1ヶ月程前のことになりますが、茨城県筑西(ちくせい)市の板谷波山記念館さんにお邪魔して参りました。ネタが無くなってきたらレポートしようと思って約1ヶ月。ネタが無くなってきましたのでレポートします(笑)。
陶芸家の板谷波山は明治5年(1872)、現・筑西市である真壁郡下館町に生まれました。光太郎より11歳の年長です。
筑西市の「筑」、板谷の号「波山」は、ともにこの地の人々のソウルマウンテン・筑波山に由来します。
後に陶芸家となる波山ですが、最初は東京美術学校の彫刻科に入学しました。明治22年(1889)のことです。当時は光太郎の父・光雲が主任教授で、その教えを受けています。
上記画像は、昨年、同じ茨城県の東京藝術大学大学美術館取手館さんで開催された「藝大取手コレクション展 2025」出品作。波山在学中のものです。
記念館さんにはこの手の木彫や、師・光雲の木彫なども所蔵されているので、そのあたりが展示されているといいなと思いつつ、訪問した次第です。
千葉の自宅兼事務所から愛車を駆って2時間ほどで、筑西市の旧下館地区。いい感じに古民家等が軒を連ねる一角でした。
受付を済ませ、順路としてはまず波山生家。
開放的で涼しげです。
そのはす向かいに作品の展示棟。
内部も特に撮影禁止というわけではありませんでした。
波山の代名詞とも言える葆光彩磁の作品。
年譜。光雲の名も。
波山は明治期、11歳下の光太郎との関わりもありましたが、光太郎の名は年譜に見当たりませんでした。
具体的には明治27年(1894)の項で「美校受験者のための開成予備校で彫刻を、攻玉社中学校で図画を教える」という点に関して。光太郎は明治29年(1896)に下谷高等小学校を卒業し、翌年に東京美術学校予科に入学しますが、その間、旧制中学校の課程を学ぶために開成予備校に通っています。
私は甚だ変則な就学過程を経て来てゐて、小学校には五六歳で入学、尋常科、高等科を卒業すると、本郷森川町に日本画家島田先生が経営して居られた開成予備校といふところに入学、ここを卒業して無試験で東京美術学校彫刻科に入学した。(「父との関係」 昭和29年=1954)
わたしの頃は、中学校というものがなかつた。その代り予備校というものがあつた。また、美術学校というものは特殊な学校だから、ただの中学校ではなかつた。美術学校に入るために特別の美術的教育がいるものだから、わたしは、そのような予備校に入学した。開成予備校という名前で、美術学校の古い卒業生が経営していて、当時の美校志望者は皆その学校へ入ったものである。そこで普通の中学の課程を学んだ訳だが、やはり其処も二年早く出た。(「わたしの青銅時代」 昭和29年=1954)
以上は光太郎最晩年の回想ですが、どうも記憶が混乱しているようです。美校へ入学するための特別な美術教育を施していたのは、「共立美術学館」。本郷区森川町にありました。
それに対し「開成予備校」は神田淡路町。特に美術専門とは謳っていません。
推測ですが、光太郎、昼間は「共立美術学館」で美術専門教育を受け、夜間に「開成予備校」でその他の学科の勉強をしていたのではないかと思われます。「開成予備校」には夜間部がありました。おそらく光太郎以外の学生たちも皆そうしていたのではないかと思われます。
波山が勤務していたのは「開成予備校」。その頃の波山を光太郎はこう回想しています。
板谷さんは美校の何回目かの彫刻科の卒業生で、その頃は彫刻が専門だった。あの人は非常な美男の上にお洒落で、元禄の着物を着て、芝居に出てくるような服装(なり)をして歩いていたが、当時予備校の先生もしていた。(「わたしの青銅時代」 昭和29年=1954)
波山、茨城の田舎っぺでしたが(笑)、外見的には伊達男だったようです。
そして波山はその後、石川県工業学校に赴任、同校で陶磁科を担当することとなり、そこから陶芸家への道に進むこととなります。明治36年(1903)には職を辞して再上京。田端に窯を構えて「波山」と号し、以後、陶芸一筋。ちなみに当時の田端は「田端文士村」と称され、芥川龍之介をはじめ様々な分野の芸術家の集う一種の梁山泊状態でした。光太郎と縁が深かったところでは彫刻家・石井鶴三、画家の村山槐多、詩人で作家の室生犀星、ついでに言うと智恵子がらみで平塚らいてうなど。波山も彼の地で様々な文人達と交流があったのでしょう。
その田端の窯が再現されていました。
展示棟にも毀した器の破片が並んでいました。
陶芸家の板谷波山は明治5年(1872)、現・筑西市である真壁郡下館町に生まれました。光太郎より11歳の年長です。
筑西市の「筑」、板谷の号「波山」は、ともにこの地の人々のソウルマウンテン・筑波山に由来します。
後に陶芸家となる波山ですが、最初は東京美術学校の彫刻科に入学しました。明治22年(1889)のことです。当時は光太郎の父・光雲が主任教授で、その教えを受けています。
上記画像は、昨年、同じ茨城県の東京藝術大学大学美術館取手館さんで開催された「藝大取手コレクション展 2025」出品作。波山在学中のものです。
記念館さんにはこの手の木彫や、師・光雲の木彫なども所蔵されているので、そのあたりが展示されているといいなと思いつつ、訪問した次第です。
千葉の自宅兼事務所から愛車を駆って2時間ほどで、筑西市の旧下館地区。いい感じに古民家等が軒を連ねる一角でした。
受付を済ませ、順路としてはまず波山生家。
開放的で涼しげです。
そのはす向かいに作品の展示棟。
内部も特に撮影禁止というわけではありませんでした。
波山の代名詞とも言える葆光彩磁の作品。
年譜。光雲の名も。
波山は明治期、11歳下の光太郎との関わりもありましたが、光太郎の名は年譜に見当たりませんでした。
具体的には明治27年(1894)の項で「美校受験者のための開成予備校で彫刻を、攻玉社中学校で図画を教える」という点に関して。光太郎は明治29年(1896)に下谷高等小学校を卒業し、翌年に東京美術学校予科に入学しますが、その間、旧制中学校の課程を学ぶために開成予備校に通っています。
私は甚だ変則な就学過程を経て来てゐて、小学校には五六歳で入学、尋常科、高等科を卒業すると、本郷森川町に日本画家島田先生が経営して居られた開成予備校といふところに入学、ここを卒業して無試験で東京美術学校彫刻科に入学した。(「父との関係」 昭和29年=1954)
わたしの頃は、中学校というものがなかつた。その代り予備校というものがあつた。また、美術学校というものは特殊な学校だから、ただの中学校ではなかつた。美術学校に入るために特別の美術的教育がいるものだから、わたしは、そのような予備校に入学した。開成予備校という名前で、美術学校の古い卒業生が経営していて、当時の美校志望者は皆その学校へ入ったものである。そこで普通の中学の課程を学んだ訳だが、やはり其処も二年早く出た。(「わたしの青銅時代」 昭和29年=1954)
以上は光太郎最晩年の回想ですが、どうも記憶が混乱しているようです。美校へ入学するための特別な美術教育を施していたのは、「共立美術学館」。本郷区森川町にありました。
それに対し「開成予備校」は神田淡路町。特に美術専門とは謳っていません。
推測ですが、光太郎、昼間は「共立美術学館」で美術専門教育を受け、夜間に「開成予備校」でその他の学科の勉強をしていたのではないかと思われます。「開成予備校」には夜間部がありました。おそらく光太郎以外の学生たちも皆そうしていたのではないかと思われます。
波山が勤務していたのは「開成予備校」。その頃の波山を光太郎はこう回想しています。
板谷さんは美校の何回目かの彫刻科の卒業生で、その頃は彫刻が専門だった。あの人は非常な美男の上にお洒落で、元禄の着物を着て、芝居に出てくるような服装(なり)をして歩いていたが、当時予備校の先生もしていた。(「わたしの青銅時代」 昭和29年=1954)
波山、茨城の田舎っぺでしたが(笑)、外見的には伊達男だったようです。
そして波山はその後、石川県工業学校に赴任、同校で陶磁科を担当することとなり、そこから陶芸家への道に進むこととなります。明治36年(1903)には職を辞して再上京。田端に窯を構えて「波山」と号し、以後、陶芸一筋。ちなみに当時の田端は「田端文士村」と称され、芥川龍之介をはじめ様々な分野の芸術家の集う一種の梁山泊状態でした。光太郎と縁が深かったところでは彫刻家・石井鶴三、画家の村山槐多、詩人で作家の室生犀星、ついでに言うと智恵子がらみで平塚らいてうなど。波山も彼の地で様々な文人達と交流があったのでしょう。
その田端の窯が再現されていました。
展示棟にも毀した器の破片が並んでいました。
窯場のモニターには、映画「HAZAN」のダイジェスト。
波山は榎木孝明さん、妻・まる役は智恵子を演じたこともおありの南果歩さんでした。他に実在の人物では岡倉天心役に益岡徹さん、新納忠之介を長谷川初範さんが演じていらっしゃいました。光雲や光太郎は登場しなかったようです。
残念ながら、木彫系の展示がありませんでしたが、展示棟は膨大な収蔵品をいろいろ入れ替えながらやっているようなので、もし彫刻に特化するような展示でも為されたらまた行ってみようかと思っております。
陶芸等にご興味おありの方、ぜひ足をお運び下さい。
600ページ超の厚冊。光太郎詩は「寂寥」「寂しき道」「樹下の二人」「あの詩人」です。
波山は榎木孝明さん、妻・まる役は智恵子を演じたこともおありの南果歩さんでした。他に実在の人物では岡倉天心役に益岡徹さん、新納忠之介を長谷川初範さんが演じていらっしゃいました。光雲や光太郎は登場しなかったようです。
残念ながら、木彫系の展示がありませんでしたが、展示棟は膨大な収蔵品をいろいろ入れ替えながらやっているようなので、もし彫刻に特化するような展示でも為されたらまた行ってみようかと思っております。
陶芸等にご興味おありの方、ぜひ足をお運び下さい。
【高村光太郎書誌】
詩華集 15 『現代名詩選』
島崎藤村 土井晩翠 与謝野寛 薄田泣菫 蒲原有明 横瀬夜雨 伊良子清白 野口米次郎
前田林外 児玉花外 小牧暮潮 窪田空穂 澤村胡夷 溝口白羊 秋元廬風 佐藤清
小林愛雄 相馬御風 与謝野晶子 北原白秋 三木羅風 野口雨情 木下杢太郎 人見東明
川路柳虹 服部嘉香 森川葵村 有本芳水 加藤介春 高村光太郎 安成二郎 福田夕咲
福士幸次郎 竹友藻風 長尾豊 生田春月 正富汪洋 室生犀星 萩原朔太郎 大手拓次
富田砕花 白鳥省吾 柳沢健 山宮允 西條八十 日夏耿之介 堀口大学 福田正夫
前田鉄之助 千家元麿 百田宗治 生田花世 山田邦子 斎藤勇 藤森秀夫 佐藤惣之助
岩佐頼太郎 矢部季 霜田史光 多田不二 竹内勝太郎 金子光晴 井上康文 中西悟堂
米沢順子 宮崎丈二 澤ゆき子 深尾須磨子 尾崎喜八 大藤治郎 大木篤夫 松原至大
三石勝五郎 福原清 陶山篤太郎 小方又星
小林愛雄 相馬御風 与謝野晶子 北原白秋 三木羅風 野口雨情 木下杢太郎 人見東明
川路柳虹 服部嘉香 森川葵村 有本芳水 加藤介春 高村光太郎 安成二郎 福田夕咲
福士幸次郎 竹友藻風 長尾豊 生田春月 正富汪洋 室生犀星 萩原朔太郎 大手拓次
富田砕花 白鳥省吾 柳沢健 山宮允 西條八十 日夏耿之介 堀口大学 福田正夫
前田鉄之助 千家元麿 百田宗治 生田花世 山田邦子 斎藤勇 藤森秀夫 佐藤惣之助
岩佐頼太郎 矢部季 霜田史光 多田不二 竹内勝太郎 金子光晴 井上康文 中西悟堂
米沢順子 宮崎丈二 澤ゆき子 深尾須磨子 尾崎喜八 大藤治郎 大木篤夫 松原至大
三石勝五郎 福原清 陶山篤太郎 小方又星
後記 北原白秋
600ページ超の厚冊。光太郎詩は「寂寥」「寂しき道」「樹下の二人」「あの詩人」です。


































































































































































































































































































































「余の詩をよみて人死に就けり」は、「わが詩をよみて人死に就けり」と改題され、「暗愚小伝」に組み込まれるはずでしたが、光太郎自らボツしました。












































3-1968年)に宛て、詩人の室生犀星や萩原朔太郎など各界の著名人たちが送った書簡を収録した「多田不二来簡集」(紅書房社)が刊行された。収録書簡の多くが未発表。大正から昭和にかけての著名人たちの感情や熱意、不二との交流が記されており、関係者は「不二の研究が進む貴重な資料。著名人たちの新たな事実発見につながる可能性もある」と話している。














