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1ヶ月程前のことになりますが、茨城県筑西(ちくせい)市の板谷波山記念館さんにお邪魔して参りました。ネタが無くなってきたらレポートしようと思って約1ヶ月。ネタが無くなってきましたのでレポートします(笑)。
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陶芸家の板谷波山は明治5年(1872)、現・筑西市である真壁郡下館町に生まれました。光太郎より11歳の年長です。

筑西市の「筑」、板谷の号「波山」は、ともにこの地の人々のソウルマウンテン・筑波山に由来します。
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後に陶芸家となる波山ですが、最初は東京美術学校の彫刻科に入学しました。明治22年(1889)のことです。当時は光太郎の父・光雲が主任教授で、その教えを受けています。
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上記画像は、昨年、同じ茨城県の東京藝術大学大学美術館取手館さんで開催された「藝大取手コレクション展 2025」出品作。波山在学中のものです。

記念館さんにはこの手の木彫や、師・光雲の木彫なども所蔵されているので、そのあたりが展示されているといいなと思いつつ、訪問した次第です。

千葉の自宅兼事務所から愛車を駆って2時間ほどで、筑西市の旧下館地区。いい感じに古民家等が軒を連ねる一角でした。
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こちらが記念館。
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門前に、彫刻家・吉田三郎作の手になるブロンズの波山像が据えられていましたが、現在は横行する金属盗難への対策として屋内にしまわれているそうです。嘆かわしい世の中となったもので……。
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受付を済ませ、順路としてはまず波山生家。
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開放的で涼しげです。

そのはす向かいに作品の展示棟。
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内部も特に撮影禁止というわけではありませんでした。
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波山の代名詞とも言える葆光彩磁の作品。
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年譜。光雲の名も。
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波山は明治期、11歳下の光太郎との関わりもありましたが、光太郎の名は年譜に見当たりませんでした。

具体的には明治27年(1894)の項で「美校受験者のための開成予備校で彫刻を、攻玉社中学校で図画を教える」という点に関して。光太郎は明治29年(1896)に下谷高等小学校を卒業し、翌年に東京美術学校予科に入学しますが、その間、旧制中学校の課程を学ぶために開成予備校に通っています。

 私は甚だ変則な就学過程を経て来てゐて、小学校には五六歳で入学、尋常科、高等科を卒業すると、本郷森川町に日本画家島田先生が経営して居られた開成予備校といふところに入学、ここを卒業して無試験で東京美術学校彫刻科に入学した。(「父との関係」 昭和29年=1954)

 わたしの頃は、中学校というものがなかつた。その代り予備校というものがあつた。また、美術学校というものは特殊な学校だから、ただの中学校ではなかつた。美術学校に入るために特別の美術的教育がいるものだから、わたしは、そのような予備校に入学した。開成予備校という名前で、美術学校の古い卒業生が経営していて、当時の美校志望者は皆その学校へ入ったものである。そこで普通の中学の課程を学んだ訳だが、やはり其処も二年早く出た。(「わたしの青銅時代」 昭和29年=1954)

以上は光太郎最晩年の回想ですが、どうも記憶が混乱しているようです。美校へ入学するための特別な美術教育を施していたのは、「共立美術学館」。本郷区森川町にありました。
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それに対し「開成予備校」は神田淡路町。特に美術専門とは謳っていません。

推測ですが、光太郎、昼間は「共立美術学館」で美術専門教育を受け、夜間に「開成予備校」でその他の学科の勉強をしていたのではないかと思われます。「開成予備校」には夜間部がありました。おそらく光太郎以外の学生たちも皆そうしていたのではないかと思われます。

波山が勤務していたのは「開成予備校」。その頃の波山を光太郎はこう回想しています。

 板谷さんは美校の何回目かの彫刻科の卒業生で、その頃は彫刻が専門だった。あの人は非常な美男の上にお洒落で、元禄の着物を着て、芝居に出てくるような服装(なり)をして歩いていたが、当時予備校の先生もしていた。(「わたしの青銅時代」 昭和29年=1954)

波山、茨城の田舎っぺでしたが(笑)、外見的には伊達男だったようです。

そして波山はその後、石川県工業学校に赴任、同校で陶磁科を担当することとなり、そこから陶芸家への道に進むこととなります。明治36年(1903)には職を辞して再上京。田端に窯を構えて「波山」と号し、以後、陶芸一筋。ちなみに当時の田端は「田端文士村」と称され、芥川龍之介をはじめ様々な分野の芸術家の集う一種の梁山泊状態でした。光太郎と縁が深かったところでは彫刻家・石井鶴三、画家の村山槐多、詩人で作家の室生犀星、ついでに言うと智恵子がらみで平塚らいてうなど。波山も彼の地で様々な文人達と交流があったのでしょう。

その田端の窯が再現されていました。
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陶芸家あるあるの、失敗作は叩き壊すというステレオタイプのイメージは、波山が元祖だそうです。
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展示棟にも毀した器の破片が並んでいました。
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窯場のモニターには、映画「HAZAN」のダイジェスト。
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波山は榎木孝明さん、妻・まる役は智恵子を演じたこともおありの南果歩さんでした。他に実在の人物では岡倉天心役に益岡徹さん、新納忠之介を長谷川初範さんが演じていらっしゃいました。光雲や光太郎は登場しなかったようです。

残念ながら、木彫系の展示がありませんでしたが、展示棟は膨大な収蔵品をいろいろ入れ替えながらやっているようなので、もし彫刻に特化するような展示でも為されたらまた行ってみようかと思っております。

陶芸等にご興味おありの方、ぜひ足をお運び下さい。

【高村光太郎書誌】

詩華集 15 『現代名詩選』

大正14年(1925)11月5日 アルス 北原白秋/三木羅風/川路柳虹編
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収録作家等
 序 島崎藤村
 島崎藤村 土井晩翠 与謝野寛 薄田泣菫 蒲原有明 横瀬夜雨 伊良子清白 野口米次郎
 前田林外 児玉花外 小牧暮潮 窪田空穂 澤村胡夷 溝口白羊 秋元廬風 佐藤清
 小林愛雄 相馬御風 与謝野晶子 北原白秋 三木羅風 野口雨情 木下杢太郎 人見東明
 川路柳虹 服部嘉香 森川葵村 有本芳水 加藤介春 高村光太郎 安成二郎 福田夕咲
 福士幸次郎 竹友藻風 長尾豊 生田春月 正富汪洋 室生犀星 萩原朔太郎 大手拓次
 富田砕花 白鳥省吾 柳沢健 山宮允 西條八十 日夏耿之介 堀口大学 福田正夫
 前田鉄之助 千家元麿 百田宗治 生田花世 山田邦子 斎藤勇 藤森秀夫 佐藤惣之助
 岩佐頼太郎 矢部季 霜田史光 多田不二 竹内勝太郎 金子光晴 井上康文 中西悟堂
 米沢順子 宮崎丈二 澤ゆき子 深尾須磨子 尾崎喜八 大藤治郎 大木篤夫 松原至大
 三石勝五郎 福原清 陶山篤太郎 小方又星
 後記 北原白秋

600ページ超の厚冊。光太郎詩は「寂寥」「寂しき道」「樹下の二人」「あの詩人」です。

東京藝術大学大学美術館取手館さんで開催中の「藝大取手コレクション展 2025」につき、地元紙『茨城新聞』さんが光太郎の名を出して報道して下さいました。

新収蔵棟完成し展覧会 東京芸大美術館取手館 自画像など50点 スペース不足解消 30日まで001

 東京芸術大の大学美術館取手館(茨城県取手市小文間)の多目的ホールで30日まで、収蔵作品を展示する「藝大取手コレクション展2025」が開かれている。卒業制作や資料など約50点が並ぶ。隣に新収蔵棟が完成し、保管スペース不足が解消されたことで実現した。同大と市が主催した。
 1994年に開館した取手館は開学当初からの卒業生の自画像はじめ、優秀な卒業制作など大学買い上げの作品や資料などを収蔵している。だが、保管場所が不足し、展示を想定した多目的ホールも収蔵品で埋まり、一般公開がほとんどできなかった。渡り廊下で結ぶ新収蔵棟が昨年完成してスペースが広がり、取手館の30周年も記念して今回の展示が実現した。
 取手館で収蔵する約1万3000件の中から厳選した作品を公開している。自画像約7000件のうち、明治から現在までの24点をはじめ、卒業・修了作品の絵や造形、先端芸術をそろえる。同大前身の東京美術学校の校長だった岡倉天心使用の椅子や高村光太郎の彫刻などの資料も見ることができる。
 大内伸輔特任准教授は「これまでなかなか公開できなかった貴重なコレクションを見てほしい」と話す。
 観覧無料。時間は午前10時から午後5時まで(入館は午後4時半まで)。25日は休館。
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画像も上げていただいた光太郎作品は、明治35年(1902)の彫刻科卒業制作「獅子吼」石膏原型。腕まくりをして憤然と立つ日蓮をモチーフとしています。調べてみましたところ、取手キャンパスの収蔵棟は主に卒業制作を保管しているということで、まさにその対象でした。

ところで同展につき最初にご紹介した際、うっかり関連行事について書き忘れていたことに気づきました。すでに予約で一杯かもしれませんが、一応ご紹介しておきます。

藝大取手コレクション展2025 関連プログラム②:対話型鑑賞プログラム

藝大コレクションの作品を囲み、アート・コミュニケータ「トリばァ」とともに参加者同士の自由な対話を通じて、作品の持つ新たな魅力や、ご自身の内面にある気づきを発見する、豊かな鑑賞体験をお届けします。どうぞお気軽にご参加ください。

 日時 11月29日(土)11:00-12:00・14:00-15:00  11月30日(日)11:00-12:00・14:00-15:00
 会場 東京藝術大学大学美術館取手館 多目的ホール
 各回 定員12名
 ※以下のサイトより事前予約が必要です。

 アクセス 東京藝術大学取手キャンパス大学美術館取手館(茨城県取手市小文間5000)
 JR常磐線・関東鉄道常総線取手駅東口前2番乗り場から大利根交通バスで約15分、
 「東京藝術大学」または「東京芸大前」下車 徒歩5分
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【折々のことば・光太郎】

信仰無ければ、美は忘却される。

光太郎訳 ロダン「続ロダンの言葉 「本寺」より(手記)」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

我々日本人の多くは欧米の人々のようにキリスト教への篤い信仰というようなバックボーンを持ちませんが、決して「美」を忘却した民族ではないと思います。個々が宗教心を強く持たなくとも、身近に鎮守の杜やちょっとしたお堂などがあったりする環境が、民族全体として敬虔な心持ちを保っているように思われます。

昨日は茨城県取手市にて「藝大取手コレクション展 2025」を拝観して参りました。

会場は東京藝術大学大学美術館取手館さん。
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同館の開館30周年記念、さらに隣接して大きな収蔵庫が竣工した記念を兼ねて、ということでした。
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出品目録。
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無料のパンフレット。A3判両面印刷二つ折りです。
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三章構成で、入ってすぐは藝大さん名物の一つ、卒業制作の自画像。大正14年(1925)、昭和50年(1975)、平成5年(1993)、そして今年と、四つの元号にまたがるものでした。

続いても卒業/修了制作で、古いものは昭和35年(1960)の一色邦彦(高村光太郎賞受賞者)、同59年の千住博、それ以外は平成・令和のものでした。
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そして最も見たかったのが、第三章「過去に学ぶ:未来へ繋ぐ教育資料」。明治/大正のものが中心です。

こちらに光太郎の卒業制作「獅子吼」(明治35年=1902)の石膏像。
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360°見て廻れるように展示して下さっていました。ありがたし。
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彫刻科のうちの木彫専攻で入学した光太郎ですが、在学中に粘土や石膏を使ったモデリングの授業も始まり(塑造専攻も設けられました)、転籍はしなかったものの、卒業制作はこの塑像でした。
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台座に彫られた「獅子吼」の文字。若き光太郎の気概がこういうところにも見て取れます。

これを拝見するのは平成29年(2017)に上野キャンパスで開催された「東京藝術大学創立130周年記念特別展  藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!」以来2度目(ブロンズは数知れず)でしたが、その生々しさに圧倒されます。

石膏原型といえば、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型も同大に所蔵されています。そちらは見たことが無く、またの機会にはぜひ出品していただきたいものだと思いました。

他に、ともに光太郎の父・光雲に学んだいわば光太郎の兄弟弟子、新納忠之介と板谷波山のレリーフ。
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新納は仏像修復、板谷は陶芸と、それぞれ彫刻とは異なる道で名を成しましたが、それぞれそのバックボーンには光雲に学んだ木彫のメチエあってこそだったんだなと改めて思いました。

教材としての手板の手本。石膏かと思ったら大理石でした。
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もしかすると光雲の手になるものかもしれません。明治26年(1893)の時点では、彫刻科の教授陣は光雲、竹内久一、石川光明、山田鬼斎、林美雲、後藤貞行、藤田文蔵でした。また、この頃には石彫教場も存在し、明治27年(1894)には俵光石が助手に雇われたと記録にあります。

光太郎入学時の校長だった岡倉天心が使っていたと伝わる椅子。
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上野キャンパスに鎮座する平櫛田中作の天心像が腰かけているのもこの椅子だそうで。

「日本最古のオルガン」。
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東京音楽学校との関連もありますが、外装の部分が才田光則という指物師の手になることにも注目されています。

こんな感じで、それほど出品点数は多くないものの、実に興味深い展示でした。同大には膨大な数の歴史的に貴重な収蔵品が存在しますので、今後も手を変え品を変え、この手の展示が為されることを期待します。

というわけで、ぜひ足をお運び下さい。会期は今月いっぱいです。

【折々のことば・光太郎】

芸術に於て、われわれは何を生命と呼ぶか。君達のすべての感覚を通して君達に話しかけるものの事だ。


光太郎訳 ロダン「ロダン手記 芸術家の一日」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

120年以上経った「獅子吼」からも「生命」を確かに感じました。

フライヤーに光太郎作品をメインで使っていただきました。

取手収蔵棟竣工記念・取手館開館30周年記念 藝大取手コレクション展 2025

期 日 : 2025年11月13日(木)~11月30日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館取手館 茨城県取手市小文間5000
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 11月17日(月)、18日(火)、25(火)
料 金 : 無料

 東京藝術大学大学美術館取手館は、昨年で開館30周年を迎えました。さらに、未来の学生たちの作品を十分に保管できるスペースを持った取手収蔵棟が、令和6年(2024)に竣工いたしました。これを記念し、取手市と共催で「藝大取手コレクション展 2025」を開催いたします。
 取手館ならびに取手収蔵棟には、約13,000件の作品が収蔵されています。その多くは明治から現代に至るまでの、本学で研鑽を積み卒業していった学生たちの作品です。一方で、明治時代に納入されたデッサン用の石膏像や古墳時代の埴輪といった、後進育成のために収集された教育資料もまた、取手における藝大コレクションの特色の一つです。
 そこで、本展では「自画像:1925→2025」、「卒業・修了制作:学びの集大成」、「過去に学ぶ:未来へ繋ぐ教育資料」の3つのセクションから、当館収蔵品の粋と魅力をご紹介いたします。まもなく創立140周年を迎える本学の、長きにわたる学びと教育の結晶をご堪能ください。
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光太郎の母校である上野の東京藝術大学さん、平成3年(1991)に茨城県取手市の郊外に取手キャンパスを開設、大学美術館さんの分館も作られ、昨年で30周年だそうです。それを記念しての展覧会で、収蔵品の一部が展示されます。

光太郎作品は、「卒業・修了制作:学びの集大成」のセクションで、明治35年(1902)、東京美術学校彫刻科の卒業制作として作られた「獅子吼」の石膏原型。これから型を取ってブロンズに鋳造したものが各地に存在しますが、その大元です。光太郎はこの形で卒業制作として提出しました。

昨今、ブロンズ彫刻の石膏原型に注目する展示がちょっとした流行りです。光太郎の親友だった碌山荻原守衛の個人美術館・信州安曇野の碌山美術館さんでは、平成30年(2018)に「彫刻家 荻原守衛 -石膏原型に彫刻の生命を観る-」という展示もなさいました。

石膏原型とブロンズ、結局は同じ形なのですが、型抜きや鋳造の過程などで、石膏原型にあった細かな部分がわからなくなってしまうこともあり、やはり石膏原型の方が作者の意図をよく表しているところがあります。

まぁ、それを言うと、石膏原型よりもその前の段階の粘土原型の方が、ということになりますが、粘土原型は通常、石膏に取る際に破壊されてしまいますので……。

「獅子吼」の石膏原型は、上野の大学美術館さんで開催された「東京藝術大学創立130周年記念特別展  藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!」(平成29年=2017)の際に拝見しました。その時は石膏原型とブロンズとが並べて展示されていて、見比べられるようになっていました。
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今回は石膏原型のみの出展ではないかと思われますが、経巻を擲って憤然とした表情で立つ日蓮の姿、生々しく表現されています。

また、取手市内には、光太郎の足跡があちこちに残されています。また、今回の会場に近い明星院さんという寺院そばの共同墓地には、光太郎が揮毫した墓石も残っていることを数年前に発見しました。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

画家諸君。やはり現実を奥行で観察せよ。例へば、ラフワエルの画いた肖像を見よ。此の大家は一人の人物を正面から描出する時、胸を斜めに奥まらせる。さうやつて彼は第三伸張(デマンシヨン)の幻覚を与へる。


光太郎訳 ロダン「若き芸術家達に(遺稿)」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

昨日のこの項でご紹介した「彫刻家諸君」で始まる一節を対を為す部分です。言っていることはほぼ同じです。

「第三伸張(デマンシヨン)」は、いわゆる「3D」ですね。「3D」の「D」は「dimensions」の「D」。「dimensions」に光太郎は「デマンシヨン」とルビを振り「第三伸張」と漢語に翻訳していますが、大正期に既に「3D」に近い語が使われていたというのは驚きでした。






茨城県から演劇公演の情報です。

百景社アトリエ公演2025『売り言葉』

期 日 : 2025年4月26日(土)~4月29日(火・祝)
会 場 : 百景社アトリエ 茨城県土浦市真鍋3-10-18
時 間 : 4月26日(土)14:00 4月27日(日)13:00 / 17:00
      4月28日(月)19:00 4月29日(火・祝)14:00 
料 金 : 一般:3,500円 高校生以下:1,000円

彫刻家であり詩人でもあった高村光太郎が、妻・智恵子のことを綴った『智恵子抄』――純愛詩集として知られたこの作品を題材として、劇作家・野田秀樹が"智恵子"側の目線から描いたのが「売り言葉」です。一人芝居として書かれたこの戯曲を、百景社の山本晃子、鬼頭愛に加え、久保庭尚子を客演に迎えて、女優3人で上演します。百景社の3年ぶりのアトリエ公演です。
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野田秀樹氏脚本による演劇「売り言葉」。初演は平成14年(2002)、南青山スパイラルホールさんで智恵子役・大竹しのぶさんによる一人芝居でした。翌年、野田氏の『二十一世紀最初の戯曲集』(新潮社)に収められ、その後プロアマ問わず多くの劇団さんや個人の方による公演が全国で行われています。確認出来ているかぎり昨年は新宿区の雑遊さんで「平体まひろ ひとり芝居『売り言葉』」公演があり、今年に入ってからも兵庫県姫路市で劇団プロデュース・Fさんの「第76回アトリエ公演 売り言葉」が上演されました。

大竹しのぶさんによる初演時に忠実に一人芝居で行われる場合と、複数の役者さんで分担される場合と両方がありますが、今回は後者です。どのように役分けをされるのか、そのあたりが演出家の方の工夫の見せどころという感じです。

「売り言葉」公演を紹介するたびに書いていますが、野田氏の脚本、この手のものの中では光太郎ディスり度が最も高く、上演を観られた方のSNS等拝見すると「光太郎が嫌いになった」という御意見も目立ちます。ただ、光太郎のモラハラ的な部分も確かに前面に押し出されていますが、智恵子自身が「かくあらねば」という自縄自縛に陥り、自業自得という描き方にもなっています。まぁ、そこに気づけなかった、或いは気づいていても的確に対応しなかった光太郎、というふうにも捉えられますが……。

とにかく光太郎智恵子の世界、単なる純愛の物語というわけではありませんし、単純に無理解だった夫の引き起こした悲劇とも言えません。そのあたりが充分に表現されることを祈念いたします。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

このほどはリンゴ二箱の御恵贈をうけ、まことにありがたく存じます、東京に来てみると、まるで比較にならぬほど二六園のリンゴは美味で、皆に喜ばれます。皆驚嘆してゐます。

昭和27年(1952)10月29日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため花巻郊外旧太田村から上京したのが10月12日。かつて光太郎の花巻疎開やその後の生活に援助を惜しまなかった佐藤隆房医師からリンゴが中野のアトリエに届きました。

「二六圓」は自宅のかたわらに佐藤が作ったリンゴ園。太平洋戦争開戦前、日中戦争は既に泥沼化していた時期、佐藤が院長を務めていた総合花巻病院で汲み取った入院患者などの糞尿をどうするか、世の中はもはやそういったこともきちんと対応出来なくなっており、苦肉の策として肥料にするために作りました。佐藤の随筆集『非常の時』(昭和57年=1982)に記述がありますが、ただの畑での野菜類だとあまり大量の肥料は逆に毒になるところ、リンゴならそれが防げるのだそうで。「二六」は昭和15年(1940)のいわゆる皇紀2600年にちなむ命名です。

実際、岩手のリンゴ、関東のスーパーなどで買うものとは全く別物です。当方も冬場に花巻に行く際はかならず道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで箱買いし宅配便で自宅に発送、さらに東北新幹線新花巻駅前の山猫軒さんで袋詰めのものを購入して帰ります。

一昨日、糟糠の妻とともに茨城は筑波山に行っておりました。と言っても、登山はせず、中腹の筑波山神社さんへの参拝と、近くの筑波山梅林さんでの観梅でした。

まずは筑波山神社さん。何だかんだで5回目くらいの参拝でしたが、以前には得ていなかった情報がありまして……。

昭和4年(1929)、水戸運輸事務所刊行の『名所案内』という書籍。この中に光太郎の父・光雲の名が。曰く「拝殿正面の扁額「筑波神社」は故小松宮彰仁親王の御揮毫、其の彫刻は高村光雲の作である」。
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寺社の扁額を光雲が手がけた例は、足立区の西新井大師五智山遍照院總持寺さんにもあり、今年1月に拝見に伺いました。筑波にもあるのか、という感じでした。

寺院の山門にあたる随神門。
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寺院の山門ですと左右には主に阿吽の金剛力士(仁王尊)が配されていますが、神社ですのでご祭神を守る別の神さまの像が一般的です。こちらでは日本武尊(やまとたけるのみこと)、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)。ご祭神である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)/伊弉冉尊(いざなみのみこと)のご子孫で、共に武神ですね。像は木像ではなく鋳銅のように見えました。
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そして拝殿。
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ところが扁額が見あたりません。「うーん」でした。

考えられる可能性としては、暴風雨等で損壊し撤去されたか、保存のため拝殿内部に掲げられているか、あるいは上記『名所案内』の記述がガセだったか、そんなところでしょうか。

先ほどの随神門の方には扁額が掛かっています。ただ、新しい感じです。
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事情をご存じの方、ご教示いただけると幸いです。

拝殿の向かって右には、摂社的な日枝神社さん、春日神社さん、厳島神社さん。こちらは素朴な木彫がプリミティブでいい感じでした。
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かたわらには紅梅も美しく。

再び随神門をくぐって石段を下りると、こんな碑が。往路では脇道から入ったので気づきませんでした。
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日清・日露戦争時の海軍士官、のちに中将まで上り詰め、他に学習院御用掛や宮中顧問官なども務めた小笠原長生の揮毫です。小笠原と言えば光雲と親しい間柄で、東郷平八郎と光雲を仲介したりもし、光雲についての回想も数多く残している人物ですので「ありゃま」という感じでした。
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左から、文京区大圓寺の服部太元和尚、光雲、東郷、そして小笠原です。

この後、神社から2キロほど離れた筑波山梅林へ。
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少し観梅には時期的に遅いかな、と思ったのですが、そうでもありませんでした。散ってしまった木もあったものの、まだまだ満開の木の方が圧倒的に多い感じです。駐車料金が500円かかるだけで、入園自体は無料です。

こちらの揮毫は俳人・荻原井泉水。光太郎の一つ年下です。直接の交流はなかったようですが。
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晴れていれば都心のビル群やスカイツリーなど、さらに富士山まで拝めるのですが、生憎の曇り空でしたし、この後、雨となりました。
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梅以外に、水仙や椿なども。
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今週末、あるいは来週の春分の日くらいまでは見頃かと存じます。ぜひ足をお運び下さい。ただ、予想外に高低差がありましたので(妻のスマホアプリによればビル20階分くらい)、そのおつもりで(笑)。

【折々のことば・光太郎】

皆さんの熱意をも考へ、又仕事としての意味をも考へ、おうけして猛烈にやらうかといふ気になつてゐますが、ともかく谷口博士、佐藤氏、貴下等と一度十和田湖の自然を見てから決定したいと思ひます。


昭和27年(1952)4月12日 藤島宇内宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に関して。光太郎、なかなか慎重でした。

先週の話になりますが、妻と二人で茨城県笠間市に行きました。

別に笠間でなくてもよかったのですが、妻のリクエストが以下の通りで、そうなると笠間かな、というわけで。
 ① 気合いの入ったモンブランが食べたい
 ② 美味しい新蕎麦が食べたい
 ③ 御朱印が欲しい
 ④ 紅葉も見たい

笠間は以前にも何度か足を運びました。昨年にはやはり妻と隣接する水戸市の偕楽園さんで梅を見た後、笠間に移動して、光雲・光太郎父子の作品も出ていた茨城県陶芸美術館さんでの「生誕150年記念 板谷波山の陶芸 帝室のマエストロによる至高のわざ」を拝観。それ以外にも笠間稲荷さん、常陸国出雲大社さんに御朱印をもらいに行ったりしたこともありました。また、自分一人では日動美術館さんにお邪魔したことも。千葉の自宅兼事務所から車で1時間程です。

さて、まずは旧岩間町の愛宕神社さんに。
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この日、午前中は霧が深く、その分神秘的といえば神秘的でしたが、晴れていたら見えたはずの関東平野の眺望が拝めず、そこは残念でした。

入母屋造の大きな拝殿と、奥には流造の本殿。拝殿の飾り彫刻も見事でした。左右に鶴でしょうか。
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その上、中央には龍。しかし濃霧でよく見えませんでした。
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拝殿に入れていただくと、この地に残る天狗伝説にちなみ、奉納された巨大な天狗面が多数。
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妻はこちらで御朱印を頂き、ミッション③はクリア。

さらに本殿奥の摂社と思われる飯綱神社さんには銅製の見事な六角殿が。
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ちょうど先日、荒川区で「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」展を観覧したばかりで、興味深く拝見しました。江戸期には既にここにあったそうですが。

下山して笠間駅近くへ。スマホの検索画面で探した蕎麦屋さんを見つけ、ミッション②もクリア。

続いてミッション④、紅葉を見に、ということで、日動美術館さんの分館と位置づけられている「春風萬里荘」さんへ。北大路魯山人が北鎌倉でアトリエとして使っていた農家建築です。昭和40年(1965)に笠間に移築されました。

ちなみにイサム・ノグチは魯山人に陶芸を学ぶため、元々この建物のあった北鎌倉に移り、それまで借りていた中西利雄アトリエの契約を解除しました。その後に光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、同アトリエに入ったといういわくもあります。
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魯山人と光太郎、明治16年(1883)の同年生まれです。しかも、誕生日が光太郎は3月13日、魯山人は3月23日と10日しか違いません。ところが、二人の間に直接的な交流は無かったようで、『高村光太郎全集』に魯山人の名は見あたりません。どこかで顔を合わせたりしたことはあるんじゃないかな、などとは思うのですが。

また、直接の縁はなくとも、中西利雄・高村光太郎アトリエの保存運動のからみもあり、この手の建築は見ておきたいと常々考えております。

そんなことを考えながら受付の券売機で入場券1,000円×2を購入し、少し歩いて建物へ。
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この段階ですでに紅葉が見事です。
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茅葺きの屋根が実にいい感じですし、破風まで茅葺きとは恐れ入りました。

入口に掲げられた扁額を見て、仰天。
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署名をたしかめるまでもなく、見た瞬間に、当会の祖・草野心平の字です。
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建物内には額に写す前の直筆も掲げられていました。
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そういえば、日動美術館さん本体にも心平の扁額があったっけと思い出しました。日動画廊の創業者、長谷川仁と交流があったのでしょう。

直筆の方にはキャプションも。
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ここで光太郎や宮澤賢治、萩原朔太郎の名を目にするとは思っていませんでした。

ちなみに玄関の扁額の上、破風の下には貂(てん)の木彫。最初、猫かと思ったのですが、しげしげ見ていたら係員の方が貂だと教えて下さいました。
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さて、改めて建物内。

魯山人が実用していたという衣桁。
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こちらもいい感じの木彫が施されています。

魯山人の陶芸作品。
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唐獅子の釘隠や杉戸などは当時のものなのでしょう。
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芹沢銈介の幅、中村不折の書などはあとから日動さんによって持ち込まれたものかな、と思いました。
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庭もいい感じでした。
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正面向かって右側の茶室は魯山人の設計だそうで。
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逆サイドには元々厩だったエリア。同じ屋根の下に厩があるのは東北の曲屋に似ています。
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素朴なステンドグラス。左は内側から、右は屋外から撮影しました。
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ここには日動さんによる様々な彫刻作品が展示されていて、それは存じませんでした。
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左上は朝倉文夫、右上で藤井浩佑、左下が澤田政廣、右下には北村四海。それぞれ光雲・光太郎父子と大なり小なりの縁はありました。
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さらに奥には魯山人作の、何と便器(笑)。
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ひととおり内部を拝見した後、外の庭園へ。
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少し離れた場所には長屋門もありました。
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そんなこんなでミッション④、紅葉もクリア。

最後にミッション①、「気合いの入ったモンブラン」。道の駅かさまさんでいただきました。ただし、ここはセコく、二人で一つ(笑)。
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素麺か冷や麦のように見えますが、特産の栗がふんだんに練り込まれています。美味でした。

茨城県、都道府県魅力度ランキングでは毎回のように最下位ですが、こういういいところもいろいろあります。ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

一、お茶  [七月廿五日発送] 一、クマゼミ[シヤンシヤン蟬] 一、香水線香 右受領候也 七月廿八日 クマゼミ無事到着、立派です、

昭和25年(1950)7月28日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

「クマゼミ」は木彫にしたいということで、関東には生息していませんので、静岡にいた澤田(『智恵子抄版元の龍星閣主』)に送ってくれるよう、戦時中から頼んでいました。

昨日は茨城県北茨城市の天心記念五浦美術館さんにお邪魔しておりました。
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こちらで開催中の「天心が託した国宝の未来 -新納忠之介、仏像修理への道」展拝観のためです。
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先月開幕し、気にはなっていたのですが、最近になって光太郎の父・光雲関連の出品物があるということを知り、馳せ参じた次第です。
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新納忠之介(明治2年=1869~昭和29年=1954)は、東京美術学校で光雲に学び、卒業後は3年ほど母校の教壇に立った後、岡倉天心の美術学校事件に連袂辞職、奈良で日本美術院第二部の院長に就任し、仏像修理のスペシャリストとして活躍しました。

新納の子孫から関連資料2,000点あまりが寄贈され、その中から主に奈良の仏像修復に関わるものなどが展示されています。

ちなみに今回展示されては居ませんが、寄贈資料の中には光太郎から新納宛の『高村光太郎全集』未収録葉書が一通、さらに光雲(20通ほど)、光太郎実弟・豊周(1通)から新納宛の書簡が含まれており、一昨年の夏に閲覧に伺いました。

今回展示されている光雲関連のうち、メインは「「日本木彫の技術」木寄法 第参図」。大正15年(1926)のもの。美校で光雲が仏像の寄せ木造りの手法を講義する際に使ったと思われる青写真です。
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大正15年(1926)といえば、新納は既に奈良に移っていますが、後進の指導にでも使うためでしょうか、譲り受けたと推定されます。

光雲作の仏像等も、大きなものは寄せ木造りで出来ており、代表例の一つが信州善光寺さんの仁王像。そういえば、そちらの制作に当たって奈良東大寺さんの金剛力士像も参考にされていまして、その調査には新納も協力、髙村家には新納から送られた金剛力士像の資料も現存し、一昨年、長野県立美術館さんで開催された「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」などで展示されました。

寄せ木造りといえば、明治中頃の「楠公銅像」木型もそうでしょう。制作は美校総出で行われ、新納も参加しました。そこでその際の集合写真も出ていました。
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あちこちで見かける写真ですが、新納も写っているとは存じませんでした。
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その他、やはり集合写真類で光雲が写っているものが数葉。常設展的な「岡倉天心記念室」での展示にもそれがありました。
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さて、企画展詳細。

天心が託した国宝の未来 -新納忠之介、仏像修理への道

期 日 : 2023年12月9日(月)~2024年2月12日(月・振休)
会 場 : 茨城県天心記念五浦美術館 茨城県北茨城市大津町椿2083
時 間 : 午前9時30分~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般320(260)円/満70歳以上160(130)円/高大生210(150)円/小中生150(100)円
      ※( )内は、20名以上の団体料金

 新納忠之介(にいろちゅうのすけ)(1869-1954)は、東京美術学校を優秀な成績で卒業し、岡倉天心の強い勧めにより、文化財の修理に生涯を捧げた人物です。明治31(1898)年、岡倉天心が創設した日本美術院に参加後、多くの仏像修理に携わり、天心の推進した文化財保護行政の一翼を担いました。また、天心没後には、日本美術院の国宝修理部門が「美術院」と改称して独立し、新納はその中心を担いました。
 それまで確立した修理法が無かった仏像修理において、新納は試行錯誤を重ね、現状維持を基本とする新たな修理法を確立させました。その技術は今日まで引き継がれています。
 本展覧会では、修理図面や研究ノート、書簡といった新納忠之介旧蔵資料の他、新納が模刻した仏像等の彫刻作品も展示します。これらの品を通して、天心の目指す文化財保存の道をひたすらに歩んだ新納の業績を紹介します。
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ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

畑のものいろいろ作って食べてゐます。こちらでも米の欠配がありましたが、東京よりはまだいいでせう。山には何かしらたべるものがあります。小生健康。

昭和21年(1946)7月28日 蔵石徳太郎宛書簡より 光太郎64歳

蔵石は、前年の空襲で全焼してしまった本郷区駒込林町25番地の光太郎自宅兼アトリエの隣人の植木屋でした。アトリエ地所は蔵石からの借地でした。

既知のものですが、光太郎書簡が展示されます。

茨城大学五浦美術文化研究所所員企画展2022 「つなぐ人 つなぐ文―手紙に「見る」そのひとらしさ―」

期 日 : 2022年11月8日(火)~11月21日(月)
会 場 : 茨城大学図書館本館1階展示室 茨城県水戸市文京2-1-1
時 間 : 10:00~16:45
休 館 : 11月13日(日) 11月19日(土) 11月20日(日)
料 金 : 無料

その人らしさが表れる手紙。手紙は当事者間でやり取りするものですから、本来なら本人以外は見ることができないものです。本展は、横山大観、木村武山など五浦ゆかりの画家や大観が認めた小川芋銭、高村光太郎などの手紙に表れる「そのひとらしさ」に触れてみようという企画です。彼らの手紙は草書や変体仮名が使われ、しかも筆を走らせているため、知識がないと「読めない」です。でも、「線」や「書きぶり」を見ることはできます。太さ、細さ、強さ…様々な表現に感じられる「そのひとらしさ」を体験して「読まない」鑑賞をしてみませんか。

ぜひお誘いあわせの上、ご来場ください。

※事前予約が必要です。入場申込 からお申し込みください。)。
※新型コロナウイルス感染症の影響を鑑み、例年より規模を縮小しての開催といたします。
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関連企画

「つなぐ人 つなぐ文―手紙に「見る」そのひとらしさ―」記念講演会
 会  場 : 茨城大学 図書館 本館3階 ライブラリーホール
 会  期 : 令和4年11月12日(土)
 開演時間 : 13:25~15:50
 講演1 「小川芋銭の芸術」 小泉晋弥(茨城大学名誉教授・美術評論家)
  大観はなぜ、芋銭を日本美術院同人に推挙したのか、
  その問いから、明治から大正にかけての日本画の展開を考えてみます。
 講演2 「光太郎と宮崎稔」 安裕明(茨城県立多賀高等学校講師)
  高村光太郎と小川芋銭を繋いだ宮崎稔。取手の宮崎仁十郎、稔父子を通じ、
  芋銭と光太郎の交流についてお話しします。

  ※開場は13:10~となります
  ※事前予約が必要です。参加申込 からお申し込みください。
  ※先着順となりますので、予めご了承ください。

展示される光太郎書簡は、昭和17年(1942)2月28日付のもの。茨城取手の詩人・宮崎稔に送られた葉書です。宮崎は戦後、光太郎の仲介で、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と結婚しています。
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光太郎が落款等に愛用していた、齋白石制作の印について述べられており、興味深い内容です。また、内容のみならず、味わい深いその文字も魅力的ですね。

関連企画の講演会でも、宮崎と光太郎について触れられるようです。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

麻布中学生20人相模湖にて遭難のラジオ、


昭和29年(1954)10月8日の日記より

この頃の光太郎日記には、ほとんど社会情勢などに関する記述がないのですが、この日は別でした。後に「内郷丸遭難事件」と呼ばれるようになる事故で、新制麻布中学校の生徒22名が、相模湖で載っていた遊覧船の沈没により亡くなったという痛ましいものです。前途有為な少年たちの死ということで、よほど印象に残ったのでしょう。

8月10日(水)、茨城県北茨城市に行っておりました。午後1時に天心記念五浦美術館さんに伺う予定で、時間が早かったので、野口雨情記念館さん、野口雨情生家、天心遺跡(六角堂)などに立ち寄りましたが、午後1時近くになりましたので、満を持して同館へ。
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少し前、同館刊行の『新納忠之介旧蔵資料目録Ⅰ 「日本美術史」講義録・書簡編』(平成28年=2016)という厚冊の書籍を、自宅兼事務所の隣町の図書館で見つけ、頁を繰ってみたところ、光太郎の父・光雲、光太郎、そして光太郎実弟・豊周から新納忠之介に宛てた書簡類がリストに載っていました。
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001新納は明治元年(1868)鹿児島生まれ、東京美術学校の彫刻科第3回卒業生で光太郎の大先輩です(光太郎は第11回卒業)。光太郎在学時には同校助教授を務めていましたが、いわゆる美術学校事件で天心らとともに連袂辞職、日本美術院に加わりました。

ちなみに同期卒業生のうち、「本山辰吉」は本山白雲。高知桂浜の坂本龍馬像、国会議事堂前庭の伊藤博文像などで有名ですね。

それから「板谷嘉七」は陶芸家となった板谷波山です。「黒岩倉吉」は黒岩淡哉。そこそこ有名な彫刻家です。

新納はその後奈良に移り住み、主に仏像修復の分野で活躍しました。奈良東大寺さんの不空羂索観音像、京都三十三間堂さんの千手観音像などは新納の手により修復されています。また、光雲は信州善光寺さんの仁王像を制作するにあたって、東大寺さんの金剛力士像も参考にしていますが、その調査にも協力しています。今年、長野県立美術館さんで開催された「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」には、新納から光雲に送られた、東大寺さん金剛力士像のレポートも展示されていました。

さて、新納宛書簡。調べたところ、『高村光太郎全集』及びその補遺として当方が編集を続けている「光太郎遺珠」に未掲載でした。

そもそも新納の名は、『高村光太郎全集』には4回しか出て来ていませんでした。光太郎の後輩で、仏像修復の分野で新納の右腕となった明珍恒男の追悼文(昭和15年=1940)の中に一箇所、明治38年(1905)、光太郎から光雲に宛てた書簡二通に。奈良を訪れた光太郎が新納の世話になったという記述でした。それから、明治42年(1909)、来日直前のバーナード・リーチ宛の英文書簡。日本でリーチの世話をしてくれそうな人物をリストアップする中で、新納は英語もしゃべれるし、日本彫刻に関する知識も半端ない、的なことが書かれています。

そんなわけで、光太郎から新納宛書簡、ぜひ拝見したいと存じ、同館に閲覧許可の申請をして伺った次第です。ついでというと何ですが、光雲、豊周からのそれも拝見させていただくことに致しました。

リストに「年賀状」とありましたが、本当に年賀状でした(笑)。文面は「賀正 大正十二年一月 駒込林町二十五 高村光太郎」のみ。それでもこの時期に光太郎と新納が年賀状のやりとりをする間柄だったということがわかります。豊周からのものもほぼ同じような感じでした。

元同僚だった光雲からの書簡は、さすがに数も多く、長文のものがほとんどでした。丁寧な時候の挨拶に始まり、美校の近状、東京の美術界の動向等々。時には愚痴も(笑)。光太郎が欧米留学後、神田淡路町に開いた画廊・琅玕洞に関する記述もありました。こちらでは光太郎の仲間の新しい芸術作品も販売していましたが、伝統的な漆器なども扱っており(そちらの方がよく売れたようです(笑))、その手配を頼むような内容でした。

閲覧に際しては、学芸員の方に大変お世話になりました。百年以上前の史料と言うことで、机の上には大きな中性紙を敷き、その上に三人がかりで一通一通広げてくださったり、撮影も許可して下さったり……。恐縮してしまいました。

閲覧後、展示を拝見。そちらも学芸員さんのご配慮で、無料でした。

常設展は天心の関係。
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企画展は「並河靖之の雅な技――世界を魅了した明治の京都七宝――」。並河の有線七宝の作品は、超絶技巧系の展覧会や、京都の清水三年坂美術館さんの常設展示などで何度か拝見していましたが、何度見ても舌を巻かされます。並河と共に「二人のナミカワ」と称される無線七宝の濤川惣助の作品も並び、眼福でした。
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まだまだ全国のこうした施設に光太郎書簡等、眠っているかと存じます(島根で新たな発見があったそうですし、北海道にあるという情報は既に得ておりまして、来年あたり拝見に伺おうと思っていますが)。光太郎ほどの人物が書き残したものは、断簡零墨にいたるまで埋もれさてはならない、というのが、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のスタンスでした。当方もそれを引き継いで、今後ともやっていこうと思っております。

以上、北茨城レポートでした。

【折々のことば・光太郎】

三時過ぎ副知事来る、小型像其他につき協定、尚礼として500,000円もらふ(小切手)夜八時青森駅より上車、しん台車、津島知事、横山副知事等見送りにくる、

昭和28年(1953)10月24日の日記より 光太郎71歳

10月21日に行われた生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式出席のための青森行、最終日です。宿泊していた浅虫温泉東奥館に横山武夫副知事が訪れ、最後の事務手続きが行われました。「小型像」は、「乙女の像」の小型試作。「乙女の像」本体と同じく伊藤忠雄による鋳造で、青森県に寄贈されました。現在、青森県立郷土館に所蔵され、昨年から今年にかけて開催された彫刻家・小田原のどか氏の個展「近代を彫刻/超克するー雪国青森編@ 国際芸術センター青森」で展示されました。

「上車」は「乗車」の誤りですね。

8月10日(水)、茨城県北茨城市レポートの2回目です。

野口雨情記念館さん等を後に、『高村光太郎全集』等未収録の光太郎書簡を閲覧するため、市内北部の天心記念五浦美術館さん方面へ。まだ時間がありましたので、近くの六角堂に立ち寄りました。
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光太郎の父・光雲を東京美術学校に招聘し、光太郎入学時に同校校長だった天心岡倉覚三が、明治39年(1906)、日本美術院を移した地です。当方、30年近く前、学生時代の友人の結婚披露宴がすぐ近くのホテルで行われ、その際に訪ねて以来でした。

その時には気づかずスルーしていましたが、六角堂入り口前に天心の墓がありました。天心は光雲、光太郎等と同じ都立染井霊園に墓所がありますが、こちらは分骨だそうで。光雲、光太郎の代参のつもりで香を手向けて参りました(こういう機会が多いので、愛車には線香を常備しています)。
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光太郎同様、天心の薫陶を受けた平櫛田中お手植えの椿がかたわらに。天心の墓は円墳のようでした。
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裏手には天心の娘のそれも。
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さて、六角堂。正式には周辺の建物等を併せて「天心遺跡」と称しています。敷地内には天心邸や小規模な天心記念館などがあり、また、茨城大学さんの五浦美術文化研究所も併設。
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自生していたヤマユリが見事でした。

天心記念館内。特に撮影禁止という表示が見あたらなかったので……。
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天心像や「活人箭」などの田中作品。
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天心と共にこの地にやってきた横山大観による表札(左)と、六角堂の棟札(右)。
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この地で釣りに興じていた天心の舟。

天心の教え子の一人で、アメリカの美術史家、ラングドン・ウォーナーの像。こちらも田中作です。ウォーナーは太平洋戦争中、日本の文化財を空襲しないよう提言した人物の一人という説があります。
海が見えてきました。
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そして、六角堂。
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東日本大震災による津波でさらわれてしまったのですが、復元されました。
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前日に行くはずだった宮城県女川町でも、行くたびに感じますが、あの日、この海が牙を剥いたのかと思うと、粛然とさせられます。
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天心邸。
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かたわらの「亜細亜ハ一なり」碑。
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天心のグローバル思想すら、「八紘一宇」の亜流に韜晦されてしまっていたのですね。そういえば、揮毫した横山大観は戦時中、日本美術報国会の会長でした。ちなみに実務に当たっていた事務局長は、光太郎の実弟にして鋳金家の豊周でした。

さて、満を持して天心記念五浦美術館さんへ。以下、明日レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

四時図書館行、ここに一同集まる、知事等の案内で夜文芸講演会、


昭和28年(1953)10月23日の日記より 光太郎71歳

会場が明記されていませんが、青森市の野脇中学校でした。光太郎以外に、草野心平、菊池一雄、谷口吉郎、佐藤春夫が登壇し、講演を行いました。
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十和田湖畔の観光交流センター「ぷらっと」に展示されている光太郎胸像「冷暖自知」の作者、田村進氏はこの講演をお聴きになったそうです。

8月10日(水)、茨城県北茨城市に行っておりました。目的地は同市にある茨城県立天心記念五浦美術館さん。こちらに『高村光太郎全集』等に漏れていた光太郎書簡の所蔵があるということを知り、閲覧に伺った次第です。

当初、前日が宮城県女川町での女川光太郎祭の予定でしたので、そちらへ参加後の帰途に立ち寄ろうと考え、この日に閲覧する申請を出したのですが、女川光太郎祭が今年もコロナ禍のため中止となり(須田善明町長も感染されたそうで)、北茨城市単独の訪問となりました。

申請した時刻に遅れてはいけないので、早めに自宅兼事務所を出発。途中の高速道路で事故渋滞にでも嵌ったらアウトです。幸い、何事もなく北茨城に。そこで、天心記念五浦美術館さんに行く前に、手前の野口雨情記念館さんに立ち寄りました。

正確には「北茨城市歴史民俗資料館 野口雨情記念館」。雨情以外の郷土資料等の展示も充実していました。
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童謡詩人として名を馳せた雨情ですが、明治15年(1882)の生まれで、光太郎より1歳年長。光太郎は早生まれですので学年は同じです。石川啄木、北原白秋など、共通の友人がいました。しかし、『高村光太郎全集』に雨情の名はありませんで、直接の交流は無かったようです。

まずは雨情の銅像(現代のもの)と、代表作の一つ「シャボン玉」(大正11年=1922)関係のオブジェがお出迎え。
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近づくとセンサーが反応し、「シャボン玉」の歌が流れます。さらに本当にシャボン玉が噴出される仕組み。
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エントランス脇には作曲家・故高木東六氏関連の碑。高木氏は鳥取生まれですが、北茨城で育ったそうで。
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館内、雨情のコーナー。
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興味深く拝見しました。

一昨年の連続テレビ小説「エール」に広岡由里子さん演じる「ベルトーマス羽生」の名で登場した歌手・ベルトラメリ能子も北茨城出身で、雨情と縁があったと知り、驚きました。北茨城、恐るべし(笑)。

雨情以外の郷土資料的コーナー。太平洋戦争がらみの展示が充実していました。
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日本軍の機密兵器「風船爆弾」。ここ北茨城からも飛ばされたそうで。そのバルーン部分に使われたのが、智恵子の故郷・福島二本松の上川崎和紙だったらしく、そのため上川崎地区も空襲に遭ったそうです。

人間魚雷「震洋」。こちらも北茨城に配備されていたとのこと。光太郎と交流があり、詩「四人の学生」のモデルとなった故・深沢竜一氏は、同様の特攻兵器「海龍」の基地に配属され、出撃直前に終戦となり命拾いしたそうです。
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右上は東日本大震災関係。東北の被害はかなり報じられましたが、茨城、千葉でも津波が発生、多くの犠牲が出ています。

さらにすぐ近くに雨情の生家があるというので、そちらへも足を運びました。
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こちらにもいろいろな展示が。最も驚いたのは、啄木から雨情宛の葉書。おそらく現物と思われましたが、結構無造作に展示されていました。
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それにしても不思議なのは、雨情と戦争の関係。雨情は昭和20年(1945)まで存命でしたが、日本文学報国会の名簿に名が無いようです。同学年の光太郎は同会の詩部会長を務め、大量に翼賛詩を書き殴っていました。雨情は昭和18年(1943)に脳出血を起こし、療養生活を送っていたというのですが、それ以前にも翼賛詩的なものは作らなかったのでしょうか。情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。

この後、北上して天心記念五浦美術館さん方面へ。続きは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

宇樽部、より県の車で浅蟲東奥館まで、途中酸ヶ湯にて中食、 くもりなれど雨はふらず、 疲れをやすめるため部屋にひきこもり皆にあはず、


昭和28年(1953)10月22日の日記より 光太郎71歳

前日に行われた、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式等で、かなり疲弊したようです。もともと肺病を患っている老体に鞭打っていたわけですし……。

どうもネタ不足に陥りつつありまして、昨日もご紹介した紫陽花ネタでもう1日、引っ張らせていただきます。

昨日は、紫陽花がモチーフの智恵子紙絵を原画とした神戸文化ホールさんの巨大壁画についてでしたが、光太郎詩にも紫陽花が謳われているものがあります。ただし、花が枯れてしまってからの様子ですが……。

   未曾有の時
戦時アトリエ前ピン
 未曾有の時は沈黙のうちに迫る。
 一切をかけて死んで生きる時だ。
 さういふ時がもう其処に来てゐる。
 迫り来るものは仮借せず、
 悠久の物理に無益の表情はない。
 吾が事なほ中道にあり、
 世の富未だ必ずしも餓莩(がへう)を絶つに至らず、
 人みな食へないままに食ひ
 一寸先きの闇を衝いて生きる日、
 枚(ばい)を銜んで迫り来るものは四辺に満ちる。
 既に余が彫蟲の技は余を養はず、
 心をととのへて独り坐れば
 又年が暮れて歴日はあらためられる。
 巷に子供ら声をあげて遊びたはむれ、
 冬の日は穏かにあたたかく霜をくづし
 紫陽花の葉は凋み垂れて風雅の陣を張り、
 山雀は今年もチチと鳴いて窓を覗きこむ。
 すべて人事を超えて窮まる処を知らない。
 さればしづかに強くその時を邀(むか)へよう。
 一切の始末を終へて平然と来るを待たう。
 悉く傾けつくして裸とならう。
 おもむろに迫る未曾有の時
 むしろあの冬空の透徹の美に身を洗はう。
 清らかに起たう。
 
昭和12年(1937)12月の作品で、翌年の『中外商業新聞』に発表されました。一読し、身辺に大きな変化が訪れているけれど、決意を新たに頑張ろう、的な内容に読めます。

この年は日中戦争が勃発した年なので、その意味では生活も大きく変わった部分があったと思われます。そして、そうした外的環境もさることながら、光太郎の内面も大きく変わりつつありました。その要因は、智恵子。この時期、智恵子は「値(あ)ひがたき智恵子」(昭和12年=1937)となり、南品川ゼームス坂病院で紙絵を作り続ける毎日でした。
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   値(あ)ひがたき智恵子

 智恵子は見えないものを見、
 聞えないものを聞く。

 智恵子は行けないところへ行き、
 出来ないことを為る。

 智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
 わたしのうしろのわたしに焦がれる。

 智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
 限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

 わたしをよぶ声をしきりにきくが、
 智恵子はもう人間界の切符を持たない。

智恵子をこうしてしまった原因の一つは、「芸術家あるある」で、俗世間とは極力交渉を絶つ生活にもあったのではないかと、光太郎は反省します。そしてそうした生活を続けていては、自分もおかしくなるかも、と考えた可能性もあります。

   美に生きる

 一人の女性の愛に清められてseisaku
 私はやつと自己を得た。
 言はうやうなき窮乏をつづけながら
 私はもう一度美の世界にとびこんだ。
 生来の離群性は
 私を個の鍛冶に専念せしめて、
 世上の葛藤にうとからしめた。
 政治も経済も社会運動そのものさへも、
 影のやうにしか見えなかつた。
 智恵子と私とただ二人で
 人に知られぬ生活を戦ひつつ
 都会のまんなかに蟄居した。
 二人で築いた夢のかずかずは
 みんな内の世界のものばかり。
 検討するのも内部生命
 蓄積するのも内部財宝。
 私は美の強い腕に誘導せられて
 ひたすら彫刻の道に骨身をけづつた。

こちらは戦後、戦時中の戦争責任を含め、自らの半生を省みて作られた連作詩「暗愚小伝」中の一篇。昭和22年(1947)の作です。

「これではいかん」というわけで……

   最低にして最高の道
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 もう止さう。
 ちひさな利慾とちひさな不平と、
 ちひさなぐちとちひさな怒りと、
 さういふうるさいけちなものは、
 ああ、きれいにもう止さう。
 わたくし事のいざこざに
 見にくい皺を縦によせて
 この世を地獄に住むのは止さう。
 こそこそと裏から裏へ
 うす汚い企みをやるのは止さう。
 この世の抜駆けはもう止さう。
 さういふ事はともかく忘れて
 みんなと一緒に大きく生きよう。
 見えもかけ値もない裸のこころで
 らくらくと、のびのびと、
 あの空を仰いでわれらは生きよう。
 泣くも笑ふもみんなと一緒に
 最低にして最高の道をゆかう。

こちらは智恵子没後の昭和15年(1940)の作ですが、最初に引用した「未曾有の時」にも通じる内容ですね。しかし、「みんなと一緒に」という方向に舵をきったものの、その「みんな」が「戦争」という狂瀾怒涛に呑み込まれて行き、さらには光太郎自身、その旗振り役とならざるを得なくなってしまったというのが、大いなる悲劇でした。

さて、紫陽花。

昨日は、神戸文化ホールさんの巨大壁画に原画として使われた智恵子紙絵をご紹介しましたが、他にも紫陽花をモチーフにした紙絵が存在します。上の「値(あ)ひがたき智恵子」の脇に載せたもの(『紙絵と詩 智恵子抄』昭和40年=1965初版 伊藤信吉 北川太一 髙村規編 社会思想社現代教養文庫の表紙に使われました)も「おそらく紫陽花でしょうし、下記の紙絵も「あじさい」の題が付けられています。
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いい感じですね。

ところで紫陽花。

昨日、御朱印マニアの妻と共に、茨城県潮来市の寺院に行って参りました。近年、「あじさい寺」として有名になってきた「二本松寺」という寺院です。智恵子の故郷、二本松とは無関係のようですが、変わった寺号ですね。

平成20年(2008)ごろから、ご住職がコツコツ紫陽花を増やし、目標1万株を達成、「あじさいの杜」として有料公開を始めて、テレビ等でも紹介されるようになりました。昨日も盛況。当方らはまだすいていた午前中に訪れましたが、帰る際には駐車場待ちの車で渋滞が発生していました。
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1万株、たしかに見応えがありました。
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さらにすごいと思ったのは、近年開発されたと思われる、いろいろな紫陽花が多いこと。「こんな紫陽花があるのか」的な。
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本堂付近には、紫陽花を使ったオブジェ的なものも。
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流行りの花手水も紫陽花でした。
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智恵子が見たら、さぞ喜んだだろうと思いました。

都心からは遠いのですが、ぜひお越し下さい。

【折々のことば・光太郎】

篠田定吉氏くる、水野君碑の事、

昭和28年(1953)3月7日の日記より 光太郎71歳

「水野君」は水野葉舟。明治中期、『明星』以来の親友でしたが、昭和22年(1947)に歿しています。その歌碑を、葉舟の移り住んだ千葉成田の三里塚に立てる計画が持ち上がり、その件でしょう。「篠田定吉」は三里塚にほど近い印旛郡宗像村(現・印西市)在住の人物で、戦前から光太郎と面識がありました。

のちに歌碑の建設が具体化した頃、光太郎に碑面揮毫の依頼がありましたが、折悪しく健康がすぐれず断念、代わりに窪田空穂が筆を執りました。

昨日は、1月に亡くなった父親の納骨のため、茨城県の取手市に行っておりました。

時間を間違えまして、かなり早く到着。何を間違えたのか(時間を間違えたのですが(笑))、14時からの筈が11時からと思いこんでおり、お寺さんに着いてから気がつきました。

時間を潰すため、うろうろしました。まずはお寺さんの近くにある市立の埋蔵文化財センターさん。
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当方、そちら方面にも興味がありますし、ここは思い出の地でもあります。平成13年(2001)の8月に、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のご講演が行われ、拝聴に伺いました。光太郎の書も展示された「取手ゆかりの人びとの書」という企画展の関連行事でした。
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すると20年ぶり。ついこの間のような気もしていましたが……。

現在は「取手の発掘50年史」という企画展で、市内各地の遺跡から発掘された縄文~平安の出土品のうち、特に珍しいもの、資料的価値の高いものをセレクトしての展示で、興味深く拝見しました。
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それから、入り口付近に、過去の企画展の簡易図録がずらっと並べられ、無料で配付されていました。大量に余らせても仕方がないし、リサイクルに出すのも……というわけでしょう。「ほう」と思いつつ、手にとって眺めていると、一昨年に開催された「大正時代の取手―明治と昭和をつなぐ時代―」という展示の簡易図録に、光太郎の名。
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画像は昭和23年(1948)に建立された「開闡(かいせん)郷土」碑。取手駅近くの長禅寺さんの石段脇に現存するものです。よくある郷土の開拓、発展の歴史を振り返り、功労者を顕彰する的な碑ですが、その題字「開闡郷土」を光太郎が揮毫しました。
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こちらは平成28年(2016)に当方が撮影したもの。この時点ではこの碑、繁茂する篠竹に覆われて、もはや普通に見ることが出来なくなっていましたが、竹をかき分けて撮影しました。

上記簡易図録に載っている画像は、おそらく建立当時ものと思われ、これは初めて拝見しました。

その後、玄関付近に「本日は旧取手宿本陣染野家住宅も公開中です。ぜひ足をお運び下さい」的な掲示が為されており、そちらにも行ってみることにしました。車で10分足らずの場所ですが、車を駐めにくいところでして、これまで未踏の場所でした。
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ここでいう本陣、旧街道沿いで、江戸時代、参勤交代等の際に、お殿様などが宿泊するための施設です。取手は旧水戸街道の交通の要所でしたので、本陣が設けられていました。
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意外と質素な表門。
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本陣母屋。萱葺きの屋根が特徴的です。
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脇には蔵。

無料で母屋内部の見学が出来ました。
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基本、殿様が宿泊するとはいえ、宿屋というわけではなく、土地の有力者の邸宅の一部です。福島二本松の豪商だった智恵子の生家と似ている、と感じる部分がありました。
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しかし、商家ではありえない造作も。例えば、床下には曲者の侵入を防ぐ工夫。
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そうかと思うと、竈も同じ棟にあったりしました。
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明治になって、本陣としての役目を終えてから、この家の持ち主の染野家が、一時、郵便業務を行っていたそうで、その名残。
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草創期の郵便配達夫は拳銃を携行していたと、これは意外と有名な話ですね。
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現物は先ほどの埋蔵文化財センターさんに展示されていました。

裏手の高台には、ここに宿泊した徳川斉昭(大河ドラマ「青天を衝け」では、竹中直人さんが熱演(怪演?)なさっていましたね)の書を刻んだ碑。
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母屋の玄関部分には、取手の古写真等もパネル展示されていました。その中で出典が『取手たより』となっていたものが複数在りました。どうも古い地方紙のようですが、当方、寡聞にしてその存在を知りませんでした。

「もしかすると」と思い、本陣近くの取手市立図書館さんへ。何が「もしかすると」なのかといいますと、「開闡郷土」碑と同じ長禅寺さんにある蛯原萬吉像に関して、情報が得られるかも、というわけです。

蛯原萬吉像、以前にも書きましたが、初代は昭和8年(1933)の建立。その後、戦時中に金属供出にあって喪われ、2代目が昭和50年(1950)に復元されました。その2代目の建立の際に付けられたプレートに、初代の像が光太郎の作であったと明記されていましたが、こちらではその像の制作に光太郎が関わったという情報は一切ありませんでした。

そこで、国立国会図書館さん所蔵の『蛯原萬吉伝: 財界の偉傑』を千葉県立東部図書館さんのパソコンで拝見、それから、先月、父親の四十九日の法要の際に、やはり取手市立図書館さんで『取手市史』をあたりましたが、初代の像の作者名は不明のままでした。
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『取手市史』には、現在も刊行が続く『茨城新聞』(当時の紙名は『いはらき』)の記事が引用されていましたが、作者名は書いてありませんでした。

そこで取手の地方紙『取手たより』なら、と思い、探したところ……。
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やはり作者名は無し。

先述の『蛯原萬吉伝: 財界の偉傑』、遺っている初代の像のプレートも同様で、そうなると、この時期に一応彫刻家として名を成していた光太郎の作であれば、考えにくいというのが結論です。やはり、2代目の像のプレートに初代の像の作者が光太郎、とあったのはガセなのかな、という感じですね。もう少し調査は続けてみますが……。

ところで『取手たより』で、これまた長禅寺さんに建つ、「小川芋銭先生景慕之碑」の除幕(昭和14年=1939)に関しての報道を見つけました。
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「開闡郷土」碑同様、題字のみ光太郎が揮毫したものです。

そういう意味では収穫無し、という事態には成らずに済みました。

それから、昼食のために立ち寄った本陣のすぐ近くの蕎麦屋さん。注文したカツ丼(冷たいミニたぬき蕎麦付き)を待つ間、テーブルに置いてあった『茨城新聞』を読んでいると……。
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読者投稿欄です。奇縁に驚きました。

どうも取手に足を運ぶといろいろ奇縁があります。2月の父の葬儀の帰りには、それまでその所在地が不明だった光太郎揮毫の墓石(初代取手市長・中村金左右衛門の子息二人=共に戦死)を偶然に見つけたりもしました。

いずれ、不明である初代蛯原萬吉像の作者も判明することを祈っております。

以上、長くなりましたが、取手レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

雨つよし。終日雷鳴を伴ふ豪雨ふりつつき殆と止まず。到るところ水、水

昭和22年(1947)8月2日の日記より 光太郎65歳

上記『茨城新聞』の投稿句にもある、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の茅屋。元々は鉱山の飯場小屋を移築した粗末なものですし、山の麓で、おそらく斜面を滝のように水が流れ落ち、こうした豪雨の際は生きた心地がしなかったのではないでしょうか。光太郎は元々、幼少時から大の雷嫌いでしたし(笑)。

昨日は、隣町の千葉県立東部図書館さんに行っておりました。国会図書館さんのデジタルデータベースの閲覧が目的でした。過日レポートいたしました、茨城県取手市の大鹿山長禅寺さんに立つ、地元の名士・蛯原萬吉の銅像について調べるためです。
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蛯原萬吉像。かいつまみますと、昭和8年(1933)に立てられた最初の銅像が、戦時中に金属供出にあって亡失。昭和50年に、新制作派の彫刻家、故・橋本裕臣氏が原型を制作して再建されました。新たに付けられた銘板に、初代の銅像作者が光太郎だったと記されていました。しかし、『高村光太郎全集』等に蛯原の名は一切出て来ず、この像についても全く記述がありません。
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そこで閲覧したのが、昭和15年(1940)刊行の『蛯原萬吉伝: 財界の偉傑』。この中に「翁の寿像と頌徳碑」という項があり、像の作者についても記述があるのでは、と、期待したわけです。

ところが、その項、像が建てられた経緯が簡潔に記され、最初の銘板の銘文が引用されているだけで、作者については何も書かれていませんでした。

 是迄述べた如き、翁数々の徳行を讃し、且又稀に見る翁の大成功を喜ぶ郷党の有志は、郷党の亀鑑並に誇りとして永世に伝ふべく、昭和八年春翁と縁故深き取手長禅寺境内に寿像を、又一万余円の巨資を寄付して改築せる郷村井野小学校々庭に巨大なる頌徳碑が建てられた。
 斯くして翁の英名は青史と共に永遠に輝くであらう。
 寿像の文に曰く、
 蛯原家ハ世々下総ニ住ミ、萬吉翁ハ先考亀吉ノ三男トシテ文久元年八月二十一日井野村ニ生ル、少壮志ヲ立テテ東都ニ上リ精励維レ努メ以テ正金商事株式会社ヲ創立シ之カ社長トナル、今ヤ古稀ヲ過ギ帝都財界ノ覇者トシテ矍鑠壮者ヲ凌グ、翁平素ヨリ事業報国ヲ晶ヘ無駄排除ヲ説キ躬行ヨク後進ヲ扶掖シ巨資ヲ育英事業ニ投ジテ惜ム所ナシ、取手農学校、井野小学校ノ建設ハ翁ノ寄附ニ俟ツ所多ク、官紺綬褒章ヲ賜ヒ之カ徳行ヲ彰ス、蓋シ翁ノ如キ身ヲ窮乏ニ起シ奮闘遂ニ東京多額納税者中ノ首班ニ列セルガ如キ洵ニ郷人ノ軌範タリ、乃チ有志茲ニ議リ徳ヲ讃シ、信仰厚キ長禅寺境内ニ寿像ヲ建テ功ヲ不朽ニ伝フ。
  昭和八年四月十三日之ヲ建ツ

結局、像の作者が誰なのかはわからずじまいでした。

光太郎、昭和8年(1933)というと、智恵子の心の病が進行し、前年には睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺未遂、翌年には九十九里浜の妹の元に預けるなどしていた時期で、危険だからと、木彫用の鑿や彫刻刀は仕舞いこんでいた時期です。ただ、塑像は少ないながらも制作しており、前年には「黒田清輝胸像」、レリーフの「徳富蘇峰古稀記念像」(光雲代作)、この年には「成瀬仁蔵胸像」、「輪王寺四十一世福定無外の首」(光雲代作)、レリーフ「種蒔く人」(岩波書店社章原案)、翌年にはレリーフ「嘉納治五郎像」(光雲代作)を手がけています。

そこで、この時期にこうした像を作らなかったとはいえません。しかし、やはり『蛯原萬吉伝』に光太郎の名がないというのも妙です。ちなみに他の部分も斜め読みしましたが、光太郎の名は見えませんでした。

ちなみに巻頭のグラビア(といってもモノクロですが)ページに、金属供出間の前の最初の像の写真もありました。
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ここにも作者名等、記載がありません。

謎は深まるばかりですね……。

ただ、これであきらめることなく、調査を継続したく存じます。取手の市立図書館さんには『蛯原萬吉伝』以外の蛯原に関する資料がありそうですし、長禅寺さんに問い合わせるという手もありますし……。

ただ、情報をお持ちの方は、コメント欄等からご連絡いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

朝食、冷飯、みそ汁(大根葉、いんげん、煮干、畑のとりたて長茄子)トマトとりたて一個、つけもの胡瓜ぬかみそ、とりたて蔕紫茄子の足跡塩づけ。ヘタムラサキは真壁さんから種子をもらひ、苗から育てたもの、今朝はじめて収穫。

昭和21年(1946)8月29日の日記より 光太郎64歳

春に始めた農作業も実を結び、自作の野菜が食卓に並ぶようになってきました。嬉しかったことでしょう。

昨日の続きで、茨城取手レポートです。

父の葬儀のため、2月4日(木)は通夜終了後、都内から来た息子と2人で、取手駅近くのビジネスホテルに宿泊しました。

翌朝、ホテルから徒歩数分のところにある大鹿山長禅寺さんへ。昨日もちらっと書きましたが、こちらは光太郎が講話を行ったり、光太郎の筆跡を刻んだ碑が二基建っていたりするゆかりの寺院です。

下の画像は門前にある、取手ゆかりの著名人を紹介する説明板。
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智恵子を『青鞜』に引き込み、その表紙絵を依頼した平塚らいてうも。
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臘梅が見事でした。
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光太郎ゆかりの寺院ですので、何度もここは訪れていますが、改めて伺ったのは、これまで気がつかずにいた銅像を見るためでした。

昨秋、「日本の銅像探偵団」というサイトに、長禅寺さんにある銅像についての情報がアップされました。蛯原萬吉という人物の像で、制作者の名が光太郎となっていました。戦時の金属供出により現在の像は2代目、的な記述も。

調べてみましたところ、蛯原は、昨日も名を挙げた宮崎仁十郎や中村金左衛門同様、取手の名士でした。ところが、『高村光太郎全集』にその名が無く、光太郎が蛯原の像を作ったという記録も確認できていません。そこで、サイトの記述は何かの間違いなのでは、と思いつつ、像そのものを見てみないことには何とも言えないなと思い、見に行った次第です。

こちらが問題の像。
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台座の向かって左側に、建立当時のプレート。
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これによると、像の最初の建立は昭和8年(1933)とのこと。ただ、ここに光太郎の名はありませんでした。

像の裏側には、再建時(昭和50年=1975)のプレート。
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こちらに確かに光太郎の名。「蛯原萬吉像(作者 高村光太郎)は 第二次世界大戦末期 国策に殉じて之を供出」。そして現在の像は、新制作派の彫刻家、故・橋本裕臣氏の作とのこと。

この記述をそのまま信じれば、最初の像は光太郎の作だったということになります。しかし、先述のように『高村光太郎全集』に、この像に関する記述は一切ありませんし、蛯原の名も出て来ません。

考えられるケースは二つ。

一つは、父・光雲の代作であったというケース。岐阜県恵那郡岩村町に建てられた「浅見与一右衛門銅像」、宮城県大崎市に建てられた「青沼彦治像」がこのケースですが、ともに光雲の代作として光太郎が制作しました。光太郎、この二つは完全な自分の作とは言えないと考えていたようです。そこで、やはり『高村光太郎全集』には、浅見、青沼、二人のフルネームが出て来ません。浅見は「木曽川のへりの村の村長さん」、青沼は「青柳とかいふ人」(名前すら間違っています)として、随筆「遍歴の日」(昭和26年=1951)に語られている程度です。

また、光太郎遺品の中に、誰を作ったのか、また誰が作ったのかも判らない(しかし光太郎風の)胸像の写真なども残っており、知られざる光太郎彫刻というものも存在する可能性は大いにあります。
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ところで、『高村光太郎全集』には漏れていましたが、『青沼彦治翁遺功録』(昭和11年=1936)という書籍に光太郎は短い文章を寄せており、その中で像の制作について語られています。蛯原に関しても、蛯原の立志伝や追悼録的な書籍が刊行されているようですので、その中にもしかすると像の由来等、記述があるのではないかとも思っております。

もう一つは、何かの間違いで、像の作者が光太郎ということになってしまったというケース。それほど詳しくは語らなかったものの、浅見、青沼については「遍歴の日」で一応書き残しているわけで、そこに蛯原の名が無いというのは不思議です。

こうしたケースも皆無ではなく、伊東忠太・新海竹蔵作の靖国神社の狛犬が、なぜか光太郎作だとまことしやかに伝わっている例などもあり、閉口しています。

蛯原萬吉像については、もう少し調べてみますが、情報をお持ちの方、コメント欄等からご教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

「余の詩をよみて人死に就けり」を書かんと思ふ。


昭和21年(1946)5月11日の日記より 

自らの来し方と、戦争責任について省察した20篇からなる連作詩「暗愚小伝」。翌年7月の雑誌『展望』に発表されましたが、その構想を初めて記した一節です。

1009「余の詩をよみて人死に就けり」は、「わが詩をよみて人死に就けり」と改題され、「暗愚小伝」に組み込まれるはずでしたが、光太郎自らボツしました。

   わが詩をよみて人死に就けり

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の大腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向かつた。
 その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

私事で恐縮ですが、去る1月31日(日)、当方の父親が亡くなりまして、一昨日、昨日と、通夜・葬儀のため父親が暮らしていた茨城県取手市に行っておりました。

父は元々信州上田の生まれですが、次男だったため、家は長男(当方から見れば伯父)に任せ、上京。公務員となりました。ノンキャリアでしたから地方局回りで、3年ごとくらいに関東と中部の各所を転々、一時住んでいた取手がいろいろ都合がいいということで土地を購入し、退職間際から退職後、そちらで暮らしていました。ただ、ここ数年は施設暮らしでしたが。当方も次男で、取手の家は兄に任せ、家を出た次第です。父は享年87歳。まぁ、天寿といえば天寿でしょう。

取手というと、光太郎の足跡が残っていますし、意外と縁の深い土地です。

昭和19年(1944)、取手中心部の長禅寺さんという寺院で、講話を行っています。
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長禅寺さんは戦時中、錬成所という社会教育のための機関が置かれていたため会場となり、聴衆は40名程。女性が多かったのでしょうか、「母」に関する話などがあったそうです。

長禅寺さんには、光太郎の筆跡が刻まれた碑が二つ、現存しています。

まず昭和14年(1939)に建てられた「小川芋銭先生景慕之碑」。題字のみ光太郎の揮毫です。小川芋銭は茨城出身の日本画家です。もう一つは「開闡(かいせん)郷土」碑。こちらも題字のみの揮毫で、昭和23年(1948)に建立されています。そのあたりは明日またご紹介します。

講話や二つの碑、ともに、取手の有力者だった宮崎仁十郎が介在し、実現しました。宮崎の子息が詩人の宮崎稔。昭和8年(1933)頃、稔経由で光太郎と仁十郎がつながり、仁十郎が光太郎にいろいろと依頼をしたという感じです。光太郎は光太郎で、昭和20年(1945)、智恵子遺作の紙絵千点以上を三ヶ所に分け疎開させましたが、そのうちの1ヶ所が取手の宮崎家でした。また、光太郎自身の花巻疎開の際にも、稔が荷物の配送や、光太郎の付き添いなどで奔走しました。花巻の宮沢賢治実家に送る荷物は稔が都内からリヤカーで取手まで運び(ものすごい苦労だったことでしょう)、取手から花巻に鉄道で送られました。

そうした点で恩義を感じていたこともあったのでしょう、終戦の年、暮れも押し詰まった12月、稔と、智恵子の最期を看取った看護婦であった姪の長沼春子が、光太郎の紹介で結婚しています。ただ、稔は同28年(1953)には胃潰瘍のため亡くなっています。春子は昭和63年(1988)まで存命でした。
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仁十郎・稔父子の仲介で為された事柄がもう一つ。昭和22年(1947)10月21日の光太郎日記から。

中村金左衛門氏の為、(故陸軍中尉中村義一之墓 故海軍大尉中村恒二之墓)を用紙に書く。別に「死を超えて人大なり」と書く。

中村金左衛門(明治22年=1889~昭和52年=1977)は、元の取手町長(市制施行後の初代市長)。「義一」と「恒二」は、おそらく金左衛門の子息、あるいは孫なのではないでしょうか。

この件に関し、光太郎日記や書簡に何度か記述があります。

分教場で郵便物をうけとると中に貴下からの小包があり、中村金左衛門氏からの揮毫用紙と御恵贈の木綿布地とを落手しました。数日中に揮毫いたします。(昭和22年=1947 10月19日付 稔宛書簡より)

多分今日中村氏の分の揮毫が出来るでせう。できたらお送りします。(同21日付 稔宛書簡より)

この葉書と同便で別封中村氏のお墓の文字をお送りしました。墨が余つたので墓標の外に一枚書き添へました。墓標の文字には昔から署名はしないやうですから書きませんでした。 いただいた黒の木綿地はよく見ると実に立派な木地なので何に作らうかといろいろ考へてゐます。(同24日付 稔宛書簡より  注・「木地」は「生地」の誤りですね)

中村氏の墓標の揮毫も宮崎稔氏宛に出す(書留)(同26日の日記より)

中村金左衛門氏からいただいた黒の木綿は袷のキモノにしようかと思ひます。裏はあの白の麻にしたらどんなものでせう。目下考へ中です。(同11月4日付 稔宛書簡より)

食事の時八時過取手町の石材商藤巻佐平さんといふ人の名刺を持つてその娘さん来訪。昨夜花巻にとまりし由。いつぞや書いた中村氏の墓の文字を石材の都合で、縮小して書いてくれといふ。紙持参。食事を終りて直ちに書く。故陸軍中尉中村義一之墓 故海軍大尉中村恒二之墓と二行に並べて書く。九時過辞去。(昭和23年=1948 7月3日の日記より)

取手町片町の石材商藤巻佐平といふ名刺を持つて昨七月三日朝、その娘さんといふ人が来訪、中村氏令息等の墓石の文字の縮小揮毫を申入れました。紙を持参、急ぐ次第との事ゆゑ即刻揮毫してさし上げました。お礼の紙包を出されましたが、石屋さんから礼をもらふいはれは無いので断り、持ち帰つてもらひました。本来貴下か中村氏の添書が無ければ書かないわけなのですが、事情を察してやかましい事をいはずに揮毫した次第です。(同4日付 稔宛書簡より)


この墓標が、取手の何処かにあるはずと、永らく探していました。取手中心街の寺院をくまなく歩いたり、日記や書簡に出て来る石材店らしきところに手紙を送ったりしたのですが、結局、見つけられずじまいでした。もしかすると新しく「先祖累代之墓」的なものを作って合祀し、古い墓石は撤去されてしまったのかな、などとも思っていました。

さて、昨日、父の葬儀の後、愛車を駆って自宅兼事務所に帰る途中、ふと道ばたの寺院の看板に目が留まりました。場所的には取手市の東のはずれ、もう少しで隣接する龍ヶ崎市というあたりでした。

当方、超常現象や超能力といったものには懐疑的ですが、今考えても、実に不思議です。看板を見た瞬間、「あ、ここにある」と、何故かひらめいたのです。

車を駐めて、少し歩きました。広大な霊園があり、その奥に、そこを管理しているであろう深雪山明星院さんという寺院。
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ところが、手前の霊園は見るからに新しく、境内にもそれ以外の墓地はありませんでした。そこで「やっぱ勘違いだったか、そもそもそんなことあるわけないよな……」と思ったところ、少し離れた場所にいかにも古めかしい墓地が見えました。入り口の石柱には「共同墓地」と書いてあり、もしかすると明星院さんの管轄ではないのかも知れませんが、入ってみました。

すると、あったのです!
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まごうかたなき光太郎の筆跡、書かれた文字も日記や書簡の通り、そして光太郎の署名と落款まで彫られていました。最初に揮毫した時には署名はしなかったとありましたが、二度目には署名したのですね。

失礼とは存じつつ、手を合わせたのち、「すみません、撮らせていただきます」と念じながら撮影しました。

以前もその道を通ったことがあり、その際には新しい霊園だけ見えて、「ここではないな」と思って通り過ぎていた場所でした。まさか奥の方にあったとは……。

繰り返しますが、当方、超常現象や超能力といったものには懐疑的です。しかし、父の葬儀の帰りに、父の暮らしていた取手でこれを見つけたというのも、実に不思議な因縁を感じざるを得ませんでした。まるで父の魂が導いてくれたかのような……。父は彫刻だの詩だの、そういったものとは全く無縁の人でしたが……。

この日の朝、父の葬儀の前にも、別の場所で発見がありました。その件については明日。

【折々のことば・光太郎】

野原の朝日美しく、空美しく、草木美し。

昭和21年(1946)5月7日の日記より 光太郎64歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村内の昌歓寺さんという寺院まで、歩いていった際の記述です。当時はまだ開拓が進んで居らず、ほぼ原野でした。





5月26日(火)、いわき市立草野心平記念文学館さんの企画展「草野心平の詩 天へのまなざし」を拝見したのち、茨城県の東海スマートICで常磐道を降りました。

次なる目的地は大洗町の山村暮鳥詩碑。昭和2年(1927)の建立で、除幕式には光太郎も参加しています。詩碑そのものには光太郎の名は刻まれていませんが、説明板に光太郎の名が記されているというのを知り、いわきと方角的には同じということで、立ち寄った次第です。

山村暮鳥は光太郎より一つ年下の明治17年(1884)生まれ。出生地は群馬県ですが、幼少期の家庭の事情や、長じてからはキリスト教の伝道などのため、各地を転々。晩年は大洗の借家で過ごし、大正13年(1924)、数え41歳の若さでここで亡くなったため、詩碑が建立されています。

光太郎と暮鳥、生前に直接会ったことは一度しかないと、光太郎が書き残しています。以下、以前に書いた記事からのコピペです。

暮鳥の歿した大正13年(1924)12月、地方紙「いはらき」に載ったという光太郎の文章。

 山村暮鳥さんとは数年前上野池の端の電車の中で初めに会ひ、又それが最後の事になつてしまひました。
 あんなに人なつこかつたこの詩人に其後会ふ機会をつくらなかつた事を残念に思つてゐます。常に遠くから親密の情は捧げてゐたくせに。
 晩年の彼の詩の深さにはうたれます。

この文章が載った「いはらき」が未見です。したがって、掲載月日も不明。昭和10年(1935)刊行の『暮鳥研究』第一輯に転載されたということで、筑摩書房『高村光太郎全集』では、そちらを底本としています。

「いはらき」は水戸の茨城県立図書館にマイクロフィルムが所蔵されているのですが、そちらは欠号が多く、この文章は発見できませんでした。情報をお持ちの方は、ご教示いただければ幸いです。

さて、暮鳥詩碑。鹿島灘に面した松林の中に、ひっそりと佇んでいました。

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刻まれている詩は、暮鳥歿後に出版された詩集『雲』に収められた詩の一節です。

暮鳥、雲、といえば、「おうい雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきさうぢやないか/どこまでゆくんだ/ずつと磐城平の方までゆくんか」が有名ですが、暮鳥はたくさん雲の詩を残しています。碑に刻まれた一節を選んだのは、盟友・萩原朔太郎でした。

光太郎と暮鳥、直接会ったのは一度だけでも、朔太郎等(おそらく当会の祖・草野心平も)共通の詩友がいたり、朔太郎や暮鳥の出していた雑誌『卓上噴水』に光太郎が寄稿したりで、そういう意味では近しい間柄でした。また、光太郎は暮鳥詩ワールドにシンパシーを感じていたようで、戦後には暮鳥全集の刊行をすべきという発言を書簡で繰り返し語っています。

そんなわけで、昭和2年(1927)、詩碑の除幕式にも駆けつけたのでしょう。下記が当時の『読売新聞』に載った除幕式の写真。

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不鮮明なので光太郎がどれだか不明ですが、何となく、中央やや右の和服着流し姿っぽいのがそれかな、という気がします。

ちなみに文字の揮毫は茨城出身の日本画家・小川芋銭(うせん)。


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光太郎は昭和14年(1939)に「芋銭先生景慕の詩」を書いていますし、同年、やはり茨城の取手にある長禅寺さんに建てられた「小川芋銭先生景慕之碑」の題字は光太郎が揮毫しています。

そして説明版には、光太郎の名。

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90余年前、ここに光太郎も居たかと思うと、やはり感慨深いものがありました。

ところで、この碑のすぐ近くに、平安時代創建の国幣中社、大洗磯前(いそさき)神社さんが鎮座ましましていらっしゃいます。

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当方、きちんとした神社の静謐かつ清澄な空気は大好きでして、これは寄らない手はないなと思い、参拝して参りました。
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社殿等は江戸時代前期のものだそうですが、装飾彫刻が見事でした。

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楼門。鹿島灘の波濤でしょう。

本殿には彩色で、雉子、鴛鴦、燕、猛禽(鷹?)など鳥の彫刻がいろいろ。

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大洗はアニメ「ガールズ&パンツァー(GIRLS und PANZER)」(通称・ガルパン)の舞台にもなっており、その関係で、キャラクターをあしらった巨大絵馬も。

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アニメやドラマ、漫画などの舞台を巡る、いわゆる「聖地巡礼」がブームとなっていましたが、さすがにコロナ禍の明けやらぬ中、それっぽい人はいませんでした。

さて、当方は光太郎智恵子光雲等の「聖地巡礼」、今後も続けていく所存で居ります。

以上、常磐レポート、終わります。


【折々のことば・光太郎】

昔の放送局は相当に頭がふるく、定評のあるもの以外はめつたに放送しなかつたものであつて、詩の朗読でも、北原白秋、三木露風あたり以後の詩は決して取り上げなかつたが、昭和九年に、照井君はどう説きつけたか知らないが、はじめて私の詩を五六篇一度にBKから放送した。これが当時の新しい詩の朗読放送の最初であつた。それから段々次代次々代の詩が放送されるやうになつたのである。

散文「照井瓔三君のこと」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

昨日もご紹介した盛岡出身の声楽家・朗読家の照井瓔三についての別の文章から。

毎年、8月9日に女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町の広報誌『広報おながわ』さん。

今年は町立のつながる図書館さんで特別展「詩人・彫刻家高村光太郎と女川 ~えにしをつなごう~」も開催されるということで、女川光太郎祭と併せてご紹介下さいました。

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ありがとうございます。


もう1件。

茨城県筑西市の明野図書館さんの館報『花さき山』から。

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「音読会」というイベントで、光太郎を取り上げて下さるとのことで。

楽しみながら音読しよう☆ 音読会

期 日 : 2019年8月6日(金)/9月3日(火)
時 間 : 11:00~12:00
場 所 : 筑西市立明野図書館  茨城県筑西市海老ヶ島2120-7
料 金 : 無料

☆図書館スタッフと一緒に、気軽に発声練習や音読を楽しみませんか?
  8月は、「高村光太郎」がテーマです。
 声に出して読むことで、脳と心に刺激を与えましょう!
※申し込みは不要です。当日直接明野図書館 視聴覚室にお越しください。
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筑西市といえば、東京美術学校彫刻科で、光太郎の父・光雲に木彫を学び、後に陶芸に転じて大成した板谷波山の故郷です。今回のイベントとの関連はないのでしょうが。

それぞれお近くの方(遠くの方も(笑))、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

美にして義ならざるなし     短句揮毫 時期不明

手持ちの書籍類から、この揮毫の画像をざっと探したのですが、見つかりませんでした。

ところが、花巻高村光太郎記念館さんの所蔵品の中に、「美」と「義」が逆になった「義にして美ならざるなし」という書があるのに気がつきました。

短句の類は『高村光太郎全集』第11巻、第20巻にまとめられており、こちらは第11巻に載っています。第11巻は初版が昭和33年(1958)。その時点で編集に当たられた当会顧問・北川太一先生、「美」と「義」を取り違えたかな、という気もします。「義にして美ならざるなし」とした方が、意味的にはすっきりします。

「いや、間違いなく「美にして美ならざるなし」という揮毫もあるぞ」という情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご教示いただけると幸いです。

一昨日と昨日、ATV青森テレビさんの年末特別番組「乙女の像への追憶――十和田湖国立公園80周年記念」の撮影で、都内の光太郎ゆかりの地を歩き、光太郎本人を知る方々へのインタビューに同行しました。

そのさらに前日は、茨城取手に行っておりました。

先月開催された第61回高村光太郎研究会において、主宰の野末明氏が、光太郎の姻戚の詩人にして、取手出身の宮崎稔について発表をされました。それを聴いて、宮崎に関する情報を提供する約束をしたのですが、あやふやな点があって、確かめに行った次第です。

まずは宮崎家の墓地。十数年前に行ったことがあり、だいたいの位置は記憶していたのですが、正確に地図で表せ、と言われると自信がありませんでした。

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取手駅の西南方向、利根川の河岸段丘の上です。画像で言うと左手が国道6号、手前は6号線に上っていく立体交差の側道です。

もともと光太郎と宮崎の縁は、宮崎の父・仁十郎が、戦前に日本画家の小川芋銭の顕彰に光太郎を引き込んだあたりから始まっています。

その仁十郎の墓もこちらにあり、それとは別に宮崎の墓。墓石側面の墓誌には、宮崎と、夭折した男児の名が刻まれていました(その辺りの記憶もはっきりしていませんでした)。当然刻まれているはずの宮崎の妻・春子(智恵子の最期を看取った姪)の名がなぜか有りませんでした。

ちなみに宮崎には、夭折した男児を謳った「ゆうぐれ」という詩があります。

二つの墓に線香を手向け、ここはこれで終了。

来たついでと思い、取手駅の反対側にある長禅寺を参拝、というか、境内にある光太郎ゆかりの二つの碑を見てきました。

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門前には、取手ゆかりの文人的な説明板も立っていて、光太郎も紹介されています。

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意外にも、智恵子を『青鞜』メンバーに引き込んだ平塚らいてうの名が。昭和17年(1942)から同22年(1947)まで取手に住んでいたとのこと。時期的に疎開と思われますが、これは存じませんでした。


さて、山門はやはり河岸段丘の上にあり、長い石段。



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その石段の右側に、昭和23年(1948)、光太郎が題字を揮毫した「開闡(かいせん)郷土」碑が有るはずでしたが、見つかりません。いくつか碑がありましたが、ずべて他の碑でした。この碑は何度か見に来ているので、場所の記憶違いということはありえません。そういう例が他にあったので、撤去されてしまったのかも、と思っていたところ、見つかりました。何と、繁茂した篠竹の藪に埋まっている状態でした。



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画像中央、やや黒みがかって見える部分に碑があります。不本意ながら石段の手すりを乗り越えて、篠竹をかき分けてみると……



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光太郎の手になる「開闡郷土」の文字。「光太郎」の署名もくっきりと。

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以前から、何の説明板もなく、これが光太郎の筆跡を刻んだものだと知られていないのでは、という感じでしたが、もはや碑そのものが見えない状態になっているとは……。

もっとも、先述しましたが、無理解のため撤去されてしまった碑も、他県にはありましたが……。

長禅寺には、もう一つ、光太郎の筆跡が刻まれた碑があります。こちらは山門をくぐって、境内の左手。光太郎と宮崎家の結びつきの機縁となった、「小川芋銭先生景慕之碑」で、昭和14年(1939)の建立です。


そちらは無事だろうかと、少し急いで行ってみましたが、こちらは無事でした。

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こちらも題字のみ、光太郎の筆跡です。

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題字の下に小さく「高村光太郎書」の文字も。ただし、柔らかい大理石なので、風化が進んでいます。

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以上を見て回りましたが、取手にはもう一つ、光太郎の筆跡が刻まれたものがあるはずです。

それは、宮崎仁十郎の仲介で、元取手町長だった中村金左衛門から頼まれた墓標。中村の縁者(息子?)と思われる「故陸軍中尉中村義一之墓 故海軍大尉中村恒二之墓」という文字を、昭和23年(1948)に光太郎が揮毫しています。おそらく取手のどこかに立てられたと思われますが、それがどこなのかわかりません。

長禅寺にも見あたりませんでしたし、当会顧問・北川太一先生にもお伺いしましたが、不明でした。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。

2021年2月6日追記。見つかりました。


【折々の歌と句・光太郎】

人間のハムと友らのよびならす女のあしはつるされにけり
大正15年(1926) 光太郎44歳

昨日に引き続き、駒込林町アトリエでの塑像彫刻制作に関する短歌です。

アトリエには、この短歌のとおり、女性の脚の習作がぶら下がっていたというエピソードが、複数の光太郎友人の回想に出て来ます。「人間のハム」とはよくいったものですね(笑)。

雑誌としては当方が唯一定期購読している月刊『日本古書通信』の今月号が届きました。

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先月号まで、廣畑研二氏による光太郎に関わる連載記事「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」が掲載されていましたが、今月号には過日このブログでご紹介した『多田不二来簡集』に関する記事が載っています。著者は同誌編集長の樽見博氏です。

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光太郎宛書簡に関する記述もありました。曰く、

 光太郎の大正六年四月十四日夕の葉書は、不二が川俣馨一主宰の俳句雑誌「常盤木」に書いた「詩壇偶評」と光太郎宛の「懇ろな御手紙」への礼状で光太郎全集に収録されているが、その「懇ろな御手紙」の下書きが多田家に残されており、今回その全文と写真が参考として収録されている。犀星への強い信頼感など「感情」同人への思いが語られた興味深い長文の手紙だ。「常盤木」への「詩壇偶評」は著作集には収められていないようだが、大正詩史にとって時期的にも重要な文献ではないだろうか。

手紙は往復が基本ですから、片方からのものばかり読んでも解らない部分があります。そういう意味では「往」と「復」の両方が読めるというのはありがたいですね。

それにしても、『多田不二来簡集』、樽見氏は次のように評されています。

「ここに集められた書簡の多くは未発表のものであり文学史的にも大きな意味を持つが、商業的には極めて出版の困難なものであるだけに、多田曄代さん(編者・多田不二息女)の功績は大きい。」「本書に収められた書簡から示唆される問題は多い筈である。」「意義深い刊行であると思う。」

「商業的には極めて出版の困難」だけれど、「意義深い刊行」である書籍に対し、その意気や良しと、エールが送られています。そのとおりですね。

そしてそういう刊行物に対して紙面を割いてエールを送る『日本古書通信』さんの意気もまた良し、と思います。



【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月19日

昭和29年(1954)の今日、終焉の地・中野のアトリエを、作家の武田麟太郎未亡人と子息らが訪問しました。

当日の日記の一節です。

午后「好きな場所」の武田未亡人、子息さん、そこの女給さんと三人くる。梨をもらふ、ビールを出す、

「好きな場所」は昭和14年(1939)に書かれた武田の短編小説の題名です。同16年(1941)刊行の短編集「雪の話」に収められました。

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この中で武田は、「彫刻家としても知られてるある高名な詩人」として、光太郎に関する噂話を書いています。

場所は東京三河島のとんかつ屋「東方亭」。戦前から戦時中にかけ、さらには十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)制作のため再上京してからも、光太郎がひいきにしていた店です。店の長女、明子さんはのちに戦後の混乱期に苦学の末、医師となり、のちに光太郎は、彼女をモチーフにした詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を作ったりしています。

どこまで真実かわかりませんが、ここで光太郎は正体を隠し、火葬場の職員と名乗っていたとのこと。さらに東方亭の近くにある別の飲み屋での話として、武田はこう書いています。

ここでも、隠亡爺さんの噂を聞いてゐる。そんな仇名で呼ばれてゐる客が、しよつちゆう来ると云ふので、人相を照し合してみると、まさしく我が老詩人なんだ。へえ、こんな汚いうちへも来るのかいと、大袈裟に首を振る私に、毎晩、おそくなつてから幽霊みたいに入つて来るわと返事するのは、横を向いて煙草をふかす色の黒い女だ。ねえ、あの人はねえ、自分の死んだお神さんも自分で焼いたんだつて、でも、自分を焼く時は、自分で取扱へないのが残念だつて云つてるわ、さう滑稽さうに笑つて、別の小さな出つ歯の女がつけ加へる。ふいに、私は涙を流してゐるんだ。詩人が若い頃、その詩に情熱を持つて幾度も読みあげた夫人が、永い病気の果てに、先日死んで行かれた。それを知つてた私は、突然のやうに、氏の気持の中へ飛び込めたと妄想したのにちがひない。

智恵子が亡くなったのは「好きな場所」の書かれた前年、昭和13年(1938)のことでした。

ところで武田は、「彫刻家としても知られてるある高名な詩人」「老詩人」とぼかして書いていますが、同書の挿絵はもろに光太郎の顔です(笑)。

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武田未亡人のとめは、光太郎再上京後、たびたび中野のアトリエを訪れています。光太郎日記には「「好きな場所」マダム」とも記されており、どうも「好きな場所」という名の酒場を経営していたのではないかと思われます。武田本人は戦後すぐ、粗悪な密造酒を飲んだため亡くなっています。

台風から変わった低気圧の影響による豪雨のため、主に関東から東北にかけ、甚大な被害が出ています。鬼怒川堤防の決壊による濁流からは、あの東日本大震災による津波を想起された方も多いのではないでしょうか。被害が少しでも少なく済むことを願います。

当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市は、大きな被害のあった地域とそう遠くないので、ありがたいことに心配して電話等下さった方もいらっしゃいましたが、特に被害はありませんでした。

さて、堤防が決壊した鬼怒川沿いで、決壊現場の常総市より上流に位置し、やはり避難指示等が出された茨城県結城市からの光太郎がらみのニュースです。ソースは地元紙『茨城新聞』さんです。

結城市出身の詩人・多田不二 著名人と交流の書簡集

 結城市出身で詩人・文芸評論家の多田不二(189無題3-1968年)に宛て、詩人の室生犀星や萩原朔太郎など各界の著名人たちが送った書簡を収録した「多田不二来簡集」(紅書房社)が刊行された。収録書簡の多くが未発表。大正から昭和にかけての著名人たちの感情や熱意、不二との交流が記されており、関係者は「不二の研究が進む貴重な資料。著名人たちの新たな事実発見につながる可能性もある」と話している。
 不二は、朔太郎や犀星らとともに詩集「感情」の同人として詩や訳詩を発表。新神秘主義を提唱した詩誌「帆船」を主宰し、独自の詩の世界を構築した。NHKに入局後、玉音放送の録音に関わるなどして、生涯にわたり多くの文化人と交流を深めた。
 書簡は、不二のきょうだいの孫にあたる多田和代さん夫婦らが保管していた。
 来簡集では、このうち194人の593点を(1)学生(2)NHK勤務(3)社会文化活動-の三つの時代に分けて収録した。
 (1)の書簡からは、朔太郎や犀星、山村暮鳥、高村光太郎ら大正時代の詩壇を飾る詩人たちの息吹と人間性、生の交流の様子がうかがえる。(2)の書簡からはさまざまな分野の著名人の放送を依頼する心情などが、(3)からは戦後の文化人の熱気などがそれぞれ伝わってくる。
 各時代を通じて送られた犀星からの書簡は、収録49点のうち20点が初公開された。朔太郎の死を告げる1942年5月11日の犀星の電報「ハギ ワラケサシス」は、不二が後日、随筆で回顧した内容を裏付けるもの。今回の編集作業で現存が確認され、貴重な資料という。
 犀星からの17年1月9日消印のはがきには「山村(暮鳥)君が泊つてゐる。こまつた-」と書かれている。不二研究家で元城西国際大教授、星野晃一氏(79)は「暮鳥が編集したドストエフスキー書簡集を東京の出版社に売り込むための宿泊に、犀星が困惑していることがうかがえる」と指摘する。
 来簡集は不二の次女、曄代(てるよ)さんが「父への最後の親孝行がしたい」と星野氏に要請したことがきっかけで、編集作業がスタート。結城市の市民団体「結城古文書好楽会」のメンバーなどが協力して、約2年半をかけてまとめた。
 和代さんの夫で割烹(かっぽう)旅館社長、多田和夫(まさお)さん(84)は「結城にとってかつてない資料」と強調。「文化のまちの結城市民にとって、地元の歴史を知るきっかけになれば」と大きな期待を寄せた。
 多田不二来簡集はA5版、584ページ。4500円(税別)。(溝口正則)


結城市出身の詩人・文芸評論家、多田不二宛の書簡をまとめた書籍が刊行されたというわけです。

以下、版元の紅書房社さんのサイトから。

多田不二来簡集

編者名/星野晃一、多田曄代000
出版年/2015年8月
定価/4,860円(税込)
版型/A5
頁数/584
ISBN/978-4-89381-302-2

編者略歴
星野晃一(ほしの・こういち)
1936年、東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。城西国際大学教授を経て、現在、武蔵野大学客員教授。
 著書に『室生犀星-幽遠・哀惜の世界』『室生犀星-創作メモに見るその晩年』『犀星 句中游泳』 『室生犀星 何を盗み何をあがなはむ』、編著に『新生の詩』『室生犀星文学年譜』『室生犀星書目集成』『多田不二著作集』全二巻『室生犀星句集』など。
多田曄代(ただ・てるよ)
1932年、多田不二の次女として生まれる。長らくNHK松山放送局に勤務、現在松山市在住。

特徴と内容
長らく多田家に保管されていた書簡を一挙初公開!
大正期の詩界に異色の光芒を放つ詩人・多田不二のもとに寄せられた各界著名人194名からの書簡593通を一挙に公開。封書・はがき・郵便書簡・電報など、一部を除きほとんどが未公開。長らく多田家に保管されていたものが、このたび明らかに。


光太郎から多田宛の書簡も含まれているということですが、おそらくそれらは「一部を除きほとんどが未公開」と謳われているうちの一部の方、すなわち公開されているものと思われます。筑摩書房の高村光太郎全集第21巻に、多田宛の書簡が5通(すべて大正6年)掲載されており、それでしょう。

というのも、当方、『茨城新聞』さんの記事にも出て来る縁者で書簡を保管なさっていた多田和夫氏に、書簡を見せていただいたことがあるからです。十数年前になるかと思いますが、場所は記事にもある多田氏が経営されている「割烹のやど結城ガーデン」。こちらには「小さな文学館」というコーナーがあり、書簡以外にも多田の著書や関わった雑誌などが展示されています。下記はサイトから画像をお借りしました。光太郎からの書簡です。

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そちらを拝見し、さらに多田氏に光太郎からの来簡について伺ったところ、上記の画像のものを含む筑摩の全集のために提供したものですべてというお話でした。ただ、それが十数年前でしたので、もしかすると、その後、紛れ込んでいた未発表のものが見つかったかもしれません。

余談になりますが、免疫学者・文筆家で、養老孟司氏とも親しかったという東京大学名誉教授だった故・多田富雄氏(その頃はご存命)も縁者だと、その際にご教示いただいたことを覚えています。

何はともあれ、記事にあるとおり、室生犀星からの未発表書簡が大量に含まれているということで、そういった部分で詩史全体の研究に大きく貢献するものと思われます。

それにしても、結城ガーデンさんも今回氾濫した鬼怒川に近く、支流の田川という川がすぐ裏を流れている場所です。大きな被害を受けていないことを祈ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月11日

平成23年(2011)の今日、二本松市民交流センターで開催されていた「詩集『智恵子抄』発刊70周年記念~光太郎との相聞歌~智恵子紙絵展」が閉幕しました。

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智恵子紙絵の実物も19点、展示されました。

平成23年(2011)といえば、あの東日本大震災のあった年で、福島は原発事故による風評被害がひどかった時期でした。あれから4年。だいぶ復興も進みました。今回の豪雨被害の被災地も、1日も早く復興することを祈ります。

一昨日、茨城県笠間市に、映画「天心」を見に行くと共に、日動美術館さんにも行って参りました。
 
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こちらは銀座の日動画廊創業者、長谷川仁・林子夫妻により創設された美術館で、光太郎の作品は収蔵されていないようですが、彫刻や絵画で、光太郎と深い交流のあった作家の作品がたくさん並んでいます。
 
一度は行ってみようと思いつつなかなか果たせず、一昨日、初めて行ってみました。
 
正面入り口を入ると右手に「パレット館」。名だたる画家達が愛用したパレット、さらにパレットに絵を描いたものが展示されています。
 
左手が「フランス館」。こちらに光太郎と親交のあった画家たちの作品が展示されています。具体的には岸田劉生、藤田嗣治、藤島武二、梅原龍三郎、安井曾太郎などなど。それらが並ぶ1階の展示室は「長谷川仁・林子記念室」という名前になっていますが、その室名を書いた扁額は草野心平の揮毫でした。意外なところで意外な人の名を目にしました。
 
2階展示室は、フランス印象派系の作品など。こちらも光太郎が評論で取り上げたり、知遇を得たりしていた作家の作品が多く並んでいました。ルノワール、ドガ、セザンヌ、モネ、マチス、ピカソ……。
 
やはり本物は違いますね。収蔵作品は3,000点ほどだそうで、展示替えもあり、下のパンフレットにある高橋由一「鮭」などは見られませんでした。
 
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「フランス館」入り口あたりから、奥の「野外彫刻庭園」にかけて、やはり光太郎と親交のあった彫刻家の作品もたくさん並んでいました。佐藤忠良、舟越保武、本郷新、菊池一夫などなど。
 
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これで、屋内展示でもいいので、何かしら光太郎の作品があればいうことなしです。
 
「野外彫刻庭園」を通り抜けると、「企画展示館」です。「世界文化遺産登録記念 東海道五十三次と富士山写真展」が開催中でした。富士河口湖町立河口湖美術館さんとのコラボ企画で、広重の「東海道五十三次」、そして公募入選の富士山の写真がずらっと並んでいます。富士山と、それを取り巻く四季折々の自然。やはり日本人の魂をゆさぶる風景ですね。 
 
同館には、徒歩20分くらいのところに「春風萬里荘」という別館がありますが、こちらには行きませんでした(映画「天心」を観る都合がありましたので)。こちらは陶芸家の北大路魯山人の旧居を移築したものだそうで、茅葺き入母屋造りの重厚な建築だそうです。
 
魯山人は光太郎と同じ明治16年(1883)の生まれ。今のところ、二人の間に直接のつながりは見いだせていませんが、どこかしらで接点はあったのではないかと想像しています。ちなみに「春風萬里荘」にも心平の書が展示されているそうです。また折を見て、こちらにも行ってみたいと思っています。
 
というわけで、日動美術館。都会の喧噪を離れた雰囲気も非常に好ましいと感じました。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月28日

昭和9年(1934)の今日、草野心平により『宮澤賢治追悼』が刊行されました。
 
光太郎は「コスモスの所持者宮澤賢治」を寄稿しています。歿後間もなく、まだ一般にはほとんどその存在を知られていなかった賢治に対し、光太郎は以下のように語りました。
 
内にコスモスを持つ者は世界の何処の辺遠に居ても常に一地方的の存在から脱する 。内にコスモスを持たない者はどんな文化の中心に居ても常に一地方的の存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮澤賢治は稀にみる此のコスモスの所持者であつた。

昨日は、茨城県つくば市に行き、先月のブログでご紹介した「語りの会「いっきゅう組」 発表会2013」を聴いて参りました。

 「いっきゅう組」さんは、文学座所属の俳優・声優の塾一久氏が講師を務める朗読サークルで、年2回ほど発表会を行っているとのこと。昨日は、つくば西武6階のつくば西武ホールが会場でした。
 
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前半はサークルの皆さんによる朗読で、この中に「智恵子抄」が含まれており、「巻末のうた六首」に始まって、戦後の作まで、上記の通りの作品が取り上げられました。
 
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それぞれに工夫された朗読で、感心しました。やはり詩は文字として視覚的に捉えるだけでなく、音声として聴覚的に捉えることも大切だと改めて思いました。
 
日本語の場合、漢字の読み方がやっかいです。どう考えても一つしかないという場合はともかく、そうでない場合があります。
 
先頃、当方がアドバイザーとして関わらせていただいたNHKさんの「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」放送終了後、ディレクターの山中氏から電話がありました。放映の中のVTRで、朗読された花巻時代の光太郎の詩「案内」の一節についてでした。
 
うしろの山つづきが毒が森。
 
この「毒が森」を「ぶすがもり」と読んだところ、やはり朗読を長年やっているという視聴者の方から問い合わせがあり、あれは「どくがもり」ではないか? というのだそうです。
 
正解は「ぶすがもり」です。現地では間違いなく「ぶすがもり」という地名で読んでいます。元々毒草のトリカブトの別称が「附子(ぶす)」で、「不美人」という意味の「ブス」という語は、「附子(トリカブト)を食べて苦悶するような顔」というところから生まれたと聞いたことがあります。そこで正式な訓読みとして登録されていませんが「毒」の字を「ぶす」と読むケースは結構ありますね。
 
その後、北川太一先生ともこの件でお話をしましたが、北川先生の見解は少し違っていました。すなわち、原文にルビがなければ光太郎がどう読んでいたか分からないし、地名が「ぶすがもり」であっても、朗読の際には語感を大切にしたいというなら「どくがもり」と読んでもかまわないのではないか、ということでした。なるほど、と思いました。たしかにありえない、という読み方でなければ可でしょうし、そこに工夫の余地もあるのかな、などと思いました。ただ、地名などの固有名詞はやはり現地の読み方に従うべきかな……と思いますが。
 
実は安達太良山も現地では「あだたらやま」と発音していますが、光太郎詩「樹下の二人」では「あたたらやま」とルビが振られています。残された詩稿にはルビがありませんが、詩集『智恵子抄』ではそうなっています。もっとも、このルビもくせ者で、散文を含め、どこまで光太郎がルビに関与しているか何とも言えない場合があります。ただ、『智恵子抄』に関しては、改版のたびに光太郎が納得いかない部分に手を入れているので、このルビには光太郎の意志が介在しているはずです。
 
光太郎詩を歌曲にしている方々、シャンソン歌手のモンデンモモさんや作曲家の野村朗さんなどから同じような質問をよく受けます。その都度「こうでしょう」と自分の思うところを伝えてきましたが、今後は少し方向転換します。比較的自由に読んでいいですよ、ということで。
 
昨日のいっきゅう組さんの朗読を聴いていて、この件を思い出しました。
 
というのは、「郊外の人に」という詩で智恵子をして「愛人」と書いているのですが、これを昨日の朗読では「めでびと」と読んでいたのです。確かに「あいじん」と読むと不倫というイメージがどうしてもつきまといますね。浮気相手のことを「愛人」というようになったのはいつ頃のことなのか、この詩が書かれた大正元年(1912)頃はそういう意味があったのか、そういったことは分かりませんが、少なくとも現代においては「あいじん」というといいイメージはありません。そこでいっきゅう組さんでは「めでびと」と読まれていたのでしょう。こういうのはありだと思いました。
 
他にもそういう箇所がいくつかあり、おそらくメンバーのみなさんでいろいろ検討なさったんだろうな、と想像いたしました。
 
さて、後半は「映像ナレーター」という肩書きでラジオやテレビにもご出演なさっているという佐藤美生さん、そしていっきゅう組主宰の塾一久氏の朗読、さらには落語までありました。こちらも素晴らしいものでした。それでいて入場無料。得をした気分でした。
 
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いつも同じようなことを書いたり喋ったりしていますが、一昨日の末盛千枝子さんのイベントなども含め、光太郎智恵子の世界を取り上げて下さるのはありがたいことです。どんなに優れた芸術作品でも、後の時代の人間がその価値を正しく受け止め、さらに次の世代へ伝えていく努力をしなければ、やがて歴史の波に飲み込まれ忘れ去られてしまいますので。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月8日

昭和16年(1941)の今日、第2回大政翼賛会中央協力会議に出席しました。
 
その会議中に太平洋戦争開戦の詔勅が出され、会議は繰り上げ終了。用意した光太郎の議案「工場施設への美術家の動員」は上程されずに終わりました。

サッカーJリーグ2部(J2)のチームで、茨城県水戸市をホームタウンとする「水戸ホーリーホック」というチームがあります。
 
2013シーズンに向けてのクラブスローガン発表という報道があり、光太郎の名が挙げられました。
 

同クラブホームページから。

2013シーズン クラブスローガン決定のお知らせ

この度、水戸ホーリーホックの2013シーズンのクラブスローガンが決定いたしましたので、下記の通りお知らせいたします。

【2013シーズン 水戸ホーリーホック クラブスローガン】

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■意味

詩人で彫刻家の高村光太郎の詩「道程」より、「僕の前に道はない、僕のうしろに道はできる」を引用しました。
『みち』には色々な意味があります。一つには、『道(みち)』があります。ホーリーホックの歩んでいく後ろに確固たる道を作っていく。もう一つに、『道(どう)』があります。柱谷監督の3年目、『サッカー道』を極めて、素晴らしいサッカーを展開します。さらに『未知』。J2でJ1経験の無い最古参のチームになりました。今シーズンこそは、J1という未知の旅を実現させたいと思います。
J1という険しい目標に挑戦するためにも、「サッカー道」ともいうべき、サッカーの本質を追究しながら、未知の世界に挑む「道程・みちのり」を、今年のスローガンとしました。
■デザイン
昨年度のスローガン『たつ』に引き続き、茨城県出身の書家 川又 南岳氏に揮毫いただきました。
<川又 南岳氏プロフィール>
1937年 茨城県常陸大宮市生まれ。1975年に第7回日展初入選。以後、ドイツ・ハンブルグ国立工芸美術博品館作品買い上げ、中国・北京市歴史博物館で書画展を開催するなど、国際的評価も高い。茨城大学教授退官後も、画家や陶芸家とのコラボレーション活動を展開。2006年秋篠宮殿下ご臨席のもとに行われた「まなびピアいばらき」開会式での大筆を用いた揮毫や、2007年の自民党党大会において安部晋三元首相と共同での「美しい国、日本」揮毫など、多方面で精力的な活動を続ける。
 
水戸と光太郎には直接のつながりはありませんが、「道程」を作った頃の日本美術界に果敢に戦いを挑んでいた光太郎の姿と、2部の厳しい条件の中で1部昇格を目指す同クラブの姿には重なる部分があるといえるかもしれません。
 
同チーム、知っている選手はあまりいませんが、1部昇格を目指してがんばってほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】1月24日

昭和16年(1941)の今日、日本青年詩人連盟が結成され、その顧問に就任しています。

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