢや
 写生はいけません
 気韻生動といふ事を知つてゐるかね
 かふいふ狂歌が今朝出來ましたわい――
 わたくしは此の五分の隙もない貪婪のかたまりを縦横に見て
 一片の弧線をも見落とさないやうに写生する
 このグロテスクな顔面に刻まれた日本帝国資本主義発展の全  
  実歴を記録する
 九十一歳の鯰よ
 わたくしの欲するのはあなたの厭がるその残酷な似顔ですよ


プロレタリア文学やアナーキズムにも影響されていた光太郎、妖怪のような大富豪に対し、容赦ありません。


同じ毎日オークションさん、今日までの「第601回毎日オークション 新作工芸」には、光太郎の実弟にして、鋳金の人間国宝だった豊周の作が出ています。どうも「大倉喜八郎の首」と出所が同じような気がします。

題して「朧銀花入」。昭和43年(1968)の作ということになっています。

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共箱の箱書きには、「高村光太郎賞終了記念 昭和四十三年四月 豊周」とあり、まちがいなく豊周の筆跡です。

「高村光太郎賞」は、筑摩書房さんの第一次『高村光太郎全集』が完結した昭和33年(1958)から、その印税を、光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという豊周の希望で、10年間限定で実施されました。造形と詩二部門で、歴代受賞者には、造形が柳原義達、佐藤忠良、舟越保武、黒川紀章、建畠覚造など、詩では会田綱雄、草野天平、山之口獏、田中冬二、田村隆一ら、錚々たる顔ぶれ。審査員は高田博厚、今泉篤男、谷口吉郎、土方定一、本郷新、菊池一雄、草野心平、尾崎喜八、金子光晴、伊藤信吉、亀井勝一郎など、これまた多士済々でした。

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昭和38年(1963)からは、造形部門の審査員と受賞者による「連翹会展」が開催され、顧問として豊周が上記の「朧銀花入」を出品しています。そして昭和43年(1963)、高村光太郎賞終了に伴い、関係者に同型のものが配布されたのでしょう。

主催者による「予想落札価格」は、3万円から5万円と設定されていますが、こうした由緒を考えると、もっと行ってもいいような気がします。店頭販売でこの値段だったら、当方は迷わず買いますね。ただし、分割払いにしていただきたいところですが(笑)。

毎年、連翹忌では、光太郎の没した中野の貸しアトリエの庭に咲いていた連翹から株分けした連翹を、光太郎遺影と共に飾っています。その際に使う花瓶は当方自宅兼事務所にある適当なものを使っていますが、いずれは豊周の作を入手し、それを使いたいものです。


【折々のことば・光太郎】

私は以前から自説は述べるが、人と論争をあまり為ない。論争そのものが嫌ひなのではないが、論争には相互の態度に或る資格がいると思つてゐる。論争とは結局共同の真理追究に外ならない。ただあい手をやりこめる事ばかり考へてゐるやうな論客には論争する資格が無い。

散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

永田町の人々にぜひ読んでいただきたい一節ですね。もっとも、それだけでなく、文学研究などの世界にもこうした手合いが少なからず存在するのですが……。

第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

ぼちぼち受験シーズンも終わりに近づきつつあります。千葉県では、公立高等学校入試のうち、「後期選抜」が2月28日(木)に実施され、昨日、合格発表がありました。

で、社会の問題。光太郎の父・光雲に触れられました。

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4択の問題ですし、意外と正答率は高いのではないかと思われますが、どうでしょうか。中学生諸君、鷗外と漱石は迷うかもしれませんが、滝廉太郎はバッハやベートーヴェンと並んで音楽室に肖像画が掲げられているように思います。なぜか音楽室の肖像画にある日本人作曲家というと、山田耕筰、中山晋平、滝廉太郎のトリオですね(笑)。

一昨年には、群馬県の高校入試でやはり光雲がらみの問題が出ました。その際にも引用しましたが、文部科学省で定めている「中学校学習指導要領」の社会編、歴史的分野で掲げている目標を抜粋します。

(2) 国家・社会及び文化の発展や人々の生活の向上に尽くした歴史上の人物と現在に伝わる文化遺産を,その時代や地域との関連において理解させ,尊重する態度を育てる。

ちなみに現行の中学校社会の教科書、主に8社で発行されているようですが、8社中6社で「文化の発展や人々の生活の向上に尽くした歴史上の人物」の一人として光雲をとりあげています。


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ここに光太郎の名が無いのが、残念ですが……。


【折々のことば・光太郎】

太古、人間の手が道具といふものを初めて作り出して以来、手は人類文化一切の工作者となつた。顕微鏡でなければ歪みの見えない程の精密工具の扱ひにしても、高速度工具鋼の処理にしても、結局は其以上に高度な手の神経が其を統轄するのである。

散文「手」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

0.01ミリとかの単位で製品を研磨する職人さんの話など、時折テレビ等で見かけます。

光太郎や光雲の木彫なども、そうした「手」の感覚から産み出されたものなのでしょう。

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ほぼ一気読みしました。

「ロダンの言葉」とは何か

2019年2月20日 髙橋幸次著 三元社 定価4,000円+税

彫刻家ロダンの芸術観は、近代日本に圧倒的な影響をもたらした。その過程で作品以上に重要な役割を担ったのが、高村光太郎らによって翻訳紹介された一連の「ロダンの言葉」だった。では、その原典たる「ロダンの言葉」を書き残したのは一体だれなのか?
「ロダンの言葉」の成立と受容を詳細にたどり直し、ロダン研究の新たな基礎を築く。

[目次]
 はじめに  001
 第Ⅰ部 ロダンとその時代
  第 1 章 ロダンとは誰なのか、そして何なのか
  第 2 章 セザンヌとロダン
 第Ⅱ部 ロダンの言葉
  第 1 章 「ロダンの言葉」成立の前提
  第 2 章 クラデルのロダン
  第 3 章 ロートンのロダン
  第 4 章 バートレットのロダン:高村光太郎のダークス
  第 5 章 モークレールのロダン
  第 6 章 グセルのロダン
  第 7 章 コキヨのロダン
  第 8 章 ティレルのロダン
  第 9 章 デュジャルダン=ボーメッツのロダン
  第 10 章 ブールデルのロダン
  第 11 章 リルケのロダン、そして高村光太郎のリルケ
  第 12 章 ロダン自身によるロダン
 終わりに
 あとがき
 注 参考文献一覧 初出一覧 引用図版一覧 索引
 付録/高村光太郎編譯『ロダンの言葉』『續ロダンの言葉』の目次


いろいろお世話になっている日大芸術学部さんの髙橋幸次教授の新著です。

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だいぶ前に、本書の元となった同大芸術学部さんの紀要抜き刷りの一部をいただきましたが、一冊にまとまったものを読んでみて、改めて興味深く感じました。

光太郎の訳著『ロダンの言葉』(大正5年=1916)、『続ロダンの言葉』(同9年=1920)を軸に、ロダンその人のアウトライン、欧米でのロダン語録出版の過程や、それぞれの編著者、光太郎をはじめとする日本における翻訳、ロダン受容の様相などについて、詳細にまとめられています。

そもそも『ロダンの言葉』とは、折に触れてロダンが語ったさまざまな談話や、近しい人々との会話などを、様々な人物(多くはロダンの秘書)が筆録したものから抽出されたもので、ロダン本国のフランスには『ロダンの言葉』という書物はありません。したがって、光太郎が使った翻訳原典は多岐にわたります。

本書では、それぞれの筆録者がどういう経歴の人物で、ロダンとどう関わったか、筆録の状況、ロダンとの距離感などといったことも記述され、非常に参考になります。

また、光太郎の訳についても、数ある原典の中からどういった部分に重きを置いて抽出してるのかや、他の訳者の翻訳との比較、その特徴やあてた日本語の妥当性など、実に示唆に富むものでした。

光太郎の『ロダンの言葉』正続は、廉価な普及版の刊行などもあり、実に多くの造形作家やその卵、また、直接的には美術と関わらない人々にも大きな影響を与えたとされています。そうなった背景も、この書籍を読むことでかなりの程度理解できたように思いました。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

団十郎は決して力まない。力まないで大きい。大根といはれた若年に近い頃の写真を見ると間抜けなくらゐおつとりしてゐる。その間抜けさがたちまち溌剌と生きて来て晩年の偉大を成してゐる。一切の秀れた技巧を包蔵してゐる大味である。神経の極度にゆき届いた無神経である。

散文「九代目団十郎の首」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

結局完成する前に戦災で消失してしまった、九代目市川團十郎像に関してです。対象への惚れ込み方、それをいかに造形として表すかの苦心など、ロダンのそれとも重なるような気がします。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

上野のトーハクさんでの特別展情報です。  

特別展 御即位30年記念「両陛下と文化交流―日本美を伝える―」

期    日 : 2019年3月5日(火) ~4月29日(月・祝)
会    場 : 東京国立博物館  東京都台東区上野公園13-9
時    間 : 午前9時30分~午後5時 金・土曜日は午後9時まで
料    金 : 一般1,000円 大学生700円 高校生400円 団体割引有り
休 館 日  : 3月25日(月)、4月29日(月・祝)を除く月曜

本展は、宮内庁が所管する皇室ゆかりの作品の中から、天皇陛下御即位の儀式に際して東山魁夷、高山辰雄が平成2年(1990)に制作した「悠紀・主基地方風俗歌屛風」や、天皇皇后両陛下が外国御訪問の際にお持ちになって紹介された作品などを展示するものです。
両陛下がお伝えになった日本文化を通して、海外の様々な人々が、わが国への理解と交流を深めてきました。御即位30年という記念すべき年に、両陛下が担われた文化交流についてご紹介します。

主な作品 御即位に関連する作品 / 歴代皇后陛下が伝えたご養蚕をテーマにした作品  / 天皇皇后両陛下の外国御訪問時に紹介された名品 / 天皇皇后両陛下の外国御訪問時に紹介された名品 / フランス国で開催された御養蚕についての展覧会で紹介された御品


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ご在位30年、そしてもうすぐ平成が終わるということもあり、この手の企画が多いですね。

「歴代皇后陛下が伝えたご養蚕をテーマにした作品」の中で、光太郎の父・高村光雲の手になる宮内庁三の丸尚蔵館さん蔵の「養蚕天女」(大正13年=1924)が出品されます。前期(3月31日(日)まで)のみの展示だそうです。

同館には大小2点の「養蚕天女」があり、こちらは像高約50センチの大きな方。最近では平成28年(2016)に、同館で開催された「第72回展覧会 古典再生―作家たちの挑戦」で出品されました。

ちなみに小さい方の「養蚕天女」は、昭和3年(1928)の作で、像高約25センチ。こちらは一昨年、東京藝術大学美術館さんで開催された「東京藝術大学創立130周年記念特別展 皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」にて展示されました。

今回、大小2点とも出品されるとのことです。

他に、東山魁夷、高山辰雄、岩佐又兵衛、酒井抱一らの優品がずらり。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

ただ物寂びた芸術、ただ渋い芸術、ただ厳しい芸術、さういふ程度の階級に位するものなら求めるに難くない。古来、真に冬たり得た芸術が一体何処にあるだらう。

散文「満目蕭條の美」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

「あなたの遺した芸術こそ、『真に冬たり得た芸術』ですよ」と、光太郎に言いたいところです(笑)。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

東京美術学校(現・東京藝術大学さん)で、光太郎と同期だった彫刻家に、水谷(みずのや)鉄也という人物がいました。「鉄」の字は「銕」とも表記されたり、「佳園」と号したりしましたので、「水谷銕也」、「水谷佳園」で検索網に引っかかったりもします。また、書籍によっては、苗字も「水ノ谷」となっているものもあります。

水谷は長崎島原の出身で、光太郎より7歳年長の明治9年(1876年)生まれですが、郷里を出て奈良で木彫家の森川杜園に学んでから美校に入学したため、年の離れた光太郎と同期となりました。水谷や光太郎の入学当初は美校彫刻科には木彫科しかなかったのですが、明治32年(1899)に、イタリア帰りの長沼守敬を主任とする塑造科が新設され、水谷はそちらに移りました。卒業は光太郎ともども明治35年(1902)。この際の卒業制作「愛之泉」(左下)は、光太郎の「獅子吼」(右下)を抑えて首席となりました。

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「愛之泉」は、一昨年、東京藝大美術館さんで開催された「東京藝術大学創立130周年記念特別展 藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!」に出品され、拝見して参りました。優美な作風の作品で、確かに荒っぽい「獅子吼」よりきれいな作ではあります。

また、平成27年(2015)には、武蔵野美術大学美術館さんで「近代日本彫刻展」が開催され、そちらでは水谷作品は木彫の「海老」(大正15年)が出まして、拝見して参りました。この展覧会はイギリスのヘンリ・ムーア・インスティテュートさんとの共同企画で、「海老」はイギリス展にも展示されました。光太郎作品は木彫の「白文鳥」(昭和6年=1931頃)、ブロンズの「手」(大正7年=1918)が出品されました。

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美校卒業後、水谷は同校で教壇に立ち、その間にヨーロッパ留学も経験しています。


さて、昨年の話になりますが、以前に連翹忌にご参加いただいた、水谷の令孫(茨城県にお住まいです)から、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市に、水谷の作品があるという情報を得ました。これには驚きました。そして詳細を知って二度びっくり。何と、勤め人時代にその前を通って十数年通勤していた銅像だったからです。

過日、改めて見に行って参りまして、撮ってきた画像がこちら。

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高安宗悦という、この地で開業していた接骨医の銅像でした。元は昭和10年(1935)の作です。が、どうもこの手の銅像の通例で、戦時中に金属供出にあったらしく、昭和35年(1960)再建というプレートも付いていました。

前を通って通勤していながら、車を駐めてきちんと見るということをしていなかったのですが、車窓から見てもその辺によくある立体写真的な俗悪銅像とは違うとは思っていました。しかし、まさか光太郎ゆかりの人物の作だとは思いもよらず、汗顔の至りです。

さらに、高安宗悦について調べてみて、三度びっくり(笑)。宗悦の子息の恭悦は、漢方医の浅田宗伯の養子となりましたが、その養父・浅田宗伯こそ、かの「浅田飴」の考案者だったのです。

地元の歴史などについても、もっと関心を持たなければ、と思い知らされました。


【折々のことば・光太郎】

葉を落とした灌木や喬木、立ち枯れた雑草やその果実。実に巧妙に縦横に配置せられた自然の風物。落ちるものは落ち、用意せられるものは用意せられて、何等のまぎれ無しにはつきりと目前に露出してゐる潔い美しさは、およそ美の中の美であらう。彼等は香水を持たない、ウヰンクしない。見かけの最低を示して当然の事としてゐる。

散文「満目蕭條の美」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

すっかり葉を落としながらも、実は既に芽をふくらませ始めている連翹や桜などの庭木を見ると、この光太郎の言が実感させられます。

昨日の『毎日小学生新聞』さん、マルチアーティスト・井上涼さんの連載「井上涼の美術でござる」が「高村光太郎の巻」でした。

井上さんといえば、NHK Eテレさんで放映中の「びじゅチューン!」のアニメーション制作や歌、さらに出演もなさって取り上げた美術作品や作者の解説もされています。同番組ではこれまでに光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)を扱う「指揮者が手」、光太郎の心の師・ロダンの「地獄の門」(明治13年=1880~大正6年=1917)をモチーフとした「ランチは地獄の門の奥に」などが放映されています。

「井上涼の美術でござる」も、「びじゅチューン!」同様、かなりの脱力系(笑)。なぜか二人の忍者が主人公で、それも「忍者B」と「忍者C」(笑)。

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本当にあったら参加してみたいものですが、光太郎との「握手会」というシチュエーションです。

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光太郎もノリノリです(笑)。

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合間に的確な解説も入り、読者対象として想定されている小学生諸君にもわかりやすいと思われます。

「井上涼の美術でござる」、昨年から連載されているということで、もう少し溜まったら、ぜひ単行本化していただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

木枯らしの吹きすさぶ山麓の曠野を行く時、たちまち私の心を満たして来るのは、その静まりかへつた大地のあたたかい厚みの感じと、洗ひつくしたやうな風物の限りないきれいさと、空間に充満するものの濃密な密度の美とである。
散文「満目蕭條の美」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

この項、一つの作品から一節ずつというのを基本としていますが、例外的に昨日、一昨日と同じ「満目蕭條の美」から。この文章、あまりにも冬を愛した光太郎という人物を端的に物語っていますので、この際、全文を少しずつご紹介してしまおうと思っています。

ところで今朝は今年3回目の雪でした。まぁ、自宅兼事務所のある千葉で雪が降るとなると、冬型の気圧配置がゆるんでからのことなので、春が近いことの証でもあるのですが。

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一昨年、日本橋の三井記念美術館さんで始まり、岐阜県現代陶芸美術館さん、山口県立美術館さん、富山県水墨美術館さんを巡回した展覧会の最後の開催地、大阪での開催です。うっかりご紹介するのを失念しており、始まってしまっています。

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これまでの巡回各館同様、光太郎の父・高村光雲の木彫「布袋像」が出品されています。他の出展作はこちら。七宝の並河靖之・濤川惣助のダブルナミカワ、牙彫には安藤緑山、陶芸に宮川香山、木彫では光雲の朋友・石川光明など、人気作家がズラリ。さらに現代作家による超絶技巧の作も多数。  

驚異の超絶技巧! 明治工芸から現代アートへ

期 日 : 2019年1月26日(土)~4月14日(日) 
会 場 : あべのハルカス美術館  大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1-43 あべのハルカス16階
時 間 : 火~金 10:00~20:00   月土日祝 10:00~18:00
料 金 : 一般 1,300(1,100)円  大学・高校生 900(700)円
      中学・小学生 500(300)円 ( )内団体料金
休 館 : 2月18日(月)、3月4日(月)、18日(月)

本物と見まがう野菜や果物、自在に動く動物や昆虫、精緻な装飾や細かなパーツで表現された器やオブジェ…。近年注目の高まる明治工芸と、そのDNAを受け継ぐ現代の作家たちによる超絶技巧の競演をご覧いただきます。人間の手が生み出す奇跡のような技術に加え、洗練された造形センスと機知に富んだ、驚異の美の世界をお楽しみください。

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関連行事

超絶!フォトジェニック・ナイト 2月16日(土)・3月16日(土) 各日 18:00~20:00

閉館後の展示室内で自由に写真撮影ができます。気に入った作品とコラボした超絶フォトで、狙おう、インスタ映え!  ※本展観覧券が必要です。ストロボ、三脚や自撮り棒などのご使用はご遠慮ください。
  

ハルカス大学連携講座「金属に託す瞬間の美 超絶技巧への挑戦」 2月17日(日)14:00~15:00

本展出品作家で、蒲公英(たんぽぽ)や桜などの繊細で儚い自然を金工で表現する、若き超絶技巧の担い手、鈴木祥太さん。制作にかける想いと、技の秘密を語っていただきます。 
 講 師  鈴木 祥太氏(本展出品作家、金工)
 会 場 あべのハルカス23階 セミナールーム
 定 員  40名(事前申込制、先着順)
 聴講は無料ですが、本展観覧券(半券可)が必要です。
お申し込みは、ハルカス大学webサイト(
http://harudai.jp/)、お電話(06-6622-4815)、もしくはハルカス大学受付(あべのハルカス23階キャンパスフロア)にて承ります。定員になり次第締め切ります。
 

スペシャル・トーク「日本美術応援団 驚異の超絶技巧を応援する! in 大阪」 2月17日(日)14:00~15:30

本展監修者で「日本美術応援団」団長の山下雄二氏と、団員の山口晃氏(美術家、本展チラシ挿画担当)が、熱き超絶技巧愛を語る!展覧会が100倍面白くなる対談です。
 出 演 山下裕二氏(本展監修者、明治大学教授)  山口晃氏(美術家)
 会 場 あべのハルカス25階 会議室   定 員 270名
 聴講料 1,500円(一般観覧券とオリジナルポストカード付き・税込)
※トークチケットは、11月16日(金)~1月25日(金)まで、下記にて販売します。定員に達し次第終了。ポストカードは当日会場にてお渡しします。【チケット販売所】ローソンチケット(Lコード:53513)

 
この他に、2月6日(水)には出展作の多くを所蔵されている清水三年坂美術館さんの村田理如氏の講演もありました。


「超絶技巧」系、数年前から人気のジャンルで、またいずれ同様の企画が組まれるような気がしますが、今回のものはこの大阪展が最後となります。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

私は緑色を好む。それで紺青の空と海とに挟まれた陸上の濃緑色の展望を見て喜ぶ。
散文「三陸廻り 十 宮古行」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

十回にわたって『時事新報』に連載された「三陸廻り」の最終回から。釜石の先にあるオイデ崎付近の海上を行く船から、リアス海岸の岸壁に密生する広葉樹の原生林を見ての感懐です。

若き日の智恵子がエメラルドグリーンを好んだのは比較的有名な話ですが、光太郎も緑色が好みだったのは意外といえば意外でした。もっとも、ここで言う緑色は、色としての緑というより、大自然の象徴としての樹木という意味なのかもしれません。

昨日に引き続き信州善光寺さんネタです。

第十六回長野灯明まつり 「共鳴する平和への祈り」

開催期間 : 平成31年2月6日(水)~2月11日(月・祝)
時  間 : 18:00~21:00 ※初日は17:30からオープニングセレモニー
       最終日は 18:00 ~ 20:00

会  場 : 信州善光寺 長野県長野市長野元善町491 長野駅前西口、善光寺表参道
入場料金 : 無料
主  催 : 長野灯明まつり実行委員会

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長野灯明まつりは、長野オリンピックの開催を記念し、2004年から装いを新たに始まった祭りです。
オリンピックの「平和を願う精神」を後世に遺してゆくため、世界に向けて「平和の灯り」を力強く発信しています。善光寺を五輪の色にちなんだ光で照らす「善光寺・五色のライトアップ」善光寺表参道に平和への想いが込められた光のアートが並ぶ「ゆめ灯り絵展」大きな光と小さな光を長野市へ皆で灯して、世界の平和を祈ります。

1998年長野冬季オリンピックが開催されました。感動と躍動、そして恒久の 平和への願いを、オリンピック精神のもと世界に届けました。2004年オリン ピックレガシーの継承と、弛まぬ平和への願いを込めて開催されたまつりこそ 「長野灯明まつり」です。国宝善光寺を五色に彩る「善光寺ライトアップ」、善光 寺表参道に灯された800基の灯篭アート「ゆめ灯り絵展」、毎年趣向を凝らし て開催される各種イベントが、訪れる50万人の人々を魅了します。 我々日本人は戦後、アジアの先進国の代表として常に経済をリードし、豊かな生 活と思想、優れた教育を享受して参りました。しかし、広い地球のどこかでは未 だ人と人が争い、誰かの心が傷つけられています。 第十六回長野灯明まつりでは「共鳴する平和への祈り」をテーマに、性別、人 種、国籍を超え、人と人の想いがつながり響きあい、共に灯す平和への祈りを世 界に向けて発信します。

実施する事業
・仁王門再建·仁王像造立100年長野灯明まつりスカイランタン・平和の灯り
開催日時:2/10(日) 集合場所:善光寺大本願 明照殿 開催場所:仁王門前 
受付 17:00~19:30  スカイランタン制作 17:30~18:30  打ち上げ開始 19:00~ 
参加費:1セット2,000円 ※受付時現金にて 事前申し込み公式サイトから 販売個数:限定100基
スカイランタン打ち上げイベント及び製作体験は、参加者1人につき、1基の製作となります。製作、打ち上げスペースの関係で、複数人で1基の申込は下記の場合を除き、ご遠慮をお願い申し上げます。
※小さなお子様がいらっしゃる方、16歳未満の保護者の付き添いは可能です。
タイや台湾を中心に元宵節にスカイランタンを放ち、無病息災を祈る民族習慣として定着している熱気球の一種です。長野灯明まつりでは、善光寺大本願にて祈祷したスカイランタンに平和の祈りや願いを書き入れて夜空に打ち上げ祈るとともに、仁王門再建100年・仁王像造立100年をスカイランタンの平和の灯りで祝います。

・ オープニング特別ライトアップ
日本との友好150周年を迎えるオーストリア、ハンガリー両国より大使をお招きし、平和の祈りを込めた善光寺のライトアップ点灯式にご参加いただきます。 また、善光寺山門では、石井リーサ明理氏によるレーザー演出で、長野灯明まつりのオープニングを華やかに彩ります。
日時:2月6日(水)18:00~21:00 場所:善光寺山門

・ 「ゆめ常夜灯」
灯明まつりの伝統に則り、善光寺の本堂をはじめとした主要な建物をカラーでライトアップ。本堂と山門はそれぞれ30分に1回、5色の色変化をする演出を行います。9年ぶりに修復を終え、一般公開された国の重要文化財である経蔵をライトアップ。主要な照明機材をLEDとし、省エネルギー化を実現。排気ガスを排出する燃料式発電機の使用を廃止し、クリーンで静かな空間を創出。企画・照明デザイン 石井幹子/石井リーサ明理

・ 「ゆめ灯り絵展」
「ゆめ灯り絵展」は「灯り絵常夜灯」と呼ばれる灯ろうに、応募者がデザインした切り絵を貼って浮かび上がる絵柄と灯りを楽しむイベントです。長野灯明まつり開催中、柳沢京子氏をはじめとする審査員の方々や、一般投票によるコンテストを実施。 善光寺表参道の石畳に展示され、情緒あふれる景色を彩ります。
テーマ 一般部門:「未来」「平和」「感謝」 キッズ部門:「将来の夢」「スポーツ」
<作品展示> 善光寺表参道大門石畳通り 2月6日(水)から2月11日(月)まで

他に宿坊・ゆめ茶会(毎日)、ゆめ演奏会(2/6)、平和のコンサート(2/9)、プロジェクションマッピング(2/10)、謎解きゲーム「妖怪探偵と封印の扉」、灯明バルなど


昨日お伝えした、光太郎の父・高村光雲らによって制作された仁王像の調査は、この「灯明まつり」に向けてのすす払いの意味もあったようで、この時期だったのでしょう。

SBS信越放送さんで昨日放送されたローカルニュースから。

善光寺仁王像が完成から100年・文化財指定に向けた動き始まる

 長野市の善光寺の仁王像が完成から100年の節目を迎え、仁王像や仁王門の文化財指定を目指す動きが始まりました。
 仁王門ではきょう、中に納められている仁王像の「おすす払い」が行われました。高さおよそ4.5メートルの仁王像は彫刻家の高村光雲や松本出身の太田南海などが手がけたもので、1919年・大正8年の完成から今年で100年となります。
 きょうは専門の業者が毛先が柔らかい刷毛などを使って長い年月の間にたまったほこりや汚れを落とし、善光寺事務局の小林順彦寺務総長は「100年間ここに来られている方を見届てきた仁王様なので、体を軽くしていただきたい」と話していました。
 また仁王像が安置されている仁王門も、去年再建から100年を迎えました。善光寺では今年1年間を仁王門と仁王像の「記念イヤー」と位置づけ、将来的に文化財指定を目指す取り組みに乗り出しました。
 去年9月には門に貼られていた「千社札」と呼ばれる参拝者の札をはがす作業を初めて行い、高所作業車も使いながらおよそ2週間かけて1200枚ほどをはがしました。
 さらに仁王像の作品的価値の再評価に向けて、東京芸術大学大学院などでつくる調査チームがきのうまでの4日間現地調査を行いました。
 善光寺ではこうした取り組みを通して文化財の登録を目指していくとしていて、小林寺務総長は「これだけ注目する機会はまた100年後になると思うので、このチャンスを生かして仁王門と仁王様を文化財指定にもっていってくれればありがたい」と話していました。
 善光寺では今年9月に100周年の記念法要などを行う予定です。

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ちなみに、光雲の曾孫であらせられる髙村朋美さんのブログに現地レポートが掲載されています。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

飛行機と無線電信とは地球の表面距離を小さくした。しかし人は地球のうすい表皮の中でのみ活動する。人はまだ此厖大な球体に深達する事を許されない。上空無限の未知の気層が私の意識を喪失せしめる。

散文「三陸廻り 三 金華山」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行が行われるまであと30年。さすがの光太郎も地球が青いことを想像できなかったでしょう。

善光寺さんの仁王門前から打ち上げられるスカイランタン、そこに込められる平和への祈りが、地球全体を覆うことを願ってやみません。

千葉県から所蔵品展の情報です。 

冬のアート・コレクション 具象彫刻展 ―具象彫刻の先駆者たち―

期    日 : 2019年1月29日(火)~4月14日(日)
会    場 : 千葉県立美術館 千葉県千葉市中央区中央港1-10-1
時    間 : 9:00〜16:30
料    金 : 一般 300円(240円)  高校・大学生 150円(120円)
         ( )内は20名以上の団体料金

休 館 日 : 月曜日 (祝日・振替休日に当たるときは開館し、翌日休館)

美術における「具象」とは、人物や身近な動物など具体物を題材にした作品に使われる用語です。
また、「彫刻」とは主に立体の美術作品を示す用語で、石や木などの素材を直接彫り刻む技法(カーヴィング)と、粘土で原型をつくり、それを石膏や金属などで型抜きして作る技法(モデリング)に大別されます。
日本には、埴輪や土偶、ひな人形や仏像など立体造型の伝統がありますが、人物を型抜きしたような写実的な表現は、明治以降、西欧の彫刻作品と技法の導入により普及しました。
「具象」「彫刻」をキーワードとする本展では、日本近代彫刻の先駆者である小倉惣次郎や新海竹太郎をはじめ、彫刻界に多大な功績を残した高村光太郎、高田博厚、戦後日本の彫刻界を代表する舟越保武、千葉県を拠点に活動した大須賀力、長谷川昻などの作品を展示し、具象彫刻の魅力を紹介します。

 同時開催
 近代洋画の先駆者 浅井忠9 -浅井忠の京都時代-
 北詰コレクション メタルアートの世界3 -彫金の魅力-
 コレクション名品展 -バルビゾン派の画家たちを中心に-
 アート・コレクションプラス 具象彫刻の今 -彫刻家宮坂慎司と県美の収蔵作家たち-

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地元ですので、早速行って参りました。

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チラシには光太郎のブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)が大きく掲載されていますが、看板では「手」(同7年=1918)。「おお」という感じでした。

光太郎作品は4点出ていました。上記2点以外に、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のための手の試作(昭和27年=1952)と、中型試作(同28年=1953)。4点とも何やかやであちこちで同型のものをしょっちゅう見ている作品ですが、何度見てもいいものはいいと感じます。

光太郎以外に、現代作家の作品も含め、約30点。

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高田博厚、本郷新、菊池一雄、舟越保武といった、光太郎と交流があった彫刻家の作もあり、興味深く拝見しました。

さらに同時開催の絵画のコレクション展「-バルビゾン派の画家たちを中心に-」でも、光太郎と交流のあった面々-安井曾太郎、梅原龍三郎、岸田劉生、三宅克己など-の作が並んでおり、ラッキーでした。

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また、直接の交流は無かったと思われますが、歿後にそのアトリエを借り受けて、光太郎が「乙女の像」制作に当たった中西利夫の作もありました。それから、岸田劉生に師事した椿貞夫の作は、光太郎智恵子が愛を確かめ合った銚子犬吠埼の風景画。二人が泊まった暁鶏館(現・ぎょうけい館)も描かれており、「へー」という感じでした。

皆様もぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

日本人は自然に逆らはない気質を有する。自然をどづかないで、しかも自然を左右する。

散文「三陸廻り 一 石巻」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

新聞『時事新報』に依頼され、この年8月から9月にかけ、三陸沿岸を旅して書いた紀行文から。ちなみにこの光太郎の旅行中、智恵子の心の病が顕在化したとされています。

宮城県石巻で見た北上川河口の風景への感想です。北上川の流路は、遠く江戸時代から何度も改修工事が行われ、光太郎が訪れた昭和6年(1931)の時点でも工事が行われていました。洪水対策や港としての整備が目的だったようですが、光太郎、スエズ運河の大工事を引き合いに出し、そうした自然に逆らう工事ではないことに感心しています。

岩手盛岡から、市民講座の情報です。 

館長講座2018 第4回 「岩手の近代彫刻Ⅱ」

期    日 : 2019年2月2日(土)
会    場 : 岩手県立美術館 ホール 岩手県盛岡市本宮字松幅12-3
時    間 : 14:00~15:30
料    金 : 無料 
講    師 : 藁谷収 (岩手県立美術館館長)
備    考 : 定員120名 申し込み不要

彫刻家でもある当館の藁谷収館長が、「作り手の視点」で語る講座。専門の彫刻を中心に当館所蔵の作品や現代イタリア彫刻について紹介しながら美術の楽しみ方を全4回シリーズでお話しします。

長沼守敬、高村光太郎、堀江尚志と続く岩手の近代彫刻は、人間に対する深い愛情を表現した舟越保武へとつながっていきます。さらに戦後には創作活動のあらたな可能性を追求し新しい価値を与える彫刻家が出てきます。多様に展開する現代の彫刻の一端を紹介いたします。

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藁谷館長、岩手大学さんで教鞭も執られているようで、昨秋には花巻市主催の岩手大学教育学部出前講座「彫刻ってこう観るの!? 光太郎の作品から入る近代芸術の世界」でも講師を務められていました。

ちなみに同館では現在、企画展として、光太郎と交流のあった宮沢賢治がらみの「ますむらひろし展―アタゴオルと北斎と賢治と―」を開催中です。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

人間が着物を着てゐる限り、裸体の魅力は滅びない。又人間が全裸の生活に立ち返つてその魅力に麻痺するや否や、性の挑発物としての着物が発達しはじめる。此の循環を想像する事は面白い。

散文「循環」全文 昭和6年(1931) 光太郎49歳

人間に対する強い愛情の表現の一カテゴリーとしての裸体画、裸体像。滅び去ることはないのでしょう。

都内から市民講座の情報です。 

東京美術学校への招待 教員・卒業生の作品を中心に学ぶ近代美術史

期    日 : 2019年1月25日(金) 2月1日(金) 2月8日(金) 2月15日(金) 2月22日(金)
会    場 : 早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校
             東京都中央区八丁堀3-17-9 京華スクエア3F
時    間 : 10:30~12:00
料    金 : 会員 ¥15,336  ビジター¥17,523
講    師 : 古田 亮(東京藝術大学大学美術館准教授)

東京藝術大学の前身である東京美術学校は、明治20年(1887)に創設された。草創期の東京美術学校は、岡倉天心の強い指導力によって、日本の近代美術の礎となる人材を育てた。まもなく開設された西洋画科では黒田清輝が洋画のアカデミズムを確立した。この講義では、東京美術学校での美術教育がそのまま近代美術の形成を促したことを踏まえて、美校から輩出した教授陣や卒業生たちの活躍を追い、その代表作を取り上げながら詳述する。

01/25 草創期の東京美術学校
 岡倉天心の時代 東京美術学校が、わが国の美術行政や制度のなかでどのような由来で設立されたのか、詳しく検証する。そこに示された岡倉天心の教育理念について知ることで日本の近代美術の原点が明らかとなる。
02/01 見学会:東京藝術大学、黒田記念館の見学
 東京藝術大学構内には、東京美術学校時代の建築や遺物、ゆかりの彫像などが多数現存している。また、すぐとなりに位置する黒田記念館は、黒田清輝の事蹟を紹介し作品を展示している。
02/08 西洋画科の設立
 黒田清輝を中心に 明治29年、開設から9年後に設置された西洋画科を牽引したのは、パリ留学から帰国した黒田清輝である。黒田を中心に展開した近代日本洋画について、その特徴を作品から明らかにしていく。
02/15 東京美術学校の依嘱制作
 高村光雲を中心に 西郷隆盛像、楠木正成像など、東京美術学校が依嘱されて制作した彫刻、工芸は相当数に及ぶ。巨大なモニュメント制作には、彫刻科の教員だった高村光雲の指導的活躍があった。
02/22 卒業生たちの活躍
 東京美術学校を卒業し近代日本美術史に大きな足跡をのこした作家を何人か取り上げて、学校時代の様子から活躍までの様子を紹介する。横山大観、青木繁、高村光太郎、藤田嗣治など。


光太郎の母校にして、父・光雲が彫刻科の主任教授を務めた東京美術学校のクロニクル的な内容のようです。

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講師は美校の後身・東京藝術大学さんの大学美術館准教授・古田亮氏。NHKさんの「日曜美術館」にご出演されたり、各種シンポジウムのパネラーを務めたりされています。

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全5回、ほぼすべての内容に光雲・光太郎が絡みそうな気配です。藝大さん構内、黒田記念館さんの見学も組み込まれていまして、それぞれ光太郎作の光雲胸像、黒田清輝胸像が展示されています。

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ぜひ拝聴したい内容ですが、残念ながら都合がつきません。

日程のあう方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

生きた吸収作用が無限につづけられてゆくうちに言葉の新細胞が出来、思惟が精緻になり、見えなかつたものが見えて来、組み立て得なかつた機構が組み立てられる。言葉の真実を離れて詩は無い。詩的なものは随分到る処にあり得るが。

散文「言葉の生理」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

光太郎によれば、造形美術も詩精神、詩魂の表出。彫刻も詩も、彼の中では根源を一つとするものでした。

サンタさんはやっぱりいるのですね。昨年の000クリスマスイヴの日のこのブログで、国書刊行会さん刊行の『中村傳三郎美術評論集成』をご紹介しました。定価27,000円+税の大著ですのでなかなか手が出ないもので、「サンタさんが置いていってくれていないものか」と書いたところ、本当に届きました。

著者の故・中村傳三郎氏のご子息であらせられる中村徹氏がこのブログをご覧下さいまして、それなら、と贈って下さった次第です。深く感謝いたしております。

重さ1.65キログラム、1,000ページ余、刊行までに3年余りかかったというのもうなずけます。目次だけでも10ページ、それも二段組みで(本文も二段組み)です。

編集は、小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員の藤井明氏。氏からご労苦のさまを伺っておりましたが、実物を手にとって、改めてこれは大変だったろうな、と実感させられました。

「彫刻篇」「絵画篇」「工芸篇」に分かれ、国立博物館付属美術研究所(現・国立文化財機構東京文化財研究所)
に勤務されていた故・中村氏が、さまざまな新聞雑誌や展覧会図録などに発表された文章の集成です。ご専門が近代彫刻史だったため、「彫刻篇」の分量がもっとも多く、随所で光太郎や光雲に触れられています。その他、ロダンや荻原守衛、平櫛田中をはじめ、光太郎・光雲ゆかりの彫刻家が一堂に会している感があります。また、ともに光太郎と交流のあった鈴木政夫、土方久功など、一般にはほとんど知られていない彫刻家もしっかり紹介されているのには舌を巻きました。これを読まずして近代日本彫刻史を語るなかれ、という感がしました(当方もまだ読了していませんが(笑))。

なかなか個人では入手しにくいとは存じますが、およそ彫刻に関係する大学さんや美術館さん、それから公共図書館さんなどでは必ず置いてほしいものです。よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

私は美術家としての生活を聊か変へた。もつと変へるであらう。従来の美術家の生き方がだんだん堪へられなくなつて来た。もう自分にはロダン流の、(又従つて日本の九分通りの、或は全部の美術家の、)生活態度が内心の苦悶無しには続けてゆけない。

散文「近状」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

元々展覧会への出品をほとんどしなかった光太郎ですが、さらに、注文を受けて作品を作る、という行為にも疑義を感じ、このような発言をしています。それではいったいどうやって生活して行くんだ、ということになります。結局は、「内心の苦悶」を抱えながら、注文仕事やら光雲の代作や下職(肖像彫刻をやや苦手としていた光雲のための原型制作など)やらを続けて行かざるを得ませんでした。

一昨日、北千住のBUoYさんに観劇に行く前、同じ下町の蔵前に立ちよりました。自宅兼事務所、東京都に隣接する千葉県ですが、千葉でも田舎の方なのでしょっちゅう都内に出るわけではなく、都内に出る時には複数の用事をこなさいと気が済みません(笑)。

向かったのは、東京メトロ蔵前駅近くの榧寺(かやでら)さん。

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戦国時代に創建されたという古刹です。

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江戸後期、葛飾北斎の浮世絵にも描かれています。

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光太郎の父・光雲が、幕末から明治初めに徒弟修行をした、高村東雲の工房が近くにありました。そのため、昭和4年(1929)に刊行された、『光雲懐古談』にもしばしば登場します。

黒船町(くろふねちやう)へ来ると、町(まち)が少し下つて二の町となる。村田の本家(烟管屋)がある。また、榧寺(かやでら)という寺がある。境内に茅が植つてゐた。
(「名高かつた店などの印象」)

何(な)にしろ、今度の火事は変な火事で、蔵前(くらまへ)の人々は、家が残つて荷物が焼けました。此は、荷物を駒形の方へ出した為です。急(きふ)に西風に変つた為に蔵前の家々は残りました。丁度、黒船町(くろふねちやう)の御厩河岸(おんまやがし)で火は止まりました。榧寺の塀や門は焼(や)けて本堂は残(のこ)つてゐた。
(「焼け跡の身惨なはなし」)

吾妻橋は一つの関門で、本所(ほんじよ)一圓(えん)の旗本御家人が彰義隊に加勢(かせい)をする恐れがあるので、此所(こゝ)へ官軍(くわんぐん)の一隊が固めてゐたのと、彰義隊の一部(ぶ)が落ちて来た為一寸小ぜり合(あ)ひがある。市中警戒という名で新徴組の隊士が十七八人榧寺に陣取(ぢんと)つてゐる。異様の風体(ふうてい)をしたものが右往左往してゐるといふ有様(ありさま)でした。
(「上野戦争当時のことなど」)

さて、この榧寺さんの境内に、光雲が原型を作った地蔵尊が露座でおわすという情報を得、拝観に伺った次第です。都内や神奈川県内等に、やはり光雲が原型を作った、多くは鋳銅の仏像が安置されている例は多く、これまでも折を見て拝観して廻っておりました。鎌倉長勝寺さん、横浜で増徳院さん、浅草の浅草寺さん、巣鴨は妙行寺さん、南千住に円通寺さん、駒込大圓寺さん、そして関西では京都の知恩院さんなど。

榧寺さんの地蔵尊はこちら。

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「厄除け地蔵」だそうです。とても優しいお顔でした。

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通常、地蔵尊は、右手に錫杖、左手に宝珠というのがお約束です。こちらのお地蔵様、左手は宝珠を約束通りにお持ちですが、右手は徒手です。どうも、元は手にされていた錫杖が無くなってしまっているのではないかと思いました。それとも、元々徒手で、何らかの印を結ばれているのでしょうか。

特に縁起等は記されていませんでしたが、昭和25年(1950)に安置されたとのこと。昭和25年といえば、光雲は既に亡くなっています。

お寺の方にパンフレットを頂き、お話をさせていただきましたが、詳しい経緯は不明でした。また、木彫原型等もこちらには残っていないとのこと。

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境内には他にもお地蔵様が。

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左上は「飴なめ地蔵尊」。永井荷風の小説に登場するそうです。右上は「お初地蔵尊」。大正期の児童虐待事件の被害者を供養するために奉納されたとのこと。

それから、い000ただいたパンフレットを読んでいて、驚きました。「著名人の墓」という項があり、その中に洋画家の安井曾太郎の名が。光太郎は明治41年(1908)から翌年にかけ、海外留学でパリに滞在していましたが、その際、有島生馬、山下新太郎、津田青楓らとともに、やはりパリにいた留学仲間です。

安井は京都系だった記憶があり(あとで調べてみると確かにそうでした)、こちらに墓があるとは存じませんでした。考えてみれば、故郷に墓があるとは限りませんのであり得る話です。

あいにく香華の持ち合わせがありませんでしたが、光太郎の代参のつもりで手を合わせて参りました。「パリでは大変お世話になりました」と。


他にも、光雲の手になる仏像が露座でましますお寺はいくつかあるようなので、今後も折を見て拝観に廻りたいと存じます。

皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

幾度もう仕上げてしまはうと思つたか知れませんが、その度に何かが私を引き止めて、又その先きの道を歩かせました。私は其の何かに導かれながら年を重ねました。さうしてその歩みは私を駆つていつのまにか彫刻の禁苑らしい処へつれて来ました。私は今ふりかへつてみて、自分がこの胸像をいそいで作り上げてしまはなかつた事に対して自分に感謝します。

散文「成瀬前日本女子大学校長の胸像を作りながら」より
 大正15年(1926) 光太郎44歳

過日も同趣旨の文章から言葉を引きましたが、大正8年(1919)に、智恵子の母校・日本女子大学校に依頼された同校創業者の成瀬仁蔵胸像が、なかなか完成しないことへの釈明の文章から。その長い間にも、自分は進化し続けているので、待ってほしい、という趣旨です。結局、像の完成は昭和8年(1933)でした。

テレビ放映情報です。 

「西郷どん」総集編 第一章「薩摩」

NHK 総合      2018/12/30(日) 13:05~14:05
NHK BSプレミアム 2019/1/2(水)    8:00~9:00

薩摩(鹿児島)の貧しい下級武士の家の生まれた熱血漢、西郷吉之助(鈴木亮平)は、カリスマ藩主・島津斉彬(渡辺謙)と出会い、歴史の表舞台へと飛び出していく。少年から青年へと成長していく立身出世青春編。

出演
鈴木亮平 瑛太 黒木華 桜庭ななみ 北村有起哉 高橋光臣 渡部豪太 堀井新太
増田修一朗 塚地武雅 藤真利子 水野久美 大村崑 北川景子 沢村一樹 小柳ルミ子
青木崇高 鹿賀丈史 平田満 ほか

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先頃、放映が終了したNHKさんの大河ドラマ「西郷どん」。その総集編が、4章に分けて放映されます。

地上波NHK総合さんでは12月30日(日)の午後、合間にニュースや翌日の紅白歌合戦の番宣番組をはさんで、4時間で放映されます。BSプレミアムさんでは、1月2日(水)に、やはり一気に放映されます。

今年1月7日(日)の第一話、明治31年(1898)の、光太郎の父・光雲が主任となって制作された上野の西郷隆盛像除幕式のシーンから始まりました。

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西郷の妻・糸の「うちの旦那さぁはこげな人じゃあいもはん!」の爆弾発言。過日の最終話で、その真意が、西郷隆盛は高い所にいて人から見上げられるような人ではなく、人々と同じ地平を走り回る人だった、という意味であることが明かされました。

総集編でこの除幕式のシーンが入るかどうか、何とも言えませんが、とりあえずご紹介しておきます。


西郷像といえば、12月19日(水)、福岡に本社を置く『西日本新聞』さんの一面コラムで、光雲にからめて触れて下さいました。

「西郷どん」上野の像、なぜ軽装? 背景に政府の思惑

 NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」が終わった。維新の立役者の生涯を描いた物語が面白くないはずはない。舞台は九州、せりふは鹿児島弁とあって、例年になく日曜の夜が楽しみだった
▼ドラマの完結に合わせたように、東京・上野公園にある西郷隆盛像がきのう、除幕から120年を迎えた。恰幅(かっぷく)の良い着流し姿で愛犬を連れた像は、私たちが抱く西郷のイメージそのものだ
▼実は西郷の写真は一枚も残っていなかったという。作者の高村光雲は弟の西郷従道やいとこの大山巌をモデルにした西郷の肖像画を参考に像を制作した
▼完成した像を見た西郷の妻は「主人はこんな人じゃなかった」と落胆したとか。風貌が似てないというより、浴衣のような軽装で人前に出る無礼な人ではなかった、と言いたかったそうだ。鹿児島市・城山にも西郷像が立っている。こちらは直立不動で立派な軍服姿だ
▼故人を顕彰する像は正装が常識。上野の像が軽装になったのには理由がある。西南戦争で反乱士族の首領に担がれた西郷は、政府に弓引く「逆徒」とされた。大日本帝国憲法発布に伴う大赦で名誉回復すると、人気の高い西郷の像を造る計画が持ち上がった
▼だが、政府内には西郷への反発もまだ強く、威厳のある姿の像は許されなかったのだ。姑息(こそく)な思惑は裏目に出たか。「上野の西郷さん」は飾り気のない親しみやすさで、ますます庶民に愛されることになった。
=2018/12/19付 西日本新聞朝刊=


「西郷どん」の放映は終わりますが、この後も、上野の西郷隆盛像は人々に愛され続けていってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

それは本当に亙るものの価値が益進むに従つて、曾て歓迎せられたものも歓迎せられなくなり、曾て味解せられたものも味解せられなくなり、しかも却つて、人間の心の隅々に不滅の光を瀰漫させ、いつしらず人間の美の常識を高め、否定する者の心をも否定せられながら浸潤して止まず、遂に一のクラシツクとなつて人類の一角に常明の燈台となつて聳立するといふ、方程式のやうな方式に善くかなつてゐるからである。

散文「「流星の道」読後」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

この年刊行された、大先輩・与謝野晶子の歌集『流星の道』の書評の一節です。この時期になると、章子の短歌は、もはや『みだれ髪』の頃の鮮烈さを以て世上に受け入れられなくなっていることに対し、上記のように述べています。しかし、「一のクラシツクとなつて人類の一角に常明の燈台となつて聳立する」、ある意味、王道の作品なのだというわけですね。

同じことは、光太郎詩(特に戦後の)、それから建立後しばらく経ってからの西郷隆盛像などにも当てはまるような気がします。

重厚で良質な学術書を多数手がけられている国書刊行会さんの新刊です。

中村傳三郎美術評論集成

2018年11月2日  中村傳三郎著  藤井明編
書刊行会  定価27,000円+税

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目次
 彫刻篇
  第三科(彫塑)
  藤川勇造
  “鏡獅子”と首相 ほか
 絵画篇
  光風会展覚書
  自由美術
  下村観山、土田麦僊、富田渓仙(作品図版解説)ほか
 工芸篇
  推薦文(戸島甲喜)
  集団・版第一〇回展によせる
  現代工芸展をみて ほか
 解説 藤井明
 中村傳三郎著作リスト
 年譜

昭和5年に設立され、戦後、近代日本美術の研究を大きく発展させた東京文化財研究所。同研究所の彫刻部門を担い、日本におけるロダン評価を広めるなど今日の近代日本彫刻史研究の基礎を築いた中村傳三郎の美術論を集大成する。

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中村傳三郎は大正5年(1916)、兵庫出身の美術評論家。光太郎とも交流がありました。亡くなる3年前の平成3年(1991)、文彩社さんから 『明治の彫塑 「像ヲ作ル術」以後』という好著が出版されましたが、それ以外に研究紀要や美術雑誌などに発表したものの集成です。おそらく光太郎や、その父・光雲に触れられていると思われます。

「思われます」というのは、未入手なもので……。定価27,000円+税というところで二の足を踏んでいます。

編集に当たられたのは、このブログにたびたびご登場いただいている、小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員の藤井明氏。ことによると「献呈」の紙片が挟まって送られてくるかな、と不埒なことを考えていたのですが、あまちゃんだったようです(笑)。


いったいに、国書刊行会さんの刊行物はそうでして、今年2月には田中修二氏編『近代日本彫刻史』という、これまた重厚な書籍が出ています。

近代日本彫刻史

2018年2月21日 田中修二著 国書刊行会 定価14,000円+税

彫刻という領域を工芸的な造形なども含めて広く考察し、江戸時代から明治期、および昭和戦前・戦中期から戦後期という大きな時代の変化を連続的にとらえる視点を踏襲しつつ、個々の作家や作品についての記述を充実。近代日本彫刻史の通史として先例のない、包括的かつ学術的な書籍。今後の近代日本彫刻史研究における基本文献になるとともに、より広く、日本美術史や西洋の彫刻史を研究するうえでの必須参考文献。

目次
第一章 江戸から明治へ
 日本彫刻史のつながり 彫刻の境界 江戸時代の彫刻とは 江戸時代の仏像
 名工、名匠たち
 西洋彫刻との出会い 西洋人にとっての日本と彫刻 
 コラム①『光雲懐古談』に見る江戸の彫刻 
第二章 彫刻のはじまり 
 破壊と形成 「像」から「彫刻」へ 職人から彫刻家へ 工部美術学校の開校
 工部美術学校の教育と最初の洋風彫刻家たち 「彫刻」の成立 表現技法の交流
 コラム②彫刻と解剖学
第三章 「彫塑」の時代 
 東京美術学校 明治二〇年代の展開 銅像の時代 銅像、仏像、置物、人形
 「彫刻」と「彫塑」
 転換期としての明治三〇年代 文展へ 
 コラム③アール・ヌーヴォーと日本彫刻 
第四章 文展とロダニズム 
 明治四〇年代におけるそれぞれの世代 試みの場としての文展 文展の「進歩」
 彫刻を見る速度と距離 
「ロダン彫刻入京記」の時間と時代
 ロダニズムと近代日本彫刻史観 再興日本美術院彫刻部の創設
 
 第一次世界大戦とロダンの死 コラム④彫刻を支える人たち 
第五章 大正期における展開 
 両大戦間期の西洋彫刻 帝展、院展、二科展の彫刻 
 発表の場の多様化―東台彫塑会と曠原社など
 彫刻を語る言葉
 「古寺巡礼」の時代 彫刻家の生活 彫刻の普及と「地方」 関東大震災以後の彫刻
 コラム⑤描く彫刻家 
第六章 華やかな活気と戦争への道程 
 昭和期のはじまりと構造社 彫刻と建築の新たな関係 昭和前期における工芸の展開
 プロレタリア彫刻の動向と帝展彫刻の位置 在野展の興隆
 近代・清楚・古代―二科会、国画会の彫刻など 近代日本彫刻の歴史化
 「地方」への拡がり
 コラム⑥画家と彫刻 
第七章 戦争から戦後へ 
 帝展改組と彫刻界 戦時下における彫刻の主題 
 遠く離れたものへ―古典主義、植民地、シュルレアリスム 抽象とモニュメント
 戦時下の彫刻の位置
 戦争と彫刻と敗戦 戦後彫刻の出発点 平和の象徴としての彫刻
 コラム⑦近代日本彫刻とアジア 
第八章 戦後彫刻の展開 
 セメントと空と花と 在野団体の隆盛と抽象彫刻 具象表現の追求とその思想
 欧米からの影響
 「近代日本彫刻史」の成立 マネキンと怪獣 「彫刻」の変貌
 コラム⑧木彫表現の拡がり 
第九章 現代の彫刻へ 
 ネオ・ダダと読売アンデパンダン展 グループ展と団体展 画廊の空間
 彫刻を展示する場所
 新たな素材、技法、表現への試み 彫刻教育の様相
 「彫刻」への問いかけ
 彫刻の「環境」―「もの派」の誕生 大阪万博とその前後
 コラム⑨彫刻の自由──結びにかえて
年表 文献一覧 掲載図版一覧 索引

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さらに、やはり田中氏編で平成22年(2010)から同25年(2013)にかけて刊行された『近代日本彫刻集成』全三巻の重版も、今年出ました。 

近代日本彫刻集成

 幕末・明治編    2010/09/16 定価45,000円+税
 明治後期・大正編 2012/01/31 定価47,000円+税
 昭和前期編     2013/05/29 定価53,000円+税

カラー図版300点、モノクロ図版600点の圧倒的な作品写真、詳細な作品・作家解説、歴史的文献を再録し、近代日本彫刻が辿った歴史に沿って、内容をわかりやすく整理した初の本格的研究書。既存の近代日本彫刻史においては取り上げられることの少なかった作品や戦争で失われた銅像などの貴重な画像も多数掲載し、「近代日本彫刻」の全体像を提示する集成。
 
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もうこうなると、個人が購入するものではないのかな、という気もしますが……。


今日はクリスマスイヴ。明日の朝、眼が醒めたらこれら5冊、サンタさんが置いていってくれていないものかと、またまた不埒なことを考えています(笑)。


【折々のことば・光太郎】

自分が草で言へば路傍の雑草、木で言へば薪になる雑木、水で言へば地中の泉である事は既に知つてゐます。しかし此の大きな自然の中では萬物が自己の生活を十全に開展せしめ進展せしめて、互に其の同胞と呼びかはす事を許されてゐます。

散文「「一隅の卓」より 二」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

既に東京都心で暮らしていた壮年期から、自己も自然の一部、と、思い定めていた光太郎。たびたび北海道や東北の太平洋岸、或いは山間の温泉地などへの移住を夢見ていましたが、あくまで夢。約20年後、実際に花巻郊外の山村に落ち着くことになるとは、思っていなかったでしょう。

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