地方公共団体の広報誌から2件。
まずは智恵子の故郷・福島県二本松市の『広報にほんまつ』今月号。表紙で先月15日に行われた安達太良山の山開きを大きく取り上げています。
光太郎詩「あどけない話」由来の「ほんとの空」の語もちゃんと。
他のページでもう1箇所、「ほんとの空」の語が使われていました。
平成27年(2015)に作られた「ほんとの空体操」について、ちらっと言及されています。
「ほんとの空体操」については、以下をご参照下さい。
『広報にほんまつ』平成27年10月号。
『佐賀新聞』「有明抄」/『福島民友』「朝礼で「ほんとの空体操」。
『広報にほんまつ』No.123 平成28年2月号「ほんとの空体操で元気に」。
二本松市「ほんとの空体操」。
続いて、栃木県那須町の『広報那須』、先月号です。同町出身で、光太郎や宮沢賢治と深い交流のあった佐藤隆房が取り上げられています。
昭和24年(1949)、隆房が故郷・那須町の、広報にも記述がある喰初寺に、父・房之助を顕彰するため、房之助作の短歌を刻んだ歌碑を建立しました。その揮毫を光太郎に依頼し、光太郎もそれに応じて筆を揮いました。光太郎本人の作ではありませんが、墓碑等を除き、光太郎の筆跡が刻まれた碑の中では最も古いものです。右画像は拓本です。
30年ほど前、この碑を見に現地に行ったのですが、ありませんでした。聞けば、新しく鐘楼を建立した際に「邪魔だから」撤去してしまったとのこと。唖然としました。
若くして那須を離れた隆房はともかく、父・房之助は広報にもあるとおり、「芦野・湯本・馬頭・親園の小学校で教壇に立ち、退職後は湯本で常盤屋を経営するなど、那須地区の教育、那須温泉の発展に貢献した人物」なのに、です。
幸い、光太郎の書いた書自体は花巻の佐藤家に軸装されて残っていますが……。
広報に載ったのを機に、那須でも隆房、そして光太郎の足跡(確認出来ている限り、大正9年=1920と昭和5年=1930の2回、訪れています)などを掘り起こして欲しいものですね。
【折々のことば・光太郎】
午前モデル、三尺五寸のを始める、
「三尺五寸の」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のための中型試作です。
完成像が七尺ということで、実物二分の一という想定で作られました。これより前に取り組んでいた小型試作は完成像と同じく2体作られましたが、中型試作及び完成像は1体のみでした。
この中型試作の顔が、智恵子の顔に最もよく似ていると言われています。
中型試作の完成は1ヶ月半後の2月27日。光太郎にしては異常に速いペースでした。やはり健康不安が背景にあったのでしょう。
まずは智恵子の故郷・福島県二本松市の『広報にほんまつ』今月号。表紙で先月15日に行われた安達太良山の山開きを大きく取り上げています。
光太郎詩「あどけない話」由来の「ほんとの空」の語もちゃんと。
他のページでもう1箇所、「ほんとの空」の語が使われていました。
平成27年(2015)に作られた「ほんとの空体操」について、ちらっと言及されています。
「ほんとの空体操」については、以下をご参照下さい。
『広報にほんまつ』平成27年10月号。
『佐賀新聞』「有明抄」/『福島民友』「朝礼で「ほんとの空体操」。
『広報にほんまつ』No.123 平成28年2月号「ほんとの空体操で元気に」。
二本松市「ほんとの空体操」。
続いて、栃木県那須町の『広報那須』、先月号です。同町出身で、光太郎や宮沢賢治と深い交流のあった佐藤隆房が取り上げられています。
那須の歴史 再発見 ! 那須町と近現代の人々vol.05 佐藤隆房 (1890 -1981)
5月号は湯本出身の医者、佐藤隆房(たかふさ)について紹介します。
佐藤隆房は、明治23年、那須村湯本の佐藤房之助の長男として誕生しました。父の房之助は寄居出身で、芦野・湯本・馬頭・親園の小学校で教壇に立ち、退職後は湯本で常盤屋を経営するなど、那須地区の教育、那須温泉の発展に貢献した人物です。
隆房は、湯本尋常小学校、芦野尋常高等小学校、大田原中学校(後に川越中学校に編入)、千葉医科専門学校(現・千葉大学医学部)を卒業すると、大正6年、現在の岩手県花巻市に「佐藤外科医院」を開業します。より大きな病院の必要性を地元政財界の要人に働きかけると、同12年「花巻共立病院」を創設し、院長に就任。同14年には「花巻産婆看護学校」を創設し、5地域医療の近代化に貢献しました。
また、隆房は宮沢賢治や高村光太郎との交流が知られています。隆房は宮沢賢治最後の主治医であり、賢治の詩「S博士に」に登場するなど、賢治の作品に多数登場します。また、アジア太平洋戦争中には、高村光太郎を自宅の居室に疎開させ、親交を持ちました。戦後、隆房は自ら佐藤郷志館(現・桜地人館)を開館し、賢治や光太郎らの資料や作品を展示するなど彼らの功績を現在まで伝えています。
隆房は故郷への社会貢献も行っています。昭和10年、喰初寺再興の発起人となり、寺の再興を果たすと、昭和40年には、那須小学校創立90周年式典において、卒業生として記念講演を行い、多額の寄付をしたと伝えられています。
故郷への思いを持ちつつ、宮沢賢治や高村光太郎を支えた佐藤隆房。残念ながら隆房を知る人は那須町民より花巻市民の方が多いでしょう。御用邸だけでなく、町民が隆房を入口として地域との交流を深め、文化や経済の振興を図ることを期待してやみません。
問合せ:那須歴史探訪館 【電話】0287-74-7007
「残念ながら隆房を知る人は那須町民より花巻市民の方が多いでしょう。」その通りですね。象徴的な出来事がありました。昭和24年(1949)、隆房が故郷・那須町の、広報にも記述がある喰初寺に、父・房之助を顕彰するため、房之助作の短歌を刻んだ歌碑を建立しました。その揮毫を光太郎に依頼し、光太郎もそれに応じて筆を揮いました。光太郎本人の作ではありませんが、墓碑等を除き、光太郎の筆跡が刻まれた碑の中では最も古いものです。右画像は拓本です。
30年ほど前、この碑を見に現地に行ったのですが、ありませんでした。聞けば、新しく鐘楼を建立した際に「邪魔だから」撤去してしまったとのこと。唖然としました。
若くして那須を離れた隆房はともかく、父・房之助は広報にもあるとおり、「芦野・湯本・馬頭・親園の小学校で教壇に立ち、退職後は湯本で常盤屋を経営するなど、那須地区の教育、那須温泉の発展に貢献した人物」なのに、です。
幸い、光太郎の書いた書自体は花巻の佐藤家に軸装されて残っていますが……。
広報に載ったのを機に、那須でも隆房、そして光太郎の足跡(確認出来ている限り、大正9年=1920と昭和5年=1930の2回、訪れています)などを掘り起こして欲しいものですね。
【折々のことば・光太郎】
午前モデル、三尺五寸のを始める、
昭和28年(1953)1月12日の日記より 光太郎71歳
完成像が七尺ということで、実物二分の一という想定で作られました。これより前に取り組んでいた小型試作は完成像と同じく2体作られましたが、中型試作及び完成像は1体のみでした。
この中型試作の顔が、智恵子の顔に最もよく似ていると言われています。
中型試作の完成は1ヶ月半後の2月27日。光太郎にしては異常に速いペースでした。やはり健康不安が背景にあったのでしょう。